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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
138
:
顕正居士
:2004/06/04(金) 08:41
地名さんが引用された相伝は内容が各山に共通で文章が全同の箇所もあり、大変興味深いものです。
富士の相伝ですと『本尊三度相伝』がこれらにあたります。富要集の註には底本は「水口日源筆」
とあり、『富士年表』の1296年の項に「水口日源生る」とあるから、そうであるならば『本尊三度
相伝』は14世紀の半ば頃に編纂されたのでしょう。
「反本地垂迹」(神本仏迹)の教義をはじめて明確に述べた著作は1332年(元弘2年)、慈遍大僧正
の『旧事本紀玄義』だとされますから、日蓮宗各山の「釈迦天照一体」(日神本釈迦迹)の相伝の
文書化の時期と一致します。
*慈遍大僧正 『徒然草』の著者吉田兼好の兄であり、顕本法華宗の祖玄妙日什の師でもあります。
『産湯相承』は内容に多くの重なりがありますが、「釈迦天照上行日蓮一体」ではなく「釈迦天照
十羅刹日蓮一体」を伝え、「法性天照無明素盞嗚」の配当はいわず、「天照大神日の御崎最初降臨」
をいう特色がみとめられます。
*天照大神は日の御崎に最初に降臨 これは島根県の日御碕神社日沈宮の縁起であります。
http://www.genbu.net/data/izumo/hinomisaki_title.htm
*「本地垂迹」から「反本地垂迹」への思想潮流
次のサイトにあります広神清氏の論考が要約として参考になります。
http://www.jp.tku.edu.tw/japanese/7/COVER.HTM
139
:
顕正居士
:2004/06/04(金) 10:04
地名さんが引用された諸相伝に『本尊三度相伝』や『産湯相承』を加え、これを「日神本釈迦迹」
の相伝群と呼び得るでしょう。元寇以後に醸成された「日神本釈迦迹」の思想は一方では唯一神道
(吉田神道)に展開し、他方では「独一本門」の思想に発達します。神本仏迹の思想は比叡山で
大本はできただろうが、四十九院を擁し、五百の僧坊を有したという「岩本実相寺」、こちらでも
じゅうぶんに発展していたのではないか。「日蓮教団」は岩本実相寺において、その原初の勢力を
形成した。
「駿河の国蒲原の庄四十九院の供僧釈の日興等謹て申す」で始まる『四十九院申状』にあるように
白蓮日興その他、岩本実相寺で日蓮聖人に随った人たちの多くは「四十九院」の「供僧」であった。
「供僧」とは神職をおこなう僧侶の意味であり、神仏判然令によって還俗を強制された身分をいう。
私は「日神本釈迦迹」相伝群は岩本実相寺の「原初日蓮教団」に遡源するのではないかと思います。
140
:
地名
:2004/06/05(土) 01:20
138 顕正居士さん
大変ありがとうございます。
「日御碕神社日沈宮の縁起」および「本地垂迹」から「反本地垂迹」への思想潮流のサイトをわくわくしながら読んでいます。
本当にありがとうございました。
141
:
地名
:2004/06/05(土) 01:27
139 顕正居士さん
こちらの内容も大変ありがとうございます。
>「日神本釈迦迹」の思想は
>他方では「独一本門」の思想に発達します。
>「日蓮教団」は岩本実相寺において、その原初の勢力を形成した。
>白蓮日興その他、岩本実相寺で日蓮聖人に随った人たちの多くは「四十九院」の「供僧」…神職をおこなう僧侶…
>私は「日神本釈迦迹」相伝群は岩本実相寺の「原初日蓮教団」に遡源するのではないかと思います。
大変勉強になりました。心より御礼申し上げます。
142
:
犀角独歩
:2004/06/06(日) 14:55
地名さん:
貴重な資料のご呈示、有り難く拝読いたしました。
資料に関する点は改めて、記述することとさせていただきます。
本地垂迹説、今更ながら、考えさせられるものでした。
地名さんの影響を受け、数日前、近隣の図書館に行き、何か関連する良い書籍はないものかと探していたのです。見つけたのは村山修一師著『本地垂迹』<日本歴史叢書33>吉川弘文館刊でした。
わたしはこの本を一読して「おや」と思ったのです。個人的には本地垂迹説を本門・迹門とはまるで違う観点で考えてきたのですが、この本の中では、その起源をインドに権化思想に置き、羅什から僧肇を経、天台に至り本迹法門を生んだと言い、その影響が日本の本地垂迹説となっていくという粗筋に基づくのでした。また、この書の冒頭に
「近代史において、はじめて本地垂迹を体系的にとりあげたのは辻善之助博士であった。『史学雑誌』第18巻(明治40年)にのせられた「本地垂迹説の起源」のはじめのところで、博士はその概念を次のように説明されている。
この説は本地即本有の妙理無始無終の絶対なる仏陀が、人間を利益し衆生を済度せんが為めに、迹を諸所に垂れて、神となって種々の形を顕はすをいふので、我邦の神祇は、其本源をたづぬればみな仏菩薩にあり、仏も神も帰する処は一つであるといふのである。
この語の起りは、法華寿量品にあり、もとは久遠実成の釈迦即絶対的理想の仏陀を本地とし、始成正覚の釈迦即現実的の歴史上の釈迦を垂迹とするのである。日本の本地垂迹説は、この説を拡張応用したのである」(P1)
と紹介します。また、僧肇については
「その名著『註維摩』の中で、
本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕す無し、本跡殊なりと雖も不思議一なり。
とのべ、本地垂迹の深淵な関係を強調して注目をひき、仏身論に関してこの説は以後の学者に盛んに利用せられ、やがて天台宗をはじめた智邈や三論宗をはじめた吉蔵にもとりいれられ、『法華経』寿量品にみえる、上に引用した辻博士の後段に文にある定義、つまり本地仏と垂迹仏の解釈となってあらわれた。そうしてこの解釈はやがて喇嘛(ラマ)教などにみられるような外道諸神の密教的習合の上にもおしひろげられて適用されることになり、次第に仏神論より他の方向へも発展する形勢となった。(P4)
と解説します。この記述はしかし、最近の法華経解釈で日本のスタンダードになりつつある菅野博史師が
「本と迹は、『荘子』の説かれる聖人の具体的な行為を『迹』(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以(履き物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教の側で『迹する所以』を『本』と改めたものである。智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである」(『法華経入門』岩波新書 P91)
という説と必ずしも一致しません。
本地垂迹が本門迹門であるというのはしかし、頷けません。
天台が指摘する本迹の相違は特に始成正覚として久遠実成を隠すということに特に力点があり、履き物と足跡の関係というより、権(かり)実の差と言ったほうが当を得ている気がするからです。
わたしは水戸藩の出身なのですが、物語『水戸黄門』で、旅を続けるご老公は「縮緬問屋の隠居」という仮(権)の姿を採っています。しかし、悪事を前に印籠を示して「先の副将軍・水戸光圀公」という本当の姿(実)を示します。多分、この物語は法華文化・本迹思想がまさに生かされたものであると思うのですが、しかし、縮緬問屋隠居が足跡で、副将軍が履き物という関係と言うより、権(仮)と実と見たほうがすんなり理解できます。脱線しました。失礼。
石山が自山の相伝と謀ったものは、これに本因妙思想が被さり、さらにその解析をややこしくするのであろうと思えます。また、そこには陰陽道の風合いも加わり、いきおい真言立川流も考慮しなければいけないのかと思え、一筋縄ではいかないだろうと嘆息を禁じ得ません。
ご呈示いただいた相伝文献を見て、その基が類似系を示しながら、時に本迹一如で、勝劣義と違うなど、表層の装いを変えている点に興味が惹かれました。この点はもう少し考えてから投稿させていただく所存です。
有り難うございました。
顕正居士さん:
横レスながら、たいへんに参考になりました。
有り難うございました。
143
:
地名
:2004/06/07(月) 06:22
142 独歩さん
大変貴重なご意見ありがどうございます。
「本地垂迹説」に対するお考えについては、私はまだ十分に理解できておりません。
このご意見等を踏まえてよく熟読していこうと思います。
ただ、「本地垂迹説」はおよそ10世紀(前後の世紀も踏まえたものか)前後に形成されたものではないかと推測しておりまして、この説ができるまでの経緯に注目しています。
「なにごとの おはしますとは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮に参拝した西行法師(1118-1190年)がこの名歌を残している)
「カミ」の起源というものは、我々日本人の祖先が抱いていた、何か敬虔なものに対する素朴な感情の表出であるものとみられますので、道教や儒教、山岳信仰、そして仏教との関係や経緯(神仏習合)などを踏まえて考えてみたいと思います。
144
:
犀角独歩
:2004/06/07(月) 15:02
なんだか最近、自己レスばかり書いていますが、わたしは142に本・迹を実・権の関係で見たほうがわかりやすいという論旨で記しました。しかし、これはあまり上手くないと思いました。言うまでもなく、権実相待は法華已前の諸経を権(仮)として、法華ばかりを実経とする相待を論じるのであって、これと同等の用語で捌けば混乱が生じると思ったからです。
本は本体、迹は影像(ようぞう)と言ったところでしょうか。天の日月は一つであるけれど、地上の池・湖・海・河川など、水に浮かべる影像は無数であると言った関係です。
そうなると、たしかに履き物と足跡に例を採るのはある面、妥当なのかも知れません。
本迹は、そもそもそのような関係でありながら、では内外から本迹までの所謂相待論全般を通じては、今風に語彙を使えば、覆蔵と露現の程度を比較するものの如く映じます。(哲学・現象学・宗教学的用法と言うより、まあ、一般化された語彙程度の意味で介してください)
一仏がどの程度、自分の正体を明かしたのかという程度の比較と言えばわかりやすいのでしょうか。ここで重要な点は一仏の正体の露出具合ということなのであって、本仏・脱仏、まして、本仏・迹仏と言っても別仏であるわけはありません。
日蓮本仏論は二つの流れがあります。学会を含む原石山系集団では、釈迦・日蓮を別仏として扱います。つまり本仏と脱仏が違う仏であると言います。しかし、これはそもそも寛師教学と違っている点に信者の多くは気付いていません。この分岐はたぶん応師が果たしたところが大であると記憶します。つまり初学・不信者には別仏と教え、深信者には同体異名たると諭す階梯を設けていたと記憶します。この筋で書かれたのは応師『日本仏論』でしたでしょうか。
地名さんが本地垂迹を通じて、同体異名相伝に係る各門の相伝を挙げてくださり、このことはさらに明瞭化した観があります。いわば、石山・学会・顕正会の日蓮本仏論は元来の日蓮本仏論から見ても「間違っている」ということです。また間違っていると言わずとも浅はかな初学向けを絶対であると信じていることになります。
なお、富士門における本地垂迹を考えるに当たり、殊に現代的で重視されるのは外用・内証という便利な用語でしょう。外用・内証は富士系では当然の対句として扱われますが、真跡では「内証」の使用はあっても「外用」は使われません。もちろん、真跡以外では当然その使用が見られます。不審に思い、天台初期文献を当たると、外用の使用は見られても、内証はないのです。これにはやや驚かされました。いったいいつの頃から、外用・内証が対句として使われるようになったのか、蓮師滅後と考えるべきでしょうか。
当掲示板では、真跡による考証を根本に据えてきましたから、相伝についての積極的な考証は今回が初めてと言っても過言ではないように思えます。
「他山相伝の寄せ集めに過ぎない石山相伝」というのが正直な感想です。寄せ集めであるだけに各所で矛盾が生じ、齟齬を来すのでしょうね。
地名さんの今回のご呈示は、以上の意味からもたいへんに参考になるところでした。
145
:
地名
:2004/06/07(月) 16:50
「神仏習合」逵日出典著、P99-103から引用いたします。
「…この動きにおいても、やはりどこよりも先んじていたのが宇佐八幡宮であった。応和二年(962年)の奥書をもつ「大安寺八幡宮縁起」によると、行教が宇佐に参り八幡神を石清水に勧請することを述べている中で、彼が宇佐に参籠しているとき、衣の袖の上に釈迦三尊が映じたとある。このことは、八幡神の本地が釈迦三尊であることを示しており、10世紀の半ばころに、すでに宇佐を中心とした地域において、八幡神に対する本地仏の設定がなされていたことになる。
しかし、本地仏の設定が一般的に普及してくるのは、11世紀半ばころからであるとみられる。大江匡房(おおえまさふさ)の「江談抄」(ごうだんしょう)に熊野の本地仏について記されている。それによると、熊野三所(本宮・新宮・那智)は伊勢大神宮の御身であると述べているのである。また、同じく匡房の「続本朝往生伝」には八幡大菩薩の本地を阿弥陀如来としている。先に紹介した「大安寺八幡宮縁起」では八幡神の本地を釈迦三尊としていたが、ここに来て阿弥陀如来となっているのは、このころ発展・普及してきた浄土教思想の影響によるものと考えてよかろう。
このようにして、神々への本地仏の設定はいよいよ盛んになっていく。以下、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、文献に登場してくる本地仏について代表的なものを列挙してみる。
●「長秋記」長承三年(1134年)二月一日条にみえる「熊野」の本地仏
三所について
丞相(しょうじょう) 和名家津王子 法形阿弥陀仏
両所 西宮結(むすぶの)宮女形 本地・千手観音
中宮 早玉(はやたまの)明神俗形 本地・薬師如来
五所王子について
若宮女形 本地・十一面
禅師宮俗形 本地・地蔵菩薩
聖(ひじり)宮俗形 本地・龍樹菩薩
児(ちご)宮 本地・如意輪観音
子守 正観音
146
:
地名
:2004/06/07(月) 16:51
続き
●平清盛が「厳島神社」に奉納した経巻の願文にみえる本地仏
当社(厳島神社)は是れ「観世音菩薩」の化現(けげん)なり
●「春日社古記」承安五年(1175年)三月一日条の「春日大明神」御体・本地の注進にみえるもの
一宮 鹿島神 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)
二宮 香取神 薬師如来
三宮 平(枚)岡神 地蔵菩薩
四宮 姫神 十一面観音
若宮 文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)
●「卅五文集」にみえる治承三年(1179年)「祗園三所権現」の本地
薬師如来 文殊師利菩薩 十一面観音
●「玉葉」建久五年(1194年)七月八日条に、先の「長秋記」と同様に「春日五神」の本地仏が記載されている。ただし、「若宮」を「十一面観音」としているところが異なる。
●「古事談」では、次の二カ所が注目される。
その一は、範兼卿が「賀茂」の本地を知らんとして祈った箇所に、「賀茂神」の本地を「観音」としている。
その二は、六波羅太政入道が「高野大塔」を造ることについて記した箇所に、「伊勢大神宮」と安芸の「厳島神社」の本地は「大日如来」であると記している。
●「春日社古社記」に、また「春日五神」の本地仏が記されているが、ここでは、これまでの同神に対する本地仏の諸説をまとめた形となっている。
一宮 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)あるいは「釈迦如来」
二宮 薬師如来あるいは弥勒菩薩
三宮 地蔵菩薩
