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宇宙
263
:
とはずがたり
:2011/02/22(火) 16:19:47
地球緑化の救世主と成らないかな!?
宇宙帰りのサクラ異変…なぜか発芽・急成長
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110221-00000667-yom-sci
読売新聞 2月21日(月)14時33分配信
地上350キロ・メートルの国際宇宙ステーション(ISS)で2008年11月から8か月半、保管した桜の種を、地上へ持ち帰って植えたところ、発芽しないはずの種が芽を出すなど、異変が相次いでいることがわかった。
原因は不明だが、無重力で放射線の強い宇宙環境で、遺伝子の突然変異や、細胞が活性化したなどの見方もある。
宇宙を旅した桜の種は、北海道から沖縄まで13地域の子供たちが集めた名木14種類。このうち岐阜市の中将姫(ちゅうじょうひめ)誓願桜(せいがんざくら)は、樹齢1200年と言われるヤマザクラの一種で、米粒ほどの小さな種は、地元の保存会などがまいても発芽せず、接ぎ木でしか増やせなかった。
保存会が種265粒を宇宙に送り、248粒をまいたところ、昨年春に2粒が発芽した。このうち、10センチの苗木に成長した1本は、葉の遺伝子の簡易鑑定で「他の桜の種が混入したのではなく、誓願桜の可能性が高い」と判定された。
岡山県では、通常は1年に50センチ程度しか伸びない真庭市の醍醐桜(だいござくら)10本が、昨年春に発芽して、今は90センチ以上。うち1本は160センチを超えた。高知県佐川町では、1年に約30センチしか伸びないはずの稚木桜(わかきのさくら)が、約1年で最高135センチに成長した。
最終更新:2月21日(月)14時33分
264
:
とはずがたり
:2011/02/22(火) 18:43:15
NZ地震の死者65人に=邦人12人連絡取れず−損壊建物に200人か
http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2011022200493
【シドニー時事】ニュージーランド南島の中心都市クライストチャーチ市で22日起きたマグニチュード(M)6.3の地震で、同国のキー首相は少なくとも65人が死亡したことを明らかにした。死者はさらに増える見通しという。
富山市によると、研修旅行のためクライストチャーチ市を訪れている市立富山外国語専門学校の学生21人と教員2人のうち、8人が倒壊した建物内に取り残されているほか、12人と連絡が取れていない。
被災地入りしたキー首相は「ニュージーランドの最も陰鬱(いんうつ)な日になるかもしれない。これ以上ない悲劇だ」とした上で、「われわれはこれを克服する」と訴えた。同国で起きた地震の被害としては過去80年で最悪という。
一方、ロイター通信が地元ラジオの情報として伝えたところによると、クライストチャーチ市のボブ・パーカー市長は推定で最大200人が損壊した建物に閉じ込められたままになっていると語った。軍の医療スタッフや部隊が救出に当たっており、夜に入っても作業は進められた。多くの地域で停電が継続、携帯電話もつながりにくい状態が続いている。
クライストチャーチには昨年10月時点で在留邦人2820人が長期滞在しており、日本人観光客も年間約1万9000人が訪れる。在ニュージーランド日本大使館はほかにも被災者がいないか安否確認を急いでいる。(2011/02/22-17:51)
265
:
とはずがたり
:2011/02/24(木) 00:28:15
惑星形成の3つの定説、見直し迫る
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト2011年2月23日(水)19:55
http://news.goo.ne.jp/article/nationalgeographic/life/20110223002-ng.html
惑星形成の3つの定説、見直し迫る
(Image courtesy NAOJ)
新しい太陽系外惑星が見つかれば見つかるほど、惑星系形成の謎は深まるばかりのようだ。
「恒星を公転する系外惑星は500個以上が確認されている。惑星探査はまさに黄金期に突入した」と、カリフォルニア大学バークレー校の惑星科学者ジェフリー・マーシー氏は語る。しかし、この“大豊作” が天文学者たちの頭痛の種となっている。新たに発見された惑星系の多くは、惑星系形成の既存モデルでは説明が付かないという。
現在主流の学説では、惑星は恒星の誕生後に残るガスとちりの円盤から形成される。太陽系の場合、木星や土星など巨大ガス惑星は太陽から遠い地点で形成された後、残ったガスとちりの重力に引き寄せられて本来の軌道が乱れ、円盤の中心に向かって移動したと長らく考えられてきた。
この移動プロセスは、ガスとちりの大部分が吹き寄せられてさまざまな天体が形成されると停止し、私たちのよく知っている太陽系がほぼ出来上がる。
理論上、系外惑星系も同様のスタートを切っているはずである。しかし、マーシー氏によれば、この定説には現実と異なる点があるという。
◆定説1:すべての惑星の軌道はほぼ真円である
一部の惑星は誕生後、長い楕円を描く奇妙な軌道で公転している可能性がある。だが、惑星は螺旋状に主星へ近づくにつれて重力の影響を受け、配水口へ流れ込む水の渦のように、軌道が真円に近づくという。
太陽系の8つの惑星はみな、ほぼ真円に近い軌道を描いている。惑星形成円盤のモデルでは、ほとんどの惑星系が同様であると示唆されている。だが実際には、これまで見つかった太陽系外惑星のうち、真円または真円に近い公転軌道を持つ惑星は3分の1にすぎない。
◆定説2:(若干の例外はあるが)恒星系のすべての天体が同一平面上を同一方向に公転している
太陽系の場合、8つの惑星はすべて太陽の赤道面から少し傾いた「黄道面」を同方向に公転している。新しく生まれた恒星の周りを回転する円盤状物質の内部で惑星が形成されたとすれば、これは理にかなっている。
既存のモデルは、惑星形成円盤の重力が主因になり、惑星が移動したという考え方に基づいている。この理論によれば、惑星は黄道面から外れることなく主星の自転方向に従って公転することになる。
しかし、3分の1の系外惑星は軌道がこの理論とは一致しない。中には、主星の自転と反対方向に公転する惑星もあれば、地球の北極点と南極点の上空を通る気象衛星のように、黄道面から大きく外れた惑星もある。
◆定説3:海王星サイズの惑星は宇宙では珍しい
ガス円盤の重力に基づいた理論では、移動速度が惑星の質量に比例するため、地球の質量の3倍から木星の質量(地球の約318倍)の範囲にある惑星は比較的珍しいとされる。
地球より小さい惑星は移動速度が遅いため、円盤内で生き残りやすい。質量が地球から天王星(地球の約15倍)ほどの惑星の場合、移動速度が速く、主星に近づきすぎてのみ込まれてしまう。巨大ガス惑星になるほど急速に成長した惑星は、周囲のガスを食べ尽くすことで移動速度が遅くなり、生き残りのチャンスが得られるという。
だが実際には、海王星(地球の約17倍)サイズの系外惑星が予想以上に見つかっている。地球の3〜15倍サイズの惑星は理論上最も数が少ないはずであったが、実際には最もありふれた存在だった。ただし、これより小さい惑星は検出がまだ困難なため、正確な数字は出ていない。
「定説は“空振り三振アウト”だった」。マーシー氏は1月にワシントン州シアトルで開催されたアメリカ天文学会でこうコメントしている。
Richard A. Lovett for National Geographic News
266
:
荷主研究者
:2011/03/06(日) 13:06:36
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20110219/CK2011021902000118.html
2011年2月19日 中日新聞
月面探査ロボ、中田島砂丘でテスト 宇宙機構が来月初旬
宇宙航空研究開発機構(宇宙機構)が2025年ごろに計画する月への有人着陸探査とその後の基地建設に向け、月面で観測調査や通信、サンプル採取をする移動ロボットの試作機の走行テストが3月初旬、浜松市南区の中田島砂丘で行われる。段差や傾斜が激しい砂丘を月面に見立て、クレーター内など悪条件下で要求される機能のデータを、実機開発に生かすのが目的だ。
中田島砂丘でテストする試作機は、宇宙機構の月・惑星探査プログラムグループが単独で開発した無限軌道型モデルと、東工大と共同開発した弾性車輪型モデルの2機。浜松まつりの凧(たこ)揚げ会場に近く、起伏が最も多い地点を選び、傾斜地での登坂性能や、砂に埋まった状態からの脱出、障害物の回避・乗り越えなどができるかを試す。海岸利用を所管する静岡県などへ近く申請する。
07年に打ち上げた月周回衛星「かぐや」の成果を踏まえて宇宙機構が計画する月面探査では、クレーター内に有人軟着陸することが想定され、最大40度とみられる傾斜を乗り越えることが大きな課題だ。
さらに月面では、昼夜で300度を超す温度差や真空での強い放射線に加え、宇宙から猛スピードで降り注ぐ微粒子が岩を削ってできた微小な砂が深い場所で20〜30メートル堆積するなど、悪条件が重なる。
宇宙機構によると、月面探査は砂地以外に火山礫(れき)地などでのテストも要求される。砂地での走行テストに中田島砂丘が選ばれたのは、地形のほかに東西の交通アクセスに優れているからだという。
小惑星イトカワを探査した「はやぶさ」の次期ミッションにもかかわる月・惑星探査プログラムグループの西田信一郎研究開発室長は「浜松地域を含め全国の企業や大学が持つ優れたロボット技術を取り入れつつ、宇宙関連産業の裾野も広げていきたい」と話している。
267
:
とは
:2011/03/11(金) 14:53:29
大地震
268
:
荷主研究者
:2011/03/11(金) 16:32:06
会社で会議中にいきなりの大揺れ。みんなで避難。今日はまさかの歩いて帰宅か…
269
:
チバQ
:2011/03/12(土) 23:59:40
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/495654/
4震源域、同時崩壊 「新潟・長野」誘発か
配信元:
2011/03/12 20:03
【東日本大震災】
東日本大震災は、太平洋岸を中心に広範囲に壊滅的な津波被害をもたらした。専門家は「想定外の広い範囲で震源域が連動した」と指摘。マグニチュード(M)8.8の超巨大地震が、12日未明に起きた長野県北部などの内陸地震を誘発した可能性も否定できないという。専門家の分析からは、さまざまな被害が連鎖的に起こる「複合災害」の様相が浮かぶ。
宮城震度5弱 宮城県沖地震とは「別物」
■想定外の連動
政府の地震調査委員会(委員長・阿部勝征東京大名誉教授)は11日夜、今回の地震について「宮城県沖から茨城県沖の4つの領域が連動して発生した」などとする評価をまとめた。
連動したのは「宮城県沖」「三陸沖南部海溝寄り」「福島県沖」「茨城県沖」の震源域で、調査委はエリアごとに地震や津波を予測していた。阿部名誉教授は「連動したことで巨大地震を超えた超巨大地震になった。東海、東南海、南海地震の連動は検討してきたが、東北地方では想定できなかった」と悔しそうに語る。
地層の堆積物調査などから、宮城県の仙台平野は過去3千年間に4回ほど、大津波に見舞われたと考えられている。中でも規模が大きかったのが、869(貞観11)年の貞観地震で、津波が海岸から数キロの内陸まで達したとされる。今回はそれを上回ったとみられ、日本の災害史上最大規模の津波となった可能性がある。
また、衛星利用測位システム(GPS)を使った地殻変動の観測では宮城県石巻市の「河北観測点」で、東南東に約4メートル移動し、約70センチも沈降していることが判明した。陸側プレート(岩板)の先端が跳ね上がり、その背後(西側)に位置する仙台平野などで沈降が起きたと考えられる。
270
:
チバQ
:2011/03/12(土) 23:59:58
■内陸地震も誘発か
地震発生2日前の9日には、ほぼ同じ場所でM7.3の地震が発生している。阿部名誉教授は「2月にもM5クラスの地震が4回起きた。これらが前震かどうかは分からないが、前触れだったようにも思える。私たちの理解はそこまでいかなかった」と悔しさをにじませる。
発生から半日後の12日未明には、内陸の新潟・長野県を中心に最大震度6強、6弱を記録する強い地震が相次いで発生した。震源が離れ、発生メカニズムも異なる。気象庁は「詳しいメカニズムは分からないが、東北沖の地震で地殻内の応力場に変化が起こり、内陸地震を誘発した可能性は否定できない」と説明する。
応力場というのは、地震エネルギーの蓄積状況を示すストレス分布のようなものだ。
東大地震研究所の加藤照之教授は、「海溝型地震と内陸地震の発生には、一定のリズムがある」と指摘する。巨大な海溝型地震の前後には内陸の地震活動が活発化し、それが収まると地震活動が沈静化する。一定期間を経てプレート境界や地殻内にエネルギーが蓄積されると次の活動期を迎えるという説だ。
「フィリピン海プレートの沈み込みによって起こる南海トラフ沿いの海溝型地震は、内陸地震の活動期と静穏期のリズムが比較的顕著に現れる」
たとえば、昭和18年から23年にかけての5年間には、19年・東南海地震(M7.9)と21年・南海地震(M8.0)の2つの海溝型を挟んで、内陸で18年・鳥取地震(M7・2)、20年・三河地震(M6.8)、23年・福井地震(M7.1)が起きた。いずれも死者数が千人を超える大規模な震災だった。
東北地方に活動期と静穏期のリズムが当てはまるかどうか分からない。しかし、国内最大規模の超巨大地震は、周囲に大きな応力変化を及ぼしたと考えられ、内陸地震への警戒も必要だ。
■首都圏も強い揺れ
一方、震源から比較的遠い関東地方でも揺れが激しかった。阿部名誉教授は、「震源域が広かったことに加え、南北に延びたプレートに沿って地震波が伝わったため、減衰しにくかった」と説明。このような現象は「異常震域」と呼ばれる。
東大地震研究所の古村孝志教授によると、東京都文京区では周期が0・5秒前後から20秒以上までの幅広い地震波が観測された。「幅広い地震波は大規模な地震の特徴の一つ」という。超高層ビルや石油タンクを揺らす周期が7秒前後の「長周期地震動」については、「新潟県中越地震(平成16年)のときのように、長周期地震動が卓越したわけではない。今回は比較的低層の建物が大きく揺れたのではないか」と話した。
271
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:08:03
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110312-00000048-jij-int
東日本の地震、NZと関連か=豪大学教授
時事通信 3月12日(土)6時34分配信
【シドニー時事】オーストラリアのカーティン大学のブライアン・エバンズ教授(地球物理学)は、11日に東日本を襲った大地震と2月22日にニュージーランドのクライストチャーチ付近で発生した地震が「関連しているのはほぼ間違いない」との見方を示した。12日付のオーストラリアン紙が伝えた。
同教授は、同じく環太平洋火山帯に位置するインドネシア・スマトラ島沖の2004年12月の大地震の2週間前にもニュージーランドで地震があったと指摘。地質構造プレートは常に動いており、ある場所でずれが生じるとほかの場所にストレスが生じ得るとし、地震や津波が続いて起こることは異常なことではないと述べた。
272
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:29:42
誤報だろ…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110312-00000683-yom-soci
3階ビルの屋上にブイが…1万人不明の町
読売新聞 3月13日(日)0時3分配信
たどり着いた港町は更地と化していた――。驚異的な高さの津波に襲われた宮城県南三陸町。
人口約1万7300人のうち、避難した約7500人をのぞく約1万人が「安否不明」になっていると12日、県が説明した。東日本巨大地震はいったい何人の人々をのみこんだのか。
警察署と病院、町役場の一部を残してほぼ全壊した南三陸町に12日、記者が入った。同町志津川の中心部に通じる国道398号は約2・5キロ手前で規制され、車両の通行が制限された。
規制の先に、おぞましい光景が広がっていた。家屋はほぼすべて倒壊し、津波で押し流されてめちゃくちゃに絡まっていた。辺りには収穫期を迎えたワカメが散らばり、建物に漁船が突き刺さっていた。同県気仙沼市の会社員、小野寺雄基さん(23)は「あっという間にのみ込まれていった。地獄のようだった」と話した。津波は内陸に7キロまで押し寄せたという。
沿岸にある警察署の3階部分まで押しよせ、ほかの3階建てのビルの屋上にはブイが絡まっている。海岸から約500メートル離れたスーパーマーケットは跡形もなくなっていた。高台で津波を見ていた小野寺さんは、「10メートル以上はあった」と証言する。
1960年のチリ地震津波を経験した同町の女性(70)は「今回の津波の方が、天と地ほどの差で強く、思い出もなにもかも奪った。外の景色はみたくない」と涙ぐんだ。(小野健太郎、平山一有)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110312/myg11031201460001-n1.htm
街が消えた、牙むく津波 宮城・南三陸町
2011.3.12 01:23
巨大な津波が、船を、車を、住宅をのみ込んだ。街が消えた。家々がなすすべもなく燃え続けた。
宮城県南三陸町の高台にある志津川高に避難した。海と街を見た。
午後3時35分ごろ、海の奥が白く波立ち、遠くで大型の漁船が流された。
直後だ。町の中心部を南北に貫く新井田川沿いで、土煙が上がった。川を逆流した津波が住宅を押しつぶした。堤防を乗り越えた津波は、川沿いの建物を次々とのみ込んでいく。瞬く間に50〜60軒がなぎ倒された。周囲には避難住民約200人がいた。若い女性2人が抱きつき、泣きだした。あちこちから「キャー」という悲鳴が上がる。「なんで、どうして」。あまりの光景に言葉が出ない。津波の高さは2階建ての町役場より高い。10メートル以上あった。3棟ある町役場のうち、木造2棟を押し流し、鉄筋コンクリートの防災庁舎ものみ込んだ。
http://www.asahi.com/national/update/0312/OSK201103120022.html
宮城・南三陸 町民9千人が所在不明2011年3月12日17時17分
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の町役場によると、12日午後3時現在で住民約1万8千人のうち9千人の所在がわからないという。
町職員によると、これまで住民の避難が確認された施設は、高台にある町立志津川小学校(同町志津川、約3千人)や、町の災害対策本部が設置されたスポーツ施設「町スポーツ交流村」(同、約2千人)など。
町役場や警察署、消防署が津波で大きな被害を受けており、職員らは無線で連絡を取り合って被害の実態把握を急いでいる。自衛隊員が現地入りし復旧作業を始めているというが、町職員は「食料が全然足りない。現状を全国に伝えてほしい」と話している。
同町は地震後に火災が多数発生した宮城県気仙沼市の南側にあり、太平洋に面している。
273
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:35:03
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103120376.html
家・車・船… すべて飲み込み迫る津波 大船渡2011年3月12日18時49分
火災の黒煙が上がる大船渡の市街地=12日午前7時46分、岩手県大船渡市、朝日新聞社機から、樫山晃生撮影
地震発生時、朝日新聞釜石支局の菊地敏雄記者は、大船渡港に面した岩手県大船渡市の魚市場にいた。三陸産の魚の研究報告会を取材していて、突然、大きな揺れに見舞われた。
「あー、トタン壁が壊れたぞ」。十数人の参加者から声があがった。すぐに解散となり、みな2階の会議室から外に大急ぎで逃げた。「岸壁が7〜8センチ沈んだぞ」「ここは埋め立て地だったから」。岸壁にいた従業員らの声が聞こえた。
数分後、潮が引いているのに気づいた人がいた。「やばい、津波がくるぞ。逃げろ」。みな駆け足で逃げ出した。大船渡は、市街地の中央を海岸線に沿ってJRが南北に走っており、踏切を越えないと西側の高台にたどり着けない。どの踏切も避難する車で長い列ができたが、信号も消えてなかなか進まなかった。
避難所に指定されたのは高台の公園。避難を呼びかける防災放送が午後3時すぎに流れてほどなく、市街地がくすんだクリーム色の煙で覆われた。続けて「大船渡沿岸で3メートルの潮位を観測した」との放送。余震が続き、アンテナに止まったセキレイは頻繁にとまる場所を変えた。
公園からは津波が迫ってくるのが見えた。「家が流れているぞ」。家も、車も、船も、津波と一緒に坂を上ってきた。眼下の道路を歩いている人に「走れ」と叫ぶ声があがった。
「大船渡は壊滅だ」。異様な光景を目の当たりにした男性が力無く言った。「小学校はどうなった」「もう行けないの」「家はなくなったの」。他の避難者たちも口々につぶやく。
「引き潮が始まっており、再度津波の来襲が予想されます」と防災無線が告げた。繁華街にある5階建てのスーパーの屋上には、逃げ場をなくした数十人の人が見えた。
午後4時すぎ、市の中心部付近で火が上がった。「自然発火なのか」「おまえのうちの方じゃないか」などと中学生たちが心配した。「市内の各所で火災が起きています」。雪が舞うなか、防災無線が繰り返した。
274
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:36:10
http://www.asahi.com/national/update/0312/TKY201103120549.html
被災地、進まぬ安否確認 役場も交番も水没・情報途絶2011年3月12日22時49分
東日本大震災の発生から丸1日が経過しても、自治体などによる行方不明者の安否確認は進んでいない。死者数は増えているが、被害の実態を反映できておらず、全容の解明にはほど遠い状況だ。想定外の大きな地震と津波によって、情報を集約する自治体の庁舎自体が壊滅的な被害を受け、使えなくなったことも一因だ。
「市役所は3階まで水につかって全く機能していない」。市街地の大半が水没した岩手県陸前高田市では、隣接する一関市から駆けつけた消防隊員に対し、住民がそう訴えた。岩手県庁は県内の市町村と連絡を取っているが、陸前高田市に隣接する住田町と北部の岩泉町の役場とは、12日夜の段階で連絡が取りづらい状態だという。
災害救助にあたる警察や消防の施設も、沿岸部を中心に大きな被害を受けており、活動が困難になっている。陸前高田市では交番が水没。総務省消防庁によると、同市の消防庁舎も全壊したという。同市に出動した一関市消防本部の担当者は「連絡手段は無線機が1台残っているのみ。音声がとぎれとぎれで被害を把握できる状況ではない」と話した。
宮城県では、津波被害がひどかった仙台市荒浜地区に駐機していた県の防災ヘリコプターが流された。12日朝の段階で約2万5千人が小中学校に避難しているという同市宮城野区の災害対策本部は「津波が行ったり来たりし、海岸側へは入れない状況」だとしており、沿岸地域の住民の安否は不明という。南三陸町では役場が冠水し、電話も一時つながらない状況になった。
福島県南相馬市では約1800世帯が損壊するなど、被害状況が徐々に明らかになっている。その一方で、岩手県沿岸部の町村などでは、被害の情報すら届いていない地区もある。現地からの情報が全く入らないことが、壊滅的な被害状況を推測させる結果になっている。
275
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:37:18
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110312/fks11031216320042-n1.htm
「砂嵐のような津波が…」壊滅的被害の福島・南相馬市
2011.3.12 15:50 (1/2ページ)
津波で流されがれきと海水で埋めつくされた民家が立ち並んでいた堤防付近をぼうぜんと見つめる付近の住民ら=12日午前、福島県南相馬市
大津波により沿岸部が壊滅的な被害を受けた福島県南相馬市。津波は海岸線から約2キロ付近までにあったすべてをさらっていった。
「海の方で砂嵐のような煙が立っていると思ったら、それが津波だった」。地震から一夜明けた12日、こう話す同市原町区上渋佐の自営業、井上一幸さん(46)の自宅周辺もまた、津波に襲われ激しい被害を受けた。そのなかには、多くの被害者を出した高齢者施設「ヨッシーランド」もある。残された建物の壁には、大人の背の高さあたりに泥が付着していた。
地震発生当時は、内陸部で仕事をしていたという井上さん。立っていられないような揺れが収まった後、母親が一人で残っている自宅が心配になり、駆けつけようとした。まもなく自宅に到着する。その直前に見えたのが、“砂嵐”のような海水だった。
「地面から2メートル以上の高さに見えた」という津波は、あっという間に目の前に押し寄せてくる。「早く逃げろ!」という周囲の人の声で、自宅に向かうことを断念。避難所に逃げ込んでまもなく、全身をびしょぬれにした母親と再会した。井上さん宅は、まさに津波の最高到達地点。母親は、いったん津波に流されかけたが、自力ではい上がり、九死に一生を得たという。
近くの民家前には毛布を掛けられた遺体が2体、道路に横たわっていた。付近に住む女性は「このあたりの人ではない。遠くから流されてきたのかも」と悲しげな表情を浮かべる。
「ここから先、海の方には60戸ぐらいの集落があったのに、すべて流されてしまった…」。自宅周辺の様子を見に来たという男性がそう話してくれた直後、急にサイレンが鳴り響いた。
「津波警報が発令されました!」という叫び声。「早く、ここから離れて!」という声とともに、惨状を呆然(ぼうぜん)と眺めていた住民たちも、さっと表情を変え、内陸の方へ駆けだしていった。
276
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:37:51
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103120368.html
「道路どこ?家なくなった」津波にのまれた福島・南相馬2011年3月12日19時8分
海岸線一帯が津波に襲われた福島県南相馬市。小高区岡田の村井文子さん(63)は12日午前10時過ぎ、家族7人で自宅2階に避難していたところを同市消防署員らにボートで救助された。津波の水は一時は約3メートルある自宅1階の天井まで届いた。救助車に乗り込んだ村井さんは「もうダメかと思った」と声を震わせた。
前日午後3時過ぎ。他の家族6人と自宅1階にいた村井さんは「ゴーッ」といううなるような音と、「津波だ!」と外で誰かが叫ぶ声を聞いた。89歳の父と足腰の弱った88歳の母を2階に担ぎ上げ、小学生の孫2人ら家族全員が2階に避難しおえた約30秒後。窓が割れる大きな音とともに水が家に入ってきた。
ふと隣の家を見ると、屋根に顔なじみのおじいさんが1人で避難していた。「がんばって!」。窓からみんなで必死に声をかけた。だが、日が暮れるとおじいさんの姿は見えなくなった。
明かりは懐中電灯とロウソクのみ。布団に家族みんなで入って暖めあった。
