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配偶者がカルトに入ったらどうしますか

156犀角独歩:2002/08/02(金) 14:35

五月雨さん:

ショックについては、たぶん五月雨さんは充分に耐えられるようになっていくでしょう。組織矛盾を現実の窓を見つけられたから、そこをのぞき込む勇気も既に持っておられるから。

ショックで立ち直れなくなる人は窓があっても見ないようにするか、閉めてしまいます。

信仰という色眼鏡を外してみる、あの組織は何とまあ、魅力のないことか。しかし、ここの書き込みを見てわかるとおり、組織批判をする人でも、教義、本尊を捨て去っているわけではない、だから、付随的に組織も認めているという構図があると思うのです。

実はここのところは重要なのです。信仰は各人の自由ですから、極端なことを言えば、鰯の頭を信じたって周囲がとやかく言えないと言うのが法律です。(ちなみに金比羅さんのご神体はガンジス川のワニ?、お稲荷さんはキツネ)

けれど、五月雨さんがショックを超えて踏み込もうとしているところは、自分の存在、アイデンティティを支えてくれたそのものなのでしょう。

絶対の本尊、その継承者、その信徒としての自分の位置、永遠の生命、死後の約束、運不運を左右する方法などなど、それらを「違っているのではないのか」という視点で、再点検してしまおうという作業です。

ただし、法華講のお婆ちゃんの話を書かれていらしたけれど、このような方に、ここの再点検はさせないほうがよいと思います。変な言い方ですが、考えて答えを出すのに、心の柔軟度も、人生の残り時間も、あまりにも不足しているからです。

このような人たちには、「組織は人間のやることだから過ちがあるのも仕方がない。でも、お題目に間違いがあるわけではないから」と現状を肯定してあげることが必要であると思うのです。

「それは方便ではないのか?」という疑問も生じるわけですが、しかし、私はこの時点で真跡はないけれど、いつも心している御書の一節があります。

さて此の品(提婆品)に浄心信敬(しんきょう)の人のことを云ふに、一には三悪道に堕(だ)せず、二には十方の仏前に生ぜん、三には所生の処には常に此の経を聞かん、四には若し人天の中に生ぜば勝妙の楽を受けん、五には若し仏前に在らば蓮華より化生せんとなり。

この『女人成仏抄』にいう「浄心信敬」が組織・指導者にではなく、仏様と自分を直接つなぐ心の置き所となるとき、たしかな目標となると私は考えています。外に向かう菩薩道(慈悲)に対し、内に仏に向かう自利の要です。

同じく真跡はないものの『教機時国抄』に言われる

仏は金師に数息観を教へ、浣衣の者に不浄観を教へたまふ

というように、人にあった“提示”の仕方を考えることは大切なのであろうと思います。
人の心を動かすことは容易なことではないですね。まして忠言は耳に逆らいますし、強固な信念を持った人は「自分の影響力の中毒」になっていますから、考えに異論を述べられることに憎悪を懐くものです。

もちろん、五月雨さんは、以上のようなことは十分にご承知で、お考えの所とは思いますが、法華講のお婆ちゃんの書き込みで、少し思うところがありました。余計なことと思いながら、記させていただきました。

157五月雨:2002/08/02(金) 16:16
独歩さん

ご忠告をありがとうございます。私も「いのちみじかしそうな昔・乙女」のおばぁちゃんにいうのに、少し迷いもありました。でもこの人が一番身近にいる人で長年一緒にやってきたのです。私の数少ないよき理解者でしたから、一度くらい聞かせてあげた方が良いのではないかと判断してのことでした。でも、やっぱりあまりの年寄りに言うのは止めます。

158犀角独歩:2002/08/02(金) 16:38

五月雨さん:

> 157

このような五月雨さんの優しさを慈悲の顕現というのでしょうね。

159アネモネ:2002/08/03(土) 01:10
五月雨さん

法華経が釈尊の説いたものではないこと、私は、一年半前にこの掲示板に最初に参加してときにやはり独歩さんのレスで初めて知ったんですよ。だから、石山のまやかしよりも半年前に、その根幹部分がもろくも崩されてしまいました。これは本当にショックでしたよ。
正直言って、二箇相承の信憑性が崩れたことよりシッョックでしたね。なんせ先日お話した、下種の親に最初に教えてもらったことが、この五時八教で、これでいよいよ本気で信仰してみようかなと思い始めたようなものなんですね。それこそ体験発表にも、そう教わり入信を決心しましたと書いたくらいです。
ところが今では逆に、「法華経は釈尊の説いたものではないらしい」ということを、私が下種の親に話すことになってしまいました。科学的な史実を無視することを嫌う人ですので、受けとめておられましたが、なんせ話すのが私ですので、どうも説得力に欠けるところです。そのうち自分で確認することと思います。

たけど、独歩さんから教わったことをキッカケにして、私は法華経も読破できないうちから、先に法華経を中心とした大乗仏教の発生から成立の過程に興味を持ってしまったんですね(私の悪いクセです)。私はその成り立ちを大雑把に知って、けっこう気に入り、なんとかショックを克服してます。
過去のスレッドでも、詳しく書かれているところ出てくると思いますので、新しい発見(ショック?)があればご披露くださいね。

160現時点:2002/08/03(土) 06:46
上記で池田さんのほほえましい扇子踊り、なつかしく思い出しました。

これらはほほえましいエピソードですが、池田さんのいびりは、それはそれはひどいもので

会合でも大幹部を満座の前でいびる

こうじて精神病になった方もいらっしゃます

私は池田さんは嫌いです なぜなら身勝手だからです それとおおらかさがない

臆病で昭和45年の言論問題の時には箱根の研修所に引きこもって おろおろしていた

それで本部総会で 謝罪したのですが 口の根も乾かない先から あれは真意ではないという異常神経

の持ち主です

戸田さん時代も「はったり会長」と言われて まあ問題もありましたが

池田時代になると 神経がピリピリした 組織になりましたね

161五月雨:2002/08/03(土) 08:30
独歩さん

>このような五月雨さんの優しさを慈悲の顕現というのでしょうね。

お褒めの言葉をありがとうございます。でもそんなに言って頂くほどの価値があるかどうかは分かりません。正直言って、他の人に話すことは、「自分が絶対正しい病」に罹って、ただ主張したいだけじゃないのかと思う事もあります。でも知らないという事は可哀相だから言ってあげたくもなりますし、気持ちの揺れがあるのです。独歩さんがここまで言って下さるお気持ちを有り難く思って、自分の気持ちを確かめながら、真実を伝えていきたいと思います。

独歩さんに教えて頂きたい事があります。『謗法』の正しい定義は何なのでしょう。今月のお講の説法で「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」とお話があったらしいです。法華講のおばぁさんが、私の話を聞きながら言ったので、私の話の内容が『謗法』に当たると言いたかったのかもしれません。法を謗るのが謗法というのは分かるのですが、具体的にはどんな事なのか分からなくなりました。大聖人様の仏法を捻じ曲げて教えてきた宗門から、そんな事を言われたくない気持ちもあります。詳しく教えて下さい。よろしくお願いします。

162五月雨:2002/08/03(土) 08:40
アネモネさん

ショックの受け方は色々ですね。私の一番目のショックは勧められて読んでいる「法華経」の訳本を数ページ読んだ時、「これってただの物語じゃない」というものでした。法華経誹謗の罪で、重い宿業を背負ったのですから、法華経が物語だったというのは拍子抜けしました。これは軽ーいジャブ程度のものでしたが。後のショックは石山のまやかし、法華経の真実と続くのですが、まだ乾電池程度らしいので、次のショックが楽しみです。その時はまた報告させてもらいますね。

163アネモネ:2002/08/03(土) 09:00
五月雨さん

>「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」

私のお寺でも、青年部会で所化さんがそのような話をしてましたね。
御本尊様を護るために人殺しをした人は、世法では殺人者として罰せられるけれども、仏法では成仏する。護れなかった人は成仏できない。そんな話をされてました。
護る対象が御本尊様だけに、私も含めて誰ひとり、異論も質問もできなかったです。
だけど、青年を相手に好ましくない話だなぁという印象を受けました。極論過ぎます。これが高じると、オウムのポアと同じになっていくのではと懸念したものです。
その所化さんは、話の仕方もなかなか上手で、青年部ではけっこう慕われてましたから、危ないなと思いました。
今、どこかのお寺の住職になっているらしいです。

それと、法華講か学会かはよくわからないのですが、ある信者さんが、会社のお金を横領して逮捕され、その為に信徒として除名されたという話を聞いたことがあります。「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」というのが正論なら、矛盾してますね。

164アネモネ:2002/08/03(土) 09:06
現時点さん

>会合でも大幹部を満座の前でいびる
こうじて精神病になった方もいらっしゃます

そのようなこともあるのですか。共同体のトップがそのような振る舞いをすれば、現時点さんのように「嫌いだ」と思わない限り、下の者は同じ振る舞いをする人間になるでしょうね。やはり、虚像と実像は全く違う人だということ、わかりました。

165アネモネ:2002/08/03(土) 09:11
レスを錯綜させてしまいました。

独歩さん

五月雨さんのレス161)のご質問、
>『謗法』の正しい定義は何なのでしょう。

よろしくお願いいたします。

166犀角独歩:2002/08/03(土) 09:24

○ショックから立ち直ること、…私的経験ですが


五月雨さんが法華経が釈尊の教えではなくショックであったといい、アネモネさんもそうであったと記されています。私は20代のときに神経障害を煩ったことをここで敢えて告白しました。実は私が精神的に追い詰められていった原因の一つに教学上の問題がありました。私の症状は、実は創価学会の52年度路線前に始まり、池田さんの辞任の頃にピークに達しました。池田さんの無謬正を信じ、さらに創価教学の無謬性を信じて、さらにそれが無謬の石山教学と合致するものであると思い込んでいた私にとって、創価学会と石山の教学上の不和、そして、それにより知れた池田さんが久遠の師・日蓮の生まれ変わりではないという、当時の私にとって、到底受け入れがたい結論に、煩悶とした二人の自分が心の中で葛藤していました。そして、ある日、ちょうど圧力を加え続けたガラスがそれまで何事もなかったように見えていたのに、一瞬に割れ崩れるように、私は発症しました。それは同時に、私の中の池田神話の瓦解を告げるものであったけれど、耐え難い苦痛を伴うものでした。当時の日記を読み直すと「生きながら地獄にいるようなものだ」と何度となく記されてあります。

この段階で私を救ったのは石山の無謬性を求めた信仰心でした。当時、御書全集を何度も何度も読み返し、富士宗学要集は、その時期だけでも3回は通読したものでした。朝晩寺院に通い詰め、御講、勉強会、その他法要の一切に欠かさず参詣する日が何年も続きました。

下種三宝への絶対の信、すなわち、戒壇の本尊を生身の日蓮聖人と仰ぎ、唯受一人血脈付法の猊下、その代理たる寺院住職を含めた僧宝の尊信の徹底を強固にしていくことによって病魔退散と生活向上を願ったのです。

法華講への入講は、昭和56年以降からの私の悲願でした。けれど、当時、宗門と創価学会は、和解が採れ、寺院・法華講は創価学会員を移講させてはならないという宗門からの厳しいお達しが出ていました。そんな事情もあって、私は何年も寺院に通っていましたが、その間、一度たりとも法華講員と言葉を交わすことも、挨拶を交わすこともありませんでした。一度、わからないことがあり、寺院の階段ですれ違った講員に声をかけると、汚らわしいものを見るような険しい顔をし「話しかけないでくれ!」とはき出すように言われたものでした。そんな意味で寺院への日々の参詣は屈辱的でもあったのですが、耐えることが信仰であるとも思っていたものでした。

それが、平成に入って起きた宗創戦争によって、学会の勧誘が許されるや、真っ先に声をかけてくれたのは、かつて在勤の僧侶でした。地方からわざわざ電話をくれたのです。私は急いで駆けつけました。「私の寺院で中心者になって、法華講を作ってもらいたい」、私は即座に快諾しました。喜びを所属寺院に伝えに行ったのです。しかし、ここで住職から「待った」がかかりました。「猊下から、脱会した学会員は、その地域の寺院に所属するよう指導が出ている」ということでした。「いや、それじゃ、私はあの御僧侶を裏切ることになります」「ワシが言っておくよ」という一言で、私は地元寺院に所属することになりました。それからのことは既に記したとおりです。

法華講は、私にとって夢にまで見た存在であったのです。数カ年を経て、「やめよう」と結論するしかなかったのです。日記に「山は遠くから眺めていれば美しい」と記したものでした。

夢にまで見た法華講と、石山僧の現実は、私が濫読してきた富要に記されてある僧宝ではなかったのです。この“ほつれ”を手繰っていくとき、そもそも石山教学とは何か、何より、法華経とは何か、自分の病は何であったのかを改めて考えてみたのです。そうして、徹底して再確認してきた結果を、実は、私は、ここ富士門流信徒の掲示板に記してきたのです。問答名人さんとのやり取りはまた、多くの示唆を与えてくださったものでした。

167犀角独歩:2002/08/03(土) 09:25

―162からつづく―

私は川蝉さんのように台学を修め、聖人の祖書に精通し、さらに700年来の文献を精査される行学に、敬意を表します。また、その規範に基づいて、論理性を立て、ここに示していただくことに感謝しています。これは重要なことだと思います。

私も、その在り方が日蓮仏法の信行学であるという点には何の疑義を挟むものはありません。この点から富士門流を見直すことは重大な意味を持っていると思います。

その前提を踏まえて、今度は逆に、「すべてをリセットして、法華経を読み直してみる」ということを、私は人に勧めてきました。この場合、法華経とは妙法蓮華経ばかりではなく、正法華経でもよいし、正しい教えの白蓮でもいいのです。