四宮 「伊勢大神」の本地である「大日如来」あるいは十一面観音
147
:
地名
:2004/06/07(月) 16:52
続き
●「沙石集」には、「伊勢大神宮」の本地を「大日如来」としている。
●「春日社私記」には、「春日」の神々に対する本地が一層詳しく記されている。
一宮 鹿島大明神 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)あるいは「釈迦如来」
二宮 香取大明神 薬師如来
三宮 平岡大明神 地蔵菩薩
四宮 姫神 十一面観音あるいは救世観音あるいは「大日如来」
若宮 文殊師利菩薩あるいは十一面観音
太力雄(たぢからお)大明神 不動明王
三十八所大明神 弥勒菩薩
榎本大明神 多聞(たもん)天王
紀ノ御社 虚空蔵菩薩
水屋大明神 薬師如来
●「宝基本紀」には、古人の秘伝として、「伊勢の両宮(内宮と外宮)」の本地を、密教でいう胎蔵界と金剛界の両界としている(天台・真言両宗の密教では、「大日如来」を中心とした仏の世界を胎蔵界と金剛界の二つとしている。)
●「三輪大明神縁起」では、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の本地を「大日如来」とし、御室山(みむろやま・三輪山)の山麓に鎮座する「八所権現」は、胎蔵・金剛両界の曼荼羅中にある仏が本地であると説明する。
●「諸神本懐集」には、実に多くの神々について本地を記している。その主なものを示しておく。
鹿島大明神=十一面観音(奥の御前は不空羂索観音
天照大神=観音
素戔嗚尊(すさのおのみこと)=勢至観音
熊野三所権現=阿弥陀如来(西の御前は千手観音、中の御前は薬師如来)
(五所王子=若王子は十一面観音、禅師の宮は地蔵菩薩、聖の宮は龍樹菩薩、児の宮は如意輪観音、子守の宮は聖観音(しょうかんのん))
二所三島の大明神(大箱根=三所権現にして文殊師利・弥勒・観音)
八幡三所(中は阿弥陀如来、左は観音、右は大勢至菩薩)
祗園=薬師如来
稲荷=如意輪観音
白山=十一面観音
熱田=不動明王 」
148
:
地名
:2004/06/07(月) 16:54
続き
同書P112には
「本地垂迹説の発展は、神仏習合の現象を急速に普及させた。神と仏のあるところには必ずといってよいほどその現象がみられるようになる。ましてや、本地垂迹説から説明すれば、一対一の習合にとどまらず、一つの神に複数の仏、一つの仏に複数の神を習合させることも可能となってきた。…」と。
149
:
地名
:2004/06/07(月) 18:41
天照大神と出雲の関係について「島根県大百科事典」から引用いたします。
「日御碕神社」(ひのみさき・じんじゃ)
「簸川郡(ひかわぐん)大社町日御碕に鎮座する元の国幣小社。神社本庁別表神社。
下の宮(しものみや)と上の宮(かみのみや)とからなり、下の宮(しものみや)は天照大日靈貴(あまてらす・おおひるめむち)ほか5柱、上の宮(かみのみや)は神素盞鳴尊(かみ・すさのおのみこと)ほか3柱を祀る(まつる)。祭日8月7日。氏子約500世帯。
社殿によれば、上の宮(私注:素盞鳴尊の方)はもと・背後の隠ヶ丘(かくれがおか)にあったのを安寧天皇の13年、現在地に遷し(うつし)、下の宮(私注:天照大日靈貴の方)は海辺の経島(ふみしま)にあったのを948年(天暦二年)現在地に遷し(うつし)、合わせて日御碕大神宮(ひのみさき)と称するに至ったとなっている。
「出雲風土記」の美佐伎社(みさきのやしろ)、「延喜式」の御碕神社にあたる。
古伝神事として旧正月7日の和布刈神事(めかり)、大晦日(おおみそか)の神剣奉天神事は著名である。
150
:
地名
:2004/06/07(月) 19:24
天照大神と出雲の関係について「島根県の地名」日本歴史地名大系33から引用いたします。
「日御碕」(ひのみさき)
「島根半島の北西端に位置し、岬としての日御碕は地内北西端から日本海に突き出す。
江戸時代は日御碕社(日御碕神社)領。
南東は仮宮村(かりのみや)、日御碕社東方は宇龍浦(うりゅう)。同社北西方に経島(ふみしま)がある。
「出雲風土記」にみえる出雲郡(以下同郡)支豆支(きづき)の御碕・杵築御碕は日御碕(ひのみさき)に比定され、朝鮮半島の志羅紀(新羅)から佐比売山(さひめやま・三瓶山)を杭(くい)とし、園(その)の長浜を綱として引寄せたのが支豆支(きづき)の御碕であるという「国引き神話」が載る。 中略
経島(ふみしま)は標高約20mの島で、出雲風土記の御巌島(みいつく・しま)に比定される。島の洞窟に神代文字が刻まれるとの伝承から文島(ふみしま)ともいう。日本海西部の代表的なウミネコ繁殖地として国指定天然記念物となっている。
151
:
地名
:2004/06/07(月) 20:53
天照大神と出雲の関係について「島根県の地名」日本歴史地名大系33から引用いたします。
「日御碕神社」(ひのみさき・じんじゃ)
「島根半島の北西端、日御碕(ひのみさき)に鎮座する。
日本海に西面した権現造の社殿は神ノ宮(かみのみや・上宮)と日沈宮(ひしずみのみや・下宮)からなり、西の日光といわれる。
主祭神は神ノ宮が神素盞鳴尊、日沈宮(ひしずみのみや)が天照大日靈貴(あまてらす・おおひるめむち)。旧国幣小社。
社伝によると、神の宮(私注:素盞鳴尊の方)は背後の隠ヶ丘(かくれがおか)にあったものを現在地に移し、天暦二年(948年)北西方の文島(ふみしま・現・経島)にあった日沈宮(ひしずみのみや)(私注:天照大日靈貴の方)を現在地に移したという。
この社伝を信頼するなら、神ノ宮は「出雲風土記」の出雲郡美佐伎社(みさきのやしろ)、「延喜式」神名帳の御碕神社(みさきじんじゃ)、日沈宮(ひしずみのみや)は「出雲風土記」の百枝槐(ももえ・えにす・のやしろ)に比定される。
社名は、古代末期に日御碕社、中世は御碕社、室町〜戦国期以後再び日御碕社と称し、明治4年国幣小社日御碕神社となる。
[杵築大社からの独立]
古代末期には鰐淵寺(がくえんじ)と並ぶ独自の勢力を誇る修験の道場として知られ、「梁塵秘抄」に「聖の住所は何処何処ぞ(いずこ・いずこぞ)、箕面よ・勝尾よ・播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕(ひのみさき)」と歌われたが、中世への移行に伴って杵築大社(出雲大社)の末社として組込まれ、祭神も杵築大明神(スサノオ)の御子(季女すなわち十羅刹女)とされた。 以下略 」
ここで「十羅刹女」がなぜ出てくるのだろうか。
素盞鳴尊(スサノオのみこと)の御子(みこ)とは、田心姫,瑞津姫,厳島姫のだれかなのだろうか。
152
:
顕正居士
:2004/06/08(火) 05:46
>ここで「十羅刹女」がなぜ出てくるのだろうか。
日御碕神社は神仏判然令以前は「十羅刹女社」だったのです。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/hinomisaki.htm
謡曲『大社』に
「われはこれ。出雲の御崎に跡を垂れ。仏法王法を守の神。本地十羅刹女の化現なり」
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/utahi/text/yo018.txt
とあり、また謡曲『御崎』というのがあり、これから神楽『十羅』が作られたそうです。
http://www.town.hikimi.shimane.jp/culture/cul02.html
十羅刹女は三宝荒神と同一視され(『御義口伝』「三宝荒神とは十羅刹女の事なり」)、
素盞烏尊の娘であるともされたようです。『産湯相承』は日御碕神社の信仰と関係がある人が
編纂したのでしょうね。
ところで応安(1368-75)頃の成立という『太平記』に見える日神本釈迦迹の思想です。
「天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根(かみがせしもついはね)に
跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々
刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下(しやくかうほんげ)の成道也」
http://www.j-texts.com/sheet/thkm.html
153
:
地名
:2004/06/08(火) 06:14
152 顕正居士さん
>日御碕神社は神仏判然令以前は「十羅刹女社」だったのです。
>謡曲『大社』に
>「われはこれ。出雲の御崎に跡を垂れ。仏法王法を守の神。本地十羅刹女の化現なり」
>とあり、また謡曲『御崎』というのがあり、これから神楽『十羅』が作られたそうです。
>十羅刹女は三宝荒神と同一視され(『御義口伝』「三宝荒神とは十羅刹女の事なり」)、
>素盞烏尊の娘であるともされたようです。『産湯相承』は日御碕神社の信仰と関係がある人が
>編纂したのでしょうね。
>ところで応安(1368-75)頃の成立という『太平記』に見える日神本釈迦迹の思想です。
>「天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根(かみがせしもついはね)に
>跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々
>刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下(しやくかうほんげ)の成道也」
本当にありがとうございました。
よく熟読いたします。
154
:
地名
:2004/06/08(火) 23:34
「十羅刹女」について
日朗門流
「御本尊相伝事」 康正三年三月十八日 日住記 『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P297
「一 十羅刹女之事
問云 彼・羅刹女は鬼道の内なり 何故に本尊に載や
答云 鬼子母神は本地を尋れば大日三摩耶形と習うなり 随て大日法身通大地法と習う故に彼の大地より十羅刹女の出生する事十界の因果を表する義なり 旧訳には地獄・餓鬼と明らかなり 新訳には地獄傍生鬼と説くなり 新旧異説不一順大権の化現機に応じて不一遍可仰信云々」
日朗門流
「當宗相傳大曼荼羅事」延文三年正月十八日、日像傳、大覚記
『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P277
「一 鬼界事
示云・餓鬼に十羅刹女を書き玉へる事 此の十女は餓鬼界大将故なり 餓鬼界も即法華の持者を可守帰伏の故なり 又只鬼母と不書 鬼子母と云事親子和合して成守護神 令俗諦常住意なり 又鬼と者甲乙の二字にて丑寅鬼門の方に居して一切衆生に障礙を成す物なる故に甲乙と可書事なるに私の點を世間通同して加る事は滅無所表なれは鬼神退治の義なり 故に天竺の霊山・晨旦の天台・日本叡山・三国共に王城の鬼門に仏法を安置し国土安穏四海太平守意なり云々 又乾闥婆王も鬼王なり」
155
:
地名
:2004/06/08(火) 23:36
「天照大神」と「妙」の字について
日常門流 『本尊論資料』身延山久遠寺蔵版P450
「首題七字五字天神七代地神五代相承事 日実記之
口伝云 妙の字・天照に配る事 天照は女神なり 妙の字を・少女と書故 女の字便なり 五字の中の最初は妙字なり 地神五代の初 天照太神なり これに依りこれに配るなり 天照太神より一切衆生を出生する如く 妙の一字・萬法を出生す云々 余可知 次に地神五代は五字なり この五代は大地に処して衆生を利益する故に地神と云うなり 大地をば迹門に譬えるなり
この妙法五字に南無の二字を加れば七字なり 是即天神七代なり その天は本門に譬えるなり」
156
:
犀角独歩
:2004/06/09(水) 15:29
地名さん:
実に多くの資料をご呈示いただき、有り難く存じます。
本地垂迹説の前にしばし寡黙になっております。
やや整理すれば、本地垂迹説は
(1)いつ頃、何を基礎に言われるようになったのか
(2)それぞれの神仏の起源をいつ頃なのか
をまず考えています。
先にも記したのですが、本地垂迹説については142に辻師、村山師の記すところが挙げました。そのあと、144に本迹を権実で捌き記したことをやや修正したのですが、両師に言わせれば、本迹は権実を元に生じたという捌きになっています。
(1)の自問でわかったことは本地垂迹はインドの権化思想をその起源していること。特にその論理的枠組みが用意される必要性は『法華経』寿量品の久遠仏思想の台頭と深く関連していると言うこと。当初の本地垂迹は仏神の説明理論ではなく、仏についてのものであったこと。つまり、永遠の久遠仏と肉体を持った仏の整合性を採るものであったこと。不滅と解釈される本地久遠仏が衆生を済度するために死滅する肉体を以て娑婆に現れる垂迹仏の関係を言ったものであったこと。しかし、日本に仏法が輸入されたのち、その併存において、神仏習合が進み、ついに本地垂迹は神仏の権実関係の説明理論へと移行していったこと。
(2)でいう仏の起源は(1)の如くです。神について、多種多様の神々に本地垂迹の説明が用意されていきますが、ここでは蓮師の興味対象であった。天照・八幡にのみ限定します。天照大神が天皇家の祖先神として確定されたのは天武10(682)年5月、天武天皇が皇祖天照大神を祀り、これを祖先神として限定したことによるという(村山『本地垂迹』P30)天照大神は元来、「上古に、人々が自然神としてあがめた太陽信仰」であったと言います。
わたしが実に興味を惹かれたのは八幡神の起源です。
この研究には中野幡能師『八幡信仰史の研究』が挙げられていました。
その起源は香春神で「辛国息長火姫大目命」で新羅国神。「辛国」とは韓国で、亀卜・鍛冶・シャーマンを神格化したものといいます。香春(カグラ)は新羅語のカグポル(金の村)からきたもので、採銅所で、「火姫大目」の火は鍛冶、目はシャーマンに由来。新羅の女性系シャーマン集団の神格化がその原型であると言います。
5世紀、山国と豊国が統合し山豊(ヤマトヨ)となりますが、この語源はヤマタイで邪馬台ではないかと指摘します。ヤマタイはヤバタイからヤバタへと転訛し、八幡(ヤハタ)の原型がここに成立したと言います。
採銅所に起源を持つこの神は奈良の大仏の鋳造で、中央に進出し、その地位を不動のものにしていったというのが村山師の主張するところでした。
その後、延暦2(783)年、八幡神に「護国霊験威力神通大自在菩薩」の号が下り、本地垂迹の進展の緒となったと言います。
以上の歴史的を前提とし、その後、蓮祖門下相伝の中に天照・八幡は釈迦の垂迹と見なされるのに至るのでしょう。それが地名さんが挙げてくださっている文献に見られる前提なのであろうと。
本地(不滅久遠仏)垂迹(死滅した歴史上の釈迦)の説明原理であった本地垂迹説は、日本では神仏習合の説明原理として採用されたのにも拘わらずです。
それにしても、天皇の祖神として天照大神が7世紀終わり、また八幡神はその原型が新羅女性系シャーマン集団で邪馬台国がその名前の原型で6、7世紀のこととはいささか驚きました。天照・八幡成立からの蓮師との時間差は、13世紀を生きた蓮師と我等のそれより短いのです。
本地(仏)垂迹(神)はやがて本地(神)垂迹へと転換をなすことになりますがこの立役者は天台宗であると言うことでした。
いずれにしても、仏は釈迦仏に留まらず、大日如来、阿弥陀如来も採用されていきます。この辺で、しばらく前の話題である「大日蓮華」に行き着くのでしょうか。
中古天台本覚恵心流口伝、天台勝釈迦劣が富士門でアレンジされ日蓮勝釈迦劣となるや、この仏の意味は今度は日蓮へと置換されていきます。この時点で、それまで本迹は種脱という新たな説明原理が与えられます。この時点で、それまでの垂迹仏は脱(益)仏というまったく違う装いを着ることになりました。
