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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
144
:
犀角独歩
:2004/06/07(月) 15:02
なんだか最近、自己レスばかり書いていますが、わたしは142に本・迹を実・権の関係で見たほうがわかりやすいという論旨で記しました。しかし、これはあまり上手くないと思いました。言うまでもなく、権実相待は法華已前の諸経を権(仮)として、法華ばかりを実経とする相待を論じるのであって、これと同等の用語で捌けば混乱が生じると思ったからです。
本は本体、迹は影像(ようぞう)と言ったところでしょうか。天の日月は一つであるけれど、地上の池・湖・海・河川など、水に浮かべる影像は無数であると言った関係です。
そうなると、たしかに履き物と足跡に例を採るのはある面、妥当なのかも知れません。
本迹は、そもそもそのような関係でありながら、では内外から本迹までの所謂相待論全般を通じては、今風に語彙を使えば、覆蔵と露現の程度を比較するものの如く映じます。(哲学・現象学・宗教学的用法と言うより、まあ、一般化された語彙程度の意味で介してください)
一仏がどの程度、自分の正体を明かしたのかという程度の比較と言えばわかりやすいのでしょうか。ここで重要な点は一仏の正体の露出具合ということなのであって、本仏・脱仏、まして、本仏・迹仏と言っても別仏であるわけはありません。
日蓮本仏論は二つの流れがあります。学会を含む原石山系集団では、釈迦・日蓮を別仏として扱います。つまり本仏と脱仏が違う仏であると言います。しかし、これはそもそも寛師教学と違っている点に信者の多くは気付いていません。この分岐はたぶん応師が果たしたところが大であると記憶します。つまり初学・不信者には別仏と教え、深信者には同体異名たると諭す階梯を設けていたと記憶します。この筋で書かれたのは応師『日本仏論』でしたでしょうか。
地名さんが本地垂迹を通じて、同体異名相伝に係る各門の相伝を挙げてくださり、このことはさらに明瞭化した観があります。いわば、石山・学会・顕正会の日蓮本仏論は元来の日蓮本仏論から見ても「間違っている」ということです。また間違っていると言わずとも浅はかな初学向けを絶対であると信じていることになります。
なお、富士門における本地垂迹を考えるに当たり、殊に現代的で重視されるのは外用・内証という便利な用語でしょう。外用・内証は富士系では当然の対句として扱われますが、真跡では「内証」の使用はあっても「外用」は使われません。もちろん、真跡以外では当然その使用が見られます。不審に思い、天台初期文献を当たると、外用の使用は見られても、内証はないのです。これにはやや驚かされました。いったいいつの頃から、外用・内証が対句として使われるようになったのか、蓮師滅後と考えるべきでしょうか。
当掲示板では、真跡による考証を根本に据えてきましたから、相伝についての積極的な考証は今回が初めてと言っても過言ではないように思えます。
「他山相伝の寄せ集めに過ぎない石山相伝」というのが正直な感想です。寄せ集めであるだけに各所で矛盾が生じ、齟齬を来すのでしょうね。
地名さんの今回のご呈示は、以上の意味からもたいへんに参考になるところでした。
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