[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
レス数が900を超えています。1000を超えると投稿できなくなるよ。
短詩人/Hyperion
1
:
:2003/08/16(土) 12:50:20
(無題)
むらくもの屋根にみえたる菖蒲かな
こうこうと滝壷さむし蛍交う
宵闇の白い乳房よささめきぬ
編集済
870
:
秋魚
:2018/04/13(金) 20:11:14
(無題)
・・飯能上直竹にある富士浅間神社を訪ねた。・・先日の秩父輪行で帰路高麗の駅でちょっとしたトラブル。自転車の組立で後輪ブレーキのワイヤーが手元ハンドルから外れてしまった。タイコと呼ばれる掛け金が外れている。何のことはないまた元に戻せばよいだけと多寡をくくったのが失敗。あれこれやったがどうしても引っ掛からない。ワイヤーが切れた訳でなくタイコが外れただけだから気を落ち着けて何度もトライしたが、Vブレーキのタイコ部分はよく見てなかった。うまくいかない。・・自力修理はあきらめて駅員さんに自転車屋さんは無いか尋ねたが、もとよりこんな高麗の片田舎であるわけがない。仕方なく駅の通行人のそれらしきに自転車は詳しくないかヘルプの声かけになった。溺れる者はワラをも掴む感じであったけど、二人目くらいの人が詳しくないけど助力に来てくれた。涙。・・ああでもないこうでもないもうあきらめかけた時、どういうわけかカチッとかかり復旧か?これは完全ではないという。・・しかしこれで何とか誤魔化して帰宅するしかあるまい。涙の感謝でお礼を言って、日も落ちかかっている帰路に着いた。で、この日は無事帰宅することが出来たのだ。アドレナリン(?)が出るほど緊張して、助けてくれた人に「おじさんありがとう」などいってしまったが、こちらがおじさんであった様で失礼千万限りなし。
・・当分自転車は乗らずに居て、今度はママチャリの後輪タイヤがパンクの様。空気が減っている。バルブの不良だろうと思ったが外してもまだ使える。あきらめて本格パンク修理にかかる。んで、これは去年何度もやってたので、経験を生かし、まったく完璧に修理した。オシャカのパソコンを復活させたくらいの感動、とはいえブレーキワイヤのタイコ掛けはまだ自信がない。・・それで今日はひさしぶりに飯能にポタリング。
・・小曽木街道岩蔵温泉郷から飯能南高麗に向う道。岩井堂からの道を横切って山王峠に向う。通いなれた道だが、峠にあがる手前は上直竹、近くにゴルフ場もあるらしい。左折して山道の懐に富士浅間神社がある。なぜこんなところに?神社ではあるが、木花開耶姫命、天照大神、加具土神、倉稲魂命、天之御中主大神、大山祇神、崇徳天皇など祀るほかに、倶利伽羅不動明王をも祀っている。神仏混交はよいとしても、崇徳天皇がここにというのは不思議。ここもある種のパワースポット。
富士浅間神社 N35度50分38秒 E139度15分11秒
伊那にある六道の堤 N35度50分39秒 E138度01分37秒
東西線は岩井堂よりぐっと近くなる。
871
:
秋魚
:2018/04/14(土) 17:06:13
(無題)
・・この神社の奥の院にタブノキの大樹がある。これを見るためには裏山をもう十分ほど登らなければならない。昨今奥多摩飯能にも熊が出没し注意の看板がでてる。歩道の段があっても落ち葉で埋もれていて足を滑らせそう。当然のように無人で樹間が透いて見える。風音で熊が出たのではないかとひやりとする。
このタブノキの詩をきっと読んだ記憶がある。
872
:
かぐやまの花こ
:2018/04/17(火) 21:18:50
・・
この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。
「この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も2名死亡した。」
延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍二殿上一、各議二請雨之事一、午三刻従二愛宕山上一黒雲起、急有二陰沢一、俄而雷声大鳴、堕二清涼殿坤第一柱上一、有二霹靂神火一、侍二殿上一之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫、衣焼胸裂夭亡(年六十四)又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世、顔焼而臥、又登二紫宸殿一者、右兵衛佐美努忠包、髪焼死亡、紀蔭連、腹燔悶乱、安曇宗仁膝焼而臥?? 『日本紀略』
・・
北野天満宮
京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
北緯35度01分52秒 東経135度44分06秒
紅梅殿の、少し南・豊国社前に
●連歌所の井戸 が、ある。
立札の説明板によると・・
文道太祖・風月本主と仰がれる天満宮には
連歌会所があり、宗砌・宗祇をはじめ代々
その会所奉行をつとめ、室町より江戸にかけては
盛んに連歌会が行われ、毎月18日には月次会が
興業せられた。
また、2月25日の御忌日、6月9日の宮渡祭日、
8月4日の例祭日には年中恒例連歌が興業せられた。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、
当宮の法楽は「聖廟法楽」と称し毎月25日に
催され、朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれて
いた。
・・・・天満宮と連歌の関係は室町時代にさかのぼる。
・・北野天満宮の法楽は「聖廟法楽」と称し
禁中にて和歌連歌の会が催され、さらに毎月25日に
連歌が催され、連歌の席に天神像がかけられる
ようになった。
足利義満は明徳2年(1391)、北野一万句興業をなし、
永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、
豊臣秀頼も十万句の連歌会を行っている。
連歌会所は連歌堂ともいわれ、永享のころから
会所奉行が置かれ 高山宗砌がこれに当たり、
宗匠の号を許され、
「神に人むすび よるべの しみづかな」と
詠んでいる。
・・ついで長享2年(1488)には宗祇(*そうぎ・
室町時代の連歌師)が足利義尚より
奉行に命ぜられ、文明8年(1476)、猪苗代 兼載
(*いなわしろ けんさい・戦国時代の連歌師)も
北野会所 別当に補せられ、いづれも宗匠であった。
そのご 一社中からは梅林坊 能順が最初になった。
また連歌は北野学堂でも行われ、神、歌、儒を
研学したが、中で、連歌道を第一とした。
・・一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、
「私の魂を祭るべき地には一夜にして
千本の松を生じさせる」という道真公のお告げに
よって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。
境内に多い松の樹々は、この一夜千松の名残りと
される。
・・この一夜松については、前参議 菅原為長【1】
(古人13世の孫)は「寄松述懐」と題して
「一夜松 千代の末葉の老木まで
木 たかくなりぬ 年も位も」と詠み、
後水尾院の御製にも
「ただ願ふ 北野の宮の一夜松
二つの道の為かは」と歌われ、
薩天鋳の詩に、「千里飛梅 一夜松」とあり、
歌人 有賀長千鄰(ながちか)も、
「松延齢友」の歌に、
「ひとよとの 名の生ぬれど 北野なる
松をぞ千代の 友垣にせむ」と、
数限りなく詩に歌に、
873
:
かぐやまの花こ
:2018/04/20(金) 23:43:20
・・
上島 鬼貫 万治4年4月4日(1661年5月2日) - 元文3年8月2日(1738年9月15日)
鬼貫五十回忌 1787年
骸骨の上を粧て花見哉 鬼貫
青梅はその骸骨のみのり哉 机月
