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短詩人/Hyperion

858秋魚:2018/03/05(月) 23:23:47
(無題)
「通りゃんせ」の川越だが、

1470年に太田道真のもと、心敬、宗祇らと「河越千句」の連歌会。

鈴木道胤という人物がいる。

「15世紀半ば、品川湊を拠点とする海上交易で財力を築いた豪商。品川宿の天妙國寺に七堂伽藍を建設した。」「鈴木道胤は紀伊国熊野三党の鈴木・榎本・宇井苗字の一つで、熊野の出身であろうといわれる。紀伊半島からの交易により武蔵品川馬場地(現南馬場周辺)に拠点を構え、品川湊を支配。」「・・1470年太田道潅の父道真が武蔵国河越城(埼玉県川越市)において、当代一流の連歌師を招いて連歌史にのこる大規模な会「河越千句」を興行したが。その時の会を鈴木道胤は実質運営し自らも詠っている。 」

・・川越を流れる入間川、荒川の下流が隅田川で、海にそそぐあたりが品川になる。川越と品川の結びつきというのも興味深い。この河越千句、猪苗代兼載も参加しているという。

うめそのに−くさきをなせる−にほひかな
にはしろたへの−ゆきのはるかせ
うくひすの−こゑはとやまの−かけさえて
のへにうつれる−みちのはるけさ
ならはすよ−いつくのつきそ−たひまくら
みやこいつれは−みしあきもなし

・・

*川越城は、扇谷上杉持朝(もちとも)が古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。

*三芳野神社(みよしのじんじゃ)は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。

・・みよしの神社は太田道真・道灌父子が城の敷地にとりこんだという。

祭神は素盞烏尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。 菅原道真・誉田別尊(ほんだわけのみこと)を配祀する。

*童歌「とおりゃんせ」は当社の参道が舞台といわれる。 当社は川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。 城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。

柳沢吉保

柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。

・・万治元年(1658年)12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。

・・寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する

延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である吉保も幕臣となる・・元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する・・禄高も1万2000石とされて大名に昇る。

・・元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。

元禄七年 松尾芭蕉、大坂で客死。


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