「悉く日蓮」の類は、日蓮信奉者からすれば、実に有り難い相伝なのでしょうが、神仏の発生から、その歴史と習合、成り立ちを俯瞰したうえで、この相伝を見ると、わたしには「なんでもあり」のまるで節操のない子供じみたファンダメンタリズムと映ずるばかりです。
雑駁に記しました。それにしても、今更ながら、自分の不勉強を恥じ入るものです。改めて、皆さんの勤勉振りに敬意を表するものです。
157
:
地名
:2004/06/09(水) 21:19
156 独歩さん
実にすばらしい説明だと思います。
とても私にはここまでの説明はできません。
勉強になりました。
天武天皇と記されましたが、これが一つのキーワードのように思われます。
「中世神道説における天照大神ー特に十一面観音との同体説を巡って」伊藤聡氏では、「伊勢・大日同体(垂迹)説に先行して天照大神を観音菩薩の垂迹とする説が存在し、これは…中世を通じて命脈を保っていた」といいます。
「「源氏物語」とアマテラス」久富木原玲氏は、「「日本書紀」は斎宮制の起源を垂仁朝のことと伝えるが、それ以前の崇神天皇のとき、宮殿内に祀っていたアマテラスを宮殿外に遷し(うつし)、トヨスキイリヒメをつけて大和国笠縫村に祀っている。垂仁朝になってこのトヨスキイリヒメからアマテラスを受け継いだヤマトヒメが近江、美濃を経て伊勢へ群行し、現在の内宮の地に祀ったのが伊勢神宮の創立譚だとされる。宮殿内にいたアマテラスをまず宮殿外へ移し、さらに大和国から遠く離れた伊勢へ祀るというこの過程にも、アマテラスの天皇制からの疎外の構図が見てとれる。歴史的な初代斎宮大伯皇女は、このような神話世界における追放されるアマテラスのイメージをも背負っていたのである。伊勢へ旅立つ斎宮に、別れの櫛をさす天皇は、「ミヤコノカタニオモムキタマフナ」ということばを与えたといわれる。…」と。
事の実否等は私にはわかりませんが実にさまざまな見方や見解があるように思われます。
158
:
地名
:2004/06/09(水) 21:21
日常門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P481
「御本尊函蓋相応口伝」 日源傳 日実記
「一 天照太神・八幡大菩薩・末座事
問云 既天照八幡我国主御座也 何故末座列給耶 答云尤以習事也 一義云 天照八幡兄弟也 天照第一嫡女日神・八幡第二男月神也 然間此国国主也 御本尊日本国書顕奉給 然間余諸尊客人也 天照八幡亭主也 故世間法例意賞翫義以国主なれども大聖人以此意下末座列給か云々 一義云 首題五字垂迹天照八幡也 天照八幡垂迹日蓮大聖人御座也 此故首題下二神列てさて日蓮云々
天照太神
南無妙法蓮華経 日蓮 云々
八幡大菩薩 」
「天照・八幡・兄弟」はそうなのでしょうか。アマテラスとスサノオが兄弟では。
同上 P482
「一 天照太神・法華経の化身と云証文を勘る時・妙法蓮華経・如是と云文なり 妙の字と・如是の二字とを勘るなり 妙の字は・わかき・をうなとよめり・如是の二字をば・をうなの・をさむる・日のくたり人とよめり云々 神祇抄云 天照太神をば日本国の神の総政所と名付け給う 今の伊勢の大神宮是なり云々」
159
:
地名
:2004/06/09(水) 21:22
続き
同上
「一 八幡大菩薩・法華の垂迹と云う文は 正直捨方便の文なり 上に於諸菩薩中云り 今の御書の文言分明なり 或御書云・弘決云・和光同塵は結縁の始・八相成道は以て論其の終 毎日三度苦御座事 但偏に利益衆生の故なり 文・始中終を不知人・横難・多可来なり云々 又御書云 然者愚の前には現邪・覚の前には顕仏・自本一如法界なり云々」
同上
「一 天照八幡の二神・法華経の行者の末座に列給事・可如御本尊なり
問云 其証文如何
答云 御書云 天照八幡も其の座にをわせしなり云々 其の座とは・虚空会座の事なり
次に末座に列給事の証文を習時 御書云 法華経第五云 諸天昼夜常為法故而衛護之等云々 今の八幡は天神なり・地神なり・祇なり 諸天の内を離べからず されば我弟子等をもふべし 八幡は設ひ宝殿を焼て天に登り玉ふとも 此一門の頂にやどり玉ふべし 又此一門の末座に列玉ふべし 又此一門の守護となり玉ふべし云々
私云・されば釈迦仏は法華経の行者をにない玉へば 八幡大菩薩は足をうけ玉ふべきなり(御書意也)云々 故に天照八幡の垂迹日蓮大聖人にて御座なり 依之・首題は本地天照八幡は垂迹・妙は天照大神・法は八幡大菩薩・此二神の垂迹又日蓮大聖人故に 日は天照・蓮は八幡故に本地垂迹の次第にて御本座の下に座し玉ふ 頭に五字を頂給義か 能々相伝あるべきなり云々
口決云 天照太神・八幡大菩薩は我等なり 天とは我等が頭なり 照とは六根互融なり 神とは意根周辺の義なり云々」
160
:
地名
:2004/06/09(水) 21:23
続き
同上
「一 八幡大菩薩とは口決云 八とは我等が八苦煩悩又は八分の肉団なり 幡とは荘厳なり 皮肉骨色心二法五陰等なり 大とは我等が五大なり 菩とは我等が道心を起て云なり 薩とは自行道心成て化他する処を云なり 道心大道心と釈するなり もし然らば天照八幡も我身の全体なり この一心の内証を守るは法華経 この法華経を持つ処は神の守護なり 去る間正直の頭に宿るとは天照八幡は法華経の化身なれば此の経を持処は頭なり 法華経は二神なり これをさして天照八幡は法華の行者の頭に宿るとは習うなり云々
この書唯受一人之相承なり 不可許之云々
日源―――日実―――日得 相承畢 日朝写之
161
:
地名
:2004/06/10(木) 23:35
日朗門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P325-327
「本尊ノ聞書」 私云是は比企谷相承の趣なりと伝え給へり
一 「八幡大菩薩の体」すなわち「法華経」なり そのゆえは「八」と云うは「法華八軸」なり 「幡」とは「篇」(へん)は・「巾」篇(きん・へん) これすなわち「衣裳の類」なり 「作り」の「米」と云う字を上に書て・下に「田」の字を書き給へり これすなわち「米穀の類」なり 左右に「衣食」の二つ有り・併ら「八幡」の恩徳なり 仏性の種子を心田に下す・これを思うべし 「大明神」の手本は「八幡」にて御座あるなり 「明」と云う字は前の如く云々
一 天照太神は善神・素戔尊は悪神にて御座るなり 天照太神が元品無明(?)と顕れ、元品無明が第六天ノ魔王と顕れ、天照太神・第六天ノ魔王・夫婦御座なり これすなわち煩悩即菩提を表する形なり その上天照太神は日神と申す 素戔男尊は出雲の国に宮作りし玉ふ、「日」をば「法性」に譬え 「雲」をば「無明」に譬え 素戔男尊は悪神なるゆえに 「日神」天の岩戸に籠玉へ これすなわち法性為無明被覆形なり しかりといえども終に「日神」天の岩戸を出玉ふて 素戔男尊を出雲国に流し玉へり これすなわち無明為法性被破形なり されば日神・素戔男尊・兄弟にて御座す事は 法性無明全く一体なりと表する形なり 朝日出んとする時 東に雲覆うは これすなわち日出の先表なり 日出れば雲すなわち消滅す これすなわち無明極重なれば法性彌々朗なりと云う観門なり
162
:
地名
:2004/06/10(木) 23:37
日朗門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P359
「御本尊口伝面授私」 平賀日意上人御談 日経記
一 天照太神の「太」字の事
師云 天照太神の「太」の字の内に「点」を打つ事は 天照太神は伊冊諾・伊冊波の尊の一女三男を持御座す中・第一番の嫡女にて御座ゆえに・太郎子の意にて「太」の字の内に「点」を打つなり 「神」の字の「竪」(たて)の点をば「針点」と名るなり 少(すこし)も曲がるべからずなり 「神」字の「申」と云う字に打たる点をば「荘厳点」と云うなり 総じて天照太神に多くの習いこれあり 如切紙
163
:
地名
:2004/06/10(木) 23:38
日朗門流 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P275-276
「當宗相伝大曼荼羅事」 延文三年正月十八日 日像伝 大覚記
一 三光天子事
「日天子」は本地「観音」 「月天子」は本地「勢至」 「明星天子」は本地「虚空蔵」なり
釈義分明・可見之 是則・「迹化の菩薩」なり 就中(なかんずく) ・「迹化は垂迹」なり 迹化の菩薩三光と化身して衆生利益する事 併・「本化の応作」なる事決定なり 去る間この三光勧請し給う深意は・この本尊は・天竺・晨旦・我朝の三国に流行して利益し広まる事を表するなり
そのゆえは天竺をば月氏と云う・月天子の国なり 唐朝をば晨旦と云う・はこれ星の国なり 我朝をば日本と云う・これ日天子の国なり これにより三国の仏法弘通の道師・父母の縁を借り誕生し給う事その国土に相応するなり 夫(それ)とは月は水種の所成なり 仍(よっ)て・水は下り流るを体と為す間・その道師高位に生じて下位に法を弘るなり 去る間教主釈尊は浄飯大王の太子として出家したまうなり 唐朝は星なり 星は昼夜の境・日月の中半にして衆生を利益し給う間・弘法の道師は臣家大臣の位に生じて法を弘め給うなり 仍(よっ)て・天台大師は摂家種生にして御座なり云々
扨(さ)て・日は火種の所成なり 火炎は上へ昇るものなり ゆえに時国相応の道師蓮公は武士の家たる貫名を所縁として似同凡夫 妙法を弘め給うなり云々
かくのごとく三国に所表有て出生する道師なるを知らざる者 或は破法不信ゆえの悪人は日蓮は下位なりと軽笑する事は入阿鼻獄の罪のほどと哀れなり云々
164
:
地名
:2004/06/10(木) 23:39
一 人界の事
示云 転輪聖王を挙る事は仏の大檀那なるゆえにこれを挙げ玉うなり 天照太神は日本は神国なる事と天照太神の御国のゆえなり 三十番神を勧請する事も神国なるゆえなり 神明多いといえども殊に天照太神は諸神の最初国主にて御座すゆえに別して勧請奉るなり 八幡は当時源氏の氏神殊に弓箭の神として異国の夷(えびす)を射て天下安全国土無為に守る間俗諦常住の所表なるがゆえに別してこれを勧請し玉ふなり云々
殊更神道の事当家の一大事なり 委くは先に相伝の如くなり 天照太神の「太」に点を打つ事・太郎神と云う深意なり云々
又・阿闍世王を書き玉ふ事は逆即是順の義なり」
165
:
空き缶
:2004/06/11(金) 17:13
すでにご存知のことと思いますが、このたび新に日蓮真筆と認定された曼陀羅本尊です。
ここから鮮明な写真がダウンロードできます。
大石寺系も日蓮真筆と自信があるなら、このくらい明確に自山の本尊を公開してほしいものです。
↓
http://www.kenoh.com/newstank/200405/20040528/mandara/index.html
166
:
犀角独歩
:2004/06/12(土) 10:57
地名さん:
種々、資料のご呈示、有り難うございます。
改めて、レスをさせていただく所存です。
167
:
犀角独歩
:2004/06/12(土) 11:06
165 空き缶さん:
最近、この手のことでは中尾師、活躍が目覚ましいですね。
しかし、楮紙はともかくとして、あとは花押と墨の散り方が決め手と。「なんだ、年代判定等の科学手方法は採用しない訳なのだろうか」と、やや不満が残りました。
それでも空き缶さんが仰るとおり、「間違いなく本物だけど。信心のない人には見せないよ」というより、ずっとましには違いありません。しかし、それもまた、「見ることはできないけれど、疑っちゃいけない」というよりはましなのでしょうか。なんともはや、石山とその同一信念体系の在家集団の‘後れ’には溜息が出ます。
168
:
地名
:2004/06/12(土) 11:20
166 独歩さん
ありがとうございます。
お体を、なにとぞ、ご自愛ください。
ご教授いただける時を楽しみにしております。
169
:
地名
:2004/06/12(土) 11:24
本地垂迹(ほんじ・すいしゃく) 仏教辞典から引用いたします。
「仏・菩薩が衆生摂化の方便として神祇と現るるを云う。
僧肇の註維摩経序に「幽關啓け難く、聖応同じからず、「本」に非ざれば以て「跡」を垂るるなく、「跡」に非ざれば以て「本」を顕すなし、「本跡」殊なりと雖も而も不思議たるは一なり」と云い、久遠実成の本師たる釈迦牟尼仏(本門)が丈六弊垢の劣応身(迹門)として世に現るること法華経に見えたり。
これをまた「和光同塵」とも「権化方便」とも云う。
観無量寿経の所説たる阿闍世・提婆の輿悪、王后韋提希の西方願生の如きこれ皆末代の凡夫を誘引せん為めの方便なりとせらるるは・この垂迹摂化の説に依るなり。
観世音菩薩の分身摂化と云い、地蔵菩薩の比丘形をなせる、住世羅漢の応化無方なる亦然り。
印度にては古より輪廻転生の説盛んに行われしかば・諸神の応化を説くこと亦少なからず。
すなわち梵天・帝釈の如きは人心を試みん為め瘻屡弊衣の隠者として世に現れ、毘紐天の如きは化身となりてこの世に現るること十回乃至二十四回に及ぶべきことを伝ふ。
仏教東伝して支那に入るや孔子・顔回・老子の三聖は菩薩・羅漢の応化なりとてこれを偽作の清浄法行経等に載せ、道教にて老子の八十一化を説くが如きこれ仏教の垂迹説に據るものなり。
170
:
地名
:2004/06/12(土) 11:25
陳随の頃天台宗起り法華経に本門・迹門の二分あること益々世に著れ、李通玄は華厳合論に説をなして「凡そ天地・日月五星・名山大川、五嶽四○、河海社稷の神たる皆これ菩薩の所為なり・これ凡世鬼神の力にて堪能する所に非ず、ゆえに出○の妙智を以て俗に入り生を摂す、これを名づけて神となす」と云へり。禅家における寒山・拾得と云い、布袋・蜆子・猪頭等の如き散聖また垂迹説に由来するものなり。
我国にては仏教渡来の際外夷の教としてこれを排斥するものありしが、聖徳太子摂政の傍ら三宝の興隆に力を渇されしより仏・菩薩を尊崇するは神意に戻ることなく、寺塔の建立は却って皇運を扶翼するものとせられたり。
斯くて我国の神祇は悉くこれ仏・菩薩の垂迹に過ぎずとし、一々の神にこれが本地たる仏・菩薩を配当せり。
世にこれを行基の創むる所なりとし、或は空海・最澄に出づと説く者あれどこれ決して一両人の推定に依りて成立したものに非ず。幾多の歳月を経て次第に完成せられたるなり。
元正天皇の霊亀元年藤原武智麿、気比大神の為に神宮寺を造る。これ神宮寺の記録に見えたる最初にして大神宿業に由りて久しく神となれども仏道に帰して福業を修せんとて武智麿にこの事を嘱せしに出でたりといふ続く
陳随の頃天台宗起り法華経に本門・迹門の二分あること益々世に著れ、李通玄は華厳合論に説をなして「凡そ天地・日月五星・名山大川、五嶽四○、河海社稷の神たる皆これ菩薩の所為なり・これ凡世鬼神の力にて堪能する所に非ず、ゆえに出○の妙智を以て俗に入り生を摂す、これを名づけて神となす」と云へり。禅家における寒山・拾得と云い、布袋・蜆子・猪頭等の如き散聖また垂迹説に由来するものなり。
我国にては仏教渡来の際外夷の教としてこれを排斥するものありしが、聖徳太子摂政の傍ら三宝の興隆に力を渇されしより仏・菩薩を尊崇するは神意に戻ることなく、寺塔の建立は却って皇運を扶翼するものとせられたり。
斯くて我国の神祇は悉くこれ仏・菩薩の垂迹に過ぎずとし、一々の神にこれが本地たる仏・菩薩を配当せり。
世にこれを行基の創むる所なりとし、或は空海・最澄に出づと説く者あれどこれ決して一両人の推定に依りて成立したものに非ず。幾多の歳月を経て次第に完成せられたるなり。
元正天皇の霊亀元年藤原武智麿、気比大神の為に神宮寺を造る。これ神宮寺の記録に見えたる最初にして大神宿業に由りて久しく神となれども仏道に帰して福業を修せんとて武智麿にこの事を嘱せしに出でたりといふ。
171
:
地名
:2004/06/12(土) 11:27
これより宇佐八幡宮・鹿島神社・賀茂神社・石清水神社・多度神社等にも神宮寺を設け、何れも仏事を修して福業を神に薦むることとなれり。天平二十一年十月東大寺毘盧舎那仏造立の成るや宇佐八幡大神託宣を下して参詣のことあり。