1789年 フランス革命
1790年 中原章 没
・・林曹(梅室門)花の本八世 1802-1861 伊丹の俳人を訪ねる 糠人、曲阜
梅通 花の本九世 1797-1864
・・
梅笠 1863年没(59歳)『時雨文庫』1843-1848
『霜花集』1849
874
:
かぐやまの花こ
:2018/04/21(土) 22:37:49
・・
芭蕉木像
?北枝が刻んだもの。
?許六が刻んだもの。
?其角の門弟湖十が所持し、のちに漁千、万和、岱年、梅笠に伝来したもの。
おもしろいのは、? 梅通筆「芭蕉翁肖像伝来書」付録。梅通筆「正風伝系」(嘉永5,1枚)
1852年。
天保十年頃 梅笠 春秋庵主継承 1839年
875
:
秋魚
:2018/04/22(日) 21:04:05
(無題)
・・今日は、二ツ塚峠を越えて日ノ出までポタリング。大久野のキリシタン石仏とその先平井にある鹿野大仏を目標とする。青梅から日ノ出に入る秋川街道ははじめ二度と走りたくないと思ったものだが、暗く長い坂道を一たび越えれば長閑な里の走りになるので我慢に慣れた。峠越えは下りになればとても快適。カヤクボというところで福生の永田橋からの街道とぶつかる。左折してしばらくいけば大久野の石仏、さらにその先町役場をすぎて塩沢の交差点まで走れば宝光寺があり裏山に大仏があるはず。・・で、今回はカヤクボをも少し直進し右折してつるつる温泉に向った。ここも何度か訪ねている。迷うところはない。街路樹のハナミズキが満開。平井川はほぼ涸れている。それでも奥にすすむにつれ水の流れがある。途中広場にサイクリストが大勢いる。あとで温泉に居たサイクリストに聞いてわかったが、この日昼前にロ−ドレーサーの競技があった。みな自慢の自転車で腕を競う。・・温泉も混むかと危ぶむが、ほどほど。ここの泉質はアルカリ泉で抜群。湯量が豊富で毎日源泉を入れ替えているという。・・温泉でちょっとおもしろいことがあったけど、どうもブログに書くのはどうか。自分だけの笑い種にして、かねての予定通りキリシタン石仏を探すことにした。カヤクボの交差点セブンイレブンがある。車から降りてきた人が「観音さまはどこですか?」など尋ねる。「え?」「大仏ですよ」観音はいっぱいあるから、鹿野大仏ならわかる。でもこの大仏観音さまなんだろうか。・・観音ではなく釈迦如来ですよね。もっとも宝光寺の本尊は聖観音像らしいが。・・テレビ、新聞でとりあげられてさっそく人気になったようだ。
・・地図で見たキリシタン像は大久野の羽生人形店の自家の墓地にある。この人形店をめざした。ここらあたりというので近所の人に尋ねた。ちょっとバックして左折という。ずいぶんと田舎道だが老舗のようだ。屋号は油屋という。民家の墓地なので、お店の人に許可してもらうことにした。運よく家の前にいらして、これこれしかじか云うと、名前と電話番号を書いてくださいとか、意外ときびしい。というか、いろいろ情報提供してくれてむこうも楽しそう。いつのものかわからないけれど、油屋という屋号はキリシタンと関係あるかもなど、意味深。また近辺にもキリシタンの噂がときどきでるそうだ。五日市の伊奈の石工たちも、キリシタンのものもいただろうというのが、わたしの推測。高遠から来たのなら、石工はキリシタンの可能性はある。この家の人もキリシタンか。・・道路を渡った山道を登りほんとに小暗い一画にかの石仏はあった。
何年か前に、これは結局キリシタンではないということになったそうだが、実見では、異趣の仏像。カクレキリシタンはひたすらキリシタンであること隠すものらしい。人形店の屋号油屋からしてただの仏像ではない。・・油屋熊八が大きく開いた別府や湯布院の温泉はキリシタンと縁が深い。湯水を浴びるのが洗礼と疑われ、湯布院などカクレキリシタンなど湯を控えて寂れた時期もあった。熊八はカクレることもないキリシタンであったという。
・・人なつこい仏像でこの場を去りがたくも有ったけど、手をあわせ一礼してそっとアーメンと称えた。いや不思議な仏像です。
次に、平井にある鹿野大仏。永田橋からの街道にもどりひたすら東へ進む。圏道高速まではいかずこの辺いつか妙見宮を訪ねたことがある。町役場を過ぎたあたりで人に尋ねる。もう信号ふたつ塩沢の交差点で左折してすぐとのこと。・・宝光寺。休日でやはり物見遊山の客がよく見える。ここの秋川霊園はおおきなものだ。ここの付属の大仏か。車とバイクには駐車料がいるが、自転車は駐輪可、拝観料はなし。裏山の参道はけっこう長い。人も多い。
876
:
かぐやまの花こ
:2018/04/27(金) 12:13:44
・・
天保十四年
鳳朗 花の本
芭蕉 花の本大明神(百五十回忌) 正風宗師(百回忌)
877
:
秋魚
:2018/04/28(土) 20:38:38
(無題)
・・ブレーキワイヤーのタイコの仕組みが半分わかった。Vブレーキを解除しないでタイコの取り外しを試みた。先にワイヤーをスリットに合わせてアジャスタボルトから外しアームを緩めてタイコを外す。ワイヤー外しのスリットがあるなんて知らなかった。取り外しに成功したあと、手続に自信なく、すぐタイコの取り付けにかかった。およそ逆の手順でやればよい。・・たぶん半分の理解。いざとなれば今度は自力で復旧できる。この春再度甲州へ輪行の準備にかかる。
・・先日のR299、あのコースをロードバイクで走る人もいるようだ。秩父から群馬上野村十石峠を越えて、長野は八ヶ岳の麦草峠を越え、メルヘン街道を茅野市までくだる。もう十年若かったらチャレンジしたかもしれない。青梅街道の柳沢峠越えが自分のサイクリングのピークと思える。
甲斐大和から今度は勝沼ぶどうの丘天空の湯へ。塩山は中萩原の慈雲寺、前回通過しただけの向嶽寺。塩の山。ただしこの山何も無いという。・・笛吹にある山梨県立博物館には、ぜひ閲覧したいものがある。
878
:
かぐやまの花こ
:2018/04/30(月) 01:09:01
・・
「花が散るのは御霊の吹き荒れ」(折口信夫)
枝垂れ桜の下には、冥界がある。
879
:
かぐやまの花こ
:2018/04/30(月) 19:02:42
・・
盤走珠、珠走盤。
偏中正、正中偏。
羚羊掛角無蹤跡、
獵狗遶林空踧蹈。
・・
偏中有正正中偏、
流落人間千百年。
幾度欲歸歸未得、
門前依舊草芊芊。
880
:
秋魚
:2018/05/04(金) 20:36:30
(無題)
・・青梅大祭。名にし負う春の大祭。飯能の友人が訪ねて地元の祭りに遊びにみえた。大柳町の知人はずっと長く青梅在でいろいろ招かれて話題が広がった。祭典の前に青梅の美術館にも寄ってみたが、夏目政利没後50年。回顧展というこの作家実はよく知らない。東京美大を出て将来を嘱望されていたけれど、ちょっとしたスキャンダルで画壇の日の目から外れてしまった。高村千恵子が下宿やに訪れたのをきっかけに画業を再開したという。水墨画のような絵巻もあって本格的日本画家かという反面、晩年の自画像群は目を見張るものがある。身寄りがどんどん逝去して表現対象が自己だけにふりむけられるようになる。でこれは鏡を見ながら画いたのかもしれない。ある種写実的なもの。急ぎ足でさっと流し目で歩いたけれど、一人の画家の生涯がよくわかる。個人が最後に辿り着く写実の精神が重苦しいようでもあり、それゆえ観るものは自己の生死を凝視すべく内省をせまられる。一瞬外に出て今日は友人たちと祭りを楽しむ方へ歩いた。
facebookの話が出て、スマホ片手にもうこれはやめられないという彼女は、今日は美人にみえた。青梅の知人は近年重い病を三つして見た目は顔色もよい。facebookはごめんだというのは、自分と同じ。
夕方から山車が繰り出して人混みも思った以上。仲間が逸れてもスマホで位置確認をくりかえす。聞いてはいたが、山車の競り合いとかともかくにぎやかというか自由に歩くことも出来ない。普段錆びれた駅前なのに。
881
:
かぐやまの花こ
:2018/05/06(日) 15:25:29
・・
青梅谷野 中原章ゆかり
