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短詩人/Hyperion

617秋魚:2015/12/26(土) 21:52:54
(無題)
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
                   摂政太政大臣良経

・・良経のきりぎりすというのは、みごと。

 青梅に漂泊した中原章は、

鈴虫の声ふり捨て有明のねやへはいらし月になりゆく

京極派、持明院派とも?

「古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより伝へて、恋といひ哀傷とす」(紙衾ノ記)

「翡翠衾寒誰與共」(長恨歌)

・・この「古き枕」が妙。「うた枕」のことか?

618秋魚:2015/12/31(木) 17:20:50
(無題)
・・この一年もいろいろ温泉めぐりをした。ホームページなどで宣伝も多いが、さほどの中身のないものもある。結局は口コミの話になって善し悪しは淘汰されていくようだ。物が無くてまず宣伝から入るのがネットショップ。これもそうそう詐欺めいたものばかりやってると続くわけがない。評判を得ようとするのは宣伝以上のものがあればよい。そこまで気づかってはいられないか。

・・忘年会に手ぶらで招待されたところでは、温泉の話になってすでに山形の田舎の温泉が抜群であるとか、車を使って遠いところの穴場の秘湯をたずねる人もいた。持ってる人はよく訪ねるものだ。近場でいろいろまわる自分からすると、遠隔の温泉はすでにあきらめている。・・きょうは自動車に乗っていい温泉に訪ねたい友がいて、自分の知る限り一押しの温泉に案内した。

・・自愛が流行してなかなか自分の趣味につきあう人もまれになった。都心の方から車で来るが85歳のおばあさんとお孫さんのいる妹さんが便乗するのだという。逝く人が多いのでこれは大歓迎。せいぜい友一家のよい癒しになればよい。近場の温泉については自信がある。秋川渓谷の瀬音の湯まで案内した。・・なんでも九州の佐賀まで温泉につかりにいったばかりだとか。そりゃいい温泉は山ほどある。まあ近場でどういう感想をもつか、あとは湯あたりしないよう注意した。・・ここの湯質はみな褒める。アルカリ性単純泉の純度の高いもの。露天でもはじめての客は驚きの声をあげる。運転手の友は、アルコールはやれないが、かなり満足そう。宴会の幹事でも思案したか。あとで女性たちもほめちぎる。おばあさんが妙にしゃんとした声でいい湯だーと。新宿とか浅草とかからの訪問で水と緑があるだけでも感動らしい。偶に来ればそう感じるさ。みやげもの店で地元の野菜とかこれもうれしそうに買い漁っていた。

・・レストランも一杯。てんぷら御膳を注文。ここのてんぷらは並大抵ではない。美味しいよと宣伝したが、みなも美味いとはいったが、辛口の批評をいわさせてもらうと、以前とはちょっと味が落ちていた。年末で客が多いので、量こなすために材料の質がやや低下、あと全体のつくりもやや雑な気がした。でも、それはいわなかった。・・帰りに払沢の滝の見物をとも思ったが、おばあさんは山道歩くの大変でしょう。それはキャンセルよい気分のまま青梅の釜の淵公園散歩して無事帰るのが一番。公園は寒いだけであまりおもしろくなかったようだけど、すこし頭を冷やして帰路につくのも一考。・・たぶん私の見立ては完璧だと思う。

・・近場の温泉は自信あり。

619秋魚:2016/01/30(土) 09:12:00
(無題)
00534 [詞書] 題しらす
読人不知読人しらす(000)
人しれぬ思ひをつねにするかなるふしの山こそわか身なりけれ
ひとしれぬ−おもひをつねに−するかなる−ふしのやまこそ−わかみなりけれ

・・古今集における「富士」。

富士の表記だが、濁点のとれたカナ文字で「ふし」とある。


00680 [詞書] 題しらす
番号外作者ふちはらのたたゆき(999)
君てへは見まれ見すまれふしのねのめつらしけなくもゆるわかこひ
きみてへは−みまれみすまれ−ふしのねの−めつらしけなく−もゆるわかこひ

01028 [詞書] 誹諧歌:題しらす
番号外作者きのめのと(999)
ふしのねのならぬおもひにもえはもえ神たにけたぬむなしけふりを
ふしのねの−ならぬおもひに−もえはもえ−かみたにけたぬ−むなしけふりを

01001 [詞書] 短歌:題しらす
読人不知よみ人しらす(000)

あふことのまれなるいろにおもひそめわか身はつねにあまくものはるる時なく
ふしのねのもえつつとはにおもへともあふことかたしなにしかも人をうらみむ
わたつみのおきをふかめておもひてしおもひはいまはいたつらになりぬへらな
りゆく水のたゆる時なくかくなわにおもひみたれてふるゆきのけなはけぬへ
くおもへともえふの身なれはなほやますおもひはふかしあしひきの山した水
のこかくれてたきつ心をたれにかもあひかたらはむいろにいては人しりぬへ
みすみそめのゆふへになれはひとりゐてあはれあはれとなけきあまりせむす
へなみににはにいててたちやすらへはしろたへの衣のそてにおくつゆのけな
はけぬへくおもへともなほなけかれぬはるかすみよそにも人にあはむとおもへ

あふことの−まれなるいろに−おもひそめ−わかみはつねに−あまくもの−はるるときな
く−ふしのねの−もえつつとはに−おもへとも−あふことかたし−なにしかも−ひとをう
らみむ−わたつみの−おきをふかめて−おもひてし−おもひをいまは−いたつらに−なり
ぬへらなり−ゆくみつの−たゆるときなく−かくなわに−おもひみたれて−ふるゆきの−
けなはけぬへく−おもへとも−えふのみなれは−なほやます−おもひはふかし−あしひき
の−やましたみつの−こかくれて−たきつこころを−たれにかも−あひかたらはむ−いろ
にいては−ひとしりぬへみ−すみそめの−ゆふへになれは−ひとりゐて−あはれあはれと
−なけきあまり−せむすへなみに−にはにいてて−たちやすらへは−しろたへの−ころも
のそてに−おくつゆの−けなはけぬへく−おもへとも−なほなけかれぬ−はるかすみ−よ
そにもひとに−あはむとおもへは

00489 [詞書] 題しらす
読人不知読人しらす(000)
するかなるたこの浦浪たたぬひはあれとも君をこひぬ日はなし
するかなる−たこのうらなみ−たたぬひは−あれともきみを−こひぬひはなし

620秋魚:2016/01/06(水) 11:02:44
(無題)
(小鳥の画に)
不尽山月雪花やほとゝぎす


・・この画紙をみてみたい。不尽の表記はそのままか、不盡か。

音数で俳句に合わせると、「ふじやま●つきゆきはなやほととぎす」と読むか。

「不尽」「山」「月」「雪」「花」や「ほとゝぎす」。
この漢字の並びが俳句の妙。月・秋 雪・冬 花・春 ほとゝぎす・夏という四季のめぐりがある。

「山」と「月」が切れてますな。

・・九条良経「花月百首」以降の井月風「花月」の俳諧といったところか。

621秋魚:2016/01/07(木) 00:38:04
(無題)
・・芭蕉最晩年の峠越えというのがある。伊賀から大坂に向う暗峠というところだ。元禄7年9月9日。

菊の香にくらがり登る節句かな

・・暗峠は奈良県生駒市から大阪府東大阪市に通ずる道にある。いったことはないが暗いけわしい道のようだ。大坂に抜けておよそ一ヶ月半後に逝いてしまう。

菊の香や奈良には古き仏たち

・・これも同じ日の句という。

・・青梅の歌人浄月律師(1758〜1832)60歳の時に河内髪切山高貴寺に入律したという、その髪切山は暗峠のあるところ。ほかに役行者で名高い慈光寺もある。

>高貴寺(こうきじ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある高野山真言宗の仏教寺院。

北緯34度29分57.8秒 東経135度39分52.2秒

・・開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、古くは底筒男命が降臨した地として、神下山香花寺と称した。
弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。

・・安永5年(1776年)に慈雲尊者飲光が入寺し、大和郡山藩主柳沢保光の帰依・支援を受け、堂舎を整備し、当寺を真言律と梵学修行道場とし、戒壇を設けて正法律の本山とした。

この慈雲というのが、ただものでない。

>・・慈雲(じうん、享保3年7月28日(1718年8月24日) - 文化元年12月22日(1805年1月22日))は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。

・・1758年(宝暦8年)から生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。・・1775年(安永4年)、『十善法語』を著す。1776年(安永5年)に河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。大和郡山藩主・柳沢保光の支援を受け、高貴寺の堂舎を整備し、この寺を正法律の本山と定めた。


 浄月律師の高貴寺行きは、芭蕉の暗峠越えを踏もうとしたのではないか?

622秋魚:2016/01/08(金) 21:15:26
(無題)
・・峠越えというので柳沢峠越えのサイクリング日記を読んだ。やはり気になる。熊谷から飯能青梅そして青梅街道を直進。柳沢峠で富士見のあと塩山甲府、ここから富士川を南下して身延山まで。やー、チャレンジする人はいるものだ。奥多摩湖までのトンネルも恐怖といっていたが二度目はさほどでないと。しかし丹波山から先の渓谷はぞっとするほどという。長いアップの坂道と百mもあろうかという断崖の渓谷。写真をみたが足がすくみそう。柳沢峠の景色はたしかにいいらしい。春先にいったがここらは真冬という。路面凍結に注意。峠から塩山までが急勾配。ダウンヒルで千mほど豪快だがあぶないものだ。・・クロスバイクでは無理かなと思うが乗れないところは歩けばよい。やってやれないことはない気もする。

・・塩山から甲府は以前も走った。平坦な道で車だけを気にすればいい。ここらで一泊。石和健康ランドがいいかもしれない。ここから先身延山までが未知。県道があるがあまりいい道ではないという。

・・ひきこもりをやっているとすべて恐怖に思われる。自転車も肉体も使わずに劣化するのは耐えられないことだ。冬晴れなので多摩川サイクリングロードを走ってモノレールの終点駅多摩センターまでめざした。

・・例によって何度か走ってるコースだが景色がすこしづつ変化している。時折まったく違う道かと感じることがある。ひどい時には進んでいるつもりが左右に大きくずれたり後戻りなんてのもある。吹雪の中で同じところをぐるぐる歩き回り最後は力尽きて眠ってしまうのは、なんといったか。・・しかしこのコースに迷いはない。

・・多摩川のモノレールのある橋は立日橋といったか、もうすこし川沿いに進むと白鷺だか鶴だかが数羽群れて羽根をやすめている。

・・まったくこの種の白い鳥の区別もわからない。おおかたサギの仲間でしょう。頭の形が目立ってる違う種類のもよくみかける。冬だからここにいるのか。静かなるロックンローラーと呼んだりもした。

・・ところで今日のメインは帰りの夕日にみかけた。

 夕士峰も朝不尽も見てさらし搗

この夕富士のこと。まったく偶然の景色。・・富士がよく見えるのは立日橋をわたり立川から昭島までの間。五日市線のあるあたりまではよく見える。土提にあがってカメラを構える人もちらほら。空気が澄んで夕焼け富士がきわだつ。

・・甲州街道多摩川にうつかる石田の渡りをわたらず、井月はそのまま堤沿いに上流をめざしたのではないだろうか。福生あたりまで一時富士は姿を消すが、羽村玉川上水口までにもう一度姿をあらわす。奥のほうに見える山は大岳山。青梅にはいると富士はみえにくい。・・しかし必ず井月は青梅に来た。

623秋魚:2016/01/18(月) 01:35:15
(無題)
初虹は麓に消えて富士の山
初虹や裏見が滝に照る朝日

旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕

・・むずかしくなりましたな。井月も。


[題詞]山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌]

[原文]天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者

[訓読]天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は

318

[題詞](山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌

[原文]田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留

[訓読]田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける


・・おそらく東海道のフジこそ富士であろう。この田子の浦は、

由比  北緯35度06分23秒 東経138度33分42秒

「東海道の親不知」と呼ばれる断崖に位置し、歴史地理学的には関東政権(江戸・鎌倉・小田原)と東海政権(駿府)の境界となってきた。

江戸時代には東海道由比宿の宿場町であった。江戸時代の絵師・歌川広重による由比の浮世絵には、難所を越える旅人や、帆掛け船の浮かぶ駿河湾、駿河湾越しの富士山などが描かれている。

あるいは、蒲原  北緯35度7分6.8秒 東経138度35分58.8秒

・・江戸時代は蒲原宿が置かれ、宿場町として機能していた。

あるいは、富士市 田子の浦港沖  北緯35度9分40.8秒東経138度40分34.6秒

  たこの浦の藤花を見侍て                      柿本 人麿
 たこの浦の 底さへにほふ 藤波を かざして行かん 見ぬ人のため

(拾遺和歌集)

624秋魚:2016/01/19(火) 02:10:24
(無題)
初鶏や常に似合ぬ太き声   有隣
 若水汲の歩行井の端    井月

・・

斯花の曇にまことよい日和    隣
 浅香の沼に田にし鳴くころ   月


・・須賀川の多代女が「越後獅子」に寄せたのは、

盃の裏にまことやうめのはな

うめは梅、生めとかけたか。多代女と井月がたしかに会ったことがわかる。・・須賀川から郡山には芭蕉も入った道だ。

栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや、

世の人の見付ぬ花や軒の栗

・・

山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど  西行


・・この後が、あさか沼

阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
   あさかやま  かげさへみゆる  やまのゐの あさきこころを  わがおもはなくに


・・

「古今集」仮名序で、貫之が、歌の父母のうち母にあたる歌という。巻16/3807

この山ノ井に安積山が写っているそのような浅い心でないと、采女の歌です。ここを井月が訪れないわけがありません。(たいした痕跡があるわけでもありませんが)

芭蕉と曾良はけっこう淡白でしたね。カツミという植物を探したほどで。


安積山?? 北緯37度27分 東経140度23分

長岡城あたり  北緯37度27分  東経138度51分

625秋魚:2016/01/20(水) 01:06:06
(無題)
・・武蔵、多摩の芭蕉百回忌。1793年ですが。

? 武州毛呂の川村硯布亭。橿寮硯布庵で1790年。(前倒し)春秋庵系の俳人多く集まる。加舎白雄、長翠(春秋庵二世)、榎本星布、等。

?武州多磨青梅真浄寺。1793年。浄月律師。「芭蕉翁霊塚」建立。しぐれ桜碑と並ぶ。

?武蔵五日市開光院。翁塚。山市亭梅志建てる。百回忌頃。梅志は深川臨川寺に「墨直しの碑」を建てた玄武坊の門弟。支考派ですね。




なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。[おほさざきのみかどの、なにはづにてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし。]あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて[かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。

そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき。
そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、

なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな

といへるなるべし。

626秋魚:2016/01/20(水) 23:29:34
(無題)
>・・平林寺(へいりんじ)は、埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院である。

埼玉県新座市野火止3-1-1 位置 北緯35度47分23.44秒 東経139度33分36.74秒

野火止(のびどめ)・・「かつて焼畑農業が盛んに行われ、関東ローム層の乾燥した土壌が草木の燃え広がりを早めたことから、延焼を食い止めるために用水が多数造られた」ことが由来とされている[1]。

・・業平塚(在原業平が京より東国へ東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。)

 江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいはく「むさし野にかたり伝へし在原のその名を忍ぶ露の小塚」とあるが、この歌碑は今はない。

 むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、この野は盗人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、

   武蔵野は今日はな焼きそ若草の

      つまもこもれりわれもこもれり

とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。


『伊勢物語』(第十二段)


加舎白雄は野火止で句を詠んでいる。

   野火留にて

妻も子も榾火に籠る野守かな


行暮れし越路や榾の遠明り
灰に書く西洋文字や榾明り   井月

627秋魚:2016/01/24(日) 01:41:50
(無題)
・・アユ(鮎、香魚、年魚、Plecoglossus altivelis)は、キュウリウオ目に分類される、川や海などを回遊する魚である

 多摩川はかつてアユが途絶えた。いまは存在する。青梅美術館の下龍が淵あたりでコアユを放流した記念碑がある。

・・アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある[4]。

 現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説[4]、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。

・・コアユ。小鮎は小さい鮎のこと。成長過程で小さいがやがて若鮎と呼ばれる。目一杯成長して小ぶりのままの鮎もコアユと呼ばれる。海にでず湖などで一生を終えるアユのことだ。陸封魚だが、ヤマメ、イワナ、ハヤなども本来は海にいたものらしい。淡水魚でも陸封魚と呼ばれる。

・・アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含め殆どがアユを年魚と表記している。

 中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており[4]、中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「[魚桀]魚」(漢字2文字)、「國姓魚」とも呼ばれる。

・・俳句の季語として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語

・・

瀬を渡る飛び石もあり小鮎汲み
楽しみは浅瀬にあるや小鮎汲み
若鮎や花と汲まゝ網の露
武の玉川に遊て
徐に柳のかぜや小鮎くみ


 井月に、鮎汲みの句がいくつかある。これって、多摩川で小鮎くみして遊んだ時の句作でしょう。

 小鮎と若鮎はたぶん別物ですね。

コアユについて、おもしろい解説があります。

>・・琵琶湖に生息するアユは、オオアユと遺伝的に異なる[7]。ただし、正式な亜種としては分類されていない。アイソザイム(アロザイム)分析の結果、日本本土産の海産アユからの別離は10 万年前と推定されている[6]。

生態的にも特殊で、仔稚魚期に海には下らず、琵琶湖を海の代わりとして利用している。琵琶湖の流入河川へ遡上し、他地域のアユのように大きく成長するもの(オオアユ)と、湖内にとどまり大きく成長しないもの(コアユ)が存在する。従来、オオアユとコアユの「両者間での遺伝的な差は無い」とされていたが、「亜種として隔離の兆候が出ている」とする研究結果もある

 アユは神秘だ。スイカの香りがする。

・・アユの成魚は川で生活し、川で産卵するが、生活史の3分の1程度を占める仔稚魚期には海で生活する。このような回遊は「両側回遊」(りょうそくかいゆう)と呼ばれる。

 親のアユは遡上した河川を流下し河川の下流域に降り産卵を行う。最高水温が20℃を下回る頃に始まり、最高水温が16℃を下回る頃に終了する。粒径 1mm程度の沈性粘着卵を夜間に産卵する

 体長59-63mmになると鱗が全身に形成され稚魚は翌年4月-5月頃に5-10cm程度になり、川を遡上するが、この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の藻類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化する。

 アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。

・・多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚はえさの藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている[18]。特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は縄張りをもつアユのシンボルとされている[18]。アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避している


・・アユについて、興味は尽きない。

628秋魚:2016/01/25(月) 01:53:07
(無題)
 唐土にて月を見て、よみける                   安倍仲麿

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも  (古今 9-4
06)
       この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、
       数多の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又
       使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、
       明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。
       夜に成りて、月のいと面白くさしいでたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる

・・

山部宿祢赤人、富士の山を望る歌一首并せて短歌

天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光(ひかり)も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は(03/0317)

      反歌

田子の浦ゆうち出でて見れば真白(ましろ)にぞ富士の高嶺に雪は降りける(03/0318)

・・

→ 「天の原振りさけ見れば駿河なる富士の高嶺にいでし月かも」

http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0hakken3.htm


・・安倍仲麿と山部赤人の月のコレスポンデンスが見てとれるのですが、


三笠山は、御蓋山。・・「蓋」

>・・咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。

629秋魚:2016/01/25(月) 23:47:40
(無題)
・・武蔵野は広い。在原業平がここにやってきたというのはほんとうだろうか。根雪の残る武蔵野を新座平林寺をめざした。西国分寺から武蔵野線で三つ目くらいの駅だったと記憶している。通ったことはあるがほぼ不案内。所沢川越あたりはよく走ったのでむずかしくはないと多寡をくくった。が、これは大間違い。地図でさっと見ただけで出発した。寒いのでしばらく自転車はお休みしていた。筋肉の萎縮より呼吸運動の停止ほうが神経を狂わせる。細胞が活発になり呼吸がそれにあわせる。脳は反射神経が全開して生き生きと働く。家にこもると想念ばかりが勝手に太る。山頭火がそうだったように時雨の旅にでるべきだ。時雨というのは、ちょっと嫌な天候かと思いつつ。

・・新座はたしか新羅人の部落だったとか。そんな昔のことは今は関係ないかもしれぬ。道路の南側の歩道は日が当らないためかところどころ雪が残っている。すべってころぶとあぶない。そういう微妙な日の出発だった。最近は自分の扮装を気にしなくなってたぶんすごい格好してる。浮浪者まがいにみえるかも。気にしないことだ。昭島に野暮用があってそのあと立川国立まででた。ここらは昔の地元。ここから西国分寺の武蔵野線にぶつかるあたりまでいった。そこからは調べがなくて人に聞き聞き進む。府中街道をいきなさい。所沢にむかってそこからカーブして志木街道を浦和方面へすすむ。ずっといくと清瀬、新座ですよ。

・・まったく楽勝のライドかと思っていた。途中レストランでお昼をとって野火止の平林寺は3時半頃になった。電車でも新秋津から新座までは時間がかかったようだった。関越道を越えて川越街道の近く、一画が広い雑木林になっている。その武蔵野の林と野火止の用水路が売りらしい。平林寺は紅葉の名所、季節にはよく人の訪れもあるようだ。寺構内に入るには入園料がかかる。森閑として臨済宗妙心寺派の禅道場という。帰りの時間が少ない。入園はあきらめた。


・・十二

むかし、おとこ有けり。人のむすめをぬすみて武蔵野へゐてゆくほどに、ぬす人なりければ、くにのかみにからめられにけり。女をばくさむらの中にをきて、にげにけり。みちくる人、このゝはぬす人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、

 むさしのはけふはなやきそわかくさのつまもこもれり我もこもれり

とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともにゐていにけり


・・伊勢物語十二段の舞台という、それらしい業平塚があるはずだ。

630秋魚:2016/01/27(水) 00:21:42
(無題)
堀河太政大臣、身まかりにける時、深草の山にをさめてける後に、よみける

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今832)

・・上野岑雄(かむつけのみねお)が詠んだというが、堀河太政大臣藤原基経の死に哀傷をこめたかどうか疑わしい。生没年未詳で、一説に承和年間(834-848)頃の人とあり、藤原基経薨時(寛平三年=西暦891年)とは年代が合わない。

古今集巻十六832の歌だが、直前にある831の歌は、

空蝉はからをみつつもなぐさめつ深草の山けぶりだにたて

僧都勝延の歌の前に「堀川の云々」付け書きがくる。


藤原基経は能「雲林院」では、妹の藤原高子を武蔵野に追いかけ鬼一口で飲んだといういわくつきの妖人。

おそらく古今集編集のfakeであろう。

千葉県東金市山田の貴船明神にも「墨染桜」がありますが、これは東大寺再建の為の砂金勧進のために陸奥の国に向かった西行法師が、京都・深草の墨染桜の枝を杖にして歩き、当地を訪れたとき貴船大明神を勧請し、その傍にその杖を突き刺し、「深草の野辺の桜木心あらば 亦この里にすみぞめに咲け」と詠じて去りましたが、この杖が芽をふき墨染桜となったと言われています。


・・このあたりの話もどうですか。基経の魂魄を杖にこめるなど奇怪ですね。

631秋魚:2016/02/01(月) 02:11:50
(無題)
・・昨年都留に寄った帰り大月の隣猿橋をみたのを想い起こす。甲州街道の幹線で古来多くのものがここを通る。猿橋は名ばかりで本物の橋があるとは知らなかった。大月からすぐ隣一駅だが20号はまったく嫌な道だ。道幅がせまく自動車専用道路といった感がある。飯能秩父の正丸トンネルも地獄だったがここも相当なものだった。・・しかし猿橋、日本三奇橋のひとつという。実際の景観もなるほどといったものだったが後で調べてみると多くの文人墨客がここを訪れている。

・・山頭火は、「五月の甲州街道はまことによろしい。桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。
山にも野にもいろいろの花が咲いてゐる。猿橋。

   若葉かゞやく今日は猿橋を渡る

こんな句が出来るのも旅の一興だ。

など云ってるが、桂川沿いは歩くにはいいかもしれない。

水の月猶手にうときさるはしやたには千尋のかげの川瀬に

と詠んだのは、宗祇。

『廻国雑記』を著した聖護院の道興もこの絶景をみた。

「・・猿橋とて川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔、猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや、信用し難し。此の橋朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所がら奇妙なる境地なり。

   名のみしてさけふもきかぬ猿橋の下にこたふる山川の声

同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、

   谷深きそはの岩ほのさる橋は人も梢をわたるとそみる

   水の月猶手にうとき猿橋や谷は千ひろのかけの川せに

・・

この道興という人は気になる。「聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。」「日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。」とwikiにあるが、この「霞」とは何であろう。さらに「・・静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。・・祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。」

「享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。」

「天明8(1788年)と安政元年(1854年)の内裏炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用した。当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。」

・・いろいろ興味深いが、役の行者の関わりが大きいようだ。

この道興。おもしろいのは国分寺の恋ヶ窪、新座の平林寺野火止にも訪れがある。

・・此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、

   朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪今はたとふも契りならすや

・・此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽にやとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、

   わか草の妻も籠らぬ冬されにやかてもかるゝのひとめの塚

632秋魚:2016/02/01(月) 22:11:49
(無題)
・・猿橋といえば、見外。

岨の雨山吹しほるたはみかな  (越後)
ちる雪や曳た小松のひと風情  (家づと)

小林見外は江戸菊守園の主。猿橋産で当地に句碑もある。

宗祇の号に、自然斎・種玉庵・見外斎。この見外斎から倣ったものであろう。

633秋魚:2016/02/08(月) 20:30:28
(無題)
・・寒中、ひさびさの都心サイクリング。うっすら雪化粧の山並みから湿り雪といって道路にはつもらない。満を持しての浅草、隅田川千住木母寺、そこから南に川を下って深川芭蕉庵跡、万年橋、清澄庭園近くの禅師仏頂ゆかりの臨川寺、他はわき目も振らず朝8時すぎに出発した。青梅から多摩川サイクリングロードにでて古巣の国立までゆき中央線沿いに国分寺三鷹このあたりから青梅街道を走るという構想だったが、川沿いの道は雪がありそうであきらめ。ひたすら青梅線と中央線に沿った道を選んだ。先日新座平林寺をめざした道とほぼ一緒。自転車のチェーン周りの掃除をしてブレーキ調整もした。そのおかげで踏み足は軽い。立川国立あたりまでゴミゴミした道もここらはお手の物。ただし風が異様に冷たい。三鷹あたりから五日市街道か青梅街道にでるのを交番で尋ねた。環八か環七にぶつかるまでひたすら直進せよということだったが、早めに青梅街道を選んだ気がする。青梅街道をまっすぐ行けば新宿にでるのは知っていた。しかし今回は上野のむこうの浅草隅田川にゆきたい。どこかしらで飯田橋へゆく道に切り替えた。そうこうして大久保通りから後楽園にでた。ここの春日通りをゆけば上野、浅草は簡単だ。ここもよく知っている。はじめての道だが土地感がはたらいて最短距離で隅田川の厩橋まで来た。・・中野から新宿に近づく道は車道は危険。バスなどの大型車がスッと後ろから来ることがある。実は帰り一度だけこわい思いをした。こう書いている今は自転車も自分も無事故であったのを喜びたい。

・・浅草寺の後ろにあった新吉原の町跡をみたかったが今回はパスして隅田川の上流へもう千住といって合流する荒川に近いところ。梅若橋の木母寺をめざした。言問い橋は業平橋のことだろう。白鬚橋からもうひとつが梅若橋。ここだ。しかしまるで人気がない。寺ばかりは近代的にぴかぴかしていた。

隅田川沿いにある桜堤公園をずっと上流へ走る。桜の花の季節はほんとによい花見ができそうだ。川船に乗って遊覧するのもおもしろそう。しかし今は風が冷たい。人通りも多くはない。言問い橋を越えたあたりでキャッキャッ白い鳥が群れ騒いでいる。これが都鳥かともいぶかったが、それにしても群舞して風情がない。・・梅若橋の袂近く木母寺がある。石碑がやたらたくさんあって由緒が多いらしいがつきあってられない。・・梅若丸の歌がある。

尋ね来て 問はは応へよ都鳥 墨田川原の露と消へぬと

哀しいお話があるという。

京都五山の僧万里の「梅花無尽蔵」にも訪れがしるされている。木母寺の木母は、梅の字を解体して木母としたという。梅にたいへん縁がある。また「廻国雑記」を書いた道興もここを訪れた。・・梅若塚は謡曲「隅田川」によってよく知られている。

・・さてここは訪れるだけで充分。すぐに踵を返して下流の両国、深川芭蕉庵跡の方へ向った。ほぼ川に沿った道で気は楽だった。

・・芭蕉翁史跡展望庭園に寄ってみた。隅田川と小名木川を望む河岸の一角。中央にある翁像はゆかしいものだ。芭蕉の像はたいてい小川破笠の絵をもとにつくられている。説明書きを読み忘れたがこれも破笠の絵から面相をつくっていると思われる。「・・小川破笠(1663-1747)は芭蕉門の俳人で絵をよくした。寛保元年(1741年)、師匠であった芭蕉の肖像画を描いている。実際に芭蕉と親しく接していた者による肖像画だけに、芭蕉のおもかげを最もよく伝えるものであろう。」

・・ほかに小名木川に舟を浮かべ五本松を眺めながら詠んだ句がある。

川上と この川下や 月の友    はせを

・・この深川にいて、川上と川下の雅趣を思いやるというのは、発見。
「・・今宵月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」

これで、支考の墨直しの碑の文の意味もすこし解けてくる。

・・小名木川と隅田川にあたるところ万年橋がある。ここは以前訪れたこともあり、ここから清澄庭園の方へ向う途中に仏頂禅師のいた臨川寺があるはず。果たしてせまい一画だが寺はあった。臨済宗妙心寺派の寺だ。中に入るとおもしろいように石碑が並んでいる。芭蕉由緒の碑、墨直しの碑、玄武仏碑、梅花仏碑、の四つ。ほとんどこれらの碑が売りですね。とくに注目すべきは、墨直しの碑。これは京都東山双林寺にある墨直しの碑を、神谷玄武坊が碑文等そのまま写したものだ。銘文の一部を引く。

「・・あづさ弓 武さしの国の 名にしあふ 世に墨染の 先にたつ
人にあらずに ありし世の 言の葉はみな 声ありて その玉川の
みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに
流れてすえば ふか川や この世を露の おきてねて その陰たのむ
その葉だに いつ秋風の やぶりけむ その名ばかりに とささをきぬ」

・・支考の文で、武蔵の国の流れる川を「玉川」ひとつに代表させている。

・・おそらく芭蕉も支考も隅田川、玉川の上流を訪ねてはいまい。隅田川なら先刻木母寺のもちょっと先で荒川、そこを遡って川越で入間川に分かれる。昔は入間川の方がよく知られていた。浅草はそれなり賑わっていた。「花の雲鐘は上野か浅草か」芭蕉のこの句は花の雲の行方が暗示されている。入間川を飯能の方にたどると成木川に分かれる。これはもう青梅の川だ。・・限りなく多摩川の上流に近づくようだが水源を同じくすることはない。この水源を求むる旅を半分でも試みるものがいたとしたら、それは井月であろう。

・・碑を見学していたら、お若い住職さんに顔が会った。墨直しの碑は戦災で破損し後再建されたもの。それでも碑文は読めない。翻刻したものはありませんか?と尋ねたらパンフがあるという。家の中に入ってしばらくとてもよくできたパンフをみせてくれた。どうぞというので涙が出るほどお礼をいってこれで今日は大収穫。ホテルであきない思考ができる。

・・さてこの後深川稲荷を御参り。清澄庭園をぐるり廻って長岡藩下屋敷の跡地を探した。いろんなお寺が密集した区域がありどうもこのあたりではないか?ずかずか寺の受付で案内を乞うた。がどこも昔のことはわからないということでした。これはあきらめ。

・・永代橋のすばらしい夕景を拝んで兜町のホテルに向った。

634秋魚:2016/02/10(水) 19:58:26
(無題)
・・さて皇居周りからの帰路だ。新宿通りをゆけば南口で甲州街道にでやすい。靖国通りならそのまま青梅街道につながる。これもよく知らなかった。今回は迷わず靖国通りでゆく。毎度だが新宿周辺はいたってあぶない。なんか気が荒いというか。・・青梅街道から外れて五日市街道もしくは井の頭通り、連雀通りなどで国分寺に出れば恋ヶ窪の熊野神社もみつかるはず。一度訪れがあるが地理がまだよくわからない。もう一度再学習。ほんとは昔の道をなつかしみ辿るのは末期症状なのかも。熊野神社の横にあるお寺で敬慕した女流詩人が眠っている。・・借りを返さねば。

ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし   はせを

明治7年(1874年)8月、寶雪庵可尊建立。

月花の遊びのゆかむいざさらば

 寶雪庵可尊(坂本八郎兵衛)は、明治19年(1886年)に88歳で亡くなったが、その辞世の句を門人たちが明治30年(1897年)に建てたもの。

明治12年(1879年)、『故郷碑』(宝雪庵可尊輯)。

・・この宝雪庵可尊という俳人を実は追っている。

何鳥か寝た影丸し月のうめ   可尊(井月編「家づと集」1864年)

「芭蕉の正統蕉門がここに」・・国分寺恋ケ窪出身の坂本八郎兵衛は、ひょんなことから芭蕉の正統蕉門である江戸牛込の宝雪庵に弟子入りした。後に才能を見込まれ47歳で跡取りになると、宝雪庵六世可尊として江戸末期の俳壇で活躍している。1869年に恋ケ窪に戻ると、地元の青年たちに俳句を広めた。

・・井月が可尊に知己を得て句を交換したとしたら、恋ヶ窪でなく新宿の牛込ですね。井月が新宿に出ていたというのは、めずらしい。新宿は甲州街道、青梅街道の出発点ですから、井月も歩いたはずだ。おそらく宝雪庵という俳諧の縁で知り合ったと思われる。・・このとき句を交換するばかりでなく、可尊の故郷の恋ヶ窪の話も聞いたでしょう。聖護院門跡の道興の訪れがあると。恋ヶ窪、武蔵野平林寺などは道興の訪れに倣ったとも思える。確証はないが。

・・熊野神社まわりから国立へ向う道がある。迂闊なことだった。遺跡の発掘で昔よく通った道だ。坂道を下ると駅でそこから大学通りをまっすぐ谷保へと向う。この辺は庭だった。南武線谷保駅のすぐ裏の甲州街道沿いに谷保天満宮、それに土方歳三がよく通ったという学問と書の先生本田覚庵の家がある。古民家として今でも残っているという。歳三は石田の渡しを舟に乗らず飛び石を伝って日野の方から来たそうだ。本田覚庵というのは獣医だが、米庵流という幕末三筆のひとつを汲んでいる。この米庵流、井月もすこし知っている。すぐ近くが谷保天満。・・本田覚庵の家。これはびっくり。なんと以前何年も住んだわたしの下宿の目の前にある。春は桜、ほかに槻の木とか、梅、木立の異様な景状がいつも気になっていた。・・ここに歳三がよく訪れていたとは。

635秋魚:2016/02/11(木) 23:18:42
(無題)
・・宮ノ平から多摩川を渡り吉野街道にぶつかる辺り、街道を離れて梅ヶ谷峠へ向う坂道がある。暗い陰鬱な道だがここを行けば日の出町に入れる。中曽根総理とレーガン大統領が会談した日の出山荘というのがある。この山荘には興味もなかったが今日はこの道から日の出に入ってつるつる温泉にゆくことにした。秋川街道から入ってつるつる温泉には何度か訪ねた。二回ほどか。車がよく来る梅ヶ谷峠はアップの坂が長く青梅と日の出の境の峠で特に標識もない。この坂を登りきってしまえば急にのどかな風景で自転車も楽だ。梅の花もちらほら咲いている。・・日の出山荘にゆく道はまた別に分かれる。気が重いが行けるところまで行くことにした。山懐という風で着いてみるとかなりの敷地にいろいろ屋敷があるようだ。大統領や各国の要人を招くほどだから接待は万全なのだろう。単純な山小屋を想像していたのでなるほどと思った。今は入館料をとる名跡になっている。

・・ここから坂道を下って一路つるつる温泉に向った。一度秋川街道にでて萱窪というところまでゆく。そこからまた西へ平井川という川沿いの道をどんどん行くと急な坂道になる辺りでつるつる温泉がみえる。昔はこの道と坂がたいへんなものに思えたが今はどうということもない。ほどなく着いてしまった。・・ひさしぶりに来てみると建物は変わってないのだろうけどよく整備されてきてるようだ。源泉ばかりでアルカリ純度の高い単純泉。これも売りで変わらない。瀬音の湯とほぼ同じ。向こうのほうが新しい分湯は上質に感じた。温泉も時がたつと消耗劣化というのがあるようだ。しかしここはそれはない、いい温泉だ。長湯をして湯あたりをしないようにと注意もある。湯あたりは自分も一回したことがある。潜水病高山病みたいなもので回復がなかなか来ない。たいていは救急車を呼ぶようだ。自分の時はなんとか自力で回復させたけれど。・・さてここのレストランも充実してきてる。食でいい想いがないと、口コミもさんざんになるからどこも力を入れてるようだ。つるつるも前回よりたいへんな向上をみせた。釜飯ご飯を注文。

・・さて帰り多摩川の永田橋までつづく道がある。陰気な秋川街道を避けてこの道から滝山街道にでて迂回して帰ることにした。どんどん行くと途中裏道にもまわりお寺がけっこう多い。・・東光寺という禅寺がありその上の山には妙見宮というのがあって山頂まで参道が長くみえる。麓で若い娘さんが登ってきたので妙見宮のこと聞いてみた。娘さんもはじめてでよく知らないという。見に行くのですか。それでは一緒に行きましょう。そういって急な参道を登っていった。

636秋魚:2016/02/21(日) 22:41:47
(無題)
・・加舎白雄「武蔵野行脚」に、霞川という川原に遊びてとある。「思ひしほど霞まぬもよき川瀬哉」と句を詠む。かすみ川というのはどこにもありそうな名でもしやと思い青梅の田園を流れて狭山入間から入間川に合流する霞川のことと思いついた。・・以前東青梅の上流から入ってカワセミやコサギなどいるサイクリングロードを川沿いにどこまでも追っていこうとした。結局この日は武蔵村山に用事かあって途中断念したけれど、今日こそとことん追って入間川へ合流する河口を見るつもりだ。白雄が訪ねたのは青梅の霞川にちがいないなど変な確信をもった。

・・青梅マラソンがあって街道にのぞんだが、丁度スタートの号砲が鳴ったばかりらしい。続々とランナーが走ってくる。エントリーは何千人か何万人か。ともかく人が多い。参加するランナーを見て思ったが、けっこうな年輩の人が多い。大丈夫かなと見える人もいるが、たぶん大丈夫なのでしょう。自転車なら年いってもいける。走るのはどうですかねという気もする。走るのが好きな人も多いか。

・・霞川はやはり生活水が流れるのかすこし濁りが目立った。魚も水鳥もみえる川だから昔は清らかな川だったのだろう。今でもカワセミが見られるというが。サギとツルの区別もつかない。きょうはツルに似た鳥がいた。写真を撮ろうとかまえると羽根を広げて飛び去ってゆくのはいつものこと。カモは遊んでいるから人見知りはないようだ。ツルはむずかしい。

・・青梅の端に入間の金子という土地に入る。この向こうに丘陵がつづき土地の人に聞くと加冶丘陵というらしい。そのむこうに入間川も流れているはずだ。井月三部集に載る野井という俳人はこの金子の出身。後江戸にでて本町二丁目に住む。新吉原の妓楼の主人海老原新甫とは仲のよい俳人仲間。・・井月は野井の故郷を訪ねたかもしれない。入間川を遡って霞川に沿って来たか、青梅街道を西へ進みすこし北西に外れればもうこの霞川あたりまで来れる。・・塩船観音寺、真浄寺はその先、霞丘陵の麓にある。

何処やらに鶴の声聞く霞かな

・・霞川に沿った道というのは一本道でない。あれこれ迂回しながら行くしかない。合流点に近づくにつれ川幅も広くなってはきている。水鳥はあちこちよくいる。江戸の頃はのどかなよい川だったのだろう。・・入間川にだいぶ近づいたあたりで地形が入り組みついに川に沿って河口にでるのをあきらめた。先に入間川の岸辺にでてみることにした。ガソリンスタンドで道を尋ね、なんとか広瀬橋という大きな橋のあるところに出た。はー入間川はやはり広く大きいか。すこし上がったところに霞川の河口がみえる。・・青梅丘陵からでた霞川がこんなところまで延びて入間川にそそぐのは確認して安心できた。飯能狭山入間と青梅瑞穂の境目にいくつか緑の多い丘陵がある。その丘陵の南がわの手前に流れるのが霞川。たいした川ではないがこれに沿って霞丘陵まで上がるのが、よいサイクリング。

・・入間川というのは昔からある。よく洪水で氾濫する川だ。実際川越あたりは堤防脇はひどく低地になっている。広瀬橋を渡ると広瀬神社があり埼玉でも有数の古い神社という。ケヤキの神木の古いものがありたしかに古そうだが、文人墨客はあまり訪ねてもいなさそうだ。江戸の頃地元の俳句連が寄せた句碑があったが、芭蕉などの句碑はない。(あとで調べたら「ものいへば唇寒し秋の風」の句碑があるとのこと)・・梅の木は古木になると竜のようによじれてくるという。そういう古い梅ノ木があった。

・・この広瀬神社よりすこし入間川上流にあがると笹井白鬚神社があるはず。実はここを訪れたかった。聖護院門跡道興が『廻国雑記』でやはりここに寄っている。当時(室町時代)は佐西といって観音寺というお寺であったらしい。ほかに芭蕉の句碑がある。

武蔵野や一寸ほどの鹿の聲

芭蕉32歳の時の作。芭蕉も広い武蔵野の鹿のいるようなところまで歩いたか。江戸にでて二三年のこと。

637秋魚:2016/03/01(火) 00:26:04
(無題)
湯原王の七夕(しちせき)の歌二首
牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心より見る我苦し夜の更けゆけば(万8-1544)
織女(たなばた)の袖つぐ宵の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし(万8-1545)

湯原王の鳴く鹿の歌一首
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ(万8-1550)

湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌一首
夕月夜(ゆふづくよ)心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも(万8-1552)

湯原王の吉野にて作る歌一首
吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして(万3-375)

なつみ川かはおとたえて氷る夜に山かげさむく鴨ぞ鳴くなる(伏見院[新後撰])
春もなほなつみのかはのあさ氷まだ消えやらず山かげにして(西音[玉葉])
わきて猶こほりやすらん大井河さむる嵐の山陰にして(基嗣[風雅])
なつみ川こほりかねたる早きせをうきねの床と鴨ぞ鳴くなる(宗良親王)
なつみ川山陰にして見し雪ののこるがさくか岸の卯花(正徹)


湯原王の娘子に贈る歌
目には見て手には取らえぬ月の内の楓(かつら)のごとき妹をいかにせむ(万4-632)


*湯原王

志貴皇子の子。兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいる。

・・

秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ

なつみ川かはおとたえて氷る夜に山かげさむく鴨ぞ鳴くなる (伏見院)

・・

638秋魚:2016/03/12(土) 01:11:15
(無題)
おく山のおどろがしたもふみわけてみちある代ぞと人に知らせむ  後鳥羽院


・・も・ふみわけて・みち

これは紅葉を踏み分けるか。紅葉を切っています。


見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん  後鳥羽院


1.雪ながら山本かすむ夕べかな  宗祇
2.行く水とほく梅にほふさと  肖柏
3.川風に一むら柳春見えて  宗長
4.舟さす音もしるきあけがた  祇
5.月や猶霧わたる夜に殘るらん  柏

・・

徐に柳のかぜや小鮎くみ   井月


これは水無瀬三吟にならえば、第三の宗長ですな。


・・

「梅にほふさと」は、

639秋魚:2016/03/16(水) 00:48:03
(無題)
・・ のーまく さんまんだー ばーざらだん せん だー まー か ろ しゃーだー
そわ た や うん たら たー かん まん

・・成田山新勝寺(以下「成田山」)の歴史は古く、御本尊の不動明王像は平安時代の初め、嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わります。その後は長らく京都の高雄山神護寺に奉安されていました。この御尊像が、はるか東国の下総国成田に遷座されることになったのは、朱雀天皇の天慶2年(939)に起こった「将門の乱」のときです。朝廷は真言宗の高僧寛朝大僧正に神仏の力による将門の調伏を命じました。そこで寛朝大僧正は、神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修したのであります。

よみ倦ぬ青梅どきや三国志

三国志ノ内
一踊りして来て酒の未だぬくし
張飛
蟷螂やものものしげに道へ出る

よみ懸し戦国策や稲光り


・・江戸は芭蕉と将門ですな。

神田明神には、将門塚がある。

640秋魚:2016/03/18(金) 01:48:42
(無題)
・・都幾山慈光寺が気になってたが、予定変更。もうすこし手前の越生梅林にサイクリング。飯能−寄居線という県道、ほぼ八高線に沿っている。飯能まではほんとうに楽になった。ただし小曽木街道はそれほど広くないし、ダンプも時々来る。だいぶ勝手がわかったから飯能市街には一時間とすこし、そこから宮沢湖までももう馴れた。日高高麗川あたりやはり大型のダンプなど来るさほど広くない県道をなんとか抜ければ毛呂山あたりでよい道になる。・・実はこの道でかける前の印象ですこし気が重くなる。アップダウンが多いというわけではない。前回の走りの記憶を消してからでないとでかける気もしない。

・・毛呂山まで来たら、新しい村の記念館があるという看板。いまどき白樺派ですかね。たぶんこの時代でもっとも流行らない思潮でしょう。生ける化石か。トルストイの影響があるとか。武者小路実篤とかも、正直気が重い。・・街道をそれて700mとか、きょうはここへ立ち寄ることにした。・・ほんとうに新しい村なんど有るのかよ。単線の線路を渡って、どうやらその村の敷地の中に入った。や、や、や、意外とおもしろい。詩碑などがあちこちあるのは想像した通り。茶畑やソーラーパネルなどもあって、今でも新しい村の住民活動は続いているようだ。きれいごとの文句ばかり散りばめられていて、これは一種の宗教の様。古い井戸とか建物も時代がかったものだ。・・一応美術館らしきがあって入館料二百円払って訪ねてみた。ほとんど武者小路さんの絵とか書とか詩とか飾ってあって、タイムスリップみたいなのは、でもしきりにそれを拒む自分も居て、やはりついていけない気にもなる。

・・新しい村は宮崎の日向ではじめられた。七年あってダムの建設でやむなくこの毛呂山へ移動。日向では実篤さんも生活してたが、この毛呂山には住まなかったという。晩年の二十年は都内の調布が住まいだった。この新しい村は主旨に賛同する仲間が続けているという。なんか活気もないけど大丈夫なのか。気づかっても仕様もないのでここを去って越生に向うことにした。

・・毛呂山から越生に向うにしばらくいくと、山の方へ道がわかれる。越生の梅林にゆくにはここで折れた方が良いのかあたりに尋ねる人もいない。角にある何か野菜の仕分け場みたいなのがあって、引き戸をあけて、なんとか尋ねる人をみつけた。仕事中で悪いとは思ったがもはや手は無い。土地の人はやはり詳しい。道を曲がって道なり真直ぐ行けばよいとのこと。街道は細くなるが、あとは人に聞き聞き進んだ。ひとつ由緒ありげな寺に寄った。参道に無人の野菜売り場があって夏みかんがよさそうだった。帰りに寄ることにした。・・梅林まで山懐の里のようでけっこう距離がある。近づくと梅ノ木が多くなる。なんか整然とした梅林ですこし期待はずれ。せっかく来たからにはと入園料三百円払って中にはいる。青梅の梅の公園の方がおもしろいか。いろいろ変化に富んでいる。しかし今は無い。今年は暖冬でもう梅の花も盛りをまわったか。それでも中には人も多い。お昼時でうどんと梅酒を注文。枝垂れ梅のいいものもある。古さを誇る梅もあったが花は終わっていた。猿回しの大道芸とか、みせものも多い。・・さて梅林をぬけて、このまま帰るのもどうか。太田道真の隠棲した館があるはず。宗祇が訪ねて来ているはず。龍・・寺とか名前が思い出されず。それでも人に聞いたらリュウオンジ、龍穏寺という。太田道潅の墓があるらしい。ここに向った。

・・越辺川はオッペガワという川沿いに山懐へおよそ6キロの道のりだ。途中いって人はまったくいない。やめたくなった。とくに上り坂が続くと、リタイヤしたくなる。・・ここからがいつもの性分、ここまできて引き返す手は無い。龍穏寺まではなんとしてもゆく気になる。もしここであきらめると一生の後悔になるやも。とまあいい加減な理由でがんばる。坂がどんどん山猫軒というカフェが近い。最後に登りきった坂をもう一度大きく降ってゆくと、急に明るく開けて村もお寺も見えてきた。まさに隠れ里です。

・・「縦有千声尚合稀況今一度隔枝飛誰知残夏似初夏細雨山中聴未帰」

たとえ千声あるともなお合うこと稀なりいわんや今一度枝を隔てて飛ぶおや誰か知らん残夏の初夏に似たるを細雨山中に聴きていまだ帰らず
                 万里集久【梅花無尽蔵(二)

・・1486年、太田道潅と万里集久が道真の居館「自得軒」を訪れた。その時の集久の詩という。

・・その46日後の七月二十六日、道灌は主君・扇谷上杉定正によって相州糟屋館で謀殺される。

641秋魚:2016/03/22(火) 00:46:20
(無題)
地「潮満潮干二つの玉を。/\。釣針に取
り添へ捧げ申し。舞楽を奏し。豊姫玉依。

袖をかへして。舞ひ給ふ。天女舞「。
地「いつれも妙なる舞の袖。/\。玉のか
んざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。雪
を廻らす。袂かな。
シテ「わたづみの宮主。舞働。地「姿は老龍
の。雲に蟠り。かせ杖にすがり。左右に返
す。袂も花やかに。足踏はとう/\と。


・・「玉井」vs「紅葉狩」

雲に嵐の声すなり。
散るか正木の葛城の。神の契の夜かけて。
月の盃さす袖も。雪をめぐらす袂かな。
堪へず紅葉。中ノ舞「。
シテワカ「堪へず紅葉青苔の地。地「堪へず紅葉
青苔の地。又これ涼風暮れゆく空に。雨
うちそゝぐ夜嵐の。もの凄ましき。山陰
に。月待つほどのうたゝ寐に。かたしく
袖も露深し。夢ばし覚まし。給ふなよ夢
ばし覚まし給ふなよ。来序中入間「。
ワキ「あらあさましや我ながら。無明の酒
の酔心。まどろむ隙もなき内に。あらた

なりける夢の告と。地「驚く枕に雷火乱
れ。天地も響き風遠近の。たづきも知ら
ぬ山中に。おぼつかなしや。恐ろしや。
歌「不思議や今までありつる女。/\。と
り%\化生の姿をあらはし。あるひは巌
に火焔を放ち。または虚空に焔を降らし。

642秋魚:2016/03/25(金) 01:23:26
(無題)
 姨捨山

  俤や姥ひとりなく月の友

 姨捨山

 俤や姥ひとりなく月の友

? いざよひもまだ更科の郡かな  いざよひもまださらしなの郡哉

? 更科や三よさの月見雲もなし 越人
? ひよろひよろと尚露けしやをみなへし           尚

 ひよろひよろとこけて露けしやをミなへし

? 身にしみて大根からし秋の風
? 木曾のとち浮世の人の土産かな  (よにおりし人にとらせん木曾のとち)

 木曾のとちうきよの人のミやげ哉

? 送られつ別ツ果ては木曾の秋
?? 身にしミて大根からし秋の風

?  善光寺

  月影や四門四宗も只ひとつ

 善光寺

 月影や四門四宗も只一

? 吹とばす石ハ浅間の野分哉?? (秋風や石吹颪すあさま山)

   落

 (吹颪あさまは石の野分哉)

   とばす ハ

 吹(落す)石をあさまの野分哉


・・「更科紀行」 本文と真蹟草稿こきまぜると迫力があります

・・将門の太刀のごとく三日月のごとく。両刃の剣ではありません。

643秋魚:2016/03/25(金) 03:13:31
(無題)
芭蕉庵「三ヶ月日記」素堂序

我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつはとはわかぬ物から、ことに秋を待わたりて、他の求めなし。・・・

・・・初秋はくれぬ。中の秋に至りて、はつ月のはつかなる比より、夜毎に名月の思ひをなしくもりみはれみ扉をおほふことまれ也。我庵ちかきわたりなれば、月にふたり隠者の市をなさむと、みづから申つることぐさも古めきて、入りくる人々にも句をすゝむる叓になりぬ。昔より隠の実ありて、名の世にあらはるゝ叓、月のこゝろなるべし。

隠にしてすゞむも哀三かの月   素堂
三か月や地は朧なる蕎麦畠    芭蕉
影ちるや葛の葉裏の三かの月   杉風

・・・

三日月はこの杉風の第三までに尽きると思うが、如何。

羽黒山の呂丸に託して、後支考が死の前年(1730)に一巻の書として開板した「三日月日記」。

翁の遺状によれば真正な「三日月日記」は伊賀にあるという。が、これはfakeであろう。

・・

鶴岡にある草稿と支考の板本とはいくつか異同あり。

・・「三日月日記」は図書館から借りたものだが、予想期待に反して大部は読めないものだった。「隠にしてすゞむも哀三かの月」素堂の句は、板本では「隠にして進むも哀三かの月」とあり支考の歪曲がめにつく。・・支考はこういう細工をするものと理解する格好の書物か。

・・芭蕉は「更科紀行」などと同じく草稿のまま未完成に残して他の心ある弟子に作品の成立を委ねたのではないか。推敲の過程をそのまま残すそれが本来の作品のすがたともとれる。三日月日記という未完の部分を残して秘すことを意図した。

・・お調子者の支考はそのあたり曲解とみる。

644秋魚:2016/03/27(日) 01:42:08
(無題)
・・

Non ce n'est rien qu'une chanson qui revient quelquefois

Rien qu'un sourire, en souvenir d'un garçon d'autrefois

Quand mes jours sont gris

Qu'il neige sur ma vie, il revient dans ma mémoire

Au lycée Français un soir il m'attendait

Il souriait Nicolas

いえ 時々思い出されるのはひとつの歌にすぎない

昔会った男の子を思い出して浮かべる、ひとつの笑みにすぎない

私の日々が灰色のとき、

私の人生に雪が降るとき、彼が私の記憶によみがえる

フランス系のリセで ある夜彼は私を待っていた

彼は微笑んでいた ニコラは

{Refrain:}

Nicolas, Nicolas, ma première larme ne fût que pour toi

On était, des enfants, notre peine valait bien celle des grands

Nicolas, Nicolas, c'était de l'amour, on ne le savait pas

C'est la vie, qui nous prend

Qui nous emmène où elle veut et où elle va

ニコラ、ニコラ、私の初めての涙はあなたのためだけではなかった

私たちは子供でも、私たちの苦しみは大人たちの苦しみと同等だった

ニコラ、ニコラ、それは恋だったのか、私たちには分からなかった

人生は、私たちをとらえ、

私たちを思うがままに運んでいく

Un homme enfant, aux yeux trop grands, sur un quai, qui pleurait

Il a neigé, beaucoup depuis, sur là bas, sur Paris

Et il ne sait rien, de moi et de ma vie

Ce que je fais, qui je suis

Il ne connaît pas, l'autre Maritza, il garde la vraie là-bas

子どもっぽい男が、駅で、とっても大きな目に涙を浮かべていた

その後、雪がたくさん降った、あちらでも、パリでも

そして彼はいま私について、私の人生について何も知らない

私が何をしたか、何であるのか

彼は別のマリヅァを知らず、彼はあちらで本物を守り続けている

Nicolas, Nicolas mon premier chagrin s'appelle comme toi

Je savais, que jamais, je ne reviendrai ici auprès de toi

Nicolas, Nicolas c'était de l'amour, on ne le savait pas

C'est le temps, qui s'en va

Qui invente toutes nos peines et nos joies.

ニコラ、ニコラ 私の最初の悲しみにはあなたの名前がついている

私はわかっていた、けして、ここへあなたのそばには戻らないだろうと

ニコラ、ニコラ それは恋だったのか、私たちには分かっていなかった

時は、過ぎて行き

私たちの苦しみや歓びをすべて創り出す

645秋魚:2016/03/29(火) 02:35:00
(無題)
・・このところ自治会の仕事をふりむけられてきて、今日は近辺のパトロールコースを下見した。自転車で遠出をして身近なところはいつも通っているはずだが、意外と盲点になっていて知らない道と場所が多い。

・・吉野街道に沿った裏道は山の斜面にも沿ってアップダウンの坂が入り組んでいる。さながら迷路のようだ。柚子、夏みかん、カボスとか柑橘が取り入れもなされずそのまま熟して落下しているのもよくみかける。先日越生に行った時は、無人の里でひとつ柚子をみやげにもらった。家で料理につかったが、いいものだった。

この地域やはり外にでないと何も起こらない。

吉野街道から川にむかって降りてゆく道があった。まあほんとに細い道。突き当たりの家などたぶん廃家でしょう。いろいろ草木の茂った道を下りてゆくと、いつもは万年橋の上から眺める多摩川の河原にでた。夏ならばここで川遊びもできるでしょう。いまは無人です。

・・これから草木も芽吹いて繁茂すると歩きにくくもなるだろう。斜面の草木の道に、赤い実のなるのを見つけた。これって千両とか万両とかじゃなくて、アザカではないだろうか。



木天珠(プンテックビーズ・木化石)の由来
エッチドカーネリアン

インダス文明期に、発見された技法により生まれたビーズエッチドカーネリアン。
天然石のカーネリアン(紅玉髄)にアルカリ性の溶液で人為的に模様付けをしたビーズです。
ナトロン(天然ソーダ)でカーネリアンの表面に様々な文様を描き、300度〜400度の熱で低温焼付けしたものです。
アルカリによる腐食加工で模様付けすることををエッチングと呼ぶことから、エッチングされたカーネリアンという意味の「エッチド・カーネリアン」と呼ばれます。
塩生植物の灰には、酸化ナトリウム(Na2O)が多く含まれ、その灰汁(あく)を煮詰めれば、玉髄を腐食する強いアルカリ液が出来ます。
エッチド・カーネリアンの登場には、石英と強アルカリ液(ソーダ灰の原料)、すなわちガラスの原料が関わっていたのです。
ヒマラヤ圏で見られるエッチドカーネリアンはチョンジーと同様の単純な文様が多く、チベット圏ではチョンジーと呼ばれジービーズファミリーの1つとされております。
エッチング技法は、インドの近隣国にも伝わり、ビルマ(現ミャンマー)のPYU(ピュー朝4世紀〜832年)では、化石化した木(オパール)に対してエッチングが行われました。
このビーズはPumtek Beads(プンテックビーズ)と呼ばれています。

646秋魚:2016/05/01(日) 07:54:30
(無題)
・・そろそろロングライドがうずく。青梅街道を甲州にぬける柳沢峠越えが目標だ。奥多摩からならクロスバイクでぬけるのも可能か。ネットの記事ではたしかに壮絶そう。丹波山村までは一度経験した。トンネルがいくつもあるがなんとかクリアできそう。奥多摩湖から離れて丹波山方面に向う登りスロープが実は顎がでる。のめこいの湯が目標だったからここもクリアした。・・その先が苛酷だという。シミュレーションではここ道の駅で小休憩。到着がはやく体力に余力があればそのまま丹波渓谷に向う。だんだらで30キロほど走らねばならない。柳沢峠で一休み。富士がみえればよい。・・ここからが大変。千メートル以上の落差のダウンヒルが待ってる。

・・シミュレーションはやめて近場のまだ見ぬ花の道を訪ねた。青梅杣保の霞丘陵と真浄寺。しぐれ桜を見てみたい。


・・ところで、桜ではなく梅。

 一華開五葉 結果自然成

これを水無瀬三吟何人でみると、


雪ながら山本かすむ夕べかな        宗祇

行く水とほく梅にほふさと         肖柏

川風に一むら柳春見えて          宗長

舟さす音もしるきあけがた          祇

月や猶霧わたる夜に殘るらん         柏


・・梅花の五葉がみえますか?

647秋魚:2016/04/13(水) 01:41:31
(無題)
聖霊院の前では、鏡池が水をたたえています。明治の昔の頃はこの池のほとりに茶店があり、ここで一休憩した正岡子規が即興で詠んだのが、あの有名な俳句です。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」



・・

648秋魚:2016/04/13(水) 22:40:30
(無題)
・・江戸武蔵野の怨霊はなんといっても平将門。いつの時代もこの霊が跋扈してると思って間違いない。深川芭蕉庵あたりにも必ず。日本史の大きな流れの中では聖徳太子が第一の怨霊の雄だ。甲斐の黒駒に乗って富士山を踏破したなど霊は神出鬼没。鬼霊だが悪霊か善霊かはわからない。平将門は鬼霊。太子は聖霊。ということにしておく。

・・法隆寺聖霊院。1284年(弘安7年)・・建て替えられたという神殿づくりの建物の中には、黒漆で仕上げた大きな厨子が3つ造り付けてあります。そのうち真ん中の厨子におさめられているのが、聖徳太子像。
・・45歳のときの姿を表したものと言われますが、重要な神事の際に用いる冠、巾子冠(こじかん)を頭にいただき、儀式用の笏(細長い板)を両手で抱く束帯姿

1284年。ドイツ・ハーメルンで約130人の子供が集団失踪(ハーメルンの笛吹き男のおこり)

・・4体の侍者像の他に、附(つけたり)として「木造蓬莱山及亀座付の銅造観音菩薩立像」がある。

これは聖徳太子像の、いわゆる「胎内仏」


・・後鳥羽院(1180-1239)

1284年は、院46回忌。

649秋魚:2016/04/15(金) 19:52:42
(無題)
・・義姉が逝去した。ぽつりぽつり故ある人が去る。

・・物理の労働がひさしいので、お天気もよく、自転車の解体−組立てを試みた。世の憂さ人の憂さを忘れるにはこれが一番。このハヤブサ号もう何年目になるのだろう。そろそろ本体の劣化疲労が来る頃だが。一応のブランド品でフレーム、ギア等はしっかりしている。・・Vブレーキの解除。レリーズも解除。前輪後輪の外しにかかる。ここまでは実はお手の物。後輪のギアチェーンの掛りはさほど恐くなくなった。フレーム本体を逆さまにしてあちこち調整清掃をした。フロントギアのところで乗車中変な音がするので何かと思っていた。ギアチェンジするパーツのネジが二本浮いて緩んでいたのを発見。+ドライバで締める。なるほど音が消えた。あぶないな。このまま放っていたらチェーンのネジが磨耗して急にぷっつん切れたりするだろう。手馴れた人はチェーンの長さも替えられるし、ギアの調節もたやすい。自分はあいかわらず素人です。

・・今年はもうひと踏張りハヤブサ号には頑張ってもらう。ブレーキが大切だ。輪行のためにエンド金具の取り付けも試みた。実は昨秋以来ですっかり忘れている。前回は固定の締め付けが甘く何度か車中でへたってしまった。袋にうまく収めるのでせいいっぱい。こんどはうまくやりたい。で、袋詰めは今回はやめてすぐ組立てにはいった。後輪のチェーン部分すんなりいかずもなんとか復旧する。前輪の据付はネジの回し方で車輪のセンターがずれるので細心の調節になる。これは失敗して試行錯誤の経験が生きる。リアブレーキの復旧も実はちょいむずかしい。ワイヤの長さが狂ったりするからだ。これも経験済。

・・祖父が法隆寺金堂古材から彫り起こした聖徳太子像が手元にある。太子千三百回忌の御会に下賜された真正の古材だ。博物館の科学班の方はそれは科学的な証明はできないという。
・・聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)。1921年(大正十年)が太子千三百回忌。・・この木像の開眼式は、法隆寺聖霊院で行われた。1923年一月十八日。この時のお墨付きの証書が実は先日兄の家から出てきた。聖霊院で開眼式が行われたなどやはり特別な彫像であろう。

・・法隆寺の創建者聖徳太子の住まう聖霊院は、実は、鎌倉時代1284年に造られたもの。が、ここは特殊な場所だ。平安末期から鎌倉期にかけて太子信仰が盛んになったという。政治的には推古天皇の摂政という以上のものではない。・・摂政で思い当たるのは、この時期、摂政後京極良経。

・・太子信仰というのは、深追いはやめておく。

650秋魚:2016/04/17(日) 15:13:18
(無題)
・・自転車の整備。フロントディレーラのネジを締めたのは失敗。あれは調節ネジだった。おかげでフロントギアがかからなくなってしまった。取説をみて調整したがうまくいかない。駅前の自転車ショップに相談に行く。可動域となんとかで二箇所の調節が必要。18百yenかかるとのこと。・・自分でチャレンジすることにした。

・・ショップの人の話ではネジの調節だけでは駄目ということだった。で結局ネジの調節を再度試みた。すると試し乗りをしてギアチェンジがうまく行くようになった。がどうもしっくり来ない。夜再度の調節。・・翌朝再度の調節。可動ポイントというのがあってここに注油を試みた。するとディレーラの動きが良くなり異音もなくなった。完全ではないがこれが限界か。フロントのギアチェンジはあまりやらない。遠乗りをした時トラブルが無ければよい。

・・すごい地震が熊本大分に起こった。東日本の震災から5年目で九州に来た。津波と原発の事故は無いようだが、マグニチュード7前後のが三連で来た。外人の観光客がぐーんと増えていたもののこれで急減か。東京オリンピックなど関東に来たら最悪だ。

・・阿蘇山は巨大な外輪山をもつクレータ形の火山だ。こんな火山めずらしいのではないか。ここも巨大な隕石衝突があったやもしれぬ。

・・アデン湾にもクレータ形の火山がある。

651秋魚:2016/04/19(火) 22:27:15
(無題)
・・熊本の地震。断層のずれ30キロにおよび2mほど地面が切れている。阿蘇山のカルデラに達しているというからまだまだ恐い。かつてない大地震がこれからやってくるかも。これも朕の不徳にいたすところという元首がいたら涙がでるが。

・・涙といえば、後鳥羽院の歌に

露は袖に物思ふころはさぞな置くかならず秋の習ひならねど

・・この露は涙のことそうです。

乾く間もなく秋くれぬ露の袖   井月

・・いかにも俳句の切れ味するどし。

秋の露や袂にいたく結ぶらむ長き夜飽かず宿る月かな 後鳥羽院

・・院も負けてはいない。露に宿る月なら、いたいか?