朝、明るくなったとき、おじいさんの姿は屋根の上になかった。だれも救助に来た形跡はない。「何もなければいいのだけれど」。救助車の中で村井さんが顔を曇らせた。
小高区大井の中山ユキ子さん(69)は夫で農業の隆さん(69)と11日から連絡がとれていない。
隆さんは地元の農家と海岸近くの共同農場を運営している。地震発生当時は、同僚と2人で農場でトラクターを使い、大豆の種をまく作業をしていたという。ユキ子さんが自宅で待っている間、地震が起きた。
避難した同僚の男性によると、隆さんは「おれは作業を終えてから戻る」と言って1人残ったという。ユキ子さんは「ここは、こんな大津波が来ることは今までなかった。本人も津波が来ることを知らなかったのではないか」と悔しそうに話した。
新田川の河口近くに位置する市東部の上渋佐地区は、集落のほぼすべてが津波にのまれた。海岸から1.5キロほど離れた内陸でも、磯の香りが辺りに漂う。倒壊した家屋、押し流されてきたとみられる屋根、傾いた電柱。ぞうきんを絞ったようにねじれた車が折り重なっている。
難を逃れた数人の住民らが自宅の様子を見に来ていた。「どこが道路? 家がなくなっちゃった」。口元を両手で覆い、ぼうぜんと立ちつくす。「避難所が寒いから」と、散乱している泥まみれの上着やタオルなどを拾って持ち帰る人もいた。
橋本正雄さん(67)は地震発生時、立っていられないほどの揺れに襲われた。ダダダダダダ――。家の中で物が飛び、屋根瓦が落ちた。「家がつぶれる!」。妻の美紀子さん(62)と外に飛び出た。
「津波が来るぞ。逃げろ」と遠くで誰かが叫んだ。巨大な黒いカーテンのような波が家々に覆いかぶさり、こちらに向かってきていた。車に飛び乗り、海と反対の方角へ逃げた。
高台の親類宅で眠れぬ夜を過ごし、明るくなるのを待って自宅を見に来た。木造平屋建ての建物は姿をとどめていたが、中は泥に覆われて足を踏み入れられない。「この辺りには50軒以上の家があった。隣近所の人たちが無事なのかすら分からない」。橋本さんは声を震わせた。
南相馬市によると、道路が寸断され、100人単位で孤立している地区もある。「集計が追いつかず、誰が行方不明かわからない」と担当者は話した。(古庄暢、富田祥広、茂木克信)
277
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:38:22
http://mainichi.jp/select/today/news/20110312k0000e040065000c.html
地震:集落「全滅だ」 家族の願い砕く惨状 福島・南相馬
2011年3月12日 11時27分 更新:3月12日 12時52分
地震による津波で土砂に埋もれた土地を見まわる人たち=福島県南相馬市原町区上渋佐で2011年3月12日午前7時50分、武市公孝撮影 無残に押し流される車や民家、衰えをみせない猛火、繰り返し起きる激しい余震−−。未曽有の巨大地震の発生から一夜明けた12日朝の東北・関東地方の太平洋沿岸一帯。死者・行方不明者はあわせて1000人を超える見通しとなるなど、次第に想像を絶する被害実態が見えてきた。あちこちの被災地で、家を失った住民の絶句や家族の無事を祈る悲痛な声が漏れた。被害はどこまで広がるのか。
福島県南相馬市の市街地から東へ3〜4キロの渋佐地区。海に面した住宅密集地で、同市内でも被害が特に大きかった。12日朝、海岸から約1キロ離れた陸地は濁った土砂が覆い尽くし、家屋、鉄塔、防風林、防波堤の残骸が散乱していた。
避難していた住民やその安否を気遣う親類が早朝から次々と訪れた。年配の男性は「あー」と絞り出すように声を発し、しばらく動かなかった。「あそこに私の家があったんだ」「実家があそこらへんにあった」。住民は次々と声を上げる。けたたましいサイレンが響く中、初老の男性は「全滅だ、全滅だ」と繰り返し、あきらめたように避難所に戻って行った。
多数の死者と行方不明者が出ている特別養護老人ホーム「ヨッシーランド」。周囲には中まで泥が入り込んだ無数の車。施設の入り口には、茶わんや上履き、スプーンなどが散らばり、窓ガラスはほとんど割れていた。いくつもの倒木が施設に突き刺さっている。内部には津波に押し流された軽乗用車があった。義父が入所していたという男性(75)は「助かっていてほしいとは願っていた。だがもう……」とつぶやいた。
◇ ◇
同市には11日の地震発生から約1時間後に津波が到達。海岸から約1キロ離れた県警南相馬署の屋上と3階会議室には避難民約200人が駆け込んだ。押し寄せる波が家屋を押し流す様子を息をのんで見つめた。妊婦や子供を抱いた若い母親もおり、配布された毛布にくるまって時折襲う余震に耐えた。海岸近くに母親が住んでいる無職男性(67)は「津波で電信柱が倒れるのを見て急いで逃げてきた。母親は無事だろうか」と心配した。
11日夕には同市役所に、市の呼び掛けに応じた市民から毛布や食料が届けられた。毛布5枚を届けた女性(61)は「これしかできることがない」と話した。避難所となった県立原町高校には住民が続々と避難。地震情報を伝えるラジオにくぎ付けになった。同市原町区の渋佐地区の女性(65)は「近くに住む両親と連絡が取れていない。無事でいてほしい」と願った。【神保圭作】
278
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:39:31
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110312t33023.htm
見渡す限りがれきだけ 壊滅の陸前高田
津波で多くの家屋が消滅した陸前高田市の市街地=12日午前8時15分
三陸沿岸の白砂青松に重厚な瓦屋根の家々が映えていた歴史ある街並みは、見渡す限り、がれきだけの無残な姿に変わり果てた。東日本大震災で「壊滅的」(総務省)な打撃を被った陸前高田市。12日、国道343号を経由して岩手県一関市側から入った。
広田湾から、直線距離で2キロほど北に位置する市中心部の栃ケ沢地区。老舗の蔵元など重厚な日本建築が立ち並ぶ街並みだったが、気仙川をさかのぼった津波の濁流にのみ込まれた。
押しつぶれた瓦屋根と柱の残骸、それに転覆した自動車だけという光景が、数キロ四方にわたって続いている。辺りにはガスの臭いも充満し、避難した住民が近づくのさえ拒んでいるようだ。
栃ケ沢から気仙川沿いに1キロほど上流の市竹駒集落にも、津波は容赦なく押し寄せた。約180世帯が暮らした家並みは泥とがれきの山に。
「地震の揺れ始めから30分もたたないうちに、濁流が襲ってきた。こんな上流まで津波が来るなんて想像したこともなかった」。地区の消防団員、高橋哲也さん(46)は顔をゆがめた。
広田湾とは5キロ以上離れたJR大船渡線矢作駅近くでは、線路がぐにゃりと折れ曲がり、故障した踏切の警報が鳴り続けている。
自然の刃(やいば)に襲われたとき、人はこれほどまでに無力なのだ。その現実が、目の前に広がっていた。(鈴木裕)
2011年03月12日土曜日
279
:
チバQ
:2011/03/13(日) 00:42:26
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110312t13008.htm
「沖から火が押し寄せた」夜明け前の空焦がす 気仙沼被災ルポ
あちこちから火の手が上がり、夜明け前の空を焦がしている。12日午前4時すぎ、気仙沼市民会館のある高台から見た市中心部の光景に、ぼうぜんと立ち尽くした。
津波が押し寄せた気仙沼市街は、がれきの山だ。骨組みだけを残して流された建物の跡。ひっくり返った車が折り重なる。足元にはサンマやアイナメが転がり、油のにおいが立ちこめる。
「沖の方から火が押し寄せてきた」。住民によると、火は海上に流れ出した油に引火したことで広がったという。
車を運転して南下し、海沿いの階上地区に入る。ヘルメットをかぶった男性に呼び止められた。「避難所の階上中学校まで乗せていってくれ」と言う。オレンジ色の毛布にくるみ、数人で抱えていたのは子どもだった。
一緒に向かった。「寒くないか」。父親が真っ赤に目を腫らして子どもに声をかけ続けていた。毛布の間から保育所の名札が見えた。
中学校は避難した人々でごった返し、座るスペースはほとんどない。この子どもに駆け寄った医師は死亡していると告げた。周りの人たちが、子どもの顔についた泥を丁寧に拭き取っていた。
「まだ、遺体がたくさん残っている」。別の男性が叫ぶように言った。
(武田俊郎、丹野綾子)
2011年03月12日土曜日
280
:
チバQ
:2011/03/13(日) 14:27:58
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110313-OYT1T00306.htm
町長ら1万人超不明…岩手・大槌、機能停止の町
崩壊した大槌町役場を眺める男性。時計は、2時45分頃を指している=13日、前田毅郎撮影 町の中心部が大津波にのみ込まれた岩手県大槌(おおつち)町。
避難所で所在が確認されている住民約4600人を除き、町長をはじめ1万人以上の行方がわからないままだ。火災にも見舞われ、何もなくなってしまった町に13日、記者がはいった。
所々から火災の残り火や煙が上がり、町中心部は焦げ臭いにおいに包まれている。中心部にあった図書館やガソリンスタンドなどは跡形もない。背後にある山で火事が起きているが、消防機能は完全にまひしている。大槌川にかかるJR山田線の橋は橋脚を残し、落下した。
港から約1キロにある役場は、2階まで津波が押し寄せた。役場では加藤宏暉町長ら幹部が災害対策会議を開こうとしていた、まさにその時だった。東梅政昭副町長は「町長が高いところに避難するよう指示し、約20人が屋上に上がったところで津波が押し寄せてきた。数十人の職員が行方不明となっている。加藤町長は姿が見えなくなった」と話した。町も事実上、機能停止となっている。
同町城山の中央公民館は遺体の安置所になっていた。約20人の遺体が安置されている。各地で遺体の回収が続いている。
災害対策本部も置かれ、13日朝までに40人の死亡を確認したという。町内26か所の避難所に約4600人が、命からがら避難している。
公民館に避難した会社員、阿部正人さん(46)は「もう2日間、何も食べていない。それでも連絡の取れない弟を捜さないといけない」と疲れ切った表情で話した。
不明の町長に代わり災害対策本部長を務める東梅副町長は「何人の町民が亡くなっているのか全く分からない。約1万5000人の町民で、もっと亡くなった方が増えるのではないか」と苦しい表情で話した。
町民たちはがれきに埋もれた自動販売機を壊して、中からペットボトルのお茶や缶ジュースを取り出してのどの渇きをしのいでいた。住民はがれきの中から、泥にまみれた預金通帳や食料など使えそうなものを探していた。
県立大槌病院で、ライフライン(生活物資補給路)が途絶し、医薬品もとぼしい中で、かろうじて診療が続けられていた。岩田千尋院長は「夜は懐中電灯の明かりで診察を続けている。職員も家族と連絡がつかないまま、頑張っている」と話した。
43人の患者が入院している。事務員岡田和也さん(32)は「水、食料、医薬品はほぼ底をついている。医薬品は1階にあったが、水浸し。ライフラインは全滅だ。患者の搬送を頼みたくても電話や無線は全て壊れており、外部との連絡は断絶状態」と話した。(吉田拓矢)
(2011年3月13日14時02分 読売新聞)
281
:
とはずがたり
:2011/03/13(日) 15:11:29
M8.8から9.0に変更 東日本大震災、気象庁
http://www.asahi.com/national/update/0313/TKY201103130085.html
2011年3月13日13時30分
気象庁は13日、東日本大震災の地震の規模を示すマグニチュード(M)を8.8から9.0に変更したことを明らかにした。
マグニチュードが0.2大きくなると地震のエネルギーは2倍になる。今回の地震のエネルギーは、関東大震災の約45倍、阪神大震災の約1450倍になる。
マグニチュード9.0は、1900年以降に起きた地震では、1960年のチリ地震(M9.5)、64年のアラスカ地震(M9.2)、2004年のスマトラ沖地震(M9.1)に次ぎ、1952年のカムチャツカ地震(M9.0)と並ぶ。
気象庁は、今回の地震の規模が大きいことから、通常使っている気象庁マグニチュードではなく、米地質調査所など世界で使われているモーメントマグニチュードで計算している。阪神大震災は気象庁マグニチュードが7.3、モーメントマグニチュードは6.9になる。
282
:
とはずがたり
:2011/03/13(日) 16:57:56
東日本大震災:発生3日目…「町が消えた」
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110313k0000e040027000c.html
3日目の朝が明けた。未曽有の東日本大震災による巨大津波で壊滅的打撃を受けた三陸沿岸地区。廃虚と化したがれきの間で、被災者たちは命をつなぐように2夜を越し、空や陸路で救助に向かう自衛隊や消防隊の姿があった。
北海道の函館空港の開港とともに離陸。雲上を一気に南下する。
13日午前8時45分、宮城県南三陸町上空。機体をきしませながら一気に高度を下げると、眼下にがれきと化した市街地が飛び込んできた。「町が消えた」。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。「消息不明者1万人」とされる港町は、巨大な爪で根こそぎさらわれたようだ。
港に面した町並みは家屋が一掃されコンクリートの土台が遺跡のように残っている。黒く見える一帯は火事で焼け焦げた跡だ。押しつぶされた家屋から1本の煙が上がっている。
高台にある志津川高校の校庭に白線で、大書された「SOS」の文字。その傍らに立つ人影が飛来した社機を見上げている。
志津川小学校の校庭には、救助のヘリを待つように「丸にH」の文字が見える。
沖合の海に目を転ずると、浮遊する家屋の残骸や油の間で、転覆した船が赤い船底を見せている。
深く入り組んだリアス式海岸。湾口から襲った津波は入り江の奥に進むにつれて凶暴さを増して牙をむいた。姿をとどめる山や高台の家とは対照的に、海沿いの低地は家の痕跡もとどめていない。
機体を北転させて、沿岸沿いに遡上(そじょう)して同県気仙沼市に向かう。途中に見えるJR気仙沼線の鉄橋が、コンクリートの橋脚を残して消えている。
市街地に近づくと、埠頭(ふとう)の跡に消防の赤いヘリが着陸しようとしている。海からは白い船が航跡を刻みながら接近している。
同9時、岩手県の陸前高田上空を旋回する。町の中心部の半分近くがいまだ水につかっている。野球場の半分が水に沈み、姿を残すのはコンクリートのマンションやビルだけだ。
泥水に埋もれた廃虚の間に、カーキ色の服を着た十数人の自衛隊員が列を作って歩いている。かすかに痕跡を残す道路の上を、毛布にくるまれた遺体を担架で運ぶ隊員もいる。
高台のグラウンドには陸路たどりついた陸上自衛隊のカーキ色の車両が並び、離れた場所には消防のレスキュー隊のテントが並ぶ。そして、内陸を結ぶ道路を遡上すると、被災地に向かう消防車が列を作って走っていた。しかし、さらに北部の沿岸地帯にある港町は孤立したまま。救助隊はまだ到着していない。【萩尾信也】
毎日新聞 2011年3月13日 10時55分(最終更新 3月13日 12時07分)
283
:
チバQ
:2011/03/13(日) 21:37:51
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103130092.html
「陸の孤島」つなぐ衛星電話、電池切れ目前…宮城・女川2011年3月13日13時23分
外部とつながる糸は、役場にある衛星携帯電話1台だけ。それさえもバッテリー切れ目前だ――。津波になぎ倒された家々のがれきが道路を寸断し、周囲との行き来を遮断された宮城県女川(おながわ)町。陸の孤島と化した海辺の町に12日入った。
線路を延々と歩き、親切な女性の車に同乗させてもらって、午前10時半すぎ、町の入り口にたどり着いた。
路面は材木や石が散らばる。もう車は進めない。
女川湾に面した町中心部まではあと5キロほど。山に挟まれた緩い上り坂の一本道を行くだけだ。
「おう! 新聞社! 向こう全滅だぞ! 何もねえぞ!」。眼鏡をかけた男性が大声で叫んだ。道路のところどころに散らばっていた木材やトタンなどの住宅の破片が次第に路面全体を覆う。道沿いに点在する住宅に、原形をとどめているものはない。
電線から大きなものがぶら下がっている。近づくと、私の背丈よりも大きな木造住宅の梁(はり)と天井とおぼしき板切れだった。ゆらゆらと不気味に揺れるすぐそばをこわごわ通り過ぎた。
やや開けた空間に出た。はるか向こうに青い海面。そこまでびっしり、がれきの山が積み重なる。もはや道路かどうかの区別さえつかない。
木材、トタン、ガラス、鉄骨。そうした住宅の残骸に混じるのは、サッカーボールに年賀状、レコード、電卓、とっくり……。24時間前には確かに存在した生活の断片が、悪臭を放つヘドロにまみれて転がる。
「退避! 退避! 避難だ!」。海辺に近い小高い丘の上から男性が大声で叫んでいる。周囲の人たちを追いかけて丘に上った。
男性は、再度の大津波襲来に備え、海面の上下に目をこらしていた。1時間ほどの間に50センチ〜1メートル前後の上下動を繰り返しているという。
「引き波の後に、またすごいのが来るかもしれないだろ」
丘の上から見る町は、ただただ、がれきの荒野だ。3階建てコンクリート造りのビルが横倒しになっている。電柱のてっぺん近くにプロパンガスのタンクが二つ引っかかってぶらぶら揺れている。
丘の上まで20メートル近い高さがあるのに、そこで車が2台積み重なっている。半分以上の家が破壊されたのではないだろうか。いったい、どんな津波が町を襲ったのか。
海辺で会社を経営する阿部繁夫さん(60)は、一部始終を見ていたという。
地震の後、すぐさま自宅にとって返し、妻らを車に乗せて丘に上がった。やれやれと思う間もなく、沖合から海水がもりもりと盛り上がった。岸壁をやすやすと乗り越え、一瞬で街をのみ込み、自分のいる丘に迫ってきた。
あわてて背後の病院に駆け込んだが、大水は病院1階の天井近くにまで達した。すぐ近くの3階建ての町役場も、海水に包まれた。
2階建ての銀行の屋上で助けを求めている人がいたが、あっという間に波にのまれ、姿が見えなくなった。「津波が来てから丘の上にまで達するのに1、2分……。そんなにかからなかったかもしれない。ぶわーっと、本当に一瞬で迫ってきた」
「こういう地形だからねえ」。ある女性がそうつぶやいた。震源地に向かい、大きく口を開けたかっこうの女川湾。そこに達した津波は、両サイドを山に挟まれたV字状の地形で、瞬時に高さを増したのだった。
284
:
チバQ
:2011/03/13(日) 21:38:19
携帯電話は「圏外」。電気も通っていない。女川町を外部とつなぐのは12日現在、役場が所有するバッテリーの尽きかけた衛星携帯電話1台だけだ。非常時に備え、町は普通の携帯電話が使えないときでも通話可能な衛星携帯を数台そろえてあった。しかし、丘の上の役場庁舎をのみ込んだ大津波のために水没。たまたま庁舎外に持ち出していた1台が幸運にも残った。
地震直後から、町幹部らは衛星携帯を使って県との連絡を試みた。しかし、いくらかけてもつながらない。
陸路も寸断されている。北側に抜けるルートは堤防道路が決壊し、鉄橋も一部が落ちてしまった。西隣の石巻市に抜ける国道398号も、約5キロにわたってがれきがびっしり路面を覆っている。
「本当に陸の孤島になってしまった」。鈴木浩徳・企画課長(50)は嘆く。町の状況が外部に伝わらないから、ラジオのニュースも「女川の情報はない」と言うばかりだ。
「何よりまず、通信環境の整備と道路の確保。それだけは一番に助けて欲しい」
外部の救援が届かない中、町は生存者の安否確認を進めている。しかし、約1万人の町民のうち12日正午までに生存確認できたのは3千人足らずだった。
安住宣孝町長(65)が駆け寄ってきた。「食料もない。水もない。トイレや赤ん坊のオムツもない。しかもこの寒さ。みんなまだ興奮状態にあるが、気持ちが落ち着いてきたらいろんな物資の不足がストレスになって襲ってくる。とにかく助けがほしい。早く助けに来てくれ。そう伝えてください」。必死のまなざしでそう言った。(松川敦志)
285
:
とはずがたり
:2011/03/14(月) 11:45:07
福島沿岸に3メートルの津波
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103140149.html
2011年3月14日11時19分
宮城県警によると、14日午前10時50分現在、福島県沿岸に3メートルの津波が押し寄せている。
286
:
とはずがたり
:2011/03/14(月) 12:04:20
東北沿岸で津波観測せず 気象庁、発生情報受け会見
http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY201103140175.html
2011年3月14日11時49分
東北沿岸で津波が発生したという情報があったことを受け、気象庁は14日午前11時半前、緊急に会見を開き、横山博文・地震津波監視課長は「津波につながるような地震は発生していないし、津波観測点でも潮位変化はない」と話した。
同庁の青森県から福島県にかけての太平洋沿岸の津波観測施設の大半は、データが送れない状況が続いているが、青森県むつ市と、茨城県大洗町の観測点では潮位変化がなかった。また、同庁が海上保安庁に確認したこところ、海保側の目視の観測でも、津波は確認されていないという。
287
:
とはずがたり
:2011/03/14(月) 17:24:15
東日本大震災:津波、10メートルの防潮堤越え 海岸の1キロ先まで−−宮古 /岩手
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110314-00000028-mailo-l03
毎日新聞 3月14日(月)10時38分配信
◇「昭和のより大きい」
東日本大震災の県内死者数は13日午後4時現在、267人にのぼった。陸前高田市などまだ把握できない市町村もある中、多くの人の命をのみ込んだ津波の姿が、人々の証言で少しずつ明らかになってきた。
宮古市田老では、津波が二つある高さ約10メートルの防潮堤を乗り越え、家々を押し流した。明治、昭和の大津波で壊滅的な被害を受けてきたが、住民らは「昭和8年の大津波より大きい」と口をそろえた。津波は海岸から約1キロ離れた三陸鉄道の築堤まで押し寄せ、海岸との間にあった家屋の大半が倒壊した。
同市田老、漁業、大棒賢作さん(63)が防潮堤の上に腰掛け、自宅跡を見つめていた。「何十年も積み重ねてきたものが全部パーだ」とつぶやいた。
地震直後、高台にある常運寺に妻とかけのぼった。海の遠くから「ドン」という音が響くと、高さ15メートルほどまで海面の水位が上がり、津波は防潮堤の内側に流れ込んだ。住宅や町工場の屋根が傾くと、数秒後には見えなくなっていった。津波は、ほどなく二つ目の防潮堤も乗り越えた。ギシギシと流れる家屋がぶつかり合う音が響き、港に500隻ほどあった漁船も姿を消した。「アー」と、避難した人々の口からうめき声が漏れた。
潮が引き、自宅の様子を見に行った大棒さんは「影も形もなかった。家財らしき物すらない」と目を伏せた。避難所となった寺で夜、毛布をかぶっても寝付けない。余震が立て続けに訪れ、今後の生活を考えると起きてしまう。町職員や行政相談員などを務めた記録を収めたパソコンも失った。「想像できますか。先のことをどう考えれば良いのか」と、ため息をついた。
同市災害対策本部によると、13日午前11時現在、田老地区だけで9カ所に計1425人が避難している。【山口圭一】
◇「ゴーッと。恐ろしい」 大槌旅行中、秋田の老人ク 2階まで水浸し
大槌町を訪れていた秋田県の老人クラブのメンバーと添乗員43人が13日、宿泊していた海沿いの浪板観光ホテルのバスで戻った。間一髪で難を逃れた状況を生々しく語った。
10日から2泊3日の予定で宿泊。地震発生時はホテル地下1階のホールで観劇中。添乗員や従業員の指示で高台へと避難した。津波は海岸から約15メートルの高さがあるホテルの2階まで到達し、備品などを押し流したという。
秋田県五城目町の猿田ミキさん(76)は「高さ6、7メートルもの津波がゴーッとくるのが見えた。ホテルのバスも流されていった。言葉で表しようがない。恐ろしかった」。同町の高橋作雄さん(75)は「全員が1カ所にそろっていたから非常口から無事に逃げられた。それぞれが部屋にいたら間に合わなかったかもしれない」と話す。
着の身着のままで、荷物をすべて失ったほか、ホテルの半てんにスリッパ姿の人も。地元の住民が会館を避難場所に提供してくれ、おにぎりや服、布団、毛布、石油ストーブの差し入れもあった。
メンバーは「家が流されたり家族の安否がわからない人もいたのに、私たちを最後まで見届けてくれた」「人の心の温かさを感じた。自分も今後、人のために動きたい」と感謝の言葉を口にした。
ホテルのバスは秋田県が用意した水や食料、生理用品などの支援物資を積んで大槌町に戻り、避難所などで配布する予定。ホテルの小笠原弘孝営業支配人(47)は「町では何もかも不足しており、状況がわからない中で少ない米をおかゆにしてしのいでいる。亡くなった町民の方が生きている町民より多いと思う」と悲痛な表情で語った。【野原寛史】
288
:
とはずがたり
:2011/03/14(月) 17:24:37
>>287-288
◇釜石、4波も襲来 第1波で甚大被害
津波が釜石市を襲った模様が少しずつ分かってきた。助かった住民や市などによると、津波は4波にわたって襲来したといい、最も被害が出たのは地震直後の第1波。津波は釜石港の方向から市街地に一気に押し寄せ、県道釜石港線を通り道にするかのようにして速い速度で商店街や住宅をのみ込んだ。
住民は近くの高台や自宅の2階に避難したが、逃げ遅れた人は波にさらわれた。車で避難しようとして渋滞に巻き込まれ、犠牲になった人もいたという。水はアーケードの2階部分にまで達し、古い木造住宅のほとんどが流され、倒壊した。
市街地で亡くなった人の遺体の多くは、やや高くなっている大渡町周辺で見つかった。壊れた家の残骸に引っかかったままの遺体もあったという。大渡橋たもとには、13日正午までにシートに包まれた53遺体がいったん運ばれ、旧釜石2中体育館に移された。がれきの中で、無事を確かめ抱き合う人の姿が見られた。釜石港に面した嬉石、松原地区でも多くの住宅が流されるなどの被害が出た。
市災害対策本部に入った上空からの情報によると、両石、根浜、片岸、箱崎、桑の浜地区が全滅かほぼ全滅、唐丹町などほかの海岸部でも壊滅的な状況という。市役所には判明した犠牲者や消息がつかめない児童らの名前が張り出され、涙ぐむ市民もいた。
市は市庁舎の周辺ががれきに囲まれて出動に支障があるため、災害対策本部を同市鈴子町の教育センターに移す。市教委は14日から当面、市内の学校を休校とする。岩手銀行中妻支店の窓口には、午前8時過ぎから預金を引き出す人の列ができた。【鬼山親芳】
3月14日朝刊
289
:
とはずがたり
:2011/03/15(火) 10:05:03
津波被害、4キロ以上内陸まで 仙台近郊をNASA撮影
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011031401000292.html
2011年3月14日 11時38分
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/uchu/chikyu/2011031401000360.jpg
地震発生前の2月に地球観測衛星テラが捉えた仙台市周辺の沿岸(上)と、地震後の13日に地球観測衛星アクアが捉えた同じ地域(NASA提供・共同)
【ワシントン共同】米航空宇宙局(NASA)は13日、東日本大震災の津波で数十キロにわたり浸水した仙台市周辺を捉えた地球観測衛星「アクア」の画像を公開した。
