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配偶者がカルトに入ったらどうしますか

56つまけん:2002/07/02(火) 16:46

つまけんが顕正会に入会したのは、「内緒で顕正会に入会してしまったが、
不安、恐い、できればそばにいて欲しい」という妻の気持ちを感じたからです。
恥を晒しますが過去においては感情を抑えきれずひとりで物に当り散らしたこと
何度もあります。つまけんは宗教が大嫌いでしたから(すみません)、
従って彼女が私に内緒で入会した事自体は、当初は離婚覚悟だったと思います。
いまは彼女をそこまで追い詰めたのは私=つまけんであることを痛感しています。
彼女が夫の事をもっと信頼していれば、入会前に相談したはずです。
彼女が顕正会に入会してしまう前につまけん自身がすべき事たくさんありました。
あと、まさかそんなことはないと思いますが、誰にもつまけんのマネをして欲しく
ないです。配偶者に望んでもいけません。何度もいいますが、その前にすべきこと
たくさんあります。
上記、犀角独歩さんはじめ、皆さんの投稿して頂いた内容を拝見し強く感じたこと
を書きました。

57五月雨:2002/07/02(火) 17:02
犀角独歩さん

なにも気に障る事もありませんでしたが、、独歩さんの引用された文章の中に“神の使い”というものがありましたので、障害者のひとりとして、自分も範疇に入るのだろうか。こんなに邪な心を持った人間も障害者の中にはいるのにネと思いつつ、高木美帆さんの言葉を書いたわけです。自分の意図した事が、違う型で解釈されてしまう。それはある程度仕方の無い事かなとも思いますが、こうして指摘して書いて頂けるとそうじゃないんだと説明できるので助かります。少し、白状すると独歩さんのレスを利用しつつ、これを読んでいる人に、障害者を「challenger人生に挑戦する人と呼ぶ人もいる」と認識して貰うのが目的で・・・
ホント邪な人間でしょ。人間ちょっと長く生きているとこうなると言いつつ、日常生活に戻ります。(ごはん作らなくっちゃ)
独歩さん、嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした。

58犀角独歩:2002/07/02(火) 17:48

五月雨さん:

私は、少しもいやな思いはしていませんよ。
また、「challenger人生に挑戦する人と呼ぶ人もいる」としっかり、認識しました。
でも、本当に、私は神の使いであると認識しています。
天台義になるのですが、法華経に声聞・縁覚の衆生が登場してきて、一面、否定されるような記述になっていますが、それを天台宗では、仏の教化を助けるために二乗の姿を取っているけれど、実は尊い仏菩薩である解釈するのです。この解釈が妥当かどうか、ということは置いておくことにして、止観行に鍛錬された当時の修行者には、一切の衆生を尊く仰ぐ境地を得られたが故に、このような解釈が許されたのであろうと想像しています。
この天台義は『破日蓮義』という日蓮仏法の批判書の中で紹介されるものです。

原文は漢文なので、転載はやめておきます(笑)

それにしても、もし五月雨さんが邪な神の使いであったとしたら、雪山童子が羅刹の正体を帝釈天と知らず半偈のために身を投じた故事を思い起こすことにしましょう(莞爾)

59五月雨:2002/07/03(水) 13:19
犀角独歩さん

<それにしても、もし五月雨さんが邪な神の使いであったとしたら、雪山童子が羅刹の正体を帝釈天と知らず半偈のために身を投じた故事を思い起こすことにしましょう(莞爾)

これって私は誉められているのでしょうね? (笑) アホな私は雪山童子の物語は知っていてもそれが意味する深いところは分かりません。分からない事は良い方へ受け取ってしまう都合のよい脳ミソの持ち主ですので、喜びましょう。

54の独歩さんのレスの体験された事を一晩考えていました。彼の心の中にあったものは、きっと虐げられている日頃の鬱憤だったのでしょう。独歩さんと二人っきりになった時に、ここぞとばかり日頃の鬱憤を独歩さんにぶつけてしまったのでしょう。きっと相手は自分より弱い子なら誰でも良かったのだろうなと思います。
 人間は、自分の経験をした事を通してしか理解出来ないそうですね。私も障害者偏見の中で色んな思いを経験したから、彼の心の片鱗が少しは分かるのかもしれません。独歩さんの接し方が悪かった、心構えに何かが足らなかった、そんな問題では無いように思うのです。これは、あくまでも私の個人的な意見です。独歩さんの真剣な思いに水を差すつもりで言っているのではない事だけはご了承下さい。
 障害者の願いというのは、普通に扱ってほしいという事になると思います。良い意味でも悪い意味でも。でも哀しいかな、そうはならないというのが実感です。仕方の無い事のように思えます。後は開き直るしかない気がします。自分自身の事を言わせてもらえば、少し前まで、障害者手帳での優遇を受けるという事に抵抗感があったのですが、今は常に手帳を携帯していて、どこかに入る時は、障害者割引は無いかと必ずチェックをし、掲示が無ければ窓口の人に有無の確認をしています。ただ図々しいだけのオバハン化とも言えますが、開き直りとも自分では思っています。

>信仰者は後天的に重い心の障害を持っているのかも知れないと考えるところがあります。・・・
 仏教における差別という障害を取り除くために考えていきたいと思います。

信仰者について、今まで見てきた人たちを思い浮かべてみると何か人格障害があった様にも思いますので、そうかもしれません。ここに大聖人様の仏法が、そういう人々の救いの糧であって欲しかったという思いがします。何故、大聖人様の仏法はここに生かされていないのかと疑問にも感じます。
 変な言い回し、意味不明瞭のところがありましたら、又ご指摘をよろしくお願いします。

60アネモネ:2002/07/04(木) 09:29
五月雨さん

はじめまして。レスありがとうごさいます。五月雨さんは関西の方なんですね。私も、関西出身なんですよ。もう関東に来て十数年になるので、私の関西弁はすっかり怪しげな感じになってしまいました。けど、やっぱりお友達としゃべるときは、関西弁がいいです。感情をこめやすいですし。緊張の糸も緩んでホッとします。

私も、お寺にほとんど行かなくなって、平穏な日々を送っています。家庭訪問やお電話も、そんなにしつこくしょっちゅうあるわけではないんですよ。時間をかけてお話しした方は、繰り返しおみえにはならないようですし。相手の方も立場上「地獄に落ちるよ」で締めくくるしかないんでしょうね。いやがらせのようなことは全然ないです。
突然の家庭訪問っていやだなぁと思うのですが、ときにはたまった新聞とメモ書きのお手紙の入った袋を持ってきてくれて、チャイムも押さずそっとドアに袋をにかけて帰られるような方もいます。メモにはお説教めいたことなどは何もなく、「お寺に行ったら新聞がたまってらしたようなので。お体を大切に」と一言。こういう家庭訪問はなんとなく心にとまります。だけどそんなに親しくもしていない方から、「ご本尊様を拝させてほしいから伺いたい」ってお電話がかかるのは権限を振りかざされたようでいやなものです。

私の場合、入信して八年ほどですが、もともと仕事の関係でお休みや自由な時間がとれるのが非常に不規則なんですね。御講や月例登山にはなるべく参詣してましたが、その他はまばらでした。そんなこともあって、次第に仕事について何かとお寺で言われるようになりました。
「参詣や活動がままならないような仕事の人は福運がない人だ」とか。
「唱題・折伏に励んで福運をつければ、信心(お寺活動)ができる仕事に就ける」とか。
「私だったら法のために転職をする」とかね。
いまどき職業による偏見めいた言葉を聞くとは、思いもよりませんでした。
私が今思いつく職業だけでも、救急医療、新聞記者、ホテル業の責任者、警察官、政治家、秘書、タレント業、マネージャー業など、自分の自由がきかない職業というのはたくさんあります。社会に生きていれば誰もが、様々な仕事の恩恵にあずかっているもので、そうやって社会が成り立っていると思うんです。なのに、お寺に来れないような仕事ということでひと括りにして、価値判断してしまうんですね。
まぁ、ここに書いたことは私の印象でして、極端な例かもしれません。だけどそういう傾向性を孕んでいると思います。
そういうことにクヨクヨと心が惑わされないためには、お寺から距離を置くのが一番いいなと思いました。
お寺から離れてしまうと、30万登山も、日蓮正宗のことも、本当に何も聞こえてこないものです。社会の中での存在はまるで感じられないですね。それを「爪上の土」にたとえられるのかもしれませんが、う〜ん、なんか違うような気もします。
私も限りある自分の時間を大切にしながら、ゆっくりと無理なく信仰の実践を模索していこうと思ってます。やっぱり漠然とした言葉になりますが、なによりもまず自分の人生と向き合っていくことから始るんだろうなって思います。
だけど、私はふと思うんです。カルト化した組織に拠り所を求めていくのはよくないけど、一方で、超高齢化社会になっていく中を自分が生きていくんだろうなぁと思うと、限りなく擬似家族に近づけるようなコミュニティの場は必要になってくるだろうなぁと。家族のあり方とか、そこに求める価値観とかは昔とは随分変わってしまい、ある意味で「老いを生きる」のが精神的にとても大変な時代になっていくのかもしれないと想像します。望んでも仕方のないことですが、それでもどこかで布教やお布施の強要などを見直して、地域の健全なコミュニティを目指すような組織のある方に目を向けてほしいなと願ったりもします。

Challengerって表現、いいですね。自然体でいて、それがそのままChallengerな生き方になっているんですものね。私の目に焼きついて「able」の映画のシーンを思い返しても、とてもマッチします。彼らの心は老いることがないんじゃないかとさえ感じましたよ。これからもよろしくお願いします。

61アネモネ:2002/07/04(木) 09:31
つまけんさん

>妻は映画を見たようで、その後の彼女には少し変化を感じます。

そうですか。羨ましい。一緒にご覧になれれば良かったですね。私は先日この映画のことを知ったときには、すでに近くでの上映が終わってしまってました。なんとか実家に帰ったときなどを狙ってぜひとも観たいと思ってます。
解説にもありますが、「彼は瞬間を生きるのがすごく上手だ」という表現が出てくるんです。ドキュメンタリーですから、つくられた演技ではなく、自然体の彼らの一瞬一瞬が写し出されているんですね。こんなふうに瞬間を生きられない私たちのほうが、本当は心の障害者なのかもしれないって確かにそう気付かされます。そういうメッセージ性のある映画でした。
でも、毎日をともに生活していると、そういう大事なことは見えにくくなると思います。家族のかけがえのなさって、近くにいるときには別段感じないものですよね。くだらないことで喧嘩ばかりしてたりして。でも遠く離れてみると、実感するもんです。一番心配してくれてるのは家族だなぁって。あまりに近すぎて、大切さが感じられない。それと同じじゃないでしょうか、きっと。


>つまけんが顕正会に入会したのは、「内緒で顕正会に入会してしまったが、
不安、恐い、できればそばにいて欲しい」という妻の気持ちを感じたからです。

奥様の内面は、このときから既に変わり始めているんじゃないかと思います。自分が抱えている心の寂しさを、他の誰でもないご主人が察知してくれたことは、何よりも嬉しいことだと思います。


>恥を晒しますが過去においては感情を抑えきれずひとりで物に当り散らしたこと
何度もあります。つまけんは宗教が大嫌いでしたから(すみません)、

宗教が嫌いというのは、今の時代ごく普通の感覚ですよ。私はむしろ、宗教組織に依存してその価値観だけで生きてしまっている人のほうが、普通の感覚を取り戻したほうがいいと思っています。少なくとも人に対して「地獄に堕ちるよ」と言える神経は普通じゃないですね。
「地獄に堕ちるよ」と言われた側は、気の弱い人ならものすごく気にして不安な心理状態にされてしまうかもしれません。その不安は脳に伝わって、なんらかのホルモンを分泌させるわけですから、そんな状態が続けば身体に悪影響を及ぼすとも限らない。「地獄に堕ちるよ」と不安を煽る言葉が、善良な人間の情緒を不安定にさせ、心身に支障をきたす結果を招くものなのではないかと。そういうことは、普通の神経の持ち主であればとっくにわかっていることですね。だから人に向かって言ってはいけない言葉だと心得て社会生活を送っているものだと思います。だけど宗教の世界の価値観になってしまうと、そういう良識が全く無視されて、言ってはいけない言葉が平気で用いられるわけですから、一般社会で概して宗教が敬遠されてしまうのは当然のことだと思います。


>従って彼女が私に内緒で入会した事自体は、当初は離婚覚悟だったと思います。
いまは彼女をそこまで追い詰めたのは私=つまけんであることを痛感しています。
彼女が夫の事をもっと信頼していれば、入会前に相談したはずです。
彼女が顕正会に入会してしまう前につまけん自身がすべき事たくさんありました。

ここに書いている心情を、そのまま奥様に伝えてあげてほしいなぁ。とっくにそんなご主人の気持ちには気付いているかもしれませんが、ちゃんと言葉にして伝えることは大事で、たとえば電話でもいいし、手紙でもいいし、メールでもいいし。そんななにげないご主人からのねぎらいやいたわりの言葉が、奥様の心の空洞を埋めていくものなんですね。
わかったようなこと書いてしまったかもしれません。気に障ったらすみません。

62つまけん:2002/07/04(木) 12:36
犀角独歩さん
「宿命について」のスレッドですが、一月くらい前に拝見しています。
プリントして、持っています。
特に、独歩さんがスレッドの中でお示しになった、学会の古い折伏経典について
印象に残っています。焼き鳥屋さんを経営する学会員の方とお話した時ですが、
「あなたは(十界の中では)餓鬼界にいる・地獄よりマシ」と言われたことを
思い出してしまいました。
------------------------------------------------------------------
地獄界――不具者、病者、狂人、ルンペン、邪宗教の坊主及び信者
餓鬼界――下級労働者、衣類住居まではとても手が届かず、毎日毎日の生活が
     食を得る為に働いているような人々。アルコール患者。拝金主義者。
     性格異常者。
畜生界――パンパン、不良、泥棒、スリ、その他犯罪者。兵隊、警官、拳闘家、
     将棋、碁を職業とするような、人と争う人間。
人間界――普通平凡に生活している市井人。
天界―――大金持、元の皇族、貴族、一国を動かしている大政治家、経済家、
     偉大な軍人等々。
声聞界――学者、研究家、学生等。
縁覚界――二宮尊徳の如く広く社会を利益した者。偉大な発明発見により広く
     社会を利益した者。例えばエジソン、ワット、湯川秀樹博士、支那に
     生れた孔子等。更に仏法を広め、衆生に救を与えた人々。
仏 界――日蓮大聖人(御本仏)、釈迦(迹仏すなわち影の仏)、天台(迹仏)、
     伝教大師(迹仏)等。(創価学会『折伏経典』42〜44頁)
------------------------------------------------------------------
お店で、ビール飲んでいるときにいわれました。
ご本人は40年くらい前から学会員ですので「人間界」(笑)5年前のことです。
美味しい焼き鳥屋さんで、今でも通っていますけど、今はそんなこと言いません。

63つまけん:2002/07/04(木) 13:04
アネモネさん

>宗教が嫌いというのは、今の時代ごく普通の感覚ですよ。
じつは、「自分は宗教が大嫌い※だった※」などと書いてしまったので、
出て来にくくなっていました。助かりました。いまは宗教は嫌いでなく
お釈迦様の「八正道」を見ながら、「考える人」してます。
難しいことはわかりませんので、自分の都合の良いように解釈してます。

64つまけん:2002/07/04(木) 13:14
>62の訂正です
一月くらい前→先月中頃
40年くらい前→子供のころから
どうも、この頃時間の感覚がずれてますね

65五月雨:2002/07/04(木) 15:58
アネモネさん
 レス有難うございました。同じ関西人なのですね。今後ともよろしくお願いします。
アネモネさんは、入信してたった八年なのによく気付かれましたね。私なんか二十年もかかりました。組織の人達が、言われたという言葉を私もよく言ってました。当然だと思って。「地獄に落ちる」なんて平気に口にしていました。今、冷静になって思い返してみると、何て事を言っていたのだろうかと、冷や汗が出てきます。昨日も、同じ講の人と話していて、学会をダニ呼ばわりしているのを聞いて、とても嫌な気がしました。知らず知らずの内に、慈悲の仏法の実践をしているはずなのに、心の中は憎悪で一杯になっているのです。大聖人様が遺された教えは、人に対して憎悪を燃やす事では無いと思いのです。それが一体何なのか模索しているところです。
アネモネさんは、まだお若いのに随分先の事まで、考えられているのですね。「老いた時」の事を。
私は「老化」を感じる歳のくせに、あまり先の事は考えていません。長く生きられないだろうと思っているので無頓着でした。でも、老いた時に信心を基本概念もった人が集まってのコミュニティというのもいいですね。助け合いの精神で、最後まで他者への思いやりを持ちながら過ごす。理想です。