次に東大寺要録巻一には大神宮禰宜延平の日記を引きて天平十四年十一月右大臣橘諸兄勅使となりて伊勢大神宮に参入し御願寺建立の事を祈請せしに、日輪は大日如来なり、本地は盧舎那仏なり、衆生は此理を悟解し当に仏法に帰依すべしとの託宣ありと云い、大神宮雑事記・元亨釈書等に益々此事を敷演し、天平十三年行基の大神宮に参詣せることを記するもこの事は続日本紀等に見えず、天平神護二年七月使を伊勢大神宮に遣わして丈六の仏像を造立し、且つ大神宮寺を設けたれば此事を誤り伝えたるものならん。
後、最澄・空海等出でて天台・真言の両宗を起すに及び「即俗而真」の唱説は垂迹説の伝播に便宜を輿え、高野山には四社明神を勧請し、比叡山には山王七社、園城寺には新羅明神を祀るに至り、興福寺は春日神社と共に藤原氏一門の繁栄を守護することとなれり。
神仏混淆の説行われてより神社に祈祷するにも僧をして経を読ましめ(私注:神前読経)、或は舎利を神社に献ずるあり。
神社において放生会を設け、僧徒自ら神に功徳を薦めん為なりと称して社前に経を読むあり。これらのこと世人の恬として怪しまざるのみならず、神宮にもこれを排する者なく、皆此説に従えり。かくして宇佐八幡宮は八幡大菩薩と称せられ、延喜式にも大荒磯前薬師菩薩等の神名を見るに至れり。
172
:
地名
:2004/06/12(土) 11:28
平安朝の末葉には某神は某仏の垂迹、某神の本地は某菩薩など称すること行われ、垂迹像に本地仏を加えたる神社の曼荼羅を畫くこと少からず。
この種の説一世を風靡せしかば北畠親房・一條兼良の如き博学を以て世に知らるる人も皆これに依れり。
然るに後に至り唯一神道を唱うる者あり。その説は直ちに天神より出でて次第に相承け中臣鎌足よりこれを中臣意美麿に伝え、卜部氏常にその説を守りて失わずと云う。その唯一神道と称するは儒仏の二教を雑へざるがゆえなり。その説に云く神道は根本なり儒教は枝葉なり仏教は華実なり、ゆえに顕露の浅義を以てせば仏を本地とし神道は垂迹とすれど・もし隠幽の密義を以てせば神を本地とし、仏を垂迹とす。
神道には相伝・伝授・面授・口訣の四重あり、また影像・光気・向上・底下の四位ありて顕より密に入り、密の中に亦浅深あり。これを授くるには神道護摩・宗源行事・十八神道の類ありてこれを切紙伝授(きりがみ・でんじゅ)と称したり。この説は御土御門天皇の頃卜部兼倶がその祖兼延の説なりと称して創する所なりと云う。
而して唯一と称するを以てその社には社僧を置かざるなり。卜部氏は吉田神社の祠官なりしよりこれを吉田流神道と稱す。これ真言宗の両部神道、天台宗の一実神道に対して起れるものなりとす。
173
:
地名
:2004/06/12(土) 11:28
当時は神社の制はなはだ乱れ、伊勢大神宮は従来王臣以下の弊帛を献ずるを禁ぜしに・このころに至りては賤人も宮前に拝し、且つ大麻を某家に奉安せり。而して人民敬神の念は依然として旧に依り、禍福・寿夭都(すべ)てこれを神仏に祈祷せざるなし。ゆえにいまだ嘗てこれを誹謗する者はなかりしに、耶蘇宗入りてより大友宗麟は深くこの宗を信じて為に領内の神社を毀てり。江戸時代の初運に至り神仏混淆の弊を矯めんとする者現れ、徳川義直は神祇宝典を著し、林羅山は神社考を作りて以て本地垂迹の説を破し、且つ吉田家の所伝を駁せり。当時はなお吉田家の神道広く世に重んぜられ、山崎闇齋の如きは儒者にして神道を善くし、陰陽五行の理を以て神道を説き、或はこれに混ずるに周易の理を以て神道を説き、或はこれを輔くるに朱子の学を以てし日本紀の神代巻を以て一箇の教訓を示せるものとなせり。
然るに本居宣長はこれを真の神道に非ずとし、説をなして神道は天地自然の道に非ず、亦人の造る所に非ず、その道に随うとは神代の法則に従い、毫も私意を加へざるを云う。その文は古事記・日本紀等の書に具して古言を尋ぬれば灼然として観るべきものありて別に秘伝・秘説あるに非ずとせり。後、平田篤胤に至り殊に意を神道に潜め、宣長の説を主張して幾多の書を著し、傍ら仏教の所説を排斥せり。明治維新の際に至り、神仏分離の令出でて神宮寺を廃し、社僧に還俗を命ぜしもの時運の然らしめし所ならんもまた篤胤門人の努力に由ること多かりしならん。
当時の命令は単に神仏の分離を行わんとするに過ぎざりしも、永く抑圧を蒙りし神官・禰宜の輩は仏教者に対して報復するはこの時に在りとし、神社内の本地仏・経巻・仏具の類を焼棄し、彼岸所・神宮寺を毀ち、浮説をなして朝廷の御主意は神道を取り立て仏道を廃せんとするに在りとて寺院に暴行を加えし所あり。仍て世にこれを廃仏毀釈と称したり。」
174
:
地名
:2004/06/12(土) 11:29
「本迹二門」 仏教辞典から引用いたします。
「(二)仏の本地・垂迹とは寿量品に五百億塵点劫の久遠往昔実成道の久遠を説く時、無始無終本有無作常住の義顕れて一仏に即して十界尽く無作三身の本覚仏と開顕せらる、これを仏の本地という。垂迹とは法華本門已然の仏は暫く本地より影を迹土に示現せる始覚有作の仏なり。すなわちガヤ城を去ること遠からず始めて正覚を成ぜる釈迦牟尼仏は本門に開迹顕本して直ちに無作の本仏となるなり。この時は十界皆本有常住と顕るれども、而も法界唯一仏なれば釈尊の外に本仏なく、大日・阿弥陀等尽く垂迹分身の仏といわるるなり。
また法華経に文殊は釈迦九代の師に当たり、提婆は過去に釈尊の師たりしが如き説明あるはすなわちこれ弟子の顕本なり。
175
:
地名
:2004/06/12(土) 11:30
十羅刹女(じゅうらせつめ) 神道辞典から引用いたします。
「法華経の守護神
十羅刹女とは、「法華経」に説く10人の鬼女のことである。のちに仏法に帰依し、鬼子母神などとともに「法華経」を持する者の守護を誓ったとされる。
「新編相模国風土記稿」高座郡茅ヶ崎村の条に「十羅刹女堂」と記されており、その付近に二、三、十羅刹女社(または堂)という文字が見えるし、三浦半島にも各所にこの十羅刹女社があったように記載されている。十羅刹女は三十番神と同じように、主に日蓮宗の寺院で祀った神である。
「法華経」第七「陀羅尼品」に「是の十羅刹女は・鬼子母神並びにその子及び眷属とともに仏所に詣で、同声に仏に申していわく。世尊、我等もまた法華経を読誦し・受持する者を擁護し、その衰患を除かんと欲す。もし法師の短を伺求する者あらば、便を得ざらしめん。」とある。
また「法華経」第十「総持品」には「時に一魅あり①有結縛 ②離結 ③施積 ④施華 ⑤施黒 ⑥被髪 ⑦無著 ⑧持華 ⑨何所 ⑩取一切精 と名づく。仏所に往詣し、鬼子母と諸子と倶なり」とある。
176
:
地名
:2004/06/12(土) 11:31
これを見ると、十羅刹女は法華修法の行者を守護する仏神であることが分かろう。
そして、古来は普賢菩薩などとともに同じ場所へ彫刻されたり画かれたりしたといわれる。
日蓮宗の開祖・立正大師日蓮上人は、「日女品供養」で「十羅刹女と申すは十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母あり、鬼子母神これなり。鬼のならひとて人を食す。人に三十六物あり。所謂糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五臓と六腑と髪と毛と気と命等なり。而るに下品の鬼神は糞等を食し、中品の鬼神は骨等を食す。上品の鬼神は精気を食す。この十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」と書き残している。
これはもちろん十羅刹女は上品の善鬼であるということを書き証しているものである。
十羅刹女は①藍婆 ②毘藍婆 ③曲歯 ④華歯 ⑤黒歯 ⑥多髪 ⑦無厭足 ⑧持瓔珞 ⑨皐帝 ⑩一切衆生精気 の十人の女鬼神のことをいう。
「法華輝臨遊風談」第七には「十羅刹女」を法華曼荼羅会の上の諸仏に配置して「法華秘法の①藍婆は妙法蓮華の八葉中台東葉の阿しゅく仏なり ②毘藍婆は南葉の宝勝仏なり ③曲歯は西葉の阿弥陀仏なり ④華歯は北方の不空成就仏なり 余は⑤黒歯・普賢菩薩 ⑥多髪・文殊菩薩 ⑦無厭足・観音菩薩 ⑧持瓔珞・弥勒菩薩 ⑨皐帝・大日如来 ⑩一切衆生精気・荼吉尼なり」と諸仏に配した書き方をしている。
177
:
地名
:2004/06/12(土) 11:32
さらに「法華経鷲林拾葉抄」第二十四では「①藍婆は阿しゅく仏又は文殊菩薩 ②毘藍婆は華開敷仏又は薬王菩薩 ③曲歯は阿弥陀仏又は薬上菩薩 ④華歯は不空成就仏 ⑤黒歯は大日如来又は弥勒菩薩 ⑥多髪は普賢菩薩又は地蔵菩薩 ⑦無厭足は無能勝菩薩 ⑧持瓔珞は無尽意又は観音菩薩 ⑨皐帝は文殊菩薩又は普賢菩薩 ⑩奪一切衆生精気は自在菩薩なり」と少し違った諸仏の配し方をしている。
さて我が国では最澄が入唐し天台宗を修めて帰朝後、天台宗を開宗するや、法華経の信仰が盛んになり、法華経の守護神である十羅刹女の信仰も広まり、この像が多く造立されたが、日蓮上人が天台宗より分かれて日蓮宗を開宗するや、法華経を主経典としている同宗の寺院では鬼子母神とともに十羅刹女を護法神として多く祀るようになったのである。」
178
:
地名
:2004/06/12(土) 11:51
170 訂正
同一内容を二重に入力してしまいました。訂正いたします。
179
:
犀角独歩
:2004/06/13(日) 10:27
地名さん:
精力的に手利きの資料をアップいただき、有り難うございました。
参考になるところ大です。
こうして、相伝その他を瞥見してみますと、それが成立した時代背景、思想背景、法脈、流派などなど、いろいろ想像できて興味深いところがありますね。
また、なかには単に漢字が持つイメージから出来上がったと思しきものも少なからずあります。梵本原典を捨て去ってしまう漢訳仏教は致命的な過ちを多々指摘されますが、その多くは誤訳がそのまま証憑されることに併せて、漢字という文字の持つ呪術的な力を密教的に解釈していく心理にもあるように思えます。もちろん、この点は漢字に留まらず、悉曇文字に言えますね。現在、梵本直訳を読むと漢訳訓読より、むしろ平易に感じられることも多いのに、近代以前の梵字は神秘的な呪力に目を奪われるばかりで、原意から離れて受け取られますね。
石山は相伝宗なんて言ってきたわけですが、蓋を開けてみれば何のことはない、他山の相伝を持ってきて、自宗のものと言っていただけという馬脚が露わになりました。もっとも上古ではいろいろな門戸を叩き、実際に相伝を受けて、石山に帰ってきた僧が有職となって、それを今度は自門相伝として相承することもあったと想像されます。
切紙相承というのがどんな体裁のものであるか、その現物を見たわけではありませんが、他宗でも共通する遣り方で伝授がされたということは、結局のところ、その遣り方自体にオリジナリティがないということを意味しますね。
いくら唯授一人血脈相承は石山だけと言っても「唯授一人」という遣り方が既に天台宗に見られ、血脈(たぶん、実子血縁に元来の意味があるのでしょうか)、相承という言葉もまるで石山独自の言葉ではなく、他で先行して使われています。つまり、他で行われていた「唯一人を定めて授ける方式」を模倣し、さらにそれを他で先行していた血脈とか、相承という方式も模倣して、儀式化したわけですから、既にそこに「唯授一」というオリジナル性はないわけです。「独一本門」と力んでも、言葉では何とでも言えるだけということになります。
尊門における俊範の言が取り沙汰されて、「不思議一」が言われます。しかし、この思想は既に『摩訶止観』に充ち満ちています。だから、わたしは天台の独走と思っていた面があります。しかし、よく調べれば地名さんも挙げてくださった僧肇にその原型を見るわけです。それがまるで石山の相伝如く語られれば、滑稽さを通り越します。
わたしは今回の議論のなかで「このような相伝があるから○○は正しい」と言われてきた従来の発想から、この相伝はどんな背景で生じたかを考えるという記号論的なアプローチに発想転換をする習慣をロムの皆さんが身に付けてくれればよいと思っています。
そのために、地名さんの資料ご呈示は実に示唆に富むところと改めて御礼申し上げるものです。
180
:
地名
:2004/06/13(日) 19:14
179 独歩さん
>成立した時代背景、思想背景、法脈、流派などいろいろ想像できて興味深い
>漢字が持つイメージから出来上がったと思しきものも少なからず
>梵本原典を捨て去ってしまう漢訳仏教は致命的な過ちを多々指摘されますが、多くは誤訳がそのまま証憑されることに併せて、漢字という文字の持つ呪術的な力を密教的に解釈していく心理にもある。悉曇文字に言え、梵本直訳を読むと漢訳訓読より、むしろ平易に感じられることも多いのに、近代以前の梵字は神秘的な呪力に目を奪われるばかりで、原意から離れて受け取られます。
そのとおりですね。
>「唯授一人」という遣り方が既に天台宗に見られ、血脈…相承という言葉も…他で先行して使…
これはだいぶ後世になってからといわれるようですね。
>従来の発想から、この相伝はどんな背景で生じたかを考えるという記号論的なアプローチに発想転換…
そうですね。どのような経緯で成立してきたのかを可能な範囲で押さえていくことが大事ですね。
非常に適切なご指摘を頂き、ありがとうございました。
181
:
地名
:2004/06/13(日) 19:15
本地垂迹(ほんぢすいじやく) 「廣文庫」第拾八册P245-247より引用いたします。
「日本紀神代紀合解一二(二四)」
環翠曰・云々、本地垂迹の事は、弘仁の比より聖武天皇大伽藍を建立ありたく思召すが、此の国は神国ぢやほどに、先ぞ大神宮に伺い申さいではとて、行基に仰せて伊勢に参籠させて、此の義を伺はれたり、大神・虚空に告げて云う、実相真如・日輪・照・生死夜闇、本有常住・月輪・掃・無明煩悩雲と神託ありしかば、さては仏法と神道ととへはないとて、東大寺を御建立あるなり、日神月神、本地・毘廬遮那の垂迹なり、神迹の序に如此なり、これから本地垂迹の二つあり、仏法の説なり、元亨釈書の十八巻にも此の事・詳なり、四大師に吾が国は大日如来之本国と云う、神道には・その大日即日神なりと見るぞ
「続○書類従 神祇正宗六七」
人皇五十二代嵯峨天皇御宇・弘仁以来顕るなり、仏教には仏を本地と為し、神を垂迹と為す、神道には本地即垂迹なり、今即本地とこれを知るなり、仮令・天照大神を本地と為し、伊勢大神宮垂迹と為す、イザナギを本地と為し、熊野権現を垂迹と為すが如き、しかれば仏知の内証云へば、即ち神道の根源に異ならず(ざる)ものなり
「大日本史三六四(二)」
及・僧行基之出、創・言・神仏同体之意、最澄・空海・又傳会・本地垂迹之説、曰、仏本地也、神垂迹也、必・先・有此仏、而・後・有此神、以明霊威厳不可狎○之神、為怪誕誕譎不可方物之神、神且為役、何所不至、而朝廷尊崇、聴其所為、誣民惑世、於是而極矣
182
:
地名
:2004/06/13(日) 19:16
「齊東俗談三(一三)」
肇法師・維摩経序・曰、非本無以垂迹、非迹無以顕本、本迹雖殊而不思議一也
(私注:羅什の弟子僧肇が維摩経の序でいわく、本にあらざればもって迹を垂るなし、迹にあらざればもって本を顕すなし、本迹はことなるといえども不思議一なり)
「神武權衡録一(一五)」
天竺の仏法と日本の神道とは、雲泥の違いある事を、行基、伝教、弘法、首然(法然か)、日蓮等の才発なる坊主とくと考え、釈迦の経々に曾て是なき事を工夫して、日本の神々を天竺の仏に取りまじへ、本地垂迹と云う事をつけて、八幡宮は本地・阿弥陀如来、春日の四座は釈迦・薬師・地蔵・観音の垂迹などと、つがもなき事をいひて人を欺き、仏道に神道を入れて両部習合とし、福祿を祈り寿命を願い、病を祈祷するの類ひなり、笑ふべきの甚だしき也
「故実叢書 安齋随筆 七(二三九)」
仏を本地とし、神を垂迹とし、両部習合する事、弘法、伝教、慈覚、智証の四大師の所為の由、卜部兼倶が名法要集に記して、兼倶専らその説を信用せり、本地垂迹の説は、悲華経に、我滅度後於悪世中、現・大明神、広・度衆生とあるを本拠として、これを押し弘めて、我が国の神祇に悉く諸仏を配当して、某の仏が化けて来て、日本の某の神に成りて、この日本に止まりたるを垂迹とは云う、ばけたる本仏を本地と云う、朝廷この説を信用し給ひしより、我が国の神祇は大概仏の扱になりて、神祇は僧徒の居所となれり、近世儒道を神道に交えて、唯一神道と云ひて、仏説を除き去る徒の説に、本地と云ふは・たとへば天照大神なり、垂迹は五十鈴の宮なり、応神天皇は本地にして、宇佐の宮は垂迹なりと云う、此の説もいまだ本地垂迹の名目を捨てきらぬ者なり、吾が国の為には、仏法は瘡毒の骨がらみに成りたる如く、本腹する事は叶わず、日本国を代々武臣に横領せられて、朝廷衰微したまへるは、神祇の祟りにもあらん
