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Web誌友会 板/2
1876
:
復興G
:2013/06/11(火) 09:33:11 ID:AB6RqYXc
<つづき>
「歴史は繰り返す」といわれますから、上記 「梅の花の神示」 は 過去のことであって、同時に「今」 においても何かを暗示されていると思いますが――
>>今年が弥々開く年である。昭和八年は弥(や)の年、弥々(いよいよ)の年、八の年、ハナの年、ハリ伸びる年、ハジメに開く年である。<<
というのは、おそらく、雅宣総裁率いる教団側では、「森の中のオフィス」に移転して新しい「創造(うみ)の始動(はな)」が始まるのだ、ととられるでしょう。
一方、学ぶ会では、第1回全国大会が大成功裡に行われ新しい路線、「正統生長の家」の樹立をめざす“真理護持拡大路線”の運動が始まった「創造(うみ)の始動(はな)」の年である、と解釈されるでしょう。
しかし、神示には
>>世界に中心が幾つもあって争っていて人類が幸福になれるなどと思うな。太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。この事実を見て宇宙の意志を窺えよ。地上の国々だけが中心が幾つもあって好いと思うな。複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。<<
とあります。
>>世界を一つに統一する運動に二つある。一つは露西亜(ロシア)から始まっている運動で、世界を物で支配する運動である。もう一つは霊(ひ)の本(もと)から始まっている運動で、世界を霊で支配し、一つの光明に統一する運動である。この二つの運動の衝突は避けられぬ。時機は迫っているのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者があるのは歯痒(はがゆ)い。本当の愛は甘えかす愛ではない。戦いの愛である。<<
と結ばれていますが、
「霊(ひ)の本(もと)から始まっている運動」が「世界を霊で支配し、一つの光明に統一する運動である」ということになるのだと思います。
それは、口先だけでなく、本当に自我を滅して「一」なる神、完全円満なる神を信じ、その神意に中心帰一した運動を展開したところが現実世界の中心となる、と解釈できるのではないでしょうか。
>>複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。<<
とありますから、「棲み分け」でよい ということにはなりません。
そうして、
>>本当の愛は甘えかす愛ではない。戦いの愛である。<<
とありますが、これは、自我を死に切ったとき「すべては自分」なのであり、一人一人が己の「自我を死に切る」戦いをしなければならないのだ、と私は解釈いたします。
今回のテキスト『生命の實相』第3巻を復習しますと――
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
○ 「言葉の宇宙」が先ず出来て、「形の宇宙」がその映像(かげ)としてあらわれるのである。(p.1)
○ 『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。今は過渡時代であるから、仮相の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相搏(う)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカライゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委せているものは何も恐るる所はない。(p.2)
○ 精神界が先きで現実界はその影である。元乱れて影完(まっ)たからず、宗教家よ、宗派争いをしている時ではない。(p.3)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
と教えられているのであります。
<つづく>
1877
:
志恩
:2013/06/11(火) 09:53:13 ID:.QY5jUA6
訊けさんへ
私は、復興G様へ ご神像のことで、質問したことは、なかったと存じます。
1878
:
「訊け」管理人
:2013/06/11(火) 10:02:24 ID:???
>>1877
貴テーマは「一即多」であり、題材はご神像だと判断しております。その点が
>>1872
の意図です。
「総裁の責任だ」と云う過去のご発言や「合わせ鏡」の件など、既に復興Gさまがご説明されて
おられます。その、ご説明に沿ったかたちでの再投稿を、お勧め致します。「復興Gさまご説明では
〜です」「でも、今回のご神像問題は〜です」という感じの投稿文に、なるのでしょうか。
テーマと題材は、違います。が、テーマが同一ならば題材は何であれ、過去と同じものになります。
拜
1879
:
ユタカ
:2013/06/11(火) 10:20:38 ID:R1D4Jmeg
誌恩さまへ 復興G様は下記の神示の内容を仰っていらしゃると思います。
君民同治の神示
国は人間生命の外延である。それは身体が人間生命の外延であるが如くである。 人間生命が神より生まれたる神聖鳴るものであるといふ自覚が、その外延であるところの国をも神より生まれたる国であるとの神聖性を要求するのである。この要求が神によってその国が造られたのであるとの神話を創造するのである。しかも人は自己が無にして絶対であり、一切の主であり、永遠者であり、久遠の主催者である(民主)との自覚を、生命の外延の世界に於いて持つこと要請するのである。
観られる世界は観る人の心の世界であるからである。 身体(しんたい)も国も共に観る者(主体)から反映せられる世界(客観かくたい)である。観る心の要請が身体(しんたい)に於いては脳髄の存在となり、 国に於いては永遠の元首なる、 無にして絶対であり、一切の主であるところの 天皇の存在を要請するのである。
天皇の神聖性は、人間自身の生命が神聖であるところから来る。
即ち 観る主体(民)が神聖であるから、 観らるる客体である天皇が神聖なのである。
観る主体(民)の神聖性が包まれ蔽(おほ)はれて混濁するとき、 天皇の神聖性は蔽はれて発現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである。
人間は自己自身の神聖性のゆえに神造の国家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が天孫であり、神の子である自覚の反映にはかならない。
かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。 されば民が主であり君は客である。
是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一体であり、君民一体であり民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ治は君を拝むところの事と一体である。治事一体であり、治めると事(つか)へるとは一体であり、君民同治である。
天皇は絶対者にましますとは、観る主体たる人間(民)の絶対性より来る。
民が自身の絶対性の把握が破れるとき、その反映として国の絶対性と天皇の絶対性とは破れるのである。
打ち続く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覚が破れたのが国家大権、天皇大権の一時中断の形をもって現れたのである。(十二・二十八 午後十二時)
1880
:
ユタカ
:2013/06/11(火) 10:25:39 ID:R1D4Jmeg
君民同治の神示
の内容を読みますと今の生長の家の現状は雅宣総裁一人の責任ではないと言えると思います。
それだから今は、さまざまな団体が出来て来て、みなさん急激に真理を学んで浄化されていますね。
1881
:
志恩
:2013/06/11(火) 10:31:15 ID:.QY5jUA6
ユタカさまが、貼って下さいました復興G様の以下のお言葉ですが
>>今原宿の本部会館に鎮座されていて、まもなく山梨の方へ移転することになっている御神像は、
「これこそが生長の家大神のお姿」というわけではない。「その一つの現れ」であるということですね。
ですから、御神像が生長の家の本尊というわけではない。もしそうだったら、偶像崇拝になってしまいます。
生長の家の本尊は人間の内に宿る、目には見えない宇宙大生命であるわけです。
ならば、「御神像」にあまりこだわる必要はないわけですが――やはり一つの象徴として、造られたものはその心を大切に保存したい、
ということでしょうね。 <<
このように、復興G様がおっしゃっておられる通り、勿論、ご神像は、生長の家のご本尊ではありません。
生長の家の神様の象徴として、彫られたものです。偶像崇拝ということでもありません。
しかし,永年、特に古い信徒にとりましては、あのご神像は、
どのようなことで、生まれたか、、聖霊が宿っているご神像ということで、
生長の家の神様の1つの象徴として、本部に参りますと、
大道場の実相を礼拝するのと同じ気持ちで、あのご神像の真下へ行き、ご神像に宿る聖霊に、合掌礼拝してきたものです。
ですから、多くの信徒の方々は、ただの彫刻だとは、思っていないのです。生長の家の神様の1つの象徴として、
とても大切に考えてきたのです。
やはり、何十年もご神像として、あの高い位置にあり、聖霊が宿っていると聞いていたご神像なのですから、
そして、こういうネットの情報社会ですから、大々しい祭祀でなくともいいのですから、
それなりの、ご神像へのお礼と感謝の気持ちを,教団は、全信徒を代表して、ささやかなものでもいいですから、心を込めてあらわし、
運搬のときにも、配慮すべきだったと思いました。
私は、ご神像が、八ヶ岳へ移動したことは、「学ぶ会」のみなさの感想とは、異なるところがございまして、
つぎの時点で、たいせつにされれば、いいことだと考えております。
なぜなら、本部会館の旧館は、すでに築60年経っているので、あれはコンクリート製なので、補修は効かないと思うからです。
ですから、ご神像が旧館とともに、壊されないで済み、保存されたことは、
私としましては、さびしいですが、その反面、ほっとしているところです。
木造住宅なら、木の柱を鉄製のもので補強できますが。コンクリートのビルの補強は、調べましたが,出来ないようです。
あの本部会館は、昔の、あまり進歩していない頃の建築技術で建てられたビルですから。
…なので、旧館の方は、新たに建て直しということになりますが、
雅宣総裁は、原宿での建て直しは考えず、八ヶ岳でと、考えられたわけですよね。
それが よかったのかどうかは、10年経てば、分るのではないでしょうか。
1882
:
志恩
:2013/06/11(火) 10:58:36 ID:.QY5jUA6
ユタカ様
君民同治の神示とは、天皇と国民についての神示です。
雅宣総裁と信徒のことを言っているのでは、ありません。
以前、金木犀様が、これについて、投稿され、コメントもされてましたので、貼付します。
---------------------------------------------------------------------
711:金木犀 2012/05/23(水) 06:42:30ID:L0Ei6.zw
『秘められたる神示』 谷口雅春先生
君民同治の神示講義(7)
しかし、そのような天皇の神聖性は、人民自身が「無」になって謙虚に天皇に対して回帰しない限りはあらわれない。傲慢に天皇を批判している者にとって、天皇の神聖性が理解されないのは当然のことである。
だから、「観る主體(民)の神聖性が包まれて蔽はれて混濁するとき、天皇の神聖性は蔽はれて撥現しなくなるのは其のためである。
今の状態がそれである」と示されているのである。紅緑色盲に於いては、紅や緑の色彩が実際そこにあっても、自己自身に内在する紅緑の感覚が目覚めていないために、其処に紅緑の色彩をみとめることが出来ない。
それと同じく自己に内在する「神聖性」が包まれ蔽われて混濁している場合には、天皇の神聖性は蔽われて発現しない。
それ故に、「天皇の皇位を剥奪し、皇室費を停止して、天皇を唯のサラリーマン又は文教労働者となすべし」というような唯物論者の議論も生じて来るのであります。
唯物論者にとっては、人間はただの“物質の塊”以上のものではないから、その価値や尊さを、その能率的エネルギーの量に一般化して、それを平等に取り扱おうとするのは無理もないことであるけれども、
自己の内に「神聖性」が発現し、その「神聖性」を観る眼をもって、国家を観、天皇を観るとき、其処に、自己の神聖自覚の投影としての、神聖国家及び神聖天皇を観ることができるのであります。
だからこの神示には、
「人間は自己自身の神聖性のゆゑに神造の國家に神聖降臨の神話を創造してその歴史の中に住む自己を観るのである。天孫降臨とは人間自身すなはち民自身が、天孫であり、神の子である自覺の反映にほかならない。
かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である」と時代に適応したところの民主主義に背反することなき、天皇神聖論をお諭しになっていられるのであります。