地震発生2日後の13日に撮影。別の衛星が2月に撮影した同じ地域の画像と比べると、仙台市南部周辺の40〜50キロの範囲で津波が海岸線から4キロ以上内陸まで達し、海水に漬かった様子がうかがえる。
今回の地震では、岩手県から福島県にかけての沿岸で地盤が最大約75センチ沈降したことが確認されており、水が引きにくい原因の一つとみられている。
290
:
チバQ
:2011/03/15(火) 22:45:02
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
2011.3.15 05:41 (1/2ページ)
骨組みだけになった防災対策庁舎=14日午後、宮城県本吉郡南三陸町(中鉢久美子撮影)
屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。
いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。
11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。
海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」
引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20〜30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。
佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。
「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。
波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」
1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。
291
:
とはずがたり
:2011/03/15(火) 23:12:24
<地震>静岡・富士宮で震度6強=午後10時31分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110315-00000163-mai-soci
毎日新聞 3月15日(火)22時37分配信
15日午後10時31分ごろ、静岡県で強い地震があり、同県富士宮市で震度6強を観測した。気象庁によると、震源地は静岡県東部で、震源の深さは約10キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6.0と推定される。津波の心配はないという。この地震で、東海道新幹線は品川−浜松間で運転を見合わせている。
主な各地の震度は次の通り。
▽震度5強=山梨県忍野村、山中湖村、富士河口湖町▽震度5弱=神奈川県小田原市、山梨県南アルプス市、富士吉田市、静岡県富士市、御殿場市
▽震度4=東京都町田市、国分寺市、千葉県館山市、南房総市、長野県諏訪市
292
:
チバQ
:2011/03/15(火) 23:22:55
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103150357.html
町長「不明」の大槌町、職員奔走 避難所運営や安否確認2011年3月15日21時49分
被災した2階建ての大槌町役場(左)=13日、岩手県大槌町、疋田多揚撮影
津波で庁舎が破壊され、町長らが行方不明になっている岩手県大槌(おおつち)町。インフラも指揮命令系統も機能不全寸前の中、15日午後、町議会が開かれて対策を協議した。生き残った職員たちは、避難所の運営、安否確認……と山積する仕事に奔走している。
「行方不明者は数千人としか分かりません」。高台にある中央公民館の談話室で開かれた町議会。15人の町議を前に、町長役を担う東梅政昭副町長(66)が疲れ切った様子で説明した。11年度の予算案を可決し、安否確認の進捗状況を確認した。
加藤宏暉町長(69)と町議1人、課長7人ら幹部を含めた町職員三十数人は行方不明のままだ。住民基本台帳を管理するサーバーも流され、約1万5千人の住民のデータが消失。職員らは、各避難所で安全が確認された人たちの手書き情報を集めて名簿をつくり、町民らが閲覧できるようにしている。
津波が庁舎を襲ったのは11日午後3時半過ぎ。東梅副町長は、階段を駆け上り、はしごをつたって2階建て庁舎の屋上に。屋上に町長の姿はなかった。
「がれきとともに、2階の天井近くまで波が押し寄せてきた。壁も突き破られた」
停電と断水が続く中、同町では42カ所の避難所に約6200人が身を寄せる。対策本部と避難所をつなぐ電話は9カ所しかなく、ガソリンも十分にない。そんな中でなお山火事が相次ぎ、消火が追いつかない状況だ。
「大槌ふれあい運動公園」の避難所では、弓道場の土間に段ボールを敷いて約600人が寝泊まりしている。ストーブは6台、毛布もわずか。配置された4人の職員では手が足りず、配膳(はいぜん)やトイレの清掃、補給物資の整理などは、自然発生的にできた町民ボランティアが担っている。
約800人が過ごす安渡小学校の避難所を担当する職員、佐々木健さん(54)は13日、緊急車両証を受け取るため、自分の判断で岩手県庁に向かった。ガソリンや灯油、粉ミルクなどを購入し、避難所に戻ると午後8時半を過ぎていた。だが、食糧も毛布も全く足りない。避難所が提供できた食事は、13日は朝と夜、避難者一人におにぎり一つずつだけだったという。
ある職員は「一部では、食糧がないかと町内の建物を探し始めた住民もいる」と行く末に危機感を募らせる。(吉永岳央、河村能宏、矢島大輔、疋田多揚)
293
:
チバQ
:2011/03/16(水) 00:11:02
http://www.yomiuri.co.jp/feature/ejeq2011/20110315g.htm
周りは「海」孤立43時間…被災本紙記者気仙沼避難所ルポ
津波に追われ、避難所でうずくまって眠る被災者(11日午後10時9分) 子供の泣き声と老人のうめき声が響き、底冷えする部屋で、じっと身をかがめて誰かの助けを待つしかなかった――。記者は東日本巨大地震で宮城県気仙沼市の避難所を取材中、大津波に襲われ、地元の住民の方々450人とともに、避難所内に閉じこめられた。避難所は3階建て公民館だが、2階天井近くまで浸水し、公民館の周囲では、流出した油に引火した火事が頻発。生きた心地がしない中、2晩を過ごし、43時間後に救出された。東北総局気仙沼通信部・中根圭一(27)、写真も
地震発生
海上に浮く重油が燃え、一面が火で包まれた気仙沼湾(11日午後6時) 11日午後2時46分、東日本巨大地震が発生した時は気仙沼市の市街地にある気仙沼通信部にいた。地面から突き上げるような縦揺れの後、激しい横揺れで立っていられない。揺れが収まると、棚からすべてが落ちて足の踏み場もなくなった通信部から、カメラと取材道具を抱えて外に飛び出した。避難所となった市内の気仙沼中央公民館に車で駆け付けた。
公民館に避難した住民が集まってきていた。2階屋上で住民から話を聞いていた3時30分頃だろうか。「津波が来た」。男性の大声が響いた。振り向くと、気仙沼湾に白波が立っており、民家や水産関連の工場を次々と押し流しながら、津波が迫ってきた。公民館は海岸から約400メートル。一心に写真を撮り続けていると、レンズ越しにみるみる津波が大きくなってきた。
危険を感じ、住民とともに3階屋上まで避難した。避難所は四方が水とがれきに囲まれた。水は2階天井近くまで達し、外には出られない。通信部が入居するアパートも水浸しになったのは間違いない。乗ってきた車も流された。帰る先も、帰るための手段も失った。
津波が迫る写真をパソコンから会社に送信し、携帯電話でも上司と話したが、その後、だんだんつながらなくなった。自分が「記者」である前に、「被災者」であることに気づいた。もう誰かが助けにくるのを待つしかなかった。
不安の夜
津波の第1波が過ぎ去った11日午後6時頃、記者を含め、公民館の避難者約450人は、寒さをしのぐため、3階にある物置、調理室、廊下、会議室の4室に分かれて一晩を過ごすことになった。記者は広さ30畳ほどの物置部屋に入った。乾電池式の照明がぼんやり光る中、約100人が明かりを囲むように背中を丸め、ひざには毛布を掛け、身を寄せ合った。寒いから、だけではない。足を伸ばす余裕も、相手と身を離す隙間もないのだ。夕食は備蓄されていたクラッカーと救助ヘリから落とされたビスケットのみ。水はなめるほどしかない。四方を「海」で囲まれ、断続的に襲う津波でいつ建物が倒れるかわからない。
避難所近くの保育所から避難した親子も多い。子供が「こんなの、もういやだ」と泣き叫んだ。屋上に出ると、周囲の「海面」のあちこちが燃えている。漏れ出した重油に引火したのだ。公民館に燃え移ってもおかしくない距離だったが、SF映画のシーンを見ているようで、目の前で起きていることが現実とは思えなかった。油臭さを充満させた「海面」の火災はなかなか収まらない。何かの拍子で「ボン」という爆音がする。
この夜は、物置で背中を丸め、足を抱えて座ったまま眠り込んだ。寒さをしのぐのに、防災用にしまってあった硬くて薄い毛布を引っ張り出し、1枚を3、4人で使った。コンクリート製で底冷えする床に敷けるのは余った段ボールの切れ端くらい。大半の被災者には回らず、記者は前日に取材先でもらった資料を尻に敷いて寒さをしのいだ。床の冷たさに耐えきれず、立って眠る人もいた。公民館の職員らが非常食用のクラッカーを配った。1缶を5人ほどで分けると、1人で2枚が限度だった。
用を足すにも便器ががれきで埋まり、階段で済ませた。余震が多く、1時間に1回ほどは揺れで眠りから覚めてしまう。鉄骨建てとはいえ、決して新しくない公民館は、断続的に襲う余震や津波で倒れないかと不安で仕方がなかった。
294
:
チバQ
:2011/03/16(水) 00:11:19
救いの手
携帯電話がつながらなくなると、家族と連絡が取れず、安否を心配する人もいた。記者の不安感を救ってくれたのは、隣で休む女性(56)との会話だった。「どこの出身なの」「あら千葉が生まれなんだあ。また遠いところから来たねえ」「津波が来て連絡が取れないなんて。あんた長男さだったら、親はそりゃえらい心配していると思うよ」。もちろん初対面の人だったが、母親と同じくらいの年齢の女性と話していると、なぜかほっとした。
「きっと明日になれば、救助ヘリが助けに来てくれるさ」と互いに励まし合った。
翌12日、日の出とともに起きると、水が1階天井あたりまで引いていた。漂流物がよく見えた。横転した車、倉庫から出た冷凍カツオやサンマ。枝のようなものもあったが、流された人の手のように見えた。思わず目をふさぎ、漂流物をじっくり見つめることができなくなってしまった。
東京消防庁の救助ヘリコプターが午前9時40分に来た。「これで帰れる」と期待したが、ヘリが着陸できる場所はなく、1人ずつロープでつり上げるしかなかった。午後からは航空自衛隊のヘリも加わったが、50人程度しか運べず、残った約400人は2夜目を過ごすことになった。
この夜の夕食はビスケット一かけらだけ。ヘリはペットボトル数本の水を落としていったが、記者が受け取った水はなめる程度。それも、脱水症状になりかけていたお年寄りに譲った。
被災者のストレスはピークに達していた。子供が夜に「のど渇いた」「もう帰りたい」と泣くと、「うるさい」とつぶやく男性もおり、ぴりぴりした雰囲気に。
「もう限界」。誰もがそう感じた3日目の13日午前6時、外を見ると、水がほとんど引いていた。車はまだ走れる状況ではないが、助かったと思った。公民館前の広場に自衛隊と東京消防庁のヘリが着陸し、3機態勢で救助を始めた。病人や子供、お年寄りを優先し、記者が乗ったのは午前10時頃。気仙沼市内のヘリポートのような場所に降りた。
ようやく「被災者」から「記者」に戻った。だが、孤立した被災者はまだまだいる。水や食料のないまま過ごす人、屋上で寒さをしのぐ人もいるだろう。諦めずに生還してほしい。復興までには長い道のりが続くだろう。避難所での43時間を胸に、多くの人が大切なものを失った悲しみと、そこから立ち上がっていく力強さを、しっかり伝えていきたい。
(2011年3月15日 読売新聞)
295
:
とはずがたり
:2011/03/16(水) 17:46:07
茨城の宇宙機構施設が損傷 「きぼう」一部管制できず
http://www.asahi.com/science/update/0316/TKY201103160235.html
2011年3月16日13時53分
【ワシントン=勝田敏彦】東日本大震災で、茨城県つくば市にある宇宙航空研究開発機構の施設が損傷し、国際宇宙ステーション(ISS)にある日本の実験棟「きぼう」やISSにドッキング中の輸送船「こうのとり」の管制の一部ができなくなった。米航空宇宙局(NASA)と宇宙機構が15日、明らかにした。
宇宙機構によると、つくば市の施設が機能停止した場合に備えて定められた手順に沿って、米テキサス州ヒューストンにあるNASAの施設に臨時管制室を設置して職員を配置。「きぼう」などへの指示(コマンド)送信を、NASAに依頼して管制を行っている。
「こうのとり」の分離はつくばの管制室からできないため、28日に予定される分離までにつくばの施設の機能が復帰しないと分離が延期される可能性がある。
296
:
とはずがたり
:2011/03/16(水) 22:13:26
牡鹿半島、東へ5メートル動く 東日本大震災で京大解析
http://www.asahi.com/national/update/0316/OSK201103160004.html
2011年3月16日10時42分
東日本大震災で、震源に近い宮城県東部の牡鹿半島では陸地が東側に水平に5.2メートル動く地殻変動があり、沈降も1.1メートルあったことが、京都大の宮崎真一准教授(地球物理学)の解析でわかった。近畿地方でも3〜6センチ東へ変動していた。解析には国土地理院の観測結果を使った。
今回の地震は、太平洋プレートが沈み込む境界でひずみがたまり、耐えられなくなった陸のプレートが跳ね上がって起きた。地震後、ひずみが解消された陸のプレートは伸ばされたような形で東に動く。また、プレート境界で地殻が上昇するため、内陸側は逆に沈降する。この沈降によって津波の浸水域が拡大した。
地震がマグニチュード9.0と巨大だったため地殻変動は広範囲に及び、近畿地方でも動いていた。(瀬川茂子)
297
:
チバQ
:2011/03/16(水) 22:34:55
http://mainichi.jp/select/today/news/20110317k0000m040050000c.html
東日本大震災:9200人、依然孤立 全容の把握進まず
2011年3月16日 19時24分 更新:3月16日 22時28分
行方不明者の捜索を行う消防隊員=岩手県陸前高田市広田町で2011年3月16日午後1時49分、兵藤公治撮影 東日本大震災の被災地では、多数の集落が外部との交通・通信手段を絶たれ、判明しているだけで約9200人が孤立している。自衛隊や消防などは懸命の捜索・救助活動を進めているが、被害の全容はまだ分かっていないのが実情。宮城県災害対策本部は16日、上空と陸路から確認する活動を始めたが、広範囲に点在する孤立集落を発見・救助する作業は困難を極めている。【樋岡徹也、福永方人】
災害派遣では過去最大の約7万6000人態勢を組む自衛隊。救難ヘリ「UH60」や多用途ヘリ「UH1」などが、病院や学校の屋上などに避難して孤立した被災者らを次々と救助している。上空から孤立者がいそうな集落を見つけると、低空飛行に移り、津波の引いた後に残された家屋の屋上から助けを求める被災者がいないかを捜すやり方だ。
◇ヘリ捜索、難航
ただ、高齢者など救助を求めるサインを送ることができない人を空から見つけるのは難しい。漁業集落の孤立危険性を調査する漁港漁場漁村技術研究所の大塚浩二調査役は「小さな集落の公民館などに避難しているお年寄りたちが発見されていない可能性がある」とみる。
救助作業も簡単ではない。自衛隊は孤立した住民を発見次第、順次救出している。だが、防衛省によると、被災地に派遣されているヘリは約190機に上るが、緊急時に備えて待機する機も必要なことなどから、実際に救助活動に入っているのは「半分にも満たない」のが現状という。
自衛隊幹部は「孤立地区が広範囲に点在している。ヘリの飛行時間は数時間。空中で被災者をつり上げるのに1人当たり10〜20分はかかるので、救助が思うように進まない」と話す。病院の患者や老人ホームの入所者などを優先して救助し、救助を待ってもらう人も出ているという。
上空からの情報は陸上自衛隊の地上部隊にも伝えられ、地上からの救助のために走行可能な道路を探す作業に入る。輸送能力の高い大型車両が入れれば救助は進むが、倒壊した家屋のがれきや泥に救助活動を阻まれているのが実情だ。自衛隊はヘリを使い、孤立集落に食料や毛布などの物資輸送を実施している。防衛省は「救助が間に合わない方々に生き延びてもらうため、まず物資輸送を続けていく」と話している。
防衛省は米軍への協力も要請している。米原子力空母「ロナルド・レーガン」が仙台市沖に停泊。艦載ヘリ2機と、自衛隊の補給艦「ときわ」のヘリ1機が、ときわに積んでいる非常用食料3万食を宮城県気仙沼市の五右衛門ケ原地区に運ぶなど、各地の被災地に運搬している。
大塚調査役は「孤立した被災者は情報が途絶しているため、自分は見捨てられているのではないかと考えがちで、精神的な不安が大きい。物資を輸送する際、わずかな時間でも地上に降りて被災者の手を握るなどし、『大丈夫』『必ず助けます』などと励ましてほしい」と話している。
298
:
チバQ
:2011/03/16(水) 22:35:14
◇過疎対策、再点検を
孤立集落を巡る問題は、04年の新潟県中越地震でクローズアップされた。内閣府が05年に実施した調査で、地震などの災害時に孤立する恐れのある集落が全国に約1万9000もあることが判明。内閣府が設置した有識者検討会は05年、国や自治体に対し、集落への通信手段や非常用電源の配備、水・食料の備蓄などの対策を取るよう提言をまとめた。
だが、その後も対策はほとんど進んでいない。毎日新聞が09年に全都道府県を調査したところ、孤立の恐れがある集落のうち、地震時に有効とされる衛星携帯電話を確保していたのはわずか393集落。内閣府の05年調査時には277集落で、微増にとどまっていた。
毎日新聞調査によると、避難施設は68%の集落にあったものの、耐震性の十分な施設は17%、非常電源がある施設は2%にすぎなかった。いずれも05年時とほとんど変わっていない。
衛星携帯電話は1台当たり40万〜60万円の設置費と月5000〜2万円の維持費がかかる。牛山素行・静岡大防災総合センター准教授は「費用負担がネックになり、自治体は配備に二の足を踏んでいる。合併に伴って通信機材を減らした自治体すらある」と指摘する。
孤立集落は昨年10月の鹿児島県・奄美大島の豪雨でも発生した。内閣府はこれを受け、衛星携帯電話が必要な自治体全てに設置費の半額を補助することを決め、11年度予算に約2億円を盛り込んだ。東日本大震災が起きたのは、国がようやく対策を本格化させようとした矢先だった。
漁港漁場漁村技術研究所の大塚浩二調査役は「国が過疎地の情報インフラ整備を後回しにしてきたツケが新たな悲劇を生んだ。全国の集落を再点検し、早急に孤立対策を強化すべきだ」と訴える。
299
:
チバQ
:2011/03/16(水) 22:36:37
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103160331.html
救援物資、なんとしても届ける 政府、配送急ぐ2011年3月16日20時46分
記者会見で買い占め自粛を訴える枝野幸男官房長官=16日午前、首相官邸、飯塚悟撮影
東日本大震災の被災地支援について、菅直人首相は16日、首相官邸での緊急災害対策本部で「食べ物、水、特に燃料に対して各地から不足の声が上がっている。不足の原因を取り除くため、一層の努力をお願いしたい」と全閣僚に指示した。救援物資が十分行き届いていない状況を受け、菅内閣は輸送手段の確保策を相次いで打ち出した。
首相は同日、福島県の佐藤雄平知事から「生活物資の確保に重大な支障が生じている」との緊急要望を受け、「住民に物資が確実に届くことが大切で、しっかりと対応する」と答えた。
政府は、輸送手段確保や被災地での燃料使用の観点から、枝野幸男官房長官が16日午前の記者会見で「被災地以外の皆さんはガソリン、軽油、重油の買い占めに走らないようお願いしたい」と国民に呼びかけた。
緊急災害対策本部は被災地の県や市町村などから、緊急支援物資の要望を集約。現地に運ぶため、国土交通省を通して全日本トラック協会(全ト協)にトラックの手配をしている。全ト協の集計では、日本通運、ヤマト運輸、佐川急便などの大型10トントラックなど計400台以上で現地に配送。一般車両は東北道を通行できないが、緊急物資については警察庁が通行を認めている。
それでも、現地の避難所には十分行き渡っていないのが実情だ。菅内閣は16日、被災地で活動するボランティアを支援する目的で、震災ボランティア連携室(室長・湯浅誠内閣府参与)を設置。不足する物資が行き渡るよう、現地で活動するボランティアに配送などの情報を提供する考えだ。連携室の同日の会合では、現地からの報告として「このままでは餓死者が出る。(輸送の)大動脈は自衛隊が担っているが、その先の毛細血管が全然機能していない」といった声が出た。
また、北沢俊美防衛相は16日の防衛省災害対策本部で「すみずみまで食料が供給出来るように全力を」と指示。自衛隊が全国各地からの物資を被災地に届ける枠組みを作り、運用を始めた。
市町村や企業、団体は、都道府県を窓口として、指定された50カ所の自衛隊施設に物資を運び込む。自衛隊輸送機で空輸し、車両やヘリで避難所などへ配る。これまでは集積する場所や方法が決まっていなかったため、自衛隊や米軍の輸送が滞っていた。首相が15日に北沢氏に指示し、輸送担当を自衛隊に一元化することが決まった。
この枠組みでは、地方自治体や民間企業などが物資を提供する場合、都道府県に物資の種類や数量を連絡。自衛隊が指定する原則各県1カ所の駐屯地などに指定日時に運び込む。どの被災地に届けるかは提供した都道府県が指定できる。
2004年の新潟県中越地震では、全国各地の駐屯地に個人がバラバラに支援物資を持ち込み混乱したため、今回は窓口を都道府県に一元化し、原則個人は受け付けないことにしている。
防衛省では、被災地の燃料不足に対応するため、自衛隊の備蓄燃料を避難所などに提供することも決定。16日、宮城県の航空自衛隊松島基地に備蓄するガソリンや軽油を避難所に運び始めた。同基地からは同県東松島市や石巻市に対し、ガソリン各600リットル、軽油各2400リットルを出す方針。今後、同県の陸上自衛隊多賀城駐屯地からの提供も検討する。
農林水産省は16日午前7時までに、食品メーカーなどから提供を受けた食料176万食と飲料水約84万本を被災地に向けて発送。追加の食料129万食、飲料水103万本を送る準備もしている。ただ、「一刻も早く食料と水を届けるよう全力で取り組んでいる」(鹿野道彦農水相)というものの、現地のガソリン不足などから陸送が難航。このため、水産庁が所有する船を使い、海路による輸送も始めている。
300
:
とはずがたり
:2011/03/16(水) 23:17:57
振動が海水伝わる「海震」か
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110316/t10014725891000.html
3月16日 22時39分
今月11日に巨大地震が起きたとき、宮城県の沿岸で船に乗っていた人が、下から突き上げられるような衝撃を感じていたことが分かりました。気象庁は「地震の震動が海水を伝わる『海震』という現象だったと考えられる」と話しています。
遊覧船の売店で販売員をしている菊地百合子さん(45)は、今月11日に地震が起きたとき、宮城県松島町から塩釜港に向かう船に乗務していました。菊地さんによりますと、地震が起きたのは到着予定時刻の5分ほど前で、「船の底から突然、突き上げられるような衝撃を感じ、店にあった瓶などが跳ね上がった。その後も小刻みな衝撃が続いた」と話しています。菊地さんは、船の接岸後、乗客とともに近くの建物に避難し、しばらくして津波が押し寄せたということです。菊地さんは「船の上で突き上げるような衝撃を感じたのは初めてで、何事が起きたのかと、とても恐ろしかった」と話しています。これについて気象庁は「地震による震動が海水を伝わる『海震』という現象だったと考えられ、今回の地震の規模が大きかったために船に乗っていても感じられたのではないか。震源に近い場所だったため、突き上げられるように感じたのではないか」と話しています。
301
:
とはずがたり
:2011/03/16(水) 23:21:39
高い放射線量「近づけない」 原発の消火活動阻む
http://www.asahi.com/national/update/0316/TKY201103160433.html
2011年3月16日22時10分
何とかしたいのに、近づけない――。爆発や水蒸気の噴出、火事と相次ぐトラブルをなんとか収めようと、福島第一原発の中では16日も早朝から、空と陸から必死の作業が続けられた。だが、放射線の壁は厚かった。
午前5時45分。4号機原子炉建屋4階から炎があがっているのが確認された。消防車4台、消防隊員17人が駆けつけた。
発電所が消防隊に示した敷地内の被曝(ひばく)線量は、午前6時20分現在で1時間あたり最大400ミリシーベルト。極めて危険なレベルだった。
指揮者1人が、発電所内の緊急時対策室で消火活動について打ち合わせをした。残る隊員16人が正門の外で待機する中、3号機から白煙が上がっているとの情報。結局消防隊は現場を確認することなく、午前11時半に引き揚げるしかなかった。
「人が近づいていないので、正確な把握はできておりません」
16日夕方、東京電力本店で開かれた会見。担当者は、強い放射線で作業が困難になっていることを訴えた。現場の状況すら把握できない。4号機原子炉建屋から上がった煙が消えているのを確認したのも、遠く離れた高台からだ。
東電によると、同日午前には180人以上が福島第一原発に集まり、消火作業や給水作業に備えた。しかし、午前10時43分、毎時100ミリシーベルトの放射線量が測定された。作業員の年間線量の上限に当たる。避難指示を出すしかなかった。
約1時間後、その測定値は誤報と判明したが、避難した後だった。
この日、陸上自衛隊のヘリコプター3機も現場に向かった。UH1ヘリコプター1機とCH47輸送ヘリコプター2機。搭乗している隊員は全員、防護服を着用していた。かなり動きが制約される中での操縦だ。
UH1ヘリが周辺の放射線量を測定。作業に問題がないと判断されれば、(1)CH47に最大積載量が7.5トンの水のうをぶら下げて海水をくみ上げ(2)原子炉上空でホバリングをしながら水のう中央部が開く形で水を投下する――という段取りだった。
CH47に水のうをぶら下げて水を投下するのは、山火事などの消火活動の際に陸上自衛隊が使っている方式。作業自体は手慣れている。とはいえ、原子炉上空でホバリングしながら水を投下するのは「考えたことさえない話」(自衛隊幹部)という。
結局、UH1による計測結果から指揮官が「作業の継続は危険」と判断し、この日の投下は見送られた。
302
:
荷主研究者
:2011/03/17(木) 23:48:15
http://news.livedoor.com/article/detail/5418983/
2011年03月16日15時05分 提供:産経新聞
静岡の震度6強は誘発か 富士山噴火の懸念も… 暴れる巨大エネルギー.
