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宇宙

294チバQ:2011/03/16(水) 00:11:19
救いの手
 携帯電話がつながらなくなると、家族と連絡が取れず、安否を心配する人もいた。記者の不安感を救ってくれたのは、隣で休む女性(56)との会話だった。「どこの出身なの」「あら千葉が生まれなんだあ。また遠いところから来たねえ」「津波が来て連絡が取れないなんて。あんた長男さだったら、親はそりゃえらい心配していると思うよ」。もちろん初対面の人だったが、母親と同じくらいの年齢の女性と話していると、なぜかほっとした。

 「きっと明日になれば、救助ヘリが助けに来てくれるさ」と互いに励まし合った。

 翌12日、日の出とともに起きると、水が1階天井あたりまで引いていた。漂流物がよく見えた。横転した車、倉庫から出た冷凍カツオやサンマ。枝のようなものもあったが、流された人の手のように見えた。思わず目をふさぎ、漂流物をじっくり見つめることができなくなってしまった。

 東京消防庁の救助ヘリコプターが午前9時40分に来た。「これで帰れる」と期待したが、ヘリが着陸できる場所はなく、1人ずつロープでつり上げるしかなかった。午後からは航空自衛隊のヘリも加わったが、50人程度しか運べず、残った約400人は2夜目を過ごすことになった。

 この夜の夕食はビスケット一かけらだけ。ヘリはペットボトル数本の水を落としていったが、記者が受け取った水はなめる程度。それも、脱水症状になりかけていたお年寄りに譲った。

 被災者のストレスはピークに達していた。子供が夜に「のど渇いた」「もう帰りたい」と泣くと、「うるさい」とつぶやく男性もおり、ぴりぴりした雰囲気に。

 「もう限界」。誰もがそう感じた3日目の13日午前6時、外を見ると、水がほとんど引いていた。車はまだ走れる状況ではないが、助かったと思った。公民館前の広場に自衛隊と東京消防庁のヘリが着陸し、3機態勢で救助を始めた。病人や子供、お年寄りを優先し、記者が乗ったのは午前10時頃。気仙沼市内のヘリポートのような場所に降りた。

 ようやく「被災者」から「記者」に戻った。だが、孤立した被災者はまだまだいる。水や食料のないまま過ごす人、屋上で寒さをしのぐ人もいるだろう。諦めずに生還してほしい。復興までには長い道のりが続くだろう。避難所での43時間を胸に、多くの人が大切なものを失った悲しみと、そこから立ち上がっていく力強さを、しっかり伝えていきたい。

(2011年3月15日 読売新聞)


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