Challengerという表現に、ご賛同有難う御座います。私も初めてこの話を聞いた時、なるほどと思いました。障害者への理解は欧米の方があるようです。

66つまけん:2002/07/04(木) 15:59
五月雨さん
はじめまして、つまけんともうします。
>スギケンのホームページ
http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/index.htm
拝見しました。ありがとうございます。
息子が2年位前虫歯の治療をしたとき全身麻酔で3時間位かけて一気に行ったこと
を思い出しました。虫歯くらいでなんでこんなことに・目を覚まさなかったらどうしよう
と心配しましたが、治療前には先生自ら病院の中を1時間も子供と散歩してくださり、
おかげで無事に治療も終わり、私の病院に対するイメージは大きく変わりました。
大学病院のお若い先生でしたが障害児専門でいらっしゃいました。
先日もひどい嘔吐がありましたので息子を連れて家族で行って来ました。
車で片道1時間半。遠いです。スレッドとあまり関係ない話ですみません。

67五月雨:2002/07/04(木) 16:31
つまけんさん

レス有難う御座います。虫歯の治療、大変でしたね。でも心有るお医者さんで良かったですね。
一生医者の世話にならなければならない私達には、良い医者との巡り合わせというのは、良い信仰との巡り合わせ以上のものがあるような気がします。

68犀角独歩:2002/07/04(木) 21:34

つまけんさん:

> 宗教嫌い…

私は、つまけんさんの妻子を思われる気持ちは、まさに宗教そのものであると思います。ただし、宗教団体の論理ではないのでしょう。常々記しているのですが、宗教団体依存から卒業し、各人が自分の責任の許に宗教に目覚める時が、これからの時代であると思います。いわば、自分自身の宗教ですから、自分の等身大でよいわけですし、自分のためのオリジナルでもよいのでしょう。

特定の団体、特定の教義によらなければ地獄に堕ちるなどという虚(うつ)けた主張をする団体と個人の、そんな情けない発言こそが、地獄の相(すがた)を表すものであると笑い飛ばし、さて、聖人の祖意はいずこにと知り、そして、その祖意に固持しようなどと思わず、自分にとっての日蓮、自分にとっての宗教という個人の和が大きな仏教、あるいは宗教という総和になっていけばよいのだと思います。その中に「宗教は嫌い」という主張があっても何ら不思議はないと思います。

私は経験的に、宗教嫌いを自称する人の中にこそ、真の宗教というべきものを見てきました。

余談ですが、あの『折伏経典』、いまでは間違いなく発禁になるでしょう。まったくひどい内容ですね。しかし、言葉の表現を以下に変え、抑えようと、その根底に渦巻く他者蔑視を超克できたかと言えば、それは現在の学会員一人ひとりの言動、殊に石山やら、顕正会に対する発言を見ればわかるのでしょう。これはまた、顕正会とて同様です。石山も同様ですね。

世間一般はみんな同じと思っています。信者は「わかっていないからだ」と、こう操作されていますが、わかっていないのはメンバーのほうであるという恥ずかしさから、私は、ここに書いてきました。

各人が団体のために弁明する必要もないし、代わりに戦争する必要もないわけです。
道具にされない賢明な個人となっていくべきなのでしょう。

もちろん、功徳を得た、感激があった、生き甲斐を見いだせた、そんな実感があるから、信者は組織に依存するのでしょう。でも、よくよく詮じ詰めていけば、その利益を与えてくれたのは、実は組織ではなく、日蓮その人であり、そのお曼荼羅であり、その教義であったはずです。そして、お題目を唱えるという個人の努力であったのでしょう。

それなのに、教祖、ひいては仏教が与えてくれた利益を、「組織による」とすり替え、個人が唱えたお題目の功徳を「組織による」とすり替える仕組み、これが第三者心理操作ですね。

この心理的プログラムを見極められるとき、はじめて組織を介さない日蓮への思いが生じるのですよね。いわば直接、日蓮と会話することができるようになるのでしょう。

熱中しているメンバーに、この仕組みを理解させることは難しいかも知れません。でも、それを理解させてあげられるのは、慈悲の意味を探求し続ける、もっとも身近な一人の努力に負うしかないのですが、実は脱却以後の長い、ほんとに長い戦いがあることを十分に承知しなければならないのも事実ですね。

脱却は、ほんの入り口に過ぎないわけです。
いずれにしても、脱却も脱却後も、仕組みを充分に理解する“技術者”でなければ、正確な誘導はできないものです。たしかな誘導者になれる知識と技術の習得が必要なです。ご健闘をお祈りいたします。

69アネモネ:2002/07/08(月) 09:59
つまけんさん

>お釈迦様の「八正道」を見ながら、「考える人」してます。

「考える人」いいですね。
私は法華講をキッカケにはじめて仏教に触れましたが、そのことはすごく意義あることだったと思ってます。数年かけて所属した組織が一面でカルト的な教団だったということがわかりましたけど、自分自身がカルト的思考に陥らないように、この小さな頭で「考える人」であろうと心掛けてます。

>難しいことはわかりませんので、自分の都合の良いように解釈してます。

私もです。自分にとっては何が大切なことなのかを見出していこうと思ってます。

70アネモネ:2002/07/08(月) 10:00
五月雨さん

>アネモネさんは、入信してたった八年なのによく気付かれましたね。私なんか二十年もかかりました。

たぶん、まだ八年だったから早々に気がついたのだと思いますよ。むしろ20年組織にいらした五月雨さんが意識を変えることが出来たことのほうが、ものすごいことだと思います。
最初の2年くらいは私も熱中した信心に傾倒してましたが、私自身が俗世間との関わりを断ち切ることがなかったことが、おかしさに早く気がついた要因だったかなと思います。お寺では、それを「世法に染まる」と非難するものですが、それこそが心理操作なんでしょうね。
社会との関わりを遮断して、長期間にわたって洗脳され続ければ、私とてカルト的な思考からはなかなか抜けられなかったことでしょう。
専業主婦で、なおかつ宗教組織での人間関係しかない人は、おかしさに気付くことも出来ず、抜け出すことは大変なことだと思います。


>アネモネさんは、まだお若いのに随分先の事まで、考えられているのですね。

いえいえ。もう人生の折り返し地点に突入しようとしてます。
たまたま、地域の高齢者の方とお話する機会が多いんですね。関東近郊のこのあたりでは一人暮らしの高齢者が増えていますね。私にとっても、将来向き合う自分自身の問題でもあるんですよ。
組織依存とは、孤独なおばあちゃんたちにとっては、家庭のような拠り所でもあるんだろうなと思います。だから「まやかし」を認めない道を選ぶでしょうね。
カルト問題の解決には、社会的受け皿も必要になってくるのかなぁと、素人感覚で思ったりもします。
本当は、組織自らそのことに気付いて、自浄努力でもって健全な組織になってほしいと願ったりもしましたが、残念ながらとうていそれは望めないことのようですね。

71新橋ボンボン:2002/07/08(月) 19:14
ぼくはなんだか、文句を言いながら、それでも、組織から抜けられない、矛盾を変に思う。
おかしいと思えばやめればいいんだ。そうすりゃ、もう、無関係。
席があれば、連絡するのは、役を持った人間にとっては義務だもん。
上のほうで一字三礼さんという人が、人をだまして、信じることを進めんのは変て、書いてあったけど、おんなじだよ、いるなら出るか、改革する。いやならば、やめればいいだね。
組織を拝んでるんじゃないと書いてたのは独歩さんて方だっけ? 賛成!
組織がなくても信心はできるよ。ぼくはどこにも所属しないで、あっちこっちの坊さんの話を聞きに行ってるよ。なんだか、みんなおんなじようなことばっか、いっているけどね(爆)

72アネモネ:2002/07/08(月) 20:39
私のところにはほしろ幹部の方からは、お電話もなければ家庭訪問もないですね。役のある方の義務ならば、入れ替わり立ち代りいろんな人に押しかけられるよりは、代表して幹部の方が来られるほうが、私もよほど助かります。一度で済みますからね。
けど、組織を離れたって家庭訪問や電話はやめないでしょう。破門した学会の人のところに行ってるくらいですから。

73アネモネ:2002/07/08(月) 20:41
訂正
〔誤〕ほしろ幹部の方からは→〔正〕むしろ幹部の方からは

74五月雨:2002/07/09(火) 12:19
アネモネさん
 <<たぶん、まだ八年だったから早々に気がついたのだと思いますよ。むしろ20年組織にいらした五月雨さんが意識を変えることが出来たことのほうが、ものすごいことだと思います

うーん、そうなのかもしれませんねぇ。最初から変だなという気持ちがあったのに、20年の歳月がかかったのは、罰が当たる・地獄に落ちるの二文字にがんじがらめになっていたのでしょう。アネモネさんのご指摘のとおり主婦の世界は狭いので、そこからはみ出す事は中々です。
活動しないと「子供に現証出るよ!」とか「信心は馬鹿になった方が勝ち」とか言われ続けての20年間でした。でもその歳月は無駄になってしまいました。今は、その歳月を取り戻そうと色々と考えています。
 「世法に染まる」との非難があるそうですが、こちらでは「信心が無い」という言葉での非難があります。信心のバロメーターでもあって、それがあんたに見えるんかいとツッコミタイ事が何度あったか。「世法に染まる」って「何色に?」と聞いてみたい衝動にかられるのは、関西人だからでしょうか。

アネモネさんは疑問解決の為に、何か本を読んだりしていますか。お奨めの本がありましたら、教えて下さい。

75:2002/07/09(火) 23:19
     
     スレッドのテーマと関係無さそうなので、ヒソヒソ声で発言するでげす。
  
     アネモネさん、つぶやきスレッドの書き込み、読んでます。
     がんばってカキコしてください。

     五月雨さん
     「子供に現証出るよ!」とか「信心は馬鹿になった方が勝ち」、そーゆーこと言われたんですか。
     宗教教団って、表向き、なんだかんだキレイゴトばっか言ってますけど、
     裏では、そーゆーことを言って、人の心を縛りつけているのですね。
     あちき、S教団出身ですから、あの教団なら、そーゆーこと言うな、っていうのは、わかります。
               
     罰が当たるだの、地獄に落ちるだの……、クソー!!!

76犀角独歩:2002/07/10(水) 08:29

新橋ボンボンさん:

読み落としていました。私に賛同の意見を書かれていたのですね。有り難うございます。
なんだか人にけんかを売っているような文章(失礼/笑)ですが、私はあなたの仰ることはわかります。またしかし、やめられない人の心理もわかります。

私自身、脱会を決意してから、実際に届を出すのに10年を要しました。そのころの自分を自己分析しながら、種々、ここに書いてきたのです。組織をやめられないのは、たぶん、信仰という善の面に分類される価値観が、組織に対する依存を形成しているからであろうと思います。しかも、これは信仰的な見直しによっては、実は改善されないという側面をもっています。

ところが種々の形で現れる組織への不満…絶対であるといわれたはずが必ずしも絶対ではなかった、教義、組織運営、人間関係など…から、組織への不満が膨らみます。ついで、人はその不満を持っている自分自身の説明原理を考えることになります。一つの解決策として、より満足のいく組織への移動という非難行動を取ることもあるでしょう。

けれど、これでは、何も根本的な解決になっていません。いつしか、また、不満が噴出します。この不満は組織の不完全さなど、妥当性をもっている面はありますが、もう一面、その不完全な組織に居続ける理由については考えられません。しかし、この点こそ、実は重要なのだと思います。その意味において、あなたの指摘は実は的確なのかも知れません。

不満を持ちながら居続ける心理、結局これは“依存”という、本来の仏教が、そこからの脱却を教える心理要因が解決していないことを意味しているのであると、私は思います。この部分こそ、実は解決しなければ、真の安穏は訪れないのでしょう。

77問答迷人:2002/07/10(水) 11:13

皆さん、ご無沙汰しています。

近況報告を兼ねて、少しだけレスします。今日は台風で仕事のキャンセルが入って、時間が取れました。

去年は、法華講組織の中にいて、中心的な役職を持って活動していました。そして、改革したいと思って少し頑張ってみました。次々と疑問点を役員や御住職等に投げかけました。結果は、「宗門の方針と違うから、もう、君に役をやってもらうことはできないから降りてほしい」、と言われてしまいました。

お陰で、今は、何の組織的な束縛もなくなりました。自由にお寺に参詣してますが、誰からも、どうせよ、ああせよ、という声は一切掛かりません。御住職も、顔をみても、「仕事はどうですか」程度の話だけで、30万はおろか、登山のとの字も僕には言いません。気楽ですよ。組織の中にいる束縛される感覚は、現在は全然ありません。

とりあえず、当分は、こんな形で、日蓮聖人の教えを求めて行きたいと思っています。

それから、一講員さんから、依頼のあった、掲示板のチャートの件、少しずつ作業をはじめています。やはり、とりあえず、半月から一月ぐらいは掛かりそうです。仕事の合間、合間に、がんばって作っています。

78:2002/07/11(木) 01:44

犀角独歩さん
   深い、深い御意見っす。

問答迷人さん
   お久しぶりっすー!!!

A「課長、近頃、仕事に意欲が無くて……」
B「意欲が無いのか。お前みたいなヤツ、会社やめちまえ!」

A「女房が宗教やってるんだよ。オレ、宗教嫌いなんだ」
B「そんな女、離婚すりゃいいだろが!」

Bさんの言い方が乱暴だというのは、誰でもわかりますよね。
Bさんみたいに「活動しないヤツは信心が無い」と言って、信者を切り捨ててきたのが、宗教教団なんだ。
「イヤなら教団ヤメロよ」というのは、そういう宗教教団の言い方の、裏返しの言い方ではないのか?

白黒2元論はカルトの始まり、というコトワザがある……(?)
2つに1つ、そのどちらかを選べ、ということ自体が、おかしいのではないのか?
そんなに簡単に選べないから、これまで、この掲示板で、スッタモンダ話し合ってきたのではないのか?
新橋ボンボンさんのおっしゃり方に、傷ついた人がいたのではないかと、心配になっています。

79犀角独歩:2002/07/11(木) 04:16

あ さん:

どうも。

でも、私は新橋ボンボンさんもさりげなく簡単に書いているけれど、このような結論になるまでに、長い苦しみがあり、たくさんのことを乗り越えてきたのではないかと思うんですよ。ただ、私も含めて「言い方」にはお互い注意したいと思います。

まあ、そんなルールは守って、新橋ボンボンさんも、気軽に議論に参加されればと思います。

それにしても、あさんの、ステレオ・タイプに関する視点、ほんとにそのとおりであると思います。

80五月雨:2002/07/11(木) 09:54
あ さん
 私が組織の中で言われ続けてきた事は、やはりかなりヒドイ事だったのですね。とはいうものの あ さんの驚きのコメントを読んでその重大さに気付きました。コンナコトイワレタッケと何気なく書いたけれど、事の重大さに気付かなかった自分はここまで鈍感になっていたのかとショックを受けました。入信する時に姑が「罰が当たるような信心はせん方がええよ」と言ったのが何よりの真理かも知れません。“忠告も聞かず悪い嫁でした、お義母さん。”と謝りたい気分です。

新橋ボンボンさんのレスは、誰に言われたのか想像はついても誰宛でなかったので、何も言いませんでしたが、はっきり言って傷付きました。猊下を呼んでカマシて頂きたい気分でした。でも あ さんが的確なご意見を言って下さり救われました。この二日間何だか嫌な気分で過ごしてきたのですが今日は良い一日が送れそうです。有難うございました。

81アネモネ:2002/07/11(木) 11:56
五月雨さん

>信心のバロメーターでもあって、それがあんたに見えるんかいとツッコミタイ事が何度あったか。「世法に染まる」って「何色に?」と聞いてみたい衝動にかられるのは、関西人だからでしょうか。

ほんまやわ。さすが!するどい。

>アネモネさんは疑問解決の為に、何か本を読んだりしていますか。お奨めの本がありましたら、教えて下さい。

いやー、本を読んでいない自分に気がつき、あせりました(汗)。
疑問解決の為に読んでる本て何やろうと、いろいろ思い返しているうちにすっかり書き込みが遅れてしまいました。ごめんなさい。

