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短詩人/Hyperion
779
:
秋魚
:2017/05/02(火) 21:38:22
(無題)
・・泉岳寺。亡くなった稲葉真弓は上京以来国分寺の恋ヶ窪にながく住んでいた。武蔵野のハケの様子など地誌には敏感でそれでいて詩のモダニズムの流れもよく見ていた。もういいやといって北品川のマンションに移っていった頃まで詩の話をしていた覚えがある。品川に移ってさっそく近辺の散策にでたエッセイを読んだことがある。・・その中で海に近い風情を気に入っていたようで起伏のある土地も歩いて楽しんだ。・・泉岳寺にもばったり。あの忠臣蔵の赤穂浪士たちの墓がそのままあって妙に感動していた。何が感動かなどはまったく説いてはいない。
・・自分も先日港区芝、品川を訪ねる用があり、三田済海寺、亀石古墳など、その後品川海晏寺に行こうとして坂を下ったら、泉岳寺に出た。
・・荻生徂徠と赤穂浪士については、落語にもある。赤穂浪士46人の切腹については儒学者の意見が求められ、中で荻生徂徠の切腹進言が将軍に採用されたという。赤穂浪士の切腹はほぼ徂徠の裁可というのが定説だ。
「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」
「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」
・・長岡藩では、藩校崇徳館で古文辞学が教えられていたが、荻生徂徠の弟子太宰春台は信州飯田の人。赤穂浪士の討入りには、さらに過激な論を述べている。
「春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという。」
・・私が訪ねた時は、やはり変な人気があるのか、人の訪問が絶えない。外人も神妙な顔つきで来ている。耳を澄ましたらドイツ語ぽい。浅草の有象無象の外人とは趣きも異なる。
如来寺。正式には、養玉院帰命山如来寺。今は品川でも西大井にあるが、明治41年までは芝高輪この泉岳寺のすぐ南隣にあった。五智如来の木像があったので、目立った景色であったという。寛永13年(1636)木食但唱上人によって開創された。これは帰命山如来寺。養玉院はまた別の歴史がある。
・・ところで、この但唱上人だが、品川の地元では現今調査されているものと大いに異なる出自をもつ。深く調べたわけではないので間違いもあるかもしれないが、おおよそ地元では深川あたりにいたキリシタンの大工だったという話だ。
「徳川三代将軍徳川家光が元和9年(1623年)10月31日キリスト教信者50人を処刑した(徳川実紀より)。処刑されたのは、エロニモ・デ・アンゼルス神父、シモン遠甫、ガルベス神父、原主水他。」
「刑場があった高輪大木戸(東海道にあった江戸内外を示す関所)の石垣の一部が残され、石碑が設置されている。」
・・この高輪の刑場というのが、如来寺の場所と重なるのではないか、あるいは、如来寺はキリシタンの埋葬地ではないかという話がある。但唱も処刑されるはずのキリシタンだったが、どういうわけか一人だけ刑を逃れた。隠れキリシタンが仏教に改宗をよそおい五智如来をつくった。
芝五智如来(江戸期の書籍「望海毎談」)
「如来寺、芝高縄手通り、五智の如来堂にして、世に芝の大仏と云ふ、此の仏建立せしは、天台宗にて、但昌といへる木食なり、依って、本堂迄取立て、東叡山の末寺なり、当所、江戸創業の始めは、刑罪の屠所なりしが、其後、鈴ヶ森の地へ引たり、但昌、其後、相州一石山に籠り、薬師如来を建立し、其所にて遷化す〜 」
キリシタン原主水の殉教というのは、目頭が熱くなる。但昌などは井月と同じで出自はああでもないこうでもない。作り話が多い。
1623年、品川海岸でのキリシタン50人処刑というのは、火刑。(家光)
1619年には、京都六条河原でキリシタン52名が処刑。火あぶり刑。(秀忠)
「キリシタンの刑死者は屍体が盗まれないように埋葬されていたらしい。 当然ながら札の辻での処刑者の後始末は品川宿小屋頭長九郎配下の者たちが行なっていた。
一説によると埋葬した場所は近くの高輪車町(たかなわくるまちょう)の小山ではなかったろうか。 著者不明とされる 『望海毎談(ぼうかいまいだん)』 によると寛永13年 (1636) 刑場とされる跡地には如来寺が創建されている。」
「品川溜の非人頭長九郎とその配下の非人たちが処刑された死体の処理を行ったと記しています。・・この品川溜は現在の京浜急行青物横丁駅前(現在の交番付近)にあったよう」
・・驚きですね。品川鮫洲にある海晏寺はこのすぐ近く。青物横丁駅前で、道を尋ねたこと憶えています。海晏寺には鳥酔、白雄のお墓があります。
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