静岡県東部で震度6強を観測した15日夜の地震は、11日の東日本大震災をもたらした巨大地震で誘発された可能性が大きい。震源付近では巨大地震の直後から箱根で群発地震が起きており、富士山の火山活動の活発化を懸念する声も出始めた。マグニチュード(M)9.0という巨大エネルギーの「余波」が日本列島を揺さぶっている。
「この場所で過去に地震はあまり起きていない。想像外だ」。防災科学技術研究所・地震研究部の松村正三研究参事は15日夜、驚きの言葉を口にした。
巨大地震の発生後、内陸で大きな地震が相次いでいる。12日の長野県北部の震度6強(M6.7)に続き、今度は伊豆地方でM6.4の地震が起きた。
海溝型の巨大地震が発生すると、地殻にかかる力が変化し、内陸直下型の地震が起きることがある。津波で約2万2千人が死亡した明治29年の三陸沖地震(M8.2)では、約2カ月後に秋田県で陸羽地震(M7.2)が起きた。
ただ、今回の伊豆地方の地震は、巨大地震の三陸沖から遠く離れている。プレート(岩板)構造も巨大地震が太平洋プレートの沈み込み帯だったのに対し、伊豆地方はフィリピン海プレートが陸側に衝突する場所と、まったく違う。
松村氏は「巨大地震は太平洋プレートの北半分が滑ったが、南半分はまだ動いていない。房総半島あたりで踏ん張っている南半分の力のしわ寄せが及んで、西隣のフィリピン海プレートを押し込んだのではないか」と話す。
京都大防災研究所・地震予知研究センターの遠田晋次准教授は、東日本大震災の巨大地震で地殻の断層にかかる力がどのように変化したかを計算した。その結果、東北地方の北上山地や房総半島東沖にかかる力が顕著に増加したほか、長野県の一部などでわずかに増加し、地震活動が活発化するとの結果が出た。
東日本大震災の地震エネルギーがあまりにも巨大だったため、地震学者の多くは、日本列島は東日本を中心に地震の活動期に入ったとみる。ただ、今回の伊豆地方の地震と東海地震の関係については「震源域やメカニズムが違う」(気象庁)と否定的だ。
巨大地震の影響は火山帯にも及んでいる。神奈川県温泉地学研究所によると、箱根火山の周辺では巨大地震の直後から群発地震が発生し、15日夕までに最大M4.8の地震を約850回観測した。火山活動に目立った変化はないものの、カルデラ内で揺れを感じることもあるという。
名古屋大地震火山・防災研究センターの鷺谷威教授は「火山の地下はマグマや熱水で壊れやすいため、群発地震が誘発された」とした上で、「正直に言うと、気持ち悪いのは富士山との関係だ」と明かす。
富士山の直下では約10年前、マグマ活動との関連が指摘されている低周波地震が頻発した。その後、静穏化したが、今回の伊豆地方の地震の震源の深さ約14キロは、この低周波地震の震源に近いという。
鷺谷教授は「富士山は宝永の大噴火から約300年が経過し、いつ噴火してもおかしくない。今回の地震が引き金になる可能性もあり、推移を注意深く見ていきたい」と話している。
303
:
チバQ
:2011/03/19(土) 10:24:32
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110318-00001120-yom-soci
死因、9割が溺死…地震より津波の被害鮮明に
読売新聞 3月19日(土)3時4分配信
東日本巨大地震で千葉大の岩瀬博太郎教授(法医学)が岩手県陸前高田市の死者126人の死因を調べたところ、9割が津波による溺死だったことがわかった。
死因の8割が建物倒壊による圧死・窒息死だった1995年の阪神大震災と対照的で、地震そのものよりも、その後の津波が被害を広げた実態が浮き彫りになった。
同市内で13〜16日に遺体の検視にあたった岩瀬教授によると、犠牲者の9割は死亡した後に骨折したとみられることなどから、溺死と判断した。
屋外で見つかった約90人のうち、4割程度が肋骨(ろっこつ)や首、手足を骨折していた。時速30〜40キロ以上の車にはねられたような強い衝撃を受けており、激しい津波で流された木材や家屋、車などにぶつかったとみられるという。
また、高齢者を中心に約50人がシャツや上着、ジャンパーなど7〜8枚を重ね着。印鑑や保険証、写真アルバムを入れたリュック、非常食のチョコレートを持った人もいた。岩瀬教授は「逃げ遅れたのではなく、避難準備をしていたにもかかわらず、想定を超える津波に巻き込まれたのではないか」とみる。
304
:
チバQ
:2011/03/19(土) 18:54:29
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110318/dms1103181525011-n1.htm
“忘れ去られた”被災地から悲鳴「茨城は陸の孤島に…」2011.03.18
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海水浴で有名な茨城・大洗の港では、船着き場が崩壊し漁船が陸地に打ち上げられた【拡大】
東日本大震災は、茨城県にも容赦なく牙をむいた。しかし、救援物資は多数の死傷者を出した東北地方が優先され、水戸がある県央や県北、鹿行地区ではガソリンが枯渇寸前。水道は止まり食料も大幅に不足する中、隣接する福島県の東電原発が放射能の追い打ちをかけている。“忘れ去られた”被災地から、深刻な悲鳴が聞こえてきた。
茨城県は、震災で17人が死亡したほか、因果関係が不明の死者が5人、41人が重傷。80棟が全壊し、半壊と一部損壊は1万2000棟超、2000棟が床下浸水の被害を受けている。
被災地域のガス、水道は寸断されたまま。JR常磐線、常磐道の基幹交通網も完全にストップ。現在、県内499の避難所に6万2734人が身を寄せ合っている。⇒【「東日本大震災2」特集】
神栖市在住の70代主婦は悲鳴を上げる。
「やっとついたテレビの報道は東北ばかり。もちろん、被害は比べものになりませんし、ご苦労も十分分かっていますが、茨城は陸の孤島と化し、見捨てられたような気分になります」
放射能の不安も深刻だ。ひたちなか市の男性(65)は、空気中の放射線量が通常の100倍といわれる毎時5・5マイクロシーベルトを観測した15日、都内の娘の家まで、一般道で4時間かけて妻とともに避難した。
「ひたちなかは、1999年のJCO臨界事故で、放射能の怖さをイヤというほど思い知らされた場所。食料も水も不足しています。ガソリンメーターとにらめっこしながら、何とか東京にたどり着きました」
医療状況も大ピンチだ。県北最大級の医療機関、日立総合病院(日立市)の職員は「ガソリン不足でスタッフの出勤が難しく、急患の手術もできません。健康調査や精神的ケアにはとても人をさけない。一刻も早い食料、水、ガソリンの補給してほしいです」と窮状を訴える。
茨城出身のタレント、磯山さやかは自身のブログで「ローカル局が(茨城には)ないのが(報道されない)理由かもしれません」と、茨城県の状況を心配。コメント欄を情報交換や安否確認に使うよう呼びかけている。
305
:
チバQ
:2011/03/19(土) 18:55:09
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110319/dms1103191501002-n1.htm
傾く電柱、道路陥没…「小江戸」千葉・佐原被災ルポ2011.03.19
江戸時代から受け継がれる土蔵造りの旧・正文堂書店が激しく損壊した【拡大】
東日本大震災では、関東地方の各所も大きな被害を受けた。江戸時代からの街並みが残る記者の郷里、千葉県北東部に位置する香取市佐原もそのひとつ。11日の地震では震度5強を観測し、現在も茨城県沖などを震源とする震度4レベルの余震が続く。歴史的建造物の損壊が目立つ、小江戸の街を歩いた。(久保木善浩)
「断水している。食べ物もなくなりそうだ」
日ごろ我慢強い父が発したSOSに、ただごとではないと思い、都内からレンタカーで郷里へ向かった。高速を使えば1時間ちょっとの道のりだが、大渋滞の一般道ではなかなか進まない。国道を回り道すると、道路には亀裂が。徐行しながら4時間半かけて両親と祖母のもとへ到着した。
「古い建物の被害がひどい」。そんな話を聞き、街中に出て驚いた。傾く電柱、地面の段差、道路の陥没…。普段なら大きなニュースとなっただろう。
佐原は江戸後期、米の集積地として江戸との舟運で栄え、明治以降も蔵作りの街並みが残った。埼玉県川越市、栃木県栃木市と並ぶ「小江戸」として知られる。多くの地震、大火を逃れた街並みだが、観測史上最大の揺れには耐えられなかったのか。
江戸時代からの街を象徴する旧「正文堂書店」は、ほとんどの屋根瓦が落ち、「正文堂」の看板も壊れた。隣接する旧家のそば店「小堀屋本店」、「福新呉服店」も屋根などに被害を受けた。
かつて商家が川沿いに立ち並んだ小野川の岸も、一部で大きく崩れていた。ワカサギをいかだ状に並べた名物のつくだ煮を販売する「正上いかだ焼本舗」もシートですっぽり覆われていた。
自宅の一部が壊れた知人は「東北の人たちの苦労を思えば、この程度の我慢は当たり前」と気丈に語っていたが、こうした光景は、いまだ関東の各地に広がっている。大地震の爪痕は深い。
306
:
チバQ
:2011/03/19(土) 22:19:02
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t73037.htm
犠牲者大幅増は必至 不明、届け出と実態乖離
東日本大震災による人的被害はあまりにも甚大で広範囲におよび、発生から1週間が過ぎた18日時点でも把握できていない。各県警は死亡を確認した方々を死者として発表、各県は市町村から報告があった死者数を市町村別に明らかにしている。このため警察発表とは合致しない。
同日現在、死者数は宮城県では4000人台、岩手県では2000人台、福島県では600人台となった。しかし村井嘉浩宮城県知事が「県内の死者は万人規模」と指摘するなど、今後大幅に増えることは必至だ。
行方不明者は、県警などに届け出があった人数が公表されている。津波により壊滅的な被害を受けた一部市町村は、届け出数と実態が乖離(かいり)していることもあり、石巻市が「多数」、気仙沼市や宮城県南三陸町などが「調査中」と報告している。
通信、交通環境が回復していないことも、安否が確認できない大きな要因となっている。南三陸町で連絡が取れていない安否不明の住民は18日現在、依然として町民の約半数に上る8000人に上る。
佐藤仁町長は「登米方面などに避難している住民は結構いると思う」と、望みをつないでいる。
307
:
チバQ
:2011/03/20(日) 20:45:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110320/ibr11032002170002-n1.htm
東日本大震災 県北地域「見捨てられた」 茨城
2011.3.20 02:17
津波によって流され、土台だけになってしまった岡倉天心ゆかりの「六角堂」=北茨城市大津町
■津波、放射能の不安…足りぬ支援
東日本大震災で津波による犠牲者を出し、家屋が流されるなど大きな被害を受けた県北地域。福島第1原発事故による放射性物質の漏洩(ろうえい)が住民の不安をさらに高めている。一方、深刻な被害を受けた東北地方に比べ、全国的には被災地として認識されておらず支援も十分ではない。住民からは「見捨てられた」と声が漏れた。(前田明彦)
◆六角堂が消失
北茨城市大津町の大津漁港。茨城の冬の味覚、アンコウが揚がることでも知られている。だが、地震発生後の津波に襲われ、漁船や沿岸の家屋も押し流された。その後、住民が戻ると、津波が運んだ茶色の泥とがれきが道路を埋め尽くしていた。
近くには日本美術界の大家、岡倉天心が自ら設計した「六角堂」があったはずだが、津波で流され、今は土台だけが残る。太平洋の海の青色とのコントラストが映える風景が一変していた。
同市のシンボルだった「二ツ島」も木々が流されて岩の表面がむき出しとなり、かつての面影はない。風光明媚(めいび)な場所として知られた北茨城市は壊滅的な打撃を受けた。
◆動くに動けぬ
市内全域で停電していたが電気もようやく回復し、浄水場が復旧して通水も始まった。だが、水道管の破損による漏水などで思うように復旧が進まない。JR常磐線は運休したまま再開のめどは立たず、常磐道も閉鎖。避難所には物資が供給されているが、自分で取りに行けない高齢者やガソリンがないため乗用車を動かせない世帯も多く、生活に必要な物資が十分に行きわたっていないのが現状だ。
同市関係者や市議らは「北茨城市など県内市町村が、国に被災地域として十分に認識されておらず、一部物資は市内から福島県への支援に回された」と口をそろえる。同市内で飲料水や子供用オムツを配っていたボランティアの女性は「国に見捨てられたという思いがある。メディアでも取り上げられず、ここも被災地ということが分かってもらえない」と嘆く。
津波で家財道具が流されたという大津港近くに住む50代の女性も「母と娘の3人暮らしだが、食料も水も十分にない。避難所にはあるみたいだが、ガソリンがなく取りに行けない。家の片付けも進まないし、どうしたらいいのか」と、目を潤ませて訴えた。
◆原発不安も
また、福島第1原発事故も市民の不安を高めている。同市では16日午前11時40分に1時間当たりの放射線量が県内で最も高い15・8マイクロシーベルトを観測。健康に影響はない値とされるが、報道では「通常の300倍」と強調され、住民の不安はピークに達した。親族が原子力施設で働くという女性(46)は「健康に影響はないと分かっているが、いろんな情報を聞くと不安に思う。何かあっても年寄りの父母が家にいて、すぐに逃げることもできない」と嘆く。「健康に影響がないなら市長が『大丈夫です』と広報するだけでみんな安心するのに…」。情報の混乱も地域に深刻な影響を与えている。
308
:
チバQ
:2011/03/21(月) 19:36:05
http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032101000568.html
大震災、死亡・不明2万1千人に 「明治三陸」と同規模
避難所で折り紙をもらう男の子。本やおもちゃなどが全国から届いているという=21日午前、宮城県南三陸町
東日本大震災の死者・行方不明者は21日、午後3時現在の警察庁まとめで2万1911人となり、明治以降、国内最悪の津波被害とされている1896年の明治三陸地震(死者数2万1959人)とほぼ同数となった。
死者は12都道県の8649人、家族が警察に届け出た行方不明者は6県の1万3262人。身元確認を終えた遺体は約4080体で、うち約2990体を遺族に引き渡した。
一方、東北と関東、甲信越、静岡の1都15県に設けられた約2070カ所の避難所には、原発事故の影響などによる避難も含め、約34万人が身を寄せている。岩手県は同日、沿岸部の集落などの孤立状態がすべて解消したと発表した。
厚生労働省は、被災地で高齢者を介護する人員が不足しているとして、約5900人の派遣準備を整えた。老人ホームの入所者も、約2万8千人まで他県などの施設で受け入れ可能という。
地震の発生から11日目となったが、救援物資をめぐる混乱が続いている。約140カ所に1万4千人が避難する仙台市。二十数人が避難する中学校で歯ブラシが600本余った。小学校には冷凍食品が届いたが、停電で電子レンジが使えず、すぐには食べられない状態になっている。
2011/03/21 17:31 【共同通信】
309
:
チバQ
:2011/03/21(月) 20:53:45
http://www.asahi.com/national/update/0320/TKY201103200271.html
避難所満杯で…寒さに耐え30人車中泊 岩手・大槌町(1/2ページ)2011年3月21日13時8分
避難所となった岩手県大槌町の安渡小学校の校庭で、建物からあふれた約30人の避難者が車中泊の生活を続けている。狭い車内で高齢者や幼い子どものいる家族が身を寄せ合う。ガソリンを切らすわけにはいかず、厳しい寒さにもエンジンをかけっぱなしにできない状態が続いている。
同小は災害時に約120人の受け入れを想定していたが、今回の地震直後には千人を超す人が押し寄せた。20日時点でも約400人が教室や体育館に身を寄せている。
自宅が流された会社員村上和浩さん(38)夫妻は4人家族で、6歳と2歳の2人の娘がいる。11日の夜、避難所に着くと、すでに満杯の状態。校舎横のプレハブ小屋に泊まったが、横になることも出来ないほど混み合い、座って一夜を明かした。
「子供が小さいので泣き声で迷惑をかけてしまうと思って」。2日目からワゴン車の中で車中泊を続ける。車内にロープを張ってタオルを干し、運転席と助手席は物置のように使っている。
「4人で毛布をかぶって寝ていますが、それでも寒い。時々エンジンをかけて暖を取っていますが、燃料が少ないから何日続くかわからないですね」
同小の菊池和子校長は「避難できる場所は満杯。校舎の3階は空いていますが、耐震構造に問題があって入れない状態です」と話す。
高齢者がトイレなどで迷惑をかけるとして避難所に入ることをためらうケースも。小川久美子さん(42)は、86歳になる祖母と11日夜から車中泊を続ける。軽自動車で車内は狭い。祖母がなんとか足を伸ばせる程度だ。「(祖母が)夜トイレに立つ時に迷惑をかけることを気にしているので……。電気が通れば頼れる知り合いの家があり、それまでの辛抱です」
避難所担当の職員の中にも、「カーラジオで情報収集するため」と車中泊を続ける人もいた。町職員によると、同校周辺では、道路脇に路上駐車した車内で避難生活をしている人も複数いるという。
現時点では車中泊で体調を崩した人の情報はないというが、2004年の新潟県中越地震では、エコノミークラス症候群が原因の肺塞栓(そくせん)によって車中で死亡した人もいる。(杉村和将)
310
:
チバQ
:2011/03/21(月) 21:34:08
http://www.asahi.com/national/update/0321/TKY201103210268.html
緊急地震速報、的中3割に低下「誤報と思わず身構えて」2011年3月21日21時25分
. 震度5弱以上の地震が来る前に発表する気象庁の緊急地震速報が、東日本大震災後に多発する余震で、精度が落ちている。信頼が損なわれているが、それでも3回に1回ほどは的中しており、専門家らは「大きな余震が続く可能性が高い。誤報と思わず身構えてほしい」と呼びかけている。
緊急地震速報は、震源近くの地震計で最初の揺れをとらえ、瞬時に地震の規模や震度を計算、最大震度5弱以上と予測すると速報する。2007年から運用を始め、震災前までは17回のうち10回で確率は58%だった。
ところが、11日の東日本震災後から20日までに速報は36回出たが、実際に震度5弱以上の揺れがあったのは11回で、的中の確率は約30%となっている。システムが同時に複数の地震を想定していないことが原因で、地震の規模や発生場所を誤って計算して速報が出ることがあるという。すぐに改良する予定は無く、地震後の余震がおさまるまで誤報は続く見込みだ。
速報作りに携わった名古屋大の福和伸夫教授(地震工学)は「テレビでBGMのように連日流れて、オオカミ少年のようになってしまっている」と指摘。当初から巨大地震では限界があることが分かっていたといい、「火の注意、背の高い家具から離れるなど数秒で揺れに備えることができる。システムの限界を理解して、うまく利用してほしい」と話す。
気象庁は「自分の住んでいる地域が速報の対象外でも、地震が来ることもあり得る。誤報と思わず身を守ってほしい」と呼びかけている。(川原千夏子)
.
311
:
チバQ
:2011/03/21(月) 21:44:50
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110321/dst11032120590079-n1.htm
避難所生活 ストレスから些細なことでトラブルも
2011.3.21 20:57 (1/2ページ)
東日本大震災から10日間が経過し、各地の避難所では、避難者の疲労の色が濃くなっている。寒さや空腹などから、避難者のストレスはたまる一方だ。仕方ない事情があるとはいえ、些細(ささい)なことで避難者同士がトラブルになるケースも出ている。当初不足が深刻だった物資などは届き始めたものの、避難者の生活を支える自治体職員は「避難所での支援はまだまだ、一息つけない状態が続いている」と話している。
60代から80代までの高齢者を中心に約400人が集まる宮城県塩釜市の避難所。中をのぞくと、避難者が石油ストーブを囲んでにこやかに話をしているほか、地震直後から炊き出しも始まり、避難所はうまく機能しているようにみえる。
だが、避難所で支援を続ける市役所の男性職員は、「些細なことでいざこざになるケースが増えている」とため息をもらす。「配給される食事の量が人よりも少ない」「私は炊き出しなど避難所の仕事をいろいろ手伝っているのに、座っているばかりで何もしない人がいる」などの苦情が寄せられているという。
トラブル発生の原因は避難所の寒さと空腹、そして終わりの見えない避難生活のストレスとみられている。職員は「普段だったら、こんなことではトラブルにならないのですが…。それだけ避難所での生活が堪えているんでしょうね」と理解をみせる。
宮城県名取市の避難所でも事情は同じだ。食事の配給量や仕事の分担などをめぐって、避難者同士、または避難者と、ボランティアなど支援する側との間にトラブルが散見されるようになったという。
市役所の男性職員は被災者を気遣いながらも、「最初は被害の大きさに呆然(ぼうぜん)としていた人たちも、今は落ち着きを取り戻し、そのようなことが気になるようになってきたのかもしれない。良いことなのか悪いことなのか…。正直、分かりません」と話している。
多くの避難所では、昼夜を問わず複数の行政職員を配置するなど、できる限りの手厚い支援態勢をとることにしている。さらに、心のケアなどの支援も充実させるともいう。
塩釜、名取両市の担当者らは、「職員たちもそれぞれ被災して大変だが、市民が安心して避難生活を送れるよう最善を尽くしたい」と口をそろえている。
312
:
チバQ
:2011/03/21(月) 21:53:13
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110321-00000034-maip-soci
福島第1原発 周辺の津波 14メートル以上の可能性
毎日新聞 3月21日(月)20時25分配信
東京電力福島第1原発周辺で、14メートル以上の津波が押し寄せた可能性があることを21日、経済産業省原子力安全・保安院が明らかにした。設計時に想定した津波の高さの3倍近い。東電と保安院は、津波が原発の安全の根幹にかかわる原子炉の冷却機能を喪失させ、今回の事故につながったとみており、他の原発でも再検証が求められるのは必至だ。
保安院は同日午後の会見で、「津波の高さは一番高い所で(水が)触れたものを見れば分かる。未確認だが、14メートルの高さの駐車場を超えていると聞いた」と説明した。東電が同原発で設計時に想定した津波の高さは約5メートル。津波は浅い海岸付近に来ると波の高さが急激に高くなる特徴があるほか、連続して押し寄せるため、沿岸に到達した津波の高さ以上まで駆け上がる。
今回、同原発では、3号機を襲った東西方向の揺れの強さが507ガル(ガルは加速度の単位)と、保安院が耐震安全の基準値として認めた数値の1・15倍だったのを除き、揺れはおおむね基準値を下回った。しかし、敷地内にある原発に送電するための鉄塔が倒壊。さらに津波の影響で、原子炉を冷やすための緊急炉心冷却装置(ECCS)を駆動する非常用電源が6号機を除いて使えなくなり、外部からの受電設備も水没して事態を悪化させたとみられる。
東電は今回の事故を、設計時の想定を超えて炉心の損傷につながるような「過酷事故(シビアアクシデント)」と認めている。保安院によると、東電は複数の対策シナリオを国の指示で02年に作成したが、津波による被害は考慮されていなかった。国の「原子力白書」でもシビアアクシデント発生の可能性について「工学的には考えられないほど低い」などとしていた。【八田浩輔、山田大輔】
313
:
チバQ
:2011/03/22(火) 21:29:53
http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000001103220008
ただ借金だけ残った−おいらせ町ルポ
2011年03月22日
「ここではもう農場はできない」と話す養豚農家の岩崎徹男さん=おいらせ町二川目
ひしゃげたビニールハウスを片付ける橋本一雄さん=おいらせ町東下川原
太平洋に面したおいらせ町にも11日、南北約7キロの海岸線に津波が到達した。高さ7メートルの防潮堤も乗り越えた津波は、収穫期を控えたイチゴや脱サラ後の夢をかけて育てた豚を次々とのみ込んだ。全壊21棟、半壊6棟など被災した住宅も109棟(18日現在)に上る。住宅以外の建物についてはまだ調査中という。深刻な被害を受けた同町を歩いた。(熊田志保)
八戸市との境、奥入瀬川の河口に位置する同町東下川原地区。海岸近くの畑は海水をかぶり、建物のがれきが散乱していた。
20日の昼間、イチゴ農家の橋本一雄さん(58)がひしゃげたビニールハウスの解体をしていた。ハウス四つが全壊し、植えていたイチゴの苗は海水をかぶった。来年用の苗も失った。「あきらめるしかなかべ」
橋本さんは11日の地震直後、高台に避難して海の方を見た。「もりもりっと白波が一気に向かってきた」。第2波、第3波は海岸線にある7メートルの防潮堤を乗り越え、一帯をのみ込んだ。
地震から10日がたっても畑を踏むと、海水がしみ出る。海水をかぶった畑は元通りになるまで最低3年はかかるという。今も農協からの借金が百万円単位である。そこに被害が追い打ちをかける。「ただ借金だけが残った」
町北部の二川目地区の海岸から約700メートル内陸の養豚場では、経営者の岩崎徹男さん(64)が20日、津波で壊れた豚舎を片付けていた。2150頭のうち1500頭を溺死(でき・し)などで失った。
地震後、4日かけて死骸を1匹ずつ、大人4人がかりで小屋から引き出して処分場に運んだ。生き残った豚の飼育もあきらめ、別の農家に引き取ってもらえなかった100頭は殺処分。「大事も大事な豚。かわいそうだった。でもえさも水もなく飼えない」
同地区は住宅も10棟流された。海岸沿いに設けた防潮堤は岩崎さんの農場から500メートルほど南で途切れ、その切れ目から津波が押し寄せた。砂浜も数十メートルにわたって大きくえぐられている。
「なんで堤防をあそこで止めたのか。1933(昭和8)年の津波でもこの辺は被害が出たと聞いているのに。でも、後の祭りですよ」
脱サラして始めた農業。息子2人が戻ってきて収益も上っていた矢先だった。5棟に広げた豚舎は4棟を失った。「再建といっても個人でできる範囲を超えている。35年かけて積み上げたものを35秒で失った」
同地区の住民会館に設けられた避難所には、竹内のぶさん(75)が息子の敏彦さん(48)と身を寄せていた。木造平屋の家が全壊したというのぶさんは、これからの生活について問われると、こう答えた。「何もなす。思いつかねえなす」
314
:
荷主研究者
:2011/03/22(火) 22:13:10
http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011031901000669.html
2011/03/19 19:00 共同通信
海岸堤防190キロに被害 津波で冠水、復旧進まず
東日本大震災の津波により岩手、宮城、福島3県の海岸にある堤防の延長約300キロのうち、約190キロに全壊や半壊の被害があったことが19日、国土交通省のまとめで分かった。その影響で、海岸に近い平野部が冠水したまま復旧が進まず、排水作業が喫緊の課題となっている。
国交省によると、3県で津波が到達した計約400平方キロのうち、計約150平方キロが同日現在、水浸しのまま。特に宮城県名取市の仙台空港周辺など計約90平方キロが深刻だ。同省は1分間で計100トンの排水能力があるポンプ車数台で排水に当たっているが、追い付かないのが現状だ。
今回のように、平野部低地での大規模な冠水は近年では「前例がない」(同省)だけに、浸水地帯の排水路ががれきで埋まっていないかなど被害状況の詳細を把握した上で、効率的な対策を考える方針だ。
治水対策に詳しい京大の今本博健名誉教授は「(平地の排水作業では)ポンプが空気を吸ってしまう場合がある。例えば土壌を1m程度掘り下げ、周辺の水を1カ所にためることで効率よく排水する方法もある」と指摘している。
315
:
荷主研究者
:2011/03/22(火) 22:26:44
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t75008.htm
2011年03月19日土曜日 河北新報
東日本大震災 余震M5以上262回 広範囲で活発な状態継続