実は入信するときに最初に読んで、今でも繰り返しよく読む本は、創価学会が版元で出した青少年向けの訳がついている「立正安国論」なんですね。白文は当然読めませんし、下し文でも意味をつかむのがおぼつかないので、私が読むのにはちょうどこの本が良かったです。本当はここに書くのは大変おこがましいので、書こうか書くまいか悩みましたが、でもまぁ実際に迷ったときにいつのまにか開いているのはこの本なんですね。
最近では、下し文のほうでも段々と読めるようになってきまして、創価学会の訳と対比しながら「これはもしかして心理操作してるんとちゃう?」なんて面白いことに気がつくとこともあったりしますよ。でも仏教をきちんと学んでだ上で読んでおられる方からみれば、「立正安国論」の何がわかってんねんって叱責されそうですが‥(冷汗)。

そういうことはともかくとして、なぜ仏教を知らなかった私が「立正安国論」にストレートに感動を覚えてしまったのかなぁと、ちょうど良い機会なので自分なりに分析してみました。入信前からの私のものの考え方によるところが大きいのではないかなと思ったんですね。
自分自身の人生をずっと遡って、ものの考え方の土台になっているのは何かというと、こちらの過去のレスにも書いていることなのですが、私はもともとはクリスチャンだったのでどうしても聖書の言葉かもしれないなと思うんですよ。(これも冷汗)
ちょっと余談ですが、よく考えてみると、私、教会にもまだ籍が残ったままなんですよ。御受戒のとき気にはなったのですが、「十年以上も行ってないなら、わざわざ届を出すこともないですよ」なんて言われたのをいいことに、籍のある教会は関西で遠いし「まぁ、いっか」と、結局今もそのままになってます。随分といい加減なもんです。
それはそれとして、もちろん今は、天地創造の神がいるなんてとうてい信じてないですよ。ただ正直なところ、聖書の言葉はやっぱり今でもどことなく染み付いているんですね。これはどうしようもなく私の考え方の原点になっているようです。たぶん、払拭しきれないキリスト教的思考でもって、日蓮正宗や法華講をみてきて、いろいろ違和感を覚えたんだと思います。もちろんキリスト教がいいわけではないんです。私自身、キリスト教とてそんな深い教義を勉強したわけでみありませんし、ただ、少なくとも教会の中では、足の引っ張り合いや、強い上下関係はなかったんですね。組織のトップへの絶対服従みたいなのもなかったですしね。
というわけで、同じように「立正安国論」についても恐らく私は、キリスト教的思考でもって読んでいるんじゃないかなと思いますね。説明になってないかもしれませんが‥。
そのうえで非常に共鳴を覚えたの本がありまして、ずっと前にどこかのスレッドでも書きましたが、無教会派クリスチャンの内村鑑三が書いた「代表的日本人」の「日蓮上人」です。

入信した頃は随分自分の中に染み付いたキリスト教的なものを排除しようと努力したんです。だけども、今はそういう今ある自分を否定しないことにしました。変に無理をしても結局ひずみみたいなものが出てしまう気がするんですよ。だから、私は五月雨さんの二十年間についても、全てを否定することはないと思うんです。まやかしの多い指導の中からも、何かしらつかんでいらしたからこそ、またそのまやかしにも気付かれたのでしょうし、私のまだまだ知らない仏教に、長く親しまれていた期間なのですから。貴重ですよ。
失敗のない人生なんてあり得ませんし、それより失敗を繰り返さないことがより大事で、もっと大事なことは失敗を恐れないことじゃないでしょうか。それこそ「Challenger」ですよね。そう思えば、人の失敗にも寛容になれるんじやないかと。なんか偉そうですが、これは自分に言い聞かせる意味で書いてます。

82アネモネ:2002/07/11(木) 11:57
(つづき)
とはいえ、聖書も内村鑑三もあんまり推薦するわけにもいかないので、もう少し考えてみました。
ここ最近で自分の意識変革に最も役立ったものは?と考えてみると、実は書物ではなくて、NHKで放映された「ギリシャ文明」というアメリカで制作されたビデオなんです。古代アテネにおいていかに民主政治が発生していったのかという流れを、学者の解説を交えながらとてもわかりやすく構成されたものでした。今にして思うと、このビデオには非常に影響を受けてしまいました。特に最後に出てくるソクラテスの「精神の世界」というのにすごく感銘を受けましたね。「考える」ということを大事にすることは、人間が本来持っている「理性」を導くことであるといったことを、ソクラテスが国法に従って処刑を受け入れることでもって民衆に示すんですね。考える自分であろうとするってこと、このビデオを観てから特に強く思うようになりました。
やや誇張した表現になりますが、そこに写し出されたソクラテスの考え方や生き方の中にも、日蓮聖人を見る思いがしたんですよ。このビデオが示すもっと奥深い本質をつかむためには、プラトンが書いた「ソクラテスの弁明」を読むのが一番いいのでしょうが、私にとっては難しそうなのでまだ読んでないです。いつか読みたいと思ってますが。
そしてそのビデオを観たのとちょうど同じ頃に、こちらの掲示板にも参加させてもらいにがら、自分の意見も書いたり、また反論も頂きながら、ひとつひとつお寺のことを知って、段々と目が開かれた感じがしますね。こちらの掲示板は本当に感謝です。

今、問答迷人さんがこれまでの議論から導かれたことをチャートにして下さっているそうですが、それ、すごくいいなぁって思います。お寺の人の中でも、私の疑問などを一緒に考えて下さる方も幾人かいるのですが、近い将来チャートが出来たらプリントアウトしてお渡ししたいなと思ってます。私自身の頭の中も整理されるでしょうしね。

長くなって申し訳ないですが、最近読んだ本についていえば、このスレッドに前にも書いた「差別と仏教〜摩り替えられた釈迦の教え」(亜紀書房 河合廣仙著)です。
それからもう一冊。五月雨さんは既にご存知かと思いますが、脳障害の詩人・日木流奈くんが書いた「ひとが否定されないルール−妹ソマに残したい世界」(講談社刊)、これは目から鱗でした。彼の言葉の使い方がすごくチャーミングなんですね。ちょっと抜粋します。

「私は言葉に自分の心を乗せ続けました。それは詩となって現れ、私は私が伝えたい想いをただ楽しんで語り続けました」

「どこにいても<自分の思い>がどこにあるかを問うて生きたとき、どこにいても、だれといても、心が平安になると伝えたいのです」

一歳に満たない妹のソマちゃんが、食べ物をグチャグチヤにしたり、物を投げたりしている姿について、「実験に忙しい」と表現しているんですが、どこを読んでも流奈くんの観察眼とか感性とか表現力はただならないなぁと思いました。
実はこれNHKスペシャルで観たのがキッカケで知った本なんですよ。ひないだの「able」もそうですが、私はとにかくテレビをよく観てますね。もしかしたら、結局テレビが疑問解決のツールだったのかな?なんて思うくらい。でもこれも心理操作される危険性を孕んでますし、うーん、なんか参考にならなくて、ごめんなさい。

でも、五月雨さんはお姑さんが近くにいらっしゃるのですね。もしかするとどんな書物よりも、親身になって心配してくれている身近な人のさりげない言葉こそ、大きいかもしれないですね。苦言は特にそうかもしれません。そのときはムッとしても、後からその言葉の重みに気付くこと多いですね。

83アネモネ:2002/07/11(木) 12:08
あ さん

はじめまして。アネモネです。
あ さんのカキコ、うまいこと書いてるなぁと、私、唸りました。
それから、心温まるヒソヒソ声聞こえました。励ましてくれて嬉しかったです。ありがとうごさいます。

84問答迷人:2002/07/11(木) 14:26

アネモネさん お久しぶりです。

掲示板ご参加の皆さん こんにちは

一講員さんから提案のあったチャートの件、掲示板を覗いてくださる方の便宜の為に作りたいと思っています。なるべく、単純、明快なものにしたいと思います。今は、資料整理してますので、出来上がりについて、こういうものがほしい、というご意見があれば、皆様のご意見を承りたいと思います。よろしくお願いいたします。

85問答迷人:2002/07/11(木) 14:35

あ さん

僕も、創価学会、そして法華講という団体に所属してきて、カルト的思考に慣らされてきました。いま、組織活動の責任から一切開放されて、晴れ晴れとした気持ちです。

>2つに1つ、そのどちらかを選べ、ということ自体が、おかしいのではないのか?

とのご指摘、僕もそのとおりであろうと感じます。思考方法にまで、カルトの影響が染み付いているかと思うと、ぞっとしますね。折々にお気づきの点、その都度、ご指摘いただけるとありがたいです。今後とも、よろしくお願いいたします。

86犀角独歩:2002/07/11(木) 17:29

「生活上の決定はほとんどリーダーが行っていた。メンバーは、自己を捨て、従順であるようにすすめられていた。こういう形の依存症は、その人の自己というものを低く評価させ、その人が個人として発達しようとする願望と能力を妨げる」(マインド・コントロールの恐怖 P309)

87犀角独歩:2002/07/11(木) 17:53

一字三礼さん、皆さん:

○服従・代理状態、責任の喪失。そして権威。さらに緊張(服従の心理から)

【服従】服従は、不平等な人間関係から生じ、かつそれを存続させる。したがって、その究極の表現において、ファシズムの理想的な規制メカニズムである。人間の不平等を基礎としている政府の哲学が、服従の絶対的美徳に高めるのは、論理的以外の何ものでもない。服従行動は、ヒエラルキー社会構造の情況のなかではじまり、その結果、上位の者と下位の者とのあいだで行動が区別されるようになる。上位グループと下位グループの概念を強調し、さらに、ブーツをカチッと鳴らして即座に命令を遂行する迅速かつ印象的な誇り高い服従を重視することが、第三帝国のトレード・マークであったのは、偶然ではない。

【最初の社会関係】服従 児童発達の研究者たちがずっと以前から認めているように、『最初の社会関係は、権威の指示を認識し、それに屈服する関係である』(イングリッシュ、1961)

【指導者と服従】服従の心理は、より大きなヒエラルキーのなかで、その単位がどの位置に配置されるかには左右されない。忠実な国防軍(ヴエールマハルト)の、アドルフ・ヒトラーへの心理的適応は、最下級の歩兵の情感への心理的適応と相等しく、組織を通じてそれは同じである。最高の指導者の心理だけが、別の説明原理を必要とする。

【服従の本質】個人が自分を他の人の要望を実行する道具と見なすに至り、したがって、自分の行動の責任が自分にあると思わなくなることが、服従の本質である。


【代理状態】権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を【代理状態】(agentic state)と呼 ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、【自主性】、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう。

【責任感の喪失】代理状態のもっとも重大な結果は、個人が自分の指図している【権威に対して】は責任を感じるが、権威に命じられた行為の内容【については】責任を感じなくなるということである。道徳は、消滅するのではなく、根本的に違った点に集中される。従者が感じる恥や誇りは、自分が権威に求められた行為をどれほどうまくやったかということで決められる。

【権威】権威とは特定の状況のなかで知覚された社会的コントロールの起点である。その状況が、当該の権威になじむと見なされる命令の範囲を限定する。一般に、コントロールをする人物の機能と、彼が出す命令の性質のあいだには了解可能な何らかのつながりがなければならない。

【服装】ある与えられた場面における権威を知らせるために服装が使われることが多い。
【緊張】緊張は、二つまたはそれ以上の対立する反応傾向が同時に存在しているために生じると考えられる。
    理論的にいえば、自立的に機能できる存在がヒエラルキーに組み込まれたときには緊張が生じやすい。
    緊張の徴候はすべて、権威が個人をまざりっけのない代理状態に移すことができなかったことを示す証拠である。(以上、ミルグラム著『服従の心理』からの抜粋)



組織に違和感を感じ、かつ、そこに居続ける方々は、権威者からの服従に屈しない心理状態にあるといえるかもしれません。この場合、その心理的な特徴は上述の緊張となって現れていることが多いのではないでしょうか。

しかし、反面、実際に脱会をし、その組織に抗しようとする人から見ると、いまだ責任の喪失と捉えられる特徴を引きずっていると見られるところがあるかもしれません。(これは批判ではありません。客観的な観察です)

私の知人である、オウム脱会者の一人は、幹部にまで昇り300人もの勧誘を行いました。彼は脱会後、自分が勧誘した一人ひとりの家を回り、組織に残っているメンバーの脱会を勧めて歩きました。筆舌に尽くせない家族からの罵倒を受けながら、彼は実行しました。彼は信者ではない、自分自身を取り戻すと共に喪失していた責任を果たすために、その苦難を忍びました。

88犀角独歩:2002/07/12(金) 00:27

自分が信仰であると思っていることの大半が、心理的操作に関わることであるという現実を受け入れることは困難なことなのでしょうね。

89五月雨:2002/07/13(土) 20:53
アネモネさん
励まして頂きまして有難うございます。どうしても性格上過去の事にくよくよしてしまいます。でも“ホンマにドアホ”な事ばかりしてきたものだから、ついつい愚痴ってしまいます。申し訳ないです。ここにひとつ懺悔して、忘れたい事があります。実は、聖教新聞は池田先生のお手紙だから、十年配れば宿命転換出来る、なーんてたわ言を信じて六年半も配っていました。ホントにアホ丸出しです。その他世間に迷惑かけた数々の選挙違反等々お詫びしたい気持ちです。その時は真剣で、間違っているとは露知らずでしたが気付いた今、顔から火が出るどころか、炎がボーボー出ている感じです。アネモネさんは最初から法華講に縁されて幸せでしたね。組織の論理が国法に勝ると思った事はありませんでしたが、結果的にそうなっていました。独歩さんが引用されていたミルグラム著『服従の心理』は全くその通りだと思います。自身の頭で考えている気で考えていない恐ろしさ。それに気付かない怖さ。実感しています。
本もいろいろとご紹介していただきまして、有難うございます。捜してきて、おいおい読んでみたいと思います。ルナ君の本は立ち読みしました。大人の書いた前書きが随分長いなと相当読んだところで、本文だったと気付きびっくりしました。ものの取りようは十人十色ですね。「ギリシャ文明」に興味は無かったのですが、今度放映がある時は見てみます。
親の説教と何とかは後から効くという諺があった様に思います。二十年たって効きました。
遅すぎですね。でもそういうひと言があったから、全ての疑問の取っ掛かりになったのかも知れません。

90犀角独歩:2002/07/13(土) 22:14

私の尊敬する精神科医・高橋紳吾師の名言(1)

・考え方からの脱却の困難さ
 人がなにかを信じるということはとてつもないエネルギーを必要とするものであるが、その信じていたものを捨てるという作業は、さらにその何倍もの労力を必要とするのである。もっと正確に言うと、なにを信じていたのかが問題なのではなく、獲得されたものの考え方(思考パターン)が癖になっていることが問題なのだ。この歪んだ認知、すなわちカルト根性から自由になること、これがしばしばひどく困難のである。(『超能力と霊能者』岩波書店 P195)

・宗教家の真偽
 むかしから真の宗教家とにせの宗教家の区別がさまざまに試みられてきた。はっきりと区別することは困難だというのが大方の結論である。しかし大まかに次のような区別が可能となる。高い支配性や野心的な言動はにせ預言者の印である。それは自尊心と周囲からの認知・尊敬にたいする欲求に由来するからだ。それらは、しょせん哺乳動物の縄張り意識と、霊長類の支配−被支配の関係が変形したものにすぎない。(同 P127)

・信教の自由の矛盾
 考えてみると、信仰者は熱心であればあるほど自分の信仰する意外のものを認めず、他宗教を否認ないし攻撃するということがしばしばおこり、信教の自由という法体系によって守られるまさに信仰者自身が、心情的には信教の自由からもっともとおい位置に立ってしまうという矛盾を呈することになる。(同 P2)

◎子供のために、カルトからの脱却

・妄想症の伝染
 精神科医は物理的に子供をカルトから分離させなければ洗脳を解くことは難しいということを知っている。我々は二人組精神病、感応精神病と呼ばれる、妄想症の患者の妄想が第三者に「うつった」病態の治療経験を積んでいるからである。(「二人組精神病と洗脳」『イマーゴ』1993年9月号)

91いちりん:2002/07/15(月) 00:43
高橋紳吾さんのことば、とっても啓発されますね。

92犀角独歩:2002/07/15(月) 18:30

○高橋紳吾師の名言(2)

・依存
 俗な言い方であるが、人の弱みにつけこむとは、不幸で弱っている相手の心理状態をさらに揺さぶって、不安定にし、もはやその人を頼るしかないという気持ちにさせるということである。(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P108)

