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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
1
:
管理者
:2004/05/13(木) 11:57
新しいスレッドの御提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。
891 名前: 犀角独歩 投稿日: 2004/05/13(木) 11:18
管理人さん:
昨晩、三学無縁さんとも話したのですが、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』において、名無し@ピンキーさん、Happy Birthday!!さん、また、空き缶さんが興味を示されてお出でであった山中師『御本尊集目録』未載でありながら、御筆漫荼羅(真筆)と伝えられる漫荼羅は興味深いものがあります。また併せて、真偽未決御書、また、各文献の著者の実否などを議論するスレッドがあればよいと考えます。
以上、三学無縁さんと連名で提案させていただくものです。
97
:
犀角独歩
:2004/05/30(日) 20:15
91 名無し@ピンキーさん:
当掲示板における申し合わせ「さん」付けでお気軽にどうぞ。
わたしもそうさせていただきます。
このスレッドは、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』891におけるご投稿に由来するものですから、ここにようやくと議論をできることを嬉しく存じます。
わたしは毎日のように山中師『御本尊集』123舗を何度も瞥見しております。
その結果、御筆漫荼羅には図示年代を特定できる特徴を有していることにほぼ確信を懐いております。以上の管見から記したのが85の投稿でした。
> 特殊曼陀羅
これはご投稿から拝すれば、図示の時代変遷における特徴が反映されず、かつ『御本尊集』にも掲載されない漫荼羅という意味であると拝察いたします。
恐縮ながら、わたしはこのお考えには消極的です。
その時代的特徴、もっと言えば御筆漫荼羅そのもの特徴が反映されない漫荼羅は、要は「御筆漫荼羅に非ず」という見解です。
しかしながら、この漫荼羅を名無し@ピンキーさんが真筆と仰ぐのにはそれなりの理由があろうかと存じます。たとえば本紙、墨などの科学的検証を経てのことなのでしょうか。お記しいただければ参考にさせていただきたく存じます。
98
:
犀角独歩
:2004/05/30(日) 20:16
れんさん、有り難うございます。
わたしは案外、こういう言葉の裏腹に文書成立の背景が潜んでいるのではないのかと考えてしまうわけです。たとえば『五人所破抄』に「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か」などと読むと、直ちに常師、その二人の継子・頂師と澄師のことを思い起こしました。つまり、この表現は常師から向師を経、富士に至ったその継子に侮蔑をはらんだ表現ではないのか?と考えるわけです。執行師も指摘するところですが、当時の重須は本堂派(代師系列といって善いのか?)と檀所派(澄・順)は違う系譜を形成していたと言います。となれば、『五人所破抄』は本堂派が頂・澄を睥睨しながら編纂したもので、反面、『富士位置跡門徒存知事』は澄師の継承者・順師の法脈者が編纂したものかと想像を逞しくしたりします。けれど、挙証主義などと嘯いているのにここでは資料手放し、類推の枠に過ぎません。ですから、慧眼の諸師の研究結果とは必ずしも一致しないかもしれません。
地名さん、充実した資料のご呈示、興味深く拝読いたしております。
山を仏菩薩にとらえるというのは、山岳信仰が神仏習合で焼き直された結果なのであろうと考えます。
雑駁な記述になりますが、古墳時代、陵墓を形成したのは、人は死ぬと山になるという考えに基づいたと読んだことがあります。人は山になり、神になるという考えです。還元すれば、すべての山は皆、人が山となり神になったものであるということでした。こんな考えが山岳信仰から日本教のカミを形成し、仏教流入後には神仏習合して仏菩薩の名を山に冠する結果になったのであろうなどと想像を逞しくしながら、アップいただいた資料を拝読いたしておりました。
『當宗相傳大曼荼羅事』で蓮師の幼名が「薬王丸」で「善‘日’丸(麻呂)」でないところに目が引かれました。
99
:
犀角独歩
:2004/05/30(日) 20:20
【98の訂正】
誤)富士位置跡門徒存知事
正)富士一跡門徒存知事
誤)還元すれば
正)換言すれば
他にあれば、ご判読いただきたく存じます
100
:
名無し@ピンキー
:2004/05/30(日) 21:02
犀角独歩さん
もっと気楽にお話を致しましょう。
各寺院も厳護している御本尊については、由来・伝承も檀信徒以外には認知されず
旧態依然とした、封建的体質が色濃く残っています。
私は特殊曼陀羅も真筆として持論を立てていますが、ご指摘のように紙・墨の濃淡
も科学的に立証されなければいけませんので、先程の特殊曼陀羅は間違えなく、
鎌倉時代中期の和紙で、墨も炭素からその当時の物に他ならないと検査の結果、判明
しています。
特殊曼陀羅といえる御本尊は、身延派・富士派の区別なく古刹寺院にはあるのではない
でしょうか、研究には私財と時間がかかり、宗史を志す方なら興味を持つべきでしょう。
101
:
犀角独歩
:2004/05/30(日) 21:06
名無しピンキーさん:
> 特殊曼陀羅…宗史を志す方なら興味を持つべき
一見して偽物とわかるものに興味を懐く必要があるのでしょうか。
まあ、視点を変えて、贋作捏造品が与えた影響というテーマは確かに興味の対象ではあります。
102
:
れん
:2004/05/30(日) 21:52
顕正居士さん。
>75、手元に本尊論資料がありますので、75にてご引用の本地垂迹口伝を興味をもって読みましたが、本文は「又此経恵日宣釈尊因位称日種云々…」とあり、手持ちの本尊論資料では因位称日蓮ではなかったことをご報告申し上げます。
地名さん。なるほど興門以外でも、蓮師の名乗りについて実否は別として蓮師の御母堂の夢想の因縁を挙げているものがあったんですね。先程手持ちの本尊論資料で確認しました。これはそれなりに興味深いことです。
犀角独歩さん。文書の記述から、文書の成立の背景を読み取られる慧眼に敬服いたします。
103
:
名無し@ピンキー
:2004/05/30(日) 22:06
犀角さん
追加です。逆に偽筆と論を立てた場合には、科学的根拠(紙質・墨)が立証されても
それだけの顕能をもった人物が当時の時代に他にいたか考えなければいけません。
国柱会が今も佐渡始顕の本尊を本部に奉安していますが何故でしょうか?
真筆は現存していませんが国柱会は真筆論を立てています。
筆法が前後相違しなければ、真筆として扱われるのが安国会の御本尊集だと思います。
104
:
名無し@ピンキー
:2004/05/30(日) 22:06
犀角さん
追加です。逆に偽筆と論を立てた場合には、科学的根拠(紙質・墨)が立証されても
それだけの顕能をもった人物が当時の時代に他にいたか考えなければいけません。
国柱会が今も佐渡始顕の本尊を本部に奉安していますが何故でしょうか?
真筆は現存していませんが国柱会は真筆論を立てています。
筆法が前後相違しなければ、真筆として扱われるのが安国会の御本尊集だと思います。
105
:
名無し@ピンキー
:2004/05/30(日) 22:07
104番、削除願います。
106
:
顕正居士
:2004/05/30(日) 23:00
れんさん。
「日種」であり、「日蓮」ではありません。わたしの見間違いです。また昭和40年代に出た本は
影印復刻で内容に差はないはずです。有難うございます。口伝を捏造するところでした。
「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給ふ。かるがゆへに仏のわらわなをば日種
という」(撰時抄)
ですから本地垂迹口伝にいう「釈尊ノ因位」は今番の出世でまだ菩薩であられた時という意味です。
107
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 02:04
名無し@ピンキーさん:
> 偽筆と論を立てた場合…それだけの顕能をもった人物が当時の時代に他にいたか考えなければいけません。
当時とは何時を指すのでしょうか。また、何故、そのようなことを考えなければならないのでしょうか。
> 国柱会が今も佐渡始顕の本尊を本部に奉安していますが何故でしょうか?
何故ですか。
> 真筆は現存していませんが国柱会は真筆論を立てています。
それは国柱会のお家事情であり、わたしが漫荼羅真偽を考えることとはまるで関係ありません。
> 筆法が前後相違しなければ、真筆として扱われるのが安国会の御本尊集
そうでしょうか。では、本尊集のなかで真筆が遺らないで、そのように扱う本尊集掲載の漫荼羅をすべてご教示いただけますでしょうか。
108
:
顕正居士
:2004/05/31(月) 05:22
卜部兼益授与の御本尊
ピンキーさんは特殊な曼荼羅にも真蹟があり得るとおっしゃりたいのだと拝察します。
特殊な曼荼羅とはこの御本尊のように二十八宿を総勧請してあるような場合でしょう。
『妙宗先哲本尊鑑』と『御本尊集』しかこの方面で権威ある書籍がなく、『本尊鑑』には
載っているのだから、真蹟の可能性を検討するべき御本尊の一つでしょう。
「鎌倉時代中期の和紙で、墨も炭素からその当時の物に他ならないと検査の結果、判明」
したのは何時のことで、誰が調査し、何という書籍あるいは雑誌に書かれたのでしょうか?
「真筆が存在しています」、「岩本山ではなく」とはどういう意味なんでありましょう?
「真筆が存在しています」なら、議論する必要がなく、真蹟と認定された経緯を記せば
済みます。重文に指定された、古文書か日蓮宗学の権威が著書で述べた、などです。
「岩本山ではなく」とは「真筆」は別の山にある意味なのでしょうか?とにかく、今少し
おっしゃりたいことを整理してみられたら。お知り合いの住職さんから口頭で聞いたこと
ならば、もう一度、「何時のことで、誰が調査し〜」をお聞きになったらいかがでしょう。
109
:
空き缶
:2004/05/31(月) 07:51
『妙宗先哲本尊鑑』の第2冊・15Pに「万年救護本尊」の模写が出ています。
万年救護本尊の真筆写真と『妙宗先哲本尊鑑』掲載の模写を比べますと、決して上手な模写とはいえないと思います。(はっきりいって似ても似つかない、主題の長さも全然違います)
したがいまして、名無し@ピンキーさんのいわれる曼荼羅も実際の伝真筆曼荼羅は、『妙宗先哲本尊鑑』掲載の模写からは想像もつかないものではないかと想像します。
やはり模写はどこまでいっても模写であり、「過去にあった」ぐらいのデータにはなっても、それをもとに真偽の鑑別をするのは難しいと思われます。
名無し@ピンキーさんよりの真筆写真の公開があれば、鑑別も可能かと思われます。写真公開可能でしたら是非お願い致します。
110
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 11:57
空き缶さん:
『妙宗先哲本尊鑑』万年救護之御本尊 上総妙本寺
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=15&ITYPE=0
これが文永11年12月No16本尊(万年救護本尊)とは一瞥しただけでは気付きませんでした。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
並べてみました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/manen_mosha.jpg
ここまで違うと最早、模写とも言えない気がしますね。
111
:
空き缶
:2004/05/31(月) 12:21
犀角独歩さん、早々の画像処理ありがとうございます。
並べてみると模写をされた方の性格といいますか、なんともいいがたいものを感じます。
112
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 12:42
自己レスですが、
87に伝・吉田兼益授与漫荼羅に就き、模写を御筆漫荼羅の筆跡と違うと論じましたが、空き缶さんのご指摘を受けて第16本尊で『妙宗先哲本尊鑑』模写とこれを比較したところ、相貌、筆法その他はまるであてにならないことがわかりました。
この漫荼羅原本が存在した可能性を考えるのであれば、何を基準にするべきか。これはやはり、108に顕正居士さんがご指摘の点であろうと思います。
なお、わたしは個人的に山中師『御本尊集』掲載漫荼羅のなかにも何点か蓮師真筆とは疑わしいものも含まれていると思います。しかし、その本紙を閲覧し、また科学的調査をできる立場にあるわけでもありませんので、この点は特に追求しないこととしているばかりです。
ともかくも蓮祖門下文献、さらに派祖文献、なおさらに各派文献は、もっと徹底した学術調査がなされるべきであると考え、それを強く希望するものです。
さらに余計なことを記せば、蓮門で切紙相承がいつ頃からなされるようになったのか?という点について、79に顕正居士さんが「切紙伝授が日蓮聖人の時代にはじまったとは考えません」と仰せになる点はわたしも頷くものです。
このような文書相承は口伝の変形なのか、あるいは允可書のようなものの類型なのか、わたしはさらに考えてまいりたいと思っておりますが、「南無妙法蓮華経」は本来、臨終正念として最期の床にある者の耳元で囁き伝授されたという原型があると言い、これは一種の口伝?と言えるのだろうかと考える面もあります。
また、蓮師の漫荼羅図示と授与は一種の文書相承の変形と見なすことはできるのだろうか怪しむ面もあります。
これまた顕正居士さんが「日蓮正宗系の方に「御書(御遺文)」と「口伝書」をごっちゃにして真書とか偽書とかいう傾向が幾分ある」とご指摘される点は、襟を正すところがあります。蓮師遺文の形式を取るもので偽書は多く存在するわけで、この選別は最も基本的な作業でありながら、しかし、それぞれの真筆と扱い門下を教導してきた歴史的事情もありいまさら斥けられないというジレンマが現状にあり、そんな情緒面からも至難な側面を孕んでいると観察できます。故にわたしはかなり執拗に真跡遺文に就き喧しくする態度で一貫してきました。
しかし一方、相伝、口伝の類は、派祖本仏などと言われる本覚影響下の「お偉いさん」への無条件服従の背景で、師を日蓮、もしくは仏、釈尊と仰ぐ信仰様態の中では、師の言は直ちに仏聖人の言とするという受容形態が背景にあります。この歴史は既に平安朝、あるいはそれ以前に遡れるのだろうと思えます。このような現場で、相伝・口伝を蓮祖に遡源できるかを問うことはある面、ナンセンスな側面はあります。
しかし、それでも時代考証において、文献の成立、語彙の成立、思想様態などを具に分析すれば、概ねそれら伝授がいつの時代まで遡れるかは大方の見当は立てられるかもしれません。しかし伝授内容自体を問う相伝・口伝の考証では、それをまとめた文献の真偽を問うことはもちろん意味をなさないことであると思うわけです。
いずれにしても、問題にされるのは、常に「事実」と言うことであって、教団あるいは信者の信仰上の証とは別の事実証拠である点に、ここ富士門流信徒の掲示板と管理者さんの秀でた面をわたしは仰ぐわけです。
その意味において、顕正居士さん、れんさん、地名さん、空き缶さん、また、愚鈍凡夫さん、山学無縁さんをはじめとする皆さんの真摯な文献呈示と考証に改めて敬意を表するものです。
名無し@ピンキーさんまたその他の方々が、この考証議論にさらに参加されることを期待申し上げるものです。
113
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 12:58
―112からつづく―
近日の文献呈示でお一方、漏れてしまいました。
菱村正敏さんのご投稿にも敬意を表するものです。
三学無縁さん、また名前を間違えました。失礼。
114
:
名無し@ピンキー
:2004/05/31(月) 22:00
皆さんの疑問にある特殊曼陀羅は、日蓮正宗の末寺に秘蔵され現法主様もその存在
を認知しております。
これ以上は、現段階では申しませんが、堀上人が裏書をされています。
現物の曼陀羅は、建治年間前後の楮紙で、筆法は首題が小さいとまで言っておきましょう。
115
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 23:14
無し@ピンキーさん:
何か勘違いなさっておりませんか。
当掲示板では阿部さんや、堀さんがそれを認めた云々は、何の証憑性にもなりませんよ。
ただし、楮紙であるというのは一つのハードルは越えていることにはなるでしょう。
116
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 23:16
失礼。
誤)無し@ピンキーさん
正)名無し@ピンキーさん
それともう一つ。お尋ねしますが、阿部さん・堀さんは「特殊曼陀羅」なる語彙はどこで使用しているのですか。
117
:
犀角独歩
:2004/05/31(月) 23:18
また、だらだらと書いて恐縮ですが、該当漫荼羅は身延にあったものではありませんでしたか。
それに堀さんがどうやって裏書きをしたのでしょうか?