・・

652秋魚:2016/04/22(金) 21:17:05
(無題)
・・思考が腐食される風で自転車に乗ることにした。五月には柳沢峠にチャレンジしてみたい。先日調整したフロントギアの様子見だった。コースは玉川上水取水口から多摩川CRをくだり立川日野の橋をわたり土方歳三記念館からモノレールに沿って多摩動物公園、多磨センターまで行きなれた温泉がある。コースはほどよいアップダウンスロープでまったく快適。ここに馴れてしまうと青梅街道など恐くて走れない。・・フロントギアチェンジは完璧。気持ち悪くなるほどよくかかる。購入店の最初の調整なんだったかと思う。リアギアは逆に今ひとつ。ここも自前で調節できそう。復旧不能になりそうでやめておく。・・もう春が進んで新緑の季節。厚着をして出て失敗。出発前の想念と体調はまったくあてにならない。この頑固な想念の切り崩しと体調は新陳代謝の更新です。昔はよかった。

竹芝伝説(「更級日記」より)

・・いかなる所ぞと問へば、「これはいにしへたけしばといふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(えじ)にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾のきはに立ち出でたまひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と仰せられければ、酒壺のことをいま一かへり申しければ、『われ率て行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。・・


・・ここは三田済海寺のあたりか。月の岬もこのあたり。


河陽宮【かやのみや】

嵯峨天皇の離宮。現在の京都府大山崎町にあった。河陽すなわち河の北,淀川畔の風光明媚な山麓一帯の地に営まれ,水瀬(みなせ)などでの遊猟の足場に使われた。のち荒廃し,行幸(ぎょうこう)があれば使用して宮名も存続することを条件に861年山城国府の建物となる。


帰朝の後、筑紫にて、送りに詣(ま)で来たる唐人の帰るにつけて、河陽県の妃の女王の君に   中納言

何にかはたとへて言はむ海のはて雲のよそにて思ふ思ひは

  *

済海寺

済海寺(さいかいじ)は、東京都港区三田四丁目に存在する浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸三十三箇所観音霊場の第26番札所である。札所本尊は亀塚正観世音菩薩。

東京都港区三田四丁目16番23号  位置 北緯35度38分37.4秒 東経139度44分29.3秒

・・更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地に位置する。

・・1621年(元和7年)牧野忠成と念無聖上人によって創設。越後長岡藩藩主家牧野氏や伊予松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。

・・1859年(安政6年)にフランス総領事館となり、2年後には公使館となって1874年(明治7年)まで続いた。

・・1982年に済海寺にある旧越後長岡藩主家牧野家墓所の悠久山への改葬が行われるが、鈴木公雄を団長とする済海寺遺跡調査団による緊急遺骨調査が行われた。

653秋魚:2016/04/24(日) 17:50:08
(無題)
・・自転車の解体−組立て袋詰めを試みた。フレームに車輪を括りつけて固定するのがひさしぶりでちんぷんかんぷん。なんとか袋詰めまでもっていったがうまくはない。ネットでゴミ袋で代用したという記事があったが、恐れ入る。電車に乗せるには車輪をしっかり固定したい。チェーンの位置は一番軽い位置。インナーロウがベスト。リアディレーラだが逆の位置にして失敗。フレームが汚れてしまった。・・組立てた時後輪のブレーキが偏ってしまった。何故か?クイックレバーの固定位置でも調節できず。調節ネジを動かした。なんとか復旧。・・リアディレーラの調節ネジをすこし動かせて急に不安になった。ディレーラの調節はむずかしい。道路にでて試し乗り。やはりかかり具合がおかしい。すこしすこしネジを回して調節。一度はチェーンが外れたりした。復旧のさせ方もコツがある。あれこれやって深追いはしないことにした。・・ディレーラ調整はむずかしい。

昨日発艸庵
超然欲図南
用之而不勤
我聞之老耽
不急亦不緩
我聞之瞿曇


・・役の行者は母を鉢に載せて唐に逃れたという。隋の敬脱は天秤棒の一方に母を、一方に書物と筆を担って歩き、食事時になると母を樹下に坐らせ、村落に入り乞食をして食料を調え、母に供したという。

654秋魚:2016/04/26(火) 22:36:32
(無題)
・・日本書記の記述によると、木の種類によって、用途が定められているとのことです。
スギとクスノキは、浮宝(船)に、ヒノキは瑞宮(宮殿)、マキは死体を入れる棺として使えということです。法隆寺も薬師寺もすべてヒノキでできているそうです。

>・・法隆寺の伽藍は、1000年から1300年で伐採され、材料になっており、このような長い耐用年数のものはヒノキ以外にない。飛鳥の時代には、樹齢1000年、2000年のヒノキがあった。現在の日本では、木曽の樹齢450年が最高とのことで、これではとても堂塔ができない。ヒノキは、日本と台湾だけのもので、台湾では樹齢2400年から2600年のヒノキがある。」

・・樹齢1000年のヒノキを伐採、材料にすれば、1000年、2000年のものなら2000年もつ

・・大正十年(1921)太子千三百回忌。法隆寺金堂の古材一部取替えがあった。1300年という数に深い意味があるか。

>・・法隆寺の解体修理の時、屋根瓦を取り外すと今まで重荷がかかっていた垂木(たるぎ)が反り返ってきたそうです。昭和17年に五重塔、昭和20年に金堂の解体修理をするまで、創建以来この時まで部分修理はあったものの解体修理はされていません。鉋(カンナ)をかければ1000年以上経った今でも品のいいヒノキの香りがするそうです。

・・夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も餘ること無し。大雨ふり雷震る。(670)

「法隆寺は焼けてはいない」

655秋魚:2016/04/30(土) 20:56:26
(無題)
・・自転車の微調整。ブレーキをすこし。ブレーキ鳴きを止めたい。方法は分かっているが、数度使用すると元の木阿弥。角度をつけて強く固定締めすればよいかも。
・・試し乗りというので、霞川サイクリングコースで今井の薬王寺までゆく。つつじはもう外れだろう。東青梅駅の横から成木街道にはいった。途中霞川にぶつかるはず。ここにでると左に折れて水源を遡ることにした。青梅丘陵の下を鉄道公園の方へ。もう細い小川というか水路。しかし水はきれい。さらにつづくが途中でバック。下流をめざした。・・この川やたらと鯉が多い。鴨などの水鳥も多い。天明の俳人加舎白雄がたずねたのはこの霞川であろう。井月もここに入ったか。谷野の真浄寺には必ず来ている。
・・自転車のギアチェンジは完璧。ブレーキももう鳴かない。この状態で奥多摩から懸案の柳沢峠へ。近いうちに。・・伊那にいった時は、予行とか直前まで準備はよくした。今度も最低限体力をつけてのぞみたい。何が起こるかわからない。

・・薬王寺は道に迷って何度か人に尋ねた。おかしなことに谷野の真浄寺と間違えていたり。自分もぼけましたか。・・参道の麓で野菜を売っていたはず。あった、あった。帰りに買おう。薬王寺は開基が鎌倉期末でそれでも本尊の薬師仏は聖徳太子作というが、ほんとかしら。人が多いけど花は盛りを過ぎています。さっと歩いて帰ることにした。・・野菜はエシャレットとラディッシュ。

・・青梅新町の牡丹園に寄った。ここも盛りを廻ったか。


   *

 露とくとく心みに浮世すゝがばや

若しこれ、扶桑(ふさう)に伯夷(はくい)あらば、必ず口をすゝがん。もし是、許由(きょいう)に告げば、耳をあらはむ。
山を昇り坂を下るに、秋の日既(すでに)斜になれば、名ある所々み残して、先ず、後醍醐帝の御廟を拝む。

       御廟(ごべう)年経て忍ぶは何をしのぶ草


やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武(もりたけ)が云ひける「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれのところか似たりけん。我もまた、

       義朝の心に似たり秋の風



・・それにしても気になるのは、常盤の墓。

>・・義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。

・・常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因む


・・飯能あたりがそれらしい。関が原は無い。

656秋魚:2016/05/02(月) 01:06:02
(無題)
・・江戸の頃、高尾というのは吉原の名妓のことだ。高尾太夫。大坂新町が夕霧太夫。京の島原が吉野太夫。高尾は襲名されて何代か浮名を流した。おもしろいのは、二代目万治高尾。いろいろエピソードが多い。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つ。伊達騒動の種にもなる。信憑性はないが、高潔な元政上人との色恋沙汰もある。

>・・江戸時代の日蓮宗の僧・元政(げんせい、1623-1668)。俗名を石井吉兵衛。京都の武
士の家に生まれた。13歳で彦根藩井伊直孝に仕える。19歳で病により帰郷する。泉涌寺の周律師に出家を断られ、江戸に赴く。江戸詰めの頃、吉原二代目三浦屋・高尾太夫と恋仲となる。だが、仙台藩主・伊達綱宗の太夫への横恋慕により、太夫は操を立て抗し惨殺(自死とも)されたともいう。

・・まことの話なら、おもしろいのは元政上人。井月は京の深草瑞光寺を訪ねて元政を慕ったそうだが、この高尾との恋話を聞いていたと思われる。武士がどういうものか、妓楼の遊女がどういうものかもよくみていた。

出て見る野守もつむやとぶ火野の雪まの若なけふもすくなき  信尋

「後鳥羽院四百年忌御会」寛永十五年(1638) 巻頭は後水尾院の霞で、

こひつゝもなくや四かへりもゝちどり霞へだてて遠きむかしを  院

この若菜の題の第二を詠んだのが、近衛信尋。

>・・慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮(にのみや)。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。

和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。

・・逸話だが、六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

こちらは吉野太夫。一代限りだそうだ。

信尋も古今伝授を受けたが、三条西・幽斎流ではなく宗祇から近衛尚通へという近衛流伝授であったという。

657秋魚:2016/05/03(火) 02:05:54
(無題)
・・山頭火ふうにえいっ!といって旅に出る。ネットで甲州ツーリングの記事をみたら眼を瞠るものがあった。熊谷、飯能、青梅、奥多摩、丹波山、柳沢峠、塩山、甲府、身延、昇仙峡、笹子峠、上野原、檜原、秋川・・・熊谷 ざっと三泊四日で廻ってる。青梅街道は411でこの柳沢峠越えだけでもハードであろう。この方、最初から輪行は外しているみたい。帰りの20号甲州街道で笹子越えから大月あたりまでよほど嫌な思いで走ってる。よくわかる。この20号を避けて上野原から甲武峠へ廻ったというのもすごい。・・富士川沿いに身延の久遠寺までしっかり廻った。頭が下がる。

・・自称「古今伝授ライン」「火山峠ライン」を振り出しに、連句なら発句・脇の確度で柳沢峠越えが集中するメインであるだろう。

・・思考はこれ以上すすまない。横しぐれでも出てゆくべきか。体調はまあまあだが以前より体力は落ちている。頼るは気力のみ。丹波山までのトンネルも恐くはない。それからのアップダウンスロープ。これはきつそう。初日は柳沢峠を越えて塩山の大菩薩の湯に入れれば一安心。午後2時くらいには着きたいが。甘いか。東山梨の八日市場跡で芭蕉句碑をみる。笛吹川をこえて石和健康ランドは夕方までにゆけるか。勝沼等々力の万福寺には聖徳太子の黒駒の足跡がある。これは帰路に。

658秋魚:2016/05/04(水) 18:19:48
(無題)
・・よく晴れた。出発を期する前に、足馴らしに出た。青梅坂を越えて小曽木から成木のポタリング。安楽寺という成木ゆかりの寺がある。行基がざわざわ鳴る楠を調伏したという因縁だ。途中岩蔵温泉街のコンブリオという喫茶店を下見した。庭園がいい。帰りに寄ろう。・・安楽寺は地図では成木一丁目。岩井堂をこえて西にゆけどなかなか見つからない。いくつか寺社はあるが、安楽寺ではない。・・たまらず通りがかりの人に尋ねる。もう近いですよ。土地の人ですか。もとは山梨塩山です。え、明日行きますそこへ。ほー、奥多摩から大菩薩ラインですか。自転車はたいへんですよ。(おおかたの人は大変な道という)塩山は金山がありました。・・そうこういううちに安楽寺の参道が見えてきた。どうもありがとう。安楽寺はここらで一番大きな寺という。季節には桃の花畑がいい。杉の巨木もある。・・寺だが、宗派がわからない。元禄六年(1693)の書院造りの建物で江戸期のものは最古という。なかなか立派です。・・俳人歌人が立ち寄って句を残したというのもない。しかし行基が訪ねたというのはありそうだ。

・・足馴らし。ギアは着実にかかる。ブレーキも問題なし。タイヤは空気の圧が思案のしどころ。いつぞやはパンパンに入れて失敗した。なんとしてもパンクは避けたい。安楽寺は桃の花の頃にまた来てみたい。

・・思いついてポタリングした。小曽木、成木はほんとに近場。岩倉温泉には洒落たカフェがあった。また来ますといいながら訪ねていない。名前は・・もうひとつコンブリオというカフェレストランがある。外からみたが庭がきれい。このへんはほんとに田舎。知ってる人が車で訪ねてくるようだ。ちょっと躊躇ったがコーヒーでもいただこう。庭のテラス席があって先客がお二人。白い芳香をはなつ花があって、何の花ですか?先客のご婦人に声をかける。ナニワイバラ。聞きなれない名でもう一度。ナ、ニ、ワ、イバラ。・・はーバラの種ですね。よい香りです。

・・つれづれに話をする。わたしは近場ですけど、相方はけっこう遠く車できてる。庭の花をみによく来るそうだ。店の中の入り方もわからず。行って来ましょうか?いえ自分で行きますといおうとしたが、思わず、ええお願いします。お年寄りに仕事させるなんて無粋でしたね。・・食事もできるらしい。帰ってからネット検索したら、洒落たよい店とのこと。ナニワイバラも調べたら中国原産、1700年頃渡来したらしい。

・・この日はふたつ。芭蕉忌年ゆかりの事物があった。安楽寺本堂1693年、ナニワイバラ1700年。

659秋魚:2016/05/07(土) 16:55:49
(無題)
・・このままでは一生のトラウマ。柳沢峠。朝6時には出発するつもりが7時近くなってしまった。天候だけの相談で5月の連休真っ盛りになった。これも一興か。イタリアのブリンデシから8月の真っ盛りにフェリーでギリシャに渡った。あの殺人的な混雑と比べればどうということもあるまい。軽い気持ちでいたが、実際出て見るとマイカーを飛ばしてバイクライダーたちも群舞してまあ青梅街道は騒がしいのなんの。みな天気の良い休日の考えることは同じか。奥多摩までもはらはらどきどき進んだ。こんな出鼻でくじかれてはたまらない。・・奥多摩の駅から奥多摩湖まで411はトンネル多く恐い道だが、昔道という側道がある。ここも経験済みで最初からここに入ることにした。ところがこれが失敗。昔道へ入るところを間違えてしまい途中で土地の人に聞くと先にある階段を自転車を持ち上げてあがれば昔道です。とかなんとか。やむなく進むとその階段のあたりに熊蜂がぶんぶんしてる。自分の縄張りとでもいいたそうで他の虫が飛んでくると追撃して追い出す。細い道でその階段をあがるにはどうしても熊蜂に直撃するふうだ。そのうちいなくなるだろうと思って退避したが十分ほどしてもまだ滞空して去らない。引き返すことも出来ず困ったものだ。・・別の虫を追っかけて一時姿を消した間隙に思い切って突っ走った。なんとかここをクリア。しかし余計な時を使った。さらに悪いことにこの昔道まともに奥多摩湖の方には進まない。進んでるつもりが駅の方だったり。結局ぐるぐる遠回りしてやっと本道にはいったと思ったらまたおかしくなって回避しようとした白鬚トンネル入口にでた。あきらめてトンネルを走る。この日はバイクが爆音をあげてトンネル内は大音響。こわいのなんの。

・・トンネルをいくつか抜けて奥多摩湖畔に着いた。ライダーが大挙して集まってる。ここから奥多摩周遊道路かそのまま411を柳沢峠の方へか、ここまでのライダーもいるだろう。チャリダーは大挙してというのはない。それでもよく出会う。・・競輪選手のレース用のシャツがあって、今日は、これを着用。これは目立つのかチャリダーはみなこんにちわという。・・しかし奥多摩湖に着くまでに余計なエネルギーを使った。柳沢峠なんてとても覚束なくなった。このあと湖の外れの深山橋。ここから丹波山村まではいつかチャレンジした。かなりの急坂もある。ここにくるチャリダーは本格的ないい自転車に乗ってくる。ナルシマのシャツのサイクリストもいて。クロスバイクのママチャリ風なのは自分くらい。着ているシャツだけは立派なものだが。丹波山村の食堂で軽食をと思ったが、あまりに人多くごちゃごちゃなので、自前の稲荷寿司で休憩。水分を補給して、これから未知の柳沢峠までたいへんな道だという。勇気をだして出発。

・・実はここから柳沢峠まであまり憶えていない。アップダウンスロープはさほどでないが基調はアップ。トンネルがいくつかある。一番奥の峡谷の道は進行方向左手がすぐ断崖絶壁でとても覗く気もしない。右手は絶壁。こんなところによく道をつくった。道路の左半分はいつ崩落してもおかしくない。写真を一枚もとらなかったのは、一刻もはやくここを走りぬけたい一心。道路も亀裂がはいっていたり、ともかくこわい。

・・予期していた通りなかなか足が廻らなくなった。足着きで何度か休みを入れるようになった。後ろから来たチャリダーに何度も追い越される。かまわないことだ。歩いても完走が目標だから。しかしクロスバイクでチャレンジとは。誰もが何かいいたそう。一之瀬という集落に出てそこで休んでいるサイクリストに声かけた。柳沢峠はまだまだ?あと6キロくらい。ここまできたら引き返さない方がいい。峠からの下りは快適そのものですから。ダウンヒルはなんともないようだった。・・なんでも杉並から来たそうで経験者のようだ。このあたりのサイクリストはほぼプロみたい。でも女性のサイクリストにもよく会った。なんかしぶとく乗りこなす。自転車はやはりよいもの乗ってる。一日だけ足馴らしをしてにわかサイクリストの自分など及びもつかない。・・でもここは相当のプロでもきついはず。

・・丹波村から出たのが11時過ぎ。柳沢峠に到着したのが2時半くらいだったか。ここは富士山がよく見える。写真をとったが光ってよく写らない。眼では大きく見えても写真では小さな富士だ。近くにいたご婦人に聞くと、ホワイトバランスを調節します。そんな調節があったのか。で、彼女はよく撮れたようだ。娘さんらしきが「さっきママチャリでここまで来た人いたよ」という。それって自分のことではないか。フラットハンドルのクロスバイクではママチャリに見えるだろう。タイヤも太い。(これって後々のお笑い種になった)ママチャリで柳沢峠を踏破した。なんて自慢かも。

・・さあもう自転車に乗るのが嫌になった。峠の茶店もあったがパス。さていよいよ下山。御岳山のダウンヒルで馴れているから、壮大なダウンヒルだが快適なばかり。今までの苦労が一気に報われる。立体橋の道もあってよくこんな道をつくったと感心する。塩山の街まで一気か。だいぶ下ったあたりで大菩薩の湯という温泉があるはず。ずんずんいくとあった、あった。温泉がいいのは、人がたくさんいることだ。人がいるだけでうれしい。・・よくマインドの発想を変える生き方をいう人がいるけれど、マインドというのはあてにならない。もの、人、環境の直接的なリラクゼーションが無ければ、マインドも育たない。・・この日の夜は石和の健康ランドにいた。お風呂甲子園というので2連覇とか。実際、あらゆる「もの」の方法でリフレッシュ、リラックス、ヘルシーを追求するのは、さすが。・・大菩薩の湯は天然温泉。アルカリ性単純泉。ペーハー10以上ある。

・・国道411は柳沢峠を下って塩山に入る。大菩薩ラインというが、昔の大菩薩峠を越える登山道は車は走れない。裂石温泉というのは昔武田信玄の秘湯であったそうでちょうど大菩薩峠への登り口にある。中里介山の記念館もここにあり、生家は羽村の玉川取水場あたりというから、すっかり「大菩薩峠」の人になったようだ。甲斐の国の鬼門にあたるのは此の塩山。金山もあり塩山もあり水晶もとれるとか、それはどこかわからない。大菩薩ラインこんなイメージの暗い道はない。

・・大菩薩の湯を下ってゆくと明治の女流樋口一葉の生家のある街を通る。この辺の生まれなんだ。塩山でもやや山の手になるか。作家にならずとも女流の情念の育ちは思い及びがたきものがある。「たけくらべ」はたしか隅田川河畔の下町の話ではなかったか。情念の育ちを古いといって切り捨てるのが今の世かもしれぬが、自身は古いものしか興趣がわかない。うっすらと一葉の情念を想起しながら411を下りきった。

・・塩山駅の隣は東山梨。この駅のすぐ近くに江戸の頃は八日市場がひらけていた。俳人産科医の早川漫々の住んだ町だ。父親が早川石牙、子が安田雷石。いづれも医師で俳句をものしている。この八日市場跡に芭蕉の句碑があるはず。雷石が建てた。・・東山梨の駅を尋ねてまわり近くまできて八日市場跡を尋ねた。で、思う通りに見つけられた。

?? 明ほのやまた朔日に子規

660秋魚:2016/05/08(日) 12:50:42
(無題)
・・もうくたくたに疲れた。休憩できるならどこでもよい。石和健康ランドは会員登録したら無料入館券が送られてきた。気前のいい健康ランド。石和なのに天然温泉でないのが不満だがその分健康とヒーリングをとことん追求してるとみる。お風呂甲子園二連覇とか。朝までいられるのが魅力。自転車ツーリングなら仮眠でけっこう。柳沢峠越えの殺伐としたツーリングの後では騒がしい健康ランドは救い。インターネットも可能。みなとみらいの万葉倶楽部に近いか。温泉の評判がよくなるかどうかは後はレストランによる。ここの和心という店はよくつくってある。同じ生ビールでも美味いこと限りなし。

・・天気予報では急に明日は雨模様になった。さあどうするか。身延の久遠寺まで行く予定もあった。甲斐上野のみたまの湯もおもしろそうだった。身延にむけて行けるとこまで行って考えることにした。朝はやくに健康ランドを出た。

・・身延線に沿った道。鰍沢というところで富士川の川沿い国道52号へでるか、すこし東へ迂回して山の中に入り峠をこえて線路沿いをめざすか。方法は二つ。ネットでこの国道はとてもきついというので、峠越えの道を選んだ。・・鰍沢に行くまで140という雁坂道を笛吹川に沿っていった。ところが途中でせまい車道一本になり車も多い。やむなく沿道を探した。田んぼなどある道を人に聞き聞き、うわっと赤い花畑にでた。芥子の花?でも観賞用の花でしょう。

・・午前中雨はもちそうだ。身延山めざしていけるとこまで行こう。雨になったら身延線で輪行すればよい。鰍沢から東へ山越えの道。けっこう大回り。トンネルもある。下部温泉というところまで行くはず。峠を二回越えたか、憶えていない。帰りはこの道走りたくない。火山峠に似ている。

・・下部温泉から身延の駅までまだある。富士川の両岸に道がある。右岸は国道で敬遠。あとでわかったが、身延山に近いあたりでは国道52も道幅がひろく快適な歩道もある。この国道甲府からは左手が富士川の川原で、車も多くやめた方がいい。帰路はいいかも。・・というわけで帰りはこの道を走った。ともかくダンプが多い。右も左もまったく嫌な道。

・・そうこうして身延山の入口まできた。

・・身延山詣での客が多いと想像したが、いたって閑静。久遠寺は日蓮宗の総本山。中山の法華経寺が総本山かと思っていたが、よくわからぬ。日蓮の墓があるのはこちらの方。千葉の生まれで、清澄山にも大きな寺があるらしい。法華経を一義におく宗派は多くあり、日蓮はその総元締めならこの久遠寺は大本山。もっと人が集まってもよいはず。時節が外れていたか。大門をくぐると長い石の階段があり菩提梯というが287段ある。南無妙法蓮華経になぞらえて7階梯のつくり。えっちらえっちら登るのが供養らしい。行くか行かぬか思案して、上から降りてきた老夫婦に様子を尋ねると、奥の院まですべてめぐってきたという。せっかく来たからすべて拝んで行こうということらしい。若い頃は夫婦手をとって鳳来寺の石段も登ったという。鳳来寺はすごいですよ。芭蕉は登りきらなかった。羽黒山も登ったとか、ともかくすごい参拝客だ。・・それでこの階段もぜひ登るようにすすめてくれたが、ハイといって一区画だけ進みました。五重塔や大伽藍には興味なし。身延山まで来たことにします。・・そして昼食をとっていると、ぽつりぽつりと雨が来た。・・身延の駅にいって輪行に切り替えるかさてと迷ったが、微雨でしょう。このまま国道52で石和までもどることにした。恐怖の52でしたが、歩道も完備されておりさすが国道という感じでしばらくはよいサイクリング。後ろから雨脚が追いかけられてくるふう。甲府までなら50キロ、鰍沢まででもけっこうある。みたまの湯に寄るなど予定をすべてキャンセル。石和の健康ランドまでもどることにした。しかし52号は車の数も多く二度と走りたくない道だ。特に対向車線は最悪。ネットの記事の人はよく走った。・・石和から身延線沿いに久遠寺まで来ただけでよい巡礼になった。

・・感動の二日間。柳沢峠越えは発句。身延久遠寺行きは脇、といったところ。芭蕉「更科紀行」で姨捨山の月見が発句。善光寺詣でが脇、といったところ。ここに深いものがある。わかっていたのは翁と井月のみ。・・さて三日目は帰路。楽しみは自転車をたたんでの輪行。石和駅の先から411に出て、勝沼インターチェンジこのあたりに等々力の万福寺がある。ここに寄ってまた芭蕉句碑がある。聖徳太子の馬蹄石もある。健康ランドのフロントでみっちり行く道を案内してもらう。ここの健康ランド、サービスは抜群。さすが甲子園連覇だけある。山梨駅から140の裏の「ほったらかしの湯」も思案したが、温泉は疲れて入るのが一番。ここもパス。万福寺によって帰路輪行に決めた。ともかく等々力の交差点に出なければ。ポイントで人に尋ねるのがうまくなった。無駄の無い情報がいつも得られる。で万福寺もすぐにわかった。

661秋魚:2016/05/12(木) 13:07:37
(無題)
・・自転車に乗りながらの情報はやはり粗雑なところある。塩山の大菩薩ラインをくだって一葉の里とかの文字が目に入ったから、てっきりここは明治の女流樋口一葉の生地と認識した。
「・・東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)・・樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓。・・父の則義も農業より学問を好んだ。多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。

樋口奈津(戸籍名)
樋口夏子
1872年5月2日生誕  東京府内幸町

生誕は東京だが、塩山から両親が駈落ちででてきた。ほぼ塩山の情念を継いでいる。

・・少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。

・・名家の令嬢であった田辺龍子(三宅花圃)は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、

「清風徐ろに吹来つて水波起らず

「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ


 徐に柳のかぜや小鮎くみ   井月

また、発見!

 よみ倦ぬ青梅どきや三国志


・・青梅の多摩川で「赤壁の賦」を思い浮かべていたのがわかる。

662秋魚:2016/05/16(月) 14:57:05
(無題)
・・自転車の解体袋詰めを塩山の駅でやってみた。勝沼の駅はスペースがなく輪行はしづらいと何かで読んだ。勝手知った塩山へ。411をそのまま行けばよい。・・塩山駅の駐輪場の脇は人通りも少なく格好の場所がある。だいぶ手馴れては来たが最終の詰めがまだ甘い。きれいに車体を収納できないのはクロスバイクの限界もあるが、もうすこしうまくなるはず。車内にもちこむにクレームが無いだろう程度でまとめる。

・・勝沼の戦いというのがあった。

>・・甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つ。・・同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。・・新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった・・甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまったという。・・3月6日、山梨郡一町田中村・歌田(山梨市一町田中・歌田)において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。のち、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。

・・等々力の交差点から大月方面へすすむと柏尾坂ですね。このあたり一帯戊辰戦争の戦場だったようです。

・・甲州の葡萄つくりは早川漫々の知恵だとも聞いている。

663秋魚:2016/05/22(日) 03:43:48
(無題)
いなづまやとゞまるところ人のうへ?? 白雄

・・相模の大山不動堂の参道にこの句碑があるという。大山は自転車で廻ったところだが、この碑はまったく気がつかなかった。

寛政5年(1793年)9月13日、加舎白雄の三回忌に當所春秋庵社中建立。

・・芭蕉の百回忌年ではないか。偶然か。

世ははかな電光石火酒くまん

・・おなじく『葛の葉表』(中村伯先編)に載っている。


白雄の代表作

人こひしひともしごろをさくらちる

・・東京墨田区の白鬚神社に句碑がある。この冬木母寺を訪れた時すぐ近くにあったはず。これもまったく気がつかない。よし見つけたとしても文字は磨耗してほぼ読めないだろう。

「白を坊は国を威すに兵革をそなへて、かつて人を和するの玄徳なし」・・道彦による白雄評が有名だが、過激派か。

・・八王子で春秋庵でなく松原庵を継いだ榎本星布の存在が気になる。白雄に私淑した。

『葛の葉表』には

吹いるゝ梅を栞や宇治拾遺

・・

蝶老てたましひ菊にあそぶ哉
散花の下にめでたき髑髏かな
咲花もちれるも阿字の自在哉



『葛の葉表』

天明5年(1785年)、中村伯先は芭蕉の句碑を建立。加舎白雄書。
天明6年(1786年)、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。自序。白雄跋。

白雄、暁台、碩布、星布、闌更、蝶夢ら多士済々。・・世は天明の大飢饉真っ盛り。

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。

>・・天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。・・天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。
・・被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い
・・被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており[3]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況

・・異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で、1783年6月3日 アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の1783年から1785年にかけての噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったといわれている。
・・天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、浅間山の天明大噴火は8月5日から始まり、降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉に拍車をかけ悪化させた

等順(とうじゅん、1742年(寛保2年) - 1804年(文化元年)3月25日)は、江戸時代の大僧正。 東叡山寛永寺護国院第13世住職、信州善光寺別当大勧進第79世貫主、養源院第11世住職を歴任。

・・1782年(天明2年) 地元信濃国出身者で近世初めて、信州善光寺別当大勧進第79世貫主に就任。
1783年(天明3年) 浅間山大噴火被災地である上野国鎌原観音堂(現群馬県嬬恋村)へ赴き、念仏供養を30日間施行。食糧等を物資調達、被災者一人に白米5合と銭50文を3000人に施す。
善光寺に戻り、天明の大飢饉飢民救済のため、善光寺所蔵の米麦を全て蔵出しして民衆に施す。救済を受けた人々が等順の恩に感謝して、集まり掘ったのが大勧進表大門前にある放生池。[1][2][3]
1784年(天明4年)2月 融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成、参拝者へ配布を始める。等順は生涯でお血脈を約180万枚配布。落語の題材にもなり、善光寺信仰の全国的普及


・・善光寺を世に知らしめたのはこの等順。お血脈信仰の流布もこの等順。


・・1783年8月5日(天明3年7月8日) 大噴火。天明噴火 噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数:VEI4。
4月9日(旧暦。以下この項目では同じ)に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。
6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した。

鬼押出し溶岩流の範囲
7月6日から3日間に渡る噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村(現嬬恋村大字鎌原地域)と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成し河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み


・・天明期の俳人は、浅間の噴火と大飢饉がトラウマとなった。

664秋魚:2016/05/25(水) 01:30:33
(無題)
太田道真禅門のかたへ七朝の祝言に遣し侍る  長歌


あら玉の 年はむかしに 立かへり 世ものとやかに 四方のうみ 八のあつまの 国つかせ 花を匂はす ことのはに 六くさ七くさ つむ人の よはひも遠き むさしのゝ うけくる花の うけかたき 身は敷島の あま人に むまれきつゝも うきしつむ うき世の旅に 年をへて 雲井はなるゝ 老鶴の 羽杖つかれて 音になくを 千代のともつる あはれとて やとりをかせる 松かえを おなしみとりの かけたかき 山田の杉の いろかへす 君と人との 身をあはせ ちとせをかはし つかえなん やとる此宿 万代はへん

  かへし歌

七草やことのはくさにはるをつむ千とせそ遠き武蔵野のはら


 心敬が太田道真に贈った歌

文明三年(1471)

一月四日 東常縁(とうのつねより)が宗祇(そうぎ)に古今和歌集に関する秘説を教授(古今伝授)

九月十二日 桜島大噴火
       

665秋魚:2016/05/25(水) 17:55:52
(無題)
安積山 N37度27分10秒 E140度23分28秒

長岡市今朝白 N37度27分01秒 E138度51分37秒

福島県双葉郡双葉町歴史民族資料館 N37度27分01秒 E141度00分26秒



・・E138度51分37秒に沿って南下すると、

青梅真浄寺−郡上大和妙見宮の古今伝授ラインと交差するのは、青梅街道411の柳沢峠ラインのもっとも北よりで接する地点。

青梅真浄寺   北緯35度48分18秒 東経139度17分18秒
妙見宮 岐阜県郡上市大和町牧814-1??北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒

因みに、大菩薩峠は、北緯35度44分9秒 東経138度51分12秒

ここからやや奥多摩よりに入った地点で、交差。


沼津 高尾山古墳  北緯35度7分22.73秒 東経138度51分40.22秒

三島大社  北緯35度7分20.66秒 東経138度55分7.79秒

丹波山温泉 山梨県北都留郡丹波山村890 北緯35度47分23秒 東経138度55分19.9秒

666秋魚:2016/05/26(木) 21:30:58
(無題)
・・西行、芭蕉。この二人「古今伝授」とは無縁。西行は歌詠みだが師らしきはいない。ほぼ漂泊と独詠の歌人。芭蕉は北村季吟という師がいたが「古今伝授」はない。季吟は松永貞徳から「古今伝授」もどきがあったらしい。貞徳自身も細川幽斎からの伝授もどきといわれる。古今伝授が体をなすのは、歌人連歌師俳諧連歌師までで生粋の俳諧師には形が無い。


・・柳沢吉保は北村季吟から古今伝授を受けた。

>柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し[注釈 1]、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。
・・元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する[31]。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている[32]。
・・翌宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる
・・同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている[36]。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる
・・同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺(甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている
・・宝永6年(1709年)2月19日(3月29日)、将軍綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣(綱豊)とその家臣である新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。
・・1714同年11月2日に死去・・享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され


柳沢 保光(やなぎさわ やすみつ)は、江戸時代中期の大名。大和郡山藩第3代藩主。1768年(明和5年):甲斐守
・・やなぎさわ やすみつ江戸後期の大和郡山藩主。初名は安信、号は尭山、甲斐守と称する。茶道を片岡宗幽に、和歌を日野資枝に学び、御家流の書を能くするなど諸芸に秀でた。


・・日野資枝から古今伝授を受けている。

青梅街道の柳沢峠は江戸の柳沢家のゆかりということか。

・・青梅の文人根岸典則、浄月律師は、日野資枝の門人として京に入ったというが、やはり甲州裏街道で大菩薩峠を越えたのではないだろうか。

667秋魚:2016/05/28(土) 10:37:20
(無題)
・・

第111代 後西(ござい)天皇 寛文四年五月(1664)、後西天皇が御水尾法皇より古今伝授を受けられた

第112代 霊元天皇 天和三年四月(1683)、霊元天皇が御西天皇より古今伝授を受けられた

第115代 桜町天皇 延享元年5月(1744)、桜町天皇が烏丸光栄より古今伝授を受けられた

第116代 桃園天皇 宝暦10年2月(1760)、桃園天皇が有栖川官職仁親王より古今伝授を受けられた

第117代 後桜町天皇 明和4年2月(1767)、後桜町天皇が有栖川官職仁親王より古今伝授を受けられた

第119代 光格天皇 寛政9年9月(1797)、光格天皇が後桜町天皇より古今伝授を受けられた

第120代 仁孝(にんこう)天皇 天保13年5月(1842)、仁孝天皇が光格天皇より古今伝授を受けられた


・・いわゆる御所伝授の系譜。

・・有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう)

霊元天皇の皇子としては兄尊昭法親王に次ぎ歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園の3天皇をはじめとして300名に伝授した。父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者


・・有栖川宮職仁から、300人に古今伝授?


第121代 孝明天皇
第122代 明治天皇

・・このあたり古今伝授は詳らかでない。ただし明治天皇は御製歌は多くある。


・・有栖川宮職仁から、300人に古今伝授?

- 正仁親王 - 職仁親王 - 織仁親王 - 韶仁親王 - 幟仁親王 - 熾仁親王 - 威仁親王

* 戊辰戦争 ・・新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

・・旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい


* 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期〜明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。

・・御所伝授の系は、立派な軍人ですな。

・・和宮親子内親王と婚約していたことで知られる。

668秋魚:2016/05/29(日) 14:20:28
(無題)
鶯の水田にうつる山の影
春の行宵のくらさや惹き蟇の声
行く春は木々の影さす水の床
花を待つ雨や木の間の底明り
葛水やすわりて細き膝頭
見わたして出水の跡の残暑哉
初しぐれ鯲をはかる枡のうへ
西日さす窓や小春の運び雨
雨晴れやかしら揃えし楢林

・・早川漫々にこんな佳句が多いのは知らなかった。

669秋魚:2016/05/31(火) 00:52:23
(無題)
蝶の飛ばかり野中の日かげ哉

・・芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中で詠んだ句とされる。榎本星布がこの句碑を八王子永福稲荷神社に建てた(1800)。今在るものは昭和24年松原庵門人による再建。

・・星布の墓は八王子元横山町の大義寺にあるという。青梅吉野街道の端から滝山街道をどこまでも南下し八王子の駅まで自転車を走らせた。あきるのインターから戸吹トンネルを越えていつもは高尾街道を走ったが、この日は直進。創価大の広い敷地を越えて道の駅の曲がり角をまっすぐ行けば浅川橋をわたり大義寺も近い。八王子郊外は起伏に富んだ丘陵があってアップダウンスロープやトンネルが多い。ひよどりトンネルというのはけっこう長い。道自体は幅も広く快適だ。浅川をこえると大義寺はすぐにわかった。

・・龍華山大義寺とあって宗派はわからない。調べたら真言宗智山派という。墓地をうろつくのはあまり気持ちのいいものではない。清掃人の人に尋ねたら入り口のところに星布の墓があるという。松原庵で名が通っている。都指定の保存碑でもあまり訪ねる人もないか。小さな墓碑で「咲花もちれるも阿字の自在哉」の句が刻まれている。

・・伊那の中村伯先もそうだが星布も天明の時代に派閥をこえて蕉風俳諧の結束を意欲した。白雄の望んだことであろうが。

蝶の飛ばかり野中の日かげ哉

・・この句碑は八王子ほかあちこちにいくつか見られる。

「霞みわたった春の野を折々蝶の飛び交う羽だけが、わずかに野中の日陰である。春の光に満ちた野の様をよくあらわしている。」

埼玉小川町の松郷峠にあるものは、ほとんど埋もれてみつけづらいが、いつか訪ねてみたい。

山崎北華という江戸の奇人は、「奥の細道」の足跡を辿ったが、那須野でこの句に触れている。

「聞きしに違はず。竪さま八十里。横或は廿里。或は十二三里の原なり。草もいまだ長からず。木といふものは。木瓜さへもなし。炎暑の折など如何にぞや。手して掬ふ水もなし。翁のほ句に有りし。

   蝶の飛ぶばかり野中の日影かな

とはかゝる所にや有りけん。」


・・句の場所が特定されないのに、それらしき場所をもつのは、発句のよい力かもですね。

670秋魚:2016/05/31(火) 13:47:26
(無題)
猪牙で来し客驚かす一葉かな   井月


・・細長い小舟。吉原、深川の遊郭通いの客が使う。

・・深川近辺、隅田川沿いに散策していたのがわかる。

「一葉落ちて天下の秋」

A straw show which way the wind blows.(一本の麦わらを見れば風向きがわかる)


・・幕末の吉原は 空気も重かろう。

671秋魚:2016/06/01(水) 00:52:03
(無題)
月影をさこそ明石の浦なれど 雲井の秋ぞなほも恋しき

(列女百人一首??亀菊)

・・亀菊は、後鳥羽院に寵愛された白拍子。承久の乱後、院とともに隠岐に流れた。


江口の遊女といわれるが、

天王寺へ詣で侍りけるに、俄に雨降りければ、江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ、よみ侍りける

西行法師

世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿をも惜しむ君かな

返し
遊女妙

世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ


江口は淀川の河口あたり、遊女の里。


・・雲井の井は当て字というも、月と井の乖離かな。


名月や院に召さるゝ白拍子   井月

672秋魚:2016/06/02(木) 14:54:02
(無題)
観音の甍みやりつ花の雲
花の雲鐘は上野か浅草か       翁

・・

囲碁に倦み弓にもあきて霞山
里の児の魚掴むなり鐘霞
乗合の込日を鐘の霞みけり
見せ馬に手を打つ頃や鐘かすむ
見るものゝ霞まぬはなし野の日和    井月

・・霞に焦点をあてた句作。といっても「霞」自体はフォーカスをとりにくいもの。

「鐘」と「霞」を同位したいくつかの句に注目。

雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
行く水とほく梅にほふさと 肖柏
川風に一むら柳春見えて 宗長
舟さす音もしるきあけがた 祇
月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏


・・水無瀬三吟何人百韻は「かすみ」にはじまる。「舟さす音」まで明け方。

まろび出る筆の軽みや朝霞
何処やらに鶴の声聞く霞かな

・・「朝霞」は「浅香」。霞は軽みを帯びた。

・・

673秋魚:2016/06/03(金) 17:46:23
(無題)
・・青梅街道奥多摩路で、いつも気になっていた将門神社を訪ねた。何度か通りかかったがついぞ訪ね当てたことはない。将門というバス停があってもいつも無人だった。ほぼ人家の無い道から街道沿いの山道を登ってゆくのをネットで確認していた。・・奥多摩までの道、もう何度か走っているが、いつも大変に緊張する。御岳まではよいにしても御岳から川井が異常に長く道幅もせまい。さらにダンプや暴走族まがいのライダーもよくくる。今日は平日だったのでまだよかった。先日の連休の時はすごかった。死にたくないので体ごと緊張する。自堕落になったらここのポタリングは最高だ。潜在している病を無化するのもこの道にある。甲府から身延までの富士川沿いの国道も似ているが、この奥多摩路の方がまだ雅趣がおおい。ダンプも煽りが無い。

・・鳩ノ巣の手前歩けば7分。ともかく参道の登り口をみつけたい。・・あった、あった。何やら標示がある。自転車の留められそうな空地もあって、ほんとに細い参道。ほぼ無人。

>・・鳩ノ巣駅の東方500mに「将門神社」があります。秩父地方では、秩父で生き残った将門一族が奥多摩側へ移住し子孫が繁栄したとの言い伝えがあります。将門神社は、将門の子の将軍太郎良門が亡父の遺影を刻んで奉納して将門宮(将門大明神)と呼び、やはりその子孫で当村の領主三田忠平が鎮守としてから栄え、かつては秩父地方からの参詣者でにぎわったといわれています。神社の境内には御幸姫観音像も建てられており、いまでも奥多摩町の民家では将門の愛姫・御幸姫のお札を戸口に貼っているのを見かけます。

・・ポタリングといっても、自分などより深い興味で調べもすすんでいる人は多い。無断借用で申し訳ない。みゆき姫という将門の愛妃もここに流れて来たかもしれぬ。・・御幸姫というのは、妻か娘かわからない。もともとすべて伝説上の話なのでどこまで何が真実か。ただし将門一族が秩父から奥多摩に流れたか、はじめから奥多摩に流れたかありえそうなことだ。戦国期の青梅の三田氏は将門の後裔を自認する。金剛寺の将門の梅の話も、将門一族が生きながらえねば、よい話にはならない。あるいは将門の後裔がつくった話なのかもしれない。

・・まったく隠れ里の神社と思える。山の斜面の下は多摩川の渓谷が深い。人家はぱらぱらあってもアルジェならカスバさながら。山の地理さえわかればどんな追及もとどかない。・・本殿に近づくとにわかに人声が聞こえた。三四人の参拝客が山道を降りてくる。平日でこういうところに足を運ぶのはもう隠居の老人が多い。無人と思ったが訪ねる人に出会ってすこしほっとする。話してみると、彼らも老いを自覚しての山歩き神社詣でのようだ。強い意志があるわけではない。・・将門の後裔なら時折ここを訪れているだろう。派手な彩色の狛犬があったが、こういうものは古くは無い。信仰が新しいのはわかる。

・・将門伝説を追っていたら、羽黒山の五重塔は将門の創建とある。信じがたいがまことしやかな由緒書もある。おそらく修験道の信仰でそういう言い伝えが創作されたものだろう。奥多摩にある鍾乳洞が地下でつながってこの羽黒山まで来ているという。この地下道を将門の霊がいったりきたりするという。ほんとかしら。・・羽黒山で思い出したが、ここの石段は2446段あるという。身延山でお会いした夫婦はここと鳳来寺1425段もすべて登ったと言う。話していても覇気するどいご夫婦だった。

・・将門神社の参道は、ほんとにおくゆかしい。みゆき姫らんの道という。そういうランの草があるのか、識別できなかった。丸い小さな葉の低木が参道沿いによく見えたけど、あれは何の木なのか。これもわからなかった。


将門神社  N35度48分51秒 E139度08分00秒

もえぎの湯 N35度48分16秒 E139度06分09秒

・・ほぼ古今伝授ライン

下呂温泉もこのライン

674秋魚:2016/06/09(木) 00:38:21
(無題)
・・

遣るあてもなき雛買ひぬ二日月  井月

こがらしに二日の月の吹き散るか  荷兮

吹きとばす石はあさまの野分哉   翁

・・

かれ朶に烏のとまりけり秋の暮  翁

凩やとまり烏の横にゆく    井月


・・二日月は故郷にいる娘の記憶。

とまり烏という井月の位置がみえます。

675秋魚:2016/06/12(日) 02:28:33
(無題)
・・福生の郷土館に訪ねてみた。森田友昇という維新からの俳人の資料があるという。八王子星布の松原庵を四世で継いだ。福生が地元で生業は横浜で活動していた。俳人として立机したのは明治十二年(1879)。記念集「浅川集」が編まれた。

・・中央線立川から青梅線で20分もあれば福生に着くだろう。新宿から青梅街道なら途中五日市街道をまっすぐ行けばよい。多摩川を渡る前が福生だ。五日市街道は別名伊奈街道と呼ばれている。五日市の秋川周辺に伊奈という村があるからだ。そう信州の伊那谷から石工の職人が流れて住み着いている。伊奈石という特殊な石を切り出していた。

・・福生は田村酒蔵の嘉泉をつくるこの家も昔から俳家だ。森田友昇はここの友甫に句作を学んだ。江戸にでて富処西馬についたともいわれる。余り知られていないが、榎本星布の流れで尾形仂氏などによって発掘されている。

「芭蕉は延宝5年に万句興行(100人の連句を100巻)行って宗匠となり立机、延宝6年「歳旦帳」を作っている。」

・・立机というのは晴れやかなものだ。芭蕉なども万句興行をやっているというから、驚きだ。
・・友昇が立机する以前明治三年に「高むしろ集」という句集を出している。今回この句集を見ることができた。序を寄せたのは、為山と見外。いづれも井月三部集東都の俳人で名を連ねている。伊那の精知、甲斐の雷石。野井はムサシ、青梅の臼左はこの集でなく「浅川集」に名がある。

歳々年々人不同

老の春あとへもとらは一むかし  見外
いつものとほり梅のさく庭    友昇
海苔きぬた折に聞ゆる風吹て    外
追ねは鶴もようあそふなり     昇

・・ 

676秋魚:2016/06/18(土) 00:47:46
(無題)
元禄8年(1695年)、各務支考は深川芭蕉庵を訪れた。

むかし此叟の深川を出るとて、此草庵を俗なる人にゆづりて

草の戸も住みかはる世や雛の家

・・今はまことに、すまずなりてかなし。


元禄11年(1698年)、惟然、江戸に入り、深川の芭蕉庵を訪れる。

   深川の舊菴にて

こゝらにはまたまた梅の殘とも

『けふの昔』

   深川庵

思ふさま遊ぶに梅は散らば散れ


・・芭蕉庵は、どうあっても梅なのか?



広瀬惟然

鳥の羽風に梅の花散るを見て隠遁。

千斤ノ金有ルモ林下ノ貧ニ如カズ

    ひだるさに馴れてよく寝る霜夜哉
    水鳥やむかうの岸へつういつい


・・此人のむすめは尾張名護屋の豪家に嫁したるを、かく風狂しありく後は音信もせず。あるとき名古屋の町にて行あひたり。女は侍女下部など引つれてありしが、父を見つけて、いかにいづこにかおはしましけん、なつかしさよとて、人目も恥ず、こつがい乞丐ともいふべき姿なる袖に取つきて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、

両袖に唯何となく時雨哉。

といひ捨てはしり過ぬとなん。

・・

677秋魚:2016/06/20(月) 22:28:57
(無題)
>・・戸隠山の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である[1]。・・西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されている(調伏善龍化伝承)。

・・その後、九頭龍権現として崇められ雨乞いが行われた[2]。雨と水を司る他、歯痛の治療にも霊験があり、好物の梨[1]を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされている

・・玉藻の前は、金色九尾の狐の化身。那須野で射止められる。

> 那須 与一(なす の よいち、嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?)は、平安時代末期の武将

・・治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす

678秋魚:2016/06/20(月) 23:29:27
(無題)
・・武州杣保谷村の真浄寺にある「時雨桜」について、日野資枝の詠んだ歌は、

さくら花木梢のしつくおつるより幾世しくれの名にやふりけむ


・・資枝の子資矩もまた歌を寄せている。

武州入間郡杣保内谷野村真浄寺門前に二株の桜あり此木四時もわかたす雫絶へすおつこといつも神無月になれば昼夜やすみなく落ちて其床しきこと雨の如しとそ此こゝろを従一位殿称しつかわさる今又資矩にも歌よめと望にきかせて』と云ふ前書きで

花もあれと枝のしつくの名にしおふ、しくれのさくらよゝおけるかな

正二位 資矩


・・このように京の堂上の歌人親子から、二つながらに歌を詠まれたしぐれ桜とは、とりわけてゆかしいものであっただろう。

・・武蔵野の片田舎の学問僧浄月律師が、歌詠みの習いを京の日野資枝に願った。その時の入門書のようなものが残されている。

「為和歌御門弟取伝候條々不存疎略儀他門輩堅不可口外候尤此道永得心可致可習練候於て違背者可蒙大小神祇御罸候仍誓状如件

年 号 月 日      日野家司中」

・・ある種古今伝授にあわせた誓文にみえる。

(これは秘伝であるからけして口外してはならぬ)

・・この二人の公家が、実際、武蔵野の青梅まで訪ねてしぐれ桜の花を眺めたか、そうでなくては歌も詠めまい。弟子が師に歌を詠めなどいっていいものかどうか気になるものだが、これは主客の反転?

歌詠めといってるのは、浄月ではなく桜の木であろう。


    *

・・文明三年(1471年)、東常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

岐阜県郡上市大和町牧814-1  北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒

 「切紙伝授」というのがある。

679秋魚:2016/06/28(火) 21:53:45
(無題)
・・います山中を過て、いにしへ常盤の塚あり。伊勢の守武がいひける「よしとも殿に似たる秋風」とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
   義朝の心に似たりあきの風

・・野ざらしの旅で芭蕉が関が原の常盤の墓をみて詠んだ句。この常盤の墓は偽作なのは今では分かっている。芭蕉翁そんなこと詮索するヒマはなかったか。守武の付句にあわせた句を残す。・・江戸武蔵野にいて杣山よりの青梅や飯能まではたぶん一度たりと足を運んでいないのがわかる。常盤はおそらく関が原を越えて東国までやってきているはずだ。青梅飯能の常盤伝説はよほど信じられる。・・大垣に入って「死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ」など言ってるから、常盤の死などかまってられぬというのがあったか。にしてもいい気なものだ。俳諧とはこういうものかもしれぬが。

・・もうひとつおもしろい文芸に立ち会った。吉田兼好『徒然草』第六段・・「聖徳太子の御墓をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや」。太子が生前自分の墓をつくるに子孫を残すまいとの意思表示でよく知られている言葉だ。『聖徳太子伝暦』という古書に書かれたものを兼好が読んでいたものと思われる。
「・・冬十二月、太子が駕を命じて、科長の墓処にて墓を造る者を覧る。直ちに墓内に入り、四望して左右に謂ひて曰く、此処を必ず断て、彼処を必ず切れ、まさに子孫のあとを断やすべからしめんと欲すと。墓工、命に随ひ、断つべきものは断ち、切るべきものは切る。太子、おほいに悦ぶ」

・・吉田兼好もよほどおめでたい歌人だ。聖徳太子伝の古典に書かれた言葉をまったく疑いもしないのだから。後太子ばかりでなく太子一族二十五人がこぞって昇天したのを何が悦ばしいものか。

680秋魚:2016/06/29(水) 19:09:22
(無題)
神垣やおもひもかけず涅槃像

・・芭蕉が伊勢外宮の境内で詠んだ句。笈の小文の旅にある。

涅槃会に開帳されていたなら、二月十五日。神宮で涅槃像に出くわすとは、思いの外。
元禄元年のことだが、神仏習合があったか。



・・法隆寺五重塔北面の涅槃像。


「是の時に、諸王諸臣及び天下の百姓、悉に長老は愛き児を失へるが如くして、塩酢の味、口に在れども嘗めず。少幼は慈の父母を亡へるが如くして、哭き泣きつる声、行路に満て李り」(書紀)



「・・生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる」 wikiより

・・wikiなどの記事は大方日本書紀を元に述べてある。山背大兄王とその一族殺害の首謀は曾我入鹿ただひとりのごとき。

『上宮聖徳太子伝補闕記』では、

「・・癸卯年十一月十一日丙戌、亥時、宗我大臣、并びに林臣入鹿、致奴王子児名軽王、巨勢徳太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫等六人、悪逆至計を発して、太子子孫男女廿三(五)王、罪なくして害せさる」

・・軽皇子なんかも共犯に名を連ねてあるが。

・・『日本書紀』は疑ってかかるべきか。

681秋魚:2016/07/01(金) 21:21:38
(無題)
・・九尾の狐は、若藻という十六才の少女に化け、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し来日を果たしたとされる。この時、吉備真備が唐からもち帰った奇文に「野馬台詩」というのがある。

「・・大臣吉備真備が遣唐使として唐の国にいた頃、その学識に恐れをなした唐人は、彼を高樓に登らせて梯子を外し、そこに住む鬼に殺させようとした。
 しかし、吉備大臣の前に現れた鬼は、自分もまた遣唐使として入唐した際、高樓に閉じ込められて死んだのだと身の上を語り、同じ日本人のよしみで吉備大臣に唐国のことをいろいろと教えようと申し出た。・・吉備大臣は鬼の助けを得て、唐人が出す難問(『文選』の解読、囲碁の名人との勝負)を次々とクリアしたが、最後に出てきた宝志作という不思議な暗号文には手も足もでない。そこで思わず日本の仏神を祈った時、屋根から一匹の蜘蛛が落ちてきて、その文の上を這いまわった。吉備大臣がその糸の跡を目で追うと、それまで見当もつかなかった暗号がすらすらと読めたのである。かくして、吉備大臣は『文選』や囲碁と共に『野馬台詩』を日本に持ち帰ることになった。」

・・高樓で友になった鬼は阿倍仲麻呂ではないかといわれる。

吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))

・・この『野馬台詩』、梁の預言者、宝誌のつくったものといわれる。

宝誌(ほうし、 418年(義熙14年) - 514年(天監13年))は、中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧である。

・・普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。

禅の開祖達磨大師が梁の武帝と交わした問答がある。

帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功?
師曰 並無功?
帝曰 何以無功?
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功?
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功?不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契

・・


ところで、野馬台詩のはじめは

東海姫氏國(東海姫氏の国)
百世代天工(百世天工に代る)
右司爲輔翼(右司輔翼と為り)
衡主建元功(衡主元功を建つ)
初興治法事(初めに治法の事を興し)
終成祭祖宗(終に祖宗の祭りを成す)

・・この東海姫氏國は、日本のことと言われている。

今見る漢字の並びが吉備真備が見定めたものか、そうとしてなお難解な詩文にはかわりない。

法隆寺五重塔東面の塑像は、維摩詰vs文殊の構図。よく知られた問答があるという。

>・・彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。

・・文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。  wikiより

維摩居士

>・・古代インド毘舎離城(ヴァイシャリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。

維摩詰vs文殊の構図は、法隆寺の他に興福寺のものが際立っているが、これは鎌倉時代の創作。

維摩居士像 定慶作、木造 88.6センチ、鎌倉時代・建久7年(1196)

おもしろいのは、興福寺の創建。

>・・藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。 wikiより

藤原鎌足 推古天皇22年(614年)・・死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)

法隆寺全焼 天智天皇九年(670年)庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹った(書紀)

・・書紀によれば、山階寺(興福寺)669年の翌年に法隆寺は跡形もなく焼けた。


   *

・・ところで、芭蕉は法隆寺を一度は訪ねたことがあるか?

記録の上からは奈良には数度訪れてはいるが、法隆寺に訪れたという痕跡はみあたらない。「菊の香や奈良には古き仏たち」元禄七年没年九月九日に詠んだ句があっても、特段に法隆寺の仏というわけではない。・・にしても、一度は法隆寺を訪ねているとみる。


観音のいらかみやりつ花の雲

貞享三年(1686)『末若葉』 (花の雲)かねは上野か浅草かと聞えし前の年の春吟也。尤病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句呼句とす」

 草庵

花の雲鐘は上野か浅草か

「続虚栗」貞享四年

・・芭蕉病起の句に、維摩居士の病起と文殊の訪れを重ねてみるのも、おもしろい。


    *

・・『野馬台詩』江戸期の受容だが、

室町後期の写本
『野馬台縁起』 - 東大寺(戒壇院経蔵)蔵(大永2年(1522年))写本
『歌行詩』系写本 - 『長恨歌』『琵琶行』『野馬台詩』を合編した写本群、享禄4年(1531年)写の三重大学図書館蔵本が現存最古とされる

江戸期の刊本
『歌行詩三部抄』 - 寛文9年(1669年)、京都・山村伝右衛門刊
『歌行詩三部首書』 - 延宝3年(1675年)以前刊か
『歌行詩諺解』 - 貞享元年(1684年)刊
『歌行詩詳解』 - 貞享2年(1685年)刊
『野馬台詩国字抄』 - 寛政9年(1797年)刊、文政5年(1822年)再版
『野馬台詩余師』 - 天保14年(1843年)刊、『経典余師』シリーズの1冊、弘化3年(1846年)再版


・・『長恨歌』『琵琶行』『野馬台詩』合本になったものは、芭蕉も読んでいたとみる。

井月の生まれた年(1822)に『野馬台詩国字抄』が再版。『野馬台詩余師』は、天保14年(1843年)刊、弘化3年(1846年)再版。・・天保14年(1843)は芭蕉百五十回忌。弘化3年(1846年)は善光寺地震の前年になる。

黒船来航、幕末にむけてある種の流行であったというから、井月も必ず読んでいたであろう。

682秋魚:2016/07/02(土) 22:47:55
(無題)
・・芭蕉は斑鳩の法隆寺を訪ねたが、狼狽したのではないか。俳句の感興はおこらなかった。感興は絶大にあったが、発句というまとまりには到らなかった。「菊の香や奈良には古き仏たち」、なんとも平たい凡句とみえる。明治になって正岡子規が「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んだ。これが傑作というのを誰か正面から解き明かしたものがいるのか。子規のこの句はひどい駄作とみるのは、わたしだけか。芭蕉が発句にしくじった法隆寺。子規がかるがると法隆寺を詠んだから傑作というだけかもしれない。そういう近代の俳句の方法を提示した。それは近代においてだけ有効な句作だ。

・・いまは多くの小中学生が法隆寺の句を詠んで競っているらしい。法隆寺の謎をめぐる多くの新説も華々しい。梅原猛『隠された十字架』など白眉といえる。・・芭蕉−子規の間に、法隆寺を句にしたものはいないのか?天明の俳人・加舎白雄の全集を借りてみた。国文社から上下立派なものが出ている。ほとんど借り手がいないのか、新本のまま枝折の使用もない。

・・法隆寺ではなく、聖徳太子の墓所と思われる叡福寺の古墳を訪ねた記事がある。
「くづれさせたまはぬよりも、此科長の里にかくをくつきをいとなみ、みくらゐに換て扶桑仏法の祖とあふがれさせ給ふ。帰寂のゝち空海上人報謝して数百の法界石を禁禦し非常をしづめたまひしと。それさへ千載におよびツゝすゞろにたのもしく蔓草のおのがじゝに這ワたりて日暮の地籟道心をおこさしむるぞ尊ふし。
 築墻や梵字をめぐるなツのあかし
 右斑鳩王御廟    」

・・白雄翁、ホッとする。


甲斐の黒駒

「・・太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。」

・・法隆寺以前の逸話だが、黒駒で富士を越えたあと馬を休めて下馬した伝説の地がある。甲州勝沼の万福寺だ。馬蹄石という石がモニュメントとして残っている。野ざらしの旅の帰路、芭蕉がここに寄ったのではないかというので、翁百回忌も営まれた。


駒づかや世にとゞろきの影高し  可都里
道は奥ある苔のしたゝり     作良
風かをる旅の餌ぶくろ紐ときて  白亭
赤松どのゝ京入の月       田鶴村

・・


・・太子は黒駒に乗って富士山を越え、次に信濃に廻ったとある。大雑把な話だがこれは信濃の何処に訪れたのか。長野にある善光寺には太子伝承があるが、善光寺の開基は皇極三年(644)といわれ、この善光寺に立ち寄ったわけではない。・・そうとして善光寺の太子伝承は興趣ふかい。

>・・奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているものがあります。その中には信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられてきました。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられています。封印されていますので、誰も読んだ人はいないはずでした。ところが、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou58/kai05806.html

・・善光寺如来と聖徳太子の往復書簡の存在など、前代未聞ではないか?古田史学会の古賀達也氏の年号による謎解きも興味深いが、何よりも善光寺開基の644年には太子はまだ生存していた証の書簡になる。太子の没年は一応622年という。

683秋魚:2016/07/04(月) 22:03:01
(無題)
>・・人王九十五代(※九十六代とも)に当たり、天下一たび乱れて主安からず。
この時、東魚来たりて四海を呑む。
日、西天に没する三百七十余日、西鳥来たりて東魚を食う。
そののち、海内一に帰すること三年、ミ猴(ミコウ:猿の意味)のごときもの
天下をかすむること三十余年、大凶変じて一元に帰すなり。

・・楠正成が四天王寺でみた太子「未来記」。後醍醐天皇の幕府転覆を予言されていると読む。

>「・・人王八十六代の時、東夷来りて、泥王国を取る。七年丁亥歳三月、閏月あるべし。四月二十三日、西戎来り、国を従へ、世間豊饒となるべし。賢王の治世三十年、しかる後、空より獼猴、狗、人類を喰らふべしと云々」

『明月記』定家

684秋魚:2016/07/05(火) 12:02:26
(無題)
菊の香や奈良には古き仏達
菊の香にくらがり登る節句かな
菊に出て奈良と難波は宵月夜

月影や四門四宗も只一ツ
俤や姨ひとり泣月の友

・・奈良の過去世にさほど深入りしない。多くの仏たちを認知はするが離れようとする。
善光寺においても月影のもとで多々ある宗派をひとつにまとめる。

・・「菊の香や」はもう最晩年。くらがり峠は奈良から生駒を越えて大坂に入る最短の道。ほんのりと死の薫習のかおりがする。翁、この後大坂で死没。

・・加舎白雄はよく歩いた。

「あすかのみやしろ橘寺拝ミめぐりしに、艸しげき中より手のひら斗なる瓦を拾ひて
 ゆりが根に千とせの瓦得てし哉
こゝろに興じて行々が中にも
 橘もあすかの里も砧うつ
かく聞へし師が遺草いとなつかしく、そこに一夜をやどる。
 岡の町に夏夜衣うツ宿も哉 」

・・橘寺は太子創建。生地に近い。「かく聞へし師」というのは、誰だろう?