天台の釈、聖人の教えにとらわれず、自分の感性で読み直してみると、まるで違った法華経を発見できるからです。

法華経を釈尊が説いた可能性は限りなくゼロに近い。残念ながら、これは事実でしょう。しかし、天台釈、日蓮義を敢えてよけて読むとき、つまり、一念三千であるとか、久遠の妙法であるとか、末法であるとかといった教条性をすべて取り去って虚心坦懐に読むとき、この題名でもある「サ・ダルマ(正法)」(羅什が妙法と訳した部分ですが)とは何であろうかと考えるとき、正しい法を勧めるということについてだけ言えば、それは間違いなく釈尊の教えに違いないということだけは事実です。八正道と説かれる生き方が数百年を経て菩薩道を得、さらに完成されて、ここに記されているのは事実であると私は思っています。

一字三礼さんは自由に通読した結果、「室座衣の三軌を自行化他の心構えにして、法華経の五種を勧めること」と独自に思ったと書かれていた。私は、こうやって自分で読み掴むことは尊いと思うのです。

私が掴んだ部分は、二十四文字の法華経でした。私から見るとき、そこに法華経の精神のすべてが凝縮されている思えます。その法華経に南無をするのです。

以前にも書いたとおり、羅什は嫌いですが、しかし、半世紀も唱えてきた「南無“妙”法蓮華経」を今さら、南無正法蓮華経としようとは思わないのです。また、それが唱題、あるいは読経という形で表すことばかりが信仰であるとも思わないのです。うちに正しい法(道)を鑑み、外に菩薩道を歩むことが法華経であると思います。その道すがら、唱える言葉が「南無妙法蓮華経」です。

自分にもっとも適した、そして慣れてきた調子で、私は今も南無妙法蓮華経と唱えます。そして、天台の卓越した三諦論にも驚嘆します。今でも日蓮を敬愛します。

「菩薩道と発展した正しい法(道)」を信じ、実践しようと思うのが、私の法華経観です。私はこの考えにいたり、「ショック」から立ち直っていきました。そして、この考えは、現在の文献学的、考古学的成果とも、精神医学、社会心理学その他人文科学とも矛盾しないものであると思っています。

168犀角独歩:2002/08/03(土) 09:26

間違えました。167は166からのつづきです。

169犀角独歩:2002/08/03(土) 10:10

五月雨さん:
アネモネさん:

謗法ですか。恐怖操作の呪文でしょうね。
難しく考えることはないと思います。

真跡ではありませんが、謗法とは謗仏・謗僧の総意で、それは三宝一体であるからだと言います。石山が大好きな一節です。僧侶を謗れば謗法にあたるわけですね。

「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。是(これ)涅槃経の文なり」(真言見聞)

私からすれば、「強盗や殺人よりも、謗法の罪は重いのです」なんていうことが謗法そのものだと思います。

アネモネさんが記された「御本尊様を護るために人殺しをした人は、世法では殺人者として罰せられるけれども、仏法では成仏する。護れなかった人は成仏できない」なんてこという、この発言が謗法でしょう。

謗法とは法を下げることだと言います。こういうおバカちゃんが、頭剃って袈裟衣つけて格好ばかり僧侶に似せて、こういう虚けたことを人の前で話すことが謗法でしょう。
上の“坊さん着ぐるみ”さん達の発言は、謗法ではなく謗石山でしょう。

しかし、やがて、着ぐるみ脱いで、本当の僧侶になることもあるでしょう。
謗らず施を止め近づかないが立正安国論の聖人の教えでしょう。

法というのは道ということです。道とは倫でもあるのでしょう。
それに背くことが謗法であると私は思っています。

170五月雨:2002/08/03(土) 10:18
アネモネさんのお寺でもそういうお話があったのですね。私はまだ石山思考回路ですので、そこまで考えませんでした。それを真に受けたら猊下を守る為といい、成仏は確約されているからと殺人にはしっても不思議はないですね。そういえば、宗・創戦争が始まった頃に、東京の学会の建物のベランダで割腹自殺を図った人がいましたね。ただのケガで済んだみたいですが、それを私に教えてくれた副講頭(元・学会圏指導長)は「猊下様を守るためにしたのよ」と言ってました。それが何で猊下を守ることになるのか、チンプンカンプンでしたが幹部の威厳を漂わせているので、恐ろしくてツッコメませんでした。
その年には、高松の学会婦人部本部長が本山に「爆弾を仕掛けた」といって電話で脅した事件もありました。私の姉の住んでいる地域の婦人部長でしたから、姉もその人となりをよく知っていたので、「どうしてそんな事をしたのか分からない、おとなしい人なのに」と話していました。
人身を惑わすという言葉がありますが、人身を惑わす指導をする組織は怖いですね。

171五月雨:2002/08/03(土) 10:48
独歩さん

独歩さんの苦悩が伝わってきました。大変な道を歩まれたのですね。だからこそ『真実』を見極められたのですね。「真実を見極める道」は平坦では無いのだから私も少々のことで“ネ”をあけ゛ていてはいけませんね。

謗法の事でもうひとつ教えて頂きたいのですが、十四誹謗というものが説かれています。私は組織に出なくなって「十四誹謗」を犯していると言われました。
「軽善」「憎善」「根善」「嫉善」は特に犯してはいけないそうです。そういう心を持つのは成仏の根を絶ってしまうそうです。誰に何を言われようがされようが、絶対に持ってはいけない感情らしいです。「人間は感情の動物」なのにそれに
は無理があると思うのは、仏法から外れていますか。

173犀角独歩:2002/08/03(土) 11:35

五月雨さん:

十四誹謗ですか。これは譬喩品の

きょう慢懈怠我見を計する者には 此の経を説くことなかれ
凡夫の浅識 深く五欲に著せるは 
聞くとも解すること能わじ 亦為に説くことなかれ
若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば
則ち一切世間の 仏種を断ぜん
或は復顰蹙して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ 斯の如き経典を誹謗することあらん
経を読誦し書持すること あらん者を見て
軽賎憎嫉して 結恨を懐かん

を妙楽が法華文句記に釈したものです。

惡因十四。一きょう慢。二懈怠。三計我。四淺識。五著欲。六不解。七不信。八顰蹙。九疑惑。十誹謗。十一輕善。十二憎善。十三嫉善。十四恨善。

聖人の真跡には見られませんが、真偽未決、松野殿御返事、新池御書に見られます。
先に五月雨さん、アネモネさんが挙げた石山僧の発言は、新池御書の

此の経の十四謗法の中に、一も二もをか(犯)しぬれば其の罪消えがたし。所以は何(いかん)、一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争(いか)でか一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば、十方の仏の命を失ふ罪なり。

の教条解釈と言えるでしょうね。

十四謗法(誹謗)は、もう一方の松野殿御返事には

此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし。

と記されています。何も寺院から離れたから十四謗法ということは言えないでしょう。

この十四、1のきょう慢は傲慢みたいな者、2の懈怠は怠け心。3の計我は自分勝手な考え。4の淺識は知識が浅い。5の著欲は欲望に支配される。6の不解は理解しないこと。7の不信は信じないこと。8の顰蹙は顔をしかめること。9の疑惑はそのままですね。10の誹謗はまあ謗法に似たり。11の輕善は善を軽んじること。12の憎善は善を憎みこと。13の嫉善は善いことをする人をねたむこと。14の恨善は善いことをする人を恨むこと。

この14は、根拠となる譬喩品の該当部分はともかくとして、一つひとつはもっともなことです。このようにならないように心がけることは大切であると思います。

しかし、感情を持ってはいけないなどということは、もちろん、ありませんでしょう。
コンピュータのプログラムから外すような発言ですね。

でも、五月雨さん、よーく当て嵌めて見てください。石山僧俗にも当て嵌まること、たくさんあるでしょう。在家出家に亘るべしです。(笑)

教条的にとらえないこと、そして、恐怖操作に引っかからないことです。

> 「人間は感情の動物」なのにそれには無理があると思うのは、仏法から外れていますか。

を関西弁で怒鳴ってみてください。それで正解です(笑)

174犀角独歩:2002/08/03(土) 12:00

―173からつづく―

書き落としましたが、真跡に十四誹謗の記述はなかったと思いますが、反面、「因謗堕悪必因得益」という妙楽の釈は使われています。

毒鼓の縁とか、逆縁という言葉はご存じかと思います。

此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但(ただ)妙法蓮華経の五字を以て幼稚(ようち)に服せしむ。「謗に因(よ)って悪に堕つは、必ず因って益を得(う)」とは是なり。

聖人は折伏の折伏の依文として使われているようです。

因謗堕悪必因得益は、そのあとに如人倒地還從地起と続きます。

謗ることによって悪に墜ちても必ず益を得るでしょう。それは人が地面に倒れたら、その地面から起きあがるようなものですと言った意味です。

私は、むしろ、こちらに聖人の精神を見る思いがします。

175五月雨:2002/08/03(土) 12:15
独歩さん

ご説明有り難うございます。

>11の輕善は善を軽んじること。12の憎善は善を憎みこと。13の嫉善は善いことをする人をねたむこと。14の恨善は善いことをする人を恨むこと。

ここの部分の解釈が違っていました。何故だか「善」という事が抜けていたのです。ただ、人を憎んだり、嫉んだり、恨んだりしてはいけないと思っていました。
私はそう教わったように思いますが、どうして「善を行う人に対して」という主語?が抜けていたのでしょう。「善」を行う人に対してならば、そういう気持ちを持ってはいけないというのはよく分かります。

それでは関西弁で怒鳴らせていただきます。「                   !」
あースッとした。(表現が適切でないかもしれませんので、文字はカットしました)(笑)

176いちりん:2002/08/03(土) 12:44
わたしの親しい知り合いに、スリランカの僧侶がいます。
上座仏教というと戒律でがちがちの不自由な教えと思われるかもしれませんが、なかなか自由闊達な生き方をしています。いま、その方のお話を、少しずつまとめているのですが、誹謗との関連で、参考までに紹介します。

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わたしたちは、日常のなかで、つい怒ってしまいます。嘘をついたり嫉妬したり、気ままに行動して、他人に害を与えたり迷惑をかけたりします。

そのような悪いクセから離れる努力を、仏教では「戒」といいます。

それは、お釈迦さまが命令されたものではありません。信じて守りなさいというものでもありません。本人が望む道を行くための近道、方法を教えたものです。実践するもしないも、本人次第なのです。

わたしたちの上座部仏教には、膨大な「戒」があります。とてもそのとおりには守ることは困難です。お釈迦さまも、比丘たちが完全に守れるわけではないことは、よく知っていました。

「戒」を破ったからといって罰則があるわけではありません。

それは懺悔をすればよいのです。お釈迦さまは、罪を犯してしまった人を、叱ることはありませんでした。しかし、「自分が悪いことを認めないのだったら、どうしようもない」と言われました。

わたしたちは、朝晩、「いろいろ失敗して大変申し訳ございません」と、謝りながら生活するのです。もう懺悔ばかりです。今日も朝、一生懸命懺悔してきたのです。帰ってからもやります。お坊さんに出会ったら、わたしたちは「おはようございます」と言わないのです。お坊さん同士の挨拶というのは懺悔なのです。

「そんなに謝ってばかりだったら、そもそも間違いをしなければいいのではないか」と思われるでしょう。でも、いくら努力しても、どこかで失敗してしまうものです。

じつは「戒」とは、自分のダメさ加減に気がつくためでもあるのです。わたしたちは、戒律を守ろうとしますが、守れないとき、自分の心の弱さに気がつくのです。「戒」があることによって、わたしたちは、「自分は不完全で、どうしようもない」ということに気づくのです。

大切なことは、「自分自身は、いくら努力しても、そもそもだらしがない、ろくでもないのだ」ということを、とことん認めて生きるということです。

「そのままでいい」と思ってしまったら、どんどんと堕落していくものなのです。
自分の不完全さに気づいて、少しずつ一歩ずつでも、努力すればいいのです。
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戒を破ったから、あるいは誹謗したから、地獄に堕ちるとかいうことではなくて、大切なことは、そういう戒めをいつも念じつつ、それが守れない自分の愚かさ、弱さ、どうしようもなさによく気がつくこと。それによって、心を浄めていく道なのだというところ。そこなことを説いていました。

177犀角独歩:2002/08/03(土) 13:23

> 176

いつもながら、すばらしいお話、有り難うございます。
ああなるほどなと、「戒」というのも、このように考えるのかと新鮮に感じました。

178いちりん:2002/08/03(土) 18:41
さきほどのお話だけですと、「なあんだ上座部の坊さんってわりと戒律を保つ意識が薄いんだなあ」と思われてしまうかもしれないので、補足のお話です。おなじく、スリランカの坊さんの語ったことです。こちらも、戒律の基本の考えだと思います。

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わたしたちは、「小さな悪いこと」を、いくらでもしています。毎日やっている小さな悪いことが、やがて大きな殺人や盗みという結果になるかもしれません。

だから、日々おこなっている小さな過ちに対して、充分に気をつけなければいけません。小さなことをいい加減にしていると、大きな罪も平気で犯してしまうようになるからです。

「悪いこと」は、どんな小さなことでも、たとい一回であっても、決して行わないと心に決めるべきです。なぜなら、悪いことはクセになって心が汚れていくからです。

仏教では「戒律」があります。それは、悪から遠ざかること、よい習慣をつけるためのものです。戒律を守ることによって、心を清らかにすることを目的としています。

だから、「盗むなかれ」という仏教の戒めは、糸一本でも、他人のものを盗ってはいけないのです。「嘘をつくなかれ」という場合も、「たとい遊ぶ気持ちでも、偽りを言ってはならない」と戒められています。