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/uchu/chikyu/2110319s101.jpg
東日本大震災を引き起こした本震から18日で1週間がたった。国内観測史上最大となったマグニチュード9.0の本震の後、M5以上の余震は同日正午までに262回を記録した。余震活動は、過去に例がない活発な状態が続いている。
東北から北海道沖にかけてのプレート境界付近で発生した主な地震の余震回数(M5以上)はグラフの通り。
今回の余震は、日本海溝を震源とする同タイプの地震で、過去最多だった1994年の北海道東方沖地震の2.5倍以上。M6以上だけでも49回を数え、異常なケースとなっている。
震度で見ても、18日午後3時までの震度4以上の余震は57回。規模や発生のメカニズムは異なるが、08年の岩手・宮城内陸地震の11回を大きく上回っている。
気象庁によると、今回の地震は広範囲で規模の異なる余震が頻発しているため、解析が間に合っていない。現段階で有感余震の回数は数え切れてないという。
東京大地震研究所の酒井慎一准教授(地震学)は「余震は断層の端で起こりやすく、今回も本震の震源となった宮城沖よりも、三陸沖や茨城沖で多く発生している」と分析する。
ほぼ同規模の04年のスマトラ沖地震との比較はこれからだが、酒井准教授は「スマトラ沖地震本震の周辺では何年にもわたり、時々大きな規模の地震が起きている」と指摘。東日本全体で地震活動が活発な状態が続いているとして、注意を呼び掛ける。
気象庁は、18日午後3時から3日以内に震度5強以上の余震が発生する確率は30%と予想。18〜21日に発生するM5以上の余震は、数回〜50回程度と見込んでいる。
316
:
荷主研究者
:2011/03/22(火) 22:27:42
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t15012.htm
2011年03月19日土曜日 河北新報
東北大、研究施設に被害観測できず 分析に支障
地震や津波の分野では、全国トップレベルの研究で知られる東北大。通常なら地震の発生直後から、データの解析やシミュレーションが着々と進むが、今回はまだ分析が進んでいない。東日本大震災の激しい揺れで、研究施設が大きな被害を受けたためで、関係者は苦慮している。
今回の地震は、激しい揺れが長時間続いたため、東北大の研究室でも物が倒れたり、戸棚のガラスが飛び散ったりするなどの被害が相次いだ。発生直後は避難や安否確認に追われ、分析どころではなかった。
地震研究の拠点となる東北大地震噴火予知研究観測センターも数日間、施設全体が停電になった。津波で沿岸部の観測機器や通信回線が故障したとみられ、データが入ってこなかった。
地震発生直後、海野徳仁教授(地震学)は「データと情報がなくて、すぐに解析は難しい」と困惑した。
地震に伴う甚大な津波被害は、青森から関東の太平洋岸に及んだ。「あまりに広範囲で、全体像をつかむにも時間がかかる」(津波工学研究者)という。
不明者の捜索活動が続いている上、実際に現場に向かうにもガソリンの確保がままならず、本格的な調査開始にはまだ時間がかかる見込みだ。
317
:
荷主研究者
:2011/03/22(火) 23:03:01
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1103160028/
2011年3月16日 神奈川新聞
東海地震早まる見方も、M7級地震に今後も注意/神奈川
長野県北部に続き、静岡県東部でも最大震度6強の地震が起きた。いずれの地震も、観測史上最大のマグニチュード(M)9・0を記録した東日本大震災で、地殻にたまっていたひずみのバランスが崩れたために発生したとみられる。多くの専門家が「当面は内陸部でM6〜7級も含めて地震が多発する」と指摘。切迫している東海地震の発生が早まるとの見方も出ている。
東大地震研究所の古村孝志教授は「静岡や長野の地震は、震災の影響という点で同じタイプの地震。少なくとも今後1カ月は、こうした地震が各地で起きる」と警戒。「震災で強い揺れに襲われた地域は、その後の地震や余震で建物が損傷したりする恐れが大きい」と注意を呼び掛ける。
「長野、静岡と(地殻の)弱いところから地震が起きている。神奈川県西部や静岡県にかけては地殻構造が複雑なため、今後も地震が起こりうる」と指摘するのは、同研究所の佐藤比呂志教授。「(22万人以上の死者を出した)スマトラ沖地震では、1年以上たってからも大きな余震が起きた」とし、今回の震災の影響は長期に及ぶとみている。
実際、三陸沖地震や東海地震、関東大震災など日本で過去に起きたM8級の「巨大地震」でも、その前後にM7級の「大地震」が相次いで発生した。
しかし今回の震災は、それらの地震規模を大きく上回るM9の「超巨大地震」(県温泉地学研究所の吉田明夫所長)。それゆえ同所長は「日本列島の広い範囲で地震活動が活発化する。今後10年間は影響を見ていく必要がある」と強調する。
一方、気象庁は静岡の地震について、想定されている東海地震とは仕組みなどが異なるとして、同地震の予知を担う判定会を招集しなかった。
判定会委員でもある吉田所長は「東海地震にすぐに影響を及ぼすことはない」としつつも、「震災後の東北や関東沿岸の地震活動の場所が南下している」点に注目。「房総半島で地震が活発化すると、東海地震を起こすフィリピン海プレート(岩板)にも影響を及ぼす可能性がある」と懸念を示した。
「東日本大震災で東海地震の発生が早まった」とみる東海大の長尾年恭教授は「震災によってフィリピン海プレートが押されたとの観測データもある。今後2年間ぐらいは十分な警戒が不可欠」としている。
政府の地震調査委員会は16日、静岡県東部で15日に起きた地震について「東日本大震災の地殻変動が影響した可能性が否定できない」とする評価結果を公表した。想定される東海地震との関連には否定的だ。
318
:
荷主研究者
:2011/03/22(火) 23:14:20
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/231292
2011年3月13日 00:58 西日本新聞
防災マンパワーに懸念 東日本大震災 高齢化、助け合い限界
軒を接して住宅が密集する長崎市の斜面地
東日本大震災は、建物倒壊、巨大津波、火災などにより未曽有の被害をもたらした。斜面地が海に迫り、住宅が密集している長崎市や佐世保市が大地震に見舞われた場合、大きな被害も予想される。県内の備えは大丈夫なのか。
市街地の7割が斜面地といわれる長崎市と佐世保市。狭い道を挟んで住宅が密集しており、地震で家屋倒壊や地滑りが起きるとひとたまりもない。行政による防災対策はなかなか進まず、住民の間には不安の声が強い。
坂の中腹に家がある長崎市西小島の男性(21)は「一軒が倒壊したら連鎖してどんどん崩れそうで心配」と話す。細い路地沿いに住む佐世保市小島町の70代女性も「今回の大地震は人ごとではないと思った」と不安を隠せない。
長崎市によると、老朽家屋の撤去や耐震化の推進、道路整備などを進めているが、斜面地に特化した防災計画はないという。佐世保市にも救助活動が困難な住宅密集地が56カ所あり、火災時の詳細なマニュアルを作成しているが、地震による倒壊は想定していない。
人口減や高齢化が進み防災のマンパワーが弱体化しているのも大きな問題だ。高齢化率43%の長崎市水の浦地区の北田孝俊連合自治会長(76)は「早急に対策を考えなければいけないが、助け合おうにも若い人が少なく、できることに限界がある」と話した。
=2011/03/13付 西日本新聞朝刊=
319
:
とはずがたり
:2011/03/23(水) 13:05:16
東日本大震災:被害額最大25兆円 政府が初の試算
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110323k0000e020037000c.html
東日本大震災と大津波で損壊した道路や住宅、港湾施設などの被害額について、政府が最大約25兆円に上るとの試算をまとめたことが23日分かった。与謝野馨経済財政担当相が同日午後に開く月例経済報告関係閣僚会議に提出する。政府が東日本大震災の被害額を試算するのは初めて。被災地域が広範囲にわたる上、大津波の被害が大きいため、95年の阪神大震災での被害額(10兆円)を大幅に上回る。被災地復興に向けて政府が検討している11年度補正予算の規模も大きく膨らみそうだ。
政府は今回の東日本大震災の被害額試算に当たって、阪神大震災の際の建物の損壊率などを参考に2通りの方法で道路や港湾などインフラや住宅、工場などを対象に被害額を算出。その結果、少なく見積もっても被害額は約16兆円、最大で約25兆円に達する見通しとなった。この試算には、東京電力の福島第1原発の事故に伴う損害などは含まれておらず、最終的にはさらに被害額が膨らむ可能性が高い。
阪神大震災では、政府が3度の補正予算の編成で震災関係対策費約3.2兆円を計上したが、野田佳彦財務相は「(東日本大震災に対する補正の規模は)阪神より大きくならざるを得ない」としており、財源確保も大きな課題となりそうだ。【谷川貴史】
毎日新聞 2011年3月23日 10時59分(最終更新 3月23日 11時13分)
320
:
チバQ
:2011/03/23(水) 21:08:31
http://www.asahi.com/national/update/0323/TKY201103230384.html
届かぬ食材、閉まる店…福島・南相馬、深刻な食料不足(1/3ページ)2011年3月23日20時1分
福島第一原発の北にある福島県南相馬市。放射能を恐れる人が次々と街を離れた。人口7万人の市に、残るのは2万人。物資の輸送が滞り、各世帯の食料は尽きかけている。市の関係者は漏らす。
「このままでは餓死する人が出かねない」
「避難した人も不安、残った人も不安だよ」。同市鹿島地区の農家鈴木浩さん(65)は語る。原発の半径20〜30キロ圏に一部がかかる1万1千人の同地区。残っているのは1300人ほどという。
近隣の店も閉まり、食材は隣の相馬市まで車で20〜30分かけて買いに行く。走行距離は平均40〜50キロ。食事は自分の家で作った米と缶詰、ソーセージなどが多い。
もうすぐ種まきの時期だ。「でも、誰も買わないなら作っても意味がない。どうやって暮らしていけばいいか」
人口7万人の同市は、避難指示の半径20キロ圏▽屋内退避の20〜30キロ圏▽何も指示のない30キロ超の区域――の三つに分断された。市は、避難指示の地区以外も含め、希望する住民を新潟県、群馬県、長野県などにバスで送り出した。
「国には30キロ圏まで避難を指示してほしかった」。桜井勝延市長は残念がる。「屋内退避」という政府の判断が市民の放射線への不安を助長した。「言葉が独り歩きして『南相馬市は危ないのではないか』と思われてしまった」
ガソリンのタンクローリーの運転手が南相馬市のはるか手前で乗り入れを拒んだため、市は大型免許を持つ職員や市民に取りに行かせた。食料品などの生活用品が届かず、スーパーやコンビニが次々と営業をやめ、市全体が深刻な物資不足に陥った。市の関係者は「各家庭の食べ物は底をつきはじめていると思う」と話す。相馬市の相馬総合卸売市場を貸し切って、運送業者が24時間常駐し南相馬市内への食料供給に対応している。ここが命綱だが、届く食料は先細りだ。
南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長は、急患に対応するため、今も病院に残っている。「ここには救急車すら入ってこない。30キロ圏内に入る手前で救急車から自衛隊の車に患者を乗せかえている」と憤る。
暮らしたくても暮らせない。街は風前のともしびだ。
◇
321
:
チバQ
:2011/03/23(水) 21:08:51
一部地域が屋内退避の対象となった福島県いわき市では、市民の流出が止まらない。市は人口34万人のうち、すでに5万人超が市外へ避難したとみている。
23日午前、市内の常磐道いわき中央インターチェンジでは、関東方面へ向かう乗用車が目立った。近くに住む橋本将夫さん(63)は「21日から、ずいぶん車が増えた。みんな逃げてるんだ」。
橋本さんの家の前には飲み物の自動販売機などがある。高速に入る前に立ち寄るドライバーたちと話してみると、みな「放射能が怖いから避難する」と言う。「特に赤ちゃんがいる人は心配しているよ」
11日の地震で通行止めになっていた常磐道は、21日からいわき中央インターから関東方面の通行を再開。ガソリンも届き始め、20日から営業を始めたスタンドもある。待望の燃料だが、マイカーの給油を終えると、そのまま県外へ出る人も。東京行きの高速バスでも満席が続く。
そもそも市域の大半は原発から30〜50キロ圏におさまる。市内の大気中の放射線量も一時高まったが、17日以降は比較的低い水準で推移している。それでも、市は15日、国が20〜30キロ圏に屋内退避を指示した際、広報車や地元FM局を通じて市全域に「外出自粛」を呼びかけた。
鈴木英司副市長(59)は「15日は雨。放射線がどう影響するか分からないなか、原発から30キロ圏の内と外で対応を変えれば、市民が混乱すると考えた」と説明する。
しかし、市民の受け止め方は違った。「国の指示なら『安全圏』なのに、市は危険だと言わんばかり。一体どっちなんだ」。原発から40キロ付近に住む会社役員の男性(64)は怒る。「市の全体が危ないという話が広まった。市民が逃げるような街に物資を届ける人なんかいない」
関東方面から燃料や食料を運ぶ運送会社の中には、途中の福島県郡山市までしか運ばない業者も増えた。市職員や消防隊員が郡山まで荷物を取りに行ったが、ガソリン不足で回数は限られた。
市内はまだ6割の世帯で断水中。「20キロ圏内の住民が私たちの目の前を通って逃げていった。市内には食べ物も水もない。市が『大丈夫です』と言っても説得力がない」。市職員はため息をついた。
ここ数日、徐々に物資が届き始めた。時間限定で営業を再開したスーパーでは、パンや弁当を確保しようと長い列ができた。鈴木副市長は「市全域に外出自粛を呼びかけたのは大げさすぎたかもしれない。だが、国の指示がそもそも中途半端だった」と言う。
◇
一部が屋内退避圏にかかる福島県飯舘村。人口6100人の村には今、ほぼ半数の3200人しか残っていない。
村内では原発事故以降、大気中や栽培するブロッコリーから高めの放射線量や高濃度の放射性物質を検出。23日には、文部科学省が村内の土壌からも高濃度の放射性物質・セシウムを検出したと発表した。
菅野典雄村長は訴える。「なぜこうなったのか、村はどうすればいいのか。国から全く示されず困っている」
村内で不安が高まったのは18日。大気中の放射線量がテレビなどで放送され、時には原発により近い地域よりも高い数値を示した。住民から不安を訴える声が相次いだ。
「どうして今まで隠していたのか」「早く村の外に逃げたい」……。村の幹部会はこの日、「大規模な避難もやむを得ない」として希望者が離村する際の支援策を決めた。
希望する村民と避難指示地域などから村内に退避していた人ら計314人が19日、バスで栃木県鹿沼市に到着。20日にも195人が同市へ逃れた。マイカーで避難する住民にも、20リットル分のガソリンを優先的に給油できるチケットを配布。村に4カ所あった避難所はすべて閉鎖した。
村から鹿沼市に避難した高橋薫さん(40)の一家は、家族8人のうち夫ら3人が村に残る。「家は井戸水だから震災後も苦労はしなかった。でも、夫に『子どもにこれからどんな症状が出るか分からないから』と言われて出た。いつ帰れるんだろう。残してきた家族が心配です」
322
:
チバQ
:2011/03/23(水) 21:15:26
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110318/dst11031809070016-n1.htm
余震も最多、M5.0超247回…被災者ストレス計り知れず
2011.3.18 09:06 (1/2ページ)
未曽有の被害を出した東日本大震災は発生直後から現在まで、規模の大きい余震が多発している。気象庁は20日までにマグニチュード(M)7.0、震度5強以上の余震が発生する確率を40%と予測しており、「1〜2カ月は震度4〜5強の余震が続く可能性がある」としている。
M9.0を記録した東日本大震災のM5.0以上の余震は、発生から6日が経過した17日正午までで過去最多の247回発生した。このうち、M6.0以上の余震も53回とこれまでの地震を上回っている。
同じ海溝型地震では、これまで余震が最多だった平成6年の北海道東方沖地震(M8.2)の2.6倍。内陸型地震だった7年の阪神大震災(M7.3)では、M5.0以上の余震は発生後1カ月間でわずか6回だった。
気象庁によると、今回の地震は、日本列島の東側にある太平洋プレートが列島側の北米プレートの下に沈み続けた結果、巻き込まれた北米プレートの一部が反発して跳ね上がったことで本震が発生した。
しかし、全てが一気に跳ね上がるのではなく、断裂しながら徐々に跳ね上がった際に余震が起こる。今回はプレートが跳ね上がる「震源域」が岩手県沖から茨城県沖の南北500キロ、東西200キロと極めて広範囲。プレートも広範囲で断裂しているため、余震が多いという。
気象庁は「M8.0クラスの震源域でも最大で100キロほど。今回は想像を超えたエネルギーが放出された」としている。
過去最多となった余震は、被災者にどのような影響を与えるのか。地震など自然災害の避難行動の研究で知られる大阪市立大学の宮野道雄副学長(地域防災)は「本震の揺れを経験した被災者は恐怖を引きずっている」と心理的な影響を指摘。「大きな余震が続くなか、家族の安否確認ができない被災者も多く、心理的なストレスは計り知れない」としている。
16年10月の新潟県中越地震では、余震の恐怖から車中に避難し、同じ姿勢で過ごしたため体の血行が悪くなり死に至る「エコノミークラス症候群」の被災者が相次いだ。宮野氏は「被災者が避難所や自宅から車に逃げ込み、エコノミークラス症候群を発症する2次災害を招く事態も想定できる」と懸念している。
323
:
チバQ
:2011/03/23(水) 23:26:27
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110323-00000018-maip-soci
東日本大震災 鳴らし続けた半鐘…消防団11人死亡・不明
毎日新聞 3月23日(水)14時32分配信
津波に流され変形した火の見やぐら(手前)に向かって敬礼する大槌第2分団員。赤い字で「火」などの看板が残り、わずかに原形をとどめている=岩手県大槌町で2011年3月22日、山本将克撮影
東日本大震災で1000人を超える死者・行方不明者を出した岩手県大槌町で、大槌町消防団第2分団(越田弘分団長、28人)の団員たちは、防潮堤の門扉を閉じ、住民を避難させようと最後まで海辺にとどまった。任務を果たした結果、4人が死亡し、7人が行方不明。その中の一人、越田冨士夫さん(57)は団の象徴である「半鐘」を鳴らし続け、津波にのみ込まれた。
海岸に近い大槌町の安渡・赤浜地区。第2分団は地震が起きると真っ先に門扉を閉じる決まりになっていた。11日も団員たちは一斉に防潮堤へ向かった。
「おみゃーは屯所でサイレン鳴らせ」。14カ所ある門扉の1カ所を閉め終わったところで、団員の飛内邦男さん(55)は越田さんからそう指示された。
津波が迫っていた。住民を円滑に避難誘導するには、全域に危険を周知する必要がある。飛内さんはサイレンを鳴らすため近くの分団屯所へ車で向かった。
スイッチは1階。ボタンを押した。鳴らない。地震で町全域が停電し装置が作動しなかった。
間もなくして越田さんが屯所にやってきた。状況を報告すると越田さんは「よし」と一声。屯所の屋上に上がり叫んだ。「早ぐ行げ。みんなを避難させろ」。その時、飛内さんは、越田さんが普段は火の見やぐらから外してある半鐘を手にしているのを見た。これが最後の姿だった。
「カン、カン、カン」。大災害時にだけ使用が許可されている特別な鐘。その乾いた音は遠くまで響いた。当時、数百メートル離れた高台に避難していた元分団長、東梅武保さん(72)は「海の様子が見えていたんではないか。何とも寂しい音だった。今も耳から離れね」。
第1波が到達したのは午後3時20分ごろ。高さ約5メートルの堤防を軽々と乗り越えた黒い波は、渦をまきながら集落をのみ込んだ。同じころ、屯所の近くでは団員10人前後が高齢者の避難を手伝っていた。住民や団員に警報を出し続けた半鐘の音は、津波が屯所に達するまで鳴っていた。
津波が引くと、屯所は建物の基礎部分だけを残し消えていた。変形した屯所のやぐらが、がれきの中から見つかったのは10日後のことだ。
越田さんと半鐘の行方は、今も分かっていない。【鈴木一生、山本将克】
324
:
チバQ
:2011/03/24(木) 21:50:07
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110324t63021.htm
残る2万人“孤立” 南相馬・不明者捜索ままならず
津波の直撃で倒壊した南相馬市原町区沿岸部の老人保健施設。行方不明者の捜索は進んでいない=22日
東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた福島県南相馬市は、東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)の爆発事故も加わり、日常生活が深刻な打撃を受けている。避難指示と屋内退避の区域に入り、物資の輸送は滞りがちだ。行方不明者の捜索も進んでおらず、二重、三重の苦難に直面している。
市の中心部に当たる原町区。市役所前の通りは閑散としている。15日、区のほぼ全域が屋内退避区域(原発から20〜30キロ圏)に入り、市内を歩く人はめっきり減った。
県が同市で毎日実施する放射線量調査によると、1時間当たり2マイクロシーベルト程度。福島市などと比べてもかなり低い。
それでも浜通り地方への輸送を拒む業者が出始め、物資が届きにくくなった。市はやむなく、約4700人を県外に退避させた。自主避難も急増し、人口約7万のうち残るのは約2万だ。
県外のNPOなどの協力で物資不足は徐々に解消されつつある。新潟県小千谷市の「おぢや元気プロジェクト」は22日、食糧や医薬品をワゴン車で運び込んだ。若林和枝理事長(51)は「この程度の放射線量なら服や帽子で防護すれば大丈夫」と呼び掛ける。
市内の大手スーパーは閉じたままだが、JR原ノ町駅前の産直販売「まちなかひろば」は都内などから買い付けた野菜を販売している。
ボランティアで産直を手伝う飲食店経営の宮本力さん(62)は「放射能? 屋内退避? 食べ物もないまま家にこもっていたら、それこそ危ないよ」と笑う。
市によると、22日現在、犠牲者は223人、行方不明者は1260人に上る。津波に襲われた地域ではがれきの撤去が進むが、かつての水田は依然として沼のような状態。泥の中からコンクリートの基礎が露出し、辛うじて住宅跡と分かる。
屋内退避指示と同時に自衛隊は撤収し、行方不明者の捜索は警察と消防が懸命に続けている。
「(不明者を)早く見つけてあげてほしい」。捜索活動を見守っている住民が祈るようにつぶやいていた。
(加藤敦)
2011年03月24日木曜日
325
:
チバQ
:2011/03/24(木) 21:56:33
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0003886863.shtml
16年前と同じ「なぜ」 本紙取材班被災地ルポ
目の前に信じがたい光景があった。津波は町ごと命と営みをさらった=宮城県女川町(撮影・斎藤雅志)
東日本大震災で、本紙取材班が19日から、巨大津波に襲われた宮城県に入った。想像を絶するすさまじい光景だった。がれきの町で肉親を捜す人々がいた。避難所で身を寄せ合う隣人同士がいた。みな懸命だった。その姿は16年前の阪神・淡路大震災と重なった。
名取市の避難所で、毛布にくるまった女性に声をかけられた。「今、何時だか分かりますか」。引地由理さん(42)。遺体安置所行きの定時バスがあるのだが、津波に家をさらわれ、時計も携帯電話もない。「困っちゃって」と力なく笑った。
母は入院中で、70歳の父と2人、海沿いの町に暮らしていた。あの日、父は「俺は近所を見て回る。先に逃げろ」と飛び出していった。それが、最後だった。
父は無事で、私を捜しているはずだ。いや、やはりだめだろう。胸がねじれる思いで、市役所や遺体安置所に毎日通う。車のガソリンは切れた。
そばに老犬がいた。父がかわいがっていたという。地震後、この犬が由理さんから離れようとしないこと、地震前日、父の誕生日を2人で祝ったこと…。不安をはき出すように話してくれた。
「神戸の地震も大変でしたでしょう」。目に涙をためた由理さんが居住まいを正す。「遠くからありがとう。おなかすくから、これ持ってって」。配られたパンとジュースを記者の胸に押しつけた。たまらなかった。
「どうして、こんな目に」「これから、どうすれば」‐。16年前と同じ涙。果てしなく広がる、こんな惨状を再び目にしようとは。どうして。どうすれば。神戸から、東北から、もう一度問い直したい。
(岸本達也)
■尽きない復興への不安
何から伝えていいのか。海沿いの家々は基礎だけが残り、流木や流れ着いた船や車が、泥のたまった田んぼに転がっていた。新興住宅地なのか漁村なのか。がれきの中で泥にまみれた茶わんやスナップ写真、参考書などを見つけた時、ここに人々の平穏な暮らしがあったのだと理解できた。
多数の行方不明者がいる宮城県女川町で、遺体安置所を訪れた男性が取材に応じてくれた。妻と中学3年の娘、義母の安否が分かっていないという。
娘は19日に卒業式を迎える予定だった。「式までには見つけてあげたかった」と腫らした目から涙が流れた。「晴れ姿は見てみたかったな」。絞り出した言葉に、うなずき、メモを取ることしかできなかった。
取材ノートをめくっていると、出会った人の顔が浮かぶ。寺に避難し、寒さに震えていた100歳のおばあちゃん。家族の消息が分からず、独りぼっちで避難している女性。市役所に同級生を捜しに来ていた5歳の女の子。船を流された漁業の72歳の男性…。
記者が阪神・淡路大震災の被災地から来たことを知ると、必ず聞かれることがあった。「何年ぐらいで町、元に戻ったんかね」「みんな戻ってこれたんかね」。皆、復興を強く信じながらも、大きな不安が被災地を包んでいた。
(斉藤絵美)
【特集】東日本大震災
(2011/03/23 11:15
326
:
荷主研究者
:2011/03/25(金) 00:04:05
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201103170027.html
'11/3/17 中国新聞
海岸長い呉市、津波対策強化
東日本大震災を受け、呉市は津波対策を見直す。同市は瀬戸内海に面する自治体の中で最長の約300キロの海岸線を抱え、中でも同市音戸町は、津波などへの備えを強める国の東南海・南海地震防災対策推進地域にも指定されている。市は高台など避難に適した場所の再調査などを進める。
危機管理を担当する市消防局は、避難に適した高台などをあらためて調査する方針。昨年6月に導入した防災情報メールは津波の到来を伝える役割もあるため、現在約3千人の登録者を1万人を目標に増やす。
災害への備えを定める地域防災計画には、津波対策の分野に防災情報メールの活用を盛り込む考え。
広島県の2007年度の調査では、太平洋沖を震源とするマグニチュード8・5の東南海・南海地震が発生した場合、呉市では震度5強の地震が起き、最大約1・1メートルの津波が2時間半で到達すると想定。家屋全壊が309棟、半壊が64棟、津波以外の影響も含めて死者6人、負傷者101人が予測されている。
想定に基づく地域防災計画は、港湾の水門閉鎖のほか、高台や耐震性の高いビルへの避難などを定めている。
327
:
チバQ
:2011/03/25(金) 20:40:50
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103250226.html
南相馬、去るも覚悟 残るも覚悟 避難バスの内と外
2011年3月25日12時59分
福島第一原発から20〜30キロの地域の自治体に対し、政府が住民の自主避難を促すよう要請した。福島県南相馬市では、食料やガソリンが届きにくく、住民の困窮が深刻化するなか、市の避難バス5台が25日午前、計142人を乗せて群馬県草津町に向かった。
同市には(1)「避難指示」の半径20キロ圏内(2)「屋内退避指示」の半径20〜30キロ圏(3)指示のない30キロ以上――の地域がある。これまで人口約7万人のうち約5万人が県内外に避難。指示が出た後、市内のスーパーやコンビニエンスストアが閉まるなど物資不足が続き、桜井勝延市長は(2)(3)の住民にも自主的に避難するよう促してきた。