しかし、「民が主であり、君は客である」という表現をつかうと誤解を招くおそれがあり、「人民のほうが君主より偉いんだぞ、天皇は吾々の得た月給から納めた税金で養っているんだぞ」などというような間違った考えを懐くものも出て来る恐れがあるから、
神示は更にこれを綜合的立場から説明を加えて、「是を主客合一の立場に於いて把握すれば主客一體であり、君民一體であり、民は君を拝み、君は民を拝む」と説かれ、天皇の「治」を民を拝みたまう行事として、次のように示されているのである。
「民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝みたまふ“治”は君を拝むところの“事”と一體である。治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。……」
このように神示によれば、政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、
「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。近頃の政治を観ると、政府と国民とは「拝み合い」どころか、
「憎み合い」又は「争い合い」の様相を呈しているので、このような政府の要員や国民の代表にとってはこの神示は誠に好箇の反省資料だと思われるのであります。
併し現在の日本の状態は、天皇の神聖性などを観ることが出来る者は残念ながらきわめて少ないのであります。それは人民自身が自己の神聖性をみとめないで、自己をただの「物質なる肉塊だ」と観じている。
そしてこの肉体なる化学物質の反応の如き本能満足の要求を「基本人権」だなどと信じているのですから、「人民自身の絕對性の把握」など殆どない。
そして、“観られる世界”は“観る心”の反映であるから、天皇の絶対性など観得る人も殆ど無いのであります。そのことを此の神示には、
「天皇は絕對者にましますとは、観る主體たる人間(民)の絕對性より來る。民が自身の絕對性の把握が破れるとき、
その反映として國の絕對性と天皇の絕對性とは破れるのである。打ち續く敗戦により、民自身の永遠性と久遠性との自覺が破れたのが國家大權、天皇大權の一時中斷の形をもって現れたのである」という風に諭されているのであります。(完)
1884
:
志恩
:2013/06/11(火) 11:08:28 ID:.QY5jUA6
そして、この「君民同治の神示」は、
雅宣総裁が、
2012,11,22
総本山に於ける
「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」スピーチ に、うまいこと、引用され、自分流の解釈を述べ、
=日本国の否定、天皇制の放棄、住吉本宮「鎮護国家」祭祀の放棄=を決定されました。
つまり、「鎮護国家」を引っこ抜く、材料に使われた神示でもあるのです。
1885
:
志恩
:2013/06/11(火) 11:11:57 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶより
http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/20492761.html
1886
:
ユタカ
:2013/06/11(火) 11:13:50 ID:R1D4Jmeg
志恩さま
>治事一體であり、治めると事(つか)へるとは一體であり、君民同治である。……」
このように神示によれば、政治とは権力階級が非権力階級を圧えつつ治めることではなく、
「民は君を拝み、君は民を拝む」――すなわち「君と民との拝み合い」ひいては「政府と国民との拝み合い」が本当の政治なのであります。近頃の政治を観ると、政府と国民とは「拝み合い」どころか、
「憎み合い」又は「争い合い」の様相を呈しているので、このような政府の要員や国民の代表にとってはこの神示は誠に好箇の反省資料だと思われるのであります。
ここでは、上記のように、天皇と国民とばかりではなく、【 政府 と 国民 】と例をだされて言うように一くくりにされていらしゃいます。
ですから、権力者(総裁)と非権力者(信徒)とも、読み取れるような気がしてなりません。
ですから、こういう意味で、復興G様はおっしゃったと思います。
1887
:
ユタカ
:2013/06/11(火) 11:21:18 ID:R1D4Jmeg
志恩さまへ
どうしても、雅宣総裁の文章を読まないとダメですか??
私は、雅宣総裁の文章を読むと、気分が悪くなって、悪寒が走り、嘔吐して通常の仕事が出来なくなります。
志恩さまが仰るので読みますが、その代わり、私は2〜3日ここをお休みします。 なぜなら、気分が悪くなり、頭痛とメマイで寝込んでしまう事が予想されるからです。
申し訳ありません。。。。。
1888
:
復興G
:2013/06/11(火) 11:32:39 ID:AB6RqYXc
御神像に関することで、聖典の資料を提示して申し上げます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
<『生命の實相』第13巻 倫理篇上 第2章「第一の神性隠蔽」より(p.82〜83)>
宗教争いは偶像崇拝よリ起こる
物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分でないというような争いができてくるのであります。
人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互いに信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。
その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。
つまり、すべての争いの第一の萌芽(めばえ)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。
すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
>>716
:復興G
現象界のすべてのものは、時間と空間というスクリーン上に映し出された映像(かげ)であって、本来無である。
地上のすべての宗教というのも、現れたすがたは映像(かげ)であって、無でありますね。
しかしながら、
「宇宙の中に神様が生れたのではなく、神様の生命そのものの広がりが宇宙であります。」(神示ご講義)
という、時間・空間をも生み出された本源の神は、映像(かげ)ではない。影を映し出している第一原因者であって、現象界の一切の対立を超えている。それを「絶対者」という。
すべての宗教は、この「絶対者」なる神(仏)において本来「一」であるから、「万教帰一」となる。
映像(かげ)にすぎない現象のコトバを比較して共通点を見出し「万教帰一」を見出そうとしても、それは不可能であって、「時間・空間がまだ現れない、その元のところ」すなわち「久遠の今」に立ち、「久遠の今」にこそ「アブラハムの生まれぬ前(さき)より吾はあるなり」と言い、黙示録では「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く」と言った「永遠のキリスト」の命があり、「天上天下唯我独尊」と言った釈尊の命があり、「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ」(自伝篇)とおっしゃっている谷口雅春先生の御命があり、自分もまたその永遠の生命がわが本体であると知るとき、はじめて「万教帰一」が成り立つのだと思います。
しかし私は、御神像を偶像崇拝するのは間違いだから、粗末に扱ってもよいとは思いません。原宿本部会館(御神像を含む)について、私は次のように皆さまにお呼びかけしました。
<つづく>
1889
:
復興G
:2013/06/11(火) 11:33:10 ID:AB6RqYXc
<つづき>
>>654
:復興G:2013/04/18(木)
(前略)
今、生長の家本部が東京の原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に移転することになって、原宿本部に鎮座されていた、七つの燈台の点燈者なる「御神像」も山梨へ移転されるということで、そのことについての総裁のブログ記事(唐松模様)を読んだり、いろいろな人の意見を聞いて学び、考えたりしています。(中略)
皆々さま。
ある方が、昭和29年に原宿本部会館ができたときの谷口雅春先生・輝子先生の御文章を謹写して、次のようなアピールの文章を送ってくださいました。それを、次に転載させて頂きましょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
≪本部会館を創建当時に復原、保存を!≫という、ある友人のアピール
いよいよ今年の10月には、生長の家本部が“森の中のオフィス”(山梨県北杜市)に移転されます。すると東京原宿の現本部会館はどうなるのか、いろいろな情報が飛びかっていますが、尊師・谷口雅春先生や、海外を含め全国の先輩信徒の思いがこもった、貴重な歴史的文化遺産でもあり、くれぐれも取り壊すこともなく、是非とも創建当時に復原し、永久保存をしていただきたいと思う。
昭和29年(1954)3月1日、立教25周年を迎えたよき日に、百三十万信徒の真心の結晶として、足かけ4年の歳月を費やして原宿の本部会館は落慶した。ここに雅春先生の当時の御文章と、当時を回想された輝子先生の御文章を掲載させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
百萬信徒の「まごころ」の結集 谷口雅春
光明の塔部の最上層の室は、「栄光の間」と名付けられ、その下の塔部の室は「祈りの間」である。「栄光の間」は、維摩の居室が「空っぽ」であったと同じく「空」であって何の置き物もない。「空」にして無礙光であるのが神であるからである。栄光の間にて拍手して礼拝すれば、四壁にその拍手の響がこもって天地に感応するような感じがするのである。
教主(※)室、総持室、理事室はあるけれども、教祖の室はこしらえてないのである。これには深い意味があるのである。教祖は過ぎ行くが、教主も理事も永遠につづいて行くであろう、と云う意味はこの本部の建物は「私のもの」でないと云うことである。
私が本部の建物を建設するために、「特信」の手紙を書いたり、礼状やお願い状を書いたりしているのは、私の室をつくるためでもなければ、私の機関をつくるためでもないのである。この建物は神に捧げられたる建物である。建物はただの物質であるけれども、それは百萬信徒の「まごころ」の結集である。
「まごころ」と云うものは肉眼に見えないから、肉眼で見ると、ただの実業のビルディングでもこう云う聖堂でもただの「形」である。けれども「まごころ」が結集してこれだけの建物が建つと云うことは「容易ならぬこと」である。それは太陽の光を凸レンズで結集すると紙を焼くことが出来るように、「まごころ」が結集してこれだけのものが建つとき、人類の魂に一層容易に火をつけることが出来るのである。これから人類光明化の力が一層早くなるであろう。
(『明窓浄机』「近頃思うこと」 『生長の家』昭和29年4月号より)
※教主=当時、雅春先生を教祖先生、清超先生を教主先生と呼んでいた。
<つづく>
1890
:
復興G
:2013/06/11(火) 11:33:55 ID:AB6RqYXc
<つづき>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
雅春先生、信徒たちの献身で 谷口輝子
――現在、東京の原宿に在る生長の家本部の建物は、昭和二十九年に落慶した。昭和二十年八月に終戦となったが、それから後、何年も何年も、日本中は貧しかった。生長の家本部も貧しかったが、教えの伝道のためには、どうしても教団の中心であり本拠となるべき建物が必要であった。
原宿の生長の家学生寮の焼跡に、隣地の東郷神社の敷地の一部を購入して、そこに教団の本部を建てることになった。
一流の建築会社である清水建設の当時の社長清水釘吉氏は、生長の家に非常に厚意をもって居られたので、建築費を一時払でなくとも建てて下さることになり、月賦払で何年もかかって支払ったことであった。その月賦の支払についての谷口総裁の苦労は非常なものであった。
一万円の教団債を発行して全国の信徒に協力を願ったところ、各地より続々と応募して下さったので、それで清水組への支払いを月々つづけたり、三千円以上を本部へ奉納した人に、半折の揮毫を送ったりもされた。また全国へ講習に出かけ、その受講奉納金は大部分清水組への支払に提供された。自らの身を、ローソクの火のように灯して、総裁は清水組へ支払い、そして信徒たちへの教団債を返すことに努力をつづけて居られた。
半折に揮毫しつづけられる総裁のために、我が家の家族と本部員の二、三人は墨をすり、私は朱印を押して、指を痛くしていた。