183
:
顕正居士
:2004/06/14(月) 06:05
>>152
で引用した『太平記』の文章にある「迹高本下」という語について少し調べてみました。
本地垂迹の関係は必ず「本が高く迹が下い」とは限らず、反対もあり得ます。天照本釈迦迹や
日蓮本釈迦迹(名字本妙覚迹)は「迹高本下」にあたります。
この語はもとは「本下迹高」で天台大師の『維摩經玄疏』にあります。
天台山修禪寺沙門智邈撰『維摩經玄疏』卷第一(大正蔵第38巻)
http://w3.cbeta.org/result/normal/T38/1777_001.htm
「今約體用權實明本迹。應須四句分別。一本迹倶下。二本下迹高。三本高迹下。四本迹倶高」
(今、体と用と権と実とに約して本迹を明さば、まさにすべからく四句に分別すべし。一に本迹
倶(とも)に下(ひく)し。二に本は下く迹は高し。三に本は高く迹は下し。四に本迹倶に高し)
大和床俊範撰『一帖抄(惠心流内證相承法門集)』(天台宗全書)には。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/lib.html
「問云。四句成道者如何。
傳云。三身中應佛所作也。先爾前淨名疏心四句成道可有。但初住妙覺相當可作四句。一本下迹高。
二本高迹下。三本迹倶下。四本迹倶高。次迹門意論互具。故亘四十二位可有四句成道。次本門意
廣亘十界互施化導。可作四句成道也」
(問て云く。四句成道とは如何。
傳に云く。三身の中の應佛の所作也。先づ爾前の淨名の疏の心に四句成道可有るべし。但し初住
妙覺相ひ當に四句を作すべし。一に本下迹高。二に本高迹下。三に本迹倶下。四に本迹倶高。
次に迹門の意は互具を論ず。故に四十二位に亘りて四句成道有るべし。次に本門の意は廣く十界
に亘りて互ひに化導を施す。四句成道を作すべき也)
日蓮遺文には『十八円満抄』に『修禅寺決』を引いて。
「和尚、証道八相無作三身故、四句成道在蓮教処、只指無作三身為本覚蓮、住此本蓮常唱八相、
常作四句成道故也」
(和尚、証道の八相は無作三身の故に、四句の成道は蓮の教の処に在り、只無作三身を指して本覚
の蓮と為す。此の本蓮に住して常に八相を唱へ、常に四句の成道を作す故也)
*『一帖抄』と『修禅寺決』は『十八円満抄』などの与最蓮房諸書と内容が多く重なる。『一帖抄』
も『修禅寺決』も鎌倉時代の成立としており、『一帖抄』編纂者が俊範であり、俊範−日蓮の相伝
があったなら、『十八円満抄』などは内容上、後世成立とはいえないだろう。浅井要鱗師の遺文の
研究は半世紀以前の業績で、それがいま江湖に膾炙して来たが、田村芳朗師以降の室町思想の研究
も少しずつ進歩しています。反本地垂迹(神本仏迹)や日蓮本仏の思想の根底には「本下迹高」の
発想がありますが、それが14世紀の大衆文芸である『太平記』にすでに現れているわけであります。
184
:
地名
:2004/06/19(土) 16:10
身延相伝 「本尊論資料」身延山久遠寺蔵版P275-276
「二神勧請事」 日傳記 示日鏡
示云 この御本尊に・「神祇を勧請」・玉ふ事 これに就いて・重々の意・これ有るべき 凡そ(およそ)・「日本は神国」なり 世上の人・殊更(ことさら)・「神慮」を仰ぎ見たり 先ず世上に順じて・勧請し玉ふの意・これ有るべきなり また末代は濁世なり 行者は・また両心なり 障難甚しかるべし よって仏力神力・相扶て・応時の人法・繁昌これ有るべき意趣を・顕し玉ふなり云々
疑云 天照大神は・地神五代の初・と見たり 釈尊の出世は・地神第五代に当れり また八幡大菩薩は・十六代「応神天皇」なり 神と顕・玉ふ事は 三十代欽明の御宇なり 今の御本尊は・在世八品儀式・云々 然ば・天日日域・相隔れり また在世の儀式に・滅後の神祇を列・玉ふ事・太・以難思・如何
答 今・この御本尊は・本門寿量の極説・一念三千の果地 内証を・図影・玉へり されば三世一念・無始無終の内証・長遠無極出過三世の上にまた三世も宛然とこれ有る果上を顕す・本尊なり もし爾・三世の域を立十方の異を見る迷情を○て・努々(ゆめゆめ)これ疑うべからずものなり云々 毘慮身土不○凡下一念 在世の儀式・全く我等が一念・なるべし 阿鼻依正なお極聖の自身の処 日域・諸神あに漏果海の一念や これら疑い足らざる処なり云々
185
:
地名
:2004/06/19(土) 16:11
尋云 日域の諸神・一乗の擁護に不可漏 何ぞ・別して二神・を挙げるや
答 具にこれを挙げるべきといえども・繁きゆえに・二神を・挙げ玉ふか 或御書云 第一・天照の太神 第二・八幡大菩薩 第三・山王以下等云々 されば要を取り・先ず第一第二の二神を挙げて・余をば・これに摂し・玉ふなるべし 或義云 天照太神は社○の神なり 八幡大菩薩は・「宗廟神」なり 先ず・この二神を・挙げ玉ふは・この意趣なるべし
私云 この二神・殊更(ことさら)「法華守護の神祇」なるの由・余所これを書く・今これを略す
尋云 日神を・吾国の「本主」と為す・縁起・如何
答 これらは神道才覚于今不始事也 しかりといえども・もし一端を申さざるは・法門の意趣・これ顕し難きか 委旨(くわしきむね)これを略す・そもそも一女三男の所領の国四ケ処に・相分たり 「日神月神は高天原」(たかまのはら)の主」なり 蛭子(ひるこ)はエビスの三郎とて海上を領・玉へり 素戔鳥(嗚)尊(すさのおのみこと)は・この八洲の国・を領すべしとて・父母の神・授玉へども・遂に悪神にて底根の国(そこねのくに)に住・玉へり 魔国これなり されば・この八洲の国・をば素戔鳥(嗚)尊の子孫・魔王となて・押領するゆえに・天の神(あめのかみ)下て・遂に・此の国の主・と成り玉へり 神璽して魔王乞・此の国治め玉ふものなり
186
:
地名
:2004/06/19(土) 16:12
一 釈尊と日神と一体習事
示云 およそ西天には「釈尊」と顕れて・諸仏の本意に任せて・妙法を説き・玉へり また今此三界・皆是我有等と云て・「国主」と名称玉へり 吾が朝には・「天照太神」と顕れて・「国主」として・政道の直(す)ぐなる道・を示し玉へり されば釈尊をば「日種」云々 此の国にしては「日神」云々 「神仏不二」の意趣顕然なるものなり
私注:「神仏不二」とは、本地垂迹とは違うのではないか。
一 日神・輿・法華経・一体・習事
傳云 天照太神を「陰陽不二の体」と習うなり その「陰陽」は「法華の迹本二門」なり 陰陽不二は併し「本迹不二」の淵源なるべし 仍(よって)陰陽の習い「神家に相伝」これ有り・これを尋ねるべし
また「天」の字・「二人」とこれを書く これに就いて・「陰陽」を顕すと云ふ習いこれ有り
また「神明」の名称に習うことこれ有り 「明」の字は「日月」なり これまた「陰陽」なり この「陰陽」は「円宗の実義」顕れて・これを見れば「本迹」なり 「理智」なり 「陰」は「理」なり 「陽」は「智」なり 「陰陽和合の神明」と云へるは・全体理智不二・本迹一体・極理を顕す・と習うなり 「神明」の二字を「色心」と習う事あり 「神」はこれ「色」なり 「法身」なり 「明」は「心」なり 「報身」なり 仍(よって)・色心不二・境智冥合の法華の極理・を顕して「神明」と号する習いなり これを秘すべし
尋云 「陰陽不二の神」と云へる「相伝」如何
私云 此の事・神道の口伝・なり 凡そ(およそ)・日神は・天照太神なり 其れに就いて日神の時は「陽神」なり 太神の時は「陰神」なり 「陽陰一如」と云う時は・天照太神に極まり 「陰陽各別」する時は・内宮・外宮の二社・と顕れ了ぬ されば陰陽を分ために日神を天照太神の二神とわくるなり 仍(よって)・陰陽の二神(かみ)おはしませば・伊勢の国とも名(なづくる)なり 「伊勢」二字は「陰陽」なり
また「五神」を五行と習うなり しかるに天照太神は「土神」なるがゆえ諸神を恵み玉へり・大地の万物を扶る(たすくる)が如し 日神は「木神」なり 月神は「水神」なり 蛭子(ひるこ)は「火神」なり 素戔嗚尊は「金神」なり その外・繁きゆえこれを略す 」
187
:
地名
:2004/06/19(土) 16:13
「俗神道大意一(一五)」 「廣文庫」第拾八册P246-247より引用
(私注:本地垂跡の妄説について)
「本地垂跡の妄説」は、一(ひ)と通りに考えたる所では、行基を始め御国の法師どもの、世の人を・その道に引き入れんがために、思いつきて・新たに始めたる事の如く思わるるなれども、これも・その根ざしは・けしからず古いことで、元来は・釈迦の申し出したることぢゃ、
(私注:仏法は釈迦の始めて考えつくりたるもの)
それは・このまえ仏道の大意のみぎりにも申す通り、元来・仏法は釈迦のはじめて考え作りたることなれば、一(ひ)と通りのことでは、その国人も承知いたさぬゆえ、まず過去の七仏と云うを立て、また己(おのれ)からして久遠劫と申して、限りもなく遠き前から成仏して、兜率天(とそつてん)と云う天に居たる「善賢菩薩」と云うた仏なるが、衆生済度のために、今の身すなわち「釈迦」と垂迹した、この世に出たる由をいつわって、その道弘めたる所が、その後の僧どもも・それを受けて、ますます「本地垂迹の妄説」が委しく(くわしく)相成り(あいなり)、
(私注:中国 儒教)
それより仏法・漢土へ渡ったる所が、から(漢)には元来・儒者が唱えて、世々の王どもも、それを用うる顔に・もてなしをる、彼の聖人の道、即「儒道」が一杯に国の云いぐさと成つておる、
188
:
地名
:2004/06/19(土) 16:14
(私注:中国 道教)
また道士と云うもの、これはこの間も申すとおり、彼の国の古(いにしえ)より、「神仙の道」を書き伝えたりと云う老子などの書を元として、道を立つる者がある、これを「道家」の学と申すぢゃ、
(私注:仏者どもの思いつき)
かくのごとく漢土には、元より儒者と道士とが有って、とかく仏法を拒み・いやしめたるゆえ、仏者どもが思いつきて・儒者の本尊とする孔子、または孔子第一の弟子と後の世にも尊ぶところの顔回、また道士の本尊とする老子を、その「本地」は天竺の菩薩で、すなわち釈迦の弟子なるが、から(漢)へ生まれてその地・相応の道を説いたるものぢゃと云うて、そのことが天竺より渡ったる仏教に、釈迦がすでに云いおいたる「清浄法行経」、また「冢墓因縁経」などいう梵経を翻訳するとき、その言い草となすべき語を「書き加えて」世にひろめ、大きに儒者と道士の鼻を挫いた(くじいた)ものぢゃ、
これにたまげて、儒者も道士も仏法に帰依した者・少なからず、またその以下の者は、なおこれに驚いて、仏信心に成つたと申すことで、その文は先年書き抜きをしておいたが、閻浮提中・有振旦(震旦)国、我遺「三聖」在中、化導人民、「儒童菩薩」・彼称・「老子」、「迦葉菩薩」・彼称・「孔子」、「月光菩薩」・彼称・「顔回」とあるだが、これ唐でも「本地垂跡の説」をもって、その世の僧どもが、儒者と道士とを押し付けんがために致したる「奸曲」で、年代をおしてその実の所を糾し(ただし)見れば、「老子は釈迦よりも大きに先の人」、「孔子は釈迦と同じ時代の人で、ただ釈迦より7年後に死に」たるばかりの違いぢゃ、後にはこの「偽り」(いつわり)を、あちらの儒者の劉学士と云う者に引きむくられて、僧も大きに恥をかき、その後はかの経を「偽経」の部に収めてはあるけれども、また何ぞと云うと、漢土・大和の僧どもが「引言」に云いたがることぢゃ、さればこの「本地垂跡」のことは、御国の古き僧どもの始めて致したることでもなく、元来は釈迦が始めて、から(漢)の僧がそれをまね、またそれを御国の僧がまねたものぢゃ」
189
:
地名
:2004/06/19(土) 16:16
私注:現代仏教学では釈迦が本地垂跡説を唱えたとは言われていないのではないか。
私注:ここでは本地垂「跡」となっていて本地垂「迹」とはなっていない。
私注:「俗神道大意」は、平田篤胤の作か。
参考
仏教徒も《老子大権菩薩経》・《清浄法行経》など少なからず経典を偽造して道教と儒教
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-4.htm
開目抄
止観に云く ̄我遣三聖化彼真丹〔我三聖を遣わして、彼の真丹を化す〕等云云。
弘決に云く ̄清浄法行経云 月光菩薩彼称顔回、光浄菩薩彼称仲尼、迦葉菩薩彼称老子。天竺指此震旦為彼〔清浄法行経〕に云く 月光菩薩、かしこに顔回と称し、光浄菩薩、彼に仲尼と称し、迦葉菩薩、彼に老子と称す。天竺、此の震旦を指して彼と為す〕等云云。
紀元前500年頃 老子、誕生する。
紀元前552年(魯襄公21年) 孔子、魯国に生まれる(〜BC479)。
紀元前521年(景王24年) 顔回、生まれる。
紀元前565年 釈迦降誕(一説)。
紀元前1024年(周昭王24年) 釈迦誕生の瑞相起こるか(4月8日)。
『周書異記』『仏祖統紀』。蘇由によれば西方に聖人の誕生した瑞相という。
紀元前949年(周穆王52) 釈迦入滅か(2月15日)。
『周書異記』『仏祖統紀』。扈多によれば西方の聖人が歿した相であるという。
紀元前486年 釈迦入滅(一説)。
『衆聖點記』。釈迦の寿命については79歳、80歳、84歳と諸説よって異なる。
紀元前479年 孔子、歿す。
190
:
地名
:2004/06/19(土) 20:00
富士山
「簡堂叢書 不盡嶽志」
岳名・「不盡」(尽)、 因(より)・邦音・塡(あてる)字、 世多・作「富士」、 或作「富岻」(ふじ)、 或作「不二」、 而・皇極紀・作「不盡」、 是・為最古、 今・従之、 其他○萏(たん)「芙蓉」諸称、 皆詞人・所名、 不足・徴也、 岳四面同状、 南・控(伊)豆海、 西・扺(うつ)富(士川)水、 東北・限八湖(富士五湖)、 麓(ふもと)・多・異草、 曰(いわく)草山、 草盡而樹・曰(いわく)樹山、 樹盡而屺(き)・為岳身、 其上純粠(がん)、 険仄・如削、 巓(いただき)・有円坎(あな) 峯巒(みね)環(わ)列、 其最高而・在坤(ひつじさる)位者・曰(いわく)中臺(だい)、 少北・曰(いわく)馬背・曰(いわく)雷粠(がん)、 又・北・曰(いわく)釈迦、 少東・曰(いわく)薬師、 又・東・曰(いわく)観音、 少南・曰(いわく)経冢(ちょう)、 又南・曰(いわく)駒峯、 峰西即中臺(だい)、 是・為八稜、 其・峙(そばだつ)中腹者・曰(いわく)宝永・曰(いわく)小岳、 庭・曰(いわく)御庭、 壑(たに)・曰(いわく)鳴谷・曰(いわく)燕(つばめ)谷、 石架壑(たに)・曰(いわく)浮天矼(こう)、 漸下・峙(そばだつ)麓(ふもと)底・曰(いわく)猪鼻・曰(いわく)愛鷹 」
「謡曲 富士山」
抑是は宋の帝の方士、管歸眞とは我事なり、さても日本「富士山」に、不老不死り薬あるにより、もとめて参れとの勅を蒙り(こうむり)、仙術を以て只今「ふじ山」へ至り候
「廣文庫」第十七册より引用
191
:
地名
:2004/06/19(土) 20:34
富士山の名義
「松屋棟梁集」一(一四)
富士の山のゆえよし(由縁)をいわば、「富士」は・もと「吹息穴」(ふじな)のつづまりにて、「嶺(みね)の穴より息吹(いぶき)おこれる」がゆえの名にや
三国一の名山
「三輪物語」
富士山は三国一の名山といえり、三国というに及ばず四海一の名山なり、
秦の始皇(帝)・海中の「蓬莱」仙宮」を求めし時、漫々たる大海に漕出たるに富士山の見えけるを、おどろきて・これこそ「蓬莱山」よとて・楫(かじ)をむけて・たづねよれり、
「秦氏」の者は其の時の唐人の子孫なり
http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test84.htm
192
:
犀角独歩
:2004/06/20(日) 11:47
地名さん、恐れ入ります。
185の「天照太神は社○の神」の○は「稷」でしょうか?