・・天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。・・銘文から聖徳太子の死去を悼んで橘大郎女妃が作らせたという。

「天寿国繍帳」とは、「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意。
「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すもの

>・・辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって太子の往生の様子を見たい」と。

橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。聖徳太子の妃。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。子に白髪部王、手嶋女王。

尾張皇子 − 位奈部橘王(いなべのたちばなのひめみこ)、

  斯帰斯麻  宮治天下  天皇名阿  米久爾意
  斯波留支  比里爾波  乃弥己等  娶巷奇大
  臣名伊奈  米足尼女  名吉多斯  比弥乃弥
  己等為大  后生名多  至波奈等  己比乃弥
  己等妹名  等巳弥居  加斯支移  比弥乃弥
  己等復娶  大后弟名  乎阿尼乃  弥己等為
  后生名孔  部間人公  主斯帰斯  麻天皇之
  子名ヌ奈  久羅之布  等多麻斯  支乃彌己
  等娶庶妹  名等巳弥  居加斯支  移比弥乃
  弥己等為  大后坐乎  沙多宮治  天下生名
  尾治王多  至波奈等  巳比乃弥  己等娶庶
  妹名孔部  間人公主  為大后坐  濱辺宮治
  天下生名  等巳刀弥  弥乃弥己  等娶尾治
  大王之女  名多至波  奈大女郎  為后歳在
  辛巳十二  月廿一癸  酉日入孔  部間人母
  王崩明年  二月廿二  日申戌夜  半太子崩
  于時多至  波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏天
  皇前日啓  之雖恐懐  心難止使  我大王与
  母王如期  従遊痛酷  无比我大  王所告世
  間虚仮唯   仏是真玩  味其法謂  我大王応
  生於天寿  国之中而  彼国之形  眼所*看
  稀因図像  欲観大王  往生之状  天皇聞之
  悽然告曰  有一我子  所啓誠以  為然勅諸
  妥女等造  繍帷二張  画者東漢  末賢高麗
  加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻


「橘寺はまた菩提寺と云ふ。
金堂は一間四面二階、救世観音像を安んず。講堂は五間四面、丈六の釈迦像を安んず。五重塔。推古天皇の御前において、太子、勝鬘経を講ずること五六日、竟りの夜、蓮華零る。花の長さ二三尺、方三丈の地に溢る。明旦、これを奏す。天皇大いに奇として車駕にしてこれを覧たまふ。即ち其の地において寺堂を立つを誓ふ。是、今の橘寺なり。菩提寺なり。」


・・ところで、加舎白雄は、実際、富士登山をしている。

「富峰登山の吟

七月四日也けり、吉田口より攀ツゝ、大ゆきあひとかやいふ石室に一夜をあかしつるに、朝日おがまんと人のなミツゝ、あはれなる声して称名をとなへ、我も塵うちはらひそこに出て、只別世界なる事を、
 日をのぞむいたゞきやこれ不二の峰
するが路にて、
 いく時雨不二の曙ゆふべ哉   」

・・芭蕉の弟子で、誰か、富士登山を試みたものがいるのだろうか?

・・不二の表記、白雄は維摩の不二法門をかじっているのがわかる。ご来光を拝むのは、わたしもよく知っている。

685秋魚:2016/07/08(金) 21:00:38
(無題)
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな

秣おふ人を枝折の夏野哉

行駒の麦に慰むやどり哉
 

686秋魚:2016/07/09(土) 01:44:55
(無題)
天明6年(1786年)、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。自序。白雄跋。

・・伊那谷の中村伯先のもと白雄門が結集した。

葛の葉のおもて見せけり今朝の霜  翁

霜そのまゝに葛の葉表   伯先

・・

葛の葉は昼を寐る鹿の枕哉?? 白雄

白鷹の葛かいつかむ嵐かな   伯先


*「葛の葉の表見せけり、此句は、一たび嵐雪が翁にそむきし事の直り侍る
時に、幸に書て遣はされ候句也。」

おもしろいのは、早川石牙。

菴に落る椿の音を聞くらす   甲さし出の磯  石牙

太枡事件で甲州を逃亡する以前の出句。同じ「甲さし出の磯」の門連も多く句を寄せている。

里童ぬれありく見ゆ花の寺       甲州台ケ原 台眠
ひかるゝやあるじをしらぬ梅の宿    甲さし出磯 閨歌
雪おれの竹にかくれて梅の花      甲さし出磯 春路
春雨や湯豆腐いまだに捨られず   ??甲州石和 高牛
もの寒きなさけにや降はるの雨     甲州藤田 黒沢
庵木には倦ともあかぬ柳哉       甲州 敲氷
水に落ちからに重き椿かな   ???????? かひの暮地 墐井
菴に落る椿の音の聞くらす   ???????? 甲さし出磯 石牙
松の風きくを子の日のあそび哉  ??  甲さし出磯 百朶
しばらくは梵誦も笠ぬげ花の影  ???? 甲さし出磯 何鳥
夜ざくらや酒うる家の遠あかり   ???? 甲さし出磯 長古
鐘の音も和らかにひるの桜哉   ??????甲さし出磯 如洗
とふ人にまつはる見ゆ藤の花  ?????? 甲州韮崎 巴本


吹いるゝ梅を栞や宇治拾遺   八王子の星布

武蔵野の近いところでは、武蔵村山連、我(吾)野連も熱心。

落栗の籬にいりしひとつ哉   武毛呂  碩布


・・これは、極め付き。

687秋魚:2016/07/10(日) 23:30:08
(無題)
・・多摩川を昔は玉川と表記した。江戸の頃の話ですが。『玉川泝源日記』(山田早苗)天保十三年刊(1842)という幻の本がいま手元にある。なぜ幻かというに、多摩川の源流を求めた記録のもっとも古くかつ実際の日の目をみたのは昭和45年という長く幻の古書とされてきた。先日奥多摩湖から丹波山村へ丹波川沿いにその奥を廻って柳沢峠にでた。その丹波川渓谷の三重川原というのが水源という。三つの流れが一つに交わるところという。・・しばし待てよ。この本はすごい。

・・「武蔵野は山なし」といふ歌六首

武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花の末にかかる白雲  大納言通方(続古今)
いとど猶かすめば遠し山の端はさらでも見えぬ武蔵野の原  源知行(新千載)
武蔵野やしばしやすらへ時鳥おのが入るべき山の端もなし  藤原教実(夫木)
東路の足柄こえて武蔵野の山もへだてぬ月をみるかな   藤原時朝(同)
武蔵野は山の端しらぬ習ひにも富士の高ねは猶ぞ見えける  最信法師(同)
小男鹿の夜半の草臥しあけぬれば帰る山なき武蔵野の原  (定家家隆撰歌合に)

「山も見ゆる」と詠めるを一首
武蔵野もさすが果てある日数にや富士の嶺ならぬ山も見ゆらん  宗久法師(新後拾遺)


・・武蔵野も多摩川を遡れば山の中に入る。加舎白雄は、甲州街道で多摩川にでるあたり、谷保天満宮に寄った形跡がある。

武野天満宮奉納(谷保天満)
むさし野に松梅多きところ哉
宿の梅といはるゝ宿よ松もよき
梅が香や鮒ひつかけし釣の糸
梅をりに舟よぶ多摩の渡かな
梅折に船よぶ多摩のわたり哉


・・石田の渡しで府中から日野にわたる。幕末の頃は、土方歳三の生家があった。


夕風や野川を蝶の越しより
あるが中に野川流るる女郎花
ふたまたになりて霞める野川かな

・・この野川は、国分寺、三鷹、調府を流れる湧水の川か。多摩川にそそぐ。


武蔵野や一寸ほどな鹿の声

・・芭蕉の武蔵野は、あまり歩いていなかったようだ。深川の庵あたりも武蔵野ととらえていたようだから、歩いてはいるが、広きにわたる散策はやっていない。鹿の声をほの聞く武蔵野は想像上のものであってかまわない。延宝3年、芭蕉32歳の時の作。

・・「西行物語」武蔵野の段を思い描いていたか。

「・・さしていづくをこころざすともなければ、月の光に誘はれて、はる/\とむさしの國に分け入るほどに、をばなが露に宿る月、すゑ越す風に玉散りて、こはぎがもとの蟲のねいと心細く、武蔵野の草のゆかりをたづねけむもなつかしく、宿をば月に忘れて、あすの道行きなむと口誦みて行くほどに、道より五六町ばかりさしいりて、きやうをどくじゆする聲しければ、人里はこの末にはるかに隔たりけるとこそ聞きしに、・・」

688秋魚:2016/07/12(火) 22:08:23
(無題)
「・・廿六日(天保十三年九月)、境、原(温泉あり)、河内、麦山、川野、留浦(東は武州多磨郡、国境、御代官の榜示杭たちたり)。(西は甲州都留郡)鴨沢村なり。親川山の九十九折りをのぼるに、紅葉の染たる盛りにて、麗しさ、見上げ見おろしたるひまより玉川(丹波川とも云、この辺は川幅いとせまし)の流れに紅葉の散り浮かめるを―

  もみじばを散らせる風が手作りの錦をさらす玉川の水  早苗

 紅葉の夕映えにいみじきを一枝手折りて、守岡氏がり(?)つどひしつ。去年の丹波川逍遥の楽しきことを友たちに語りて、ほこりたりき。又、こたびはいかで水元に分けいり、ついでに黒川の金山も見まほしく来たけりといへば、あるじは心得つとて、宵より山路をわきまへたる狩人を道しるべに語らひまうけせられけり。」


  多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき

・・万葉集のこの歌の多摩川よりずっと上流のさらす錦は格別です。

「・・翌菊月廿七日の空のどかなり。しるべの狩人は用心に鉄砲たづさへて、火縄ふりたてて、さきに立ちゆく。割子をもたせけれど、一夜たどるべくと思へば、餉のかはりに米を袋に入れてもたせつ。さて、三、四町ばかりゆきて、丹波川の上の方の瀬々細く流れたり。石をつたひ、わたりゆくに、一瀬はいみじく激浪に見渡されて、わたり三間ばかりの所に広さ一尺五寸ばかりなる板一枚、橋にかけわたしたり。これを若人はこともなく渡りけれど、予は老の足元のおぼつかなければ、いかにせんとためらひける。この下の程、四町ばかりゆけば、よき板橋かかりければ廻り給へといへども、いかでこれらを渡らでやはと、しるべのものと従者を力に渡りゆく。半ばばかりに板たわみゆき、揺れうごきて、おそろしう思ひつつ、渡りはてて、いきいでつ。・・それより峡沢山といふ

689秋魚:2016/07/14(木) 21:51:03
(無題)
天保十三年(1842)、山田早苗が玉川の源流をさかのぼった。

・・

笹川繁蔵(ささがわ の しげぞう) 文化7年(1810年)- 弘化4年7月4日(1847年8月14日)

>・・相撲に夢中になるあまり江戸へ出て、千賀ノ浦部屋に入門し岩瀬川を名乗るが1年あまりで廃業。この頃から博打を打つようになり侠客の道に入り、千賀ノ浦部屋の同門で郷里の近い勢力富五郎と共に笹川に帰郷すると一家をおこした[3]。天保13年(1842年)には、笹川須賀山明神の例祭日を利用して、農民救済のために地元の商人宿・十一屋で花会(親分衆のみを客とした賭場)を開く[4]。繁蔵は関東東海地方で名前の知られる大親分に手当たり次第に回状を送り、十一屋の花会には、清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎なども駆けつけたと講談『天保水滸伝』では伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前であり、国定忠治も手配書が出て逃亡中であったため、真偽は不明

・・同じ頃、銚子の陣屋から十手を預かる飯岡の大親分・飯岡助五郎と勢力を争う。初め良好だった両者の関係は、笹川一家の勢力が拡大して飯岡一家の縄張と隣接するようになると、どちらにもついていない中間地帯の賭場の寺銭を巡って緊迫し、遂には双方の親分自身が命を狙い狙われるまでになる[6]。天保15年(1844年)8月6日、御用召捕りと称して利根川の水路と陸路の二方面から笹川に侵入してきた飯岡一家と戦い、須賀山明神の境内で飯岡側を一時は敗走させた(大利根河原の決闘)。

・・

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。

>・・忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。・・天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。

さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し・・

・・

花の雲句碑

>「観音の甍(いらか)みやりつはなの雲」 清水寺に登る石段のふもとにある芭蕉句碑で、高さ1.62メートル、幅1.36メートルの大きさです。

高崎の俳人西馬(さいば)が西上州の俳人たちとはかり、天保13(1842)年3月28日に清水寺で芭蕉150回忌追福のための百韻興行を催しました。江戸から田川鳳朗や久米逸淵も参加するなど盛大な句会となりました。


・・天保十三年。高崎清水寺の後背地は博徒侠客の跋扈乱舞がすさまじい。


天保壬寅三月二十八日於上毛清水寺興行
一百五十回忌追福正式俳諧百韻

観音の甍みやりつ花の雲
    祖翁

残るかたなき春の日のかけ
   西馬

   碑前手向

はせを忌のひとふしなれや花のかけ
   碩布

めくりあひむかしのけふの花の雲
   逸渕

花に只手を合はせたるはかりなり
   信濃 葛古

けふの我こゝろを啼や呼子鳥
   武蔵 寄三

面影にたつや霞のかれ尾花
   青荷

行春やこゝろを洗ふ椎の露
   上毛 竹煙


・・

690秋魚:2016/07/15(金) 14:12:24
(無題)
・・それより峡沢山といふ高かる山のつづら折りをのぼる程に、木ども更になき芝山にて、所々に清水わき出づるが見渡さる。をちこちなるが次第に流れ合ひて、麓にいたりては峡沢(貝沢)といふ小川になりて、丹波川に会せり。さて二十町ばかりゆきて、峡沢山の一つ家といふあり。立寄るまへに、畑作りたり。いささか平地あり。馬も飼ひたり。そこよりさがしき坂をのぼりて、横端といふ岨道をゆきて、舟越山といふ小峰のたわに至る。・・ここにもいささか畑を作りて、大豆の立枯れたるがみゆ。そこは峰つづきたる絶頂のうち、たわみたるやうに低き所なり。板屋低く作りたるありて、老の夫婦住みたり。丹波山より二里余。立寄りけるに、鉄砲掛けてみゆ。あるじの名を問ひけるに、定吉といひて、年は七十五歳になりぬといへり。茶を乞ひて、割子をとり出して喰ひぬ。おほばが桃をとり置きたりとて、籠にいれたるを給はる。柔かにて、味はひいみじ。いまも枝になりてありと云。

 世の常の味はひならず山人の三千とせもへん桃にぞあるらん  早苗

・・又、この山のあなたに、清吉といふが住めりと云。打越え、さがしき坂をくだりて三重川原に至る。かく分け入りぬるは、幽谷の細流れにて、すさまじき処なり。予が思ひわたりぬる願ひは成りにけれど、嗟我僕痛、何吁かな。岩根は落葉に埋もれ、いばらなどかきわけつつ二町ばかりゆきて、大巌ひとつ細流れをせきたり。さるを、大岩の上へ一丈あまりよぢのぼりて、まず、しるべのものにその谷川を問ひけるに、一の瀬川と云。この上に一の瀬村といふあり。そこの山より出づる谷川なりと云。見るに、浅瀬にて、底もよくみえすく。三、四間ばかりの広さの石川なり。」


 丹波川、一之瀬川、柳沢川がひとつになるあたりが三重川原か?この辺はまったくわからない。絶壁の大峡谷の下のほうに道があるのかもしれない。人家など一つもなかった。左手の丹波川から奥深く迂回して塩山にむかう柳沢川を左手にみるまで、まったく冥府とみえた。川の内側にあるのが鶏冠山(黒川山)といって金が採れた山だ。金鉱採掘の部落も昔はあっただろう。こういうところは殺伐としてキナ臭いものだ。

・・片岡千恵蔵が机竜之介を演じる「大菩薩峠2部」をみた。天誅組で吉野の木津川から伊勢、東海道に流れ、駿河から富士川沿いの身延道で甲州にむかう。幕末文久三年(1863)よりのこと。甲斐の金山の街が舞台だから、あれは大菩薩峠を降ったいまの塩山だろう。「大菩薩峠」がおもしろいのは、時代もさることながら、すべて無明の世の中にある。こういう暗い映画は流行るまいが、いつの世でも無明世間はあまりかわらない。竜之介よくわかる。


「・・その西の方のさがしき山そばだてりし山と山の峡の細き谷坂の岩間をめぐり落つる滝川あり。その広さ五、六尺、狭きところは三、四尺ばかりにみゆ。是を黒川と云。是、黒川山の金山のもとより流れいづる水なり。落ち落ちて、一の瀬川に会せり。その水をむすびつ。磁石すゑて方角をしるしつ。しばし見渡しつつ、そこより五、六十間ばかりを川に添ひてくだりて、山と山の間よりコロモ川(幅五、六尺許り)、三澗より流れいでて、一の瀬川に会せり。これを合はせて三重川原といふならん。ひとつ谷間に流れあへど、出づるところは山をへだてたり。さる水をおのおの尋ねなば、みな山々のいづみの流れあへるなるべし。かの「群源暮叩谷心寒」といへるも思ひ合はせつ。ここをこそ濫觴といふらん。

 尋ね入りみなもとみれば元にしある甲斐の深山の岩清水かな   早苗

また見んことのかたければ、よく見渡しつつ思ふに、既にこの山路に分け入るはじめ峡沢山をのぼる程に、所々にいづみ湧けるが流れくだりて、次第に流れ加はりて、まのあたり麓にいたりて、峡沢といふ三間ばかりの広さの川となりて、末は丹波川に会せり。

691秋魚:2016/07/16(土) 23:48:55
(無題)
・・鄭人(ていじん)、野に薪(たきぎ)する者有り、駭鹿(がいろく)に遇ひ、御して之を撃ち之を斃す。
人の之を見るを恐れ、遽(あわて)て諸(これ)を隍中(こうちゅう)に蔵(かく)し、之を覆ふに蕉(しょう)を以てす。
其の喜びに勝(た)へず、俄(にわか)にして其の所蔵の処を遺(わす)る。
遂に以て夢と為し、塗(みち)に順(したが)ひて其の事を詠ず。
傍人(ぼうじん)に聞ける者有り、其の言を用ひて之を取る。


・・「よしや思へば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうちに、牡鹿の鳴く音は聞きながら」


夕されば小椋(をぐら)の山に臥(ふ)す鹿は今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも(万9-1664)
                     雄略天皇御製

夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

                     舒明天皇御製(あるいは斉明天皇)

この二つの歌はfakeであろう。雄略や舒明や斉明がこんな歌を詠むわけがない。


秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇

・・この歌もfakeであろう。

692秋魚:2016/07/17(日) 01:09:46
(無題)
多摩川の紅葉を見つゝ行きしかば市の瀬村は散りて久しも

・・長塚たかしは明治から大正の歌人。多摩川に沿って青梅、奥多摩まで、市の瀬村というのは存在しない。天保の頃山田早苗が多摩川の源流を求めたが、丹波川が一の瀬川に入るあたり、三重川原を水源とみた。・・多摩川の水源は明治になって、さらに一の瀬川を上り、水干という湧水地が認められた。たかしの歌の市の瀬は一の瀬のことであろう。・・しかしよくぞ訪ねたものだ。紅葉がみごとという。

693秋魚:2016/07/18(月) 19:08:07
(無題)
巻8-1511

崗本天皇御製歌一首

暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐<宿>家良思母
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも

・・この崗本天皇は舒明天皇あるいは斉明天皇。

・・聖徳太子の歌が日本書紀、万葉集にそれぞれ一首みられる。

「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ

(書紀)◇片岡山 奈良県北葛城郡王寺町あたりの丘陵。

巻3-415
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 [小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古]
上宮の聖徳皇子、竹原井に出遊しし時、龍田山の死りし人を見て悲傷みて作りませる御歌一首。

家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人A怜
家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ

(拾遺集などには次のように短歌の形で載る。
しなてるや片岡山にいひにうゑてふせる旅人あはれ親なし)

・・行き倒れの死者に出会うのは、万葉集では龍田山、それ以外の書紀、拾遺集では片岡山とある。

岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。

・・岡本→片岡が書紀の本線。 片岡、肩岡(入鹿の肩)

倒れ臥したのは、蘇我入鹿。

万葉集の龍田山は桜と紅葉で名高い。

「伊勢物語」では、井筒

風吹けばおきつ白波たつた山 夜半にや君がひとりこゆらん


「古今集」巻五292

うりんゐんの木のかげにたゝずみてよみける

わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり  僧正遍昭

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる 293

もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん  そせい

ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くゝるとは  なりひらの朝臣 294

・・

万葉集巻九では、高橋虫麻呂


春三月諸卿大夫等下難波時歌二首[并短歌]

白雲之 龍田山之 瀧上之 小鞍嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来

白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで


吾去者 七日<者>不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落

我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし

白雲乃 立田山乎 夕晩尓 打越去者 瀧上之 櫻花者 開有者 落過祁里 含有者 可開継 許知<期>智乃 花之盛尓 雖不見<在> 君之三行者 今西應有

白雲の 龍田の山を 夕暮れに うち越え行けば 瀧の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見さずとも 君がみ行きは 今にしあるべし



暇有者 魚津柴比渡 向峯之 櫻花毛 折末思物緒

暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを



・・龍田山越え、抒情歌がきいている

694秋魚:2016/07/21(木) 01:59:30
(無題)
今 わが悲しみはきわまり、比類なく
わたしをみだす。わたしはじっと見る、石の内部の
凝固するのを。
きびしいわたしゆえ まだ一つのことを知っている、
おまえが大きくなったことを―
……大きくなったことを。
あまりにも大きな悲しみとなって
わたしの心の枠を すっかり
のり越えてしまったことを。
今 おまえはわたしの胎内(おなか)をつきぬけて坐っている。
今となっては もう わたしはおまえを
生むことはできません。
?????????????????????????????????? リルケ「ピエタ」

695秋魚:2016/07/24(日) 00:57:38
(無題)
・・武蔵野が佳境に入った。明日は自転車で入間川を下り川越まで行ってみよう。

「母なむ藤原なりける」という武蔵のみよし野の里を訪ねたい。

 伊勢物語十段「・・むかし、おとこ、むさしのくにまでまどひありきけり。さて、そのくにゝある女をよばひけり。ちゝはこと人にあはせむといひけるを、はゝなむあてなる人に心つけたりける。ちゝはなお人にて、はゝなむふぢはらなりける。さてなむあてなる人にとおもひける。このむこがねによみてをこせたりける。すむところなむ、いるまのこほり、みよしのゝさとなりける。
 みよしのゝたのむのかりもひたぶるにきみがゝたにぞよるとなくなる
むこがねかへし、
 わが方によるとなくなるみよし野ゝたのむのかりをいつかわすれむ
となむ。人のくにゝても、猶かゝる事なむ、やまざりける。」

・・みよし野は何処か?諸説ある。だいたい昔男の業平はこの武蔵野に実際やってきたのだろうか。入間の郡というから、川越から入間川に沿ってのあたりだろう。一つやはり川越だが、的場というのを見てみたい。初雁橋を渡って牛塚古墳があるあたり、霞ヶ関というのだろうか、三芳野塚があるという。この辺的場古墳群という。

・・母なむ藤原という。


・・むさし野の心もある。

四一
昔、女はらからふたりありけり。ひとりはいやしきおとこのまづしき、ひとりはあてなるおとこもたりけり。いやしきおとこもたる、しはすのつごもりに、うへのきぬをあらひてゝづからはりけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、うへのきぬのかたをはりやりてけり。せむかたもなくて、たゞなきになきけり。これをかのあてなるおとこきゝて、いと心ぐるしかりければ、いときよらなるろうさうのうへのきぬを、見いでゝやるとて、
 むらさきのいろこき時はめもはるにのなるくさ木ぞわかれざりける
むさしのゝ心なるべし


・・武蔵野といえば、むらさき。

「古今集」読人しらず

紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る


・・「紫のゆかり」で源氏物語につながる。

696秋魚:2016/07/24(日) 21:10:17
(無題)
・・ポケモンGoが大ヒットとか。操作主体が移動して現実を切り開くとか。・・所詮ゲームであろう。自転車のサイクリングトリップアートには及ぶまい。

ひさしぶりに小曽木街道から仏子狭山の豊水橋から入間川サイクリング道路に入って川越まで走った。最初の青梅坂のなんとも爽快なこと。往きはよいが帰路は登りがきつい。ともかくこれしきのアップダウンは苦にならない。黒沢川と岩倉温泉のある小曽木街道は何度走っても奥ゆかしい。さて例によって成木川にそそり立つ岩井堂。ここの巨石は謎だ。宗祇や芭蕉がここまで足を運んでいたなら頭が下がる。川越なら小江戸と呼ばれ宗祇心敬太田道真の河越千句がある。また今日は喜多院という江戸天海ゆかりの地に行く。

・・豊水橋までは嬉しくないが、入間川サイクリングロードの川沿いの風景は絶賛したい。入間川は古い川だ。云い忘れたが聖護院門跡の道興はここらを歩いている。入間の郡みよし野というのは昔男の業平が来たところ。一説には川越の的場という。これから訪ねるところだ。・・サイクリングロードを進むと、川べりで多くの人がカメラをかまえている。何だろうと思って土手を降りて近くの人に尋ねる。・・ササゴイという鳥がオイカワという魚を捕らえて呑み込むのをシャッターチャンスを待っているとか。オイカワは大きな魚でそこが興あるという。そういえば川の向こう縁に一羽いる。ただし先ほど一匹捕らえて呑み込んだばかりだから当分捕獲はないだろうと。で、いろいろ話してくれた人は、大変立派なカメラでその時の画像を見せてくれた。ササゴイとはサギの一種で笹色をしているがあまり大きくない。オイカワは外来種というが小魚ではない。・・しかしカメラマンが多い。

・・川に沿った敷地で公園、運動場、野菜つくりの畑があるのは多摩川もそうだが、ここのはより趣が深い。時代を超えたなつかしみがある。無人の野菜売り場がいくつかある。なかに御自由にお持ちくださいというのが。みるとゴーヤです。一本くらいなら荷物になるまい。いただくことにした。

・・いくつか橋があるが、めざすのは初雁橋。ここを折れて東京国際大の敷地近く牛塚古墳があるはず。駅は的場、霞ヶ関。法城寺というお寺の近くが三芳野塚。このあたり古墳がいっぱいあったが、都市化の波で史跡は原型をとどめなくなった。みよしの神社にそう案内書があった。入り組んだ地形で、何度も人に聞いてやっとそれらしき牛塚古墳をみつけた。・・頭の中に地図をつくっているうちは道に迷わない。錯誤があって自前の地図を白紙にしてしまうと、右も左もわからなくなる。牛塚古墳とみよしの神社をみつけて初雁橋にもどり、川越市街に進むことにした。業平がここに来たのはフィクションとしても川越というのは納得できる。

・・初雁の池などというのもあったらしい。入間川はよく洪水で氾濫する川で有名だが、このあたりなら海のごときか。

・・初雁橋から川越市街までは一直線。未知の道。以前大宮を訪ねた時は、入間川沿いをさらに下り荒川に合流するまで自転車を走らせたが、これは大変な迂回になった。初雁橋から右に折れて川越市街に出てさらに16号に出るのが本筋。ただし川越の駅がいくつかあり駅周辺は混乱する。今回は喜多院までこの道を真直ぐでよい。川越は何回か訪れたが、ここに来て喜多院を尋ねないのは片手落ちといわれたものだ。おしゃれな街で歩いているだけでも楽しめそう。・・喜多院周辺は成田山東照宮とかいくつか寺社がかたまってある。どこをどう歩いたものか。・・春日の局とか天海とかゆかりというが。

・・五百羅漢像の近くに芭蕉句碑を見つけた。・・「名月や池をめぐりて夜もすがら」

・・蕎麦屋で休みながら、大仲居の新井家にある芭蕉句碑を訪ねることにした。店を出る時に大仲居の氷川神社にゆく道を尋ねたが、大仲居すらよくわからないようだった。大雑把な地図をもっていたが、結局、それを頼りに道を直進した。この新井家の訪問記、実は、難航したがとても笑えるものになった。16号に一度出る必要がある。夏の盛りで、道を尋ねる人がいない。ホームセンターの駐車場で係員の人に尋ねた。よくわからず、来る人来る人に聞いてまわってくれて、三人寄れば文殊の知恵みたいな感じになり、ともかく16号を横断してまっすぐ田舎道を進んで其の先でまた人に聞くというようなことになった。川越は広いという。・・実際、16号は殺伐として横断の場所もあまりみつけづらい。田園が開けていて、こんな田舎道でほんとに良いのか。・・たまらず通りにあったお米屋さんに入った。客でもないのに悪いと思ったが、仕様も無い。奥からご主人が出てきて、このあたりが大仲居だという。で、新井家というのがあるはず。すこし行くと山田うどんがあってそこを左折直進して最初の交差点あたり角の家という。氷川神社も近く。・・これは運がいい。で、このあとがお笑いになった。実際、いわれた通りいってみると、新井家というのがあって、どうもこの家お留守の様。訪問をあきらめて氷川神社にむかった。一軒いかにも旧家といった家があり、ここかもと門を入った。表札がなかった。犬に吠えられ、どうも新井家ではなさそう。それで、なおぐるぐるまわってたまたま新井の表札のある家の前にでた。ここはご家族でバーベキュウ。すみません、新井様のお宅でしょうか?芭蕉の句碑を探しています。と、我家ではありません。もう一軒の新井家かもしれませんと。・・そうして氷川神社近くの表札のない家の前まできた。ここも庭をつっきって玄関の呼び鈴を押した。庭の奥に石碑がみえる。・・運よくご主人が在宅。ここが探し回った新井家だとわかった。句碑の写真を撮らせてください。・・十年に一人訪ねる人があればいいと、訪問ノートもある。今年はわたしで二人目。これからどんどん増えるはず。大事に保存管理をお願いした。

697秋魚:2016/07/25(月) 20:09:18
(無題)
・・身体がバラバラに解体したようだ。骨組みの活性、筋肉の張り、呼吸器のサイクル活動、細胞の活性、血液循環の促進、すべて身を粉にして反射運動神経のみ奮ってある。水がこんなに美味であるとは知らなかった。


>・・1884年(明治17年)、岡倉天心とフェノロサによって1200年の眠りから覚め法隆寺・夢殿の扉が開かれた時、白衣に包まれた秘仏と一巻の織物が発見された。その秘仏が救世観音。
その傍らから発見された一巻の織物が世界織染史上に燦然と輝く四天王獅猟文錦。

698秋魚:2016/07/29(金) 02:49:22
(無題)
>・・悉く荒夫琉(あらぶる)蝦夷(えみし)等を言向け、また山河の荒ぶる?等を平和して還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて御粮(みかりて)を食(は)む處に、其の坂の?、白き鹿と化りて來て立ちき。 爾くして即ち其の咋い遺せる蒜(ひる)の片端を以ちて待ち打てば、其の目に中りて乃ち打ち殺しき。 故、其の坂に登り立ちて三たび歎きて詔りて云いしく、「阿(あ)豆(づ)麻(ま)波(は)夜(や)=吾妻はや【阿より下の五字は音を以ちてす】」。 故、其の國を號けて阿豆麻(あづま)と謂う。

・・あづま(東国)の場所はどこか。古事記では足柄の坂本という。白い鹿(土地の神)を偶々噛んでいたヒルで打ち殺してしまった。・・書紀ではここが碓氷峠。ここより東南の国が弟橘媛をしのんだ吾妻(あづま)の国になる。白い鹿に出会ったのは伊那谷を入って阿智村の神坂峠に伝説がある。

・・阿智の昼神温泉に伝わる話は、『大昔の事です。日本武尊がご東征の帰り途、伊那谷を通って園原の神坂峠へさしかかったとき、山と山に閉ざされて空もせまく、雲が幾重にも包んで、越す方法も知れませんでした。さすがの尊もしばらく手を組んで思案にくれていましたが、その時、悪事をなさる神が尊を苦しめようとして白鹿に化けて尊の前に立ちふさがったのです。尊は不思議に思いながら、口に噛んでいた蒜を鹿に投げつけました。それがちょうど鹿の目に当たって、鹿は死んでしまいました。ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。これ以来、神坂越えには蒜を噛んで通ると妖気に打たれる事がないと言われるようになりました。このことから「蒜噛」が、現在の「昼神」の語源になったという説があります。』

・・ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。

この白狗がタケルを窮地から導く伝承は、武蔵御嶽神社にも伝わっている。狗ではなく日本狼だが。

>・・即ち其の國より甲斐に越え出でて、酒折の宮に坐しましし時に歌いて曰く、

 邇(に)比(ひ)婆(ば)理(り)
 都(つ)久(く)波(ば)袁(を)須(す)疑(ぎ)弖(て)
 伊(い)久(く)用(よ)加(か)泥(ね)都(つ)流(る)

 新治
 筑波を過ぎて
 幾夜か寝つる

 爾くして、其の御火燒(みひたき)の老人(おきな)御歌に續きて以って歌いて曰く、

 迦(か)賀(が)那(な)倍(べ)弖(て)
 用(よ)邇(に)波(は)許(こ)許(こ)能(の)用(よ)
 比(ひ)邇(に)波(は)登(と)袁(お)加(か)袁(を)

 日々並べて
 夜には九夜
 日には十日を

 是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の國造を給うなり。

・・甲斐の酒折の宮は記紀とも一致。筑波から酒折まで九夜十日を数える。これは物部の十種(ひふみ)の道であろう。


人恋し灯ともしころをさくらちる    白雄

699秋魚:2016/08/03(水) 00:31:15
(無題)
・・地元の納涼祭の設営にかり出された。春の祭礼は不幸があって参加できず、夏祭りは是非参加したかった。自治会の役員になったのはハメられた気がしないでもないが、それはそういう運だと思う。・・祭りの設営というのはけっこうな力仕事でどうなることかと思ったが、遊び気分で参加。・・神社の境内にテントをいくつか組立てて、午後からは出店で焼ソバをつくる。奥さんたちが仕込んだものを理事の素人おじさんたちが鉄板で焼き上げる。知らないままに焼ソバ係になっていた。

・・自転車に乗って身体の運動は万全と思っていたが、脚力と呼吸器系の運動それに反射神経はきたえられるが、両腕の筋肉や足腰の筋肉もほとんどきたえていないのがわかった。特に腕の筋力はめだって衰えていた。弱音を吐いてはいられない。年いっても現役でやってる人はさすが活力も旺盛。完全に萎えた老人になるのはまだまだ早い。若いときのイメージで体を動かせたが、その分後になってひどい筋肉痛が残った。・・あの頑丈そうなテントなどいくつもよく組立てたものだ。力仕事はまだいい。焼ソバを二つのグループで800丁ほどつくる。気が遠くなりそうだったが、乗りかかった舟でいった。隣のグループは半分プロっぽいのがいて、味見くらべをしても、むこうが美味いというのを何度も聞いた。キャベツの焼が足りないとか、奥さん方のクレームも多い。・・で途中ソースの量など何度も修整をいれてなんとか夕方前までに800ほど焼き上げた。以前焼ソバ係が熱中症で倒れた人もいたとか、ともかくみな素人でバカ話をしながら、おもしろいものだった。終わったときは体全体に焼ソバの匂いが染み付いているほど。

・・夕方からの受付販売は奥さん方の仕事。お客さんがぽつぽつやって来て6時頃には若い子供も多く特に女の子は浴衣すがたが新鮮にみえる。この地域意外と子供が多いのがうれしかった。夏祭りだが、盆踊りはやらない。・・一度家で休んでまた出向こうとしたら最近同じマンションに越してきたイギリス人にばったり会った。運動をしてビールを買いに出るところという。地元の祭りだというので、ちょっと誘ってみた。いってみると神楽をやっていて白い犬の仮面をつけた舞があり、あれはgoodluckを意味するのか?など聞かれた。よく知らないが祭りではbadluckは無いでしょう。・・あの神楽、御嶽神社に伝わるタケルを導いた白い犬のテーマでしょう。

・・この外人さん。何でも小説家で、もう数冊本を出しているとか。電子ブックもあります。タイトルを尋ねたら、abandoned(孤児)という、中国の一人っ子政策を問題にした本が代表作という。詩も読むそうだ。

・・おみやげでもらった自作の焼ソバを食べてみた。信じられないことに、その美味なこと、とても美味い。

700秋魚:2016/08/06(土) 00:20:08
(無題)
・・暑くなった。霞川は昔立川活断層によって霞湖という湖を形成していたという。藤橋という閑静な住宅地から北に抜けて霞川をよぎる辺りで湖床の段差がある。南西の湿地帯が古霞湖であったという。この活断層地震は5千年周期でマギニチュウド7以上のが起こるという。そろそろ来るかもしれない。

・・自転車で霞川サイクリングロードを活断層のみれる所まで走ってみた。もっと上の岩倉温泉郷には、ヤマトタケルが傷を癒した岩陰はこの立川活断層の跡がみれる。東青梅から成木街道にはいり、霞川にぶつかるが今回も上流をのぼり水源を求めた。青梅丘陵の下に沿ってずっといくともう何やら分からぬ湿地帯になってこれより先は進めない。・・後で調べたら根ケ布の丁寧寺の裏の池が霞川水源とあり、これは支流のものか。日を改めて丁寧寺を訪ねてみよう。

・・霞川しょぼい川だが魚も多く水鳥もいる古い川だ。南東の武蔵野台地、これを割って立川活断層、入間飯能を隔てるのが狭山丘陵加治丘陵ずっと西側の青梅には霞丘陵がある。


 武蔵のはらに鶴遊ぶなり   井月

   *

・・「アルンハイムの地所」というマグリットの絵は三つのバージョンがある。
以前は気に留めていなかったが、窓辺に卵がありその向こうに山の影がある。がそれは巨大な鳥の影だ。山を動かせて太陽を見えるようにするとかいうが、38年→48年→62年の変容で最後のものは繊細な三日月がみえる。これは日食なのかも。

701秋魚:2016/08/07(日) 22:50:02
(無題)
・・今日は多摩川一万人清掃の日。みんなで川の掃除が出来るというので早起きをした。市と自治体の主催で一万人というからにはずっと下流の方から上流の方までの企画なのだろうか?とりあえず我が地区の分担だけでよい。川原だけで川の中はやらなくてよいみたいな注意があったが聞かなかったことにして川瀬の手の届くところはゴミを拾った。飛び石で足場をつくってバランスがあやういのもやってみた。浅瀬の水の中のゴミは見苦しいこと限りない。・・重量上げの女子選手が奇跡的に重いバーベル上げに成功してる。バランスは限界の奇跡。川の水流の抵抗を感じながらゴミを拾うのは楽しい。人が多い。

・・先日から気になった霞川の水源がある天寧寺に訪ねた。根ケ布といって霞丘陵の麓、塩船観音の裏手で由緒ある曹洞宗の寺だ。霞川から離れてどうしてそこが水源か。実際寺の近くに行ってみると、ちょろちょろと透明な水が流れている。ずっと辿っていゆくと池というより湧水のような湿地にでる。ここか?

「・・寺ノ背ニ霞ケ池在リ。蛇潜幾年歟、不知。女ト化テ面前ニ来ル。師云、何レヨリ来ルヤ。答曰、某ハ非人也。大慈大悲ヲ垂レテ我業障ヲ解脱セシメ玉ヘト請。師云、正身ヲ現ジ来レ、為メニ抜苦ノ法要ヲ説与セント。女人頭ヲ垂レテ去ル。須叟ニシテ大蛇ノ形ヲ現ジ、池辺ノ木ニ首ヲ横リ、法堂ノ戸牅ニ揚グ。浩水湧出シテ恰モ江河ノ如シ。・・」

・・天寧寺縁起(天保十三年)に霞川の水源は説かれてある。

山田早苗『玉川泝源日記』これ一冊で江戸後期の多摩川沿岸の様子がわかる。

 結ぶ実のかはらぬ色の名も世々に青梅の村の梅のひともと
              正三位大納言日野資矩

・・これは金剛寺の将門ゆかりの梅を詠んだもの。日野資枝、資矩はどうあっても一度は青梅を訪れているとみる。

玉川の南にわたり駒木野、長淵を歩く。今でも隣町の名前だ。玉泉寺という臨済の古刹はその存在すらも知らなかった。西分村宗徳寺、千ケ瀬宗建寺、畑中地蔵院、青梅延命寺、常保寺みな玉泉寺の末寺という。

今日は、暑い日和の中、この玉泉寺を訪ねた。

702秋魚:2016/08/13(土) 21:36:20
(無題)
・・盆休みに突入か。飯能の多峯主山にハイキング。多摩川万年橋を渡り青梅坂から小曽木街道はいつものコース。成木川入間川を渡り飯能郷土館に自転車を留めた。小島喜八郎という飯能育ちの画家の展示があった。街の風景画スケッチのほか草と題されたハイパーレアリズムの作品など。こんな作家もいたんだ。ぽつりぽつりと記憶に蘇る。・・すぐ隣の市民会館の駐輪場に自転車留めてここから歩いて能仁寺天覧山から多峯主山に向った。いつか夕立のある日に天覧山まで登った。常盤御前が歩いたという見返り坂は何としても歩いてみたい。義経の母常盤が飯能の多峯主からあまりの景色の良さに振り返り振り返り上ったとされる坂。能仁寺の裏手から天覧山に登りその裏手の道をゆくと飯能笹という特別種の草原と見返り坂になる。天覧山は197m多峯主山は271m。あまり高い山ではない。それでも絶好のハイキングコースとみえ休日に歩く人は多い。途中で道を尋ねた人は葛飾の柴又から来たという。あちらの方は山がないから。ほんとに山がない人は山が恋しいのかも。・・見返り坂は杉木立の景色でこれは青梅の御岳山と同じだがたしかに景色はいい。道はよく整備されている。常盤はこの坂を登って多峯主から高麗峠に向ったのであろう。で山中賊に襲われ落命したとか。あとで郷土館で尋ねたらあくまで伝説だとのこと。

・・多峯主の頂上は見晴らしがよい。霞がかかってなければ富士山が見える。

・・郷土館から徒歩ハイキングに切り替えたのは、正解。以前は自転車一本の多峯主登山を思案していたくらい。御岳山のような舗装された参道がないから、これは無理。体力を目一杯使って眺望の利く山登りは忘れた頃にやるとよい。

・・下山でおもしろいのは、すこし下った雨乞の池。どんな旱でもけして涸れることがないという。かなりの高所にあるまったくの池。湧き水があるという。水草とか色のある魚とかミズスマシとかいていかにも古池。十四、五mの幅でなんなく一周できる。月をみながら夜もすがらという風だが、もすこし里に近くないと。

・・天寧寺は霞川水源の池に大蛇が潜むという。ここの雨乞の池にも何か魔物が棲んでいそう。常盤もここを通ったはずだ。水の中を覗き込んで水面に映る自分の顔を見ることもあったかもしれない。こんなところまでよく来たものだと。

・・常盤の墓と伝わる場所もあるというが、探しあぐねて下山。西の端にある八幡神社など訪ねてさらに吾妻峡へというコースをとった。ここは誰も歩いていない。・・道はしっかりしてる。・・吾妻峡というのは入間川の川原にまで降りてゆく。名前がいいので興味をもったが、ここは次回のために割愛。

・・郷土館にもどって常盤御前と岩井堂観音の情報を探った。

703秋魚:2016/08/20(土) 01:00:57
(無題)
・・くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、【入間市黒須】

岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ

故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、

吾郷萬里隔音容一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是西山月落暁楼鐘


・・青梅−入間−狭山を流れる霞川。昔は黒須川と呼ぶ。河口付近は今でも黒須の地名が残る。聖護院門跡の道興「廻国雑記」に記述あり。

704秋魚:2016/08/25(木) 21:55:20
(無題)
?大宮氷川神社  北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒

?中氷川神社(所沢) 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒

・・埼玉県所沢市山口にある、氷川信仰の神社である。旧入間郡と多摩郡92村の総鎮守で旧県社。

?奥氷川神社  北緯35度48分28秒 東経139度05分49秒

・・東京都西多摩郡奥多摩町にある神社。

氷川三本杉:根元近くから三本に分岐している珍しい杉で、鎌倉時代に植えられたという伝説がある神木。

705秋魚:2016/08/26(金) 21:13:51
(無題)
筑波山   北緯36度13分31秒 東経140度06分24秒

富士山  北緯35度21分38秒 東経138度43分39秒

中氷川神社 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒

大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒

中氷川神社(三ケ島) 北緯35度47分22秒 東経139度23分52秒

706秋魚:2016/08/28(日) 23:50:55
(無題)
・・旧青梅街道から成木街道にはいるところに三河屋という割烹料理屋がある。懐石を出すところで浮浪人の身には閾が高すぎた。今日は縁があってここの鰻料理を馳走にあずかった。自転車で行くつもりが雨降りだったので徒歩にきりかえた。青梅−東青梅の一駅を電車に乗るのが筋に思えたが、なんのことはない、青梅駅からの線路沿いの道は散歩道としてほんとにうれしい道だ。道沿いにある西分神社はすこし山をのぼるが以前訪ねたことがある。ほかに禅寺なども多い。何より古い民家のある路地など歩くだけでうれしい。

・・この成木街道をすこし上って霞川の水源を探したのはつい先日。天寧寺というのは曹洞宗の寺だ。ここが水源というのだが、もうすこし先の虎柏神社というのもとても古い由緒深い社だ。


>ほつまうちつすうたのあや     ホツマ打ち 連歌の文


・・のにかたあふみ              野に片鐙

 トラカシハ ヒロヒカンカエ  とらかしは ひろひかんかえ    トラガシハ  拾ひ考え

 アフミサシ イマタテマツル  あふみさし いまたてまつる    鐙 挿し  今 奉る

 タマカサリ ホメテタマワル  たまかさり ほめてたまわる    尊飾り  褒めて賜わる

 ムラノナモ タマカワアフミ  むらのなも たまかわあふみ    村の名も  タマカワアフミ      (多摩川青梅)

 ミサシクニ サカムノクニト  みさしくに さかむのくにと    身差し国   相模の国と
                                  (武蔵国)

あふみさし 鐙 挿し → 青梅 さし → みさし 身差し → 武蔵

・・トラガシワというのは郷人の名らしい。鐙が青梅とは、ヤマトタケがわが身を差して、身差し(武蔵)という。


・・武蔵の国の発祥のメモリアルは青梅ということになる。



むさしあぶみ [4] 【武蔵▽鐙▼】
? 昔,武蔵国で作られた鐙。鐙に鉄板が連なり,その先に刺鉄(さすが)を付けたもの。和歌では,「さすが」に,また鐙は踏むところから「ふみ」にかけて用いる。 「 −さすがにかけて頼むには/伊勢 13」
? サトイモ科の多年草。関東以西の林内に生える。根葉は二個つき,三出複葉。五月,花茎を立てて棍棒状の肉穂花序をつける。花序は黒の縦縞(たてじま)がある鐙状の仏炎苞(ぶつえんほう)に包まれる。

707秋魚:2016/09/02(金) 12:11:20
(無題)
・・かねてより気になった狭山湖周辺に自転車を走らせた。メインの目標は所沢にある中氷川神社。筑波−富士ラインに乗りほぼ中間の距離に位置すると予測した。事前の下調べでは所沢の山口にあるという地図をもってでかけたが、これは実は失敗。所沢には中氷川神社というのは実は二つある。もうひとつ狭山湖北面の三ケ島にある神社は調べなしで出発。結局狭山湖に着いてから人に聞いたり案内板をみたりで混乱し、三ケ島と山口をいったりきたり最後は三ケ島に近いところから引き返して山口の神社に訪ねた。

筑波山   北緯36度13分31秒 東経140度06分24秒
富士山  北緯35度21分38秒 東経138度43分39秒
中氷川神社 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒
大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒
中氷川神社(三ケ島) 北緯35度47分22秒 東経139度23分52秒

・・青梅街道瑞穂の入り口で新青梅街道と旧青梅街道にわかれる。旧青梅の道をとった。するとすぐに岩蔵街道の入り口がある。こんなところにあるのか。この辺りが立川断層の筋かも。旧青梅街道をゆくとすぐ左手はこんもりした狭山丘陵。はじめに丘の上に平和慰霊塔というのがあり寄ってみた。戦争に殉じた死者を慰霊する塔があって、ほかに広島の原爆で生き残った植物など植わっている。被爆クスノキとか被爆アオギリとか。アンネフランクの薔薇というのは、やはりアンネの死を慰霊するものらしい。どうしてここに?先の戦争も何となく風化しそうな世相でここにも訪ねる人はあまりいない。長い石段を登らねばならない。

・・丘陵に沿ってすこし進むと六道山公園にあがる標識がある。狭山丘陵の上に開けた眺めのよい公園があると聞いていた。

・・阿豆佐味神社というのもこの近く。丘陵の麓で、筑波−富士ラインに乗っている。

東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷1008

北緯35度46分0.52秒 東経139度21分53.65秒

主祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)素戔嗚命(すさのおのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)

創建は892年とあるが、出雲系の神が祀られているのは、やはりヤマトタケが立ち寄ったところか。

「あずさみ」というのは梓弓なら、ここから進路を変更する地点かもしれない。・・北緯35度46分0.52秒

・・山の上の見晴らしでわかったが、雲がなければ富士もよく見える。多摩方面の山並みは鍋のふたの形の大岳山がよく目立つ。

大岳山 北緯35度45分54秒 東経139度07分49秒

・・武蔵村山のかたくりの湯から狭山湖にまわる道がある。いつもはこの温泉とすぐ隣の郷土館まで来ていた。この森の中の道を突き抜けると狭山湖、多摩湖に出る。この二つの湖、人造湖で東京都の水瓶ということらしい。いくらかの湧水とおおかたは多摩川の水を引いているというから驚きだ。多摩川というのは日頃なんて水量の少ない川と感じていたが、玉川上水とか狭山湖多摩湖とかいくつも水を分け引いていれば無理もない。・・にしてもこの狭山湖(山口貯水場)はみごとだ。

・・狭山湖に出るまで葛の花咲く道でサイクリングロードとしてはとてもよい。途中多摩湖に向う道もあったが左に折れる。山口の中氷川に行くなら右の道が正解。まちがえて狭山湖に向った。まわりにこんもり丘陵の森に囲まれてよくこんなところに人造の湖をつくったものだ。案内板があって、岸辺に沿った自転車道を渡ると森があってここがトトロの森ということらしい。所沢−川越の境から西の狭山湖畔にかけてがトトロの森のモデルのようだ。この森の外れに早稲田大学の所沢キャンパスがありそのすぐ隣あたりに中氷川神社がある。このまま人に聞かずにこの中氷川をめざした方がよかったか。途中人にたずねて山口へと大きく迂回して引き返すことになった。

・・あとで調べてわかったが、この三ケ島の中氷川は筑波−富士ラインにほぼ正確にのる。距離もちょうど中間点。三ケ島葭子という与謝野晶子門下の歌人は、父がこの神社の神官で母はあきるの市の岩走神社の社家の長女という。母の家元の縁であきるのに住まいし小学校の教員をしていたとも。歌人は明星からあららぎに移りいろいろ歌壇のスキャンダルに巻き込まれたようだ。・・おもしろいのは父が再婚した異母の子に俳優の左卜全がいる。葭子の弟になる。


春の雨 けぶる欅の梢より をりをり露の かがやきて落つ

・・三ケ島の中氷川には、三ケ島葭子の歌碑がある。これは写実風味のアララギですな。

*崇神天皇御代(紀元前97年〜紀元前29年)に大宮氷川神社より勧進され、日本武尊が東征の折に立ち寄って大己貴命と少彦名命の両神を祀った、と伝えられる。

・・ヤマトタケが立ち寄ったというのは、正解でしょう。
   

708秋魚:2016/09/03(土) 22:19:16
(無題)
震旦國の志閑禪師は臨濟下の尊宿なり。臨濟ちなみに師のきたるをみて、とりとどむるに、師いはく、領也。
臨濟はなちていはく、旦放儞一頓。
これより臨濟の子となれり。
臨濟をはなれて末山にいたるに、末山とふ、近離甚處。
師いはく、路口。
末山いはく、なんぢなんぞ蓋却しきたらざる。
師無語。すなはち禮拜して師資の禮をまうく。
師、かへりて末山にとふ、いかならんかこれ末山。
末山いはく、不露頂。
師いはく、いかならんかこれ山中人。
末山いはく、非男女等相。
師いはく、なんぢなんぞ變ぜざる。
末山いはく、これ野狐精にあらず、なにをか變ぜん。
師、禮拜す。
つひに發心して園頭をつとむること始終三年なり。のちに出世せりし時、衆にしめしていはく、われ臨濟爺爺のところにして半杓を得しき、末山孃孃のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて喫しおはりて、直至如今飽餉餉なり。
いまこの道をききて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちからありて志閑の孃となる。臨濟は黄檗運師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。爺とはちちといふなり、孃とは母といふなり。志閑禪師の末山尼了然を禮拜求法する、志氣の勝躅なり、晩學の慣節なり。撃關破節といふべし。

・・紀貫之の生年は866年とも872年とも。貞観の陸奥地震(869)の前後だが、唐の臨済義玄(慧照禅師)(?−867)の入れ替わりの生誕になる。

「正法眼蔵」礼拝得髄に禅師一喝のエピソードがある。貫之はこれを知っていたか?

709秋魚:2016/09/06(火) 00:48:48
(無題)
・・ふたたび成木街道から霞川の水源へ。風の子太陽の子広場の山の中に石動神社というめずらしい社を訪ねた。石動といっていするぎと読む。この名の神社は東京都にはここのみ。石川県の能登鹿島にあるのが本社という。

石動彦神:能登国石動山の神、かつて石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説がある

・・流星、隕石落下か。

710秋魚:2016/09/16(金) 17:23:19
(無題)
・・数日前に白萩の咲き初めるのをみた。なんとも清冽ではじめてのようだった。あきるのにある大悲願寺には萩のすばらしいのがある。伊達政宗が訪ねてその白萩に深くおどろき、後株をわけてくれるよう懇願の手紙を書いたという。伊達政宗というのは仙台藩の独眼竜正宗ですね。その白萩をまさに旬の時訪れて見てみたい。そう思っていたが家の近くでもう散ろうとしているのをみて、今日あわててあきるのの大悲願寺まで行ってみることにした。

・・五日市にゆく秋川街道。はじめて走った時はもう二度と走るまいと思ったほど嫌な道だった。登りスロープが長々とつづき、道幅もさほどないうえダンプなど荒々しい車が次から次へとくる。後ろからくる車をいつも気にして走る。峠の頂上までゆけばそれでも気が楽だ。・・あれから修羅場をいくつも走った。そのためか今回はゆとりもある。やばいところは全部停止すればよい。アップのスロープはあまりこたえない。足着きというのはほんとはやらない方がいい。この街道がこわくなくなれば五日市、あきるのは近くなる。天気が悪かったが昼以降は微雨であろう。

・・五日市の駅にでるまえに細い道を左折し進んだ。以前岩走神社という変わった名前の神社を訪ねた。その近くに大悲願寺もあるはず。五日市街道にでてやや進み秋川にかかる橋の手前で大きく左折迂回する道にはいる。・・ここらだが、通りがかりの人に聞いてみる。その角を曲がって坂をのぼり踏切をこえてまっすぐゆくと左手がお寺です。萩ですか?・・ネットなどの情報で中旬からひと月くらいが見ごろとかある。こういうのは一週間は早めた方がよい。薬王院のつつじなど旬と思って訪ねたらたいてい盛りをすぎている。早すぎるくらいが絶対見ごろだ。・・五日市線の踏切をわたり眺めのよい里道をゆく。しっとり落ち着いたお寺です。

・・あきるの市横沢丘陵という。この丘陵の麓に岩走神社があるはず。伊奈の石工が住んだ村と聞いていた。大悲願寺は真言宗豊山派。寺のたたずまいはしっとり落ち着いているが仁王門の天井絵など密教独得の緻密で華美な彩色がほどこされている。観音堂にある木造阿弥陀如来三尊像など平安末期から鎌倉にかけての古いものだ。・・伊達政宗がよくここに訪れるのは下の岩走神社となにか関係があるのかと深読みしたが、読み外れ。後々続く伊達藩の騒ぎと関係するようだ。

・・萩というもの今まで注意してみてなかったが、咲きはじめのものは趣が深い。花ひとつひとつの息吹きが感じられる。全体は細かな花の群舞でそれはそれで見ごたえがあるものらしい。咲くそばからたちまちのうちに散ってゆく。こういう騒がしい咲き散りは自分はあまり好きでない。雨が降ると靄のごとき花群にみえる。この寺の萩はほぼ白萩。黄や紫のものもあるらしいが。

711秋魚:2016/09/23(金) 21:53:50
(無題)
・・このところ国道411柳沢峠が話題になる。春に自転車でまわって驚天動地、忘れられない思い出になった。青梅近辺で自動車でなら必ず一度はまわってる人がおおい。ともかくすごい道だとは聞いていた。自転車ならヒルクライムは最上級、その道のクロウトが走るメッカだ。わたしがまわった時もみな装備は万全。自転車も高級なロードバイク。・・軽装備のサイクリストはそれでやれるという自信があるのだろう。うらやましいかぎりだ。・・インナーロウのギアで走るものらしいが、自分はもう一段重くしていた。

「・・1878年(明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。」

「江戸時代まで青梅街道はこの柳沢峠ではなく大菩薩峠(標高1897m)を経由していた。大菩薩峠へは道幅も狭く通行も困難な青梅街道最大の難所であり、遭難者も多く出していたが、甲州街道より二里短く関所が無いこともあり利用者は多かった。塩山側の麓には萩原口留番所跡がある」

「明治になり県令藤村紫朗の主導によって民費で道路改修を行うことになるが、大菩薩峠に車道を通すのは困難だったため、1878年(明治11年)現在の柳沢峠経由の道路を開削した。」

花魁淵

・・武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行 依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した


・・たぶんこわかったのはこの所為であろう。

奥多摩から丹波川に沿って柳沢峠に向う道は、丹波山村までは開けているが、その先一の瀬までは難路。江戸天保期に山田早苗の玉川源流行があって、一の瀬高橋あたりは柳沢川、黒川山(鶏冠山)は武田の金山だった。甲州側からこの金山めざして鉱夫ほか女郎やなど多少の賑わいはあった。富の源泉である金鉱は厳重に管理されるゆえ、その村はある種の牢獄。花魁淵などいって吉原女郎の画像を置いても同じとみえる。・・江戸安政の大地震の時吉原も大火に見舞われた。

「新吉原での火災は延宝4年から慶応2年の191年間に22回あった。安政2年の地震による火事では、郭内の死者は千二十余人、遊女のみ、530余人を数える。失火があったら火消も繰り出すが、大門内に入らず鎮火を待った。焼け残りがあるとこれを焼き払ったのは、仮小屋での営業が許されないからである。仮宅による営業はうまみもあり、火事を密かに願ったと者もいた。」


吉原の巴屋といえば、

  ?其巴屋に岩こすといふ傾城は、秀たるものなりき、渠は、もと越後、信濃あたりの深山のものにて、山女衒行かゝりて見れば、老女只一人、六七歳の小女と、あやしき家居に住むあり、立ちよりて問へば、此小女は父母におくれて我手に育侍るといふ、かゝる所にあらんよりは、我江戸に連行ん、我にあたへまじやといへば、山奥のかかる所にありて、若我死せば、狼の餌食ともならん、夫いと幸なり、つれ行て命を全くし給れといふ、女衒歓びて、金弐分を老女へ与へければ、老女も悦びけつとなん、是後に巴屋の岩こすとて全盛の君となりたるといふ事を、年を経て聞けり、其虚実はしらず、同藩の大山氏なるもの、此岩こすに逢けるに、夏の頃なりしが、幮の外に来りて禿を呼て、水を取よせ、其半呑て暑しやと問ふ、大山、暑しと答ふ、其時、その茶碗を持て幮に入り、のみさしたる水をのまする心かとおもふに、さはなくて、おのれ一口呑て、大山が寝たる顔に向ひて、ふつと霧を吹かけたり、顔より髪襟のあたりまで水にぬれければ、驚きて起上る、岩こす笑て、呑たるよりは涼しからん、といひしとなり、凡妓の気骨にあらず、此一談を聞ても察すべきなり?

「新吉原遊女町

日本堤の下にあり。俗に五丁町と唱へたり。(其街五町あるゆゑにいへり。)慶長の頃、江府日に増し繁栄の地となりければ、是を伝へ聞き駿州元吉原の駅より、遊女屋を始めんとする輩二十余人、江戸に移り住す。其頃は、定れる花街もなく、ここかしこに遊女屋散在せしかば、彼輩官に訴へて、京橋具足町の東、泥沼の地を築埋め、一方に口を設け、南の側を角町と唱へ、(今の京橋炭町是也。)北の側を柳町といふ。(今の京橋柳町是也。)又中の通を仲の町と號け、此地に傾城町を開発す。(今京橋具足町と柳町との間、南北への通を中通といへるも、仲の町の旧稱をうしなはざる證據なり。以上事跡合考に載するところなり。)其後庄司甚右衛門といへる者、(相州小田原の産にして、始め甚内と云ふ。また一説に、勘右衛門ともいひけるよしいひ伝ふ。)官の免を得て、元和三年、始めて花■を定め、葺屋町の末にて、二丁四方の地を賜ひ、是を吉原町と號く。(今所謂和泉町、高砂町、住吉町、難波町等、其旧地なりといへり。また菊岡沽涼云ふ、其地沼にして葭萱のみ繁茂したるを開きし故に、葭原ともいふべかりしを、賀して吉原に作るといへり。禄開板の江戸鹿子等の書には、其始め駿州元吉原よりうつす故に、この號ありと云々。)翌年、普請落成す。然るに江府益繁昌し、人家蔓りければ、明暦二年の冬、竟に今の所に替地を賜ふ。(明暦二年丁酉八月今の地にうつる。)依て新吉原町と號くるといへり。此花柳は、まことに三都の魁たり。其賑は、特弥生の花の頃をもて勝れたりとし、春宵一刻の値、千金を顧みず。初秋の燈籠は、萬字屋の玉菊が追福にはじまり、八朔の白重は、巴屋の高橋に起る。今も此日をもて、更衣の節とす。名にしおふ二度の月見の全盛はいふもさらなり、悉く其美を■るにいとまあらず。しばらく此處に是を略す。」

712秋魚:2016/09/27(火) 01:39:17
(無題)
大菩薩峠 N35度44分9秒 E138度51分12秒

長岡駅  N37度26分49.9秒 E138度51分13.8秒

高尾山古墳 N35度7分22.73秒 E138度51分40.22秒

長岡市今朝白  E138度51分40秒

安積山 N37度27分10秒 E140度23分28秒

長岡市今朝白 N37度27分01秒 E138度51分37秒

福島県双葉郡双葉町歴史民族資料館 N37度27分01秒 E141度00分26秒

713秋魚:2016/10/01(土) 18:44:20
(無題)
・・栗拾いに出たが遅きにすぎた。どこもかしこも拾われて無い。去年は温泉の帰りにたまたま手付かずのよい栗が弾けていた。同じ場所にいってみたがこういう算段はダメですね。周囲の環境も変わっていて、とても栗拾いなんてものじゃない。

・・萩というのは白いものだと思っていたが小豆色の萩が本命らしい。道すがらもう散り終わりの無残な萩もみた。彼岸花も無残なものだ。いまは金木犀が盛りだ。強烈に香る。

・・外に出て野山を歩くのをためらったが為に旬のものに出会い損なった。

コスモスはよく咲いている。

714秋魚:2016/10/04(火) 00:50:38
(無題)
・・萩で想い出した。柳沢峠を塩山側へ下って裂石山雲峰寺という寺がある。

「・・寺伝によれば行基が修行に訪れた同年6月17日の夜、霊雲が烈しい光を帯びて当山の上にまたたき、山や谷を大いに震わせたといわれています。そして、山中にある高さ15メートル余りの大石がにわかに真二つとなりました。巨大な石の裂け目からは萩の大樹が生え、さらには石の上に燦然と十一面観音が出現したといわれています。それを目の当たりにした行基は、崇高な心で萩の樹を切り取り十一面観音の尊像へと彫刻し、一庵に奉祀しました。」

・・萩の大樹?

萩というのは草ではないか?
十一面観音など彫れるものだろうか?

