したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

290とはずがたり:2014/01/19(日) 17:12:13
>>289
>市街戦は小競り合いだけの戦闘で両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほど進展は見られず、10月20日に三好軍が再度上洛、東山の幕府軍と交戦、これも小規模な戦に止まった。しかし、11月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、11月19日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、近江への派兵も企て20日に松永長頼を近江へ向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。敵が琵琶湖周辺に進出したため後方を脅かされることを恐れた義輝は撤退を決断、21日に中尾城を焼いて坂本、次いで坂本から北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の23日に三好軍が入り破却された。
長慶も本気で闘ってないね〜。
脅して退くなら退かせようと云った感じか。
それとも江口の戦いで晴元を打ち破った直後で都落ちさせたとはいえまだまだ管領晴元と将軍義輝を憚るところがあったか?

291とはずがたり:2014/01/19(日) 17:48:20

羽曳野市古市にあった河内守護畠山氏の根城,高屋城。

戦国期畿内最大規模の会戦である教興寺の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%88%88%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84に対して,応仁の乱以降、鉄砲が伝来するまで畿内最大の戦いと言われている舎利寺の戦いhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84と云われるけど,舎利寺の戦いで闘った河内守護代遊佐長教とはこの後の高屋城で籠城戦をするが結局長教の娘と政略結婚して其れ迄父の仇敵ながら臣従してきた晴元と最終的に袂を別った事で三好政権が成立することになる。
どうせならもっと早く手を結んどけば良いのに,戦国時代(の畿内?)って可成り殺し合いしてからその相手と組んで自分の主君と反抗とかそんなんばっか。。

高屋城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E
高屋城の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
三好康長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7

応永年間に畠山基国が管領になり、安閑天皇陵を流用して築かせたもの。守護代の遊佐氏が城代を務めていた。応仁の乱以後は守護職の畠山氏の居城となるが、畠山氏・安見氏・三好氏の三勢力の争奪戦が繰り広げられ、城主が頻繁に入れ替わった。天正3年(1575年)に織田信長の猛攻を受け落城。その後廃城となる。城の規模は南北に800m、東西に450mあり、土塁と堀で仕切られている。

高屋城の城主は河内の守護を兼ねていた人物が多く、10名前後、30回以上入れ替わっており、平安の時は少なく交替が頻繁におこる。特に畠山義英、畠山尚順、畠山稙長の畠山氏の家督騒動の50年間は、それぞれで4、5回城主が交替しており、交代後畠山義英は誉田城、交野城へ、畠山尚順、稙長父子は広城(和歌山県広川町)、大和に退避していた。

永禄元年(1558年)に安見宗房が守護代となっていたが、三好長慶が永禄2年(1559年)に高屋城を落城させ、畠山高政を高屋城を城主に、河内国守護代に三好方の湯川直光にすえた。しかし、長慶に救援してもらったにもかかわらず畠山高政は湯川直光を免職、安見宗房を守護職に復権させた。これに憤慨した長慶は翌永禄3年(1560年)に高屋城を落城させ、河内の支配を手中にし、弟の三好義賢を高屋城に据えた。
しかし、またしても翌永禄4年(1561年)に高政が高屋城を奪回、翌永禄5年(1562年)に高政が教興寺の戦いで敗れると長慶の甥の三好義継が城主となった。三好三人衆と仲違いして対立する松永側についた義継は高屋城を離れ、永禄10年(1567年)に義継と松永久秀が東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆に勝利、翌永禄11年(1568年)に隙をつき三人衆側の三好康長が入城したが、同年9月28日に芥川山城が織田信長によって落城すると、康長は阿波に落ち延びていった。

畠山高政は信長と和を結び4度目の城主となり、家督は弟の畠山昭高に譲り河内半国守護となる。しかし、元亀3年(1572年)に遊佐信教の下克上にあい、昭高は自害した。これに激怒した信長は大軍をもって高屋城を攻城し、信教を追い出し昭高の嫁となっていた妹の救出に成功した。半年後の同年秋、(反信長同盟に参加していた義昭側の)三好康長が(再び入城して)高屋城を修繕した。天正元年(1573年)に義昭が信長に敗れ追放、続いて義継が討たれ本家が滅亡、久秀が降伏して三人衆が壊滅した後も三好一族の中では最後まで抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月8日、再び織田軍の攻城を受け三好康長は信長の側近であった松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。三好長康は同年7月には、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。以後は信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられたりしている。

信長公記はこの時既に「もはや本願寺の落城は時間の問題となった」としているが、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は4月21日に帰京し、長篠の戦いへと赴いた。
河内守護の城として長い歴史を重ねていた高屋城はこの戦いで廃城となった。

292とはずがたり:2014/01/19(日) 17:53:48

細川高国の敗死の遠因となる細川尹賢の香西謀殺の理由詳細はこんなんやったのか


神尾山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%9F%8E

神尾山城(かんのおさんじょう)は、京都府亀岡市宮前町宮川にあった城。柳本賢治の居城で、その後明智光秀の丹波攻めの基地になったのではないかと思われる。

神尾山城は金輪寺の裏山にあった山城で、金輪寺の周辺には極楽坊跡、竹中坊跡、宝蔵坊跡、東柳坊跡など数多い寺坊跡があり、天台密教の霊地で今も石垣がそのまま残っている。神尾山城はその聖地に築城され、巨石怪石を利用した特徴のある大形山城であった。

神尾山城が史上に現れるのが八上・神尾山両城の戦いの時で、大永6年(1526年)の初旬、細川尹賢が摂津で築城していた。この時の様子を『足利季世紀』では「尼崎ノ城」(大物城)と記述されているが、『新修 大阪市史第2巻』によると典厩家の本拠は中嶋で尼崎は含まれていないので、堀城の誤りではないかと指摘している。この城の作事に香西元盛も加わっていたが、細川尹賢の人夫と香西元盛の人夫が「土一簀」で口論となり、双方の人夫が喧嘩をはじめた。いったん両者とも引き分けたが、腹の虫が収まらなかった元盛の人夫が城中に瓦等を投げ込んだりしたので、尹賢の憎悪感は頂点になった。
尹賢は元盛が無学であるのを利用して、偽の謀反書を従兄で主君細川高国に差出、驚いた高国は同年7月13日に元盛を謀殺した。激怒した元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は高国に反旗を翻し、八上・神尾山城両城の戦い、桂川原の戦いに続いていく。

その後柳本賢治は中嶋の戦いで暗殺され、高国は大物崩れで細川晴元・三好元長らに敗れて自害、尹賢も殺害され一旦城史は不明となるが、『証如上人日記』によると天文15年(1546年)、細川晴元は三好長慶が擁立した細川氏綱(尹賢の子、高国の養子)に敗れ「丹波カンノチ」(神尾山城)へ没落と明記されているが、これは氏綱方の上野元治が足利義晴を迎え取ろうと同年9月13日に入京し、これに危機感を覚えた晴元が丹波へ落ち延びており、この時の記述ではないかと思われる。その後晴元は丹波を出国、摂津に入国し神呪寺城、越水城へ移動し、舎利寺の戦いに繋がっていく。

293とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:08
再び長慶ネタ
知将長慶も落とせなかったしぶとい政勝の立て籠もった要害榎並城♪
場所はこの辺らしい。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.32.30.124N34.42.19.599&ZM=11
最近はもう消えてしまったと思ってた榎並という地名が小学校名に残っているも良い

江口の戦いで政勝の父,政長が殺された後,政勝は瓦林城(西宮)に逃げたとあるが,西宮には長慶の本拠地でもある越水城があったのになんだか可怪しい感じである。。

榎並城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E4%B8%A6%E5%9F%8E
榎並城(えなみじょう)は、大阪市城東区にあった城。ここの東側に存在した室町幕府料所河内十七箇所に因み、別名を十七箇所城とも言った。

榎並城は江口の戦いで8ヵ月間籠城した堅城であるのにもかかわらず、城郭については不明な点が多い。この地は古来「榎並荘」と言われる旧大和川右岸と淀川の合流地点で、低地にあり淀川が氾濫すると被害を受け野江水神社一帯だけがわずかに高台になっていた場所に築いたのではないかと思われる。しかしその城跡も元禄17年(1704年)年2月27日から始まった大和川の付け替え工事に伴って、現在と大きく地形が変化し場所の特定など困難になってしまっている。

三好時代
城として明確に記述されているのが『細川両家記』で、天文17年(1548年)10月28日、この時三好長慶方が榎並城を攻め、後に摂津各地で放火されるが、この時が城としての文献上の初見である。江口の戦いの先端がひらかれたのが、この10月28日の記述ではないかと思われている。その後三好政長は江口城で討死、三好政勝も父の死をきっかけに瓦林城に逃げ去って行った。廃城については記録がないので解らないが、その後文献から姿を消したことから、この時に廃城になったと思われる。

石山本願寺時代
榎並城が廃城になった後、この城跡を石山本願寺が再利用したと推定されている。石山合戦の時に51の支城が作られその支城の中に「野江」という名前が見受けられる。これにより「野江城、野江砦は榎並城跡を再利用し、その位置は野江水神社付近が最有力である」とされている。

野江水神社
この地は度々大きな水害に悩まされていたが、榎並城を築城している最中にも水害にあい、それを鎮めるために三好政長が守護神として城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと言われている。この時の社の位置が現在の社殿の位置と言われている。

河内十七箇所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%8D%81%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%89%80

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。

概要

文禄3年(1594年)の文禄堤完成までは淀川には現在の寝屋川市大間(現代はttp://tohazugatali.iza-yoi.net/OSAKA/R170/r19-000.html#3である♪)付近から南流する支流が存在した。この支流は宝永元年(1704年)に付け替えられるまで北流していた大和川と大東市住道付近で合流して西に流れを変え、大阪市の天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。(現在の寝屋川、古川はこの名残である)
茨田郡はこの淀川南流によって東西に二分されていたが、この西半分が河内十七箇所に当たる。仁徳天皇の時代に築かれた茨田堤はこの茨田郡西部を水害から守る囲堤防、すなわち輪中であった。
寝屋川9箇庄(旧九箇荘村)、大庭、大窪、門真の12箇庄を上郷と呼び、下仁和寺、小高瀬、寺方、橋波、稗島の5箇庄を下郷、あるいは五ケと呼んだ。五ケの呼称は明治頃まで使われたようである。他に下郷に門真庄を加えて下六ケとも呼ばれた。

294とはずがたり:2014/01/19(日) 18:18:41
>>293-294

三好政勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D

三好 政勝(みよし まさかつ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、旗本。摂津榎並城主。三好氏傍流の三好政長の子で、『寛政重修諸家譜』によれば、名は一任(まさとう)。

生涯

天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。

戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。

やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に、和泉の織田方の城を落したり、将軍義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている。降伏によって信長から摂津豊島郡をあてがわれたが、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した。

しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西越後守(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。

本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として大和で2020石を領した。その後は大坂の陣にも出陣し、96歳の長寿を全うした。
このしぶとさと処世術からか、真田十勇士の1人・三好伊三入道のモデルとされているが、真田氏とは縁はなかった。

295とはずがたり:2014/01/20(月) 20:51:23

榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)①
舎利寺の戦いの後の高屋城攻防で和睦したとはいえ直ぐに晴元に叛旗を翻すのは大義が無かったのか,晴元と袂を別つには一族で親晴元の三好政長・勝長を除くと云う段取りを必要としたようである。

江口の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

三好氏の内部確執
三好長慶は細川晴元の政権下で太平寺の戦い・舎利寺の戦いなど戦功を積み重ね、三好氏の総帥としての地位を着実に固めてゆくにつれて、晴元に深く信頼される一族の長老・三好政長の存在は、長慶にとって無視できなくなってきた。そもそも主君である晴元は本来父の敵であり,晴元に代わって管領に担ぎうる氏綱とも舎利寺の戦い後の高屋城包囲戦での和睦時に河内守護代遊佐長教の女と政略結婚していたため関係が出来ていた。
そんな中,天文17年(1548年)5月6日に摂津国人池田信正(政長の娘婿)が晴元の屋敷で切腹させられた一件も政長の讒言が疑われ、遺児で政長の外孫でもある長正が後を継いだことは晴元の介入に対する他の摂津国人の反発を招いた。

天文17年8月12日、長慶は晴元の近習(田井源介、平井丹後守など)に対して三好政長・政勝父子の誅殺を願い出た。一族の統率を乱す不届者を除くというのが表向きの理由だった。しかし、この長慶の申し出を晴元は聞き入れず、前日の11日に信正の居城だった池田城で内紛が起こり、家臣団が政長派を城から追放して長慶に合力を誓ったため事態は一触即発となった。

そこで長慶は、(漸く)晴元に敵対する細川氏綱の陣営に転属。舎利寺の戦い後の和睦で岳父となった河内守護代・遊佐長教らに出兵を求めつつ、自身も軍事行動を開始した。これに対して近江の六角定頼(晴元の岳父)はこの行動を「謀反」とする一方で、晴元は和泉守護細川元常、岸和田兵部大輔、紀伊の根来衆らに出兵を求めた。長慶には氏綱・長教を中心に和泉の松浦興信、丹波守護代内藤国貞、大和の筒井順昭、池田長正を始め摂津国人の多くが味方に付いた。晴元・政長には茨木長隆・伊丹親興など少数の摂津国人と六角定頼ら周辺の大名が与同した。

摂津戦線の攻防
長慶は10月28日に摂津越水城を出発、政長の拠点である幕府の御料である河内十七箇所へ進軍し、十七箇所の拠点で政勝が籠城する摂津欠郡の榎並城(城東区野江付近)を包囲、そのまま越年して翌年の天文18年(1549年)2月18日に堺で長教と会談して協力を取り付け、26日に一旦尼崎に兵を進め十七箇所へ戻った。一方、政長は摂津国人の大半が長慶方となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り桑田郡から摂津北部へ侵入、猪名川流域を南下して川辺郡の塩川城(一庫城、山下城)で兵を増やし、1月24日により南の池田城を攻撃、伊丹親興の支援を受けて十七箇所へ迫った。

しかし長慶は3月1日に榎並城の西側に位置する摂津中嶋城(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%9F%8E場所については榎並城同様地形が変わってしまっていてよく分からないようだが十三公園,北野高校前付近のようだ。この辺は淀川区。今,中島という地名は西淀川区にあるが関係ないようだ。寧ろ西中島南方の中島がこの中島か♪で城の前にあった中津川は今は川を挟んで向こう側のイメージのあの中津なんか♪)に兵を送り、政長派の細川晴賢(細川政賢の孫)がいる堀城(中嶋城に同じ)と榎並城の中間の柴島城(阪急の柴島というか柴島中学校付近。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%B3%B6%E5%9F%8E)を攻めさせ、救援に来た政長を破り柴島城も落として榎並城に追った。政長は伊丹親興の居城伊丹城に退却、長慶は榎並城の包囲を続けたが、堅牢で兵糧も豊富にある榎並城は包囲を持ちこたえ、4月になっても落城する気配が無かった。

4月初め、晴元は近江へ出向き六角定頼と結び欠郡への援軍派遣を取り付けると、政長と同じ道を通り丹波から北摂津、猪名川へと進軍、4月26日に塩川城に入ると、28日に武庫郡に出兵して(長慶の拠点の越水城のあった?)西宮一帯に放火し後方撹乱した。翌29日には伊丹城の政長・親興軍も城から打って出て尼崎にて放火、5月1日には富松城(http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/tomatujo/tomatujo.html)も攻めたが落城させることは出来ず退却した。晴元の狙いは越水城と中嶋城の三好軍を分断し、榎並城にいた政勝を援護することだった。

296とはずがたり:2014/01/20(月) 20:52:38
>>295-296
榎並城に引き続き江口城♪(及び中嶋城・富松城・三宅城など)②

攻勢に出た晴元は、5月2日に三宅城(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%9F%8E大阪府茨木市にあった城。宅地化、農地化がすすんで遺構などは存在せず、推定地として蔵垣内3丁目および丑寅2丁目が有力である。城の周りには堀をめぐらした可能性があり、「堀田」「蓮池」「大名寺池」という堀や城の存在を匂わせる地名が存在している。が、近年の区画整理事業の為、全く形が変わってしまった、あるいは埋められて、遺構や城の片鱗をしのばせるものは無くなってしまった。)の守将香西元成に命じ、味方の六角軍の来援に備えて芥川山城(高槻市三好山にあった。三好方の城があったから三好山なのであろう。。)を攻めさせた。この城は摂津北東に位置する城で山城と摂津の国境付近にある重要拠点でもあり、城主の芥川孫十郎が長慶に与していたため政長と晴元は迂回行軍するしかなかったのである。しかし、香西元成の軍勢が惣持寺の西川原(R171と安威川の交叉付近?)で三好長逸の軍勢に阻止されると、今度は5月5日に政長が伊丹城から三宅城へ入城、5月28日には晴元自身が塩川城から三宅城に入って政長を後援した。

6月の戦況
ここまでの経過で晴元軍は摂津の城を転々としながら戦場へ接近したが、単独で三好軍に挑めないため、ゲリラで三好軍を牽制しながら六角軍の来援を待つ姿勢を取っていた。一方の三好軍はゲリラを気にせず、十七箇所近辺を平定しつつ榎並城を包囲していたが、城方が用意を整えていたため5月の時点でも落とせず、両軍共に決め手が無く長期化していった。
6月になると戦況に変化が起こった。6月11日に政長が三宅城を出て江口城(現在も地下鉄井高野駅付近に神崎川を挟んで北江口と南江口の地名有り)に入ったのである。江口城は北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地だった。政長の出兵目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図り、合わせて三宅城と榎並城の通路を確保して近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と相対することだった。
だが、江口城には致命的な弱点があった。北(安威川or神崎川)・東(淀川or淀川)・南(神崎川or淀川)は川に囲まれた要害であるが、水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点もあったのである。長慶はすかさず江口城を包囲してその糧道を断ち、かつ江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村(摂津市・別府の地名有り)に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させた。

江口合戦

戦端は6月12日に開かれた。近江から馳せつけた政長方の近江朝妻城主新庄直昌が江口で戦死したが、政長と晴元らは六角軍の来援を期待して守勢を通した。六角定頼は更に増兵を決定、子の義賢に率いられた近江軍1万は、6月24日に山城と摂津の国境付近の山崎(山崎から江口城までは半日の行程)に到着する見通しとなった。

24日、六角軍が江口城に到着する直前をとらえ、躊躇する長慶に対して十河一存が六角到着前の決戦を主張し攻撃開始,長慶も続き東西から江口城の政長を急襲した。既に長陣で疲弊していた政長軍は江口城を支えることができず、政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にした。一説に、政長は淀川を南へ下り榎並城に避難しようとして淀川で水死したとも言われている。

戦後の影響

江口城における政長の戦死により、彼を支援して三宅城にいた晴元は、丹波を経由して翌25日に戦わずして帰京した。しかし長慶の追撃を恐れ、前将軍足利義晴・13代将軍足利義輝父子らを伴って近江の坂本へ避難した。これに随行した細川晴賢(堀城主)と細川元常(和泉守護)の領国の和泉は、労せずして長慶の手中に落ちた。また、政勝は榎並城を放棄し瓦林城(西宮)まで撤退、残った反長慶派の伊丹親興は居城伊丹城を三好軍に包囲され、翌天文19年(1550年)3月に和睦したため長慶は摂津の平定も果たした。
政長と連携して晴元政権を支えていた茨木長隆も政長の死に伴って没落するが、その後長慶(細川氏綱)方へ帰順し、奉行人となった。

勝利した長慶は氏綱を伴い7月9日に上洛、事実上京都を手中に収めた。しかし晴元・義晴らは坂本と京都東山(中尾城)を根城として長慶に抵抗、政勝と香西元成らも晴元と合流して京都への出兵を繰り返し、長慶も(京に対しては大山崎を拠点に)晴元らの迎撃及び彼らに呼応した外敵の討伐に当たった。以後数年間長慶は山城と摂津を中心に戦闘を繰り返していくことになる。

297とはずがたり:2014/01/25(土) 16:52:56

細川高国以後廃絶したとも考えられる管領職であるが,その時代に,唯一の一次史料で確認できる管領代として幕政に大きな影響を与えたのが六角定頼である。(事実上の管領代として大内義興,茨木長隆,三好長慶等が挙げられるが史料的に管領代就任の記載は確認できないそうな。大内は家格的にも機能的にも管領代でいいと思うんだけど)

六角氏はしばしば幕府側に攻められてるけど,定頼の父高頼の時の義尚の遠征時には観音寺城を抛棄して甲賀の山中に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込んで粘り勝ち(義尚病死で中止)した。

定頼の子及び孫の義賢・義治父子の代に観音寺騒動で城を追放となり以後廃絶したようである。

その間の定頼の時に六角氏は最盛期を迎え,足利将軍家,細川京兆家等と姻戚関係を結び,義晴に政治上の相談を受け,観音寺の城下町は楽市楽座が布かれ,更に桑実寺に京を逃れた将軍義晴が近江幕府を3年程開いており,一時的に首府の様相を呈していたようである。

隣の安土に信長が本拠地として築城し,更にその隣の近江八幡が秀吉の跡継ぎとして秀次が築城したが何れも天寿を全うせずに斃れこの地が都として遺憾なく本領を発揮しきれなかったのは多少残念である。
序でに云うと安土と近江八幡の合併が安土側の事情で一旦破談になり安土八幡市となる予定が結局近江八幡として吸収合併のような形で実現してしまったのもかなり残念である・・。

幻の観音寺城
http://www.azuchi-study.com/kannon2.htm

298荷主研究者:2014/01/26(日) 18:57:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20140107/CK2014010702000010.html
2014年1月7日 中日新聞
国重文の馬屋を特別公開 彦根城

21頭の馬を収容していたという馬屋の内部=彦根市金亀町で

 彦根市の彦根城内にある国重要文化財の馬屋(うまや)が、特別公開されている。全国でも、近世城郭に大規模な馬屋が残っているのは極めて珍しいという。

 馬屋は表門から内堀をはさんで向かい側にあり、一七〇〇年ごろの建立とされる。火事で一部が焼け落ちたり、建物が縮小されたりしたが、一九六六(昭和四十一)年から六八年の解体修理で現在の姿になった。

 上から見るとL字形の建物には二十一頭の馬が収容でき、一頭ずつ約二メートル間隔で馬繋場(うまつなぎば)が並ぶ。柱には手綱を通す輪っかの金具が残るほか、当時の馬の大きさを再現した馬の模型もあり、藩主の馬が管理されていたころの様子がうかがえる。

 市教育委員会文化財課の担当者は「今年はうま年なので、彦根にお越しの際はぜひ馬屋も見てほしい」と呼び掛けている。

 (辻井勇太)

299とはずがたり:2014/01/30(木) 22:29:20

芥川山城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E

芥川山城(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう)は、大阪府高槻市の三好山にあった城。当時の呼称は芥川城であるが、同じ高槻市殿町周辺にあった城も「芥川城」と呼称しており、高槻市史が便宜上、三好山にあった城を芥川山城と呼称したため、現在多くの文献でも芥川山城と呼称されている。

芥川山城は飯盛山城と共に大阪府下では最も規模が大きな城跡で、遺構の残存状態も良好で戦国時代の典型的な山城である。

能勢氏時代
初代城主は能勢頼則であるが、永正3年(1516年)8月に没しており、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永3年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になっていたと思われる。
大永6年(1526年)、細川高国による香西元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を起こす。波多野稙通らが丹波から京都へ向かう途中、芥川山城を含む摂津の城々を降伏開城させた。この際に能勢国頼は逃亡したと思われる。

細川晴元時代

天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元(既に高国を破り(1531)飯森山の戦いで堺公方も崩壊(1532)した後である。この時は山科本願寺の戦いで一向一揆の反撃で淡路に退去。只この時はwikiの他の箇所の記述だと池田城に入ったと書いてあるけど・・http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1036414406/136 )が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていったと思われる。天文5年(1535年)に晴元は京都に移り管領に就いたが、度々芥川山城に戻り指揮をとっている。これは芥川山城が要害の地であったからである。
天文8年(1539年)8月、晴元は三好長慶によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城したが、両者の間に和議が成立し9月13日に退城。替わって晴元派の薬師寺与一が入城した(長慶は代わりに越水城と摂津半国守護代を得る)。その後、晴元と同族の細川氏綱との間に確執が生じ、天文15年(1546年)に芥川山城は氏綱方に奪われたが、翌天文16年(1547年)に三好軍に包囲され、6月26日に芥川山城は無血開城し長慶の手に落ちた。

三好氏時代
三好長慶は父元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文22年(1553年)7月、芥川孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、8月12日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。孫十郎が退去した後は長慶自身が入城し、摂津における拠点としてここから各地に出向いていった。この頃にも芥川山城は再び防御施設を拡張していったと思われる。永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。
しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳の若さで急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。
義興以後は三好長逸が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川信良を連れて阿波へ逃れた。