188の「「本地垂跡」のことは、御国の古き僧」とは僧肇の先に引用されたところと一致すると言うことでしょうか。
190の「其他○」の○はどのような字でしょうか。
わたしは以下を記述法を真似ています。
[人*壬] 人
[口/王] 呈
[王*貝+貝/女] 瓔
[門@日] 間
[間-日@口+口/単-ツ] 闡
他にも本則があったのですが、ちょっと思い出せません。
お時間があるとき、以下のような次第でご教示いただければ有り難く存じます。
193
:
犀角独歩
:2004/06/20(日) 11:48
【192の訂正】
誤)[人*壬] 人
正)[人*壬] 任
194
:
顕正居士
:2004/06/21(月) 09:40
地名さん。
>私注:現代仏教学では釈迦が本地垂跡説を唱えたとは言われていないのではないか。
>私注:ここでは本地垂「跡」となっていて本地垂「迹」とはなっていない。
>私注:「俗神道大意」は、平田篤胤の作か。
釈迦があらゆる経を説いたかのように平田氏が述べているからでしょうか。
「徳川幕政の中運以後、神儒二道の中よりして排仏家を出だすこと其数少なからず、然れども
他は皆学者の態度を以てせしかば、その影響するところ広からざりき、然るに平田氏の如きは
自ら考ふるところありて、学者の態度を守らず、一に通俗を旨となせしかば、その影響する
ところ頗る大なりき」
村上専精『大乗仏説論批判』1903年・第3章第4節「平田篤胤氏の大乗仏説論」
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=55008677&VOL_NUM=00000&KOMA=47&ITYPE=0
平田篤胤は富永仲基や服部天游の学説をよく知っていましたが、それらを知らない仏教徒の
無知をからかいながら、一般人にいかに仏教が荒唐無稽の教説であるかを訴えたようです。
『俗神道大意』は門人の筆記ですが、平田氏の説であることは確からしい。『印度蔵志』は
もっと科学的です。「跡」と「迹」は通用します。
195
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/06/21(月) 14:10
犀角独歩さん
4月頃に独歩さんから紹介させて頂いた、現存の日蓮大聖人の御真筆と言われる
写真を全て拝見させて頂きました。中学生時代から日蓮正宗の信徒であった私が
他宗の日蓮大聖人の御本尊を見ると言うことには、大変な精神的な障碍がありま
したので御返事が遅くなりました。120以上に及ぶ御本尊を拝見しまして私が
思ったことは、筆の違い等はありましてもあれらの御本尊が全て同一人物の書体
とは考えられません。人は30歳を越えては書体が変わることは殆どないのです。
いや人の書体は遅くとも20歳迄に決まってしまうものなのです。それなのに日
蓮大聖人御真筆とされる120以上の曼陀羅の約6割は同一人物の手によると思
われますが、他の約4割はどう見てもその6割の曼陀羅とは似ても似つかない曼
陀羅です。独歩さんはこのことをどうお考えですか。弘安2年前後の大聖人の曼
陀羅にも題目の七字が四天王の四字より小さい曼陀羅もありまいた。でも書体は
同じですね。私は戒壇の大御本尊は御真筆であると思います。しかし私は秀峰さ
んと同じように元の戒壇の大御本尊は紙幅であったと思っています。日法上人の
彫刻か室町時代の彫刻かどうかは東大級専門研究者の鑑定が無ければ分からない
と思います。でもいずれにせよ戒壇の御本尊は大聖人の書体の特徴がありますか
ら、偽作では無いと思います。あと独歩さん。日興上人の「飛び曼陀羅」も木彫
なんですよね。そうすると日興上人が「日興が身に当て給う」戒壇の御本尊を木
彫したとも思えますね。
196
:
れん
:2004/06/21(月) 18:20
横レス失礼します。平和創価さんはじめまして、平和さんは百二十余幅の蓮師マンダラについて、全て同一人物の書体とは考えられませんとのことですね。しかし蓮師マンダラに時代により変化が見られるのは周知の事実で、この変化の理由は後世の偽作を防ぐためと思いますよ。興師の場合は書写の期間が四十余年と長いため、その変化は蓮師よりも多種多様です。弥四郎マンダラは控えめにみても弘安三年の蓮師マンダラを摸刻したもので、どうみても弘安二年の御筆には見えません。なお飛びマンダラは原本は紙幅です。写真は奉蔵於奥法宝に掲載されています。
197
:
皆様へ
:2004/06/21(月) 20:34
平和創価と言う人は2chの層化板で華元と名乗っていました。
自演癖もあるロリコンの変態なので相手にしない方が良いですよ。
http://society2.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1084377293/138
http://society2.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1086442621/323
198
:
犀角独歩
:2004/06/21(月) 20:46
平和創価さん:
わたしは196のれんさんと同意見です。
山中師『御本尊集』は何舗か他筆が混じっているでしょうが、4割とは思えません。
弥四郎漫荼羅は、申し上げているとおり、わたしは禅師授与漫荼羅を素本にした彫刻であると考えます。この場合、同漫荼羅は弘安3年5月9日図示ですから、弥四郎漫荼羅の弘安2年10月12日という日付は後加文であるという見解です。つまり、文字の真贋を問うているのではなく、そこに記された日付と相貌に‘使用された’文字の日付にずれがある点を指摘しているのです。
また、いくら元の文字が蓮師のものであろうが、彫ってしまえばそれは彫刻です。花を撮影した写真は花の写真であって、花ではなく、写真であるというのと同じ理屈です。それ故、少なくとも蓮興二師はその彫刻など考えもしなかったであろうと、当時の文献から考える次第です。
法師彫刻説については既に考証しました。ここには繰り返しません。
まったく、謂われなき後世の信憑性のない伝説に過ぎません。まともに取り上げる気になれません。
また、板漫荼羅の起源がいつのことであるのか、ここではその考証はしませんが、文献で見る限り、それは一体ではなく、複数のものが存在しているとわたしは考えています。
室町どころか、もっとずっと近代の可能性は否めません。
> 日興上人が「日興が身に当て給う」戒壇の御本尊を木彫
『日興跡条々事』の一文ですか。この書の真偽は現在三学無縁さんが精査されていますので、ここではわたしは述べません。わたしは偽書の立場です。
また、ここで「戒壇」の二文字を補っておられますが、何を根拠にしてのことでしょうか。このような根拠を示さない挿入をわたしは斥けます。
また、同事で「掛」と記されるわけです。彫刻した200キロもあると想像される板漫荼羅を掛けられるわけはなく、この時点で彫刻された板であれば、このような記述とはならなかったでしょう。もし、同事が興師筆であったとしても、その時点では紙幅であったこと物語っています。また、ここでいう漫荼羅が弥四郎漫荼羅ではないことは、その素本が弘安三年であることを示せば足りるでしょうが、その他、既に論じられたことなので、ここでは繰り返しません。過去ログをお読みください。
なお、「大本尊」とは第16号本尊に、蓮師自ら記されるところであり、これを弘安2年に興師に授与されたというのであれば、この‘大本尊’以外の‘漫荼羅’であるはずはないとわたしは考えます。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
199
:
地名
:2004/06/23(水) 21:25
192 独歩さん
ご報告遅くなりましてすみませんでした。
>185の「天照太神は社○の神」の○は「稷」でしょうか?
>188の「「本地垂跡」のことは、御国の古き僧」とは僧肇の先に引用されたところと一致すると言うことでしょうか。
>190の「其他○」の○はどのような字でしょうか。
以下、回答になっているか自信がありませんが、順に記させて頂きます。
天照太神 社稷の神(しゃしょく・のかみ)
八幡大菩薩 宗廟の神(そうびょうのかみ)
「御国」とは、前後の文脈からすると我が国の事と思われます。
「草かんむり」の下に「函」を書きます。
以下は国語辞典なのでどこまで適切か自信がありませんが、参考までです。
「社稷」は、土地の神、農業の神である「社」と、穀物の神である「稷」を意味する。
しゃしょく【社▼稷】
(1)土地の神(社)と五穀の神(稷)。昔、中国で建国のとき、天子・諸侯は国家の守り神としてこの神々を祀(まつ)った。
(2)国家。朝廷。
(3)朝廷または国家の尊崇する神霊。
「宗廟―の天照大神におはしませば/盛衰記 30」
すめら-おおもとお ―おほもとを 【〈社稷〉】
〔「社稷(しやしよく)」の訓読み〕
(1)国家の尊崇する神霊。[新撰字鏡]
(2)国家。朝廷。
そうびょう ―べう【宗▼廟】
(1)祖先、特に君主の祖先の霊をまつった建物。みたまや。
(2)国家。
宇佐八幡について
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu2-1.htm
200
:
地名
:2004/06/23(水) 21:48
194 顕正居士さん
非常に重要かつ有益なご指摘を頂きまして、御礼申し上げます。
>釈迦があらゆる経を説いたかのように平田氏が述べているからでしょうか。
はい、平田篤胤師がお釈迦さまが説いたように、私自身が受け止めましたので、本地垂迹についてお述べになっていないのではないかと思い感想を記しました。
間違っていれば訂正いたします。
村上専精先生の『大乗仏説論批判』を熟読いたします。ありがとうございます。
>平田篤胤は富永仲基や服部天游の学説をよく知っていましたが、それらを知らない仏教徒の無知をからかいながら、一般人にいかに仏教が荒唐無稽の教説であるかを訴えたようです。『俗神道大意』は門人の筆記ですが、平田氏の説であることは確からしい。
そうなのですか。それは知りませんでした。神道関係の本を読んでいたところ、本居宣長師よりも平田篤胤師の神道の考えに対する評価が高い見方をされる方がいたものですから、神道の立場からすれば本地垂迹説は仏教側の主張なのではないかと思いました。このへんも、私の理解が間違いでしたら訂正いたします。
>『印度蔵志』はもっと科学的です。
この書籍も熟読いたします。
>「跡」と「迹」は通用します。
はい、その通りかと存じます。
「跡」「迹」という用語が、中国の荘子から出ているのか、あるいは法華経の本迹あたりなのかが私自身定まらなかったため、に記したものです。
これについても間違いでしたら訂正いたします。
いずれにしましても、神道あるいは古道(いにしえのみち)は奥深く、書籍が多数にのぼり、初学の私には手に余ります。宇佐八幡の研究に没頭された中野幡能先生等々多くの優れた先生方の本を読まなければならないと痛感しております。
顕正居士さんからご紹介があった上記の書物をまず熟読して、改めて種々御指導を賜りたいと存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました。
201
:
犀角独歩
:2004/06/24(木) 07:44
199 地名さん:
ご多忙のところ、有り難うございました。
202
:
金 永燦
:2004/06/25(金) 01:10
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g23026354
で京都本圀寺
所蔵の兵衛殿御返事の断簡がオークションに出品されています。
盗品か流出かは不明です。
203
:
空き缶
:2004/06/26(土) 01:46
突然違った話題ですみません。皆様のお知恵をお借りしたいと存じます。
「御義口伝」や「日向記」が疑義濃厚であることは、すでに随所で議論されてきたことと存じますが、身延期の聖人法門講義について調べたいことがあります。
創価学会の出現と御書全集の流布によって、多くの人に知られることとなった「御義口伝」「日向記」ですが、これらは後世の成立が濃厚であるのに対し、身延期の聖人法門講義の筆録として注目されているものが日興上人「安国論問答」、日向上人「金剛集」です。
日興上人の筆録に関しては、興風談所「日興上人全集」の発刊によって、「安国論問答」に続く「仏法相承血脈譜等雑録」〜「本門弘通事」が開示され、金剛集とあわせ身延期の講義内容がどのようなものであったかを知る、貴重な資料となりました。
そして日蓮宗宗学全書第1巻掲載の伝日法記「聖人之御法門聴聞文集」も、日法師の他の文献と比べ明らかに「遺筆」であり、宗学全書でも「写本」として扱われています。(実際は疑義濃厚です)
日法師の直筆が残る「御法門御聞書」は、平成二年の日法上人650遠忌にはじめて世に出回りましたが、こちらは多くの個所で日向上人の「金剛集」と同一の筆記がみられます。日法上人御所持本調査委員会でも「御法門御聞書」は筆跡より日法上人の直筆と断定しました。
日向師・日興師・日法師の筆録とあわせ、注目されつつあるものが、日昭師の「我師御法門聞書」と「御法門聴聞記」ですが、これらの日昭師の筆録を掲載した文献を探しています。
郷土史料などでもかまいませんので、ご存知の方情報提供願います。
204
:
地名
:2004/06/26(土) 09:51
空き缶さん
>日昭師の「我師御法門聞書」と「御法門聴聞記」ですが、これらの日昭師の筆録を掲載した文献を探しています。
立正大学図書館に「日昭尊者並玉沢関係資料集」小池政臣編||ニッショウ ソンジャ ナラビ タマノサワ カンケイ シリョウシュウ
出版・頒布事項 静岡 : 妙法華寺 , 1972.4
形態事項 66p : 図版 ; 21cm
注記 六老僧第一 当山開山 大成弁院阿闇梨日昭尊者第六百五拾遠忌記念出版
があります。ただ上記ご指定のものがあるかどうかはわかりません。
玉沢法華経寺等日昭上人の関係の深い寺院等にお聞きになってみてはどうでしょうか。
すみません、あまりお役に立てずに。
205
:
空き缶
:2004/06/26(土) 11:48
地名さん、貴重な情報をありがとうございます。
206
:
れん
:2004/06/26(土) 23:04
空き缶さん。私も日蓮聖人の身延期の法門講義には大変興味を持っています。蓮師は初学者に対しては先ず一代五時鶏図等を講義したと思います。御義口伝・御講聞書の如きは文献的に信用出来ないので勿論はずすとして、蓮師直弟子・高弟による安国論問答や金剛集といった蓮師法門の聞書は、蓮師真蹟遺文とともに蓮師の晩年の思想を考察する上で貴重な文献史資料であることは間違いありません。空き缶さんが203に提示された昭師の「我師御法門聞書」「御法門聴聞記」は私も初耳の文献で興味津々です。その内容が分かりましたら、御披露戴ければ幸甚です。
207
:
無徳
:2004/06/27(日) 01:11
空き缶さん地名さん始めまして無徳と申します。
前にも書いて顰蹙を買いましたが、私はこの掲示板が富士門流の進歩発展の為
の掲示板だとばかり思っていました。
でも皆さんの論議を見聞しますと実状は富士門流にとって否定的な言説に満ち
ているように私は思います。
日蓮本仏論の否定や、いわゆる戒壇の御本尊の疑義に始まり、れんさんの様に
御義口伝・御講聞書のようないわゆる口伝法門や本覚論的文献に対する否定的
言説と言い、日蓮正宗が連綿として築き上げた法門がことごとく否定の刃に晒
されているかに感じますが私の思い過ごしでしょうか。
まず否定的批判から始める事が進歩発展の為に必要不可欠ということでしょう
か?