真淨寺 N35度48分18.76 E139度17分18.14
常保寺 N35度47分17.64 E139度15分20.74
伊那市
高烏谷鉱泉 N35度47分15.85 E137度59分43.57
昭和26年開業
882
:
かぐやまの花こ
:2018/05/07(月) 19:20:52
・・
元 年 冬 十 月 , 〔 一 〕 五 星 聚 于 東 井
「 東 井 , 秦 之 分 野。 五 星 所 在 , 其 下 當 有 聖 人 以 義 取 天 下 。 占 見 天 文 志 。」
・・
真浄寺 中原章 浄月律師 日野資枝 日野資矩 (川村碩布)
しぐれ桜碑 芭蕉翁霊塚
883
:
かぐやまの花こ
:2018/05/10(木) 18:55:44
・・
1793年
宮澤安通 伊奈村岩走神社宮司
京洛 光格天皇の書の師により、正一位岩走神社を受ける。
安通は小林天渕の弟。
884
:
秋魚
:2018/05/13(日) 00:35:25
(無題)
・・甲州塩山笛吹探索を試みた。一年ぶりになるがほぼ同じコース。自転車はブレーキ調整のほかは注油など微調整のみ。タイヤの空気圧に注意した。青梅高尾間が意外と長いのが気になった。道幅せまく危ない所もいくつかある。中央線を使う輪行はこのルートしかない。90分の予定が100分ほど。高尾の駅のいつも自転車分解に使う場所が他のハイキング仲間の集合で、隣りの道路わきにチェンジ。一年経つと世相も何も様変わりするのがわかる。・・一月前の秩父輪行のトラブルのおかげで今回は輪行もスムーズに行く。甲斐大和まで順調にきた。ここから天目山に寄らず一路勝沼ぶどうの丘に向う。R20号という笹子のトンネルを抜けてここから甲府盆地に入るサイクリストは快適そのものというが、車もそこそこのスピードで気の抜けない道だ。ただし眺望はひらけて遠くの雪のある南アルプスの山並みはみえる。幕末に新撰組が戦った柏尾のあたりを過ぎてここらはもうブドウ園がたくさん。ブドウの丘の頂上に天空の湯という温泉がある。ここまでの道がよくわからない。
・・道の分岐点で上行寺の前に出た。「上行寺には日蓮聖人投宿之地碑があり、この地にも日蓮が足を運んだ形跡があります。そもそも上行寺は日蓮宗の寺で日蓮そのものが法華経に登場する四菩薩の筆頭、上行菩薩の再来となぞらえたことに始まります。」
昼間の街道で通行人はほぼいない。時折畑仕事の人をみかけるがそれもなし。近くに消防署がある。ここで道を尋ねた。「ぶどうの丘の道は?」外に出て指差し「あれがぶどうの丘です」、一面ぶどう畑の斜面でちょっとした小山だ。「あの頂上が天空の湯です」行き着く道はいくつかある。迷路のようだがラビリンスか。どういっても坂は登る。一番わかりやすい道でも急坂で自転車は引いて歩く。まだかよと顎が出そうになるがこれしきはどうということもない。そうこうして頂上付近に出た。
噂には聞いていた。季節はずれで訪問客は少なめ。車でならどうということもない。徒歩と自転車はきついでしょう。ぶどう狩のシーズンならごった返し必定。山の上の温泉というのはめずらしいかも。景色がよくて長くいると湯あたりしそう。ミストサウナがある。ミストを浴びると時雨を浴びたようで旅に出た気になる。甲州に来たらリピートしたい温泉だ。天気がよいのに冷たい風がサーッと来る。この風、このあと塩山の中萩原慈雲寺を訪ねてはじめて意味がわかった。
このぶどうの丘で働いてる人たち、あまりに景色がよいので人生きっと耐えられなくなるだろうな。余計な感想だが、このあと樋口一葉の親たちの故郷慈雲寺へ向ってさらに土地の不思議を想った。
ここから塩山の駅に一度出る。ぶどう畑の斜面を下って方角を便りに自転車を走らせる。何度か道を尋ねながら、塩の山の見えるところまで来た。この山も魅かれるものがある。
「 酒折(さかをり)の宮、山梨の岡、鹽山、裂石(さけいし)、さし手の名も都人(こゝびと)の耳に聞きなれぬは、小佛(こぼとけ)さゝ子(ご)の難處を越して猿橋のながれに眩(めくる)めき、鶴瀬(つるせ)、駒飼(こまかひ)見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京(こゝ)にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦(たいか)高樓、躑躅(つゝじ)が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車(くるま)に一晝夜をゆられて、いざ惠林寺(ゑりんじ)の櫻見にといふ人はあるまじ・・」
「我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて・・」
一葉は24歳で没年。「たけくらべ」は早くに読んだが感情の記憶がいまでも新鮮に残る。近代女流の鏡ともいえる無駄のない文学を生きた。大藤村の南面の里は桃とか葡萄とか花もいろいろのどかな生活を営めそう。だんだらの坂を下って塩山の街に出ても特におもしろいものでもない。引き返すのが一苦労なだけ。これなら余ほど汽車で東京に出た方がよい。生れた土地で一生過すというのはおよそ耐えられないことだ。両親が駈落ちのように上京したという。
慈雲寺は、なにか目頭が熱くなる。
885
:
秋魚
:2018/05/14(月) 10:02:26
(無題)
・・一葉の道を下って塩の山の麓のほうへ。塩山温泉街がある。ここから塩の山に登れるということだが、自転車は無理。そのまま南麓の向嶽寺へ向う。慈雲寺は臨済宗妙心寺派で恵林寺と同じ。向嶽寺派というのは、ここが本山で塩の山の名称も開山の禅師による。四方の山といったそうだがいつしか四方に塩の字をあて塩の山、この地は塩山となった。向嶽というのは、富嶽に対する地勢からの名付けという。なるほど参道口から富士の頭が見えている。
非公開寺院というので敷地内を散歩するのみ。塩の山が異様で訪ねる人もほぼいない。松の木の捩れたもの、池も清澄で全体が沈黙のもののよう。
「志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」
古今集に詠まれていてもうひとつの「さし出の磯」と対になる。開山は抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、武蔵国横山(八王子)の出という。1378年頃というから古今集の歌が古いか。向嶽寺は塩山の顔。
・・塩山から笛吹石和に向う道。もう四度目になるか。今回は駅の交番で仕入れた新情報。笛吹川差出磯のある万力公園までなんとか出る。そこから雁坂道をひたすら甲府方面へ向うのでなく笛吹川に沿ったサイクリングロードがあるという。これは初耳。石和まで行けるという。
差出磯。前回は消化不良。芭蕉の句碑があるはずだが見つけられなかった。もう一度チャレンジ。塩山駅前の道をどこまでも進むと八幡橋にでる。笛吹川を渡って雁坂道を走ればほどなく亀甲橋のある万力公園の横にでる。丘の上にある大嶽神社に寄ったのが失敗。ここは見晴らしがよいけれど、芭蕉の句碑はない。公園にある市立図書館で尋ねた。係員がいろいろ調べて神社の下の方にあるのだと。それにしても芭蕉の句碑の存在もしらずに文化の管理とは。小言をいってこの日はあきらめた。公園から笛吹川に沿ったサイクリングロードを探した。
886
:
秋魚
:2018/05/16(水) 20:48:24
(無題)
闇の夜や巣をまとはして啼千鳥
県立博物館からの帰路、半ば執念で差出の磯に寄った。今度は大嶽神社の社主に尋ねてこの丘の上ではない。亀甲橋の袂にいってみなさい。坂を下りて橋の入口に廻ると、たしかに差出の磯の碑がある。ここが景勝の地だとはどうも落ち着かない。誰に聞いても最初にここに訪ねなさいとはいわない。芭蕉の句碑はすこし奥まったところに見えた。
*山梨市八景 差出の磯とちどり