総裁は地方巡講から帰京して、雨の日は原稿を書き、晴れた日は半折の画箋紙に大筆をふるって居られた。痩せ形の身を前屈みにして、大筆は長時間、画箋紙の上を走りつづけていた。その部屋も、次の部屋も、廊下にも、墨痕あざやかに墨の香りが満ちていた。六十歳を過ぎた人には重労働のように思えた。来る日も来る日も働きつづけて居られた。あの生長の家本部会館の建築費のために。私は夫の後姿を見て「御苦労さま、御苦労さま」と合掌した。
誰のために建てる本部会館であろうか。谷口雅春の住むための家ではない。信徒みんなの集る家なのであった。信徒みんなとの、いろいろのことを連絡する事務の家でもあった。みんなのための家であった。
建築中は、東郷神社境内の隅っこを借りて、清水組は飯場を建てていた。その飯場には百人ばかりの職人が出入りしていたと聞いた。百人の中に、生長の家の信徒が四、五人いた。赤見元二郎君はその一人であった。
赤見君は毎朝五時に起きて飯場を出てその四、五人の友と建築現場に立った。瞑目合掌したそれらの人たちは、ひたすらに、その建築がスムーズに進行し、一人の怪我人もなくて完成に到りますようにと祈りつづけて居られた。あれほどの大建築中に、一人の死者も怪我人もなかったことは珍らしいことだったと私は聞かされた。わずか四、五人の人の祈りでも、真心からの純真な祈りは諾かれるものだと信じた。
総裁の無欲恬淡な献身と信徒たちの純粋な献身とによって、生長の家の本部会館は、原宿の一角に美しく凛然と落成の日を迎えた。
落慶式の日は、全国各地より信徒の幹部が集ったばかりでなく、教団外の団体の代表者なども来会されて、温い祝辞を述べて下さった。誰も彼も、明るい喜び溢れる顔をして、新築の美しい建物の中を右往左往して動いていた。信徒たちは、私の顔を見ると「お芽出とうございます。有難うございます」の喜びの声を浴びせかけた。私はうれしくて浮々としていた。(以下、略)
(「人それぞれ」『理想世界』昭和56年6月号より)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
※ この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。
<つづく>
1891
:
志恩
:2013/06/11(火) 11:34:16 ID:.QY5jUA6
総裁が、信徒を拝む宗教はありますが、
信徒が総裁を拝む宗教は、生長の家だけです。
----------------------------------------------------------------
つぎつぎと、雅春先生の影を消して行く、雅宣総裁の行為は、いかないことは、いけないと、いわなければ、
ほんとうに、本来の生長の家は、消えて行ってしまうと思います。
本流は、いけないことはいけないということは、少なくして、
本来の生長の家の教えを広めて行く方針のようですね。
でも、宗教というものは、批判するものを「悪」にして、
しまうところがありますから、むづかしいですね。
それに、1000億も資産があるとなれば、彼が、どのようなことをされても、とめる人もいないのですから
彼の行為は、やりたい放題が通って行くのでしょう。
それに、にんげん、 地位とお金には、弱いですから、幹部の人や,組織の人も ついて行くのでしょう。
----------------------------------------------
>>1842
:志恩
〜「調和」と「妥協」とを混同してはならない〜について
新講『甘露の法雨』解釈 84~87頁より
<< 「法華経」にある常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のように「あなたは決して悪い人じゃないのです。
あなたは本来、仏になる実相をおもちなのです」と、その実相を拝むんですね。
「悪」は絶対無いのであって、その奥にある実相の「善」のみが独在することを深く信じて、
その実相を礼拝するのが、本当に「実相を拝む」ということであり、天地一切の実在に和解することであります。
悪なる現象の“実在性”を信じ、その存在を許すことは「和解」ではなくて「妥協」であります。
吾々は「和解」しなければならないが、妥協してはならないのであります。
(中略)
<殺虫剤や軍備は不必要か>
しかし実際の場合として、皆さんが凡ゆる場合に虫類の実相の完全さを拝んだら害虫が全部消えるか否かは皆さんの悟りの力量如何にあるのです。
肉眼には「悪」の姿が見えるのに、実際に「善」のみあると、その実相を拝み切れるかどうかという事です。
<軍備は本当に不必要か?>
この事は日本の再軍備の問題でも同じ事であります。
だから実相世界の「一切の生物処を得て争うものなき」状態があらわれたなら、そんなものは要らん筈だと言えるのであります。
しかし、現代の日本人が果たしてそれだけの精神的力量叉は高い心境に達しているかという事が問題なのです。
1892
:
復興G
:2013/06/11(火) 11:35:09 ID:AB6RqYXc
<
>>1980
のつづき>
――以上は、ある友人から送られて来たアピールの文章を転写させていただいたものです。
原宿の本部会館が建設された頃の日本は、敗戦占領下から独立回復後まもなくで、唯物主義の左翼革命運動に国家が転覆しそうな危機的状況にありました。そのとき、ここで青年大会が開催され、ここから「日の丸行進」が行われたりして、世界平和の礎となるべき日本の国を護る運動の拠点ともなりました。
前記「本部会館を創建当時に復原、保存を!」という友人のアピールの結びに、
≪この本部会館は「落成式典」ではなく、生長の家の大神に対して、この会館を捧げるという「捧堂式典」として挙行されている。神様に捧げたものを勝手に壊すのはいかがなものか。≫
とある言葉に、私も魂が震えました。
上記のアピールが届いてまもなく、4月8日の日本経済新聞夕刊に載った次の記事が目にとまりました。
○
SL「デゴイチ」引き取り先求む
静岡市、解体中止し公募
35年にわたって静岡市内で展示された蒸気機関車(SL)D51形の引き取り先を市が探している。老朽化を理由にいったん解体を決めたが、鉄道ファンから反対の声が相次いだため方針を転換し、保存の道を探ることになった。
このD51形は1938年に製造され、75年まで北海道で運行。引退にあわせて市がJRから借り受け、葵区の駿府城公園にあった児童会館や、城北公園で展示してきた。
ここ数年はさびや腐食が目立つように。「無人の公園で展示を続けるのは危険」と判断した市とJRが、いったんは解体撤去を決定した。その後、「壊さないで」という電話やメールが30件以上、寄せられた。市は直前に解体工事を中止。4月中にも引き取り先の公募を始める。
(2013.4.8 日本経済新聞夕刊)
○
――SL「デゴイチ」だって、上記のように、いったん解体を決めたものでも、「壊さないで」という電話やメールが30件ばかり届いたら、解体工事を中止したのです。
原宿の本部会館は、生長の家人類光明化運動の記念建築物として遺されるとも聞いていましたが、御神像が山梨県の「森のオフィス」に移されることに決まったそうですから、御神像のない本部の「光明の塔」を遺してもあまり意味はなくなるので、取り壊されることになるのではないかと思われます。それは、取り返しのつかない、残念なことになるのではないでしょうか。
「天地は過ぎゆかん。されどわが言(ことば)は過ぎゆくことなし」
とイエスが言われた、「わが言(ことば)」すなわち神の言(ことば)である「まごころ」のあらわれとして歴史的建物を保存することであり、そのために費用がかかるならば、信徒の「まごころ」による献資を募っても、保存活動をしたら――と思いますが、皆さまはどう思われますか。
○
――と、上記のようなお呼び賭けをしたのでした。
しかし、あまり積極的な反応はありませんでした。
そうして御神像は山梨県の方へ運ばれて行ったのですが、これは「移転」であります。「撤去」と言えば、そのまま廃棄されるかのように聞こえますが、そうではありません。
学ぶ会の方たちは、御神像が「撤去」されたとして、その映像をネットを通じて世界に発信された、その意図はいったい何なのでしょう。「“雅宣教団”はこのような神を懼れぬひどいことをした」と宣伝して、自分たちの正当性を主張し、相手をおとしめるための「悪意」が感じられる行動だと言わざるを得ません。
残念ながら、このようなことを続けられるならば、それは橋本徹馬氏の言われる「天佑」が得られる戦いとはならないでしょう。
(
>>1657
「各国間に大調和あらしめて、等しく万人の栄える時代の招来」を国是として、実際その如くに行動をしているならば、その国が止むに止まれずして起った時、天佑が伴うのは当然である。然らざる場合には天佑が伴わぬことも当然である。
戦争は好む処ではないが、既に戦争に臨む以上は、「正しい国の戦争には必ず天佑が伴うのである」ことを示すのも、日本が人類文明史上に貢献する一つの道であるが、過般の戦争は日本の歴史上それとは全く逆の汚点を残した。)
1893
:
復興G
:2013/06/11(火) 11:41:41 ID:AB6RqYXc
上記は
>>1890
の続きでした。
1894
:
志恩
:2013/06/11(火) 11:45:24 ID:.QY5jUA6
ユタカ様
雅宣総裁のご文章、読まなくていいですよ。(笑)
以下、1部のみ、雅宣さんの、そのときの言葉を載せさせて頂きますので.
=====================================================================================
⑨ 「君民一体」という言葉・・・それは必ずしも「天皇と国民」だけを指しているのではなく、天皇が存在しない国もあるのですから、
一般に「支配者と国民」 の関係を述べていると思われます。
その場合、支配者と国民の間に「意思の齟齬がない」こと、さらには「感情的な対立もない」ということが「一体」の意味で すから、それが“神意”であるということです。
⑩ 「神の御心が十分に反映した平和な世界」「神−自然−人間が大調和した世界」の実現に、さらなる熱意と信仰をもって取り組んでくださることを念願いたします。 谷口 雅宣
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
このようにして、雅宣さんは、「鎮護国家」を抜き捨て、「世界平和」に置き換えました。
1895
:
神の子さん
:2013/06/11(火) 13:06:16 ID:8BFF/5aQ
私の父は戦前から本部の職員として奉職していましたが、召集令状によって陸軍へ入隊
戦争中は支那大陸を転戦、戦闘中に胸に銃弾を受けたが、胸のポケットのお守りの聖経甘露の法雨に命中
弾が肋骨の間に食い込み、その衝撃で気絶したのを死んだものとして扱われ、死体の山に放り込まれたものの
たまたま通りかかった軍医に発見され助かったそうです。
終戦・復員後、尊師より復職してはどうかと奨められるも、敗戦による混乱の中、こういう時だからこそ
生まれ育った故郷で光明化運動に専念させてくださいと願い出て許可をいただき、それ以後無給で講演や個人指導で
家にいるのは月の内4〜5日くらいでした。
復興G様や志恩さまが書いておられるように本部会館建設の為の尊師の熱き思いに応えようと決意した父は
戦後の混乱の中で聖使命会費を祓うことが困難で数十万円溜まっていた連合会の未納金を一括で奉納するため
家屋敷、田畑を売却しました。私が10歳の時です。その後の生活は「火を灯す爪」もないくらいの極貧生活でした。
それから10年後父は尊師より本部へ奉職するようにと御手紙を下さって、家族みんなが上京しました。
私は既に東京にいましたので、家族が上京してきた時本部まで行き尊師・輝子奥様に御挨拶させて頂きました。
私にとって原宿本部は父母の思いが詰まったとても大切な大切な宝物でした。
特に御神像は父母の思いの象徴として仰ぎ見て参りました。
撤去されると聞き、父母の目になって本部会館最後の御神像、その御姿を目に焼き付けておこうと思い
撤去当日、学ぶ会の方々から少し離れた場所で光明の塔から剥がされていく御神像を瞬きもせず観ていました。
撤去ではないという人もいますが、原宿本部会館にお鎮まりあってこその御神像です。
山梨の山の中に置かれる御神像はただの置物にしか過ぎません。置く人がそのように思っているのですから。
1896
:
こんにちは
:2013/06/11(火) 13:20:01 ID:nSg7g3W2
トキ様
>>1883
この文章やリンクは、私が書き込んだものではありません。
この掲示板とも関係ないですし、削除をお願いします。
1897
:
志恩
:2013/06/11(火) 13:23:45 ID:.QY5jUA6
復興G様
「デコイチ」走る
http://www.youtube.com/watch?v=HFmgZBQT3qQ
復興G様
「デコイチ」は、機関車ですから、保存できるでしょうけれど、築60年の鉄筋コンクリートの、あれほどの
とても大きいビルである
本部会館が、保存出来るかどうかは、
いちばんいいのは、大手の建設会社に査定してもらうとわかりますから、直に、聞いてみたいですね。
小さいビルなら可能のようですけれど、あのように大きいビルは、保存は、どうなんでしょう。
むしろ、保存というのなら、
同じ設計で、新しく建て替えた方が、耐震構造も加わえて建て替えられますので、地震が 来ても安心じゃないでしょうか?
