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配偶者がカルトに入ったらどうしますか
97
:
犀角独歩
:2002/07/16(火) 04:57
一字三礼さん:
> 宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが…
“確信”、難しいテーマですね。信仰者の確信とカルトの刷り込みの確信に差があるとすれば、前者が個人的に得たものであるのに対して、後者は第三者によって植え付けられたものであると言った差異であろうかと思います。けれど、私は前者の確信に対しても悲観的です。
マインド・コントロール研究の第一人者・西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店)のなかで、個人的リアリティを説明して、
たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によって何となく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという。(P81)
と記しています。私は確信と聞くと、真っ先に『立正安国論』の一節を思い出します。
人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる
宗教的な確信が到達困難な肯定されるべき境地であるか否か、今のところ、私は決しないことにしておきます。方や、カルト的刷り込みに基づく確信について、いくつか、実践者の発言を紹介します。
まず、ここのところ紹介してきている高橋紳吾師は『宗教病理と犯罪』という講演のなかで
妄想とは何かと言いますと、指標は三つあります。Karl Jaspers によれば「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」とされています。妄想は仏教用語の読みでは「もうぞう」と言うそうです、多少意味が異なりますが。精神病理学的に、妄想の言語構造論的分析をすると、簡単に言うなら「妄想とは欲望が変形したものだ」となります。
と話しておりました。決して前言を翻さない強い確信、それが事実であると証明できないとすれば、精神病理における妄想であるというわけです。信仰者として考えさせられる定義であろうかと思います。
オウム真理教問題では命まで狙われた実践者・弁護士である滝本太郎師は
「よいことをする」つもりで行うから、実はよりおそろしいのです。「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は限度がない」のです。「人は、宗教的確信にたったときほど、完璧に喜んで罪を犯す」のです。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P15)
と言います。カルト問題を扱ってきた弁護士ならでは発言です。
また、オウム信者の心理に触れ、
「麻原の教えは間違いだった。けれど、あのときのクンダリニー・ヨーガの成就は本物だったかもしれない。それなりに自分は他心通もあるし、宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。するとオウム真理教に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。(同 P29)
と、あれだけ間違っていると言われるのに、オウム真理教に居続けるメンバーの心理を見事に分析しています。これは、どのグループにも当てはまるでしょう。
○○の教えは間違いだった。けれど、あのときの○○の成就は本物だったかもしれない。…宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。すると○○に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。
○○の部分に自分の所属する集団名、そして宗教的経験を入れて考えてみると客観論になります。
妄想か確信か、その分別に、果たして宗教的・カルト的の隔壁があるでしょうか。
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