平安時代の勅撰和歌集『古今集』の賀の部に「塩の山差出(さしで)の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」(詠み人知らず、塩の山に近い差出の磯に棲息するちどりが、大君の御代が八千年も長く長く続くように鳴いている)の一首があるが、天下の名勝・差出の磯は奈良・平安時代の昔から文人墨客が訪れ、その感懐を詩歌や絵画に残している。
いま亀甲橋から根津橋までの1.3キロがちどりの保護区になっているが、昭和51年「やまなし野鳥の会」の会員によって、コチドリ、イカルチドリ、シロチドリ、イソシギなどの棲息が確認され、これらを総称してちどりとしている。そして昭和55年「市の鳥」に指定された。
・・こういう解説文があったようだ。
芭蕉千鳥の句は、蝶夢木因「富士美行脚」に
「 天明8年(1788年)3月19日、差出の磯に翁塚建立のため俳諧興行。
十九日、落葉庵をいとまこふに、かのさし出の磯に翁の石碑を建んとて供養の俳諧に、各無是非ことに滞留して、一座の会を催す。
石文はこゝをせにせよ木瓜躑躅
と和尚の一句につゞけて、歌仙行。 」
とあり、寛政2年(1790年)10月、月朶園里塘・水石樓魚君建立。東江閑人筆。
・・蝶夢の計らいがあったようだ。
(猿蓑)
闇の夜や巣をまどはしてなく鵆 翁
越より飛騨へ行とて、籠のわたりのあやうきところどころ、
道もなき山路にさまよひて
鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ 凡兆
「夕さればさほの川原の川霧に友まどはせる千鳥なくなり」紀友則(拾遺集四)
・・
時雨ともならで夜更けし千鳥かな 1
釣棚は焚にも足らずなく鵆 2
酒さめて千鳥のまこときく夜かな 3
ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥 4
粥烹や手に取るやうに鳴く千鳥 5
夜も霞む流れの音や千鳥鳴く 6
矢がらさへ焚て鵆をきく夜かな 7
なく鵆帆にくるまつて寝夜哉 8
磯に群れ洲にむれ明けの千鳥かな 9
887
:
秋魚
:2018/05/18(金) 00:11:09
(無題)
野井−俳人、浅見氏、初め音好といい、紙葉軒と号し、のち逃水庵と号す。武蔵国入間郡中神村の人。逸淵の門人、明治九年三月二十二日没す。年六十三。
・・武蔵野の俳人野井を追った。入間の中神村というのは青梅の隣り金子の町。ここに入間市図書館の分館がある。・・霞川をサイクリングロードでどこまでも行く。八高線金子の駅から歩けば十分ほどだろう。このあたりも何度か来ている。ネットで探して近くに来たら人に尋ねる。これでほぼ完璧に到達できる。
野井について資料となる本はいくつかあった。「金子の人物誌」というのが一番の目玉。図書館では係の人がコンピュータで調べてくれる。とりあえず二冊。・・明治十一年に野井追悼句集「陽炎集」が出ている。この序文が小築春湖というのは、橘田春湖のことだろう。略伝があり、同門後学、三森三木雄とあるのは春秋庵を継いだ三森幹雄であるから、野井も白雄の春秋庵の流れとわかる。
・・地元の門弟が野井の句碑を建てた。明治四十一年。中神の村社三輪神社境内という。金子の図書館まで来たのでこの三輪神社も訪ねてみることにした。図書館に限らないが最近係りの者がこういう古い神社の場所など知らないことがおおい。それでもネットで調べてたいていはよい案内ができる。さほど近くは無いが霞川沿いの茶畑の中にある。ずっといって一二度道を尋ねた。土地の古老らしきはさすがよく知っている。あそこに見える鎮守の森だよ。雲竜図を見にいくのでしょう?絵があるのですか?何か古い絵があるらしい。
888
:
秋魚
:2018/05/21(月) 00:02:54
(無題)
・・恋ヶ窪の図書館までポタリングに出た。宝雪庵可尊の論稿があるという。自転車で行くにはやや微妙な距離だ。先日出かけた立川の国文学研究資料館よりさらに足を伸ばして国立まで行きここから北へすすめ国分寺の西恋ヶ窪へと走る。この予定だったが拝島の駅まで来て玉川上水に出てふと思った。恋ヶ窪の駅から五日市街道はすぐ近く玉川上水もさほど離れていない。上水に沿って往けば恋ヶ窪の図書館にも着くはず。はじめての道を行くのはやはり不安だが人に尋ねたりいろいろ発見がある。
五日市街道に沿ってゆくというのが最も賢明な選びだったかもしれない。上水に沿ってどこまでも進んだ。野火止の取水口もあって武蔵野らしい道がつづく。鷹の台に出たところで右折するのが正解だったがさらに進んだ。どうも行過ぎたようで人に尋ね右に迂回する形で東恋ヶ窪の名の有る付近に出た。この辺地理がわからない。で、なんとか恋ヶ窪の駅に出た。図書館は近い。
ここにしか収蔵されてないという武蔵野文化女子大学紀要を探してやはり正確な情報なのですこし手間取ったが見つけてもらった。資料探しの旅というのも面白い。いろいろ発見があるものだ。ネットだけの情報というのは浅いか。
889
:
かぐやまの花子
:2018/05/22(火) 00:13:13
・・
・・
狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。本社の荒魂をお祭しており、延喜式神名帳に記されている古社。古より「華鎮社」と称された。
890
:
秋魚
:2018/05/26(土) 20:14:20
(無題)
・・身近な川でいつも気になる霞川。きょうは霞川の水源のある根ケ布天寧寺にポタリング。霞川の水源さがしはこれまで二度やっている。東青梅からの成木街道をすこし進み、ここで霞川にぶつかる。川も分岐し、一方はそのまま西へ青梅丘陵の麓へもぐりこむ。もう一方は北へ向い昔三田氏の勝沼城のあった森の外れにある天寧寺へ。本殿の裏にある霞ケ池というのが、水源という。以前天寧寺を訪ねた時は、本殿の裏まで廻り込めず、庭の池と山辺の湧水をみて水源とみなした。・・きょうは思い立って真なる霞川水源を訪ねた。
・・かすみ川というありふれた名の川と思っていたが、この武蔵野のかすみ川は意外とメジャー。ネット検索でも一番にヒットする。青梅の霞丘陵に水源をもち加治丘陵を左に見ながら入間市にはいりやがて入間川に合流する。この合流地点にはカワセミが多くみられるという。川越にでた旅人がここにも氷川神社があるけれど所沢の中氷川に向わず直接奥多摩の奥氷川に向うとしたら、入間川沿いに歩き合流する霞川に沿って辿れば青梅の杣保に着く。ここから奥多摩へは一本道。・・霞川は古多摩川ともいう。およそ二万年前は多摩川の正統な流れだった。立川断層の活動があって青梅丘陵や武蔵野台地が隆起した。それで今の南東へ向う流れとなり霞川は多摩川から途切れてしまったという。
天寧寺は曹洞宗のお寺。青梅文晁と呼ばれた小林天渕はここに眠っている。以前訪れたこともあり寺の前までは容易に着いた。大層な阿吽像のある表門を抜けると池があって、はたと立ち止まる。がこれは霞ケ池ではない。運よくお寺の住職さんらしきが出歩いてくる。そこで霞川の水源を尋ねてみた。本堂の裏にあるというけれど、普通には見られない。見たいというと、僧堂を抜けて案内しましょう。これはこれはと、かすみの水源。
891
:
かぐやまの花こ
:2018/06/16(土) 23:29:48
・・
・・鬼の、人の骨を取り集め侍りて人に作りなすやうに、信ずべき人のおろおろ語り侍りしかば、そのままにして、広野に出でて、骨をあみ連ねて造りて侍れば、人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心もなく侍りき。
声はあれども、絃管の声のごとし。げにも、人は心がありてこそは、声はとにもかくにも使はるれ。ただ声の出づべきあひだのことばかりしたれば、吹き損じたる笛のごとし。おほかたはこれほどに侍る。不思議なり。
・・幻術というもの、
892
:
山田
:2018/06/22(金) 22:00:09
・・