118
:
空き缶
:2004/06/01(火) 00:32
>114
日蓮正宗末寺の所蔵では、写真公開は期待できませんね。
ニセ本尊を本物であるかのように信じ込ませるには、どうしても隠しとおさなければならないものがありますからね。
末寺分は公開して本山所蔵分は隠しとおすなんて不自然すぎますもんね。
私は日顕師の鑑定眼をもってして真筆と判断されるならば、恐らく該当曼荼羅は真筆なんだと思います。(河辺メモのような正確な本尊鑑定のできる方なので)
119
:
空き缶
:2004/06/01(火) 00:35
>112
犀角独歩さん、恐れ入ります。
私こそこの掲示板に参加させていただき、日々目から鱗の落ちる思いです。
今後とも宜しくお願い致します。
120
:
地名
:2004/06/01(火) 01:08
112 独歩さん
私も、空き缶さん同様、この掲示板に参加させていただき、仏教再考の初学の一歩を踏み出すことができました。空き缶はじめ大先輩の方々の中で恥多き引用ばかりの初学の者・末輩にすぎませんがこれからもみなさまのご厚情をよろしくお願い申し上げます。
以下は朗門の資料ですが、「本門寺」とありましたので引用いたします。
本尊ノ聞書」 私云是ハ比企谷相承の趣也ト傳給ヘリ(日朗門流)
『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P325
「一 四天を書く時は、北方は多聞天と云て毘沙門は鬼門の方を守るなり。本尊は不爾、是れ本門寺の戒旦建立の時の面なり。然に本門寺戒檀は西面に立べきなり。その故は、像法は仏法東漸とて、西土より仏法渡り、末法に至りては西土へ仏法渡るなり。故に西を守りて西面に立べきなり。西面に立れば自を鬼門に成るなり。」(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点を入れた)
以下は上記とは関係ありませんが、現在「本門寺」を称しているのは
富士門流では
1.北山本門寺
2.西山本門寺
3.讃岐本門寺
でしょうか。
日朗門流では
1.池上本門寺
でしょうか。
間違っていたら訂正いたします。
121
:
れん
:2004/06/01(火) 06:18
>112
犀角独歩さん。こちらこそ独歩さんや皆さんから多くのことを学ばせて戴いております。今後ともご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。草々。
122
:
みかん
:2004/06/01(火) 11:51
4.神奈川の富士山本ry
いや剣呑剣呑
123
:
犀角独歩
:2004/06/01(火) 13:16
空き缶さん:
> 顕師の鑑定眼…該当曼荼羅は真筆
> 河辺メモ…正確な本尊鑑定
なるほど。『図解必携大石寺本尊の鑑別』はその線で記すところでした(笑)
名無し@ピンキーさん:
「該当漫荼羅は身延にあった」はわたしの勘違いでしょうか。
いまはいずこですか。
> これ以上は、現段階では申しません
この手の秘密譚はやめにしませんか。
「師に握挙無し」でこそ、仏教でしょう。
「言えないけれど、これは真実だ」なんていうのはペテン師の論法だとわたしは思いますね。真筆である証拠があれば、勿体ぶらず、披露されれば宜しいだけのことです。
そうしないと眉唾とロム者は思う以上何の効果もありません。付き合わされるほうからは雲を掴むような噂話、それ以上に意味を持つことはありません。議論・論考には馴染めないものですよ。
R・チャルディーニは『影響力の武器』第7章 希少性―わずかなものについての法則で
「ある情報を得ることを禁じられると、私たちは、禁じられる以前よりもその情報を求めるようになり、その情報をより好ましく思うようになるのです。検閲された情報が聴衆にもたらす効果について興味深いのは、聴衆が以前より情報を求めるようになるということではありません。それは当然のことといえるでしょう。興味深いのは、聴衆が情報を受け取らないのにその情報を信じるようになるという点です」(P300)
とその心理的効果を説明します。秘密めいた話は以上の如き心理テクニックと解されるばかりで、ビジネス、セールスという世俗の商売、トーク・テクニックと類します。
こんなものに引っかかる人はここにはおりません。
124
:
犀角独歩
:2004/06/01(火) 13:29
地名さん:
> 本門寺戒檀は西面に立べきなり…
これは『本尊三度相伝』の
「本門寺の戒壇は西面に立つ可きなり、其の故は像法の時は仏法東漸す西土より仏法を渡す、末法に至つては西土へ仏法を渡すなり故に西を守て西面に立つ可きなり、西面に立つ自ら鬼門の方と成るなり」
既に執行師が指摘されたことでした。『本尊口伝相承書の研究』でしたか。
以上のことは今更言うことでもありませんが、ご指摘の「池上本門寺」、この寺名はやはり目を見張るものがあります。
本尊相伝の同源、そして寺名の一致、上古では朗興二門は極めて近距離にあった証左であろうとわたしには思えます。これも今更言うことでもないでしょうか。
127
:
地名
:2004/06/01(火) 23:14
124 独歩さん
>上古では朗興二門は極めて近距離にあった…
独歩さんのこの言葉が気になったものですから、本尊論集を見て各門流でどうなっているのだろうと調べています。以下は常門の日文字(にちもじ)相伝です。
「日文字相傳」 日實記之(日常門流 中山流−親師流−日實流)
『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P516
「日文字相傳
示云釈尊名日種経云恵日大聖尊云々 天照大神名日神 国日本国申又日域云 此日文字横三点竪(たて)二点加書 妙法蓮華経五字也 其法華経如日月(薬王十喩) 然者国日文字 娑婆世界主釈尊日文字 天照大神日文字 依之末法導師日蓮名乗給 仍用日文字事尤深旨云々 此日輪東方出給 東字日本書 木火二法肝心二蔵 仏法東漸是也 故日蓮名乗生日本国垂給也 されば日蓮二字南東習也 日月垂迹御座 故蓮水生 故感応道交自本迹一如名顕也 判口傳事別紙在之 是以上行菩薩御垂迹習也 経云爾時仏告等○如日月光明○衆生闇○決定無有疑云々 天台云子弘父法有世界益云々 此経文斯人行世間間云斯人経文當家秘密有之能々可口傳云々
日 源 ――― 日 實 ――― 日 怡 」
(私注:カタカナをひらがなに直した)
128
:
空き缶
:2004/06/02(水) 01:49
犀角独歩さん、管理人さん、他掲示板より転載します。
*****************************
某掲示板 投稿者:宿坊 投稿日:06/01(火) 18:34 PC No.4477
友人から連絡を受け教えていただきましたが、宗旨研鑽のまじめな某掲示板にて、不届きものが宿坊の名前をかたり、フェイク第519号(発行=04.05.29)投稿したものがいます。
このようなことをして喜ぶのは日蓮正宗並びに法華講ではないでしょうか!?
IPを公開すれば誰が投稿したかすぐにわかるものです。
dhcp-2771.nava21.ne.jp Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1) Opera 7.11 [ja] (ID:404092128552)
******************************
本物の宿坊氏ではないようです。彼はここを「真面目な掲示板」と評しています。
宿坊氏のIPが表示されている掲示板からの転載ですので、管理人さんの協力を戴ければ125のカキコが本当の宿坊氏によるものか否かわかると思います。
他人のハンドルを使って、当掲示板を荒らすなど言語道断であると思いますので、真相究明をお願いしたいと思います。
129
:
管理者
:2004/06/02(水) 06:09
独歩さん
空き缶さん
125の、自称「宿坊」氏の発言は、当掲示板の禁止事項に該当しますので、削除致します。なお、ホストを調べましたところ、128に空き缶さんが示してくださったホストとは異なっておりましたので、某掲示板における、「不届きものが宿坊の名前をかたり、フェイク第519号(発行=04.05.29)投稿したものがいます。」との、宿坊さんのご発言は裏付けられました。
なお、IPの公開につきましては、当掲示板では、現在までのところ、議論や取り決めが有りませんので、現段階での公開は差し控えさせていただきたいと存じます。この点につきましては、「管理者からのお願い」スレッドにてご議論を賜りたいと存じます。
当面の措置として、自称「宿坊」氏のIPアドレスに書き込み規制措置を取りました。御理解賜りたいと存じます。
130
:
犀角独歩
:2004/06/02(水) 16:41
空き缶さん:
管理者さん:
しかし、他人の名と記事でスレッドテーマと関係のない投稿をするというのはいったい如何なる神経なのでしょうか。他人の名と記事を騙って投稿。まあ、一種の真贋問題と言えなくもない……、いやあ、言えませんでしょうね。
集団から与えられた他者蔑視と憎悪で、情報を配布。いつも出入り禁止になる人々の有様は一緒です。個性というものがありません。ファンダメンタリズム、カリスマ崇拝、全体主義者の性格、すなわち権威主義的パーソナリティの典型的見本をまた見ることとなりました。
131
:
地名
:2004/06/03(木) 00:10
独歩さんにお伺いいたします。
日向門流 藻原流
『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P378-9
「御本尊十界習事」 日海記
「一 日神輿法華一体習事」
「天照大神・面女体なれとも実・陰陽和合神也 陰陽即本迹二門也 又・天云字・二人書是則陰陽也 又明神・明字・日月也 是則陰陽也 所詮・陰陽和合神併法華本迹全体習時・日神輿法華一体也 或傳云・西天・顕釈迦・任諸仏之本意・説妙法蓮華経・今此三界皆是我有・名乗給 吾朝・天照大神顕・為国主・守正直衆生給 是併釈迦輿天照一体義也 末法・顕日蓮聖人・顕諸仏本意之要法給 然即・釈迦・上行・日神・日蓮・只一体習也 日種・日神・日蓮・可思之」
(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点等を入れた。)
(私注:上記にある「或傳云」は下記では記されていません。)
日朗門流
『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P324-325
「本尊ノ聞書」 私云是ハ比企谷相承の趣也ト傳給ヘリ
「一 釈迦と申は天照大神也 西天にては顕釈迦・諸仏本極の妙法蓮華経を説き一切衆生悉是吾子と宣たり 日本にては又・顕大明神・酬正直捨方便の本願・宿正直之頭玉へり 末法濁世之時は顕日蓮聖人・顕諸仏本意玉ふ されは釈迦・上行・天照大神・日蓮上人・只一体と習也 故に釈迦・幼少の御名を・号日種・天照大神・幼少の御名を日種と申す尤も有謂事也 其上・天照大神は即・法華本迹の体にて御座也 天照大神は・面は女体にて御座せとも・実には陰陽和合の神にて御座ある也 天と云字は二人と書たり 是則・陰陽の二也 明神の明の字は又・日月と書たり・則・日月は陰陽の体にて本迹二門也」
(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点等を入れた。)
(私注:上記で、日蓮「聖人」と「上人」と語が異なるが「本尊論資料」のまま転記した。)
「 釈迦・上行・天照大神(日神)・日蓮 → 一体 」とありますが、どのように会釈すればいいでしょうか。
132
:
犀角独歩
:2004/06/03(木) 13:14
地名さん:
他門相伝のご呈示の意は、たぶん、わたしの考え、蓮師はご自身を上行再誕という確信にいたっておらず、蓮師を直接上行応化と見なしたのは本弟子6人中、興師であって、他のお弟子方は存命中はこの考えに消極的であり、その後、徐々に日蓮門下一般の通説になったという考えを確認されるためであろうと存じます。
その意味からご呈示の資料が、だいたいいつの時代であるかを特定することが必要になってこようと思います。しかし、相伝であるので成立時期の特定はなかなか難しいかもしれません。碩学の執政を仰ぐところですが、資料手放しで記せば、同対異名相伝は日文字相伝のあとに成立し、その時期は祖滅100年より下れないのではないのか、と類推を申し上げたいと思います。
真跡から見る限り蓮師がご自身を上行であると思っていたと確信できるものはないとわたしは受け止めます。しかし、興師に濫觴を見、重須で確定した思想なのではないかと思えます。
この後、「悉く日蓮」の類の同体異名相伝は成立していく時系列ではないでしょうか。全日蓮門下のその濫觴を興師と言えば、大胆すぎるのかもしれませんが、いまのところ、わたしはそのような認識を持っています。
133
:
犀角独歩
:2004/06/03(木) 13:15
【132の訂正】
誤)碩学の執政
正)碩学の叱正
134
:
犀角独歩
:2004/06/03(木) 13:42
ちょっと、地名さんのご質問から離れますが、ご呈示の同体異名相伝は、現在とその趣が異なり、仏本神迹ではなく、神本仏迹で一貫しているのではないのか?とわたしには思えます。是一
もう一点。これは皆さんのご意見を賜りたいのですが、釈尊・上行・天照(・八幡・十羅)・日蓮が一体であると言う、その部分を切り出して、天照・日蓮が一体と言ってしまうとき、平たく言えば、日蓮は天照であるから、いまの天皇の祖先であると、こうなってしまいます。こう考えるとなかなか大胆な考えであると思うのですが、この解釈は是なのでしょうか。是二
いずれにしても、これら相伝類は神道色が濃い、というより神仏習合の思想背景に基づくのでしょうが、ここに山岳信仰との融和を見ると如何にも興門という感じがします。
135
:
地名
:2004/06/04(金) 01:18
132 独歩さん
大変ありがとうございます。
このご指摘は重要であると思いますので、十分に踏まえながら考究していきたいと思います。
重ねて御礼申し上げます。
なお、134については、是一・是二・是三ともいまの私にはコメントしうるだけの知識がありません。
一部の書物では本地垂迹から神本へ移行したとする考えを述べられているものもあるように思われますが、いまの私には軽々に言えません。
神仏習合はあくまで私の推測・憶測・妄想にすぎませんが、仏本ではないような気がいたします。
ただ、初期の習合においては、「本来わが国の神祇には、強い信仰性はあっても、思想・教義はなかった。清らかな心、正直な心をもって神を祈るという、実に素朴な信仰で支えられている。それに寄生していった仏教の側としても、あえて深い思想や理論的裏付けを必要とせず、習合することこそ先決であったといえよう。」(「神仏習合」逵日出典(つじひでのり)著、昭和61年、P85)と。そして、それは「金色燦然と輝く仏像を前にして、わが国固有の信仰対象である神と対比するとき、あまりにも大きく異なる対象であることか。天皇はいうにおよばず、周囲の群臣たちにも共通した驚きであったことだろう。」(同書P18)と。