・カルト教団
 攪乱やリスク・トーク、情報操作などの詐欺的な伝導“形式”にあることを強調しておきたい。布教のパワーにだけたよってなんらの信仰的深まりをもたない、正確にいえば人格的な成熟を助けない、否、むしろ成熟を妨げ、心を隷属させるだけの破壊的カルトへの警戒を続けることが、本来的な意味での信教の自由を守ることにつながるということを強調しておきたい。(同 P198)

・富士門の精神鑑定の例
 小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法(しょうぼう)と三障四魔(さんしょうしま)の闘争”を機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き、危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P10)

  (上記とは別ですが、小田晋師の講演は以下で読むことができます
   http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_1_106.htm

・青少年のカルト入信と“世界没落体験”の関係
 青年期に初発する精神分裂病に「世界没落体験」という症状がある。急性期に現れる妄想で「世界が今や崩壊に向かっている。いやすでに崩壊した。森羅万象のことごとくが生命を失った。最後の審判が開始された。世界革命が勃発した」などの、周囲の世界の劇的変化が絶対的な妄想確信をもって迫ってくる特有の妄想である。この妄想の際には不安と同時に昂揚感や宗教的啓示が現れ、世界の崩壊と同時に新しい未知の世界の誕生が予告され、しばしば世界の中心にある自分が至上者と一体化するという宗教的恍惚感が生じ、ときに救済妄想にいたる。精神病の初期には、自己の内部が崩壊していくカタストローフの感覚があり、しばしば患者は「自分が誰かわからない、狂ってしまいそうだ」と表現するが、この内的カタストローフが外界に全面投影されて生れるのが、世界没落体験である。一般に思春期は、自己のアイデンティティを形成していくうえで、危機的状況にある。「自分とは何者か」、「何処からきて何処へ向かうのは」、「何をすればよいのか」と真剣に悩む。世界没落体験は分裂病特有の症状というより、思春期を含めて、人が精神的危機状態にあるときに親和性を示す普遍的な心理的メカニズムなのである。(『超能力と霊能者』P218)

◎「祈りとして叶わざるはなし」という言葉を信じる前に

・祈祷性精神病
 森田療法(神経症にたいする禅を応用した心理療法)の創始者である森田正馬教授が1915年に称えた心因性の精神病で「加持祈祷もしくは類似した事情からおこって人格変換・宗教妄想・憑依妄想などを発し、数日から数か月にわたって経過する特殊な症例」で森田は「祈祷性精神症」と呼んだ。(同 P92)

・長時間の会合、祈りを続ける精神力は強盛な信仰なのか
 精神医学に常同症(ステレオタイプ)という概念がある。これはかなり進行した精神分裂病者にしばしば見られる現象で、同じ動作や行為をいつまでも繰り返す意欲の調節障害という症状である。見かけは同一意志が持続して、長く同じ動作や行動を反復持続しているように見えるが、これは意志が強固であるためではなくて、むしろ意志の調節力ないし支配力が弱まったため、大脳に本来そなわっていた精神−運動性のメカニズムが統制から解除されて自動的になり、意味のない反復となって現れたと解される現象である。常同症は行動のみならず、表情、姿勢、言語、書字などにも現れる。(同 P68)

 ※以上、見出しは私が適宜付したものです

93犀角独歩:2002/07/15(月) 18:51

【90、92の補足】


○唱題が祈祷になることは危険ではないのでしょうか、SGIアメリカ日蓮正宗をカルトの一つに挙げたハッサン氏は以下のように警告しています。

 過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている。(『マインド・コントロールの恐怖』P3)

 メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる ―― ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである。(同 P10)

94犀角独歩:2002/07/15(月) 20:46

いちりんさん:

ご存じだと思いますが、高橋師は、当初、仏教を専攻していたようでした。それで仏教を極めるために精神医学に踏み込み、現代に至っているといいます。いわば、カルト問題の最適任者であろうかと思います。また、もう一人、紹介した小田晋師も代々の日蓮宗檀家。このお二人の研究がもっと日蓮門下、取り分けカルト問題との関わりでは、啓蒙されるべきであろうかと思っています。

95一字三礼:2002/07/16(火) 00:18

>87

読み落しておりました、申し訳ありませんでした。
たいへん詳しく御説明いただきありがとうございました。

富士門や新宗教でよく見かけるタイプの強信者は、心理操作によるものが多いのですね。
社会心理学で、これほどまでに説明出来るのが驚きです。

では、宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが出るのでしょうか。
それとも、信仰に対する確信という状態そのものが、心理学では否定的に捉えられているのでしょうか。

96アネモネ:2002/07/16(火) 02:24
五月雨さん

独歩さんが小田晋師を推薦されているようなので、ご紹介に躊躇した本をもう3冊ご紹介いたします。とてもわかりやすく書かれてますから、気分転換に読めると思いますよ。

「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」小田晋著 (三笠書房刊)
『「日本人の依存」を精神分析する−健康な依存、病的な依存』小田晋著 (大和書房刊)
「日蓮に学ぶ、明日を生きる智恵」北川紘洋著 小田晋監修 (はまの出版刊)

特に、「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」は私自身が入信して一年ほどの頃に読んだ記憶があります。今取り出してみると随分たくさん付箋をつけて、マーカーをひいてありますね。これはお勧めできると思います。
読みながら、「ありゃ、これって日蓮正宗のことやわ」なんてとこが、いくつかあったような記憶があります。たぶん、その本に啓発されて次に、『「日本人の依存」を精神分析する−健康な依存、病的な依存』を読んだのではなかったかと思いますね。けど、日蓮宗檀家の人とは知りませんでした。

97犀角独歩:2002/07/16(火) 04:57

一字三礼さん:

> 宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが…

“確信”、難しいテーマですね。信仰者の確信とカルトの刷り込みの確信に差があるとすれば、前者が個人的に得たものであるのに対して、後者は第三者によって植え付けられたものであると言った差異であろうかと思います。けれど、私は前者の確信に対しても悲観的です。

マインド・コントロール研究の第一人者・西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店)のなかで、個人的リアリティを説明して、

 たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によって何となく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという。(P81)

と記しています。私は確信と聞くと、真っ先に『立正安国論』の一節を思い出します。

人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる

宗教的な確信が到達困難な肯定されるべき境地であるか否か、今のところ、私は決しないことにしておきます。方や、カルト的刷り込みに基づく確信について、いくつか、実践者の発言を紹介します。

まず、ここのところ紹介してきている高橋紳吾師は『宗教病理と犯罪』という講演のなかで

 妄想とは何かと言いますと、指標は三つあります。Karl Jaspers によれば「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」とされています。妄想は仏教用語の読みでは「もうぞう」と言うそうです、多少意味が異なりますが。精神病理学的に、妄想の言語構造論的分析をすると、簡単に言うなら「妄想とは欲望が変形したものだ」となります。

と話しておりました。決して前言を翻さない強い確信、それが事実であると証明できないとすれば、精神病理における妄想であるというわけです。信仰者として考えさせられる定義であろうかと思います。

オウム真理教問題では命まで狙われた実践者・弁護士である滝本太郎師は

「よいことをする」つもりで行うから、実はよりおそろしいのです。「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は限度がない」のです。「人は、宗教的確信にたったときほど、完璧に喜んで罪を犯す」のです。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P15)

と言います。カルト問題を扱ってきた弁護士ならでは発言です。
また、オウム信者の心理に触れ、

「麻原の教えは間違いだった。けれど、あのときのクンダリニー・ヨーガの成就は本物だったかもしれない。それなりに自分は他心通もあるし、宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。するとオウム真理教に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。(同 P29)

と、あれだけ間違っていると言われるのに、オウム真理教に居続けるメンバーの心理を見事に分析しています。これは、どのグループにも当てはまるでしょう。

○○の教えは間違いだった。けれど、あのときの○○の成就は本物だったかもしれない。…宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。すると○○に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。

○○の部分に自分の所属する集団名、そして宗教的経験を入れて考えてみると客観論になります。

妄想か確信か、その分別に、果たして宗教的・カルト的の隔壁があるでしょうか。

98犀角独歩:2002/07/16(火) 15:40

> 小田晋師…日蓮宗の檀家…

そうなのです。先祖伝来、270年も檀家とのことでした。
それだけに日蓮仏法に係る分析は実に適役ということになります。もちろん、偏狭な宗派意識を持つような人ではありませんから、日蓮宗の立場で石山系の批判などというケチな真似をすることもありません。

私が驚くのは加持・祈祷には肯定的であること。また、宗教の持つ霊性を認知しながら、それを“消毒”されてしまった仏教(あるいはキリスト教)は欠けた部分が生じていると指摘していること。宗教の持つ霊性と日常の往復のあるところでは精神分裂病の発症率が低いことを指摘していること、つまり、“祈り”の重要性を認めていること、けれど、そのコントロールの困難さも併せて指摘いること、傾聴に値する学者の一人であると思います。

99犀角独歩:2002/07/16(火) 21:19

> 98

【補】

小田師の講演『世紀転換期の宗教家:カルトとマインド・コントロールを反面教師として』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_1_106.htm

について、やや思うところを拙サイト『日々雑記』に記しました。
仏教再考―犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
『日々雑記』宗教脱会者にロジャース法カウンセリングは役立たない?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html#020716

ご意見をお聞かせいただければ有り難く存じます。

100犀角独歩:2002/07/19(金) 13:16

スレッドを立てることを希望されたつまけんさん、お元気でいらっしゃるのでしょうか。

101つまけん:2002/07/19(金) 13:57
犀角独歩さん

しばらくです。こちらも元気です毎日見てますよ。気にかけて頂きまして
ありがとうございます。

102一字三礼:2002/07/19(金) 17:30

>99

小田先生の講演、非常に興味深い内容でした。

古い宗教が持っていた呪術的な求心力を失ってしまった、言わば去勢されたような現在の宗教に対する警鐘も面白い視点であると思います。ただ、少々過激な物言いをされる方のようですが。

小田先生は精神衛生を維持する為には、“ハレ”と“ケ”との日常での往復の必要性を説いておられます。
お話の中心は、無論、カルト宗教のマインドコントロールで得られるような、お手軽で倫理観や社会性の欠如した、変性意識体験を否定し、伝統宗教が近代化と称して捨ててきた宗教的神秘体験にこそ、節度のある変性意識体験を得られる可能性があると読み取れます。
また、伝統宗教の役割も“ハレ”の健全な状態を提供するという点に力点を置かれた講演のように私は理解しました。

しかし、どうなのでしょう。
私の認識が浅いせいなのかもしれませんが、宗教を1括りにし過ぎているのではないでしょうか。
言うまでも無く、仏法を行ずる目的は“成仏”にあります。それは寿量品の「大火所焼時。我此土安穏」で示される、絶対的な安心立命の状態の永続。つまり、唱題の時のみならず、仕事中でも家事をやっている時でも、とりあえず眠っている時以外は平安な心でいる事が、理想とする所であると考えます。

このような意味で、仏法によった変性意識体験を期待するのは、本来の目的からは外れているように思います。

103犀角独歩:2002/07/19(金) 18:36

> 102

小田師の係る講演は、現宗研、つまり日蓮宗の現代宗教研究所での聴衆が、100%僧侶の席でのものなので、一般的な講演とは言い難いでしょうね。

ところで、

> 仏法を行ずる目的は“成仏”…絶対的な安心立命の状態の永続

というと、成仏は安心立命状態の永続と理解されているわけですか。
また引かれる「大火所焼時。我此土安穏」と各人の成仏がどのような関係にあるのでしょうか。

> 仏法によった変性意識体験を期待…

これは読み違えていませんか。小田師は禅定、それに列する唱題における心的作用を変成意識に含めて論じているのでしょう。それを影山師等の実際の科学的な計測の例を挙げて脳波の変化から論じているのだと思います。

ですから、「精神衛生を維持する為には、“ハレ”と“ケ”との日常での往復」とは、むしろ、勤行・唱題に罪障消滅を祈り、そして、日常に出て行く生活上の往復の有様が、理に叶っていることを述べようとしているのではないでしょうか。

ただしもちろん、私も小田師の説を鵜呑みにしているわけではありません。
参考になると考えるばかりです。

104一字三礼:2002/07/19(金) 21:08

犀角独歩さん

>絶対的な安心立命の状態の永続

成仏の精神状態を想像した表現です。
実はまだ成仏した事がないのでうまく言い表せませんが。(笑)

>「大火所焼時。我此土安穏」

これは現実の社会では、火が燃え盛る様相を呈していても、精神世界では、まったく動じないという事を、仏道修行者の安心立命の状態と考えました。
これとは無関係ですが、正確に言えば寿量品でえがかれる世界観は、妙覚というより現前地みたいですね。

>むしろ、勤行・唱題に罪障消滅を祈り・・

なるほど、こういう事ですか。
それならば、頑迷な私でも理解できます、おおいに賛同します。

105いちりん:2002/07/20(土) 10:19
「ハレ」と「ケ」というのは、おもしろいですね。
わたしは「ケ」というのは、「気」であると思います。
その「気」とは、いわば「エネルギー」。学会流にいうと「生命力」。

その「気」が、日常の生活の中で、しだいにエネルギー不足になっていく。元気を失う。
それが「けがれ」(穢れ=気枯れ)。つまり、「気」というエネルギーが枯れること。

で、新しいエネルギーを満たすために、みんなでわいわいやる。それが「祭り」。それが「ハレ」。
つまり、まつりとは、エネルギーが枯れた状態から、新しいエネルギーをわきたたせること。

そうして、元気を回復して、しかしまた、気枯れが起きて、そしてまた、祭りをやる。その繰り返し。それが、日本の神道のあり方。

で、勤行・唱題も似ていますよね。
日常の中で、疲れて、気力が弱くなって、心も荒れてきて、生活が不調和となる。
そういうときに、本来のエネルギーを導き入れる、まあ「法性之淵底玄宗之極地=仏性」から。
そして、元気になる。しかしまた、元気がなくなる。そして、また唱題する。その繰り返し。

ほんとは、みんなでワイワイやる、ワイワイと祈る、唱える、歌う、踊るというのが、いいんだと思いますが。一人では、なかなか、難しいのはありますね。

106現時点:2002/07/20(土) 12:02
絶対的な安心立命の状態の永続

絶対的な、という言葉に気になります、絶対という言葉はこわいですね

仏とは、このような状態なのでしょうか、よくわかりませんね

生命力、これは本来の仏教では使われている用語でしょうか、現代宗教の用語なのでは、特に学会の

107一字三礼:2002/07/20(土) 22:11

>仏とは、このような状態なのでしょうか、

確かによくわかりませんね。
大乗仏典全体が、それを表現しようとしているようにも思えます。

実は「安心立命」も道教でよく使われる言葉ですので、あまり適切ではありません。

108現時点:2002/07/20(土) 23:05
言語道断・心行所滅

涅槃寂静

このような表現しかできないのではとも思います

109つまけん:2002/07/27(土) 23:01
みなさん、どうも。とりあえず近況報告させていただきます。
最近、ぼくは時間がある限り顕正会発行の本を読んでいます。
妻は逆にこの頃は全く顕正会館に行かず、昨日ですが「その本、捨ててもいい?
買いすぎ」なんて言いました。ぼくは、その言葉に驚いて力が抜けました。
同時に、以前池田大作氏の本も同じ扱いを受けたことを思い出しました。
読みたいのですが、いま、池田氏の本は家にありません。
ミイラ取りのミイラになるつもりは全くないのですが。。。
どうしても、個人的なことになってしまいますね。すみません。

110犀角独歩:2002/07/27(土) 23:19

つまけんさん:

お久しぶりです。お元気ですか…。

> ぼくは時間がある限り顕正会発行の本を読んでいます

浅井さんの話とか、顕正会の本は、おそろしく稚拙で、たしかに漫画を読むみたいに面白いですね。「ああ、こんなことが本当だったら、簡単で好いよね(大笑)」という暇つぶしになりますね。

少年漫画を読んで鉄腕アトムになった気持ちの子供の心理、わかる気がします。

つまけんさん、個人的なことでいいですから、どんどん、ここで書いたほうがいいですよ。
それは、精神衛生上、絶対に必要不可欠な作業であると私はお薦めします。

111:2002/07/28(日) 02:49
つまけんさん、独歩さん、
顕正会の本、漫画を読むみたいに面白い、ですか。肝っ玉太くて、うらやましいなあ。
私なんか、表紙見ただけで、もうダメ。デザインや色使いが気持ち悪くて、触る気にもなれない。
オカルト苦手なんですよ。漫画でもオカルトは読めない。楳図かずお、とか、つのだじろう、もダメ。