雅宣さんは、それを望まなかったのでしょうけれど。
それにしても、最近の、補修耐震技術は、どのくらい進化しているのでしょう。
つぎのように、銀座で、築80年のビルを保存改修した例もありました。(本部会館みたいに大きいと、わかりません)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130521-00000038-minkei-l13
1898
:
志恩
:2013/06/11(火) 13:44:22 ID:.QY5jUA6
>>1895
:
神の子様
これはこれは、貴重なお話を、感動しました。
ありがとうございます。
お父様のすごい体験とともに、
本部会館建設の折りには、お父様は、
家屋敷、田畑を売却されて奉納金をつくられたそうで。。。あなたさまが10歳の時。
その後の生活は「火を灯す爪」もないくらいの極貧生活でした。
ということでございましたか。
私は,其の頃は、まだ入信して、数年後のときでしたから、寄付はしていないのでした。
しかし、北陸に住んでおりました。亡き義母は、本部会館建設のときも、相当奉納したと申していました。
義母の家は商家で、当時は、かなり裕福でしたので、
生長の家には、家が数軒建つほど、寄付して来たと、言っておりました。
でも、ご自分の住んでいた屋敷までは、売っておりませんもの。。
あなたさまのお父様には、とてもとても かないません。
御自分が住んでいらした家屋敷、そして田畑まで売って、奉納したとは。
このような方々にご神像を尊ぶお気持ちを、偶像崇拝だなんて、いうのは、
とても申し訳ないことと存じました。
あの小雨降る日、
神の子様もいらして下さっていたお方なのですね。
ご神像への思いは、私等より遥かに強く深くてらっしゃいます。
あなたさまの文を拝見しまして、
胸が熱くなり、涙が溢れて参りました。
のちほど、また、ゆっくり、再読させて頂きます。
1899
:
「訊け」管理人
:2013/06/11(火) 13:45:17 ID:???
>>志恩さん
貴女さまに質問致します。
現在の論点はいったい、何でございましょうか。
拜
1900
:
志恩
:2013/06/11(火) 13:48:58 ID:.QY5jUA6
そうだわ、ももんが様なら おわかりになるかも。
ももんがさま、ももんがさまは いらっしゃいますか。
ももんがさまにお尋ねします。
「本部会館は、やろうと思えば、保存改修可能でしょうか?」
1901
:
志恩
:2013/06/11(火) 13:53:20 ID:.QY5jUA6
訊けさん
なんでしたっけ?
復興G様と本部会館の保存のお話をしていたのですが。
そのあと,神の子様がご神像のことで、参加されました。
1902
:
復興G
:2013/06/11(火) 14:02:30 ID:AB6RqYXc
>>1884
・
>>1894
:志恩様。
>>「君民同治の神示」は、雅宣総裁が、2012,11,22総本山に於ける「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」スピーチ に、うまいこと、引用され、自分流の解釈を述べ、日本国の否定、天皇制の放棄、住吉本宮「鎮護国家」祭祀の放棄=を決定されました。つまり、「鎮護国家」を引っこ抜く、材料に使われた神示でもあるのです。
>>このようにして、雅宣さんは、「鎮護国家」を抜き捨て、「世界平和」に置き換えました。 <<
上記、雅宣総裁が2012.11.22総本山に於ける「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」挨拶の原稿というのが「唐松模様」で発表されており、私も原文を読みました。「総裁の文章は気分が悪くなるから、読まない」とも言ってられませんからね。
その中で、
>>「君民一体」という言葉を重視すれば、それは必ずしも「天皇と国民」だけを指しているのではなく、天皇が存在しない国もあるのですから、一般に「支配者と国民」の関係を述べていると思われます。その場合、支配者と国民の間に「意思の齟齬がない」こと、さらには「感情的な対立もない」ということが「一体」の意味ですから、それが“神意”であるということです。<<
というところなどを読むと、総裁は、「梅の花の神示」にある
>> 世界には唯一の光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。ほかの光は皆偽の光ばかりである。梅の花には中心が一つしかないではないか。
世界に中心が幾つもあって争っていて人類が幸福になれるなどと思うな。太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。この事実を見て宇宙の意志を窺えよ。地上の国々だけが中心が幾つもあって好いと思うな。複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。<<
とある「宇宙の実相」を自覚しておられないのかと、何だか情けなくなります。だから私は、
「鎮護国家なくして究極の世界平和はあり得ない」と主張してきました。
しかし、
上記、『雅宣総裁が2012.11.22総本山に於ける「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」挨拶』で、総裁は
>>日本国の否定、天皇制の放棄、住吉本宮「鎮護国家」祭祀の放棄=を決定されました。<<
というのは、ちょっと違うのではないでしょうか。
そのようなことは言っておられないと思います。
もし、言っておられるとしたら、どこで言っておられるか、教えて頂きたいと思います。
式典での挨拶文にはそういう文言はありませんし、11月20日総本山での「教化部長懇談会資料」のコピーというのを入手しましたが、その中に
≪生長の家総本山の祭司の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す≫
とあるだけで、≪「鎮護国家」をはずす≫とは書いてありませんでした。
だから私は、「鎮護国家」は「重点」からははずされても、まだ完全に外されたわけではなく、まだ復活の可能性があると思っています。
それを、強引に
『日本国の否定、天皇制の放棄、住吉本宮「鎮護国家」祭祀の放棄=を決定されました。』
と不正確な宣伝をされるのは、どういうことでしょう。「言葉は神」ではありませんか。言葉の力でそれを実現したいのですか、と問いたくなります。
こうして「教団派」 と 「本流派」 が対立を激化して、本当に日本の実相顕現ができるのでしょうか?
1903
:
志恩
:2013/06/11(火) 14:20:03 ID:.QY5jUA6
復興G様
>>≪生長の家総本山の祭司の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へ移す≫
とあるだけで、≪「鎮護国家」をはずす≫とは書いてありませんでした。
だから私は、「鎮護国家」は「重点」からははずされても、まだ完全に外されたわけではなく、まだ復活の可能性があると思っています。>>
祭司の重点を鎮護国家から世界平和に移したということは、鎮護国家をやめて(ひっこぬいて)世界平和へ変えたと、浮けとれましたが、
復興G様のお話に寄りますと、鎮護国家は、重点からはずされても、完全にはずされたわけではなく、まだ復活の可能性があると思っています。
ということで、ございますが、
それは、本流が「外したこと」を、おかしい、おかしいと厳しく批判なければ、本部は、いいわいいいわで、惰性に流れて、そのまま世界平和で
終わってしまうのではないかと,思います。
復興G様は、本流派がだいきらいなのは、わかりますが、観世音菩薩さまも、不動明王さまも,両方あってこそ、両方の働きがあってこそ、
この世界は、真の救いがあるように私は,思っております。
1904
:
「訊け」管理人
:2013/06/11(火) 14:39:05 ID:???
>>1903
志恩さま
一点だけ申し上げます。
ホンリュウ派が嫌いだから、何々を語る ・・・・そんな行動は(Gさまは)採られておりません。
そして現在、貴女さまが返答すべき質問のひとつは、以下、
----------------------------------------------------------------
『日本国の否定、天皇制の放棄、住吉本宮「鎮護国家」祭祀の放棄=を決定されました。』
と不正確な宣伝をされるのは、どういうことでしょう。「言葉は神」ではありませんか。言葉の力でそれを実現したいのですか、と問いたくなります。
こうして「教団派」 と 「本流派」 が対立を激化して、本当に日本の実相顕現ができるのでしょうか?
----------------------------------------------------------------
になるものと、思われます。
どうぞこの点へのご返答を、お願い致します。
拜
追伸
もう一点加えれば「虚報が多くないか」になります。
総裁へ疑問を呈するのは当然、背教ではありません。ですのでどんどん、されるべきです。(「反論」と「文句」の区別は必要ですが)
でも、その不動明王の働きの中には「デマの流布」は含まれてはおらぬと思います。
先の「侵略発言」も単なるカラ騒ぎでした。今回の「天皇否定」に関しても私には、根拠はナイと思っております(あくまでも現時点では。私もその様な主張を拝読したことがありませんので)
1905
:
復興G
:2013/06/11(火) 14:49:05 ID:AB6RqYXc
志恩様
>>1904
:「訊け」管理人様のおっしゃるとおりであります。よろしくお願いいたします。
1906
:
「訊け」管理人
:2013/06/11(火) 14:51:40 ID:???