300とはずがたり:2014/01/30(木) 22:29:42
>>299-300
和田・高山時代

織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。
翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。

しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571年)8月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られてしまう。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友(右近)父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。
この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。

芥川城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%9F%8E
芥川城(あくたがわじょう)は大阪府高槻市にある城。同じ高槻市にある能勢頼則が築城した山城も芥川城と呼称されている。現在では便宜上、殿町周辺にあった城を「芥川城」、三好山にあった城を「芥川山城」と区別している。

芥川城は、いつごろ築城され、いつごろ廃城になったのかは明確に解っていない。古文書に「芥川城」と明記されているが、三好山にある芥川山城をさしている場合もあり複雑にしている。
また芥川山城の築城後、平時の居館として活用されていたこともあるが、その後の経過については不明である。遺構は殆ど残っておらず石碑と小さな祠が残るのみとなっている。

芥川城は芥川氏によって築城されたと思われている。芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿であり、鎌倉時代には幕府の御家人となり、この前後に築城したと思われている。高槻市史によると芥川氏は「非開発領主型の武士であっただろう」としている。
その後、芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われる。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、芥川本家は歴史から名を消してしまう。あるいはこの時代に芥川城は廃城になった可能性がある。
再び芥川の地を細川高国の命をうけ、能勢頼則が再建に動き出すことになる。永正13年(1516年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もある。

301とはずがたり:2014/02/07(金) 01:04:45

茨木城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E5%9F%8E

茨木城(いばらきじょう)は大阪府茨木市にあった城である。現在の城跡は宅地化され、茨木神社に移築されたと言われている搦手門と茨木小学校に復元された櫓門がある程度で、城をしのばせるものはほとんど残っていない。

茨木城の築城については、よく解っていないが3説が言われている。
建武年間(1334年 - 1336年)に楠木正成が築いた
安富氏が築いた
福富氏が築いた

茨木氏時代
茨木氏は文安年間(1444年 - 1449年)の『文安年中御番帳』に奉行の1人として名前が見えることから、この頃より台頭していたと思われている。また茨木城の文献上の初見は、応仁の乱に東軍の安富元綱方に属していた野田泰忠が応仁元年(1467年)5月20日、「摂州茨木之城に陣を構えた」と『野田泰忠軍忠状』から見受けられる。

文明14年(1482年)に摂津で国人一揆が勃発、細川政元が鎮圧に乗り出した。まず同年6月に三宅城を攻略、ついで同年7月には茨木三郎が守る茨木城も攻略し、同年10月には吹田成枝が守る吹田城を落城させている。
その後茨木長隆が勢力を拡大、細川高国と細川晴元との対立では、晴元方について高国を敗死させ(大物崩れ)、天文7年(1538年)には守護代となった。しかし、天文17年(1548年)には晴元と三好長慶が対立するにいたり、翌天文18年(1549年)の江口の戦いで敗北し、没落した(→この項では死亡と推察と書かれているが別の項に拠ればその後氏綱に帰参した模様)。茨木重朝に代が変わり、室町幕府の御家人として織田信長の摂津入国(永禄11年(1568年))に臣従し、茨木の本領を安堵された。

茨木重朝は本圀寺の変や野田城・福島城の戦いで高槻城主和田惟政と共に織田信長の尖兵として戦ったが、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで重朝・惟政と荒木村重(三好側から織田側に乗換えたがこの時期は池田氏の内紛に関連して信長と対立する。茨木城主となったは1573年 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B8%85%E7%A7%80 )・中川清秀(荒木の家臣)の間で戦闘が勃発、重朝は惟政共々討ち取られてしまった。同年9月1日、勢いに乗った荒木軍は茨木城を攻め落とすべく進軍を開始。茨木城兵も出撃、太田郡の山で鉄砲、弓で進撃を留めようとしたが支えきれず、結局城際まで攻めのぼった。この時活躍したのが荒木軍にいた槍の名手熊田千助で外郭を打ち破り、虎口に押し寄せた。城主重朝は既に討死にしているものの、父の翫月斎やわずかな城兵が城内に残っていた。虎口付近で相当な乱戦になったようであるが、熊田千助が虎口を突破、三の丸を占領し、二の丸を守っていた者達は開城し降参した。いよいよ本丸だけになり、深夜裏切り者(新庄城勢ではないかと言われている)が出て城は炎上、落城した。
この戦いで茨木方の300名以上が討死にし、茨木氏は滅びた。

中川氏時代
その後一旦、茨木城には村重の息子村次が入ったが、実質的な城守は中川清秀で、この時に修復と大規模な拡充を実施、天正5年(1577年)には清秀が正式に茨木城主となった。翌天正6年(1578年)に村重が織田信長に謀反をおこし(有岡城の戦い)、清秀も縁故であるということもあって村重についたが、同年10月28日に信長の調略によって茨木城を開城し織田軍に寝返った。
天正10年(1582年)の本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えていたが賤ヶ岳の戦いで戦死、天正14年(1586年)、息子の中川秀政は数々の功績が認められ、播磨三木城へ6万5000石に移封(中川家は江戸期を通じて藩主として存続。)し、茨木の地は秀吉の直轄地となり、安威城の城主であった安威了佐、河尻秀長が代官として茨木城につめていたようである。

片桐氏時代
関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となる。この時、片桐且元の本領は龍田城にあり、豊臣秀頼の補佐のため大坂城につめていた。
慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件がおき、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走するが、淀殿に疎んじられ、徳川方の内通者と疑いをもたれ、ついに豊臣家と袂を分かつことになる。
大坂夏の陣終了後、且元は4万石、貞隆は1万6400石を与えられそれぞれ竜田藩主、小泉藩主となったが、且元は慶長20年(1615年)5月27日、徳川家康の居城駿府城へ赴く途中に病死した。大坂城が落城した同年5月7日からわずか20日後のことであった。

廃城
江戸幕府は「一国一城令」を発布、これにより摂津では高槻城のみが残り、且元の息子片桐孝利は龍田城へ、貞隆は小泉城へ移っていった。元和2年(1616年)の茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで茨木城は取り壊され、約200年続いた歴史に幕をおろした。

302荷主研究者:2014/02/09(日) 10:29:24

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2014012208384492/
2014/1/22 8:38 山陽新聞
槍・旗櫓の遺構出土 岡山城本丸下の段

旗櫓の遺構で見つかった石段の基礎部分とみられる石(手前)

 岡山市教委が国史跡・岡山城(北区丸の内)本丸下の段で行っている発掘調査で21日までに、軍事倉庫として使われたとみられる「槍櫓(やりやぐら)」と「旗櫓(はたやぐら)」の遺構が出土した。1700年作製の「御城内御絵図(おんじょうないおんえず)」にはない石段跡も見つかっており、城内の増改築の変遷がうかがえる。25日に現地説明会を開く。

 本丸下の段で槍櫓、旗櫓があったとされる2カ所と、登城者の付き人の待機所「供腰掛(とものこしかけ)」があった場所の北側の計3カ所で昨年11月からトレンチ(試掘溝)調査を行った。調査面積は各地点とも約100平方メートル。

 槍櫓の遺構では、過去の発掘調査で存在を確認していた石垣について、幅が約17メートルにわたることが判明。絵図にはない石段跡(幅約4・5メートル、奥行き約2メートル)も確認した。この石段は幅が当初約2メートルだったが、後に約2・5メートル増築したとみられる跡があった。

 旗櫓の遺構については、絵図に記されていた石段の基礎部分とみられる石が出土したほか、別の石段跡(幅、奥行き各約1・5メートル)を発見した。

 現地説明会は午後1時半から実施。小雨決行。問い合わせは同課(086−803―1611)。

303荷主研究者:2014/02/09(日) 11:36:10

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201401/0006661081.shtml
2014/1/25 08:18 神戸新聞
「天空の城」竹田城跡揺れる 保護か活用か論争

竹田城跡の規制区間

人気を集める竹田城跡。保存と活用に地元も揺れている=2013年11月、朝来市和田山町竹田

 保護か、活用か‐。朝来市和田山町の国史跡・竹田城跡が、冬季通行規制解除後の観光客受け入れ態勢をめぐって揺れている。石垣などの遺構の傷みがひどい中、同市役所内部で入場規制などを求める意見と観光振興を主張する考えとの妥協点が見いだせていない。24日の政策調整会議でも、方針は煮詰まらず、旅行業者などの問い合わせにも苦慮している。(竹本拓也)

 同市は本年度、城跡の有料化に踏み切ったが、既に昨年度の2倍となる約44万5千人が来訪。正月三が日には初めて城跡内に警備員が出動するほど混乱した。昨年11月には滑落事故があり、本丸周辺は工事のため立ち入り禁止となったままだ。

 史跡では、観光客に踏み固められて草が生えなくなり、保水できない地表から泥が流出。その影響で天守台南側の石垣がせり出したり、埋もれた瓦片が表出したりしている。同市が設置した学識経験者による専門委員会は「石積みの美しさなど、城跡本来の価値が損なわれていく」と、エリアを限定し、順路に沿った見学方法とするよう求めた。市教委は「眺望の良さではなく、山城の遺構としての価値を理解してもらう方向へ進めたい。遺産の歴史をここで損ねるわけにいかない」と規制の必要性を訴える。

 一方、花見シーズンを前に、ツアーバスの予約は殺到しており、同市竹田城課では地域振興の観点から「天空の城のまちとして全国へ発信している以上、来訪者をもてなしたい」とし、冬期間限定だったマイカー規制を通年化するのは容認する方針だが、見学エリアの限定などには慎重な姿勢だ。

 25日には両部局などの幹部や同市長が協議したが、議論は平行線をたどり、同市幹部は「近く再度、協議して結論を出す」としている。

306とはずがたり:2014/03/05(水) 12:56:48
総構え
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%A7%8B%E3%81%88

総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。


概要
日本では異民族の侵入が少なかったことや山地が国土の大半を占めることなどから、大陸に見られるような城壁都市は一部を除いて発展せず、野戦用の防御施設として作られた「柵」や武士の居館を堀や櫓で防備した「館(やかた、たて、たち)」が、中世には山城へと発展した。
近世にいたり、城郭が単なる軍事拠点のみならず政治的統治拠点としての役割を持つようになると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられるようになった。これが総構えである。
普通、「城」という場合は、内郭のみを指し、外郭である総構えは天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。また総構えの堀は総堀(惣堀)と言うが、外堀と言われることも多い。ただし単に外堀と言った場合は、総構え堀を指す場合と本城の外側の堀を指す場合とがある。
後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。
総構えの典型は、中国の城や中世欧州の都市のように、都市全域を囲む堀と塁(城壁)にみることができる。中世都市の堺は三方を深さ3m、幅10m程の濠で囲み、木戸を設けて防御に備えていた。今でも遺構を見ることが出来る京都の「御土居」も典型的な総構えであり総延長は5里26町余(22.4km)にも及んだ。
最古の遺構[編集]

現在判明している総構えの最古の遺構は、兵庫県伊丹市にある有岡城(伊丹城)趾で、国指定の史跡となっている。有岡城は、南北朝時代に伊丹氏により築城され伊丹城と称したが、天正年間に荒木村重により改修され総構えとなり有岡城と改称した。しかし10年ほどで廃城となっている。

307荷主研究者:2014/03/30(日) 14:46:12

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20140227/CK2014022702000008.html
2014年2月27日 中日新聞
信長居館跡に巨大な庭園 1日に現地説明会

新たに見つかった庭園の跡。岩壁から滝が流れ落ちていたとみられる=岐阜市千畳敷で

 岐阜市で発掘調査が続く織田信長の居館跡で、新たな庭園が見つかった。これまで確認された三つの庭に比べて三倍以上広い千百平方メートル。金華山の岩盤を生かして高さ二十五メートルの滝が設けられ「天下布武」を唱えた信長の意気が伝わる雄大な造りだ。市教委が二十六日発表した。

 市教委によると、信長が岐阜を拠点にした一五六七〜七六年に造られたとみられる。信長が京都の足利義昭の居城を造営し、御所を修理した時期と重なるため、市教委は当時の最高水準の技術が施された庭とみている。

 昨年度に存在が明らかになった御殿とこの庭を結ぶ橋の存在も判明した。この居館を一五六九年に訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、館内の庭園群を「その完全さは国内でまれである」と書簡に記した。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は、庭の一部に石垣が用いられていることに着目。信長が陣地ではなく住居としてこの居館を重んじた表れとして「城内に住居や庭を置いた大坂城や江戸城の先駆けだ」と話す。

 市教委は三月一日に現地説明会を開く。午前十時、十一時、午後一時、二時の四回、岐阜公園内の金華山ロープウエー乗り場南側で調査担当者が新たに見つかった庭の解説をする。

 (末松茂永)

308荷主研究者:2014/04/06(日) 11:28:32

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140317102.htm
2014年3月17日02時29分 北國新聞
鼠多門・橋を復元へ 金沢城と尾山神社結ぶ

門の石垣が残る現在の尾山神社付近

 任期満了に伴う石川県知事選は16日、投票が行われ、即日開票の結果、無所属で現職の谷本正憲氏(68)が6選を果たした。谷本知事は同日、北國新聞社のインタビューに 対し、金沢城公園で新年度、かつて玉泉院丸と金谷出丸(かなやでまる)(現尾山神社)を結んだ鼠多(ねずみた)門、鼠多門橋の復元に向けた基礎調査に着手する方針を明らかにした。

 復元すれば、長町武家屋敷から尾山神社を通って金沢城、兼六園へとつながる回遊ルートができ、加賀藩の歴史をたどる導線が大きく変わる可能性がある。

 県は、2015年度以降を対象にした金沢城公園の次期整備計画を新年度に策定する。鼠多門と橋の復元も盛り込みたい考えで、谷本知事は「歴史的な回遊ルートができ、復元 の意義は大変大きい」と指摘し、6月補正予算に関係事業費を計上する方針を示した。

 鼠多門では、石垣を含めた建物跡一帯の発掘と絵図・文献など史料の調査を進める。谷本知事は「残された写真に沿って史実性の高い復元としたい」と語った。鼠多門橋は、橋 の構造のほか、尾山神社側の取り付け場所、境内の歩行ルートなどに関する検討案を作成し、有識者らの意見を聞いて整備計画を固める。

 整備着手、完成時期は15年度以降に実施する本格的な調査結果をもとに、文化庁などと調整を進める。

 金沢城公園の整備は、1996年の第1期計画から約10年ごとを期間として順次建造物の復元が進められてきた。第2期計画の最終年度となる新年度には橋爪門二の門が完成 し、玉泉院丸庭園が暫定開園する。

 次期整備計画には(1)建造物の復元整備(2)玉泉院丸庭園周辺の整備(3)石垣の保全対策―を主な課題として盛り込む。

309荷主研究者:2014/04/13(日) 11:19:16

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140326/CK2014032602000084.html
2014年3月26日 中日新聞
天守門復元、浜松城に華

◆28〜31日無料公開

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2014032602100031_size0.jpg
復元工事がわり、28〜31日に無料公開される浜松城天守門。上部の櫓にも入ることができる=25日、浜松市中区の浜松城公園で(古田哲也撮影)

 浜松市中区の浜松城公園内にある浜松城天守門の復元工事が終わった。四月一日の正式オープンを前に、今月二十八〜三十一日の四日間は天守閣とともに無料公開される。

 天守門は安土桃山時代(十六世紀末)に建てられ、江戸時代に改修が繰り返された後、一八七三(明治六)年に浜松城が廃止になり取り壊された。復元は二〇一〇年度に策定された浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画の柱の一つで一二年七月に着工、総工費一億七千万円を投じた。

 〇九、一〇年度の発掘調査で見つかった礎石や、十九世紀の絵図などを基に、三浦正幸広島大大学院教授が復元図を作成した。

 完成した天守門は高さ九メートル。上部には木造平屋延べ床面積五十六平方メートルの櫓(やぐら)があり、復元の模様を映像で紹介する学習施設になっている。下部は幅五メートルの城門。

 二十八日は午前十時から完成式がある。無料公開は二十八日が正午〜午後四時三十分、二十九〜三十一日は午前八時三十分〜午後四時三十分。四月一日からは天守門と天守閣の共通入場料二百円(高校生〜六十九歳)。

310とはずがたり:2014/05/14(水) 15:54:15

村上水軍:3家系当主、約400年ぶり結集 確執水に流す
http://mainichi.jp/select/news/20140427k0000e040107000c.html
毎日新聞 2014年04月27日 09時05分(最終更新 04月27日 12時08分)

和田竜さんの講演会で握手する村上水軍主要3家系の当主=愛媛県今治市で2014年4月26日、松倉展人撮影
和田竜さんの講演会で握手する村上水軍主要3家系の当主=愛媛県今治市で2014年4月26日、松倉展人撮影
拡大写真
 「村上海賊の娘」で今年の本屋大賞に輝いた作家、和田竜(りょう)さんの講演会が26日、小説の舞台に近い愛媛県今治市であり、村上水軍主要3家系の当主が約400年ぶりに集まってがっちり握手した。

 村上水軍は本拠地ごとに「能島」「因島」「来島」に分かれ、現在の当主は山口、東京、大阪に居住。講演会を機に主催の今治市村上水軍博物館などが結集を企画した。

 中世から戦国に勢力を競った3家だが、和田さんから「確執は?」と問われると、全員が「会えて幸せです」。海賊の子孫らしく、水に流していた。【松倉展人】

311荷主研究者:2014/06/21(土) 15:01:37

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20140503/CK2014050302000011.html
2014年5月3日 中日新聞
采女城跡、県外からも人気 郭や空堀の保存良好

采女城跡に残る深さ3メートルの「空堀」=四日市市釆女町で

 四日市市内部地区の采女(うねめ)城跡が、保存状態のよい遺構として人気を集めている。愛知県からも城愛好会が相次いで訪れており、采女城跡保存会の堀保会長(79)は「五百年前の歴史を伝える地元が誇る財産。多くの人に興味を持ってもらえてうれしい」と話している。

 保存会によると、采女城は鎌倉時代半ばの一二六〇年代に築城された平山城。戦国時代にかけて増改築したが、一五六〇年代に織田信長に攻め落とされたという。現在は本丸の出入り口の「虎口(こぐち)」、二の丸や三の丸など十カ所の郭(くるわ)、敵の侵攻を防ぐ深さ三メートルの空堀(からぼり)や高さ二メートルの土塁が遺構として残る。

 保存会は内部地区の住民が中心となり、二〇〇三年に発足。生い茂って遺構を壊す恐れのある草木を定期的に刈り、見学者のために遊歩道を整備してきた。一一年には本丸周辺一万五千五百平方メートルが市民緑地となり、市民が接する機会も増えた。

 県外からの見学が増えたのは、昨年二月に中部地方の愛好者でつくる「東海古城研究会」が訪れて以降。「遺構の保存状態が良い」「当時の城の造りがよく分かる」と評判が広がり、愛知県の各市から愛好会のバスツアーが相次いでいる。「城好きの人たちから、逆に私たちが城の知識を教わることもある」と堀会長は話す。

 緑地は地元子ども会のキャンプやウオーキングなどイベントでも活用されている。堀会長は「やはり一番、親しんでほしいのは地元の子どもたち。過度に手は加えず、そのままの姿を後世に残していきたい」と意気込んでいる。

 (河崎裕介)

313とはずがたり:2014/09/21(日) 19:27:35
実在した「豊臣」の“幻の城”…奈良「郡山城」は天守・櫓・御殿が一体となった“100万石の城”だった
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140921/wlf14092118000007-n1.htm
2014.9.21 18:00

 豊臣秀吉の弟で政権ナンバー2とされる秀長が居城とし、奈良、和歌山、大阪など100万石の中心地だった奈良県大和郡山市の郡山城で、豊臣政権期のものとみられる天守閣の痕跡が初めて見つかった。天守台や礎石の規模から高さは20メートルとも推定され、5階建て相当の建物だったとみられる。関ケ原以前の天守閣については史料が乏しく、専門家は「天守閣、櫓、本丸御殿が一体化した壮大なつくりだった可能性もある」と指摘する。豊臣の“幻の城”の全貌に迫った。
(橋本昌宗)

首都・大阪の東を抑える重要拠点

 郡山城のある大和国は当時、山城、摂津、河内、和泉と合わせて「畿内」と呼ばれていた。日本の中心地の一角を占めていただけでなく、大阪、京都にも近い重要拠点だった。

 そのため、織田信長の後に政権を握った秀吉は「片腕」としていた弟の秀長に郡山城を与え、秀長は天正13(1585)年に入城。大和、紀伊、和泉、など100万石を領地とした。

 19年に秀長が没すると、養子の秀保が郡山城を継承。秀保の死後は豊臣政権下の五奉行の1人、増田長盛に与えられた。関ケ原合戦後は廃城状態となったが、江戸時代になって徳川家の譜代大名が居城とした。

高層建築に典型的な工法

 今回の発掘調査は、大和郡山市が郡山城で進めている天守台の整備に伴って市教委が実施した。天守台は天守閣があったとみられる頂上部分(南北18メートル、東西15〜16メートル、本丸からの高さ8・5メートル)と、それより約4メートル低く、天守閣に付属する「付櫓(つけやぐら)」にあたる部分(南北11〜17メートル、東西22メートル)からなる2段構造となっている。

 市教委はこの頂上部分全域と、付櫓の一部を発掘調査。頂上部から、大小の礎石23個が見つかった。礎石は建物の基礎になる石で、南北に2列、東西に3列にわたり、ほぼ隙間なく並べられていたとみられる。

 古代寺院などでは、点々と並んだ礎石の上に直接柱を建てた遺構もある。だが、郡山城では大小の礎石が交互に並んでいることから、横倒しにした木材の上で、大きい礎石がある場所に柱を立てたとみられるという。

 発掘を担当した同市教委の十文字健さんは「建物の重さを分散させるための工法で、後世の天守でも同様の構造が残っている」と指摘する。

天守閣は柱間「1間」の距離が約2・2メートルで、中心部分の「身舎(もや)」が南北4間、東西3間。1階部分全体は南北8間、東西7間だった。構造から推察される天守閣は5階建てで、1階ごとの天井高が3メートルなら単純計算で15メートルで、その上に豪壮な屋根が乗るため、高さは20メートル近くなる可能性もある。

金箔瓦も出土

 調査では瓦も出土。付櫓から出土した菊の紋様が入った瓦片には、わずかながら金箔が付着していた。

314とはずがたり:2014/09/21(日) 19:28:00
>>313-314
 金箔瓦は安土城をはじめ、大阪城や秀吉が京都に建設した政庁兼邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」など、豊臣家に関わる限られた城で使われている。このほか大阪城の瓦と同じ型を使った瓦や聚楽第のものとよく似た瓦、17世紀初頭以前に主流だった糸で切った痕跡のある瓦も見つかった。

 こうした出土品から、十文字さんは「天守台は大きく改変された痕跡がない上、出土遺物から考えると関ケ原合戦以前の16世紀後半に建てられた」と分析。また、城郭に詳しい奈良大学の千田嘉博学長は「出土品からは秀長、秀保、長盛の時代としかいえないかもしれないが、柱と柱の間が2・2メートルと長く取られていることから、天下人か、それに近い人物の城だと考えられ、秀長か秀保の時代に建てられたのでは」と推測する。

天守閣、付櫓、御殿が一体化した建物か

 付櫓は、頂上部分を南東側に囲むようにつくられており、本丸の地表から付櫓、付櫓から天守閣部分−と、石段を上がるような構造になっている。だが、この石段は明治時代につくられたとされ、付櫓や天守閣への「入り方」はこれまで不明だった。

 調査では、本丸の地中に外から付櫓内に向かう石垣の痕跡を発見。付櫓には地下室もあり、本丸からいったんこの地下室に入る構造になっていたことが判明した。

 この「入り方」をめぐっては、城の地表から石垣の途中まで伸びて途切れる道が描かれた江戸時代の絵図面が見つかっていた。何の図面かと議論の的になっていたが、今回の調査結果と合致した。

 また、天守閣があった頂上部分にも、付櫓側に伸びる幅約3メートルの出入り口とみられる遺構を発見。まず本丸から付櫓の地下室に入り、そこから付櫓内を上がって階段か渡り廊下を使い天守閣に入る構造だったとみられる。

 千田学長は「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」と想像を膨らませる。

今後の研究に高まる期待

 現存天守は全国に12あるが、彦根城(滋賀県彦根市)や姫路城(兵庫県姫路市)をはじめ、そのほとんどは慶長5(1600)年の関ケ原合戦以降に建てられている。千田学長は「関ケ原以前の城で天守の遺構が分かるものといえば、織田信長の安土城と秀吉が建てた肥前名護屋城くらいしかない」と話す。

 大阪城でさえ、現在残っているのは大阪の陣の後、徳川家が立て直した遺構だ。秀吉当時の遺構はまだ埋まったままで、詳細は不明。このため、これまで関ケ原以前の城を考える際に「基準」とされたのは安土城だった。