112つまけん:2002/07/28(日) 14:35
>少年漫画を読んで鉄腕アトム
(笑)ブルース・リーの映画を初めて見たときのことを思い出しました。
自分が強くなったような気がして、帰宅後、弟に怪我をさせてしまいました。
宗教行為にも、自分が鉄腕アトムやブルース・リーになったような錯覚をしてしまう
危険性があると思います。

妻が入信させた方(1人だけですが)のグループが、すごい勢いで折伏をしています。
顕正新聞によると先月だけで14人。妻はこのことを知りませんが、本当に申し訳ない
ことです。
面識はありますが、知識がないと、その方と話も出来ませんので、せめてその方と
同等以上の知識が欲しいです。

113犀角独歩:2002/07/28(日) 18:35

つまけんさん:

ちょっと、折伏ということについて予備知識を差し上げましょうか。

1カ月で14人、折伏ができるというのは、要するに基準が甘いからです。
私が20代の時に創価学会の成果主義に嫌気がさして、石山末寺に、当時、私が尊敬していた僧侶を訪ねました。そのとき、どうしても折伏をしたい友人がいました。

「私はちゃんとした折伏をしたいのです。どうすればよいでしょうか」
「では、いま折伏をしようと思っている人と毎日、お寺の勤行にいらっしゃい。そして、1年経って、それでその人が信仰をしたいと言ったら御受戒を受けさせない」

私は、この言いつけを守り、1年間、雨の日も風の日もお寺に通いました。拒食症、極度の神経障害と闘っているときです。

1年後、本人の意志で御受戒を受けました。しかし、これでは折伏1人と言いません。
「家族の人は信心に同意しましたか。同意させることができたら、御本尊を下付しましょう」

そして、家族の承諾が取れて、御本尊下付、そして、この1人が次の折伏を成就したとき、ようやく、「折伏ができましたね」と言われるのです。
これが当時、石山が法華講に指導していた折伏の有様です。

はっきり申し上げますが、このような折伏は鳩の豆鉄砲じゃあるまいし、数などとても打てません。1年という長い時間、周囲で声援をかけてくれていた人も、友人がお寺に通っていることすら、忘れてしまう時間の経過があります。ただ黙々と地道に、ひたすらに勤行に通い続ける堪忍の行です。これが本来の大石寺門が言う折伏です。

顕正会でいう折伏は、先輩と一緒に勤行に参加して、ただ入会カードにサインする程度のことではないのでしょうか。
こんな簡単でインスタントの数採りゲームを私は折伏であると思わないのです。

114つまけん:2002/07/28(日) 20:45
犀角独歩さん
「折伏」について、考えさせられました。
自分(つまけん)が入会したときのことを思い出してみました。
本部役員に次ぐ地位のある女性会員が僕に言いました。「とにかく一緒にやってみましょう」
「宗教は嫌いなので勤行する気はないし会館にも行く気はないが妻のやっている宗教について
学びたいと思っている」と僕。次の瞬間、入信申込書が目の前に出てきましたので妻に書いて
もらい、現在に至ります。

妻が入信させた方にも、当時、石山が法華講に指導していた「折伏」について、折を見て
話してみます。ただし、最初は下ネタからいきましょう。(笑)
少し気が楽になりました。ありがとうございました。

115現時点:2002/07/28(日) 21:19
113について

これが本当の折伏ですね。

私も大変勉強になりました。

116:2002/07/29(月) 04:45
元・学会員、今・無所属の立場で言わせていただきます。

正信会会員(ここにおいでの皆さんはご存知の人だと思う)の開いているサイトで、とんでもないものを発見してしまいました。
阪神淡路大震災に関する、阿部日顕法主の発言です。

以前、2ちゃんねるで、「阪神淡路大震災は創価がニセ本尊を配った直後に起こった」と
わめいている宗門法華講員を見ました。
こういうウワサ話を宗教団体のメンバーは好むもので、私はあきれて見ておりました。

そうしたら、そのウワサ話の発信元は、阿部日顕法主その人だったということがわかりました。
これには、あきれて、言葉もありません。
「会員を100万人にしないと、北朝鮮からテポドンが飛んでくる」とわめいている、
どこぞの新興宗教と、まったく発想が同じではありませんか。

117:2002/07/29(月) 05:04
創価学会において過去に、ご本尊模刻事件というのがあったと聞いております。
どういう事件なのか詳細に知りませんし、興味もありません。
ただ、この時、宗門は学会を許しております。本来なら地獄堕ちの大罪であるにもかかわらず、です。

つまり大石寺の法主は、ご本尊を模刻しても地獄になぞ堕ちないことを、知っているのです。
それを知っていながら、今度は「大震災はニセ本尊が原因だ。謗法だ、罰当たりだ」と信徒を脅かしているのです。
大地震が起こるような、そんなに大変な大罪なら、宗門は金を出して全国紙の広告面を買い取って、大宣伝をすべきだったと思いますが
それをやった、という話は聞きません。
どこぞの新興宗教は「日蓮大聖人に帰依しないと日本は必ず滅ぶ」という大宣伝を全国紙でやりましたけどね。

「私たちはこういうことを信じています」という真実の姿は外部の者には見せず、
裏ではコソコソと信徒の間でウワサを流す。
こんな卑怯な宗教があるでしょうか。

118:2002/07/29(月) 05:12
阿部法主の発言からは、震災に遭った人たちへの同情が、感じられませんでした。
「そーれ、現証だ!」と喜んでいるようにも受け取れました。
震災に遭った人たちは、あの発言を、どう読むでしょうか。心が痛みます。


管理人様、私のレスが不適当でしたら、削除してください。

119管理者:2002/07/29(月) 07:39

116から118のレス、掲示板ルールには抵触しないと判断いたしました。

120五月雨:2002/07/29(月) 08:45
あ さん

お恥ずかしい事ながら、私もそう聞いてそうなんだと信じ、口にしていました。その頃、月刊誌“諸君!”で故・内藤国夫さんが学会問題についての連載を持たれてて、毎月読んでいました。その中で「宗門は今の関西大震災が起こったのは、ニセ本尊配布したからと言っているが何ていう言い方だ。」(趣意)と書いていました。私はそれを読んで「仕方ないじゃない、本当の事だから」と思っていました。(が、不思議とこの文章はいつまでも心に残りました。)
今になって、宗門信仰の間違いが分かり、その言葉の持つ大変な意味が分かりました。前にも書いたかも知れませんが、春頃に韓国の飛行機が墜落した時、法華講のおばぁさんが「韓国で学会が住職をいじめたから落ちたんだ」と言っていました。それを聞いて、物凄い憤りを感じました。死んだひとりの人間の遺族の気持ちを考えた事があるのかと、その数は何百人になるというのに。「なんちゅう事いうねん!!」と面と向かっては言いませんでした。ただ、おばぁさんはお寺で聞いてきただけなのでしょう。言われた事を口に出して言っただけなのでしょう。
 慈悲の仏法を説く一宗の最高責任者が「バチが当たった!」と喜んでいるような姿を見せているのですから、信徒も同じ思考・行動になるのでしょうね。悲しい姿をさらけ出す彼らを哀れんでやって下さい。私も同類でした。

121いちりん:2002/07/29(月) 08:58
こういう教団って、「自分たちは正しい」という醜悪な「傲慢さ」を増幅し、
自分たち違う信仰をしている人、敵対する人たちを、「憎悪」し「軽蔑」するという心を育ててしまっているんですよね。
しかしまあ、どうして、こうなっていくのでしょうね。

わたしが思うのは、「宗教」(どんな宗教であれ)というものが、人間を駄目にしていくのかもしれないなあと思います。
その「宗教」とは、「自分たちが正しい」と主張する宗教。宗教だけではなくて、あるいは、イデオロギー、信念、主義も含めて。

この「自分が正しい」「自分たちが正しい」というエネルギーというか、魔力に取り憑かれると、駄目になっていくのかもしれない。

122いちりん:2002/07/29(月) 09:30

「宗教」という名前があっても、「思いやりの心」が育たないのは、宗教とはいえない。そうも、思いますね。

仏教では「慈悲」というのでしょうが。
やさしくいえば、あの人がつらい。それは、わたしもつらい。彼が苦しい、わたしも苦しくなる。
そういう心だと思いますね。「同苦」の心。

そういうことが教えだから、そうするというのじゃなくて、自然と、そういう心が湧いてくること。
その慈悲の心を育てるために、日々の勤行があり、唱題があるともいえるかもしれません。

で、慈悲の心が育たないような、勤行や唱題であったならば、それはオカしい。なにかが、まちがっている。人を裁き、人を軽蔑し、人を憎悪し、人の苦しみを喜ぶような心が育つようであれば、それは、まあいわば魔に憑依されているようなもの。

まあ、毎日の聖教新聞や、その日顕さんの発言を読むと、その格好のサンプルですね。

わたしは、日蓮さんのすばらしさは、いろいろありますけど、やはり「同苦の人」というように思っています。
弟子が地獄に堕ちたら、わたしもともに地獄に堕ちる。そういうお手紙がありますが、思いやりの深さにおいて、日蓮さんの心は、胸を打ちますね。

123犀角独歩:2002/07/29(月) 14:41

阪神淡路大震災については創価学会側も同じような論調であったと記憶しています。
また、今の顕正会の他国侵逼難妄想も同様のコンセプトではないでしょうか。

これらの人間性からの分析をするのであれば、やはり、社会心理学的な側面から見てみる必要があります。

「善いことはすべて自分たちに属し、悪いことはすべて他に属する」、換言すれば、善いことは全部、自分たちに関連して考え、悪いことはすべて他に関連して考えると言うことです。

これは以前も記しましたが、社会心理学では「連合」と言われるものです。コンピュータ用語で言う「関連づけ」に似ています。映画で言えばモンタージュという技法です。

このような“決めつけ”は強迫観念を伴うわけで、賞罰論とも結びつくわけです。そして、その接着力となるものが“妄想”でしょう。個人においてはパラノイアを形成していくのでしょう。

かつて池田さんが「東京に台風が来なくなったのは創価学会員が増えたからだ」と言って世間の失笑を買ったのは懐かしいところになりましたが、石山では「世界が平和なのは猊下が毎日、丑寅勤行で祈ってくれているからである」という形で相似形をなします。

なお、阪神淡路大震災を、石山が言う創価学会の「ニセ本尊」と関連づけた、というより、煽動したのは元創価学会大幹部・竜年光氏が『有徳王』と題した品格最低の雑誌で行ったことでした。しかし、この論調は要するに、かつての「折伏大行進」盛んなりし頃の、創価学会の論調そのままです。

実に創価学会、日蓮正宗、顕正会は同じなのであって、この憎悪、人の痛みも、宗教的価値観の違うものは人間扱いできず痛みとも思わない異常性、なんでも宗教の正邪でしか割り切れず、人権を無視し、差別を助長する日本最大の、宗教集団の心理的異常性を冷静に分析し、解消していくことは、しかし、その事実に気づくものがまず憎悪から脱却するところから始めなければいけないのだとわたしは思うのです。

124アネモネ:2002/07/29(月) 21:26
私は阪神・淡路大震災の翌月に入信したので、あのときのことはよく覚えてます。
入信して二週間ほどした頃に、はじめて青年部大会に参加しました。あのときは、初めての大会の雰囲気に正直なところ大変驚きました。

所狭しとギュウギュウに集まった人たちが、一斉に読経を始めたその早さと、ものすごい勢いにまずもって驚きました。もちろん私はとてもついていけず、お経本をただ目で追うのが精一杯でした。
次に驚いたのは奇跡のようなことを語る体験発表。ここは新興宗教だったの?と首をかしげたくなり、そして終盤になると幹部のような人が壇上に立ち、阪神・淡路大震災と学会ニセ本尊の因果を話し、「このことを折伏しようと思う人に話していって下さい」と言われました。
けど私は入信したばかりですし、ましてや地元には縁者と知人がいます、これをどう理解していいものやら。実際に被災して連日のように水汲みに出かけている未入信の家族や友人に話すわけ?‥話せるわけないなぁ、もしも話せば顰蹙もんやろうなぁと、本当に戸惑いました。
けど私とて、たいしたことは言えません、ユダヤ問題に傾倒していた当時の私は、「ユダヤが人工地震を仕掛けた」という噂のほうを半分信じかけてたんですね。これもある種のマインドコントロールだったのでしょう。似たようなもんです。

話を大会に戻しますが、最後に司会者2人が折伏『数』とその日の動員『数』を声高らかに発表して会場は大拍手。ふと壇上の横をよると、大きくその『数』が書かれた紙が貼られてました。
帰り際、お寺の青年部長に「どうでしたか?」と感想を聞かれましたが、「なんかマルチの会合みたいですね」と思わず本音を言ってしまいました。「確かにそういうところありますかね‥これは学会流が法華講に入ってしまったんです」などと言ってましたけど、当時の私にはわけわかりません。
けど、その数ヵ月後にはなんと私も『数』を書いた紙が貼られたところで、体験発表してるんですね。なんの変化も奇跡もないというのに、本当に思い出すだけでも、顔から火が出そうな思い出です。

不思議なことに、私の住んでいる県で折伏達成『数』がものすごいお寺があるのですが、実はその地域、マルチ商法をはじめとした勧誘ものでも営業成績県下トップが著しいところなんですね。なにか相関関係があるのかなぁと不思議に思いました。とにかくその地域はすごいところです。数字の桁が違います。

そういえば、ニューヨークのテロのときも学会の被害者がいたとかで、案の定「現証が出た」といった話が出てきました。その話を聞いたお寺の人が「やっぱりあんな謗法してるからよ、怖いね」と聞いたままを私に伝えてきました。でも、信徒『数』が法華講とは比べものにならないくらいあちらは多いわけですから、当然、あちらの信徒が事故に遭遇する確率は高いですよね、謗法の結果じゃなくて確率の違いじゃないかしら‥と言いましたら、けっこう納得してました。

125犀角独歩:2002/07/29(月) 22:14

アネモネさん:

> 「なんかマルチの会合みたいですね」

この会合初参加の“体験談”、お見事ですね。
笑えました。

御宝前で扇子振り回して、指揮を執って、みんなで合唱しませんでしたか「これは猊下が作った歌だから正座して」とか言いながら。もう、恥ずかしい限りですよね。

私は寺報の編集長をやっていましたから、体験談なんかもまとめて、ワープロで打ったりしたんですけど、さすが気持ち悪くなるような違和感がありました。それでも今から思うと、あのころは神経が麻痺していたんだろうなと。

あるライターが、(すぐに訴えるので名前を伏せますが)KのKに忍び込んで会合に参加した、代表のORが後頭部から光り当てて後光みたいな効果を使いながら、「我はブッダなり」って言った、信者は感動して涙を流しているんですが、あんまりおかしいので吹き出してしまったというのです。そうしたら、速攻、つまみ出されたと。同じようなものだと思うわけです。

私は若い頃、創価学会の文化祭に参加したのですが、(アネモネさんは知らないでしょうね、どんなものか)、もうフィナーレになると、みんな感動して涙を流しまくって「センセイー、センセイー」って池田さんに手を振る大合唱になるんですよ。もう感動のるつぼ(笑)

これは商売がうまくてビデオも売り出されるわけです。自分が参加したものだから買ったわけですが、それで折伏に使おうと思って友人に見せたんです。「あれ、これ北朝鮮のビデオ、いやだなあ、全体主義ってねえ」とか言われて、「はあ…」という感じで、「この謗法の輩が!」と怒ったりしていたわけです。会館で上映する池田さんの「世界平和旅」とかいう題だった映画を見せたときも、その時の友人は「なに、このへんなテカテカ脂ぎったしたオッサンは?」、それで私は「お前、罰が当たるぞ!」て怒鳴ったら、「なんでさ?」とぜんぜん悪びれることもなく、不思議そうな顔をしていました。…私もかつてはこんなことをやってきたのです。恥を偲んで記せば…

実際のところ、この指導者が、スライドして、代わっただけの感覚で、法華講の会合も運営されるわけです。これは異常と感じなければ、「やばい」ということになるでしょう。なかにいると異常なものを共有して「すばらしい」と思わせるような場の雰囲気だから、異常に「慣れてしまう」わけですね。

ところで阪神淡路大震災は学会の「ニセ本尊騒ぎ」の前、今回の宗創戦争の発端になった池田さんの「猊下軽視発言」は普賢岳噴火の前日だったんですね。これも、けっこう、喧伝に使われたものでした。ぜんぜん、被害者の苦しみなんかどこ吹く風の調子でしたね、このときも。私もこれらの煽動に乗ってきたのです、大いに反省しています。でも異常なものは異常、おかしいものは大笑いできる人間性は取り戻せたのですよ。

