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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
179
:
犀角独歩
:2004/06/13(日) 10:27
地名さん:
精力的に手利きの資料をアップいただき、有り難うございました。
参考になるところ大です。
こうして、相伝その他を瞥見してみますと、それが成立した時代背景、思想背景、法脈、流派などなど、いろいろ想像できて興味深いところがありますね。
また、なかには単に漢字が持つイメージから出来上がったと思しきものも少なからずあります。梵本原典を捨て去ってしまう漢訳仏教は致命的な過ちを多々指摘されますが、その多くは誤訳がそのまま証憑されることに併せて、漢字という文字の持つ呪術的な力を密教的に解釈していく心理にもあるように思えます。もちろん、この点は漢字に留まらず、悉曇文字に言えますね。現在、梵本直訳を読むと漢訳訓読より、むしろ平易に感じられることも多いのに、近代以前の梵字は神秘的な呪力に目を奪われるばかりで、原意から離れて受け取られますね。
石山は相伝宗なんて言ってきたわけですが、蓋を開けてみれば何のことはない、他山の相伝を持ってきて、自宗のものと言っていただけという馬脚が露わになりました。もっとも上古ではいろいろな門戸を叩き、実際に相伝を受けて、石山に帰ってきた僧が有職となって、それを今度は自門相伝として相承することもあったと想像されます。
切紙相承というのがどんな体裁のものであるか、その現物を見たわけではありませんが、他宗でも共通する遣り方で伝授がされたということは、結局のところ、その遣り方自体にオリジナリティがないということを意味しますね。
いくら唯授一人血脈相承は石山だけと言っても「唯授一人」という遣り方が既に天台宗に見られ、血脈(たぶん、実子血縁に元来の意味があるのでしょうか)、相承という言葉もまるで石山独自の言葉ではなく、他で先行して使われています。つまり、他で行われていた「唯一人を定めて授ける方式」を模倣し、さらにそれを他で先行していた血脈とか、相承という方式も模倣して、儀式化したわけですから、既にそこに「唯授一」というオリジナル性はないわけです。「独一本門」と力んでも、言葉では何とでも言えるだけということになります。
尊門における俊範の言が取り沙汰されて、「不思議一」が言われます。しかし、この思想は既に『摩訶止観』に充ち満ちています。だから、わたしは天台の独走と思っていた面があります。しかし、よく調べれば地名さんも挙げてくださった僧肇にその原型を見るわけです。それがまるで石山の相伝如く語られれば、滑稽さを通り越します。
わたしは今回の議論のなかで「このような相伝があるから○○は正しい」と言われてきた従来の発想から、この相伝はどんな背景で生じたかを考えるという記号論的なアプローチに発想転換をする習慣をロムの皆さんが身に付けてくれればよいと思っています。
そのために、地名さんの資料ご呈示は実に示唆に富むところと改めて御礼申し上げるものです。
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