萩の別名で野守草というのがある。これはよい名と思うが誰もそれをいわない。

715秋魚:2016/10/14(金) 21:30:56
(無題)
>・・栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩*の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


・・行基の杖は栗、西行の杖は桜、芭蕉の杖はツバキ。

「天親菩薩、無端変、作一條榔栗杖・・・塵沙諸仏、盡在這裏葛藤」

「嚴雲:榔栗?擔不顧人,直入千峰萬峰去」

『碧巌録』にみられる「榔栗」は、「木ヘンに即・木ヘンに栗」という漢字。ソクリツと読むものらしい。天台山にある杖をつくる木の名。同種のものが日本にあるかどうか不明。

716秋魚:2016/10/17(月) 23:19:28
(無題)
・・吉野街道沿いの空地に花壇をつくるというのでボランチアに出た。私有地ということだが残土置かれて荒れ放題。自治会にお任せになった。形状も三角でわるく一部は野菜つくりで使われているようだがナスなど収穫もされてない。何より道路際で埃っぽい。・・地元の人に聞くと昔は魚屋とかスーパーとかお店があったという。店が流行らず撤退してただの空地になった。自治会の理事、美化委員が主導というので声がかかった。自治会の役員というのはもう余生を生きる年寄りばかりで生活だけは年金とかで安定しているらしい。年を食って安定してないのは自分くらい。それでも家のすぐ近くで土方仕事になるので男手がいるということだった。特に用事もなかったので参加することにした。

・・夏の納涼祭はテント組み立てと焼ソバつくり。先日は運動会があって雨天で中止にはなったが慰労会はおもしろかった。普段はやれない仕事で終わったあとは全身の筋肉痛になるのはいつものこと。こんどの花壇つくりも今は筋肉痛。・・しかしおもしろいものだった。

・・土をほぐして瓦礫を除く。大方の地形つくりのあと道路との仕切りにブロックを置く。これは土木の専門家が一人いて進める。コンクリートをつくる。セメント、砂、砂利を混ぜて水をそそぐ。材料はみなホームセンターで揃うらしい。配合ぐあいはわからない。ブロックを並べて鉄棒とコンクリートで固定。鉄棒の切断などもやってみた。・・草むしりと土おこしくらいに考えていたが、本格的な土台つくりで昼過ぎまで作業。花苗を植えるのは後日のこと。

・・終了して打ち上げの食事会になった。自治会の古参の人がほとんどでいろいろ話がおもしろい。幹部役員はほとんど政治の苦労話でこれはあまり参与したくない。多摩のこの地域、野生の動物が増えているよう。すぐ近くの林で熊が出たとか。イノシシなど親子連れで七八頭も裏山に出没。罠でとらえた人もいて、イノシシ、アライグマ、ハクビジンとか、処理の仕方わからずまた野に放ったとか。イノシシは猛進するから危険。アライグマはクマではなく可愛いものという。万年橋の上から川で水浴びするタヌキをみたことあるが、あれはアライグマだったかも。区別もむずかしい。

・・丹波山村出身の人もいる。町に住んでいるが丹波村に山を所有で、柚子、柿、筍とか豊かにみのる。丹波山にはのめこいの湯がある。いつか自転車で必死で訪ねた。極上の温泉です。ここいら柚子など腐るほど実る。観光客を相手に一袋百円で売られてもいるが、おおかた収穫しないで落下させてるのも多い。柚子狩、柿狩、筍狩にはぜひ参加したい。のち温泉は魅惑。

717秋魚:2016/10/22(土) 01:16:19
(無題)
・・伊勢物語の東下りで昔男業平が詠んだ言問いの歌。それは白鬚橋の渡しという。

 座標: 北緯35度43分41秒 東経139度48分35秒

もうすこし隅田川を遡ると隅田川神社。

北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒

さらに梅若塚のある木母寺。

北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒

奥多摩の大菩薩峠は、 N35度44分9秒 E138度51分12秒


夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅

718秋魚:2016/10/22(土) 17:09:32
(無題)
・・うす曇りの天候だが御岳の青渭神社までサイクリングに出た。青渭はあおいと読んで青井のこと。けして枯れない青い湧水があるという。創建は崇神天皇代というからかなり古い。根ケ布の虎柏神社とほぼ同期か。主神は大国主命。(ただし創建年代はあてにならない)

青渭神社は沢井にある。青梅街道沢井と御岳の中間で惣岳山の方へあがったところにあるはず。地図をみて目星がついたら出発。源経基が関東を治めた頃青渭神社もよく祀られたという。このあたり平将門か源経基かといったところ。・・多摩川に渡る好文橋までに桜の咲いてる空地がある。昭和から平成にかけて空地というのがどんどん無くなってゆくのが決まった風景だった。こういう田舎にくると廃屋というのもまれにみかける。崩れそうな家屋でまだ人が住んでるというのがなつかしい風景だが。ともかく空地は健在だ。

・・吉野街道、青梅街道はそらおそろしい道で、こちらに越して来た時は自転車で走るなどとてもできないと思っていた。並のサイクリストがいとも容易に走っているのをみてこれは自分が臆病なだけと合点した。はじめて御岳までいった時が想い起こされる。軍畑にでるまえに桜橋というのがある。台地状にすこし開けた場所に昔は桜の木がきれいだったという。瀬川が多摩川に流れこむ深い谷になって足がすくむほど。ここを過ぎて軍畑大橋もこえ沢井に近ずくとにわかに人波が多くなる。天気は曇りだが今日は休日だった。帰りにわかったが澤の井の蔵開き祭りがあった。沢井駅周辺も人手が多い。・・柚子の里勝仙閣という旅館があった。なんだ閉店してるようだ。ちょうどこの前に青渭神社参道の鳥居がある。

・・ちょうどよい空地に自転車を留めて参道を登りかけた。どうも人が歩いた形跡がない。もっと他に道があるはず。さらに自転車で先に進むと舗装された登り道があった。400mばかりで見つかるという。多摩川や街道周辺の町並みがみわたされ景色がよい。道沿いに柚子の木が多く、青い実が鈴なりだ。ゆずの里というだけあって誰の管理かもわからない。雑木にまざったものを一つみやげにもらった。

・・青渭神社の里社というのがあった。「・・古くは青渭明神といい惣岳山頂近くに真名井と称する年中涸渇することのない霊泉があり、これを別名青渭の井ともいい、これが社名の起因となったと伝える。また別に惣岳大明神ともいうが、これは惣岳山(標高七四二メートル)頂に鎮座していることからの呼称である。」

真名井という湧水が売りだけに、手水舎は清冽な音を立ててある。

・・沢井の駅周辺に人が大勢いたのに比べ、この青渭神社は無人だった。ただし管理はゆきとどいているよう。灯明が点っている。「祓いたまえ 清めたまえ」といって、ぽんぽん。

ここから下の奥多摩線、青梅街道まで傾斜のある段差の土地だ。日当たりも眺めも最高だ。柚子があちこち実っている。帰りはまた違う道に入った。だんだらと東にそれてこのままゆけば沢井の駅のほう。ほんとに柚子の畑が多い。・・鉄路に沿った道に出た。

・・沢井駅にでた。駅前の公園に縄文遺跡の案内板がある。大平遺跡について、
「大平遺跡はJR沢井駅を中心に多摩川と平行して東西に広い河岸段丘上に存在します。多摩川までは約四十メートルの高低差がありますがローム層の堆積がないことから今からおよそ一万年前までは多摩川であったと思われ、今回発掘された遺構遺物によって縄文時代早期(およそ七千年前)にはすでに生活を営むことができる地形が形成されたものと考えられます。・・」

人がいっぱい。澤乃井の蔵元、ままごとやに人だかり。・・

「・・縦の最長が42?、最大幅が28.5?、縁の幅は約5?あり、縁からの最深は7?、手前に来るにしたがい浅くなってきます。石皿の縁には円すい状の穴が並んであけられていることがしばしば見受けられ、この石皿にも角の縁部分に1か所あけられています。しかし、この穴が何のために利用されたのかは不明です。石質は安山岩系の石で、多摩川の川原では、この種の石を拾うことはできません。」

・・沢井駅周辺はとてもよい環境だが、このような石皿を運んで縄文人は移動してきたのだろうか?

719秋魚:2016/10/23(日) 02:32:46
(無題)
 四十四 芭蕉拄杖



芭蕉和尚示衆云、你有拄杖子、我與你拄杖子。你無拄杖子、我奪你拄杖子。



無門曰、扶過斷橋水、伴歸無月村、若喚作拄杖、入地獄如箭。



頌曰



諸方深與淺

都在掌握中

撐天并拄地

隨處振宗風

720秋魚:2016/10/25(火) 11:47:42
(無題)


・花は豆のような蝶形花。
・枝や葉は
 家畜の飼料や屋根ふきの材料に、
 葉を落とした枝を
 束ねて箒(ほうき)に、
 根を煎じて、
 めまいやのぼせの薬にするなど

杖かしてやりたき萩の盛かな
初蝶と見る眼の冴る白さかな
蝶に気のほぐれて杖の軽さかな
朝凪や蝶の影さす洗ひ臼

霞ミ霞ミて流れ行川

蝶の飛ふはかり野中の日かけかな  はせを

721秋魚:2016/10/25(火) 21:28:41
(無題)
 をばすての嶺と申す所の見渡されて、思ひなしにや、
 月ことに見えければ

をば捨ては信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ

西行法師

・・

月が美しいのは、必ずしも池や湖ばかりとは限りません。
千曲市姨捨(おばすて)・四十八枚田の「田毎(たごと)の月」もまた、国の名勝に指定されるほどの美しさを誇ります。

我が心なぐさめかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て 古今和歌集 読人知らず
月もいでで やみに暮れたるをばすてに
なにとてこよひ たづね来つらむ 更級日記
更級や昔の月の光かはただ秋風ぞ姨捨の山 藤原定家
あやしくも慰めがたき心かな姨捨山の月を見なくに 小野小町
君が行く処ときけば月見つつ姨捨山ぞ恋しかるべき 紀貰之
隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき 西行
諸共に姨捨山を越るとは都にかたれ更級の月  宗良親王
空にひとつあまりて月の田毎かな 永宮寺松堂
姨捨や月をむかしの鏡なる 加舎白雄

・・


「・・継之助という人が体の中に入ってくる感じになったんです。彼の写真も何枚かみましたが、それぞれ全部違う顔をしているんです。こういう人物というのはちょっと端倪すべからざるところがあるでしょう。撮られるたびに顔がかわっているというのは相当に複雑な人間であることはたしかですね。北越戦争で大奮戦して、もう少しで東京の新政府の国際信義を危うくするというところまで善戦したわけですが、戦い利あらず、傷ついて会津へ退却する途中で死ぬわけですね。」

 司馬遼太郎『峠』月報

722秋魚:2016/10/28(金) 20:40:49
(無題)
・・東京が世界第三位の都市についたという。万年四位からパリに追い替った。何が基準かもわからない。パリのリュクサンブール公園でおそろしく緩慢な時間をすごすなどいう、森有正みたいな日本人はまだいるのだろうか。だいぶ忘れた感覚だが、西欧の伝統が少しずつゆったりと浸みこんで来るという。・・たぶん西欧の伝統に愛想をつかす人が増えているだろうか。未来都市願望が流行かもしれない。

・・東京は空虚な中心。去来に『花実論』があると聞いた。形式と内容について説かれた。花ばかり有って実がない。風雅の実を説くのは希少だ。正風俳諧やおもてなしが注目されるわけだ。

・・この東京を自転車で攻略する。

723秋魚:2016/10/31(月) 19:34:02
(無題)
・・自転車後輪のタイヤがそろそろ。この都心のロングライドはなんとかもたせたい。朝6時半に家を出た。きのう河井継之助記念館の館長先生から便りがあってよいタイミングだった。三田の済海寺が第一目標。ここを訪ねてからまたお便りします。

・・まず青梅線に沿って立川まで。また国立まで。込入った道だがもう何度も走ってお手の物。昔の寓居の跡もしっかり認めてきた。恋ヶ窪にある「姿見の池」は近くで発掘の仕事をした時期があったが、未見の旧跡だ。JR西国分寺駅の裏手のこんもりした森の中にあるという。今回は往路でここを見学。府中からの東山道が伸びていて遊女の宿があったらしい。鎌倉の武将畠山重忠と夙妻太夫(あさずまだゆう)の悲恋伝説がある。

>・・東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿をこの池に映して見ていたことから、「姿見の池」と呼ばれるようになった

・・夙妻太夫はこの池に身を投げた。

・・池の水は透き通って底が見える。湧水も流れているらしいが、水の動きはまったくない。水底の色はライトブルーの苔色だった。鯉とか水鳥もいて、でも静物のよう。動きがまったくない。すぐ隣のJR線の鉄路の騒ぎと対照的な静けさだった。

・・ここから中央線に沿って新宿まで走るのも何度か経験済み。国分寺の連雀街道を一路三鷹の方へ。・・一度交番で道を尋ねたが、中央線も今は高架線になってこれに沿った道ができている。車はほとんどなく自転車はゆったり走れる。吉祥寺まではコースロスがまったくない。郊外と都心を結ぶ道も進化したものだ。吉祥寺から荻窪に出るまでここはもう街ができあがって改良の余地はない。入り組んだ道だが荻窪までは、我慢。荻窪には青梅街道が駅前まで接近している。

新宿に近づいたところで青梅街道を離れ飯田橋へ向う道にはいる。ここも一度来た道。牛込というところで早稲田に向う道もあるが一路飯田橋方面へ。道が多く分岐してわかりにくい。わからないところへは運よく交番がある。交番の巡査も配置転換が多く自分のエリア以外はよく知らないというのが多い。新人の場合は地図でああでもないこうでもないとやるが、最良のアドバイスになる。後楽園あたりから春日通りにでられれば後はまっすぐ湯島天神の脇を通って御徒町上野、昭和通りを北上して南千住まで。これははじめてのコース。上野駅周辺は混雑して昭和通りがみつけづらい。車道は無理だがそれでも楽な道だ。ほどなく最初の目的地スサノオ神社に着いた。

素盞雄神社?? この種の社、日本中にあちこちあるらしい。ここは千住大橋のすぐ近く。

この日は七五三の祝日であるらしく、人出がおおい。素盞雄神社は庶民に人気があるのか全体がぴかぴかよく神光りしていた。流行らない神社ばかり廻っていたので、すこし驚き。

>・・深川の採荼庵すなわち「杉風が別墅」を舟で出発した芭蕉は、千住で舟をあがった。

ここに芭蕉句碑がある。

行春や鳥啼魚の目はなみた

>・・文政3年(1820年)10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初めの碑」が建てられた。

儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を書いている

武州千住宿 牛頭天王 境内

   行春塚

 千寿といふ所にて船をあかれは、前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく

行春や鳥啼魚の目はなみた

   はせを翁

・・千住大橋まで続く昭和通り。途中明治通りと交差する。都心南北の昭和通りは日光街道という。水戸街道などもこの千住大橋が起点というから、芭蕉が奥の細道で江戸の別れをここにみたのは、感慨もおおい。・・この千住大橋にくるまでに円通寺というのに寄った。上野戦争での彰義隊戦死者の供養碑がある。上野戦争は悲惨だったらしい。月岡芳年は惨殺の現場を歩いたというが。

・・千住大橋からUターンして浅草に向った。

・・浅草寺とスカイツリーが目印でここらは目をつむっても歩けそう。浅草寺にいってわかったが、一極集中の人出は浅草の特色。なんて人がいっぱいだ。すこし外れて街を歩くとまるで寂びれている。人っ子一人いない。商店なんてのもみない。昔はこのあたり下町の中心だったのだろう。葛飾北斎終焉の地なんてのもあった。北斎・宝暦10年9月23日〜嘉永2年4月18日(1760−1849)浅草聖天町遍照院にて永眠。「人魂で 行く気散じや 夏野原」−辞世の句もある。(おもしろいね)
・・浅草寺の裏手に吉原があったと記憶していた。吉原跡地か?さがしてみたが見つからない。・・いまの吉原は三ノ輪入谷の方か。

長岡藩抱屋敷というのがスカイツリーの下あたりにあった。河井継之助は遊郭通いもよくした。そこから江戸の新吉原へは歩いて近い。海老原新甫という俳人は巴屋の主人という。この新甫と井月は面識があった。あるいは継之助の噂は耳に入ったか。

・・隅田川右岸から言問橋の方へスカイツリーが見える。浅草寺の裏手からもスカイツリーが見える。吾妻橋を渡って東駒形にある桃青寺を訪ねたい。やむえず花やしきの横から浅草寺にまわる。うわっすごい人波。訪日外人など集団できてる。欧米人はすぐわかるが、中国人も多い。韓国人か台湾人か。出店の飲み屋は大盛況ですね。浅草メンチというのが美味しそうだったが、行列で待たねばならず撤退。この後もろくすっぽ食事もとらず自転車に乗りまくった。空腹感というのはあまりなく、実は、これは健康にはまったくよい。あとでわかったことだが。・・それにしても浅草寺の人気は並大抵ではない。活気があって元気になるのは確か。

なんとか人混みを抜けて吾妻橋へ出た。スカイツリーも近い。桃青寺は周辺の東駒形四丁目だ。ぐるっとまわって探した。

・・桃青寺はあまり知られていない。芭蕉の禅修業は深川の臨川寺仏頂和尚のもとがよく知られている。この仏頂和尚以前の禅修業が駒形の桃青寺という。はやい時期に桃青(芭蕉)の寓居があった。わかりにくかったがなんとか見つけた。こじんまりしたお寺でそれは臨川寺も同じだが着いてみると運よく住職さんらしきが表に出てきた。見学の許可をもらいすこし話をすると芭蕉はたしかにここに一時仮寓していたという。その記念になるようなものは何も無いとも。戦災ですべて焼けた。・・ただし山口素堂のお弟子さんで長谷川馬光という人の墓がある。そういってこの馬光の墓を案内してくれた。ここの墓地はおどろきなのは狭い敷地に仏壇のような等形の墓がぎっしり並んでいる。管理がゆきとどいているのか花も置かれてまぶしい限りだ。郊外の雑然とした墓ばかりみてきたのでこれは驚き。ただし馬光のお墓は江戸宝暦期のもので古いままだった。

>長谷川馬光 - 1685−1751 江戸時代中期の俳人。貞享(じょうきょう)2年10月11日生まれ。幕臣。山口素堂にまなび,2代其日庵(きじつあん)となる。
・・桃青寺 延享5年(1748年)、夕可庵を営む。 寛延3年(1750年)8月12日、馬光が中心となり関口芭蕉庵に「さみだれ塚」を建立。

・・この桃青寺。芭蕉の仮寓など伝説的な話で真実のところはよくわからない。はじめは本所の常林寺(定林寺)とか呼ばれて後東盛寺、桃青寺とか。気になるのは、鹿島紀行で芭蕉に連立った宋波という僧侶はこの常林寺の住職というからよく隣の宋波というのは桃青寺の僧かもしれない。定林寺から桃青寺への変名は延享二年(1745)のことという。・・宋波という芭蕉の隣人、気になるか。

・・この日どんより雲って寒気もつよい。自転車に乗って厚手のジャンパーで来たが、汗だくになるなどはない。ちょうどよい具合だ。永代橋の眺望まで来た。ロングライドはまだまだ。・・清澄庭園の近くにある長岡藩下屋敷跡を再確認すべくまたうろうろ。けっきょく下屋敷は今はまったく痕跡が無い。民家とマンションのようなものに成り代っている。今回もっと興味深かったのは、すぐ前の運河名前は忘失したがこの橋をわたってすぐ角のところに杉風の彩荼庵跡がある。芭蕉は奥の細道を旅立つにあたり、芭蕉庵は雛かざりする家にゆずりこの彩荼庵に移った。そこから舟に乗って千住までいった。長岡藩下屋敷はこの彩荼庵とは目と鼻の先だ。


  予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、

   初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ


白露もこぼれぬ萩のうねりかな
   はせを


   このあはれにひかれて

萩うゑてひとり見ならふやま路かな
   杉風


・・井月が採荼庵跡を訪ねた時はもうこの萩は無かったかもしれぬ。この萩の句はしっかりと読んでいたにちがいない。

・・東京は電車の移動で慣れているが、自転車では道さえまちがわなければ要所めぐりは容易にみえる。道も大雑把な方向感覚でも迷うことはない。数度ポタリングを試みての話だが。深川不動堂というのが親しまれているという。ここから近いはず。成田山を勧請したというから平将門鎮めのお寺か。関東の第一の霊的パワーはやはり将門か。江戸の家康もこの怨霊を気にはしていたようだ。不動堂はともかく寄ってみることにした。下調べがなかったので人に聞き聞きまわった。・・ここはすぐに見つかった。あまり感動はない。・・この後永代橋にでてそのまま皇居の方へ。大手町のパワースポット将門首塚に向った。

「伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。」

・・菅原道真、聖徳太子、平将門。怨霊のパワーが強烈なのはこの御三方。このうち太子のパワーをわが家門はかかえている。将門のパワーに敏感だったのは、たぶん、井月。・・将門首塚はそっと遠慮して訪ねた。蛙が鳴いていたようだった。

皇居前の通りから日比谷通りを走り、そのまま新橋田町へ。長岡藩中屋敷のあった愛宕山にゆく予定もあったが、だいぶ日が落ちてきたので田町の三田へ向った。浄土宗の済海寺を訪ねたい。ここもざっと調べただけで田町の駅前でうろうろ。交番もない。案内板がある。住所とこの案内地図が頼りだ。済海寺はあまりメジャーでないのか地図には載ってない。替りに亀塚公園というのがある。これは済海寺の隣だったはず。この亀塚というのも今回の眼目にあった。ここへゆけばよい。

で、5時くらいだったか済海寺に着いた。すぐ近くに慶応大学がある。すごい坂道を登ってこのあたり高台の丘になってるようだ。

「月の岬(つきのみさき、月の見崎とも)とは、東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。」この済海寺あるいは隣の亀塚公園、ここが月の岬の説がある。この高台の向こうは昔は海だったとも。さらに興味深いのは、済海寺は江戸期に、「1621年(元和7年)牧野忠成と念無聖上人によって創設。越後長岡藩藩主家牧野氏や伊予松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。」となる昔は「更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地であった」という。

これ以上は追求しまい。この日は門が閉ざされ隣の亀塚を見学してひきあげにかかった。ホテルで休んだあと明日また訪ねることにする。

724秋魚:2016/11/05(土) 21:11:15
(無題)
・・初日は優に10時間は自転車に乗っていた。都心でこまめに目標を切り替えるのは楽しみもある。あまり疲労もない。いつも寄るビジネスホテルは朝食ビュフェのサービスがあって気も楽だ。

・・さて二日目はもう一度済海寺へ。その後品川の海晏寺を廻って帰路につく。多摩川にでて左岸を二子玉川狛江調布府中どこまでも遡れば福生羽村までゆける。ざっと調べてはあった。問題は第一京浜の海晏寺からいかに上流の多摩川べりに出るか。昔横浜から国道1号で多摩川べりまで来た。第一京浜をそのまま進めば多摩川にでる。これは芸がないか。

・・済海寺は開門されて運よくお寺のお内儀と話ができた。牧野家の個別の過去帳というのは無いという。こちらがまったく無知であった。一般の過去帳というものはある。これには女子の納骨も記録がある。家伝つくりならやはりお寺の過去帳を調べて廻るのが仕事だろう。・・井月がここに足を運んだのはまちがいない。日仏修好通商条約(1858)が結ばれて翌1859年にここにフランス領事館が置かれた。この頃は井月は伊那に出没。長岡藩は河井継之助がときめいていた。

・・竹芝寺の跡地というが、

「・・これはいにしへたけしばといふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(えじ)にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾のきはに立ち出でたまひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と仰せられければ、酒壺のことをいま一かへり申しければ、『われ率て行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。」

・・ここでおもしろいのは、火たき屋の衛士のひとりごと。

『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』

 帝の御むすめが興趣もつのも無理はない。

・・済海寺の隣には亀塚がある。ここの由緒は、

「亀塚の山頂にある酒壷から出てきた亀を神として祀っていたが、ある風雨の夜に酒壷の亀が石と化した」

・・武蔵竹芝とは、この伝説が発祥。やがて源経基、平将門、武蔵竹芝の争乱の時代になる。天慶二年(939)。

・・亀塚の高台から下に第一京浜があって騒がしい街道だが、昔はこのあたりまで海だった。それでこの高台は眺望よろしく「月の岬」と呼ばれていたか。品川から船の出入りもあったから、遠来の客も多く遊郭もあったはず。公園の交番で尋ねてみた。江戸時代のことはさておき昔ながらの遊郭は今でもいくらか名残をとどめてあるらしい。品川海晏寺を尋ねてついでに多摩川までの最良の出方を尋ねた。あまり遠方のことはわからない。大井町の駅から国道1号に入ってもよいがそのまま直進、環八を越えて中原街道に出るのがよいらしい。洗足池、雪谷、丸子橋にでる。

・・都心ロングライドは、最後の目標品川海晏寺まで。白井鳥酔、加舎白雄の墓がある。なぜ海晏寺かというのはよくわからない。1788年に芭蕉百回忌繰り上げ法要があり、白雄をはじめ錚々たるメンバーが参加した。

> 鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和6年4月4日に歿した。
                     東京都教育委員会

   鳥酔居士之墓

あぢさゐのかはりはてたる思ひかな     『しら雄句集』

安永4年(1775年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔七回忌法要を営む。
天明2年(1782年)4月4日、白雄は海晏寺に鳥酔の墓参。
天明5年(1785年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔十七回忌法要を営む。

・・鳥酔の墓の隣に白雄の墓もあった。

725秋魚:2016/11/07(月) 23:08:02
(無題)
・・沢井のガーデンギャラリーに木工とガラス工芸の展示を見に出た。木工の五十嵐さんからの案内があった。自転車で沢井はほんとに近い。先日柚子の里を訪ねたばかり。ここの柚子は蕎麦つゆに柚子果汁を入れるとほんとによい味になる。澤乃井の蔵元で酒も呑めるか。温泉の帰りにでも寄ろうかと思案したが天気がよいのでポタリングになった。

・・沢井は休日はやはり人出がおおい。ままごと屋の豆腐料理を一度頂いてみたいと思う。会場は作家さんと奥さんが顔を憶えていてくれてうれしかった。実はこちらが記憶があやふやでした。二年ぐらい前からのお知り合いでしたが、なにか修羅場のロングライドがいくつもあって遠い過去のことのようでした。

・・「埋れ木」の話を昔してくれてそれをきのう想い出していた。埋れ木でつくる木工作品。「埋れ木」は俳諧の秘伝書だけど。北村季吟が芭蕉に伝授したという。・・で、やはり鳥海山で採取した埋れ木の酒枡があった。鳥海山までいったらしい。埋れ木のよほど古い亜炭は香炉の灰でつかうとか。仙台の名取川は埋れ木で歌枕にもなるという。この埋れ木はすこし飴色があってそれがよかったか。

・・木目を生かしたよい作品。冬目春目などあるという。

・・帰りに裏道を通ったが、柚子は黄金に色づいてさすが。驚いたのはたぶん芭蕉の木があった。立派なものだ。

・・あきないポタリングコース。自治会の運動会でわかったが梅郷地区の小学校は五小がただひとつ。御岳山の山の上の子供もここまで通うのだそうだ。中学校は西中というのがやはり多摩川南岸に沿ったところにひとつ。ここは好文橋で石神前の駅から渡ってすぐのところ、自然の環境は抜群。ただしこのあたりでも最近クマが出没捕獲されていた。

・・先日のわれわれが作った花壇はもう花苗が植えられていた。

726秋魚:2016/11/17(木) 23:32:26
(無題)
「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」  王守仁

・・河井継之助が愛誦したという。

>・・朱子学から出発し婁諒(ろうりょう)(1422―1491)に師事するが、しだいに懐疑を生じ、病を発するに至る。会試にも失敗し、任侠(にんきょう)、騎馬、文辞、神仙、仏教に惑溺(わくでき)(陽明の五溺)する。28歳、進士(しんじ)に合格、官途につくが、道仏二教への専心は31歳まで続く。35歳、宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)(?―1510)の意に添わず、廷杖(ていじょう)四十を加えられたうえ、貴州竜場駅に流謫(るたく)された。ことばも通じない僻地(へきち)竜場で、37歳の守仁は「聖人の道は、吾(わ)が性に自足している。以前、理を事物に求めたのは誤りであった」と悟る(竜場の大悟)。
                  ・・ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

727秋魚:2016/11/18(金) 23:02:39
(無題)
・・一週間ほど前から急に冷え込みが進んだ。夏暑くて秋よく冷え込むと紅葉が冴える。思いついて紅葉見のポタリングにでた。先日の沢井から御岳古里鳩ノ巣白丸、数馬峡という川合玉堂絶賛の楓峡は以前にも訪ねた。思いついて天気さえよければ何処でも行ける。自転車のよいところは筋肉運動より何より呼吸器系のサイクルが活発になり細胞や脳の神経系もよく働く。家に篭もって妄想の囚になるのを防ぐ。妄想が進むと外界が恐怖に思える。

・・ポタリングは外界が新鮮なのがわかる。柚子は更に色づいて黄金の木があちこち。観光地に近いところは袋2百円で置いてある。平日で昼前に出たから青梅街道の車も比較的少ない。それでもヒマな人はけっこういる。紅葉見のドライブやハイカーによく会う。御岳−川井間というのは長くて道幅もせまい。川に面して走るのはやや危険。後方の車を気にして走る。五月に柳沢峠に走った時は猛烈な騒ぎだった。バイクライダーの群れがいくつも来た。チャリダーは一人勝手だが孤独を楽しめる。

・・今日はほんとは「もえぎの湯」の温泉だけが目当てだった。紅葉などほとんど期待はない。

・・それにしても驚きのアメリカ大統領選挙。トランプ劇場の相を呈して来た。アメリカとメキシコの国境に万里の長城をつくるとか、イスラム教徒の入国を禁止するとか、日本韓国から米兵を撤退させるとか、・・どうなることか。

「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」  王守仁

・・せせらぎの音美術館の紅葉は旬。水香園はこれから。数馬峡橋は絵になるのかカメラマンが狙っている。一日の時間帯で光の具合が千変万化する。絞りがどうのシャッタースピードがどうの囁き声を聞く。・・なるほどね。もうすこし先行ってもえぎの湯をめざした。数馬の切り通しは以前通ったと記憶したがあれは間違い。トンネルのある切り立った崖の上にあるらしい。途中まで登って引き返した先のようだ。ここらあたりはまた別口で歩かねばわからない。・・もえぎの湯は氷川の七曲の下にある。もえぎという色は好きだ。「若草の萌える頃」という昔の映画は題名だけでよかった。俳句だと「木の芽どき」というのがある。ものぐるほしい。・・トンネルの脇から旧道に入ってゆくと古い馬頭観音が祀られてあった。文化十一年(1814)という。この観音像、三面で憤怒の相。ラーフ(羅睺星)に似ていて思わず立ち止まる。あとで調べたら馬頭観音は三面八臂のものが本来のものらしい。(いや、いろいろあるか)

ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話があるらしい。
「・・毘紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して,悪魔に奪われたヴェーダ(インド最古の聖典)を取り戻したという説話が起源」


・・道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)の3つ。

三古湯といわれる。

和歌の浦を見晴らす藤代峠だが、有間皇子の墓がある。

有間皇子

・・640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。(ほんとかしら?)・・父孝徳天皇がいなくなり,子の有間皇子は次の天皇の候補者として表に出されるようになる。しかし,中大兄皇子の存在は脅威であったろう。日本書紀によると657年9月,18歳の有間皇子は狂人のふりをしたとある。皇子はその治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯にでかけた。

都に戻った有間皇子は斉明天皇に「その場所を見ただけで病気が治る」と牟婁(むろ)の湯のことを報告した。この言葉を聞いた天皇は大変喜んだ。

・・658年10月,斉明天皇は有間の皇子の薦めにより,中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に船を使って行幸した。

・・天皇らが飛鳥を離れている11月のある日(3日か),都に残って留守役を勤めていた蘇我馬子の孫の蘇我赤兄(あかえ)は有間皇子の市経(いちふ−奈良県生駒町)の家を訪ねた。
赤兄は有間皇子に天皇の3つの失政を語った。
?天皇が大きな倉庫に人々の財を集めている。
?大がかりな土木工事を行い,長い用水路造りを行っている。(「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれていた)
?船で石を運んで丘を築き,人々を苦しめている。
これを聞いた有間皇子は赤兄が自分に好意を持っているといたく喜び,「我が生涯で初めて兵を用いるべき時がきた」と言った。

・・

ともかく、有間皇子は藤代峠で(中大兄皇子に)絞殺された。


!・・温泉のことは、古今伝授と同じく他言は凶兆。

728秋魚:2016/11/24(木) 01:50:20
(無題)
・・自宅から歩いていける所に関東平野を一望できる場所がある。きょう分った。運よく自治会のハイキングプランに参加して馬引沢、赤ぼっこを歩いた。すぐ裏手の丘陵の尾根道らしい。ハイキングコースがあるのは知っていたが普段誰も歩いていない気配だった。これは絶好の機会。迷わず参加した。・・青梅は最近クマが出没するので話題になった。多摩川沿い二俣尾、青梅美術館の下の釜の淵の川べりでもクマが出た。青梅丘陵ハイキングの道でもクマの足跡が見つけられた。矢継ぎ早に防災のアナウンスがある。テレビを見ないので知らなかった。ニュースで画像が流れたという。・・それでハイキングも中止になるかと心配したが、鈴を鳴らして歩けばよいと進言した。天気も曇りでまずまず。自治体の70人近くの参加だった。思った通りお年寄りが果敢に参加してきている。あと小さい子供も。

・・こんなおもしろいハイキングはない。馬引沢というのは多摩川にそそぐやや大きな沢がある。その沢に沿った道をあがったところ。昔は馬が歩いたらしい。馬頭観音があった。安永三年とある。1774年。この時代の天皇は後桃園天皇。後桜町天皇を継いだ。次は波乱の天明期。漂泊の文人中原章が青梅にあらわれたのが応永五年頃のこと。・・この馬頭観音、牛馬安全とあるが、先日の氷川での馬頭観音と比べてもろ牛馬の守護神で柔和なお顔だ。あちらは文化十一年(1814)だからこちらの方が古い。奥多摩の難所七曲りの馬頭の意味が強烈なのがよくわかる。それにしても江戸時代中期に「安全」などという言葉があったのか不思議に思った。調べてみたがよくわからない。

・・さてその馬頭観音の道をもうすこし進むと突き出た岬のような「赤ぼっこ」に着いた。急に見晴らしがよい場所にでた。ここです。奇跡の場所は。「赤ぼっこ」という名は新しいものだ。1923年(大正十二年)九月一日に起きた関東大震災。この時、山が崩落して赤土のこの部分が山塊で残った。赤土がぼこっと出てそれで「赤ぼっこ」というようになった。それが由来のようだ。

・・この丘にぽつんと一本のヒノキの木が立っている。赤土というのはめずらしかった。富士山の噴火でとうぜん赤い灰が積もるはずだが。多摩川沿いの河岸断層にはあまりみられない。霞川のあたりの低地も赤土はみなかった。青梅の低地は洪水とかで赤土は流されるか腐植土に変化していくか。山の一部に腐食されずに残るか。ずっと昔は白い石灰岩の層があちこち見られた。・・植林された杉の木の伐採をここでもやっている。おかげで眺望はひらけた。雨上がりで晴れはしなかったが、霞がとれて見晴らしはきく。ずっと北東に二峰の山は筑波山、東にスカイツリー。正面やや西よりに日光男体山。いつか御岳山から一望した時はこの男体山に雪がみえた。・・なにより筑波山がはっきり見える。

729秋魚:2016/11/24(木) 21:43:22
(無題)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌

八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里

玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


・・中皇命とは誰だろう?

間人皇女か、斉明天皇か

730秋魚:2016/12/08(木) 01:04:34
(無題)
「京の天子こそ日本における唯一の合法的主権者であり、将軍とその幕府は仮政権にすぎぬ。強いてその存在を合法化するとすれば、将軍は天子から仮に日本の政治を委託されているにすぎぬ」
これが、水戸学の尊王思想であり、日本におけるあらゆる読書階級(将軍、大名、幕吏をも含めて)は時代思想としてそれを是認するようになっている。幕府の創設者である徳川家康の思いもかけぬ思想であったであろう。
「そんなばかな考えはない」
 と、国際法的な立場からフランス公使などは幕府を勇気づけてはいた。フランスははるかな以前に革命をおこして王家は倒れており、その後曲折をへてナポレオン皇帝が出現し、それも倒れ、いまはナポレオン三世があやしげな術策を弄してあらたに帝位についているため、自国の状勢から考えても将軍を皇帝とみなしたい。が、他の国の外交団は、すでに天子こそ公式の元首であるという実情に気づいている。

『峠』より


狭井神社

・・大神神社のご祭神・大物主大神の荒魂(あらみたま)をお祀りする、平安時代の『延喜式』にも記されている古社。古くより華鎮社と称され、病気を鎮める神としての信仰が篤く、拝殿脇にはご神水の湧き出る薬井戸があります。大神神社と狭井神社の両社で執り行う「鎮花祭」は、『大宝令』に毎年必ず行うよう定められ、春花びらが散るのとともに、はやる疫病を鎮めるために行われています。

731秋魚:2016/12/11(日) 14:27:56
(無題)
・・この天地が崩れる」
という予感を河井継之助がもったのは、そういうことである。繰り返すと、慶応二年のおけるつぎの四つの出来事による判断であった。
夏 長州征伐における幕軍の連戦連負
夏 将軍家茂の病死
冬 徳川慶喜の将軍宣下
冬 孝明天皇の死

(えらいことになる)

・・慶応二年十二月二十五日、孝明帝崩御。

732秋魚:2016/12/15(木) 01:32:24
(無題)
・・あの鳥は鶺鴒だった。どこで見たのだろう。鶯ほどの小さな鳥でうっすら緑色だった。どこかの川べりだったか。古今伝授の鳥を調べていて思い当たる。

・・神武がトビヒコと戦ったのは龍田川とある。負け戦で五瀬命は傷を負った。母の木に隠れた人は難を逃れたという。この木はそのままなら栂の木だが。この木も知らない木だ。モミに似た針葉樹という。たぶんこれも見ているはず。

・・もうひとつ梓の木もわからない。梓弓をつくる。

ミズメというのがそれらしい。

・・梓は、別名を「木王」といい、百木の長として尊ばれた。

カバノキ科カバノキ属の落葉高木。ヨグソミネバリ(夜糞峰榛)、アズサ(梓)とも呼ばれる

・・この木もたしかに見た憶えがある。サクラに似ているという。


 よし、今度山に入ったらこの栂とミズメを見つけよう。

733秋魚:2016/12/19(月) 22:36:36
(無題)
永正元年(1504)十月 三島神社「出陣千句」

たなびくや千里もここの春がすみ  今川氏親
青柳やかげそふ三島木綿かづら    宗長
・・

天正十八年(1590)三月秀吉「戦勝祈願」連歌

関越えて行く末なびく霞かな   紹巴
・・


足柄の関路こえゆくしののめにひとむら霞む浮島の原

                 藤原良経

【新羅三郎義光吹笙の石】
 新羅三郎義光が、後三年の役に出陣の際、足柄峠で笛の師、豊原時元子、時秋に相伝の秘曲の奥義を伝えたとされる



いなおおせどり  帝の比喩   すべての鳥の根源だから
よぶこどり    関白の比喩  当期を知らせるから
ももちどり    臣の比喩   さえずる様が、群臣の王命に従うようだから

734秋魚:2016/12/22(木) 15:48:28
(無題)
>・・成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。

・・ここの本尊不動明王像は空海作といわれる。
「成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です」

 不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ [2](?????? [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。

「たとえば、不動明王は火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、民衆を教えに導きながらも人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう聖なる炎で焼き尽くすと言われる。この為、炎の神力を以て祈願を行う護摩法要の本尊には、炎を司る不動明王と成る事が多い。」

・・明王は一般的に忿怒(ふんぬ)の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち、法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし、武器類を手に持った姿で表現されることが多い。

・・大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。
 大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。
 不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。

・・


「・・越路の雁も帰るなる、名残の空の八重霞、頃は弥生も晦日がた、・・花ノ香くもる駒ヶ根の、梺につゞく駅路や、赤穂の町は取分けて、・・祭れる法の光前寺、神かあらぬか昔より、伝ひて諸人群集する、例は不動明王と、檜舞台で近付に、成田を茲に移し絵や、・・


光前寺  長野県駒ヶ根市赤穂 北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

成田山新勝寺 千葉県成田市成田 北緯35度47分9.79秒 東経140度19分5.79秒

青梅金剛寺  東京都青梅市天ヶ瀬町 北緯35度47分21秒 東経139度14分57秒

隅田川神社?? 東京都墨田区堤通 北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒

大悲願寺????東京都あきる野市横沢  北緯35度43分56.5秒 東経139度14分29.7秒

六義園  東京都文京区本駒込六丁目  北緯35度43分59秒 東経139度44分48秒

大菩薩峠 N35度44分09秒 E138度51分12秒
長岡駅  N37度26分49秒 E138度51分13秒

木母寺  東京都墨田区堤通  北緯35度44分01秒  東経139度48分51秒


・・木母は、梅のこと。

735秋魚:2016/12/23(金) 19:59:40
(無題)
心には見ぬ昔こそうかびけれ月にながむる広沢の池
                 (藤原良経 秋篠月清集)

いにしへの人は汀に影たえて月のみすめる広沢の池
                 (源三位頼政 新千載集)

736秋魚:2016/12/24(土) 18:55:29
(無題)
・・ネットで調べものしていたら、温泉マニアのブログの人は日本の温泉1400海外73とかもう40年近く温泉巡りをやってるとか、墓マイラーというのがあるようで著名な芸術の恩人の墓を訪ねて歩く人もいてほかに芸術ジャンキーのHPで盛り沢山のアクセス数が6千万突破とか、恐れ入ることが多い。芭蕉など俳人歌人の句碑を訪ねて温泉もよく廻る人のHPがお気に入りで、ある時メール入れたら丁寧なお返事があり、うれしかった。この方のでも50万くらいのアクセスがある。主に車でまわられてるようで、何よりヒマの都合をつけるのがむずかしいはずだがそこは出家に似た割り切り方があるようだ。経済基盤はそれぞれであまり詮索しないことにしている。インフラ度合いを考えてもたぶん自分のマニアックな温泉巡りは一生かけても到底追いつくまい。なにせ自転車だからね。・・車に乗ったり電車に乗ったりたぶんこれを外すのが旅の最大の節約仕事になってるから、羨望もないが。

・・余計なことを書いた。彼らの記録は時としてとても刺激になる。深謝。

・・自転車のタイヤ交換をする前にもう一度補修してしばらく様子見にした。自転車についても工学からツーリングまで上には上がいるのもよくわかる。ブレーキワイヤの交換とかチェーン調整、ディレーラの設置調整とか自分には未知のものがまだ多い。体が動くうちにロードバイクに乗ってみたい気がするが、これは夢で終わりそう。

・・近場の芭蕉句碑を訪ねることにした。羽村福生の新奥多摩街道沿いにある宗禅寺と神明社。以前から何度か前を通っていたが芭蕉の句碑があるのは知らなかった。例によってムーミンパパの温泉HPに感謝。

・・思い立って自転車に乗ると奇跡が起こる。新奥多摩街道を河辺あたりすぎて交差点で信号待ち。ちょうど居合わせた婦人が抱えた切り枝を見た。赤い実黄色い実で葉も青々してる。これは憶えがある。何ですか?ナンテンです。と、いったが違うでしょう。実は似ていても葉が違います。万両千両に似ているが枝も葉もちと大きい。いつか調べたアザカだと思った。・・なにか名を聞かれて急に一本わけてくれた。どうぞ、お正月まで持ちますよ。自転車に乗っていていただき様もないのだが、うれしかった。こちらの興趣にあわせてさらにもう数本。私も貰ったのよ。・・家で調べたら、やはりアザカだった。アザカというのは沖縄で憶えた。本土ではリュウキュウアオキとかボチョウジとかいう。葉が対生して上から見ると十字になり聖木とある。たしかに対生十字だ。実が黄色いのはやがて赤くなる。久高島のイザイホーで巫女が身につける。アザカという名は沖縄でしかない。・・それで青梅のこんな片田舎であるのが不思議だった。奇跡だ。

・・羽村市川崎にある宗禅寺はすぐにわかった。正門の前に来たがこの日はあいにくの葬儀があって境内に入れない。臨済宗建長寺派ということで句碑はあきらめた。福生の神明社もほど遠からぬところにある。いつもはこの横の道から多摩川の堤に向った。神社の裏にでて、楠木の大きいのがみえる。さらに枝垂れ梅の形のよいのが何本もある。花はまだない。

春もやゝけしきとゝのふ月と梅

・・福泉居友甫が自己の還暦に建立。

是からもまたおもしろき花の春

・・裏に友甫の句がある。

・・ここは梅の名木が多い。楊貴妃などの梅もある。・・観梅の頃また訪れてみたい。

稲荷神社がまた別にある。・・ほか近くの寺社の薬師堂もある。添え書きによると、薬師の功徳を求むるに「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」という妙号を唱えるべしと。

737秋魚:2016/12/26(月) 21:42:39
(無題)
・・葛飾北斎がシーボルトに請われて描いた絵があるという。どんな絵だろう。北斎の娘で葛飾応為というのもよく絵をした。『吉原格子先之図』という吉原遊郭での遊女の客見せの絵は魅かれるものがある。遊女を明るい座敷に集めて格子の外から客が相手選びをする。アムステルダムかどこかにガラス窓の娼婦という辻があった。似ているか。明暗の描法が西洋画のレンブラントに倣ったのではないかとか、江戸の絵画としては光の具合が斬新だ。
北斎と応為を描いた『北斎漫画』という映画を昔観た。図書館にDVDを借りにいったが、あいにく貸し出し中。代わりに内田吐夢『宮本武蔵/巌流島の決闘』を借りた。・・三部作の終章で武蔵vs小次郎の決闘の瞬間が特に魅かれる。巌流は小次郎が独力で編み出した剣術という。武蔵の二刀流もそうだ。際立った個性の剣術が雌雄を決する。こういう宿命が避けがたく存在することは、胸が震える。

・・無益な決闘などもうやめてほしい、ツウはいう。剣の道を究めようとした発心の計からすると演算のゆくすえは仮に変更が効かない。計算ミスがあるとしたらはじめの一歩だろう。宿命は精密な科学に似ている。小次郎も武蔵も宿命を受け入れるのが天才の宿命たる所以。紙一重の宿命だった。

・・青梅駅の裏手から鉄道公園の方に坂をあがって丘陵のハイキングコースへ出た。このあたりも入り組んでいて楽しい道だ。いつも新鮮な発見がある。金刀比羅神社が尾根山のもっとも東の端にある。ここにも芭蕉の句碑があるという。以前青梅丘陵を歩いた時は、句碑はずっとコースを進んだ山の中にあって不思議だった。記憶違いか。神社にはたしかに句碑が二つ。しかし読めない。「行く春に和歌の浦にて追いつけり」という句碑と聞いている。・・それよりここは見晴らしがよい。変わったものがあった。十二方角碑という。「寛政九年(1797)建立。安山岩製、頂部が錐形、十二角の柱状で、・・十二面の角柱に、それぞれの方角を示す十二支が漢字で刻まれている。・・」壷の碑に擬してとあり、青梅の文化人が建立したものだ。

金刀比羅神社   北緯35度47分34秒 東経139度15分30秒

・・ほかに本殿の裏に亀の像がある。この山は昔北斗山と呼ばれ七星権現が祀られていた。北斗妙見塚の由緒が古い。

・・栂の木もある。モミに似ているが栂であろう。

738秋魚:2017/01/12(木) 00:23:03
(無題)
・・今日の初乗りはおもしろい。五日市の瀬音の湯をめざした。吉野街道を西にのぼり和田橋をあがって梅ケ谷峠にむかう道がある。たいへんな急坂だがここを越えると日の出に入る。例の日の出山荘にゆく道だ。以前来たことがある。あの頃は梅がまだ咲いていた。日の出に入るまでは殺伐な道と覚悟していた。吉野街道を下って秋川街道から日の出あきるのに向う道はもっとひどい。車がぶんぶん。でこちらの梅ケ谷経由を選んだ。思ったとおり歩行者もチャリダーも皆無。車だけはけっこう走る。ひっそりした山の中で熊がいないか見たりする。この頃は冬眠しないだそうだ。坂は二段坂。一度のぼってさらにもう一段。坂は実はあまり恐くはない。ダンプとかの大きいのが苦手だ。日の出の道はのんびりしている。ここから秋川街道に合流して先は下りで車も多くはない。・・ほどなく五日市の駅前にでた。元日で観光案内所はお休み。交番が仕事する。やあやあと笑顔で挨拶。元日からすみません。温泉ではなく光厳寺というお寺はどこですか。檜原街道の戸倉あたりから山へ向うのは家で調べてあった。交番の巡査三人くらいいて光厳寺といってもすぐにはわからない。地図をひろげてああでもない。こうでもない。山桜のたいへんな古木があって花の季節がよいという。南北朝の頃に光厳天皇が流れてきていたそうだ。即位する前だけど。由緒深いお寺です。地図を開くとさすがに巡査は教えるのがうまい。骨子はすぐにわかった。もうひとつ深沢はどうやってゆくのですか。穴沢天神にゆきたいのです。穴沢天神は知らないけど深沢までの行き方は迷路のように入り組んでむずかしいですよ。駅の裏から一本道とみましたが。しかも上り。光厳寺も上り。上りを強調するが、実はこわくない。きょうの梅ケ谷峠越えほどではないだろう。深沢はただ距離がそうとうあるらしい。これも骨子をきいて、ありがとう。このありがとうという言葉はとてもいい。

・・殺伐とした道を抜けてくると出会う人はだれでもなつかしく思える。気安く話しかけるのがクセになった。ただ道をたずねるという話だけだが。西戸倉のバス停から左折して坂道をのぼる。山の上だそうだ。途中夫婦で歩いてる人がいてたぶんどこかの神社だろう。光厳寺はこの道ですか。はい私たちも行くのです。ありがとう。自転車はまだ大丈夫。やがて急坂になったら足着いてのぼる。三島神社というところにでた。運よく参道を降りてくる婦人がいる。ここで光厳寺を尋ねると、あの山の上だという。で三島神社も由緒ありそうですね。そうです。名前からして興趣ある。・・今度訪ねてみます。(実は帰りに寄ってみた)・・光厳寺に着いた。

・・下見のつもりでいた。瀬音の湯から周囲の土地にあまりにも寄らずに来た。この光厳寺には山桜の古木がある。山の上で見晴らしもよい。七福神の訪問があって人もそこそこ。桜は花はないが古木はみごと。花の季節にまた来てみたい。山桜というのがいい。千両か万両か赤い実がたわわ。南天もある。周囲の里山の眺めも抜群。正月から楽しくなった。

・・晦日に観た『北斎漫画』という映画。これも楽しいものだった。なんか傑作ですね。新藤兼人はもっと評価されるべき。田中裕子演じる娘のお栄も絵を描いたが、その辺はエピソードにもない。樋口可南子演じるお直がすばらしいが、この女実在したかどうか。そんなことはどうでもよい。ともかく傑作。

・・山桜、やまざくら、花がみたい。温泉は来てみてわかる。いかに人が集まるか。二年まえに来た時と客層がすこし変わったか。正月の穴場という風があったものだが、すっかり若者も多く温泉のメッカさながら。リピーターが増えているか。源泉は加水なく温泉本来のぬるみが保たれている。正月にここは正解。

・・曲亭馬琴は「くるわで誠」というヤボをこめたという。読み本書きだが俳諧もよくした。『南総里見八犬伝』は長くてとても読みきれそうにない。あんな荒唐無稽な話をよく続けたものだ。プルースト『失われし時を求めて』に匹敵するとか。幕末ものの『大菩薩峠』もだらだらと長い。あきさせないというが自分は読んでない。映画をみたくらい。失われし時は自伝だが、八犬伝や大菩薩峠はまったくのフィクション。江戸というのがキーワード。

739秋魚:2017/01/02(月) 22:44:21
(無題)
曲亭馬琴  明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日)
為永春水  寛政2年(1790年) -天保14年12月23日(1844年2月11日)
葛飾北斎  宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)
葛飾応為  寛政13年(1801)?‐慶応1865〜?生没年未詳
武志伊八郎 宝暦元年(1751)-文政7年(1824)
井上井月  文政5年(1822)-明治20年(1887)
寺門静軒  寛政8年(1796年) - 慶応4年3月24日(1868年4月16日)

・・為永春水は、江戸時代後期の戯作者。『春色梅児誉美』など人情本の代表作家。・・
天保の改革下の1841年(天保12年)暮、人情本の内容が淫らであるとして、北町奉行遠山景元の取り調べを受け、翌年手鎖50日の刑を受けた。それを苦に深酒して強度の神経症となり、1843年(天保14年)の暮れに没した。

・・寺門静軒は、幕末の儒学者。水戸藩御家人であった寺門勝春の子として生まれ(生母は河合氏)、13歳で父が死ぬが、彼は本妻の子ではなかったために後を継いで仕官する事が許されなかった。・・天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆する。天保6年(1835年)3月、青表紙本検閲の最終責任を負う昌平坂学問所・林述斎の助言を受けた江戸南町奉行・筒井伊賀守の命により、『江戸繁昌記』初・二篇は「敗俗の書」として出版差留の処分を受ける。・・天保13年(1842年)には江戸南町奉行・鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた『江戸繁昌記』は「風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引証…聖賢の道を穢し」たと判断され「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。・・以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

740秋魚:2017/01/05(木) 03:22:20
(無題)
・・かやうな偶然性は単一者が同一性を以て数度繰返される点において、「失はれし時を求めて」の著者プルウストをして云はしむれば『それらは現在と過去とに同時に存在し、現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。・・・時間の秩序から解放された一刹那が、時間の秩序から解放された人間を我等の中に再び造り出し、さうしてその刹那を感覚させるのである』

・・藤壺、空蝉、夕顔、六条御息所、紫上、末摘花、源典侍、朧月夜内侍、葵上、花散里、明石上、斎宮女御、朝顔、玉鬘のすべてが光源氏にとつては同一性をもって繰返された「幸ある偶然」である。

741山田:2017/01/05(木) 23:03:53
(無題)
自然居士

・・和泉国日根郡自然田村の人、法相の学を修めのち、禅宗に入り、南禅寺の大明国師に師事し、東山雲居寺に住した、頭を剃らず、法衣を著せず、時に或は袈裟を纒うて高座に登り、或は鼓を撃ち扇を取つて舞ふ、蓋し仏道を説いて衆生を帰依せしめやうとする方便である、その自然田村に生れたので自然といひ、僧侶でなく法を説くので居士と称したのである、東岸居士はその弟子であり。謡曲『自然居士』はこれを作つたものである。

・・ 雲居寺は、隋代の高僧静琬が建立した寺で、山麓沿いに建築物が建立された。静琬は、南北朝の廃仏中に多くの仏経が破壊されたが、石刻の仏経(=石経)の多くは破壊を免れたことを教訓に、山上に石を鑿って石室を造り、石経を作成し仏経を保存した。唐の開元年間と遼代に刻経活動は最盛期を迎え、唐代には玄宗によって『開元大蔵経』が雲居寺に下賜され、刻経の底本とされた。

遼代には、『契丹蔵(契丹版大蔵経)』を底本とした刻経が行われた。今日では、その双方の大蔵経が亡佚したため、雲居寺の石経は、その他の版本と校勘する際の一次史料とされている。刻経が盛んに行われ遼代には蔵経洞に石経を収容しきれない状況となったため、山麓に別の石室を穿ち、石経を安置した。刻経活動は、明代まで継続され、刻造された石経は計14,278枚に及んでいる。(wikiより)

・・貨狄尊者(かてきそんじゃ)または貨狄さま(かてきさま)とは、栃木県の龍江院に安置されていた木像の名称。「木造エラスムス立像」として国の重要文化財に指定されている。
・・本像は栃木県佐野市上羽田町の龍江院に伝来してきた古い木像で、長年、古代中国の伝説上の船の発明者である貨狄[4]の像とされてきた。しかし、1920年(大正9年)に足利市の郷土史家丸山瓦全により「耶蘇教僧木像」と紹介され、更に写真が1924年(大正13年)から2年間、バチカンで催された世界宗教博覧会に「在日本キリスト教聖人像」として出品され・・この像は1600年(慶長5年)3月16日に豊後国(大分県)の浜辺に漂着したオランダ船リーフデ号(前名エラスムス号)の船尾飾りであり、オランダの人文学者デジデリウス・エラスムス(1466年 - 1536年)の像である事が判明

742秋魚:2017/01/07(土) 02:21:19
(無題)
・・市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

初代 市川團十郎(しょだい いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。

初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。
・・「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。

・・昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。

・・彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。
                           (wikiより)

初代1675?1704 |二代目1704?35 |三代目1735?41 |四代目1754?70 |五代目1770?91 |六代目1791?99 |七代目1799?1832 |八代目1832?54 |九代目1874?1903 |贈十代目 |十一代目1962?65 |十二代目1985?2013 |

・・天保13年 (1842)、天保の改革の旋風が吹き荒れるなかで、海老蔵は突如江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十里四方処払いとなる。これによって江戸の舞台に立つことが不可能となった海老蔵は成田屋七左衛門と改名。一時成田山新勝寺に蟄居したのち、駿府へ移る。その後さらに幡谷重蔵と改名して大坂へ昇り、京・大津・桑名などで旅回り芝居の舞台に立った。追放の直接の原因は、奢侈禁止令に触れる派手な私生活と実物の甲冑を舞台で使用したというものだったが、要するに罪状は何でも良く、その目的は江戸歌舞伎の宗家として江戸っ子の誰もが認める「あの團十郎」を手厳しく処罰することにより、改革への腰の入れようを江戸の隅々にまで知らしめることにあった。

743秋魚:2017/01/07(土) 12:08:22
(無題)
荻生徂徠

・・江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[5]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。

元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。


宗祇

・・文亀二年(1502)、宗祇は弟子の宗長や宗碩たちと越後より関東を経て駿河に向った。七月下旬、鎌倉近きところ(相模守護代上田館)で千句連歌をおこない、その後、箱根山を越えようと湯本まで行くが、その夜、七月三十日、弟子たちに看取られて宗祇は亡くなった。このときのことは、宗長が『宗祇終焉記』に記している。
 宗祇から古今伝授を受け、親しくしていた三条西実隆は、宗長から『宗祇終焉記』と宗祇の遺物「沈香」「三両」などを送られた。・・実隆は、数年にわたり師事したときの高恩など、あれやこれやと忘れがたいとのべ、次の和歌を残している。

 魂と返す道なき箱根山 残る形見の煙だに憂し
 わが身こそ千々のこがねを報ひても 思ふに余る人の恵みを

744秋魚:2017/01/08(日) 01:05:57
(無題)
・・古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の聖学(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の総称。
・・
後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する。
江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。

古文辞学

・・古文辞学(こぶんじがく)とは、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派。蘐園学派(けんえんがくは)または徂徠学とも。江戸時代中後期に盛んとなった。学問的には朱子学を批判し、伊藤仁斎の古義学に対抗した。

古文辞とは、明朝で提唱された復古的な文学運動。模範とする古典を文は秦漢期、詩は唐に求めた。

山県周南
太宰春台
服部南郭

・・服部 南郭(はっとり なんかく、天和3年9月24日(1683年11月12日) - 宝暦9年6月21日(1759年7月15日))は、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家であり、荻生徂徠の高弟として知られる。・・京都の裕福な町人 服部元矩(もとちか)の次男として生まれる。母は蒔絵師の山本春正の娘吟子(ぎんこ)。父元矩は北村季吟に師事したこともあり、南郭は和歌や連歌など文雅の教養豊かな家庭で育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。

・・17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画業を認められ、これより18年間仕えることとなる。柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘚山、渡辺幹など)が仕えていたが、このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。

南郭は師 荻生徂徠から徂徠学(古文辞学)を受け、太宰春台とともに蘐園学派の双璧とされた。しかし、実質的には蘐園学派は、太宰春台や山県周南の経学派と南郭、安藤東野、平野金華の詩文派に分裂した。徂徠学は人間性を画一的に捉える朱子学を批判し、人間の個性を肯定的に捉えようとする学派であり、そのために古語の理解は不可欠とする。詩文においては盛唐の詩を是とした。南郭はもともと国風の和歌、連歌の素養があり、この盛唐詩の風雅をよく理解したといえる。政治や兵法書に興味を持たなかった南郭は、春台らの古文辞への痛烈な批判を全く無視し政治的現実から韜晦し、ひたすら詩文を楽しみ、そこに人間性の解放を求めた。

745山田:2017/01/08(日) 14:48:44
・・
落花狼藉

https://www.youtube.com/watch?v=9LA3tXIcz1Y

746秋魚:2017/01/13(金) 23:42:33
(無題)
(黒漆の崑崙夜裏に奔る)

・・江戸の闇の深さはこんなものだろう。応為『吉原格子先之図』、光と闇の等位を見る。


・・

今から10億〜20億年後には太陽の温度が少しずつ上がり、地球は熱くなって生物は住めなくなる。

50億年後くらいになると、太陽はその寿命を迎え、

どんどんふくらんで赤色巨星になり地球上の生物も高温のため滅亡する。

太陽は最終的にはその核が白色矮星になる


・・

秋葉山本宮秋葉神社
静岡県浜松市天竜区春野町領家841   北緯34度58分52.44秒 東経137度51分56.81秒

元善光寺
長野県飯田市座光寺2638   北緯35度32分2.65秒 東経137度51分23.48秒


・・麻績の里 舞台桜がすばらしい。

747秋魚:2017/01/17(火) 22:29:05
(無題)
・・去年訪れた浅草寺の裏手だが、葛飾北斎終焉の地というのがあった。聖天町遍照院というところだった。「人魂で行く気散じや夏野原」が辞世という。ここに待乳山というのがあって、こんもり寄らずに来てしまったが、あそこは武蔵の歌枕というのを最近知った。

亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿

真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む

まつちやまゆふこえゆきていほさきのすみだかはらにひとりかもねむ

万葉巻三(298)

・・すみだ川というのが詠まれてあっても、ここは武蔵の隅田川ではない。角太というのは奈良五条市の宇智の野を下り吉野川が紀ノ川になるあたり、橋本、奈良と和歌山の境目の山が真土山という。角太川というのは紀ノ川になる。

本来は大和紀州の歌だが、東国武蔵の隅田川に転写されたようだ。

・・ポタリングの記憶では、たしかに待乳山はこんもり小高い社があって階段を登るのが億劫で訪ねなかったように思う。案内板の北斎終焉の地を確認していっぱいだった。

『春色辰巳園』から、

夕越る人を待乳のさん茶舟          未詳

みをつくす心のたけは千尋にてとゞかぬ文のたよりつらけれ  小松

一りんの梅に雪ふるじれつたさ    清もと

うらゝかな春をかぞへん雪の梅    珍奇楼

748秋魚:2017/01/22(日) 00:23:49
(無題)
・・八十里越(はちじゅうりごえ)は、新潟県三条市から同県魚沼市を経由して、福島県南会津郡只見町に至る街道および峠である。

・・八十里越は、幕末から戊辰戦争時にかけて越後長岡藩の家老であった河井継之助が生涯最後に越えた峠であり、現在の只見町は継之助の最期の地として知られる。

北緯37度23分48秒 東経139度12分27秒

青梅市沢井軍畑駅  北緯35度48分27.4秒 東経139度12分27.8秒
青梅赤ぼっこ N35度46分06秒 E139度14分17秒
金刀比羅神社   北緯35度47分34秒 東経139度15分30秒

河井継之助記念館(終焉の地只見) 北緯37度23分52秒 東経139度21分31秒
阿豆佐味天神社 西多摩郡瑞穂町 北緯35度46分0.52秒 東経139度21分53.65秒

大菩薩峠 N35度44分09秒 E138度51分12秒
長岡駅  N37度26分49秒 E138度51分13秒

光前寺  長野県駒ヶ根市赤穂 北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

・・光前寺(こうぜんじ)は、長野県駒ヶ根市にある天台宗の別格本山の寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくさん)。院号は無動院。本尊は不動明王で秘仏。創建年 貞観2年(860年)

749秋魚:2017/01/24(火) 18:40:21
(無題)
遊獵

朝擇三能士
暮開萬騎筵
喫臠倶豁矣
傾盞共陶然
月弓輝谷裏
雲旗張嶺前
曦光己隠山
壯士且留連

旗 →(其→生)

        大津皇子 五言


・・

五言 遊吉野

飛文山水地
命爵薜蘿中
漆姫控鶴擧
柘媛接魚通
煙光巌上翠
日影漘前紅
翻知玄圃近
對翫入松風

・・
        藤原朝臣史


遊天台山賦(文選)

「王喬控鶴以沖天」

750秋魚:2017/01/31(火) 22:10:00
(無題)
・・継之助は、北へ駈けだした。
寅らも、あとを追った。半隊の兵も、疲労しきった体を前へ突き出し、のめるようにして駈けてゆく。
長町に入った。
継之助が家老になるまで住んでいた町である。武家屋敷がつづく。どの屋敷も、むろんあき家であった。
ぴしっ
と、板壁を飛弾が抜いた。と見るまに、継之助が駈けすぎた路傍に砲弾が落下し、夾竹桃をはねとばした。
さいわい、後続者にはけがはなかった。砲煙が、あたりにみちた。
―先生。
と、寅は叫んだ。継之助の姿が、砲煙のむこうに消えてしまっている。
一同が砲煙のなかを駈けすぎたとき、ふたたび前を走る継之助をみた。
「先生」
寅はふたたび叫んだが、継之助はどういうわけか、ふりかえらなかった。継之助が駈けぬけて行く家並の棟瓦を、天をゆく小銃弾が二つ三つ砕きとばした。寅は心配になってきて、
「先生」
と、三たび呼んだが、継之助はもはや往くことに憑かれたようになっているのか、背中を見せつづけている。足軽町の辻へ出た。左へ曲がればめざす新町である。
継之助は、まがった。このあたりはもはや戦場近くであり、弾が激しく飛んでくる。
「みな、続いているか」
というように、継之助はそのあたりの軒下ではじめて足をとめ、ふりかえった。継之助の頭上には、雁木があった。
雁木とは雪国の町に多い構造物で、町屋の軒から庇をながく張り出し、その下を冬季の通路とする。夏季んは、日よけになる。アーケードというべきであろう。
この庇の破れが、継之助の微笑に濃い翳をつくっていた。「きたな」と言うようにうなずくと、継之助はさらに飛び出そうとした。
むかい側の雁木に移るつもりであった。路上を横切った。
途中、流弾がきた。弾は継之助の左脚のひざの下を砕いた。
―あっ
と、後続者はみな声をのみ、さらに叫び、寅などは棒立ちになった。
継之助は、路上に倒れてしまっている。夏目貞五郎、堀忠一郎といった者がすばやく飛び出して継之助を抱きおこし、雁木の下に収容した。血が、すさまじいほど噴き出している。

・・

751秋魚:2017/02/05(日) 01:26:13
(無題)
・・おの/\こゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意せさせて、うちや
すみしに、夜中過るほど、いたくくるしげなれば、をしうごかし侍れば、只今
の夢に定家卿にあひたてまつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥
を吟ぜられしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、又このた
びの千句の中にありし前句にや、
  ながむる月にたちぞうかるゝ
といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みな/\付け侍れなどたはぶれにいひ
つゝ、ともし火のきゆるやうにしていきも絶えぬ。

・・箱根湯本での、宗祇の臨終の様子。夢の中で定家があらわれたといい、吟じた歌は「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」という式子内親王の歌。

玉の緒は玉を結びつける糸だが一つではなく複数の玉であろう。忍ぶ恋と題されている。

水無瀬川の記憶か?