126アネモネ:2002/07/30(火) 00:40
犀角独歩さん

>御宝前で扇子振り回して、指揮を執って、みんなで合唱しませんでしたか

そう、そうなんですよ。何よりもびっくりしたのは、軍歌のような歌にあわせて一糸乱れず恍惚と躍るあの扇子踊り。思い出してしまいました。会合が始る前から、何度も何度も練習するんですね。
私はこれを忘却の彼方に封じこめてしまっていたようです。こういうの、心理学でなんとかっていうんですよね。
私は、御講や会合や法要では出来るだけ前のほうに座るクセがあるのですが、この踊りが始ると、目のやり場に困ってました。(下向いて、歌ってましたが‥)
私の隣に座っていた代々の法華講を自負する婦人部長に、「こういうのも法華講の伝統なんですか?」と聞きましたら、「みんな学会からきてるのよ」と言ってました。(これ、前にも書きましたね)

>KのKに忍び込んで会合に参加した‥

すごいらしいですね。人間って、演出に弱いですよね。正本堂の御開扉のあの感動は、今にして思うと演出効果が大きかったからかなぁと思います。それと自分の思い入れですね。

>私は若い頃、創価学会の文化祭に参加したのですが、(アネモネさんは知らないでしょうね、どんなものか)、

独歩さんが参加されてた頃より後でしょうか、日顕猊下と池田大作氏が、仲良く並んで観覧していたとかって話を聞いてますよ。あと、北朝鮮のマスゲームみたいなのは、テレビで少しだけ観たことあります。これも一糸乱れず、ものすごいですね。

>私もかつてはこんなことをやってきたのです。恥を偲んで記せば…

私も独歩さんの体験談、大笑いしながら読ませてもらいました。(再笑)すみません。

>でも異常なものは異常、おかしいものは大笑いできる人間性は取り戻せたのですよ。

笑えてしまうと、おかしかった過去の自分も愛おしいものです。そうして自分を取り戻して、やがては、他の人の悲しみに心が合わせられるようにもなっていくのすもしれませんね。

127アネモネ:2002/07/30(火) 00:49
126)の最後の一行の訂正です

誤−なっていくのすもしれませんね。
正−なっていくのかもしれませんね。

128犀角独歩:2002/07/30(火) 08:10

アネモネさん:

> 扇子踊り

うまいですね、この表現(爆)
私がいた寺なんかでは、そろいの着物をあつらえて、はちまき、たすきで集団踊り。
まさに恍惚の表情…、なんであんなことするんでしょうかね。
私が連れ出した友人、あれを見た瞬間に帰ってしまいましたけど。
それは帰りますよね、その前段で連れ出すために折伏トークで「日蓮大聖人は立正安国のために…」とか「お題目を唱えると功徳がある」とか、「日蓮正宗の御本尊だけが絶対なんだ」とか話して、ようやくと連れ出したら、あの扇子踊りですよ。怒ってましたもの、私の友人。

> …「みんな学会からきてるのよ」と言ってました

扇子振って踊るのは、池田さんの十八番。指揮を執って踊るために日本舞踊をたしなまれたというお話。…まことしやかに語られた創価学会口コミの一つ。

創価学会ではあの軍歌ばりの学会歌を合唱するのに、扇子を振り回して、指揮を執るのが一人から数人。でもこれはリズムに合わせて振り回すだけなんです。ところが!、池田さんは、扇子を使って歌に合わせて踊るんですよ。すると拍手拍手の大喝采、いやこれはすごかったですよ。

まだ創価学会が自前の大きな会館ももっていなかった頃、両国の日大講堂を借りて本部幹部会をやっていました。入場券がないと入れないんですが、うちの母親は、池田さんのおっかけでしたから、子供の私の手を引いて、絶対に行くわけです。入れなければ、漏れ聞こえる池田さんの声に涙するというわけです。外に学会歌が聞こえれば、周囲の歩行者なんか何のその、手拍子打って路上で歌っちゃってました。ああ、思い出すと恥ずかしいのですが。

たまたま入れたときのことですが、会合が始まって、先ず学会歌。司会が「指揮、○○!」とがなると「はいっ!!」とか返事して、扇子をもって飛び出してくる、そこで音楽がブンチャブンチャ鳴り出して、参加者全員の手拍子で大合唱となるわけです。指揮を執るのも体験発表をやるのと同様、栄誉なことと認識されていましたね。

池田さんは、こういうの大好きですから、式次第なんか無視して、「おい、○○、お前、指揮執れ」と壇上の大幹部に促して、また学会歌。扇子を振り回すわけです。

何度かそんなことを繰り返したあとに、いよいよ真打ち登場よろしく池田さんが立ち上がる。もう拍車拍手の大喝采。そこで踊るんですよ、壇上狭しとね。うちの母親なんかは興奮して「池田先生、素敵だねえ」と言いながらうっとりしている。私は子供心に「へーんなの」とか思っていましたが(笑)

ただ、法華講のほうでは達師が、こんなことが好きだったということになっていますね。…悪趣味ですよね。

> 日顕猊下と池田大作氏が、仲良く並んで観覧していた…

そう、それに私は参加していたんですよ。
これには後日談があって。終わったあとの参加者指導会で、幹部が「みんな、『先生、先生』って手を振っていたら、日顕上人、自分に手を振っていると思って気をよくしてましたよ」と、それでどっと大笑い。つまり時の猊下を物笑いにしていたわけです。まあ、悪意はなかったようだけれど、軽んじる風潮であったわけでしょうね。
こんな場面がありましたね。

なんだか、扇子踊りと文化祭をネタに揶揄しているような文章になってしまいましたが、あまり表に出ない秘話を披露して、集団心理になせる業を考えたと言うことで、まあ、この書き込みは管理人さんには勘弁していただければ、有り難く思います。

129五月雨:2002/07/30(火) 17:27
アネモネさん

阪神大震災の地元に親戚縁者・知人がおられたら、尚のこと戸惑いも大きかっただろうなと思います。私も関西圏に住んでいて、今まで経験した事のないあの揺れはいつまでも覚えています。(その時はうろたえるだけで布団かぶって震えていました。)
テレビを見たら、見覚えのある阪神高速が倒れていて、その上神戸の町が大火に包まれていてボー然です。神戸から100キロ離れていてもショックは大きかったのに、被災者の方の辛さを思うと「罰でこうなった」なんて言えるはずも無いですよね。きっと遠く離れた場所に暮らしているからそんな話になったのでしょう。こちらでは、罰の現証という話はあっても神戸方面の人にそういいなさいとはなりませんでした。被災者の為に何か役に立つものを送ろうと、講でもまた町全体でもそんな気持ちで物を集めたり、義援金を出し合ったものです。
 自分が絶対正しいという思想は、残酷な発想をするのですね。

会合がマルチっぽいってお話ですが、私は、逆にマルチの会合に行って学会の会合と一緒だと思いました。あの盛り上げ方、拍手の仕方、そして真打登場で場内は最高の盛り上がり。ちょっと行ってみてと言った法華講のおばーさんに、「何や、学会の会合と一緒やん」と言ったら怒られました。それから後の法華講の会合は段々学会化してしまい既に登場の金銀の扇子踊りに手拍子に、今は「何や、法華講の会合と一緒やん」と訂正しなくてはなりません。

130五月雨:2002/07/30(火) 17:39
独歩さん

会合のお話を楽しくまた、懐かしく読ませて頂きました。そうそう、そうだったを何度繰り返したか分かりません。お母様のご熱心なご様子もそのお気持ちもよく分かります。
私もよく似たところがありました。私は池田せんせーは嫌いで「写真を飾って朝な夕なにお写真にあいさつしなさい」と指導されても飾りませんでしたが、回りの人間があまりに凄いせんせー、偉大なせんせーと言うものだから、段々そうかなと思うようになりました。ついには「池田せんせーはスゴイのよ」なんて事まで口走っていました。これもマインドコントロールの一種なのでしょうか。
 毎年、正月に猊下は手作りの盆栽を池田さんに贈っていましたが、あの盆栽は今ごろどうなっているのでしょうね。
楽しいお話をまた聞かせてください。

131アネモネ:2002/07/31(水) 00:54
犀角独歩さん

池田さん自らが踊りを披露されていたとは、全然知りませんでした。これは私にとっては意外です。池田さんはエンターテイナーなところがあるんですね。
このスレッドでいちりんさんが105)で『新しいエネルギーを満たすために、みんなでわいわいやる。それが「祭り」。それが「ハレ」。』書かれていましたが、創価学会の文化祭はまさしくそういうものだっただろうと想像します。法華講の扇子踊りもそうした祭りの場のものであれば良かったですね。お祭りであれば、私にしても、また独歩さんの退散してしまったお友達にしても、さほど違和感なかったかもしれませんよね。
だけど、池田さんが、多くの人の心をつかんでしまうカリスマ性の一端を知ったような気もしますね。自ら踊るリーダー、私も好きになっていたかもしれません。(笑)
話に聞くだけでしか人物像を知りませんが、なんか憎めない人でもあるなぁという印象をいつも受けます。私が若い時期にもしも創価学会に入っていたならば、「池田先生命」になってたかもしれませんね。
たまたまの巡り合わせで、今はもの笑いの対象にしてしまってますが、考えてもみれば、これまでにも学会を擁護するような記述をついついしてしまうのは、私の中にそういう部分が多分にあるからではないかと、ふと自己分析するところです。笑ってしまうのも、自分を見ている気がするんですね。でも、「世界平和旅」と「池田大作」さんをセットでイメージしてしまうと、なぜこんなに笑えてしまうのか‥。こうして人に笑いを与えることだけでも、すごいことです。揶揄なのか感動なのかわからなくなってきましたよ。

132アネモネ:2002/07/31(水) 00:55
五月雨さん

>被災者の為に何か役に立つものを送ろうと、講でもまた町全体でもそんな気持ちで物を集めたり、義援金を出し合ったものです。

そうでしたか。こればかりは、何か嬉しいですね。
私は遠く離れてしまった立場なので、神戸で起きたことはどんなに心配しても、結局は傍観者の域を超えず、またそれが寂しさを感じるところでもあったんですね。家族の口からと、また友人の話を通して聞くことですが、あの時期の神戸は独特な強い連帯感と気持ちの高揚みたいなものがものすごくあったようです。そういうものがないと、乗り切れないほど打撃は大きかったわけですね。私もショックでしたし、また、今から振り返ると、改宗する大きなキッカケのひとつだったと思います。
地震発生をニュースで知って、家族の安否を確認するまでの約三時間、私は精神状態が本当におかしくなりそうでした。そんな状態を見かね取り乱しそうになっていた私に、「日蓮系の家は、案外と災害のとき助かるよ。しっかりして」と声をかけてくれた人がいたんです。冷静な今、振り返るとなんとも無責任な言葉ですけどね。その人が後に私に、日蓮正宗のことを教えてくれた、いわゆる私が下種の親と呼んでいる人です。それ以前に何かの折に、実家が日蓮宗だということを話していたんでしょうね。だけど、パニック寸前の私にとっては、この一言こそが精神安定剤の役割を大きく果たしたんです。
その後、家族から無事の連絡があったわけですが、この下種の親の一言は、私の心を大きく動かしましたね。こういうのが体験発表的な奇跡話のひとつでもあるのかもしれませんが、でも、下種の親は何も仏法を信じさせようと思って言ったことではなくて、取り乱した私をなんとか落ち着かせようと思って言ったことなんですね。後にどんな運命が待っていようと、心をしっかりさせなければならなかったわけで、その気持ちがなにより嬉しかったですよ。離れて暮らす家族や友人との連帯感のようなものは震災を境に強くなりましたね。お互いの安否を思いやる気持ちというのが強くなりましたね。
そうしたときが、また自分の人生の転換期でもあったこということもありますし、神戸の震災をキッカケに家族の生死を分けることに直面して、尚も仏教に対する思慕が芽生えたんだと思います。

>逆にマルチの会合に行って学会の会合と一緒だと思いました。

あぁ、確かに言われてみれば、マルチの洗脳方法の原点は学会(宗教)とみるほうが正しいのかもしれませんよね。マルチに嵌ってしまった友達がいて、私も義理で会合に出たこともありましたが、学会や法華講と共通していることは、入会(入信)をその場で即決させようと迫ることと、いったん入会(入信)するとなかなか辞められないな心理状態に追い込むシスムになっていることでしょうか。もうひとつ共通しているのは、閉鎖された場であるという印象も受けますね。洗脳するには、密室に限ります。マルチが原因で離婚した友人もいますし、また夫への不満から奥さんがマルチに嵌った友人もいます。
極端なことをいえば、夫婦間だってマインド・コントロールが成立しますよね。DV(ドメスティック・バイオレンス)なんかはその典型だと思います。
宗教の場も、マルチの場も、そして家庭も、閉鎖された場になりやすいですから、偏った人間関係が成り立ちやすいところなのだろうなとつくづく思います。そのような環境にいる中で、自らの力で脱却していくというのは、本当に至難ですね。物理的に離れるのが最短の方法とはいえ、心理的に強迫されてきているわけですから実際には困難ですし、その行動を起すにはものすごいエネルギーを要します。そのための「祭り」が必要なほどです。よほどのキッカケで開き直ることでもない限り、本当に難しいと思います。私もそうですが、五月雨さんにしても、組織から離れるよほどのキッカケをつかんだことはラッキーだったと思います。

133犀角独歩:2002/07/31(水) 06:51

アネモネさん:
五月雨さん:

創価学会と法華講には、当初の目的からして大きな差があると私は思っています。つまり、これが法華講より創価学会のほうが魅力的と感じる要因でもあると思うのです。

それは何かというと「共同体を構築しよう」という当初から目標と、その全国的な達成ということです。創価学会は一切合切が崩壊した敗戦後の日本の中で、特に地方から都心部に集まった核家族層の、それも低所得、低学歴といった、どちらかというと社会階層の、中より低い人たちに急速広まったわけです。

ここで広宣流布の具体的なイメージはしっかりあって、共同体の構築、つまり、創価家族などと称する自治組織を作り上げていき、実際にそれを完成させたわけです。それが強力な粘着力になって、会員同士を固い絆でつなぎ合わせています。いわば、公明党という政治組織も、この共同体を守るための一部門として位置づけられてきたのだと思います。

核家族として、何ら自分を守ってくれる人間的な関係もないところで、創価学会が共同体として、その各個人、各家族をまとめ、日本社会の中に、独自の共同社会を構築したということでしょう。

実は、これを成し遂げたのが池田さんであって、現在の実勢はどれ程か知りませんが、たぶん、シンパを含めて600万を上回る共同体の構築に成功したのだと思います。

この共同体が立派で堅固である象徴は、また、池田さんなのであって、だから、世界の要人と会ったり、勲章・名誉市民号・名誉博士号などを取れば取るほど、それはまた、この共同体の立派さ、換言すれば、自分たちが所属する共同社会の立派さが証明されることになるので、池田さんの外遊やら、高収入は、むしろ、自慢になるという効果もあるのだろうと思います。そこに自分自身を反映して自分の立派さを投影できるからです。

池田さんは自分の地位・名誉の構築に腐心したけれども、しかし反面、人々が“自分を信じている限り”安心して、意義と目的を持って生きられる共同体も構築していったのでしょうね。

学会員は、この社会の中では安心していられるし、困ったことがあれば、相互に助け合います。時には経済的な援助もし、共に祈り、共に泣き、共に感動し、人生を分かち合っているわけです。(このような構造は立正佼成会などでも共通するところかもしれません)

このような共同体の構築と実際の達成が、実は池田さんの魅力を形成しているのだと私は思うのです。

ただ、人間には嗜好があるし、好きがひっくり返れば「大嫌い」ということになりますね。

創価学会を脱会した人は、次の指導者を求めるわけです。しかし、その時、創価学会を経験した人には大きな誤算があります。それは何かというと、「どの指導者も共同体のトップである。指導者の下には共同体がある」という誤解を、意識的であれ、無意識的であれ、もって移動してしまうと言うことです。

134犀角独歩:2002/07/31(水) 06:51

―133からつづく―

ところが、ここから法華講の話になるのですが、そもそも石山における指導者とその共同体とは、最高位の僧侶と師弟関係を結ぶ僧侶と家族の共同体に過ぎないのです。法華講は、その共同体を支える資金源であり、労働源に過ぎないという点を見抜けないのです。

ここで創価学会から法華講に移動した人々は受け入れがたい現実に直面することになります。その時に採る態度は二つであって、一つは創価学会以上の共同体を作ろうとすること、もう一つは呆れ果てることです。