 だが、安土城は信長が本拠地として建てた城。遺構は見つかっているものの、天守閣の構造については諸説分かれている。

 千田学長は「今回、郡山城から16世紀末の遺構がきれいに出たことで、織豊期(織田、豊臣の時代)の城を考える新たな基準として、これから研究に活用されていくだろう」と話している。

315とはずがたり:2014/11/18(火) 09:05:25
伊達家は別格? 今でも徳川家の隣に“指定席”
http://dot.asahi.com/wa/2013031400059.html
(更新 2013/3/16 07:00)

 旧仙台藩領はほぼいまの宮城県にあたる。作家・司馬遼太郎も『街道をゆく 仙台・石巻』に〈この地の近世の原形は、伊達政宗がつくったとしかおもえない。それほど政宗の存在が大きく、その死後、遺臣たちが祖業を完成した〉とつづっており、その「祖業」はいまも生きている。

 伊達家18代目の当主の伊達泰宗さん(54)は旧大名家が集まる会に出席する機会が多い。徳川家をはじめとして、前田家、上杉家、島津家と戦国のビッグネームが集まるなか、伊達家の“指定席”は徳川家の隣となっている。

「うちは外様なので本当は近くに座る立場にありませんが、『伊達家は別格ですから、おそばにどうぞ』とおっしゃっていただいています。幕末のとき、会津を助けて奥羽越列藩同盟の盟主になったこともありますが、『関ケ原ではお味方いただいた』ということが大きいようです」

 江戸城を造るとき、政宗は家康に相談されたという。

「絵図面を見せられ、『おまえならどこから攻めるか』と家康に聞かれた政宗公は即座に、いまの江戸城の東北側に位置するお茶の水を指さし、『私ならここに大砲を据え付けて撃ち込みます』と答えたそうです。家康はそうかと聞き流しましたが、内心肝を冷やしたことでしょうね。その後の幕府は、外堀の工事を進めて防御を固め、仙台藩に普請させています」

 このエピソードは、泰宗さんの著書『伊達家の秘話』で紹介され、「現在の水道橋(東京都千代田区)から御茶の水にかけて両岸絶壁がそそり立つような堀の名を、仙台藩が普請したことから『仙台堀』と称したという」と、書かれている。

※週刊朝日 2013年3月22日号

316とはずがたり:2014/12/25(木) 19:27:26
秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責?
2014年12月22日 09時19分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141222-OYT1T50024.html

 豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守ちくぜんのかみ」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが中京大の播磨良紀教授(織豊期しょくほうき研究)の研究でわかった。

 播磨教授は「本能寺の変以前の秀吉の実像解明につなげたい」と話している。

 約7000通にのぼる秀吉の文書を集成する「豊臣秀吉文書集」(名古屋市博物館編、来月刊行)の編集作業で判明したといい、学術誌「織豊期研究」で発表した。

 秀吉は1573年7月、木下姓から羽柴姓になり、75年に筑前守を名乗り始めたが、定説では「藤吉郎秀吉」と「筑前守秀吉」を併用していたとされる。

 しかし、播磨教授によると、羽柴時代の文書約1000点の署名を時系列で調べたところ、75年〜78年12月は「筑前守」、同月〜81年7月は「藤吉郎」だった。

 秀吉は当時、信長の命で中国地方の征討に乗り出し、播磨(兵庫県西部)を制圧。さらに西の毛利氏と戦おうとしたが、78年2月に播磨の大名の別所氏、同年11月には有岡城(同県伊丹市)の荒木村重が反乱を起こし、村重を説得しに行った黒田官兵衛が幽閉された。

 再び筑前守を名乗る81年7月は反乱も収まり、毛利攻めが本格化した時期で、播磨教授は「信長に再使用を認められたのだろう」と推測している。

 藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)は「秀吉の書状は年号のないものが多いが、署名時期の境目が明確になり、他の文書の年代も推定できるようになる。秀吉の署名の変遷は、信長側の史料などで裏付けられれば面白い」としている。

2014年12月22日 09時19分

317荷主研究者:2014/12/31(水) 15:51:39

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20141227201.htm
2014年12月27日05時03分 北國新聞
富山城外堀は二段掘り 富山市埋文センターが初調査

発掘された富山城の外堀跡=富山市総曲輪4丁目

 富山市埋蔵文化財センターは26日、同市総曲輪4丁目の旧総曲輪小跡地で実施した発掘調査で、1661(寛文元)年に造られた富山城の外堀跡を確認したと発表した。底の構造が江戸時代の城郭では珍しい二段掘りになっており、深さは最大で5メートルあったことが分かった。富山城外堀の調査は今回が初めてで、同センターは「想像以上に外堀の規模が大きく、富山城の様子を知る上で貴重な資料になる」としている。

 今回発掘されたのは大手門西側の一部分で、長さ約66メートル、幅は22〜28メートル。西に向かうほど幅が広がっていた。堀の深さは最も浅い南側で約3・7メートル、北側で約5メートルあり、内部で段差が付けられていた。

 市埋蔵文化財センターの古川知明所長によると、段差のある堀は浅瀬で敵を安心させて深みに沈めるわなの一種で、戦国時代の城郭に見られる。古地図などから堀の北辺に高さ約5メートルの土塁が築かれていたことが分かっており、堀の底からの高さが約10メートルになる壁が城を守っていたと考えられるという。

 堀の底からは、周辺に住んだ下級武士らが捨てたとみられる越中瀬戸焼などの陶磁器や、仏事で使われる銅製の鶴亀燭台(しょくだい)などが出土した。井戸の水溜めに使われる直径30〜50センチの曲げ物2個も埋められ、上部の土に井戸を掘った痕跡がないことから、堀内大介主査学生員は「湧き水を堀に利用するために置かれた可能性がある」と推測している。

 旧総曲輪小の跡地には市医師会看護専門学校などが建設されることになっており、市埋蔵文化財センターが10月から発掘調査を進めていた。今後は土塁の基底部などを調査し、今年度中に埋め戻す予定となっている。

 富山市埋蔵文化財センターは27日午後1時半〜3時、発掘現場を一般公開する。参加無料で、調査担当者が成果を説明する。

 富山城の外堀 富山城三ノ丸を取り巻いていた堀で、南側にあった大手門の前から東西に走り、西端は平吹町付近、東端は総曲輪3丁目の旧富山西武付近に達していた。東西の端でほぼ直角に折れ曲がり、城の北に流れていた神通川(現在の松川)に向かって伸びていた。

318とはずがたり:2015/01/10(土) 22:36:28
阪神大震災の前夜というか数時間前に深夜の姫路城のライトアップが消えるのを見て以来の姫路城。
今回は官兵衛館の最終日に併せて息子連れて来姫,初入城。でかいわ。。
天守閣は工事で入れなかったけど十分広いし息子連れには恰度良い。

しかし官兵衛館も連休なんだから明後日までやってくれてもいいのに今日が最終で混んでいた。

319荷主研究者:2015/01/17(土) 16:05:12

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20150113201.htm
2015/01/13 03:12 北國新聞
武士と町人をつなぐ上水路 富山・一番町で遺構出土

 富山市埋蔵文化財センターが同市一番町で行った富山城下町遺跡の発掘調査で、武家屋敷地と町屋敷地をつなぐ江戸後期の上水路の遺構が発見された。同センターによると、富山城下町で武家屋敷地から町屋敷地へ送水する上水路の構造物が確認されたのは初めて。同センターは「幕末には武士と町人の身分が隔てられず、水を送る関係があったとみられる」としている。

 出土した上水路は長さ4メートル、幅約20センチ。送水管となる太さ6センチの竹に繊維を巻いて土で覆い、木の板で補強されていた。背中合わせとなった屋敷の間に東西方向に掘られた「背割(せわり)水路」と呼ばれる生活排水路の中を通っていた。土地の高低差から、武家屋敷地だった背割水路北側から、町屋敷地だった南側へ水を流していたと考えられる。

 調査の結果、上水路は背割水路の積み石を一度解体し、造り直して設置されていた。富山城周辺は湧き水が豊富で、町屋敷地からは井戸跡が見つかっている。手間と費用をかけて上水路を設置した理由や、上水の具体的な用途などは不明で今後の研究が待たれる。

 同センターの報告書によると、江戸時代の上水路は各地の城下町整備に伴って飲用水の安定的な確保を目的に設置された。竹と木材を使った遺構は、立山町芦峅寺室堂遺跡をはじめ、福井市の福井城跡、東京の汐留遺跡など全国で見つかっている。

 野垣好史主査学芸員は武家屋敷地と町屋敷地を水路でつないだ目的は不明とした上で「幕末になって、身分に対する意識が薄くなっていたのではないか。周辺を探せば同様の水路が出てくる可能性がある」と話している。

 富山城下町遺跡は、2013年11月〜14年2月に調査が実施され、周辺からは多数の陶磁器や漆器なども見つかっている。

 近世の富山城下町 富山藩の初代藩主前田利次が1661(寛文元)年に築いた富山城(現在の富山城址公園)を中心に整備された。古地図などによると、城の外堀周辺に武家屋敷が集まり、その外側に町民の住む地域が広がっていた。富山市埋蔵文化財センターが2005〜13年に行った調査では、同市一番町の地中などから、武家屋敷地と町屋敷地を分けた下水溝とみられる背割(せわり)水路が多く確認されている。

320とはずがたり:2015/02/18(水) 23:05:59
「絶対にない」はずのものが…信長の初めての城
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150213-OYT1T50047.html?from=ysns_ycont
2015年02月13日 11時45分

小牧山城の復元図。今回発掘した北東側は矢印の方向。左の赤い帯の部分に3段目の石垣が巡っていると推定される(絵・富永商太、監修・千田嘉博)
史跡公園整備が計画されている小牧山(小牧市提供)

 「絶対にないと思っていたものが見つかった」――。

 愛知県小牧市の小牧山城跡で出土した3段目の石垣は発掘担当者も驚く発見だった。石垣の調査は今年度で終え、12年にわたる城の中心部(主郭、のちの本丸)の発掘調査を新年度に完了する予定だった。しかし、今回の発見で、「信長の初めての城」が想定よりも一回り大きい可能性が高まり、今後、調査範囲や期間の拡大が予想される。

 今年度の調査は、主郭を囲む「2段」の石垣が周回することを確認するために、北東側約200平方メートルを発掘するものだった。2段の石垣の下は急斜面で、当時の技術では石垣が築けないと考えられていたが、今年1月に3段目が出土した。

 3段目は、高さ2メートルのうち下半分(約1・0〜1・2メートル)を石積みで腰巻き状にした「腰巻き石垣」で、小牧山城では初めてのタイプだった。

 発掘を担当する同市の小野友記子・文化振興課主査は「さらに斜面の下に4、5段目の石垣がある可能性もある。正面の南側の斜面なども詳しい調査が必要になるかもしれない」と驚く。

 当時の尾張には、石垣の城は存在していなかった。千田嘉博・奈良大学長(城郭考古学)は「信長にとって初めて造る城であるし、当時の技術水準からすれば、せいぜい2段でとどめてもおかしくない。ところが信長は少しでも1歩先を目指した。時代を切り開く信長像が反映されている城だ」と指摘する。

     ◇

 今回、最上段の1段目の裏側の構造も初めて明らかになった。表面の大型の石、その裏に排水のための大量の小石(裏込石(うらごめいし))があることに加えて、主郭を造成した土が流れ出さないように中型の土留(どど)め石が埋設されていることが判明したのだ。

 中井均・滋賀県立大教授(日本城郭史)は「見えない部分の工夫と技術の高さに驚かされた。実際の工事を行った技術者集団を信長はどこから招いたのか、非常に興味深い」と話す。

 ◆小牧山城=織田信長が1563年、美濃攻めのために小牧山に新たに築いた城。本拠の清須から家臣団や町人などを移住させ、麓には城下町を整備した。岐阜へ移った後に廃城となり、信長の死後の84年の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉と戦う徳川家康が本陣を置き、堀をつくるなど改修した。江戸時代になると、尾張徳川家が家康ゆかりの地として入山を禁止した。1927年に国の史跡に指定。天守閣はなく、現在、山頂にある小牧市歴史館(通称・小牧城)は1968年に完成した鉄筋コンクリートの建物。(岡本公樹、大隅清司)
2015年02月13日 11時45分

321荷主研究者:2015/03/08(日) 12:02:50

http://www.at-s.com/news/detail/1174169731.html
2015/2/20 07:58 静岡新聞
駿府城天守台、発掘調査へ 静岡市が予算計上

新年度から発掘調査に向けた準備が行われる駿府城公園=2014年6月中旬、静岡市葵区(本社ヘリ「ジェリコ1号」から)

 静岡市は駿府城天守台の整備に向け、駿府城公園内の天守台跡地の発掘調査を開始する。2015年度当初予算案に準備経費5500万円を盛り込んだ。発掘は16、17年度をめどに実施し、成果の検証と並行して再建構想の策定に入る。

 発掘予定地は天守台跡地と周囲の本丸堀を含む約1万5千平方メートル。開催中の徳川家康公顕彰400年記念事業(400年祭)が終了する16年1月以降、発掘に支障のある設備の撤去などを開始する。ヘリポートの一部取り壊しや樹木の移植なども行われる見通し。

 発掘後は現在ある天守台の図面と照らし合わせるなどして遺構の年代、構造などを検証する。1980年に県教委が実施した発掘調査で石垣の一部を確認していて、市公園整備課は天守台の位置や構造がおおむね判明すると見込む。同課は「天守閣の再建も目指す場合、天守台の復元には年代、強度などで課題が生じる。総合的な検討が必要」としている。

 本年度開始した桜の名所づくり事業では、3月末までに植樹するソメイヨシノなど100本に加え、15年度には30本を追加する。坤櫓(ひつじさるやぐら)や東御門前広場などを中心に植樹し、建設を目指す歴史文化施設とセットで歴史都市の拠点となる空間を目指す。

322荷主研究者:2015/04/05(日) 20:35:30

http://yamagata-np.jp/news/201503/21/kj_2015032100484.php
2015年03月21日11:17 山形新聞
山形城二ノ丸隅櫓石垣を復元 きょう公開、城門より古い技術で築造

復元された坤櫓の石垣。下部は従来の石垣を生かし、築造当初の姿を再現した=山形市・霞城公園

 山形市の霞城公園内にある山形城跡で、市が復元工事を進めてきた二ノ丸隅櫓(すみやぐら)の石垣が完成した。事前の発掘調査によって、隅櫓の石垣はもともと、現存する城門の石垣よりも古い技術で築造されたことが分かっている。市は21日に一般公開し、隅櫓と城門の石垣の違いなどについて解説する。

 山形城は本丸、二ノ丸、三ノ丸から成る平城で、二ノ丸から内側が霞城公園となっている。今回復元したのは、二ノ丸土塁の4隅にある櫓の一つで、南西角の「坤(ひつじさる)櫓」の石垣。園路整備に伴う発掘調査で地中から石垣の跡が見つかり、江戸時代の絵図などに基づき、昨年秋から復元工事を進めていた。

 完成した石垣は、最も高い部分で地面から約2.5メートル。櫓が建っていた上の平らな部分は約10メートル×約7メートルの広さがあり、4段の石段を備えている。鳥居氏が城主だった1622(元和8)〜36(寛永13)年の築造とみられるが、はっきりしない。二ノ丸の東西南北4カ所に現存する城門の石垣にはより高い加工技術が用いられ、築造時期や施工集団の違いがうかがわれる。

 櫓は江戸時代を通じて補修が重ねられ、古い瓦を石垣の周辺に捨てて土を盛る作業が繰り返された。このため、石垣は最大約1メートルの高さまで土で覆われたとみられる。さらに、地上に残っていた部分や櫓も明治時代に壊された。復元工事では地中に埋まっていた石垣の上に新たに石を積み、築造当初の姿をよみがえらせた。櫓の復元予定はない。

 一般公開は午前10時半〜正午に行い、普段は周辺を囲っているフェンスを外し、近くで見学できるようにする。参加無料。今月中に完成検査を行い、正式公開する予定。保存のため、石垣の上に乗ることはできない。周辺の土塁上には約200メートルの園路を整備。ベンチを設けるなどして散策を楽しめるようにしている。

323荷主研究者:2015/04/05(日) 20:48:48

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150321/CK2015032102000127.html
2015年3月21日 東京新聞
「滝山城跡」念願の駐車場 八王子、あすオープン

滝山城跡の、本丸と中の丸を隔てた空堀にかかる引橋=八王子市で

 八王子市が国史跡「滝山城跡」近くに整備していた無料の「滝山観光駐車場」(丹木(たんぎ)町三)が二十二日、オープンする。戦国時代の空堀(からぼり)や土塁などが残る城跡は「都立滝山公園」となっており、サクラの名所でもあるが、専用駐車場がないため利用しにくかった。駐車場開設を機に、市と地域住民らは観光PRにも力を入れようと、二十一日には記念イベントを開く。 (村松権主麿)

 滝山城跡はJR八王子駅の北約四キロ。北を多摩川、南を滝山街道(国道411号)にはさまれた丘陵地にある。駐車場は二十九台分で、「丹木町三丁目」交差点角に設けられる。利用時間は午前九時〜午後五時(十一〜二月は午後四時まで)。市は用地取得と整備費約八千万円を計上した。

 現地でガイドや保存活動をしているNPO法人「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」理事長の西山富保さん(79)は、駐車場完成について「気兼ねなく来てもらえる。城跡と自然を楽しんでほしい」と歓迎する。

 滝山城は十六世紀半ば、小田原を拠点とする大名・北条氏康の支配下となり、三男の氏照が入城。傾斜が緩やかな南からの攻撃に備え、空堀や土塁、敵を迎え撃つ平たんな「曲輪(くるわ)」などを緻密に配置した。その後、氏照は鉄砲などの攻撃に備えやすい山城の八王子城を築いて移り、一五九〇年に豊臣秀吉により滅ぼされた。

 廃城となった滝山城跡に建物は残っていないが、開発を免れた遺構の保存状態は良好という。市文化財課の新藤康夫学芸員(64)は「実際に歩くと、土塁と空堀が何重にも築かれ、空堀を土橋で分断して敵の侵攻を食い止めたりした工夫がよく分かる。歩いて面白い貴重な城跡」と説明する。

 二十一日は午前十時〜午後零時半、和菓子などが販売され、豚汁と甘酒が振る舞われる。この日の来場者用駐車場は龍源寺(加住(かすみ)町二)。イベント後、守る会が城跡の無料ガイドを行う。

324荷主研究者:2015/06/13(土) 18:43:26

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150521000041
2015年05月21日 10時03分 京都新聞
滋賀・彦根城外堀の土塁確認 23メートル原形とどめる

現存する彦根城外堀の土塁。右上から左奥に向かって23メートルが原形をとどめていることが確認された。左のテントは堀があった場所(彦根市中央町)

 滋賀県彦根市中央町の彦根城外堀跡で現地調査を進めている彦根市教委は20日までに、外堀の土塁が23メートルにわたり原形をとどめていることを確認した。市教委文化財課は「城の外堀の土塁がそのまま残る例は全国的にも珍しい」としている。

 外堀は1615(元和元)年の彦根城第2期工事で建設され、総延長は3・4キロあった。戦後に、蚊の発生を抑え、マラリアの流行を防ぐ目的で埋められた。埋め立ては堀の内側(城郭側)を囲んでいた土塁の土砂を利用したため、土塁はほぼ姿を消したとされていた。

 今回調査対象となったのは、銭湯「山の湯」の敷地内で、庭園築山として長年使われていた。台形の丘に見えることから地元では「山」と呼ばれており、外堀の土塁であったことは市内でもほとんど知られていなかった。

 市教委は4月から調査を実施。外堀の土塁の高さは内側が5・5メートル、外側は6〜7メートル。台形の上部幅は4メートル、基底幅は18メートルあることも確認した。堀の幅は約16メートルで、文書史料の記述や絵図とも一致している、という。市教委の下高大輔主任は「断面から9層になっていることも確認でき、外堀の構造を知る上で貴重な遺構だ」と話す。

 市教委は今後、外堀の文化的価値を証明し、どのような保存方法があるか検討する方針。23日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは市文化財課TEL0749(26)5833。

325荷主研究者:2015/07/04(土) 23:06:12

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150618000193
2015年06月18日 23時25分 京都新聞
秀吉「幻の伏見城」石垣、中心部を初確認 自然石、聚楽第と酷似

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20150618232318fusimi.jpg
南北36メートルにわたって出土した石垣(左)と堀の跡=18日午後2時40分、京都市伏見区桃山町泰長老

 民間発掘調査会社の京都平安文化財(京都市伏見区)は18日、豊臣秀吉が造営した伏見城の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が、伏見区桃山町泰長老の調査で見つかったと発表した。城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構となる。

 伏見城の造営は複数段階に分かれており、指月城は秀吉が隠居所として1592年から巨椋池を望む指月の丘に建立、徐々に天守を備えた城として整備拡張した。だが、96年の慶長大地震で倒壊したため、北東の木幡山に移転した。

 今回の調査地は、文献などから指月城の中心部と推定されていた観月橋団地の中央付近。城中心部西側の石垣とみられ、南北約36メートル分にわたって見つかった。加工していない自然石がほとんどで2、3段分が残っていた。洛中の聚楽第(じゅらくだい)跡で確認された石垣と様式が酷似している。石垣に沿って幅5〜7メートルの堀も確認された。

 過去に調査地北西部で部分的に石垣が確認された例はあったが、中心部の遺構はなかった。城を彩った金箔(きんぱく)瓦も大量に見つかり、文献でうかがうしかなかった壮麗な秀吉の指月城の姿が想像できる。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「点だった指月城が面として分かった大きな成果だ。屋敷のような方形タイプと推定できる。軍事と政治の二面性がみられ、しっかりした造りで防御の意識も高かったようだ」とみている。

 現地説明会は20日午後1時半〜3時半。観月橋団地の中にある。駐車、駐輪場はない。当日のみ現地携帯電話090(5670)5195。

326荷主研究者:2015/07/04(土) 23:20:45
>「再建する場合、文化庁は木造しか認めない」
そうなの?