式子内親王

後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。

・・定家との秘された愛恋は有名。

752山田:2017/02/05(日) 23:52:45
(無題)
??五柳先生傳

先生不知何許人,
不詳姓字,
宅邊有五柳樹,
因以爲號焉。
閑靜少言,
不慕榮利。
好讀書,
不求甚解,
毎有會意,
欣然忘食。
性嗜酒,
而家貧不能恒得,
親舊知其如此,
或置酒招之,
造飮必盡,
期在必醉,
既醉而退,
曾不吝情。
環堵蕭然,
不蔽風日,
短褐穿結,
箪瓢屡空,
晏如也。
常著文章自娯,
頗示己志,
忘得失,
以此自終。

753山田:2017/02/06(月) 00:24:41
(無題)
 「五六月中、北窗下臥、遇涼風暫至、自謂是羲皇上人。」


南郭子綦隱几而坐,仰天而?,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎。形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎。


・・北窓vs南郭

北窓は月無しで牡丹餅のこと。

南郭は廓の南、玉の井でウツケ。

754秋魚:2017/02/08(水) 00:52:37
(無題)
・・最新のパソコンネット事情に挑戦して四苦八苦。政府を狙うハッカー攻撃というものはないが、弱小パソコンオペレーターには企業からの小ざかしい仕掛けが続く。いわゆる成り行きに任す応対が積もるとろくなことは無い。意を決してアプリケーションの削除アップデート等試みた。間違った削除もあってシステムの復元などもやった。古いOSやアップデートを無視するとエラーのブルースクリーンが出たら要注意。スパイウエアごときは堂々と送ってくる。

・・とりあえず5年延命策のネット体制をつくった。win10にも挑戦。

二月に入って梅があちこちほころびはじめた。福生の神明社に枝垂れ梅のみごとなのがあって、機を逸してはなるかと、今日ポタリングに出た。近場だが天気もよくこんな日は外に出ないと罰が当たりそう。福生の郷土資料館でも俳人森田友昇の展示がはじまった。ここも廻って来よう。
ネットで知ったが、最近自転車の本体の事故が多いという。ハンドルが折れたり、車輪がはずれたり、ハード部分の信じられない事故が多い。台湾製のものは頑丈なはず。GIANTはそれでブランドになった。自分のはもう五六年になるが、磨耗タイヤの交換くらい。ギアとフレームは強い。ほんとうはもう一台欲しいのだが。・・ものをどんどん捨てにかかっているのにダメですね。

梅はやはりみごと。芭蕉の句碑もあって刻んだ文字も辿れるが、かなりの達筆な文字。昔の人はたいしたものです。

755秋魚:2017/02/08(水) 12:50:15
(無題)
・・「森田文庫」というのがある。明治初期に活躍した多摩福生の俳人森田友昇。福生出身だが、多く横浜で生業を営んでいた。明治十二年に八王子星布の松原庵を四世で継いだ。多摩八王子横浜の俳諧を多く取りまとめた感があるが、余り知られていない。
今回の展示は、江戸画壇狩野家の画幅のほか、英一蝶の絵もあり、また元禄六年芭蕉怒誰宛書簡などめずらしいものがある。狩野愛信「騎牛笛吹童子図」狩野時信「大梅禅師図」英一蝶「東照宮強飯図」など興趣深かった。若山喜志子の色紙もあって森田家をよく訪ねたとのこと、理由を学芸員の人に聞いてみたがよくわからない。松原庵の榎本星布に憧れていてそれで訪ねたとも聞いているが、定かでない。・・書籍は「横浜地名案内」と句集「浅川集」というのが、おもしろい。森田文庫は一千点の蔵書があるという。今回の展示は入れ替えなく四月十六日まで開催。

756秋魚:2017/02/09(木) 02:16:57
(無題)
十劫正覚衆生界
一念往生弥陀国
十一不二証無生
国界平等坐大会

(二河白道図)1271信濃善光寺

757秋魚:2017/02/10(金) 03:03:00
(無題)
・・きょうは一日win10と格闘。もう少し若かったらジャンク品を拾ってきて改造パソコンを作って見たいところ。パソコン寿命は5〜6年というから中古のよいのが出回ってる。使い勝手のよいwin7もマイクロソフトはあと4年でお釈迦にする算段だろう。くやしいがwin10を一台導入した。自分の寿命というのもある。・・感想だが、コンピュータのシステムの内側をだんだん見えなくなっている。自動更新などもほぼ強制になっている。スマホやタブレット仕様で多彩なアプリソフトが組まれているが自分にはほとんど不要なものばかり。前回のwin10無料アップデートなんてのもいやらしいファイルをいくつも送ってきた。officeに付属したwindowspicturemanegerという画像ソフトはもう付いてこない。・・使いかってがよいので惜しむ人も多い。実はこのソフトだけ無料でダウンロードできる。ニューパソコンはまったく問題ないのがわかったので、このソフトのインストールまで挑戦。・・それにしても気になったのはアップデート更新の数が日に日に増えていくことだ。今中古でwin7をはじめると気が遠くなるような更新の数を強いられる。更新を停止するとかならずコンピュータは重くなる。・・愚痴はいうまい。既存のコンピュータは更新のおかげでとても軽くなった。

758秋魚:2017/02/16(木) 13:45:31
・・
(二九二)うりんゐんの木のかげにたたずみてよみける

僧正遍昭
  わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり

(二九三)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる

そせい
  もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん

(二九四)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる

なりひらの朝臣
  ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは


・・ソセイの歌だが「もみぢ葉のながれてとまるみなと」この「みなと」は特定できる。

竜田川の河口であろう。大和川に合流して大坂の海に入る。

神武軍退却の経路と重なるか?

・・

永承四年内裏歌合によめる

嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり(後拾遺366) 能因法師

・・734年畿内七道地震は、生駒山地系と金剛山地系の間の断層帯。竜田川大和川の筋か?

・・神武vs長髄彦の戦いのダブルイメージ。孔舎衛坂(くさえのさか)で五瀬命負傷。

「今我は是(これ)日?(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)る也。 若(し)かじ、退(しりぞ)き還りて弱きを示し、?祇を禮(いや)び祭りて、背(そびら)に日?(ひのかみ)の威(いきおい)を負い、影の隨(まにま)に壓(おそ)い躡(ふ)まん。 如此(かく)なせば、則(すなわ)ち曾(かつ)て刃に血せずして、虜(あた)必ず自ずと敗(やぶ)れん」

ちはやぶる →血は敗る


・・

安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

万葉集巻第十六 3807


(あさか山の歌)歌の心はかげさへ見ゆるとは高山のかげもうつる程ふかき水と云るなり。浅き水には物のかげのうつる事なし。されな浅くはおもひ奉らずといはんために影さへ見ゆるとよめるなり。大かたの山井はかげ浅き物なり。此山の井は深きなるべし。打見るにあさきやうなれども、まことはふかき水なるを国司の心にたとへてよめり

759山田:2017/02/17(金) 00:37:46
・・
元暦2年(寿永4年)2月19日  屋島の戦い
元暦2年3月24日  壇ノ浦の戦い。平家が滅亡
元暦2年7月9日 元暦大地震が起こる。地震の震源は京都盆地北東部で、マグチュードは7.9と推定されている[1]。

1185年  長明「方丈記」(1212)はこの地震だな。

鴨長明 1155−1216

760秋魚:2017/02/17(金) 14:27:22
・・
北 冥 有 魚 , 其 名 為 鯤 。 鯤 之 大 , 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 , 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 ,不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 , 其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 , 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。

761秋魚:2017/02/18(土) 16:23:51
(無題)
・・春一番があった。青梅マラソンの前に青梅丘陵ハイキングコースを歩くことにした。熊が出る前に。自転車より歩くのが基本。
・・枝垂れ桜で名高い梅岩寺に寄ってここの梅も捨てたものではない。大変な古木があるが花は盛りをすぎていた。境内の裏からハイキングコースにあがる道があるはず。たぶんこの道だろう。竹林の中を通って途中梅岩寺を裏から見晴らかすスポットもある。道の途中に板絵がいくつも建てられている。千手観世音、如意輪観音、十一面観音が多い。梅岩寺は真言宗豊山派だが。
・・同じ青梅でも花つつじで名高い塩船観音寺は、真言宗醍醐派の別格本山で、秘仏の本尊は十一面千手千眼観世音菩薩という大悲仏。蓮華王ともいわれる。やはり花つつじで名高い青梅の薬王寺は真言宗豊山派だが、本尊は聖徳太子作という薬師如来像。成田の不動明王は空海作といわれるが、太子作というこちらの方が妙味ありか。因みに昨夜学習したことだが、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主であり、西方極楽浄土の阿弥陀如来と対照をなす。仏法の東西の対照について、あまりに迂闊にすごしてきた。塩船観音や薬王寺の花つつじがかくも華麗荘厳なのは深い意味がある。
「瑠璃は、金、銀、玻璃(はり)(水晶)、車渠(しゃこ)(貝の一種)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)とともに七宝のひとつとされ、いわゆるエメラルド、アクアマリンといった緑色、青緑色の宝石、またはラピスラズリをいう。したがって瑠璃光とは、その宝石のような美しい青色、緑色の輝きを意味している。」

・・倭人伝に伝えられた「白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す」の「青大句珠」とは、ラピスラズリの勾玉か。

・・それにしてもいろんな木がある。がっかりしたのは、自分が木の名を言い当てられるものがほとんどないこと。杉と檜の区別さえ覚束ない。檜は檜風呂とかいって特殊のアロマを出す。法隆寺金堂の木材はおおかた檜だという。杉に似てまっすぐ伸びるが見映えはよくない。大木というのもあまりみない。栂は想い出したが、目の詰ったよい木だ。将棋盤や駒に使うと聞いたことがある。せっかく散策にでたから、新しく木の名を憶えたい。アラカシというのがあった。樫の木の一種でこれはよくみる。落葉樹は幹だけしかわからない。これは何だろう。桜に似ているミズメかな。アズサか。

762山田:2017/02/19(日) 01:18:23
・・
越後より上りけるに、姨捨山(おばすてやま)のもとに月明(あか)かりければ

これやこの月見るたびに思ひやる姨捨山の麓なりける(後拾遺533)

・・橘為仲 長和3年(1014年)頃 - 応徳2年10月21日(1085年)

・・能因法師 永延2年(988年) - 永承5年(1050年)

・・菅原孝標女 寛弘5年(1008年) - 康平2年(1059年)



 ある所にある女、桜花の散るを見てもの思へるさまにてかくいふ
  うき身をばなぐさめつるに桜花いかせにせよとかかくは散るらん
 これを聞きて
  思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも
 女、かえし
  をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ
 また返し
  月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるらん    (能因集)


さらしなや姨捨山に旅寝してこよひの月を昔見しかな  能因

月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵訪ね来つらむ 菅原孝標女

・・

更級の山のたかねに月さえて麓の雪は千里にぞしく(九条良経)
雪白き四方の山辺を今朝見れば春の三吉野秋の更科(同)
月ならぬ雪も有明の冬の空くもらば曇れ更級の里(後鳥羽上皇)
月さえて夕霜こほるささの葉に霰降るなりさらしなの里(藤原家隆)

更科のさむき山べのうの花はきえぬ雪かとあやまたれつつ(平兼盛)
更科の山ぢに咲ける白菊の花もまばゆき秋の夜の月(藤原忠兼)

あらし吹く山の月かげ秋ながらよもさらしなの里の白雪(定家)

763秋魚:2017/02/22(水) 02:12:23
(無題)
龍田河錦をりかく神無月時雨の雨をたてぬきにして

よみ人しらず (古今和歌集巻六冬)

をりかく →織り 欠く 懸く 駆く

神無月 →十月

たてぬき →縦 貫き  どちらかというと経線(南北線)であろう。

764山田:2017/02/23(木) 01:10:37
・・
・・神坂峠(みさかとうげ)は、木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mの峠である。位置は、北緯35度28分19秒東経137度37分55秒。


花歌とて

吹きのぼる木曾の御坂みさかの谷風に梢もしらぬ花を見るかな(続古今139)鴨長明


横浜みなとみらい  北緯35度27分29秒 東経139度37分55秒
横浜駅    北緯35度27分58秒 東経139度37分21秒

765山田:2017/02/24(金) 00:59:39
・・
蓬莱に聞くばや伊勢のはつ便り

此たびはいせのしり人おとづれてたより嬉しき花柑子かな(慈鎮)

・・

大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ(七十六段)

766秋魚:2017/02/24(金) 02:11:13
(無題)
・・伊勢物語七十六段。

「むかし、二条のきさきの、まだ春宮のみやすん所と申ける時、氏神にまうで給けるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよりたまはりて、よみてたてまつりける。
 おほはらやをしほの山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかゞ思ひけむ、しらずかし。」

・・

古今和歌集

(二九二)うりんゐんの木のかげにたたずみてよみける
僧正遍昭
  わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり

(二九三)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる
そせい
  もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん

(二九四)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる
なりひらの朝臣
  ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは

・・「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に」

藤原高子(842-910) 清和天皇の女御、後皇太后。
貞観八年(866)二十五歳で入内。貞明親王を産む。(869年1月2日)

貞明親王は、三ヶ月で立太子、貞観十八年(876年)九歳で帝位につく。陽成天皇。

つまり、二条の后が東宮のみやす所であったのは、869年から876年の間のこと。

・・伊勢物語の著者は紀貫之という説もあるが、「神世(代)」が藤原高子に問われている。

井月の書簡に、

「蓬莱に聞ばや伊勢のはつ便り
慈鎮和尚の歌に
 此たびはいせのしり人おとづれてたより嬉しき花柑子かな
此古歌どりなり。」

・・

伊勢=神世というスタンス

767山田:2017/02/24(金) 13:58:38
(無題)
みちのくのしのぶもぢずりすぢもふのしのくのちみ
未知の狗の詩述ぶも血摺り筋も不能凌ぐ後箕

つついつのいつつにかけしけかにつついのついつつ
筒異つの出津に架けし毛蟹ツツ胃の通五つ

あやめかりきみはぬまにそにまぬはみきりかめやあ
綾女狩り黄身は沼二祖二馬奴は見切り瓶やあ

さつきまつはなたちばなのなはちたなはつまきつさ
五月松は屶恥葉菜の名は千だ縄妻詰さ

みよしののたのむのかりもりかのむのたののしよみ
見よ篠の頼む逃り森かの無能多罵詠み

わすれてはゆめかとぞもふもそとかめゆはてれすわ
忘れ手は夢か兎鼠も巫も粗と亀湯は照れ巣わ

つきやあらぬはるやむかしかむやるはぬらあやきつ
月箭吾ら弩張るやむか鹿亡夜流は奴らあ焼つ

いにしへのしづのをだまきまだをのづしのへしにい
猪西へ野屍角を朶巻き未だ斧頭偲へし兄

つひにゆくみちとはかねてねかはとちみくゆにひつ
津干に愉句未知と墳寝て涅か鳩血み苦湯に筆

768秋魚:2017/02/28(火) 20:05:33
(無題)
・・乗りかかった舟。win10のオペレーションにはほとほと愛想がつきそう。不具合が次々と出る。きょうはいきなりブラックスクリーンになった。OSを立ち上げても真っ暗では打つ手も無い。重大なエラーかとセーフモードの起動とか試みようとしたが、win10は簡単には操作できない。win10の最初の立ち上がりで自動修復までもっていけばセーフモードもオプションで選べる。ところが駄目ですね。チェックツールが入るだけで再起動後は元の木阿弥。真っ暗。個人がシステム操作できないような構造になってる。リカバリーディスクが存在しないから立ち上がりスタートメニューからの回復もできない。回復というの実は試みたのだけどこれもエラーで不成功。部分的な不具合はネット検索などでいくつかは修復できる。win10の不具合はおおかた後からのアプリソフトのインストルによる。これは削除で解決することが多い。・・ブラックスクリーン というのはもう壊れたかと観念したが、やや簡単に復旧できた。・・要するにディスプレイの明るさが何かの弾みでゼロになったわけ。バッテリーモードで起動するとちゃんと画像がでる。バッテリーで立ち上げて電源の設定を調節すればよいだけだった。これに気づくまでなんと時間を食ったことか。テェックするのに時間がかかります。お待ちをなどいってパソコンは時間泥棒もいいとこ。こんなのに付き合って残り少なの人生を食われるのは、どうもね。ま、乗りかかった舟でしょう。

769秋魚:2017/03/01(水) 14:32:38
(無題)
・・サインイン統合というのが各社ネックでしょう。弊害も多い。win10はとりあえず安定したから3年は使えるでしょう。・・itの開発者はしのぎを削っているようだがビジネスが絡むとブラックホールも多い。自動車のリコールと同じでただコンピュータには更新のパッチファイルが送られてくるだけ。xpなど誰も見向きもしなくなってネット以外はとても安全。win10はサイバー攻撃のかっこうの目標ですな。defender用更新ファイルとはほぼ毎日送られてくる。無理もないというか穴だらけのOSですな。・・二三懸念事項はあるが、win10は卒業にする。

・・聲澄みて北斗にひゞく碪かな

名栗の星宮神社に芭蕉の句碑を訪ねた。こんなところにしかも安政3年(1856年)の建立。揮毫は江戸の孤月庵卓郎。

770秋魚:2017/03/14(火) 22:49:03
(無題)
・・春の散策ガイドツアー吉野梅郷に参加した。NPO法人が企画して東京都が後援らしい。らしいというのは、深く考えたくないためだ。ネットで申し込んで、応募多数、抽選で当たった。地元で活動していて当たるような気がした。吉川英治記念館がメインであと近くに梅の公園がある。梅郷の梅は数年前人気投票でNo.1であったが、残念なことに梅ウイルスが発症し市内のめぼしい梅はざっくり切られてしまった。この梅の公園にも千数百本の木があったが、感染を防ぐためにすべて切った。・・これ実はうまくいってない。隣の福生の梅の木もやられているらしい。成果は万全ではないが、鶏ウイルスと同じでこういう伐採のほかはないらしい。梅郷では実は跡地に新しい苗木の植え付けが始まっている。きょうはそちらの成果も見て取れる。

・・二俣尾駅集合で、電車代だけお願いしますということだった。何のことはない自転車で行ける。朝小雨がちだったが、何のことはない。平日だからどんな人が集まるか、まあ退役の暇人か主婦が多いのかもと思っていた。女性が多かったけど、みなユニークな人っぽい。一人若い娘さんが参加して、自己紹介では、きれいな声で中国から来ましたという。留学生で観光経済を専攻中。日本語がとてもうまい。(おまけに美人)。・・専門のガイドさんが二人ついてまあ詳しいことくわしいこと。大変におもしろいツアーになった。出不精で人の交流がしばらくなかったので、くらくら目眩がしそう。

・・梅の種類で「鴛鴦」「新平家」「書屋の蝶」というのがあり、後ろ二つは青梅の新種という。「鴛鴦」はひとつの花で実が二つ成り、「新平家」は八重の紅梅で花弁の陰翳に趣あり、「書屋の蝶」は五つの花弁の先が尖っていて蝶が留まっているよう。

・・桜は「咲く」「散る」、梅は「ほころぶ」「こぼれる」、牡丹は「開く」「くずれる」。こういう決まった言葉使いだという。文を書くのにこれも知らなかったことだ。花はみな咲く、散るだと思っていた。

・・二人のガイドさんのうち一人は植物が詳しい。ニリン草、かたくりは春先日の当たる内さっと咲いて隠れてしまう。・・むらさき草について尋ねたが、やはりほぼみない草だった。・・もうひとりのガイドさんは、歴史、地理いろいろ詳しい人で、これもとっておきの質問、常盤御前の青梅寓居について訊いてみた。これは不思議ですね。まったく知らないことという。青梅の成木とか飯能にも伝説がある。義経だって、武蔵野を横断できなくて周辺の山間をめぐって奥州に向かった。・・伝説ということでみな外すのだろう。・・作家が小説で書いてはいまいか。吉川英治が地元にいて書く気もしたが、「義経」という小説は司馬遼太郎のもの。ともかくこれは自分で当たるしかない。

・・昼食はこの企画でソバをご馳走になった。これも感動ものです。

771山田:2017/03/18(土) 10:18:35
(無題)
・・四天王とは、仏教における持国天、増長天、広目天、多聞天のことを言う。 それぞれ東、 南、西、北の方位を守護しているとされる。

772秋魚:2017/03/24(金) 23:06:33
(無題)
・・尭恵 ぎょうえ

1430−? 室町時代の僧,歌人。
永享2年生まれ。天台宗の学僧。法印。二条派の歌人尭孝(ぎょうこう)について種々の口伝をうけ,「古今抄延五記」など歌書の注釈を執筆。公家,武士,僧にわたるひろい交遊でも知られる。号は藤の坊。著作に「吾妻道記」「東国紀行」,家集に「下葉和歌集」。

・・「東国紀行」は「北国紀行」とも。

作者堯惠は、白山系の修験者。堯孝に歌を学び、『古今血脈抄』『古今抄延五記』を著す。寛政6年(1465)加賀から信濃善光寺に詣でて『善光寺紀行』を著し、文明18-19年(1486-1487)武蔵・相模を遊歴して『北国紀行』を著した。

・・

773秋魚:2017/03/27(月) 03:14:39
(無題)
・・二俣尾の名の由来について、青梅街道が軍畑のあたりで奥多摩と秩父方面に分かれるので二俣尾というのだそうだ。梅郷ツアーでそう教わった。秩父方面には成木から小沢峠を越えて名栗に入り、さらに山伏峠を越えれば秩父に入る。この秩父へ向かう道は鎌倉古道ともいわれる。鎌倉ではなく相模の大山詣での道とも聞いている。・・二俣尾、軍畑の駅から成木にむかって坂を登り、高水山にあがる参道がある。これはいつか歩いた道だ。この参道のちょうど入口あたりに高源寺というもの寂びたお寺がある。境内に石碑があって、芭蕉の句が刻まれてあるのがわかったのは、平成二十一年七月の調査のことだった。文字が判読しづらく長い間未知の句碑であったが「古寺廼桃耳米ふ無於とこ可那 はせ越」と読める。「古寺の桃に米ふむおとこかな 芭蕉」というので、あまりみかけぬ句と思っていた。正岡子規「俳諧大要」に載っているというので調べてみたら「芭蕉雑談」にある。薀雅なるものという。

・・桃はこのあたり江戸の昔は桃の花園で満ちていたという。むろん芭蕉がこの青梅で詠んだものではない。よくわからぬのは「米ふむ」という所作。これは米を精米するための地唐臼で踏んでいるのだという。桃の花とのい対比がいい。薀雅ですか。

・・この「米ふむ」で想い出した。

 越後生れは多く米つき
佐渡の花我秋津洲の誉れ也
 ・・

独吟歌仙の平句で余り気に留めていなかった。「米つき」というのを辞書で調べてみた。高源寺の句碑「桃に米ふむ」と同じ精米の所作であろう。米つき専門の職人もいたそうだ。子供のころ米つきバッタなどもよくみた。米どころ越後はわかるが、青梅では米はほとんど作らない。麦はとれたようだ。

774山田:2017/04/06(木) 00:37:08
・・
>鶴鳴山

四川省大邑県に位置している鶴鳴山は、古剣四大名山の1つで、鶴の形をしていることに因んで名づけられました。東漢時代、張道陵はここで修行を積み、仙道に入り、さらに「五斗米道」を設立したと伝えられています。その後、「五斗米道」が中国道教の主流の「正一道教」に発展していったので、鶴鳴山は漢代天師道の発祥地と言われています。北宋時代の陳希夷、明代の張三豊など歴代の有名な道士は、ここで修行を積みました。

・・

775山田:2017/04/08(土) 13:36:49
・・
陽炎の動かす石の華表かな
陽炎に貫目ひかれな力石

蜻蛉のとまりたかるや水の泡
蜻蛉の降りんとするや水の泡
蜻蛉の夕空頼む九月かな
空に散る蜻蛉の群や潦
蜻蛉の罔両見たり水の泡

・・思ひ續け、ながめ給ふ夕暮、蜻蛉の、物はかなげに飛びちがふを、

「ありと見て手には取られず見れば又ゆくへも知らず消えし蜻蛉
あるかなきかの」

・・

776秋魚:2017/04/18(火) 22:19:01
(無題)
・・春祭りというのに出た。櫓の組み立てと神酒所の世話。あと受付というのもあった。折から神社の桜は満開でよい花見にもなった。花に群れる鳥は何だろう。嘴をのばして蜜を吸っている。・・神酒所では〆というのを受け持った。青梅〆という3・3・1の七つ〆というのが定番という。これも二度目でやっと憶えた。挨拶言葉は実はまったく自信がない。先輩に教わって形ばかりのものを魂こめてやった。この魂こめてというの実はとっておきだ。(人前で話す練習という野暮ったいものだが)ハハ

・・春の嵐が来るという。あきる野の山桜を今年は見たい。山桜はソメイヨシノの後二週間ほどで見ごろという。幸い春の嵐は微雨ですんだか。昼からは晴れるというので自転車で繰り出すことにした。一度梅郷の方へバックして梅ケ谷峠の道が日の出あきる野にはいりやすい。数年前は魑魅魍魎の道にしかみえなかったが。馴れたものだ。・・家で調べものばかりして体力が落ちたか。温泉が一番。・・後輪のタイヤチェンジもしたので様子見もあった。タイヤは万全だが、ギアチェンジが今ひとつ。ブレーキも効きをよくした。

・・あきる野の光厳寺は正月に来ている。迷うことなく真直ぐ行ける。さすが花の名所でカメラの人が先客のほかスケッチブックの人もいる。スケッチの人は三年前に来たけれど、盛りをすぎて失敗。今回は周到にお寺に電話をいれたりして見ごろの日を選んだという。朝方までの雨がなければほんとによい花見になったろう。お日様がでて花もメリハリがでる。夕方までいればとてもよくなる。明日の午前中だたぶん最高でしょう。ほんとうに見ごろというのはわからないものだ。ピークというのは自覚できない。スケッチの人とすこし話をした。墨絵のようなスケッチを楽しんでいるという。大悲願寺の白萩をすすめておいた。秋ですが。

・・山桜というのは華麗さを期待しないがいい。ソメイと違って赤味を帯びた葉が先に出る。葉と蕾がほぼ一緒かと。花の色も白さがめだつ。質素な花だ。・・この時期いろんな花が開花の競演。雨上がりでさらに鮮やかなものもある。

・・温泉の裏の龍珠院も花見の名所という。枝垂桜が見事というが、梅岩寺のものと比較はできない。ここも帰りに寄ったが、カメラスポットとみえて平日なのにマニアが多い。みなデジタル一眼レフのよいもの使ってますね。きょうはさほどの撮影日和ではないけれど。

777秋魚:2017/04/27(木) 00:34:59
(無題)
不空成就如来

五智如来のうち北にある 四神なら玄武

・・語源は「空しからず」という意味があり、充実していること を指す


佐渡か

778秋魚:2017/05/01(月) 01:07:43
(無題)
・・連歌師宗長が青梅に来ているという。三田氏の勝沼城で連歌会などしてすごしたらしい。『東路のつと』という紀行にあって、1509年、駿河から白川の関まで行こうとしたものだ。青梅の勝沼は今でも町名で存在するし、勝沼城跡というのも史跡として認定されている。近辺を幾度か散策していたが、まだここは訪ねていない。今日は天気もよく、躑躅が咲き始めているのを見越して、勝沼城跡を散策し、霞川に沿って、薬王寺まで躑躅の花見に出た。

・・東青梅駅から成木街道の左手はもう勝沼、すこし入って右手の吹上、塩船へ向う道の裏手にあるこんもりした山が勝沼の城跡だ。・・以前、霞川の水源を求めて何度か歩いた。天寧寺や虎柏神社、石動神社とかもこの近くだ。三田氏は平将門の流れだという。飯能と青梅の境にある加治丘陵の西の端に勝沼城はあった。光明寺というお寺があってその裏手の山らしい。何の標識もないので民家の人に聞いてみた。寺の脇の道をずっと登ってゆくとありますよ。でもまったく無人、熊がでてきそう。古い案内板があって、史跡環境保全林だから、大切に歩きなさいということだった。土地の起伏と主に檜の林ですね。建物とか石垣跡というのは何もない。散歩する路がわずかにみえる。まったく人気がない。・・中を歩いてみたい気もしたが、写真を一枚とって引き上げにした。

・・宗長は駿河の島田から箱根、小田原、湘南の藤沢にでて、いきなり武蔵野の勝沼に来る。各地の戦国武将のつてを頼って歩いたようだ。『宗祇終焉記』でも越後の宗祇を訪ねるに、鎌倉から武蔵野は一飛びでぬけ、上野というから群馬の高崎あたりでしょう。これはどうみても多摩、秩父よりの鎌倉街道を歩いているな。藤沢から境川に沿って16号は昔の絹の道。相模原、あきる野、青梅という、八高線に沿って飯能、高崎まで行ける。それにしても青梅の勝沼城を訪ねたというのは、驚きだ。

きりはたゝわけ入八重の外山かな



此山家。うしろは甲斐の国の山。北はちゝぶといふ山につゞきて。まことの深山とはこゝをや申べからん。此山ふかき心なるべし。おなじ処に山寺あり。前はむさし野なり。杉本坊といふにして。

露をふく野風か花に朝くもり


・・霞川を探して自転車を走らす。天寧寺に水源あり。霞川を見つけるのはたやすい。この川は細い川だが、魚も水鳥も多くいる。カワセミが出るというので、以前、カメラマニアが岸辺を騒がしていた。騒ぎになるとカワセミも逃げてゆきそうで、そろりとお忍びですね。・・今回はまったく無人。
薬王寺は真言宗豊山派、躑躅の庭が名勝だ。本尊の薬王如来は伝聖徳太子というから、すごい。薬師仏は瑠璃光浄土を祈願する。尊像を拝みたいものと思っていても秘仏だそうだ。きょう訪ねたら住職さんに拝観をお願いしようかとも思案。しかし秘仏は秘仏、失礼でしょうね。・・薬王寺は加治丘陵の東の端で勝沼城跡とは対極の位置にある。この丘陵の内側を霞川が流れる。この一帯いちじきは沼地だったという。立川断層が伸びていてずっと昔地震があって霞川を遮断したという。いまは田園風景が良く決まっている。自転車のサイクリングには爽快上なし。川岸で大きなカメラを構えている子供がひとり。何を写しているの。カワセミという。つい数分前写したものを見せてもらった。やはりカワセミはいるんだ。このあたり昔は鶴もいたでしょう。

・・薬王寺は旬は早いかなと思いつつ、人がけっこう多い。きょうは晴天。しかし曇ってたりの方が躑躅は色合いがよいか。逆光になったりは、花は色あせる。外人の女子がひとり。目が合ったのでwhere’reyoufrom? campZamaということで、米軍の座間基地の人らしい。花を背景に写真を一枚お願いします。okといって、カシャリと一枚。日本語と英語ごたまぜで。・・ここのツツジ外人にもやはり評判のよう。

779秋魚:2017/05/02(火) 21:38:22
(無題)
・・泉岳寺。亡くなった稲葉真弓は上京以来国分寺の恋ヶ窪にながく住んでいた。武蔵野のハケの様子など地誌には敏感でそれでいて詩のモダニズムの流れもよく見ていた。もういいやといって北品川のマンションに移っていった頃まで詩の話をしていた覚えがある。品川に移ってさっそく近辺の散策にでたエッセイを読んだことがある。・・その中で海に近い風情を気に入っていたようで起伏のある土地も歩いて楽しんだ。・・泉岳寺にもばったり。あの忠臣蔵の赤穂浪士たちの墓がそのままあって妙に感動していた。何が感動かなどはまったく説いてはいない。

・・自分も先日港区芝、品川を訪ねる用があり、三田済海寺、亀石古墳など、その後品川海晏寺に行こうとして坂を下ったら、泉岳寺に出た。

・・荻生徂徠と赤穂浪士については、落語にもある。赤穂浪士46人の切腹については儒学者の意見が求められ、中で荻生徂徠の切腹進言が将軍に採用されたという。赤穂浪士の切腹はほぼ徂徠の裁可というのが定説だ。

「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」
「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」

・・長岡藩では、藩校崇徳館で古文辞学が教えられていたが、荻生徂徠の弟子太宰春台は信州飯田の人。赤穂浪士の討入りには、さらに過激な論を述べている。

「春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという。」

・・私が訪ねた時は、やはり変な人気があるのか、人の訪問が絶えない。外人も神妙な顔つきで来ている。耳を澄ましたらドイツ語ぽい。浅草の有象無象の外人とは趣きも異なる。

如来寺。正式には、養玉院帰命山如来寺。今は品川でも西大井にあるが、明治41年までは芝高輪この泉岳寺のすぐ南隣にあった。五智如来の木像があったので、目立った景色であったという。寛永13年(1636)木食但唱上人によって開創された。これは帰命山如来寺。養玉院はまた別の歴史がある。

・・ところで、この但唱上人だが、品川の地元では現今調査されているものと大いに異なる出自をもつ。深く調べたわけではないので間違いもあるかもしれないが、おおよそ地元では深川あたりにいたキリシタンの大工だったという話だ。

「徳川三代将軍徳川家光が元和9年(1623年)10月31日キリスト教信者50人を処刑した(徳川実紀より)。処刑されたのは、エロニモ・デ・アンゼルス神父、シモン遠甫、ガルベス神父、原主水他。」
「刑場があった高輪大木戸(東海道にあった江戸内外を示す関所)の石垣の一部が残され、石碑が設置されている。」

・・この高輪の刑場というのが、如来寺の場所と重なるのではないか、あるいは、如来寺はキリシタンの埋葬地ではないかという話がある。但唱も処刑されるはずのキリシタンだったが、どういうわけか一人だけ刑を逃れた。隠れキリシタンが仏教に改宗をよそおい五智如来をつくった。

芝五智如来(江戸期の書籍「望海毎談」)

「如来寺、芝高縄手通り、五智の如来堂にして、世に芝の大仏と云ふ、此の仏建立せしは、天台宗にて、但昌といへる木食なり、依って、本堂迄取立て、東叡山の末寺なり、当所、江戸創業の始めは、刑罪の屠所なりしが、其後、鈴ヶ森の地へ引たり、但昌、其後、相州一石山に籠り、薬師如来を建立し、其所にて遷化す〜 」

キリシタン原主水の殉教というのは、目頭が熱くなる。但昌などは井月と同じで出自はああでもないこうでもない。作り話が多い。

1623年、品川海岸でのキリシタン50人処刑というのは、火刑。(家光)

1619年には、京都六条河原でキリシタン52名が処刑。火あぶり刑。(秀忠)

「キリシタンの刑死者は屍体が盗まれないように埋葬されていたらしい。 当然ながら札の辻での処刑者の後始末は品川宿小屋頭長九郎配下の者たちが行なっていた。

一説によると埋葬した場所は近くの高輪車町(たかなわくるまちょう)の小山ではなかったろうか。 著者不明とされる 『望海毎談(ぼうかいまいだん)』 によると寛永13年 (1636) 刑場とされる跡地には如来寺が創建されている。」

「品川溜の非人頭長九郎とその配下の非人たちが処刑された死体の処理を行ったと記しています。・・この品川溜は現在の京浜急行青物横丁駅前(現在の交番付近)にあったよう」


・・驚きですね。品川鮫洲にある海晏寺はこのすぐ近く。青物横丁駅前で、道を尋ねたこと憶えています。海晏寺には鳥酔、白雄のお墓があります。

780秋魚:2017/05/05(金) 18:43:19
(無題)
・・輪行のために、自転車の解体−組立てを予行した。一年もやってないと勘も狂う。ホイールの外しまではなんとか。バラバラになった車輪をフレームにくくりつけて袋に収納するというのがまたしても難しい。どこか違ってるのではないか、ネットでもう一度学習してみよう。・・組立ててほかに狂いはないか。ブレーキが少し変。

・・きょうは組立て自転車の点検で、飯能岩淵の歓喜寺、岩井堂までサイクリング。岩井堂は何度か訪れたが、そこから7百mほど離れた歓喜寺にはまだ訪ねていない。岩井堂は真言宗智山派の歓喜寺のものだ。榧の大樹があるという。五月の連休盛りというのでサイクリストも多い。小曽木街道は田舎の道だが、この日は車も多い。注意力全開で身体に緊張感をみなぎらせるのは、しばらく忘れていた。健康によい。・・体のリズムも若干狂う。

・・ともかく死ぬのはごめんだ。リズム若干の狂いも補正したい。小曽木街道を外れて仏子に向う道は何と言うのだろう。ガソリンスタンドのあるT字路で美杉台団地のほうへ。(団地というとまずいかも)すぐ成木川にかかる橋がある。「みどり橋」という。ここからの川景色は絶品。写真を一枚とった。ここを渡らず右にすこし折れると歓喜寺がある。こういうお寺ほとんど訪ねる人もない。榧の木をしっかり観るのははじめてだ。木質が固そうで碁盤をつくったりする。実から油もとったりするそうだ。墓地のほうから一人来てたまさか話になる。土地の人だというのでどんな話もおもしろい。墓地にハナミズキを植えたが数年で枯れたという。ハナミズキは米国からやってきた。ソメイヨシノと交換という。これも知らなかった。土を入れ替えないと枯れるでしょう。墓の管理のしかた、やはり悩みが多い。
・・こんなマイナーな寺に訪ねる人めずらしいのか、よく話す。石動神社に訪ねたときも、出会った人はよく話した。根ケ布だったか近くに勝沼の時宗の寺があるという。今回、この歓喜寺のほかに飯能下畑にある金蓮寺も訪ねてみたかった。時宗の寺だ。

・・歓喜寺は墓地の開発だけは進んでいるようで、近隣に住み着いている家に檀家の募集がある。話をした人の家は古いは古いが、明治頃までのは火災で焼けて過去帳は無いという。それでも古い墓石、板碑が残るというので、二三見させてもらった。磨耗があって読みにくいが、寛文というのが読める。1661年から1672年の間、芭蕉はこの頃藤堂家に出仕して寛文12年(1672)には江戸に下っている。ほかに天明三年という碑も草葉の蔭にある。1783年、浅間山大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
時代背景を探ると胸にぐっと来るものがある。

・・墓碑板碑には江戸天明、文化文政の頃までは青梅、飯能でよくみかける。天保年間のものは少ないという印象だ。死者の霊魂の居場所を安めるというより、父が祖父の、子が父の霊魂を引き継ぐような心性は幕末にかけてどんどん薄れていったのではないか。維新の近代は総じて過去を清算してはじめる私生児たちのエネルギーで満ちていた。


長閑さや清水滴る岩の鼻
陽炎や清水滴る岩の鼻
月かげや清水したたる岩の鼻

岩鼻やここにもひとり月の客   去来

781秋魚:2017/05/08(月) 22:09:20
(無題)
・・一日前倒して甲斐大和の天目山輪行に出た。青梅から高尾まで90分は自転車。解体袋詰めで30分。高尾から甲斐大和まで電車で1時間。甲斐大和の駅で自転車の組立で30分。駅から天目山までどれくらいか、かなりの傾斜なはず。・・ざっとプランニングをして出たが未知な部分が多い。ネットでは、笹子で降りて自転車で峠をこえ天目山温泉に寄ったという記事があった。5kmくらいだが一辺倒の上り坂。アゴが出たということだ。

・・天目山へのアップスロープは実はあまり恐くない。恐いのは国道20号。甲州街道だ。以前大月から隣の猿橋まで走ったことがある。自動車専用ハイウェイ様で車もびゅんびゅん。二度と走りたくないと思った。笹子−甲斐大和間はトンネルで、このトンネル数年前に落盤事故があった。自転車でここを抜ける人もいるが、長く暗くとても恐いそうだ。そうでなくても20号はごめんと自ら言い聞かせていた。・・天目山の後この20号で勝沼、塩山に抜ける予定があり、実はこれも大いに気がかりだった。・・変な事故で天命も尽きるかも。

・・自転車乗りで輪行は憶えるとわくわく行動の想像力が大きく激変する。その分いくつもリスクポイントも増えるけど。ここで萎縮する手はない。若いとは想像力の問題です。

・・自ら励ましてなんなく甲斐大和の駅に降り立った。ここ無人駅ですね。

・・組立ては細心の注意。これからのヒルクライムその後の長いライドに耐えうるか。ブレーキが最も要注意。ブレーキ鳴きがするが、これはいい。国道から外れていよいよ天目山へ向う道。行き逢う人に道を聞く。景徳院は近いですけど栖雲寺は山の上です。上り坂が大変ですよ。標高はこのあたりが500くらい、天目山は千mほどですから。地元のものでもよう歩きませんわ。さんざん憐れみをうけたが、自分はこれくらいはどうということない。5kmくらいなら歩いても行ける。笑顔でありがとう。

・・景徳院はほどなく到着。武田氏滅亡は天目山の戦いと呼ばれている。織田徳川の軍勢に追われて栖雲寺まで行こうとしたが、行く手をはばまれこの景徳院で勝頼、北条夫人、信勝はここで自刃。それぞれの辞世の歌が残されている。


黒髪の乱れたる世そはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒
   北条夫人
おほろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端
   勝頼公
仇に見よ誰も嵐の桜花咲きちるほとの春の夜の夢
   信勝公

・・夫人の歌はとりわけ感慨深い。

・・今回の目標はさらに上の天目山栖雲寺。天目山という名称は中国の山に因んだもの。もともとは木賊山(とくさやま)と呼ばれていた。中世の紀行「都のつと」で作者が常陸高岡からここの木賊山まで訪ねて来ている。木賊山というのは、山梨市と秩父の境に2469mの木賊山があるが、「都のつと」の木賊はこちら甲斐大和の天目山のことであろう。常陸高岡というのは、新治郡新治というもう筑波に近い。ヤマトタケルに倣って筑波から甲斐へ武蔵野を横断している趣きだ。・・木賊というのは、世阿彌の謡にもある。様々のこと思い出されて、この天目山にやってきた。

・・天目山簡単に来たようだが、ほんとはきつかった。途中、龍門峡遊歩道に入ってしまいよくよく登ったところで自転車は無理。やむなく引き返してやり直し。観光で売ってる割には客はゼロ。クマの出没注意とまである。・・ひたすらなアップスロープでインナーロウもはじめて試みる。ギアの限界で走るのもはじめて。・・とはいえ足着きして登る。この目標は外せない。

・・栖雲寺は臨済宗建長寺派というが、幻住派というのが正しい。北緯35度39分38.2秒
東経138度48分38.4秒 開基は業海本浄。1318年元に渡り、天目山で中峰明本(普応国師)から印可を受ける。生粋の幻住派だ。帰国20年放浪廻国してこの甲斐木賊山に禅寺を開いた。普応国師木像という貴重なものがあるが、尊像は拝めなかった。ほかに虚空蔵菩薩像というのがあるがこれは十字架捧持マニ像というのが正式な呼名。これは仏画ではなくマニ教の尊像ではないかという逸品。ほかに石庭もみごとなものだ。

・・天目山で武田は二度滅んでいる。勝頼公、夫人、信勝公が自害した1582年。遡ること応永24年(1417)武田氏第13代当主武田信満は足利幕府に追われて木賊山中で自害。この信満公の墓は栖雲寺に見られる。

・・歴史散策、死者と出会う旅みたいになってきた。いろいろあるが、忘れぬうちにこの日の宿のことを書き付ける。天目山温泉は筆舌につくしがたく素晴らしく、下山と恐怖の20号も青息吐息で葡萄の里を抜けた。行きつけの宿は石和で、不思議ミステリーは深夜のテレビだった。チャンネルをいろいろ繰るとやはりバカ番組ばかり。・・と、異星人が出没する不思議なドラマに直面。ウルトラゾーンというシリーズものらしいが、テレビにしては濃厚な脚本。思わず魅きつけられる。ミステリーゾーンとかXファイルといった路線と同じかと思うが、かなりシリアス。人間存在の不確かさ、危うさがまともに伝わる。・・と、次のチャンネルでは竹中直人の出世譚。そういえば竹中直人という芸人がいたな。RCサクセションに大打撃を受けたという。忌野清志郎ですね。高校生の頃からロックしてた。女装して歌う映像があったが、まさにピーク。学生ロックから抜け出るにヤクは使ってないなら、才能だ。竹中直人といえば「無能の人」の映画監督というのも思い出す。未見だがツゲ義春=井月の線を世に知らしめた作品。というか、竹中は井月を知っていたか。こんど会ったら聞いてみたい。「無能の人」に出演依頼をしたとか、忌野清志郎に。ハハ  合掌。
・・つづけてテレビは倉木マイというミュージシャン。この人もよく知らない。舞妓すがたで京都の渡月橋を歩いている。この渡月橋という桂川にかかる橋、嵯峨野、嵐山のあたりでしょう。京都では観光の有名なスポットのようでも自分はよく知らない。倉木マイって、美人ですね。京都の学生時代からシンガーソングライターをやっていた。若い頃の写真はやはり抜群にきれい。今の彼女は精神的な深みがみえる美人。年のとり方がうまい。自分とは好対照。・・山城は井月も訪れている。精神で触れ合うこともあるかなと、すこしうれしくなった。

782秋魚:2017/05/13(土) 11:31:25
(無題)
・・甲州で塩山は鬼門ではないですかね。戦国の武田信玄は今でも大人気。風林火山の武士魂は底堅く信奉されているか。塩山といっても塩は採れない。金、水晶がとれるそうだ。勝沼には大善寺といって葡萄寺ともいうやはり行基菩薩由来の寺もある。右手に葡萄を持ち左手で結印した薬師如来は秘仏という。八王子から甲州に入るに大きな峠は二つあり、鉄道なら長いトンネルが二つ。昔の甲州街道は山賊がどこにも潜んでいよう。暗い街道だ。

・・天目山から下って一路笛吹川の差出の磯をめざした。
20号は笹子を抜けてからはダウンスロープで車もさほど多くない。ネットでまったく快適という書き込みをみたが、国道で自転車というのはどうもよくない。ドライバーに酔っ払いがいたらアウト。向こうからすると自転車の方があぶない走りだそうだが。・・笛吹川にぶつかるまで西へ行く。途中交番があっても大方パトロル中。御用の方は電話をとあって、何度かお世話になった。山梨は先々で人と話したが、驚きはその応対のやわらかさ。まず笑顔でこんにちわ。差出の磯はどこですか?これだめですね。差出の磯は知らない人多い。笛吹川の万力公園はどこですか?これは通じる。・・帰路交差点で信号待つに小学生の女子が自転車の停止を確認、下級生のグループの横断を誘導してる。これも驚き。学校教育がよほどよいのがわかる。すこし言葉を交わしたが、信号の確認ではなく人との確認です。・・これも差出の磯で歌碑をみて後でわかった。笛吹川に望む小高い丘から町並みと富士山がよくみえる。「希望と感謝の歌」という碑があった。・・信玄の人気といっても次代の勝頼は一族悲惨な滅びだ。恵林寺には信玄の墓がある。快川国師は織田信長に火をかけられ「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言葉を残した。・・正確には、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」とある。


しほの山さしでの磯にすむ千鳥君が御世をばやちよとそなく  詠み人知らず」 古今集

・・古来この歌で差出の磯は名所となっている。ほかに甲斐の盆地では北の山よりの高所から富士がよくみえる。富士見の名所とも。

千鳥もここ差出の磯で名高く、今でも飛び交う。

 コチドリ・イカルチドリ・シロチドリ・イソシギ

いろんな人が差出の磯を詠んでいるが、『廻国雑記』道興は、

「春の色も 今ひとしほの 山なれは 日かけさしての 磯そかすめる」
「はる日かけ さしていそくか しほの山 たるひとけとや うくひすのなく」
「冬の夜の 有明の月も しほの山 さしいてのいそに ちとりなくなり」
「こゑはみな やちよときけは しほの山 いそへのちとり ためしにそなく」
「みつしほの さしてのいそに すむ月は 千世もかきらし 久かたのそら」
「今夜こそ 月もみちけれ しほの山 さしての磯に 雲もかゝらで」

よほど、気に入ったとみえる。


・・武田が風水で読み解いた甲斐の風土を、後、だれが追随しただろう。差出の磯には、芭蕉も訪れがあるというが、たしかな根拠はあるのだろうか。

「闇の夜や巣をまどはして鳴く千鳥」この碑は差出の磯にみられる。千鳥といえばここ差出の磯というイメージが定着しているという。・・チドリは磯の砂にわずかな凹みをつくり卵を産む。そうしたものがいくつもあり、暗くなると帰る巣を見失う。それで鳴くという。

・・甲斐の盆地を見晴らかして思い出した。一年前身延線に沿ってこの盆地を抜けた。出口あたりが富士川河畔の鰍沢。身延に行くのに手一杯でスルーしてしまったが、落語と浮世絵の心霊スポットというのは知らなかった。

783山田:2017/05/14(日) 11:11:57
・・
しほの山さしでの磯にすむ千鳥君が御世をばやちよとそなく

https://www.youtube.com/watch?v=-PXbz9DXn8s

784秋魚:2017/05/14(日) 18:50:41
(無題)
・・差出の磯の脇から笛吹川に沿って雁坂道を塩山方面へ。そのまま行けば峠を越えて秩父に入る。秩父から山梨に入る幻の道。長いトンネルや有料道路がありサイクリストは滅多に走れない。知人のイギリス人が走ったとは聞いている。幻とは自分にとってのこと。・・隼の交差点という笛吹川を渡ったところで右折南に折れる。すぐに恵林寺がある。武田の菩提寺で信玄公の墓がある。塩山でまずここを訪ねたい。ケイリンジと読んだらエリンジですと言われた。臨済宗妙心寺派の禅寺で、開基は夢窓疎石。はじめは円覚寺派という。・・この妙心寺派というのに拘りたい。甲斐大和の栖雲寺は臨済宗建長寺派だが、開基の業海本浄は幻住派と呼ばれる。同じ臨済でもアンチ夢窓疎石であったという。

・・芭蕉が江戸深川で禅に師事した仏頂和尚は臨済宗妙心寺派であった。

* 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。
                 wikiより

・・創建年は暦応5年(1342)というから、そう古くもない。「平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。・・法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。

・・「南朝の後醍醐天皇は延元4年(1339年、北朝では暦応2年)に崩御するが、北朝の将軍足利尊氏は敵味方の立場を超え、菩提を弔うために、夢窓疎石の勧めに従って天龍寺創建を決定した・・元々大覚寺統の離宮であった嵯峨野の亀山殿を禅院に改め、夢窓を開山として天龍寺を創建」・・「度重なる夢窓の懇請を受け、暦応4年12月23日(1342年1月30日)直義は夢窓に対し、翌年秋に宋船2艘を渡航させ、交易で得られた利益を天龍寺造営にあてるよう提案」

* 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。開基は足利尊氏、夢窓疎石。創建年1345年。

・・妙心寺と最もつながり深いのは大徳寺。

* 大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立。


・・妙心寺を開山した関山慧玄、「信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子とされる。」建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)・・1307年に鎌倉の建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅。その後帰郷。・・建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329年に雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名

信濃国高梨氏は、

高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。

南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」という

・・

『汝等請う其の本を務めよ 誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫くんばよし』

785秋魚:2017/05/19(金) 21:30:59
(無題)
くまなき月の渡るに似る

・・嵐山にある虚空蔵法輪寺を訪ねたら渡月橋を渡りけして振返ってはならぬ。愛しい人に会うためにたえず月をみて橋を渡りつづけるように。倉木麻衣の新曲「渡月橋 君想ふ」はそういう恋歌をピュアに歌うものらしい。虚空蔵云々は知らなくてもよい。

十三詣りというから男女の知恵はこの橋からはじまるということか。十三歳の恋の感性が呼び起こされている。(かなり話題になってヒットしてるようだ)

・・渡月橋で憶い出した。青梅の奥多摩にも同じ様な橋がたしかあった。いろいろ探したが記憶違いで橋の名は「数馬峡橋」という。

786秋魚:2017/05/20(土) 20:16:06
(無題)
山城の松からも透く初日哉

・・まり様。約束の京「山城」の解読ですが、その前に所沢中氷川神社を訪ねてみました。わたしの処から自転車で楽勝の位置です。氷川神社というのは多くあり、その中一ノ宮は大宮氷川神社。中氷川神社は所沢に二つ、奥氷川神社というのはなんと多摩川上流の奥多摩駅の近くにあります。所沢の中氷川は以前訪ねた時は山口にある神社できょう訪ねた三ヶ島の神社は、早稲田大学所沢キャンパスのほぼ隣にあります。狭山湖に沿ったあたりです。狭山湖、多摩湖に沿った森がトトロの森というようです。

・・倉木マイ「幕張メッセライブ2009」という動画をみてテンション強くすこし感動です。京都がわたしの原点といって渡月橋の詩を歌っているけど、アニメ探偵コナンのテーマ曲ようです。8年前はポップロックというやわな体でパンチが利いてますから、元気でますね。

・・ロックンロールの原点はスサノオの八岐大蛇退治だと認識してますから、フリや感性の質も出雲のスサノオと重ねてみてしまいます。

787秋魚:2017/05/21(日) 14:12:14
(無題)
・・中氷川神社を訪ねる途中瑞穂箱根ヶ崎にある狭山が池に寄りました。この池武蔵野の歌枕だそうでいくつか歌に詠まれています。

武蔵なる狭山が池のみくりこそひけばたえすれわれやたえする 「古今六帖」
踏み分けし狭山は雪に跡絶えて池のみくりは来る人もなし  藤原季能
氷ゐし汀の枯野踏み分て行は狭山が池の朝風   尭恵「北国紀行」

・・大坂にも狭山池というのがありそちらの方が由緒深くもあるが、武蔵野の狭山池もたしかに歌に詠まれる。

「狭山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるらん。」「枕草子」

・・この「みくり」だが「三稜草」という植物で浅い沼や池によく生えるという。わたしが訪れた時の狭山池には菖蒲草が黄色い花を咲かせていた。「みくり」というのも在ったかも知れぬ。花言葉は「恋の傷み」。


枕草子で憶い出した。清少納言は、東国など歩いてもいず歌から想像して狭山池をいう。これは断じて大坂の溜池ではないでしょう。陸奥に流れた藤原実方をよくみていた。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

788秋魚:2017/05/25(木) 11:32:58
(無題)
・・渡月橋の子はなんだ同郷だな。娘か。曲は借りるが詩はすべて自作という。R&Bというのが基調らしい。bluesとは愁いだな。perfect orangeを知ってる女流はすべて成功。(わたしが言うのだ、間違いない)

なにかの廻り合わせ。この橋の近くからはじめよう。


・・江戸深川の臨川寺。芭蕉と仏頂和尚が出会った頃はまだ寺号はなくただの草庵だった。臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺というのが正式な呼称という。・・伊賀から東上した俳諧師と臨済の禅坊主がはじめて交わした問答が今でもよく知られている。

仏頂 「梅子熟せりや」
芭蕉 「桃の青きが如し」

・・

およそ俳人の起点と結点はここに集約されるとみる。

京右京区嵐山桂川にかかる渡月橋。「くまなき月の渡るに似る」というキャッチフレーズがそのまま渡月橋の名になった。このフレーズ、イメージがむずかしくないか。橋は人が渡るものだと思うが、月が渡るとは。月がではない、月の渡る。・・橋の上で観月をしたら(亀山上皇が)橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」とみた。やはり月が渡るようです。現代人は忙しいから、橋の上で月の移動を眺める時間をもたない。上皇が観月をしたというのでなく、月を観ながらゆっくり橋を渡る。月をそのまま眺めていると月の移動に見える。そういうことでしょう。・・人が渡るのか月が渡るのか。妙。

・・渡月橋を右京へ渡り、川に沿って少し下ると京の臨川寺がある。臨済宗天竜寺派霊亀山臨川寺というのが正式な呼称。後醍醐天皇開基、開山は夢窓疎石1335年。疎石入寂もこの寺。渡月橋を渡って北に上がると臨済宗天竜寺派大本山、霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺)がみつけられる。開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石1345年。天龍寺は京都五山一位といわれる。


瀬を渡る飛石もあり小鮎汲み
楽しみは浅瀬にあるや小鮎汲み
若鮎や花と汲まるゝ網の露

天龍眺望
若鮎の瀬に尻まくる子供かな


・・「渡月橋〜君想ふ」youtube 2017.3/13以来再生回数4百万突破。聴いて鳥肌が立つという人多い。わたしはこの歌でなく「perfectcrime」で鳥肌立つ。今、4905571回。

十三詣りというの、幼年期から成長期への感性。小鮎と若鮎は同じものではないでしょう。

・・しかし、驚きですね。


平安朝女子の恋心、大人の場合、橋のない渡り、袖の渡りすら覚束ない。

「 実方と恋愛関係にあった彼女はその詞書に ”実方の君の 陸奥に下るに” と述べ

とこもふち 淵も瀬ならぬ 涙川 袖の渡りは あらじとぞ思ふ
                               新後拾遺和歌集 清少納言」


・・天龍寺の西方に亀の甲の形をした山があり、亀山、小倉山と呼ばれる。

「足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。」
「小倉山の西麓と南麓は桂川(保津川、大堰川とも)が流れ、東麓は嵯峨野、北東麓は古くから葬送の地として知られる化野(現 嵯峨鳥居本地区)である。紅葉の名所で、歌枕としても有名。鎌倉時代の歌人藤原定家が、厭離庵近くの小倉山荘(時雨亭)で小倉百人一首をまとめたとされる。」

小倉山東麓の嵯峨野には、祇王寺、天龍寺、野宮神社、落柿舎ほか多くの名刹・史跡がある。


夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐宿にけらしも????万葉巻八
夕されば小椋の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも????万葉巻九

・・「消せない過去を 見つけられれば
このゲームは終りにしよう」perfectcrime というけれど、この歌の過去はどうして見つけられる。

789秋魚:2017/05/30(火) 22:43:46
(無題)
・・青梅吉野街道東の外れから滝山街道が伸びる。あきる野秋川を通り戸吹トンネルを抜ければもう八王子だ。アップダウンの道を数回くりかえしこのまままっすぐ行けば八王子の駅の方にいけるはず。・・途中左折して滝山城址にポタリング。

・・青梅多摩川上流にある軍畑という地は、青梅三田氏vs滝山城主北条氏の戦い(1563)があったところだ。「辛垣(からかい)の合戦」と呼ばれる。

790秋魚:2017/05/31(水) 18:03:53
(無題)
まゐ様

・・デジャヴが重なると先も危ういのかもですね。ともかく久々のfantasm。謡の「雲林院」にはバージョンが二つある様です。あるいは三つかそれ以上。世阿弥元清はたいへんな美少年だったと聞いてます。将軍義満に見出され三代目義教には佐渡流刑を受けるなどやはり出来る者は末は島に流れる様です。「雲林院」の作者は未詳ですが、バージョンのひとつは世阿弥のものというのは、わたしの直感です。
世阿弥は鬼夜叉という幼名でしたが、貴まゐの好きな京の都はもともと鬼のよく出没するところと心得ております。
「雲林院」の一つのバージョンでは、昔男業平と藤原高子の恋の逃避行が芥川を渡り武蔵野の草原までやってきます。で、高子の兄は基経ですが、執念の鬼となって追いかけ妹を鬼一口に呑んだという曲になってます。鬼一口というのは、ハッとさせられますね。

・・京の羅城門。楼上に鬼が棲むという。

都良香が羅城門を通った時、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした。

・・この下の句は鬼の詞と噂になった。

都良香 (みやこのよしか、承和元年(834年) - 元慶3年(879年)

貞観期、富士の噴火、陸奥海溝地震など動乱の時代の文章博士。富士山登頂(?)の記など。


・・ところで板東武者の誉れは、平将門。関東平野の至る所将門の霊魂が息づいています。新皇と称し朝敵とされ、最後には藤原秀郷の矢に屈してしまいますが、郷土に根付いた王道の武者魂は東国の誉れとしてよいでしょう。・・京の獄門に晒し首となっても、江戸の神田まで空を飛んできた首塚は今でもたいへんなパワースポットということです。まゐ殿のしなやかで強靭な感性は、この将門の霊魂オーラを感じさせます。

・・当時、朱雀天皇は仰天したという。寛朝僧正に神護寺の不動明王像とともに、東国下総に赴かせ、将門調伏の祈祷をせしめたといいます。空海が彫った不動明王像ですが、これは効き目があったらしい、将門は討たれてしまいます。この時の不動明王像が本尊となって成田山新勝寺の開山となりました。

この真言宗の僧寛朝(916-998)は、京の広沢池畔に遍照寺を開山(989)しています。最寄の駅は嵯峨嵐山駅といいますから渡月橋、山城エリアでしょうか。広沢の池は往古より観月の池として名を馳せているとのこと。

やどしもつ 月の光の大沢は いかにいつとも 広沢の池  西行
古の人は汀に影絶えて 月のみ澄める広沢の池    源頼政
あれにける宿とて月はかわらねど昔の影は なほぞこひしき  平忠度
心には見ぬ昔こそ浮かびけれ月にながむる広沢の池    藤原良経

名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

・・

寛朝僧正が安倍晴明と同席していた時、晴明は、周りにいた公卿たちにせがまれて陰陽道の妖術を試された。術をもちいて手を触れずにカエルを真平らに潰したという。

寛朝はまた真言声明の第一人者とも。

・・芭蕉の「池をめぐりて」の句は、深川芭蕉庵で詠まれたもの。あるいは、広沢池でも詠んだかもしれない。

791秋魚:2017/06/02(金) 13:46:31
(無題)
・・嵐山、渡月橋、竹林、天龍寺。この辺はセットのパワースポット。天龍寺の寺号は、足利尊氏の弟直義が龍の夢をみたのを機縁に名付けられたという。が、これは嘘であろう。夢窓国師の案だと思われる。無門関や碧巌録にすこしだけ名をとどめる天龍禅師に由来をもらった。

・・馬祖道一−大梅法常−天竜−倶胝  という法嗣をみていたか。

大梅法常(752-839)


平安京に生きた深窓の三佳人。紫式部、和泉式部、清少納言。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影  紫式部
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな  和泉式部
夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ  清少納言


最近は、わたしは、清少納言に魅かれるものがあります。

枕草子(一一段)

山は小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。鹿背山。ひはの山。かたさり山こそ、誰に所おきけるにかと、をかしけれ。五幡山。後瀬山。
笠取山。ひらの山。鳥籠の山は、わが名もらすなと、みかどのよませ給ひけん、いとをかし。
伊吹山。朝倉山、よそに見るらんいとをかしき。岩田山。大比禮山もをかし、臨時の祭の使などおもひ出でらるべし。手向山。三輪の山、いとをかし。音羽山。待兼山。玉坂山。耳無山。末の松山。葛城山。美濃の御山。柞山。位山。吉備の中山。嵐山。更級山。姨捨山。小鹽山。淺間山。かたため山。かへる山。妹背山。

・・小倉山を筆頭に、京近辺の山は見て知ってるでしょうけど、大方は他の歌詠みで想像した山々ではないでしょうか?「朝倉山、よそに見るらんいとをかしき」など、おもしろい。

朝倉山は福岡市にある歌枕、
「昔見し人をぞわれはよそに見し朝倉山の雲井はるかに」

この朝倉山は、岐阜の不破郡垂井町にもあるそうです。標高253m

・・

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを  実方

とこもふち淵も瀬ならぬ涙川袖の渡りはあらじとぞ思ふ  清少納言

・・この二人、似合いのカップルかと。

792秋魚:2017/06/14(水) 10:44:45
(無題)
・・塩船観音寺に宗長が勝沼城三田氏を訪ねた歌碑があるという。確かめるために自転車を走らせた。ものの30分もかからない。躑躅の万華鏡はもう季節をすぎたが、手前にある吹上菖蒲園はいまが旬の盛りだ。自慢の梅林がウイルス被害でやられて観光客もぐっと減ったがこちらの北青梅はまだまだ未開発風。こころある人はこちらに廻る。すこし活気がある。

・・真言宗醍醐派別格本山というこの寺、はじめて訪ねた人はまず驚く。山間の凹地に構えて斜面一面に躑躅が植えられている。開花の頃は異様な曼荼羅世界になる。本尊は千手観音で開山はずっと古い。若狭の八百比丘尼が大化年間にやってきた。

何故若狭の八百比丘尼がこの武蔵の青梅に?若狭というのは裏日本の北陸ではないか?八百比丘尼というのがそもそも伝説的な旅の巫女。若狭の国の漁師の娘が人魚の肉を食べて不老不死の身になった。

・・八百比丘尼は白比丘尼とも、若狭小浜あたりの生まれという。

小浜田烏沖合いには、沖の石がある。

塩船観音寺??北緯35度48分15.4秒 東経139度16分52.4秒

・・この緯度線を追うと、

郡上大和・明建神社  北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒

・・福井敦賀原発(北緯35度45分02秒 東経136度01分11秒)の沖合いから若狭湾を蓋する形で京丹後最北端の経ケ岬(北緯35度46分45.47秒東経135度13分24.92秒)を抜ける。

八百比丘尼の故郷は、 福井県小浜市小浜男山  北緯35度29分29.6秒 東経135度44分18.3秒

熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮1100??北緯33度50分26.1秒 東経135度46分24.5秒


・・本居宣長の「古今伝授」批判が熾烈なので、すこし引いてみる。

「こゝに東下野守常縁と云ふものあり、歌人にはあらず。とるにたるほどの人にはあらねども、歌道に心をかけて、歌も少々よみ、歌学もすこししたるものにてありけるが、古今伝授と云ふことをつくりこしらへたり。そのつくりやうは、貫之より次第相伝と云ひて、元俊・俊成・定家と伝へ、それより次第に二条家につたはり、頓阿より後は千葉の家に伝へて、世に聞えず。さて自身まで相伝と云ふこと也。これみな大きなるつくりごとにて、あとかたもなきこと也。頓阿までも伝授と云ふことはさらになし。此こと別に弁ず。この常縁それを宗祇へ伝へたり。宗祇もあざむかれて、まことのことと思ひて、これを受けつたへたり。」

「そのころ西三条殿逍遥院実隆公、和漢の才ありて、ことに歌学に達し、詠歌もすぐれ玉へり。此人まことに歌道の中興にして、今に至るまで仰ぎ信ずることかはらず。此人専ら二条家の正風をたつると云ふことを名として、専らよみ玉へり。さればこれを二条家の歌道の中興と申す也。されどもこれを二条家の中興と云ふはあやまり也。此人は歌道の中興とこそ云ふべけれ。かの頓阿のころは、異風の流ありて、二条家おとろへしを、その異風をしりぞけて、二条家の風をおこしたればこそ、二条家の中興とはいへ、逍遥院殿のころは、すべて歌道おとろへて、異風も正風もなければ、何家と云ふことあるべからず。たゞ歌道の中興也。時の天子後柏原院も御名人也。さてその逍遥院殿を二条家の中興と云ふことは、そのいはれは、此人さしも学才ある人なりしかども、いかなることにや。かの古今伝授と云ふことをまことゝ思ひて、伝はり玉へり。かなしきこと也。常縁はいふにたらぬものなれば、たとひ伝授と云ふことをつくりたりたりとも、此逍遥院殿など云ふ時の名人、道の中興する人などのうけつけ玉はずば、世にひろく知りて伝はることはあるまじきに、此人さへあざむかれて、信仰し玉ひけるうへは、自余の人は信ずることはり也。かくの如く二条家の古今伝授と云ふことをうけつたへ玉ふゆへに、二条家中興とは云ふ也。されどその伝授と云ふもの、もとわけもなきつくりごとなれば、大いに誤り也。ただ歌道の中興也。」

 花を見てかへるといはぬ人はなし
  たもとを桃のにしきたちきて 逍遥院内府公

793秋魚:2017/06/18(日) 23:15:54
(無題)
まゐ様

・・忠臣蔵のお話は聞いているでしょう。江戸時代将軍は徳川綱吉の時でした。松の廊下の刃傷沙汰、赤穂浪士の討入り、切腹とか想像したくもない空気の時代がありました。品川の泉岳寺には大石蔵之助以下四十七士のお墓があります。・・泉岳寺の前の坂道を登って三田の方へ行くと海のほうへ見晴らしがきく亀塚公園に出ます。海がみえるといっても昔のことで今は渺茫とした埋め立て地でしょうか。月の岬と呼ばれて月見の名所はここのことかもしれません。亀塚公園には古墳と思しきものあり。

・・竹芝伝説もここです。菅原孝標女が上総から京に行く途中武蔵の国に入りました。この時すでに伝説でしたから古いお話でしょう。

・・火焼屋の衛士がこぼしています。

「などや苦しき目を見るらむ。わが國〔武藏をさす〕に七つ三つ作り居(す)ゑたる酒壺に、さしわたしたる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見でかくてあるよ」と獨(ひとり)打ちつぶやきけるを

・・内裏の姫君が御簾こしにこのつぶやきを聴きとめたのが、はじまり。

東国というのは、なんて楽しい風が吹いているのだろう。想像するだけでわくわくです。

「七つ三つ作り居(す)ゑたる酒壺に、さしわたしたる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西に・・」

「我ゐて往きて見せよ。さいふやうあり」


・・この都、平安京ではなく大和(奈良)の都と思います。平安京でも姫君は同じでしょう。

鳥影も木影もさして青簾
物ごしに采女の声や青簾
大輔も式部も見えて青簾

井月に青簾を詠んだ句があります。

大輔は伊勢大輔、永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃?

「いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」

花みずきの一青窈にしても「うす紅色」が訴えていましたから、まゐ殿の「うす紅色」も私無しでヒットです。・・そして「から紅」の渡月橋へ。

ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは  業平

嵐山の紅葉もさることながら、斑鳩竜田川の紅葉もから紅そのものです。つつ井筒は十三七つの恋でしょうか。

・・簾がでてきたので、やはり業平の玉簾の歌が気になります。

吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入るべきものを (業平)
返し、
とりとめぬ風にはありとも玉すだれたが許さばかひま求むべき (高子)

平安朝もこのあたり洗練されすぎかと。青簾の青が効いています。

・・

三田の亀塚公園ですが、この亀塚、竹芝伝説の姫君のお墓ではないかといわれる。塚の頂上に亀山碑があり、これは上野国沼田城主土岐頼煕が寛永三年(1750)に建てたもの。「塚の頂上に酒壺があり、酒壺に出入りしていた亀が一夜の風雨で石になった」という伝説を伝えている。

・・この亀の石、今でも健在で少し降った亀塚稲荷神社に祀られてあるそうです。

亀塚公園のすぐ隣、済海寺という浄土宗のお寺があります。安政六年(1859)フランス総領事館が置かれましたから、戊辰戦争で指揮をとった河井継之助もここに尋ねているでしょう。


 沖の石

そういう名の椿があります。若狭の白比丘尼がもたらしたかもです。


わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
    人こそ知らね 乾く間もなし

●●●●●●●●
わがそでは●●●
しほひにみえぬ●
おきのいしの●●
ひとこそしらね●
かわくまもなし●
●●●●●●●●
●●●●●●●●

乾く間もなく秋くれぬ露の袖

●●●●●●●●
●●●●●●●●
かわくまもなく●
あきくれぬ●●●
つゆのそで●●●
●●●●●●●●
●●●●●●●●
●●●●●●●●


ところで、酒壷に亀。この亀、白い霊亀です。

渡月橋を渡って南から嵐山をまわりこむと、松尾の里ですね。芭蕉がこのあたりを散策しています。
松尾大社がみえて、ここは若い人はあまり訪ねないでしょう。芭蕉だから松尾大社に参拝というベタなことはやらんでしょう。井月は来てるはず。

京都府京都市西京区嵐山宮町3   北緯34度59分59.87秒 東経135度41分06.62秒

松尾大社は山吹と亀の井が魅力です。亀の井の水で酒を造るといつまでも腐敗しないそうです。

794秋魚:2017/06/23(金) 22:54:49
(無題)
・・都議選があるな。都民ファの候補応援で小池百合子が地元に来ている。青梅マラソンのスターターと青梅観光を盛り上げてゆくというのでだいぶ受けていたようだ。自分も一票入れる。

・・今日は朝から自転車で多摩丘陵をヘめぐった。帰宅が夕方六時。多摩川沿いにマムシに注意!とあったが幸い蛇には会わなかった。温泉で壷押し湯というのをやったり、だいぶ体の節々が痛い。いまはバラバラ体が分解しそう。百草の稲荷塚というのがめずらしい八角墳と聞いて、簡単な位置地図を頭に入れて、ヒマがあったら訪ねてみたかった。・・数日前にネットで記憶した位置地図だけに訪問はあてにならない。予定外の算段だった。温泉のフロントで交番や道路網など尋ねると地図をだしてあれこれ説明を受けた。最近はどこでも新人が多くインフォの役が覚束ないのが多いがマニュアルあるらしく手をつくしてくれる。JR中央線は恐れ入った。駅員車掌が女子職員。それでも仕事はできる。
・・結局駅ちかの交番はビルの二階というのであきらめ最初に頭に入れた地図を頼りに稲荷塚をめざした。昔は古墳だったが今は神社か公園だと記憶して百草にあるという。ずっといくと運よく交番があって職員も在所のよう。日野の百草と思っていろいろ尋ねるがここは多摩市という。百草は多摩市にもあります。こちらの百草なら稲荷塚があります。運よくこの近くだった。頭の地図の寄せは正解。

・・このあたり和田古墳群が認知されているが、もっと昔は縄文の遺跡群もあったようだ。宅地開発などでおおかた原形をとどめぬが、この稲荷塚古墳はまだ墳丘の形はとどめている。都の調査で石室も確認されている。八角墳というのはたしからしい。


最近、多摩地区を走って気がついたこと。霞川にはカメラマニアがカワセミを撮ろうと粘っていたが、騒ぎすぎて出没はなかったか。瑞穂にある狭山ケ池は由緒が古い。水の色がモスグリーンで魚や水鳥も多い。午前中早めに訪れると、カメラマニアがものものしげに陣取っている。聞くとカワセミの飛翔を待っているのだという。つれずれに池の面を眺めていたら、一瞬、きれいな虹色の鳥が水面をかすめた。すぐ木陰に隠れたが、遠目にも虹色はよくみえた。・・あれがカワセミという。思ったより大きな鳥で、色彩は緑、青、オレンジとか虹色にみえる。

 武蔵野

・・総武線沿線は武蔵野からは外れている。武蔵野自体都からの外れの意味だった。下総上総には武蔵野コンプレックスがあっただろう。ミュージシャンの倉木マイは京都は第二の故郷と明言したのは、えらい。第一は秘して語らずだが、下総出身だ。近代の偏差値基準でいうと、感情移入のハイパーレベルを発揮したのは、同期では鮫島有美子、近々では倉木マイ。・・彼女らのずっと先輩は「更級日記」を綴った菅原孝標女だと認識している。上総の出だが。父の任期終了とともに京へ帰国するのが十三歳の時。渡月橋の十三詣りと同じ年ですね。都心を幻視する女子力では抜けているがローカルレベルの限界をどう超えるか、周囲はそうみるだろう。
 倉木マイは声がつぶれなければ、アジアの女王ayuにとってかわるのは時間の問題だとみる。ayuというのはハスキーボイス以外の記憶がないので申し訳ない、ホイスパーボイスにハスキーが+するのは、アジアの新風ではないか。嘘の充満してる台湾、中国では強烈なインパクトシンガーのボイスベリテが称讃されるはず。

 娘たちの仕事をよそに、大先輩の「更級日記」を解読してみたい。定家が秘かに筆写したという。

795秋魚:2017/06/30(金) 17:46:43
(無題)
千はやぶる神世もきかず龍田川から紅に水くゞるとは

二条の后の、春宮のみやす所と申ける時に、御屏風に、
たつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる

・・二条の后、春宮のみやす所の時ですから、貞観八年(866)から貞観十八年(876)の間のことでしょう。竜田川にもみぢ流れる屏風の場所は、おそらく、雲林院でのことと思われる。

業平のちはやぶるの前に「もみぢばの流てとまるみなとには紅深き浪や立らむ」素性法師の歌があり、さらにその前に「侘人のわきてたちよる木のもとはたのむ陰なく紅葉ちりけり」僧正遍昭の歌、「うりむゐんの木のかげに、たゝずみてよみける」の添書きとともにある。

・・命くれない、なんて演歌がありました。から紅は平安の異風ぶりでしょうか。

近代の色彩感覚では、vermilionというのが西欧経由で入ってきたと思われますが、鮮やかな朱色。卑弥呼の時代にあった丹沙は硫化水銀で似た色かもしれません。

* バーミリオン(Vermilion)の語源は、ラテン語のヴェルミクルム(Vermicul-um)だそうですので、・・※ヴェルミクルム=小虫(死んで塊になったものが赤色をしていた)


龍田越え

竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。・・龍田(三郷町の龍田大社付近)を越えることから「竜田越」とよばれるようになった。
・・飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された。沿道にある大聖勝軍寺を含め、いずれも聖徳太子にゆかりのある地域と関わりがある。聖徳太子自身もこの街道を往復していたといわれる。
・・柏原から三郷にかけては、北側の山道越え(信貴山越と一部重なる)、大和川の北岸に沿うルート(いわゆる亀の瀬越)、対岸の南側を沿うルート(現在の国道25号)など、複数のルートがある。

柏原市内で、「亀の瀬」とよばれる地域を通るが、本街道としては現在に至るまで、難所として知られた。             wikiより


・・つつ井筒の恋で昔男が越えるのは、この竜田越ではなく十三峠であろう。

十三峠(じゅうさんとうげ)は、大阪府八尾市神立と奈良県生駒郡平群町福貴畑との境にある峠。標高462m。

大阪のヒルクライマーの聖地ともいえる峠。
かなりきつい登りが細かな緩急と九十九折れを繰り返しながら続く。

796秋魚:2017/07/22(土) 02:33:39
(無題)
・・五月に訪れた甲斐大和。帰路塩山駅で電車待ちをしたプラットホ−ム。畳んだ自転車をどの客車に乗せるべきか。たまたま来た掃除廻りのおばさんに聞いてみた。客車の先頭か最後尾か。水を撒いて仕事しながら親切に応対。・・愛想のいい人で声の響きもなぜか気になった。おばさんもういいよ、ご親切にありがとう。いいえこちらこそ、お気をつけてお帰りを。・・で、電車に乗って思い当たったのだが、あの人は昔立川の職場にいたチヨちゃんという人だ。まちがいない。話をしている時はわからなかった。あ、なつかしい。向こうは憶えていたかな。たぶん気がつかなかったのは自分のほうか。しかし、なつかしい。・・こういうのって危ないんでしょうね、きっと。

・・千代の古道を追ってみる。


鳴滝(京都) 座標: 北緯35度11分30.1秒 東経135度38分11.8秒

・・地名の由来は、この地に小さな滝があり、ある時、その小滝が、ゴーゴーと凄い轟音をたてていたという故事による。村人たちが不思議がって、寺の和尚に相談したところ、和尚も不審に感じ、全員を、高台の寺に集合させた。すると、その夜、村は大洪水に襲われ、全壊してしまった。この出来事により、小滝は「鳴滝」と呼ばれ、村の方も「鳴滝の里」と呼ばれるようになった
                                  (wikiより)

鳴滝音戸山の山上にあった蓮華寺。

・・後、永らく荒廃した。江戸時代、1641年、江戸の豪商 樋口平太夫家次により、音戸山に再興されている。また、木食上人但称(但唱)により五智如来などの石仏群像が6年の歳月をかけ造立され、伽藍、堂宇も建立された。


嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒  定家

千代のふる道のコースだが、ひとつに松尾大社から広沢池、大沢池(嵯峨大覚寺)へ歩く道というのがある。二つの池は観月のコースだ。

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。・・本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇。

・・この五大明王ですが、画像をあれこれ眺めているうち、体調がおかしくなります。

wave.ap.teacup.com/shougyo999/420.html

797秋魚:2017/07/06(木) 22:21:01
(無題)
・・宣長がべた誉めしてる逍遥院殿こと三条西実隆が青梅に歌を残したというので、追っている。二俣尾の海禅寺に歌碑がある。

花を見てかへるといはむ人はなしたもとを桃の錦たちきて

・・三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。 康正元年4月25日(1455年5月11日)− 天文6年10月3日(1537年11月5日)

後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門天皇の寵妃や、後柏原天皇女御で後奈良天皇生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。・・室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭守護の武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。
                   (wikiより)

・・立川の国文学研究資料館に行ってみた。件の歌の出典を探したが、コンピュータで検索しなさいということ。そういわれてもね。とりあえず歌集「雪玉集」を探った。「花を見てかへる」というのは、どうしても見つからない。武蔵野と題された歌が二つ。

なほざりの袖だに露はふるさとを秋たちそめしむさしのの原
山の端はしらでかくれぬ月やただ心づからのむさしののはら

いろいろ旅もよくしたらしく、武蔵野にも実際来ているのだろう。武蔵野はただ広いという感慨の歌多く、たいてい場所を特定できないものだ。

・・もうひとつ「再昌」という歌集もみた。文亀三年(1503)

桃花曝錦
桃花春くれなゐの錦こそ柳さくらにたちもをくれね
玉河里雑
おしますやなかるゝ月日わつかなる光も陰も玉かはのさと

・・この「玉河」はどこの玉川か。

いろいろ拾い読みしてわかったが、あまりにローカルな土地は歌がない。で、青梅などもみつかりそうもない。

・・しかし、来ているはずだが。


「宗祇終焉記」(1502)の著者柴屋軒宗長が青梅勝沼を訪問したのは、永正六年(1509)の八月二日。
これは「東路のつと」として紀行を残す。

「八月二日に武蔵勝沼といふ所に至りぬ。三田弾正忠平氏宗、この所の領主たり。かねてしも白河の道々のこと申しかよはし侍りしかば、ここのやすらひ十五日に及べり。連歌たびたび、
霧は今朝分け入る八重の外山かな
この山家、後ろは甲斐の国の山、北は秩父などいふ山に続きて、まことの深山とはここをや申すべからん。この山深き心ばかりなるべし。同じ所に山寺あり。前は武蔵野也。杉本坊といふにして、
霧を吹く野風か花に朝曇り
同じく十五日に、氏宗同じく息政定、これかれ駒うち並べて、武蔵野の萩・薄の中を行き過ぎがてに、日暮し二日に分けはてて、長尾孫太郎顕方館、鉢形といふ所に着きぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、
武蔵野の露の限りは分けも見つ秋の風をば白河の関 ・・」

・・杉本坊は塩船観音寺。その前の東側に開けた土地を武蔵野とみている。小高い丘陵は杣保と呼ばれ、江戸の資材を養っている。勝沼には二週間ほど滞在、埼玉の寄居にある鉢形まで馬で行く。道中の風光すべて武蔵野のものと認めているのがわかる。

「宗祇終焉記」でも鎌倉から武蔵野を分け入って上野(群馬高崎あたりか)越後へと向うに、武蔵野の経路は記述なしだが、やはり勝沼の三田氏の城を訪ねたと思える。

興味深いのは、武蔵野の風光の認識が、青梅の杣保からはじまっているということだ。

・・北条氏康「武蔵野紀行」(1546)でも、青梅の勝沼を訪れた記述がみられる。

この紀行、はなはだ胡散臭いものだが、勝沼訪問の行を引いてみる。
「比は八月上旬、朝霧深く分け入りて行くに山あり。いは山と云ふ。此の山の後は甲斐の山、北は秩父など申し侍る。夫より武蔵の国勝沼と云ふ所に着きぬ。斎藤加賀守安元、此の所の領主なり。常々道々の事申し遣はしければ、山海の珍物数を尽し饗応しける。
 此の所に二日逗留して、夫より武蔵野を狩り行くに、誠に行けども果のあらばこそ。萩芒女郎花の露に宿れる虫の声、あはれを催すばかりなり。
 武蔵野といづくをさして分けいらん行くも返るもはてしなければ
古の草のゆかりも懐かしければなり。是も紫の一本のゆゑなるべし。
 隔つなよわが世の中のひとなればしるもしらぬも草のひと本 」

・・藤沢から北に道をとり勝沼に入る前に「いは山」に至る。「此の山の後は甲斐の山」云々は「東路のつと」の描写そのまま、しかし「いは山」は高尾山のことと思われる。斎藤加賀守安元は勝沼の領主ではない。「武蔵野といづくをさして分けいらん・・」の歌も想像でつくれるような陳腐な歌だ。

それより、新拾遺集にある藤原行春の歌がおもしろい。

 分けゆけど花の千種のはてもなし秋を限の武蔵野の原

さらに源通光の武蔵野は、

武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(新古378)

798秋魚:2017/07/09(日) 19:06:56
(無題)
・・百人一首の巻末の歌は、
ももしきや古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり (順徳院)

順徳院 建久八年〜仁治三年(1197-1242) 後鳥羽天皇の第三皇子。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)・・承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。

件の歌は、建保四年(1216)順徳二十歳のときの詠である。

・・宗祇の遺志で金三両を三条西実隆がもらいうけたときの歌、

我身こそ千ゞの金を報ひても思ふに余る人の恵みを

・・実隆は宗祇より古今伝授をうけた特別に深い思いがあったようだ。宣長は古今伝授そのものを否定していたので、このような宗祇、実隆の遺志のつながりを理解しなかったにちがいない。

・・順徳院が佐渡で詠んだ百首御歌の中に、千曲川を詠んだものがある。

ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪(風雅36)

・・千曲川は、甲武信ケ岳に発し、長野県・新潟県を流れて日本海に注ぐ。新潟県内では信濃川と呼ばれる。順徳院が千曲川とどういう邂逅があったかわからぬが、想いは深い。

信濃なるちぐまの川のさざれ石も君しふみてば玉とひろはむ(万葉集東歌)

・・「さざれ石」→「玉」とは、ずいぶん洗練された東歌ですね。

・・

承久の変(1221)では、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ、流された。

『最勝四天王院障子和歌』なるものがある。最勝四天王院とは、後鳥羽院の勅願により、京都三条白川の地に造営された御堂のこと。46の名所が選ばれ、それらの景色が障子に絵として描かれ、それらに各和歌が添えられた。1207年のこと。

順徳院は四天王院和歌には、参加なし。

・・46の名所のうち、更科の里を詠んだものがある。

里の名の秋にわすれぬ月影に人やはつらきさらしなの山(俊成女)


旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

聖徳太子ゆかりの四天王寺とは、何か関係あるか。

・・山城の名所で、大井川を詠んでもいる。

大井河波のかよひぢたちかへりあとある風に木のは散りつゝ
(後鳥羽院)
あらし山けふの御幸のかり衣にしきになれとちる紅葉哉
(慈円)
大井河入江の松をしるべにてむかしのなみにうかぶもみぢば
(通光)
かばかりの色にはあらじ大井河むかしをうつす紅葉なりとも
(俊成卿女)
もみぢばを御幸ふりにし大井河あとなき水に秋のありける
(有家)
大井河まれの御幸に年へぬるもみぢの舟ぢあとはありけり
(定家)*註
さがの山みゆきをうつす大井河もみぢにまがふかり衣哉
(家隆)
この河にもみぢばながるあし引きの山のかひあるあらし吹くらし
(雅経)
もみぢばのふりにし世より大井河たえぬみゆきの跡をみる哉
(具親)
大井河ふるきをしのぶ事ならばもみぢのにしき御舟かざらん
(秀能)

*註「嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世の古道あとはありけり」(在原行平)

大井川御幸  延喜七年(907) 宇多天皇
       承保三年(1076) 白河天皇

799秋魚:2017/07/14(金) 20:20:34
(無題)
・・こういう伝説があるようだ。

「四天王寺が建立される際、物部守屋の怨霊が伽藍を滅んが為に、
数千万羽のキツツキとなって堂舎をつつき妨害した。
それを知った太子が白鷹に変化し、守屋の怨霊を退治した。」

・・芭蕉が奥の細道で、黒羽の雲巌寺に訪ねた時、仏頂和尚の山居の庵をみて、
「啄木も庵はやぶらず夏木立」と詠んだ。

「鷹一つ見付てうれしいらご崎」 伊良湖岬の句は、さほどの寓意はあるまい。

井月は一味違う。

旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

800秋魚:2017/07/22(土) 18:53:57
(無題)
・・七月 暑い〜ね。
家で必死にこの暑さに耐えるのは、芸がない。もともと真夏の猛暑というのは得意だった。サハラ砂漠の猛暑も知っている。ただやはり年を取ったか。暑さに逆張りするほどの気概はない。で、入間川サイクリングロードを走って川越までポタリング。これは逆張りではない。天然水がいかに美味く飲めるか。これが最良の健康法だと最近気付いた。「森の水だより」というのが気に入ってる。180mmペットボトルに目一杯つめてこれで足りないのは承知のこと。大宮の友人と川越で落合う予定だったが、先方はこの暑さにダウン。で、単独で出かけることにした。・・わたしの自転車はたいしたものだ。もう6〜7年になるがほとんど狂いはない。クロスバイクは輪行にちょい無理もあるがなんとか無難にこなす。それにひきかえパソコンのwin10というのは最悪。先日完全に壊れた。再利用の仕方もわからない。

・・ぼやいていても暑いばかりなんだから、ともかく入間川へ。このサイクリングロードは最高だ。

自転車で走ってるうちは風を切るので爽快だ。家でもそうだが停滞したら暑さがぐっとくる。外は風があれば木陰はいい。・・川に沿った公園やグランドが開けている。休日で各種団体の遊びがあってサイクリングロードの脇まで親子連れが陣取ってる。で、徐行していたが、急に子供がひとり飛び出してきた。人身事故を避けるため急ブレーキ。子供にはあたらなかったが、自分は勢いで転倒。気を失ったふりしてしばらく倒れて目を瞑っていた。「すみません」「大丈夫ですか」ぶつかった場合どちらが悪いのか。すこし考えたがともかく当らなかった。倒れ方もよかったので体も自転車もほぼ無疵。こういうのすこしでもキズがあるとあとあと残るものだけど、今回はパーフェクト。・・しかしあぶなかった。

・・丁度一年前か川越市街に来ている。入間川は左岸から右岸にわたる最後の橋は何といったか。霞ヶ関という変った名の地がある。ここで渡る。川沿いをやめてそのまままっすぐ進む道がベストだ。前回までの経験が生きている。

・・中心街へ。連雀通りを行くと蓮馨寺というのが見えた。「小江戸川越こころのふるさと」 三河の徳川はこの浄土宗ですね。本尊は阿弥陀如来、法橋覚慶作。文化財で元禄の梵鐘というのがあって、元禄八年(1695)の作。作仏僧円空はこの年に死没。元禄七年(1694)は俳聖芭蕉の没年。

「おびんずる様」というのがよく参拝されている。祈願所(呑龍堂)の外にあり、参拝者が直接そのお身体にさわるとその病気が治り、その御頭にさわると頭が良くなるという。・・それで自分もよいめぐりあわせと思い、順番をまって「おびんずる様」のお身体に触れてみた。おびんずるは釈迦の弟子でも神通力がぬけておりその神通力の使いすぎを釈迦に戒められた結果、仏滅後にも多くの衆生を済度する仕事を任されたという。

*賓頭盧(びんずる) 釈迦の弟子の1人。獅子吼(ししく)第一と称される。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。

・・さて、まったく予定がない。暑いだけならポタリングも即終了かと。川越は時の鐘周辺に人は集まる。氷川神社というのがあって、一年前訪ねたのとは別のもよう。ここを訪ねることにした。人に聞き聞き「ごめんなさい」「わたしも知りません」というのが多い。それでもなんとか辿り着くと人が多い。人気してるようだ。氷川はスサノオを祀る。浴衣すがたの女子が多い。どんなご利益があるのか暑いので考えたくも無い。・・おもしろいのは中に関東ではここだけという柿本神社というのがある。山上憶良の歌碑もある。・・顔はjapaneseでも言葉はチャイナかコリアか。暑いので考えたくも無い。

文明二年(1470) 河越千句。 太田道真、宗祇、心敬・・

うめそのに−くさきをなせる−にほひかな
にはしろたへの−ゆきのはるかせ
うくひすの−こゑはとやまの−かけさえて
のへにうつれる−みちのはるけさ
ならはすよ−いつくのつきそ−たひまくら
みやこいつれは−みしあきもなし
すさましく−しくるるそらの−くれそめて
くもよりをちの−いりあひのかね
くさのとに−ひともおとせぬ−やまふかみ
ほのかにのこる−まつのしたみち


・・この川越から西に進むと梅林で名高い越生。この山間に太田道真の隠居の庵がある。宗祇、心敬、万里集九などもここを訪れた。芭蕉は河越の痕跡はないですね。井月もないけどたぶん寄ってはいるでしょう。越生のすぐ隣りが都幾川、慈光寺がある。南へ下れば日高、飯能、青梅だが、この道もおもしろい。連歌師宗長が歩いているのは確かだ。

・・正岡子規が川越に句を残しているのは、あまり知られていない。
「砧うつ隣に寒き旅寝かな」 吉見百穴を見ての帰りに寄ったという。明治24年(1891)25歳。

・・やたら暑い。川越ではほかに興あること多々あったが、帰路につく。往路であやうく衝突事故かというのは、親水公園の敷地かと。帰りこの公園の入口付近に水路が分かたれて釣り人のいるところがある。水草の匂いがして、魚もたくさんいそう。自転車を木陰にとめて、魚釣りの具合を尋ねてみた。「何が釣れるのですか」「ヤマベ」。ヤマメかと聞き返したらヤマベという。実物を見たかったが、釣れた先すぐ水にもどしているという。・・つれずれにいろいろ話し込むと、大変な太公望で川釣り海釣り、日本各地のほか外国でもやっている。ここに合流する川は宮沢湖が水源とか。あそこはブラックバスですね。この入間川でも5匹に一匹はバスだという。オイカワという魚を呑みこむサギをねらったカメラマンがたくさんでしたよ。アユはいないんですか。入間川は石がないからアユはいない。・・おもしろいのは、私の幼少の頃の記憶がまざまざ蘇ったことだ。市川の真間川の上流境川のことも知っている。タナゴという熱帯魚のような魚がいた。いまは希少で天然記念物だという。飯能の山奥にしかみられない。モスリンという鮒釣りの池も知っている。・・アメリカでは、ヘミングウェイの様にカジキを釣ったとか。南米ではピラニアを。・・釣りの話ならいくらでもありそう。さすがに暑いので、死んじゃうよ。そういって竿をしまいはじめた。ありがとうといって自分も帰路に。あ、この釣り場の奥にはカワセミもよく出るそうだ。

801秋魚:2017/08/02(水) 12:33:38
(無題)
・・入間川で採れるヤマベはオイカワと同じものという。いつかササゴイが捕らえていたのを見た。

「垂仁天皇の皇子ホムチワケは成人してもものを云わなかった。しかし空をゆくクグヒ(白鳥)の声を聞いて、はじめて声を出してものを云った。そこで天皇は山辺大タカ(帝+鳥)という者をつかわして白鳥を捕らえさせた。大タカは白鳥を追って紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬の国を訪ね歩き、さらに近江、美濃、尾張、信濃と経巡って、越の国の和那美のみなとに至り、そこで網を張って白鳥を捕え、天皇に献じた。」

たましひの鳥

「鷹はたましひの一時の保有者であった。だからこの鷹によって、鎮魂を試み、あるいはうらなひを行うことになった。鷹には鈴をつけて放すのが定りである。この鈴の音が、呪術とうらなひとに交渉を持って居るものであろう。白鳥はたましひの鳥であり、もっとつよく云えば、逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの、と考えられた方面もある。こうしたものを求める動作は、たましひの場合に限って、こひと称している。こひは白鳥を指す『こふ』という語からも裏付けられる。垂仁帝の息子のほむちわけの場合は、たましひの鳥、鵲を追うていったのは山辺大鷹となっている。たましひの鳥を追うがために鷹の名をとったのか、あるいは説話学の考方にしたがって、鷹の人格化せられた名と見るべきか、いずれにしてもたまごひと鷹との関係を思わせる。」
??????????????????????????????????折口信夫「恋及び恋歌」

・・倉木マイ。出色のブレークシンガー。何度聞いてもあきない。木工家の五十嵐誠さんなんかも大手を振って応援している。「逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの」・・鷹は鈴音を鳴らして虚空に舞う。この鈴音の遠さと近さが倉木マイの声に似ている。たましひを狩するもの。


 まゐ殿

・・京に出没する鬼の話を続けましょう。

大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
               小式部内侍

和泉式部の娘で美貌で才気煥発であったとか。大江山は山城と丹波の国境、あるいは丹波と丹後の境にある山。母親の式部は当時夫保昌の任地丹後に住んでいた。あまの橋立は風光明媚の名所。

平安王朝女流の爛熟時代、紫式部、和泉式部、清少納言など源氏物語に描かれた時の天皇は一条天皇(
天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))。

大江山酒呑童子伝説は山城と丹波の境にある老坂にたむろした鬼の話。ちょうどこの式部たちの活躍した時代である。

「一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。」 wikiより

『大江山酒天童子』
昭和35年 (1960) 大映京都、田中徳三監督。当時の大映オールスターキャストで製作された豪華大作。出演:長谷川一夫(酒天童子)、市川雷蔵(源頼光)、勝新太郎(渡辺綱)、本郷功次郎(坂田金時)他。
当時の60年安保での世相を反映し、酒天童子を志を持った革命家として描いている。

・・京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。

・・摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。


 この坂田公時ですが、足柄山の金太郎さんですね。山姥の母という。


・・酒呑童子の生い立ちについて、

平安初期に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった。絶世の美少年であったため多くの女性に恋され恋文をもらったが、貰った恋文を読みもせず全て焼いてしまったところ、想いを伝えられなかった女性の恋心が煙となって、彼の周りを取り囲み、その怨念によって鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。

一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5〜6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。

*河井継之助は、越後が生んだ三傑として、酒呑童子・上杉謙信・良寛の三人を挙げている。

802秋魚:2017/08/07(月) 17:02:47
(無題)
・・「翡翠」という歌集がある。『翡翠』大正五年(1916)3月25日、片山廣子第一歌集。因みに翡翠はかわせみと読む。きれいな鳥のこと。


よろこびかのぞみか我にふと來る翡翠の羽のかろきはばたき


     *

空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき
花草の信濃たか原あさ行けば人の世遠くみそらのちかき
霧ふかしうぐひすむせぶ雜木原とつくに人に路とひにけり
朝風に霧はれゆけば山つばめ木の葉の如く吹かれて舞ひぬ
山羊の子は流のふちの桑の葉もはみ飽きたるか我により來る
夕もやに顏うかせたる花あざみ寂しき息を野にただよはす
わた雲とみそらと我となでしこと嶺にある日はいとさびしけれ
さびしらに淺間葡萄も吸ひて見む人醉はしむる毒ありといふ
月見草ひとり覺めたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな
朝霧の底に夢みる高き木にうぐひす鳴けばわが心覺む
雲の影遠野をはしるまひる時みねに立ちつつ我がいひしこと
日ごろ我が思はぬ人もいと戀し日の入りあひにみやまどり鳴く
此夕べ淺間の煙かがやきてにほふ入日に寺の鐘なる
遠山と我と立つ時やみに伏す大野のむねにおつるいなづま

803秋魚:2017/08/10(木) 18:29:29
(無題)
・・芥川龍之介が雑誌『明星』に載せた旋頭歌がおもしろい。大正十四(1925)年三月発行。なにゆえ『明星』か、というか謎。
力作『庭』に井月が登場する。「蛙が啼いてゐるな。井月はどうしつら?」これも中村の長男の辞世。

大正十年(1921)四月十一日。聖徳太子千三百回忌年祭、斑鳩の法隆寺。
大正十年(1921)十月二十五日。『井月の句集』刊。
大正十一年(1922)六月。芥川短篇『庭』
大正十二年(1923)9月1日11時58分32秒頃。関東大震災
大正十四(1925)年三月。芥川旋頭歌『越びと』(『明星』掲載)

・・この大正十二年の関東大震災だが、龍之介は川端康成とともに吉原の被災現場をみて歩いた。ヘルメット着用にて快活に飛び歩く装いがみえたと川端のエッセイに描かれている。
・・震災当時吉原の大門が閉じられて、遊女の逃亡を防ぐという風習は残っていた。遊郭内で起きた火事がつづき、逃げ場を失った遊女たちは吉原弁財天内の池に次から次へと飛び込んだといいます。この時遊女らの死者490人。
「吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい地獄絵であった」

蟷螂やものものしげに道へ出る

  *

安政二年 江戸大地震

安政三年 成田山出開帳

「安政3年3月20日より60日間、深川永代寺で出開帳が行なわれた。『武江年表』には、安政3年の様子を「開帳中、日参朝参等夥しく諸人山をなせり。永代寺境内は寸地を洩らさず、看せ物、茶店、諸商人の仮屋をつらねたり。又奉納の米穀、幟、挑灯、扁額等境内に充満せり」と記されているほど盛況であった。開帳とは、厨子や戸帳を開いて普段は見ることの出来ない秘仏を拝観させ、民衆と結縁する宗教的行事である。成田山では、江戸時代に23回開帳を行っているが、その中心となったのは、深川永代寺八幡宮社地で行った江戸出開帳である。」


安政の台風

「安政3年8月25日(1856年9月23日)、「安政3年の大風災」と呼ばれる大きな風水害が発生した。これは、江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことによって、江戸の街一帯が暴風と高潮の被害を受けたことによるものである。また、暴風雨に加えて火災が発生したことも被害を大きくし、この台風による死者は、資料にもよるが最も多いもので約100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては過去最悪の被害とされている。」

飯能名栗原市場 星宮神社に芭蕉句碑がある。

「聲澄みて北斗にひゞく碪かな」 揮毫は、孤山堂卓郎(小森卓郎)。安政三年。

卓郎は三島の人。江戸に出て宗匠となった。
「蓬莱にひと膝すゝむ会釈かな」  越後獅子、家づと集に収載。

804秋魚:2017/08/16(水) 21:51:47
(無題)
水無月ノ土サヘワルゝアツキ日ニ
ヒトリ露ケキナデシコノ花

・・季吟が丹波の山越え貝原の里にでたそうだ。おすてというあやしい娘がいて洛の季吟のファンであった。山越えてあつい日中にこの家の門にたずね水ひとつ乞うた。おおこの人よと思いつつ水をひと汲みさしだした。季吟殿句あらばまいらすべし。打ち笑いつつ、
「葛水や鼻の下行よしの川」季吟
と聞こえたれば当座の吟ながらおかしかりし。

・・綾足『俳仙窟』にこんな下りがある。季吟は芭蕉の師北村季吟。おすては盤珪和尚と季吟に師事した田捨女。でもこれ本当の話だろか。

龍之介も「水涕や鼻の先だけ暮のこる」なんて詠まずおすて季吟にならうべしや。


まり様

「花曇」の讃をつづけます。

光前寺  天台宗別格本山 本尊不動明王秘仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
????????北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

木母寺 北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒 墨田区 本尊地蔵菩薩
六義園??北緯35度43分59秒 東経139度44分48秒??東京都文京区本駒込六丁目


・・江戸には、五色の不動明王があるそうな。

●目黒不動 荏原郡目黒村   瀧泉寺 ?? 慈覚大師作
●目白不動 小石川關ロ水道町  新長谷寺 弘法大師作
●目赤不動 本郷区駒込淺嘉町  南谷寺
●目黄不動 本所区表町   ????最勝寺
     下谷区三ノ輪町 ?? 永久寺
●目青不動 荏原郡世田ヶ谷村三軒茶屋

・・関東の三大不動尊といえば、

●成田山新勝寺(成田不動尊)千葉県
●高幡山金剛寺(高幡不動尊)東京都
●(雨降山大山寺(大山不動尊)神奈川県)幾つか説がある。

・・江戸の三大不動は、

●目黒不動 「創建は大同3年(808)、慈覚大師円仁によるという伝承がある。
元和元年(1615)本堂が焼失したが、後に三代将軍家光公がこの地で鷹狩りを行った際、その鷹が行方不明になり、家光公は不動尊に祈願をしたところ、鷹が松の木(鷹居の松)に戻った。家光公は不動尊の力を尊信し、堂宇伽藍を再建し江戸城五方の方難除け、五街道の守護に当てた。」
●目白不動 「新長谷寺は、奈良の真言宗豊山派総本山長谷寺末であり、本尊不動明王は断臂不動明王と呼ばれていた。弘法大師が湯殿山に参籠の際、大日如来が不動明王の姿で現れ、自らの剣で左臂を切り、ここから霊火が燃え盛り大師にお言葉を告げられた。大師はそのお姿を刻み、それが断臂不動明王であるという縁起が伝承されている。」
●薬研堀不動尊(川崎大師東京別院) 「天正13年(1585)、紀州(現和歌山県岩出市)根来寺の大印僧都が、豊臣秀吉の兵火に遭った根来寺からご本尊の不動明王を江戸隅田川付近に移し、堂宇を建立したのが始まりと言われている。」


青梅山金剛寺  東京都青梅市天ヶ瀬町 N35度47分22秒 E139度14分59秒
        真言宗豊山派 本尊白不動明王(智証大師画)

安楽寺  東京都青梅市成木1-583 N35度50分18秒 E139度16分31秒
     真言宗単立 本尊 愛染明王・不動明王・軍荼利明王
    行基が和銅年間(708-714)に軍荼利明王を彫刻・安置して創建

成田山新勝寺  N35度47分09秒 E140度19分05秒
       真言宗智山派 本尊不動明王(弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼)


隅田川神社??東京都墨田区堤通2-17-1??北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒
     祭神 速秋津日子神、速秋津比売神、鳥之石楠船神、大楫木戸姫神

・・絵にみえる山は、筑波山。北緯36度13分31秒 東経140度6分24秒 標高877m
  西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)

伊那の火山峠 標高853m

・・

青梅勝沼に石動神社がありますが、この本山は、
能登石動山  N36度57分55秒 E136度58分15秒
伊須流岐比古神社 N36度57分46秒 E136度58分25秒

大伴家持がよく訪ねたといわれる、
田子浦藤波神社、N36度48分56秒 E136度59分32秒

ここから思い切り海の見えるところまで南下すると、
伊良湖崎  N34度34分52秒 E137度00分55秒
神島  N34度32分47秒 E136度58分56秒

多胡の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
たこのうらのそこさへにほふふぢなみをかざしてゆかむみぬひとのため
(次官内蔵忌寸縄麻呂)

・・
鬼灯の色にゆるむや畑の縄
鬼灯や知らぬ子どもの連になる

鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉
いらご崎にる物もなし鷹の声

ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥   井月

805秋魚:2017/08/22(火) 11:08:34
(無題)
如菩薩も花にうかれつ法の庭

身はなきものと思へ共、花の咲日はうかれこそすれ、中々に堪忍ならぬ花曇

・・

ここ、光前寺  天台宗別格本山 本尊不動明王秘仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
????????北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

秋葉山本宮秋葉神社  静岡県浜松市天竜区春野町領家
    北緯34度58分52.44秒 東経137度51分56.81秒
    主祭神 火之迦具土大神

『東海道名所図会』には秋葉大権現の利益として「第一には弓箭刀杖の横難を免れ、第二には火災焼亡の危急を免れ、第三には洪水沈没の免れさせたまふ」とある。

秋葉山本宮秋葉神社には、古来より多くの日本刀が献納されて来たり、今に至っている。
・・
『寶物実録』に記された献納者の内、名立たる武将として伊豫守源頼義・為朝・足利尊氏・今川仲秋・武田信玄・長曽我部元親・豊臣秀吉・加藤清正・福島正則などの名が挙げられる。

806秋魚:2017/08/26(土) 10:04:26
(無題)
「出雲路ノ毘沙門堂ニテ、人々連歌シテケルニ、
  ウスクレナヰニナレルソラカナ
ト云句ニ、ツケ煩テ、三十余句返テケレバ、興モナカリケルニ、東入道ノ、シノビテ聞ケルガ、
  アマトブヤイナヲセ鳥ノカゲミエテ
ト付タリケル。時ニトリテ、ワリナカリケル事ニ語伝ヘ侍リ。」

・・花の下連歌のよく云われる説話だが、ウスクレナヰはウスベニのこと。薄紅色の感性は今の恋歌でもよく目立つ。ハナミズキの一青窈、timeaftertimeの倉木マイ。

ウスクレナヰニナレルソラカナ ・・この後が付けがたい。アマトブヤと飛躍飛翔に転じてイナオセ鳥の古今伝授にもってきたのは、機転の妙。


渡月橋の倉木マイは、カラクレナイと朱の転じを勁く歌った。



花の下連歌でしょう。うれしきものは。

・・芭蕉に園女あり。この度会園女は伊勢山田の人で、芭蕉に私淑した俳人です。芭蕉は、逝去の半月ほど前に、大坂で園女に招かれ「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」と詠んでいます。宝永二年(1705)には、園女、江戸に出て富岡八幡宮の前で眼科医を開いていました。歌仙桜という三十六本の桜を八幡宮へ寄進しました。この桜、今は存在しませんが、八幡宮の花見の名所であったといいます。安政3年には成田山不動明王とともに園女ゆかりの歌仙桜もみて歩いたと推察されます。花曇の句を詠んだ光前寺も枝垂れ桜がみごとといいますから、不動明王−八幡宮歌仙桜−園女、不動明王−光前寺花曇の句−山田よし女という二つのスポットが二重写しにみえたのでしょうか。
因みに富岡八幡宮の位置は、東京都江東区富岡一丁目20番3号 北緯35度40分19秒
東経139度47分58.6秒
この同緯度線をたどって西へゆくと、伊那谷は駒ヶ根をすこし下った飯島の与田切川の渓流にぶつかります。

807秋魚:2017/08/31(木) 19:32:50
(無題)
・・限りない郷愁。touch me, growing my heart シャンソンne me quitte pasなど軽妙な感性よりずっと直接的でoutsiderでしょう。やはりマイ嬢です。ne me touche pasというのは復活したイエスの声。

大いなる郷愁は死が近いかも。

イカルあるいはイカルガ。

・・イカル(鵤、桑鳲、学名:Eophona personata)とはスズメ目アトリ科の鳥類である。木の実を嘴(くちばし)で廻したり転がしたりするため古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。・・「鵤」は角のように丈夫な嘴を持つ事に由来する

比志利古木利(ヒシリコキリ)
月日星(ツキヒホシ)

・・と啼くそうだ。

808秋魚:2017/09/02(土) 11:59:16
(無題)
・・三条地震(さんじょうじしん)とは、文政11年11月12日(1828年12月18日)に、新潟県三条市付近で発生した地震である。想定される震央は、北緯37.6度、東経138.9度(三条市芹山付近)と推定され、想定されるマグニチュードは6.9と推定されている。

(瓦版)「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した古今稀なる大地震」

弥彦山  北緯37度42分17秒 東経138度48分32秒
弥彦神社 北緯37度42分24.1秒 東経138度49分33.6秒

天目山棲雲寺  山梨県甲州市大和町木賊122
     北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒

弥彦山頂  御神廟(奥の宮) 弥彦山頂に鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。

祭神 天香山命 (あめのかごやまのみこと)
「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。

・・通称「志田大太刀(しだのおおたち)」。室町時代、備前長船派の刀工家盛の作。刃渡220.4cmの大太刀。

809秋魚:2017/09/21(木) 12:01:17
・・
Canst thou bind the cluster of the Pleiades,Or loose the bands of Orion?
(JOB38-31)

KING JAMES VERSION では、the cluster → the sweet influences

あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。

・・

810秋魚:2017/09/22(金) 21:52:17
(無題)
東常縁 − 頼和・常和・胤氏(素純)

・・

尭恵 → 頼和・常和

宗祇 → 素純


とくよりも出向ふ士峯や初日影

811秋魚:2017/09/23(土) 23:01:38
(無題)
 思ひ出でて恋しき時は初雁のなきてわたると人知るらめや  大伴黒主


・・

812秋魚:2017/09/26(火) 12:33:42
(無題)
要津寺  墨田区千歳2-1-16

>・・臨済宗、京都妙心寺末で、慶安年間(1648-1651)に僧東鉄が本郷に創建して、東光山乾徳寺と号しました。牧野越中守成儀を開基、西江和尚を開山とします。その後、天和2年(1682)に焼失して廃寺となっていました。元禄4年(1691)2月に牧野備後守成貞が本所の地に7134坪を下屋敷として給せられ、よく3月9日、その一部を寺に寄付し、再興されました。これによって成貞を中興開基、中興開山を梁伝和尚とします。

・・常陸笠間藩主牧野家は、成貞に始まります。成貞は徳川綱吉に仕え、側用人となり、綱吉が度々成貞邸に訪れたというほどに信頼された人物でした。三代後に常陸笠間に移封され、以後廃藩にいたるまで笠間藩主として存続しました。明治維新以後に跡を継いだ貞寧は、本所区緑町(現緑二丁目・亀沢一丁目)に住み、本所小学校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域の社会発展のためにも貢献しました。
その墓所のある要津寺は、慶安年中に牧野成儀を開基として本郷に創建されました。成貞が元禄4年(1691年)に下屋敷の一部(現在地の一部)を寄進して寺を移し、寺号を成貞寺としましたが、後に成儀の法名を採り、要津寺と改めました。
現在も代々の藩主が眠る牧野家の墓所は周囲よりも一段高い土台の上に石組をめぐらせ、正面に三つ葉柏の家紋と「牧野家代々之墓」と刻まれた墓碑、前面に4基の燈籠が置かれています。(墨田区教育委員会掲示より)

雪中庵関係石碑群

・・雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654−1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781−1789)の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。

芭蕉翁俤塚(おもかげづか)

・・宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立した。

深川六間堀東光山要津寺中ニ在

俤墳

碑陰

 宝暦十三年癸未十月十二日 雪中庵門人建

みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや


雪中庵蓼太

813秋魚:2017/10/04(水) 20:43:09
(無題)
・・秋のサイクルツーリング。

?日本近代文学館−?長命寺−?要津寺−?長慶寺−?雄松院(園女墓)−?富岡八幡宮

二日目  ?聖坂亀塚稲荷神社−?長松寺(徂徠墓)−?如来寺−?品川歴史館−?池上本門寺

814秋魚:2017/10/10(火) 18:08:27
(無題)
・・ひきこもりが続くと外の世界が半ば恐怖。よく晴れたから自転車を軽く整備して小曽木街道から岩井堂までポタリングに出た。明日のために。横難横死といって不慮の事故は横からやってくる。方位を見るに、東西線に関わるときは南北が邪線で、南北線に関わる時は東西が邪線に働くから、横難横死に負けないためにも四方から垂直に緊張する走りが希求される。浜松天龍区にある秋葉神社には武田信玄の太刀が奉納されてある。他の名将もよく太刀を納めるのは横難横死を防ぐための祈願だという。・・ヤマトタケが駿河の草原で火に追い詰められた時、草薙の太刀で草を切り払い迎え火を放って逆賊を退けたのは、太刀と火打石の御蔭であった。関ケ原の戦いの時、細川幽斎が敵陣に囲まれながら田辺城で古今伝授をなしとげたのは武士の本懐としては異質ながら歌人の正道を守る優位の心であろう。古今伝授の太刀というものがある。

・・例によって青梅坂。よい坂だが思い立つまでが、難。途中栗がいくつか落ちている。今年も落ち栗の旬の季節を外した。落穂ひろいさながら、二三拾ってみる。時と場所さえよければ、いくらでもよい栗ひろいができるのだが。・・小曽木街道はやけに大型車が走る。岩蔵温泉のカフェも訪ねてみたいが今は時間がない。岩井堂まで到達したい。浅草寺の本尊観音像はここから川に流れたという。

815秋魚:2017/10/13(金) 10:42:17
(無題)
・・お天気は都心は11、12日がホワイトボックスで晴れマーク。サイクルツーリングに出た。多摩川CRで国立まではお手の物。この先甲州街道は車道は難関。府中大国魂神社から旧甲州街道に入ればずっと楽な道になる。調布に出るに何度か使った道だ。途中早めに本道へ出たので地獄の甲州街道は歩道を走る。つつじが丘明大前まではこの道しかない。代田橋から井頭通りに入り渋谷へ向うコースを予定したが交番の案内で変更。笹塚までいってここから中野通りを右折あとは道なりで駒場日本近代文学館に行ける。・・近くまでいったがこのあたり入り組んでいて迷路の様。東大駒場のすぐ近くに文学館はあった。「漱石・芥川・太宰から現代作家まで」特別展示開催のはず。芥川を看取った下島勲の日記が見たかった。辞世の短冊句も展示があり、「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の解説文で「水洟や」とあるので担当学芸員を呼んでもらい「洟」→「涕」に訂正を強く要請。若い女性でしたが説得できた模様。この評論は未発表だが自信はある。

・・この後は一路浅草に向う。一度甲州街道にもどり新宿駅に向った。例によって人混みも車も多く何度か足着き歩行になる。青梅街道から靖国通りで飯田橋交差点までそこから春日通りに出ればまっすぐ湯島天神のわきを通って隅田川は吾妻橋に出るはず。

・・前回見つけられなかった新吉原の跡地。今の吉原とは場所も違うのか、ともかく吉原神社を探してみた。大正の震災の時、川端康成と芥川が被災の様子をみてまわったという。火事になって悲惨な遊女たちがたくさんいた。吉原神社奥の院というところにでた。ここに記憶がいっぱいあった。

吉原大門通りの大門を確認したかったが、昼間から客引きがあって冷やかしのヒマもなくそそくさとここを去り、言問橋のあるところに向った。川向こうの長命寺を探した。「いさゝらは雪見にころふ所まて」芭蕉雪見の句というのはめずらしい。春秋庵九世梅笠の墓もあるというので探したがみつからず。
寺のお内儀に尋ねたところ、過去帳にはたしかにあるそうででも墓はみつからない。以前にも梅笠を訪ねてきた人がいたとのこと。梅笠を追うというのは、自分以外にも存在するというのは、発見ですこし張りもでてきた。過去帳にあるなら本名もわかるかもしれないと思ったが、もう次の訪問地要津寺に向っていた。

・・両国駅の裏の回向院。その脇道から南へ、墨田区千歳二丁目。要津寺はなんなく見つけられた。元禄の頃、将軍綱吉の側用人だった牧野成貞が中興開基。「父の儀成は、越後長岡藩主・牧野忠成の弟で、上野大胡藩主・牧野康成の三男であった」。牧野成貞の側用人跡目が柳沢吉保という。笠間藩牧野家の菩提寺というので代々の墓が今でも営まれている。井月は仕事柄ここに立ち寄っているはずである。・・要津寺が井月にとっても自分にとっても注目に値するのは、ここに置かれた雪中庵石碑群というもの。
「・・雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654−1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781−1789)の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。」
これらの石碑、「芭蕉翁俤塚」碑、嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔はよく認められますが、他はよくわからない。写真のススキに埋もれているのが蓼太の墓碑かと見える。住職さんがたまたまみえて一般の墓地には進入禁止ということでした。牧野家の墓はそれでも一目とお願いしほんとに一目で頭を下げて参ったのです。長命寺でも墓地に仕切りをつけて一般人は入れないような仕組みがよく見かけられます。千社参りというのが嫌われているようですね。

芭蕉翁俤塚(おもかげづか)

宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立

「みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや」

・・何度読んでも、意味イメージが錯綜する。

ほかに「古池や」の句碑もあるということだったが、すっかり動顛してしまい確認できず。そそくさと近くの長慶寺に向った。住所を控え忘れたため、地図の記しを頼りに人に聞き聞き、あきらめかけたところで所在がわかった。ここもいろいろ碑がある。芭蕉時雨塚というのが、謂れ古い。「元禄七戌十月十二日はせを浪花にて卒せしを聞て江戸の門人杉風・其角・嵐雪・史邦等翁之落歯并発句を埋めり、其句に、世にふるも更に宗祇の舎り哉」とあり、芭蕉が没した元禄7年(1694年)10月12日の2ヶ月後に芭蕉の門人たちが芭蕉を偲んで、句塚を建てた 」ただし戦災などで碑の痕跡はほとんど認められない。其角、嵐雪の墓もあったが、これは近年に再建されたものか。由緒ある碑蹟だが、なんとも埋もれた風。管理がだんだん手薄になる気もする。

・・清澄庭園の隣にある雄松院に斯波園女の墓がある。ここはどういうわけか大変に清潔な管理がみえる。
「白菊の目にたてゝみる塵もなし」死の数日前に翁が詠んだ。

・・

さて今日のラスト。深川不動堂、富岡八幡宮に向った。芭蕉庵のあったのは深川常盤、同じ深川でも不動堂まではすこし離れている。去年も一度訪ねたが、ほんの寄っただけだった。富岡八幡の前で園女が眼科医を開いていたなど知らなかった。公園に歌仙桜の碑があるという。いまはただの公園だが昔は三
十六本の桜が人を集めたという。芭蕉没後、園女は江戸にでて其角を頼った。其角の住居は日本橋茅場町というので、いまはぽつんと住居跡の碑がある。これも後で訪ねてみた。其角の庵の隣りに荻生徂徠が住んでいたというから、なんともにぎやかなこと。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」と其角は詠んだ。

・・不動堂は、たいへんな人気で人混みも多い。案内所で成田山出開帳の記録資料を求めた。なんとうれしいことに「深川不動堂関連年表」の写しをいただいた。ここの不動像の由来とか、秘仏でもご覧になれますよというので、本堂へいってみたら、たしかに不動像が垣間見えた。日野高幡不動を先日拝観したが、それと違って烏天狗のような迫力がある。

二日目。自転車で遠出して温泉に行くのが常だったが、今回はあわただしい。永代通りから日比谷通り、三田の聖坂に向った。途中増上寺は浄土宗の大本山という。江戸の徳川はたしか浄土宗であったと思う。朝早すぎて外から眺めるだけ。甲賀流忍術の検定など告知があったが、?よくわからない。

・・三田の聖坂は、途中、小さな亀塚稲荷神社がある。ここには港区最古の板碑が五基集められいる。「阿弥陀信仰に基づく供養石塔で秩父青石(緑泥片岩)製」という、「5基のうち3基については鎌倉時代中期から南北朝時代前期にかけての、文永3年(1266年)、正和2年(1313年)、延文6年(1361年)の年紀銘が確認できる・・新田義貞一族の霊を弔うための碑だと伝えられている。」
この稲荷のご神体は、坂の上にある亀塚公園にあった更級日記ゆかりの亀石ということだが、確認はむずかしかった。

・・さて、どこかで見た桜の写真。えもいわれぬ桜の花。たしか乙女桜というので来福寺で検索。ここは大島蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」句碑がある。延命桜というのが売りだそうだ。これかな?隅田河畔の長命寺も桜で名高い。菓子屋があってここがはじめの桜餅屋とか。一葉「たけくらべ」の美登利もこの辺の娘だったとか。記憶が錯綜している。

・・品川歴史館を訪ねた。第一京浜15号から品川、大井一帯は錯綜して迷路の様。区立歴史館というので、大森貝塚とか東海道品川宿とか特別展示あるも眼目は「大井に大仏がやってきた!」過去の展示カタログがみたい。高輪にあった如来寺がこの大井に移った。木食坦唱の五智如来像がみれるのは、この先の養玉院如来寺。歴史館では、品川のこと根堀葉堀学芸員に尋ねた。安政の地震や大洪水のこと。海に近いのに被害はほとんど報告されていない。特に1856年の大洪水で江戸10万人の死者が出たなど、嘘くさい。前年の大地震で死者7千余人というのは深川不動堂の記録にある。大地震では、浅草深川一帯は大打撃だったのは、真実らしい。大井大仏展のカタログはなかなか充実している。

・・歴史館の前は池上通り。すぐ前に交番があった。ここで養玉院に行く道を尋ねる。やはり迷路のようで、一度大井の駅まで出るルートを教えてくれた。目的地への道がわからなくなると片端から人に聞くのが癖になってきたが、これもコツがあってうまくなったものだ。ほどなく念願の養玉院如来寺に着いた。

・・木食坦唱の五智如来像といっても、寛永13年(1636)に品川高輪に安置されたものが、度重なる江戸の火事で一度は焼失している。代々の木食僧が1760年頃再造立したもの。京都の蓮華寺にあるものは石造の五智如来だからこちらは坦唱上人のものだろう。養玉院と如来寺はもともと別の物だった。一つになったのは大正年間のこと。如来寺については天海が強力に坦唱を支援したようだ。ここがおもしろい。

816秋魚:2017/11/02(木) 22:34:09
(無題)
・・自転車遠出さきのパンクというのにはじめてあった。いや二度目だが最初のはやや近場。今度のは出先で修繕しないと帰れない。遠くの温泉に来ていたが意地の悪いヤツがいるものだ。駐輪中、周到にタイヤに針ピンを刺してパンクにした。パンク用にピンを細工してあってこれは単なる悪戯でない。プロの工作員だ。・・このパンクの背景を想像したが今はこれを修繕するのが先決。幸いに不慮の事故のために替チューブと修理セットを持ち歩いている。果たしてうまくいくか。人家の多い街中なので自転車店も探せばみつかるかもだが、何のためのロングライドか。修理場をさがした。公共の博物館があって駐輪場はがら空きだった。よしここを借りる。・・自転車の解体組立てを何度かやっていて後輪のタイヤ外しはなんとかだ。近頃ママチャリのパンク修理は何度かやっていて、ただし出先でやるのははじめて。焦ってしまいタイヤの中のチューブがうまくとりだせない。ここでまた取り返しのつかないミス修理をすると最悪なので、気を落ち着かせ替チューブに交換するとこまではいった。ただしこのチューブ大丈夫か。これも一度穴が開いてパッチを貼っておいたものだ。このパッチ貼り実は自分はあまりうまくない。ほんのすこし空気もれがあった。携帯の空気入れも使い方が不慣れで故障でもしたら。ともかく帰宅まで持つように慎重に。・・取り出したパンクチューブ実は捩れたままタイヤに入っていた。道理で空気抜けがはやい。以前タイヤ交換した時に失敗していたものだ。その後けっこうな遠乗りをやっているからよく事故らなかったものだ。今回のパンク修理のおかげでチューブ装填もいい加減にできないとわかった。最近ママチャリのパンクが何度も起るのでよく考えたらタイヤに針のようなものが残っていてこれでは同じ所に穴が開く。これを外したら空気抜けはなくなった。どうも細部の点検が勉強不足。・・帰りに寄ってみたいところがあったが全部キャンセル。もう一度パンクするといよいよ修繕がきかない。暗くなるまでに帰りたい。

・・で、無事に帰宅できた。後輪のタイヤ心なし空気が減っている。やはり不具合ありか。翌日タイヤ外してチューブを調べると以前のパッチ貼りから空気もれあり。あぶないあぶない。穴あき箇所に大きめにサンドペーパーをかけ接着剤をぬる。この辺がどうも下手でした。

まったくパンク修理に日々明け暮れた。

・・

青梅から多摩川に沿って奥多摩にゆく。鉄路の奥多摩駅の近くに奥氷川神社、ここから青梅街道直進ならば昔道などある奥多摩湖まで。支流の日原川に沿って北へ向えばいつか訪ねた日原鍾乳洞がある。細く長い道で秘境といわれたが、自転車での走りはさほどむずかしくはない。ずっと行くと最後に長いトンネルがあってここを抜ければ鍾乳洞のあるところに着く。渓流は石灰のある地質をくぐるからか透明できらきらしてる。記憶だけだが、一石山という神社だか寺があった。ここは役の行者が700年に開いたという神社らしい。案内板に江戸の僧正天海の名がでてきたので、こんな奥田舎に何故天海か。先日訪ねた如来寺の木食担唱の名もあったようだがすっかり忘れていた。というより担唱のことも知らなかったので記憶に残るはずもない。・・しかし驚くべきことに木食担唱はこの一石山に篭もって修行の道場としている。