バスは市内5カ所から出発。その1カ所、鹿島中学校前では大型観光バスに20人が乗り込んだ。
同市鹿島区に住む阿部豊さん(50)は、バスに母のアヤ子さん(88)と妻の由美子さん(50)、長男太輔さん(25)の3人を乗せ、見送った。「勤め先の建設会社の事務所は屋内退避地区にあり、今は仕事はないが、復興が始まれば仕事ができる。南相馬の復興のために残ることを決めた。家族が一時的に離ればなれになるのはしかたがない」と目を赤くした。
避難所で暮らす森由美子さん(42)は子どもたちと一緒に涙を流して知人を見送り、手を振った。「みな避難所で家族のように暮らしてきた。それぞれの決断なので仕方がない。大黒柱の夫が南相馬に残ると決めたので、私たちはついていく」
市は16〜20日の5日間で約4700人をバスで送り出している。24日には市内9カ所で住民説明会を開催し、「(避難バスは)今回が最終なので可能な限り避難を」と呼びかけていた。
同市鹿島区での説明会には、避難所となっている中学校の体育館に約300人が集まった。「手荷物は着替え、当座のお金など必要最小限にとどめてください」「飼い犬はえさと水を十分与えてつないだままにしてください」などと注意事項を書いた資料が配られ、職員が「自らの判断で決めてほしい」と説明。住民からは「残る人のためにしっかり行政を組織して」との要望が出た。
説明会の後、避難を決めたのは300人中11人。測量会社員の遠藤政秀さん(55)はいったん横浜市の親類宅に避難し、戻ってきた。「避難先に長期で世話になることは避けたい。食料は自分で調達できる。母親もまだ見つかっていないから捜したい」と残ることを選んだ。
一方、一人暮らしの加藤邦男さん(76)は避難を決めた。「ずっといた場所から離れるのは寂しいが、1人で残っていると周りのみんなに迷惑をかけることになるから」と語った。(矢崎慶一、岩崎賢一、下地毅)
328
:
とはずがたり
:2011/03/26(土) 01:05:23
おかんが古い非難袋をウン十年ぶりにあけて調べているが,84年が賞味期限の乾パンとか出てきて見覚えあって可成り懐かしいけど,四半世紀前のだと思うと最早歴史的な凄みがある。
おかんは乾パンの缶詰をまだ大丈夫だら,とか云って再び非難袋にしまい込んでいるけど大丈夫かやあ。。
因みに現金も出てきたが伊藤博文が懐かしい。
単三電池は液漏れした液が既に蒸発して白っぽい粉ふいている。。
329
:
とはずがたり
:2011/03/26(土) 01:19:40
なんか飯舘村はしょっちゅう名が挙がるね。風向きの関係か。
[放射性物質]雑草からセシウム265万ベクレル 飯舘村
毎日新聞
2011年03月24日22時44分
提供:毎日新聞
http://news.livedoor.com/article/detail/5438705/
文部科学省は24日、福島第1原子力発電所から北西約40キロの飯舘村で20日採取した雑草から1キログラム当たり254万ベクレルの放射性ヨウ素、265万ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。文科省は「データを再検討するが、家畜が食べた場合は影響がある可能性が高い」と説明した。定時降下物(雨やちりなど)からは、西日本の島根県でも微量の放射性ヨウ素が検出された。
文科省は18〜21日に原発から25〜45キロの6市町村の雑草を調査。飯舘村以外の放射性ヨウ素、放射性セシウムの最高値(単位ベクレル)は▽南相馬市(49万7000、2万4900)▽いわき市(69万、1万7500)▽川俣町(30万8000、13万8000)▽田村市(7万5700、5万)▽小野町(20万1000、7万3800)。
23日に8地点で採取した土壌調査でも飯舘村が最高値で、それぞれ20万ベクレル、4万5000ベクレルを検出した。
23日に初めて採取した原発沖約30キロの海域8カ所の海水1リットル当たりからは、放射性ヨウ素24.9〜76.8ベクレル、放射性セシウム11.2〜18.2ベクレルを検出。水中濃度限度は各40ベクレル、90ベクレルで、放射性ヨウ素が3カ所で限度を上回ったが、文科省は「すぐには影響はでないが、海洋生物への蓄積も考えられ長期的な調査が必要」と分析した。
23日採取の水道水1キログラム当たり、10都県で放射性ヨウ素0.75〜56ベクレル、6都県で放射性セシウム0.13〜9.3ベクレルを検出。24日午前9時までの24時間の定時降下物は1平方メートル当たり、13都県で放射性ヨウ素0.96〜1万6000ベクレル、11都県で放射性セシウム4.7〜210ベクレルを検出した。
モニタリングポスト(自動観測局)での大気中の放射線量は、24日午後5時時点で山形、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川の8都県で通常値を超えた。福島県では24日、原発から25〜60キロの屋外27カ所で計測。1時間当たりの放射線量が最高だったのは浪江町(北西約20キロ)の106マイクロシーベルト。23日午前に103マイクロシーベルトだった飯舘村(北西約32キロ)は30マイクロシーベルトに下がった。【篠原成行】
◇家畜が食べれば影響も
飯舘村の雑草から検出された高濃度の放射性物質の数値について、野口邦和・日大歯学部専任講師(放射線防護学)は「同じ地域の野菜や土壌にも同じように放射性降下物が付着しているだろう」と分析。唐木英明・元東大アイソトープ総合センター長(獣医学)も「かなり高い濃度。もし畜産牛が食べれば牛乳や肉からも検出されるだろう」と話す。
農林水産省は19日、東北、関東の畜産農家に▽原発事故の前に刈り取った飼料を使う▽家畜の飲用水には水道水や井戸水を使う▽当面は放牧をやめる−−ことを呼びかけており、汚染された牧草を畜産牛が食べる可能性は現時点では低いとみられる。飯舘村は高級和牛ブランド・飯舘牛を育てる畜産農家が多いが、村産業振興課は「雑草を食べることはあり得ない」と話す。
野口氏は「今後農作物を作ったり人が立ち入っても大丈夫なのか。現在の避難・屋内退避エリアでいいのかも検討した方がいい」と話し、政府に更に詳しい調査を求めている。【小島正美、五味香織】
330
:
とはずがたり
:2011/03/26(土) 02:33:49
東日本大震災:津波憎い 入学目前、孫さらわれ 気仙沼
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110326k0000m040126000c.html
水色のランドセルを背負って、4月からの小学校を楽しみにしていた。あどけない笑顔がまぶたを離れない。宮城県気仙沼市・大島の大崎喜久夫さん(67)とツタヨさん(60)は、たった一人の孫娘、緑ちゃん(6)を目の前で津波にさらわれた。生後2カ月から親に代わって育ててきた緑ちゃん。小学校で友だちをいっぱいつくると言っていた孫が、突然消えてしまった。「もっと早く避難していれば」。2人は島を襲った津波を恨み、自分たちを責めた。【喜屋武真之介】
大崎さん夫婦は04年に、現在福島県に住む長女(33)から緑ちゃんを託された。長女は家庭の事情で大島を離れなければならず、長男と次男を亡くしていた大崎夫妻は、緑ちゃんを実の子のようにかわいがった。
「親ばかかもしれないが、活発で、みんなから愛されるかわいい子だった」。保育所で覚えた歌や踊りを家に帰るとさっそく披露した。
入学に備え、夫婦は緑ちゃんに、欲しがっていた水色のランドセルをプレゼントした。緑ちゃんはとても気に入り、自慢げに背負ってみせた。勉強机も発注したが、その机が届く前に地震が来た。
強烈な揺れの直後、夫婦は津波を考え、保育所にいた緑ちゃんを車で連れて帰った。自宅は大島の中央付近で、東西の海岸からは数百メートルほど離れている。高台に逃げようとも思ったが、大崎さんは「おそらくここまでは来ない」と考え、家の前に止めた車にツタヨさんと緑ちゃんを乗せて待たせ、倒れた仏壇の花瓶や位牌(いはい)を直していた。「判断が甘かった」と大崎さんは悔やむ。
津波は東西両岸から一気に押し寄せてきた。大崎さんはとっさに家を出て高台に走って逃げたが、ツタヨさんと緑ちゃんは車ごと津波にのまれた。いったん波が引き、2人は車から逃げ出したが、すぐに次の波が押し寄せ、別々の木にしがみついた。気が付くと緑ちゃんの姿はなく、間もなくツタヨさんものみ込まれた。「濁流のなかで上も下も分からず、潮の味と油のにおいでいっぱいだった。これが地獄だと思った」。ツタヨさんは偶然、建物の屋根に足がつき助かった。
夫婦はずぶぬれになりながら声をからして緑ちゃんの名を呼び、必死に捜したが、見つからない。避難所や親戚の家に身を寄せながら、今も家の近くや海岸で孫の姿を捜し続けている。
「朝、目を覚ますと、いるはずの緑がいない。それがつらい」と大崎さんは声を詰まらせる。ランドセルも鍵盤ハーモニカも筆箱も、みんな流された。「なぜあの時、すぐに逃げなかったのか」と何度思ったことか。ツタヨさんは「何もいらない。緑に帰ってきてほしい」と繰り返した。
長女は1、2年後には大島に帰り、4人で暮らす予定だったという。地震後、安否を心配する手紙が届き、緑ちゃんが行方不明になっていることを伝えた。ショックを受けたのか、長女からの返事はまだない。
毎日新聞 2011年3月25日 21時42分(最終更新 3月25日 21時57分)
331
:
チバQ
:2011/03/26(土) 13:47:00
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011032502000192.html
「じいちゃん置いていけねえ」 津波迫る病室 夫婦は残った
2011年3月25日 夕刊
4階まで水に沈んだ志津川病院=24日、宮城県南三陸町で
「じいちゃんを一人で置いていかれねえ」。病室で寝たきりの夫と、看病していた妻に巨大な津波が迫った。宮城県南三陸町の志津川病院。佐藤いつよさん(81)は「上の階へ逃げよう」という看護師の手を振りほどき、夫の猛さん(91)と三階の病室に残った。まもなく濁流が二人をのみ込んだ。 (森本智之)
猛さんは十代のころから漁師として海に出ていた。二十七歳で隣町に住むいつよさんと結婚。三陸沖でワカメやアワビを採りながら三男一女を育てた。「とにかく厳しい漁師だった」と長男新悦(しんえつ)さん(60)は振り返る。
猛さんは三年前、自宅で転倒して脚を悪くした。以来、いつよさんが片時もそばを離れず、食事や排せつの世話をした。もともと内臓に持病のあった猛さん。体調が悪化して入退院を繰り返し、今月一日から再び志津川病院に入院した。
家族がワカメ漁に追われる中、いつよさんが付ききりで看病し、夜は病室の床にふとんを敷いて眠った。看護助手の西城晃子さん(37)は「私たちが食事を食べさせてあげようとしても、少し口にするだけで『もういらん』と言って、それ以上は絶対に食べない。その横で、おばあちゃんは『私でねえど駄目なんだ』っていっつも笑ってた」と言う。
十一日の巨大な揺れの直後、町中に防災サイレンが鳴り響いた。病院は五階建て。職員らが屋上への避難を呼び掛けて回ったとき、窓の向こうに、濁流に押しつぶされた家屋が真っすぐ迫っていた。職員らは患者の手を引いたりおんぶしたりして、階段を駆け上がった。
「三階まで波が来るわけねえ」。避難を呼び掛ける職員の声に、猛さんはこう言って拒んだ。
女性看護師が「おばあちゃんだけでも」と、いつよさんの手を引っ張って連れ出そうとしたが、動かなかった。「一人で置いていかれねえ」。猛さんのベッドにしがみついた。
津波が引いた後、病室に二人の姿はなかった。病院は四階まで水に沈んだ。「申し訳ない、申し訳ない」。女性看護師が泣きながら家族にわびた。
新悦さんは「ばあちゃんは、じいちゃん一人置いてわしらの所に帰れるかって思ったんだ。ばあちゃん、じいちゃんの面倒を見てくれてありがとう」と言って拝むように手を合わせた。
志津川病院では入院患者百九人のうち、死者・行方不明者は約八十人。猛さんといつよさんの行方も分からないままだ。屋上に避難した約三十人は翌朝、自衛隊のヘリで救助された。
332
:
チバQ
:2011/03/26(土) 13:59:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110326-00000019-mai-soci
<東日本大震災>「愛犬だけでも」夫亡くした女性 仙台
毎日新聞 3月26日(土)9時56分配信
愛犬のコロの毛布を見つけた愛子さん=仙台市若林区荒浜で2011年3月24日午前8時7分、浅妻博之撮影
仙台市若林区荒浜の海沿いに続く松林を午後2時半から午後3時にかけて愛犬のコロと散歩するのを日課としていた大友昇さん(74)が24日、遺体で発見された。妻愛子さん(68)らは悲しみと安堵(あんど)が入り交じった表情を浮かべたが、コロは見つかっていない。愛子さんはがれきの中から見つけたコロの毛布を自宅跡に置いてきた。「もしかしたらコロちゃんがにおいを頼りに家に戻ってくるかも」
大友さんの家族に遺体発見の知らせが届いたのは、25日午前9時ごろ。自宅から約1キロ離れたがれきの中で見つかった。遺体安置所で2週間ぶりに昇さんと対面した愛子さんは「普段寝ている時の顔。きれいな顔でした」と話した。
海岸から約200〜300メートルのところにある自宅は大津波で破壊され、土台が残るだけ。朝昼の散歩を日課としていた昇さんは、コロと大津波にのみ込まれた可能性がある。愛子さんら家族4人は外出中だった。
柴(しば)犬のコロを飼い始めたのは7年前。前に飼っていた犬が死んで1週間もたたない時だった。長男の竹博さん(41)は「犬を飼うのは6匹目で反対したけど。孫が生まれる前で寂しかったみたい」と父の気持ちを代弁する。1年後、家族の関心は生まれたばかりの孫に移ったが「お父さんだけはコロの面倒を見ていたの」と愛子さんは振り返る。
昇さんは夕方になると、車の後部座席を倒してコロを寝かせた。座席に段ボール、さらに毛布を敷くなどして寝床を作った。底冷えするとコロが寒くて眠れないと昇さんが考えたという。
被災後、がれきの中を捜し続けた愛子さんは偶然、自宅隣の畑でコロの毛布を見つけた。ふかふかだった毛布も海水で湿って重く、泥だらけになっていた。愛子さんは望みを捨て切れない。「避難先に持っていきたい」という気持ちを抑え、コロの毛布をそっと自宅跡に残した。【浅妻博之】
333
:
荷主研究者
:2011/03/27(日) 21:48:18
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110323-00000114-mai-soci
2011年3月23日(水)20時36分 毎日新聞
<東日本大震災>津波、北上川15キロ遡上…航空写真を解析
家屋をのみ込み、押し寄せる津波=仙台新港付近で2011年3月11日午後3時56分、本社ヘリから手塚耕一郎撮影
東日本大震災で甚大な被害をもたらした津波で浸水した地域の全体像が、国土地理院による航空写真の解析で明らかになった。宮城県から福島県にかけて広い範囲で海岸から数キロ浸水していた。東北沿岸の気象庁の検潮所からのデータ転送が津波の影響で止まった影響で分からなかった津波の高さも、研究機関の現地調査で徐々に明らかになってきた。
地理院は青森、岩手、宮城、福島の4県の沿岸を対象に、今月12、13、19日に撮影した航空写真約2000枚を、過去の写真と照らし合わせて浸水地図を作成した。それによると、牡鹿半島(宮城県)の付け根から福島県中部にかけた沿岸約110キロの広い範囲で、海岸から最遠5キロの地点まで水が達したほか、被害の大きかった宮城県石巻市を流れる北上川では、河口から津波が15キロ以上遡上(そじょう)していたことが確認された。
浸水面積は、東京都内のJR山手線に囲まれた面積の約6.3倍に相当する399平方キロ(速報値)と推定。県別では宮城が最も広く282平方キロで、福島67平方キロ▽岩手47.5平方キロ▽青森2・5平方キロと続いた。福島第1原発周辺の浸水状況は、放射性物質漏えいの影響で上空からの撮影ができなかったため現時点では不明だ。
三陸の多くの自治体では、宮城県沖地震と周辺が震源の地震が連動した場合を想定した津波のハザードマップ(被害予測地図)が作られている。だが、今回の地震は予測地図で想定されたマグニチュード(M)8.0を大きく上回るM9.0の巨大地震だったため、予測した浸水域を大幅に上回った。解析した地理調査部の北原敏夫・企画課長は「コンクリート造りの建物だけを残して壊滅状態の集落も点在している。津波災害としては例のない大規模なもの」と指摘。今後、被害と津波の高さ、地形との関係などの分析を進める。
一方、港湾空港技術研究所の現地調査によると、岩手県大船渡市の山沿いで駆け上がった津波が海面から23メートルの高さに達していた。沿岸での津波の高さは十数メートルとみられる。
同研究所の有川太郎・主任研究官(津波工学)によると、三陸のような狭い湾が入り組んだリアス式海岸は津波が高くなる。7〜8メートルの津波が逆V字形の湾奥に入るにつれてエネルギーを増し、2倍以上の波高となった可能性があるという。
有川さんらは、仙台平野を流れる名取川周辺でも海面から高さ最大12.2メートルの浸水跡を確認した。有川さんは「これまでの研究が無力だと思えるほどの惨状だった」と話す。
牛山素行・静岡大防災総合センター准教授(災害情報学)は「東海地震など今後の地震を考えれば、従来の想定では津波対策が不十分な地域がかなりある。避難場所をさらに高い地点に移したり、堅牢(けんろう)な4、5階建ての津波避難ビルを建てるなど、ハードとソフトの両面で対策を取るべきだ」と指摘する。【八田浩輔、西川拓】
334
:
荷主研究者
:2011/03/27(日) 21:59:53
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110324t71005.htm
2011年03月24日木曜日 河北新報
仮設住宅建設本格化 宮城・岩手・福島で5万戸整備へ
校庭で建設が進む仮設住宅=23日、陸前高田市の第一中学校
東日本大震災により多くの住宅が壊滅的な被害を受けた宮城、岩手、福島の3県は、被災者が暮らす住宅の確保対策を重点的に進めている。3県が必要と見込む住宅総数は計5万戸近くに上る見通し。対策の柱となる仮設住宅について宮城県は23日、月内に第1次整備分の約1000戸を着工すると発表した。福島県は同日、国見町で建設を始め、既に着工している岩手県は新たな整備地の選定を進めている。
各県が被災者向けに必要と見込む住宅数は宮城が2万戸以上、福島も約2万戸、岩手は約8800戸。仮設住宅を建設するほか、既存の公営住宅なども活用する。
宮城県は仙台、石巻、塩釜、気仙沼、名取、多賀城、岩沼、東松島の8市と亘理、山元、七ケ浜、女川、南三陸の5町で先行的に整備する。
仙台市は大規模再開発が進むあすと長町地区(太白区)に整備すると発表した。他の12市町についても、近く建設地が公表される。
入居者は、各市町が被災者に意向確認して決定する。高齢者や障害者、妊産婦、乳幼児を抱える家庭を優先する方針。2DK(約30平方メートル)の標準タイプのほか3K、1DKも用意する。
福島県は23日、国見町で43戸の土台部分のくい打ちを始めた。取り急ぎ300戸を整備する方針で、相馬市や新地町でも近く着工する。
既に陸前高田、釜石両市で建設が始まっている岩手県は、市町村から上がった候補地の安全確認などを進めている。3月中に宮古市などでも整備に着手する。
しかし3県とも、安定的な住宅供給のめどは立っていない。ガソリン不足のため建設地までの資材の運搬が難しい上、建設作業員の宿泊地や食料などの確保が難航しているからだ。
宮城県は第1次整備分の資材は確保したが、輸送手段と人員の確保が遅れている。通常なら仮設住宅は3週間程度で完成する。しかし状況が改善されなければ、入居まで1カ月以上を要する可能性もある。2万戸以上を整備するには、1年以上かかる見通しだ。
村井嘉浩知事は「必要な仮設住宅は必ず準備する」と強調。避難所暮らしの長期化を防ぐため、民間の賃貸住宅や公営住宅の利用、県外への一時的な集団避難などを促す考えを示している。
335
:
チバQ
:2011/03/27(日) 22:00:51
>義援金の配分額は、寄せられた金額と被災者の規模によって変わる。阪神大震災では約1793億円の義援金が集まったが、被災世帯が多かったため、1世帯当たりの平均は約40万円の配分にとどまった。これに対し、16年の新潟県中越地震は約216万円、2年の雲仙・普賢岳(長崎)の噴火災害では約3219万円が渡されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110327-00000546-san-soci
.過去最高の義援金どう配分「早く届けたいが公平性も…」
産経新聞 3月27日(日)19時20分配信
東日本大震災の被災者に向けて全国から多額の義援金が寄せられる一方、配分の見通しが立っていない。被災地が広範囲に渡る上、被害の全容が見えてこないためだ。
「今回は阪神大震災の2倍以上のペースで善意が寄せられている」
日本赤十字社(東京)の担当者はそう話す。平成7年1月17日に発生した阪神大震災では発生2週間で日赤に義援金約164億円が集まった。一方、東日本大震災では25日までに、これを大幅に上回る約401億円もの善意が寄せられた。
通常、日赤や「赤い羽根共同募金」で知られる中央共同募金会などに集まった義援金は、被災した都道府県が設置する「義援金配分委員会」に全額渡される。委員会には市町村や日赤なども加わって分配対象や金額を検討し、被災者に行き渡るようにするという。
兵庫県によると、阪神大震災では発生1週間で同県が設置した配分委員会に大阪府の被災自治体も参加。発生から半月後には第1次配分として、死者・行方不明者1人当たり10万円の見舞金を家族に配布した。
一方、東日本大震災で、配分委員会を立ち上げた自治体はまだない。被災の全容が分からず、配分を決められないためだ。宮城県社会福祉課は「なるべく早く被災者の元に届けたいが、公平に渡すことも重要。把握できない被害もあり、今分かっている方々だけに渡すのは難しいことも理解してほしい」という。
被災地が広範囲にわたっていることも問題を複雑にしている。20年6月の岩手・宮城内陸地震では、両県がそれぞれ委員会を立ち上げ、義援金は被害状況に応じて両委員会に渡された。
ただ、今回は被害が甚大な岩手、宮城、福島の3県以外にも、被災者が複数の道県にまたがっている。ある自治体の担当者は「被害が甚大な3県が協力、調整して委員会を立ち上げ、そこに他県の自治体が参加し、義援金を受け取る方向で調整が進められている」と話している。
義援金の配分額は、寄せられた金額と被災者の規模によって変わる。阪神大震災では約1793億円の義援金が集まったが、被災世帯が多かったため、1世帯当たりの平均は約40万円の配分にとどまった。これに対し、16年の新潟県中越地震は約216万円、2年の雲仙・普賢岳(長崎)の噴火災害では約3219万円が渡されている。
336
:
チバQ
:2011/03/30(水) 12:34:38
http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290249.html
市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校
2011年3月29日17時6分
岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。
海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。
親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。
平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。
市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。
非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。(其山史晃)
337
:
チバQ
:2011/03/30(水) 20:09:09
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110331k0000m040028000c.html
東日本大震災:那珂は震度4→震度6強…各地の震度見直し
気象庁は30日、11日午後2時46分に発生した東日本大震災の本震について各地の震度を見直したと発表した。震度4としていた茨城県那珂市を震度6強、横浜市神奈川区を震度3から震度5強に変更した。同庁ホームページ(
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
)で詳細を掲載している。
338
:
チバQ
:2011/03/31(木) 00:02:26
http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=13013169757367
年3月29日(火)
明確な避難指示 大洗・ひたちなかで津波犠牲者なし
【写真説明】
町役場前まで押し寄せた津波で、車両も流された=11日、大洗町磯浜町(大洗町提供)
東日本大震災で、4メートル以上の津波が押し寄せた大洗町、隣のひたちなか市那珂湊地区では、津波による人的被害はなかった。津波の高さが東北地方沿岸と比べて低かったことや地震発生から第1波到達まで30分あったこと、さらに防災無線や複数の機関による避難指示が明確だったことが相乗効果を生んだようだ。
神磯の鳥居の見える大洗海岸の前に立つ大洗シーサイドホテル3階海側で、今回の津波を体験した同ホテルの社長の石井藤一郎さんによると、神磯一帯は地震発生直前、海水が引いて海底が露出し、カジメと呼ばれる赤い海藻が見えたという。
大洗町災害対策本部によると、大洗の津波第1波は11日午後3時15分。津波の高さは1メートル80センチ。地震発生から約30分後だった。最大の津波4メートル20センチは同4時52分だった。
地震発生時、同町磯浜町の大洗かもめ保育園(江橋喜久雄園長)では120人の園児が午睡の最中だった。直後に、防災無線が「津波です。避難、避難してください」と呼び掛け、間もなく「大津波。避難命令、避難命令」と切迫したアナウンスを繰り返した。
この間、フェリーの津波襲来を知らせる警笛が間断なく鳴った。保母24人が分担して園児を園庭に集合させた。
「職員室に漁業のお宅から『フェリーの津波警笛が鳴っているから逃げろ』の電話が数本あった。子どもたちを乗せた避難車を押して役場まで集団で逃げた。ちょうど福祉バスがあって避難所へ送ってもらった」と主任保母の山本福子さん(55)。
同じ磯浜町の住民は「母親から聞いた50年前のチリ地震の時の津波の話が頭にあった。揺れが尋常じゃなかったので、すぐ津波を心配した。防災無線やフェリーの警笛が役に立った」と話す。
小型船は一斉に沖に避難。フェリーは保安要員約20人を乗せたまま間一髪緊急出港し北海道に向かった。
町職員は手分けして海岸沿いの大型施設に避難連絡に走る余裕があった。小谷隆亮町長は「防災無線、海上保安部、船会社の対応が連携していた」と振り返る。町がハザードマップで想定した範囲の浸水だったのも幸運だった。
一方、那珂川を挟んで対岸のひたちなか市那珂湊地区。津波は漁港ドックの岸壁を乗り越え、岸壁を回り込むようにして押し寄せたという。
防災無線の放送のほかに、街頭に津波避難を呼び掛ける車、パトカーが「3メートルの津波が来る」と拡声器で知らせながら走った。「那珂湊おさかな市場」近くの水産会社社長、礒崎仁孝さん(73)はこれで津波襲来を知った。
町内会の組長の主婦は近所7、8軒に津波を知らせに回ったという。防災無線を聞いて避難した住民も多い。
同市は昨年5月の2日間、那珂湊地区で防災会議を開いた。防災担当の市市民安全課の佐藤和幸課長(60)は「地域に自主避難計画を作ってもらい、いろいろ意見を聞いたのも幸いしたのではないか。その際に50年前のチリ地震津波の話も出た」と、防災意識が高まっていたことも指摘した。
339
:
荷主研究者
:2011/04/01(金) 00:08:19
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20110327/CK2011032702000120.html
2011年3月27日 中日新聞
故郷、浜松で募金を訴え 被災の東北大生
被災者のために何かしたいと募金活動を続ける東北大の学生=JR浜松駅前で
東日本大震災で被災した浜松北高校出身の東北大(仙台市)の学生が、帰省した故郷で集結。被災者のために力になりたいと募金活動をしている。