「これくらいなら、いいや」という心でいると、大きな悪でも、同じように「これくらいなら、いいや」という気持になってしまいます。

「百円くらいごまかしても、どうってことはないんだ」と思う人は、何千万円のごまかしもなんとも思わなくなります。小さな嘘をつく人は、平気で嘘をつくようになってしまいます。

わたしたちは、「ウソをつくのは仕方がないときもある。ウソも方便だ」などと例外を作ります。しかし、悪いことは、決して例外を作ってはいけません。

人間というものは、ひとつ例外を作ると、どんどんと都合のいいように解釈していきます。「敵ならばいい。悪人ならばいい。自分のいのちを守るためには、殺しても構わない」というように、どんどんとエスカレートしていきます。

例外を作ることで、すべてを台無しにしてしまうのです。
お釈迦さまは、「自分が殺されるようなときでも、殺してはならない」と説かれましたのです。 
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179いちりん:2002/08/04(日) 09:31
松野殿御返事には、こうありますね。
「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたりと見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」。

それが「相手が、在家であろうが坊さんであろうが」「それが、ほんとうであろうがなかろうが」一言でも謗ってはならないよ、と。「若実若不実」というのは、徹底していますね。

なぜなら、「法華経をたもつものは、みな仏なんだ。だから、仏を謗ることになるんだよ」というわけです。

ここで、問題となるのは、「法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか」ですね。

つまり、相手が『法華経』をたもっていない(つまり他宗とか邪宗とか外道とか)、あるいは真実の『法華経』の道を歩んでいない(つまり同門でも、血脈を受けていないとか、謗法を犯しているとか)と、いうのであれば、罵っても構わないという真理になります。

で、それを決めるのは、こちらの尺度であったりしますね。あるいは、教団のリーダーの解釈に従ってしまう。
創価学会が日蓮正宗を罵っても平気なのは、相手が『法華経』を保つ者とみていないわけです。つまり、大謗法の輩・仏敵と思いこまされているわけです。だから、罵ったり攻撃することが、むしろ大聖人の意図である、功徳になるという思いがあるのでしょう。

そうして、いずこの宗教も、互いに「自分だけが正しい」「他は間違っている」という思いがあるから、「敵というレッテル」を貼れば、晴れやかに胸を張って、神仏のご意志であるというような顔をして、非人間的な行為でも行ってしまう。

「信仰深い人」にあっては、異教徒は、おんなじ人間じゃないのですね。

それは、悪魔であり、仏敵であり、謗法であり、それを責めることが「正しい」という真理になりやすいです。そうして、それを決めるのは、教団・宗団の指導者で、信徒は彼の言うことに、簡単になびいてしまう。

簡単にリーダーのことばになびいてしまうのは、常日頃から、「自分の頭」で考え、「自分の感性」でとらえるということが、否定されているからです。

そこが、宗教の怖さの一つでしょうね。

180いちりん:2002/08/04(日) 09:50
わたしが思うには、「罵ったら地獄に堕ちるよ」というのは、ひとつの脅しだと思いますね。
『法華経』には、そのように言い回しがたくさんありますし、日蓮さんもそういう影響を大きく受けていますね。わたしは、そのあたりが、なんとも受け入れがたいのでありましてね。

脅して、恐怖で、縛り付けるというのは、身動きのできない人間になってしまいます。なにをするにしても、恐怖が背後にあって、自分では判断できなくて、宗教指導者(あるいはそういう権威あるもの)にお伺いを立てて、それでやっと安心して、行動する。それでは、は奴隷的な人間になってしまいます。

原始経典などを読みますと、ブッダにはそういう脅し文句は、見あたりませんですね。(まあ、出家に対しての指導が多いので、それは厳しい言葉はありますが)

ブッダの基本は、次の二つかなあ、などと思います。

一つは、「自分が嫌なことは、他人にしてはならない」よ、と。自分が殺されたくなかったら、自分が罵られたくなかったら、嘘をつかれたくなかったら、他人にそんなことをしてはいけない、よ。

一つは、「何をするにしても、自分の心から起きてくることだから、いつも心を浄めなさい」と。「悪いことをするな、よいことをしなさい」というのは、自分の心を浄めるためだよと。悪いことをすれば、心は汚れ、よいことをすれば心は清まる、と。

ですから、十四誹謗などの禁戒というのは、「自分が嫌なことをされたら、つらいわけだから、そんなことを他人にしてはならない」ということであり、さらには「そんなことをすると、心が汚れてしまうよ。心が汚れたら、煩悩が増大して、ますます苦しいことになるよ」という意味だと、わたしはとらえています。

その意味では、相手が『法華経』をたもっていようがいまいが、仏敵であろうが、大悪人であろうが、自分を害する人であろうが、怒ったり憎悪したり罵ったりしないほうがよい。そういうことなんだろうなと思うわけです。

まあ、創価学会などは、「悪に対しては怒れ」「悪に怒らない者は、善人ではない」などと鼓舞しています。その悪かどうかは、いつも池田さんが、指示するわけですが、(あるときは、他宗。共産党。佼成会。日蓮正宗。山友。竹入などなど、そのうちいろいろ出てくることでしょう)。

しかしまあ、たとい悪であっても、怒ること、憎悪すること、罵ることは、自分の心を汚してしまうことになる。そのように思うわけです。

じゃあ、しかし、怒るというのは人間という自然の行為である。怒らざるを得ないときは、どうするのか。ということになるかと思います。それについては、仏教では、どんなときにも怒らない心を作り上げる実践があるわけですね。それが「戒」ということで、生活習慣ともいえましょうか。あるいは、八正道ということになりましょう。

181アネモネ:2002/08/07(水) 01:13
>「自分が嫌なことは、他人にしてはならない」

キリスト教の場合でも、イエスはちょっと似たようなことでこんなことを言っています。

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」

どちらも戒めでありながら、一方は「してはならない」という行動規制の戒めであり、一方は「しなさい」という行動推進の戒め。
全般的に、キリスト教では決まった「行」がないかわりに、「互いに愛し合いなさい」から始って、「こうしなさい」という為すべきことの戒めが多い気がします。
いずれにしても他人を思いやりなさいというだとすれば、その心は似ているものだといえますが、だけどよーく考えていくと、ここに確かに違いもあるのかなと感じます。また、両方とも大事なことかもしれないです。

でも、キリスト教国の欧米大国が、なんでもグローバルスタンダードと称して、自分たちの流儀を最高なのだと世界中に押し付けてきているところ、皮肉なことにイエスの教えが裏目に出てしまったのかなぁと、こじつけのようでもありますが、そう思ったりします。相手にとっては嫌なことかもしれないというところに、思いが至っていない場合がありますね。

そして布教をしていくということは、布教される相手にとって、それが嫌なことなのか、それともしてほしいことなのか‥、結局は布教する人の人間性やその振る舞いが、それを左右するところなのかもしれないなぁと思います。

182いちりん:2002/08/07(水) 11:02
「心を尽くして神を信ずること」と「隣人を愛すること」が、キリスト教の実践の本質ですよね。
そうして、「隣人を愛する」とは、《何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ》(「マタイによる福音書」第7章) ということになります。これが、キリスト教の「黄金律」(ザ・ゴールデン・ルール)と。

隣人との関わり方において、東洋は少し違いますね。
孔子は、《己れの欲せざるところ、他人にほどこすことなかれ》(『論語』顔淵2)と。

イエスは、自分がして欲しいと思うことを、他人にしなさい。
孔子は、自分がして欲しくないことは、他人にするな、と。

で、ブッダのことばを、もっとも古い経典である「ダンマ・パダ」あたりから、拾ってみますと。

「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」(50)

「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない」(65)

「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(129 )

「まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう」(58 )

「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い」(159)

こうみてきますと、ブッダは、他人をどうこうせよというのは、あんまりありませんね。
大切なことは、「ただ自分を観よ」「自分の心を浄めなさい」ということです。

他人が間違っている、あの人はおかしい、あれはけしからん……ということは、生きている日常には、数限りなくありますが、そんなことに煩わされるなと。ただ、自己を見つめよと。

そして、他人に教えることがあるとしたら、「まず自分をととのえてから、人にああせいこうせいと言いなさい」と。

さらに、こうしなくてはいけない、あれはしてはいけない、という戒律がありますが、それは命令ではなくて、基本は「己が身をひきくらべて」というところだと思います。

自分のこととしてとらえたとき、悪口を言われるのは嫌だ、だから人の悪口はやめよう。殴られるのは嫌だ、だから殴るのはやめようと。

まず、大切なことは、「自分の気持ちが分かること」。これ、簡単なようで、とっても難しいことです。そして、「他人の気持ちが分かること」。
なにかを信じて、それが正しいとして頑張って生きるというようなことよりも、大切なことだと。

自分の気持ちが分かると、人の気持ちも分かってくる。
人の気持ちが分かると、自分の気持ちも分かってくる。
そのあたりが、わかつてくると、人生はいろいろと、おもしろくなって生き生きとしてくるかなあと思います。

183アネモネ:2002/08/10(土) 01:19
>これが、キリスト教の「黄金律」(ザ・ゴールデン・ルール)と。

遠い昔、私の聖書の扉に牧師さんが書いてくれたフレーズです。今はその聖書は手元にありませんが‥。クリスチャンはみんなこのフレーズが好きですね。
ブッダのやさしい言葉、なにかとても新鮮な響きがしながら、また、どこか聖書の言葉も思い出されてしまうような懐かしさも感じてしまいます。
なんとなく近いものを感じる言葉を、ひろってみました。

>「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」(50)

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この石を投げなさい」(ヨハネによる福音書)*姦淫の女に制裁を加えようとしている民衆に向けられた言葉です)

>「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない」(65)

「人を裁くな、あなたがたが裁かれないようにするためである。あなたがたは自分の裁く裁きで自分が裁かれ、自分の量る秤りで量られる。」(マタイによる福音書7章)
「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな口から出てきて、人を汚すのである。」(マルコ伝7)
*ブッダは「みずからが汚れる」といい、イエスは「人を汚す」という。ここにも厳密な違いがみえるようです。

>「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(129 )

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイによる福音書5)
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5)

>「まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう」(58 )

「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイによる福音書5)*山上の垂訓の一説
「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8)
「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷になる」(ヨハネによる福音書8)

184アネモネ:2002/08/10(土) 01:20
(つづき)

>「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い」(159)

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目のなかにある丸太は見えないのか。兄弟に向かって『あなたのおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。まず自分の目からおが屑を取り除け。そうすれば、はっきり見えるよになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7)

おが屑と丸太の譬えは言葉通りに想像すると、ちょっと笑ってしまいます。イエスは大工の息子ですから、こういう譬えが出たのでしょう。(笑)確か子供の頃にも、教会でこの一説を読み、思わず吹き出してしまい、肩を震わせて笑いをこらえていた記憶があります。

イエスの言葉は確かに、他人に対してどうこうということが多く目につきます。自分の心を見よといったことを言っているのは、おが屑と丸太の話しかひろえなかったほど。

イエスの言葉も長く私の心に残ってきましたが、ブッダの言葉はまた新鮮であり、とてもきれいで、やさしく、そっと心にとどまりそうです。
お喋りなインド人のイメージは、お釈迦さんには全然感じられないですね。むしろ寡黙な人のようにも思えたり。
法華経の読破は頓挫してしまいましたが、このようにやさしいお釈迦さまの言葉なら、私にも読みきれるかな‥と、かすかな期待を持ってしまいます。

185アネモネ:2002/08/10(土) 01:21
(つづき)

自分の心をみつめるという修行‥ここのところ自分のも含めて掲示板で体験発表を振り返ることが多かったのですが、どうもあの体験発表が信徒を勘違いさせてきているような気もします。
私はこんだけ信心やりましたと壇上で発表し、そのことで奇跡が起きたかのように語って、聴衆から大きな拍手を受ける。語るほうも、聞くほうも、明らかにここで、勘違いしていくところだなあと思います。

たとえばイエスは、「人の見ているところで善いことをしようと思うな」といったことを言ってます。そしてお釈迦さまは誰もいない菩提樹の下でひとり悟りを得られたわけで、修行や行いや信仰というのは、人の見ていないところで出来てほんとかなと思います。そして、それをひけらかしてしまっては、だいなしになってしまう。ひけらかすようでは、まったく修行になっていないということでしょうね。

>己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ

この教えは、現代人にとってもとても重要なことばだと感じました。
「殺さしめてはならぬ」はとても意味が深い気がします。
聖書では、たとえ殺さなくとも、少しでも相手を憎いと思ったならば、それはその人を殺したのと同じ罪であるといった教えがあったかと思います。

イエスの教える神の存在というのは、外側に神の存在がいると捉えるよりは、心の中のことと捉えるほうが、かえってその真意がわかる気がします。心の中で思ってしまう善くないこと、それは他の誰が知らなくても、神がご存知だ。つまり自分自身が知っていることなんだ。そのことで自分が苦しんでいくのだから、だから、善くないことを思ったときには、悔い改めなさい。そういう教えだったのではないかと、キリスト教から離れて何十年もたって、少し仏教に触れることで、改めてイエスの導こうとしたところも知ったような気もします。
それでも、イエスは「裁き」というある種の脅しの手法を使っています。脅しを使わずに人々を導いたブッダの心を、これから学んでいきたいなぁと思います。

(スレッドテーマとかなり離れ、また聖書の言葉の多くの引用は、あまり好ましくなかったかもしれません。ロムされている方で、気を悪くされている方もおられるかと思います。その点、お詫びいたしまして、お含み頂ければ幸いです。)

186いちりん:2002/08/10(土) 14:33
アネモネさん
>キリスト教から離れて何十年もたって、少し仏教に触れることで、改めてイエスの導こうとしたところも知ったような気もします。