・・梅林で名高い越生の町。以前この梅林と太田道真の草庵を訪ねたことがある。河越の城で心敬や宗祇と歌会をしてこちらの草庵にも訪ねている。隠居の庵だからけっこうな山奥だった。途中何度か探索をあきらめかかったが、宗祇心敬万里集九なんども来ているのに引き返す手はなかった。例によってスロープの多い道だった。・・この草庵への道と別にもっと山奥へ入ると越辺川の上流へゆく。黒山三滝という滝の名所があるという。
・・太田木甫という信州飯田の行脚俳人が明治のはじめにここを訪れている。木甫もほぼ無名で何でこんなところに?と思うばかりだが。
893
:
山田
:2018/06/23(土) 10:30:02
(無題)
尾張屋三平
尾張屋三平こと新井宗秀は、文化12年(1815)、津久根村(現越生町大字津久根)に生まれた。25歳の時、家業を弟に譲り江戸に出た。北辰一刀流の祖千葉周作の道場で剣の腕を磨き、一方、遊侠無頼の徒とも交わり、新門辰五郎と義兄弟の契りを結んだとも伝えられている。
新吉原の江戸町一丁目(現台東区千束)に「寒菊尾張」の暖簾をあげ、尾張屋三平を名乗った。慶応4年(1868)3月没。
江戸市中に故郷の黒山三滝を宣伝し、大平山の役行者像建立にも尽力したといわれる。
・・海老原新甫とは、懇意であろう。
894
:
山田
:2018/06/23(土) 23:33:48
・・
新門辰五郎
・・
新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)は、江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となる。
・・
武蔵国江戸下谷山崎町(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、弘化2年(1845年)に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。
・・
上野大慈院[?]別当・覚王院義観の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の芳は慶喜の妾となっている。元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して二条城の警備などを行う。慶応3年(1867年)の大政奉還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大馬印を取り戻し[1]東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺の警護に当たっている。上野戦争での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、駿府(現静岡市葵区)と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに駿府に住み駿河国清水の侠客である清水次郎長とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。明治になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。
・・徳川慶喜の用心棒がこの侠客とは恐れ入りますね。
895
:
秋魚
:2018/07/13(金) 23:07:42
(無題)
・・ふ〜暑。体の新陳代謝をすすめる為に自転車で黒山三滝に向った。越生の山の中で以前梅林までいったさらに奥になる。三滝というのは、男滝・女滝・天狗滝とある。自転車は空気圧の調整だけ。朝6時半に出発し9時半には着いてしまった。体力がだいぶ落ちているので目標を三滝にしぼりすぐ帰宅する予定だった。小曽木街道でも飯能寄居線でも通勤ラッシュ帯にぶつかると自転車もつらい。何ヶ所か混んだ走りになったが、安全にクリアした。
・・体がバラバラに分解しそうで、帰宅してからは冷水がとても美味だ。酒はまずい。三滝は到達しただけで気が晴れたが、梅園神社にあるらしき遠山弘湖の句碑をさがした。暑いのでほんの記憶のかけら。梅林近くに神社があったので立寄ったようなもの。この手の神社、碑は忠魂愛国のようなものよくある。弘湖の句碑はみつからない。あとで町立図書館に訪ねてわかったが、もうすこし奥を探せば「玉垣の外面は梅のはやしかな」という碑がみられたはず。この図書館も通りがかりにたまたま目に入ったので立寄ったものだが、館長さんというかたが、越生の俳諧についてはお詳しい方で、弘湖のことだけでなく春秋庵のこと他耳新しい情報もうかがうことができた。資料も紹介してくださったが、何分にも暑くて自転車の走りの後では頭脳の働きはすすまない。帰宅してから本をとりよせ思考することにした。・・川村碩布の句碑はどこかにないか?尋ねたらあるという。地図で場所を教えてもらい、最後にこれを探したのがこの日一番の興趣になった。
・・滝を見ただけで帰宅というのはやめになり、郵ぱーく越生というスパによって温泉でリフレッシュ。このスパ越生でも山際の奥にあり自転車で訪ねるのがちょうどいい具合だ。車の混雑もない。あんまりよい道で記憶もないが。
忘れないうちに黒山三滝の印象を。越生梅林の外れから越辺川に沿ったかは分らぬが川の上流の方へ山奥に入る。この越辺川(おっぺがわ)も興趣多し。次回に散策したい。・・顔振峠からくだって黒山に来たのは奥州に逃れた義経と、飯能戦争で敗れた渋沢平九郎。この平九郎は渋沢栄一の見立養子というが、黒山村自決は享年22歳。いやはや思いのほかの遭遇スポットに来た。
「水の声を聞く」最近の映画の舞台になったようだ。古来滝に打たれる修験道の聖地であったようで役小角の伝説もある。明治になって鉱泉が発見、旅館があって親しまれたが、ここも数年前から閉館されている。もったいない気もするが、観光行楽レジャーの質が変わってきている現今では仕方ないことか。多くの修験者のほか、野口雨情、田山花袋、西郷信綱の訪れがあったという。
尾張屋三平という越生の者が、江戸吉原にでて店を開き名を上げた。故郷の黒山三滝を褒め称え吉原から江戸市中の広まる名所となった。実際、男滝・女滝の前にある夫婦橋は夫婦和合の橋とあり、恋仲祈願の人たちが多く訪れたという。
滝廻りの散策は涼風この上なし。
・・温泉は、若者向けにキャンプ場も併設。プールもあり、この日は平日でお年寄りが多い。猛暑と自転車のライドで休憩できるならどこでもよい。そんな感じだ。
帰路、川村碩布の句碑を訪ねた。フロントで地図をみせ行き方を聞いた。とりあえず越生の駅までもどるのがよい。来た道は一本道かと思ったがいくつか岐路があり迷路にはまったか。要所で道を尋ねなんとか駅近まで。暑いので人通りなく、モータサイクルの店に立寄った。分解中のオートバイがあって声をかけると奥からご主人さんがあらわれた。こわそうな感じだが、句碑の場所は的確に教えてくれた。ありがとう。
で、いよいよ近くまで来た。たまたま外出してきた人にさらに句碑はないか尋ねた。すぐそこですよ。ポケモンがでるという。人が探してよく来るそうだ。あ、ポケモンGO!というやつですね。このゲームよく知らないけど、碩布の句碑までプログラムされてるなんて、驚き。こちらはまじめな句碑探し。
896
:
かぐやまの花こ
:2018/08/05(日) 20:40:30
・・
・・
https://www.youtube.com/watch?v=5Je7Doj6P6w
897
:
かぐやまの花こ
:2018/08/24(金) 21:00:56
・・
どんな長い夜も やがて朝が来る♪
・・娘が唄うと、ほんとに朝が来る。
リリックを写してなぞるだけで、憑依されるから不思議。
・・
898
:
秋魚
:2018/08/25(土) 19:27:12
(無題)
・・今一番おもしろいのは図書館。このところあちこちの図書館でレフェランスやっている。こちらの関心の軸がしっかりしてる限り、思はぬ発見気づきが多い。この日は隣町の飯能図書館を訪ねた。