著者は「わが国固有の神と大陸伝来の仏が、しだいに接近し、やがて習合するに至る素地は、仏教の伝来以後少しずつ培われていった。本来、相当に内容を異にする二つの宗教は、対立こそあれ、歩みより習合するといったようなことはまことにめずらしい。
したがって、その素地の形成には、日本特有なものが作用していることと思われる。四方を海で囲まれた列島、山がちで、山々の間に点々と散在する小さな平地、このような地理的環境は、日本人の生活を考える場合、まず念頭に置かねばならぬ基本的な条件であろう。それに明瞭な四季のめぐり、これも基本的な条件として無視できないであろう。神仏習合の素地の形成には、日本の風土、日本人の心情などが強く働いていたであろうことに注意しながら、いくつかの角度から」「神と仏が習合する素地」「をみつめていくことにしたい。」(P15-16)と。
136
:
地名
:2004/06/04(金) 01:30
「身延相傳」
「二神勧請事」 日傳記 示日鏡
「一 天照太神輿出雲大社法華法門習合事
示云凡・日神善神也 素戔鳥尊悪神也 然・元品法性天照太神顕・元品無明第六天魔王顕されは天照輿魔王夫婦契御座申・無明即明形表玉と習也 又天照太神日神云々 素戔鳥尊出雲国宮居し玉等云々 日対法性・雲対無明・可思之 夫・そさのを尊・悪事故・日神・天岩戸籠玉者・法性為無明被覆形也 雖然・日神遂岩戸出・そさのをの尊出雲国流玉云るは・無明為法性被断破形也 如此之振舞・無明法性功能顕玉 されとも二神兄弟事・無明法性一体不二の実義顕也 又朝日欲出之時・東天必横雲聳 是即法性欲現之時・無明発動形也 日出横雲即退散・法性明了折節染体自虚事相目前見 仍日神輿出雲大社兄弟二神善悪現玉 併法華円経実義事相見形習也 挙一例・何神慮皆悉法華内証顕不可有之・能々此等得心御本尊勧請意趣可存知也 可秘之
尋云・日神・素戔鳥尊諍様如何
答・別余所有之・雖然・不知本体法門難知之故一端可載之・凡・天地開闢後・天神七代之末・伊奘諾・伊奘册・二柱御神・天浮橋上して天逆鉾指下給・滄海捜玉ひしに鉾滴島成・是をヲノコロ島名・二柱御神・彼島天降給・大八洲生給・山川草木生定給・天下主生さらんやとて・所謂・一女三男生玉・日神・月神・蛭子・素戔鳥尊・是也・後・日神日本国授玉・地神五代始・天照天神・是也・然・御弟そさのをの尊此国諍玉蠅なす十千悪神語一千八葉劔宇多野城崛立・日神失奉・我国主成らんと巧玉・其時・天照天神国争事あらんとて大和国宇多郡秋山・天岩戸・閇籠玉・六合常闇成・其時・天津兒屋根天太玉尊相計・八百萬神達集玉・神鏡鑄奉・榊樹着奉禮奠幣帛捧七日七夜御神楽参せ玉・日神・神楽メヲ給・岩戸・開出玉・然世間明成・さて天照太神・荒御前遣給・一千八葉劔蹴破捨玉悪神拂却給・素戔鳥尊・出雲国にてヒノ川上大蛇切り尾中より・天村雲劔・取給さかのまかり玉と聟引出物鏡副・天照大神奉給・兄(コノカミト)成玉・十月一日出雲大社譲玉へり・依之・余十一月我朝八百萬神達・伊勢大神宮・詣給・十月一日計諸神・出雲大社・参玉ふと見たり・委如神代巻等云々
私云此縁起以前無明法性法門道理可得心合也・所詮・和光利益全体・法華内証至極
事能々意可存也」
(私注:カタカナをひらがなに直し、適宜句読点等を入れた。)
「産湯記」の出雲の見方とこの「身延相傳」の出雲の見方は何なのでしょうか。
137
:
地名
:2004/06/04(金) 01:47
135で「神仏習合はあくまで私の推測・憶測・妄想にすぎませんが、仏本ではないような気がいたします。」についてやや舌足らずですので追記しますと、上記書P33に「氏神の信仰と同じように各地の氏族の本拠地に氏寺が建立されていった」「仏教伝来に際しては崇仏・排仏の対立・抗争があったとはいうものの、その後においては、天皇および各氏族とも、神と仏の間にいずれか一方を排撃するというような二者択一の姿勢をとらなかった。ここにも両者接近の素地が生まれることになっていく。」と。
本地垂迹説はもう少し時代が下がってからのような気がいたします。
間違っていましたら訂正いたします。
138
:
顕正居士
:2004/06/04(金) 08:41
地名さんが引用された相伝は内容が各山に共通で文章が全同の箇所もあり、大変興味深いものです。
富士の相伝ですと『本尊三度相伝』がこれらにあたります。富要集の註には底本は「水口日源筆」
とあり、『富士年表』の1296年の項に「水口日源生る」とあるから、そうであるならば『本尊三度
相伝』は14世紀の半ば頃に編纂されたのでしょう。
「反本地垂迹」(神本仏迹)の教義をはじめて明確に述べた著作は1332年(元弘2年)、慈遍大僧正
の『旧事本紀玄義』だとされますから、日蓮宗各山の「釈迦天照一体」(日神本釈迦迹)の相伝の
文書化の時期と一致します。
*慈遍大僧正 『徒然草』の著者吉田兼好の兄であり、顕本法華宗の祖玄妙日什の師でもあります。
『産湯相承』は内容に多くの重なりがありますが、「釈迦天照上行日蓮一体」ではなく「釈迦天照
十羅刹日蓮一体」を伝え、「法性天照無明素盞嗚」の配当はいわず、「天照大神日の御崎最初降臨」
をいう特色がみとめられます。
*天照大神は日の御崎に最初に降臨 これは島根県の日御碕神社日沈宮の縁起であります。
http://www.genbu.net/data/izumo/hinomisaki_title.htm
*「本地垂迹」から「反本地垂迹」への思想潮流
次のサイトにあります広神清氏の論考が要約として参考になります。
http://www.jp.tku.edu.tw/japanese/7/COVER.HTM
139
:
顕正居士
:2004/06/04(金) 10:04
地名さんが引用された諸相伝に『本尊三度相伝』や『産湯相承』を加え、これを「日神本釈迦迹」
の相伝群と呼び得るでしょう。元寇以後に醸成された「日神本釈迦迹」の思想は一方では唯一神道
(吉田神道)に展開し、他方では「独一本門」の思想に発達します。神本仏迹の思想は比叡山で
大本はできただろうが、四十九院を擁し、五百の僧坊を有したという「岩本実相寺」、こちらでも
じゅうぶんに発展していたのではないか。「日蓮教団」は岩本実相寺において、その原初の勢力を
形成した。
「駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧釈の日興等謹て申す」で始まる『四十九院申状』にあるように
白蓮日興その他、岩本実相寺で日蓮聖人に随った人たちの多くは「四十九院」の「供僧」であった。
「供僧」とは神職をおこなう僧侶の意味であり、神仏判然令によって還俗を強制された身分をいう。
私は「日神本釈迦迹」相伝群は岩本実相寺の「原初日蓮教団」に遡源するのではないかと思います。
140
:
地名
:2004/06/05(土) 01:20
138 顕正居士さん
大変ありがとうございます。
「日御碕神社日沈宮の縁起」および「本地垂迹」から「反本地垂迹」への思想潮流のサイトをわくわくしながら読んでいます。
本当にありがとうございました。
141
:
地名
:2004/06/05(土) 01:27
139 顕正居士さん
こちらの内容も大変ありがとうございます。
>「日神本釈迦迹」の思想は
>他方では「独一本門」の思想に発達します。
>「日蓮教団」は岩本実相寺において、その原初の勢力を形成した。
>白蓮日興その他、岩本実相寺で日蓮聖人に随った人たちの多くは「四十九院」の「供僧」…神職をおこなう僧侶…
>私は「日神本釈迦迹」相伝群は岩本実相寺の「原初日蓮教団」に遡源するのではないかと思います。
大変勉強になりました。心より御礼申し上げます。
142
:
犀角独歩
:2004/06/06(日) 14:55
地名さん:
貴重な資料のご呈示、有り難く拝読いたしました。
資料に関する点は改めて、記述することとさせていただきます。
本地垂迹説、今更ながら、考えさせられるものでした。
地名さんの影響を受け、数日前、近隣の図書館に行き、何か関連する良い書籍はないものかと探していたのです。見つけたのは村山修一師著『本地垂迹』<日本歴史叢書33>吉川弘文館刊でした。
わたしはこの本を一読して「おや」と思ったのです。個人的には本地垂迹説を本門・迹門とはまるで違う観点で考えてきたのですが、この本の中では、その起源をインドに権化思想に置き、羅什から僧肇を経、天台に至り本迹法門を生んだと言い、その影響が日本の本地垂迹説となっていくという粗筋に基づくのでした。また、この書の冒頭に
「近代史において、はじめて本地垂迹を体系的にとりあげたのは辻善之助博士であった。『史学雑誌』第18巻(明治40年)にのせられた「本地垂迹説の起源」のはじめのところで、博士はその概念を次のように説明されている。
この説は本地即本有の妙理無始無終の絶対なる仏陀が、人間を利益し衆生を済度せんが為めに、迹を諸所に垂れて、神となって種々の形を顕はすをいふので、我邦の神祇は、其本源をたづぬればみな仏菩薩にあり、仏も神も帰する処は一つであるといふのである。
この語の起りは、法華寿量品にあり、もとは久遠実成の釈迦即絶対的理想の仏陀を本地とし、始成正覚の釈迦即現実的の歴史上の釈迦を垂迹とするのである。日本の本地垂迹説は、この説を拡張応用したのである」(P1)
と紹介します。また、僧肇については
「その名著『註維摩』の中で、
本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕す無し、本跡殊なりと雖も不思議一なり。
とのべ、本地垂迹の深淵な関係を強調して注目をひき、仏身論に関してこの説は以後の学者に盛んに利用せられ、やがて天台宗をはじめた智邈や三論宗をはじめた吉蔵にもとりいれられ、『法華経』寿量品にみえる、上に引用した辻博士の後段に文にある定義、つまり本地仏と垂迹仏の解釈となってあらわれた。そうしてこの解釈はやがて喇嘛(ラマ)教などにみられるような外道諸神の密教的習合の上にもおしひろげられて適用されることになり、次第に仏神論より他の方向へも発展する形勢となった。(P4)
と解説します。この記述はしかし、最近の法華経解釈で日本のスタンダードになりつつある菅野博史師が
「本と迹は、『荘子』の説かれる聖人の具体的な行為を『迹』(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以(履き物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教の側で『迹する所以』を『本』と改めたものである。智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである」(『法華経入門』岩波新書 P91)
という説と必ずしも一致しません。
本地垂迹が本門迹門であるというのはしかし、頷けません。
天台が指摘する本迹の相違は特に始成正覚として久遠実成を隠すということに特に力点があり、履き物と足跡の関係というより、権(かり)実の差と言ったほうが当を得ている気がするからです。
わたしは水戸藩の出身なのですが、物語『水戸黄門』で、旅を続けるご老公は「縮緬問屋の隠居」という仮(権)の姿を採っています。しかし、悪事を前に印籠を示して「先の副将軍・水戸光圀公」という本当の姿(実)を示します。多分、この物語は法華文化・本迹思想がまさに生かされたものであると思うのですが、しかし、縮緬問屋隠居が足跡で、副将軍が履き物という関係と言うより、権(仮)と実と見たほうがすんなり理解できます。脱線しました。失礼。
石山が自山の相伝と謀ったものは、これに本因妙思想が被さり、さらにその解析をややこしくするのであろうと思えます。また、そこには陰陽道の風合いも加わり、いきおい真言立川流も考慮しなければいけないのかと思え、一筋縄ではいかないだろうと嘆息を禁じ得ません。
ご呈示いただいた相伝文献を見て、その基が類似系を示しながら、時に本迹一如で、勝劣義と違うなど、表層の装いを変えている点に興味が惹かれました。この点はもう少し考えてから投稿させていただく所存です。
有り難うございました。
顕正居士さん:
横レスながら、たいへんに参考になりました。
有り難うございました。
143
:
地名
:2004/06/07(月) 06:22
142 独歩さん
大変貴重なご意見ありがどうございます。
「本地垂迹説」に対するお考えについては、私はまだ十分に理解できておりません。
このご意見等を踏まえてよく熟読していこうと思います。
ただ、「本地垂迹説」はおよそ10世紀(前後の世紀も踏まえたものか)前後に形成されたものではないかと推測しておりまして、この説ができるまでの経緯に注目しています。
「なにごとの おはしますとは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮に参拝した西行法師(1118-1190年)がこの名歌を残している)
「カミ」の起源というものは、我々日本人の祖先が抱いていた、何か敬虔なものに対する素朴な感情の表出であるものとみられますので、道教や儒教、山岳信仰、そして仏教との関係や経緯(神仏習合)などを踏まえて考えてみたいと思います。
144
:
犀角独歩
:2004/06/07(月) 15:02
なんだか最近、自己レスばかり書いていますが、わたしは142に本・迹を実・権の関係で見たほうがわかりやすいという論旨で記しました。しかし、これはあまり上手くないと思いました。言うまでもなく、権実相待は法華已前の諸経を権(仮)として、法華ばかりを実経とする相待を論じるのであって、これと同等の用語で捌けば混乱が生じると思ったからです。
本は本体、迹は影像(ようぞう)と言ったところでしょうか。天の日月は一つであるけれど、地上の池・湖・海・河川など、水に浮かべる影像は無数であると言った関係です。
そうなると、たしかに履き物と足跡に例を採るのはある面、妥当なのかも知れません。
本迹は、そもそもそのような関係でありながら、では内外から本迹までの所謂相待論全般を通じては、今風に語彙を使えば、覆蔵と露現の程度を比較するものの如く映じます。(哲学・現象学・宗教学的用法と言うより、まあ、一般化された語彙程度の意味で介してください)
一仏がどの程度、自分の正体を明かしたのかという程度の比較と言えばわかりやすいのでしょうか。ここで重要な点は一仏の正体の露出具合ということなのであって、本仏・脱仏、まして、本仏・迹仏と言っても別仏であるわけはありません。