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20150617/CK2015061702000051.html
2015年6月17日 中日新聞
市「早期木造復元が優位」 名古屋城天守閣で調査結果

 名古屋城天守閣の木造復元に向け、名古屋市は十七日、「耐震改修に比べ、可能な限り早期の木造復元に優位性がある」との調査結果を市議会に伝える。ただ、財源確保や木材調達など課題は多い。実現には市民の理解も不可欠で、紆余(うよ)曲折も予想される。

 空襲で焼失した天守閣は一九五九(昭和三十四)年、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された。市によると、老朽化が進み、震度6強の地震で倒壊の恐れがある。

 市は昨年度、現在の天守閣を補強する「耐震改修」と、天守閣を取り壊して新たに造る「木造復元」を比較し、どちらの計画が望ましいかを調査した。

 調査結果によると、耐震改修で天守閣の耐用年数は四十年延びるが、コンクリートの劣化は防げない。市の説明では「再建する場合、文化庁は木造しか認めない」といい、いずれ木造復元が必要になるという。

 四十年後の木造復元では、熟練技術者が減る上、少子高齢化で財政状況はますます厳しくなると懸念。耐震改修ではなく「早期の木造復元に優位性がある」と結論づけた。

 ただ、耐震改修費が二十九億円なのに対し、木造復元では四百億〜二百七十億円と膨大。木造復元といえども、建物を支えるために石垣に埋め込んだ鉄筋コンクリート製の基礎部分は撤去せずに利用する方針だが、天守閣の解体や石垣の積み直しなどを含め工期は十八年と見込む。「二〇二〇年の東京五輪までの実現」を提唱する河村たかし市長の考えとは、大きな開きがある。

 さらに、木造復元を進めるとしても、材料となる太いヒノキは「入手困難な状況が続く」と指摘。膨大な建設費の確保も「十分な検討が必要」と明言を避けており、今後より詳細な検討が求められることになる。

 (北村剛史、丸田稔之)

328名無しさん:2015/08/10(月) 16:35:38
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150807-00000008-sasahi-life
御年83歳! “日本のマチュピチュ”を世に広めたアマチュア写真家とは〈dot.〉
dot. 8月7日(金)11時43分配信

 雲海に包まれた姿が美しい、兵庫県朝来市にある竹田城跡。ここ数年で「天空の城」「日本のマチュピチュ」として有名になり、多くの観光客が訪れるようになった。そのきっかけを作ったのが、同市のアマチュア写真家、吉田利栄(としひさ)さん(83)が撮影した写真だ。

 8年ほど前、兵庫県庁を退職し、趣味の写真を楽しんでいた吉田さんに、朝日新聞から「雲海に浮かぶ竹田城を撮られないか」という依頼が舞い込んだ。3日間かけて撮影して送ると、すぐに掲載された。それからテレビや新聞、雑誌などで取り上げられて訪れる人が増え、2014年度の入場者数は約58万人となった。

 吉田さんはブームになってからも、年約250日は竹田城を撮り続けている。約5キロ北にある自宅から竹田城を見て、良い写真が撮れそうならすぐに車で出発する。被写体が同じでも、季節や時間、撮影条件によって、また違った表情を見せるからだ。

 パソコンのハードディスクには、おなじみの雲間に浮かぶ姿、ライトアップされた姿、星空をバックにそびえ立つ姿、夜明け前の幻想的な姿など、様々な竹田城の写真が保存されている。それらは、「地元へのささやかな貢献」として、市や企業から依頼があれば、無償で提供している。市のパンフレットや飛行機、電車のラッピングなどに使われ、多くの人に竹田城の姿を伝えているのだ。

 高校時代に、小学校の同級生からおもちゃのカメラをプレゼントされたのをきっかけに、写真を撮り始めた。県庁に入ってからは、5、6カ月分の給料をはたいてアサヒペンタックスのカメラを買った。60年以上かけて撮りためた写真は40万枚を超すという。

 興味があるものを撮るためならフットワークは軽く、これまでに訪れたのは中国やアメリカ、ニュージーランドなど約45カ国。15年6月には、長男と共に、アメリカのユタ州とアリゾナ州の境界近くにある秘境、ザ・ウェーブにも出かけた。波のような模様を描く砂岩層が有名だが、その区域に入れるのは、1日20人のみ。吉田さんは現地で毎日行われる抽選会に参加し、2日目に幸運にも権利を獲得した。

 途中までは車で行けるが、現地までの片道5キロは歩いて行かなければいけない。年間降水量は10ミリ、日中は気温40〜43度にもなる砂漠を、2時間かけて歩いた。荷物は機材を含めて約20キロ、脱水症状を防ぐため、1分に1回水を飲みながらの道のりだったという。

 そうしてたどり着いたザ・ウェーブは、幾つものうねった模様の山が連なる、想像を絶するものだった。吉田さんは「うわーっ」と声を挙げた後は言葉にならず、それから2時間弱、無我夢中でシャッターを切り続けたという。その日だけで1000枚以上撮影した。

 もはや写真家としてはベテランの域に達しているが、長年やっていると、それなりに失敗もあったそうだ。カメラに写真データを記録するメディアが入っていないのに気付かず、たくさん撮って帰宅してがっかり、竹田城の撮影ポイントである山のふもとに着いて三脚を忘れたことが発覚し取りに帰る、といった親近感がわくようなこともあったという。

 100回以上訪れている中国では、上海での国際線から地方へ向かう国内線への乗り継ぎで、入国手続きのために手荷物を降ろすのを忘れたことも。手荷物は別の場所に運ばれてしまい、届くまでの3日間、足止めをくらってしまったが、「郷に入れば郷に従え」とあせらず、観光などをして過ごしたそうだ。

 傘寿(さんじゅ)を過ぎた現在でも、自宅にいることは少なく、しょっちゅうどこかに撮影に出かけている。吉田さんは「24時間、365日、写真が撮れない時はない。アングルや時間帯、カメラの機能を工夫して、誰も撮ったことのない写真が撮れたら気分がいいじゃないですか」と話す。「撮った瞬間から、その写真は過去になる。生きているうちにもう1枚」と欲望は尽きないという。

「写真を撮りに出かけている時よりも、自宅で写真を整理している時の方がかえって体の調子が悪くなる」と笑う吉田さん。取材をした日も、夜通し星を撮り続けた後だった。

 現在は、竹田城以外にもあるという朝来市の“絶景”を撮りためている。時機が来れば発表するつもりだという。その日が来るのを、楽しみに待ちたいものだ。

(ライター・南文枝)

330荷主研究者:2015/12/12(土) 23:42:54

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151121_13029.html
2015年11月21日土曜日 河北新報
<有形文化財>延命寺山門 城下町の面影今に

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20151121_059004jc.jpg
白石城から移築された延命寺山門

 宮城県白石市不澄ケ池にある古刹(こさつ)の入り口に、どっしり構える。もともとは江戸後期に建築された白石城の「厩口(うまやぐち)門」。明治初期の廃城令に伴う白石城の解体で民間に払い下げられ、現地に移築された。

 幅7.5メートル、奥行き3.6メートル、高さ5.8メートルの木造2階建て。入り母屋風の屋根は切り妻に改造され、1階の「花頭(かとう)窓」、2階の「格狭間(こうざま)」といった装飾も移築後に施されたと伝わる。

 耐震補強工事に加え、1995年に復元された白石城と同じ意匠の瓦でふき替えるなど、寺は丁寧な維持管理を継続。宮城県沖地震、東日本大震災でも大きな被害を免れた。

 市内の登録第1号。白石城の遺構は少なく、江戸時代の重要な建築遺産として城下町の面影を今に残す。山門前に掲げられる「今週のことば」は地域でおなじみ。疋田正應住職は「縁あって約140年。末永く大事に守っていきたい」と話す。

  ▽                 ▽                 ▽

 文化審議会は20日、戦時中に首相を務めた近衛文麿が住み、日米開戦前の重要な会議の舞台になった「荻外荘(てきがいそう)」(東京都)など9件を史跡に、巨大で優美な樹形で知られる伊平屋島の念頭平松(ねんとうひらまつ)(沖縄県)など5件を天然記念物に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。名勝2件の指定も求めた。

 近く答申通り告示され、史跡は1759件、名勝は398件、天然記念物は1021件になる。

 また、文化審議会は同日、1998年に橋本龍太郎首相とロシアのエリツィン大統領の会談が開かれた川奈ホテルの本館(静岡県)など、26都府県124件の建造物を登録有形文化財にすることも馳文科相に答申した。近く答申通り告示され、登録数は1万492件になる。

 東北では史跡に舘山城跡(米沢市)、登録有形文化財には延命寺山門(白石市)がそれぞれ答申された。

331荷主研究者:2015/12/12(土) 23:57:47

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20151121/news20151121264.html
2015年11月21日(土)愛媛新聞
宇和島城の作事所跡 国史跡追加へ

【写真】宇和島城の作事所跡などして追加指定してされることになった日本たばこ産業宇和島営業所跡地。後方が城山=19日、宇和島市丸之内2丁目

 国の文化審議会(宮田亮平会長)は20日、江戸城石垣石丁場跡(神奈川県、静岡県)や土佐藩主山内家墓所(高知県)などを国史跡に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。愛媛県内では国史跡「宇和島城」(宇和島市丸之内)で、新たに見つかった宇和島藩の作事所跡などを追加指定するよう答申があった。2、3カ月で正式指定される見込み。

 宇和島城は1596(慶長元)年に藤堂高虎が山城を改修、1615年に藩祖の伊達秀宗が入部し宇和島伊達家9代の居城となった。1937年に国史跡に指定された。

 追加指定されるのは日本たばこ産業宇和島営業所跡地で、面積は約5363平方メートル。今年5月に市教育委員会が試掘調査し、江戸時代の遺構が確認された。市所有の「宇和島城下絵図?風」(1700年ごろ)と比較し、藩の建造物を作ったり修繕したりする作事所跡と、隣接する上級武家屋敷跡の一画と想定されている。

332とはずがたり:2016/02/24(水) 16:33:54
お城じゃないけどこの辺でいいかな。

「忍者の子孫」見つかる、滋賀・甲賀市が調査
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160221/Tbs_news_53232.html
TBS News i 2016年2月21日 18時30分 (2016年2月21日 20時30分 更新)

333とはずがたり:2016/03/02(水) 18:54:42
興味を持って調べてみたが,この時本国で反豊臣で権勢を振るっていたのが島津義久で,島津義弘は伏見城の戦いで徳川方に立とうとしたが連絡不行き届きで西軍に属さざるを得ずだったようだ。伊勢街道(今の養老鉄道沿線)から伊賀を超えて大阪に戻ったそうな。
島津義弘は高橋紹運を倒しているがその実子の立花宗茂に伴われて九州に帰ったそうな。

軍神、島津義弘に学ぶ成功哲学。苦しいときこそ、敵の“強点”をつけ!
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E8%BB%8D%E7%A5%9E%E3%80%81%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%88%90%E5%8A%9F%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%80%82%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%81%E6%95%B5%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%BC%B7%E7%82%B9%E2%80%9D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%EF%BC%81/ar-BBqaSD0#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
2016/3/1

人は、苦しい状況にあるとき、背を向けて逃げたくなるものです。しかし、追いつめられたときこそ、敵の中枢に「活路」があるのです。世界史5000年の歴史から編まれた『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

「鬼島津」の異名をとる男、島津義弘(よしひろ)
 時は、慶長5年(1600年)9月15日。所は、濃尾(のうび)平野と琵琶湖を結ぶ、南北を山岳に挟まれた隘路、関ヶ原。ここに両軍あわせて20万もの大軍が結集し、「天下分け目の合戦」の幕が切って落とされました。

 布陣は明らかに東軍に不利。明治になって軍事教官としてやってきたクレメンス・ヴィルヘルム・メッケル少佐は、関ヶ原の布陣図を見て、言下に「西軍の勝ち!」と断じたと言われています。

 霧が薄くなった朝8時ごろに合戦が始まり、正午ごろまでは均衡を保っていましたが、小早川秀秋の裏切りを境に一気にバランスが崩れ、まもなく西軍は総崩れとなります。気がつけば、島津隊だけが敵大軍に三方から包囲され、もはや風前の灯火。このとき島津隊を率いていた大将が島津義弘です。

継戦か、撤退か
 彼は二者択一の大きな決断を迫られます。「継戦か、撤退か」

 戦を放棄して撤退するならば、東から殺到する東軍を前にして「西」へ向かうことになります。あくまで討ち死に覚悟で突撃するならば、「東」へ向かうことになります。しかし、もはや大勢決した中で討ち死にするは、まさに犬死に。

 かといって、撤退を選ぶにしても、背を向けた軍ほど弱いものはなく、10万の軍に追撃されれば全滅の危険性が極めて高い。戦わずしてむざむざやられるくらいなら、戦って一矢でも二矢でも報いて、「薩摩隼人」の意地を見せつけて散ったほうが……という想いにも駆られます。

334名無しさん:2016/03/02(水) 18:55:03
>>333-334
「押しても駄目なら引いてみよ」とは言っても、今回はまさに「押しても全滅、退いても全滅」という状況です。

苦しいときこそ、「第三の選択肢」を模索
 このとき二者択一の決断を迫られた島津義弘は「第三の選択肢」を採ります。彼は立ち上がって叫びます。

「我が軍の周りで、最も強敵の部隊はどこか!?」「もちろん、東正面の家康本陣です!」

「よし! ではこれより我が隊は東の家康本陣に向けて撤退する!」

「西に向けて撤退」でも「東に向けて突撃」でもありません。「東に向けて撤退!」と叫んだのです。

平時においては敵の弱点を突き、窮時においては敵の強点を攻む。
 今まさに敵軍が殺到してくる「東」に向かって全滅覚悟の突撃をかけるというのならわかりますが、「撤退する」というのですから、およそ正気の沙汰とは思えません。

 そもそも、これは兵法に悖(もと)っているように見えます。孫子の兵法では、次のように教えています。

「敵の守らざる所、あるいはその不備を攻めよ」。

 しかし、これは「一般論」です。こちらに余裕があるときはこれが定石ですが、追いつめられるだけ追いつめられたときは、むしろ敵の最も強いところを攻めることで、活路が見出されることがあるのです。

 人は、圧倒的劣勢にあるとき、どうしても敵に背を向けて逃げたくなりますが、背を向けた途端、その無防備となった背中をばっさり袈裟懸けされてしまいます。むしろ逆なのです。追いつめられたときには、敵の中枢にこそ“活路”があるのです。

 通常なら自殺行為ですが、優劣に圧倒的な差があるときというのは、敵も油断しています。その油断を突くことで、わずかなチャンスが生まれるのです。

 関ヶ原でも、「勝ち」を確信して軍規がゆるみ始めていたところに、突如島津隊が突進してきたため、東軍は狼狽し、島津隊を中心に真っ二つに割れる陣形となります。そのわずかに空いた穴を突ききって、そのまま南東へと“撤退”することが可能になったのでした。

退路は「前」にあり!
 後ろではありません。事実、後ろ(西)へ逃亡を図った(事実上の)総大将石田三成はあっけなく捕らえられ、処刑されています。後ろに退くのはむしろ「まだ余裕があるとき」だけだということを肝に銘じておかなければなりません。

335とはずがたり:2016/04/16(土) 21:30:56
熊本城の櫓が倒壊 加藤清正の築城当初から残る国重文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%AB%93%E3%81%8C%E5%80%92%E5%A3%8A-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E3%81%AE%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%BD%93%E5%88%9D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%AE%8B%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%87%8D%E6%96%87/ar-BBrOF34?OCID=DELLDHP
朝日新聞デジタル
10 時間前

16日未明の激しい地震で、手前の石垣などがさらに崩れた熊本城=16日午前7時40分、熊本市、朝日新聞社ヘリから、河合真人撮影c 朝日新聞 16日未明の激しい地震で、手前の石垣などがさらに崩れた熊本城=16日午前7時40分、熊本市、朝日新聞社ヘリから、河合真人撮影
 16日未明の地震で、熊本城(熊本市中央区)の東側にある東十八間櫓(やぐら)と北十八間櫓が倒壊した。二つの櫓はともに、国の重要文化財に指定されている。

 市熊本城総合事務所によると、二つの櫓は土台の石垣ごと崩れ落ち、一部は隣接する熊本大神宮内の建物上に落下して、屋根を突き破った。

 櫓は戦国武将の加藤清正が17世紀はじめに築城した当初から残る建造物。14日の揺れでは、瓦の一部が落下したが、石垣に目立った被害はなかったという。

336名無しさん:2016/04/17(日) 10:54:44
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160416/k10010483501000.html?utm_int=all_side_ranking-access_003
熊本城で国の重文「東十八間櫓」が完全に倒壊
4月16日 14時00分
熊本城を管理する熊本城総合事務所によりますと、16日午前6時半からおよそ10人の職員で城の被害状況を調べたところ、これまでに、国の重要文化財に指定されている城内のやぐらの1つ、『東十八間櫓』が完全に倒壊したということです。崩れた木材などの一部が隣接する熊本大神宮の屋根に落ち、熊本大神宮にも被害が出ているということです。また、城の南側にある5階建てのやぐら『飯田丸五階櫓』の土台となる石垣も崩壊しているということです。

337とはずがたり:2016/04/18(月) 16:02:11

真田家14代当主は慶應大学理工学部教授
http://www.news-postseven.com/archives/20160417_403750.html
2016.04.17 07:00

「自分の先祖の大河ドラマを見ていると、身近というか切実といいますか。ひとつ間違えれば、うちはないですから毎回ハラハラしています(笑い)」と語る真田家14代当主・真田幸俊さん(46才)。

 真田家を継ぐお殿様にして、慶應大学理工学部の教授だ。

 日本の東と西の境界にある信州で徳川勢と石田勢の両陣営から戦に加わるように請われなどしながら、さまざまな戦略で生き延びてきた真田家。

 大泉洋(43才)演ずる現実的な長男・信幸は家名を守り、堺雅人(42才)演ずる次男・信繁は後に豊臣勢として戦場に散ったヒーローとして武名を守った。

 その信幸の末裔が幸俊さん。15才のとき、早逝した父を継いで、“若様”として当主になった。といっても戦後の華族制度の廃止で経済的な余裕はなく、奨学金で慶應大学を卒業後、カナダに留学した。

 現在、首都圏に住み、教授の仕事のかたわら“お殿様”としての役目も果たし、2人のご子息に次代の“お殿様”としての心得を少しずつ教えている。そして教授としては、「信幸の遺訓に“領民を大切にし、家臣に思いやり”って書いてあるんですが、学生に対しても同じで、公平に接するよう心がけています」。

 日本の歴史に確かな足跡を残した大名の子孫として、そして日本の未来を担う若者への教育者として、人生を歩み続ける真田さん。静かなたたずまいの中にピシッと芯が通った素敵なミドルエイジでした。

※女性セブン2016年4月28日号

338名無しさん:2016/05/15(日) 11:17:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160513/k10010519781000.html?utm_int=all_side_ranking-access_001
崩落した熊本城の石垣に「観音菩薩」が出現
5月13日 17時00分
一連の地震で大きな被害を受けた熊本城で、崩落した石垣の石から戦国時代に彫り込んだとみられる観音菩薩が見つかり、インターネットで話題になっています。
熊本城で地震の被害があった石垣53か所のうち、北大手櫓門跡では、石垣が隣接する「加藤神社」の境内に崩れました。神社の宮司が被害を確認したところ先月24日、石に彫り込まれた観音菩薩を見つけました。観音菩薩は、背丈が40センチほどで、後光が差し、ハスの葉の上に乗っている様子が描かれています。
熊本城調査研究センターによりますと、この観音菩薩は、戦国時代に一般の人たちが先祖を供養しようと、「板碑(いたび)」と呼ばれる板状の石碑に彫り込んだものだということです。その後、江戸時代に、熊本城の石垣を造る際、急いで石を集めたために、身近にあった板碑を石垣の石に転用したものとみられ、およそ400年の時を経て今回の地震で出現したのではないかということです。
発見した加藤神社の湯田崇弘宮司は、フェイスブックを通じて「永い時を経て現れたこの観音様に思いをはせると胸が揺さぶられる」と思いをつづり、13日までの3日間に1600人以上の反響がありました。湯田宮司は「地震の被害が大きく、悲しいことばかりでしたが、観音様を見て自然と手を合わせました。私たちのことをこれからも見守ってくれると思います」と話していました。
熊本城調査研究センターの美濃口雅朗主幹は、「期せずして熊本城が造られる前の歴史をかいま見ることができる資料が見つかりました」と話していました。

339とはずがたり:2016/06/15(水) 14:37:53

信長は騙されやすい人だった!? 映画やドラマが描けない、戦国時代のウソホント
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20160607/Davinci_010576.html
ダ・ヴィンチニュース 2016年6月7日 06時30分 (2016年6月7日 07時59分 更新)

『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』(熊谷充晃/彩図社)

 年号の暗記は嫌いだけど、試験に出ないような歴史の横道は大好き。「実はこの人こうだったんだよ」なんて人間関係の裏側が見えたら、さらに大好物。ときにはテレビや映画の演出に「史実とちがうのに〜」なんて突っ込みを入れてしまう人におすすめなのが『教科書には載っていない!戦国時代の大誤解』(熊谷充晃/彩図社)。受験にはたぶん…役に立たないが、人生を楽しむ役に立つ雑学トリビアにあふれた一冊だ。
 たとえば、かの有名な織田信長、比叡山焼き討ち事件。武装勢力でもあった延暦寺の仏僧たちに服従を求め、最終的には山を片っ端から焼き払い、老若男女とわず皆殺しにしてまわったという冷酷な残虐性をあらわにする所業だが、これ、じつは「誇大広告」だったというのである。調査によると焼失したのは根本中堂と大講堂だけ。しかも生活拠点は別だったために、火を放った際は人もほとんどいなかったとか。

 ほかにも、信長が「鉄砲を先駆けて使いこなしたためにのしあがった」というのも史実とちょっとちがうようで。こちらも有名な、長篠の戦い。柵をたて、その内側で火縄銃を準備する人、構える人、撃つ人の3隊にわけて応戦したため、絶え間ない銃撃戦が可能となった信長の策謀が光ったとされるこの逸話も、著者いわく“ファンタジーが膨らみすぎ”だそう。さらには信長、どちらかというと人を信じ過ぎて痛い目を見る“いい人”だったという話も!? ……実際どうだったのかは、本書を読んでお確かめいただきたい。

 そのほか、「最強と謳われた武田騎馬軍は存在しなかった!?」とか、「忠義の塊と語り継がれる三河武士は、実情は裏切りだらけだった」とか、ともすれば夢を壊しかねない事実が連発! では知らなきゃよかったのか、というと、知ったほうがより面白さが深まっていくのが不思議なところだ。たしかに明かされた史実をそのまま実写化すれば、画面の派手さはやや減るかもしれない。だがそのかわり、領地のローカル憲法に「飲みすぎて吐くのは見苦しいから酒宴禁止」と書いた城主がいたり、茶器バブルが起きたせいで名器が領地のかわりとして取引されたりといった、意外な人間臭さや常識が浮かび上がってくるのだ。

 事実は小説より奇なり。わかりやすいスペクタクルはなくても、入り組んだ人間模様が歴史により深みを増してくれ、物語にも厚みが増す。本当の戦国時代を知ればますます虜になっていくこと間違いなしだ。

340とはずがたり:2016/06/21(火) 22:23:54

河村市長に「まやかしだ」天守閣復元で批判続出
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160618-OYT1T50050.html?from=yartcl_outbrain1
2016年06月19日 16時58分

 名古屋城天守閣の木造復元に向けた基本設計の補正予算案が提出された名古屋市議会で17日、個人質問が行われ、東京五輪開催の2020年完成を目指す市の構想に対し、疑問視する意見が相次いだ。

 21・5%の支持にとどまった先月実施の市民アンケートについて、「民意は得ている」との答弁を繰り返す河村たかし市長に対し、議員からは「まやかしだ」などとの声も出された。

 同アンケートでは、三つの選択肢のうち、「時期にとらわれない木造復元」が40・6%と最多で、これに「耐震改修を行う」(26・3%)が続き、21・5%の「東京五輪までの木造復元」は最も低かった。ただ、河村市長は木造復元には6割超が理解してくれているとして、構想を改めずに補正予算案を提出した。

 この日の個人質問では、田辺雄一議員(公明)が公募途中で辞退した大手ゼネコン・清水建設が木造復元案をまとめていたとする読売新聞の17日付記事に言及。市長案に比べ工期は長いが、事業費が3分の2程度で、150億円前後圧縮されているという清水建設案について、「これは大変な数字」とし、市長案には問題があるとの考えを強調した。

 また、田辺議員が清水建設案を知っているかどうかと尋ねたところ、市長は存在を認めたうえで、工期や事業費については「分からない」と答えた。

341とはずがたり:2016/06/21(火) 22:24:22

石垣先行、150億円圧縮案…名古屋城木造復元
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160617-OYT1T50016.html?from=yartcl_outbrain2
2016年06月17日 10時00分

 名古屋城天守閣の木造復元で、大手ゼネコン・清水建設が名古屋市が採用した案と比べて事業費が3分の2程度で済むとした案を今年2月にまとめていたことがわかった。

 石垣の修復後に上部の天守閣を木造化する内容で、工期は市が目指す東京五輪までに間に合わない。市議会側は清水の担当者を参考人招致し、事業費が少ない理由を含めて説明を求めるとしている。

 関係者によると、清水案は工期が8年強で、市が目指す20年7月を約4年オーバーする。ただ、事業費は市が採用した天守閣の後で石垣の工事を行う竹中工務店案の最大504億円より150億円前後少ない。

 市は昨年12月、木造復元を手がける事業者を募集。清水は参加を表明したが、今年2月に一転、辞退していた。「天守閣復元を石垣修復より優先する市の条件と折り合わなかった」と説明したという。

342とはずがたり:2016/07/03(日) 20:34:43
家臣の子孫の妻、天守台への橋再建へ3億円寄付
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160627-OYT1T50125.html?from=yartcl_outbrain1
2016年06月27日 20時05分

 奈良県大和郡山市の郡山城跡にかつてあった、毘沙門郭から本丸堀をまたいで天守台に通じる「極楽橋」の再建計画が動き始めた。

 同城跡を管理する公益財団法人「郡山城史跡・柳沢文庫保存会」に、市内の女性から再建資金として3億円が寄付されたためで、同財団は「2019年度の完成を目指したい」としている。

 極楽橋は、本丸までの正式ルートだったが、明治時代初めの廃城とともに撤去されたという。写真はなく、絵図などもごくわずかしか残っていない。

 同城は戦国時代の重要な軍事拠点で、江戸時代途中から幕末まで郡山藩主・柳沢家の居城だった。女性の夫(故人)は柳沢家家臣の子孫といい、その遺志で今回の寄付が実現した。

 19日には同市のやまと郡山城ホールで、同財団の柳沢とも子・理事長が女性に感謝状を贈呈。現当主の柳沢保徳・副理事長は「文庫にとって橋の再建は課題だったが、かなわぬ夢と思っていた。多額の寄付を活用して、頂いた方の思いに添いたい」とあいさつした。

343とはずがたり:2016/08/25(木) 12:23:54

“岩櫃城”へ移転 東吾妻町役場 温泉施設を活用
http://news.goo.ne.jp/article/jomo/region/jomo-45780564.html
08月24日 06:00上毛新聞