例によって青梅坂から小曽木街道。そのまま行けば飯能にはいる。この青梅坂、自分が生きてるうちにエポックとなって語り継がれると嬉しいのだが、まず無理なようだ。途中にある岩蔵温泉もなんとなく寂れてきてる。頑張って欲しいのだが。
市立図書館に行くには、岩井堂方面ではなく反対の方向から坂道を越えて入る。郷土博物館や能仁寺の近くだ。ここも何度か来てる。図書館ははじめて。大きな公園があって一休み。
鉄腕アトムの銅像があった。
樺の木や栂の木もあって春は桜が咲き誇るだろう。
通りがかりの小学生か中学生に道を尋ねた。図書館ならほんの眼とハナの先。太陽光パネルのような建物ですよ。ありがとう。
夏休みでエアコンも効くから中高生あたり図書館を利用している。若い世代は近くで見るだけでノスタルジックになる。千と千尋の神隠しの後、千尋は大変な美少女になるだろう。図書館でもそんな美少女がぬっと現われてきたりする。
飯能戦争と幕末維新の飯能俳諧について、レフェランスを求めた。係の人は片言の情報たよりに、十冊ほどの本を探し出す。振武軍大将の渋沢成一郎は、ここを脱して吾野から秩父上州に逃れた。渋沢平九郎は顔振峠から越生黒山に出たのが天運だった。
振武軍や彰義隊の敗残兵は最初青梅に入る予定だったという。多摩川をさらに登り御嶽神社に布陣するというなんとも無謀な作戦だったが、これを青梅の有志がなんとかくい止めた。攻められても奥多摩の山の中に逃走経路を求めるつもりだったらしいが、地勢からして無理とあきらめ飯能に向った。それで飯能は焼け野原になったというのが上野戦争の末だ。
・・飯能戦争後の飯能俳諧については、一点。
「明治三年十月、飯能の田中楼で翠斎平臥庵友義の大祥忌(三回忌)追福の句会が開かれた。友義は飯能の小間物商で通称を小松屋平兵衛、稼業の傍ら風雅を志し、遠近に名を知られた宗匠であった。この句会の判者は、月の本為山・紙葉軒野井・春秋庵弘湖と養仁叟月雄・八巣謝徳であった。この時、全国から寄せられた句の数々は、浅見野井が編集し『野風集』と名づけて刊行された。」
この『野風集』は、未見。
899
:
秋魚
:2018/09/08(土) 00:23:51
(無題)
・・台風一過のあとで、野に出た。小曽木街道から成木、南高麗、山王峠を越えて名栗川に沿って飯能市街まで。坂がいくつかあるがこれしきで顎を出していてはいけない。飯能は過疎化しているがおもしろい町だ。この名栗川に沿った道は一度走った記憶がある。車の通行がそこそこあって走りよいものでもないが、川の景色は魅する。
・・小曽木街道から成木に向かう道で、道の端に栗がいくつも落ちていた。隣の畑の栗の木から毬ごと落ちて艶の有る実が落ちている。これって人通りがなくて誰も拾わないのだろう。いただくことにした。栗ご飯をつくる楽しみになる。
・・山王峠から正面に見える山はいつも気になる。秩父の武甲山と思うが。
900
:
秋魚
:2018/09/08(土) 20:19:53
(無題)
・・吾妻峡というのがある。以前天覧山の脇から見返り坂を登り多峯主山を歩いた。常盤御前が歩いたという。多峯主から名栗川の方に出る。川に沿って吾妻峡という景勝の地があるという。この日はここを何としても訪ねたい。バス停に吾妻峡入口とある。川の方へ降りていったが浄水場らしきがあるのみ。近所の娘さんに聞いてもわからないという。もどってさらに自転車のおばさんに聞く。もっと先ですよ。薬屋さんのあるあたりでまた尋ねなさい。さらに道を行き今度は畑仕事のおばさんに聞く。にこっとしてセブンイレブンで左折、川に降りてください。漸くめざす吾妻峡へ。
なぜ吾妻峡というのか。ヤマトタケが「アヅマハヤ」というたのはここではない。あまり深く考えたくない。ずっといくと木のベンチがあって一休み。
・・ドレミファ橋というので、飛石を伝って向う岸まで渡れる。なるほど渓流がみごと。夏場は涼しい風が吹く。岸辺に沿って遊歩道があるようだが、今日は川を渡って上下を眺めるだけ。
川上とこの川しもや月の友 翁
どこにいても月の友を想っている。
901
:
秋魚
:2018/09/10(月) 12:26:46
(無題)
「渋沢平九郎没後150周年 記念講演と説教節公演」
・・越生まで自転車で出かけた。天気もちょうどよく関東は晴れる。先日小曽木街道の外れで栗を拾った場所に寄ってみた。またパラパラと落ちている。すこし拾った。
飯能の二つの駅までは完璧に出られる。ここから宮沢湖の入口までも楽な道だ。さらに一本道で高麗川、毛呂山、越生と行けるはずだが、越生の中心街にでるには一本左に道をとる必要がある。この左折点を間違えたため修正が一回入った。埼玉医大病院の先で左折するのが正解。道を憶えれば次回は楽なコースになるだろう。二時間とすこしで駅前に着く。・・人と待ち合わせがあるが、観光案内所に寄って津久根の薬師堂の行き方を尋ねた。しかしながら案内人は未知であり地図でさがしはじめる。こちらの地図と照合してどうやらこの辺りらしい。ほかに公民館の場所も尋ねて、ありがとう。薬師堂に向った。
最初に尋ねた人は、薬師堂はわからぬが津久根の地域の行き方を教えた。薬師瑠璃光如来堂というのが正式な名らしい。近くまでいってさらに尋ねると、もうすぐほんの一歩き。知ってる人はよく微笑んで教えてくれる。地元の人でも知らなかったりあまり訪ねる人もいないのか、参道はひっそりしかしよく整った坂道だ。山門のところまで自転車で行ける。
明治初年から十年余り伊那の行脚俳人不爭庵木甫がここに寓居した。当時のままではないだろうけど人が住むような庵室もある。なにか感動を覚える。
あらたふと青葉若葉の日の光り 芭蕉の句碑があって揮毫は三森幹雄。建立発起は新井角丈、仲むつ美。明治十三年。
この薬師堂、水鶏楼と呼び、木甫は明治十二年九月一日までここに寓居。明治十四年に仲むつ美追福句集『行く秋集』が出る。木甫は伊那から句を寄せたという。
・・体が分解しそうなほど自転車に乗った。今は家で倉木麻衣のアルバムonelifeを聴いている。この人はやはりすごいな。感性の最も充溢したメッセージに無駄がない。ライブのyoutubeなども聴いたが、平常の声は意外と太い。力強いseasonofloveの後で声が出なくなったという人もいるが、違う。歌を唄うに声を張り上げる必要はない。感情の真実が優先されるから時として声や歌そのものも壊れてしまってもよい。ライブは一回性の勝負。全力で唄うドラマツルギーは他者の共感を呼ぶ。自作の詩が俗語だけでもとてもうまいのは、ジェラシーを感じるほど。
幕末の志士渋沢平九郎の自刃にいたる講演でも、まさに倉木のonelifeが響いて来る。
902
:
秋魚
:2018/09/14(金) 19:21:53
(無題)
・・今日も自転車で霞川サイクリングロードから入間市街中心まで。さすがに猛暑は去ったか。コスモスが咲いていたが気に留めることもない。becaus’everything…倉木のonelifeのアルバムはあまりヒットしなかったようだが、悪くない。若い女性シンガーの歌はずっと聴きたくなかった。西野かなは倉木と共演して少しシンガーが嫌になったのではないか。多くの女性ボーカルは皆はやく引退したいと思うだろう。アムロなんかも大変な人気だが歌は一つも憶えてない。ここ二十年くらい若い女性の生き方をリードしたと評価される。比べて倉木はきわめて古いクラシックの情念。ネクラでさえある。と思うのは自分だけか。…dontleavemealone…この種の情念はよく韓流のドラマでみられた。日本ではどんな女性ボーカルも歌わない、歌えない。バックバンドが太っちょの黒人たちにサポートされてるから、台湾では見て嬉しい。台湾、中国でブレークしてるという、探偵コナンの影響もあるようだが、どうか。
https://www.youtube.com/watch?v=jGhP2nGLPQo
・・入間市中央図書館を訪ねた。浅見野井のレフェランスを求める。
903
:
かぐやまの花こ
:2018/09/30(日) 00:00:29
・・
・・
鬱憂の夜に