私は日蓮正宗総本山が十全に正しとは考えていませんが、法門の正当性を確立
する為に導き出されたであろう、唯受一人血脈相丞といった概念や信仰の拠所
としての日蓮本仏論や戒壇の本尊という立論も全て間違っているとは考えられ
ません。
私には独歩さんが言われるような明証的証拠主義は、科学の世界と違って宗教
の世界では十分には馴染まないのではないかと考えております。
インド応誕の御釈迦さんが実際にどのような悟りを導かれたのかさえ、本当の
ところは解らないと言うのが実状ではないでしょうか?
まあ、れんさん日蓮信仰から離れられるとのことですからともかく、空き缶さ
んや地名さんのお立場はいかがなものなのでしょうか?
なにはともあれ、他宗派が殆ど観光化する中で観光化をせず、様々に紆余曲折
は有ったにせよ、戦前から戦後と創価学会が主体ではありましたが日蓮仏法を
宣揚してきた事実は隠しようも無い事実だと思います。
現在は法華講だ創価学会だ、やれ顕正会だ正信会だと互いに正当性を主張して
おろかな罵り合いを演じていますが、もし日蓮仏法が真実で間違っていないの
であれば、やがてそれぞれの立場を超えて日蓮仏法と言う大海に流れ込むであ
ろう事を確信するとともに強く望んでもおります。
この掲示板がその為の場になることをも希望し、こうして拙い投稿を繰り返し
てもいるわけです。その辺の空き缶さんや地名さんのお考えをお聞きしたく、
またまた顰蹙を買いそうな拙文を投稿させていただきました。
208
:
空き缶
:2004/06/27(日) 03:38
無徳さんはじめまして。
私は一応信仰者の端くれです。どんなに議論が進もうと日蓮聖人への信仰心は醒めないでしょう。
しかし、日蓮門下分断の根源である大石寺教学(特に唯授一人と戒壇本尊)は、その誤りを明確にしなければならないと考ええています。
それが宗祖日蓮聖人への報恩であると考えます。
その上で、宗祖日蓮聖人の真の教えとはなにか、これを真摯に求めて参りたいと思います。
209
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2004/06/27(日) 03:57
無徳さん:
わたしの名前を挙げているので、いちおう書きますが「明証的証拠主義」は、わたしの立場ではなく、日蓮その人の主義信条であると考えています。そして、それを厳格に次いだのが日興であったと考えます。しかしながら、当時は科学も発展しておらず、それを徹底することが出来なかった。それ故、その遺志を継ぎ徹底すれば是の如き結論になってきたという次第でしょう。つまり、それを否定するあなたの考えは富士門、日蓮を語りながら、あなたは日蓮・日興と富士門に反しているということです。
そもそも、あなたがいう蓮興・富士門は、日蓮・日興と富士門の祖道とは著しく異なる後世の改竄を指すものであり、その意味において、蓮興二師を蔑ろにし、土泥にまみれさせているとわたしには映じます。
故に「否定的言説」に満ちているのではなく、むしろ、富士門、日蓮の名を語る例えばあなたの言説こそ、日蓮・日興、富士門の考えを、のちの解釈から否定的にとらえている思えるということです。
それにしても、いつまでも同じことをくどくどと繰り返すあなたの書き込みは見苦しい限りです。わたしは勝敗など、どうでもよいのですが、あなた自身、『鰯の頭も信心から』のスレッドで「貴方の勝ちと認めてこれにて失礼」と記ながら、相変わらず、それ以前の主張を繰り返す態度はまことに議論のリールから逸脱するあるべからざるものであると忠告を申し上げるものです。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1083757197/r44
210
:
無徳
:2004/06/27(日) 08:11
>それにしても、いつまでも同じことをくどくどと繰り返すあなたの書き込み
>は見苦しい限りです。わたしは勝敗など、どうでもよいのですが、あなた自
>身、『鰯の頭も信心から』のスレッドで「貴方の勝ちと認めてこれにて失礼」
>と記ながら、相変わらず、それ以前の主張を繰り返す態度はまことに議論の
>リールから逸脱するあるべからざるものであると忠告を申し上げるものです。
独歩さん、「貴方の勝ちと認めてこれにて失礼」はあの時の論議から抜ける為
のレトリックですよ、もともとこのような論議に勝敗など有り様がありません
ですよ、貴方からの忠告など必要もありませんし拒否致します。
なぜかならば、この掲示板における声高な貴方の言説によって<富士門流信徒
の掲示板>と言うより、<犀角独歩の掲示板>と形容したほうが適切とさえ言
える程ですよ、以前sunyaさんがこの掲示板は貴方が取り仕切っているかのよ
うだと形容した時、貴方がそれに反発したことを私は擁護する意見を述べまし
たが、どうやらsunyaさんの意見が正しかったようです。
貴方はどこぞからのお達しとの事でこの掲示板から離れることを自ら宣言して
しばらくの間この掲示板を離れ、別の掲示板で何人かの方と論議していました
が、そこでの論議に満足できなかったと見え、いつの間にかこの掲示板に舞い
戻って、またもやこの掲示板を取り仕切っているかに見えるのは私だけでしょ
うか?それこそ私に言わせれば見苦しい限りですよ!
この掲示板に集う方々も貴方と意見を異にする人は次第に遠ざかり、貴方と
意見が合う人だけが論議する場と化している現状が、まさに貴方の言う明証的
証拠と言えるでしょう。
まあ、私も貴方との論議はこれにて最後と致しましょう。
皆様のますますのご活躍を祈念しつつ失礼致します。
211
:
犀角独歩
:2004/06/27(日) 08:26
無徳さん:
言説に詰まって、落ちていくと、詰まらせたほうが仕切ったことになるなどと言う論法は成り立たないでしょう。わたしは、この掲示板を仕切っているつもりもありませんし、気が合う人々とお気楽な雑談をしている気もありません。
それにしても、日蓮本仏の肯定のみならず、弥四郎漫荼羅の肯定が富士門全般の進歩発展につながるなどと言うことには呆れるばかりです。
富士門はひとり石山を指すのではなく、広く富士を仰ぐその他興門を指しています。そのいずれで、弥四郎漫荼羅を肯定することが富士門の進歩発展につながるなどと考えているところがあるのでしょうか。
むしろ戦後日本社会で数と権力にものを言わせ、「言論弾圧事件」まで起こして、自分たちの主張を批判するものを封じ込めてきたために真実を閉ざされ、苦しみ喘いだ富士門の真実を、いまここに白日の下に晒す作業をしているわけです。
それにしても無徳さんともあろう方が、わたしの個人攻撃を公開の場に書き連ねるとどうしたことでしょうか。あなたのここのところの書き込みは何かわたしへの怨恨が頭を占め、しがみつきたい「日蓮本仏、弥四郎漫荼羅の正当性」を鸚鵡のように繰り返しているだけとお見受けします。そのような姿をわたしは見苦しいと言ったのです。議論をするのであれば、一々に証拠資料を挙げるのは当然のことです。
それにも拘わらず、何ら証拠を挙げることもせず、真摯に資料文献に当たる方々が富士門の進歩発展を妨げる断言するファンダメンタリズムは如何ともし難いものであると批判せざるを得ません。
弥四郎漫荼羅は後世の贋作である、このことをしっかりと世に知らしめることこそ、富士門流が世に立ち、その進歩発展の一歩を踏み出す最重要な課題であるとわたしは思います。
下らぬ始成に縛られ、考えることを忘れるなど、実に平静さを失った気の毒な姿であると思うものです。
212
:
ペン太郎
:2004/06/27(日) 10:28
>210
無徳 さん
はじめましてロム専門のペン太郎といいます。
「この掲示板に集う方々も貴方と意見を異にする人は次第に遠ざかり、貴方と意見が合う人だけが論議する場と化している」
次第に遠ざかる人も理由は様々かと思いますが、基本的には「反論出来ない。」からでしょう。
富士門流の各団体の多くの方が、この掲示板で疑義が出されているテーマの推移を見守っていると私は思います。
富士門流に対し、非常に多くの影響を与えている掲示板だと確信しています。
それにしても肯定派?の方も少しは真剣になって欲しいですね。この掲示板で論じられているテーマの重大性の認識が甘いと思います。
責任感が少ないと思わずにいられません。自己が間違う分には「自業自得の自己責任」ですが、他者に対しての責任をどう思っているのでしょうか。
213
:
管理者
:2004/06/27(日) 14:03
>210 無徳さん
管理者は、当掲示板のルールに基づいて、この掲示板を管理運営してきました。この掲示板は誰に対しても開かれています。また、去るのも当然、御自由。再度参加されるのも御自由。書き込むのも御自由、閲覧だけに止めるのも御自由です。
ただ、書き込みをされる場合は、書き込みのルールが設定されていますので、それに従っていただきます。
勿論、ルールの変更を提案されるのも自由。御参加の皆さんでご意見を出し合って合意できましたらルールを変更することも出来ます。
なお、管理者は、犀角独歩さんとは、一切、何の利害関係も有りません事を、犀角独歩さんの名誉をお護りするために申し添えておきます。
>この掲示板に集う方々も貴方と意見を異にする人は次第に遠ざかり、貴方と意見が合う人だけが論議する場と化している現状
これを仕切っている、と仰られるのなら、有る意味で的を得ていると管理者も思います。然しながら、それが良くない事とは全く管理者は考えておりません。逆に、独歩さんの指摘された事に対して、文証を示して反論、論破することが出来る論客が今後現れて、この掲示板を仕切って下されば、それも叉、結構なことであると考えています。
富士門流各派は、あまりにもセクト的で、阿修羅の如き姿を呈していると思います。この掲示板の設置の大きな目的の一つは、それらのセクト主義からの脱却です。
ですから、管理者は、それぞれのセクトを代表するような論客が続々と掲示板に参加なされて、火花の散る議論が交わされることを望んでおります。掲示板のルールさえ守って戴けるなら、どのような激論もこの掲示板は是認いたしております。御理解賜りますれば、幸いに存じます。
214
:
愚鈍凡夫
:2004/06/27(日) 16:25
無徳さん、お久しぶりです。
以前にも同じようなことがありましたが、犀角独歩さんが仕切っていると言うよりは、犀角独歩さんが普通、邪魔くさいと思うよなレスにも懇切丁寧にレスを返されていることが、仕切っているように映っているということだと思います。お忙しいのに大変だなと思っています。逆に、それが犀角独歩さんの優しさなんだと思っています。だから、犀角独歩さんの論説に異議があれば、それはそれで主張されればよいのではないですか。
何時も、無徳さんは文証よりも信仰心の方が大切だと思ってらっしゃるんだと感じています。強い信仰心があって文証や理証が生かされると思うのであれば、それはそれで、主張されてはどうですか。ロムされている方の中には、無徳さんに賛同されている方もいらっしゃると思いますよ。
しかし、違う視点から見れば、いろんな人とぶつかったり、協調したりすることで、一歩先に進むことが出来れば、それにこしたことはないと思います。
この掲示板で何度か無徳さんとお話しさせていただきましたが、退くことではなく、進むことを考えてほしいと思います。
無徳さんのレスを読ませていただいて、そんなことを感じました。
215
:
無徳
:2004/06/27(日) 17:26
管理人さんのご意向は十二分に了解しました。
また愚鈍凡夫さんが
>退くことではなく、進むことを考えてほしいと思います。
と言われた事も良く理解できます。
しかし、私もついに日蓮御坊が亡くなられた61歳という年齢に達してしまい
ました。
己の体調や日々の有り様を考えますと、おそらくは残された人生も20年ある
かどうか心許ない状況です。
私としては先にも記しましたが残余の人生を、不幸にも法華講や創価学会さら
には顕正会や正信会と分裂状態にある富士門流を、日蓮仏法という一つの大海
に流れ込むべく努力を傾注したいと存じます。
したがって、この掲示板におけるよな批判的論議をしていることは先の目的に
照らして余裕がありません。
しかし、皆様方が日蓮仏法にかかわる真偽の問題に関して論議をされることを
否定したり邪魔をするつもりは毛頭ありません。
まさに、愚鈍凡夫さんがおっしゃった様に自己の目的に照らして退くことでは
なく進むことを選択したく思います。
これからも機会があればこの掲示板にお邪魔することもあるかもしれませんの
でその時にはまたよろしくご指導ご鞭撻を心からお願い申し上げます。
それでは、皆様のご健勝とご活躍を祈念しつつしばらくのお暇をいただきます。
216
:
管理者
:2004/06/27(日) 17:40
無徳さん
御理解戴き、誠に有難うございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
217
:
八橋左近 </b><font color=#FF0000>(nRmEArys)</font><b>
:2004/06/27(日) 18:06
横レス失礼させていただきます。
宗祖は本当に明証的証拠主義者だったのでしょうか。
宗祖が単なる明証的証拠主義者だったと言うのは疑念が無いでしょうか。以下花野充道師の論文を引用しつつご提示申し上げます。
はじめに、こんなことを書くと根が真面目な日蓮宗、日蓮正宗の信徒の方にお叱りを受けるかも知れませんが、宗祖には自身が証得した観心の法門の教説に文証上の権威をもたせるために、智邈や最澄の文を切り文的に利用しているにすぎないような面があります。
一例を挙げるなら、教義としては、智頻や最澄の教義より、よほど中古天台の教義に近いにもかかわらず、あえて智邈や最澄の文を教証として切り文的に引用しているということがあります。
たとえば円珍について、表向きは最澄に対する師敵対、不知恩の者と全面否定しておきながら、陰ではしっかりと円珍の文の中で利用できるものは、教証として引用したりしています。
さて浅井要麟氏は、宗祖の『総勘文抄』の偽書説を述べるに当たり、
『書中に円珍の『授決集』の「徴他学決」の文を引用した後、「先徳大師(円珍)の所判、是くの如し。諸宗の所立、鏡に懸けて陰り無し。末代の学者何ぞ之れを見ずして妄りに教門を判ぜんや」(一七〇三頁)と論じている点が不審である。宗祖が円珍等の台密を雑乱仏教として弾斥されたことは、あまりにも有名であるから、このように肯定的に円珍の文を引用されるということには疑義をさしはさむ余地がある』
と論じられています。
しかし宗祖は、建治二年の『報恩抄』(真蹟存)、同年の『和漢五代記』(真蹟存)、弘安元年の『秀句十勝抄』(真蹟存)に、『授決集』の同文を引用して法華最勝(法華勝密教劣)を論じていますから、弘安二年の『総勘文抄』にそれが見えても何ら不思議ではなく、宗祖は建治二年(五十五才)から弘安二年(五十八才)にかけて、『授決集』の法華最勝の文を好んで用いたと考えればよいと思われます。
宗祖の円珍批判の心底について、浅井円道氏は次のように述べられています。
『宗祖は、円仁と円珍とを並べて、「伝教大師に逆う僻人」(八五五頁)、「本師伝教大師の大怨敵」(一五七九頁)等と貶称しているが、円珍の『普賢経記』には、祖師伝教への報恩の志を荘厳するためにこの書を著わした、と書かれています。