しかし、法華講で作ろうとする共同体は、どこまで言っても僧侶の共同体を支える外壁にしかならない、さらにそこにもう一つの束縛があるわけです。何かといえば、講の本来的な機能です。つまり、各末寺を護るという役割です。言ってみれば、法華講という共同体はどこまで行っても僧侶の共同体の資金源・労働源を超えることはないわけです。それも他宗の講であれば、末寺を護りさえすればよいものを、石山法華講では登山その他行事を本山に集中させ、そちらまで信徒によって賄うわけです。

明治前の寺請制度の場合、人々は徒弟制度・身分制度で社会的階層におけるポジションをもっており、そこで各共同体の一員として受け入れられた上で、自分の寺院を護るという副次的な関係があったのでしょう。だから、創価学会という共同体が石山の共同体を護るような形であれば、信徒はストレスはないわけです。

しかし、今の石山信徒には外に共同体はなく、そして、自分が共同体であると夢想するものは、自分たち信徒のものではなく、僧侶のものであるという現実にしばらく気がつけないでいるわけです。

結局、アネモネさんが感じる池田さんの魅力とは同じ信徒同士の共同体を完成させ、人々に慕われる長を見る視線と一致しているのだと思います。法華講という指導者不在の、いても柳沢さんのような僧侶側の論理しか考えられない傀儡より、池田さんを憎めないという気持ちはある面、当然であると、教義論争を除けば、思うわけです。

残念ながら、法華講には共同体としての機能は求められません。
おまけに構築されてきた石山教学というのは、この僧侶の共同体の肯定理論武装なのであって、それが今日的に信徒に用いられるときは、実質、共同体を護る兵士、あるいは奴隷以上の役割は与えられないことになります。

共同体としての機能もない、ただ僧侶の共同体を助けるばかり集まり、それを信仰という美名でハッパをかけられ、さらに創価学会と池田さんを憎悪させることによってパワーを増させる、そんなことが続けば、人間性は歪むでしょう。満たされない共同体幻想は、さらにまた、創価学会・池田さん憎悪にすり替えられてしまいます。しかし、これは創価学会の問題ではなくて石山と法華講の問題であるわけです。当の石山、僧侶を批判することは罰が当たると脅迫し、さらに創価学会を憎悪させ、講堂の原動力にするという仕組みです。

簡潔に言えば、こんな組織はダメなのです。教義がどう、信仰がどうというよりなにより、その根本をなすべき、人々の立つべき場所が考えられていないからです。ですから、アネモネさんや、五月雨さんのように、講中に見切りをつけるのが、いちばん精神衛生上、よろしいことになるのでしょう。

アネモネさんは創価学会を経験されていないようだから、石山法華講にない、創価学会の魅力を素直に感じられるのだと思います。(なんだか、こう書いてしまうとアネモネさんが創価学会翼賛者みたいになってしまうけど、そんな意味ではもちろんありません)

ところが五月雨さんや、私のように創価学会から出てきたものは、それを嫌いになって出てきたために、いわゆる生理的嫌悪感がついて回るわけです(五月雨さんのことをきめつけてはいけませんね)、あちらでも、共同体の強い結束を促す常套手段を使っているわけです。つまり憎悪する対象を設定して、それを徹底して憎悪させることによって結束を高めるというやり方です。それが今は石山・顕師ということになっています。こんな面も含めて、いくら共同体として、法華講よりすぐれているからと言っても戻りたいとは思わないわけです。

私自身は、共同体幻想から卒業して、元よりの仏教が教えていた自律の道を選ぶことにしたわけです。そして、共同体が与えてくれていた功利面を、今度は自分が与える側になるよう考えることによって意識の転換を図ってきました。つまり、これが菩薩道の再発見であったわけです。

独り歩むことは、しかし、実は孤独ではないのです。法の中で常に、日蓮と釈尊に向かい合っているからです。

お二人の投稿を拝見して、憎悪も憤慨も消えたいま、「池田センセー」を少し冷静に振り返ってみました。

135五月雨:2002/07/31(水) 09:08
独歩さん

学会・法華講についての分析はさすがですね。講中の問題の一番は横の繋がりが無い事です。異体同心といいながら、何故講員同士の諍いが絶えないのかよく分かりました。先日、講頭にばったり会った時に「講中の修羅の争いは大変ですね」と言ったら頷いていました。素直に頷いてどうするねんと心の中で苦笑いしてました。住職・役員・講員の三つ巴の諍いはいつまでもいつまでも果てしなく続くことでしょう。独歩さんが分析される通りです。石山・末寺・信徒の関係を見つめ直してみると、確かに私達は“奴隷”です。お金を運び、言われるままに労働力を提供して、私達は単なるお賄いだけしとけばいいのです。何を住職に言っても聞かない筈です。「お前らとは違うんだ」という住職の不遜な態度の意味がよく分かりました。
言われるままはもう止めて、講を見限るのが石山にはよく効く薬になるかもしれません。私の親しくしている78才のおばぁさんに石山の真実を話したら心臓マヒを起こすかもと思っていましたが、ここの独歩さんのレスをまずプリントして見せてあげます。独歩さんのお話は無駄が無く、本当に為になります。

>ところが五月雨さんや、私のように創価学会から出てきたものは、それを嫌いになって出てきたために、いわゆる生理的嫌悪感がついて回るわけです(五月雨さんのことをきめつけてはいけませんね)

いえいえ、確かにその通りです。学会員が戻っておいでとやってくるのですが、「何たわけた事言うてんねん、もうこりごりや絶対に戻らへんで」と言ってます。今は法華講にも生理的嫌悪感があります。結局組織の原点は同じなのかもしれません。

>独り歩むことは、しかし、実は孤独ではないのです。法の中で常に、日蓮と釈尊に向かい合っているからです

本当にそう感じます。文明の利器(言い方が古臭さ過ぎですね)のインターネットで、真実を知る事も出来るし、こちらの掲示板ではご親切にご教示頂けて、勉強も出来ます。何だか、講で活動第一とやってた時よりも、“法の中で常に、日蓮と釈尊に向かい合っている”気がします。

136五月雨:2002/07/31(水) 09:26
アネモネさん

あの大震災の時が、入信のキッカケだったのですね。そのお気持ちはよく分かります。下種の親の方のひと言に救われたのですね。不安な時のひと言は大きな影響があるものです。あの時を経験された方は分かると思うけれど、私はあの一日の何時何分にどうしていたかをハッキリと覚えています。そのくらい大変な日でした。遠く離れてその上に親御さんが被災地にいる不安は、他人が伺い知る事の出来ないものだと思います。でも、ご無事で良かったですね。

>私もそうですが、五月雨さんにしても、組織から離れるよほどのキッカケをつかんだことはラッキーだったと思います。

ホント、ホントそうですよね。嫌ーな事は経験したけども、それが今からの人生に役立つ事があるかも知れません。ああいう事を言ってくれた人は未だに講で修羅の争いの真っ最中です。嫌な人間だと思っていたけど、こうして私を生き返らせてくれた恩人と感謝しなくてはならないのかも知れません。

137アネモネ:2002/07/31(水) 21:58
犀角独歩さん

>日本社会の中に、独自の共同社会を構築したということでしょう。

なるほどね。神戸の震災後の、独特な連帯感と高揚感というのは、たぶん敗戦直後から復興までの日本の状態と似ていたのかもしれないと想像すると、その中にあって、創価学会が共同体構築を推進してきたということ、とても頷けます。

敗戦復興という艱難な時期を乗り越えて経済的にゆとりが出てくる頃には、共同体の急務な役目は終わり、次第に個人が各々の意思に基づいて自由になっていくことが求められますね。そのような流れのなかで、尚一層の組織の存在や拡大を図ろうとすれば、どうしても共同体での連帯感は半ば強制的に押し付けられるようになっていかざるを得ないでしょうし、それを束ねるための強烈なカリスマ性も示されるようになっていったこと想像できます。

>共に祈り、共に泣き、共に感動し、人生を分かち合っているわけです。

まさに私は、こんな法華講を求めていました。
かつて通っていた教会には、それらしきものが確かにあったんですね。だから、信仰の場とは、そういう場になるように務めていくものだと思ってました。だけどそれは石山についていえば、幻想に過ぎなかったとようやく気がつきました。

>人々に慕われる長を見る視線と一致しているのだと思います。

表向き創価学会を非難している人々が、ふと裏では懐かしがっている言葉を漏らしているのを耳にすると、どっちが本当なんだろうといつも思ってました。きっとどちらも本当なんでしょうね。一言で片付けられるものではないのでしょう。日本の社会も変わり、個人も変わり、そして学会も変化していったのかもしれません。

>残念ながら、法華講には共同体としての機能は求められません。‥あるいは奴隷以上の役割は与えられないことになります。

一年かかりましたが、今は素直に頷けます。私のお寺を見る限りでも、法華講幹部は、人間的に講中から慕われている人ではなくて、「奴隷としての鏡」のような人が求められてきています。あんなに毎日が拘束されるような立場になんでなりたがるのか、私には理解できませんでしたが、講の中ではいつも、いかに「奴隷の鏡」であるかを住職に取り入る形でアピールしたり、または互いに足を引っ張り合うなどしながら、役職を奪い合ってきていました。五月雨さんのところと同じく、恐らくその修羅場は今も続いていることでしょう。
またそういう「奴隷の鏡」のような人が、住職の意向によって選ばれてきているわけですから、一般信徒もそんな「鏡」に照らしてどうしても奴隷にならされてしまうんですね。幹部たちはそういう「奴隷の鏡」としての使命を強く感じて講を運営しているのだということ、本当にようやく私にも見えました。

>石山法華講にない、創価学会の魅力を素直に感じられるのだと思います。

私も実家を離れて生きているひとりだからでしよう、間違いなく共同体を幻想する心がありましたね。言い換えれば、それが組織依存の心だったと思います。
それにしても、あそこまで巨大化した学会の集団組織は、さすがに呑み込まれそうで敬遠してしまいます。いい面も悪い面も、遠くから眺めているに限ります。
仮に共同体を求めることがあるとしても、小さくてそして上下関係のシンプルな出来ればフラットなネットワークがいいなぁと思います。そういうものは、どう考えても法華講に期待できるものではないですし、むしろそういうものを求めるエネルギーがあるならば、もっと別の面に注いでいくほうが遥かに仏道修行にかなっているものだと思うようになりました。

138アネモネ:2002/07/31(水) 22:01
五月雨さん

五月雨さんの地域でも揺れたんだすね。あのとき、神戸の人は情報源が断たれていて、まさか阪神地域だけの地震だったとはわからなかったようですね。最初に連絡をもらったとき耳にした言葉は「そっちは大丈夫なの?」
親というのは全く、どんなときでも子供のことを先に心配しているんだなぁと、涙が止まらなかったです。
入信以来、毎年お正月の初登山は欠かさなかったのですが、早朝にも関わらず必ず新大阪まで見送りに来るんですね。見送りなんていいからって言うのにね。いつか両親を折伏したいと思ってましたが、もう今は考えなくなりました。お正月もこれからは、実家でゆっくりして、そうそう阪神百貨店のイカ焼きでも食べに行きます。

139犀角独歩:2002/07/31(水) 23:57

あの、すみません。
一つだけ、記しておきます。
龍年光さんの煽動、顕師の発言はありましたけれども、全国的に法華講では義捐金を募りました。私もけっして褒められる金額ではありませんが、させていただきました。

事実を伝えるために、このことは記しておきます。

140犀角独歩:2002/08/01(木) 06:27

アネモネさん:

私もかつて、「奴隷の鏡」でしたよ。
私が一番、多く使った言葉は、たぶん「僧宝尊信」「信伏随従」だと思います。


今回の離間の時、かつて達師も言った「粥をすすっても正義を通す」という、恰も極貧を装ったお涙頂戴にまんまと引っかかってしまいました。

私は言っていたんですよ、「総本山が丸裸になったって、血脈付法の猊下と戒壇の大御本尊様があればいいんだ」、清貧の使命感があったのです。

だから、ただ、「広宣流布のために総本山を盛り上げる」ために、ワラシナさんじゃありませんが、すべて投げ出して、邁進すれば、いつかは自然と生活も豊かになると自分に言い聞かせていました。しかし、裕福になるのはいずこも団体だけですね。

ほんとか嘘か知りませんが、富士宮筋の金融関係者に言わせれば、「大石寺は1兆円持っている」ということでした。まあ、実否はわかりませんが、いずれにしても「大石寺にお金がない」は真っ赤な嘘のようです。陽動作戦にはまった気分です。

それにしても今の石山は、供養、登山、堂塔伽藍の建築、創価学会・池田憎しのほかに、行動の源泉があるのでしょうかね。反面、創価学会は選挙活動、新聞啓蒙、民音チケットの販売に明け暮れ、顕正会は年端もいかない子どもたちをサイン一つで勧誘して、数珠と経本を買わせれば一丁上がりの折伏、それですぐにでも国立戒壇が立つような論調で宣伝しています。

たしかに外から見た富士門は異常集団としか見えないだろうと溜息が出ます。

どんなに一所懸命にやっている人でも、みんな、「何かが違っている、おかしい」と心の中の良心の声を聞いているのでしょう。けれど、では、具体的にどうしたらよいかわからない、共同体から離れたことがないから、一人になったら、何もやり方もわからない、結局、組織の言うとおりに、あるいは組織にいるしかないとなっているのだと思います。

生命共同体、運命共同体という大きなお船に乗ることしか知らなかった人は、一人で泳いでいく方法がわからないのだと思います。

しかし、この「わからなくされている」ことが組織信仰を仕組む側の、罠の一つだったのだと思います。この罠で使われる「慈悲」など、そこにはないのでしょうね。

ここの掲示板が、この罠から抜けるきっかけになってくれればよいと思います。

本当の慈悲は、自分がどん底にあっても、それでも相手を思いやる心なのでしょうね。
阪神淡路大震災でアネモネさんを心配して親御さんに必至に連絡をしていた、それなのに、むしろ親御さんのほうが心配していたという話がそんなことを教えてくれた気がします。

141犀角独歩:2002/08/01(木) 07:04

五月雨さん:

阪神淡路大震災後、私がその被災地に行ったのは遅れ遅れて1カ月ほど過ぎた頃でした。(アネモネさんが入信した頃?)