 群馬県東吾妻町は城の外観を模した日帰り温泉などの町営施設、岩櫃(いわびつ)ふれあいの郷(さと)(同町原町)を改修し、庁舎機能を全面移転する方針を決めた。現庁舎の老朽化と、温泉利用者などの減少を踏まえた町営施設の合理化策で、一部を除いて施設を閉鎖し、2018年度までの庁舎移転を目指す。外観は維持し、戦国武将、真田氏ゆかりの岩櫃城の地元自治体として、観光客らに分かりやすくアピールする。◎真田氏関連の展示も 町によると、施設4階の展望フロアやコンベンションホールを除いた1?3階(延べ床面積約4100平方メートル)を改修し、行政の事務作業ができるようにする。移転費用は8?9億円を見積もっている。 同町原町の役場現庁舎(同約2500平方メートル)は合併前の吾妻町役場として1958年に建設。老朽化が進んだため、東吾妻町は5年ほど前から、移転検討を本格的に進めていた。ふれあいの郷は96年に開業。温泉施設「岩櫃城温泉くつろぎの館」は97年度に15万5300人が利用したが、2015年度は8万7500人まで減少し、毎年1億円程度を赤字計上している。 町民らでつくる「公共施設のあり方検討委員会」の答申を受け、町が施設の運営コストや庁舎の建設費などを考慮し、ふれあいの郷閉鎖と庁舎移転を決めた。閉鎖時期や現庁舎の跡地利用は今後、検討する。 現庁舎からふれあいの郷は北西に約500メートル、岩櫃城があった岩櫃山の登山口まではさらに約700メートルの距離にある。岩櫃城は真田昌幸が拠点とし、信繁(幸村)が少年時代を過ごしたとされ、ふれあいの郷のような外観とは異なるが、堅固な山城だった。NHK大河ドラマ「真田丸」の人気を受け、町は4月、登山口に観光案内所を設けるなど、増加する来訪者に対応している。 町は移転後の庁舎内に真田氏関連の展示品を置く計画。中沢恒喜町長は「城の外観をした新庁舎で、町民や観光客からも親しみを持ってもらえるのではないかと思う。現庁舎の跡地については、今後議論して、有意義に活用したい」と話している。

344荷主研究者:2016/09/29(木) 22:19:00

http://kumanichi.com/news/local/main/20160914009.xhtml
2016年09月14日 熊本日日新聞
熊本城復旧費634億円 石垣の3割積み直し

 熊本市は14日、熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の復旧費が、概算で総額634億円に上ると明らかにした。被害状況を目視で確認した、現時点での試算。

 石垣の被害が最も大きく、このうち425億円を占める。城内の石垣の約1割、約8200平方メートルが崩れ落ちた上、膨らみが生じた箇所もあり、全体の約3割にあたる約2万3600平方メートルの積み直しが必要となった。東日本大震災の被災城郭を参考に当初は350億円と見積もっていたが、現在までの物価上昇率などを勘案し、見直した。

 倒壊した東十八間櫓[やぐら]など13の国指定重要文化財には72億円、瓦が落ちるなどした天守閣など20の復元建造物の修復には137億円が必要とした。

 市は2019年度までに天守閣を再建し、20年間で城全体の復旧を目指す方針。17年度までに、復旧の工法や手順を盛り込んだ復旧基本計画を策定する。市熊本城総合事務所は「ほとんどの建造物で詳細な調査ができておらず、復旧費は変わる可能性もある」としている。(植木泰士)

345とはずがたり:2016/10/23(日) 16:37:21
近世の城郭には殆ど興味が無い俺だが謎と云われると織豊政権関連ぐらいなら一寸は気になる。

謎が多い安土城の大手道
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20161004/BestTimes_3317.html
BestTimes 2016年10月4日 15時00分 (2016年10月5日 14時08分 更新)

織田信長肖像画(写真提供/アフロ) 天下統一を目指す過程で、最もTPOに適した場所に城を移していった信長。先進かつ合理的だった移転の狙いとは? 歴代の居城をたどってみる。

安土城の大手道が最終的には本丸の南面の虎口(こぐち)にたどり着くこと、本丸に正親町(おおぎまち)天皇の行幸(ぎょうこう)御殿が設えられていることなどを考え合わせ、天皇が行幸した折に進む道筋として用意された幻の道とも考えられ、これらの屋敷跡は家臣団屋敷ではなく、迎賓館のような役割を果たしたとも考えられる。
いずれにしても、謎が多き大手道である。 城下町は当時、山下町(さんげちょう)と呼ばれていた。もともと安土山の東麓には、中世以来、薬師寺の庄園で豊浦湊(といらみなと)があった豊浦の庄と、佐々木六角氏の所領で佐々木神社や浄厳院(じょうごんいん)、常楽湊のあった佐々木庄というふたつの集落があった。
それらは堀割を巡らせた環濠集落であったが、信長はその地を城下と定め、再整備を行った。工事ではまず堀を埋め、新しい道を敷き、縦横に町割を定めた。(続く)

●安土城データ
城の種類/山城
所在地/滋賀県蒲生郡安土町
築城年/天正4年(1576)
施設/天主、本丸、二の丸、三の丸、摠見寺、家臣の屋敷など

文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。

346とはずがたり:2016/10/23(日) 16:42:18
屋敷もここでいいな。

<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20161023k0000e040126000c.html
11:45毎日新聞

<前田慶次>「無苦庵」か 井戸跡や溝跡など出土
発掘した井戸跡を説明する手塚孝主任(中央)=山形県米沢市万世町で2016年10月22日、佐藤良一撮影
(毎日新聞)
 「かぶき者」で知られる戦国武将、前田慶次が晩年に住んだとの言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で行われた第2次発掘調査で、井戸跡や溝跡などが出土した。「米澤前田慶次の会」(梅津幸保会長)が22日、現地説明会で明らかにした。

 今回は慶次の武家屋敷「無苦(むく)庵」の母屋があったとみられる場所の北側約60平方メートルの区画を地表から約30センチ掘り起こした。市教委文化課の手塚孝主任は「母屋の北には庫裏(台所)や井戸があることが多い」と区画を決めた理由を話す。

 見つかった井戸跡は、長径1.7メートル、短径1.3メートル、深さ74センチで、周囲に4本の細い柱跡があった。内部から、脱穀用の木製「たたき棒」2本、箸2本が出た。その西側には長さ4.5メートルの浅い溝跡があり、周辺に馬のひづめ跡が確認されたことから、馬用の排水溝とみられる。井戸も馬用だった可能性があるという。

 このほか、土鍋片1点、手焙(あぶ)り(火鉢)片4点が見つかった。また、建物の柱跡1基も出た。出土した遺構・遺物は、地層から無苦庵の時代のものと推定されるという。

 昨年の発掘調査では、建物の柱穴約20基が見つかり、土塁や堀の工法が江戸初期のものと合致。土塁で囲まれた敷地は東西109メートル、南北72メートルの武家屋敷であると分かった。

 梅津会長は「昨年は慶次の屋敷跡という伝承地から推定地に格上げされ、今年は生活の痕跡の一部が出た。今後も発掘を続けて確定地にし、墓所も特定したい」と語る。来年は井戸跡の東側を発掘する予定で、庫裏跡などが期待できるという。

 23日午前8時半?正午、現地で一般公開する。場所は堂森586番地内。【佐藤良一】

347とはずがたり:2016/10/26(水) 10:36:15
「信長は宗教心が薄かった」は本当か? 安土城には菩提寺があった
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20161008/BestTimes_3365.html
BestTimes 2016年10月8日 12時00分 (2016年10月9日 11時08分 更新)

1579年、織田信長の命により築城された、安土城。そのわずか3年後の1582年には、焼失、落城してしまった本城ですが、実は今その跡を訪れると、そこには、信長の意外な一面を知ることのできる遺跡があるのですーー。
安土城跡に今も立つ、摠見寺三重塔
 安土城は、信長が1576年、重臣の丹羽長秀(にわながひで)を総普請奉行に据え、標高199メートルの安土山に築城させた地下1階、地上6階建、日本初の、石垣の上に天主(天守)を持つ平山城でした。
 現在は、両側が石垣で囲まれた大手道を上りきった山頂に、人の背丈ほどの石垣に囲まれた東西約25メートル、南北約30メートルの台地に、約90個の礎石が整然と並ぶだけの天主跡があるのみです。
 さて、この大手道の石段を注意深く見ながら上がっていきますと、ところどころに石仏が敷かれていることに気づきます。
 もちろん、これらの石仏はおまいりのために置かれているのではありません。城普請に使われる木材や石材は近郊の山から採取されるのが普通ですが、信長が命じた性急な工期のために、近隣の寺の解体によって得られた木材や石材として用いられた墓石や石仏も少なくなかったのです。つまり、墓石や石仏を踏みながら大手道を上り下りした人がいたということです。
 宗教心が薄かったといわれる〝革命児〟信長ならではのことと思われますが、信長のこのような所業に畏怖した家臣や職人は少なくなかったと思われます。

 大手道とは異なる道を下りますと、石垣に囲まれた狭隘(きょうあい)な土地に窮屈そうに建つ摠見寺(そうけんじ)三重塔に出会います。一般的にはほとんど知られていないのではないでしょうか。
 摠見寺は、安土城築城の際、信長が自らの菩提寺として創建させた寺でした。安土城と同様に、性急な信長は、甲賀郡を中心に近江各地から多くの建物を移築して、摠見寺を創建したのです。
 18世紀末の時点では、本堂、仁王門、三重塔、書院など22棟の建物があったことが確認されていますが、現在、残っているのは三重塔と仁王門のみです。
 いずれにしましても、城内に伽藍を備えた寺院が建立されたのは安土城のみです。墓石や石仏を石段に使った信長でも、自分の菩提寺を身近に置く必要があったのでしょう。人間的といえば人間的です。
 三重塔は現在の滋賀県湖南市にある長寿寺から移築されたもので、創建は室町時代ですが、本瓦葺き、総高19.7メートルの和様を基本にした塔です。いかにも廃寺という雰囲気があり、事実、痛みもかなり激しいように思われます。
 安土城跡から下る途中まず目に飛び込んでくるのは、目の高さにある初重の屋根瓦です。五重塔や三重塔は下から見上げるのが普通ですから、摠見寺三重塔の見え方は異色で、屋根の四隅にある鬼瓦の表情をはっきりと見ることができます。
 ところで、当時、近江地方には長寿寺の三重塔よりも大きな三重塔(総高22.8メートル)が常楽寺にあり、信長の好みとしては、この威風堂々とした常楽寺三重塔を移築したかったのではないかと思うのですが、あえて、小規模の長寿寺三重塔を選んだのは、その立地条件の制約のためだったのでしょう。おかげで、常楽寺三重塔は助かったのです。

348とはずがたり:2016/11/01(火) 16:04:32
宮内庁は未だ未だいっぱい資料隠しもっとんちゃうかー。

熊本地震、130年前の史料を初公表 被害の8割近くが重複
http://news.goo.ne.jp/article/nishinippon/nation/nishinippon-20161101152351732.html
15:21西日本新聞

 熊本市は1日、1889(明治22)年7月28日に起きた「明治熊本地震」で石垣などが崩壊した熊本城の被災状況を旧日本陸軍が記した文書と絵図計80ページの一部を公開した。今年4月の熊本地震で被害が確認された箇所と77・1%が重複。市は「崩落した石垣の復旧手法を検討するのに役立つ」としている。文書と絵図は当時、城内に駐屯していた旧日本陸軍が明治天皇に報告した史料で、宮内庁が保管していた。公表されるのは初めて。

 市によると、史料は破損した場所と被害面積を記した毛筆の文書と、カラーの絵図で、宮内庁書陵部宮内公文書館(東京)に保管されていた。旧陸軍第六師団が震災から約10日間でまとめたという。今年7月、同庁から熊本大文学部の三沢純准教授に情報提供があり、三沢准教授と市熊本城調査研究センターの担当者が同館に出向いて共同で9月末に調査を実施した。

 史料によると、明治の地震では石垣44カ所が崩落、石垣の表面が変形し膨らむ「はらみ出し」が18カ所で確認された。被害は石垣全体の面積の11・2%に及び、今回の震災と比較して被害面積は3分の1程度だった。

 明治熊本地震は、熊本地方を震源とした推定マグニチュード(M)6・3とされる。市には当時の熊本城の石垣被害について史料がなく、明治時代の新聞や修復状況の特徴から、崩落した箇所数を推測してきた。今回の史料から、これまで把握できていなかった明治期に被害を受けた2カ所が新たに確認できたという。

 今年の被害箇所と明治期の被害箇所の8割近くが重複することについて(1)被害を受けやすい、地震に弱い地盤があること(2)明治期の修復技術が不十分だったこと?などが原因と想定。市熊本城調査研究センターの網田龍生副所長は「修復後の石垣の安全性向上や今後の注意喚起に役立つ基礎資料になる」と語った。

 市は1日、歴史文化体験施設「桜の馬場城彩苑湧々(わくわく)座」1階ロビーで史料の一部のパネル展示を始めた。

=2016/11/01付 西日本新聞夕刊=

349とはずがたり:2016/11/26(土) 19:50:34
真田幸村ばかり派手に目立ってるけど真の主役は家遺した兄貴の方だってのは一寸歴史に詳しければ誰でも知ってる事だ。

真田を伝説にした、兄・信之の「合理的な選択」 幸村ひとりではなしえなかった「ブランド化」
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/bizskills/toyokeizai-146409.html
06:00東洋経済オンライン

この一年、話題に上ることの多い武将、真田幸村(信繁)。

ドラマや映画、小説などの創作された物語では、器が大きく、部下や上司、果ては民衆から慕われた智将として描かれることの多い人物で、現代でも「好きな武将ランキング」を行えば、必ずと言っていいほど、5本の指には入ってくる人気武将であり、戦国時代最後のヒーローだ。

彼ら武将たちが合戦や政治、そして統治の際に用いた「戦略」を読み解くことで、現代ビジネスにも通ずるヒントを見つけることができる。

CS放送・ヒストリーチャンネルで放送される「合戦前夜?武将たちのストラテジー?」でも、幸村をメインに取り上げている。テーマは「ブランディング」だ。

真田家を一つのブランドとして、いかにしてブランド価値を高め、継続させていったのか。経営学者の入山章栄氏と歴史学者の本郷和人氏に聞いた。

真田最大の苦労人、信之の「戦わない戦略」
「幸村=ヒーロー」――。このイメージは江戸時代以降、現代に至るまで日本人に深く根付いている。

しかし、真田の「ブランド」は、幸村一人で作り上げたものかというと、そうとは言えない。父・昌幸や祖父・幸隆が積み重ねた実績、そして、兄・信之の存在が幸村を支えたからこその偉業なのだ。

戦国最後の名将と呼ばれる、真田幸村の兄・信之。彼の最初の名は真田「信幸」だった。「幸」は真田家の当主が持つことになっていた字である。しかし、「関ヶ原の戦い」で父や弟と敵対し、袂を分かったことを機に「幸」を捨てて、「信之」と名を変えた。父や弟の助命、真田家存続のためには父祖伝来の字を捨てることも厭わない――。それは単純な発想にも思えるが、実にしたたかな手段だったのだ。

「信之は非常に優秀な人物で、徳川家康からも相当に目をかけられていたようです。そうであったからこそ、助命嘆願も押し通せると思ったのでしょうね」と、本郷氏は分析する。家康が信之を買っていたことは、自身のいちばんの忠臣である本多忠勝の娘と結婚させたことからも明らかだ。なぜなら、信之はすでに上州・沼田城を守る「一国一城のあるじ」であり、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた真田昌幸の後継者の地位にいた。家康が信之をわが子同然にして、真田家を取り込もうとしたのは必然であったといえる。

「関ヶ原の戦い」より前、幸村(信繁)は上杉や豊臣の人質に過ぎず、まだ世に知られていなかった。一方の信幸(信之)は北条氏などとの度重なる合戦で、いくつも手柄を立て、1585年の「第一次上田合戦」でも父を補佐し、徳川の大軍から上田城を守り抜いた。その実力は証明済みであったし、すでに周りからも一目置かれる存在だったのである。

そうして迎えた「関ヶ原」で、西軍についた父・昌幸と幸村は敗軍の将となった。彼らは信之の助命嘆願によって命を助けられ、紀州へ配流された。嘆願が聞き入れられたのは、舅の本多忠勝の取り成しがあったからなのは間違いない。その流れの中で、「信幸」も「信之」へと改名している。すんなり「幸」の字を捨てるアピールもまた、家康の心を大いに動かしたはずだ。

その証拠に、信之は自分の土地・沼田3万石だけでなく、父の旧領・上田をそっくり引き継ぎ、合計9万5,000石の大名へと出世したのだ。「関ヶ原」後の信濃には、各地に徳川譜代の大名が派遣され、旧領主がすべて移封・改易の憂き目を見たなか、真田家の信之だけが所領安堵を勝ち取ったのだ。

戦わずして利を得る、まさに「名よりも実を取る」戦略だ。信之は人間心理を利用した方法でブランドを継続させた。そして最終的には真田家というブランド、その従業員たる家臣団を守り切った。「信之」という名には、彼のそういった武将としての強さ、不退転の決意が秘められているのだ。信之は真田家の新当主としての役割を、十分すぎるほどに果たしたといえる。

350とはずがたり:2016/11/26(土) 19:51:02
>>349-350
真田家から学ぶ後継者問題解決法
そうした信之の英断だが、彼ひとりのものというより、もともと真田家で引き継がれてきた「DNA」によるところもあったかもしれない。

そもそも真田家が、徳川からも豊臣からも重んじられた理由は、信之以前の時代から、まぎれもない実績があったおかげだ。それは信之の祖父・幸隆の活躍に始まる。

『高白斎記』によれば、幸隆は武田信玄に仕えたばかりのころ、信玄が苦杯を舐めた戸石城を調略によって1日で落城に追い込んだという。それ以来、幸隆は信玄に重用され、真田家の地位を向上させていった。そして、後世にいう「武田二十四将」には、幸隆自身はもちろん、彼の3人の息子も含まれている。二十四将に4人も選ばれたのは真田家のみ。それだけで、この一族がどれほど粒揃いであったかがわかるはずだ。

幸隆の3人の子のうち、三男で信之の父、真田昌幸は「長篠の戦い」(1575年)で2人の兄が討死したため、真田家の家督を継ぐことになるが、彼もまた若くして「信玄の両眼の如き」と称されるほどの評価を受けている。そして、昌幸の息子たちもそれぞれが活躍し歴史に名を残した。

入山氏は、経営学者としての立場から真田家を見て、「日本に存在する企業は中小企業を含めると97%がファミリービジネス(同族経営)で、事業継承が最大の悩みになります。真田家の場合、それがすんなりと行われたことが幸運だった」と分析する。

本郷氏は「今の時代は個性を表に出していく時代。しかし戦国時代は個性を出すより以前に、お家を守ることがいちばんの目的だった。それが両方ともうまく行ったのが真田家だった」と語る。

家を守るのは、何千、何万という家臣を養い、そして無数の領民を守るためだ。真田家は一族が粒揃いだったため、後継者問題を難なく切り抜けたが、戦国時代においてこれほど優秀な一族はまれだったと本郷氏は語る。では戦国時代、通常の場合では後継者問題をどう解決していたのか。「そこにDNAは関係ありませんでした。家さえ続けば養子でもいい。優秀な人材であれば、そういった割り切った考え方をした時代でもあった」と本郷氏は力説する。

入山氏は「最近、統計分析が進み、わかってきたことですが、長い間、成長率・利益率を高く維持している企業は、後継者が養子のパターンなんです」と言う。新しい血を入れてでも家(会社)や家臣(従業員)を守ろうとする。その戦略の正しさは、今も昔も変わらないのかもしれない。

信之と幸村 兄弟の絆
「関ヶ原の戦い」で兄弟が別れてから15年後、弟・真田幸村は大坂夏の陣に散った。一方、兄・信之は信濃の地で真田家を守り抜き、天下泰平の時代へと、さらに歩みを進めた。兄弟は離れ離れになりながらも、それぞれのやり方で真田の家名を歴史に刻み込んだのである。

「幸村は、迷惑はかけるかもしれないが、兄・信之が必ず真田家を守ってくれると確信していたからこそ、大坂の陣であれだけ精いっぱい戦って、武名を残すことができたんだと思います」と本郷氏はいう。

兄は家を守り、弟は名を残した。信之と幸村、その兄弟の絆が確かであったことは、400年後の時代を生きる私たちにも、はっきりと感じ取ることができる。そしてそのことが、真田家のブランドを永遠のものにしているのだ。

351荷主研究者:2016/12/04(日) 20:36:34

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20161119000162
2016年11月19日 22時50分 京都新聞
初期伏見城、石垣と堀発見 慶長地震で倒壊か

高さ2・8メートル、南北14・5メートルにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡(京都市伏見区桃山町泰長老)

 豊臣秀吉が造営した初期の伏見城(指月(しげつ)城)とみられる石垣と堀が19日までに、京都市伏見区で見つかった。関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が発表した。指月城とみられる石垣は過去にも部分的に見つかっているが、6〜7段積まれた本格的な石垣の発見は初めて。

 調査地は、伏見区桃山町泰長老と同区常盤町にまたがる公務員宿舎跡地で、文献などから指月城の西側と推定される。堀は幅20メートルに及ぶ可能性があり、高さ2・8メートルの石垣が南北14・5メートルにわたって確認された。自然石や割り石を積み、隙間に小石を埋めていた。

 指月城は1592(文禄元)年、秀吉が隠居所として指月の丘に建設を始め、天守を備えた本格的な城へと改造したが、96年の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に後期の伏見城を建立した。

 見つかった石垣に地震で崩壊した跡はなかったが、堀にたまった泥には、建具の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていた。

 吉川代表は「地震で倒壊した建物の瓦だと考えられ、地震以前に築かれた初期の伏見城の石垣と言える。それぞれの石の平らな面を表にして積み上げるなど手が込んでいる」と話している。

 一般向けの現地説明会は行わない。

352荷主研究者:2016/12/04(日) 20:47:18

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201611/CK2016112202000187.html
2016年11月22日 東京新聞
箕輪城の大規模城門を復元 戦国時代の関東の城郭で最大

://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2016112202100085_size0.jpg
復元された箕輪城の大規模城門=高崎市で

 国指定史跡箕輪城跡(高崎市箕郷町)の大規模城門「郭馬出西虎口門(かくうまだしにしこぐちもん)」の復元が完成し21日、報道陣に公開された。市教育委員会によると、戦国時代の関東地方の城郭で規模が確認されている中では最大規模という。 (大沢令)

 市教委によると、復元された城門は、幅5.73メートル、奥行き3.48メートル、高さ6.48メートルの櫓門(やぐらもん)。徳川家康の家臣で最大石高12万石の領地を拝領した井伊直政の時代(1590〜98年)に使われていた。発掘調査で確認された礎石の配置を基に全国の現存する城門や城絵図を分析し、2014年度から復元工事を進めていた。工事費は約9000万円。

 国史跡での戦国時代の城門復元は6例目という。

 箕輪城は1500年ごろ、長野氏が築城。武田信玄によって落城後は武田、織田、北条、徳川と主が変わり、井伊直政が1598年に城を高崎に移して廃城した。

 23日の完成式典後、一般公開される。

353とはずがたり:2016/12/15(木) 08:43:07

「井伊直虎」別の男性が名乗った名前か 新たな見解
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161215/k10010807221000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002&nnw_opt=ranking-social_a
12月15日 4時01分

来年放送されるNHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公で、戦国時代に活躍した井伊直虎について、新たに確認された古文書から、実際には井伊家の女性ではなく、別の男性が名乗った名前だとする見解を、京都の井伊美術館の館長が発表しました。直虎をめぐっては、別の古文書などから、従来どおり女性だとする研究者もいて、今後の研究の進展が期待されます。
井伊直虎については残されている史料が極めて少なく、戦国時代に今の静岡県浜松市の一部を治めていた人物として、「次郎直虎」という表記で登場します。
同じ時期に井伊家の当主の娘が「次郎法師」と名乗っていたという古文書があることなどから、研究者の間では、この女性を直虎と見なす考えが出されています。

これに対して、井伊家の研究をしている京都の井伊美術館の井伊達夫館長が、江戸時代に井伊家の家臣が記した古文書が新たに確認されたとして、直虎に関する見解を発表しました。
それによりますと、井伊家の支配地域が混乱したため、今川家の家臣の息子が「井伊次郎」という名前で送り込まれたと記されていたということです。
井伊館長は、「井伊次郎」の父親と見られる今川家の家臣が、「次郎直虎」の名が記された史料にも登場することなどから、直虎はこの井伊次郎と見なすのが妥当だとしています。
井伊館長は「記述には臨場感があるうえ、ほかの史料と話の流れも一致し、信頼性は高いと考えている」と話しています。

直虎をめぐっては、以前見つかっている古文書などから、従来どおり女性だとする研究者もいて、今後の研究の進展が期待されます。
井伊家の歴史に詳しい静岡大学名誉教授の小和田哲男さんは、「今回の古文書には直虎が井伊次郎だと直接書かれておらず、矛盾点もあり、従来の説が変わるとは考えていない。ただ、これまでの説も含めて、さらに研究する余地が出てきた」と話しています。