>>WEB誌友会ご参加各位
・・・・以下は司会者からの希望です。無視して進めてくださっても結構です。ですが、一応議論の流れを整理するうえで以下を提案、してみます。提案内容とは、
○ 総裁の悪指摘は、いったん止めにしないか
というものです。ここで総裁の悪部分ですが、ひとつひとつ検証して行くのも骨が折れましょう。
ですが、ホンリュ派の皆さんはご安心ください。以降の誌友会ですが、「総裁は悪」の前提で、お進めください。ひとつひとつの検証はセヌ方向にして(時間がかかり過ぎますため)そして、以下を論点にやり取りを行いたいと思うのです。それは、
----------------------------------------------
○ 総裁は悪である。ならば、我々はいかに行動すべきか
----------------------------------------------
・・・これです。こんなテーマでやり取りするのは、いかがでしょうか。
せっかくの誌友会です。検証に時間を割くよりは、「総裁=悪ならば」の仮前提で話を進めるのです。いかがでしょうか。今回誌友会のテーマは「組織運動と信仰生活」であります。ここは大胆にも「総裁=悪」を前提として(くどいが「検証には時間を割かず」に)、このテーマでやり取りするのはいかがでしょうか。再掲示しますが、
○ 総裁は悪である。ならば、我々はいかに行動すべきか
こんなテーマをいろいろと、扱うのはいかがでしょう。なお冒頭で申しました通り、これは司会者からの希望です。無視して進めてくださっても結構です。ですが、一応「組織運動と信仰生活」という誌友会テーマからは、外れていないつもりでもあります。ご一考賜れましたら幸いであります。
拜
1907
:
NANCY
:2013/06/11(火) 14:59:33 ID:HzCpoNio
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
【WEB 誌友会】を閲覧しておりますと〜〜〜 下記の“コトバ…”に?目が〜〜〜
■> つぎつぎと、雅春先生の影を消して行く、雅宣総裁の行為は、いかないことは、いけないと、いわな
ければ、ほんとうに、本来の生長の家は、消えて行ってしまうと思います<< 【
>>1891
一部抜粋のコトバ…】
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆
■□―――【目もとには?専用のケア……❤】−―― 随分考えこんでしまいましたが〜〜〜??
【目=こころ】といいますぐらいに〜〜〜その人の“こころ…模様”が現れますかと。
目もと〜〜〜とても“敏感…”つまり“こころ…模様”が、何よりもすぐさま現れます〜〜〜ョネ!
ネガティブ感情を抱きやすい人=常日頃から“避難…中傷…”します言動行為の人は?
いつまでも〜いつまでも〜固定観念による“中傷論…”は?如何かと思います。
当時の創立者「雅春先生」も海外の多々なる哲学書をベ−スになされて、今日の「生命の実相」という
素晴らしい、日本の土壌に適した【バイブル…】を私ども信者に残して下さいましたかと思うのです。…が?
時代は〜〜〜あれから〜〜〜変化しております。それは環境面でも云える事と思うのです。
今回の「現総裁雅宣先生」の言動力は?創立者「雅春先生」の当時の言動行為と同じ事を、今の時代背景を敏感に
察知致されての行動と思います。そうしますと?〜〜〜
過去にさかのぼりまして、自分自身の言動行為をごまかしたとしても?たとえそれを隠そう!隠そう!と
致しても〜〜〜〜〜必ずや!敏感に現れて来ますネ!【神様の御心に反するからですネ…】
(もしかしますと…目もとのシワ?この繰り返し〜繰り返し〜で…現れて来ますのでしょうか〜〜〜??)
■□ では?その際はどうしたらいいのでしょうか〜〜〜?
それは簡単な事?日々の【祈り…神に心を振り向ける事!!!】
丁度!一枚のコットンで…要するに“祈り=真理”にてたっぷりと「心の汚れ…」をふき取る事ですネ!
サァ〜〜〜【神様に私の“こころ”振り向けて…祈りましょう〜♫〜】
再合掌
1908
:
SAKURA & NANCY
:2013/06/11(火) 15:03:07 ID:HzCpoNio
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA & NANCY】です。
■横スレにて〜〜〜”疑問点(感想)…“があります。
>>戦後の混乱の中で聖使命会費を祓うことが困難で数十万円溜まっていた連合会の未納金を一括で
奉納するため家屋敷、田畑を売却しました。<< 【
>>1895
一部抜粋のコトバ…】
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆
■□戦後の混乱期??これは当然ながら「貨幣価値…」如何でしたでしょうか?
此処で?ブレイクしますが〜〜〜?
【戦後の混乱期は?……】当時【富裕族…】は、「マッカ−サ−の方針案…」から?無理やりに余儀なく
所有していました“田畑・屋敷”を取られてしまい…一夜にして【貧乏…】となってしまったと…
知人が?云っておりました。…が?(赤坂かいわい??)その後…の事は?皆様もご存知かと?
ですから…【献金…】この問題も含め…後に随時投稿させて頂きます次第ですが??その様な状態の中?
変ですネ!!当時の【献金…】は〜〜〜?
【或る程度…富裕族】もしくは?本当に【光明化…の心のきれいな方】この二者なのでしょうか〜〜〜?
但し?その様な方は〜〜〜当時の「田畑・屋敷…?貨幣価値は連合会の未納金???」この言葉には?
引っかかりがありますネ!
※この件は「法貴先生…」の「過去の文章」にも記載がありましたかと…その記憶があります。
再合掌
PS:追伸
■□【耐震構造…原宿本部開館?】立て替え…云々…
この件は?「2代目…清超先生」でも?今は【分派…いかれました方々でしょうか?】公の“催事”にて、
私どもの面前で〜〜〜【理事会が?〜〜〜】この様な含んだ云い方をなさいました。つまり、既にこの頃から、
「2代目 清超先生」の指示を無視して行動をしていたモノと考えられます。…が?
私の【「亡き母」の手紙のやりとり……】にて〜〜〜当時の「雅春先生時代の“お金…の使い方”は〜〜〜
そして、「恵美子先生」も【全国大会…での“お話…”】にて、「私はこの講習会のお金はいっぺんも頂いて
おりません。」この様な表現の“コトバ…”を、当時〜〜〜そうですネ!平成??年でしたか?
シッカリとして記憶があります。
尚!この頃から「長崎総本山…」の補修工事は?ごく最近まで、全くなされていませんでしたし?
ここ最近?「トイレのドア…」が多少綺麗になった感じでしょうかと?(4年位前…?)更には、
今の「飛田給練成道場…補修工事」はここ最近でしたか??そうですネ!平成5〜6年頃…【奉仕…】に、
飛田給道場に参りましたが〜〜〜その時の【建物…特に「畳…」・「寝具置き場…」に関しては〜〜〜】
あきれるばかりでしたが??この事は?後程ですが〜〜〜投稿形式をと!思う次第ですが〜〜〜?
■□ 此処は?ある面スレしての投稿ですから〜〜〜【 つじつまの合わない投稿が〜〜〜変!】
これは「シャロック・ホ−ムズ先生」に聞いて見ましょうかと…。
1909
:
志恩
:2013/06/11(火) 15:14:22 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま
目元のしわのことまで、、、ご心配して下さって恐縮です。
こうみても私って、自分で言うのもへんですけれど、年より若いし、人相がすばらしいと、
いつも、皆様にほめられておりますの。どこも、悪いとこないし、ぴんぴんしております。
1910
:
「訊け」管理人
:2013/06/11(火) 15:20:14 ID:???
いや、だ か ら (笑)。
・・・・
>>1904
にご返信ください。
ここは「演説の場」ではなく、あくまでも「やり取りをする場」です。
この点ご考慮の上での参加を、どうぞ、宜しくお願い致します。
拜
1911
:
志恩
:2013/06/11(火) 15:36:29 ID:.QY5jUA6
>>『①日本国の否定、②天皇制の放棄、③住吉本宮「鎮護国家」祭祀の放棄=を決定されました。』
と不正確な宣伝をされるのは、どういうことでしょう。「言葉は神」ではありませんか。言葉の力でそれを実現したいのですか、と問いたくなります。
こうして「教団派」 と 「本流派」 が対立を激化して、本当に日本の実相顕現ができますか。<<
それでは、上記の3つとも、雅宣さんは、されてないとおっしゃるのですか?
①日本国の否定
生長の家の神様は、住吉大神様です。
日本国家の危機の時に,働く神様と教えられて参りました。
その祭司である「鎮護国家」を「世界平和」に変えたという事は、
日本国という独自の国家を否定したととられるのではないでしょうか?
ご神体の「護国の神剣」は、日本国の
“護国”なんですから…。
それを、変えてしまったじゃないですか。
②天皇制の否定
生長の家はご存知のように「天皇信仰」です。
谷口雅春先生から教えていただいたことは、「天皇国・日本」の国体護持の大切さです。
そして、それは、文字通り、“万世一系の霊統”を護ることから生まれるわけです。
ところが、それを根底から覆すような、「女系天皇容認」に、谷口雅宣先生は与しているわけですから、
これは「天皇信仰」を捨てたと見られても仕方ないことだと思います。
③鎮護国家祭祀の放棄
これは、鎮護国家を世界平和に変えてしまったので、行われないでしょう。
本流と、教団が、このようになった原因は、原因があるから、こうなってるわけで。
運動は、はげしくなりつつありますが、よくなるための過程だと,私は,思っております。
本当の日本の実相顕現は、例えば、雅宣さんは、自然のことと、エコ運動のことしか話されませんに、
愛国の話もゼロですのに、
雅宣さんのやることに批判しなければ,日本の実相顕現は、可能だとお思いなんですか?
1912
:
志恩
:2013/06/11(火) 15:40:55 ID:.QY5jUA6
今、ちょっと夕食の材料の買いにいきますので、席をはずします。
東大卒の人と早稲田大学卒の人と、
二人の秀才相手に
幹部でもない私が論議しても、
勝てないとおもいますので、どなたか、代わってやってくださるおかた、いらっしゃいませんか。
1913
:
こんにちは
:2013/06/11(火) 15:52:39 ID:nSg7g3W2
>>1902
復興G様
ちょっと疑問があります。
以下、復興G様の書き込みを引用します。
「「>>「君民一体」という言葉を重視すれば、それは必ずしも「天皇と国民」だけを指しているのではなく、天皇が存在しない国もあるのですから、一般に「支配者と国民」の関係を述べていると思われます。その場合、支配者と国民の間に「意思の齟齬がない」こと、さらには「感情的な対立もない」ということが「一体」の意味ですから、それが“神意”であるということです。<<
というところなどを読むと、総裁は、「梅の花の神示」にある
>> 世界には唯一の光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。ほかの光は皆偽の光ばかりである。梅の花には中心が一つしかないではないか。
世界に中心が幾つもあって争っていて人類が幸福になれるなどと思うな。太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。この事実を見て宇宙の意志を窺えよ。地上の国々だけが中心が幾つもあって好いと思うな。複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。一つの中心が太陽系に成るが如く地上にも成る日が近づいたのである。<<
とある「宇宙の実相」を自覚しておられないのかと、何だか情けなくなります。だから私は、
「鎮護国家なくして究極の世界平和はあり得ない」と主張してきました。」」
という復興G様のお話ですが、これはちょっと勘違いなさっているのではないでしょうか?