「自分が仙台にいて食料を消費しても仕方ない。浜松でなら、こうして募金もできる」。2年の袴田旺弘さん(20)は、実家から送られていたカップめんや缶詰を仙台に残らないといけない友人に渡して浜松に戻った。
仙台市中心部も食べ物がなかった。わずかに開いているコンビニやスーパーには長蛇の列ができ、店に入るまで数時間かかった。買う数にも制限があった。「一番大変だったのは自宅の食料がなくなる被災3、4日後。でも何も届かなかった」と苦しみを話す。
募金活動は、同じく浜松に戻った3年の袴田崇弘さん(20)ら数人が連絡を取り合って計画。24日に7人でJR浜松駅前で始めた。26日は約10人が集まり、27日も続ける。
袴田崇弘さんは「仙台にはまだ友人がいる。浜松に戻って何もできないのも」と仲間と支援方法を考えた。
募金活動の責任者で、仙台市内で被災した3年江藤弘章さん(21)は3日かけて避難所を回り、サークルの仲間60人の安否を確認。災害ボランティアとして数日間高齢者宅の片付けや避難所の運営手伝いに携わった。
「仙台ではいろんな人にお世話になった。来月戻ったらまたボランティアに加わる予定です」と話し、冷たい風が吹き付ける中、何度も支援を呼びかけていた。
(並木智子)
340
:
荷主研究者
:2011/04/01(金) 00:31:17
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110327t33032.htm
2011年03月27日日曜日 河北新報
38.2メートル大津波の教訓生かす 大船渡・綾里白浜
25メートル前後の津波が到達した大船渡市の綾里白浜地区。防潮堤が破壊され、陸地に飛ばされた
明治三陸大津波(1896年)で国内観測史上最高の38.2メートルの津波を記録した大船渡市綾里白浜。東日本大震災でも25メートル前後の津波が押し寄せたとみられるが、地区住民のほとんどが過去の教訓を生かして高台に住み、被害を免れた。
綾里白浜が湾奥部にある綾里湾はV字形の湾。外洋に面した湾の入り口の幅は約4キロあるが、湾奥部は500メートルに狭まっている。津波が奥に入り込むにつれてエネルギーと水かさも凝縮されるため、津波が強大化する。
住民の話や流された漁具などの形跡から判断すると、震災での津波は海岸から水田を駆け上がった後、水田と約3メートル上にある県道との間ののり面にぶつかり、収まった。県道は標高30メートル前後を通っていることから、津波は25メートル前後まで到達していたと推測できる。
小学生の時に昭和三陸津波(1933年)を体験した熊谷サワイさん(85)は「昭和三陸津波とほぼ同じ場所まで波が上がった。怖くて、家が流された70年以上も前の記憶がよみがえった」と語る。
威力も壮絶だった。湾内に沈められた約3メートルの巨大な消波ブロックが浜辺に打ち上げられた。浜辺を囲んだ高さ約3メートル、幅約1メートルの分厚いコンクリートの防潮堤は20以上に細切れにされ、200メートルほど吹き飛ばされていた。
だが、約60世帯が住む綾里白浜地区は家屋の浸水さえなく、人的被害はゼロ。昭和三陸津波の後、住民は津波の到達点より高い場所に自宅を再建した。世代が代わっても津波が通る経路や到達点が語り継がれ、地区全体で昭和三陸津波クラスの津波に備えていたという。
昭和三陸津波で親族が犠牲になった沢武雄さん(76)は「今回の津波は昭和よりもずっと大きかった。分厚い防潮堤が津波の力を弱めたはずだ。それがなかったら、被害が出ていたかもしれない」と冷静に分析した。(中村洋介)
341
:
チバQ
:2011/04/02(土) 00:48:39
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110329/lcl11032913240000-n1.htm
命の限り叫び続けた 防災放送の女性職員、結婚式控え安否不明 母「頑張ったね」
2011.3.29 13:19 (1/2ページ)
津波に襲われ鉄筋の骨組みだけが残った防災対策庁舎。遠藤未希さんは2階から放送で避難を呼び掛けていた=26日、宮城県南三陸町
大きな揺れの後、津波の来襲と高台への避難をひたすら呼び掛け続けた。東日本大震災で、津波に押しつぶされた宮城県南三陸町で防災放送の担当職員だった遠藤未希さん(24)。いまだ安否が分からない。「しっかり頑張ったね。でも、何も命を張ってまで…」。いたわりと無念さに揺れる母親。秋に結婚式を控え、準備を進めていた。
「ないよね」。避難所に張り出された身元不明者、死亡者の特徴を書いた紙を指で追いながら、母親の美恵子さん(53)がつぶやいた。震災から2週間以上が経過し、更新される情報も日に日に少なくなっていく。
震災翌日から2日間はがれきの中を歩き続けた。「見つけられなかった。自分たちの手ではどうしようもなかった」。隣に寄り添う父親の清喜さん(56)はうなだれた。
3階建ての防災対策庁舎は津波にのまれ、赤い鉄筋だけが無残に立ち尽くす。
11日、未希さんは2階で放送していた。「6メートルの津波が来ます。避難してください」。冷静で聞き取りやすい呼び掛けが何度も繰り返された。海岸にいた両親にもその声は届いた。
庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。高台の高校に避難した人からも波にさらわれる職員の姿が見えた。
未希さんは勤続4年目の昨年4月、危機管理課に配属された。介護の仕事に就くことを考えていたが、両親の希望を聞き入れ、町職員を選んだ。
昨年7月に婚姻届を出し、今年9月の披露宴に向け楽しそうに準備していた。景勝地・松島のホテルを早々と予約。昨年12月、初めて衣装合わせをしてみた。「3月にはウエディングドレスの新作が出るの。お母さん一緒に見に行こうね」。そう約束していた。
美恵子さんは「放送が途中で切れた」と知人に聞かされた。最後の方は声が震えていたという。「放送するのに精いっぱいで、逃げられなかったんだろうね。実際は怖かったと思う。母親の私が守ってあげられなくて。申し訳なくて」
町は人口約1万7千人。約8千人の所在が分からず、被害の全容はまだ把握できていない。それでも避難所へ逃げた女性(64)は「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と思いやった。「『ご苦労さま。ありがとう』という言葉をかけてあげたい」と清喜さんは涙ぐんだ。
「未来の未に、希望の希」。美恵子さんは娘の名前をそう説明した。壊滅した町には新しい電柱が立ち、がれきの間に道が通るようになった。少しずつだが、未来に向けて動き始めている。
342
:
荷主研究者
:2011/04/03(日) 15:11:07
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110330t13056.htm
2011年03月30日水曜日 河北新報
「山津波」 仙台市内陸部の住宅地にも深い爪痕
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/110330y301.jpg
太平洋沿岸地域に壊滅的被害を与えた東日本大震災は、仙台市内陸部の住宅地にも深い爪痕を残した。丘陵地では地滑りや地割れが相次ぎ、家が傾き、立ち入りすらできない地区もある。えぐられた地盤の被害は、いまも徐々に拡大する。「家財を全て失った沿岸地域に比べれば文句は言えないが…」。住民たちは、やる方ない気持ちを抑えながら不安と闘っている。
◎仙台・青葉区/裂かれた家「住めぬ」
「お父さん、家が裂けていく、裂けていく」
巨大地震が発生した11日、仙台市青葉区折立5丁目の主婦高瀬千賀子さん(67)は、居間のテレビを必死に押さえながら、夫の稔さん(71)に何度も叫んだ。
激しく横揺れする2階建ての住まい。壁がバリバリとはがれ、稔さんがいた台所と居間が分断された。揺れが収まって外に出た千賀子さんは、地割れで深さ1メートル近くの穴が開いた玄関と、隆起した庭に言葉を失った。
地滑りが起きたのは、市中心部から西に約7キロの折立団地。約40戸が警戒区域に指定され、立ち入りもできない。
「津波は海だけに限った話じゃない。これは『山津波』なんだ」。稔さんは、波打つブロック塀を指さして言った。
急斜面の舗装路は至る所で亀裂が走り、隆起と沈下を繰り返している。流れ出た土砂の重みに耐えきれず、のり面が至る所でせり出している。その上にある家々は、低い方へ強烈な力がかかり傾いた。
壁に張られた応急危険度判定「危険」の赤い紙。「家が残っても住めないのが悔しい。この地に再び戻れるのだろうか」。一時的にアパートを借りた高瀬さん夫妻は、先の見えない現実に立ちすくむ。
折立地区から北西に1キロの新興住宅地。青葉区西花苑1丁目では崖の上に立つ5軒のうち、土砂崩れで1軒が崖下に落ちかかっている。いまも建物の4分の1が宙に浮く危険な家屋もある。
青葉区の丘陵地に広がる高野原地区でも被害は広がっている。
同地区2丁目の無職高橋和則さん(61)は、傾いたバーベキュー台を見詰めて悔しがる。
「泉ケ岳が見える眺望が気に入って、ここに居を構えたのに…」。自慢の裏庭は、1メートル以上も地盤沈下した。
同地区では約20戸が地盤沈下や地割れなどの被害を受けた。むき出しになった家の基礎。のり面に近い家々が、引きずられるように沈んでいる。
「毎日少しずつ地面の亀裂が広がっている。のり面の修復を一刻も早くやってもらわなければ、家は持たない」
じわじわと傾く家屋と電柱。高橋さんは切迫した危険と不安に押しつぶされそうになっている。(吉田尚史)
◎仙台・太白区/地割れ多数「怖い」
急勾配の坂道が続く仙台市太白区緑ケ丘4丁目。崩れ落ちたブロック塀のそばに「危険です。近づかないで」と手書きされた紙が張られていた。
至る所に見られる地割れ。調査で地盤が不安定だと判断した市は28日、この地区に震災後初の避難勧告を出した。
緑ケ丘第4町内会の笠原昭男さん(80)は「33年前の宮城県沖地震でも、この辺りは家の損壊や道路の寸断が数多く発生した」と話す。
町内会約150世帯のうち、避難対象は102世帯。アパートに引っ越したり、親戚を頼って移住したりした住民は少なくない。「今後、町内会の運営は成り立つのだろうか」と関係者は表情を曇らせる。
避難所となった緑ケ丘コミュニティ・センターには、2世帯5人が身を寄せた。
家族4人で避難した主婦佐伯祐子さん(37)の自宅は、地割れで家が北側に大きく傾いた。3年ほど前に購入した念願のマイホームだった。
「ビー玉が勝手に転がってしまうほど。歩いただけでも家が揺れ、余震があると、その揺れが増幅されて怖い」
気になるのは今後の暮らし。ローンも抱えている。不安な表情を浮かべながら、こう話した。
「アパートを借りる余裕はなく、できれば家を直して暮らしたい。保険や行政の支援はどこまであるのでしょうか」(長門紀穂子)
343
:
チバQ
:2011/04/03(日) 16:11:35
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110403/dst11040314090021-n1.htm
「ここは地獄。在宅避難民に食料届かない」“第二の故郷”宮城を取材して
2011.4.3 13:02 (1/2ページ)
夕暮れ、津波に攫われ廃墟となった町からは、自宅跡地を片づける人々が避難所に戻る車の光跡が浮かび上がる。遠くに見えるのは仙台市街の灯り =2日午後、宮城県仙台市若林区荒浜(荻窪佳撮影)
半年前まで東北総局(仙台市)にいた。新聞記者になって最初に赴任した宮城県は、陳腐な表現だが“第二の故郷”と思っている。だから東日本大震災はショックだ。発生直後、当時取材でお世話になった方々や友人に電話をしたが、全員不通。メールを送ると、翌日になって「死ぬかと思った」「停電が続きラジオだけが頼りだ」などと返ってきて、少しほっとした。思い出深い街並みの、変わり果てた映像は直視できないものだったが、兵庫県のボランティア先遣隊に同行し、発生8日後の19日に宮城県入りした。
石巻市に足を踏み入れると、見慣れた街並みは跡形もなかった。取材で何度も訪れたJR石巻駅前の商店街は、いくつもの漁船が路上に倒れ、商店街の1階店舗は軒並み泥まみれ。住宅街は津波にのみ込まれ、がれきの山となっていた。漂うほこりにむせた。
津波にさらわれた孫を捜す男性や、自宅の跡地周辺で、身元不明の遺体を見つけた男性と出会った。路上に落ちていたスナップ写真には、幸せそうな家族が写っていたが、ただ立ちつくすことしかできなかった。
駅前の商店街でCD販売店を経営する小幡恵子さん(58)の言葉が忘れられない。損壊を免れた住宅部分で生活していた。一斗缶で暖を取る小幡さんは、沸かした鍋のお湯を見ながら、まくし立てた。
「ここは地獄。在宅避難民には、食料が届かない。津波から助かっても、寒さと飢えで死んでしまう。そういうことを、あんたたちが報道してくれないと。来るのが遅い」
ぶっきらぼうだが、真剣な言葉が胸に突き刺さった。あまりの光景で失いかけていた記者の本分を取り戻すことができた気もした。「必ず記事にしますから」。小幡さんはようやく、目を合わせてくれた。(神戸総局 吉原知也)
344
:
チバQ
:2011/04/03(日) 21:19:02
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110403/dst11040320000037-n1.htm
おにぎりだけ、片やバーベキュー…広がる支援“格差”
2011.4.3 19:52 (1/2ページ)
東日本大震災で、被災者への支援の“格差”が深刻化している。支援物資が余る避難所がある一方、飲み水も足りず、おにぎりだけで耐える被災者もいる。食料が不十分なのに不必要な物資が届くアンバランスも出始めている。震災から3週間以上が経過し、自治体や支援グループは格差解消という課題に直面している。(荒船清太)
津波で壊滅的被害を受けた宮城県石巻市の牡鹿半島で、周辺住民80人の避難所となっている自動車整備会社の敷地では、宇都宮市のボランティアの手でバーベキューが振る舞われた。「やきそばの屋台も出て酒も振る舞われました。子供たちも大はしゃぎでした」(男性被災者)
その後も他の民間団体が支援に訪れたため、食料は十分だといい、避難所をとりまとめる同社社長(60)は「食べ物はなるべく他の集落の人も呼んで分けています」と説明する。
近くの自宅にとどまる阿部正美さん(53)も1度バーベキューの肉を分けてもらった。ただ、「あちらは家が全壊。こちらは残っている。毎日、もらいに行くのも…」と話し、同日以降、この避難所には足を運んでいない。
「魚は必ず自分で取ってくる漁師のプライドがあるから、なかなか欲しい物資も言ってくれない」。牡鹿半島出身でNPO法人「フェアトレード東北」代表の布施龍一さん(35)はこう指摘する。布施さんは石巻専修大の李東勲(イ・ドンフン)准教授(40)と孤立被災者への物資支援を続けている。
「物資は足りている」と断られた被災者宅に通い、3日目に飲料水すら底をつき始めたことを聞き出したこともあった。先月下旬には、たくあんとおにぎりで過ごす2人暮らしの老夫婦を見つけた。市からおにぎり以外に配給されていた支援物資の中には、赤ちゃん用のオムツが入っていた。
李准教授は「被災地に物資は届き始めても、そこから先の被災者への分配は必ずしもうまくいってない。支援団体間の情報共有も課題だ」と説明。「物資が足りない」と言われて翌日行くと別の団体から届いていることもよくあるという。
布施さんは「ガソリン不足で車を自由に使えなかったり、続く余震で道路が崩れたりする中、物資が十分届いていない場所はまだあるはずだ」とみており、今後も孤立した避難先がないか山間部に至るまで巡回を続ける予定だ。
346
:
とはずがたり
:2011/04/04(月) 19:35:36
津波、標高37.9メートル到達 国内過去最高に迫る
http://www.asahi.com/national/update/0404/TKY201104040068.html
2011年4月4日11時27分
写真:津波に襲われた岩手県宮古市田老地区=3月30日、相場郁朗撮影拡大津波に襲われた岩手県宮古市田老地区=3月30日、相場郁朗撮影
東日本大震災による大津波が岩手県宮古市内で、斜面を標高37.9メートルの地点まで駆け上っていたことが、東京大地震研究所の都司嘉宣准教授(地震学)の調査で分かった。国内では過去最高に近い津波の到達点になる。
調査では、宮古市田老地区にある小堀内漁港周辺の海岸から約200メートルの地点で、標高37.9メートルの高さに、津波で漂着したとみられる木片や折れた松の木などを確認。標高30メートルを超す地点で消防車も打ち上げられていた。津波が、険しい斜面を海から一気に駆け上った様子だという。
これまで、津波が高い場所まで駆け上った記録(遡上高〈そじょうこう〉)は、国内では明治三陸大津波(1896年)の同県大船渡市綾里地区で、38.2メートル。世界ではインド洋大津波(2004年)のインドネシアで48.9メートルがある。都司さんは「詳細に調べれば、明治三陸大津波やインド洋大津波の記録を超える場所もありそうだ」と話した。
女川の鉄筋ビル、基礎ごと倒れる 津波17メートル超か
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103270118.html
2011年3月27日19時25分
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/uchu/chikyu/TKY201103270123.jpg
写真:基礎から倒れた4階建てビル。左側が下だった=宮城県女川町拡大基礎から倒れた4階建てビル。左側が下だった=宮城県女川町
東日本大震災で被災した宮城県女川町で、4棟以上の2〜4階建てのビルが基礎ごと倒れていたことが、早稲田大の柴山知也教授(海岸工学)らの調査で分かった。津波では壊れにくいと考えられてきた鉄筋コンクリートのビルも含まれ、17メートルを超す津波の強い水流で倒されたらしい。
ビルの倒壊は町の中心部で確認された。原形をとどめながらも、基礎ごと倒れ、地盤に打ち込んだ杭も一部、引き抜かれていた。船などの漂流物にぶつかられた跡はなく、水流の力だけで倒れたらしい。ビルは鉄骨造りのほか、古い鉄筋コンクリート製とみられるものもあった。
柴山さんの計測では、女川町中心部を襲った津波の高さは17.6メートル。女川湾の入り口に造られていた大型の防波堤も倒れて水没、防潮堤のない中心街を守るとりでが無くなっていた。
柴山さんは、外海からの津波が湾を一気に通り抜けて高さと威力を増し、一気に建物を壊したとみる。建物にかかった津波の力は1平方メートルあたり数十トンにのぼったと推測する。
一方、同県南三陸町の中心部の調査では、津波の高さは15.4メートルだったものの、女川町のように倒れたビルはみられなかった。南三陸町が面する志津川湾は、湾の奥の形がとがっていないため、柴山さんは「とがった湾の形状で、津波の水流が一部に集中する女川湾とは、状況が違ったのかもしれない」と話す。
一般に鉄筋コンクリートのビルは津波の力では倒れにくいと考えられ、高台が近くにない場合などで津波から避難する場所にも指定されている。柴山さんは「女川では鉄骨造りも含め、基礎ごと倒れていることが深刻。湾奥を襲う津波の水流のすさまじさが示された珍しい例と言え、今後の津波避難ビルのあり方の検討が必要だ」と話した。(長野剛)
大津波、北上川を50キロさかのぼる 東北大分析
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103240410.html
2011年3月24日20時18分
東日本大震災の大津波が、北上川を河口から約50キロの地点までさかのぼっていたことが、東北大の田中仁教授(水工学)の分析で分かった。国土交通省が北上川に設置した水位計のデータを調べた。津波は、河口から17キロ地点にある高低差3メートル以上の堰(せき)も乗り越えたとみられるという。
岩手県が源流の北上川は、宮城県登米市で旧北上川と分かれ、本流は石巻市の追波湾に注ぐ。旧北上川は石巻市の仙台湾に注いでいる。
田中さんが、水位計データを分析したところ、津波は追波湾の北上川の河口で7メートル以上の高さだった。河口からさかのぼった津波は、旧北上川との分岐点を越えて、河口から49キロ地点で11センチの水位変化を記録した。その上流の60キロ地点では計測されなかった。
田中さんは「国内に記録が残る津波の遡上(そじょう)は、河口から十数キロであることが多い。今回の結果は今回の津波の規模の大きさを示している」と話している。(長野剛)
347
:
チバQ
:2011/04/05(火) 19:04:12
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110405-00000021-maip-soci
日本大震災 まとめ役男性、悪戦苦闘 釜石の避難所
毎日新聞 4月5日(火)12時54分配信
東日本大震災で自宅を失った被災者は炊き出しや掃除などをしながら、落ち着き先が見つかる日を待ち続けている。活動の中心になっているのが、避難所運営のリーダー役になっている自治会役員たちだ。悪戦苦闘しながら住民をまとめる一人の男性の姿を追った。【斎藤良太】
「風邪が流行しているので換気をしっかりやってください」
岩手県釜石市両石地区の住民約150人が避難生活を送る中妻体育館。両石町内会副会長の洞口(ほらぐち)博夫さん(59)は巡回中の保健師にそう指摘されると、ただちに午前と午後、体育館の窓を開けて空気を入れ替えることを決めた。仮設住宅の入居申し込み開始など行政の連絡事項をハンドマイクで伝え、逆に住民の要望を行政側に伝える事実上の現場責任者。震災後から多忙を極める生活を振り返り、苦笑した。
「今まで経験したことがないのに、よくやってこれたなと思う」
釜石市中心部から約4キロ北側にある両石地区。漁港に面した集落約250世帯のほとんどが津波にのまれた。わずかに残った高台の民家などに身を寄せていた住民約270人は、15日に開設された中妻体育館(約600平方メートル)の避難所で暮らすことになった。
◇住民、次々に協力
われ先に自分の場所を確保する住民たち。トイレなどに行く時に寝ている人の頭を踏みつけかねない状態になった。「誰かがここを仕切らなければ」。30代から町内会活動を続け、顔が広い洞口さんが自然の成り行きで責任者になった。老人クラブの事務局長ら数人が協力を申し出て、漁協婦人部などの女性たちが炊き出しを引き受けてくれた。
最初に手を付けたのは、通路を確保することだった。住民を10班に分け、1メートルほどの通路を設けて班ごとの区画を決めた。寝起きする場所での食事は不衛生なので、炊き出しのコンロの前で班ごとに食事をする専用の場所も設けた。場所取りしたのに移動することになった住民から不満が続出したが「みんなで協力し合わなければ」と説得した。
◇ささいなことでいさかいも
自衛隊などから届くパンやおにぎり、衣類といった救援物資も、当初は人数分が届かなかった。配給時は並ばずに群がって奪い合い状態になり、体力が落ちたお年寄りらに行き渡らないこともあった。「メシがまずい」「なぜ服が回ってこない」。ささいなことでいさかいも起きた。最初の1週間は混乱の連続だったが、試行錯誤をしながら住民をまとめ徐々に集団生活を軌道に乗せた。
落ち着いてきた避難生活でも、課題はまだ多い。体育館のトイレは和式便器のみ。足腰が悪い高齢者が不自由し、市に改善を求めたらポータブル式の洋式トイレが届けられた。だが、トイレが狭く、設置することができない。食事もカップラーメンは山積みになっているが、野菜など生鮮食品は依然として不足がちだ。
◇「疲れているのはみんな一緒」
洞口さん自身も自宅を失い、妻(53)、父(89)、母(85)と避難生活を送る。リーダーとして疲労はピークに達しているが「疲れているのはみんな一緒」と笑う。
「両石の再建には、土地をかさ上げするといった大規模な工事が必要だ。国などの支援を受け再建するためには、住民同士の団結を維持しなければ」
348
:
チバQ
:2011/04/05(火) 19:08:27
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011032402000025.html?ref=rank
ボランティア「仕事ない」 需給ミスマッチ深刻
2011年3月24日 朝刊
東日本大震災で復興の担い手となるボランティアが殺到し、作業を割り当てられないという「需給のミスマッチ」が起きている。沿岸部で百体以上の遺体が見つかるなど大きな被害を受けた仙台市若林区のボランティアセンターを二十三日、訪ねた。 (森本智之)
「こんなに待たされるとは。仕事する前に疲れちゃいました」
受け付けから三時間以上待っていた同市宮城野区の石川明典さん(30)は嘆息した。待合室では大勢のボランティア希望者がいすに座り込んでいる。
センターは区内の避難所や市民から依頼を募り、ボランティアに仲介する仲人のような存在だ。だが、スタッフは「希望者が多すぎて現時点では回せる仕事がない」と申し訳なさそうに話す。
午前九時の受け付け開始時から約百三十人が列をつくった。「避難所のトイレ掃除四人」「倒れた家具の片付け五人」…。スタッフが声を掛けると、次々に希望者が手を挙げ、仕事はあっという間になくなっていく。
余った人たちにはセンターの事務などが割り当てられた。ボランティアは避難所の手伝いや民家内での作業を想定して来る人が多い。若林区の高校三年女子(18)は「被災者と触れ合えるような仕事が良かった。事務作業なら応募しなかったのに」と残念そうだ。
センター開設直後の十八日には六百人が殺到したが、仕事は五十人分だけだった。ミスマッチが深刻化し、仙台市と宮城県では原則として地元市町村以外からのボランティアを受け入れていない。
仙台市内より被害の大きい沿岸部では自衛隊や警察による遺体の捜索とがれきの撤去が続く。多くの地域は立ち入り禁止で、ボランティアに適した仕事がない。県社会福祉協議会の担当者は「食料や燃料不足も深刻で、とても各地からボランティアを引き受ける余裕がない」と話す。
若林区のセンターを運営する仙台市社会福祉協議会若林区事務所の古沢良一所長は「ボランティアは押し売りではなく、被災者のニーズが最も重要。希望に沿う仕事ばかりでないことを理解してほしい」と話す。その上で「立ち入り禁止が解除されれば多数のボランティアが必要になる時は来る。それまでは待っていてほしい」と呼び掛ける。
349
:
とはずがたり
:2011/04/06(水) 17:11:20
地震で日本狭くなる? 地盤沈降で水没、地図書き換えも
http://www.asahi.com/national/update/0406/TKY201104060203.html
2011年4月6日15時1分
http://www.asahi.com/national/gallery_e/view_photo.html?national-pg/0406/TKY201104060268.jpg
写真:地震で地盤沈下し、道路や家のあった場所は海面下に没していた=2日、宮城県南三陸町志津川、橋本弦撮影拡大地震で地盤沈下し、道路や家のあった場所は海面下に没していた=2日、宮城県南三陸町志津川、橋本弦撮影
http://www.asahi.com/national/gallery_e/view_photo.html?national-pg/0406/TKY201104060273.jpg
写真:地震で地盤沈下し、道路や家のあった場所は海面下に没していた=2日、宮城県南三陸町志津川、橋本弦撮影拡大地震で地盤沈下し、道路や家のあった場所は海面下に没していた=2日、宮城県南三陸町志津川、橋本弦撮影
東日本大震災の影響で、地図の書き換えが必要になるかもしれない。東北太平洋側の海岸線が地盤沈下し、海と一体化しているからだ。ただ、面積の減少は市町村への地方交付税の減少につながる。国土地理院は「今調査すれば、被災した自治体に気の毒だ」として、当面は地図を更新しない方針だ。
市街地が壊滅的被害を受けた宮城県南三陸町の志津川港周辺。鉄工所や船舶エンジン工場があった場所は完全に海になり、面影さえない。町によると津波後、港周辺の地盤は最大75センチ低くなったという。
今月は3日前後が「大潮」で、11日にかけて満潮時の潮位が高い。漁網販売会社経営の今野益二郎さん(60)の店舗兼倉庫も冠水する。「昔は海だった埋め立て地はほとんどが海に戻ったということ」と話す。港から約200メートル離れた本浜町でも、志津川湾に注ぐ川沿いの約10戸が水没している。
国土地理院の調査では、今回の津波で青森県から福島県で計443平方キロメートルが浸水した。東京23区の7割以上にあたる。排水できる場所もあるが、すべて復旧できるかどうかは不透明だ。担当者は「そのまま海になるか、埋め立てるのか、干拓するのか。見極めにも数年かかる」とも説明している。
国土地理院は不定期で、満潮時の海岸線を航空写真で撮影して地形図を更新。それをもとに毎年10月に「全国都道府県市区町村別面積調」をつくり、地方交付税を算出するデータの一つに使われている。災害による面積の変更は過去に例がないという。(武田肇、田伏潤)