https://www.youtube.com/watch?v=I-TWJPg_BDQ
904
:
秋魚
:2018/09/30(日) 14:57:55
(無題)
・・都心横断自転車ツーリングを思考している。新宿副都心にでて浅草、隅田川周辺にまでは何度か廻ってる。浅草にはまたちょっと用事がある。墨田区江東区を突切って江戸川を越えたい。天候がどうもね。
touchme!というライブのyoutubeを見たがつくづく倉木はおもしろい女だ。笑える。ネットですこし調べた。京都は第二の故郷といってたが第一は千葉の船橋市。小学校中学校と東船橋の前原という町ですごした。津田沼松戸をつなぐ新京成線にも前原という駅がある。この線、わたしはよく知っている。高校は聖徳大学の付属女子高で江戸川を越えたかと思ったが、松戸市にある。北総線の北国分から歩いて十分とかいってなんとも不便な土地だ。国分は市川だから松戸との端境か。わたしの頃は北総線もなかったしここらど田舎でした。高校二年で京都の立命館宇治高に編入。青春期に東京都心をパスしたのはおもしろい。倉木のライブ舞台つくりはバックスタッフがよくまとまって盛り上げる。本人は女座長さながら。体力もある。
八兵衛も泪こぼしぬ虎が雨 井月
この八兵衛、実は船橋にゆかりのもの。成田詣の客を呼ぶ飯盛遊女というが。虎が雨というのは曽我十郎愛妾の虎御前の涙。句詠みの作者は幕末の頃船橋界隈にも足を運んだかと見る。
小林一茶は信濃から出て素堂の流れをくむ葛飾派に親炙した。葛飾といってまだ江戸川を越えないあたりだが、文人墨客は川を越えて真間の手児名の面影をさぐっただろう。
廿日 曇 金谷に入
かつしかや真間の入江にさちあれと柳ながめてのせぬ舟人 一茶
かつしかの真間にて
早乙女に足あらはするうれしさよ 其角
挽歌 詠勝鹿眞間娘子謌
勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
『万葉集』(巻九) 高橋虫麻呂
・・
このあたりわが故郷だが。
905
:
秋魚
:2018/10/08(月) 18:08:29
(無題)
・・千葉の船橋は市内を流れる海老川に小舟を繋いで橋をつくった。それで船橋という。これといって雅な話はない。上州佐野の舟橋は同じ様に舟を繋いで橋とした。こちらは古来歌にもよく詠まれる。
かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋[順徳院]
人知れぬ心をいそのかみつけやかけてもふりぬ佐野の舟橋[行意]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[定家]
東路の佐野の舟橋霧こめてよそにのみやは思ひわたらん[家衡]
尋ねても渡らぬ仲の月日さへかげ絶えはつる佐野の舟橋[俊成卿女]
東路にかけては過ぎし中河の瀬絶えもつらし佐野の舟橋[兵衛内侍]
思ふ人波の遠方尋ぬべき佐野の舟橋えやはうごかん[家隆]
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
なかなかにかくる心も苦しきに絶えなば絶えね佐野の舟橋[知家]
かけて猶いく世か恋ひんよそにのみ聞きこそわたれ佐野の舟橋[範宗]
絶えねただうきにつれなき身なりともさのみは待たじ佐野の舟橋[行能]
東路や佐野の舟橋いたづらに渡りしころも袖やぬれなん[康光]
・・佐野の舟橋は高崎の烏川にかかる。昔は碓氷川という。ここも奇跡的に訪ねた記憶がある。近くに定家神社、常世神社とある。
佐野の舟橋とはあまり関係ないが、
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
式子内親王のこの歌、宗祇が今はの際に見た夢、定家卿の歌とみえた。
・・
常世神社は鳥居の前まで出た記憶。
「鉢木」という謡の舞台だったというのは、後になって気付いた。
906
:
秋魚
:2018/10/09(火) 22:50:46
(無題)
・・多摩川沿いにある釜の淵公園まで散歩に出た。起伏の激しい土地で風光明媚、天気の良い日には外出の散歩をしないと罰が当たりそう。メタセコイヤの巨木と山査子の木がある。数日前に山査子の実をすこし拾った。小さなリンゴの様な実で食べられるものらしい。アクもありそうだが、種をとってカレースープに入れて煮てみた。美味い。酸味があってねっとりした濃密なジャムのよう。で、まだ採れるだろう。季節の終わりの様だけど幾つか拾えた。
ここのサンザシは中国の姉妹都市からの贈り物という。プルーストの「失われし時を求めて」にサンザシの花がでてくる。あまり記憶にないが予想したより小ぶりの花で香りもあったかどうか。さほど見栄えのするものではなかったような。サンザシには棘があるのか。キリストの荊冠はサンザシだと先日知った。
「バラ科サンザシ属の落葉低木。中国産で、日本にも古くに持ち込まれた。熟すると赤くなる果実は生薬、果実酒、ドライフルーツなどの用途があり、盆栽の素材としても好まれる。」
907
:
かぐやまの花こ
:2018/10/11(木) 00:53:18
・・
鳥羽にて、竹風夜涼といへることを、人々つかうまつりし時
窓ちかきいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢(新古257)
908
:
秋魚
:2018/10/21(日) 23:18:48
(無題)
・・多摩川べりのススキとセイタカアワダチソウが共演してる。年々歳々サイクリストが走る土堤の道。自転車とサイクリストは輝いているけど中身の人はどうだろう。自分の運転でせいいっぱいだからあまり人のことは考えたくない。久しぶりに自転車で走った。
J.S.Bach French Suites Andras Schiffの演奏で聴いている。
・・
909
:
秋魚
:2018/10/30(火) 19:55:52
(無題)
紅葉みるにはまだ早いだろう。サイクリストにはよい季節。奥多摩のもえぎの湯まで自転車を走らせた。青梅街道は新宿起点で青梅、奥多摩、丹波山、塩山、甲府まで。途中八王子から青梅に来る国道411と接続し、奥多摩、柳沢峠越えのR411と呼ばれる。この全線はすでに走破済み。・・最初に青梅−奥多摩間を走った時は大冒険だった。サイクリストもいるには居るが、ライダーが爆音をあげて走る。道が狭い上に大型のダンプもよく走る。川沿いを走ると谷が深く、絶壁の端をゆくようだった。・・何度か走った記憶によると全身で緊張するコースだ。ひさしぶりに走ってみたが、やはり緊張する。身体ボケを追い払うにはかっこうのサイクリング。
例によって、御岳までは楽な走りだ。御岳−川井間が長く道も狭い。お先にどうぞを何度かやりながら古里、鳩ノ巣あたりも緊張する。白丸ダム、数馬峡とこの辺りまで来るとさすが遠くに来た気になる。
家から奥多摩もえぎの湯まで90分で行く。平日なのに天気がよく人の出が多い。奥多摩駅周辺は氷川という。奥氷川神社というのをまず訪ねた。三本杉という神木があるはず。以前訪ねたが、再確認したい。OK 立派なものだ。
ここの温泉は、日本の最古層の地層から湧き出る湯という。川べりにあって、露天の前は樫の木が茂っている。泉質は透明でぬるっとしたもの。アルカリ泉でしょう。温泉は夜間に浸かるのが醍醐味だが、ほんとうに時間を消してしまえるから、サイクリストはそれは無理。汗を流して、レストランでとろろ蕎麦を食べた。
氷川という言葉だが、これはスサノオと関わる。大宮の氷川神社、所沢の中氷川神社、奥多摩の奥氷川神社。すべてスサノオの足跡とみる。時代は下って、万葉集に詠まれた志貴
皇子の歌。「石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも (万葉)
岩そそぐたるひの上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかな (新古今)
藤原の歌人たちが、垂水を垂氷にしたのは、何故か?