817かぐ山のはなこ:2017/11/09(木) 20:27:52
(無題)
・・「芭蕉」「定家」「楊貴妃」「玉葛」「小塩」「雨月」

このうち「小塩」というのに注目。小塩山というのは山城の乙訓にある。大原野神社は桓武長岡京に春日神社を呼んだ。


シテ「霞か。ワキ「雲
か。シテ「八重。ワキ「九重の。地歌「都辺は。
なべて錦となりにけり。/\。桜を織らぬ
人し無き。花衣着にけりな。時も日も月
もやよひ。あひにあう眺かな。げにや大原
や。小塩の山も今日こそは神代も思ひ。

・・

818秋魚:2017/11/12(日) 10:26:44
(無題)
・・檜原村北秋川に沿って秘境神戸岩をめざした。例によって青梅は梅ケ谷峠をこえて日の出あきるの市に入る。このコースすっかり気に入っている。しかし心なし車がよく来る。この峠にトンネルをつくる計画があるという。二ツ塚峠を越える交通を少しでも緩和させる為だろうか。梅ケ谷は二段坂で最初はギアで軽くしても二段目は足着きになるが問題なし。足着きというのは周囲の風景よく見えてよいところもある。中曽根がレーガンを招いた山小屋はすぐこの奥だ。それでここも一躍名をなしたか。安倍がトランプと廻ったのは霞が関カントリー倶楽部でここは川越だったと思う。業平が武蔵野で訪ねた土地だ。川越は江戸の天海が根を張って古くよい料理屋もあるからおもてなしで撰んだのだろう。しかし何でもイエスマンをやってるのはどうか。日本は軍備国家まっしぐらではないか。

・・梅が谷を越えて日の出に入ったあたり静かな山里で桃源の感あり。そうこうしてるうち五日市の駅前に出た。山猫軒という喫茶はサイクリストがよく立寄るという。朝早くで閉まってる。檜原街道を瀬音の湯を越えてまっすぐ村役場のある橘橋ところまで。意外と距離あり。檜原街道はサイクリストが多い。車もライダーも多いのは紅葉期の休日だからか。ともかく自転車乗りはしきりにやって来る。ロードバイクの乗り手に何度も追い越される。橘橋は大月の渡来系の猿橋と同じつくりだと聞いていたが昔の面影はなく普通の橋だ。このT字路で左折をすれば数馬の方、右折なら払沢の滝と神戸岩の方面。今日は右折して神戸岩をめざした。払沢の滝の入口にあるちとせ屋という豆腐店も評判だ。おからドーナツというの帰りがけ試したが、大変に美味。涕がでそうなほど。・・神戸岩入口というところのバス停で右折3キロ。北秋川に沿ってだんだらの登りスロープになる。車はまったく少ない。

・・春日神社のあるところへ来た。落葉掃きをしてる人と少し話す。この辺どんどん過疎になってね。よいところだけど街中にでるは大変。川辺でキャンプか釣りか神戸岩観光くらいで人が集まる。紅葉の季節でそれでも客は多くはない。そこそこ。パワースポットのトンネルがあるとか。・・着いてみるとなるほどすごい岩場と水の流れだ。見物客も数名。切り立った岩はチャート石でジュラ紀のもの。恐竜時代ではないか。チャートは海底の有機物の堆積でできるからぐっと海底からせりあがったものか。ジュラ紀というと一億五千万年以上昔になる。・・プレートの移動によるらしい。

・・神戸岩トンネルの前に駐輪して峡谷に沿って散策道がある。足場があやういがチャレンジしない手はない。増水のため侵入禁止とあっても先に客がみえる。木橋があってしかし微妙な傾斜、隣りの岩場を選んだ。足を伸ばして手が鉄杭に届けば向こう岸に着く。岩場の足が滑らないことを祈って渡る。峡谷の道あぶないのはここだけ。変化に富んだ水の流れと岩の形状を楽しみながら歩く。途中で会った客はこの向こう口から入ったという。神戸岩はこの水流からずっと上に切り立った山の壁をつくる。チャート石で天然記念物ということだ。

・・神戸岩トンネルは手掘りという。ほんの百メートルくらいだが中で曲がっていて真っ暗になる。ここで恐れをなして引き返した人もいたようだ。どうということはない。自転車のあるところにもどって崖の上方をみた。朱蒙の山城ボンゴ城みたいだが、上にまであがれるのだろうか。神戸岩は「かのといわ」と読む。大岳山の入口にあたるという。

・・五日市は化石の宝庫。チャートや石灰岩の中に海ユリ、サンゴなどの化石がみられる。五日市郷土館に帰り寄ってみた。チャートと石灰岩では地層年代どちらが古いのか気になって調べたが、石灰岩は古生代からあるという。フズリナの死骸からできるという。チャートは珪藻とか植物性プランクトン(?)の堆積からできるか。ある種の水晶で硬質なものだ。プレートの移動で地表にせりあがったもの。生成はジュラ紀か。・・明確な線引きはできないが、どちらも古い。

ジュラ紀は一億4千万年前〜二億一千2百年前、三畳紀は二億一千2百年前〜二億4千7百年前。エントモノチスという二枚貝は三畳紀にだけ栄えたという。この化石は日の出町の砂岩によくみられるという。ともかく古い。

  *

・・武蔵五日市の駅から五日市街道をくだる。右手に秋川に沿って、しかしこの道はあまりおもしろくない。大悲願寺や岩走神社のあるところから線路側の側道に移る。この田園風景はまことに絶品。伊奈、横沢地区といって信州高遠からやってきた石工の部落だった。この伊奈の石工について郷土館で貴重な資料をいただいた。正一位岩走神社というのは奥が深い。三ヶ島葭子の母方はここのものだ。

 筏組む木の音冴えて水ませるあさけのたにに鶯の鳴く

819秋魚:2017/11/15(水) 17:15:03
(無題)
「・・武蔵夜話に出で居候は 秩父大宮の南なる日野村の棒の神は 神體石棒同熱川村猪狩山の麓なる下池の熊野社も石棒が神體なり 相州大山石尊大権現の神體は石棒三尺五寸程のものにて 此石剣に因み木太刀を納るものゝよしに候甲斐北巨摩郡武田八幡の神體も石剣と承り申候 諸国に此類多く 小生甲斐に居り候砌道祖神を調べ候に 何れも石の棒又は圓き石に御座候ひき 此等にて愚考はオシャモジ様は石神様のことゝ存じ居候 」(山中笑より柳田へ)

「武蔵では東秋留の二宮神社の境内に、今もまだ一座の社宮司社の残つて居ることを、この春の散歩の日に見つけて来た。付近の人たちはオシャモジ様と呼び、やはり飯杓子を上げて嬰児の安全を祷つて居る。・・」 『石神問答』序

・・五日市いまはあきるの市というここの三大祭。阿岐留神社、岩走神社、二宮神社の祭りだ。柳田国男『石神問答』序文にみえる東秋留の二宮神社を訪ねた。


   *

・・2017年度の多摩川を遡上したアユの推定値は、158万匹。昭和60年前後は1万匹以下、平成に入って徐々に増え始め、平成20年頃には200万匹近く、平成23年には劇的に増加して800万匹、翌平成24年に1200万匹に増え、その後やや減ってはきたが5〜600万匹、本年は例年平均の173万匹をやや下回るものの158万匹が遡上した。・・六月頃、多摩川青梅の万年橋の上から小アユの大きな群れを確認できた。

・・東秋留近辺の縄文遺跡からサケの骨が数千本発掘出土した記録があるとのこと。これは近くの秋川にいたサケを縄文人が捕らえて食用にしていた証しとなり、全国ではじめて縄文人のサケの捕獲が確認されたという。アユは食料にしても骨は残らないでしょう。それにしても秋川にサケというのは、気温が低かったのでしょうか。

   *

・・瀬音の湯は日に日に評判がよいか。訪れの度に都の騒ぎになる。サウナ室にきれいな音楽が流れていた。ピアノソロだが、曲名はわからぬ。たぶんバッハであろう。・・隣りの外人に曲名を聞いたら、maybeというた。一言くらいは野暮にはならぬ。

・・翁、北枝の山中問答には、「蕉門正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。・・云々」

翁申給ひき。

820秋魚:2017/12/02(土) 00:10:01
(無題)
・・多摩川の寒天河原にでてみた。十月の台風で川筋が大きく蛇行してしまい広い石の原ができていた。かつては水底だったところだ。対岸には岩肌がみえて木々の紅葉は一段と映えている。今が旬か。釣り人がひとりいてすこし話をした。青梅の釣り事情を尋ねた。ヤマメ、イワナが捕れるという。アユは冬はいない。普通海に帰るのだが、多摩川はいくつか堰があって羽村まで海からの遡上は限界という。この辺にいるのは放流魚です。ルアー(疑似餌)をやるというので一揃いみせてもらった。いろいろあって魚はこういう金属片に騙されて釣らされてしまうんだ。釣りのクロウトさんは細かなルアーの差異がわかるらしい。貴重なものもあるという。・・多摩川にはカジカも釣れる。カジカはカエルではないのですか?いえ魚です。カジカのひれ酒というのがあってこれは絶品だそうだ。フグのひれ酒は先日試してみた。カジカというのはなかなか釣れないそうだ。料理屋でもだせないしろもの。

武陵源、武陵桃源

>・・武陵源(ぶりょうげん)は、湖南省張家界市にある、張家界森林公園、索渓谷自然保護区、天子山自然保護区などの地域からなる自然保護区の総称。・・武陵源は、その独特の石の柱が立ち並んでいる景観で知られる。その柱は珪岩で出来ており、二酸化珪素の含有率はおおよそ75%-95%である。その石柱のほとんどが200m以上あり、

張家界市

>・・湖南省の北西部に位置する。常徳市、懐化市、湘西トゥチャ族ミャオ族自治州、湖北省と接する。洞庭湖へ向かう澧水が流れる。・・武陵山脈にある張家界は険しい峰が連なるカルスト地形の奇観で知られ、

澧水(れいすい)

>・・湖南省北西部を流れる大きな川で、洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流。・・澧水の上流には、南、中、北の三つの源流がある。北の源流が本流であり、湖南省桑植県の杉木界に発する。中の源流は同じく桑植県の八大公山の東麓に発する。南の源流は湖南省永順県の龍家寨に発する。三つの川は桑植県南岔で合流後、東へ流れる。途中で漊水、渫水、道水、涔水などの支流を合わせ、津市市の小渡囗で洞庭湖に注いでいる。

洞庭湖

>・・洞庭湖(どうていこ、拼音: Dòngtíng hú ドンティンフー)は、湖南省北東部にある淡水湖。中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい。全体的に浅く、長江と連なっていて、その大量の水の受け皿となっており、季節ごとにその大きさが変わる。湖北省と湖南省はこの湖の北と南にあることからその名が付いた。・・7月から9月にかけて長江から大量の水が流れ込み、湖の面積が広がる。通常期の湖の面積は2,820km?(琵琶湖の約4倍)だが、長江から膨大な量の水と堆積物の流入によって増水期は20,000km?(関東平野や四国よりも広い面積)にも及ぶ広さになるという。洞庭湖に流入する河川には、湖南省四大河川といわれる湘江・資江・沅江(げんこう)・澧水(れいすい)などがある。


 桃花源−澧水−洞庭湖−長江

・・桃花源の大まかな位置がわかる。

821秋魚:2017/12/05(火) 20:47:43
(無題)
・・青梅郷土博物館でめずらしい展示があった。

>玉泉寺から西側の地域は寺改戸遺跡という縄文時代の遺跡です。昭和49(1974)年、下奥多摩橋の取り付け道路の敷地内を調査し、20か所分に及ぶ土壙どこう(お墓)が見つかりました。その内の9号土壙の東端から副葬品と思われる、注口土器と小形深鉢形土器が隣り合って出土しました。

縄文後期(B.C1500頃)加曾利B1.式

・・注口土器の高さは12cm、最大幅12cm、口径5・6cm、底径6・8cm、容量410mlで、蓋ふたはありません。小形深鉢形土器は口縁部内側に一条の沈線が引かれており、高さ6・3cm、口径9・4cm、底径7cm、容量230mlです。


蘭陵美酒鬱金香,
玉碗盛來琥珀光。
但使主人能醉客,
不知何處是他?。

822秋魚:2017/12/11(月) 19:03:54
(無題)
春夜宴桃李園序
            李白

夫天地者,萬物之逆旅;
光陰者,百代之過客。
而浮生若夢,
爲歡幾何?
古人秉燭夜遊,
良有以也。
況陽春召我以煙景,
大塊假我以文章。
會桃李之芳園,
序天倫之樂事。
群季俊秀,皆爲惠連。
吾人詠歌,獨慚康樂。
幽賞未已,
高談轉清。
開瓊筵以坐華,
飛羽觴而醉月。
不有佳作,
何伸雅懷?
如詩不成,
罰依金谷酒數。

「而浮生若夢,
爲歡幾何?
古人秉燭夜遊,」

・・夜遊びのススメ

・・


雪花飛暖融香頰。頰香融暖飛花雪。欺雪任單衣。衣單任雪欺。



    花褪殘紅青杏小,
    燕子飛時,
    ?水人家繞。
    枝上柳綿吹又少,
    天涯何處無芳草。

    墻裏秋千墻外道,
    墻外行人,
    墻裏佳人笑。
    笑漸不聞聲漸杳,
    多情却被無情惱。

823秋魚:2017/12/13(水) 00:21:16
(無題)
・・寒波がきつい。国文学研究資料館までポタリングにでた。風は無く小春日和かも。東青梅にある石神社に寄ってみた。河辺からの多摩川に臨んだ崖の端にある小さな社。安産の神を祀る。二俣尾にある石神社とここの二つ。西は、甲斐、信濃、尾張、伊勢までという。猿田彦の白鬚と同じ流れのようにもみえるが。近江の石山寺は寺でも猿田彦の発祥だったと記憶する。なにかありそう。

「かきね塚」潮堂編 羽田墨芳七年追善 慶応元年。(1865)

これに井月の句があるという。果たして見つかるか?立川の資料館もフロントの係が毎度替っていて、前回は新人の素人。検索の上手がいると助かる。半ばあきらめていた資料だが、マイクロフィルムから紙焼きにしたものがあるという。驚きの一瞬。

枯柳軒にさびたる碇かな 井月

松宇文庫というのに収められてある。伊藤松宇という幕末から明治にかけて、俳句も詠むが古文書を蒐集した。子規などの先駆けという。寄贈した古文書3千冊は関口芭蕉庵にあったが、やがて国文学研究資料館のマイクロフィルムで保存。この資料館も奥が深い。

・・訪ねた時は、「伊勢物語のかがやき−鉄心斎文庫の世界」という特別展示があった。充実したコレクションのようだが、暇がとれずそれでもざっと見て廻る。細川幽斎と烏丸光広の書とか、幽斎は達筆。日野資矩の書もある。絵屏風の展示もあって、絢爛たるものあり。

824秋魚:2017/12/16(土) 22:25:22
(無題)
・・「三つ数えろ」という映画を観た。ハワードホークス作品、ハンフリーボガード+ローレンバコール競演、ハードボイルドの傑作という。この年でフィクションの映画というのは、きつい。が、シネマはノスタルジー以外のものでない。1946年アメリカ。原題はTHE BIG SLEEP(大いなる眠り)。この原題謎ですね。

主演のマーロウが煙草を吸うのが、この時代の男のスタイルだったか、裕次郎なんかもヘビースモーカーだったし、団塊の世代のシニアは特に煙草はやめられないだろう。

Wフォークナーが脚本に参加してるという。前半からプロットが難解で、後半になってもさらにむずかしい。というか、あまり深く追求したくないというのがある。どうせフィクションだからね。マーロウとビビアン(ボガードとバコール)が物語の筋から外れて心情を吐露してゆくのが、これもフィクションなんだろうけど、おもしろい。恐喝、ゆすり、殺人。犯罪が錯綜してるのは社会の常だが、ここに正義ではなく生の義の筋を通すのが訴える。ブラックスクリーンでドンパチやってると、うまい演出か、要は薮の中のプロット。誰が生き残るかというのはわからない。これもフィクションですよ。にしても、うまい!

・・上伊那の郷土誌「伊那路」が届いた。メールで注文して日数がかかるという話だが、中一日で届いたというのは、おどろき。「井月カレンダー」というのも一緒で、これは駒ヶ根の宮澤さんからの贈り物か。「伊那路」は井月特集号で、さっそくパラパラと斜め読み。どの記事も心がこもってよく読める。さすが郷土誌ならでは。下手な記事は書けない。先に矢羽先生の示唆で郷土誌「長野」というのも注文したが、これも充実していた。郷土というのは、よそ者はなかなか参入しがたいものがある。井月の伊那谷は苦渋の漂泊だったはずだが、ここまで復活するとは、本人もノーアイデアであったろう。1858年頃伊那にあらわれ1887年に没して、本年2017年まで160年間ほどずっと正体不明の出身だった。
幻の井月。

825山田:2017/12/21(木) 03:09:12
(無題)
・・祝杯をあげる。オシャカのパソコン復活に成功した。win10は魔物だ。一年間限定で無料アップデートに乗ったパソコンはひどく不具合の連続でしょう。win10の検証が完了してないのにwin7もあと2年。win10を使えというのは脅迫に聞こえる。わたしのは中古ですから壊れてもともと。授業料ていどの参加だった。ジャンク屋も回復を使えなどいい加減なことをいう。必ず回復不能になる。・・最初からクリーンインストールを行えと指示すべきだ。「壊れたパソコン無料で引き取る」なんて流行ってるけどクリーンインストール一発で復活できる。ただしこのクリーンってなかなかむずかしい。ネットで成功した記事がちょくちょく出てるから参考です。実働三日で出資はDVDの百円のみ。・・なんでこんなに手間取って苦労したか。SATAのHDDを外してファイル救出を試みたがマウンタのネジがどうしても外れない。HDDを裸にできればファイル救出はお手の物だが。これもコツがあって三日前にはじめて成功した。ネジに接着剤が付いていたのはやはりだった。メーカーではなくジャンク屋でしょう。シロウトはあきらめて捨てに出すから。win10のアップデートが不能になったのはvirusのせいというよりなんかでしょうね。先日はwin7のアップデートができなくなった。これも苦労して解決した。パソコンで時を吸われること多い。現代病ですね。

・・空のDVDひとつ揃えるのに智慧をしぼった。RWで書き換え可能のにしてよかった。インストールメディアディスクを作るのに、win10isoファイルの焼付けに失敗。解凍したファイルをただコピーしただけだから。DVDでBOOTするのにfailedと何度もでた。機械の故障かとあきらめかかったものだ。isoファイルはそのままディスクに焼くもの。

BOOTに成功してからもwin10が立ち上がるまではらはらの連続。なにせ以前のwin10はひどい壊れ方だったからね。virusにやられたかと思った。

立ち上がって今度はへんなアプリは使えない。itunesは気に入ってインストルしてみたけど。プレスリーを聴いた。

・・滝山街道をくだってあきるのの正勝神社を訪ねた。いつか正月に来た覚えがある。昨夏甲子園で活躍した菅生高校のあるところだ。その隣り。吉野街道の外れから滝山街道になり多摩川を見晴らす道は新満地トンネルで峠をこえる。あきるのと青梅羽村の境にある丘陵をこえる。このトンネル車しか通れない。すぐ脇に自転車歩行者用トンネルがある。秋の台風で入口のところで土砂崩れがあり、しばし通行止めになった。先日あきるのの二宮神社を訪ねた折、帰路このトンネルを使えず大きく羽村の多摩橋の方まで迂回した。入口で通行ストップの警備員がいて、車のトンネルを通れなどでたらめを言った。正丸トンネルよりもっと細い歩道がついてはいるが、まず無理。危険このうえない。日の出までもどって二ツ塚峠をこえる手もあったが、来た路をもどるのは徒労以外でない。で、結局、若草通りを使って羽村まで玉川上水のあるところまで迂回したものだ。この道もいぜん走っている。・・トンネル入口の土砂崩れはいまは仮工事で通行は復旧している。このトンネルを抜けて右折。山沿いの道だがひどく田舎道。牛舎があって匂いが強い。

・・正勝神社の石造物に伊那の石工の名前があった。朧な記憶だが確かめたかった。

菅生高校の校舎のすぐ裏手。午後の部活の騒ぎが聞こえる。が神社は人も無し。神主は羽村の阿蘇神社が受け持ってるという。サカキの木の大きなのが神木という。サカキは本来大木にはならない。すぐ脇の手洗鉢が伊那の石工の作品らしい。「天保十四年七月吉日信陽高遠保科保正」の銘がある。天保十四年は西暦1843年。芭蕉の忌年です。百五十回忌という。

826秋魚:2017/12/22(金) 20:29:16
(無題)
・・あきるのの正勝神社。

「・・爾天照大御? 高木?之命以 詔太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命 今平訖葦原中國之白 故隨言依賜 降坐而知者 爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命答白 僕者將降裝束之間 子生出 名天邇岐志國邇岐志【自邇至志以音】天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也 此御子者御合高木?之女 萬幡豐秋津師比賣命 生子 天火明命 次日子番能邇邇藝命【二柱】也 是以隨白之 科詔日子番能邇邇藝命 此豐葦原水穗國者 汝將知國 言依賜 故隨命以可天降・・」

・・ニニギの父、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が祀られてあるようだ。

天火明命がニニギの兄にあたる。豐葦原水穗國がニニギ降臨の地となる。

827秋魚:2017/12/25(月) 02:25:49
(無題)
・・橘諸兄ゆかりの井手の里。京の綴喜郡は南山城にある。歩いてないのでよくわからないが、井手の玉川の歌枕という。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」俊成

京都と奈良の境にあって橘諸兄の別荘があり、井堤寺に山吹を多く植えたという。

「山吹の花咲く里になりぬればこゝにもゐでと思ほゆるかな」西行
「山城の井出の玉水手にむすびたのみしかひもなき世なりけり」伊勢物語
「山吹の花色衣さらすてふ垣根や井手の渡りなるらむ」後鳥羽院
「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」小野小町
「音にきく井手の山吹見つれども蛙の声は変らざりけり」紀貫之
「山城へ井出の駕籠借る時雨哉」松尾芭蕉

「玉藻刈る井堤のしがらみ薄みかも恋の淀める我が心かも」万葉集
「玉もかる井手のしがらみ春かけて咲くや川瀬のやまぶきの花」源実朝
「思はずに井手の中道へだつとも云はでぞ恋ふる山吹の花」紫式部
「河辺なる所はさらに多かるを井手にしも咲く山吹の花」和泉式部
「春深み井手の川波たちかへり見てこそゆかめ山吹の花」源順
「かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを」古今和歌集

・・錚々たる歌詠みが歌を残している。

もうひとつ、この井手の里でおもしろいのは、

>上井手地区にある玉津岡神社は、社伝によれば、540年に下照比売命(しもてるひめのみこと)がこの地に降臨(こうりん)し、それを祀ったのが起源とされています。

この下照比売命の歌があります。

天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に あな玉はや み谷 二わたらす 阿遅志貴 高日子根の神ぞ

・・

828かぐやまの花こ:2017/12/26(火) 01:09:13
・・
「 恋の山吹 情けの菖蒲(あやめ)
      秋の枯草 しをれ草 」  (山家鳥虫歌)

829秋魚:2017/12/30(土) 02:12:14
(無題)
・・其の過(あやま)てる所以(ゆえ)は、此の二た柱の?の容姿(かたち)甚(いと)能(よ)く相い似たり。 故、是を以ちて過まてるなり。 是に阿遲志貴高日子根の?、大いに怒りて曰く、「我(あれ)は愛しき友に有るが故に弔い來たる耳(のみ)。 何ぞ吾(あ)を穢(きたな)き死人(しびと)に比(なぞ)うる」と、云いて、御佩(みはか)せる十掬(とつか)の劍を拔きて、其の喪屋(もや)を切り伏せ、足を以ちて蹶(く)え離(はな)ち遣(や)りき。 此(これ)は、美濃の國の藍見(あいみ)の河の河上に在る喪山(もやま)なり。 其の持ちて切れる大刀(たち)の名は大量(おおはかり)と謂い、またの名を?度(かむど)の劍(つるぎ)【度の字は音を以ちてす】と謂う。 故、阿治志貴高日子根の?は、忿(いか)りて飛び去りし時に、其の伊呂妹(いろも)高比賣(たかひめ)の命、其の御名(みな)を顯(あらわ)さんと思いき。故、歌いて曰く

・・

大量 = 神度の剣   神戸か?

830かぐ山のはなこ:2017/12/31(日) 01:08:45
(無題)
・・

イナンナのシンボルは藁束と八芒星。

831秋魚:2018/01/03(水) 22:05:44
(無題)
・・
舟さす音もしるきあけがた          宗祇
月や猶霧わたる夜に残るらん         肖柏
霜おく野はら秋は暮れけり          宗長

・・元日は飯能名栗の里で旭日を浴びて迎えた。川瀬の霜がとりわけ眼にしみる。

幕末の夜と霧を迷走して夜明けの霜をみる。

・・紅白にも出た倉木マイの立ち位置をしっかり確認すべきだろう。

タテノリのperformativeを自家薬籠中のものとするライブはとりわけ光る。

・・発句は大将の位なり。丈高きなり。

・・

832かぐやまの花こ:2018/01/08(月) 00:47:31
(無題)
>激動の幕末政治史において、幕府による長州征伐は転換点の一つにあげられます。前尾張藩主徳川慶勝を総督として行われた第一次征長(1864年)は、長州藩が家老三名の首級を差出す等の処分で、戦火を交えることなく終結します。軍事力が温存された長州藩は、高杉晋作らによって内部改革を推し進め、第二次征長(1866年)では、幕府は成果をあげることができませんでした。そして、その後の討幕へとつながっていくのです。 慶勝の第一次長州征伐は果たしてどのような遠征だったのでしょうか。本展では、尾張藩陪臣水野正信の記録から、その一端を垣間見ていきます。正信は大道寺家の用人です。同家は藩の要職にあったため、藩政や幕政に関する重要な情報がもたらされました。また、正信は個人的な交友関係からも多くの情報を入手し、それらをひたすらに筆記して「青窓紀聞」として残しました。

・・この「青窓紀聞」に徳本和尚と瀬川遊女の問答がある。

いとおかし。

833秋魚:2018/01/11(木) 17:08:00
(無題)
・・倉木麻衣×小松未可子のトークセッション。小松は小学生の頃から倉木の追っかけファンだという。今でも追っかけをやってるようだが、最初に感動して魅き込まれたのが「冷たい海」だった。小学六年の時のこと。

「あれはDeepな歌ですよ」
「癒しの波動があって、…」

https://www.youtube.com/watch?v=viisRFYUb_M


小学生の女子に訴える倉木の声の感性は、驚くばかりだが

・・

834秋魚:2018/01/13(土) 02:25:06
(無題)
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心をあれ思はなくに

・・

江戸は今おなじ昔の花盛り

入江の際ですくふしら魚


・・井に映る山は山。入江の人は鏡文字で入になる。

・・江戸の入江といえば、品川あたりとみるが、

花のナポリ湾にも入江がある。

835かぐ山のはなこ:2018/01/21(日) 01:03:30
・・
「木食」とは、木食戒という五穀と塩を絶ち、火を使った調理をせ
ず、草の根や木の実などを主な食料として修行を行う僧侶のことです。

836秋魚:2018/01/21(日) 17:06:28
(無題)
・・雪舟「山水長巻図」ベートーベン「クロイツェルソナタ」。これらはほんとに魅入られる。

パソコンwin10完璧復活したかと思ったが、その後、いくつかのアプリケーションソフトのインストル原因で不具合エラーの再起動がでるようになった。

?cpu/celeronとの相性がよくない。
?競合アプリの導入は避ける。
?ゲーム動画の重い操作は避ける。不要なアプリは削除。

・・どうしても使いたいソフトは残してこの二三日は安定している。

それにしてもこんな不安定なOSでよく一本化を目指したものだ。こわくてどんなドキュメント作業もやってられない。特にメーラーは使えないな。

・・

837秋魚:2018/01/25(木) 02:38:52
(無題)
鮎の子のしら魚送る別哉

・・奥の細道出立にあたり舟で千住にゆくあたりでの作。紀行には「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を採用してあり、推敲の段階で措かれた句か。『続猿蓑』に収録。しら魚は鮎の子の稚魚のことを指すようだが、白魚というのはそのまま白魚という固有の魚だ。隅田川を下って河口の近くに佃島という洲の土地がある。深川の富岡八幡宮、不動堂の前の永代通りをまっすぐ西へやがて隅田川にかかる永代橋にでる。都心にでた時はここに立寄るのがいつも楽しみだった。橋から正面にみえるタワーマンションが立ち並ぶ景色は実にうれしい。ここが昔の佃島というところというのは今日知った。

「江戸時代初期,摂津国佃村の漁師が拝領して造成した漁村であったので,この名があり,明治になって北の石川島を合併して町名となる。・・初期の佃島は現在の佃1丁目にあたる。江戸時代からの名産佃煮の製造が現在も行われる。北部の石川島播磨重工業跡地に高層住宅が建設されている。」

「慶長八年(一六0三年)家康が江戸幕府を開いた時、佃村の漁民三十三名を江戸に呼び、
石川島に近い島を居住地として与え、故郷の佃村に因み『佃島』と名付けた。
・・彼らはこの地で白魚などの漁をしながら江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与え
られました。離れ小島であるため時化(シケ)どきにお菜に事欠き、また猟期には腐らない副食物が必要なところから、湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食を作ることを考えた。」

・・なるほど、ここで白魚を採って佃煮になどもつくったのか。

838かぐやまの花こ:2018/02/01(木) 01:18:23
・・
曇りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜に似るものぞなき

・・


先生幸許禁闈遊
更恐時光不暫留
山水從来無擔去
願馮君得冩風流


神泉苑にて、

839かぐやまの花こ:2018/02/02(金) 01:48:24
・・
「藤白のみ坂を越ゆと白たへの 我が衣手は濡れにけるかも」

・・

巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い、絵の描き比べをする。金岡は松にウグイスの絵を、童子は松にカラスを描いた。甲乙つけがたかった。
 そこで2人は、描かれたウグイスとカラスを、手を打って追いはらう格好をした。すると2羽とも絵から抜け出して飛んでいった。
 そこで今度は、童子がカラスを呼ぶと、どこからかカラスが飛んできて絵の中におさまった。しかし、金岡のウグイスは金岡が呼んでも戻ってこなかった。金岡は悔しさのあまり持っていた筆を松の根本に投げ捨てた。
 それから、その松は「筆捨松」と呼ばれるようになった。童子は熊野権現の化身であったといわれている。

・・大和絵の創始者といわれる巨勢金岡。平安期、菅原道真と同期だが生没年不詳。道真二十四歳の折、神泉苑に金岡を訪ねた。金岡はこの禁苑の監である。

先生幸許禁闈遊
更恐時光不暫留
山水從来無擔去
願馮君得冩風流

・・庭の山水を絵に画いてほしいと願ったそうだ。

下高輪如来寺の書上文書(文政11年)1828)に、本尊五智如来木像は但唱由来のものだが、他に、寺宝十王十幅、画師巨勢大納言金岡卿と申伝候とある。これは嘘であろう。金岡の作品はひとつとして確証がない。

・・出雲に有る八重垣神社の壁画は、巨勢金岡の作と伝わるが。

840かぐやまの花こ:2018/02/03(土) 23:40:34
・・
・・歌の名所である、摂津の鼓ヶ滝に来た西行。「伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花」と歌を詠んで悦に入っているうちにあたりが暗くなってしまい、あわてて近くの民家に宿を借りる。

そこに住んでいた翁、婆、娘の3人に、自作の歌を「音に聞く鼓ヶ滝をうち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花(白百合の花)」と手直しされてしまう。素人の口出しとはいえ、元の歌より良くなっているのは認めざるを得ず、西行は自分の修行の足りなさを実感する。

・・

この鼓ヶ滝 どこにあるのか?

猪名川
猪名川(いながわ)は、兵庫県及び大阪府境付近を流れる淀川水系の支流
丹波高地の大野山(兵庫県川辺郡猪名川町)に源を発する府県境を南流し、大阪国際空港の西側をかすめて神崎川右岸に合流する。

多田 鼓ヶ滝。 川西市?

神埼川には佃の漁民がよく舟をだす。

・・

日像

・・1275年(建治元年)日蓮の弟子で兄の日朗に師事した。その後、日蓮の弟子となり、経一丸の名を与えられ、玄旨伝法本尊と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられた。1293年(永仁元年)日蓮の遺命を受け、京都での布教を決行した。途中、日蓮の足跡を巡り佐渡へ到着し法華経の布教をしたところ、石動山の僧・満蔵(日乗)が弟子となった。1294年(永仁2年)上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋仲興、大覚寺の僧・大覚らから帰依を受ける。1307年(徳治2年)延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。

841かぐやまの花こ:2018/02/05(月) 00:33:18
・・
百千斛雪同時撒   百千斛(こく)の雪 同時に撒(さっ)し

数萬箇雷特地鳴   数萬箇の雷 特地(どくち)に鳴る

・・

「鮎壷の滝」白隠

842かぐやまの花こ:2018/02/06(火) 00:26:13
・・
三十年来尋剣の客、

幾回か葉落ち又枝を抽(ぬき)んず。

桃花を一見してより後、

直ちに如今(いま)に至って更に疑わず。


・・廬山

中国,江西省北部,九江市南方の名山で仏教の霊地。最高峰の漢陽峰は標高1474m。中国屈指の景勝地で,香炉,蓮花,双剣,天池,石耳,擲筆(てきひつ),鶴鳴などの諸峰があり林立する奇岩秀峰と山麓の湖水が独特の景観を呈する。

中国、江西省北部にある山。鄱陽(はよう)湖の北西岸にあり、北を揚子江が流れる。標高1543メートル。景勝地。晋の慧遠(えおん)が白蓮社を結成した仏教の霊山。陶淵明の靖節(せいせつ)書院、白楽天の詩で知られる香炉峰がある。

・・恵林寺もある。

新モンゴロイド(しんモンゴロイド、英: neo-Mongoloid)とは、W・W・ハウエルズによる モンゴロイドの分類。日本では埴原和郎や尾本恵市らが用いている。 モンゴロイドを 形質的特徴を中心とする遺伝的特性から、「新」・「旧」という、定かではない単語を用い て分別した表現方法である。進化の程度が「新」・「古」という意味ではなく、寒冷地適応 を経ているか否かの違いを表したというのが、世間に出回っている現段階における分類 である。

・・寒冷地適応

宗祇は七回越後に行脚した。文明十年(1478)三月、最初の越後下向。宗祇五十八歳。

宗歓(宗長)が同行。四月十八日 「百人一首抄」伝授。

・・東国から越後を目指したか?

843かぐやまの花こ:2018/02/07(水) 02:14:20
・・
洞山良价禪師參雲巖曇晟禪師。

・・

師問:「無情説法,甚麼人得聞?」
巖曰:「無情得聞。」
師曰:「和尚聞否?」
巖曰:「我若聞,汝即不聞吾説法也。」
師曰:「某甲為甚麼不聞?」
巖豎起拂子曰:「還聞麼?」
師曰:「不聞。」
巖曰:「我説法汝尚不聞,豈況無情説法乎?」
師曰:「無情説法,該何典教?」
巖曰:「豈不見《彌陀經》云:『水鳥樹林,悉皆念佛念法。』」
師於此有省,乃述偈曰:「也大奇!也大奇!無情説法不思議,若將耳聽終難會,眼處聞聲方得知。 」

844秋魚:2018/02/07(水) 20:59:47
(無題)
・・暇の取れるうちにとパソコンに取り組んでいる。win10は一年前から参入して一時撤退。どうしようもないOSと思っていたが、去年の暮れにオシャカのパソコンで復活させた。・・fall creators updateという大規模更新が10月17日にあったそうだ。クリーンインストールではそのNEW OSがそのままダウンロードできる。これはMソフトも自信作のようで、リリース以来の大方のトラブルを解消できる。よく安定して若干の修正でほぼ完璧に復活できた。この3月にもう一度大きな更新を予定してるというが、win10の基本構成はほぼ固まってこのままいける。すべてのデバイスに対応できると、自信のほどだ。

で、中古パソコンが安価に出回っているので、もう一台ノートパソコンを入手した。win10は一年前から取り組んでだいぶ事情もわかっていたので、当たり外れがあるが中古で十分。core2duo、メモリー4G、250Gでとても安い。天板にキズがあるのとバッテリー不良とあったが、キズはどうということもなくバッテリーは時間がかかったが完全に充電できた。一日かけてすべてチェックした。すばらしく問題なし。DVD再生アプリはVLCプレイヤーでいける。Corei3を見ていたがCore2Duoで十分なのもわかった。

・・エフライム工房はLinuxとfirefoxでやってるそうで、頭が下がる。win10のメーラーは気持ち悪くTHUNDERBIRDをはじめて採用した。ネットでラジオを聴くのが楽しみだったが、win10もitunesも複雑にしてくれたおかげで、すべて除外。RADIOFRANCEINTとFRANCECULTUREを直接お気に入りにした。これで十分。win1032ビットを64ビットに変える予定だったが32ビットでこれも十分。

845かぐやまの花こ:2018/02/10(土) 00:53:16
・・
・・

汝これ渠にあらず、渠正にこれ汝


・・

銀盌盛雪 明月蔵鷺 類而不斉 混則知処


・・

震爲雷、爲龍、爲玄黄、爲旉、爲大塗、爲長子、爲決躁、爲蒼筤竹、爲萑葦、其於馬也爲善鳴、爲馵足、爲作足、爲的顙、其於稼也爲反生、其究爲健、爲蕃鮮。旉、音孚。筤、音郎。萑、音九。馵、主樹反。蕃、音煩。○荀九家、有爲玉、爲鵠、爲鼓。


「馵、主樹反。」

846かぐやまの花こ:2018/02/13(火) 00:45:44
・・
・・

逢ふ事は伊奈良の沼のおほゐ草よそにや恋ひん袖はくつとも[夫木抄11373]

                        順徳院


・・

燃燈仏が都に来られたとき,スメーダがこれを供養しようと5本の蓮華を求め仏前に散華すると,スメーダの蓮華だけは空中にとどまって燃燈仏をおおう花蓋となった。また,燃燈仏のためにぬかるみに衣を脱いで敷いたが足りず,さらに髪を解いて地に敷き,その上を燃燈仏に歩ませた。

847かぐやまの花こ:2018/02/13(火) 23:26:58
・・
・・

「ときは今あめが下知る五月哉」

「水上まさる庭の松山」

・・

散りぬべき とき知りてこそ 世の中の 人も人なれ 花も花なれ

                    細川ガラシヤ

848かぐやまの花こ:2018/02/14(水) 22:14:23
・・
・・

oblivion


https://www.youtube.com/watch?v=ls-sHmm39gI

849かぐやまの花こ:2018/02/17(土) 02:55:43
・・
・・

峯あまた 越えて|こしぢ|に まづ近き 堅田に|なびき |落つる 雁がね

850かぐやまの花こ:2018/02/20(火) 00:55:45
・・
屈原既放,
游於江潭,行吟澤畔,顏色憔悴,形容枯槁。

漁父見而問之曰:
「子非三閭大夫與?何故至於斯?」屈原曰:「舉世皆濁我獨?,衆人皆醉我獨醒,是以見放。」

漁父曰:
「聖人不凝滯於物,而能與世推移。世人皆濁,何不淈其泥而揚其波?
衆人皆醉,何不餔其糟而歠其釃?何故深思高舉,自令放爲?」

屈原曰:
「吾聞之:新沐者必彈冠,新浴者必振衣。
安能以身之察察,受物之汶汶者乎?寧赴湘流,葬於江魚之腹中,
安能以皓皓之白,而蒙世俗之塵埃乎?」

漁父莞爾而笑,鼓枻而去。
乃歌曰:
「滄浪之水?兮,可以濯我纓,滄浪之水濁兮,可以濯我足。」
遂去,不復與言。

851かぐやまの花こ:2018/02/21(水) 02:03:16
・・
・・

冰簟銀床夢不成,碧天如水夜雲輕。雁聲遠過瀟湘去,十二樓中月自明。

852秋魚:2018/02/21(水) 03:35:21
(無題)
・・雁で想い出した。青梅から川越に幾度か自転車を走らせた。入間川に出てサイクリングロードを走ればとても爽快だ。真夏の最高に暑い日によく出かけたものだ。左岸を走り三芳野という業平ゆかりの土地まで来ると橋を渡って右岸に移る。この橋がたしか初雁橋といった。優雅な名の橋と思っていたが、伊勢物語にこうある。

みよしののたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる
返し、
わが方によると鳴くなるみよしののたのむの雁をいつか忘れむ

・・これは雁でも初雁というのではない。

雁は秋に南下して初雁をみとめるが、春には北へ帰る渡り鳥だ。

「秋のある日のこと。北方から飛んできた初雁が、杉の上で三声鳴きながら三度回り、南方へ飛び去っていったそうです。この光景は毎年同じ時期に見られ、雁が来なかった年はないといわれています。

・・このことから、この杉は「初雁の杉」と呼ばれるようになりました。

・・川越城は初雁城といいます。

業平のたのむの雁とは別の縁か?

宗祇は最晩年の旅で越後から武蔵野にでる。この川越にも寄ってますね。

「武蔵の国入間川のわたり、上戸といふ所は、いま山の内の陣所なり。こゝに廿日あまりほどやすらふ事ありて、数寄の人おほく、千句の連哥なども侍し。
 みよし野の里、河越にうつりて十日余りありて、・・」

・・連歌師宗祇やがて箱根湯本で客死になりますが、後、弟子の素純の歌に、

 ながらへてありしこしぢの空ならばつてとや君も初雁の声

宗長は、

 三歳へし越路のそらの初雁はなき世にしもぞつてと覚ゆる

・・

井月は、「越路の雁も帰るなる」とよく唄います。

これは、おそらく宗祇の俤をみていたでしょう。また芭蕉庵近く近江八景の堅田落雁の絵を
みていたでしょう。

峯あまたこへて越路にまず近き 堅田になびきおつるかりがね

・・

853秋魚:2018/02/25(日) 22:15:22
(無題)
・・童謡「通りゃんせ」は、川越の三芳野神社の発祥と云われる。歌詞そのものは、江戸時代に成立したものという。

1.
通りゃんせ通りゃんせ ここはどこの細通じゃ 天神さまの細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります
行きはよいよい帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ通りゃんせ
2
通りゃんせ 通りゃんせ ここは冥府の細道じゃ 鬼神様の細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ 贄のないもの通しゃせぬ
この子の七つの弔いに 供養を頼みに参ります
生きはよいよい還りはこわい こわいながらも 通りゃんせ通りゃんせ

・・ここで思い出したのが芭蕉「奥の細道」。江戸をたって日光、那須、塩竃、松島、平泉、裏日本にでて出羽三山をめぐり、象潟、出雲崎、金澤、敦賀、大垣とざっと東日本を一周して最後は伊勢に行くのが目的という。伊勢は伊勢神宮だから天神様の「通りゃんせ 」と同じ様な「細道」の旅とわかる。・・この童謡、翁の「奥の細道」の子供用につくったパロディかも。歌詞の二番では、天神様は鬼神様と置き換えられ、陰陽反転の細道になる。これも、表日本、裏日本と経巡った芭蕉の、陰陽の旅の細道と重なるものがある。

・・この童謡他にも発祥を説く土地があるようだが、川越の三芳野神社とは、どういうことか?
三芳野神社というのは、例の「初雁の杉」があるところ。さらにこの伝説をみると、

『初雁北の方より渡りて、腰掛の椙の上、飛廻て
  三声音づれて、南の方へ行。』

この神社そのものは平安期の創建というから、伝説は「通りゃんせ」よりずっと古い。

川向こうの初雁の池に伝わるのは、

『謂雁此國初來、池上三度飛回初鳴云傳』

こちらが平安期のみよし野のことだろう。

「伊勢物語」十段だが、「さて、その國に在る女をよばひけり。…父はなほびとにて、母なむ藤原なりける。」

みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる

この藤原すじの母が詠んだ。

それた話になるが、蕪村『新花つみ』は、

灌仏やもとより腹はかりのやど
卯月八日死ンで生るゝ子は仏
更衣身にしら露のはじめ哉
ころもがへ母なむ藤原氏也けり
ほとゝぎす歌よむ遊女聞ゆなる

・・藤原は武蔵野でよく浸透してるのが、わかる。


武蔵のはらに鶴遊ぶ也  井月

854かぐやまの花こ:2018/02/27(火) 01:13:55
・・
・・湯立とは、釜 に湯を沸かし、この湯をまず神々に献じて、その後、人々にふりかけて祓い清める神事 です。

伊勢流神楽→湯立神楽→霜月神楽

・・

伊勢流といっても、外宮だそうだ。


延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍二殿上一、各議二請雨之事一、午三刻従二愛宕山上一黒雲起、急有二陰沢一、俄而雷声大鳴、堕二清涼殿坤第一柱上一、有二霹靂神火一、侍二殿上一之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫、衣焼胸裂夭亡(年六十四)又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼而臥、又登二紫宸殿一者、右兵衛佐美努忠包、髪焼死亡、紀蔭連、腹燔悶乱、安曇宗仁膝焼而臥


武蔵野台地は関東平野の南半分、荒川と多摩川とにはさまれた地域に広がっている台地です。

 奥多摩の山々を削りながら流れ下ってきた多摩川は、青梅を扇頂とした大きな扇状地を形成しました。この扇状地が武蔵野台地の基盤となっていて、その上に関東ローム層が概ね5〜15mの厚みをもって堆積しています。関東ローム層とは、主に富士山の火山灰が西風に運ばれて堆積しその後風化が加わったもので、安山岩ないし玄武岩質の砂泥土です。その生成は噴火の時期によって異なり、最も下の層で十数万年より以前、最も上の層で約1万年前と考えられています。

855秋魚:2018/02/27(火) 21:55:41
(無題)
・・湯立神楽などいうのがあるとは知らなかった。伊勢流神楽で外宮様だから、なるほど豊受神にあやかり、大地八方に清めの輪を広げる。昨今流行の諸国温泉めぐりに通ずるものがある。

蟠りおおく清め祓いのためにひさかたに自転車で多摩川CRを走った。新奥多摩街道と多摩川の狭間はよくわかってるつもりでいたが、数ヶ月見てないとやはり迷路になる。見覚えない景色がいくつもある。道もまちがえる。多摩川に出てからも、土手下の樹木はおおかた枯れて透け透けのむこうに川の流れがみえる。この世にいる自分が不思議にみえる。

水無瀬三吟何人百韻

雪ながら山本かすむ夕べかな  宗祇
行く水とほく梅にほふさと   肖柏
川風に一むら柳春見えて    宗長

・・これって、多摩川の青梅あたりのこととみえる。

水の辺に梅の花さけりけるをよめる  伊勢
春ごとにながるゝ河を花とみてをられぬ水に袖やぬれなん

・・梅はもうちらほら。桜さえ心もち蕾がふくらむ。枯れ柳もなにか黄芽をかくしていそう。

・・スピードスケートの小平奈緒は信州西伊那の出身という。あの伊那というところはおもしろいところです。伊那は天竜川に沿って上伊那下伊那の見方しかしてなかったが、西伊那というのはどういうところか。桜の名所高遠は上伊那でも東になる。西は…。最後の50メートルの滑りはまったく圧巻でしたね。あの子も娘です。

・・多摩川CRはいつ来てもちゃきちゃきのサイクリストが走っている。すばらしいロード自転車とサイクリストファッション。年いってる人が運動と趣味で走ってるのは、平日に多い。にしても若い人も多い。彼ら仕事何してるんだろう。など余計なおせっかいで極秘の楽しみはよくわかる。

・・葉が青々とした樹木があるが、冬日を受けて照り艶がみえる。樫の種だと思うが。

日野の高幡不動尊に立寄った。平安様式の不動明王像を拝めるのは、ここが、ミラクルスポット。不動尊の草創は大宝年間(701)以前と云われるが、平安初期の清和天皇勅願により天台の慈覚大師円仁が東関鎮護の霊場と定めたのがはじまりという。不動堂に不動明王を安置。今在る明王像もこの時のものか。

・・きょうは左手の山を散策することにした。金剛寺といって真言の寺である。鐘楼が山腹にあってここまで歩く。五重塔は45mあって平安様式のものだが、きわめて新しい。鐘楼の位置から雄姿がみえる。

856かぐやまの花こ:2018/03/01(木) 14:09:25
・・
・・

武蔵秩父大宮道

現在の埼玉県秩父郡横瀬町から東京都青梅市を経て大山へ向かうものである。
経路:横瀬(埼玉県秩父郡横瀬町) - 名栗(飯能市) - 小沢峠 - 軍畑(東京都青梅市) - 御作(羽村市小作) - 友田の渡し(多摩川) - 菅生(あきる野市) - 戸吹(以降、八王子市) - 大楽寺 - 元八王子 - 浅川 - 上椚田 - 片倉 - 八王子通り大山道を経て大山へ

857秋魚:2018/03/01(木) 20:24:02
(無題)
・・伊勢流の湯立神楽は全国的にみられるが、中でも愛知県北設楽郡(奥三河方面)のものは霜月神楽、花祭と呼ばれる。花祭という名称は、普通、釈迦の誕生日を祝う祭り灌仏会をいう。奥三河で花祭というと、湯立神楽、霜月神楽のことだ。釈迦の聖誕祭なら四月八日、湯立神楽なら霜月、十一月の行事になる。

この花祭で思い出すのは、イタリアのローマ近郊ジェンツァーノでの花祭。現地のものを見たことはないが、鴎外訳「即興詩人」によく描かれている。こちらはキリスト聖体祭の一つで毎年6月頃に行われる。

*聖体の祝日(三位一体祝日後の木曜日)のあとの日曜日に行われ、町の目ぬきの通りに花を敷きつめて飾る。インフィオラータ。ジェンツァーノ・ディ・ローマは、ローマの南東約30kmにあるカステッリ・ロマーニの丘の古都。

「・・アルバノに着きて車を下りぬ。ここよりアリチアを越す美しき道の程をば徒にてぞゆく。木犀草(レセダ)又はにほひあらせいとう(ヘイランツス)の花など道の傍に野生したり。緑なる葉の茂れる橄欖樹の蔭は涼しくして、憩ふ人待貌なり。遠き海をば、我も望み見ることを得き。十字架立ちたる山腹を過ぐるとき、少女子の一群笑ひ戯れて過ぐるに逢ひぬ。笑ひ戯れながらも、十字架に接吻することをば忘れざりき。」

・・うっかりしていた。この花祭のジェンツァーノ・ディ・ローマはネミ湖に隣接する町だ。フレイザー金枝篇に描かれた森の王の伝説。湖面に月が映るとえもいわれぬ風光で、ディアーナの鏡と呼ばれる。

858秋魚:2018/03/05(月) 23:23:47
(無題)
「通りゃんせ」の川越だが、

1470年に太田道真のもと、心敬、宗祇らと「河越千句」の連歌会。

鈴木道胤という人物がいる。

「15世紀半ば、品川湊を拠点とする海上交易で財力を築いた豪商。品川宿の天妙國寺に七堂伽藍を建設した。」「鈴木道胤は紀伊国熊野三党の鈴木・榎本・宇井苗字の一つで、熊野の出身であろうといわれる。紀伊半島からの交易により武蔵品川馬場地(現南馬場周辺)に拠点を構え、品川湊を支配。」「・・1470年太田道潅の父道真が武蔵国河越城(埼玉県川越市)において、当代一流の連歌師を招いて連歌史にのこる大規模な会「河越千句」を興行したが。その時の会を鈴木道胤は実質運営し自らも詠っている。 」

・・川越を流れる入間川、荒川の下流が隅田川で、海にそそぐあたりが品川になる。川越と品川の結びつきというのも興味深い。この河越千句、猪苗代兼載も参加しているという。

うめそのに−くさきをなせる−にほひかな
にはしろたへの−ゆきのはるかせ
うくひすの−こゑはとやまの−かけさえて
のへにうつれる−みちのはるけさ
ならはすよ−いつくのつきそ−たひまくら
みやこいつれは−みしあきもなし

・・

*川越城は、扇谷上杉持朝(もちとも)が古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。

*三芳野神社(みよしのじんじゃ)は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。

・・みよしの神社は太田道真・道灌父子が城の敷地にとりこんだという。

祭神は素盞烏尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。 菅原道真・誉田別尊(ほんだわけのみこと)を配祀する。

*童歌「とおりゃんせ」は当社の参道が舞台といわれる。 当社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。 城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。

柳沢吉保

柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。

・・万治元年(1658年)12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。

・・寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する

延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である吉保も幕臣となる・・元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する・・禄高も1万2000石とされて大名に昇る。

・・元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。

元禄七年 松尾芭蕉、大坂で客死。

859かぐやまの花こ:2018/03/10(土) 01:47:35
・・
・・

  結髮爲夫妻  結髮して夫妻と爲り
  恩愛兩不疑  恩愛 兩つながら疑はず
  歡娯在今夕  歡娯 今夕にあり
  燕婉及良時  燕婉 良時に及ばん
  征夫懷往路  征夫 往路を懷ひ
  起視夜何其  起って夜の何其を視る
  參辰皆已沒  參辰 皆已に沒しぬ
  去去從此辭  去去 此より辭せん


・・この蘇武、抑留の地から雁文を飛ばしたという。


「そこにあるのは空・森・水、厳しい冬、そして飢えだった。盗賊が羊を
盗んでしまった。彼は野鼠を獲って飢えをしのいだ。それでも彼は匈奴
に降ろうとはしなかった。いつかは漢に帰れる、と期待したからではない。
ただ、降ろうとしなかったのだ。

この荒れはてた地の果てに流されて、もう何年の歳月がたったのか、
それすらもおぼろであった。厳しい、単調な日々。しかし、広々とした
空を渡る雁は、蘇武にその故郷を想わせるのであった。」

860かぐやまの花こ:2018/03/11(日) 02:10:06
・・
なれこそは岩もるあるじ見し人の
  行くへは知るや宿の真清水

・・

なき人は影だに見えずつれなくて
  心をやれるいさらゐの水

861かぐやまの花こ:2018/03/13(火) 01:49:40
・・
虎卣(こゆう) 高35.7cm 西周前期 前11世紀

・・

周は黄河の支流渭水流域にあった邑の一つで、はじめ殷の支配を受けていた。文王の時に宰相太公望などの補佐もあって有力となり、前1050年頃、文王の子の武王が殷の紂王を牧野(ボクヤ)の戦いで破り、華北一帯を支配した。

又虎賁舊作「虎奔」,言如虎之奔也,王莽以古有勇士孟賁,故名焉。孔安國曰「若虎賁獸」,言其甚猛。

862かぐやまの花こ:2018/03/17(土) 11:23:03
・・
・・

https://www.youtube.com/watch?v=OCwT2E-SVwc

863秋魚:2018/03/17(土) 12:53:49
(無題)
・・ミックジャガーをサタニアンとみる向きもあるようだが、ロックンローラーなど可愛いもんです。kissaway!

・・江戸のキリシタン弾圧は港区三田の札の辻にその遺跡がある。元和九年(1623)十月十三日、徳川三代将軍家光によって、江戸のキリシタン50名が火刑に処された。旧東海道の入口で往来の多くに見せしめとするとある。「・・そこには、ジェロニモ・デ・アンデリス神父 (55歳)、 フランシスコ・ガルベス神父 (47歳)、 原主水佐胤信(たねのぶ) (36歳) が見せつけられていた。 」

・・この処刑の地、『オランダ商館日記』 などには 「東海道に沿った海の見える小高い丘」 とだけある。

今、聖坂を登った済海寺のちょうど海側の真下あたりに智福寺という寺があった。ここがその処刑場だと云われている。

・・

殉教者原主水について、

原 胤信(はら たねのぶ、天正15年(1587年)−元和9年10月13日(1623年12月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての旗本、キリシタン。・・千葉氏の筆頭重臣であった原胤栄の孫として臼井城で生まれる。生後間もなく、父・胤義は後北条氏の人質となった千葉重胤に随従して小田原城に入る。・・いろいろあって、その後、名族出身である事から徳川家康により小姓として召しだされる。慶長5年(1600年)ごろ、キリスト教の洗礼を受け、この時、朝鮮人娘ジュリアおたあが胤信をキリスト教に導いたといわれる。・・慶長17年(1612年)の岡本大八事件を機に江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧が開始・・キリスト教を信じる旗本に対しても棄教が命じられた。胤信はこれを拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。・・しかし、慶長19年(1614年)に藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、胤信はこれを拒んだため、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で元和元年(1615年)に追放された。

・・胤信はその後も布教を活動を続け、江戸・浅草のハンセン病患者の家を拠点とするが、後に密告によって捕らえられ、元和9年(1623年)に宣教師ら47名とともに江戸市中引回しの上、高輪の辻の札(高札場)にて火刑に処された。

ジュリアおたあ

「文禄の役において、朝鮮征伐軍により平壌近郊で保護されたのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれる。のちに関ヶ原の戦いにて敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、おたあの才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、寵愛を受けた。」
「昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し聖書を読み、他の侍女や原胤信ら家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。」

・・キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、伊豆諸島の八丈島(もしくは新島)、神津島へと相次いで流罪となった。

・・いつか神津島に渡った時、おたあの墓をみた記憶がある。(あるいは、島を出て大坂、長崎に移ったとも)

・・なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。

864かぐやまの花こ:2018/03/19(月) 19:15:03
・・
柳沢吉保 万治元年12月18日(1659年1月10日)〜正徳4年11月2日(1714年12月8日)

宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる。・・宝永2年(1705年)3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる。・・同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺(甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている。

宝永6年(1709年)2月19日(3月29日)、将軍綱吉が薨去・・同年5月28日に吉保は隠居を出願し、6月3日に吉保は隠居し、吉里が柳沢家の家督を継承した。

柳沢 吉里(やなぎさわ よしさと)は、江戸時代中期の大名で、甲斐甲府藩の第2代藩主、後に大和郡山藩の初代藩主となる。

貞享4年9月3日(1687年10月8日)〜延享2年9月6日(1745年10月1日)

・・父の吉保は終生幕閣にあり、国元へ入国して直接藩政に携わることはなかったが、吉保期に甲府藩では都留郡を預地として甲斐一円を支配し、甲府城の修築や城下の整備を進められていた。また、甲府藩では前代の徳川一門の藩主も江戸定府で甲府城へ入城することはなく、翌宝永7年(1710年)5月に吉里が甲府城へ入城すると、甲府藩は初めて藩主を国元に迎えることとなった。

荻生徂徠

武蔵国江戸??1666年3月21日〜1728年2月28日(61歳没)

・・江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[5]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。・・元禄5年(1692年)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いた。・・元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。

・・吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。宝永6年(1709年)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。

865かぐやまの花こ:2018/03/20(火) 12:11:24
・・
・・

https://www.youtube.com/watch?v=MmBrepbZji0

866かぐやまの花子:2018/03/22(木) 01:23:27
大雁塔
・・(だいがんとう、拼音: Dàyàn Tǎ)とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。

・・菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。

867秋魚:2018/03/30(金) 21:18:39
(無題)
・・StonesのPaintitblack、Gimmeshelterに触発されて日夏耿之介「黒衣聖母」の評をと構えたが、ワープロで出せない漢字がいくつもあって、即挫折。耿之介は芥川が若い頃に強く揺さぶられた一人。おもしろいことに信州飯田の産という。飯田とこの隣りの下伊那上伊那は井月が網の目のごとく漂泊して歩いた土地だ。
文禄2年(1593)より京極高知が信濃飯田城に入った。キリスト教の布教を許し自らキリシタンとなった。関ケ原の戦い(1600)は東軍につき、戦後、田辺城、宮津城に入り丹後宮津藩主となる。京極高知について、孫引きになるが、

「高遠(信濃)の大名京極高知の改宗があった。京極氏は佐々木氏を祖とし、頼朝の時代まで溯ることが出来る有力な家柄であった。(中略)1595年(○文禄4年)、同家の総領高次(○霊名不詳敬重7年受洗)は、父祖伝来の領地膳所を治め、弟の高知は高遠の枢要な采邑を得た。彼は同所で兼ねて彼の勧めによって領内に説教しに来てゐた宣教師から洗礼を受け、ジョアンといふ霊名を授けられた。」シュタイシェン著『キリシタン大名』(吉田小五郎譯 昭28年乾元社)

・・飯田、高遠と多くキリシタンが生れた。高知受洗と同じくして秀吉のキリシタン弾圧もはじまった。以降、徳川のキリシタン弾圧の歴史からしても、飯田、高遠は隠れキリシタンの里になっただろう。


 世の中は三日見ぬ間に桜かな

・・朝から霞川サイクリングロードを走った。知らぬ間に桜の盛りだ。桜ばかりでない、連翹や水仙やなにやらの花でいっぱい。かすみ川のこの道はいつかきた道と想い起こすに今一歩。もう四五年は生きていたい。・・平日で人がよく出てる。岩蔵街道をこえ、薬王寺のあたりは何といったか小谷野いや今井だな。そこも越え、八高線のあるのは飯能街道のある金子のあたり、小高い丘は加治丘陵、右手には狭山の茶畑、川沿いにも飽きてきて茶畑一面の道を走る。思い立ったポタリングは爽快、正解。

・・16号にでる前に加治丘陵よりに古風な社があった。寺だな。明王寺という。江戸期の奉納額というのがあって俳句がたくさんある。どうも加舎白雄のお弟子さんたちが納めたものらしい。そういえば白雄の武蔵野紀行にかすみ川を歩いたとかあった。この土地にも根を張っていたのがわかる。

16号を横断して、ここは入間市。扇町屋という地名が続く。豊岡の愛宕神社を訪ねたかった。ざっとネットで調べておいたけど、この辺も迷路の様、かすみ川に沿って、16号を横断すると、しばし川を離れるが、神社は近いはず。

ひらひらとあぐる扇や雲の峰   芭蕉

・・句碑探しもうまくなったものだ。芭蕉最晩年の句という。近くに扇町屋という土地があってそこの誰それが句碑を建てたようだ。

868秋魚:2018/04/04(水) 21:53:11
(無題)
・・今日は秩父路へ輪行。青梅から小曽木街道を走り東飯能駅で自転車を分解、袋につめて西武秩父まで輪行の予定だった。朝の通勤時は輪行に不向きというので高麗駅まで走りそこから西武秩父に向うことにした。高麗の駅までなら90分で行ける。初秋の頃の巾着田彼岸花はすごいです。予想通り閑散とした駅前で自転車の分解も容易に出来る。ただしこの袋詰め今でも自信ない。不測の事態を恐れたが帰路トラブルあって大変でした。・・往路は順調で電車にはやはり輪行の若者がいて彼は装備も万全、いい自転車に乗っている。というか私一人が安物のクロスバイクで装備もありきたり。西武秩父駅にはやはり若者が自転車の組立中。すこし話した。大学のサイクリングクラブの仲間で来てるという。学生のサイクリングクラブというのは憧れで自転車のスキルは相当なものでしょう。いつか北海道の支笏湖YHに女子2人で自転車ツーリングしてた。やはり大学のクラブという。女子というのがすごい。自転車ツーリングというのは本当におもしろい。火野正平、将棋指しの桐谷とかいうのも自転車道楽とか。自民党の谷垣さんは事故ってしまいましたね。

・・飯能から秩父に入る西武線。飯能と秩父の境が正丸峠。ライダーや自転車乗りのメッカといえる。秩父に行くのにここは絶対越えねばならぬ。二度ほど登ったがもういい。下の正丸トンネルというのはまったく恐い。ここも二度はごめん。というので飯能−秩父は輪行という選びになった。この輪行というの何度やってもうまくない。

・・目標は、小鹿野町役場にいって近くに十輪寺という寺がある。小鹿野に行くのがむずかしく、山を越えねばならぬ。観光案内所をまず訪ねるのは欧州でよくやった。ネットで調べた道があったが、案内所のお姉さんによると余りよい道ではない。すこし遠回りだが299という国道を勧めてくれた。秩父は荒川に沿って鉄道があり川向こうに丘陵があってその向こうが秩父市吉田や小鹿野になる。この丘陵越えが思案の種だった。坂が多いのはよいとしてもトンネルはごめんだ。大丈夫トンネルは無いという。

・・木曾義仲を知っているだろうか。芭蕉が義仲の隣りで眠りたいという。彼は武蔵いまの埼玉嵐山の生まれという。母親が秩父国司の娘で小枝という。かわいい名だ。悪源太義平にいじめられ木曾に逃げた。もともと向こうの人かと思っていたが意外。芭蕉は義仲の出生地には興味を示さなかったようだ。・・秩父というのは以前和銅黒谷を訪ねて大変に愉快だった。特に若い女子はみなかわいかった。小枝のような女子がたくさんいる。

西武秩父は駅前に温泉がある。都心と直結した駅だから人混みもままある。師走の頃の秩父火祭りは有名でよく盛り上がるという。寄居から荒川沿いに上るより飯能経由のこの線が観光によく池袋からの特急も組まれている。・・今日は駅前の温泉でなく下吉田にある星音の湯をめざした。ここも299で行ける。
小鹿野町役場まで80分ほどとある。この町役場も観光の売りになってるようで、行ってみて分ったが、宮澤賢治の歌碑がある。賢治がこの小鹿野まで訪ねて来てるようだ。

この歌碑で想い出した。町役場のすこし先に十輪寺という処に芭蕉句碑がある。「むめが香にのつと日の出る山路かな」翁百回忌(1793)に建立。十輪寺「花まつり」というのもある。文化財も豊富で、表門の仁王像だけはすこしだけ拝顔した。秩父は古い寺社がたくさんあってどう歩いたものか。秩父34箇所観音霊場廻りというのがよく行われている。この十輪寺は外れてるようだが、次に訪ねた下吉田の菊水寺は第33番札所になる。芭蕉50回忌の句碑もあり、埼玉でもっとも古いもの。

秩父路はヤマトタケルが訪れた伝説は、奥多摩以上に多い。こちらから甲州に入るに雁坂道というのがあってでも昔はどうですか、雁坂トンネルは近代に入ってから、雁坂峠は超難所と聞く。このトンネル平成10年の開通で山岳トンネルとしては6625mで国内最長という。戦国の武田信玄はこの峠を越えたらしい。
小鹿野の街道など長閑で楽なものだ。菜の花やシバ桜、枝垂桜や山桜ももう散り始めているが、山も黄芽がうっすらで、下吉田の菊水寺まで至福のサイクリング。

菊水寺は、秩父34箇所観音霊場の第33番だが、今は大櫻山長福寺という。折から桜が満開でちらほら散り始めていた。句碑は「寒菊や粉糠のかゝる臼の端」元禄六年(1693)『炭俵』というが、青梅にもよく訪ねた建部綾足の揮毫で、ほぼ読めない。綾足は1743年にこの菊水寺に滞在したようだ。・・秩父34箇所観音霊場というのは、西国33箇所観音、坂東33箇所観音と合わせてちょうど百観音霊場となり、観音巡りは満願でこのあとに長野善光寺にお礼参りに行くのが慣わしという。
「観音さまが、観自在菩薩と呼ばれる理由は、観音さまを一心に念ずると、自由自在にお姿を変えて救ってくれる、という所以からです。その変化のお姿が三十三身あるとされ、観音霊場の札所が三十三になった起源であるといわれています。」
帰路、駅近で「札所十二番はどこですか?」など尋ねられたが、「すいません。この土地のものでありません。」ともかく札所巡りは盛んなようだ。

菊水寺のほんのちょっと先ですね。星音の湯は。自家源泉の温泉で開業はそんな古くはない。温泉は湧出が新しいほど泉質もよい。ナトリウム炭酸水素塩温泉、無色透明のアルカリ泉ですな。泉温17.4度というのは鉱泉の部類か。規定の25度以上なくても泉質により温泉とされるようだ。併設されたリゾートホテルもあって若かったらゆっくりできそう。夜は星空がとりわけよさそう。暇と資力がなくて残念。

869秋魚:2018/04/09(月) 15:11:52
(無題)
・・小鹿野町役場から下吉田に向かうに道を尋ねた。R299を秩父の方へバック、交差点泉田というところで左折、直進して二つ目くらいの信号で右折。まっすぐ行けば33番札所菊水寺へ行ける。秩父駅の帰路もR299でもどるのが無難という。・・ざっと頭に入れて最初の交差点は、信濃石という。小鹿野で信濃石とはいかに?右も左も関東山地に囲まれたような秩父の僻村にどうして信濃石があるのか、帰宅してネットで調べたらわかった。R299(国道299)は、武州街道と呼ばれるが、埼玉の入間と飯能を経由して秩父小鹿野さらに群馬の上野村、十石峠から長野県に入り麦草峠、八ヶ岳を回ってメルヘン街道で茅野市に出る。総距離200kmほどの古道だ。信州と秩父、武蔵野の入間を結ぶ。

「十石峠(じっこくとうげ)は、長野県南佐久郡佐久穂町と群馬県多野郡上野村の間にある峠。 かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、信州佐久平から一日十石の米を運び込んでいた道であることからこの名がつけられたとされる。信州からは米、味噌、醤油などが、上州からは炭、紙などが運ばれた。往来する馬子達が歌った「十石馬子歌」が今に伝わる。」

・・武州街道、江戸の俳人果たして歩いたものいるだろうか?