日蓮本仏論は二つの流れがあります。学会を含む原石山系集団では、釈迦・日蓮を別仏として扱います。つまり本仏と脱仏が違う仏であると言います。しかし、これはそもそも寛師教学と違っている点に信者の多くは気付いていません。この分岐はたぶん応師が果たしたところが大であると記憶します。つまり初学・不信者には別仏と教え、深信者には同体異名たると諭す階梯を設けていたと記憶します。この筋で書かれたのは応師『日本仏論』でしたでしょうか。
地名さんが本地垂迹を通じて、同体異名相伝に係る各門の相伝を挙げてくださり、このことはさらに明瞭化した観があります。いわば、石山・学会・顕正会の日蓮本仏論は元来の日蓮本仏論から見ても「間違っている」ということです。また間違っていると言わずとも浅はかな初学向けを絶対であると信じていることになります。
なお、富士門における本地垂迹を考えるに当たり、殊に現代的で重視されるのは外用・内証という便利な用語でしょう。外用・内証は富士系では当然の対句として扱われますが、真跡では「内証」の使用はあっても「外用」は使われません。もちろん、真跡以外では当然その使用が見られます。不審に思い、天台初期文献を当たると、外用の使用は見られても、内証はないのです。これにはやや驚かされました。いったいいつの頃から、外用・内証が対句として使われるようになったのか、蓮師滅後と考えるべきでしょうか。
当掲示板では、真跡による考証を根本に据えてきましたから、相伝についての積極的な考証は今回が初めてと言っても過言ではないように思えます。
「他山相伝の寄せ集めに過ぎない石山相伝」というのが正直な感想です。寄せ集めであるだけに各所で矛盾が生じ、齟齬を来すのでしょうね。
地名さんの今回のご呈示は、以上の意味からもたいへんに参考になるところでした。
145
:
地名
:2004/06/07(月) 16:50
「神仏習合」逵日出典著、P99-103から引用いたします。
「…この動きにおいても、やはりどこよりも先んじていたのが宇佐八幡宮であった。応和二年(962年)の奥書をもつ「大安寺八幡宮縁起」によると、行教が宇佐に参り八幡神を石清水に勧請することを述べている中で、彼が宇佐に参籠しているとき、衣の袖の上に釈迦三尊が映じたとある。このことは、八幡神の本地が釈迦三尊であることを示しており、10世紀の半ばころに、すでに宇佐を中心とした地域において、八幡神に対する本地仏の設定がなされていたことになる。
しかし、本地仏の設定が一般的に普及してくるのは、11世紀半ばころからであるとみられる。大江匡房(おおえまさふさ)の「江談抄」(ごうだんしょう)に熊野の本地仏について記されている。それによると、熊野三所(本宮・新宮・那智)は伊勢大神宮の御身であると述べているのである。また、同じく匡房の「続本朝往生伝」には八幡大菩薩の本地を阿弥陀如来としている。先に紹介した「大安寺八幡宮縁起」では八幡神の本地を釈迦三尊としていたが、ここに来て阿弥陀如来となっているのは、このころ発展・普及してきた浄土教思想の影響によるものと考えてよかろう。
このようにして、神々への本地仏の設定はいよいよ盛んになっていく。以下、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、文献に登場してくる本地仏について代表的なものを列挙してみる。
●「長秋記」長承三年(1134年)二月一日条にみえる「熊野」の本地仏
三所について
丞相(しょうじょう) 和名家津王子 法形阿弥陀仏
両所 西宮結(むすぶの)宮女形 本地・千手観音
中宮 早玉(はやたまの)明神俗形 本地・薬師如来
五所王子について
若宮女形 本地・十一面
禅師宮俗形 本地・地蔵菩薩
聖(ひじり)宮俗形 本地・龍樹菩薩
児(ちご)宮 本地・如意輪観音
子守 正観音
146
:
地名
:2004/06/07(月) 16:51
続き
●平清盛が「厳島神社」に奉納した経巻の願文にみえる本地仏
当社(厳島神社)は是れ「観世音菩薩」の化現(けげん)なり
●「春日社古記」承安五年(1175年)三月一日条の「春日大明神」御体・本地の注進にみえるもの
一宮 鹿島神 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)
二宮 香取神 薬師如来
三宮 平(枚)岡神 地蔵菩薩
四宮 姫神 十一面観音
若宮 文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)
●「卅五文集」にみえる治承三年(1179年)「祗園三所権現」の本地
薬師如来 文殊師利菩薩 十一面観音
●「玉葉」建久五年(1194年)七月八日条に、先の「長秋記」と同様に「春日五神」の本地仏が記載されている。ただし、「若宮」を「十一面観音」としているところが異なる。
●「古事談」では、次の二カ所が注目される。
その一は、範兼卿が「賀茂」の本地を知らんとして祈った箇所に、「賀茂神」の本地を「観音」としている。
その二は、六波羅太政入道が「高野大塔」を造ることについて記した箇所に、「伊勢大神宮」と安芸の「厳島神社」の本地は「大日如来」であると記している。
●「春日社古社記」に、また「春日五神」の本地仏が記されているが、ここでは、これまでの同神に対する本地仏の諸説をまとめた形となっている。
一宮 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)あるいは「釈迦如来」
二宮 薬師如来あるいは弥勒菩薩
三宮 地蔵菩薩
四宮 「伊勢大神」の本地である「大日如来」あるいは十一面観音
147
:
地名
:2004/06/07(月) 16:52
続き
●「沙石集」には、「伊勢大神宮」の本地を「大日如来」としている。
●「春日社私記」には、「春日」の神々に対する本地が一層詳しく記されている。
一宮 鹿島大明神 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)あるいは「釈迦如来」
二宮 香取大明神 薬師如来
三宮 平岡大明神 地蔵菩薩
四宮 姫神 十一面観音あるいは救世観音あるいは「大日如来」
若宮 文殊師利菩薩あるいは十一面観音
太力雄(たぢからお)大明神 不動明王
三十八所大明神 弥勒菩薩
榎本大明神 多聞(たもん)天王
紀ノ御社 虚空蔵菩薩
水屋大明神 薬師如来
●「宝基本紀」には、古人の秘伝として、「伊勢の両宮(内宮と外宮)」の本地を、密教でいう胎蔵界と金剛界の両界としている(天台・真言両宗の密教では、「大日如来」を中心とした仏の世界を胎蔵界と金剛界の二つとしている。)
●「三輪大明神縁起」では、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の本地を「大日如来」とし、御室山(みむろやま・三輪山)の山麓に鎮座する「八所権現」は、胎蔵・金剛両界の曼荼羅中にある仏が本地であると説明する。
●「諸神本懐集」には、実に多くの神々について本地を記している。その主なものを示しておく。
鹿島大明神=十一面観音(奥の御前は不空羂索観音
天照大神=観音
素戔嗚尊(すさのおのみこと)=勢至観音
熊野三所権現=阿弥陀如来(西の御前は千手観音、中の御前は薬師如来)
(五所王子=若王子は十一面観音、禅師の宮は地蔵菩薩、聖の宮は龍樹菩薩、児の宮は如意輪観音、子守の宮は聖観音(しょうかんのん))
二所三島の大明神(大箱根=三所権現にして文殊師利・弥勒・観音)
八幡三所(中は阿弥陀如来、左は観音、右は大勢至菩薩)
祗園=薬師如来
稲荷=如意輪観音
白山=十一面観音
熱田=不動明王 」
148
:
地名
:2004/06/07(月) 16:54
続き
同書P112には
「本地垂迹説の発展は、神仏習合の現象を急速に普及させた。神と仏のあるところには必ずといってよいほどその現象がみられるようになる。ましてや、本地垂迹説から説明すれば、一対一の習合にとどまらず、一つの神に複数の仏、一つの仏に複数の神を習合させることも可能となってきた。…」と。
149
:
地名
:2004/06/07(月) 18:41
天照大神と出雲の関係について「島根県大百科事典」から引用いたします。
「日御碕神社」(ひのみさき・じんじゃ)
「簸川郡(ひかわぐん)大社町日御碕に鎮座する元の国幣小社。神社本庁別表神社。
下の宮(しものみや)と上の宮(かみのみや)とからなり、下の宮(しものみや)は天照大日靈貴(あまてらす・おおひるめむち)ほか5柱、上の宮(かみのみや)は神素盞鳴尊(かみ・すさのおのみこと)ほか3柱を祀る(まつる)。祭日8月7日。氏子約500世帯。
社殿によれば、上の宮(私注:素盞鳴尊の方)はもと・背後の隠ヶ丘(かくれがおか)にあったのを安寧天皇の13年、現在地に遷し(うつし)、下の宮(私注:天照大日靈貴の方)は海辺の経島(ふみしま)にあったのを948年(天暦二年)現在地に遷し(うつし)、合わせて日御碕大神宮(ひのみさき)と称するに至ったとなっている。
「出雲風土記」の美佐伎社(みさきのやしろ)、「延喜式」の御碕神社にあたる。
古伝神事として旧正月7日の和布刈神事(めかり)、大晦日(おおみそか)の神剣奉天神事は著名である。
150
:
地名
:2004/06/07(月) 19:24
天照大神と出雲の関係について「島根県の地名」日本歴史地名大系33から引用いたします。
「日御碕」(ひのみさき)
「島根半島の北西端に位置し、岬としての日御碕は地内北西端から日本海に突き出す。
江戸時代は日御碕社(日御碕神社)領。
南東は仮宮村(かりのみや)、日御碕社東方は宇龍浦(うりゅう)。同社北西方に経島(ふみしま)がある。
「出雲風土記」にみえる出雲郡(以下同郡)支豆支(きづき)の御碕・杵築御碕は日御碕(ひのみさき)に比定され、朝鮮半島の志羅紀(新羅)から佐比売山(さひめやま・三瓶山)を杭(くい)とし、園(その)の長浜を綱として引寄せたのが支豆支(きづき)の御碕であるという「国引き神話」が載る。 中略
経島(ふみしま)は標高約20mの島で、出雲風土記の御巌島(みいつく・しま)に比定される。島の洞窟に神代文字が刻まれるとの伝承から文島(ふみしま)ともいう。日本海西部の代表的なウミネコ繁殖地として国指定天然記念物となっている。
151
:
地名
:2004/06/07(月) 20:53
天照大神と出雲の関係について「島根県の地名」日本歴史地名大系33から引用いたします。
「日御碕神社」(ひのみさき・じんじゃ)
「島根半島の北西端、日御碕(ひのみさき)に鎮座する。
日本海に西面した権現造の社殿は神ノ宮(かみのみや・上宮)と日沈宮(ひしずみのみや・下宮)からなり、西の日光といわれる。
主祭神は神ノ宮が神素盞鳴尊、日沈宮(ひしずみのみや)が天照大日靈貴(あまてらす・おおひるめむち)。旧国幣小社。
社伝によると、神の宮(私注:素盞鳴尊の方)は背後の隠ヶ丘(かくれがおか)にあったものを現在地に移し、天暦二年(948年)北西方の文島(ふみしま・現・経島)にあった日沈宮(ひしずみのみや)(私注:天照大日靈貴の方)を現在地に移したという。
この社伝を信頼するなら、神ノ宮は「出雲風土記」の出雲郡美佐伎社(みさきのやしろ)、「延喜式」神名帳の御碕神社(みさきじんじゃ)、日沈宮(ひしずみのみや)は「出雲風土記」の百枝槐(ももえ・えにす・のやしろ)に比定される。
社名は、古代末期に日御碕社、中世は御碕社、室町〜戦国期以後再び日御碕社と称し、明治4年国幣小社日御碕神社となる。
[杵築大社からの独立]
古代末期には鰐淵寺(がくえんじ)と並ぶ独自の勢力を誇る修験の道場として知られ、「梁塵秘抄」に「聖の住所は何処何処ぞ(いずこ・いずこぞ)、箕面よ・勝尾よ・播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕(ひのみさき)」と歌われたが、中世への移行に伴って杵築大社(出雲大社)の末社として組込まれ、祭神も杵築大明神(スサノオ)の御子(季女すなわち十羅刹女)とされた。 以下略 」
ここで「十羅刹女」がなぜ出てくるのだろうか。
素盞鳴尊(スサノオのみこと)の御子(みこ)とは、田心姫,瑞津姫,厳島姫のだれかなのだろうか。
152
:
顕正居士
:2004/06/08(火) 05:46
>ここで「十羅刹女」がなぜ出てくるのだろうか。
日御碕神社は神仏判然令以前は「十羅刹女社」だったのです。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/hinomisaki.htm
謡曲『大社』に
「われはこれ。出雲の御崎に跡を垂れ。仏法王法を守の神。本地十羅刹女の化現なり」
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/utahi/text/yo018.txt
とあり、また謡曲『御崎』というのがあり、これから神楽『十羅』が作られたそうです。
http://www.town.hikimi.shimane.jp/culture/cul02.html
十羅刹女は三宝荒神と同一視され(『御義口伝』「三宝荒神とは十羅刹女の事なり」)、
素盞烏尊の娘であるともされたようです。『産湯相承』は日御碕神社の信仰と関係がある人が
編纂したのでしょうね。
ところで応安(1368-75)頃の成立という『太平記』に見える日神本釈迦迹の思想です。
「天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根(かみがせしもついはね)に
跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々
刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下(しやくかうほんげ)の成道也」
http://www.j-texts.com/sheet/thkm.html
153
:
地名
:2004/06/08(火) 06:14
152 顕正居士さん
>日御碕神社は神仏判然令以前は「十羅刹女社」だったのです。
>謡曲『大社』に
>「われはこれ。出雲の御崎に跡を垂れ。仏法王法を守の神。本地十羅刹女の化現なり」
>とあり、また謡曲『御崎』というのがあり、これから神楽『十羅』が作られたそうです。
>十羅刹女は三宝荒神と同一視され(『御義口伝』「三宝荒神とは十羅刹女の事なり」)、
>素盞烏尊の娘であるともされたようです。『産湯相承』は日御碕神社の信仰と関係がある人が
>編纂したのでしょうね。
>ところで応安(1368-75)頃の成立という『太平記』に見える日神本釈迦迹の思想です。
>「天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根(かみがせしもついはね)に
>跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々
>刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下(しやくかうほんげ)の成道也」
本当にありがとうございました。
よく熟読いたします。
154
:
地名
:2004/06/08(火) 23:34
「十羅刹女」について
日朗門流
「御本尊相伝事」 康正三年三月十八日 日住記 『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P297
「一 十羅刹女之事
問云 彼・羅刹女は鬼道の内なり 何故に本尊に載や
答云 鬼子母神は本地を尋れば大日三摩耶形と習うなり 随て大日法身通大地法と習う故に彼の大地より十羅刹女の出生する事十界の因果を表する義なり 旧訳には地獄・餓鬼と明らかなり 新訳には地獄傍生鬼と説くなり 新旧異説不一順大権の化現機に応じて不一遍可仰信云々」
日朗門流
「當宗相傳大曼荼羅事」延文三年正月十八日、日像傳、大覚記
『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P277
「一 鬼界事
示云・餓鬼に十羅刹女を書き玉へる事 此の十女は餓鬼界大将故なり 餓鬼界も即法華の持者を可守帰伏の故なり 又只鬼母と不書 鬼子母と云事親子和合して成守護神 令俗諦常住意なり 又鬼と者甲乙の二字にて丑寅鬼門の方に居して一切衆生に障礙を成す物なる故に甲乙と可書事なるに私の點を世間通同して加る事は滅無所表なれは鬼神退治の義なり 故に天竺の霊山・晨旦の天台・日本叡山・三国共に王城の鬼門に仏法を安置し国土安穏四海太平守意なり云々 又乾闥婆王も鬼王なり」
155
:
地名
:2004/06/08(火) 23:36
「天照大神」と「妙」の字について
日常門流 『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P450
「首題七字五字天神七代地神五代相承事 日実記之
口伝云 妙の字・天照に配る事 天照は女神なり 妙の字を・少女と書故 女の字便なり 五字の中の最初は妙字なり 地神五代の初 天照太神なり これに依りこれに配るなり 天照太神より一切衆生を出生する如く 妙の一字・萬法を出生す云々 余可知 次に地神五代は五字なり この五代は大地に処して衆生を利益する故に地神と云うなり 大地をば迹門に譬えるなり
この妙法五字に南無の二字を加れば七字なり 是即天神七代なり その天は本門に譬えるなり」
156
:
犀角独歩
:2004/06/09(水) 15:29
地名さん:
実に多くの資料をご呈示いただき、有り難く存じます。
本地垂迹説の前にしばし寡黙になっております。
やや整理すれば、本地垂迹説は
(1)いつ頃、何を基礎に言われるようになったのか
(2)それぞれの神仏の起源をいつ頃なのか
をまず考えています。
先にも記したのですが、本地垂迹説については142に辻師、村山師の記すところが挙げました。そのあと、144に本迹を権実で捌き記したことをやや修正したのですが、両師に言わせれば、本迹は権実を元に生じたという捌きになっています。
(1)の自問でわかったことは本地垂迹はインドの権化思想をその起源していること。特にその論理的枠組みが用意される必要性は『法華経』寿量品の久遠仏思想の台頭と深く関連していると言うこと。当初の本地垂迹は仏神の説明理論ではなく、仏についてのものであったこと。つまり、永遠の久遠仏と肉体を持った仏の整合性を採るものであったこと。不滅と解釈される本地久遠仏が衆生を済度するために死滅する肉体を以て娑婆に現れる垂迹仏の関係を言ったものであったこと。しかし、日本に仏法が輸入されたのち、その併存において、神仏習合が進み、ついに本地垂迹は神仏の権実関係の説明理論へと移行していったこと。
(2)でいう仏の起源は(1)の如くです。神について、多種多様の神々に本地垂迹の説明が用意されていきますが、ここでは蓮師の興味対象であった。天照・八幡にのみ限定します。天照大神が天皇家の祖先神として確定されたのは天武10(682)年5月、天武天皇が皇祖天照大神を祀り、これを祖先神として限定したことによるという(村山『本地垂迹』P30)天照大神は元来、「上古に、人々が自然神としてあがめた太陽信仰」であったと言います。
わたしが実に興味を惹かれたのは八幡神の起源です。
この研究には中野幡能師『八幡信仰史の研究』が挙げられていました。
その起源は香春神で「辛国息長火姫大目命」で新羅国神。「辛国」とは韓国で、亀卜・鍛冶・シャーマンを神格化したものといいます。香春(カグラ)は新羅語のカグポル(金の村)からきたもので、採銅所で、「火姫大目」の火は鍛冶、目はシャーマンに由来。新羅の女性系シャーマン集団の神格化がその原型であると言います。
5世紀、山国と豊国が統合し山豊(ヤマトヨ)となりますが、この語源はヤマタイで邪馬台ではないかと指摘します。ヤマタイはヤバタイからヤバタへと転訛し、八幡(ヤハタ)の原型がここに成立したと言います。
採銅所に起源を持つこの神は奈良の大仏の鋳造で、中央に進出し、その地位を不動のものにしていったというのが村山師の主張するところでした。
その後、延暦2(783)年、八幡神に「護国霊験威力神通大自在菩薩」の号が下り、本地垂迹の進展の緒となったと言います。
以上の歴史的を前提とし、その後、蓮祖門下相伝の中に天照・八幡は釈迦の垂迹と見なされるのに至るのでしょう。それが地名さんが挙げてくださっている文献に見られる前提なのであろうと。
本地(不滅久遠仏)垂迹(死滅した歴史上の釈迦)の説明原理であった本地垂迹説は、日本では神仏習合の説明原理として採用されたのにも拘わらずです。
それにしても、天皇の祖神として天照大神が7世紀終わり、また八幡神はその原型が新羅女性系シャーマン集団で邪馬台国がその名前の原型で6、7世紀のこととはいささか驚きました。天照・八幡成立からの蓮師との時間差は、13世紀を生きた蓮師と我等のそれより短いのです。
本地(仏)垂迹(神)はやがて本地(神)垂迹へと転換をなすことになりますがこの立役者は天台宗であると言うことでした。
いずれにしても、仏は釈迦仏に留まらず、大日如来、阿弥陀如来も採用されていきます。この辺で、しばらく前の話題である「大日蓮華」に行き着くのでしょうか。
中古天台本覚恵心流口伝、天台勝釈迦劣が富士門でアレンジされ日蓮勝釈迦劣となるや、この仏の意味は今度は日蓮へと置換されていきます。この時点で、それまで本迹は種脱という新たな説明原理が与えられます。この時点で、それまでの垂迹仏は脱(益)仏というまったく違う装いを着ることになりました。
「悉く日蓮」の類は、日蓮信奉者からすれば、実に有り難い相伝なのでしょうが、神仏の発生から、その歴史と習合、成り立ちを俯瞰したうえで、この相伝を見ると、わたしには「なんでもあり」のまるで節操のない子供じみたファンダメンタリズムと映ずるばかりです。
雑駁に記しました。それにしても、今更ながら、自分の不勉強を恥じ入るものです。改めて、皆さんの勤勉振りに敬意を表するものです。
157
:
地名
:2004/06/09(水) 21:19
156 独歩さん
実にすばらしい説明だと思います。
とても私にはここまでの説明はできません。
勉強になりました。
天武天皇と記されましたが、これが一つのキーワードのように思われます。
「中世神道説における天照大神ー特に十一面観音との同体説を巡って」伊藤聡氏では、「伊勢・大日同体(垂迹)説に先行して天照大神を観音菩薩の垂迹とする説が存在し、これは…中世を通じて命脈を保っていた」といいます。
「「源氏物語」とアマテラス」久富木原玲氏は、「「日本書紀」は斎宮制の起源を垂仁朝のことと伝えるが、それ以前の崇神天皇のとき、宮殿内に祀っていたアマテラスを宮殿外に遷し(うつし)、トヨスキイリヒメをつけて大和国笠縫村に祀っている。垂仁朝になってこのトヨスキイリヒメからアマテラスを受け継いだヤマトヒメが近江、美濃を経て伊勢へ群行し、現在の内宮の地に祀ったのが伊勢神宮の創立譚だとされる。宮殿内にいたアマテラスをまず宮殿外へ移し、さらに大和国から遠く離れた伊勢へ祀るというこの過程にも、アマテラスの天皇制からの疎外の構図が見てとれる。歴史的な初代斎宮大伯皇女は、このような神話世界における追放されるアマテラスのイメージをも背負っていたのである。伊勢へ旅立つ斎宮に、別れの櫛をさす天皇は、「ミヤコノカタニオモムキタマフナ」ということばを与えたといわれる。…」と。
事の実否等は私にはわかりませんが実にさまざまな見方や見解があるように思われます。
158
:
地名
:2004/06/09(水) 21:21
日常門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P481
「御本尊函蓋相応口伝」 日源傳 日実記
「一 天照太神・八幡大菩薩・末座事
問云 既天照八幡我国主御座也 何故末座列給耶 答云尤以習事也 一義云 天照八幡兄弟也 天照第一嫡女日神・八幡第二男月神也 然間此国国主也 御本尊日本国書顕奉給 然間余諸尊客人也 天照八幡亭主也 故世間法例意賞翫義以国主なれども大聖人以此意下末座列給か云々 一義云 首題五字垂迹天照八幡也 天照八幡垂迹日蓮大聖人御座也 此故首題下二神列てさて日蓮云々
天照太神
南無妙法蓮華経 日蓮 云々
八幡大菩薩 」
「天照・八幡・兄弟」はそうなのでしょうか。アマテラスとスサノオが兄弟では。
同上 P482
「一 天照太神・法華経の化身と云証文を勘る時・妙法蓮華経・如是と云文なり 妙の字と・如是の二字とを勘るなり 妙の字は・わかき・をうなとよめり・如是の二字をば・をうなの・をさむる・日のくたり人とよめり云々 神祇抄云 天照太神をば日本国の神の総政所と名付け給う 今の伊勢の大神宮是なり云々」
159
:
地名
:2004/06/09(水) 21:22
続き
同上
「一 八幡大菩薩・法華の垂迹と云う文は 正直捨方便の文なり 上に於諸菩薩中云り 今の御書の文言分明なり 或御書云・弘決云・和光同塵は結縁の始・八相成道は以て論其の終 毎日三度苦御座事 但偏に利益衆生の故なり 文・始中終を不知人・横難・多可来なり云々 又御書云 然者愚の前には現邪・覚の前には顕仏・自本一如法界なり云々」
同上
「一 天照八幡の二神・法華経の行者の末座に列給事・可如御本尊なり
問云 其証文如何
答云 御書云 天照八幡も其の座にをわせしなり云々 其の座とは・虚空会座の事なり
次に末座に列給事の証文を習時 御書云 法華経第五云 諸天昼夜常為法故而衛護之等云々 今の八幡は天神なり・地神なり・祇なり 諸天の内を離べからず されば我弟子等をもふべし 八幡は設ひ宝殿を焼て天に登り玉ふとも 此一門の頂にやどり玉ふべし 又此一門の末座に列玉ふべし 又此一門の守護となり玉ふべし云々
私云・されば釈迦仏は法華経の行者をにない玉へば 八幡大菩薩は足をうけ玉ふべきなり(御書意也)云々 故に天照八幡の垂迹日蓮大聖人にて御座なり 依之・首題は本地天照八幡は垂迹・妙は天照大神・法は八幡大菩薩・此二神の垂迹又日蓮大聖人故に 日は天照・蓮は八幡故に本地垂迹の次第にて御本座の下に座し玉ふ 頭に五字を頂給義か 能々相伝あるべきなり云々
口決云 天照太神・八幡大菩薩は我等なり 天とは我等が頭なり 照とは六根互融なり 神とは意根周辺の義なり云々」
160
:
地名
:2004/06/09(水) 21:23
続き
同上
「一 八幡大菩薩とは口決云 八とは我等が八苦煩悩又は八分の肉団なり 幡とは荘厳なり 皮肉骨色心二法五陰等なり 大とは我等が五大なり 菩とは我等が道心を起て云なり 薩とは自行道心成て化他する処を云なり 道心大道心と釈するなり もし然らば天照八幡も我身の全体なり この一心の内証を守るは法華経 この法華経を持つ処は神の守護なり 去る間正直の頭に宿るとは天照八幡は法華経の化身なれば此の経を持処は頭なり 法華経は二神なり これをさして天照八幡は法華の行者の頭に宿るとは習うなり云々
この書唯受一人之相承なり 不可許之云々
日源―――日実―――日得 相承畢 日朝写之
161
:
地名
:2004/06/10(木) 23:35
日朗門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P325-327
「本尊ノ聞書」 私云是は比企谷相承の趣なりと伝え給へり
一 「八幡大菩薩の体」すなわち「法華経」なり そのゆえは「八」と云うは「法華八軸」なり 「幡」とは「篇」(へん)は・「巾」篇(きん・へん) これすなわち「衣裳の類」なり 「作り」の「米」と云う字を上に書て・下に「田」の字を書き給へり これすなわち「米穀の類」なり 左右に「衣食」の二つ有り・併ら「八幡」の恩徳なり 仏性の種子を心田に下す・これを思うべし 「大明神」の手本は「八幡」にて御座あるなり 「明」と云う字は前の如く云々
一 天照太神は善神・素戔尊は悪神にて御座るなり 天照太神が元品無明(?)と顕れ、元品無明が第六天ノ魔王と顕れ、天照太神・第六天ノ魔王・夫婦御座なり これすなわち煩悩即菩提を表する形なり その上天照太神は日神と申す 素戔男尊は出雲の国に宮作りし玉ふ、「日」をば「法性」に譬え 「雲」をば「無明」に譬え 素戔男尊は悪神なるゆえに 「日神」天の岩戸に籠玉へ これすなわち法性為無明被覆形なり しかりといえども終に「日神」天の岩戸を出玉ふて 素戔男尊を出雲国に流し玉へり これすなわち無明為法性被破形なり されば日神・素戔男尊・兄弟にて御座す事は 法性無明全く一体なりと表する形なり 朝日出んとする時 東に雲覆うは これすなわち日出の先表なり 日出れば雲すなわち消滅す これすなわち無明極重なれば法性彌々朗なりと云う観門なり
162
:
地名
:2004/06/10(木) 23:37
日朗門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P359
「御本尊口伝面授私」 平賀日意上人御談 日経記
一 天照太神の「太」字の事
師云 天照太神の「太」の字の内に「点」を打つ事は 天照太神は伊冊諾・伊冊波の尊の一女三男を持御座す中・第一番の嫡女にて御座ゆえに・太郎子の意にて「太」の字の内に「点」を打つなり 「神」の字の「竪」(たて)の点をば「針点」と名るなり 少(すこし)も曲がるべからずなり 「神」字の「申」と云う字に打たる点をば「荘厳点」と云うなり 総じて天照太神に多くの習いこれあり 如切紙
163
:
地名
:2004/06/10(木) 23:38
日朗門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P275-276
「當宗相伝大曼荼羅事」 延文三年正月十八日 日像伝 大覚記
一 三光天子事
「日天子」は本地「観音」 「月天子」は本地「勢至」 「明星天子」は本地「虚空蔵」なり