ブッダを学ぶことで、イエスのことがまた理解できて、イエスを学ぶことでブッダのことが理解できる。ひとつの宗教を深めていくと、さまざまな思想の違いを越えて、その心の深みを学んでいけるんだと思います。

愚かな学び方とうのは、違いばかりにとらわれて、優劣にとらわれてしまうことですよね。わたしの宗教が正しい、他は間違っているという生き方をしていたら、心は荒廃していくと思うことがあります。

こないだ教育テレビの「心の時代」を観ていたら、鈴木大拙さんに指導を受けた浄土真宗の板東性純さんがお話をされていました。板東先生が、鈴木大拙さんの思い出の中で、こんなことを言っていたのが、心に残りました。

 精神が未熟だと、違いを悩み
 成熟すると、違いを味わう

このように、鈴木大拙さんは、言っておられたということでした。

たしかに、そうですよね。人は、違いを悩むどころか、ときに憎悪しますよね。とくに、宗教者であればあるほど、違いを憎悪したり。

ひとつの成長、成熟、悟りというのは、違うということを、味わうことができる。面白く感じることができる。遊べるんじゃないかと思ったりしました。

187アネモネ:2002/08/11(日) 03:29
いちりんさん

>精神が未熟だと、違いを悩み
 成熟すると、違いを味わう

とても深い深い言葉ですね。
この言葉は、この世の中のいろんな事に通じることだと思います。
男女の違い、世代の違い、学校の違い、職業の違い、地域の違い、習慣の違い、言葉の違い、人種の違い、宗教の違い、宗派の違い、etc‥

違いに悩んで、それが憎しみへと変わると、違いは苦みにな。だけど違いを味わえるなら、それは楽しみへと変わり、やがて違いは尊重しあえる。
本当に深い意味を感じます。

>ひとつの成長、成熟、悟りというのは、違うということを、味わうことができる。面白く感じることができる。遊べるんじゃないかと思ったりしました。

まさに、遊学ですね。「遊」という字、私はとても好きです。
時々思うのですが、禅宗の方の言葉というのは、言葉少ないのに、なにかとても深いものを感じさせますね。それこそ味わい深いです。

ところで、教育テレビの「心の時代」って、テレビ好きの私ですが、知りませんでした。今度、ぜひ観てみたいと思います。

188アネモネ:2002/08/11(日) 03:32
187)訂正

誤→違いは苦みにな。
正→違いは苦みになり。

189宮本:2002/08/11(日) 05:10
いちりんさんへ:
 横レス失礼致します。
  私は、成人の頃よりの学会の信仰についたせいか
 どうもなじめない部分が、多いですね。

 「...違いを味わう」とは、なるほどとは思うのですが
 
 どうもその感覚というか、考えのようなものが
 学会の人には、理解できない人の多いのにビックリした記憶があります。
 
  一つは、多様性の容認ていった感覚が、あるようで全くないんですね。

 一方だと、常にもう一方といった考えの人が、多いのです。
 宗風なのかもしれませんが。(いちりんさんもそれとなく書いておられましたね)


  必要性があってそれが、実際の事例にはまるといいのですが
 恐ろしい程の独善姿勢にビックリした記憶もありました。

  外部の友人曰く、急進改革には、便利な考え方ではないのかな・・。
 とよく議論になりました。

  学会幹部だと、結論をあらかじめ一定の所にさだめたような、
 会話も多いこともあって
 これじゃ会話にならんのかな・・。と思ったりもします。(自分は
 ないつもりなんですが)

  ある時、他の人が
 「信仰を止めたい人がいますが。」と言ってきました。
 
  ひにくでもなんでもなくて、
 「止めるようなことなにもない。そのままでいい。」
 「仏の慈悲は、云々とかあるのでは・・」 と言うと
 きょとんとしていました。(凡夫の私のような者が、
 罰があたるとか言うのは、とんでもない話です)
 
  自分では、「この今の時代に
 信仰の自由とか言っている以上、当然の事で
 止めるとは、おかしな事を言う奴」
 と思っていたんですが。

  どうも今思えば、学会の一部の人は、違うようです。
 (他の皆さんは、わかりません)
  「信仰は、仕事ではないので、本人がしたければ、すればいいし、
 したい時にすればいいのであって、強制的なのは、おかしい。
 間違いがあったら、後で正せばいいのでは」
 という私の感覚は、おかしいのでしょうね。

  自分の祖父は、海外生活が長く、多民族国家の中で生活していたので
 その影響もあり、多様性の容認には、理解のある方だったので
 そのせいかもしれませんね。
  私の感覚は、理解してもらえない場合が多いようです。

  仮に、いちりんさんが
 ある宗のある寺の住職だとすると

 「来るも来ないも、お前さんの自由にするがいい」
 「大金など、持ってくることはない。」
 「袈裟、衣も類は、暑苦しくてかなわんなー」とか言うのでしょうね。

 
  では、また。

 (特定の人、他講の方々をさしているのではありません。その点、御容赦下さい)

190求道:2002/08/11(日) 09:44
> とくに、宗教者であればあるほど、違いを憎悪したり。

と思うところが未熟なのでは。偏狭な宗教者であればあるほどなら、当たり前の話
しですけれども。一つの中心的信念を以て、統一的な意識から他を肯定している場
合ではなく、何でも良いじゃないかと他を肯定するふるまいを偽善と言います。

鈴木大拙師の「精神が未熟だと 違いを悩み 成熟すると 違いを味わう」ですが、
精神が未熟とは、統一されていない状態です。だからこそ、個々の違いに悩みます。
精神が成熟するとは、統一された状態です。統一のもとにある個々は、その違いの
価値が活かされます。

191アネモネ:2002/08/11(日) 14:04
求道さん

こんにちは。よろしくお願いいたします。

>と思うところが未熟なのでは。偏狭な宗教者であればあるほどなら、当たり前の話
しですけれども。

恐らくいちりんさんは、偏狭な宗教者のことを意図して書かれているのだと思います。カルト信仰は社会的問題であり、ここの掲示板で常にテーマとなってきていることですから、そこは敢えて明記されていなくても読み取れるかと思います。
また、宗教とはそういう危険を持ち合わせたものであるという警鐘も発していらっしゃること、これまでのいちりんさんの様々なレスで十分に理解できますし、それはまたとても重要なことだと思います。

>一つの中心的信念を以て、統一的な意識から他を肯定している場
合ではなく、

ここでいう「統一的な意識」の意味がよくわからないのですが。

>何でも良いじゃないかと他を肯定するふるまいを偽善と言います。

「何でも良いじゃないか」を偽善とまで言うのは大袈裟で、適当とか、おざなりとか、いい加減とか、無関心とか、悪くとってもせいぜいそんなところのことだと思います。
そもそも鈴木大拙さんの言葉は、「何でも良いじゃないか」という真意の言葉なのでしょうか。私にはそうは感じませんでしたけど。

>精神が未熟とは、統一されていない状態です。だからこそ、個々の違いに悩みます。
精神が成熟するとは、統一された状態です。統一のもとにある個々は、その違いの
価値が活かされます。

ここでいう「精神が成熟するとは、統一された状態」という意味がよく読み取れません。個人の意識が全体に統一されるということを意味するのでしょうか。それが仏教の成仏や成道ということなのでしょうか。
もしもそうだとすると、そこではもはや個々の違いはなくなってしまい、個々の違いの価値は活かされるものではないと思いますし、これでは、単なる全体主義ではないかと思います。全体主義が精神の成熟を意味するものとは、私には思えないんですね。
なにか統一というと、画一化とか規格化されるように感じ、没個性をイメージしてしまいます。それでは、みんな金太郎飴みたいになってしまわないでしょうか。

私は日蓮聖人の、権力や権力に巣食う既存仏教に対する毅然とした批判精神や改革精神(仏教的には不適切な言葉かもしれません)は、ものすごく好きなんですね。だけど、その精神が今日までには概ね排他精神として捉えられて浸透し、そして社会からは独善的な印象を持たれているということを、とても残念に思うのです。
もちろん、それは聖人の言葉にも起因しているかもしれないことは否めないでしょう。
またそれは、そうした言葉となった時代背景やそれに対する聖人の心も考慮せず、ただその言葉だけを以って日蓮仏法としてきてしまったことにも因るところが大きいと思います。
だからこそ、そういう危険性というものもよく熟慮して心得ていかなければならないと思うのです。それとも私が、求道さんの言葉の真意を取り違えているでしょうか。

192求道:2002/08/11(日) 15:46
鈴木大拙師の件は、「違いはあっても何でも良い」そういう単純な意味ではないこ
とを説明しています。全体主義というのは、何らかの意図を持って、全体の利益の
ためにと理屈をつけて個を強要します。意図を持つ者の考えが、全体の中心に座ろ
うというものであって、所謂支配的なものです。精神の統一された状態とか成熟と
は全く関係ない話です。融和統一された精神によって、個々の違いは包摂されてい
ますから、違いは味わえます。

個々の精神には、人類共通の普遍の精神があります。それらの共通の精神があるこ
とによって、バラバラと思う個々が統一的に相関関係を以て理想に向かおうとしま
す。個々の特殊な部分は、統一的な理想実現のために、否定されるのではなくそれ
ぞれに役割を果たしていきます。十界と言われるように自己の精神も、様々な精神
が混在しています。自己の普遍の精神によって統一されていくのが、成熟の段階で
ありましょう。そういう法華経・日蓮聖人の思想を理解しないと、全体なるものに
対して批判的精神を持つことが是であるとか、或いはそれは社会的には独善である
から否であるとかという、個々の価値観からの考えによって対立を生じます。

193アネモネ:2002/08/12(月) 23:09
求道さん

>鈴木大拙師の件は、「違いはあっても何でも良い」そういう単純な意味ではないこ
とを説明しています。

ということは、「偽善」という言葉は鈴木大拙師の言葉に対して向けられた言葉ではないわけですね。

>全体主義というのは、何らかの意図を持って、全体の利益の
ためにと理屈をつけて個を強要します。意図を持つ者の考えが、全体の中心に座ろ
うというものであって、所謂支配的なものです。

この点の見解は私も同じです。既存の宗教組織、こと富士門における組織信仰は全体主義的に誘導していることを、この掲示板で議論してきたところですが、その点の認識は同じなのでしょうか。

>精神の統一された状態とか成熟と
は全く関係ない話です。融和統一された精神によって、個々の違いは包摂されてい
ますから、違いは味わえます。

関係ない話というよりは、全体主義は個人の精神の成熟を阻害するものであると私は考えます。
求道さんのいう「精神の統一」とか「融和統一された精神」とかが、まだ私にはうまくイメージがつかめません。個々の精神が組織的(全体的)に統一されていることを意味して書かれているのか、それとも個人の中でのバラバラの精神が、一点に統一されるといった意味なのでしょうか。

>個々の精神には、人類共通の普遍の精神があります。

仏教で説くところの十界と理解して良いでしょうか。それとも仏格のことですか。

>それらの共通の精神があるこ
とによって、バラバラと思う個々が統一的に相関関係を以て理想に向かおうとしま
す。

ここがわからないのです。個人の中の普遍の精神(十界)が仏格に統一されるということでしょうか。それとも、個々の精神がひとつの理想(成仏)に向かって志を同じにしたときということでしょうか。成仏した個の精神のことを指しているのか、それとも成仏に向かう個々の集合体としての精神を指すのかでは、違ってくると思います。

教義を体系的に理解されている多くの方は、求道さんが何を言いたいのか読み取れていらっしゃるのかもしれませんが、それこそ未熟な私には、どうしてもつかみきれません。大変申し訳ないことですが、もし出来ましたら、法華経か聖人の御文などでお示し頂けないでしょうか。それをもとに、理解を深めたいと思います。

194アネモネ:2002/08/12(月) 23:11
(つづき)

>個々の特殊な部分は、統一的な理想実現のために、否定されるのではなくそれ
ぞれに役割を果たしていきます。

特殊な部分というのは、たとえばどういう精神でしょう。
統一的な理想実現というのは、「成仏」ということでよろしいでしょうか。

>十界と言われるように自己の精神も、様々な精神
が混在しています。
自己の普遍の精神によって統一されていくのが、成熟の段階で
ありましょう。

ということは、求道さんがこれまで言われてきた「統一される」とは、十界が統一されるということを意味していることになるかと思いますが、となるとここでいう「自己の普遍の精神」というのは、何になるのでしょうか。やはり仏格でしょうか。
十界が仏格に包摂されたとき、個々の違いは味わえるものだと。こういうことでしょうか。

>そういう法華経・日蓮聖人の思想を理解しないと、

つまり、そういう法華経・日蓮聖人の思想を理解しないと鈴木大拙師の言葉は、「違いはあっても何でも良い」という偽善になりますよということが求道さんは言いたいのでしょうか。
だけど、鈴木大拙師は禅の方だそうですから、法華経・日蓮聖人の思想のうえでの言葉ではないわけですから、そうなってくると求道さんが言われる「鈴木大拙師の件は、『違いはあっても何でも良い』そういう単純な意味ではないことを説明しています」と言ってしまうことは、矛盾を起こしてませんでしょうか。
求道さんは何を批判されているのでしょう。
そもそも、私が聖書の言葉を記したことを受けて、鈴木大拙師の言葉が紹介されたわけで、そのあたり全体への批判であるならば、混乱を招いた原因は私ですから、その点はレスの最後に書きましたように、お詫びしたいと思います。

195アネモネ:2002/08/12(月) 23:13
(つづき)