350
:
とはずがたり
:2011/04/06(水) 17:12:14
被災地の詳細な航空写真、グーグルマップで公開 「救援に活用を」
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104010169.html
2011年4月1日11時21分
写真:震災後の宮城県岩沼市付近の空撮写真 (C)google拡大震災後の宮城県岩沼市付近の空撮写真 (C)google
グーグルは1日、各地の地図を閲覧できる「グーグルマップ」上で、東日本大震災で被災した地域の詳細な航空写真の公開を始めた。
震災後、仙台市から宮城県南部にかけての沿岸部を航空機から撮影。従来の衛星写真の3倍以上の解像度を持つ空撮画像に差し替えた。津波で流された建物や車両、寸断された道路などが鮮明に判別でき、震災のすさまじさを改めて浮き彫りにするとともに、復興にあたる重機なども確認できる。
グーグルでは「救援物資の輸送路などの事前確認に活用してほしい。支援にあたる方々が現地の様子を調べる手助けになればと思っています」と話している。
現在、東北地方から千葉県にかけて撮影を続けており、順次「グーグルマップ」に掲載していくという。(アサヒ・コム編集部 藤坂樹理)
地震、その時Googleは 「1秒でも惜しい」と怒涛の開発、海外にもバトンつないで (ITmedia)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1036554230/680-681
351
:
とはずがたり
:2011/04/06(水) 20:58:41
東日本大震災:宮城県沖海底24メートル移動 海保が観測
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110407k0000m040080000c.html
海上保安庁は6日、東日本大震災の震源のほぼ真上にあたる宮城県沖の海底に設置した「海底基準点」が最大で東南東に約24メートル移動し、約3メートル隆起したことを観測したと発表した。海保は「震源付近の地殻変動を直接とらえたのは世界的にも例がないのではないか」として、11日に開かれる政府の地震調査委員会で報告する。
海保は東京大生産技術研究所の技術協力を得て、海底の地殻変動観測システムを開発。宮城県沖地震や東海・東南海・南海地震の想定震源域のうち、海側のプレートが陸側プレートの下に沈み込む境界付近の海底16カ所に音波を送受信できる海底基準点を設置し、プレートの動きを00年から観測している。
3月28〜29日に海底基準点のデータを観測したところ、牡鹿半島(宮城県石巻市)の東南東約120キロ、水深約1700メートルの海底基準点「宮城沖1」が東南東に約24メートル移動し、約3メートル隆起したことが判明。約40キロ陸側の水深約1100メートルにある「宮城沖2」は東南東に約15メートル移動し、約60センチ沈下していた。塩屋崎(福島県いわき市)の東約80キロ、水深約1200メートルにある「福島沖」も東南東に約5メートル動いていた。
観測結果には震災後のプレートの動きも含んでいるが、この間の移動距離は1日数センチと見られ、「宮城沖1」は本震だけで約20メートル動いたと考えられるという。また、2基準点が隆起と沈下に分かれたことは、プレートのずれと連動した観測値と考えられるという。
陸上では、牡鹿半島に国土地理院が設置した観測点が東南東に約5.3メートル動き、約1.2メートル沈下したことが明らかになっており、震源付近の海底の移動距離は陸上の4倍以上もあったことになる。【石原聖】
毎日新聞 2011年4月6日 20時40分
352
:
チバQ
:2011/04/08(金) 00:45:42
http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20110407/zsp1104071542006-n1.htm
“黙殺”された長野県「栄村大震災」の傷跡に迫る★マスコミが報じなかった もう一つの「東日本大震災」
2011.04.07
今回の一連の震災報道をめぐり、「ロクデナシのマスコミ」「非道な気象庁」などと抑え切れない怒りをぶちまける“記事”がインターネット上で話題となっている。
「ウィキペディア」のパロディサイト、「アンサイクロペディア」に掲載された「栄村大震災」についての記述がそれだ。
東日本大震災のあった翌日、3月12日午前3時59分に起きた長野県と新潟県の県境にある長野県下水内郡栄村を震源とした「栄村大震災」は、最大震度6強を記録。しかも、本震からわずか1時間あまりのうちに震度6弱の余震が2度にわたって起こるなど、被害が甚大であったにもかかわらず、全国紙レベルではまったくと言っていいほど報道されなかったのだ。このため、アンサイクロペディアには「まるで何事もなかったかのように(栄村だけ)多くの国民から無視されることになる」などと痛烈な批判が書かれている。
「地元紙やローカル放送ではかなり大きく報道されていたのですが、確かに全国ネットのテレビや新聞ではまったく報じられませんでしたね。実際の被害状況は、道路が寸断されて一時孤立してしまう集落もあったくらいなんですが……」
地元メディアの記者もこう嘆くように、地元の公民館は完全に瓦解し、小学校の天井も崩れ落ちるなど、建物の全半壊は45〜46棟(物置も含む)。死者こそ出なかったものの、地震発生当初は村民約2300人のうち1700人以上が避難する深刻な被害に見舞われたという。
「毎日、テレビには津波の被害や原発事故ばかり流れているんで、そちらに目が向くのは仕方のないことだと思います……。ただ、今回ネットで栄村の被害を知ったという人たちからたくさん励ましの電話やメールが届きました。ウチの村が被害の大きさに比べて『無視されているんじゃないか』って心配してくれている人が少なからずいると知り、純粋に嬉しかったですね」
栄村役場総務課の藤木利章さんはこう話すが、震度6強の爪痕は深く、復旧にはまだまだ時間がかかりそうな気配だ。
実際に復興作業にあたるNPO法人「栄村ネットワーク」事務局理事の松尾真さんが言う。
「物資はかなり届いていますが、水道と下水に関しては水源が完全に土砂崩れでやられちゃったというのもあって、復旧にかなり時間がかかると思います。仮設住宅の建設も、進み具合は東北より遅いですし……。とりあえず40戸造ることは決まったのですが、まだまだ全然足りませんね」
さらに、松尾さんが心配するのが、栄村の地震が今後一連の東日本大震災と同じに扱われるかどうかについてだ。
「警察庁が発表した4月1日付の被害状況を見ると、今回の東日本大震災の被害県に、四国の徳島県や高知県が入っているのに長野県が入っていないんです。被害県として認定されなければ復興予算も回ってこない……。政府が原発事故にかかりっきりなのもわかっているのですが、これからがとても心配です」
栄村がこれ以上「無視」されないことを祈るばかりだが。
353
:
荷主研究者
:2011/04/09(土) 17:08:01
http://www.asahi.com/national/update/0401/TKY201104010283.html
2011年4月1日17時32分 朝日新聞
避難渋滞、津波被害を拡大 促しても車降りる人少数
東日本大震災の地震の直後、被災各地で渋滞が起こり、車列ごと津波に流されていたことが、生存者らの証言で分かった。車による避難は渋滞を招いて被害を拡大させるという防災関係者の懸念が、車社会を襲った初の大津波災害で現実となった。
宮城県警によると、津波の被害の大きかった宮城県名取市では地震直後、海岸線に並行して延びる県道の渋滞が確認されている。
同市に隣接する仙台市若林区の渡辺静男さん(59)は、避難場所の小学校へ駆け足で向かう途中、信号の消えた県道交差点で車が立ち往生しているのを見た。警察官は車をたたいて避難を呼びかけたが、車を捨てて逃げる人の姿は見なかった。小学校に駆け込むと同時に津波が到来。校舎は3階まで水没し、車列が濁流に流されていたという。
同県石巻市や気仙沼市、岩手県釜石市でも、被災者が渋滞を目撃したり体験したりしている。
釜石市では、国土交通省の港湾事務所付近の国道が渋滞した。職員によると、同事務所の屋上に避難するよう、同僚が拡声機で車列に向かって叫んだが、応じた人は少数だったという。
知人の車で避難しようとした気仙沼市の渡部せつ子さん(82)は、渋滞中に濁流にのまれた。車ごと家に乗り上げ助かったが、「車から離れるなんて思い付かなかった」と語る。近所にある魚市場の高さ約10メートルの屋上に避難した約600人は津波の被害を免れた。
災害時の心理に詳しい東北大の邑本(むらもと)俊亮(としあき)教授は「緊急事態で人は正常な判断力を失い、最初の判断を変えづらくなる。渋滞に巻き込まれても、車を降りる決断は難しいだろう」と言う。
一方、福島県相馬市の佐藤勇一さん(61)は、車で命拾いした。住んでいた集落はほぼ壊滅。自宅から最も近い高台へは1キロ以上あり、「病気の妻と徒歩で逃げたら、間違いなく死んでいた」という。
震災では、宮城県だけで約14万6千台の自動車が津波で流された。邑本さんは「避難弱者に車を譲り、自力で逃げられる人は車に頼らないことで、被害は減らせるはず。そんな行動を促す社会教育が急務だ」と話す。(乗京真知、長野剛、荒海謙一)
354
:
荷主研究者
:2011/04/09(土) 17:13:15
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110401t13076.htm
2011年04月01日金曜日 河北新報
野鳥の楽園、見る影なく 一帯に砂、復元不能か 蒲生干潟
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/20110401017jd.jpg
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/MIYAGI/20110401018jd.jpg
震災後(3月25日)の蒲生干潟(上)。震災前(1997年6月撮影)と比べ、津波で潟湖は砂で埋まり、海岸との境界はなくなっている
東日本大震災は、渡り鳥の飛来地として知られる仙台市宮城野区の蒲生干潟も壊滅させた。約13ヘクタールの潟湖はほぼ砂で覆われ、かつてあった自然豊かな湿地帯は見る影もない。宮城県は「元の姿に戻るのは不可能ではないか」とみている。
七北田川河口に広がる蒲生干潟は、潟湖を中心に約48ヘクタールが国の「海浜鳥獣保護区特別保護地区」に指定されている。淡水と海水が混じり合うため、ゴカイ類や貝類など水生生物が豊富に生息。ヨシ原があり、シギ類やチドリ類をはじめ多くの野鳥が集まる場所だった。
だが、震災後、その姿は大きく変わった。潟湖の姿はうっすらとうかがえるものの、砂が一面を覆い尽くし、砂浜との境界がなくなっている。海岸線には、コンテナや木材も散らばる。
干潟を一望できた日和山(6.05メートル)は消滅し、頂上に立っていた一本松は地べたに横たわる。干潟の西側に建てられたばかりの高さ約4メートルの防波堤は所々が決壊し、押し寄せる海水を止めることはできなかった。
周辺は津波による犠牲者が多く出た。県自然保護課は「蒲生地区は捜索活動が第一」とした上で、「海岸が70センチ近く沈下したという情報もある。元に戻るのは不可能だろう」とみる。環境省東北地方環境事務所は「砂の動きも含めて、鳥が戻るかどうかは長期的に見ていく必要がある」としている。(亀山貴裕)
355
:
荷主研究者
:2011/04/09(土) 17:36:20
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110402t13012.htm
2011年04月02日土曜日 河北新報
蒲生干潟「回復困難」 津波被害「貞観」と同規模
東北大災害制御研究センターは1日、仙台市青葉区の同センターで東日本大震災に関する報告会を開いた。震災後の調査で仙台市宮城野区の蒲生干潟は、生態系回復が困難なほど深刻な被害を受けたことが判明。今回の津波について、仙台の沿岸部で過去最も大きな被害を出したとされる869年の貞観地震津波と同規模と報告した。
真野明教授(水工学)は、仙台市から宮城県山元町にかけての海岸の浸食を調査。波消しブロックの散乱状況などから、押し波が海岸堤防を乗り越えて内陸部を浸食し、引き波が堤防や海浜を破壊したと分析した。
海岸付近に現存する防潮林などの様子から、津波を弱める効果があったことも確認。「今後も海岸林を維持することが重要だ」と指摘した。
蒲生干潟については「砂に埋まったため、元の生態系を回復するのは難しい。時間がたてば別の新しい生態系が形成されるだろう」と述べた。
津波を調べている今村文彦教授(津波工学)らは、過去の調査で仙台東部道路よりも内陸の地点で、貞観地震津波の堆積物を発見している。
今回も東部道路の内陸側で浸水を確認。今村教授は「海岸線の位置が異なる上、東部道路もなかったので単純な比較はできないが、貞観地震津波と同程度の可能性がある」と話した。
356
:
荷主研究者
:2011/04/09(土) 18:03:08
>>339
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1103300072/
2011年3月31日 神奈川新聞
東日本大震災:東北は必ず復興できる、県内出身の東北大生が横浜で募金活動/神奈川
街頭で募金活動に取り組む柏木さん(右端)と東北大生ら=桜木町駅前
東日本大震災後、実家に避難してきた県内出身の東北大生たちが、横浜市内で募金活動を続けている。自らも被災者ながら、何か自分にできることをと立ち上がった。「避難所にいたころは、毎日の生活で手いっぱいだった。だが、こちらに来て気持ちにゆとりが出てくるにつれ、何かしないといけないと思った」。被災地の惨状を知るがゆえ、抱く思いは人一倍強い。
活動しているのは「東北学生有志復興支援団体A4T」。東京や栃木、青森など各地に支部を設け、街頭で募金を集めている。
神奈川の中心メンバーは医学部2年、柏木良介さん(21)。被災後、避難所で暮らし、運良く乗車券の取れたバスで18日に藤沢市の実家に戻ってきた。
インターネットを通じて20日にA4Tの活動を知るや、代表者に連絡して協力を申し出た。「ならば、神奈川県の支部長として取りまとめ役になってくれないか」。そう告げられた。
同じく県内の実家に避難していた東北大の友人5人に声を掛け、活動をスタート。各自が知人に呼び掛けた結果、計15人の東北大生が集まったほか、他大学の学生にも輪が広がった。
募金活動は29日から横浜駅西口と桜木町駅前で実施。「僕たちは仙台から来ました。協力をお願いします」。手作りの横断幕と募金箱を手に、声を張り上げた。寄せられた金額は初日だけで40万円を超えた。
「東北の学生がやっているから、大きいのかも。それにしても、日本は強い国だな。子どもからお年寄りまで、みんな協力してくれる」。街頭に立ち続ける柏木さんは、東北は必ず復興できると確信を抱いた。
募金活動は4月5日まで(最終日は横浜駅西口のみ)。午前10時から午後3時まで。
357
:
荷主研究者
:2011/04/09(土) 18:19:21
>>339
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20110331/CK2011033102000152.html
2011年3月31日 中日新聞
若い力を結集“支援の輪” 浜松の東北大生が市に提言
義援金を振り込んだ用紙を手にする東北大の学生たち=浜松市役所で
東日本大震災で被災し、故郷の浜松市で街頭募金を続ける東北大(仙台市)の学生たちが、地元学生とのネットワークづくりを浜松市に提案した。「何かしたくても実行に移せない同世代もいる」−。一日も早い復興を目指し、被災地支援の輪を広げようと、若い力を結集したい考えだ。 (後藤隆行)
この東北大生は浜松北高を卒業した面々。実家に戻って「できることをしよう」と募金活動を思い立った。JR浜松駅前で3日間かけて協力を呼び掛けると、94万5564円が寄せられ、宮城県に振り込んだ。
「学生同士の思いをつなげたい」。29日には浜松市役所を訪れ、危機管理監や政策調整広報官と懇談した。街頭で同じ行動に出ている浜松大や静岡文化芸術大の学生たちを見たからだ。学校の壁を越えた連携に向け、呼び掛け役を行政に促すと、市側も「協力していく」と応じた。
農学部2年の袴田旺弘さん(20)=東区出身=は「ほかの大学もあるし、エネルギーが余っている人たちはきっといる」と話す。7人で始めた自分たちの活動も、同窓の輪が17人に増え、東北大への入学を控える2人も参加してくれた。
法学部2年の袴田崇弘さん(20)=北区出身=は、被災地で活動したいボランティアの取りまとめも念押し。せっかくの善意を空回りさせないため、行政の調整機能に期待した。
「震災の被害はあまりに大きい。浜松でも東海地震がいつあるか分からない。互いに助け合えることができたら」。法学部3年の江藤弘章さん(21)=中区出身=は、双方の立場から願っている。
新学期は4月下旬から始まると聞いており、浜松にいる間は募金活動を続ける。ほかに「何ができるか」も探し合っていく。
358
:
荷主研究者
:2011/04/09(土) 18:23:31
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110403t13017.htm
2011年04月03日日曜日 河北新報
東部道路、津波から住民救う 仙台・六郷
仙台東部道路の前で津波の様子を語る大友さん=仙台市若林区種次
東日本大震災で被災した仙台市若林区六郷地区で、多くの住民が地区の東西を貫く仙台東部道路に駆け込み、一命を取り留めた。道路が周辺より高い盛り土構造だったことが幸いした。高速道は指定避難所ではないが、震災時の一時避難拠点として見直されそうだ。
六郷地区で町内会長を務める大友文男さん(79)は自宅近くで荒れ狂う波を目撃した。津波は高さ2〜3メートル。車や家屋を押し流して迫って来て、海を背に逃げた。
目指したのは約600メートル先の仙台東部道路。目の前にある高台は高速道しかなかった。死に物狂いで走って道路脇の高さ約1メートルのフェンスをよじ登り、のり面を駆け上がって難を逃れた。
本線には既に約50人の住民が避難していた。妻と娘の姿もあった。「道路のおかげで命が救われた」と実感している。
六郷地区は太平洋沿いに広がる平地。海抜は約2メートルにとどまり、津波に対する備えが長年の課題だった。
地域には指定避難所の東六郷小などがあるが、海岸近くで津波の直撃が懸念されていた。東部道路は盛り土で地上約6メートルにあり、住民は津波被害を受けにくい点に着目した。2009年に津波対策連絡会を設け、道路を避難所に指定するよう求める全国でも例のない防災活動を展開した。
今回の震災で、東部道路は住民の命を守り、がれき混じりの海水が西側市街地に入るのも防いだ。指定避難所の小学校は波が流入し、校庭に避難した住民の多くが流されて犠牲になった。
大友さんは連絡会のメンバーでもあり、「東部道路が避難先になることが浸透していれば、犠牲者はもっと少なかったはずだ」と悔やむ。連絡会事務長(61)は「行政は東部道路を避難所に指定し、避難階段を設けるなどの措置を早急に講じてほしい」と話している。
(神田一道)
359
:
とはずがたり
:2011/04/11(月) 20:50:23
収まらんなぁ。
福島・茨城で震度6弱=震度5弱も続いて2回―1人死亡、生き埋めの情報も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110411-00000110-jij-soci
時事通信 4月11日(月)17時26分配信
11日午後5時16分ごろ、東北地方で地震があり、福島県の浜通り、中通りと茨城県南部で震度6弱の揺れを観測した。気象庁によると、震源地は福島県浜通りで、震源の深さは6キロ(暫定値)、地震の規模(マグニチュード)は7.0(暫定値)と推定される。同庁は茨城県沿岸に津波警報を発令、宮城、福島両県と千葉県九十九里、外房に津波注意報を出したが、同6時5分に解除した。
また、同5時17分と同26分ごろにも地震があり、いずれも福島県で震度5弱の揺れを記録した。
気象庁によると、地震は東日本大震災の震源域内で起きており、余震と考えられるという。土井恵治地震予知情報課長は「陸のプレートの浅いところで起きた」と説明。今後もしばらくはM7クラスの強い余震に注意するよう呼び掛けた。
県警や消防によると、茨城県龍ケ崎市では転倒した男性(46)が頭部を強打し死亡したほか、牛久市の東日本入国管理センターでスリランカ人男性(46)がショックで倒れ、意識不明という。このほか同県内では多数が負傷、福島、栃木両県でもけが人が出た。また、福島県いわき市田人町で家屋が倒壊、4人が生き埋めとの情報があり、県警が確認を急いでいる。
東京電力によると、福島第1原発1〜3号機の外部電源が途絶し注水が止まったが、約50分後に再開した。
また、東北電力によると、いわき市を中心に福島県で約20万戸で停電が発生。運転停止中の女川原発(宮城県石巻市、女川町)と東通原発(青森県東通村)はいずれも外部電源が確保されており、冷却機能は維持されている。
360
:
チバQ
:2011/04/11(月) 23:34:57
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2011/03/311.php
3.11大震災が東京に残した教訓
Lessons From Tragedy
多くの帰宅困難者は出たものの、電気もトイレもある今回の経験は「避難訓練」程度のものだった
2011年03月24日(木)14時20分
井口景子(本誌記者)
[2011年3月30日号掲載]
東日本大震災で首都圏も震度5前後の強い揺れを経験したが、人的被害は東北や北関東地方ほどではなかった。しかし、胸をなで下ろしている場合ではない。いずれ起きるであろう首都直下地震や東海・東南海・南海地震では、今回以上の揺れや津波に襲われる可能性もある。
11日に地震が発生したとき、都心は長い周期で揺れる「長周期地震動」に襲われた。そのため高層ビルは高層階ほど激しく揺れ、家具の転倒が相次いだ。建物の全壊は比較的少なかったが、日本建築学会によれば、同時発生が懸念される東海・東南海・南海地震では東京、大阪、名古屋の高層ビルは設計時の想定の1.2〜2倍の長周期地震動に襲われるという。
しかも東京大学総合防災情報研究センターの鷹野澄教授によれば、首都圏に到達する長周期地震動は北から伝わる場合よりも、東海・東南海・南海地震のように南から伝わるほうが大きくなる傾向がある。今回の地震で建物内部にダメージを受けているリスクもある。「今回持ちこたえたからといって、次も大丈夫と油断するのは禁物だ」と、鷹野は言う。
揺れの後の行動にも反省点がある。徒歩で自宅を目指す人が数万人に上ったが、大災害で交通が麻痺した場合は「むやみに動かない」が大原則だ。
路上で水に襲われる可能性も
マグニチュード7.3の首都直下地震のシミュレーションでは、建物の倒壊や道路の寸断、火災、停電のため、歩く距離が10キロを超えると1キロごとに1割が脱落。20キロで全員が脱落し、危険な場所で立ち往生する。緊急車両の通行を妨げ、2次災害に巻き込まれる恐れも高い。
「今回は電気、ガス、水道に加えてトイレまで使えたという意味では『避難訓練』に近かった。本当の危機とは次元が違う」と、工学院大学の村上正浩准教授は言う。
路上にあふれる帰宅難民に「水」が追い打ちをかける可能性もある。今回は東京湾沿いで液状化現象が起きたが、津波にも警戒が必要だ。関東大震災では相模湾や房総半島に10メートル前後の大津波が到来した。
入り口が狭い東京湾には高い波が入りにくいが、「海抜ゼロメートル地帯が広がっているので、小規模の津波でも水が河川を逆流して浸水し、水道や下水道を麻痺させる」と、東京大学地震研究所の古村孝志教授は言う。水が逆流するのは大阪湾も同じで、1854年の安政南海地震では市街で多数の死者が出た。
「想定外だった」という言い訳はもう許されない。
361
:
とはずがたり
:2011/04/12(火) 15:08:26
地震:長野と千葉で相次ぎ発生 震度5弱
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110412k0000e040055000c.html
12日朝、長野県と千葉県で強い地震が相次いで発生した。午前7時26分ごろ、長野県北部を震源とする地震があり、木島平村や栄村で震度5弱を観測。気象庁によると、震源の深さはごく浅く、地震の規模を示すマグニチュード(M)は5.6と推定される。約40分後の午前8時8分ごろには、千葉県東方沖を震源とする地震があり、旭市や香取市で震度5弱を観測した。震源の深さは26キロ、Mは6.4と推定される。
気象庁によると、長野の地震は3月12日に発生したM6.7の地震の余震ではないとみられる。千葉の地震は東日本大震災の余震と考えられるという。
成田空港は安全確認のため、地震発生直後から13分間、2本の滑走路を閉鎖した。JR東日本千葉支社によると、京葉線と東金線の全線、総武線の一部などで一時運転を見合わせた。京成電鉄も一時、京成大和田−成田空港などで運転を見合わせた。
また東海道新幹線は東京−豊橋間で停電。16分間運転を見合わせ、上下40本が最大23分遅れ、3万3000人に影響した。東北、上越、長野新幹線も一時運転を見合わせた。東京メトロも千葉の地震の影響で、全線で一時運転を見合わせた。
長野県北部の地震の各地の主な震度は次の通り。震度4=長野市、長野県中野市、飯山市、群馬県中之条町、新潟県十日町市、出雲崎町
千葉県東方沖の地震の各地の主な震度は次の通り。震度4=千葉市、千葉県銚子市、成田市、茨城県日立市、土浦市、埼玉県久喜市、加須市、東京都足立区
毎日新聞 2011年4月12日 11時27分(最終更新 4月12日 14時41分)
地震:福島と茨城で震度6弱=午後2時7分
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110412k0000e040101000c.html
12日午後2時7分ごろ、福島県で強い地震があり、いわき市や北茨城市で震度6弱を観測し、東北から中部地方の広い範囲で5強〜1の揺れを感じた。気象庁によると、震源地は福島県浜通りで、震源の深さは約10キロ、地震の規模を示すマグニチュードは6.3と推定される。
各地の主な震度は次の通り。
震度5強=福島県浅川町、茨城県高萩市▽震度5弱=福島県郡山市、白河市、茨城県日立市、鉾田市▽震度4=福島県相馬市、南相馬市、二本松市、水戸市、宮城県岩沼市、山形県上山市、宇都宮市、埼玉県春日部市、千葉県旭市、香取市、野田市
毎日新聞 2011年4月12日 14時12分(最終更新 4月12日 14時39分)
362
:
とはずがたり
:2011/04/14(木) 12:34:32
2011年04月14日(木)02時02分
「地震予知、即刻中止を」
東大教授、英誌に掲載
http://www.sannichi.co.jp/kyodo/news2.php?genre=Science/Environment/Health&newsitemid=2011041301001002
ロバート・ゲラー東京大教授
「日本政府は不毛な地震予知を即刻やめるべき」などとする、ロバート・ゲラー東京大教授(地震学)の論文が14日付の英科学誌ネイチャー電子版に掲載された。
「(常に)日本全土が地震の危険にさらされており、特定の地域のリスクを評価できない」とし、国民や政府に「想定外」に備えるよう求めた。
「今こそ(政府は)地震を予知できないことを国民に率直に伝えるとき」とも提言しており、世界的な学術誌への掲載は地震多発国・日本の予知政策に影響を与える可能性もある。
論文では、予知の根拠とされる地震の前兆現象について「近代的な測定技術では見つかっていない」と指摘し、「国内で1979年以降10人以上の死者が出た地震は、予知では確率が低いとされていた地域で発生」と分析。マグニチュード8クラスの東海・東南海・南海地震を想定した地震予知は、方法論に欠陥がある、としている。
教授は「地震研究は官僚主導ではなく、科学的根拠に基づいて研究者主導で進められるべきだ」として、政府の地震予知政策の根拠法令となっている大規模地震対策特別措置法の廃止を求めた。
また、福島第1原発事故についても「最大38メートルの津波が東北地方を襲ったとされる1896年の明治三陸地震は世界的によく知られている」とし、「当然、原発も対策されているべきで、『想定外』は論外だ」とした。
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