釈義分明・可見之 是則・「迹化の菩薩」なり 就中(なかんずく) ・「迹化は垂迹」なり 迹化の菩薩三光と化身して衆生利益する事 併・「本化の応作」なる事決定なり 去る間この三光勧請し給う深意は・この本尊は・天竺・晨旦・我朝の三国に流行して利益し広まる事を表するなり
そのゆえは天竺をば月氏と云う・月天子の国なり 唐朝をば晨旦と云う・はこれ星の国なり 我朝をば日本と云う・これ日天子の国なり これにより三国の仏法弘通の道師・父母の縁を借り誕生し給う事その国土に相応するなり 夫(それ)とは月は水種の所成なり 仍(よっ)て・水は下り流るを体と為す間・その道師高位に生じて下位に法を弘るなり 去る間教主釈尊は浄飯大王の太子として出家したまうなり 唐朝は星なり 星は昼夜の境・日月の中半にして衆生を利益し給う間・弘法の道師は臣家大臣の位に生じて法を弘め給うなり 仍(よっ)て・天台大師は摂家種生にして御座なり云々
扨(さ)て・日は火種の所成なり 火炎は上へ昇るものなり ゆえに時国相応の道師蓮公は武士の家たる貫名を所縁として似同凡夫 妙法を弘め給うなり云々
かくのごとく三国に所表有て出生する道師なるを知らざる者 或は破法不信ゆえの悪人は日蓮は下位なりと軽笑する事は入阿鼻獄の罪のほどと哀れなり云々
164
:
地名
:2004/06/10(木) 23:39
一 人界の事
示云 転輪聖王を挙る事は仏の大檀那なるゆえにこれを挙げ玉うなり 天照太神は日本は神国なる事と天照太神の御国のゆえなり 三十番神を勧請する事も神国なるゆえなり 神明多いといえども殊に天照太神は諸神の最初国主にて御座すゆえに別して勧請奉るなり 八幡は当時源氏の氏神殊に弓箭の神として異国の夷(えびす)を射て天下安全国土無為に守る間俗諦常住の所表なるがゆえに別してこれを勧請し玉ふなり云々
殊更神道の事当家の一大事なり 委くは先に相伝の如くなり 天照太神の「太」に点を打つ事・太郎神と云う深意なり云々
又・阿闍世王を書き玉ふ事は逆即是順の義なり」
165
:
空き缶
:2004/06/11(金) 17:13
すでにご存知のことと思いますが、このたび新に日蓮真筆と認定された曼陀羅本尊です。
ここから鮮明な写真がダウンロードできます。
大石寺系も日蓮真筆と自信があるなら、このくらい明確に自山の本尊を公開してほしいものです。
↓
http://www.kenoh.com/newstank/200405/20040528/mandara/index.html
166
:
犀角独歩
:2004/06/12(土) 10:57
地名さん:
種々、資料のご呈示、有り難うございます。
改めて、レスをさせていただく所存です。
167
:
犀角独歩
:2004/06/12(土) 11:06
165 空き缶さん:
最近、この手のことでは中尾師、活躍が目覚ましいですね。
しかし、楮紙はともかくとして、あとは花押と墨の散り方が決め手と。「なんだ、年代判定等の科学手方法は採用しない訳なのだろうか」と、やや不満が残りました。
それでも空き缶さんが仰るとおり、「間違いなく本物だけど。信心のない人には見せないよ」というより、ずっとましには違いありません。しかし、それもまた、「見ることはできないけれど、疑っちゃいけない」というよりはましなのでしょうか。なんともはや、石山とその同一信念体系の在家集団の‘後れ’には溜息が出ます。
168
:
地名
:2004/06/12(土) 11:20
166 独歩さん
ありがとうございます。
お体を、なにとぞ、ご自愛ください。
ご教授いただける時を楽しみにしております。
169
:
地名
:2004/06/12(土) 11:24
本地垂迹(ほんじ・すいしゃく) 仏教辞典から引用いたします。
「仏・菩薩が衆生摂化の方便として神祇と現るるを云う。
僧肇の註維摩経序に「幽關啓け難く、聖応同じからず、「本」に非ざれば以て「跡」を垂るるなく、「跡」に非ざれば以て「本」を顕すなし、「本跡」殊なりと雖も而も不思議たるは一なり」と云い、久遠実成の本師たる釈迦牟尼仏(本門)が丈六弊垢の劣応身(迹門)として世に現るること法華経に見えたり。
これをまた「和光同塵」とも「権化方便」とも云う。
観無量寿経の所説たる阿闍世・提婆の輿悪、王后韋提希の西方願生の如きこれ皆末代の凡夫を誘引せん為めの方便なりとせらるるは・この垂迹摂化の説に依るなり。
観世音菩薩の分身摂化と云い、地蔵菩薩の比丘形をなせる、住世羅漢の応化無方なる亦然り。
印度にては古より輪廻転生の説盛んに行われしかば・諸神の応化を説くこと亦少なからず。
すなわち梵天・帝釈の如きは人心を試みん為め瘻屡弊衣の隠者として世に現れ、毘紐天の如きは化身となりてこの世に現るること十回乃至二十四回に及ぶべきことを伝ふ。
仏教東伝して支那に入るや孔子・顔回・老子の三聖は菩薩・羅漢の応化なりとてこれを偽作の清浄法行経等に載せ、道教にて老子の八十一化を説くが如きこれ仏教の垂迹説に據るものなり。
170
:
地名
:2004/06/12(土) 11:25
陳随の頃天台宗起り法華経に本門・迹門の二分あること益々世に著れ、李通玄は華厳合論に説をなして「凡そ天地・日月五星・名山大川、五嶽四○、河海社稷の神たる皆これ菩薩の所為なり・これ凡世鬼神の力にて堪能する所に非ず、ゆえに出○の妙智を以て俗に入り生を摂す、これを名づけて神となす」と云へり。禅家における寒山・拾得と云い、布袋・蜆子・猪頭等の如き散聖また垂迹説に由来するものなり。
我国にては仏教渡来の際外夷の教としてこれを排斥するものありしが、聖徳太子摂政の傍ら三宝の興隆に力を渇されしより仏・菩薩を尊崇するは神意に戻ることなく、寺塔の建立は却って皇運を扶翼するものとせられたり。
斯くて我国の神祇は悉くこれ仏・菩薩の垂迹に過ぎずとし、一々の神にこれが本地たる仏・菩薩を配当せり。
世にこれを行基の創むる所なりとし、或は空海・最澄に出づと説く者あれどこれ決して一両人の推定に依りて成立したものに非ず。幾多の歳月を経て次第に完成せられたるなり。
元正天皇の霊亀元年藤原武智麿、気比大神の為に神宮寺を造る。これ神宮寺の記録に見えたる最初にして大神宿業に由りて久しく神となれども仏道に帰して福業を修せんとて武智麿にこの事を嘱せしに出でたりといふ続く
陳随の頃天台宗起り法華経に本門・迹門の二分あること益々世に著れ、李通玄は華厳合論に説をなして「凡そ天地・日月五星・名山大川、五嶽四○、河海社稷の神たる皆これ菩薩の所為なり・これ凡世鬼神の力にて堪能する所に非ず、ゆえに出○の妙智を以て俗に入り生を摂す、これを名づけて神となす」と云へり。禅家における寒山・拾得と云い、布袋・蜆子・猪頭等の如き散聖また垂迹説に由来するものなり。
我国にては仏教渡来の際外夷の教としてこれを排斥するものありしが、聖徳太子摂政の傍ら三宝の興隆に力を渇されしより仏・菩薩を尊崇するは神意に戻ることなく、寺塔の建立は却って皇運を扶翼するものとせられたり。
斯くて我国の神祇は悉くこれ仏・菩薩の垂迹に過ぎずとし、一々の神にこれが本地たる仏・菩薩を配当せり。
世にこれを行基の創むる所なりとし、或は空海・最澄に出づと説く者あれどこれ決して一両人の推定に依りて成立したものに非ず。幾多の歳月を経て次第に完成せられたるなり。
元正天皇の霊亀元年藤原武智麿、気比大神の為に神宮寺を造る。これ神宮寺の記録に見えたる最初にして大神宿業に由りて久しく神となれども仏道に帰して福業を修せんとて武智麿にこの事を嘱せしに出でたりといふ。
171
:
地名
:2004/06/12(土) 11:27
これより宇佐八幡宮・鹿島神社・賀茂神社・石清水神社・多度神社等にも神宮寺を設け、何れも仏事を修して福業を神に薦むることとなれり。天平二十一年十月東大寺毘盧舎那仏造立の成るや宇佐八幡大神託宣を下して参詣のことあり。
次に東大寺要録巻一には大神宮禰宜延平の日記を引きて天平十四年十一月右大臣橘諸兄勅使となりて伊勢大神宮に参入し御願寺建立の事を祈請せしに、日輪は大日如来なり、本地は盧舎那仏なり、衆生は此理を悟解し当に仏法に帰依すべしとの託宣ありと云い、大神宮雑事記・元亨釈書等に益々此事を敷演し、天平十三年行基の大神宮に参詣せることを記するもこの事は続日本紀等に見えず、天平神護二年七月使を伊勢大神宮に遣わして丈六の仏像を造立し、且つ大神宮寺を設けたれば此事を誤り伝えたるものならん。
後、最澄・空海等出でて天台・真言の両宗を起すに及び「即俗而真」の唱説は垂迹説の伝播に便宜を輿え、高野山には四社明神を勧請し、比叡山には山王七社、園城寺には新羅明神を祀るに至り、興福寺は春日神社と共に藤原氏一門の繁栄を守護することとなれり。
神仏混淆の説行われてより神社に祈祷するにも僧をして経を読ましめ(私注:神前読経)、或は舎利を神社に献ずるあり。
神社において放生会を設け、僧徒自ら神に功徳を薦めん為なりと称して社前に経を読むあり。これらのこと世人の恬として怪しまざるのみならず、神宮にもこれを排する者なく、皆此説に従えり。かくして宇佐八幡宮は八幡大菩薩と称せられ、延喜式にも大荒磯前薬師菩薩等の神名を見るに至れり。
172
:
地名
:2004/06/12(土) 11:28
平安朝の末葉には某神は某仏の垂迹、某神の本地は某菩薩など称すること行われ、垂迹像に本地仏を加えたる神社の曼荼羅を畫くこと少からず。
この種の説一世を風靡せしかば北畠親房・一條兼良の如き博学を以て世に知らるる人も皆これに依れり。
然るに後に至り唯一神道を唱うる者あり。その説は直ちに天神より出でて次第に相承け中臣鎌足よりこれを中臣意美麿に伝え、卜部氏常にその説を守りて失わずと云う。その唯一神道と称するは儒仏の二教を雑へざるがゆえなり。その説に云く神道は根本なり儒教は枝葉なり仏教は華実なり、ゆえに顕露の浅義を以てせば仏を本地とし神道は垂迹とすれど・もし隠幽の密義を以てせば神を本地とし、仏を垂迹とす。
神道には相伝・伝授・面授・口訣の四重あり、また影像・光気・向上・底下の四位ありて顕より密に入り、密の中に亦浅深あり。これを授くるには神道護摩・宗源行事・十八神道の類ありてこれを切紙伝授(きりがみ・でんじゅ)と称したり。この説は御土御門天皇の頃卜部兼倶がその祖兼延の説なりと称して創する所なりと云う。
而して唯一と称するを以てその社には社僧を置かざるなり。卜部氏は吉田神社の祠官なりしよりこれを吉田流神道と稱す。これ真言宗の両部神道、天台宗の一実神道に対して起れるものなりとす。
173
:
地名
:2004/06/12(土) 11:28
当時は神社の制はなはだ乱れ、伊勢大神宮は従来王臣以下の弊帛を献ずるを禁ぜしに・このころに至りては賤人も宮前に拝し、且つ大麻を某家に奉安せり。而して人民敬神の念は依然として旧に依り、禍福・寿夭都(すべ)てこれを神仏に祈祷せざるなし。ゆえにいまだ嘗てこれを誹謗する者はなかりしに、耶蘇宗入りてより大友宗麟は深くこの宗を信じて為に領内の神社を毀てり。江戸時代の初運に至り神仏混淆の弊を矯めんとする者現れ、徳川義直は神祇宝典を著し、林羅山は神社考を作りて以て本地垂迹の説を破し、且つ吉田家の所伝を駁せり。当時はなお吉田家の神道広く世に重んぜられ、山崎闇齋の如きは儒者にして神道を善くし、陰陽五行の理を以て神道を説き、或はこれに混ずるに周易の理を以て神道を説き、或はこれを輔くるに朱子の学を以てし日本紀の神代巻を以て一箇の教訓を示せるものとなせり。
然るに本居宣長はこれを真の神道に非ずとし、説をなして神道は天地自然の道に非ず、亦人の造る所に非ず、その道に随うとは神代の法則に従い、毫も私意を加へざるを云う。その文は古事記・日本紀等の書に具して古言を尋ぬれば灼然として観るべきものありて別に秘伝・秘説あるに非ずとせり。後、平田篤胤に至り殊に意を神道に潜め、宣長の説を主張して幾多の書を著し、傍ら仏教の所説を排斥せり。明治維新の際に至り、神仏分離の令出でて神宮寺を廃し、社僧に還俗を命ぜしもの時運の然らしめし所ならんもまた篤胤門人の努力に由ること多かりしならん。
当時の命令は単に神仏の分離を行わんとするに過ぎざりしも、永く抑圧を蒙りし神官・禰宜の輩は仏教者に対して報復するはこの時に在りとし、神社内の本地仏・経巻・仏具の類を焼棄し、彼岸所・神宮寺を毀ち、浮説をなして朝廷の御主意は神道を取り立て仏道を廃せんとするに在りとて寺院に暴行を加えし所あり。仍て世にこれを廃仏毀釈と称したり。」
174
:
地名
:2004/06/12(土) 11:29
「本迹二門」 仏教辞典から引用いたします。
「(二)仏の本地・垂迹とは寿量品に五百億塵点劫の久遠往昔実成道の久遠を説く時、無始無終本有無作常住の義顕れて一仏に即して十界尽く無作三身の本覚仏と開顕せらる、これを仏の本地という。垂迹とは法華本門已然の仏は暫く本地より影を迹土に示現せる始覚有作の仏なり。すなわちガヤ城を去ること遠からず始めて正覚を成ぜる釈迦牟尼仏は本門に開迹顕本して直ちに無作の本仏となるなり。この時は十界皆本有常住と顕るれども、而も法界唯一仏なれば釈尊の外に本仏なく、大日・阿弥陀等尽く垂迹分身の仏といわるるなり。
また法華経に文殊は釈迦九代の師に当たり、提婆は過去に釈尊の師たりしが如き説明あるはすなわちこれ弟子の顕本なり。
175
:
地名
:2004/06/12(土) 11:30
十羅刹女(じゅうらせつめ) 神道辞典から引用いたします。
「法華経の守護神
十羅刹女とは、「法華経」に説く10人の鬼女のことである。のちに仏法に帰依し、鬼子母神などとともに「法華経」を持する者の守護を誓ったとされる。
「新編相模国風土記稿」高座郡茅ヶ崎村の条に「十羅刹女堂」と記されており、その付近に二、三、十羅刹女社(または堂)という文字が見えるし、三浦半島にも各所にこの十羅刹女社があったように記載されている。十羅刹女は三十番神と同じように、主に日蓮宗の寺院で祀った神である。
「法華経」第七「陀羅尼品」に「是の十羅刹女は・鬼子母神並びにその子及び眷属とともに仏所に詣で、同声に仏に申していわく。世尊、我等もまた法華経を読誦し・受持する者を擁護し、その衰患を除かんと欲す。もし法師の短を伺求する者あらば、便を得ざらしめん。」とある。
また「法華経」第十「総持品」には「時に一魅あり①有結縛 ②離結 ③施積 ④施華 ⑤施黒 ⑥被髪 ⑦無著 ⑧持華 ⑨何所 ⑩取一切精 と名づく。仏所に往詣し、鬼子母と諸子と倶なり」とある。
176
:
地名
:2004/06/12(土) 11:31
これを見ると、十羅刹女は法華修法の行者を守護する仏神であることが分かろう。
そして、古来は普賢菩薩などとともに同じ場所へ彫刻されたり画かれたりしたといわれる。
日蓮宗の開祖・立正大師日蓮上人は、「日女品供養」で「十羅刹女と申すは十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母あり、鬼子母神これなり。鬼のならひとて人を食す。人に三十六物あり。所謂糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五臓と六腑と髪と毛と気と命等なり。而るに下品の鬼神は糞等を食し、中品の鬼神は骨等を食す。上品の鬼神は精気を食す。この十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」と書き残している。