>全体なるものに
対して批判的精神を持つことが是であるとか、

全体なるものに対しての批判ではないのです、求道さんも記された「所謂支配的なものです」といった全体主義に対する批判です。それが、ある意味でこの掲示板のコンセプトでもあることは、理解されていますでしょうか。
今ある全体主義的な富士門の組織信仰の現状を鑑みて、尚且つ宗教のもつカルト的要素にもしっかり認識したうえで、法華経・日蓮聖人の思想をあらためて研磨していこうというところだと思うのです。
求道さんの書かれたレスが、私には、全体主義的なことを是とする内容のようにも読めたため、それならば賛同はできないと思いました。しかし勘違いがあるのかもしれません。ただ、いまだに何を主張されようとしているのか、私にはよくわからないのです。

>或いはそれは社会的には独善である
から否であるとかという、

私は、法華経・日蓮聖人の思想が否だと言っているわけではないんですね。ただし少なくとも、富士門における全体主義的な組織信仰は、かなりカルト的であり、社会的にみても独善的と思われていることは事実です。この点はどうでしょうか。謗法の者たちの評価など取るに足らないと考えられますでしょうか。
社会的な評価はともかくとしても、私自身が自分の目で見て感じたマスナス的な要素は、なにも法華経・日蓮聖人の思想を否定したり誹謗したりすることを意図したものではありません。ここは理解して頂きたいです。
ただし、マイナスに働きかねない数々の言葉が法華経や聖人の御文に由来していることは、信仰する者としても目を向けて考えておくべきだと思うのです。言葉は生きていますから、同じ言葉でも時代を超えて人に与える作用というのは、昔と今では違っていると思います。だから、その言葉だけを空覚えするのではなく、その言葉の心を知ることが大事だと私は思うのです。そのためには、時代背景もその心を知るとても重要な要素のひとつとなりますね。そのうえで、時代を超えて学び語っていかなければならないこととは、言葉を通したその心だと思うんですね。

>個々の価値観からの考えによって対立を生じます。

はっきり申し上げますが、対立を生じさせる内容を書かれているのは、むしろ求道さんではないかと思います。しかしここは広く議論を許された掲示板ですから、それは多いに結構なことなのです。同じ考え方の人ばかりでは、それこそいつしか独善的にもなっていくやもしれません。

ただしここは考えて頂きたいのですが、自分と違う意見に対して反論をするときに、わざわざ相手のことを未熟だとか、偽善だとか、そのように人格的に貶めるようなことを書く必要はないと思うんですね。教義的なことを議論するなら尚更だと思います。
個人的に反論があるにしても、相手に烙印を押すようなことはなさらないほうがいいと思います。
自分の意見の正当性を示そうとするとき、異なる意見の人を人格的に貶めるところから反論をする論法こそ、日蓮主義の悪しき色をつけてきたものではないかと、私は思ったりもします。如何でしょうか。

196いちりん:2002/08/13(火) 01:05
アネモネさん

「こころの時代」というのは、NHK教育テレビで、日曜日の朝の5時と昼の2時にやっています
学者が出てくるときには、眠くなりますけど、ときたま、すんごい坊さんが出てきたりします。

れいの村上公照さんも、いちど出演しました。
わたしの知り合いの、スリランカの坊さんになども二度くらい出ました。

197アネモネ:2002/08/13(火) 02:23
いちりんさん

えー、あの素敵なお坊さん(既に直接知っているかのような書き方、怖いですね)村上公照さんや、いちりさんがご存知なスリランカのお坊さまも出られたことがあるのですか。
ぜひ観ます。日曜日の楽しみがひとつ増えました。
ありがとうごさいます。

198いちりん:2002/08/13(火) 10:24
アネモネさん

こちらのサイトに、今までの放送記録が少しありますね。
村上公照さんのもありました。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/4323/index2.htm

しかし、番組そのものは、睡眠誘導の役に立ちます。

199アネモネ:2002/08/26(月) 00:21
いちりんさん

サイトのご紹介、ありがとうございます。
番組のほうは先週は旅行で見過ごしたのですが、今回は観れました。お寺の御講よりも全然勉強になりますね。なにより話が「我田引水」ではないので、聞いてて気持ちいいです。

早々にご紹介下さったこのサイト、なんと番組を愛する方が開いている、非公式のサイトなんですね。管理者の方がノートにメモしたものを、番組記録として掲載しておられて、これはすごいです。終末医療についてのテーマもありました。
村上公照さんと、板東性純さんのを読みました。
お二人ともキリスト教へのアプローチも深く、まずこのことに大変驚きました。
禅宗の方の言葉というのは、いちりんさんが時々書かれているように、確かに理屈ではなくて直観的ですね。だからこそ即座に相手を唸らせてしまうほどに、その言葉が生きているのだと思いました。
私が特にびっくりしたのは、板東性純さんが語られる鈴木大拙博士のイエスの話、

「カトリックの神父さんで修道士のトマス・マートンと言う人は『聖書の本当の深い意味を東洋人で見ていたのは鈴木大拙博士である。』と言われた。例えばイエスが十字架に掛かり復活される。それを3日後ではなく『即時である』と。十字架の所に復活がある。間髪を入れない。マートン神父は非常に当を得た解釈とされている。3日というのは神話的な数字である。十字架即復活でなくてはならぬ。」

この捉えかたは確かにすごいです。クリスチャンを即唸らせるものだと思いました。私も納得です。

私などは、もともとの性格が強いので、どちらかというと気持ちが高揚しやすい唱題よりも、心を鎮めるような静かな禅のほうが必要なのかもしれないなと思ったりもします。唱題で心が静まるようになれば、本当の唱題といえるのかもしれないですが。

もちろん坐禅は一度もしたことがないのですが、既に身近な日本の文化のなかに禅の精神が深く根付いたものがありますね。私の場合、禅に通じるものの経験としては、茶の湯かなと思います。小学生の頃と大学生の頃、お饅頭食べたさでお稽古に行っていました。

茶道のお手前は、一服のお茶を立てるひとつひとつ所作、襖の開け閉めから、畳の歩き方、お湯の注ぎ方、茶巾のたたみ方に至るまで、その全てが実はとても理にかなったものだといわれていますが、しかしその理にかなったお手前を頭で覚えて身につけるのではなく、ひとつひとつを体で覚えいくんですね。体が覚えないと、美しいお点前にはならず、それが一服のお茶の味をも変えてしまう。
その趣が、禅からきたものだということを知ったのは、茶道のお稽古をやめてからです。
すっかり今ではお点前も忘れてしまいましたが、今となっては続けられなかったのがすごく残念です。

200アネモネ:2002/08/26(月) 00:23
(つづき)

静かな行というのもいいなぁと思います。特に私のような強い性格の場合、こういう静かなひとときが必要なんですね。唱題ももちろん大事だと思うのですが、私は、端座して何も唱えずただただ、合唱したままじーっと御本尊と向き合うこと、実はとても多いです。

昨年、北条時宗展に行ったときに購入した資料が非常に面白いことが書かれてあったのですが、北条時頼は中国から一流の禅僧を来日させ、自らも禅を極めていくわけですが、当然のことながら、日本からも中国へ多くの僧が禅を学びに留学しているわけです。中国から来た一流の禅僧にいわせると、直観で悟りを開く禅の要諦を見事に体得していたのは、北条時頼と時宗の親子だけであったということが資料に書かれてありました。そのことは非常に彼らを驚愕させ感銘させたといったと同時に一方で、日本から中国に留学してきたほとんどのバイリンガー僧は、禅僧といえども禅の真義はほとんど極めず非常に浅いものだったとのこと。
たぶん、ファッション的に坐禅をして幕府にパラサイトしていたバイリンガー禅僧が、日蓮聖人の目からは、「禅天魔」と映ったのかもしれないな‥と思ったりしました。
独歩さんに以前教わったのですが、日蓮聖人も遊学中は比叡山で坐禅をされていたということですから、なおさら、当時のバイリンガー僧の浮ついた感じが、批判せずにはいられなかったのだろうなと思ったりします。
とはいえ、今の禅宗は鎌倉時代とは違い、文化に禅の精神を宿すほどに極められ、高められていっているとするなら、もはや天魔というものではないでしょうね。

それにしても、日蓮聖人も今のいちりんさんのように、当時のいろんな宗派の修行を実践されていたんですね。真理の探究の姿を見る思いです。
念仏はちょっと抵抗がありますが、坐禅は私は密かに惹かれます。

201いちりん:2002/08/26(月) 11:03
アネモネさん

村上光照さんの友人で、押田神父という方がいます。

神父というのですから、もちろんクリスチャンですが、宗派にこだわらない賢者であると、わたしは思っています。八ヶ岳の高森草庵で土を耕しながら、暮らしておられます。
わたしはお会いしたことはないのですが、本を読みますと、ことばが生きているのですね。
---------------------------------------
坐禅は、坐れば坐るほど、謙遜になる人と一緒に坐って下さい。
坐れば坐るほど、わたしは専門家だという人と、絶対に一緒に座ってはいけませんよ。

教える世界、意識の世界、そういうものと行が結びついたら、邪道になります。
無が行するところがない限り、行は邪道になります。

それでは、どうしたらいいか。何を目標にしたらいいか。

かくれた謙遜な信仰者に学んで下さい。魚屋のおっちゃんでも誰でもいいんだ。
ほんとうに謙遜に信じて、いつも頭を下げている人。その生き方に学んで下さい。

坐れば坐るほど、ほとけさまのあわれみを人々が感じるようにならならくちゃ、これは行じゃないんです。
           「祈りの姿に無の風が吹く」(地湧社)より
---------------------------------------
かくれた謙遜な信仰者に学べというのは、ほんとうに、そうだなあと思います。
行が深まれば深まるほどに、謙遜になる人に学ぶこと。

202いちりん:2002/08/26(月) 11:20
鈴木大拙さんのことが、出ていましたので。

鈴木大拙が「妙好人浅原才市集」というのを書いています。

浅原才市(あさはらさいち)という人は、真宗の信仰者でした。
純粋素朴な信仰に徹した人でした。
彼は下駄作りの職人で、ひらがなしか書けない人でしたが、たどたどしい筆で、念仏を賛嘆することばを帳面に書き付け、それが百冊にもなったといいます。

念仏信仰というと、日蓮主義の人は、即座に顔をしかめます。心の中に、念仏無間ということばが湧いてきます。軽蔑の気持が置きます。ほとんど、自動反応ですね。

それでいて、「浄土三部経」も読んだことはない、「歎異抄」も読んだことはない。「浄土宗」と「浄土真宗」の区別も知らない人が、ほとんどです。

で、どんな信仰であれ、信仰者のすがたというものから、学ぶことができます。さまざまな人の心がわかる生き方であるためにも、信仰の異なる人から学ぶことが、大切だろうと思います。

そして、なにより、信仰一筋の人のことばは、生きていますよね。
職業宗教家のことばは、頭で語っているので、心に響かない。それは、ほんとうにわかつていないからでしょう。魂が感動してないのに、仕事・役目として信仰のすばらしさを説くので、それはエネルギーが閉じこもったお仕着せのことばになります。そうして、わかっていない人に特徴的なことは、人を脅すことは得意ですね。

203いちりん:2002/08/26(月) 11:22
この才市という人のことばが、柔和でひろびろして、屈託なくて、とてもいいんですね。
ということで、紹介します。(いちりんが、勝手に漢字にしている文字があります)

---------------------------------------

ええな 世界 虚空が 皆ほとけ
わしもそのなか なむあみだぶつ

わたしゃ あなたに つかわれて 
稼業のなかの なむあみだぶつ

稼業のなかも 苦にゃならぬ 
なむあみだぶつと いると思えば

みだの衆生は わたしのことよ 
稼業するなか なむあみだぶつ

よろこびを まかせるひとは なむの二じ

われが よろこびや なむがおる

才市や どんどこ はたらくばかり

いまは あなたに く(苦)をとられ

はたらくみ(身)こそ なむあみだぶつ

らくもこれ よろこびもこれ さとるもこれ

らくらくと らくこそらくで うきよをすごすよ

--------------------------------------

らくもこれ よろこびもこれ さとるもこれ
らくらくと らくこそらくで うきよをすごすよ

いいですよね。

204いちりん:2002/08/26(月) 11:47
アネモネさん

>静かな行というのもいいなぁと思います。特に私のような強い性格の場合、こういう静かなひとときが必要なんですね。唱題ももちろん大事だと思うのですが、私は、端座して何も唱えずただただ、合唱したままじーっと御本尊と向き合うこと、実はとても多いです。

わたしも、よく仏壇の前で瞑想しています。ヨーガの瞑想スタイルですけどね。
日常生活のなかでは、ごちやごちゃした時間に流されてしまうことが多いですから、まずは仏壇の前に坐る。もちろんお題目もよいし、そしてただ坐ることもいいですよね。

こないだ、部屋の模様替えをしまして、いちばん坐りやすい位置に仏壇を置きました。
ふとした気分転換とか、出かけるとき、かえってきたときなど、すっと坐るのですね。

インドのお香ですが、とても気持ちのいいのが手に入りまして、ロウソクに火をともして、お香をつけながら坐ります。チベットの大きなリンがあるので、ごおぉぉぉーーんと叩きながら。

まあ、「久遠即ただ今」みたいな感じでも、思っているのです。
坐ったときが、久遠といいますか、いのちの本源みたいな。そこから、また新しく出発できるような。本因妙なんてことばがありますが、この一日、この瞬間を結果として生きるんじゃなくて、原因として生きる、みたいな。

>それにしても、日蓮聖人も今のいちりんさんのように、当時のいろんな宗派の修行を実践されていたんですね。真理の探究の姿を見る思いです。念仏はちょっと抵抗がありますが、坐禅は私は密かに惹かれます。

坐禅も、やってみると、ほんとうにすばらしいですね。
まったくシンプルですね。ただただ呼吸に意識を向けるだけ。三日くらいとことんやったことがありましたが、身体の細胞がまったく生き返ったような、感動がありました。

