したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

217八橋左近 </b><font color=#FF0000>(nRmEArys)</font><b>:2004/06/27(日) 18:06
横レス失礼させていただきます。
宗祖は本当に明証的証拠主義者だったのでしょうか。
宗祖が単なる明証的証拠主義者だったと言うのは疑念が無いでしょうか。以下花野充道師の論文を引用しつつご提示申し上げます。

はじめに、こんなことを書くと根が真面目な日蓮宗、日蓮正宗の信徒の方にお叱りを受けるかも知れませんが、宗祖には自身が証得した観心の法門の教説に文証上の権威をもたせるために、智邈や最澄の文を切り文的に利用しているにすぎないような面があります。
一例を挙げるなら、教義としては、智頻や最澄の教義より、よほど中古天台の教義に近いにもかかわらず、あえて智邈や最澄の文を教証として切り文的に引用しているということがあります。
 たとえば円珍について、表向きは最澄に対する師敵対、不知恩の者と全面否定しておきながら、陰ではしっかりと円珍の文の中で利用できるものは、教証として引用したりしています。
 さて浅井要麟氏は、宗祖の『総勘文抄』の偽書説を述べるに当たり、
『書中に円珍の『授決集』の「徴他学決」の文を引用した後、「先徳大師(円珍)の所判、是くの如し。諸宗の所立、鏡に懸けて陰り無し。末代の学者何ぞ之れを見ずして妄りに教門を判ぜんや」(一七〇三頁)と論じている点が不審である。宗祖が円珍等の台密を雑乱仏教として弾斥されたことは、あまりにも有名であるから、このように肯定的に円珍の文を引用されるということには疑義をさしはさむ余地がある』
と論じられています。
 しかし宗祖は、建治二年の『報恩抄』(真蹟存)、同年の『和漢五代記』(真蹟存)、弘安元年の『秀句十勝抄』(真蹟存)に、『授決集』の同文を引用して法華最勝(法華勝密教劣)を論じていますから、弘安二年の『総勘文抄』にそれが見えても何ら不思議ではなく、宗祖は建治二年(五十五才)から弘安二年(五十八才)にかけて、『授決集』の法華最勝の文を好んで用いたと考えればよいと思われます。
 宗祖の円珍批判の心底について、浅井円道氏は次のように述べられています。
『宗祖は、円仁と円珍とを並べて、「伝教大師に逆う僻人」(八五五頁)、「本師伝教大師の大怨敵」(一五七九頁)等と貶称しているが、円珍の『普賢経記』には、祖師伝教への報恩の志を荘厳するためにこの書を著わした、と書かれています。
 宗祖は円珍のこの文を知らなくて、祖師に逆らう大怨敵と記したのだと思っていたら、なんと宗祖自筆の『注法華経』に、右の『普賢経記』の文がそのまま書きこまれていました。これをもって、宗祖の円珍批判の意が奈辺に置かれていたかを推測されたい、と。すなわち宗祖は、円珍が祖師への報恩の志をもっていることを充分に承知していながら、祖師に逆らう大怨敵と記していたわけであります。
 このように宗祖は、自分の都合にあわせて文献を操作する面があり、この一点をもってしても、宗祖が宝地房証真のような厳格な教相主義者(明証的証拠主義者)でないことは明らかであります。』
つまり、最初に結論ありきで、後から文証を当てはめるというのが宗祖の特徴であったと言えましょう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板