「十国峠(日金山)は箱根外輪山から南に続く尾根(標高765m)で,風衝(ふうしょう)によりハコネダケ,アズマササ,ミヤクマザサなどのササ類とハンノキ,アセビなどの低木林が優占している。日金山は古くからの信仰の地で,中世以降,伊豆山権現と箱根権現を結ぶ信仰の道の要所として,あるいは,「山中他界」として死者の集まる霊山として知られるようになった。」

こちらの十国峠は、みなよく歩く。

870秋魚:2018/04/13(金) 20:11:14
(無題)
・・飯能上直竹にある富士浅間神社を訪ねた。・・先日の秩父輪行で帰路高麗の駅でちょっとしたトラブル。自転車の組立で後輪ブレーキのワイヤーが手元ハンドルから外れてしまった。タイコと呼ばれる掛け金が外れている。何のことはないまた元に戻せばよいだけと多寡をくくったのが失敗。あれこれやったがどうしても引っ掛からない。ワイヤーが切れた訳でなくタイコが外れただけだから気を落ち着けて何度もトライしたが、Vブレーキのタイコ部分はよく見てなかった。うまくいかない。・・自力修理はあきらめて駅員さんに自転車屋さんは無いか尋ねたが、もとよりこんな高麗の片田舎であるわけがない。仕方なく駅の通行人のそれらしきに自転車は詳しくないかヘルプの声かけになった。溺れる者はワラをも掴む感じであったけど、二人目くらいの人が詳しくないけど助力に来てくれた。涙。・・ああでもないこうでもないもうあきらめかけた時、どういうわけかカチッとかかり復旧か?これは完全ではないという。・・しかしこれで何とか誤魔化して帰宅するしかあるまい。涙の感謝でお礼を言って、日も落ちかかっている帰路に着いた。で、この日は無事帰宅することが出来たのだ。アドレナリン(?)が出るほど緊張して、助けてくれた人に「おじさんありがとう」などいってしまったが、こちらがおじさんであった様で失礼千万限りなし。

・・当分自転車は乗らずに居て、今度はママチャリの後輪タイヤがパンクの様。空気が減っている。バルブの不良だろうと思ったが外してもまだ使える。あきらめて本格パンク修理にかかる。んで、これは去年何度もやってたので、経験を生かし、まったく完璧に修理した。オシャカのパソコンを復活させたくらいの感動、とはいえブレーキワイヤのタイコ掛けはまだ自信がない。・・それで今日はひさしぶりに飯能にポタリング。

・・小曽木街道岩蔵温泉郷から飯能南高麗に向う道。岩井堂からの道を横切って山王峠に向う。通いなれた道だが、峠にあがる手前は上直竹、近くにゴルフ場もあるらしい。左折して山道の懐に富士浅間神社がある。なぜこんなところに?神社ではあるが、木花開耶姫命、天照大神、加具土神、倉稲魂命、天之御中主大神、大山祇神、崇徳天皇など祀るほかに、倶利伽羅不動明王をも祀っている。神仏混交はよいとしても、崇徳天皇がここにというのは不思議。ここもある種のパワースポット。

富士浅間神社  N35度50分38秒 E139度15分11秒

伊那にある六道の堤  N35度50分39秒  E138度01分37秒

東西線は岩井堂よりぐっと近くなる。

871秋魚:2018/04/14(土) 17:06:13
(無題)
・・この神社の奥の院にタブノキの大樹がある。これを見るためには裏山をもう十分ほど登らなければならない。昨今奥多摩飯能にも熊が出没し注意の看板がでてる。歩道の段があっても落ち葉で埋もれていて足を滑らせそう。当然のように無人で樹間が透いて見える。風音で熊が出たのではないかとひやりとする。

このタブノキの詩をきっと読んだ記憶がある。

872かぐやまの花こ:2018/04/17(火) 21:18:50
・・
この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。

清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。

「この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も2名死亡した。」

延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍二殿上一、各議二請雨之事一、午三刻従二愛宕山上一黒雲起、急有二陰沢一、俄而雷声大鳴、堕二清涼殿坤第一柱上一、有二霹靂神火一、侍二殿上一之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫、衣焼胸裂夭亡(年六十四)又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼而臥、又登二紫宸殿一者、右兵衛佐美努忠包、髪焼死亡、紀蔭連、腹燔悶乱、安曇宗仁膝焼而臥?? 『日本紀略』

・・

北野天満宮
京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町

北緯35度01分52秒  東経135度44分06秒

紅梅殿の、少し南・豊国社前に
●連歌所の井戸 が、ある。

立札の説明板によると・・
文道太祖・風月本主と仰がれる天満宮には
連歌会所があり、宗砌・宗祇をはじめ代々
その会所奉行をつとめ、室町より江戸にかけては
盛んに連歌会が行われ、毎月18日には月次会が
興業せられた。
また、2月25日の御忌日、6月9日の宮渡祭日、
8月4日の例祭日には年中恒例連歌が興業せられた。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、
当宮の法楽は「聖廟法楽」と称し毎月25日に
催され、朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれて
いた。

・・・・天満宮と連歌の関係は室町時代にさかのぼる。
・・北野天満宮の法楽は「聖廟法楽」と称し
禁中にて和歌連歌の会が催され、さらに毎月25日に
連歌が催され、連歌の席に天神像がかけられる
ようになった。
足利義満は明徳2年(1391)、北野一万句興業をなし、
永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、
豊臣秀頼も十万句の連歌会を行っている。
連歌会所は連歌堂ともいわれ、永享のころから
会所奉行が置かれ 高山宗砌がこれに当たり、
宗匠の号を許され、
「神に人むすび よるべの しみづかな」と
詠んでいる。

・・ついで長享2年(1488)には宗祇(*そうぎ・
室町時代の連歌師)が足利義尚より
奉行に命ぜられ、文明8年(1476)、猪苗代 兼載
(*いなわしろ けんさい・戦国時代の連歌師)も
北野会所 別当に補せられ、いづれも宗匠であった。
そのご 一社中からは梅林坊 能順が最初になった。
また連歌は北野学堂でも行われ、神、歌、儒を
研学したが、中で、連歌道を第一とした。

・・一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、
「私の魂を祭るべき地には一夜にして
千本の松を生じさせる」という道真公のお告げに
よって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。
境内に多い松の樹々は、この一夜千松の名残りと
される。

・・この一夜松については、前参議 菅原為長【1】
(古人13世の孫)は「寄松述懐」と題して
「一夜松 千代の末葉の老木まで
   木 たかくなりぬ 年も位も」と詠み、
後水尾院の御製にも
「ただ願ふ 北野の宮の一夜松
   二つの道の為かは」と歌われ、
薩天鋳の詩に、「千里飛梅 一夜松」とあり、
歌人 有賀長千鄰(ながちか)も、
「松延齢友」の歌に、
「ひとよとの 名の生ぬれど 北野なる
  松をぞ千代の 友垣にせむ」と、
数限りなく詩に歌に、

873かぐやまの花こ:2018/04/20(金) 23:43:20
・・
上島 鬼貫 万治4年4月4日(1661年5月2日) - 元文3年8月2日(1738年9月15日)

鬼貫五十回忌  1787年

骸骨の上を粧て花見哉  鬼貫
青梅はその骸骨のみのり哉  机月

1789年 フランス革命
1790年 中原章 没

・・林曹(梅室門)花の本八世 1802-1861 伊丹の俳人を訪ねる 糠人、曲阜

梅通 花の本九世 1797-1864

・・

梅笠  1863年没(59歳)『時雨文庫』1843-1848
             『霜花集』1849
 

874かぐやまの花こ:2018/04/21(土) 22:37:49
・・
芭蕉木像

  ?北枝が刻んだもの。
  ?許六が刻んだもの。
  ?其角の門弟湖十が所持し、のちに漁千、万和、岱年、梅笠に伝来したもの。

おもしろいのは、? 梅通筆「芭蕉翁肖像伝来書」付録。梅通筆「正風伝系」(嘉永5,1枚)

1852年。

天保十年頃 梅笠 春秋庵主継承 1839年

875秋魚:2018/04/22(日) 21:04:05
(無題)
・・今日は、二ツ塚峠を越えて日ノ出までポタリング。大久野のキリシタン石仏とその先平井にある鹿野大仏を目標とする。青梅から日ノ出に入る秋川街道ははじめ二度と走りたくないと思ったものだが、暗く長い坂道を一たび越えれば長閑な里の走りになるので我慢に慣れた。峠越えは下りになればとても快適。カヤクボというところで福生の永田橋からの街道とぶつかる。左折してしばらくいけば大久野の石仏、さらにその先町役場をすぎて塩沢の交差点まで走れば宝光寺があり裏山に大仏があるはず。・・で、今回はカヤクボをも少し直進し右折してつるつる温泉に向った。ここも何度か訪ねている。迷うところはない。街路樹のハナミズキが満開。平井川はほぼ涸れている。それでも奥にすすむにつれ水の流れがある。途中広場にサイクリストが大勢いる。あとで温泉に居たサイクリストに聞いてわかったが、この日昼前にロ−ドレーサーの競技があった。みな自慢の自転車で腕を競う。・・温泉も混むかと危ぶむが、ほどほど。ここの泉質はアルカリ泉で抜群。湯量が豊富で毎日源泉を入れ替えているという。・・温泉でちょっとおもしろいことがあったけど、どうもブログに書くのはどうか。自分だけの笑い種にして、かねての予定通りキリシタン石仏を探すことにした。カヤクボの交差点セブンイレブンがある。車から降りてきた人が「観音さまはどこですか?」など尋ねる。「え?」「大仏ですよ」観音はいっぱいあるから、鹿野大仏ならわかる。でもこの大仏観音さまなんだろうか。・・観音ではなく釈迦如来ですよね。もっとも宝光寺の本尊は聖観音像らしいが。・・テレビ、新聞でとりあげられてさっそく人気になったようだ。

・・地図で見たキリシタン像は大久野の羽生人形店の自家の墓地にある。この人形店をめざした。ここらあたりというので近所の人に尋ねた。ちょっとバックして左折という。ずいぶんと田舎道だが老舗のようだ。屋号は油屋という。民家の墓地なので、お店の人に許可してもらうことにした。運よく家の前にいらして、これこれしかじか云うと、名前と電話番号を書いてくださいとか、意外ときびしい。というか、いろいろ情報提供してくれてむこうも楽しそう。いつのものかわからないけれど、油屋という屋号はキリシタンと関係あるかもなど、意味深。また近辺にもキリシタンの噂がときどきでるそうだ。五日市の伊奈の石工たちも、キリシタンのものもいただろうというのが、わたしの推測。高遠から来たのなら、石工はキリシタンの可能性はある。この家の人もキリシタンか。・・道路を渡った山道を登りほんとに小暗い一画にかの石仏はあった。

何年か前に、これは結局キリシタンではないということになったそうだが、実見では、異趣の仏像。カクレキリシタンはひたすらキリシタンであること隠すものらしい。人形店の屋号油屋からしてただの仏像ではない。・・油屋熊八が大きく開いた別府や湯布院の温泉はキリシタンと縁が深い。湯水を浴びるのが洗礼と疑われ、湯布院などカクレキリシタンなど湯を控えて寂れた時期もあった。熊八はカクレることもないキリシタンであったという。

・・人なつこい仏像でこの場を去りがたくも有ったけど、手をあわせ一礼してそっとアーメンと称えた。いや不思議な仏像です。

次に、平井にある鹿野大仏。永田橋からの街道にもどりひたすら東へ進む。圏道高速まではいかずこの辺いつか妙見宮を訪ねたことがある。町役場を過ぎたあたりで人に尋ねる。もう信号ふたつ塩沢の交差点で左折してすぐとのこと。・・宝光寺。休日でやはり物見遊山の客がよく見える。ここの秋川霊園はおおきなものだ。ここの付属の大仏か。車とバイクには駐車料がいるが、自転車は駐輪可、拝観料はなし。裏山の参道はけっこう長い。人も多い。

876かぐやまの花こ:2018/04/27(金) 12:13:44
・・
天保十四年

鳳朗 花の本
芭蕉 花の本大明神(百五十回忌)  正風宗師(百回忌)

877秋魚:2018/04/28(土) 20:38:38
(無題)
・・ブレーキワイヤーのタイコの仕組みが半分わかった。Vブレーキを解除しないでタイコの取り外しを試みた。先にワイヤーをスリットに合わせてアジャスタボルトから外しアームを緩めてタイコを外す。ワイヤー外しのスリットがあるなんて知らなかった。取り外しに成功したあと、手続に自信なく、すぐタイコの取り付けにかかった。およそ逆の手順でやればよい。・・たぶん半分の理解。いざとなれば今度は自力で復旧できる。この春再度甲州へ輪行の準備にかかる。

・・先日のR299、あのコースをロードバイクで走る人もいるようだ。秩父から群馬上野村十石峠を越えて、長野は八ヶ岳の麦草峠を越え、メルヘン街道を茅野市までくだる。もう十年若かったらチャレンジしたかもしれない。青梅街道の柳沢峠越えが自分のサイクリングのピークと思える。

 甲斐大和から今度は勝沼ぶどうの丘天空の湯へ。塩山は中萩原の慈雲寺、前回通過しただけの向嶽寺。塩の山。ただしこの山何も無いという。・・笛吹にある山梨県立博物館には、ぜひ閲覧したいものがある。

878かぐやまの花こ:2018/04/30(月) 01:09:01
・・
「花が散るのは御霊の吹き荒れ」(折口信夫)

枝垂れ桜の下には、冥界がある。

879かぐやまの花こ:2018/04/30(月) 19:02:42
・・
盤走珠、珠走盤。
偏中正、正中偏。
羚羊掛角無蹤跡、
獵狗遶林空踧蹈。

・・

偏中有正正中偏、
流落人間千百年。
幾度欲歸歸未得、
門前依舊草芊芊。

880秋魚:2018/05/04(金) 20:36:30
(無題)
・・青梅大祭。名にし負う春の大祭。飯能の友人が訪ねて地元の祭りに遊びにみえた。大柳町の知人はずっと長く青梅在でいろいろ招かれて話題が広がった。祭典の前に青梅の美術館にも寄ってみたが、夏目政利没後50年。回顧展というこの作家実はよく知らない。東京美大を出て将来を嘱望されていたけれど、ちょっとしたスキャンダルで画壇の日の目から外れてしまった。高村千恵子が下宿やに訪れたのをきっかけに画業を再開したという。水墨画のような絵巻もあって本格的日本画家かという反面、晩年の自画像群は目を見張るものがある。身寄りがどんどん逝去して表現対象が自己だけにふりむけられるようになる。でこれは鏡を見ながら画いたのかもしれない。ある種写実的なもの。急ぎ足でさっと流し目で歩いたけれど、一人の画家の生涯がよくわかる。個人が最後に辿り着く写実の精神が重苦しいようでもあり、それゆえ観るものは自己の生死を凝視すべく内省をせまられる。一瞬外に出て今日は友人たちと祭りを楽しむ方へ歩いた。

facebookの話が出て、スマホ片手にもうこれはやめられないという彼女は、今日は美人にみえた。青梅の知人は近年重い病を三つして見た目は顔色もよい。facebookはごめんだというのは、自分と同じ。

夕方から山車が繰り出して人混みも思った以上。仲間が逸れてもスマホで位置確認をくりかえす。聞いてはいたが、山車の競り合いとかともかくにぎやかというか自由に歩くことも出来ない。普段錆びれた駅前なのに。

881かぐやまの花こ:2018/05/06(日) 15:25:29
・・
青梅谷野 中原章ゆかり

真淨寺  N35度48分18.76 E139度17分18.14

常保寺  N35度47分17.64 E139度15分20.74

伊那市
高烏谷鉱泉  N35度47分15.85 E137度59分43.57

昭和26年開業

882かぐやまの花こ:2018/05/07(月) 19:20:52
・・
元 年 冬 十 月 , 〔 一 〕 五 星 聚 于 東 井


「 東 井 , 秦 之 分 野。 五 星 所 在 , 其 下 當 有 聖 人 以 義 取 天 下 。 占 見 天 文 志 。」

・・

真浄寺    中原章 浄月律師 日野資枝 日野資矩 (川村碩布)

しぐれ桜碑  芭蕉翁霊塚

883かぐやまの花こ:2018/05/10(木) 18:55:44
・・
1793年

宮澤安通 伊奈村岩走神社宮司

京洛 光格天皇の書の師により、正一位岩走神社を受ける。

安通は小林天渕の弟。

884秋魚:2018/05/13(日) 00:35:25
(無題)
・・甲州塩山笛吹探索を試みた。一年ぶりになるがほぼ同じコース。自転車はブレーキ調整のほかは注油など微調整のみ。タイヤの空気圧に注意した。青梅高尾間が意外と長いのが気になった。道幅せまく危ない所もいくつかある。中央線を使う輪行はこのルートしかない。90分の予定が100分ほど。高尾の駅のいつも自転車分解に使う場所が他のハイキング仲間の集合で、隣りの道路わきにチェンジ。一年経つと世相も何も様変わりするのがわかる。・・一月前の秩父輪行のトラブルのおかげで今回は輪行もスムーズに行く。甲斐大和まで順調にきた。ここから天目山に寄らず一路勝沼ぶどうの丘に向う。R20号という笹子のトンネルを抜けてここから甲府盆地に入るサイクリストは快適そのものというが、車もそこそこのスピードで気の抜けない道だ。ただし眺望はひらけて遠くの雪のある南アルプスの山並みはみえる。幕末に新撰組が戦った柏尾のあたりを過ぎてここらはもうブドウ園がたくさん。ブドウの丘の頂上に天空の湯という温泉がある。ここまでの道がよくわからない。

・・道の分岐点で上行寺の前に出た。「上行寺には日蓮聖人投宿之地碑があり、この地にも日蓮が足を運んだ形跡があります。そもそも上行寺は日蓮宗の寺で日蓮そのものが法華経に登場する四菩薩の筆頭、上行菩薩の再来となぞらえたことに始まります。」

 昼間の街道で通行人はほぼいない。時折畑仕事の人をみかけるがそれもなし。近くに消防署がある。ここで道を尋ねた。「ぶどうの丘の道は?」外に出て指差し「あれがぶどうの丘です」、一面ぶどう畑の斜面でちょっとした小山だ。「あの頂上が天空の湯です」行き着く道はいくつかある。迷路のようだがラビリンスか。どういっても坂は登る。一番わかりやすい道でも急坂で自転車は引いて歩く。まだかよと顎が出そうになるがこれしきはどうということもない。そうこうして頂上付近に出た。

噂には聞いていた。季節はずれで訪問客は少なめ。車でならどうということもない。徒歩と自転車はきついでしょう。ぶどう狩のシーズンならごった返し必定。山の上の温泉というのはめずらしいかも。景色がよくて長くいると湯あたりしそう。ミストサウナがある。ミストを浴びると時雨を浴びたようで旅に出た気になる。甲州に来たらリピートしたい温泉だ。天気がよいのに冷たい風がサーッと来る。この風、このあと塩山の中萩原慈雲寺を訪ねてはじめて意味がわかった。

このぶどうの丘で働いてる人たち、あまりに景色がよいので人生きっと耐えられなくなるだろうな。余計な感想だが、このあと樋口一葉の親たちの故郷慈雲寺へ向ってさらに土地の不思議を想った。

ここから塩山の駅に一度出る。ぶどう畑の斜面を下って方角を便りに自転車を走らせる。何度か道を尋ねながら、塩の山の見えるところまで来た。この山も魅かれるものがある。

「 酒折(さかをり)の宮、山梨の岡、鹽山、裂石(さけいし)、さし手の名も都人(こゝびと)の耳に聞きなれぬは、小佛(こぼとけ)さゝ子(ご)の難處を越して猿橋のながれに眩(めくる)めき、鶴瀬(つるせ)、駒飼(こまかひ)見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京(こゝ)にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦(たいか)高樓、躑躅(つゝじ)が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車(くるま)に一晝夜をゆられて、いざ惠林寺(ゑりんじ)の櫻見にといふ人はあるまじ・・」

「我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて・・」

一葉は24歳で没年。「たけくらべ」は早くに読んだが感情の記憶がいまでも新鮮に残る。近代女流の鏡ともいえる無駄のない文学を生きた。大藤村の南面の里は桃とか葡萄とか花もいろいろのどかな生活を営めそう。だんだらの坂を下って塩山の街に出ても特におもしろいものでもない。引き返すのが一苦労なだけ。これなら余ほど汽車で東京に出た方がよい。生れた土地で一生過すというのはおよそ耐えられないことだ。両親が駈落ちのように上京したという。

 慈雲寺は、なにか目頭が熱くなる。

885秋魚:2018/05/14(月) 10:02:26
(無題)
・・一葉の道を下って塩の山の麓のほうへ。塩山温泉街がある。ここから塩の山に登れるということだが、自転車は無理。そのまま南麓の向嶽寺へ向う。慈雲寺は臨済宗妙心寺派で恵林寺と同じ。向嶽寺派というのは、ここが本山で塩の山の名称も開山の禅師による。四方の山といったそうだがいつしか四方に塩の字をあて塩の山、この地は塩山となった。向嶽というのは、富嶽に対する地勢からの名付けという。なるほど参道口から富士の頭が見えている。

非公開寺院というので敷地内を散歩するのみ。塩の山が異様で訪ねる人もほぼいない。松の木の捩れたもの、池も清澄で全体が沈黙のもののよう。

「志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」
古今集に詠まれていてもうひとつの「さし出の磯」と対になる。開山は抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、武蔵国横山(八王子)の出という。1378年頃というから古今集の歌が古いか。向嶽寺は塩山の顔。

・・塩山から笛吹石和に向う道。もう四度目になるか。今回は駅の交番で仕入れた新情報。笛吹川差出磯のある万力公園までなんとか出る。そこから雁坂道をひたすら甲府方面へ向うのでなく笛吹川に沿ったサイクリングロードがあるという。これは初耳。石和まで行けるという。

差出磯。前回は消化不良。芭蕉の句碑があるはずだが見つけられなかった。もう一度チャレンジ。塩山駅前の道をどこまでも進むと八幡橋にでる。笛吹川を渡って雁坂道を走ればほどなく亀甲橋のある万力公園の横にでる。丘の上にある大嶽神社に寄ったのが失敗。ここは見晴らしがよいけれど、芭蕉の句碑はない。公園にある市立図書館で尋ねた。係員がいろいろ調べて神社の下の方にあるのだと。それにしても芭蕉の句碑の存在もしらずに文化の管理とは。小言をいってこの日はあきらめた。公園から笛吹川に沿ったサイクリングロードを探した。

886秋魚:2018/05/16(水) 20:48:24
(無題)
闇の夜や巣をまとはして啼千鳥

県立博物館からの帰路、半ば執念で差出の磯に寄った。今度は大嶽神社の社主に尋ねてこの丘の上ではない。亀甲橋の袂にいってみなさい。坂を下りて橋の入口に廻ると、たしかに差出の磯の碑がある。ここが景勝の地だとはどうも落ち着かない。誰に聞いても最初にここに訪ねなさいとはいわない。芭蕉の句碑はすこし奥まったところに見えた。

*山梨市八景 差出の磯とちどり

 平安時代の勅撰和歌集『古今集』の賀の部に「塩の山差出(さしで)の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」(詠み人知らず、塩の山に近い差出の磯に棲息するちどりが、大君の御代が八千年も長く長く続くように鳴いている)の一首があるが、天下の名勝・差出の磯は奈良・平安時代の昔から文人墨客が訪れ、その感懐を詩歌や絵画に残している。

 いま亀甲橋から根津橋までの1.3キロがちどりの保護区になっているが、昭和51年「やまなし野鳥の会」の会員によって、コチドリ、イカルチドリ、シロチドリ、イソシギなどの棲息が確認され、これらを総称してちどりとしている。そして昭和55年「市の鳥」に指定された。

・・こういう解説文があったようだ。

芭蕉千鳥の句は、蝶夢木因「富士美行脚」に

「 天明8年(1788年)3月19日、差出の磯に翁塚建立のため俳諧興行。

 十九日、落葉庵をいとまこふに、かのさし出の磯に翁の石碑を建んとて供養の俳諧に、各無是非ことに滞留して、一座の会を催す。

   石文はこゝをせにせよ木瓜躑躅

と和尚の一句につゞけて、歌仙行。 」

とあり、寛政2年(1790年)10月、月朶園里塘・水石樓魚君建立。東江閑人筆。

・・蝶夢の計らいがあったようだ。

(猿蓑)

闇の夜や巣をまどはしてなく鵆  翁

越より飛騨へ行とて、籠のわたりのあやうきところどころ、
道もなき山路にさまよひて

鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ  凡兆

「夕さればさほの川原の川霧に友まどはせる千鳥なくなり」紀友則(拾遺集四)

・・

時雨ともならで夜更けし千鳥かな    1
釣棚は焚にも足らずなく鵆       2
酒さめて千鳥のまこときく夜かな    3
ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥     4
粥烹や手に取るやうに鳴く千鳥     5
夜も霞む流れの音や千鳥鳴く      6
矢がらさへ焚て鵆をきく夜かな     7
なく鵆帆にくるまつて寝夜哉      8
磯に群れ洲にむれ明けの千鳥かな    9

887秋魚:2018/05/18(金) 00:11:09
(無題)
野井−俳人、浅見氏、初め音好といい、紙葉軒と号し、のち逃水庵と号す。武蔵国入間郡中神村の人。逸淵の門人、明治九年三月二十二日没す。年六十三。

・・武蔵野の俳人野井を追った。入間の中神村というのは青梅の隣り金子の町。ここに入間市図書館の分館がある。・・霞川をサイクリングロードでどこまでも行く。八高線金子の駅から歩けば十分ほどだろう。このあたりも何度か来ている。ネットで探して近くに来たら人に尋ねる。これでほぼ完璧に到達できる。

野井について資料となる本はいくつかあった。「金子の人物誌」というのが一番の目玉。図書館では係の人がコンピュータで調べてくれる。とりあえず二冊。・・明治十一年に野井追悼句集「陽炎集」が出ている。この序文が小築春湖というのは、橘田春湖のことだろう。略伝があり、同門後学、三森三木雄とあるのは春秋庵を継いだ三森幹雄であるから、野井も白雄の春秋庵の流れとわかる。

・・地元の門弟が野井の句碑を建てた。明治四十一年。中神の村社三輪神社境内という。金子の図書館まで来たのでこの三輪神社も訪ねてみることにした。図書館に限らないが最近係りの者がこういう古い神社の場所など知らないことがおおい。それでもネットで調べてたいていはよい案内ができる。さほど近くは無いが霞川沿いの茶畑の中にある。ずっといって一二度道を尋ねた。土地の古老らしきはさすがよく知っている。あそこに見える鎮守の森だよ。雲竜図を見にいくのでしょう?絵があるのですか?何か古い絵があるらしい。

888秋魚:2018/05/21(月) 00:02:54
(無題)
・・恋ヶ窪の図書館までポタリングに出た。宝雪庵可尊の論稿があるという。自転車で行くにはやや微妙な距離だ。先日出かけた立川の国文学研究資料館よりさらに足を伸ばして国立まで行きここから北へすすめ国分寺の西恋ヶ窪へと走る。この予定だったが拝島の駅まで来て玉川上水に出てふと思った。恋ヶ窪の駅から五日市街道はすぐ近く玉川上水もさほど離れていない。上水に沿って往けば恋ヶ窪の図書館にも着くはず。はじめての道を行くのはやはり不安だが人に尋ねたりいろいろ発見がある。

 五日市街道に沿ってゆくというのが最も賢明な選びだったかもしれない。上水に沿ってどこまでも進んだ。野火止の取水口もあって武蔵野らしい道がつづく。鷹の台に出たところで右折するのが正解だったがさらに進んだ。どうも行過ぎたようで人に尋ね右に迂回する形で東恋ヶ窪の名の有る付近に出た。この辺地理がわからない。で、なんとか恋ヶ窪の駅に出た。図書館は近い。

 ここにしか収蔵されてないという武蔵野文化女子大学紀要を探してやはり正確な情報なのですこし手間取ったが見つけてもらった。資料探しの旅というのも面白い。いろいろ発見があるものだ。ネットだけの情報というのは浅いか。

889かぐやまの花子:2018/05/22(火) 00:13:13
・・
・・
狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。本社の荒魂をお祭しており、延喜式神名帳に記されている古社。古より「華鎮社」と称された。

890秋魚:2018/05/26(土) 20:14:20
(無題)
・・身近な川でいつも気になる霞川。きょうは霞川の水源のある根ケ布天寧寺にポタリング。霞川の水源さがしはこれまで二度やっている。東青梅からの成木街道をすこし進み、ここで霞川にぶつかる。川も分岐し、一方はそのまま西へ青梅丘陵の麓へもぐりこむ。もう一方は北へ向い昔三田氏の勝沼城のあった森の外れにある天寧寺へ。本殿の裏にある霞ケ池というのが、水源という。以前天寧寺を訪ねた時は、本殿の裏まで廻り込めず、庭の池と山辺の湧水をみて水源とみなした。・・きょうは思い立って真なる霞川水源を訪ねた。

・・かすみ川というありふれた名の川と思っていたが、この武蔵野のかすみ川は意外とメジャー。ネット検索でも一番にヒットする。青梅の霞丘陵に水源をもち加治丘陵を左に見ながら入間市にはいりやがて入間川に合流する。この合流地点にはカワセミが多くみられるという。川越にでた旅人がここにも氷川神社があるけれど所沢の中氷川に向わず直接奥多摩の奥氷川に向うとしたら、入間川沿いに歩き合流する霞川に沿って辿れば青梅の杣保に着く。ここから奥多摩へは一本道。・・霞川は古多摩川ともいう。およそ二万年前は多摩川の正統な流れだった。立川断層の活動があって青梅丘陵や武蔵野台地が隆起した。それで今の南東へ向う流れとなり霞川は多摩川から途切れてしまったという。

天寧寺は曹洞宗のお寺。青梅文晁と呼ばれた小林天渕はここに眠っている。以前訪れたこともあり寺の前までは容易に着いた。大層な阿吽像のある表門を抜けると池があって、はたと立ち止まる。がこれは霞ケ池ではない。運よくお寺の住職さんらしきが出歩いてくる。そこで霞川の水源を尋ねてみた。本堂の裏にあるというけれど、普通には見られない。見たいというと、僧堂を抜けて案内しましょう。これはこれはと、かすみの水源。

891かぐやまの花こ:2018/06/16(土) 23:29:48
・・
・・鬼の、人の骨を取り集め侍りて人に作りなすやうに、信ずべき人のおろおろ語り侍りしかば、そのままにして、広野に出でて、骨をあみ連ねて造りて侍れば、人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心もなく侍りき。

声はあれども、絃管の声のごとし。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出づべきあひだのことばかりしたれば、吹き損じたる笛のごとし。おほかたはこれほどに侍る。不思議なり。

・・幻術というもの、

892山田:2018/06/22(金) 22:00:09
・・
・・梅林で名高い越生の町。以前この梅林と太田道真の草庵を訪ねたことがある。河越の城で心敬や宗祇と歌会をしてこちらの草庵にも訪ねている。隠居の庵だからけっこうな山奥だった。途中何度か探索をあきらめかかったが、宗祇心敬万里集九なんども来ているのに引き返す手はなかった。例によってスロープの多い道だった。・・この草庵への道と別にもっと山奥へ入ると越辺川の上流へゆく。黒山三滝という滝の名所があるという。

・・太田木甫という信州飯田の行脚俳人が明治のはじめにここを訪れている。木甫もほぼ無名で何でこんなところに?と思うばかりだが。

893山田:2018/06/23(土) 10:30:02
(無題)
尾張屋三平
 尾張屋三平こと新井宗秀は、文化12年(1815)、津久根村(現越生町大字津久根)に生まれた。25歳の時、家業を弟に譲り江戸に出た。北辰一刀流の祖千葉周作の道場で剣の腕を磨き、一方、遊侠無頼の徒とも交わり、新門辰五郎と義兄弟の契りを結んだとも伝えられている。
 新吉原の江戸町一丁目(現台東区千束)に「寒菊尾張」の暖簾をあげ、尾張屋三平を名乗った。慶応4年(1868)3月没。
 江戸市中に故郷の黒山三滝を宣伝し、大平山の役行者像建立にも尽力したといわれる。


・・海老原新甫とは、懇意であろう。

894山田:2018/06/23(土) 23:33:48
・・
新門辰五郎
・・
新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。
・・
武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845年)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。
・・
上野大慈院[?]別当・覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867年)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し[1]東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、駿府(現静岡市葵区)と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに駿府に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。


・・徳川慶喜の用心棒がこの侠客とは恐れ入りますね。

895秋魚:2018/07/13(金) 23:07:42
(無題)
・・ふ〜暑。体の新陳代謝をすすめる為に自転車で黒山三滝に向った。越生の山の中で以前梅林までいったさらに奥になる。三滝というのは、男滝・女滝・天狗滝とある。自転車は空気圧の調整だけ。朝6時半に出発し9時半には着いてしまった。体力がだいぶ落ちているので目標を三滝にしぼりすぐ帰宅する予定だった。小曽木街道でも飯能寄居線でも通勤ラッシュ帯にぶつかると自転車もつらい。何ヶ所か混んだ走りになったが、安全にクリアした。

・・体がバラバラに分解しそうで、帰宅してからは冷水がとても美味だ。酒はまずい。三滝は到達しただけで気が晴れたが、梅園神社にあるらしき遠山弘湖の句碑をさがした。暑いのでほんの記憶のかけら。梅林近くに神社があったので立寄ったようなもの。この手の神社、碑は忠魂愛国のようなものよくある。弘湖の句碑はみつからない。あとで町立図書館に訪ねてわかったが、もうすこし奥を探せば「玉垣の外面は梅のはやしかな」という碑がみられたはず。この図書館も通りがかりにたまたま目に入ったので立寄ったものだが、館長さんというかたが、越生の俳諧についてはお詳しい方で、弘湖のことだけでなく春秋庵のこと他耳新しい情報もうかがうことができた。資料も紹介してくださったが、何分にも暑くて自転車の走りの後では頭脳の働きはすすまない。帰宅してから本をとりよせ思考することにした。・・川村碩布の句碑はどこかにないか?尋ねたらあるという。地図で場所を教えてもらい、最後にこれを探したのがこの日一番の興趣になった。

・・滝を見ただけで帰宅というのはやめになり、郵ぱーく越生というスパによって温泉でリフレッシュ。このスパ越生でも山際の奥にあり自転車で訪ねるのがちょうどいい具合だ。車の混雑もない。あんまりよい道で記憶もないが。

 忘れないうちに黒山三滝の印象を。越生梅林の外れから越辺川に沿ったかは分らぬが川の上流の方へ山奥に入る。この越辺川(おっぺがわ)も興趣多し。次回に散策したい。・・顔振峠からくだって黒山に来たのは奥州に逃れた義経と、飯能戦争で敗れた渋沢平九郎。この平九郎は渋沢栄一の見立養子というが、黒山村自決は享年22歳。いやはや思いのほかの遭遇スポットに来た。

「水の声を聞く」最近の映画の舞台になったようだ。古来滝に打たれる修験道の聖地であったようで役小角の伝説もある。明治になって鉱泉が発見、旅館があって親しまれたが、ここも数年前から閉館されている。もったいない気もするが、観光行楽レジャーの質が変わってきている現今では仕方ないことか。多くの修験者のほか、野口雨情、田山花袋、西郷信綱の訪れがあったという。

尾張屋三平という越生の者が、江戸吉原にでて店を開き名を上げた。故郷の黒山三滝を褒め称え吉原から江戸市中の広まる名所となった。実際、男滝・女滝の前にある夫婦橋は夫婦和合の橋とあり、恋仲祈願の人たちが多く訪れたという。

滝廻りの散策は涼風この上なし。

・・温泉は、若者向けにキャンプ場も併設。プールもあり、この日は平日でお年寄りが多い。猛暑と自転車のライドで休憩できるならどこでもよい。そんな感じだ。

帰路、川村碩布の句碑を訪ねた。フロントで地図をみせ行き方を聞いた。とりあえず越生の駅までもどるのがよい。来た道は一本道かと思ったがいくつか岐路があり迷路にはまったか。要所で道を尋ねなんとか駅近まで。暑いので人通りなく、モータサイクルの店に立寄った。分解中のオートバイがあって声をかけると奥からご主人さんがあらわれた。こわそうな感じだが、句碑の場所は的確に教えてくれた。ありがとう。

で、いよいよ近くまで来た。たまたま外出してきた人にさらに句碑はないか尋ねた。すぐそこですよ。ポケモンがでるという。人が探してよく来るそうだ。あ、ポケモンGO!というやつですね。このゲームよく知らないけど、碩布の句碑までプログラムされてるなんて、驚き。こちらはまじめな句碑探し。

896かぐやまの花こ:2018/08/05(日) 20:40:30
・・
・・

https://www.youtube.com/watch?v=5Je7Doj6P6w

897かぐやまの花こ:2018/08/24(金) 21:00:56
・・
どんな長い夜も やがて朝が来る♪

・・娘が唄うと、ほんとに朝が来る。

リリックを写してなぞるだけで、憑依されるから不思議。

・・

898秋魚:2018/08/25(土) 19:27:12
(無題)
・・今一番おもしろいのは図書館。このところあちこちの図書館でレフェランスやっている。こちらの関心の軸がしっかりしてる限り、思はぬ発見気づきが多い。この日は隣町の飯能図書館を訪ねた。

例によって青梅坂から小曽木街道。そのまま行けば飯能にはいる。この青梅坂、自分が生きてるうちにエポックとなって語り継がれると嬉しいのだが、まず無理なようだ。途中にある岩蔵温泉もなんとなく寂れてきてる。頑張って欲しいのだが。

市立図書館に行くには、岩井堂方面ではなく反対の方向から坂道を越えて入る。郷土博物館や能仁寺の近くだ。ここも何度か来てる。図書館ははじめて。大きな公園があって一休み。

鉄腕アトムの銅像があった。

樺の木や栂の木もあって春は桜が咲き誇るだろう。

通りがかりの小学生か中学生に道を尋ねた。図書館ならほんの眼とハナの先。太陽光パネルのような建物ですよ。ありがとう。

夏休みでエアコンも効くから中高生あたり図書館を利用している。若い世代は近くで見るだけでノスタルジックになる。千と千尋の神隠しの後、千尋は大変な美少女になるだろう。図書館でもそんな美少女がぬっと現われてきたりする。

飯能戦争と幕末維新の飯能俳諧について、レフェランスを求めた。係の人は片言の情報たよりに、十冊ほどの本を探し出す。振武軍大将の渋沢成一郎は、ここを脱して吾野から秩父上州に逃れた。渋沢平九郎は顔振峠から越生黒山に出たのが天運だった。

振武軍や彰義隊の敗残兵は最初青梅に入る予定だったという。多摩川をさらに登り御嶽神社に布陣するというなんとも無謀な作戦だったが、これを青梅の有志がなんとかくい止めた。攻められても奥多摩の山の中に逃走経路を求めるつもりだったらしいが、地勢からして無理とあきらめ飯能に向った。それで飯能は焼け野原になったというのが上野戦争の末だ。

・・飯能戦争後の飯能俳諧については、一点。

「明治三年十月、飯能の田中楼で翠斎平臥庵友義の大祥忌(三回忌)追福の句会が開かれた。友義は飯能の小間物商で通称を小松屋平兵衛、稼業の傍ら風雅を志し、遠近に名を知られた宗匠であった。この句会の判者は、月の本為山・紙葉軒野井・春秋庵弘湖と養仁叟月雄・八巣謝徳であった。この時、全国から寄せられた句の数々は、浅見野井が編集し『野風集』と名づけて刊行された。」

この『野風集』は、未見。

899秋魚:2018/09/08(土) 00:23:51
(無題)
・・台風一過のあとで、野に出た。小曽木街道から成木、南高麗、山王峠を越えて名栗川に沿って飯能市街まで。坂がいくつかあるがこれしきで顎を出していてはいけない。飯能は過疎化しているがおもしろい町だ。この名栗川に沿った道は一度走った記憶がある。車の通行がそこそこあって走りよいものでもないが、川の景色は魅する。

・・小曽木街道から成木に向かう道で、道の端に栗がいくつも落ちていた。隣の畑の栗の木から毬ごと落ちて艶の有る実が落ちている。これって人通りがなくて誰も拾わないのだろう。いただくことにした。栗ご飯をつくる楽しみになる。

・・山王峠から正面に見える山はいつも気になる。秩父の武甲山と思うが。

900秋魚:2018/09/08(土) 20:19:53
(無題)
・・吾妻峡というのがある。以前天覧山の脇から見返り坂を登り多峯主山を歩いた。常盤御前が歩いたという。多峯主から名栗川の方に出る。川に沿って吾妻峡という景勝の地があるという。この日はここを何としても訪ねたい。バス停に吾妻峡入口とある。川の方へ降りていったが浄水場らしきがあるのみ。近所の娘さんに聞いてもわからないという。もどってさらに自転車のおばさんに聞く。もっと先ですよ。薬屋さんのあるあたりでまた尋ねなさい。さらに道を行き今度は畑仕事のおばさんに聞く。にこっとしてセブンイレブンで左折、川に降りてください。漸くめざす吾妻峡へ。

なぜ吾妻峡というのか。ヤマトタケが「アヅマハヤ」というたのはここではない。あまり深く考えたくない。ずっといくと木のベンチがあって一休み。

・・ドレミファ橋というので、飛石を伝って向う岸まで渡れる。なるほど渓流がみごと。夏場は涼しい風が吹く。岸辺に沿って遊歩道があるようだが、今日は川を渡って上下を眺めるだけ。

川上とこの川しもや月の友   翁


どこにいても月の友を想っている。

901秋魚:2018/09/10(月) 12:26:46
(無題)
「渋沢平九郎没後150周年 記念講演と説教節公演」

・・越生まで自転車で出かけた。天気もちょうどよく関東は晴れる。先日小曽木街道の外れで栗を拾った場所に寄ってみた。またパラパラと落ちている。すこし拾った。

飯能の二つの駅までは完璧に出られる。ここから宮沢湖の入口までも楽な道だ。さらに一本道で高麗川、毛呂山、越生と行けるはずだが、越生の中心街にでるには一本左に道をとる必要がある。この左折点を間違えたため修正が一回入った。埼玉医大病院の先で左折するのが正解。道を憶えれば次回は楽なコースになるだろう。二時間とすこしで駅前に着く。・・人と待ち合わせがあるが、観光案内所に寄って津久根の薬師堂の行き方を尋ねた。しかしながら案内人は未知であり地図でさがしはじめる。こちらの地図と照合してどうやらこの辺りらしい。ほかに公民館の場所も尋ねて、ありがとう。薬師堂に向った。

最初に尋ねた人は、薬師堂はわからぬが津久根の地域の行き方を教えた。薬師瑠璃光如来堂というのが正式な名らしい。近くまでいってさらに尋ねると、もうすぐほんの一歩き。知ってる人はよく微笑んで教えてくれる。地元の人でも知らなかったりあまり訪ねる人もいないのか、参道はひっそりしかしよく整った坂道だ。山門のところまで自転車で行ける。

明治初年から十年余り伊那の行脚俳人不爭庵木甫がここに寓居した。当時のままではないだろうけど人が住むような庵室もある。なにか感動を覚える。

あらたふと青葉若葉の日の光り 芭蕉の句碑があって揮毫は三森幹雄。建立発起は新井角丈、仲むつ美。明治十三年。

この薬師堂、水鶏楼と呼び、木甫は明治十二年九月一日までここに寓居。明治十四年に仲むつ美追福句集『行く秋集』が出る。木甫は伊那から句を寄せたという。

・・体が分解しそうなほど自転車に乗った。今は家で倉木麻衣のアルバムonelifeを聴いている。この人はやはりすごいな。感性の最も充溢したメッセージに無駄がない。ライブのyoutubeなども聴いたが、平常の声は意外と太い。力強いseasonofloveの後で声が出なくなったという人もいるが、違う。歌を唄うに声を張り上げる必要はない。感情の真実が優先されるから時として声や歌そのものも壊れてしまってもよい。ライブは一回性の勝負。全力で唄うドラマツルギーは他者の共感を呼ぶ。自作の詩が俗語だけでもとてもうまいのは、ジェラシーを感じるほど。

幕末の志士渋沢平九郎の自刃にいたる講演でも、まさに倉木のonelifeが響いて来る。

902秋魚:2018/09/14(金) 19:21:53
(無題)
・・今日も自転車で霞川サイクリングロードから入間市街中心まで。さすがに猛暑は去ったか。コスモスが咲いていたが気に留めることもない。becaus’everything…倉木のonelifeのアルバムはあまりヒットしなかったようだが、悪くない。若い女性シンガーの歌はずっと聴きたくなかった。西野かなは倉木と共演して少しシンガーが嫌になったのではないか。多くの女性ボーカルは皆はやく引退したいと思うだろう。アムロなんかも大変な人気だが歌は一つも憶えてない。ここ二十年くらい若い女性の生き方をリードしたと評価される。比べて倉木はきわめて古いクラシックの情念。ネクラでさえある。と思うのは自分だけか。…dontleavemealone…この種の情念はよく韓流のドラマでみられた。日本ではどんな女性ボーカルも歌わない、歌えない。バックバンドが太っちょの黒人たちにサポートされてるから、台湾では見て嬉しい。台湾、中国でブレークしてるという、探偵コナンの影響もあるようだが、どうか。

https://www.youtube.com/watch?v=jGhP2nGLPQo

・・入間市中央図書館を訪ねた。浅見野井のレフェランスを求める。

903かぐやまの花こ:2018/09/30(日) 00:00:29
・・
・・
鬱憂の夜に


https://www.youtube.com/watch?v=I-TWJPg_BDQ

904秋魚:2018/09/30(日) 14:57:55
(無題)
・・都心横断自転車ツーリングを思考している。新宿副都心にでて浅草、隅田川周辺にまでは何度か廻ってる。浅草にはまたちょっと用事がある。墨田区江東区を突切って江戸川を越えたい。天候がどうもね。

touchme!というライブのyoutubeを見たがつくづく倉木はおもしろい女だ。笑える。ネットですこし調べた。京都は第二の故郷といってたが第一は千葉の船橋市。小学校中学校と東船橋の前原という町ですごした。津田沼松戸をつなぐ新京成線にも前原という駅がある。この線、わたしはよく知っている。高校は聖徳大学の付属女子高で江戸川を越えたかと思ったが、松戸市にある。北総線の北国分から歩いて十分とかいってなんとも不便な土地だ。国分は市川だから松戸との端境か。わたしの頃は北総線もなかったしここらど田舎でした。高校二年で京都の立命館宇治高に編入。青春期に東京都心をパスしたのはおもしろい。倉木のライブ舞台つくりはバックスタッフがよくまとまって盛り上げる。本人は女座長さながら。体力もある。

八兵衛も泪こぼしぬ虎が雨  井月

この八兵衛、実は船橋にゆかりのもの。成田詣の客を呼ぶ飯盛遊女というが。虎が雨というのは曽我十郎愛妾の虎御前の涙。句詠みの作者は幕末の頃船橋界隈にも足を運んだかと見る。

小林一茶は信濃から出て素堂の流れをくむ葛飾派に親炙した。葛飾といってまだ江戸川を越えないあたりだが、文人墨客は川を越えて真間の手児名の面影をさぐっただろう。

   廿日 曇 金谷に入

かつしかや真間の入江にさちあれと柳ながめてのせぬ舟人 一茶

かつしかの真間にて

早乙女に足あらはするうれしさよ   其角

   挽歌 詠勝鹿眞間娘子謌

勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

『万葉集』(巻九)  高橋虫麻呂


・・
このあたりわが故郷だが。

905秋魚:2018/10/08(月) 18:08:29
(無題)
・・千葉の船橋は市内を流れる海老川に小舟を繋いで橋をつくった。それで船橋という。これといって雅な話はない。上州佐野の舟橋は同じ様に舟を繋いで橋とした。こちらは古来歌にもよく詠まれる。

かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋[順徳院]
人知れぬ心をいそのかみつけやかけてもふりぬ佐野の舟橋[行意]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[定家]
東路の佐野の舟橋霧こめてよそにのみやは思ひわたらん[家衡]
尋ねても渡らぬ仲の月日さへかげ絶えはつる佐野の舟橋[俊成卿女]
東路にかけては過ぎし中河の瀬絶えもつらし佐野の舟橋[兵衛内侍]
思ふ人波の遠方尋ぬべき佐野の舟橋えやはうごかん[家隆]
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
なかなかにかくる心も苦しきに絶えなば絶えね佐野の舟橋[知家]
かけて猶いく世か恋ひんよそにのみ聞きこそわたれ佐野の舟橋[範宗]
絶えねただうきにつれなき身なりともさのみは待たじ佐野の舟橋[行能]
東路や佐野の舟橋いたづらに渡りしころも袖やぬれなん[康光]


・・佐野の舟橋は高崎の烏川にかかる。昔は碓氷川という。ここも奇跡的に訪ねた記憶がある。近くに定家神社、常世神社とある。

佐野の舟橋とはあまり関係ないが、

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

式子内親王のこの歌、宗祇が今はの際に見た夢、定家卿の歌とみえた。

・・
常世神社は鳥居の前まで出た記憶。

「鉢木」という謡の舞台だったというのは、後になって気付いた。

906秋魚:2018/10/09(火) 22:50:46
(無題)
・・多摩川沿いにある釜の淵公園まで散歩に出た。起伏の激しい土地で風光明媚、天気の良い日には外出の散歩をしないと罰が当たりそう。メタセコイヤの巨木と山査子の木がある。数日前に山査子の実をすこし拾った。小さなリンゴの様な実で食べられるものらしい。アクもありそうだが、種をとってカレースープに入れて煮てみた。美味い。酸味があってねっとりした濃密なジャムのよう。で、まだ採れるだろう。季節の終わりの様だけど幾つか拾えた。

ここのサンザシは中国の姉妹都市からの贈り物という。プルーストの「失われし時を求めて」にサンザシの花がでてくる。あまり記憶にないが予想したより小ぶりの花で香りもあったかどうか。さほど見栄えのするものではなかったような。サンザシには棘があるのか。キリストの荊冠はサンザシだと先日知った。

「バラ科サンザシ属の落葉低木。中国産で、日本にも古くに持ち込まれた。熟すると赤くなる果実は生薬、果実酒、ドライフルーツなどの用途があり、盆栽の素材としても好まれる。」

907かぐやまの花こ:2018/10/11(木) 00:53:18
・・
鳥羽にて、竹風夜涼といへることを、人々つかうまつりし時

窓ちかきいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢(新古257)

908秋魚:2018/10/21(日) 23:18:48
(無題)
・・多摩川べりのススキとセイタカアワダチソウが共演してる。年々歳々サイクリストが走る土堤の道。自転車とサイクリストは輝いているけど中身の人はどうだろう。自分の運転でせいいっぱいだからあまり人のことは考えたくない。久しぶりに自転車で走った。

J.S.Bach French Suites Andras Schiffの演奏で聴いている。

・・

909秋魚:2018/10/30(火) 19:55:52
(無題)
紅葉みるにはまだ早いだろう。サイクリストにはよい季節。奥多摩のもえぎの湯まで自転車を走らせた。青梅街道は新宿起点で青梅、奥多摩、丹波山、塩山、甲府まで。途中八王子から青梅に来る国道411と接続し、奥多摩、柳沢峠越えのR411と呼ばれる。この全線はすでに走破済み。・・最初に青梅−奥多摩間を走った時は大冒険だった。サイクリストもいるには居るが、ライダーが爆音をあげて走る。道が狭い上に大型のダンプもよく走る。川沿いを走ると谷が深く、絶壁の端をゆくようだった。・・何度か走った記憶によると全身で緊張するコースだ。ひさしぶりに走ってみたが、やはり緊張する。身体ボケを追い払うにはかっこうのサイクリング。
例によって、御岳までは楽な走りだ。御岳−川井間が長く道も狭い。お先にどうぞを何度かやりながら古里、鳩ノ巣あたりも緊張する。白丸ダム、数馬峡とこの辺りまで来るとさすが遠くに来た気になる。
家から奥多摩もえぎの湯まで90分で行く。平日なのに天気がよく人の出が多い。奥多摩駅周辺は氷川という。奥氷川神社というのをまず訪ねた。三本杉という神木があるはず。以前訪ねたが、再確認したい。OK 立派なものだ。
ここの温泉は、日本の最古層の地層から湧き出る湯という。川べりにあって、露天の前は樫の木が茂っている。泉質は透明でぬるっとしたもの。アルカリ泉でしょう。温泉は夜間に浸かるのが醍醐味だが、ほんとうに時間を消してしまえるから、サイクリストはそれは無理。汗を流して、レストランでとろろ蕎麦を食べた。

氷川という言葉だが、これはスサノオと関わる。大宮の氷川神社、所沢の中氷川神社、奥多摩の奥氷川神社。すべてスサノオの足跡とみる。時代は下って、万葉集に詠まれた志貴
皇子の歌。「石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (万葉)
岩そそぐたるひの上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかな (新古今)
藤原の歌人たちが、垂水を垂氷にしたのは、何故か?

いい湯につかって、早めに帰ることにした。数馬峡橋から川の景色もみたかったが、もうすこし紅葉がすすまなくては。鳩ノ巣に来て、そういえばここの渓谷は降りて眺めたことがない。よい機会だ。自転車を停めて、川べりまで歩いてみることにした。前回近くのカフェで散策の仕方を聞いている。新しく出来た山荘の庭から散策の道がある。

・・

「 大宮の氷川神社、所沢市の中氷川神社、そしてこの奥氷川神社は武蔵三氷川神社と呼ばれ、一直線に並んでいるらしい。」
「奥氷川神社さんへ参拝 武蔵一宮氷川神社さんと中氷川神社さんと奥氷川神社さんはレイライン上にあると言われています。」

wikipediaをはじめ様々このような記述があるが、これは間違い。一直線にはならない。

「 奥氷川神社は、日本武尊が東国平定の折に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したと伝えられます。その後牟邪志国(後の武蔵)最初の国造である出雲臣伊佐知直が多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見たて、ここへ祖神の氷川神を勧請したのではないかといい、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川神社へ、さらに大宮氷川神社へ移したのではないかとも推測されます。」
https://tesshow.jp/tama/wtama/shrine_oktama_okhikawa.html

この辺がもっともそれらしい。

910かぐやまの花こ:2018/10/31(水) 20:55:56
・・
吹く風が 紅葉の色をゆらりゆらり 赤く染めていく

・・
やはり、紅葉。
発句は丈高きなり。

・・

セイランの勿忘草 青蘭の勿忘草

高密度カラーを謳うのだから青蘭が正解らしい。conceptを採るなら晴嵐がおもしろい。

にしても、青蘭もむずかしい。

911秋魚:2018/11/08(木) 21:49:54
(無題)
・・
真間山弘法寺は紅葉で名高いとは知らなかった。ここの参道はよく歩いている。信濃の俳人一茶が師匠といっしょに紅葉狩で訪ねたなど、先日、知った。

夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉  立砂
紅葉ゝや爺ハへし折子ハひろふ 一茶
寛政十年十月十日ごろ、二人てこな・つぎ橋あたりを見巡りしときのこと也。
真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉

市川の真間川沿いの桜並木は幼少の頃より、最初に観た桜花の爛漫の印象が残っている。この川も上流に行けば鮒、タナゴ、クチボソなど釣りもできた。いつか台風のときにこの川も氾濫して田畑のあたり一面海のようになった。ずっと菅野の住宅地の方まで水が溢れた。何年前のことになるか。
幼年から青春期はずっとこのあたりを見て歩いた。戦後、永井荷風が弾き出されるように熱海から市川の菅野にやってきた。寄寓した菅野の住居は何度か移転をし、船橋に仕事場をもって執筆に励んだという。菅野にいた間は、京成電車を使ってよく浅草に出歩いていた。
この一年半ほど倉木麻衣の歌をよく聴く。Catchという歌で、それもアリだね♪という詩があるが、あれはまったく船橋弁。船橋、市川近辺に住めばよくわかる。倉木の歌の感性はまことに総武線の魂そのままだ。よくわかる。

本居宣長と日の神論争のあった上田秋成。秋成はほぼ東国は赴いたこと無かった様だが、雨月物語にある浅茅が宿の話は下総の葛飾、今の市川真間の土地が舞台となっている。
*「浅茅」は茅萱がまばらに生えている事、またそのような荒野をいう。
浅茅が原というのは、浅草寺のあたりにある浅茅が原の鬼婆を特にイメージするものらしい。こわい話がある。

武蔵には霞が関に一つ家の石の枕の野寺あるてふ (伝白河院)

「安達が原の鬼婆」とほぼ同じ創意の話でよく似た伝説は処を変えてあるようだ。

912秋魚:2018/11/13(火) 18:19:47
(無題)
・・秋の一大イベント紅葉狩り。名刀ではなく歴戦の自転車で江戸武蔵野縦断に出る。

吹く風が 紅葉の色をゆらりゆらり 赤く染めていく

・・
やはり、紅葉。
発句は丈高きなり。大将の位なり。

紅葉はうるわしの美女(鬼女)のこと。

913山田:2018/12/07(金) 22:13:00
・・
禅定院   練馬区石神井5- キリシタン灯篭
智福寺   練馬区上石神井4-??智福寺 田町六丁目
蓮華寺  中野区大和町4-
太宗寺   新宿2-  キリシタン灯篭
深光寺  文京区小日向4-  キリシタン灯篭
切支丹屋敷跡 文京区小日向1- イタリア宣教師シドッティ1714没
吉原の遊女朝妻もこの頃か?

カトリック浅草教会 台東区浅草橋5-
カトリック高輪教会 港区高輪4-
光福寺  港区高輪3- キリシタン灯篭
高山稲荷神社  港区高輪4- キリシタン灯篭

岩松无心 風来吟
錦上鋪花 又一重

承教寺 港区高輪2-  英一蝶の墓  朝妻舟

・・
ゆうれい地蔵というのもあるらしい。

914秋魚:2018/12/08(土) 23:30:45
(無題)
・・天気がよいので歩行の散策にでた。枝垂れ桜の梅岩寺から裏手の山道で青梅丘陵ハイキングの道にあがる。遠目には丘陵の紅葉はいまが盛りだ。こんないい日に山歩きをしないなど罰が当たる。足腰が弱っているのがわかる。梅岩寺までも起伏が多い道だ。季節はずれで人はいない。建部凉岱の石碑がある。

  きえたものなら
 あれのかな
知足院建部凉岱居士
 山既に
?? 水おもしろし
 ?? 遅ざくら

七年忌。安永九年(1780)門人の根岸凉宇たちによって建立。山形の語並びといい、味わいのある句碑とみた。建部凉岱は俳号、小説家、国学者、絵師の建部綾足で知られる。
青梅在住の一番弟子根岸凉宇は、関東で一番最初に二条家から「花の下」の称号を受けた。
前書きの「きえたものなら あれのかな」に注目。法号を挿んで「山既に 水おもしろし 遅ざくら」と来る。それは青梅のこととすれば、「あれの」は江戸、武蔵野になろう。「きえたものなら」というから、もっと無常な感慨をこめている。

915かぐやまの花こ:2018/12/24(月) 00:50:16
・・
由誓 安政6年没 71歳 浅草蔵前の札差夏目成美の店員。

夏目成美
[1749〜1817]江戸後期の俳人。江戸の人。名は包嘉。通称、井筒屋八郎右衛門。別号、随斎など。浅草蔵前の札差(ふださし)。乙二(おつに)・大江丸らと交わり、小林一茶の後援者でもあった。句集「成美家集」、著「随斎諧話」など。


2018/09/02
 俳人・小林一茶が江戸の金融業者「井筒屋」の番頭・豊島久蔵に宛てた手紙5通が発見された。
 浮世をはかなんだ「行末(ゆくすえ)はうきを見ん見ん見ん見んと世に秋せミの鳴きになく哉(かな)」との俳諧歌も新たに見つかり、10月20〜22日に一茶記念館(長野県信濃町)で開く俳文学会の全国大会で発表するという。[信濃毎日新聞]

916山田:2019/01/08(火) 21:37:36
やはりな。
・・
宇多田は愛らしい笑顔になった。西野は活動停止。笑顔はいい。

つくも神まで入るのはちょいむずかしい。

917かぐやまの花こ:2019/01/27(日) 21:47:06
・・
・・
最前線

https://www.youtube.com/watch?v=skp6gD17mSQ

918かぐやまの花こ:2019/03/05(火) 23:23:41
・・
・・
花のふるひは

https://www.youtube.com/watch?v=Hj1mfq7vhz0

919かぐやまの花こ:2020/01/28(火) 00:38:29
さくら さくら

Les sanglots longs
Des violons
De l’automne
Blessent mon cœur
D’une langueur
Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure ;

Et je m’en vais
Au vent mauvais
Qui m’emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.

……
https://www.youtube.com/watch?v=cBkmh6Wr38c


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