まあ、あるお寺では、唱題と坐禅を組み合わせていましてね。これが、なかなかよかったです。
はじめは、坐禅します。すると、頭にごちゃごちゃと、いろんなものが浮かびます。
そして、お題目。はじめは、ものすごくゆっくり。なーーーむ、みょーー。。と。
そして、次第に速くなります、そしてすごく速くなります。
そして、こんどは、ゆっくりしたペースに戻ります。なーーーむ、みょーー。。と。
それから、また坐禅に入ります。

このとき、わたしはとても驚いたのが、唱題前の坐禅のときの、ごちゃごちゃした雑念が、唱題のあとには、きれいに吹っ飛んでいたんですね。まさに、すっきり静寂。
そうして、それまで、聞こえていなかった虫の声が、しみじみと聞こえてきました。
この身体感覚の変化には、とてもおどろいたのです。

これは、ある日蓮宗の寺院でのことですけどもね。千葉の山奥の。
それ以来、いろんな宗教体験を探求するようになってしまいました。

205犀角独歩:2002/08/26(月) 15:36

千葉の山奥のお寺…、「ああ、あそこか」とすぐに思い当たりました。

いちりんさんの記述を読んでいますと、自分が臆病になっていた変成意識の問題を、もう一度、真面目に考えてみたい、そんな気持ちになってきます。

95年の地下鉄サリン事件以降、あたかもオウムが神秘体験を代表するような状態になっていたため、宗教テロリズムと神秘体験がイコールでつながれて、単純に忌避され否定される傾向が生まれてしまいました。

けれど、いちりんさんが書かれるような座禅、お題目、お念仏でも、その行が与えてくれる精神への功利性、やはり見直されるべきでなのだろうと、改めて思ったものです。

ある意味、現代人に、いちばん欠けてしまった側面ですね。そんなことから起きている心の鬱積、心の病は多くあるように思えます。数千年の歴史を持つ心の治療法、実戦経験を色々とお聞かせいただければと思います。

206アネモネ:2002/08/27(火) 23:19
いちりんさん

>かくれた謙遜な信仰者に学べというのは、ほんとうに、そうだなあと思います。
行が深まれば深まるほどに、謙遜になる人に学ぶこと。

本当にそうですね。法華講にいる間に、なにか違うものが身についてしまっているようで、この言葉がものすごく新鮮に心に響きます。考えてもみれば、本当にその通りです。

>念仏信仰というと、日蓮主義の人は、即座に顔をしかめます。心の中に、念仏無間ということばが湧いてきます。軽蔑の気持が置きます。ほとんど、自動反応ですね。

固定観念というものを嫌ってきたつもりの私ですが、すっかり固定観念があるんですね。いちりんさんの言う通り、自動反応で完全に暗示にかけられています。

いちりんさんにご紹介いただいた才市さんの言葉、私は声を出して読みました。念仏をきちんと口にしたのははじめてかもしれません。声を出して読んで、最初の四行に、なんか思わず涙しました。その四行を繰り返し読みました。
というのも、父のことを思い出してしまったんです。お地蔵さんでも、地域の氏神でもなんでもそこにある神仏に必ず手を合わせてしまう人なんですね。
「おかげさんで、つつがなく」よくそう言ってます。
「なむあみだぶつ」の心も、いいなぁって思います。そのまま心やさしい響きがありますね。

>インドのお香ですが、とても気持ちのいいのが手に入りまして、ロウソクに火をともして、お香をつけながら坐ります。チベットの大きなリンがあるので、ごおぉぉぉーーんと叩きながら。

いいですねぇ。五感を刺激するところからはじまるひとときを想像します。

>まあ、「久遠即ただ今」みたいな感じでも、思っているのです。
坐ったときが、久遠といいますか、いのちの本源みたいな。そこから、また新しく出発できるような。本因妙なんてことばがありますが、この一日、この瞬間を結果として生きるんじゃなくて、原因として生きる、みたいな。

いちりんさんはそんな感じでお仏壇に向かっているのですか。そんなことを教えてもらったのははじめてです。それっていいなぁって、素直に思います。
私も真似して、そんな面持ちでお仏壇に向かってみます。
坐ったときが久遠で、そしてその時を、原因として生きるっていうのが、すごくいいです。

>まあ、あるお寺では、唱題と坐禅を組み合わせていましてね。これが、なかなかよかったです。

坐禅から入って唱題をし、そして坐禅に終わる。
一連の流れを読ませていただくと、確かに呼吸を大事にした「行」のようですね。
読ませて頂いて、私も体験してみたくなりました。

207いちりん:2002/08/29(木) 12:56
アネモネさん

>「おかげさんで、つつがなく」よくそう言ってます。
「なむあみだぶつ」の心も、いいなぁって思います。そのまま心やさしい響きがありますね。

「なむあみだぶつ」と発音すると思うと、なんか唱えにくいとおもいますが、浄土宗あたりでは、
なあーーーーむ ぁぁああああーーみ だぁああっぶぅぅうーーー という感じですね。
「あーーーーーーー」と「うーーー」が、ポイントでしてね。なんかこう、「おまかせっ」という波動になりやすいです。

南無妙法蓮華経のばあいには、「おーーー」と「ん」が基調ですね。これは、「よしいくぞぉっ」という波動に成りやすいでしょうね。

まあ、天台の行法で「朝題目、夕念仏」といわれますが、お題目は朝日のエネルギー、念仏は夕陽ですね。どちらが、正しいとかいう世界ではなくて、それぞれにいいわけです。

心が落ち着いて、おだやかになって、おまかせ的な生き方には、念仏かなあ。
元気でやるぞ、しっかり達成するぞという生き方には、唱題かなあ。

しかし、阿弥陀というのは、なかなかいいことばです。
原語では「アミターユス」「アミターヴァ」。アミタ(量ることのできない)アーユス(いのち)。
無限なる光、無限なるいのち、という意味合いですよね。

わたし自身は、いろんな真言とかお題目とか、まあいろいろと音の響きを味わいながら、それに太鼓のリズムをつけたり、インドの弦楽器でメロディーをつけてみたり、太陽に向かって発声してみたり、あるいは森の中で樹木に響かせながらやってみたり。いろいろと探求しています。

音の響き、とくに母音の響きですね。それと、身体との共振というところを、探求しています。

>確かに呼吸を大事にした「行」のようですね。
読ませて頂いて、私も体験してみたくなりました。

音の響きとともに、呼吸が大きなポイントですね。

208いちりん:2002/08/29(木) 13:00

独歩さん

>いちりんさんの記述を読んでいますと、自分が臆病になっていた変成意識の問題を、もう一度、真面目に考えてみたい、そんな気持ちになってきます。

こんどのミニオフのときに、もし和室などが借りられれば、そこでいろいろデモンストレーションしてみましょうかね (笑

インドの太鼓とか、弦楽器を持っていきますので、その響きに合わせて、お経とか真言とかを唱えたら、どんな感じになるか、とか。

レストランで、そんなことすると、アブないと思われて追い出されてしまいますが。

209アネモネ:2002/08/31(土) 20:18
いちりんさん

>しかし、阿弥陀というのは、なかなかいいことばです。原語では「アミターユス」「アミターヴァ」。アミタ(量ることのできない)アーユス(いのち)。無限なる光、無限なるいのち、という意味合いですよね。

そんな意味があったのですか。知らないということは‥、というか食わず嫌いとでもいえばいいでしようか、思い込みとって損だなぁって思いました。
深く知らないところでの私の印象ですが、念仏の感じってキリスト教に近いなとも思います。日蓮正宗に入ることでキリスト教への否定を心掛けてきたのですが、今はそんな全面否定をやめてみると、同じように阿弥陀仏の存在もまた違ったものに捉えられてきますね。
自分の人生の流れに身を任せ、全てを受け入れていく、そんな感じを受けます。

>わたし自身は、いろんな真言とかお題目とか、まあいろいろと音の響きを味わいながら、それに太鼓のリズムをつけたり、インドの弦楽器でメロディーをつけてみたり、太陽に向かって発声してみたり、あるいは森の中で樹木に響かせながらやってみたり。いろいろと探求しています。

かつて、私が人生で一番落ち込んだある日のNHKの深夜放送で、「聞こえない音」というのをやっていまして、眠れない夜に、見入ってしまったんですね。その音の学術的名称を思い出せないのですが、人間の耳には聞こえない音の領域というのがあるそうです。ところがこの音は、聞こえないようだけれども確かに感じ取っている音で、しかも、実は非常に人間の精神にとって癒しの効果があるとか。心を鎮める音らしいんですね。
その番組では、「聞こえない音」がどこに多くあるのかを探し求めていくのですが、なんと、音楽の分野でいえば、西洋音楽よりも東洋音楽に多くあり。日本の雅楽にも聞こえない音がふんだんにあるらしいです。楽器でいえば、最も顕著なのが太鼓だそうです。
また、もっと驚きなのはその音が自然界にもたくさんあって、どこに多くあるかというと、実は森林の中だということでした。
私はその落ち込んでいたちきに観たその番組にも驚き今も忘れてないのですが、いちりんさんは、そうしたことをご自分の感覚でみつけてしまわれている。もっとすごいことです。

ちなみに、聞こえない音はデジタルのCDよりもアナログのレコードのほうが記録できるそうですね。

>音の響き、とくに母音の響きですね。それと、身体との共振というところを、探求しています。

母音の響きって確かに大きいですね。音楽の歌詞によって感じがガラリと違うことからもわかります。私は、「ア」の音が響く歌に共鳴することが多いなって感じます。深層心理としてはもしかすると、「なむあみだぶつ」かもしれませんね。
いちりんさが仰っているように、両方大事なんだと思います。ポジティブな題目と、癒しの念仏。人間には、両方必要ですね。

いちりんさんの「行」の体験、いつ読んでも本当に面白いです。頭で考えずに、体で体感し、心に響かせるっていう感じ、いいなぁって思います。

210犀角独歩:2002/09/01(日) 11:08

いちりんさん:

3日ばかり、家を空けておりました。
返信が遅れて申し訳ありません。

> こんどのミニオフのときに、もし和室などが借りられれば、そこでいろいろデモンストレーションしてみましょうかね

休み明けである明日、池上会館のほうで部屋を調べ、予約してきますね。
ぜひ、お願いします。楽しみが増えました。

この三日間のうちで、早朝は時間が空いていたので、日蓮宗の大きな寺院の朝勤に参列してみました。
梵鐘を合図に朝の5時半から始まる儀式はなかなか荘厳でした。このお寺では1週間で28品全部を読誦するということでした。その日は神力品でした。道場、勧請、開教と順々に進められ、火打ち石で浄めたあと、ゆっくりと御簾が上がられると御影像がようやくと見えます。やや下を向いたような彫像は堂内を静かに見据えているような面持ちでした。石山などで知っている日蓮の顔とは違っており、聖人という気はしませんでしたが、しかしなかなか雰囲気がありました。その後ろは一塔二尊で、火災であとから補完された部分もあるとのことでしたが、元来、奈良時代の彫刻を使ったものであるというのです。終了後、近くで見せていただきましたが、なかなか秀逸なものでした。

石山の朝勤とは違い、天拝はなく方便品も読まれませんでした。寿量品、自我偈は三度繰り返されて読まれるのですが、この時、信者さんがそれぞれ持参してきた太鼓を叩き、代表の信者さんなのでしょうか、四つの大太鼓に合わせて堂中、太鼓の音が響き渡ります。これがなかなかよかったですね。

神力品も信者さんはすらすら読んでいました。要するに二十八品全部、すらすら読むのでしょう。すごいなと。

キリスト教の牧師さんも何人か一緒に参列していたんですが、終わったあとに、「音楽的だ」と感想を漏らしていました。ですから、「太鼓が、ですか」と訊いたら、「いや、お経も、題目も全部、そう感じました」と言っていましたね。

でも続けて「でもお経って、何を言っているのかわからないですよ。教会の説教と違いますね」というわけです。ですから、「教会は説教の前に賛美歌を歌うでしょう。それから説教ですね。読経・唱題を、その賛美歌の歌のポジションに充ててイメージしてみてください。お経のあとにここでも説教があったでしょう」と言ったら「あ!」とポンと手を打っていました(笑)

読経の音韻は日本ではすっかり失われてしまっていますが、インドではずっと音楽的ですね。こんなイメージを、この前、ちょっと口ずさんでいただいたいちりんさんの読経から、私はイメージできたのです。

まるで逆の視点ですが、この間、ちょっと、大きなコンサートに行ったのです。
あの演出って、現代の宗教だと直感的に感じましたね。光と音の壮大な演出のなかで人々が熱狂し、全員が立ち上がって忘我の熱狂、その中心でスポットライトを浴びて歌い続けるシンガーは、さながら現代の学神に見えたのです。

他で法華経のことをいちりんさんが書かれていますが、あの荒唐無稽の物語。でも文字だけだと音が伝わらないのですが、そこに無数の人々のに読経と大合唱ち、ありとあらゆる楽器の演奏、光の演出が加わっていかないと、その荒唐無稽さというか、迫力は百分の一も理解されないのだろうなと。

いちりんさんもご存じの静岡のあの方と話していたら、日蓮の漫荼羅のアイデアの基になった法華経の記述は、空中に浮く地球大の宝塔に二仏が座り、その周囲を諸尊達、そして無数の菩薩達が右回りに巡り続けている立体的な表現ではないのかとこう仰っていた。そこで奏でられる楽器、日月星辰、自然界の壮大な景色を光の演出のなかで、無数の人々が歌のように合掌する読経の一大ドラマで法華経を見直すと、なかなかどうして、すごい芸術性があると思えたのです。

