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短詩人/Hyperion

742秋魚:2017/01/07(土) 02:21:19
(無題)
・・市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

初代 市川團十郎(しょだい いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。

初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。
・・「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。

・・昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。

・・彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。
                           (wikiより)

初代1675?1704 |二代目1704?35 |三代目1735?41 |四代目1754?70 |五代目1770?91 |六代目1791?99 |七代目1799?1832 |八代目1832?54 |九代目1874?1903 |贈十代目 |十一代目1962?65 |十二代目1985?2013 |

・・天保13年 (1842)、天保の改革の旋風が吹き荒れるなかで、海老蔵は突如江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十里四方処払いとなる。これによって江戸の舞台に立つことが不可能となった海老蔵は成田屋七左衛門と改名。一時成田山新勝寺に蟄居したのち、駿府へ移る。その後さらに幡谷重蔵と改名して大坂へ昇り、京・大津・桑名などで旅回り芝居の舞台に立った。追放の直接の原因は、奢侈禁止令に触れる派手な私生活と実物の甲冑を舞台で使用したというものだったが、要するに罪状は何でも良く、その目的は江戸歌舞伎の宗家として江戸っ子の誰もが認める「あの團十郎」を手厳しく処罰することにより、改革への腰の入れようを江戸の隅々にまで知らしめることにあった。


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