上記の雅宣総裁の言葉は、「君民一体地上天国成就燈」についての説明を語ったものです。
私はこの総裁のお話が正しいとは思いませんが、総裁がこの「君民一体」を、世界各国の「君民」と解釈しているのは間違いではないと思います。
たとえば「久遠天上理想国実現の神示」には、こうあります。
<<今の国々は皆形がクミ合っているだけで、中心の生命(息)が一つに統していぬから、国即家の実が挙がっていぬのである。一つの中心にすべてが統一せられて、万民その天分に応じて其の堵に安んじ、需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶように、全体の細胞へ各々適当な資料を適当な分量だけ過不及なく与えるようになったとき、国は即ち家となり始めて本当の国家となるのである。かくの如き国家においては凡てのものが瑞々しくひいで、その国家は「瑞穂の国」であると同時に「生長の家」であり、久遠実相の生長の家(たかあまはら)の地上的顕現であるから、高天原と、瑞穂の国と、生長の家とは三位にして一体であると言うのである。>>
<<全世界が「生長の家」になったら各人の家系もまた連綿と無窮につづくようになるのである。家が途中で絶えるのはその家が迷いに捉われて「生長の家」になっていないからである。>>
(※旧漢字は新漢字に改めました)
つまり、「君民一体地上天国成就燈」とは、世界各国が「君民一体」となって地上天国が成就することを祈願した燈台であるという解釈が成り立ちます。
この燈台より上位に「地上天国世界連邦成就燈」という燈台がありますが、これは、世界全体の国々が一体となることを祈願しています。
ですから、最下位に位置する「君民一体地上天国成就燈」は、世界各国の実相が成就することを指すと見て間違いではないと思います。
世界万民が実相天皇を君として仰ぐとともに、各国それぞれも君と民が一体となる、という意味ではないでしょうか?
私が雅宣総裁の解釈に疑問があるのは、「君民」を「支配者と国民」としていることです。
これでは、アメリカ大統領や中国共産党国家主席が君になってしまいます。
そうではなく、各国本来の「君」となるべき方が玉座に就き、その家系が連綿とつづき、世界各国が君民拝み合いの国家となることを祈願して建立されたのが、「君民一体地上天国成就燈」ではないかと思うのです。
世界連邦ですから、日本以外の国々が滅ぶわけではありません。ですから、こう解釈するのが自然だと思われます。
いかがでしょうか?
1914
:
「訊け」管理人
:2013/06/11(火) 16:15:36 ID:???
>>1913
こんにちは様
ご投稿をありがとうございます。さて、貴殿ご主張(骨子)は、以下で間違いナイでありましょうか。ご確認ください。ご主張内容は大きく2点ございますね?
1、復興Gさまご解釈への疑問
2、(こんにちは様の考える)総裁ご主張の間違い
<1に関する貴殿ご主張>
「鎮護国家なくして究極の世界平和はあり得ない」と主張してきました。」という復興G様のお話ですが、ここにはちょっと勘違があるのではないか。
<根拠>
○ 総裁がこの「君民一体」を、世界各国の「君民」と解釈しているのは間違いではないと思うため。
○ 「君民一体地上天国成就燈」は、世界各国の実相が成就することを指すと見て間違いではないと思うため。
○ (総裁ご主張も)世界万民が実相天皇を君として仰ぐとともに、各国それぞれも君と民が一体となる、という意味と解釈できるため。
<2、に関する貴殿ご主張>
●雅宣総裁の解釈に疑問がある点
「君民」を「支配者と国民」としていることです。これでは、アメリカ大統領や中国共産党国家主席が君になってしまいます。そうではなく、各国本来の「君」となるべき方が玉座に就き、その家系が連綿とつづき、世界各国が君民拝み合いの国家となることを祈願して建立されたのが、「君民一体地上天国成就燈」ではないかと思うのです。
世界連邦ですから、日本以外の国々が滅ぶわけではありません。ですから、こう解釈するのが自然だと思われます。
拜
1915
:
こんにちは
:2013/06/11(火) 17:41:59 ID:nSg7g3W2
>>1914
「訊け」様
私は、復興G様が「世界には唯一の光しかない」という意味を狭くとらえていると思ったのです。
太陽系にしましても、太陽ばかりが中心ではなく、地球も月にとっては中心です。
ですから、雅宣総裁が日本天皇ばかりでなく世界各国のことを述べていること自体が、間違いではない、と言いたかったのです。
「訊け」様のまとめは、私の主旨どおりです。
ただ、「実相天皇」の具体的な意味が問題ですね。
雅宣総裁は、日本天皇を世界の中心者と観じていないですから、谷口雅春先生とは違っていますね。
1916
:
こんにちは
:2013/06/11(火) 18:04:46 ID:nSg7g3W2
◎志恩様と、復興G様および「訊け」様とのやり取りについて。
少し志恩様の肩を持ちますと、総裁は言葉の上では日本や天皇を否定しているわけではないものの、谷口雅春先生と比べて著しく軽視しているということは言えるでしょう。
谷口雅春先生や松田巳代志先生の頃は、ブラジル国内でも「天皇」の文字が高々と掲げられていたのですから。
私が一番に思いますのは、総裁には天皇への愛情が感じられない、ということです。
本当に大切にしたいと思っているのか??という気持ちになってしまいます。
一部の本流派の方が無用な争いを作っている感は否めませんが、雅宣総裁に問題ありと言わざるを得ないのは確かでしょう。
私は、以前からの諸々の雅宣総裁の問題の核心は、「冷淡さ」にあると思っています。
国であれ、天皇であれ、一般信徒であれ、家族であれ、雅宣総裁の態度はあまりに冷淡で残酷です。
ここが治らない限り、本流派などからの罵倒は無くならないでしょう。
総裁は、言葉の上では天皇を否定していませんが、本当の本音の部分では否定しているのだと思います。
これは総裁自身も自覚していないかもしれませんが、私は「自己欺瞞」を総裁から感じるのです。
肯定できないはずのものを、どうにか誤魔化しているのです。信徒だけではなく、ご自分に対しても。
こうした冷淡さや自己矛盾の根本原因は、総裁が「合理主義者」の権化であるところにある、と思います。
元来、合理主義者は天皇も信仰も理解できません。
なぜなら、天皇や信仰は元来、不合理な存在だからです。
人間の心というものは元来不合理であり、知的な合理主義ではどうにもなりません。
天皇や信仰は、そうした不合理な人間の心に立脚した存在です。
元来、合理主義的な人間の頭脳というものは、利己的に出来ています。心が欠落しているからです。
ですから、人間の頭は、天皇をお守りすることを「損だ」と思います。
しかし、心はそうではありません。
自分にとって損でしかなくても、「お守りしたい!!」と思うのです。
それは、心の本性が「愛」だからです。
つまり、合理主義者には根本的に、「愛」が欠落しています。
一時期、日本を騒がせたホリエモンや村上ファンドは、その象徴的な存在です。
雅宣総裁が兄弟と分裂するのも、これが原因です。
雅宣総裁の、東日本大震災についての祈りの言葉が冷淡であるのも、これが原因です。
雅宣総裁の信仰の言葉に真実味がないのも、これが原因です。
雅宣総裁が言葉でどう取り繕うとも、天皇護持への真実味を感じないのも、これが原因です。
私は断言します。
教団が滅亡するか否か?という危機に陥ったとき、総裁は逃げます。
総裁は、自己保身に走ります。
自分の人生のすべてを投げ出して、信徒を守ろうとはしません。
なぜなら、彼は合理主義者だからです。
それは、今までの彼の言動からも、あまりに明らかです。
彼は、自分を犠牲にすることは、出来ないのです。
もちろん、これは現象の話です。
しかし、現象は現象として、シビアに見つめる眼も必要です。
志恩様の非を責める前に、志恩様がそう言わざるを得ない心情とその背景を理解しなければ、話は進まないのではないでしょうか?
1917
:
復興G
:2013/06/11(火) 18:06:28 ID:AB6RqYXc
>>1913
:こんにちは様。
まことに深いご洞察、ご高見、ありがとうございます。このような深い研鑽ができることは、とても幸せに思います。
私は、
>>「梅の花の神示」にある
>>世界には唯一の光しかないのだ。唯一の光であるからヒノモトと呼ぶのである。ほかの光は皆偽の光ばかりである。梅の花には中心が一つしかないではないか。……とある「宇宙の実相」を自覚しておられないのかと……<<
と、(たいへん失礼なことを)書いていました。
>>「君民一体地上天国成就燈」とは、世界各国が「君民一体」となって地上天国が成就することを祈願した燈台であるという解釈が成り立ちます。
この燈台より上位に「地上天国世界連邦成就燈」という燈台がありますが、これは、世界全体の国々が一体となることを祈願しています。
ですから、最下位に位置する「君民一体地上天国成就燈」は、世界各国の実相が成就することを指すと見て間違いではないと思います。
世界万民が実相天皇を君として仰ぐとともに、各国それぞれも君と民が一体となる、という意味ではないでしょうか?<<
とおっしゃるこんにちは様のご解釈は、全くその通りであると思います。
ただ、とても気になったのは、こんにちは様も書いていらっしゃるように、「君民」を「支配者と国民」とされていることです。
日本の天皇と国民との関係も「支配者と国民」というようにしか見ておられないのかと、これはとても残念なことだと思いました。
日本の天皇と国民との関係は、歴史的に見ても、決して「支配者と国民」というようなものではなかった、というのが私の認識です。
そして、
>>世界連邦ですから、日本以外の国々が滅ぶわけではありません。<<
もその通りですが、
>>各国本来の「君」となるべき方が玉座に就き、その家系が連綿とつづき、世界各国が君民拝み合いの国家となることを祈願して建立されたのが、「君民一体地上天国成就燈」ではないかと思うのです。<<
というのは、ちょっと 「 ? 」 です。
「君」とは、「支配者」ではなく、「君民一体」なる中心者ということでしょうが、それぞれの国にはそれぞれの個性があってしかるべきなのではないか。アメリカ大統領や中国共産党国家主席が「君」であり得るか。――アメリカは民主主義の国でよし、中国は中国の個性があってよし。
日本には日本の独特の個性、使命がある。それが「中心歸一・君民一体」という神の構図なのではないか。そしてその「八紘一宇」の神の構図が全世界に顕現するとき、「君民一体の地上天国」が成就するのではないか。だから、この日を守らなければ、世界に神の構図をあらわす、真の世界平和は達成できないのではないか――私は、そのように信じてきたし、今もそう信じています。そして、それが「神示」による谷口雅春先生の教えであったと、私は思うのですが、いががでしょうか。
1918
:
志恩
:2013/06/11(火) 18:26:04 ID:.QY5jUA6
>>1898
:で私が、本部会館が完成したのは、私が入信して数年後、、
と書きましたが、あれは、私の勘違いでした。訂正します。
本部会館が、落慶したのは、昭和29年3月1日ですから、
私は、その年には まだ入信していません。
私の年を数えてみましたら、私は本部が落慶した数年後に、入信したのでした。
そそっかしくて、すみません。
そして、
本部会館が建って10年も経たないうちに,私は本部へ奉職していたのでした。
亡き義母が入信したのは、昭和10何年だったか、昔、聞いた事ありましたが、確かな数字は、
うろ覚えです。
義母は、私が、生まれた年よりも ずっと前からの信徒です。
親戚の人に聞けば,正しい入信の年は、分ります…。
1919
:
復興G
:2013/06/11(火) 18:31:59 ID:AB6RqYXc
>>1916