これはもちろん十羅刹女は上品の善鬼であるということを書き証しているものである。
十羅刹女は①藍婆 ②毘藍婆 ③曲歯 ④華歯 ⑤黒歯 ⑥多髪 ⑦無厭足 ⑧持瓔珞 ⑨皐帝 ⑩一切衆生精気 の十人の女鬼神のことをいう。
「法華輝臨遊風談」第七には「十羅刹女」を法華曼荼羅会の上の諸仏に配置して「法華秘法の①藍婆は妙法蓮華の八葉中台東葉の阿しゅく仏なり ②毘藍婆は南葉の宝勝仏なり ③曲歯は西葉の阿弥陀仏なり ④華歯は北方の不空成就仏なり 余は⑤黒歯・普賢菩薩 ⑥多髪・文殊菩薩 ⑦無厭足・観音菩薩 ⑧持瓔珞・弥勒菩薩 ⑨皐帝・大日如来 ⑩一切衆生精気・荼吉尼なり」と諸仏に配した書き方をしている。
177
:
地名
:2004/06/12(土) 11:32
さらに「法華経鷲林拾葉抄」第二十四では「①藍婆は阿しゅく仏又は文殊菩薩 ②毘藍婆は華開敷仏又は薬王菩薩 ③曲歯は阿弥陀仏又は薬上菩薩 ④華歯は不空成就仏 ⑤黒歯は大日如来又は弥勒菩薩 ⑥多髪は普賢菩薩又は地蔵菩薩 ⑦無厭足は無能勝菩薩 ⑧持瓔珞は無尽意又は観音菩薩 ⑨皐帝は文殊菩薩又は普賢菩薩 ⑩奪一切衆生精気は自在菩薩なり」と少し違った諸仏の配し方をしている。
さて我が国では最澄が入唐し天台宗を修めて帰朝後、天台宗を開宗するや、法華経の信仰が盛んになり、法華経の守護神である十羅刹女の信仰も広まり、この像が多く造立されたが、日蓮上人が天台宗より分かれて日蓮宗を開宗するや、法華経を主経典としている同宗の寺院では鬼子母神とともに十羅刹女を護法神として多く祀るようになったのである。」
178
:
地名
:2004/06/12(土) 11:51
170 訂正
同一内容を二重に入力してしまいました。訂正いたします。
179
:
犀角独歩
:2004/06/13(日) 10:27
地名さん:
精力的に手利きの資料をアップいただき、有り難うございました。
参考になるところ大です。
こうして、相伝その他を瞥見してみますと、それが成立した時代背景、思想背景、法脈、流派などなど、いろいろ想像できて興味深いところがありますね。
また、なかには単に漢字が持つイメージから出来上がったと思しきものも少なからずあります。梵本原典を捨て去ってしまう漢訳仏教は致命的な過ちを多々指摘されますが、その多くは誤訳がそのまま証憑されることに併せて、漢字という文字の持つ呪術的な力を密教的に解釈していく心理にもあるように思えます。もちろん、この点は漢字に留まらず、悉曇文字に言えますね。現在、梵本直訳を読むと漢訳訓読より、むしろ平易に感じられることも多いのに、近代以前の梵字は神秘的な呪力に目を奪われるばかりで、原意から離れて受け取られますね。
石山は相伝宗なんて言ってきたわけですが、蓋を開けてみれば何のことはない、他山の相伝を持ってきて、自宗のものと言っていただけという馬脚が露わになりました。もっとも上古ではいろいろな門戸を叩き、実際に相伝を受けて、石山に帰ってきた僧が有職となって、それを今度は自門相伝として相承することもあったと想像されます。
切紙相承というのがどんな体裁のものであるか、その現物を見たわけではありませんが、他宗でも共通する遣り方で伝授がされたということは、結局のところ、その遣り方自体にオリジナリティがないということを意味しますね。
いくら唯授一人血脈相承は石山だけと言っても「唯授一人」という遣り方が既に天台宗に見られ、血脈(たぶん、実子血縁に元来の意味があるのでしょうか)、相承という言葉もまるで石山独自の言葉ではなく、他で先行して使われています。つまり、他で行われていた「唯一人を定めて授ける方式」を模倣し、さらにそれを他で先行していた血脈とか、相承という方式も模倣して、儀式化したわけですから、既にそこに「唯授一」というオリジナル性はないわけです。「独一本門」と力んでも、言葉では何とでも言えるだけということになります。
尊門における俊範の言が取り沙汰されて、「不思議一」が言われます。しかし、この思想は既に『摩訶止観』に充ち満ちています。だから、わたしは天台の独走と思っていた面があります。しかし、よく調べれば地名さんも挙げてくださった僧肇にその原型を見るわけです。それがまるで石山の相伝如く語られれば、滑稽さを通り越します。
わたしは今回の議論のなかで「このような相伝があるから○○は正しい」と言われてきた従来の発想から、この相伝はどんな背景で生じたかを考えるという記号論的なアプローチに発想転換をする習慣をロムの皆さんが身に付けてくれればよいと思っています。
そのために、地名さんの資料ご呈示は実に示唆に富むところと改めて御礼申し上げるものです。
180
:
地名
:2004/06/13(日) 19:14
179 独歩さん
>成立した時代背景、思想背景、法脈、流派などいろいろ想像できて興味深い
>漢字が持つイメージから出来上がったと思しきものも少なからず
>梵本原典を捨て去ってしまう漢訳仏教は致命的な過ちを多々指摘されますが、多くは誤訳がそのまま証憑されることに併せて、漢字という文字の持つ呪術的な力を密教的に解釈していく心理にもある。悉曇文字に言え、梵本直訳を読むと漢訳訓読より、むしろ平易に感じられることも多いのに、近代以前の梵字は神秘的な呪力に目を奪われるばかりで、原意から離れて受け取られます。
そのとおりですね。
>「唯授一人」という遣り方が既に天台宗に見られ、血脈…相承という言葉も…他で先行して使…
これはだいぶ後世になってからといわれるようですね。
>従来の発想から、この相伝はどんな背景で生じたかを考えるという記号論的なアプローチに発想転換…
そうですね。どのような経緯で成立してきたのかを可能な範囲で押さえていくことが大事ですね。
非常に適切なご指摘を頂き、ありがとうございました。
181
:
地名
:2004/06/13(日) 19:15
本地垂迹(ほんぢすいじやく) 「廣文庫」第拾八册P245-247より引用いたします。
「日本紀神代紀合解一二(二四)」
環翠曰・云々、本地垂迹の事は、弘仁の比より聖武天皇大伽藍を建立ありたく思召すが、此の国は神国ぢやほどに、先ぞ大神宮に伺い申さいではとて、行基に仰せて伊勢に参籠させて、此の義を伺はれたり、大神・虚空に告げて云う、実相真如・日輪・照・生死夜闇、本有常住・月輪・掃・無明煩悩雲と神託ありしかば、さては仏法と神道ととへはないとて、東大寺を御建立あるなり、日神月神、本地・毘廬遮那の垂迹なり、神迹の序に如此なり、これから本地垂迹の二つあり、仏法の説なり、元亨釈書の十八巻にも此の事・詳なり、四大師に吾が国は大日如来之本国と云う、神道には・その大日即日神なりと見るぞ
「続○書類従 神祇正宗六七」
人皇五十二代嵯峨天皇御宇・弘仁以来顕るなり、仏教には仏を本地と為し、神を垂迹と為す、神道には本地即垂迹なり、今即本地とこれを知るなり、仮令・天照大神を本地と為し、伊勢大神宮垂迹と為す、イザナギを本地と為し、熊野権現を垂迹と為すが如き、しかれば仏知の内証云へば、即ち神道の根源に異ならず(ざる)ものなり
「大日本史三六四(二)」
及・僧行基之出、創・言・神仏同体之意、最澄・空海・又傳会・本地垂迹之説、曰、仏本地也、神垂迹也、必・先・有此仏、而・後・有此神、以明霊威厳不可狎○之神、為怪誕誕譎不可方物之神、神且為役、何所不至、而朝廷尊崇、聴其所為、誣民惑世、於是而極矣
182
:
地名
:2004/06/13(日) 19:16
「齊東俗談三(一三)」
肇法師・維摩経序・曰、非本無以垂迹、非迹無以顕本、本迹雖殊而不思議一也
(私注:羅什の弟子僧肇が維摩経の序でいわく、本にあらざればもって迹を垂るなし、迹にあらざればもって本を顕すなし、本迹はことなるといえども不思議一なり)
「神武權衡録一(一五)」
天竺の仏法と日本の神道とは、雲泥の違いある事を、行基、伝教、弘法、首然(法然か)、日蓮等の才発なる坊主とくと考え、釈迦の経々に曾て是なき事を工夫して、日本の神々を天竺の仏に取りまじへ、本地垂迹と云う事をつけて、八幡宮は本地・阿弥陀如来、春日の四座は釈迦・薬師・地蔵・観音の垂迹などと、つがもなき事をいひて人を欺き、仏道に神道を入れて両部習合とし、福祿を祈り寿命を願い、病を祈祷するの類ひなり、笑ふべきの甚だしき也
「故実叢書 安齋随筆 七(二三九)」
仏を本地とし、神を垂迹とし、両部習合する事、弘法、伝教、慈覚、智証の四大師の所為の由、卜部兼倶が名法要集に記して、兼倶専らその説を信用せり、本地垂迹の説は、悲華経に、我滅度後於悪世中、現・大明神、広・度衆生とあるを本拠として、これを押し弘めて、我が国の神祇に悉く諸仏を配当して、某の仏が化けて来て、日本の某の神に成りて、この日本に止まりたるを垂迹とは云う、ばけたる本仏を本地と云う、朝廷この説を信用し給ひしより、我が国の神祇は大概仏の扱になりて、神祇は僧徒の居所となれり、近世儒道を神道に交えて、唯一神道と云ひて、仏説を除き去る徒の説に、本地と云ふは・たとへば天照大神なり、垂迹は五十鈴の宮なり、応神天皇は本地にして、宇佐の宮は垂迹なりと云う、此の説もいまだ本地垂迹の名目を捨てきらぬ者なり、吾が国の為には、仏法は瘡毒の骨がらみに成りたる如く、本腹する事は叶わず、日本国を代々武臣に横領せられて、朝廷衰微したまへるは、神祇の祟りにもあらん
183
:
顕正居士
:2004/06/14(月) 06:05
>>152
で引用した『太平記』の文章にある「迹高本下」という語について少し調べてみました。
本地垂迹の関係は必ず「本が高く迹が下い」とは限らず、反対もあり得ます。天照本釈迦迹や
日蓮本釈迦迹(名字本妙覚迹)は「迹高本下」にあたります。
この語はもとは「本下迹高」で天台大師の『維摩經玄疏』にあります。
天台山修禪寺沙門智邈撰『維摩經玄疏』卷第一(大正蔵第38巻)
http://w3.cbeta.org/result/normal/T38/1777_001.htm
「今約體用權實明本迹。應須四句分別。一本迹倶下。二本下迹高。三本高迹下。四本迹倶高」
(今、体と用と権と実とに約して本迹を明さば、まさにすべからく四句に分別すべし。一に本迹
倶(とも)に下(ひく)し。二に本は下く迹は高し。三に本は高く迹は下し。四に本迹倶に高し)
大和床俊範撰『一帖抄(惠心流内證相承法門集)』(天台宗全書)には。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html
「問云。四句成道者如何。
傳云。三身中應佛所作也。先爾前淨名疏心四句成道可有。但初住妙覺相當可作四句。一本下迹高。
二本高迹下。三本迹倶下。四本迹倶高。次迹門意論互具。故亘四十二位可有四句成道。次本門意
廣亘十界互施化導。可作四句成道也」
(問て云く。四句成道とは如何。
傳に云く。三身の中の應佛の所作也。先づ爾前の淨名の疏の心に四句成道可有るべし。但し初住
妙覺相ひ當に四句を作すべし。一に本下迹高。二に本高迹下。三に本迹倶下。四に本迹倶高。
次に迹門の意は互具を論ず。故に四十二位に亘りて四句成道有るべし。次に本門の意は廣く十界
に亘りて互ひに化導を施す。四句成道を作すべき也)
日蓮遺文には『十八円満抄』に『修禅寺決』を引いて。
「和尚、証道八相無作三身故、四句成道在蓮教処、只指無作三身為本覚蓮、住此本蓮常唱八相、
常作四句成道故也」
(和尚、証道の八相は無作三身の故に、四句の成道は蓮の教の処に在り、只無作三身を指して本覚
の蓮と為す。此の本蓮に住して常に八相を唱へ、常に四句の成道を作す故也)
*『一帖抄』と『修禅寺決』は『十八円満抄』などの与最蓮房諸書と内容が多く重なる。『一帖抄』
も『修禅寺決』も鎌倉時代の成立としており、『一帖抄』編纂者が俊範であり、俊範−日蓮の相伝
があったなら、『十八円満抄』などは内容上、後世成立とはいえないだろう。浅井要鱗師の遺文の
研究は半世紀以前の業績で、それがいま江湖に膾炙して来たが、田村芳朗師以降の室町思想の研究
も少しずつ進歩しています。反本地垂迹(神本仏迹)や日蓮本仏の思想の根底には「本下迹高」の
発想がありますが、それが14世紀の大衆文芸である『太平記』にすでに現れているわけであります。
184
:
地名
:2004/06/19(土) 16:10
身延相伝 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P275-276
「二神勧請事」 日傳記 示日鏡
示云 この御本尊に・「神祇を勧請」・玉ふ事 これに就いて・重々の意・これ有るべき 凡そ(およそ)・「日本は神国」なり 世上の人・殊更(ことさら)・「神慮」を仰ぎ見たり 先ず世上に順じて・勧請し玉ふの意・これ有るべきなり また末代は濁世なり 行者は・また両心なり 障難甚しかるべし よって仏力神力・相扶て・応時の人法・繁昌これ有るべき意趣を・顕し玉ふなり云々
疑云 天照大神は・地神五代の初・と見たり 釈尊の出世は・地神第五代に当れり また八幡大菩薩は・十六代「応神天皇」なり 神と顕・玉ふ事は 三十代欽明の御宇なり 今の御本尊は・在世八品儀式・云々 然ば・天日日域・相隔れり また在世の儀式に・滅後の神祇を列・玉ふ事・太・以難思・如何
答 今・この御本尊は・本門寿量の極説・一念三千の果地 内証を・図影・玉へり されば三世一念・無始無終の内証・長遠無極出過三世の上にまた三世も宛然とこれ有る果上を顕す・本尊なり もし爾・三世の域を立十方の異を見る迷情を○て・努々(ゆめゆめ)これ疑うべからずものなり云々 毘慮身土不○凡下一念 在世の儀式・全く我等が一念・なるべし 阿鼻依正なお極聖の自身の処 日域・諸神あに漏果海の一念や これら疑い足らざる処なり云々
185
:
地名
:2004/06/19(土) 16:11
尋云 日域の諸神・一乗の擁護に不可漏 何ぞ・別して二神・を挙げるや
答 具にこれを挙げるべきといえども・繁きゆえに・二神を・挙げ玉ふか 或御書云 第一・天照の太神 第二・八幡大菩薩 第三・山王以下等云々 されば要を取り・先ず第一第二の二神を挙げて・余をば・これに摂し・玉ふなるべし 或義云 天照太神は社○の神なり 八幡大菩薩は・「宗廟神」なり 先ず・この二神を・挙げ玉ふは・この意趣なるべし
私云 この二神・殊更(ことさら)「法華守護の神祇」なるの由・余所これを書く・今これを略す
尋云 日神を・吾国の「本主」と為す・縁起・如何