いい湯につかって、早めに帰ることにした。数馬峡橋から川の景色もみたかったが、もうすこし紅葉がすすまなくては。鳩ノ巣に来て、そういえばここの渓谷は降りて眺めたことがない。よい機会だ。自転車を停めて、川べりまで歩いてみることにした。前回近くのカフェで散策の仕方を聞いている。新しく出来た山荘の庭から散策の道がある。
・・
「 大宮の氷川神社、所沢市の中氷川神社、そしてこの奥氷川神社は武蔵三氷川神社と呼ばれ、一直線に並んでいるらしい。」
「奥氷川神社さんへ参拝 武蔵一宮氷川神社さんと中氷川神社さんと奥氷川神社さんはレイライン上にあると言われています。」
wikipediaをはじめ様々このような記述があるが、これは間違い。一直線にはならない。
「 奥氷川神社は、日本武尊が東国平定の折に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したと伝えられます。その後牟邪志国(後の武蔵)最初の国造である出雲臣伊佐知直が多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見たて、ここへ祖神の氷川神を勧請したのではないかといい、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川神社へ、さらに大宮氷川神社へ移したのではないかとも推測されます。」
https://tesshow.jp/tama/wtama/shrine_oktama_okhikawa.html
この辺がもっともそれらしい。
910
:
かぐやまの花こ
:2018/10/31(水) 20:55:56
・・
吹く風が 紅葉の色をゆらりゆらり 赤く染めていく
・・
やはり、紅葉。
発句は丈高きなり。
・・
セイランの勿忘草 青蘭の勿忘草
高密度カラーを謳うのだから青蘭が正解らしい。conceptを採るなら晴嵐がおもしろい。
にしても、青蘭もむずかしい。
911
:
秋魚
:2018/11/08(木) 21:49:54
(無題)
・・
真間山弘法寺は紅葉で名高いとは知らなかった。ここの参道はよく歩いている。信濃の俳人一茶が師匠といっしょに紅葉狩で訪ねたなど、先日、知った。
夕暮の頭巾へ拾ふ紅葉哉 立砂
紅葉ゝや爺ハへし折子ハひろふ 一茶
寛政十年十月十日ごろ、二人てこな・つぎ橋あたりを見巡りしときのこと也。
真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉
市川の真間川沿いの桜並木は幼少の頃より、最初に観た桜花の爛漫の印象が残っている。この川も上流に行けば鮒、タナゴ、クチボソなど釣りもできた。いつか台風のときにこの川も氾濫して田畑のあたり一面海のようになった。ずっと菅野の住宅地の方まで水が溢れた。何年前のことになるか。
幼年から青春期はずっとこのあたりを見て歩いた。戦後、永井荷風が弾き出されるように熱海から市川の菅野にやってきた。寄寓した菅野の住居は何度か移転をし、船橋に仕事場をもって執筆に励んだという。菅野にいた間は、京成電車を使ってよく浅草に出歩いていた。
この一年半ほど倉木麻衣の歌をよく聴く。Catchという歌で、それもアリだね♪という詩があるが、あれはまったく船橋弁。船橋、市川近辺に住めばよくわかる。倉木の歌の感性はまことに総武線の魂そのままだ。よくわかる。
本居宣長と日の神論争のあった上田秋成。秋成はほぼ東国は赴いたこと無かった様だが、雨月物語にある浅茅が宿の話は下総の葛飾、今の市川真間の土地が舞台となっている。
*「浅茅」は茅萱がまばらに生えている事、またそのような荒野をいう。
浅茅が原というのは、浅草寺のあたりにある浅茅が原の鬼婆を特にイメージするものらしい。こわい話がある。
武蔵には霞が関に一つ家の石の枕の野寺あるてふ (伝白河院)
「安達が原の鬼婆」とほぼ同じ創意の話でよく似た伝説は処を変えてあるようだ。
912
:
秋魚
:2018/11/13(火) 18:19:47
(無題)
・・秋の一大イベント紅葉狩り。名刀ではなく歴戦の自転車で江戸武蔵野縦断に出る。
吹く風が 紅葉の色をゆらりゆらり 赤く染めていく
・・
やはり、紅葉。
発句は丈高きなり。大将の位なり。
紅葉はうるわしの美女(鬼女)のこと。
913
:
山田
:2018/12/07(金) 22:13:00
・・
禅定院 練馬区石神井5- キリシタン灯篭
智福寺 練馬区上石神井4-??智福寺 田町六丁目
蓮華寺 中野区大和町4-
太宗寺 新宿2- キリシタン灯篭
深光寺 文京区小日向4- キリシタン灯篭
切支丹屋敷跡 文京区小日向1- イタリア宣教師シドッティ1714没
吉原の遊女朝妻もこの頃か?
カトリック浅草教会 台東区浅草橋5-
カトリック高輪教会 港区高輪4-
光福寺 港区高輪3- キリシタン灯篭
高山稲荷神社 港区高輪4- キリシタン灯篭
岩松无心 風来吟
錦上鋪花 又一重
承教寺 港区高輪2- 英一蝶の墓 朝妻舟
・・
ゆうれい地蔵というのもあるらしい。
914
:
秋魚
:2018/12/08(土) 23:30:45
(無題)
・・天気がよいので歩行の散策にでた。枝垂れ桜の梅岩寺から裏手の山道で青梅丘陵ハイキングの道にあがる。遠目には丘陵の紅葉はいまが盛りだ。こんないい日に山歩きをしないなど罰が当たる。足腰が弱っているのがわかる。梅岩寺までも起伏が多い道だ。季節はずれで人はいない。建部凉岱の石碑がある。
きえたものなら
あれのかな
知足院建部凉岱居士
山既に
?? 水おもしろし
?? 遅ざくら
七年忌。安永九年(1780)門人の根岸凉宇たちによって建立。山形の語並びといい、味わいのある句碑とみた。建部凉岱は俳号、小説家、国学者、絵師の建部綾足で知られる。
青梅在住の一番弟子根岸凉宇は、関東で一番最初に二条家から「花の下」の称号を受けた。
前書きの「きえたものなら あれのかな」に注目。法号を挿んで「山既に 水おもしろし 遅ざくら」と来る。それは青梅のこととすれば、「あれの」は江戸、武蔵野になろう。「きえたものなら」というから、もっと無常な感慨をこめている。
915
:
かぐやまの花こ
:2018/12/24(月) 00:50:16
・・
由誓 安政6年没 71歳 浅草蔵前の札差夏目成美の店員。
夏目成美
[1749〜1817]江戸後期の俳人。江戸の人。名は包嘉。通称、井筒屋八郎右衛門。別号、随斎など。浅草蔵前の札差(ふださし)。乙二(おつに)・大江丸らと交わり、小林一茶の後援者でもあった。句集「成美家集」、著「随斎諧話」など。
2018/09/02
俳人・小林一茶が江戸の金融業者「井筒屋」の番頭・豊島久蔵に宛てた手紙5通が発見された。
浮世をはかなんだ「行末(ゆくすえ)はうきを見ん見ん見ん見んと世に秋せミの鳴きになく哉(かな)」との俳諧歌も新たに見つかり、10月20〜22日に一茶記念館(長野県信濃町)で開く俳文学会の全国大会で発表するという。[信濃毎日新聞]
916
:
山田
:2019/01/08(火) 21:37:36
やはりな。
・・
宇多田は愛らしい笑顔になった。西野は活動停止。笑顔はいい。
つくも神まで入るのはちょいむずかしい。
917
:
かぐやまの花こ
:2019/01/27(日) 21:47:06
・・
・・
最前線
https://www.youtube.com/watch?v=skp6gD17mSQ
918
:
かぐやまの花こ
:2019/03/05(火) 23:23:41
・・
・・
花のふるひは
https://www.youtube.com/watch?v=Hj1mfq7vhz0
919
:
かぐやまの花こ
:2020/01/28(火) 00:38:29
さくら さくら
…
Les sanglots longs
Des violons
De l’automne
Blessent mon cœur
D’une langueur
Monotone.
Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure ;
Et je m’en vais
Au vent mauvais
Qui m’emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.
……
https://www.youtube.com/watch?v=cBkmh6Wr38c
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板