細かいところは忘れてしまいましたが、倒れた高速道路、倒れていない所も、しーんと静まりかえって、もちろん、1台の車も走っていない道が延々と続いている様を見て、焼けた住宅地を見るのとは違った緊張感があったことは、今でも覚えています。

私の祖母は関東大震災で1回、東京大空襲でもう1回、自分が住んでいる所が廃墟になった話をいつもしてくれていました。母の家には、その日、隣の方が台所に真っ青な顔をして飛び込んできて、「いま天にも届く大きな火柱が倒れるのを見た」、これは予知幻覚?であったようで、その時はまだ大空襲があることも知らなかったと言います。その日、本当に火の柱が倒れるような大惨事が起きました。母たちは、その幻覚に心の準備をし、火柱が倒れたという方向と逆に逃げて助かりました。近所に住んでいた父は、逃げ場を失い、隅田川(ご存じかもしれませんが浅草を流れる大きな川です)にかかった大きな橋の欄干によじ登って、そのてっぺんで一晩中、しがみついていて助かったと言います。

街全体が火の海となり、橋を渡って逃げようとしても人が一斉に押し寄せたために動きが止まっている所を火が走っていったと言います。川に飛び込んで火から逃れようとした人も多くいたけれど、あの数百メートルはあろうかという川幅の水面を、火が水の上を這い、人を焼き尽くし、窒息させたというのです。

私は子供の頃から何度も何度もその話を聞かされ、「怖い」と子供心におびえることはあっても、その実感は沸きませんでした。けれど、大震災で廃墟になったあの地を見たとき、祖母や両親が味わった大惨事の一端を見る思いがしました。もちろん1カ月の遅れは、ほとんど間が抜けたものでしたが。

阪神淡路大震災は平成7年のことでした。この年にオウム真理教地下鉄サリン事件も起きました。天災と人災が同じ年に起きたということになります。

大災害の時、人心は乱れたときに、善意の宗教従事者は黙々と救済支援にあたり、反面、カルトと目されるような団体は、このときとばかり、「罰だ。この世の終わりだ」と騒ぎ立て、さらに人心を不安定にして、人の不幸を布教のネタにするのでしょう。

阪神淡路大震災のこと、そして、その悲惨な出来事に乗じる悪徳布教の実態、ともに風化させてはいけませんね。

142五月雨:2002/08/01(木) 09:31

独歩さん

お祖母さんやご両親の味わった災害、そして戦争の恐ろしさに身の震える思いがしました。あの時代の人達は、時代の波に巻き込まれて意図しない運命に悲惨な体験をしてきたんだと思います。私の父はシベリア抑留の目に合いましたし、内地にいた母親は空襲に怯えていました。今の世の平和は過去の人々の苦しみの上に立っていることを忘れてはいけませんね。
 地震の後の神戸にいらしたのですか。私は行くことはありませんでしたが、神戸に縁する人は回りに数人いて、「今の神戸はこんなんやて」という話はよく聞きました。復興してからの神戸には何度か行きました。完全に復興はしていないと時々ニュースで見ますが、表向きは震災など無かったように感じられます。

ところで大石寺の歴史の過去ログをプリントして読ませて頂いている途中なのですが、石山の教義を考える時に、「歴史」の認識は必要なんだなとつくづく思いました。私なんか、有師と興師の時代がどのくらい離れているかとか、鎌倉時代は西暦に直したら何年とか知りませんでした。ところでこのような歴史を書いている本はどこに売っているのでしょうか、教えて頂けませんか。認識不足ですみません。

143五月雨:2002/08/01(木) 09:59
アネモネさん
  
ご両親のあたたかい思い遣りは本当に有りがたいですね。お互いに「親孝行したい時には親は無し」という諺を忘れずに親孝行したいものです。
あの時に関西の大部分と四国の一部では相当揺れましたよ。私の住んでいる地域では震度5でした。時々余震があったので、一ヶ月間はずーと身体が揺れている感じがしました。ちょっとノイローゼになりそうでしたよ。地震の時はどうするかと、一生懸命考えていましたが、今は咽喉元過ぎればなんとやらで油断しまくりの毎日です。でも夜寝る時の頭元の靴だけは置いています。
 ご両親を折伏しなくて良かったね(?)私は凝り固まっていたので折伏した事があります。でも父親は新聞記者をしてたから、学会の裏の事を良く知っていました。娘だから強くは言わなかったけれど、私の話にどれ程嫌な思いをしていたか、させてしまったかを今になって心を痛めて反省しています。もう亡くなってしまいましたので、謝ることも出来ません。
お正月は親孝行と、阪神百貨店のいか焼きでお過ごしください。(まだ先の長い話ですが)

144犀角独歩:2002/08/01(木) 11:41

五月雨さん:

> 歴史を書いている本

この定番は、富士門では、やはり『富士年表』(富士学林版)ということになります。
これは石山の売店、あるいは法華講連合会で購入できたのではないでしょうか。
明治初期まででしたら、nbさんがネットにアップしてくれています。

http://kanazawa.cool.ne.jp/bn/hujinennpyoumokuji.htm

実はお望みのような的確な資料というのは、思いつきません。
なにせ、現石山教学というのは、寛師の時代までに起きた400年ぐらいの教学変遷を、すべて聖人の御在世に起きたとしてしまう二次元的なものだからです。その意味で、五月雨さんが今まで歴史感覚がなくきたのは、むしろ自然といってもよいぐらいのことでした。時間経過を正確に捉えた富士門資料というのは、残念ながら、私は思いつきません。

私が参考にしているのは執行海秀師著『日蓮宗教学史』(平楽寺書店)です。
ただ、内容は50年前のもの、それだけに難解です。もしかしたら、もう少し新しくわかりやすい本もあるかもしれません。

ロムの方で、良書をご存じでしたら、情報をお願いします。

145五月雨:2002/08/01(木) 13:30
独歩さん

さっそくにnbさんのサイトを教えて頂きまして、ありがとうございます。プリントして読んでみます。
石山教学は歴史を明らかにすることが、何か不都合な事でもありそうですね。あまり触れたくないように感じた事がありました

146犀角独歩:2002/08/01(木) 14:59

五月雨さん:

富士年表のデータは膨大ですから、プリントすると1冊の本になってしまいますよ(笑)

ですから、データをダウンロードして、必要なもの、興味のある語句や年代で、「検索して使う」ほうがいいですよ。

それにしても、これだけの入力は大変だったろうと思います。nbさんの労作業に、みな感謝しています。

> 石山教学は歴史を明らかにすることが、何か不都合な事でもありそうですね

石山の歴史は、道師の御伝土代、精師の家中抄など、まあ、それなりの資料性はあるわけです。精師のほうは相当怪しい記述も多いのですが。
むしろ、消極的なのは文献時代考証のほうだろうと思います。

よく記すのですが、昔の石山の学生はみな立正大学に行っていました。ですから、日蓮宗教学史ぐらい勉強しているわけです。法華経が釈尊の説いたものではないこと、仏滅年代が500年ずれていることも知っているでしょう。つまり五時八教説が成り立たないことも知っているわけです。でも、それをちゃんと調べない。相変わらずの調子で勉強会やら、御講で100年も前に疑義が提示されていることに見て見ぬふりをしてやっているわけです。ここに欺瞞があるといいたいわけです。

ただ、以前、顕師の説法を聞いていたら「大乗非仏説ということが言われるのだがね、そんなことはワシはないと思うんだよ」と、あの口調で語っていたことがありました。
ですから、案外、旧態依然とした台判の過ちなんかを受け入れられないで石山自体はやっているのかなと思ったことがありました。

けれど、そんなことは世間の学者の失笑を買うばかりで、そこで「信じないと罰が当たる。地獄に堕ちる」なんて脅しもまた、相手の失笑を買うだけなんです。

けれど、そんなことは内々わかっているのでしょう。だから、打って出て折伏なんかしないわけで、お山の大将宜しく、信者相手に、供養集めの御講説法をやるばかりと相成るわけでしょうね。

147五月雨:2002/08/01(木) 17:13
独歩さん

独歩さんの学会と法華講の分析をプリントアウトして、法華講のおばぁちゃんの家に行って来ました。勝手に使って申し訳ありません。著作権の侵害をしてしまったでしょうか。後でゆっくり読んでと渡しましたので今夜あたり読んでくださるでしょう。ついでに「二箇相承書」の事も言いましたが、御本尊様さえ信じていたら良いらしいです。ところで勤行・唱題をしないとまともな人間になれないのでしょうか。「誰々は変だから、勤行も唱題もしていないらしい」と話しているのを聞きながら、そんな教えか゛あったっけと思った次第です。

>法華経が釈尊の説いたものではないこと、仏滅年代が500年ずれていることも知っているでしょう。つまり五時八教説が成り立たないことも知っているわけです。

これってホンマですか。今読んでいる法華経の本は「ものがたり」と読んではいましたが
釈尊が説いたものを土台にして出来上がったものではないのですか。仏滅年代が500年のズレがあったり、五時八教説が成り立たないというのは、世間では常識なのですか。ホンマやったらショックです。(独歩さんを疑っている訳ではないのですが、再度確認の為です。お許しください)

>ですから、データをダウンロードして、必要なもの、興味のある語句や年代で、「検索して使う」ほうがいいですよ。

はい、そうさせてもらいます。

148犀角独歩:2002/08/01(木) 17:59

五月雨さん:

> 著作権の侵害をしてしまったでしょうか。後でゆっくり読んでと渡しましたので今夜あたり読んでくださるでしょう。

著作権、そんな大袈裟に考えないでください。ここで書いていることは、もうかなりあっちこっちで活用してもらっています。

ただ、一つだけ、カルト・メンバーの脱会支援の鉄則に(法華講がカルトだといっているわけではありません)、それは「望まない批判記事は提示しないこと」ということがあります。

読む気があるという場合は、この限りではありません。
読んでいただいて、なんか感じてくれると嬉しいのですが。

> 「二箇相承書」の事も言いましたが、御本尊様さえ信じていたら良いらしいです。

それはそれでよろしいでしょう。
こういう人は多いですよ。

> 勤行・唱題をしないとまともな人間になれないのでしょうか。

こういうことは統計的に考えればいいと思うのですよ。
いま法華講って何人ぐらいいますでしょうかね。そのなかでちゃんと勤行・唱題している人(ちゃんとって何かも問題なのですが)10万そこそこでしょうか。20万はいませんでしょう。
はい。ここで問題です。今の世界の人口は何人でしょうか。もし、勤行・唱題しない人がまともじゃないと世界の人々のほとんどすべてがまともじゃないことになってしまいますよ(笑)

>> 法華経が…釈尊が説いたものを土台にして出来上がったものではないのですか。仏滅年代が500年のズレがあったり、五時八教説が成り立たないというのは、世間では常識

ええ、残念ながら、そのとおりです。それも100年も前に、ほぼわかっていたことです。
ですから、私は来るべき21世紀(もう来ちゃいましたが)に通用する日蓮仏教にならなければ、崩壊するというのがそのことです。

だから、今頃、日蓮が本仏だ、戒壇之本尊は生身の日蓮だなんて言っている場合じゃないんです。

しかし、仮に法華経が釈尊直接でなくても、仏滅年代が違っていても、それを基にする聖人の教えが違っていても、私は聖人の人を思い、国を思う熱誠に違いはないと考えています。そこが全面に出ることが大切だと思うのです。また、法華経における菩薩道は、それが釈尊の教えでないとしても、人類の精神において宝であることは変わらないと思っています。

これらの点を鑑み、根本から見直し、整理し、未来に伝えることこそ、令法久住であると私は考えています。

参考に
『苦悶の選択』真実を見つめる勇気
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/kumon.html

149五月雨:2002/08/01(木) 22:06
独歩さん

独歩さんのご見解をプリントアウトして人に渡した事を、こころよくご了承下さいまして
有り難うございました。後日に感想など聞いてみたいと思います。
勤行・唱題でまともな人間云々に付きましては、面白い視点ですね。反対に勤行・唱題しているからまともな人間っていう人にも出会った事はありませんしね。

>ええ、残念ながら、そのとおりです。それも100年も前に、ほぼわかっていたことです

いやぁ独歩さん、簡単に仰ってくださいました。ちょっとショックを受けています。心の整理が出来ません。独歩さんの仰った事は理解出来るまでに時間がかかりそうです。

150犀角独歩:2002/08/02(金) 00:09

五月雨さん:

こんなショックは乾電池でビリッときた程度。
まだまだ、奥は深いですよ。

151現時点:2002/08/02(金) 04:34
148について

まさにそのとおりですね。

狭い視野で、あるいは過去の形骸化した思考回路やドグマ化された教えなどというものから

目覚めて、人類の未来が今よりもすこしでも明るい希望のもてるよう

生きていくこと、そんなことを読んで思いました

152現時点:2002/08/02(金) 05:01
五月雨さんへ

信仰をしている人たちの方がくるっている(というと語弊がありますが)のではないかとも

思われます。

信仰などに無縁であっても立派に生きている人たちが多いのではないでしょうか

選挙の時だけにこやかになって、終わると無視。こんな信仰者もいますよね。

勤行は確かに重要ですが、ノルマのような形になってはあまり意味のないものとなる

のではないでしょうか

ゆったりとこころをこめて 時間の多寡ではないと思います

私はご本尊様を拝しても長年の蓄積でどうしても大聖人様にだぶってしまって

教主釈尊にならないのですが  まあ あまり気にせず ゆったりと のんびりと

楽しみながら やっていこうと思います

153犀角独歩:2002/08/02(金) 07:34

> ご本尊様を拝しても…大聖人様にだぶって…教主釈尊にならない

さらりと書かれていますが、重要な点だと思います。

本尊は人と法である、というのが理解の仕方であるといいます。
それで寛師教学では人は日蓮、法は大曼荼羅と、こう言います。
これに対して、他門では人は釈尊、法は大曼荼羅であると。

一見すると整理され、事実と映るように見えますが、私は違うと思っています。
曼荼羅に聖人を見るのは当然でしょう、なぜならば「日蓮在御判(花押)」と認められているからです。もっと言えば四菩薩も、その他の諸尊も認められています。その一切を観じるための曼荼羅であると私は考えます。以前に勧請について喧しい議論をしたのはそのためです。

本尊に人・法を立てることは、私には異論があります。本尊というのであれば、仏・法でしょう。

ここのところ取り沙汰されている本尊問答抄が真筆でなければ、法の本尊ということにも、実は異論があります。そもそも、見ることも、解すこともできない「法」をどうして、具象的な本尊とできるのかという疑問があるからです。これはまた「法とは(南無)妙法蓮華経である」という常套句についての疑問でもあります。私たちは仏の教法を通じても、実は法を観られないのではないのか、だから、仏への帰依があるのではないのかと私は考えるのです。

何度となく書いてきましたが、「仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。」という諸法の実相、天台はこれを観法として十界の十如と立てるのでしょうが、さらに寿量品を通じて仏の三世間も三千を言います。妙楽が一念三千と呼称したところです。しかし、天台はこの三千にすら執着してはいけない三千は三千だが、しかも三千ではないと不可思議境をいうのです。この境地の時、百法界も三千も超えてしまう。つまり、天台の説いたことは一念三千を超えたところにあると私は思うのです。

このことは南無妙法蓮華経にも言えるのではないでしょうか。聖人の言う妙法蓮華経は法華経の題目と言うけれど、実は経典の題号ではない、久遠に釈尊が悟った妙法のことである、だから、その妙法を直ちに唱えるのだという説明は私も一往の納得はできます。

けれど、これは理屈でわかっているだけです。しかし、お悟りの法を一言に妙法蓮華経と“言葉”として表されるものなのかという疑問はあります。また、そもそも久遠の妙法というけれど、それはどのようなものなのか、どのように法華経の題号と違うのか、ということは所詮、仏にあらずんば知ることのできないものであるのでしょう、また、言葉で表せるものでもないのでしょう。つまり、私たちが唱える題目は久遠の妙法だと思いながら、結局は法華経の題号に南無を冠し唱えることから一歩も出ていないのではないのかという思いが、私には常にあります。

もちろん、この点は聖人は充分に見抜かれています。故に

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ

しかも、ここで言う一念三千とは上述する如く不可思議境を指してのことであろうと私は拝察するわけです。

さらに重要な点は、聖人が立てる法門は、実は悟るためのものではなく、仏の悟りの功徳を譲り受けるところに力点があるのでしょう。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ

それ故、その意味を悟ることをしなくても南無妙法蓮華経と唱えることによって釈尊の因行果徳が自然譲与されるというのです。つまり、ここで自ずと釈尊の恩徳を有り難いと思う心、換言すれば仏本尊を釈尊と見る思いが生じるのでしょう。しかし、その仏本尊の果徳を譲り受けることを行とする故に、そこで口をついて出るのは、南無釈迦如来ではなく、南無妙法蓮華経なのでしょう。

しかし、これは人本尊、法本尊ということではないように私は思えます。
さらにこのことを教えてくれたのが日蓮であれば、そこに恭敬の念が生じるのは当然のことであり、我等を四菩薩が守護をしてくれるという以上、ここにも恭敬の念は生じるでしょう。その意味から聖人が終生、釈尊の一体仏を捧持され、さらに曼荼羅を示したことは至極自然な所作であったと思えます。さらに滅後、それらを教え示してくれた祖師を仰ぎ、像に刻み、手を合わせ、さらに今時、我等に果徳を譲る釈尊を像に刻み、さらに守護の四菩薩を像に刻んで、仏像本尊としていくことも、信仰心の表れとしては、ごく自然あろうと思うのです。

以上はしかし、経釈がどうという煩瑣な議論を望むものではありません。本来はツブヤキに記すべきであったかもしれません。

154五月雨:2002/08/02(金) 09:03
独歩さん
 
乾電池程度のショックですか。次は100Vの感電ですか。私は痛がりなので手加減してやと言いたい気分です。大石寺の過去ログをまだ読んでいます。ちょうど、私が疑問に思う所を読みました。例によって難しい部分の理解は浅いかもしれませんが、真実は真実として受け止めなければと思っています。次のショックが楽しみです(?)

155五月雨:2002/08/02(金) 09:18
現時点さん

はじめまして、だったと思います。よろしくお願いします。(前にも挨拶しましたでしょうか)

>信仰をしている人たちの方がくるっている(というと語弊がありますが)のではないかとも思われます。

私もそう思っていました。組織の論理で思考・行動するので世間から遊離しているのでしょうね。一般常識をもって物事を見るだけで、その組織の矛盾はいくらでも分かるのに、アネモネさんのお話の中にありましたように、信心をからめた話で矛盾から目を逸らしているのでしょう。そうするように仕向けられてもいるのでしょう。昨日も法華講のおばぁちゃんとお話してて、何か空しいものを感じた次第です。


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