イメージが貧困だと、やはり、雰囲気は伝わりませんよね。
仏教における音楽がどんなものであるのか、いちりんさんの演奏と歌声(読経・唱題・念仏と言ったほうがよいのでしょうか?)を楽しみにしています。

211アネモネ:2002/09/01(日) 12:20
横レス失礼します。

犀角独歩さん

>「教会は説教の前に賛美歌を歌うでしょう。それから説教ですね。読経・唱題を、その賛美歌の歌のポジションに充ててイメージしてみてください。お経のあとにここでも説教があったでしょう」と言ったら「あ!」とポンと手を打っていました(笑)

それ、私もピッタリイメージします。勤行で読むだけしかわかってませんが、法華経って特に自我偈は、仏様を讃える讃美歌、まさに「ハレルヤ」だなぁって感じました。
それを全身で表現すれば、とっても音楽的になりますね。
神仏を讃える魂の叫びで、ゴスペルやソウルミュージックにも通じるものだろうと思います。本当に音楽って宗教的だなぁと思います。
音楽と宗教に関して、面白いのをみつけました。

http://www.kumagaya.or.jp/~yoko_c/link_6/p3.html
http://www.kumagaya.or.jp/~yoko_c/link_5/r8.html
http://www.kumagaya.or.jp/~yoko_c/link_5/r7.html

>光と音の壮大な演出のなかで人々が熱狂し、全員が立ち上がって忘我の熱狂、‥

独歩さんがそんなコンサートに行かれるとは、これこそ大変な驚きです。

>日蓮の漫荼羅のアイデアの基になった法華経の記述は、空中に浮く地球大の宝塔に二仏が座り、‥

確か、真言密教の胎蔵界両曼荼羅も顕している世界は、球体だということを聞いたことがあります。
以前、真筆なのかどうかはわかりませんが、まるで日の丸のように円形に認められた御本尊を本で見たことがあります。蒙古襲来のために旗に認められたものでした。その旗がそのまま写真で紹介されており、私はてっきり日の丸を曼荼羅で描いたのだと思ってしまいました。日の丸なら、日輪ですからまさに球体ですが‥。日の丸ではないにしても、顕された世界は球体なんですね。

212犀角独歩:2002/09/01(日) 18:06

アネモネさん:

> 音楽と宗教に関して、面白いのをみつけました

ここで書かれてあることはそれなりに面白いのですが、このサイトって?

> 真筆なのかどうかはわかりませんが、まるで日の丸のように円形に認められた御本尊を本で見たことがあります。蒙古襲来のために旗に認められたものでした。

なかなかお詳しいですね。以下の漫荼羅ですか?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/moukotaiji_mandara.jpg

真筆…、じゃないように見えます。
これは球体と見るのは新鮮ですね。

>> 光と音の壮大な演出…
> そんなコンサートに行かれるとは、これこそ大変な驚き

私は一緒に総立ちになって歌を歌ったりしませんよ(笑)
人が熱中しているとどんどん冷静になる習慣が身に付いていますから、そんな群集心理を観察しているだけなんですが。ひょんなことから行くことになりました(笑)

213アネモネ:2002/09/01(日) 21:51
犀角独歩さん

>ここで書かれてあることはそれなりに面白いのですが、このサイトって?

大変失礼しました。私もよくわかってません。よくよく見てみると、なんかアブナイ感じもするサイトですね。
ただ音楽療法っていうのは、いろんな意味で、精神面でも身体面でも、いいだろうなぁと関心を持っています。その始まりは、もしかして実は宗教にあったりするのかなぁと‥思ったりもします。

>なかなかお詳しいですね。以下の漫荼羅ですか?

確かにこんな感じのものなのですが、私が見たのは、本当の旗(カラー写真のもの)だったんですね。戦のときに立てる幟のようなものだったんです。かなり痛んだ感じでしたが、曼荼羅の図はしっかり残ってました。

>私は一緒に総立ちになって歌を歌ったりしませんよ(笑)

もう少しで、独歩さんのこれまでのイメージを変えねば‥と思ってしまうところでした。(笑)

214犀角独歩:2002/09/01(日) 22:09

213 アネモネさん:

固定観念をどんどん、刷新していくことは私は大賛成なのですが、こんなことで、変えられてしまっては…、と思いました(笑)

215犀角独歩:2002/09/02(月) 07:50

やや間が空いていますが訂正です。

【210の訂正】

誤)歌い続けるシンガーは、さながら現代の学神に見えた
正)歌い続けるシンガーは、さながら現代の楽神に見えた

“楽神”=音楽の神様の意味で使いました

216つまけん:2002/12/20(金) 16:34
みなさん、おひさしぶりです。その節はお世話になりました。
>>110 犀角独歩さん
>個人的なことでいいですから、どんどん、ここで書いたほうがいいですよ。
ありがとうございました。では、図々しくも近況など。。
妻の同意を得て、顕正会に退会届を二人分郵送いたしました。
その前に、顕正新聞は家に届かないよう手を打ちました。退会届は、出しても
会員名簿から削除されない。のは、もちろんわかっているのですが、そのことは
戸籍を汚してしまったようでご先祖様に申し訳ない気持ちです。古い言葉ですが(笑
なお、会及び上長からは何のリアクションも無く拍子抜けしている状態です。
いま、妻はある障害者団体(小規模ボランティア集団)の役員として忙しい毎日を
送っています。
重度の知的障害を持つ我が子ですが、幸い、丈夫な体と周りの先生方にも恵まれ
言葉は出ませんが、毎日うれしそうに学校に通っています。
勇気を出してこちらにカキコして本当に良かったと思っております。
ありがとうございました。

217犀角独歩:2002/12/20(金) 18:01

つまけんさん:

なんだか、お久しぶりですね。
皆さん、元気そうで、何よりです。

偶然というのも変ですが、私も本日、午前中から重度心身障害児施設のクリスマスパーティーに呼ばれて参加してきました。先ほども、そのことをある方にメールで記したのですが「どうして、あの子たちはあんなに汚れない心を持っているのでしょうね。そして、あの笑顔、思わず、手を合わせたくなります」と改めて思いました。

つまけんさんのお子さんの笑顔と元気が見えるようだと思いながら、うれしく思い、まずはレスさせていただきました。ご近況を読ませていただき、心が暖まりました。

218五月雨:2002/12/21(土) 12:03

つまけんさん

お久し振りです、この度は良いご報告を読ませて頂きました。
奥様とお二人で退会届を郵送されて、本当に良かったですね。

>なお、会及び上長からは何のリアクションも無く拍子抜けしている状態です。

カルトのひとつの特徴の中に組織を出て行った人間には「無関心」というのがあると何かで読んだ記憶があります。私も学会、法華講の組織を出た時に経験がありますので、きっとカルトの特徴が出ているのでしょう。万一彼らが何らかのアプローチをしてきても、無視すればいいと思います。

>重度の知的障害を持つ我が子ですが、幸い、丈夫な体と周りの先生方にも恵まれ言葉は出ませんが、毎日うれしそうに学校に通っています。

お子さんも楽しく学校に通われているようで、何よりです。
お父様とお母様の愛情に包まれるお子さんの幸せそうなお姿が目に浮かびます。
私も障害者として生まれてきて一番感じるのは、親の愛情です。昔のことですから家に障害者がいるのは負い目のある時代でした。それは親の苛立ちをよんだのでしょう、私はいつも思っていました。「身体は不自由でも、愛のある温かい家庭があれば私は救われるのに」と。

つまけんさんのお家には溢れんばかりの愛情があるとお見受け致します。それだけで充分ですね。

宗教は頼るものではないし、ましてや奇跡などある筈もないことを奥様もお分かりになったと思います。何でもやってみなければ分りませんから、今回のことはいいお勉強になったのではないでしょうか。

これからも奥様と二人三脚で頑張って下さい。

219トゴシ:2002/12/22(日) 22:19
やめたつまけんさんは、まともに見える、これ、普通の感覚。うん。
ヨカッタね。
やめるやめないは個人の自由。けど、やめた人、ほめるとまた、なんだかんだとまた騒ぎになんのかな。
やっている人間のほうが偉くて、正しいんだていう考えがまかり通るのおっかないね。

220菊水護国:2002/12/23(月) 12:13
つまけんさん
脱会届について
確かに、名簿からは抜かれませんが、既に顕正会の入会と脱会のいい加減さは、文科省でも認識してますから、御心配なく。
多分、顕正会が問題を起こしても、名簿上の会員に何かが起こることは法的にも実質的にもありません。
しかし、脱会届の写しは取っておいたほうが良いですよ。

223落ちこぼれ次郎:2003/03/28(金) 20:45
カルトと不明のまま、加入するのが一般的かと、、? フランスでは「明確に”SGI”はカルト」と断定されておるようです、、。
 ガンコなフランスですが「マスコミの主張」もなかなか「ど根性」があるようです、、。
 ソデの下の「ワイロ」で屈しない「鍛え上げた民主主義」の素養のたまものでしょうか、、。

224落ちこぼれ虎次郎:2003/03/28(金) 22:05
現今は、鎌倉時代の非民主時代ではない、、。 いくらでも、努力すれば「自分の求める情報」は取得可能、、。
しかるに「他人まかせの”無責任”の引きずり」とも言える「ダマサレ」は「自業自得」と断是ざるを得ない、。

225その辺の寅五郎:2003/03/31(月) 23:26
自業自得とはキツイお言葉、、、。 人は皆「それなりに生きざるを得ません」。
 人後を「是」とせざるをえない「落ちこぼれの自分」は「テメーの責任でなった自得」と断言されますと、、情けない「心」だけがのこります、、。
 世の中は、なかなか賢い方もいるようです。 やはり「他人をダマス方」が責任が重いかと、、??  ただ、何回も拝む対象の「本尊」を変化・変遷されても「?ともおもわず、疑問も発せず」という「消極的な態度」には??でしょう、、。 各人の「成仏」の可否が左右され得ない現実を「重視」されてしかるべきでしょうか、、。

226五月雨:2003/03/31(月) 23:40

仲村英彰さん、落ちこぼれ虎次郎さん、その辺の寅五郎さん、はじめまして。
明日の晩のハンドルネームが楽しみです(^^)

ところで、

>各人の「成仏」の可否が左右され得ない現実を「重視」されてしかるべきでしょうか、、。

「成仏」の可否の成仏とはどんな状態を意味しているのですか。私は今日一日即身成仏について考えていたのですが、まだ答えが見付かっていません。
その辺の寅五郎さんがここに書かれた成仏はどんな意味合いがあるのでしょうか。

227その辺の寅五郎:2003/04/01(火) 00:28
キツイ、レスポンスどうも、、。 正信会当時「成仏出来るのは、ワガ方だけ、、」と洗脳された後遺症でしょうか、、。 その逆の「正法をけなすのは堕地獄の因」だと「洗脳」もされたものです。 何が「正法」で「何が謀法」かは各派でも「見解の相違」があるようです、。 しかしながら「宗教の存在の意義??」とは=「個人が金を払っても”その教団にスガル”のは一体全体??なぜ??」でしょうか?? 醜い汚い人間界でも、修行次第でとうたつ可能と言われる「最高・最大の”仏”の境涯なるものを体感」したいと感ずるのも自然でしょうか、。

 その「成仏」とは一体いかなる「どういう心理状態??」かについては、日蓮サンの行動から学ぶ「必要」はありましょうか、、?? ワシも「成仏」とは???です、、。

228五月雨:2003/04/01(火) 23:41

きついレスでしたか、ごめんなさい。
関西人なものですから、ちょっといちびってしまいました(^^;

頂いたご返事は、とても示唆に富んでいますね。
落ちこぼれ次郎さんは、今は信心に疑問を持たれていて、何が真理なのかを探しておられる最中でしょうか。もしそうであれば私も同様です。でも簡単には見付かりそうにはありませんね。

229地獄しか知らぬ者:2003/04/02(水) 23:17
初めまして、とてもご参考になります、、。 「最高の”仏”の心境を体得して、外に向けての”体現”を実践」している方々には、是非お会いしたいものです、。 「仏」の境涯とはなんと、麗しいお言葉でしょうか、、。 私には「3億円のジャンボ宝クジ」のようにおもえます、、。 「仏を成就」するというお話の、ズーット以前から「人生の塗炭の苦悩の”最悪の地獄の苦悩”だけは」体感を余儀なく続けています。 教えて欲しいのは「本当の”地獄からの脱出方”のみ」でございます、。  これへのカギとは?? その可能性大なる「久遠の本門の教主”釈尊”様の流れを継続する”本門・本因妙の南無妙法蓮華経”を、日蓮が第一に発見」しましたようです、、。 したらば「その後の我らは”どの本尊に対して、どのように振る舞えば”成就仏身」ができるのでしょうか、?? どなたか御教授の程を何とぞ宜しく、、。

230アンタッチャブル:2003/04/08(火) 21:03
ここが、よろしおま。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

231伊野 健太:2004/10/22(金) 14:15
 久しぶりに、講頭さんと会い夕食をした後に、健康食品を相手に勧めると
ポイントが自分に入り、それでビジネスも出来るという六本木にある泉ガー
デンタワー35Fのナチュラ○ープラ○というネットワークビジネスをしてい
る本社に行きました。妻も一緒にいましたので興味もありつつ、その場で契
約してましたが、講中の大半の方が契約していると聞かされ、お付き合いの
為だと妻は言っていました。以前私も、アムウェーイを友人に勧められまし
たが、ねずみ講みたいなやり口が気に入らず契約はしませんでした。
組織を利用したトラブルは、やはり問題かなと思いつつ・・・

232古山 学:2004/10/26(火) 21:38
初めまして、 さて本題に帰って見ますと、知人、友人、肉親方が某カルトに御執心のかかわりの在る方々は意外と多いようです、。 「信教の自由」という大儀からは当然ですか。 しかし「自由」には義務履行と結果責任が存在するようです。 特に「結果責任」はイコール「自己責任」に通じるようです。 たとえば、国策で宣揚された「満州義勇軍と満蒙開拓団」の足取りをジックリと考察すると、原因から〜〜結果までの様子がハッキリ致しますか、と存じます。 某S会の行く末も「模擬的」に推察が出来るようです。御免ください。

233仲西 牡丹江:2004/10/28(木) 21:30
、、、ごもっともです、。  今、、「、赤い月、」(中西 礼著)を思い出しました、。 誤った国策を「判断不可」の庶民の限界点を感じる次第、。
 いつもいつも「犠牲」になるのは、、、貧乏民の我々のようですネ、、。 御免下さい、。 早々。

234悲嘆 感得者:2004/12/09(木) 19:11
ドーモです。 「赤い月」(なかにし 礼著 新潮文庫)(下)の360ページに命カラガラ生き延びて帰還船にヤットコサ乗船して、出帆寸前の吐露===「、、満州のバカヤローーーーー!!!!!!!、、、」という、お言葉、、、、には、万感のだまされたという、とても悔しい心情が999%ほど含蓄されていますようです。 今後、、 「S会こそ命」と信じて数十年も励んできた方々が、近い将来に「、、S会のバカヤローーーー、〇〇のバカヤロー、、」という再現到来に関しましては、???でしょうか、、???