354荷主研究者:2017/02/26(日) 17:58:22

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170218000045
2017年02月18日 11時47分 京都新聞
二条城東大手門、きらびやか 四弁唐花模様も復元

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20170218112144kazarikanagu450.jpg
豪華な飾り金具がよみがえった東大手門(京都市中京区・二条城)

 修理工事が行われている二条城(京都市中京区)の東大手門で、柱を装飾する「錺(かざり)金物」の取り付け作業が17日、報道関係者に公開された。城門では珍しい金箔(きんぱく)を施した金物で、建設当時のきらびやかな姿がよみがえった。

 東大手門は1603(慶長8)年の築城後に改築され、1662(寛文2)年に現在の櫓(やぐら)門の姿になった。国の重要文化財に指定され、2014年10月から屋根や大扉、城壁などの修理を行っている。

 錺金物は、柱の上下端などに取り付ける銅板の装飾品。修理では約150枚の金物を取り外して金箔と墨による塗装を施し、四弁唐花(しべんからはな)模様が輝く往時の姿を復元した。

 二条城事務所によると、城の正門に金箔の金物を使用している例は、姫路城でも確認されているが、全国では極めてまれ。同事務所の後藤玉樹保存整備課長は「二条城は朝廷との儀式、儀礼の場として造られた。その威厳を示すのにふさわしい姿が戻った」と話す。

 東大手門の工事は3月に終了し、入場門として同22日から通行できる。

355とはずがたり:2017/03/26(日) 22:41:16
地元住民もびっくり 和田山で発見の「山城跡」
http://news.goo.ne.jp/article/kobe/region/kobe-20170326006.html
09:00神戸新聞

地元住民もびっくり 和田山で発見の「山城跡」
山城跡で見学の住民らを案内する横尾正信さん=朝来市和田山町桑原
(神戸新聞)
 兵庫県朝来市和田山町桑原で見つかった山城跡の現地説明会が25日にあり、住民ら約20人が山に登って見学した。地元では戦国時代に見張り所があったと伝わっており、一帯を「城垣(しろげえ)」という地名で呼ぶという。

 市内の山城や古墳を調べる「ふるさとのお宝探検隊」の横尾正信さん(67)=同町岡=が昨年末に見つけた。

 山陰道に面する尾根上に築かれ、主郭部分は南北35メートル、東西13メートル。主郭の周りの斜面は人工的に削って急角度にする「切岸(きりぎし)」が用いられ、主郭を囲むように平らにならした「帯曲輪(くるわ)」も確認できる。

 平地からの高さは約40メートルと比較的低い位置にあり、尾根続きの山頂には、戦いで最後にこもる「詰め城」とみられる山城遺構もあるという。横尾さんは「城主の館は別にあったと考えられ、普段は見張りしか置いていなかったのではないか」との自説を紹介した。

 桑原区長の藤井義光さん(67)は「子どもの頃に登ったという人もいるが、山城跡だったとは。主郭をぐるりと囲む曲輪の大きさに驚いた」と話していた。(長谷部崇)

356とはずがたり:2017/05/10(水) 23:29:33
武田信玄の子孫 「息子の代でやっと江戸から甲斐に帰ることができた」
https://dot.asahi.com/wa/2013082200023.html
(更新 2013/8/24 11:30)

武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版(週刊朝日ムック)
朝日新聞出版
定価:994円(税込)
978-4022770332

 戦国武将のなかでも一際人気を博す武田信玄。武田家第16代当主・武田邦信氏(65)が、ご先祖さまの秘話と今の武田家を語る。

*  *  *
 武田家の系統はあまたありますが、公式に武田家の正系と認められたのは、私の家系でした。

 1915年、大正天皇から、治水への貢献などが認められて、武田信玄に従三位が贈られました。受け取る人は正統の子孫でなければなりません。名乗りを上げた家はなんと、36家。

 山梨県が10年以上調査し、信玄の次男・信親(のぶちか)の家系と七男・信清(のぶきよ)の家系に絞り込みました。最終的に信親の子孫である武田信保(のぶやす)に信玄の従三位が贈られました。これが私の祖父です。

 決め手の一つが信玄の菩提(ぼだい)寺である恵林寺の記録でした。信玄の法要を施主として代々行ってきたことが書かれていました。戦国大名の武田氏滅亡後、信親の子孫は、幕府によって江戸前期から江戸に住まわされていましたが、法要のたびに馬やかごで何日もかけて行っていたのでしょう。

 江戸時代、武田家は、朝廷への使いをする「高家(こうけ)」となり、屋敷は、JR新橋駅烏森口あたりにありました。祖父の代には、東京・新宿の百人町に住んでいました。3千坪の土地があり、人に貸し、裕福な暮らしをしていたようです。そのうちの一人に帝国ホテルの料理長がいて、毎朝出勤前に祖父の朝食を作っていたそうです。父が法大生のときには、馬で通っていたといいます。

 ただ、戦後の財産税によって、土地を失ったと聞いています。その後、畑が広がっていた東京・世田谷に移りました。畑の先にある牧場にビンを持っていき、牛乳を買っておやつとして飲むのが楽しみでした。

 そんなわけで私は東京で生まれ育ち、総合商社の丸紅でサラリーマン生活を送りました。東京では信玄の末裔(まつえい)だと言っても「へえ」というくらいの反応しかありません。

 信玄が誇りとなっている山梨は全く違います。武田家の家臣だった家が多く残っており、家臣の子孫でつくる「武田家旧温会」の会員も多くいらっしゃる。父からも「武田家を慕ってくださる方々をがっかりさせるなよ」ときつく言われていました。今は、月に1度程度、信玄関係の行事などで山梨に行きます。

 13年前、私の長男・英信(ひでのぶ・38)が「江戸に連れてこられた武田家は、自分の代で戻るんだ」と言って山梨県に移住しました。甲府市役所で働いています。注目されているから、うっかりしたことはできません。用事がないのに、わざわざ英信を見に市役所へ来る人もいるのですよ。(笑い)

※週刊朝日  2013年8月30日号

357とはずがたり:2017/05/10(水) 23:30:09
織田家第18代当主「『本能寺の変』後、2系統4家が江戸時代まで大名として生き残る」
https://dot.asahi.com/wa/2014110500090.html
(更新 2014/11/ 7 07:00)

武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版(週刊朝日ムック)
朝日新聞出版
定価:994円(税込)
978-4022770332

 日本人で知らない人はいないであろう織田信長。今では人気の武将として知られるが、織田家第18代当主・織田信孝(のぶたか)氏は「人気が出すぎ」だと指摘する。

*  *  *
 うちは、織田信長の子孫の中でも、次男・信雄(のぶかつ)が先祖になる直系の子孫です。

 信雄は、本能寺の変で信長と後継者だった兄の信忠が亡くなったあと、弟の信孝と争い勝利します。その後、台頭する秀吉に対して、家康と手を結び小牧・長久手の戦いを起こしますが、結局秀吉と和睦。以降は秀吉に従いました。大坂の陣では、家康側につき、大和松山(奈良県宇陀市)を与えられました。

 大和松山藩は五男の高長が継ぎ、信長から6代目の信休のときに、兵庫県丹波市にあった柏原(かいばら)藩に移りました。僕で18代目です。

 織田家では、2系統4家が大名として江戸時代も生き残ります。信雄系が、うちの柏原藩と天童藩(山形県天童市)。信長の弟・有楽斎(うらくさい)の系統では、柳本藩(奈良県天理市)と芝村藩(奈良県桜井市)があります。どの織田家も似たり寄ったりの規模ですが、柏原藩は2万石しかありません。小さく細々とやってきました。

 僕の曾祖父・信親(のぶちか)のときに明治維新がありました。信親は新政府軍について、自ら兵を率いて戦に出たと聞いています。

 祖父の信大(のぶひろ)は、東京美術学校(現・東京芸大)を出て、白木屋(現・東急百貨店)という百貨店の美術部で働いていたそうです。祖父の代までは、東京・恵比寿に2千坪の屋敷がありました。今も残っていたら、もっと楽ができたのかもしれません(笑)。

 僕の代になると、資産と言えるようなものは何一つないです。柏原に残る蔵には、鎧兜やなぎなたがありましたけど、金銭的には二束三文でしょう。

 それにしても、信長の人気って、僕が子どものころは、今ほどではなかったように思います。小学生のとき、授業で比叡山延暦寺の焼き打ちの話が出てきました。そこで誰かが「織田の先祖は人をたくさん殺した」みたいなことを言って、教室がちょっと盛り上がったことがありました。こちらは困ったけれど、一般的なイメージが、信長イコール英雄では決してなかった。ネガティブな部分も語られていたわけです。

 実際、長島一向一揆の制圧をはじめとして、多くの人を殺していますから。あれだけのことをして、よく家が続いたと思うくらい。

 それが今は、新しい時代をつくるためには、強引な手段が必要だったとか、比叡山も平和な人たちではなく僧兵がいただろう、と言う人がけっこう多い。子孫としては複雑で、マイナス面が語られなくなったぶん、人気出すぎの感もある。信長の“名声インフレ”ですよ(笑)。

 これは僕の実感ですけど、“名声インフレ”が起こったのは、津本陽さんの「下天は夢か」が日経新聞に連載された1980年代半ばあたりからです。その少し前には「信長の野望」というゲームが発売されましたし、90年代に入るとNHK大河ドラマ「信長」が放送されています。

 経済が成熟して、社会の仕組みや価値観を変えるような新しいことが求められるようになった。それで、秀吉や家康のように努力型や忍耐型ではなく、誰も思いつかないことをする天才型の信長がすごく魅力的に見えるんじゃないかな。

(構成 本誌・横山健)

※週刊朝日  2014年11月14日号

358とはずがたり:2017/06/04(日) 13:51:59
全国初の木造本格復元だった掛川城天守閣、なぜ鉄筋を選択しなかったのか?
https://thepage.jp/aichi/detail/20170531-00000004-wordleaf
2017.05.31 12:45

 今春、4選を果たした名古屋市の河村たかし市長が執念を燃やしている名古屋城天守閣の木造化。「未来の世代まで残せる市民の財産を」との首長そして政治家としての思いがあるようだ。そんな木造天守閣を全国で初めて本格復元したのは静岡県掛川市だった。掛川市はなぜ木造復元したのか? 天守閣木造復元の思いを探った。

掛川のシンボル、掛川城。20年以上前に全国で初めて天守閣が本格木造復元された
 掛川城は、室町時代の1505(永正2)年に築城され、安土桃山時代、豊臣秀吉の家臣、山内一豊によって城郭と城下町の整備が行われた。しかし、江戸時代に起きた安政の大地震により天守閣や城門が崩壊、天守閣は再建されることなく明治維新を迎え、廃城令により建物の一部を残して撤去された。復元前は、天守台と堀の一部、安政の大地震後に再建された二の丸御殿など一部の遺構が往時の面影をとどめるにすぎない状態であったという。

 掛川城を復元できないだろうかとの思いは、掛川市では昔から街づくりの施策として語られていたようだが、莫大な費用がかかることから現実的な取り組みにまで進展することはなかった。それが現実味を帯び始めたのは、昭和63年(1988年)に東海道新幹線の掛川駅を市民の力で誘致し建設したことだったという。

 新幹線の次は掛川城の復元だと気運が自然に高まっていったのだ。掛川市では昭和52年(1977年)から平成17年(2005年)にかけて、現在、日本茶業中央会会長や大日本報徳社社長などを務める榛村純一氏が7期28年間にわたり市長を務めている。

 榛村氏は、生涯学習を通じた街づくりを提唱し、生涯学習都市宣言をするなどして市の施策に取り組んだ。榛村氏の考えに共鳴した篤志家より掛川市に5億円もの寄付があり、多額の寄付金により掛川城復元は財政的にも現実的なものになっていったのだ。

 しかし、戦後、復元された城は、ほぼすべて鉄筋コンクリート製という時代であった。復元工事を議論する市議会全員協議会で当時市長の榛村氏は「本格的な木造天守閣の建設は全国でも初めてで、それだけに実施設計は難しく、工事費は鉄骨で行えば6億円位だが木造でやればその倍になる」と説明している。

 鉄筋の道をとらず、木造復元を選択した理由は何か? それは、最終的には榛村氏の思い、考えによるものであったと考えられる。榛村氏の家業は林業。掛川市森林組合長や県森林組合連合会専務理事を務め木の文化に強い思いがあった。

 榛村氏は、「木の文化によるまちづくりの意義と効果」と題した文章の中で、木の文化、木造建築にこだわる理由として、自身が林業や森林組合長をやってきたこと、環境問題、木造建造物の教育的、精神的な側面の3点を上げ、こうした自身の理念を集約したものが掛川城の復元だったと明かしている。

 しかし、その建設は、建築基準法にかかる問題への対処や津軽半島から材木を仕入れるなど大きな苦労があったようだ。また、天守閣の設計は、山内一豊が掛川城を模して建てたとされる高知城をもとに行われたという。

 掛川城は平成2年(1990年)8月から復元工事が行われ、平成6年(1994年)4月に竣工、一般公開された。木造復元から20年以上を経た現在、掛川城は地域のシンボル、観光資源として定着し年間14万人もの人が訪れている。

359荷主研究者:2017/06/11(日) 13:29:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20170530/CK2017053002000056.html
2017年5月30日 中日新聞 
犬山城の国史跡指定目指す 市、年度内申請を視野に協議

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2017052902100250_size0.jpg
絵図などから1840年の城山を再現した模型。門は18棟、やぐらは13棟あった=犬山市文化史料館で

 犬山市が犬山城の国の史跡指定を本格的に目指すことになった。本年度内の文化庁への申請を視野に関係者と協議していく。山田拓郎市長が二十六日の市総合教育会議や二十九日の定例会見で史跡指定に意欲を示した。

 犬山城は天守は国宝だが、城郭跡は文化財に指定されていない。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、それらを元手に城山の整備を進める。

 史跡指定の対象は最小限とし、天守のある城山や、大手門があった市福祉会館周辺などを念頭に置いている。ただ、史跡指定されると土地利用について制限がかかるため、申請には土地所有者ら関係者の理解が必要となる。

 併せて山田市長は、現時点では構想と断った上で「将来的には各地に移築された門ややぐらを復元し、元々の城山の状態に近づけていきたい。長い時間、例えば五十年ぐらいかけてやっていけないかと思っている」と述べた。

 犬山城は一八七三(明治六)年の廃城令の後、建物の一部が旧城下町などで構成する稲置村に払い下げられた。村はこの後、門とやぐら、小屋を寺社や個人に売却した。同じく明治時代に城跡が公園となった際にも門ややぐら、倉庫、高塀が払い下げられた。

 このうち六つの門と一つのやぐらが現存していることが分かっている。門は一宮市(二棟)、犬山市(二棟)と扶桑、大口両町で寺院の門に、また旧桐(きり)の丸隅やぐらが江南市で土蔵として使われている。江戸時代の大火に際して、再建のために描かれた詳細な図面が残っている門ややぐらもある。

 (三田村泰和)

360荷主研究者:2017/06/11(日) 14:29:19

http://www.sankei.com/region/news/170602/rgn1706020038-n1.html
2017.6.2 07:03 産経新聞
高山右近の高槻城から大堀、木橋橋脚など出土 「築城過程知る貴重な資料」

 戦国時代のキリシタン大名、高山右近(1552〜1615年)が城主だった高槻城(高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかり、同市教育委員会が1日、発表した。市教委は「城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料」としている。

 高槻城は右近の居城として知られるが、城の痕跡は地下に残るのみで、それも元和3(1617)年に江戸幕府が行った大修築による。400年を迎えた今年、日本城郭協会(東京都品川区)により「続日本100名城」に選ばれた。

 今回の調査では、三の丸から二の丸北側の城門「不明門(緊急時のみに使われる門)」に通じる木橋の橋脚計21本を確認。理由は分からないが、いずれも堀底から高さ約2・5メートル部分で切断されていた。木橋は、仏日寺(池田市畑)が所蔵する「高槻城絵図」(江戸時代前期に製作)に記載がなく、城郭の変遷をとらえ直す重要な手がかりになるという。また、不明門の増築時に資材などを搬入する仮設通路として使われたとみられる土橋も確認された。

 このほか、右近が城主だった16世紀に拡張したとみられる大堀を発見。底幅約9メートルの修築状況などから、織田信長も攻めあぐねた城の堅牢なつくりが裏付けられた。徳川幕府による大修築では、右近時代のこの大堀を埋めて外堀がつくられるなど戦国時代から江戸時代にかけて修築されてきた城の変遷がうかがえるという。

 また大堀の土層から、豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第で使われた軒平瓦と同じ唐草文様の掛平瓦(長さ28センチ)が出土。瓦は豊臣政権下の時期に搬入されたと考えられ、高槻城が秀吉の御座所(居室)のような存在だったことも明らかになった。

 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「政治的、軍事的、経済的な面から増改築が繰り返された高槻城の歴史を探る上で意義深い発見だ」としている。

 現地説明会は3日午前10時〜正午。阪急高槻市駅から徒歩約8分、JR高槻駅から徒歩約15分。問い合わせは高槻市立埋蔵文化財調査センター(電)072・694・7562。

362とはずがたり:2017/11/28(火) 19:59:39
徹底的に今川推しの俺だが,云われてみればそうだな♪

再評価される今川氏真の処世術 戦国時代にアーリーリタイアを実現
https://www.excite.co.jp/News/smadan/E1510305047667/
スマダン 2017年11月28日 10時00分
ライター情報:長井雄一朗

アーリーリタイア(早期リタイア)という生き方があります。定年を待たずに、早い人は20代で会社勤めを辞め、第2の人生を選ぶ生活のことです。

歴史に目を移せば、戦国大名としては滅亡しましたが、文化人として生き延びた戦国武将がいます。それが、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子である今川氏真です。義元の死後、氏真なりに領国経営に乗り出しますが、武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにあい、もはやこれまでという窮地に陥ります。
それでもさまざまなパイプを活かし、各地を転々として、ある時は、かつての部下である家康に頭を下げ、家臣になり、またある時は父を殺した織田信長の前で蹴鞠(けまり)をあざやかに披露。政治の世界では成功しませんでしたが、人脈と豊富なノウハウでセカンドライフを楽しみます。これまでの歴史的な考え方では、「今川氏を滅亡させた愚かな君主」というのが一般的でしたが、現在で言うアーリーリタイアの生き方を戦国の世で体現したまれな人物として再評価する声があがっています。
今回、戦国史が専門で、今川氏の研究に詳しい駒澤大学文学部の久保田昌希教授に、氏真の人生を元に現在に生きる知恵について話をうかがいました。

駒澤大学文学部の久保田昌希教授

義元の弔い合戦をせずに経営に乗りだす

今川氏真の戦国大名としての評価は「愚かな君主」のイメージでしたが、その後、今川氏を存続させるための処世術は再評価がなされています。

久保田昌希(以下、久保田) 今川氏真の人生は、本人自身が納得したかどうかは分りません。
ただ、戦国時代の周辺の勢力図には、織田信長、武田信玄、上杉謙信などがおり、戦国大名として今川氏を存続することは無理だったと思います。父・義元から見ると劣りますが、一方優れた処世術は持っていました。

――氏真の内政はいかがだったでしょう。
久保田 永禄元年(1558年)に氏真の文書がはじめて発給されます。特に神社に対する流鏑馬銭等の徴収を安堵する内容で、これは当主の権限でした。この頃から、駿河国・遠江国(現静岡県)の経営が氏真に任されていきました。

――義元の死後、氏真の動向はあまりクローズアップされていません。
久保田 義元の死後、織田を打倒するため弔い合戦をするのではなく、領国の経営に乗り出します。
これは理由があり、桶狭間の戦いで戦死した武将も多く、その家ごとにショックを抱えていましたから、まず安定を考えていたのでしょう。桶狭間の戦いが永禄3年(1560年)ですから、その後、氏真名義での文書が当然多く発給されます。
大河ドラマの『おんな城主 直虎』でやりました「井伊谷徳政令」の話ですが、あれは、井伊谷や井伊氏をつぶしたいがために徳政令を発令したのではないと考えています。
氏真は徳政令を出することで徳のある政治を行いたいという考え方を持っていたのではないでしょうか。ただそうなると金貸しはたまったものではありませんので、徳政令に従った金貸しには、損だけさせるのではなく特権商人としての地位を認めるなど、バランスの取れた政治も行なっていました。ちなみに、徳政令は、個別に義元も出しています。
ほかには、富士大宮楽市も行い、信長より一歩先んじて、当時の楽市楽座政策に影響を与えたと思われます。そういう意味でも悪政を強いたわけではありません。

363とはずがたり:2017/11/28(火) 19:59:50

戦国時代の常識「討ち死に」をせず生きる道を選ぶ

その後、東は信玄、西は徳川家康の挟み撃ちにあい、懸川城に包囲されます。戦国時代では「もはやこれまで」と城を枕にして討ち死にするのが戦国大名の生き方かもしれませんが、あえて生きる道を選びました。
現在の掛川城

久保田 しかし、領国経営に一定の成果を収めても桶狭間で破れたことの影響は大きく、今川氏は大名としては無理ですがここで有力大名の部下となり与力大名として存続しようと考えたのではないでしょうか。
追い詰められて一族全員自死した武田勝頼と比較しますと、非常に対照的な生き方です。
義元は家康を幼い頃から駿河で養育し、名軍師・太原雪斎の教育も受けさせました。氏真と家康は年齢もそう変わりませんし、独自のパイプもあったのでしょう。懸川城籠城では戦うだけではなく、交渉も行なっていました。同時に、氏真の奥さんである早川殿は北条氏康の娘ですから、北条氏とも交渉し、逃げ場を確保するため努力をしていたと思います。
徳川氏や北条氏とのパイプがあり、それが上手く生きて、近世に幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」によると、氏真は早川殿の実家になる小田原城に近い相模国早川に館を構えたようです。
その後、北条氏康の息子である氏政が武田氏と同盟を組むと、北条氏を頼ることも難しくなったため、家康の居城である浜松へと今度は移ることになります。
懸川城で破れてから、実は氏真は一歩一歩地道に交渉し、生きる道を選択していたのです。

妻と二人三脚で今川氏を存続させる

戦国大名では男性がクローズアップされがちですが、氏真の場合はパートナーの力も大きかったようです。

久保田 氏真の妻の早川殿は、駿府から懸川に逃げる際、輿にも乗れず歩き通しました。ですからしっかりした気性を持っていたのでしょう。早川殿の祖母は、今川氏四代を補佐し、「大方」と呼ばれ、尊敬されました。北条氏に嫁した母・瑞渓院が娘・早川殿を育てました。今川氏を取り巻く女性たちの存在やアドバイスにより、今川氏は戦国時代にさらに成長し、今度は戦国大名としては滅亡した今川氏を存続するために、早川殿は氏真を支えます。
早川殿は氏真にずっと付き添っていますが、氏真が間違った道を選ばず、乱れた生活をしなかったことは、早川殿の力が大きかったと推察しています。
戦国大名の家で女性たちがどのような役割を果たしたかより研究が進展すると、さらに戦国大名像も変わっていくでしょう。

――その後、信長は氏真に対して、蹴鞠を所望します。並の神経であれば、自分の父を殺した相手に蹴鞠を見せるのは、プライドが許さないと思うのですが。
久保田 プライドもあった一方、戦国大名としてはつぶれても、今川氏を存続するためにどう行動するかを早川殿と相談し、割り切って考えていたのでしょう。
そこで復讐をするよりも、蹴鞠を披露してなにかチャンスがあればという考えもあったと思いますが、「あれが武田や徳川に滅ぼされた氏真か」と当然、話題になるわけです。並の神経ではありません。

364とはずがたり:2017/11/28(火) 20:00:06
>>362-364
――大名復帰のチャンスもあったようですね。
久保田 氏真は、「長篠の戦い」で後詰めをつとめたり、手柄をたて、遠江の牧野城番をつとめたりするなど、がんばれば戦国大名に復帰できた可能性はありました。
実際、家康も信長も与力大名として氏真を駿河国のなんらかを任せようとする考えはあったかもしれませんが、やはりそれだけの器量はなかったのでしょう。牧野城番をつとめた後、完全に政治から離れ、文化人として生きることになります。
最近、流行の言葉で言えば、アーリーリタイアですが、その後の人生は生き生きとしたものです。
しかし、氏真の人生や生き方が果たして、自身ですべて決定したかは疑問です。氏真の決定には、早川殿の判断が大きいと考えています。