:こんにちは様のご投稿文、
>>◎志恩様と、復興G様および「訊け」様とのやり取りについて<<
は、まことに当を得たご指摘だと思います。
私も志恩様宛にお返事をしようと書きかけていた文章があります。
○
>>雅宣さんは、自然のことと、エコ運動のことしか話されませんに、愛国の話もゼロですのに、……<<
――それは私も残念な思いをもっています。
しかし、総裁のご著書『信仰による平和の道』p.52~53には
≪今日の運動において、「愛国」が強調されていないのは……「ナショナリズムは不要だ」と言っているのではないということです。それは、必要です。人体に免疫系があるのと同じように、それは必要です。しかし今日、それを強調していくことが、人類全体にとって、あるいは地球の生命全体にとって、本当に喫緊の課題なのかということです≫
と書かれていて、日本国を、愛国心を否定されているわけではない。どこかに、「私は日本国を否定する」とか「愛国心はいけない」とか書かれているものがあったら、教えて頂きたいと思います。
○
――というように書きかけていましたが、こんにちは様が
>>1916
に書かれているように、
>>私が一番に思いますのは、総裁には天皇への愛情が感じられない、ということです。本当に大切にしたいと思っているのか??という気持ちになってしまいます。
一部の本流派の方が無用な争いを作っている感は否めませんが、雅宣総裁に問題ありと言わざるを得ないのは確かでしょう。
私は、以前からの諸々の雅宣総裁の問題の核心は、「冷淡さ」にあると思っています。
国であれ、天皇であれ、一般信徒であれ、家族であれ、雅宣総裁の態度はあまりに冷淡で残酷です。ここが治らない限り、本流派などからの罵倒は無くならないでしょう。
総裁は、言葉の上では天皇を否定していませんが、本当の本音の部分では否定しているのだと思います。
これは総裁自身も自覚していないかもしれませんが、私は「自己欺瞞」を総裁から感じるのです。<<
というのは、同感です。
しかし、だからといって、ただ感情的に、不正確な情報で総裁を攻撃するばかりでは、ますますマイナスの結果になるのではないかと残念に思われます。
志恩様、いかがでしょうか。
1920
:
復興G
:2013/06/11(火) 18:34:58 ID:AB6RqYXc
>>1917
訂正です。
× この日を守らなければ、
↓
○ この日本を守らなければ、
1921
:
復興G
:2013/06/11(火) 19:27:03 ID:AB6RqYXc
>>1898
:志恩様
>>1895
:神の子様
>>私にとって原宿本部は父母の思いが詰まったとても大切な大切な宝物でした。特に御神像は父母の思いの象徴として仰ぎ見て参りました。
撤去されると聞き、父母の目になって本部会館最後の御神像、その御姿を目に焼き付けておこうと思い、撤去当日、学ぶ会の方々から少し離れた場所で光明の塔から剥がされていく御神像を瞬きもせず観ていました。
撤去ではないという人もいますが、原宿本部会館にお鎮まりあってこその御神像です。
山梨の山の中に置かれる御神像はただの置物にしか過ぎません。置く人がそのように思っているのですから。<<
私も、上記 神の子様のご投稿を読んで、胸が痛みました。
私は昭和28年、貧乏学生時代に青年会に入会し、昭和29年、原宿の本部会館落慶奉堂式のときには、御神像のある「光明の塔」の前にテントを張った受付でご奉仕をしました。
それから約60年たったのですね。
その本部会館と御神像が単なる「物」扱いされ撤去されることには、何とも言えない空しさを感じて、悲しいです。
1922
:
志恩
:2013/06/11(火) 19:27:40 ID:.QY5jUA6
復興G様
はい。おかげさまで、
こんにちは様が、復興G様、訊け様、私の間に入って、解説して下さったご文章の内容は、
大変分り易くて 私にでも 理解できて、うれしく存じました。
復興G様、こんにちは様、
ごしんせつに 丁寧にお答え下さいまして、ありがとうございました。
それから
総裁のご著書『信仰による平和の道』からの引用文ですが、
そういっちゃ、悪いですけれど
雅宣総裁の言い回しは、やはり すご〜く わかりずらいと思いました。
それこそ、彼の言いたい事は
1,000人のうち、5人ぐらいが、理解出来るか どうかだ と感じました。
1923
:
志恩
:2013/06/11(火) 19:43:16 ID:.QY5jUA6
高学歴のおふたりさんと、雅宣さんびいきのSAKURAさんには、理解出来るのでしょうけれど。
1924
:
志恩
:2013/06/11(火) 19:55:57 ID:.QY5jUA6
>>1921
:復興G様
復興G様は、本部会館の落慶式の前年に入信されて、青年会に入会されていて、
落慶式の日は、受付の奉仕をされてたのですか。
そのときから、60年も経ったのですね。
>>1895
:神の子様のご文章、感動的なコメントなので再々掲させて頂きます。
>>私にとって原宿本部は父母の思いが詰まったとても大切な大切な宝物でした。特に御神像は父母の思いの象徴として仰ぎ見て参りました。
撤去されると聞き、父母の目になって本部会館最後の御神像、その御姿を目に焼き付けておこうと思い、撤去当日、学ぶ会の方々から少し離れた場所で光明の塔から剥がされていく御神像を瞬きもせず観ていました。
撤去ではないという人もいますが、原宿本部会館にお鎮まりあってこその御神像です。
山梨の山の中に置かれる御神像はただの置物にしか過ぎません。置く人がそのように思っているのですから。<<
この神の子様のコメントに対しまして、
>>1921
:復興G様のお言葉〜
>>私も、上記 神の子様のご投稿を読んで、胸が痛みました。
私は昭和28年、貧乏学生時代に青年会に入会し、昭和29年、原宿の本部会館落慶奉堂式のときには、御神像のある「光明の塔」の前にテントを張った受付でご奉仕をしました。
それから約60年たったのですね。
その本部会館と御神像が単なる「物」扱いされ撤去されることには、何とも言えない空しさを感じて、悲しいです。<<
と、おっしゃって下さったので、有り難かったです。
1925
:
復興G
:2013/06/11(火) 20:00:32 ID:AB6RqYXc
志恩様。
>>1903
>>復興G様は、本流派がだいきらいなのは、わかりますが、……<<
――そう決めつけないでください。
たしかに私は、本流派に嫌悪感すら抱いたことはありましたが、先日全国大会のユーチューブを見ましたら、最初に体験談発表をした福島県いわき市の長谷川弓子さんは私もよく知っている人ですし、ほかにもなつかしい人たちが各地で学ぶ会に救われ、活躍して大会に参加しておられるのを見て、心で声援を送りました。
1926
:
志恩
:2013/06/11(火) 21:28:47 ID:.QY5jUA6
復興G様
『第1回・学ぶ会の全国大会』のユーチューブを見て下さったそうで、めちゃうれしいです。
体験談発表者の長谷川弓子さんは、復興G様はよくご存知のお方だったのですね。長谷川さんは、
品のいいきれいな女性のお方でした。ほかにもなつかしい人達が……。
そうでしたか。それはそれは…
私は、当日の会場でですが、、あの人、知ってる気がするけれど、どなただったかな…と思いながら、お名前が出てこないお方が 何人もおられました。
参加された皆様のお顔が、ものすごく輝いていて、皆様、拍手されながら、うれし泣きされてらして
会場全体が喜びが充満していて、私も、なんどもうれし泣きしていました。
まさに、みなさま、「雅春先生 お目にかかりに まいりました。という
復興G様〜
>>たしかに私は、本流派に嫌悪感すら抱いたことはありましたが、先日全国大会のユーチューブを見ましたら、
最初に体験談発表をした福島県いわき市の長谷川弓子さんは私もよく知っている人ですし、ほかにもなつかしい人たちが各地で学ぶ会に救われ、
活躍して大会に参加しておられるのを見て、心で声援を送りました。<<
とコメントくださったので、
靖国見真会参加者様もお喜びされることでしょう。
1927
:
復興G
:2013/06/11(火) 21:29:41 ID:AB6RqYXc
>>1867
:「靖国見真会」参加者様。
お返事が遅くなりました。
私にとっての「ドンキホーテ」について、ちょっとだけ書かせて頂きます。
私は、教団派からも、本流派からもひどく攻撃されたり、嘲笑されたりしながら、相変わらず「大調和」の「和解」だけを信じて、突っ走っているドンキホーテなのであります。
「訊け」さんのように、「和解せよ」「和解せよ」「和解以外に何があるか」と口では言いませんが、「すでに和解している」実相だけを信じて、それ以外に生きる道はないと、馬鹿の一つ覚えのように思い続けて、やってきました。
双方から、
「そんなの、現実を知らぬ空想だ。」
「学ぶ会」などの恩知らず奴(め)と、和解なんかできるはずないだろ。あなたは何もわかっていないんだ」
「雅宣と和解なんて、あんなあくどい、ひどい大悪人とどうして和解ができるの? 向こうがその気がないのに、なんでそんなことできるの」
などと罵声をあびせられながら。
――それが、現実です。
現に、貴殿からもそのように言われているように感じますが・・・・・・
でも、私にとって、「大調和」「和解」を信じて進むほかに道はないと思っているのです。
まあ、今のところ、これ以上書いても無駄だと思いますので、書きませんが……
梃子でも動きませんので、あきらめてください。
合掌
1928
:
トキ
:2013/06/11(火) 21:42:11 ID:44e3/ICg
web誌友会の趣旨から外れていたら、ごめんなさい。
「学ぶ会」など、本流復活派については、10年前と今では、状況はかなり変化したと思います。
10年前なら、こういう運動は、「一部の不平分子の策動」でバッサリだったと思います。しかし、
今の本流復活派は、質という点でも、量という点でも、無視できない存在になっています。特に、
今年の4月29日の大会と、最高裁判所の判決が出てからは、攻守ところをかえた、という印象すら
あります。
ただ、こうなった以上、本流復活派の皆様にも、それなりの権利と義務の存在がある、という事を
認めるべきかと思います。影響力の大きさを考え、本流復活派にも責任ある言動を要求すべきかと
思います。また、米国の諺に、「倒せぬ敵とは仲良くせよ」というのがあるらしいです。しかし、
総裁以下、本部の指導部の皆様は、まだ、10年前の分派のイメージでこの問題に対応していると
感じます。
総裁以下、指導部がアタマにきているのは想像にかたくないですが、残念ですが、これ以上、争って
も、悪くなる事はあっても、良くなる事は皆無です。谷口雅春先生への責任という観点から、これ
以上の争いは止めて欲しいと願っています。
1929
:
SAKURA
:2013/06/11(火) 22:30:59 ID:BEUD3XFA
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■□「管理人 トキ様」 へ
>>1928
の投稿内容から〜〜〜【気になる文章ですので〜〜〜】
>>10年前なら、こういう運動は、「一部の不平分子の策動」でバッサリだったと思います。しかし、
今の本流復活派は、質という点でも、量という点でも、無視できない存在になっています。特に、
今年の4月29日の大会と、最高裁判所の判決が出てからは、攻守ところをかえた、という印象すら
あります。<< (一部抜粋…)
◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――◆
この“コトバ…”には?【 異 論 !!】があります…。横スレにて……
「分派の投稿表現である言語…」には、此処昨今までは、実に!すごい“コトバ…洪水”の表現ですが?