宗祖は円珍のこの文を知らなくて、祖師に逆らう大怨敵と記したのだと思っていたら、なんと宗祖自筆の『注法華経』に、右の『普賢経記』の文がそのまま書きこまれていました。これをもって、宗祖の円珍批判の意が奈辺に置かれていたかを推測されたい、と。すなわち宗祖は、円珍が祖師への報恩の志をもっていることを充分に承知していながら、祖師に逆らう大怨敵と記していたわけであります。
このように宗祖は、自分の都合にあわせて文献を操作する面があり、この一点をもってしても、宗祖が宝地房証真のような厳格な教相主義者(明証的証拠主義者)でないことは明らかであります。』
つまり、最初に結論ありきで、後から文証を当てはめるというのが宗祖の特徴であったと言えましょう。
218
:
犀角独歩
:2004/06/27(日) 19:04
> 217 八橋左近さん:
これはなかなか秀でたご指摘であろうかと存じます。
参考になりました。
219
:
犀角独歩
:2004/06/27(日) 19:40
さて、そろそろ、当スレッドのテーマ『 蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』に戻りませんか。
222
:
管理者
:2004/06/30(水) 06:36
>220
>221
既に当掲示板への参加をお断りした方からの投稿です。どういう訳か、レスが有りましたが、管理者に無断で投稿されています。
以上の理由により、220 及び221レスは削除いたしました。
223
:
清香
:2004/07/06(火) 00:11
只今、本堂内陣中央に御奉掲申し上げました御本尊様は、弘安2年4月8日に、大聖人様がお顕しくださいました直筆の御本尊様でございます。大聖人様の御本尊様にも、文永期の御本尊様と建治年間の御本尊様と弘安に入ってからの御本尊様と、その相貌に違いがございます。只今御奉掲申し上げました御本尊様は、ちようど中央にお題目がありまして、その下にやや空間があって、日蓮、そして大きな花押が認められております。お題目と御署名、花押が一直線になって整足しているのが弘安期の御本尊様の特徴でございます。また御本尊様の相貌のなかに、地獄界の代表としての提婆達多が認められているのも、文永・建治の御本尊にはほとんど拝見することができず、弘安2年2月、日目上人に授与された御本尊様以後に限られております。つまり、御本尊様の相貌が法華経の宝塔の姿から、大聖人様の己心のお悟りに基づくお姿に変わってまいります。そうして南無妙法蓮華経の法体と、大聖人様の仏様としての御境界とが一体となって、人法一箇の御本尊様としてきちっと整足するのが、特に弘安2年からの御本尊様でございます。ここに弘安期における大聖人様の御化導におけるところの終結といいますか、三大秘法の大仏法の確立における大事な御本尊の相貌の変化というものを拝するのでございます。
特に、弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊こそ究竟のなかの一番の御本懐の御本尊様であるということをしっかりと心に置いて、同じ年の4月8日、釈尊が誕生した、いわゆる仏生日に当たる日を選んで、大聖人様がお認めくださった御本尊様ということを、どうか覚えておいていただきたいと思います。
当妙光寺の大聖人御真筆の御本尊様は、向かって左脇に授与された年月日が認められているのでございますが、非常に薄くなっておりまして、今までどのようにお読みするのか、何時お認めになられた御本尊様か分からなかったのです。ところが平成8年に妙光寺百周年の法要を奉修申し上げました。そのとき、宗門といたしましても
日蓮正宗の歴史を記録した『富士年表』を発刊しておりましたが、そのなかにも妙光寺所蔵の大聖人様の御本尊は年号が不明のため収録されていなかったのです。何とか年表の改訂の作業と共に、もう一度妙光寺の御本尊様を見直していただきまして、私達も協力いたしまして、弘安2年前後の他の御本尊とも比較対照いたしました。そうすると、弘安2年4月8日に認められた御本尊が、日蓮宗の千葉県茂原の藻原寺と、静岡県三島の妙法華寺というところに所蔵されておりまして、その2幅の御本尊と妙光寺の御本尊と相貌が非常によく似ておりました。そこで、近くで改めて拝見いたしますと、「弘安二年太才四月八日」とお書きになっておられるに違いないと判読されまして、大聖人様がお顕しになったのは、弘安2年4月8日であるというふうに確定をすることができたわけであります。
また本堂の中央に御安置申し上げる御本尊様も、二祖日興上人の板御本尊様でございますから、大聖人様の御真筆御本尊を御宝蔵に厳護し、しかも本堂には二祖日興上人の御本尊様を御安置申し上げているという末寺は、世界中のどこを探してもないわけであります。 したがって、皆様方はそこに誇りを持ち、そうした御本尊様を伝えてこられた歴代先師の信仰を、どこまでも正しく受け継いで、私達も平成の今日に広布を託された人間として、さらに過去の百年の歴史を踏まえて、新しい広布に挺身しなければならないと、ひしひしと感ずる次第でございます。どうか皆さん方も、その意義をこめての御霊宝虫払会の法要でもあるというふうに受け取っていただきたいと存ずる次第でございます
224
:
空き缶
:2004/07/06(火) 00:25
妙光寺住職尾林日至師の虫干しでの説法ですね。
これで全く同じ日付の本尊が三鋪あることになりますね。
弘安二年期らしい「只今御奉掲申し上げました御本尊様は、ちようど中央にお題目がありまして、その下にやや空間があって、日蓮、そして大きな花押が認められております。」という特徴がいいですね。
しかしそのあとに、弘安二年期らしくない題目の下に空間が無い、どうみても弘安三年期の相貌である「本門戒壇之大御本尊」を究極中の究極というところは、チョッと笑えますね。
225
:
犀角独歩
:2004/07/06(火) 17:45
清香さん、はじめまして。
空き缶さん、どうもです。
「弘安2年4月8日に、大聖人様がお顕しくださいました直筆の御本尊様」
少し要領を得ないのですが、これは石山末妙光寺所蔵の蓮師御筆漫荼羅であると言うことでしょうか。
弘安2年4月8日漫荼羅と言えば、山中師『御本尊集』では第61と第62ですね。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/061.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/062.html
実に興味深い話ですが、これまた、その写真を公開しないわけでしょうか。この妙興寺所蔵が御筆漫荼羅であるというのであれば、是非ともその写真を見たいものです。
それにしてもこれだけ、本尊相貌の変遷を正確に記しながら、弥四郎漫荼羅が弘安3年の特徴を示しているのに弘安2年であると言い、さらにれんさん、空き缶さんが議論されておられたように、妙光寺本堂漫荼羅、つまり石山六壺安置の漫荼羅が興師に仮託した偽作であることをまるで意に介さず、記すとは尾林さんもなかなかの面の皮が厚いと言うか笑うに笑えないところがありました。
226
:
犀角独歩
:2004/07/06(火) 17:46
間違えました。「妙興寺」ではなく「妙光寺」でした。
228
:
清香
:2004/07/06(火) 23:21
さいかくどっぽさんとお呼びするのでしょうか。
はじめまして、法華講清涼寺支部の清香(せいか)と言います。
品川区の妙光寺の御住職様の説法ですが、日蓮正宗では妙光寺所蔵の日蓮大聖人の御直筆御本尊様は、年月日不詳とされてきましたが、数年前の御虫払法要の砌
脇書を確認され弘安二年四月八日と断定されました。
私も弟夫婦と参詣して、正面御本尊様を拝しましたが、御文字が薄くなっていてよく分かりませんでした。
妙光寺百年史の御本尊脇書等の(1)宗祖日蓮大聖人の項には、年月日授与書不明になっていて、裏書には宗祖日蓮大聖人御真筆ニ相違無之者也 明治三十三年九月廿日
五十六世日応花押と紹介されています。
残念なのは、正宗信徒以外は当日の法要参詣は出来ないでしょうね。
私も弟夫婦が、妙光寺正道講支部の所属なので、法要に参列する事が出来ました。
日蓮正宗では、御本尊様を写真で撮影するのは禁止されています。
229
:
犀角独歩
:2004/07/06(火) 23:37
清香さん:
> 日蓮正宗では、御本尊様を写真で撮影するのは禁止
何を仰いますか。各信徒に配られている漫荼羅本尊はすべて写真製版によって印刷版下を製作したものです。
また、報知社刊『日蓮上人』に載った弥四郎漫荼羅の写真は石山が許可して掲載されたものです。
また、山中師『本尊集』第82ほかは亨師が許可して掲載された石山所蔵の漫荼羅ではなかったでしょうか。また、いまはどうか知りませんが、雪山坊に安置されていた板漫荼羅はそれを写真に撮って、それを元に刻んだことは亨師自ら認めたことでなかったでしょうか。
そのような石山のいまに至る経緯をあなたは否定するのですか。
230
:
犀角独歩
:2004/07/06(火) 23:50
一つ、書き忘れました。清香さん、応師の鑑定が正しいというのはどのような根拠に基づくのでしょうか。どのような鑑定法が用いられたのでしょうか。
231
:
清香
:2004/07/07(水) 00:02
否定は致しませんが、私も野村御住職様にお聞きしましたが、日蓮正宗では御本尊は
御法主上人様の顕能で、信徒は写真に撮影するのは謗法になると指導を受けました。
過去には、宗風も今とはだいぶ違ったのでしょうけど、御僧侶を指導教師と仰ぎ信心
をしている法華講員は、御住職様の言われた事には背く訳にはいかない事情を、ご理解
下さいませ。
232
:
清香
:2004/07/07(水) 00:20
日応上人の鑑定法が用いられたかは、分かりません。
あくまでも妙光寺百年史に記述されていたのを、転載したまでの事です。
私も、宗祖の御本尊様の変遷にはすごく興味があるのですが、法華講員である以上
写真に撮影したり、鑑定する事は、信徒の枠を越えた行為と見なされてしまいます。
233
:
愚鈍凡夫
:2004/07/07(水) 00:30
いや〜っ、今日は、体が燃えてるかと思うぐらい暑かったですね。 ε-(´o`;A アチィ
横レス失礼します。清香さん、始めまして。
下記のアドレスは弘安2年(1279)10月〜11月の蓮祖漫荼羅です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068A.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068B.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/069.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/070.html
これらの漫荼羅と、下記の弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)を比較すると、弥四郎漫荼羅が如何に奇妙かが分かると思います。
http://nichirenscoffeehouse.net/Gohonzon/DaiGohonzon.html
234
:
清香
:2004/07/07(水) 00:48
愚鈍凡夫さん、はじめまして
本当に暑かったですね、体から汗が滴ります。今日は冬ソナを見ていましたよ
ヨン様はステキです。
235
:
犀角独歩
:2004/07/07(水) 03:57
清香さん:
> 御住職様の言われた事には背く訳にはいかない事情
でしたら、ここで議論に参加して致し方ないでしょう。
こちらがどのようなことを記しても「指導教師のご指導と違います」で終わってしまいます。そんな話は当方としてはどうでもいいことです。
当方としては、全く信頼しない石山僧侶の宣伝と、聞いても仕方のない(というより、数十年聞いて信じるに値しないと結論した)石山僧の言うことを、ここに羅列されても、否定するより他はないわけです。
ここは独立した個人が自分の頭で考え、自分の頭で決定する場です。その自己決定を他人に任せて、その宣伝を鸚鵡のように口真似することを記されても始まりません。
当スレッドは『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』ですから、あなたが記したことで問題になるのは、ただ弘安2年4月8日図示という妙光寺所蔵漫荼羅が御筆漫荼羅かどうか、それだけです。
当スレッドは、三学無縁さんとわたしで管理人さんにお願いして立てたものです。
「石山の坊さんが正しい宣伝」は、謹んでお断り申し上げます、議論と全く関係ありませんので。
236
:
問答迷人
:2004/07/07(水) 06:04
清香さん はじめまして
>私も、宗祖の御本尊様の変遷にはすごく興味があるのですが、法華講員である以上、写真に撮影したり、鑑定する事は、信徒の枠を越えた行為と見なされてしまいます。
大石寺当代の日顕師は、教学部長当時、戒壇板本尊を鑑定して、「偽物」であると結論付けています。にも拘わらず、その「偽物」を安置するために、信徒から多額の供養を募り、奉安堂を建てました。これは、自己矛盾も甚だしい上、信徒を欺く行為です。僕は、このような日顕師を「手継ぎの師」とは考えていません。
河辺メモが出回った当時に、そのメモの信憑性を検討した事があります。「普賢庵」の下のほうの「河辺メモ」という項目です。御覧戴ければ幸いです。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/toppage1.htm
237
:
犀角独歩
:2004/07/07(水) 06:27
問答名人さんのご投稿を拝読して、235を補足します。
わたしも、顕師はすでに教学部長時代から、所謂「戒壇之大御本尊」が後世の贋作、河辺メモの言葉を借りれば「偽物」であることを知っていたと、同メモから判断します。
つまり彼は、同彫刻漫荼羅が「偽物」であることを知って、登座し、正本堂を壊し、さらに信徒を煽動して新たな建造物・奉安堂供養を募ったわけです。また、偽物であると知りながら、「御開扉」を繰り返し、拝観料を取り続けています。
もし、彼が河辺メモの通り、「戒壇之本尊」が「偽物」であることを知りながら、以上のことを行ってきたならば、これは戦後最大の宗教犯罪であるとわたしは糾弾してきました。
まして、正本堂建立には800万人500億円が動いたのです。しかし、達師はこの事実を知っていたか否か、書写した漫荼羅の相貌(たとえば「特別御形木本尊」)は、讃文の添加、「三十余年」、「帝釈天王」の書き換えという本則以外では、ほぼ弥四郎漫荼羅を模しています。そのことから、わたしは達師は「戒壇之大御本尊」を本物と信じていたと考えています。しかし、顕師は当初から、その実態を掌握していたのでしょう。つまり、後世の贋作であることを知っていたのでしょう。
この彫刻の真偽問題は「個人が信じる」「信じたい」などというささやかな問題ではなく、日蓮宗史最大の犯罪の可能性を孕んだどす黒い事件、もっと具体的に言えば、戦後日本における最大の宗教犯罪であると見据え、訥々とこの論攷を行っているのです。
そんな状況下で、その顕師から免許された石山指導教師の言など、風前の灯火、なんら証憑の糧となるところはありません。事の重大さを清香さんのみならず、ゆうじさんも含めて認識して議論に臨んでいただきたいものです。
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