――氏真のパートナーである早川殿との二人三脚の人生が、今川氏存続のカギであったと言うことですか。
久保田 氏真は京都に暮らし、和歌を詠み、多くの文化人との交流を楽しみました。悪くない人生です。氏真と早川殿の肖像画がともに伝わっていますが、本当に仲が良かった証拠です。
氏真は政治の世界から身を引くことで生き残りの打開策を見つけ、文化で食べていくことで新たな生き方を見つけました。
早川殿としては氏真の次の言行が自分や子どもにも跳ね返ってきますから、生き残ってもらわないと困る。氏真を監視しつつ、財布のひもをしっかりと握り、チャンスが来るのを待っていたと思います。
氏真の現代の教訓や処世術として伝えるのであれば、当たり前ですが、良きパートナーに恵まれることが人生を救う道にもつながるということです。
ほかにももっと有名な例があります。信長はどちらかといえば奥さんに恵まれませんでしたが、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の女遊びがひどく、奥さんのおねねが信長に言いつけるのですが、信長は、「藤吉郎はけしからん。今後は常に堂々としてこの手紙を藤吉郎に見せなさい」という手紙が残っています。おそらく信長は、藤吉郎夫婦をうらやましく見つめていたのでしょう。秀吉の天下取りにおねねが果たした役割は決して小さくありません。

見直される氏真の生き方

――その後、家康は征夷大将軍になり、天下を治めるに至りました。氏真は嬉しかったでしょう。
久保田 幼なじみである家康が天下を取ったことで今川氏の運命も好転します。氏真は気安さから家康のもとを足繁く訪問し、あまりに長話するものですから、江戸城から離れた品川に屋敷を与えた話も伝わっています。
ただそういう気安さや人脈が生きて、孫の直房が江戸幕府に仕え、公家と幕府の連絡役や接待役である高家に取り立てられました。
今川氏研究は大河ドラマの影響もあり、研究が進展しています。歴史はどの時代でも、見直しがはかられています。氏真と早川殿夫婦の生き方の再評価もそのうちの一つです。それは現代の方々への教訓にもなり、指針にもなるでしょう。
今、ブラック企業でサラリーマンやOLの方が苦悩され、中には自殺の道を選ぶこともあります。これは本当に悲しいことです。ですから1人で悩みを決して抱え込まないことが大切です。
1人で解決できないことも二人三脚であれば解決できるいい事例がこの氏真と早川殿の人生から学ぶことができます。
ぜひ、若い方には歴史から自分の生き方を模索し、豊かな人生を歩んで欲しいと願っています。
――ありがとうございました。
(長井雄一朗)

365荷主研究者:2017/12/02(土) 20:17:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20171118/CK2017111802000053.html
2017年11月18日 中日新聞
国史跡指定・名勝範囲拡大で整備に弾み 犬山城跡と名古屋城二之丸庭園

国宝の天守が立っている城山などが史跡に指定された犬山城

 国の文化審議会の答申で、県内からは「犬山城跡」(犬山市)の史跡指定と、名勝「名古屋城二之丸庭園」(名古屋市中区)の指定範囲拡大が盛り込まれた。

 犬山城は天守が一九三五(昭和十)年に国宝に指定されたが、その他の城跡は文化財ではなかった。史跡指定によって国の補助を有利に受けられ、城山の整備を進めていく。

 山田拓郎市長は「史跡化をその先の展開の足掛かりにしたい。時間はかかるだろうが、堀や門、やぐらなどを復元し、元の犬山城の姿に戻して未来に手渡したい」と話した。

 天守などを所有する公益財団法人「犬山城白帝文庫」理事長で城主末裔(まつえい)の成瀬淳子さんは「長く城を守ってきた成瀬家にとっても慶事。指定をきっかけにみんなの城という意識が一層高まってほしい」と話した。

 犬山城は、戦国時代の一五三七(天文六年)の築城と伝わるが、確実な史料はない。現存する天守で最も古い形式を持ち、元は二階建てだったが、いずれかの時代に望楼(三、四階)を載せた現在の姿になった。

 一六一七(元和三)年に二代将軍の徳川秀忠が尾張藩付家老・成瀬正成を城主とし、成瀬家が代々城を守った。明治以後も成瀬家が二〇〇四年まで個人所有し、市が管理してきた。

 年間入場者は昨年、過去最多の五十四万人。ここ十数年で二・五倍となり、入場料の一部を市の特別会計に積み立てて修理費などに充てている。

 名古屋城二之丸庭園は、初代尾張藩主・徳川義直が居館としていた二之丸御殿の北側に造営。大規模な大名庭園の遺構として芸術的、学術的価値が高いとされ、一九五三(昭和二十八)年、国の名勝に指定された。

 指定済みの五千百平方メートルに加え、東庭園や南池、御茶屋跡など二万五千三百平方メートルを追加し、指定範囲は計三万四百平方メートルとなる。

 二之丸の一角にある県体育館は二〇二六年までに名城公園北園(名古屋市北区)へ移転することが決まっており、二之丸を含めた名古屋城の再整備にも弾みがつきそうだ。

 (三田村泰和、梅田歳晴)

366名無しさん:2017/12/17(日) 13:02:44
https://spice.eplus.jp/articles/162465

お城ファンが実際に訪れた日本の城ランキング、3位は松本城、NHK大河ドラマの影響であのお城も人気上昇
ニュース イベント/レジャー
2017.12.13
687
ツイート
シェア
送る

日本の城をテーマとしたGPSスタンプラリーアプリ「発見!ニッポン城めぐり」が、 アプリ利用者のGPS(位置情報)データを独自に解析した『お城ファンが実際に訪れた日本のお城ランキングTOP300(2017年版)』を発表した。

このランキングは、 年間4億件以上の位置情報ビッグデータを独自に解析したもので、2017年1月1日〜2017年11月30日の期間中、同アプリの利用者であるお城ファン13万人超を対象として、実際に城のエリア内で計測された位置情報データを独自の基準に基づいて解析し訪問者数を集計したもの。従来の人気投票や、管理事務所などがあるお城の入場者数ランキングとは異なり、これまで計測することができなかった無人の城跡などを含めたランキングとなっている。

ランキング対象となる城は、「日本100名城」「続日本100名城」などの一般的に良く知られる城はもちろん、 北は北海道・南は沖縄まで全国に実在した約3,000城が対象となっている。中には天守等の建物もなく、遺構も残っていない城跡も含まれている。

気になるランキングは、日本初の世界遺産あり言わずと知れた名城・姫路城が前回に続き安定の1位を獲得。そして2位の彦根城、13位の浜松城、88位の井伊谷城と、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送により井伊氏関連城郭の訪問者数が増加していることは2017年の特筆すべき点といえる。

また、4月に公益財団法人日本城郭協会から「続日本100名城」が発表されたことにより、そこに選定された城郭の多くが昨年よりも順位を上げている(または圏外から初登場している)ことも、今年のランキングの特徴となっている。

好きなお城ランキング
お城ファンが実際に訪れた日本全国のお城ランキングTOP300(2017年版)
順位 城郭名(*は日本100名城、 #は続日本100名城)
1位(―) 姫路城(兵庫県姫路市)*
2位(↑) 彦根城(滋賀県彦根市)*
3位(―) 松本城(長野県松本市)*
4位(↑) 犬山城(愛知県犬山市)*
5位(↑) 高知城(高知県高知市)*
6位(↑) 松江城(島根県松江市)*
7位(↑) 松山城(愛媛県松山市)*
8位(↓) 備中松山城(岡山県高梁市)*
9位(↑) 竹田城(兵庫県朝来市)*
10位(↓) 上田城(長野県上田市)*
11位(↑) 名古屋城(愛知県名古屋市)*
12位(↑) 岡山城(岡山県岡山市)*
13位(↑) 浜松城(静岡県浜松市)#
14位(↓) 小田原城(神奈川県小田原市)*
15位(↑) 丸岡城(福井県坂井市)*
16位(―) 会津若松城(福島県会津若松市)*
17位(↓) 丸亀城(香川県丸亀市)*
18位(↓) 大坂城(大阪府大阪市)*
19位(↑) 躑躅ヶ崎館[武田氏館](山梨県甲府市)*
20位(↑) 岐阜城(岐阜県岐阜市)*
21位(↑) 高取城(奈良県高取町)*
22位(↓) 二条城(京都府京都市)*
23位(↑) 岡崎城(愛知県岡崎市)*
24位(↑) 高松城(香川県高松市)*
25位(↑) 甲府城(山梨県甲府市)*
26位(↑) 岩村城(岐阜県恵那市)*
27位(↑) 仙台城(宮城県仙台市)*
28位(↑) 駿府城(静岡県静岡市)*
29位(―) 苗木城(岐阜県中津川市)#
30位(↓) 掛川城(静岡県掛川市)*
31位(↑) 広島城(広島県広島市)*
32位(↑) 宇和島城(愛媛県宇和島市)*
33位(↑) 松坂城(三重県松阪市)*

367名無しさん:2017/12/17(日) 13:09:27
>>366

34位(↓) 弘前城(青森県弘前市)*
35位(↓) 和歌山城(和歌山県和歌山市)*
36位(↓) 金沢城(石川県金沢市)*
37位(↓) 熊本城(熊本県熊本市)*
38位(↑) 福井城(福井県福井市)#
39位(↓) 今治城(愛媛県今治市)*
40位(↓) 忍城(埼玉県行田市)#
41位(↓) 津山城(岡山県津山市)*
42位(↑) 川越城(埼玉県川越市)*
43位(↑) 長篠城(愛知県新城市)*
44位(↑) 府内城(大分県大分市)*
45位(↑) 高島城(長野県諏訪市)#
46位(↑) 岸和田城(大阪府岸和田市)#
47位(↓) 白河小峰城(福島県白河市)*
48位(↓) 伊賀上野城(三重県伊賀市)*
49位(↓) 篠山城(兵庫県篠山市)*
50位(↑) 福知山城(京都府福知山市)#
51位(↓) 松代城(長野県長野市)*
52位(↑) 大洲城(愛媛県大洲市)*
53位(↑) 米沢城(山形県米沢市)#
54位(↓) 江戸城(東京都千代田区)*
55位(↓) 郡上八幡城(岐阜県郡上市)#
56位(↑) 盛岡城(岩手県盛岡市)*
57位(↓) 高遠城(長野県伊那市)*
58位(↓) 小諸城(長野県小諸市)*
59位(↑) 佐賀城(佐賀県佐賀市)*
60位(↑) 大和郡山城(奈良県大和郡山市)#
61位(↑) 足利氏館(栃木県足利市)*
62位(―) 明石城(兵庫県明石市)*
63位(↓) 安土城(滋賀県近江八幡市)*
64位(↑) 湯築城(愛媛県松山市)*
65位(↓) 越前大野城(福井県大野市)#
66位(↑) 佐土原城(宮崎県宮崎市)#
67位(↓) 一乗谷城(福井県福井市)*
68位(↑) 七尾城(石川県七尾市)*
69位(↑) 白石城(宮城県白石市)#
70位(↑) 小倉城(福岡県北九州市)#
71位(―) 大垣城(岐阜県大垣市)#
72位(↓) 鳥取城(鳥取県鳥取市)*
73位(↑) 島原城(長崎県島原市)*
74位(↑) 延岡城(宮崎県延岡市)#
75位(↑) 土浦城(茨城県土浦市)#
76位(↑) 小牧山城(愛知県小牧市)#
77位(↓) 新発田城(新潟県新発田市)*
78位(↑) 赤穂城(兵庫県赤穂市)*
79位(↓) 新田金山城(群馬県太田市)*
80位(↑) 吉田城(愛知県豊橋市)#
81位(↓) 福岡城(福岡県福岡市)*
82位(↑) 田中城(静岡県藤枝市)
83位(↑) 鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)*
84位(↑) 小机城(神奈川県横浜市)#
85位(↑) 松前城(北海道松前町)*
86位(↓) 沼田城(群馬県沼田市)#
87位(↑) 出石城(兵庫県豊岡市)#
88位(↑) 井伊谷城(静岡県浜松市)
89位(↑) 美濃金山城(岐阜県可児市)#
90位(↓) 福山城(広島県福山市)*
91位(↑) 三原城(広島県三原市)#
92位(↑) 唐津城(佐賀県唐津市)#
93位(↓) 富山城(富山県富山市)#
94位(↓) 山中城(静岡県三島市)*
95位(↓) 春日山城(新潟県上越市)*
96位(初) 棚倉城(福島県棚倉町)
97位(↑) 高田城(新潟県上越市)#
98位(↑) 五稜郭(北海道函館市)*
99位(↑) 平戸城(長崎県平戸市)*
100位(↓) 名胡桃城(群馬県みなかみ町)#
※ 順位横の()内は昨年のランキングからの変動を表します。
(―)変動なし、 (↑)上昇、 (↓)下降、 (初)初登場
※ 101位以降のランキングは「発見!ニッポン城めぐり」webサイト( https://cmeg.jp/ )に掲載。

368とはずがたり:2017/12/27(水) 15:24:25
城や寺の「うぐいす張り」、実は「忍び返し」ではない?
https://www.asahi.com/articles/ASKD90045KD8PTFC012.html?iref=com_alist_8_05
岡田匠2017年12月27日12時05分

敵の侵入を知らせるためと言われてきた「うぐいす張り」は長い年月がたって金具が緩んだことが原因だった。京都・知恩院では修理したことで鳴っていた廊下が鳴らなくなり、老朽化によって鳴っていなかった廊下が鳴るようになった。
写真・図版
ウグイスの鳴き声に似た音が鳴る知恩院の廊下=京都市東山区、楠本涼撮影

 浄土宗総本山知恩院や世界遺産・二条城(いずれも京都市)で知られる「うぐいす張り」。廊下を歩くとキュッキュッと音が鳴るため、「忍び返し」とも言われ、侵入者を知らせるための工夫とされてきた。だが、その説に疑問符がついているという。

 「平成の大修理」が進む知恩院。江戸前期にできた御影堂(みえいどう、国宝)など建物四つをつなぐ廊下(約550メートル)が、うぐいす張りだ。案内板で「侵入者を防ぐための工夫を凝らしたもので(中略)長さも音色も日本一」と説明している。

 だが、建物の一つは2011年に修理を終えて以降、廊下を歩いても音が鳴らなくなった。一方、別の場所にある阿弥陀堂はうぐいす張りと呼ばれていなかったが、再建から100年余りたった近年、音が出るようになった。

 音の原因は、床板を固定する金具「目かすがい」と釘にある。

 建築当初、金具は釘でしっかり…

369荷主研究者:2018/01/28(日) 10:03:34

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201801/20180107_13011.html
2018年01月07日日曜日 河北新報
<みやぎの平成30年>(6)白石城復元 歴史継承、活性化の核に

白石城本丸広場で、2代目城主片倉小十郎重長の軍勢と真田幸村軍の大坂夏の陣(1615年)での激闘を再現する「鬼小十郎まつり」=昨年10月

三階櫓と同時期に復元された大手二ノ門前での落成式でテープカットする関係者=1995年5月2日、白石市益岡公園

 新年は「平成30年」の節目の年。バブル経済真っ盛りに始まった「平成」は来春、天皇陛下の退位によって幕が引かれようとしている。「平成」はわれわれにとってどんな時代だったのか? 宮城県内であったこの29年の出来事を振り返りながら、今を見つめて、次代へとつなごう。

◎〜結ぶ、つながる〜 ◆平成7年

 そこかしこから望める白壁の威容が、城下町白石の風情を醸し出す。

 1995(平成7)年、白石城が約120年ぶりによみがえった。

 「独眼竜」と称された伊達政宗の股肱(ここう)の臣、片倉小十郎景綱に始まり、260年余にわたって片倉家が居城にした。徳川幕府の一国一城令にあっても仙台城の支城として存続し、明治維新後の1874年に解体された。

 「市民が心の過疎に陥らないよう志を高めたい。観光だけでなく、白石再生へのシンボルになる」と当時の市長川井貞一さん(84)。住民が減り、産業にも漂う衰退ムードを打破しようと、20億円を要する木造での本格復元に踏み切った。

 天守閣に当たる三階櫓(やぐら)は高さ16.72メートルで前例のない規模。人口4万強、年間予算100億円前後の小都市が法規制や財源の対応に知恵を絞り、成し遂げた事業は全国的にも注目された。

 ハザマ(現安藤ハザマ)東北支店で白石城作業所長を務めた外舘寛さん(63)は「白石で示された先例が本物志向の城郭復元の流れをつくった。壊れたら修理することで技術も伝承される」と意義を語る。

 青森ヒバやヒノキといった国産材をふんだんに使い、宮大工や石工ら全国の職人技の粋を集めた。伝統の知恵は災害にも強かった。2011(平成23)年3月の東日本大震災。土壁が揺れを吸収して柱や梁(はり)を守り、内側に栗石(ぐりいし)という玉石を積んだ石垣はびくともしなかった。

 さまざまな困難を乗り越えた白石城。仙台藩の南の要衝は今、県南地域の観光や文化活動の一大拠点となった。初日の出や花見、日本舞踊、茶会など多様な催事で年中にぎわう。勇壮に合戦を再現する「鬼小十郎まつり」は秋の恒例行事として昨年10回目を迎え、各地から人を呼び込む。

 景綱に扮(ふん)して市内外で白石をPRするのは、大宮宗雄さん(56)。普段は白石城管理事務所で働く。

 大宮さんは「小十郎が生きた時代にタイムスリップした気分を味わえるのは、リアルに再現された城ならではの魅力。子どもや外国人など客層も年々広がっている」と胸を張る。

 城周辺に活気は生まれたが、市内を見渡せば人口は減る一方で苦境が続く。「武家文化が息づくまちとして、気骨を持ち続けてほしい」。川井さんは白石城に次代への願いを託す。(白石支局・村上俊)

[メモ]白石城は江戸時代に何度か建て直され、1823(文政6)年に完成した最終形を再現した。復元事業は1988年策定の第3次白石市総合計画で打ち出され、92(平成4)年度に着工。三階櫓は建築基準法が定める木造建築物の高さ制限(13メートル以内)に抵触するため、構造や防災面の安全性を立証し、当時の建設大臣認定という全国初の特例を得た。入館者は95年度の約28万人が最多。東日本大震災後の2011年度は約4万2000人に落ち込んだが、16年度は約7万1000人となった。

370名無しさん:2018/03/10(土) 17:23:32
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/14412751/

テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き!城好きロンブー淳が直々オファー、念願叶う

スポニチアネックス
[画像] テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き!城好きロンブー淳が直々オファー、念願叶う
 池の水を抜くだけのテレビ東京の異色企画「池の水ぜんぶ抜く」で、大の城好きとして知られる番組MCのロンドンブーツ1号2号・田村淳(44)の念願が叶い、小田原城(神奈川県小田原市)のお堀の水を抜くことが10日、分かった。11日に放送されるシリーズ第7弾「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦7〜巨大怪物も絶滅危惧種も出た!出た!〜」(後7・54)の収録がこのほど同所で行われ、淳が企画実現までの裏側を明かした。

 昨年1年間で全21の池の水を抜いてきたが、ついに舞台は城へとスケールアップ。城のお堀の水を抜くのは番組史上初となる。

 1417年に築城され、室町〜戦国時代にかけて北条氏の本拠地として栄えた小田原城。上杉謙信らの武将の攻めにも耐えたことから“難攻不落の城”として知られているが、7〜8年前から南米原産の水草で、要注意外来生物にも指定されている「オオカナダモ」(トチカガミ科)がお堀の中に大繁殖。悪臭などの問題に頭を抱えていたという。

 以前、別番組の収録で同所を訪れる機会があったという淳は「お掘があまりきれいな色じゃなかったんで『抜かせてください、抜かせてください』と何度かお願いしてたんですよね」と水抜きを懇願していたことを告白。

 「『(観光課の方が)うちとしても抜きたいんでけど、お城なのでGOサインがなかなか出しづらいんです。けど、またそういう機会があれば、ぜひ!』という話を5カ月くらい前にしていたんですが、この番組が育つとともに『あの番組なら任せていいんじゃないか』となったんじゃないかと」。第6弾(今年1月2日放送)に中川雅治環境大臣が出演し、番組に感謝したが「相当大きかった気はします。『お城を管理している偉い方も、そういう番組だったらいいんじゃない?』となったんだと思います」とオファーが実現するまでの経緯を語った。

 城の管理者によると、お堀の水抜きを行ったのは38年前が最後。当時はお堀の汚れを清掃するために水を抜き、ヘドロを除去したという。

 今回は約1週間かけ、お堀の水をすべて抜き切る。願いが叶った淳は「福岡県の観光課の方や三重県の伊勢市の方にも『池の水を抜かせてください』と言ったら『ぜひぜひ』と言われました。たくさん歴史的な神社があって、そこには池もありますから」と、さらなるオファー実現にも含みを持たせた。

 11日放送の第7弾は、お堀の水抜きがスタートする模様をオンエア。水を抜き切り、生物の捕獲などをする様子は4月のレギュラー放送(月1回、日曜後7・54)1回目で詳しく伝える。

372とはずがたり:2018/06/21(木) 14:29:23
熊本城も地震で被害 写真特集
https://www.jiji.com/jc/d4?p=iku415&d=d4_qq

 倒壊した熊本城の元太鼓櫓=2018年6月20日[熊本市提供]【時事通信社】
 熊本市は20日、熊本地震で傾くなどの被害が出た熊本城の元太鼓櫓(やぐら)が倒壊したと発表した。前日からの大雨の影響とみられる。周辺は震災後、立ち入り規制されており、けが人はいなかった。
 元太鼓櫓は2003年度に復元された木造の櫓。倒壊の危険があったため今年8月以降の解体復旧が予定されていた。市は当初の予定通り作業を進める。

373荷主研究者:2018/07/07(土) 23:43:25

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180626/CK2018062602000036.html
2018年6月26日 中日新聞
土塁再確認へ発掘調査 深志城の謎、解明目指す

深志城を築いた島立貞永を祭る神社跡の若宮八幡(正面)=松本市丸の内で

 国宝松本城(松本市丸の内)の南・西外堀復元事業で同市教育委員会は二十五日から、西外堀に面した二の丸の土塁確認に向けて発掘調査を始めた。土塁は城の周囲に設けられた防御用の盛り土で、三月の調査で確認した土塁下部に、同城の前身とされる深志城の土塁の可能性がある土層が見つかったため、今回の調査で再確認したい考え。十六世紀初めの戦国時代初期に築造されたとされる深志城については謎が多く、松本城のルーツ解明に期待が寄せられる。 

 市教委文化財課の竹内靖長課長補佐によると、今回の調査は九月末までの予定。二の丸西端に幅三メートル、長さ十メートル、深さ二・五メートルの試掘溝を掘り、土塁の位置と規模を確認する。また、今春の調査で課題となった深志城の土塁解明を目指す。

 竹内課長補佐は「現場は前回調査の約十五メートル北なので、引き続き土塁は検出できるはず」と期待する。深志城時代の古い土塁については「十月からは今回よりさらに北へ三十メートルほど離れた地点に試掘溝を掘り、状況を確かめたい」と、意欲を見せた。

 松本城管理事務所によると、戦国時代の松本は信濃守護の小笠原氏が統治した。同氏は井川の館(同市井川城)を拠点にしていたが、有事に備えて山城の林城(同市里山辺)に移り、林を中心に一族が守る城を各地に配置した。

深志城を造った島立貞永を祭る若宮八幡の古い社殿=松本市筑摩三才で

 深志城はその一つで、島立貞永(しまだちさだなが)が一五〇四(永正元)年に造ったと伝えられる。しかし、五〇(天文十九)年に武田信玄が侵攻して深志城を拠点と定め、島立氏の城を拡充整備したとされる。しかし、信玄がどのように城を造り替えたかの記録はないという。

 同事務所の後藤芳孝研究専門員は「深志城の遺構は何も残されておらず、謎に包まれている。古い土塁が確認されても、島立氏の時代か武田氏か、その後に整備されたものかを特定するのは難しい。ただ、近世松本城以前の城が、どのように築かれてきたかが見えてくる」と評価する。

 同専門員によると、深志城の痕跡は松本城二の丸北西隅にある「若宮八幡」に残っている。深志城を造った島立貞永を松本城の守り神として祭った神社跡。一六七〇(寛文十)年に建て替えられ、古い社(国の重要文化財)は同市筑摩三才に移されて往

374荷主研究者:2018/08/01(水) 23:11:55

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180711/CK2018071102000038.html
2018年7月11日 中日新聞
松本城の外堀復元を断念 土壌汚染確認で

南・西外堀の平面整備イメージ図=松本城管理事務所提供

 国宝松本城(松本市丸の内)で進められている南・西外堀復元事業で、用地の一部で土壌汚染が確認されたことを受けて市は十日、従来の堀の復元計画を見直し、平面整備とする方針を明らかにした。同日の市議会議員協議会で提示し、了承された。二〇二四年度末の完成予定に変更はないという。

 市は一七年度、事業用地の土壌汚染調査を実施。その結果、一部から基準値を上回る自然由来の「鉛及びその化合物」が検出された。

 市によると、土壌汚染が確認された範囲は用地全体(約一万一千平方メートル)の34%に当たる約三千八百平方メートル。周辺にある飲用井戸の水質検査では、基準値を下回った。

