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短詩人/Hyperion
682
:
秋魚
:2016/07/02(土) 22:47:55
(無題)
・・芭蕉は斑鳩の法隆寺を訪ねたが、狼狽したのではないか。俳句の感興はおこらなかった。感興は絶大にあったが、発句というまとまりには到らなかった。「菊の香や奈良には古き仏たち」、なんとも平たい凡句とみえる。明治になって正岡子規が「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んだ。これが傑作というのを誰か正面から解き明かしたものがいるのか。子規のこの句はひどい駄作とみるのは、わたしだけか。芭蕉が発句にしくじった法隆寺。子規がかるがると法隆寺を詠んだから傑作というだけかもしれない。そういう近代の俳句の方法を提示した。それは近代においてだけ有効な句作だ。
・・いまは多くの小中学生が法隆寺の句を詠んで競っているらしい。法隆寺の謎をめぐる多くの新説も華々しい。梅原猛『隠された十字架』など白眉といえる。・・芭蕉−子規の間に、法隆寺を句にしたものはいないのか?天明の俳人・加舎白雄の全集を借りてみた。国文社から上下立派なものが出ている。ほとんど借り手がいないのか、新本のまま枝折の使用もない。
・・法隆寺ではなく、聖徳太子の墓所と思われる叡福寺の古墳を訪ねた記事がある。
「くづれさせたまはぬよりも、此科長の里にかくをくつきをいとなみ、みくらゐに換て扶桑仏法の祖とあふがれさせ給ふ。帰寂のゝち空海上人報謝して数百の法界石を禁禦し非常をしづめたまひしと。それさへ千載におよびツゝすゞろにたのもしく蔓草のおのがじゝに這ワたりて日暮の地籟道心をおこさしむるぞ尊ふし。
築墻や梵字をめぐるなツのあかし
右斑鳩王御廟 」
・・白雄翁、ホッとする。
甲斐の黒駒
「・・太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。」
・・法隆寺以前の逸話だが、黒駒で富士を越えたあと馬を休めて下馬した伝説の地がある。甲州勝沼の万福寺だ。馬蹄石という石がモニュメントとして残っている。野ざらしの旅の帰路、芭蕉がここに寄ったのではないかというので、翁百回忌も営まれた。
駒づかや世にとゞろきの影高し 可都里
道は奥ある苔のしたゝり 作良
風かをる旅の餌ぶくろ紐ときて 白亭
赤松どのゝ京入の月 田鶴村
・・
・・太子は黒駒に乗って富士山を越え、次に信濃に廻ったとある。大雑把な話だがこれは信濃の何処に訪れたのか。長野にある善光寺には太子伝承があるが、善光寺の開基は皇極三年(644)といわれ、この善光寺に立ち寄ったわけではない。・・そうとして善光寺の太子伝承は興趣ふかい。
>・・奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているものがあります。その中には信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられてきました。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられています。封印されていますので、誰も読んだ人はいないはずでした。ところが、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou58/kai05806.html
・・善光寺如来と聖徳太子の往復書簡の存在など、前代未聞ではないか?古田史学会の古賀達也氏の年号による謎解きも興味深いが、何よりも善光寺開基の644年には太子はまだ生存していた証の書簡になる。太子の没年は一応622年という。
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