235仲西 牡丹江:2004/12/28(火) 10:16
失礼しました。 真実を覆い隠しウソと謀略の犠牲になるのは「貧富は問わ無い」のが正解のようです。本当の姿を隠すダマシこそ最大の「悪」かと思います。

236有坂:2006/03/21(火) 22:33:37
私の妻が今年の1月ころ顕正?にハマリ 2月半ば頃から、別居しています。
宗教について私なりに調べましたが、マインド・コントロールにかかり、会話になりません
妻は妊娠6ヶ月歳は33歳です。
今は末法について話ています。「釈迦の入滅後2000年後が末法でその時代に、杖で叩かれ
刀で切られ、島送りになり、いきているのは日蓮上人ただ一人、この人が、釈迦の教えを正しく
広める」と言うので
私は、「釈迦の入滅後2000年後が末法なのに日蓮上人は末法の時代に生まれていないよ?」
と言って、脱会させたいのですが
なにか良い手立てがあれば、教えてください。

237顕正居士:2006/03/23(木) 03:08:13
顕正会については次のサイトをとりあえず推薦します。

「宗教法人顕正会」の宗教被害を考える
http://saiou-horse.hp.infoseek.co.jp/
対立する宗教団体によるものではない希少なサイトです。

世間でカルトと称される宗教団体の信者に教義論争を挑んで脱会させることは、教義に通暁した
人であっても無理です。ましてにわか勉強ではぜんぜん無理でしょう。キリスト教系カルトでは
「デ・プログラミング」という手法があり、それなりに効果を挙げていますが、それは対象者の自由
を一定期間拘束し、当該カルト教団の教義に通暁した専門の神学者がおこなうものです。
そしてその神学者は当該カルト教団の教義に比較的類似した準カルト教団の人であることが多い。

日蓮正宗系カルトの場合にはキリスト教系カルトと異なり、時間をかけて納得させ、そして入信
させるのではありません。まず入信させ、その後にさまざまな活動に誘引します。顕正会の場合、
10人に9人は数か月か1年の間に自然脱会するものと想像されます。
生半可な教義論争はかえって信念を強固にする可能性が高いので、とりあえず控えたほうがよい
でしょう。

238再挑戦者:2006/12/15(金) 20:32:17
 失礼します。 カルト、、は洗脳、と言う側面的精神後遺症、、のようでしょうか、?
 今、社会では再発防止にたいして有効な対策がなされていましょうか、?
 本当に心配でございます、。 (「イケダ先生の世界」B・フルホード、宝島社、「さようなら、サイレント・ネイビー」伊東 乾、集英社)より。

239犀角独歩:2006/12/16(土) 08:24:13

再挑戦者さん

アンテナが高いですね、開高健賞をとった伊東師を早々に上げるとは。

この方には、先日、お会いしました。
これからの日本の宗教を根本から覆す人物であると思いました。
わたしは35年に亘る「日蓮正宗創価学会」という自分史を、彫刻本尊の鑑別をもって50年を節目に偽と決し、さらに破壊的カルト・マインド・コントロール、スピリチュアル・アビューズといった側面から分析を通じて、実践の場でやってきたことから、自分の宗教問題の整理は畢えたと思っていました。しかし、伊東師の話を聞き、もう既に新しい宗教の動向 … いまだ言語化に戸惑っていますが …が始まっていることを実感し、正直、鳥肌が立つ思いがしました。21世紀の中盤から22世紀に向けて、また、考え出さなければいけないと溜息をつきました。

240再挑戦者:2006/12/17(日) 18:50:00
失礼します、、。 独歩さまからの御提言には、、正直、仰天です、。 
 伊東 氏がドンナ野望を抱いているのかは、小生には不明でした、。 只、、「、、2.26事件以降の、、動向に関しての分析には、それなりに説得力を感じましたしだいです、、。
 世間での「きれいに責任を取る、、!!とは一見、美しい」ようだが、それ以降の再発防止には”屁のツッパリにもならない”、、という点には共感いたしましたが、、。 それ以上の何かの含みは、直接の接見可能な方方のご判断をご参考にせざるを得ません、、。 有難うございました、、。

241犀角独歩:2006/12/17(日) 23:30:51

再挑戦者さん

いやいや、伊東先生が「野望」を懐いているといっては失礼に当たります。
ただ、あの方は、今後の宗教を変えるに足りる力を持っているとは思います。
静岡県立大学でJSCPRの公開シンポジウムがあったのですが、ここで恐怖感が、前頭葉の血流を不足させることを科学的に証明していました。
一方、瞑想などの神経集中は、その反対の効果もあることも証していました。
その上で、師が提言したのは「気づき」ということでした。

師の名誉のために以上、申し上げておきます。

242再挑戦者:2006/12/21(木) 22:07:03
 早速の言、、御心労、、など、、ドーモ、、です、、。
 さすが、核心を、、有難う御座います、、。
 確かに、「、、心地良い、流れには前頭葉の血流も増大しましょう、、、」、その一点の的を狙えば「、、早いものが、、勝つ、、」、、が成立でしょうか、、。  問題は、、「、、既に、洗脳されてしまった後に、、ドウヤッテ、、自己の自覚を回復・維持を、、保ち続ける、、??」、、じゃ、、のようでしょうか、。
 人は、一見、強い、?、ようでも、意外にも簡単に、死んでしまいますようです、?
 このような吹けば飛ぶような、、弱い、?、、人、我ら、が、、いかにすれば、??、「、ホトケ、仏、、?、、」、と言う、の最大・心境、、?、、に達する道は、、??  はたして、、??? 期待は致しまするが、、?? 愚問でした、、。

243ひきこもり:2006/12/23(土) 22:13:21
私も「再挑戦者」と同じですが、創価はカルトですか?w

244ひきこもり:2006/12/23(土) 22:20:55
創価の実体はカルトではないでしょう。

過去の信心を徹底しないと動物に生まれ変わるとか。そう言うことは言わないでしょう。

245犀角独歩:2006/12/23(土) 23:37:25

ひここもりさん、あなたは、図書館に行って、創価学会発行のできるだけ、古い版の『折伏教典』に何が書かれていたか、しっかりと確認されたほうがよいでしょう。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1025319918/62

246犀角独歩:2006/12/24(日) 11:40:38

おっと、お名前を間違えました。
ひきこもりさん、失礼しました。

247再挑戦者:2007/01/22(月) 19:01:51
  カルト とは ? でしょうか ?
 あのオーム教の教祖が地面から浮遊した宣伝は 、? サスガでした、。
  現実には有り得ない 事を、 我が方 の 信仰 では 可能 、?? だと、言う ごまかし と トリック がスンナリと通る世界かと、存知 まするが、、。
 人は、 何回でも ダマサレ、、、何回も、、屈辱を、、 味わう ようでしょうか 、、。 トホホ、、!!!! ク、、ッソーーー !!! メチャ、、腹  
が立つ 
バイ !!!

248東条英機:2007/04/09(月) 14:14:28
おもしろいサイトなのでレスします!
宗教自体すべてカルトです。歴史が証明しています、特に念仏、法華はカルトとして日本の
歴史に燦然と輝いていますね。宗教で政治経済、外交、他の諸問題は解決しません
どころかますます問題をめちゃめちゃにしちゃいます。

249富士川一郎:2007/04/11(水) 17:53:58
突然ですが
東条英機さん、一国の罪業を背負って、亡くなった方の名前をHNとするのは、死者を冒涜(茶化す)するような行為ですので、おやめになった方が宜しいと思います。

さて本題ですが、カルトの定義自体が定まっていないので、宗教=カルトとするのは不正確ですね。
カルトはラテン語の「colere」から派生した言葉で、「宗教色の強い文化活動を意味する言葉」でありますが、儀式や崇拝を意味したり、破壊的カルトと混同したり色々です。
そもそもカルトという言葉自体が比較的に新しい用語ですから、これを全てに当てはめるのは良くありませんね。
世間では「これは○○である」と決めつけることを「レッテルを貼る」「ラベリングする」と申しまして、極めて悪質な行為であります。
もう少し、考察して投稿なさっては如何でしょうか?

250東条英機:2007/04/13(金) 21:56:50
富士川一郎さん
はじめまして、一国の罪業とは何ですか?
ちなみに業とは訓読みはごう、音読みはぎょうですね、意味はつくるですね、確認しますね!
1925年選挙法改正により25歳以上の全男子に選挙権が与えられました、
ここから侵略戦争の準備がはじまりました、東条英機も侵略戦争の準備をつくってきた一人です!
背負ってはいません、
背負うとつくってきたは違いますね!
見解の相違なのでしょうか、それとも日本の高校、大学は出身学校で教える事が違うのでしょうか?

251しゅんかん:2007/04/14(土) 23:00:56
横レス、失礼致します。

東条英機さん
はじめまして、しゅんかんと申します。
東条英機をHNで使用される意を少しでも記して戴けると誤解が解けるかもしれませんよ。

私が理解しました富士川一郎さんの意は。
世の中には歴史上の東條英機氏(第40代内閣総理大臣)を否定する方もおられれば、
肯定する方もおられます。この両者の方々はそれ相応の東條英機観をお持ちと思われます、
彼らの意を踏まえて東条英機とHNに使用するのはおやめになられては?とおっしゃられたのだと思いますよ。

貴方は富士川一郎さんへ、「はじめまして」と記されておられますね、お互いに相手の事を余り理解されておられない
事が読み取れます。
そこで

>それとも日本の高校、大学は出身学校で教える事が違うのでしょうか?

〇これは、算術ではないのですから教師の裁量でありえると思いますが。
(左系)(右系)教師によって歴史認識の差が在りますからね。
ですが、先にも記しました様にお互いを余り存じ上げておられない理由ですから、この文を
富士川一郎さんに充てるのは失礼ではないでしょうか。

富士川一郎さん
はじめまして、しゅんかんと申します。
でしゃばってすいませんでした。

252東条英機:2007/04/18(水) 17:06:06
しゅんかんさん
はじめまして
『〇これは、算術ではないのですから教師の裁量でありえると思いますが。
(左系)(右系)教師によって歴史認識の差が在りますからね。
ですが、先にも記しました様にお互いを余り存じ上げておられない理由ですから、この文を
富士川一郎さんに充てるのは失礼ではないでしょうか。』
とても公平かつ中立な立場からの
『富士川一郎さん
はじめまして、しゅんかんと申します。
でしゃばってすいませんでした。』
ではありませんね!?

253しゅんかん:2007/04/18(水) 22:10:37
東条英機さん
お返事有難うございます。

私は常々、文字のみに依るので(文字に抑揚は無いので)他者を傷つけまいかと注意を払って
記させて頂いているつもりです。
ですが、議論をして下さっているお方に、誤解を抱かせる様な文を記す事も多々在る事は
認識しており反省する事常でございますm(._.)m(物書きのお方は本当にえらいな〜)

>とても公平かつ中立な立場からの
『富士川一郎さん
はじめまして、しゅんかんと申します。
でしゃばってすいませんでした。』
ではありませんね!?

〇私は浅学です。記されている文の意を読み取る事は出来ません、文の奥などなおさらです。
上記の意は私には理解しかねるのですが、私なりに了解した意を記させて頂きます。

富士川一郎さん(胸中)[しゅんかんの思考]
「しゅんかんとやらは何を頓珍漢な事を云っているのか、私の意を得ておらぬ(怒)」

と、云う事を懸念しての「でしゃばってすいませんでした」だったのですが。
東条英機さん、富士川一郎さん、誠に申し訳ございませんでした。

こちらの板は(配偶者がカルトに入ったらどうしますか)
ですから、他のお方のご迷惑に成りますので、
東条英機さんのHN使用及び、東條英機(第40代内閣総理大臣)論に関しての、
私の投稿はこれにて控えさせて戴きます。

東条英機さんのHNで使用される意、知りたいな〜。

254つまけん:2007/12/04(火) 23:18:50
5年ぶりになりますか?
皆様お久しぶりです。その節は大変お世話になりました。
さて・・・なにか近況でも良いことを書こうと思ってましたが特にありません。
普通に幸せってとこですかね?あの時のあれはなんだったんだろう。って感じ
です、もうあれには関わりたくはないですが懐かしい。
そんなわけで本当にありがとうございました。独歩さん、また来ます。

255犀角独歩:2007/12/05(水) 04:22:28

つまけんさん

お久しぶりですね。もう5年にもなりますか。
お幸せそうで何よりです。


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