 同事業ではこれまで、現在残っている外堀に加え、今は家屋などが立っている城の南側と西側に、幕末・維新期にあった姿と近い形で外堀を復元することを目指してきた。市は一三年度から用地取得を進め、一七年度末時点で取得率は約48%。

 市によると、汚染土壌の処理費用として四億円以上が見込まれるが、土壌汚染対策法に基づくと、処理費用は売り主側に請求することが前提。このため、市は土地の権利者にかかる金銭的な負担責任などを考慮し、汚染土壌の処理を必要としない平面整備に切り替えることにした。

 例としては、芝生を敷くなどして、かつての南・西外堀の範囲が分かるような形での整備を行う。堀の復元はしないが、「史跡の保全」や「景観の整備」などを目的に、引き続き用地取得を進める考えだ。

 同事業をめぐっては、長年にわたって外堀復元の構想があった中、市制施行百周年に当たる〇七年度に事業着手している。菅谷昭市長は「堀復元という当初の目的を断念せざるを得ないことは誠にじくじたる思い。とりわけ、住み慣れた場所を離れることに理解と協力をしていただいた方には重ねて、心からおわびを申し上げる」と謝罪。

 その上で「松本市が史跡地を保有し、平面整備により価値ある史跡松本城を保存していくことを新たな目標とすることを理解してもらい、用地取得を含めた事業の継続に取り組んでいきたい」と述べた。

 市は事業の方針見直しが了承されたことを受けて、今後地元の権利関係者らに個別の説明を行っていく。

 (水田百合子)

377荷主研究者:2018/09/29(土) 22:05:10

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180915/CK2018091502000014.html
2018年9月15日 中日新聞
松本城大手門枡形跡地を国史跡申請へ 市方針

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018091402100294_size0.jpg

 松本市は十四日、同市大手の松本城大手門枡形(ますがた)跡地を国史跡に申請する考えを明らかにした。近くの新博物館建設予定地南側を通る土手小路も再整備する方針を示した。同日の市議会九月定例会の建設環境委員協議会で報告した。

 いずれも国宝松本城を中心に歴史や文化を感じながら街歩きできる都市を目指す「松本城三の丸地区整備基本方針」に基づく施策。

 大手門枡形は、江戸時代の松本城への正面入り口で、現在の大名町通り南端にあった。松本城大手門枡形跡広場の地下に東端の遺構が残っており、西端は八十二銀行(長野市)松本営業部が入る松本ビル地下にあるとみられる。

 松本ビルは土手小路北側の新博物館建設予定地とともに八十二銀行などが所有しており、市は取得に向けて協議している。代替地確保が条件で時期は未定だが、市は取得後にビル地下を発掘調査する。

 その後、枡形跡広場と合わせて大手門枡形として文化庁に史跡指定を申請し、江戸時代の様子がわかるよう一体的に整備する方針。

 土手小路の整備は、新博物館の開館と小路西側で十一月に開場する市営の新平面駐車場による歩行者増に対応するため。松本城や縄手通り、中町通りなどの観光地への利便性を向上させる狙いもあり、歩道拡幅などを行う。二〇二三年秋までに整備する。

 市都市政策課の担当者は「地元住民と協議しながら景観などを踏まえて進めたい」と話した。

 (川添智史)

378荷主研究者:2018/11/03(土) 16:47:35

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=469333&comment_sub_id=0&category_id=256
2018/9/29 中国新聞
鳥取城の擬宝珠橋復元完了 明治150年を記念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20180929chugoku01.JPG
復元がほぼ完了した鳥取城跡の擬宝珠橋。欄干に立つ擬宝珠も忠実に再現した

 国史跡の鳥取城跡(鳥取市)の玄関口となる擬宝珠(ぎぼし)橋の復元工事が、ほぼ完了した。市教委が進める城跡の復元整備事業の第1弾で、明治150年を記念。全長36メートル、幅6メートルで、城郭の復元木造橋では国内最長級となる。明治維新で大きな役割を果たした鳥取藩の権勢の象徴をよみがえらせ、観光振興につなげる。10月8日に渡り初めの式典がある。

 擬宝珠橋は1621年、鳥取藩主の池田光政が正面玄関である大手登城路の入り口に創建。仏教の装飾金具の擬宝珠を欄干の親柱12カ所に配置し。32万石の藩の威信を示した。参勤交代時の玄関となり、月見の宴なども催されたという。1897年に取り壊されて一般の木造橋が架かり、後にコンクリート橋となった。

 市教委は2005年度、城跡の保存整備基本計画を策定し、07年度に発掘調査を本格化。16年度から橋の復元工事に着手した。コンクリート橋を撤去し、水中で発見した橋脚の痕跡などを基に、クリ、ヒノキ材で幕末時の姿を再現。青銅製の擬宝珠は当時の製法を採用し黒色に仕上げた。橋の復元整備費は5億5千万円。

379荷主研究者:2018/11/03(土) 16:52:11

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180930/CK2018093002000031.html
2018年9月30日 中日新聞
「旅好きが選ぶ!日本の城」 岩村城跡が初ランクイン

「旅好きが選ぶ!日本の城ランキング」で10位に入った岩村城跡=恵那市岩村町で

 大手旅行サイト「トリップアドバイザー」が発表した今年の「旅好きが選ぶ! 日本の城ランキング」で、恵那市岩村町の岩村城跡が初めてランク入りし、十位になった。NHK連続テレビ小説「半分、青い。」のロケ地として城下町がにぎわい、効果が城跡にも波及した。

 ランキングの発表は六回目で、サイトに投稿された五段階の評価や口コミの件数が基準になる。公表された「トップ20」では姫路城(兵庫県姫路市)や二条城(京都市)、松山城(松山市)、松本城(長野県松本市)など、国宝や全国的に有名な城が上位を占め、岩村城跡は城跡としては五位の岡城跡(大分県竹田市)、六位の中城(なかぐすく)城跡(沖縄県中城村・北中城村)に次ぐ上位に入った。岩村城跡について「石垣が素晴らしく、散策が楽しめた」といった口コミが投稿されている。

 恵那市観光協会岩村支部の加藤勝也事務局長(66)は「山城できれいに石垣が残っている場所は貴重で、魅力を評価してもらえた」と受け止める。

 岩村城は備中松山城(岡山県高梁市)や大和高取城(奈良県高取町)と並んで「日本三大山城」に挙げられ、二〇〇六年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれた。それでも「日本の城ランキング」に入るような知名度はなかった。加藤さんは「これまでも名前を売り込もうと努力してきたが、やはり朝ドラの効果は大きい」とみる。

 「半分、青い。」の放送が始まってから、城下町は観光客が前年の四倍に増えた。県が昨年、岩村城跡を苗木城跡(中津川市)や美濃金山城跡(可児市)と並び「ひがしみのの山城」として「岐阜の宝もの」に認定した直後に追い風が吹いた。加藤さんは「新しく作ったパンフレットなどを活用できた。城跡は山の上にあるので城下町に来た人がついでに行くことは少ないが、ロケ地と併せて雑誌などに紹介される機会が増えた」と振り返る。

観光案内所などで販売している「御朱印シール」=恵那市岩村町で

 PRの好機を生かそうと観光協会岩村支部の案内所などでは八月、シール式の御朱印(三百円)の販売が始まった。城を訪れた記念に御朱印を集めるのが流行しており、好調な売れ行きを見せている。

 二年後にはNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」で、東濃や可児にゆかりの地とされる史跡が多い明智光秀が主人公になる。加藤さんは「岩村城も光秀や織田家と関わりがあり、チャンスが続く。うまく活用して宣伝したい」と話した。

 (吉岡雅幸)

 <岩村城> 源頼朝の家臣の加藤景廉(かげかど)が1185年以降に築いたと伝わる。高低差180メートルの地形を生かした山城で、本丸の標高は717メートルと江戸時代の諸藩の城で最も高かった。戦国時代に織田信長の叔母が実質的な城主を務めた時期があるとされる。江戸時代は岩村藩主の居城となり、明治時代初期に政府の廃城令で石垣を残して解体された。

380荷主研究者:2018/11/03(土) 17:10:34

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/234634?rct=n_hokkaido
2018年10/04 05:00 北海道新聞
五稜郭に「外郭」あった 奈良女子大名誉教授が指摘 跡地含め保存訴え

箱館奉行所の周りに、内郭の五稜郭のほかに、外郭の土塁があることを示す「箱館亀田 一円切絵図」(上部が南)。中央下から右上にかけて蛇行しているのは亀田川=戸祭名誉教授の著書より(函館市中央図書館所蔵)

箱館奉行所の外郭跡地に残る樹林地。「一円切絵図」の左上に当たる。現在は国有林になっている=函館市柳町の市道「柏が丘通」

 「五稜郭の箱館奉行所は、江戸幕府が置いた17の遠国奉行所の中で唯一、外側を囲うように造られた土塁の『外郭』もあった」―。奈良女子大学の戸祭由美夫名誉教授が、箱館奉行所の外郭に着目した著書を出版した。戸祭名誉教授は、外郭内部の面積が約1平方キロに及ぶ規模の大きさの特異さも強調。現在は樹林地や草地になっている外郭跡地も含めた保護や保全の必要性を訴えている。

 この著書は「絵図にみる幕末の北辺防備」(古今書院)。戸祭名誉教授は1987年から、中世、近世の城下町や陣屋町など、土塁や石垣や堀などに囲まれた集落を研究する中で、幕末に描かれた箱館奉行所の資料を調査。1862年(文久2年)作製の「箱館亀田 一円切絵図(いちえんきりえず)」など、幕末の絵図を調べていた時に、箱館奉行所には、五稜郭周辺を囲うように植林された土塁が建造されていることに気付き、五稜郭が内側に築かれた「内郭」、周辺の土塁が「外郭」に当たると整理した。

 著書では、この土塁が、亀田川が流れる五稜郭の北西方向を除き、東、西、南の三方に築かれているほか、土塁内部には役人用宅地も整備され、面積が約1平方キロに及ぶことも指摘。代表的な遠国奉行所として知られる長崎奉行所の約60倍の敷地があることを説明した。さらに、これらの土塁は時代とともに宅地や畑などに変化し、当時の面影を残すのは、函館市本通1や柳町などの樹林地や草地だけになっていることを示した。

 戸祭名誉教授は「土塁跡の樹林地や草地も歴史的な文化遺産として保存していくとともに、今は宅地化した場所にも箱館奉行所に外郭があったことを示す案内板などを設置すべきだ」と話している。

 A5判、248ページ、税込み4104円。問い合わせは古今書院(電)03・3291・2757へ。(青山修二)

383荷主研究者:2018/11/03(土) 19:02:24

http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/554085.html
2018/10/17 07:39 静岡新聞
「幻の城」姿現す 家康追いやった後の駿府、秀吉の天守台 静岡

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20181017shizuoka03.JPG

豊臣秀吉が築かせた天守台の石垣を説明する調査員(右)=16日午後、静岡市葵区の駿府城公園内発掘調査現場

出土した金箔瓦=16日午後、静岡市葵区

 静岡市の駿府城(同市葵区)発掘調査で、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の跡を発見したことを受け、市は16日、出土した天守台の石垣や金箔(きんぱく)瓦などの全容を報道関係者に公開した。専門家は「徳川家康の城の下に豊臣政権下で築かれた城があったのは大発見」と評価。市は、秀吉が江戸へ追いやった家康を威嚇するため駿府に豪華絢爛(けんらん)な城を築いたとみている。

 豊臣方の築いた城の存在は推測されていたが、裏付ける遺構や史料はなく、「幻の城」とされていた。

 発掘調査は2016年度から4年計画で実施。市によると、家康は1588(天正16)年に駿府城を築いたが、秀吉の命で江戸に領地を移した。家康に代わって秀吉家臣の中村一氏が90(同18)〜1601(慶長6)年に城主を務めた。新たに見つかった城跡は、この間に築かれたとみられる。天下統一を果たした家康は駿府に戻り、10(同15)年に駿府城を完成させた。

 2018年度の調査で、家康が築いた天守台の南東部の土中から、古い石垣が見つかった。自然石を積み上げる「野面積み」で、家康の城に使われていた表面の石が平らな「打ち込み接(は)ぎ」とは異なる形状。傾斜も家康の石垣よりも緩やかだった。

 石垣の隣の敷地からは、約330点に及ぶ金箔瓦が見つかった。考古学が専門の中井均・滋賀県立大教授によると「金箔瓦の造瓦技術が豊臣時代の特徴を示している」という。これらの事実が「秀吉の城」であることを決定づけた。

 ■20、21日に臨時公開
 静岡市は20、21の両日、午前9時〜午後4時に、豊臣秀吉が家臣に築かせた城の遺構を臨時公開する。調査員が随時説明をする。金箔瓦の展示はない。参加無料。希望者は直接、駿府城公園内の発掘調査現場へ。通常公開は11月22日を予定している。

 問い合わせは市歴史文化課<電054(221)1085>へ。

384荷主研究者:2018/11/03(土) 19:26:27
>>383
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20181019/CK2018101902000030.html
2018年10月19日 中日新聞
秀吉の天守台発見 駿府城跡地

◆日本城郭協・理事 加藤さん分析

一般公開されている駿府城の発掘現場=静岡市駿河区で

 徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城の跡地(静岡市葵区)で、家康が築城した城の下層から、豊臣秀吉が建てさせた城の天守台が見つかった。関係者を驚喜させた「世紀の大発見」(田辺信宏・静岡市長)だ。日本城郭協会理事の加藤理文さん(60)は、秀吉、家康は駿府城を拠点に、それぞれ東へ、西へと、にらみを利かせていたと分析する。

 加藤さんは袋井市浅羽中学校の教諭で、静岡市の発掘調査にも携わった。秀吉からすると、関東へ転封させた江戸城の家康が、天下人になった家康からすると、なお大坂城に残る秀吉の遺児・秀頼が、目の上のたんこぶだった。

 二人の天下人が築城した駿府城は、「互いに駿府よりもこちらに来るなという『抑止力』の象徴だったのでは」と分析する。

 加藤さんによると、今回の発掘調査で大量に出土した金箔(きんぱく)瓦は、豊臣一族か前田家や毛利家のように、豊臣政権の中でも重要な位置を占める大名の城のみで使うことが許された。秀吉が建てさせた駿府城の規模は小さいが、同程度の甲府(山梨県)、上田、松本、小諸(長野県)の各城でも金箔瓦が出土している。

 この五つの城はそれぞれ徳川領に近く、東海道や東山道(中山道)など当時の主要道沿いに築城されたこともあり、「領土を守る重要な拠点として金箔瓦の使用を認めたはず。経済力を誇示し、『逆らうのは得策じゃない』と思わせる効果もあったのでは」と指摘する。

 関ケ原の合戦で勝利した家康が一六〇七年から駿府に再び築城したのも、復権を狙う豊臣方から江戸幕府を守るための防衛拠点としての意味合いが大きい。加藤さんは「天下人二人がくしくも駿府を重要視していたのが興味深い」と話す。

 加藤さんは、今回の発見により、秀吉が建てさせた城の様子や、秀吉の家臣で当時の駿府城主・中村一氏(かずうじ)の解明にもつながると期待している。秀吉からの信頼が厚く、相談役といえる「三中老」だった一氏だが、子孫が続かずに二代で断絶されたため、史料が少ないという。

 加藤さんは「一氏時代の遺構があるとは思っていなかった。天守台や小天守の位置など、より精密に調べてほしい」と語る。
    ☆ ☆
 秀吉が築かせた駿府城の天守台発見を受け、駿府城公園(静岡市葵区)の発掘現場は連日、歴史愛好家らでにぎわっている。

 現場を案内する「発掘情報館 きゃっしる」によると、発表があった十六日以降、来場者は激増。秀吉の城の天守台は見学ルートが整備されていないため、間近で見ることができないが、十七日は二百七十二人、十八日は三百二人と、普段よりも約三倍の人が訪れている。

 城めぐりが趣味で、千葉県への出張帰りに訪れた岡山市の会社員、宮岡勝さん(51)は「ニュースを見て急きょ来た。家康のイメージが強い場所だったので、秀吉時代のことが少し解明されて良かった」と話した。

 二十、二十一日には秀吉の城を間近で見られる見学会を実施。調査員のガイドもある。

(広田和也)

385荷主研究者:2018/11/03(土) 19:29:49

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20181019/CK2018101902000055.html
2018年10月19日 中日新聞
石垣4000個積み直しへ 名古屋城「搦手馬出」

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018101802100304_size0.jpg

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018101802100302_size0.jpg
石垣の解体工事が始まる前の本丸搦手馬出=名古屋城総合事務所提供

 国の特別史跡に指定されている名古屋城跡に数ある遺構の中で、十五年越しで大規模な石垣の修復事業が続いている地点がある。かつての軍勢の出撃拠点で、天守閣東側の堀に面した「本丸搦手馬出(からめてうまだし)」。崩落の危険を防ぐための解体作業にめどがたち、四千個を超す石の積み直しが来年度にも始められる見通しだ。貴重な価値を知ってもらおうと、名古屋市は二十一日に見学会を開く。

 「ほお、こうなっているんですか」

 昨年六月に放映されたNHKの人気街歩き番組「ブラタモリ」。石垣を案内されたタレントのタモリさんが興味深げにうなった。

 「搦手」とは城の裏口、「馬出」とは出撃準備をする人馬を敵軍から隠す区画のことで、戦では攻守の要となる。豊臣勢との最終決戦を控えた徳川家康が江戸初期の一六一〇(慶長十五)年、浅野幸長や黒田長政ら西国大名七人に命じて築かせた一帯の石垣は、名古屋城の強さの象徴として語られることが多い。

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2018101802100303_size0.jpg
石垣の解体が進んでいる今年4月時点の本丸搦手馬出=名古屋城総合事務所提供

 市は一九七〇年代から城内の石垣を順次修復してきたが、崩落の危険が迫っているとして二〇〇六年、搦手馬出に着手。かつてない大事業を前に助言を受けるため招集したのが、城郭の専門家でつくる有識者会議「石垣部会」だった。木造復元事業に絡む天守台石垣の修復方針を巡って市側と話し合いを続ける石垣部会の、原点の事業でもある。

 堀に面した石垣を解体する難しさや修復方針の検討で歳月を要したが、今月上旬の部会で、解体面積が千五百平方メートルに上る石垣を積み直す計画を本年度中に策定し、来年度にも作業着手する方針が固まった。江戸時代から残る図面や同時代の他城の例も参考に、築城当時の積み方にできる限り近づけていくことになる。

 座長の北垣聡一郎・石川県金沢城調査研究所名誉所長は「時間はかかったが、名古屋城らしさを持った積み方で修復できるめどがようやく見えた」、宮武正登・佐賀大教授は「江戸時代の資料を基に復元を検討した、これほど大規模な例は他にない」と評価する。

 名古屋城総合事務所の西野輝一所長は「天守台の石垣も重要だが、新しいステージに入った搦手馬出の事業も市としてしっかり進めていく、という決意で臨んでいる」と話す。

◆21日に見学会
 二十一日の現地見学会は午前十時、午後一時半、午後三時からいずれも三十分間。本丸搦手馬出を軸に総延長八・二キロに及ぶ石垣の価値を学芸員が解説する。

 申し込み不要。無料。先着三十人ずつ。受け付けは二之丸庭園南側で各回の三十分前から始める。(問)名古屋城総合事務所=052(231)1700

 (谷悠己)

386荷主研究者:2018/11/06(火) 21:46:53

https://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20181022000077
2018年10月22日 15時08分 京都新聞
彦根城24年世界遺産目指す 本年度中に推薦書原案提出へ

武士が鑑賞や茶の湯などを通じて教養を高めたとされる彦根城の大名庭園・玄宮楽々園。武家統治の象徴として、天守などと一体で世界遺産登録を目指す(滋賀県彦根市)

 滋賀県彦根市は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指す彦根城について、登録に必要な推薦書の原案を本年度中に政府に提出することを21日までに決めた。市は、国宝の天守のほか、重臣屋敷や大名庭園などを一体とした「江戸期の武士の統治を表す複合体」をコンセプトに打ち出して2024年の登録を目指したいとしている。

 彦根城は、日本が同遺産条約を締結した1992年、候補地として同遺産暫定リストに記載されたが、その後、登録に向けた手続きが進んでいなかった。原案が提出されれば、暫定リスト記載後初となる。

 城一帯には、天守のほか鑑賞や茶の湯を通じて武士が教養を高めた大名庭園、重臣屋敷や藩校などの遺跡が残る。市は江戸期から残る200以上の全国の城跡を調査した結果、「武家の成熟した統治を説明する史跡がこれだけそろっている場所はほかにない」(世界遺産登録推進課)と判断した。武士が教養を身に付け、武芸中心から文武両道へと価値観を変えていった時代の象徴として、同城の貴重さをアピールしていく。

 推薦書は、市が提出する原案をたたき台に国が市と協議する中で作成を進め、国の文化審議会などで認められれば国内候補としてユネスコに提出する。ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の審査と世界遺産委員会の審議を通れば同城は世界遺産に登録される。

 推薦書がユネスコに提出された場合、イコモスによる現地調査が行われる。調査では同城に対する市民の意識も評価のポイントになることから、市は今後、市民向けのセミナーを開くなどして市民意識の醸成を図りたい考えだ。

387荷主研究者:2018/11/06(火) 22:10:41

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20181025/CK2018102502000027.html
2018年10月25日 中日新聞
岐阜城の石垣、いざ発掘! 山上部の本格的な発掘は初

発掘調査が始まった山上部の石垣。登山道沿いから作業を見ることができる=岐阜市の金華山で

 岐阜市教委は二十四日、岐阜城山上部に残る戦国時代の石垣の発掘調査を始めた。山上部の本格的な発掘は初めてで、当面は約一カ月間かけ、石垣の広がりや基礎構造を明らかにする方針。柴橋正直市長は記者会見で「数年かけて調査し、岐阜城の姿を明らかにしていきたい」と述べた。

 石垣は金華山山頂とロープウエー山頂駅の中間付近にあり、以前から一部が露出していた。石の大きさや積み方から、約四百五十年前に織田信長が入城した後、築かれたとみられる。

 発掘の対象は石垣周辺の二十五平方メートル。近くの斜面約百十五平方メートルでも表面の落ち葉などを取り除き、石垣や歩道の痕跡がないか調べる。作業は月曜日と火曜日を除いて実施される見通しで、現場沿いの登山道から観光客らが見学できる。

樹木が伐採された石垣(手前)。天守閣がよく見えるようになった=岐阜市の金華山で

 初日は、作業を担当する市埋蔵文化財調査事務所の六人が、周辺に発掘をPRするのぼり旗を立てた。

 一方、市教委は今月上旬、山頂近くの別の石垣の隙間から伸びていた樹木約二十本を、安全対策のために伐採した。三月に一部の石が落下したため調べたところ、風雨で樹木が根元から揺れると、石垣が崩れやすい状態になっていた。

 この石垣は一段の高さが三・五メートルの二段積みで、約四メートルの岩盤の上に築かれている。樹木の伐採は文化庁などの許可を得て実施され、付近から石垣と天守閣がよく見えるようになった。

 (近藤統義)

389荷主研究者:2018/12/07(金) 22:12:00

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20181107/CK2018110702000019.html
2018年11月7日 中日新聞
県に1万6676人分の署名 福井城跡の櫓復元

西川知事(左)に署名を手渡す「福井城の復元をすすめる会」の吉田会長=県庁で

 市民団体「福井城の復元をすすめる会」など七団体は六日、明治時代初期まで福井城本丸の南西側に位置していた坤櫓(ひつじさるやぐら)と土塀の復元整備を要望する一万六千六百七十六人分の署名を、県庁で西川知事に提出した。知事は福井城跡の西側で山里口御門(やまさとぐちごもん)などの復元が完了したことを踏まえ「次をどうするか、見通しを立てることが必要だ」と検討に前向きな姿勢を示した。

 福井城跡では、福井しあわせ元気国体などに合わせて県が山里口御門を約百五十年ぶりに復元し、三月に完成式があった。西隣の市中央公園でも、市が堀跡などを再現する整備を八月に完了。七団体は坤櫓などの整備で中央公園やJR福井駅からの眺望が一層魅力的になるとして、七月から署名活動を行っていた。署名提出には七団体の代表者らが出席。同会の吉田純一会長(福井工業大福井城郭研究所長)が「これだけの県民が同じ思いで復元を願っている」と話し、西川知事に署名を渡した。知事は「福井市と話し合って役割分担を考えるべき時期だ。整備費に国のどんな制度が使えるか、展開も考える必要がある」と応じた。

 県と市は二〇五〇年を目標に城跡の整備を進める「県都デザイン戦略」を定めている。他県では石川県が金沢城公園(金沢市)で鼠多門(ねずみたもん)の復元工事中。静岡市は駿府(すんぷ)城公園で一四年に福井城と同名の坤櫓を約十一億円で復元した。

 (今井智文)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板