答 これらは神道才覚于今不始事也 しかりといえども・もし一端を申さざるは・法門の意趣・これ顕し難きか 委旨(くわしきむね)これを略す・そもそも一女三男の所領の国四ケ処に・相分たり 「日神月神は高天原」(たかまのはら)の主」なり 蛭子(ひるこ)はエビスの三郎とて海上を領・玉へり 素戔鳥(嗚)尊(すさのおのみこと)は・この八洲の国・を領すべしとて・父母の神・授玉へども・遂に悪神にて底根の国(そこねのくに)に住・玉へり 魔国これなり されば・この八洲の国・をば素戔鳥(嗚)尊の子孫・魔王となて・押領するゆえに・天の神(あめのかみ)下て・遂に・此の国の主・と成り玉へり 神璽して魔王乞・此の国治め玉ふものなり
186
:
地名
:2004/06/19(土) 16:12
一 釈尊と日神と一体習事
示云 およそ西天には「釈尊」と顕れて・諸仏の本意に任せて・妙法を説き・玉へり また今此三界・皆是我有等と云て・「国主」と名称玉へり 吾が朝には・「天照太神」と顕れて・「国主」として・政道の直(す)ぐなる道・を示し玉へり されば釈尊をば「日種」云々 此の国にしては「日神」云々 「神仏不二」の意趣顕然なるものなり
私注:「神仏不二」とは、本地垂迹とは違うのではないか。
一 日神・輿・法華経・一体・習事
傳云 天照太神を「陰陽不二の体」と習うなり その「陰陽」は「法華の迹本二門」なり 陰陽不二は併し「本迹不二」の淵源なるべし 仍(よって)陰陽の習い「神家に相伝」これ有り・これを尋ねるべし
また「天」の字・「二人」とこれを書く これに就いて・「陰陽」を顕すと云ふ習いこれ有り
また「神明」の名称に習うことこれ有り 「明」の字は「日月」なり これまた「陰陽」なり この「陰陽」は「円宗の実義」顕れて・これを見れば「本迹」なり 「理智」なり 「陰」は「理」なり 「陽」は「智」なり 「陰陽和合の神明」と云へるは・全体理智不二・本迹一体・極理を顕す・と習うなり 「神明」の二字を「色心」と習う事あり 「神」はこれ「色」なり 「法身」なり 「明」は「心」なり 「報身」なり 仍(よって)・色心不二・境智冥合の法華の極理・を顕して「神明」と号する習いなり これを秘すべし
尋云 「陰陽不二の神」と云へる「相伝」如何
私云 此の事・神道の口伝・なり 凡そ(およそ)・日神は・天照太神なり 其れに就いて日神の時は「陽神」なり 太神の時は「陰神」なり 「陽陰一如」と云う時は・天照太神に極まり 「陰陽各別」する時は・内宮・外宮の二社・と顕れ了ぬ されば陰陽を分ために日神を天照太神の二神とわくるなり 仍(よって)・陰陽の二神(かみ)おはしませば・伊勢の国とも名(なづくる)なり 「伊勢」二字は「陰陽」なり
また「五神」を五行と習うなり しかるに天照太神は「土神」なるがゆえ諸神を恵み玉へり・大地の万物を扶る(たすくる)が如し 日神は「木神」なり 月神は「水神」なり 蛭子(ひるこ)は「火神」なり 素戔嗚尊は「金神」なり その外・繁きゆえこれを略す 」
187
:
地名
:2004/06/19(土) 16:13
「俗神道大意一(一五)」 「廣文庫」第拾八册P246-247より引用
(私注:本地垂跡の妄説について)
「本地垂跡の妄説」は、一(ひ)と通りに考えたる所では、行基を始め御国の法師どもの、世の人を・その道に引き入れんがために、思いつきて・新たに始めたる事の如く思わるるなれども、これも・その根ざしは・けしからず古いことで、元来は・釈迦の申し出したることぢゃ、
(私注:仏法は釈迦の始めて考えつくりたるもの)
それは・このまえ仏道の大意のみぎりにも申す通り、元来・仏法は釈迦のはじめて考え作りたることなれば、一(ひ)と通りのことでは、その国人も承知いたさぬゆえ、まず過去の七仏と云うを立て、また己(おのれ)からして久遠劫と申して、限りもなく遠き前から成仏して、兜率天(とそつてん)と云う天に居たる「善賢菩薩」と云うた仏なるが、衆生済度のために、今の身すなわち「釈迦」と垂迹した、この世に出たる由をいつわって、その道弘めたる所が、その後の僧どもも・それを受けて、ますます「本地垂迹の妄説」が委しく(くわしく)相成り(あいなり)、
(私注:中国 儒教)
それより仏法・漢土へ渡ったる所が、から(漢)には元来・儒者が唱えて、世々の王どもも、それを用うる顔に・もてなしをる、彼の聖人の道、即「儒道」が一杯に国の云いぐさと成つておる、
188
:
地名
:2004/06/19(土) 16:14
(私注:中国 道教)
また道士と云うもの、これはこの間も申すとおり、彼の国の古(いにしえ)より、「神仙の道」を書き伝えたりと云う老子などの書を元として、道を立つる者がある、これを「道家」の学と申すぢゃ、
(私注:仏者どもの思いつき)
かくのごとく漢土には、元より儒者と道士とが有って、とかく仏法を拒み・いやしめたるゆえ、仏者どもが思いつきて・儒者の本尊とする孔子、または孔子第一の弟子と後の世にも尊ぶところの顔回、また道士の本尊とする老子を、その「本地」は天竺の菩薩で、すなわち釈迦の弟子なるが、から(漢)へ生まれてその地・相応の道を説いたるものぢゃと云うて、そのことが天竺より渡ったる仏教に、釈迦がすでに云いおいたる「清浄法行経」、また「冢墓因縁経」などいう梵経を翻訳するとき、その言い草となすべき語を「書き加えて」世にひろめ、大きに儒者と道士の鼻を挫いた(くじいた)ものぢゃ、
これにたまげて、儒者も道士も仏法に帰依した者・少なからず、またその以下の者は、なおこれに驚いて、仏信心に成つたと申すことで、その文は先年書き抜きをしておいたが、閻浮提中・有振旦(震旦)国、我遺「三聖」在中、化導人民、「儒童菩薩」・彼称・「老子」、「迦葉菩薩」・彼称・「孔子」、「月光菩薩」・彼称・「顔回」とあるだが、これ唐でも「本地垂跡の説」をもって、その世の僧どもが、儒者と道士とを押し付けんがために致したる「奸曲」で、年代をおしてその実の所を糾し(ただし)見れば、「老子は釈迦よりも大きに先の人」、「孔子は釈迦と同じ時代の人で、ただ釈迦より7年後に死に」たるばかりの違いぢゃ、後にはこの「偽り」(いつわり)を、あちらの儒者の劉学士と云う者に引きむくられて、僧も大きに恥をかき、その後はかの経を「偽経」の部に収めてはあるけれども、また何ぞと云うと、漢土・大和の僧どもが「引言」に云いたがることぢゃ、さればこの「本地垂跡」のことは、御国の古き僧どもの始めて致したることでもなく、元来は釈迦が始めて、から(漢)の僧がそれをまね、またそれを御国の僧がまねたものぢゃ」
189
:
地名
:2004/06/19(土) 16:16
私注:現代仏教学では釈迦が本地垂跡説を唱えたとは言われていないのではないか。
私注:ここでは本地垂「跡」となっていて本地垂「迹」とはなっていない。
私注:「俗神道大意」は、平田篤胤の作か。
参考
仏教徒も《老子大権菩薩経》・《清浄法行経》など少なからず経典を偽造して道教と儒教
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-4.htm
開目抄
止観に云く ̄我遣三聖化彼真丹〔我三聖を遣わして、彼の真丹を化す〕等云云。
弘決に云く ̄清浄法行経云 月光菩薩彼称顔回、光浄菩薩彼称仲尼、迦葉菩薩彼称老子。天竺指此震旦為彼〔清浄法行経〕に云く 月光菩薩、かしこに顔回と称し、光浄菩薩、彼に仲尼と称し、迦葉菩薩、彼に老子と称す。天竺、此の震旦を指して彼と為す〕等云云。
紀元前500年頃 老子、誕生する。
紀元前552年(魯襄公21年) 孔子、魯国に生まれる(〜BC479)。
紀元前521年(景王24年) 顔回、生まれる。
紀元前565年 釈迦降誕(一説)。
紀元前1024年(周昭王24年) 釈迦誕生の瑞相起こるか(4月8日)。
『周書異記』『仏祖統紀』。蘇由によれば西方に聖人の誕生した瑞相という。
紀元前949年(周穆王52) 釈迦入滅か(2月15日)。
『周書異記』『仏祖統紀』。扈多によれば西方の聖人が歿した相であるという。
紀元前486年 釈迦入滅(一説)。
『衆聖點記』。釈迦の寿命については79歳、80歳、84歳と諸説よって異なる。
紀元前479年 孔子、歿す。
190
:
地名
:2004/06/19(土) 20:00
富士山
「簡堂叢書 不盡嶽志」
岳名・「不盡」(尽)、 因(より)・邦音・塡(あてる)字、 世多・作「富士」、 或作「富岻」(ふじ)、 或作「不二」、 而・皇極紀・作「不盡」、 是・為最古、 今・従之、 其他○萏(たん)「芙蓉」諸称、 皆詞人・所名、 不足・徴也、 岳四面同状、 南・控(伊)豆海、 西・扺(うつ)富(士川)水、 東北・限八湖(富士五湖)、 麓(ふもと)・多・異草、 曰(いわく)草山、 草盡而樹・曰(いわく)樹山、 樹盡而屺(き)・為岳身、 其上純粠(がん)、 険仄・如削、 巓(いただき)・有円坎(あな) 峯巒(みね)環(わ)列、 其最高而・在坤(ひつじさる)位者・曰(いわく)中臺(だい)、 少北・曰(いわく)馬背・曰(いわく)雷粠(がん)、 又・北・曰(いわく)釈迦、 少東・曰(いわく)薬師、 又・東・曰(いわく)観音、 少南・曰(いわく)経冢(ちょう)、 又南・曰(いわく)駒峯、 峰西即中臺(だい)、 是・為八稜、 其・峙(そばだつ)中腹者・曰(いわく)宝永・曰(いわく)小岳、 庭・曰(いわく)御庭、 壑(たに)・曰(いわく)鳴谷・曰(いわく)燕(つばめ)谷、 石架壑(たに)・曰(いわく)浮天矼(こう)、 漸下・峙(そばだつ)麓(ふもと)底・曰(いわく)猪鼻・曰(いわく)愛鷹 」
「謡曲 富士山」
抑是は宋の帝の方士、管歸眞とは我事なり、さても日本「富士山」に、不老不死り薬あるにより、もとめて参れとの勅を蒙り(こうむり)、仙術を以て只今「ふじ山」へ至り候
「廣文庫」第十七册より引用
191
:
地名
:2004/06/19(土) 20:34
富士山の名義
「松屋棟梁集」一(一四)
富士の山のゆえよし(由縁)をいわば、「富士」は・もと「吹息穴」(ふじな)のつづまりにて、「嶺(みね)の穴より息吹(いぶき)おこれる」がゆえの名にや
三国一の名山
「三輪物語」
富士山は三国一の名山といえり、三国というに及ばず四海一の名山なり、
秦の始皇(帝)・海中の「蓬莱」仙宮」を求めし時、漫々たる大海に漕出たるに富士山の見えけるを、おどろきて・これこそ「蓬莱山」よとて・楫(かじ)をむけて・たづねよれり、
「秦氏」の者は其の時の唐人の子孫なり
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test84.htm
192
:
犀角独歩
:2004/06/20(日) 11:47
地名さん、恐れ入ります。
185の「天照太神は社○の神」の○は「稷」でしょうか?
188の「「本地垂跡」のことは、御国の古き僧」とは僧肇の先に引用されたところと一致すると言うことでしょうか。
190の「其他○」の○はどのような字でしょうか。
わたしは以下を記述法を真似ています。
[人*壬] 人
[口/王] 呈
[王*貝+貝/女] 瓔
[門@日] 間
[間-日@口+口/単-ツ] 闡
他にも本則があったのですが、ちょっと思い出せません。
お時間があるとき、以下のような次第でご教示いただければ有り難く存じます。
193
:
犀角独歩
:2004/06/20(日) 11:48
【192の訂正】
誤)[人*壬] 人
正)[人*壬] 任
194
:
顕正居士
:2004/06/21(月) 09:40
地名さん。
>私注:現代仏教学では釈迦が本地垂跡説を唱えたとは言われていないのではないか。
>私注:ここでは本地垂「跡」となっていて本地垂「迹」とはなっていない。
>私注:「俗神道大意」は、平田篤胤の作か。
釈迦があらゆる経を説いたかのように平田氏が述べているからでしょうか。
「徳川幕政の中運以後、神儒二道の中よりして排仏家を出だすこと其数少なからず、然れども
他は皆学者の態度を以てせしかば、その影響するところ広からざりき、然るに平田氏の如きは
自ら考ふるところありて、学者の態度を守らず、一に通俗を旨となせしかば、その影響する
ところ頗る大なりき」
村上専精『大乗仏説論批判』1903年・第3章第4節「平田篤胤氏の大乗仏説論」
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=55008677&VOL_NUM=00000&KOMA=47&ITYPE=0
平田篤胤は富永仲基や服部天游の学説をよく知っていましたが、それらを知らない仏教徒の
無知をからかいながら、一般人にいかに仏教が荒唐無稽の教説であるかを訴えたようです。
『俗神道大意』は門人の筆記ですが、平田氏の説であることは確からしい。『印度蔵志』は
もっと科学的です。「跡」と「迹」は通用します。
195
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/06/21(月) 14:10
犀角独歩さん
4月頃に独歩さんから紹介させて頂いた、現存の日蓮大聖人の御真筆と言われる
写真を全て拝見させて頂きました。中学生時代から日蓮正宗の信徒であった私が
他宗の日蓮大聖人の御本尊を見ると言うことには、大変な精神的な障碍がありま
したので御返事が遅くなりました。120以上に及ぶ御本尊を拝見しまして私が
思ったことは、筆の違い等はありましてもあれらの御本尊が全て同一人物の書体
とは考えられません。人は30歳を越えては書体が変わることは殆どないのです。
いや人の書体は遅くとも20歳迄に決まってしまうものなのです。それなのに日
蓮大聖人御真筆とされる120以上の曼陀羅の約6割は同一人物の手によると思
われますが、他の約4割はどう見てもその6割の曼陀羅とは似ても似つかない曼
陀羅です。独歩さんはこのことをどうお考えですか。弘安2年前後の大聖人の曼
陀羅にも題目の七字が四天王の四字より小さい曼陀羅もありまいた。でも書体は
同じですね。私は戒壇の大御本尊は御真筆であると思います。しかし私は秀峰さ
んと同じように元の戒壇の大御本尊は紙幅であったと思っています。日法上人の
彫刻か室町時代の彫刻かどうかは東大級専門研究者の鑑定が無ければ分からない
と思います。でもいずれにせよ戒壇の御本尊は大聖人の書体の特徴がありますか
ら、偽作では無いと思います。あと独歩さん。日興上人の「飛び曼陀羅」も木彫
なんですよね。そうすると日興上人が「日興が身に当て給う」戒壇の御本尊を木
彫したとも思えますね。
196
:
れん
:2004/06/21(月) 18:20
横レス失礼します。平和創価さんはじめまして、平和さんは百二十余幅の蓮師マンダラについて、全て同一人物の書体とは考えられませんとのことですね。しかし蓮師マンダラに時代により変化が見られるのは周知の事実で、この変化の理由は後世の偽作を防ぐためと思いますよ。興師の場合は書写の期間が四十余年と長いため、その変化は蓮師よりも多種多様です。弥四郎マンダラは控えめにみても弘安三年の蓮師マンダラを摸刻したもので、どうみても弘安二年の御筆には見えません。なお飛びマンダラは原本は紙幅です。写真は奉蔵於奥法宝に掲載されています。
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