こちらから見ますと、とても気分のすぐれぬ【 悪い表現…】でしょうかと。??
そして【金銭問題…】もあり、その「使い方??」には、現在の私にとり益々と【不信感…】になります。
今!今!私は「分派の方々……金銭問題」に【疑問…】を??感じます。
“コトバの責任感???”毎日毎日〜〜〜変化!しているような感じでしょうか〜〜〜??
再合掌
1930
:
こんにちは
:2013/06/11(火) 22:31:06 ID:nSg7g3W2
>>1917
復興G様
<<日本の天皇と国民との関係も「支配者と国民」というようにしか見ておられないのかと、これはとても残念なことだと思いました。
日本の天皇と国民との関係は、歴史的に見ても、決して「支配者と国民」というようなものではなかった、というのが私の認識です。>>
本当にそうですね。私も同じ思いです。
<<「君」とは、「支配者」ではなく、「君民一体」なる中心者ということでしょうが、それぞれの国にはそれぞれの個性があってしかるべきなのではないか。アメリカ大統領や中国共産党国家主席が「君」であり得るか。――アメリカは民主主義の国でよし、中国は中国の個性があってよし。>>
たしか、これに似た話は谷口雅春先生もされていたと記憶しています。
しかし私は、これは現状を鑑みた方便的な説明であると思っています。
なぜなら、アメリカ大統領や中国国家主席が、「君」という言葉に相応しいとは思えないからです。
こうした各国首脳を絶対肯定すれば、「君民一体」についての雅宣総裁の説明は正しい、ということになってしまいます。(天皇を支配者とみなす話は別にして)
ですから、私は『各国本来の「君」となるべき方が玉座に就き、その家系が連綿とつづき、世界各国が君民拝み合いの国家となることを祈願して建立されたのが、「君民一体地上天国成就燈」ではないかと思うのです。』
と言ったのです。
でもこれは、まったくの私個人の意見ですので、谷口雅春先生がどう思われていたのかは分かりません。
大調和したアメリカ大統領というのもありうるのかな??(ちょっと無いような気がしますが)
>>1919
<<ただ感情的に、不正確な情報で総裁を攻撃するばかりでは、ますますマイナスの結果になるのではないかと残念に思われます。>>
たしかに、こうしたお話をいくらされても、賛同される方が少数に限られることは間違いありません。
ただ、(少なくとも)志恩様はプラスマイナスを度外視して本音を語っていらっしゃるのだと思います。
でも、復興G様が残念に思うお気持ちはよく分かります。
>>1922
志恩様
でしゃばってしまって申し訳ないです。
少しでもお役に立てたなら、幸いです。
>>1926
学ぶ会が多くの方に必要とされていることがよく分かるお話でした。
私の心にも染みてまいりました。
1931
:
ももんが
:2013/06/11(火) 22:38:11 ID:XXCuaQns
>>1900
志恩様
合掌 誌友会の皆様、ありがとうございます。
そして、こんばわ。
志恩様の呼び掛けに、堀部安兵衛が、八丁堀から、高田馬場を、走りぬいたように、息を切らせて、心臓爆発寸前になるくらいに、仕事を急ピッチで、終わらせて、帰宅いたしました!
あー、死ぬかと思った。(ハー、ハー)
志恩様からの、御質問の事でございますが、本当の事は、工事に関係してないので解りませんと、前置きさせ頂きます。
だだ、保存改修するだけなら、可能かもしれませんが、最近は、耐震や耐火等の基準が、昔の物では通用しなくなり、行政機関の指導が、厳しくなってきています。そういう点からの、工事かも、しれません。これは、私の個人的見解ですから、甘利参考にならないかもしれません。
しかし、私が、以前関わった、新宿辺りの有名なビルでも、行政機関から警告を受けていた物件もありまたから、その傾向もあるかなと思います。
ほら、例の東京駅前の郵便局も壊しましたよね。あれも、そうかなと、予想します。
何とも言えません。お役に立たず、すいません。志恩様。
しかし、志恩様も、やっぱり、生長の家の先生ですね。
だって、『やれば出来る!』式で、呼び掛けされるんですもの(笑い)
あー、疲れました。
志恩様、明日も、早いので、今夜は、お休みします。
また、出来る限り、頑張ります!
おやすみなさい。
誌友会の皆様、志恩様、ありがとうございました。
実相円満完全!
合掌 拝。
1932
:
復興G
:2013/06/11(火) 23:24:11 ID:AB6RqYXc
今回のweb誌友会 テーマは「組織運動と信仰生活」
テキストは『生命の實相』第3巻の「光明篇」第4章まで
補助資料として「2.26事件とその背景――橋本徹馬氏自叙伝より」というのを使う(2.26事件の時と現在の生長の家における分裂抗争状態には似ているところがあると思われるので、この歴史上の事件から「今」われらはどうすべきかを学び、考えよう)
ということで、6月7日(金)から始まって、まもなく1週間になります。これは「誌友会」の頭に「長期」と付けたいくらいですね。
2.26事件という血なまぐさく複雑な背景をもつ問題を取り上げたため、随分多方面に話題が広がり、発言も錯綜しましたが、とてもよい勉強ができたと思います。
名司会者「訊け」管理人殿、ありがとうございました。
そろそろ、明日からは元に還って、まとめの方向に向かいましょうね。
私は明日、予定行事があるために、夜にならないと書き込みはできないと思いますが――
司会者「訊け」管理人殿、そういう方向でよろしいでしょうか。
1933
:
復興G
:2013/06/11(火) 23:50:41 ID:AB6RqYXc
>>1930
:こんにちは様
ありがとうございます。
>>私は『各国本来の「君」となるべき方が玉座に就き、その家系が連綿とつづき、世界各国が君民拝み合いの国家となることを祈願して建立されたのが、「君民一体地上天国成就燈」ではないかと思うのです。』<<
の意味がなかなかよくわからなかったのですが、やっとわかりました。
>>なぜなら、アメリカ大統領や中国国家主席が、「君」という言葉に相応しいとは思えないからです。<<
なるほど。
私は、選挙で選ばれた大統領でも、あるいは中国国家主席でも、有徳の人が選ばれれば、「君民一体」のような調和した政治が行われるかなあと漠然と思っていましたが、こんにちは様のような考え方もあるでしょうね。
ありがとうございました。
1934
:
こんにちは
:2013/06/12(水) 00:50:46 ID:nSg7g3W2
>>1933
復興G様
こちらこそ、ありがとうございました。
不勉強な私ですが、今後もよろしくお願いいたします。
合掌
1935
:
志恩
:2013/06/12(水) 03:18:04 ID:.QY5jUA6
こんにちは様
大変強力なフォローをありがとうございます。
こんにちは様の 雅宣総裁の本質を見抜かれていらっしゃる深い洞察力には、驚きました。
それをまた非常にわかりやすい言葉で表現される能力のお持ちのお方で、
こんにちは様が、どなたかは存じませんけれど、いろいろと教えていただいて、大変勉強になりました。
心から感謝申し上げます。
-----------------------------------------------------------------------------
>>1916
:こんにちは様
◎(前略)
総裁は言葉の上では日本や天皇を否定しているわけではないものの、谷口雅春先生と比べて著しく軽視しているということは言えるでしょう。
谷口雅春先生や松田巳代志先生の頃は、ブラジル国内でも「天皇」の文字が高々と掲げられていたのですから。
私が一番に思いますのは、総裁には天皇への愛情が感じられない、ということです。
本当に大切にしたいと思っているのか??という気持ちになってしまいます。
一部の本流派の方が無用な争いを作っている感は否めませんが、雅宣総裁に問題ありと言わざるを得ないのは確かでしょう。
私は、以前からの諸々の雅宣総裁の問題の核心は、「冷淡さ」にあると思っています。
国であれ、天皇であれ、一般信徒であれ、家族であれ、雅宣総裁の態度はあまりに冷淡で残酷です。
ここが治らない限り、本流派などからの罵倒は無くならないでしょう。
総裁は、言葉の上では天皇を否定していませんが、本当の本音の部分では否定しているのだと思います。
これは総裁自身も自覚していないかもしれませんが、私は「自己欺瞞」を総裁から感じるのです。
肯定できないはずのものを、どうにか誤魔化しているのです。信徒だけではなく、ご自分に対しても。
こうした冷淡さや自己矛盾の根本原因は、総裁が「合理主義者」の権化であるところにある、と思います。
元来、合理主義者は天皇も信仰も理解できません。
なぜなら、天皇や信仰は元来、不合理な存在だからです。
人間の心というものは元来不合理であり、知的な合理主義ではどうにもなりません。
天皇や信仰は、そうした不合理な人間の心に立脚した存在です。
元来、合理主義的な人間の頭脳というものは、利己的に出来ています。心が欠落しているからです。
ですから、人間の頭は、天皇をお守りすることを「損だ」と思います。
しかし、心はそうではありません。
自分にとって損でしかなくても、「お守りしたい!!」と思うのです。
それは、心の本性が「愛」だからです。
つまり、合理主義者には根本的に、「愛」が欠落しています。
一時期、日本を騒がせたホリエモンや村上ファンドは、その象徴的な存在です。
雅宣総裁が兄弟と分裂するのも、これが原因です。
雅宣総裁の、東日本大震災についての祈りの言葉が冷淡であるのも、これが原因です。
雅宣総裁の信仰の言葉に真実味がないのも、これが原因です。
雅宣総裁が言葉でどう取り繕うとも、天皇護持への真実味を感じないのも、これが原因です。
私は断言します。
教団が滅亡するか否か?という危機に陥ったとき、総裁は逃げます。
総裁は、自己保身に走ります。
自分の人生のすべてを投げ出して、信徒を守ろうとはしません。
なぜなら、彼は合理主義者だからです。
それは、今までの彼の言動からも、あまりに明らかです。
彼は、自分を犠牲にすることは、出来ないのです。
もちろん、これは現象の話です。
しかし、現象は現象として、シビアに見つめる眼も必要です。
志恩様の非を責める前に、志恩様がそう言わざるを得ない心情とその背景を(略)
1936
:
志恩
:2013/06/12(水) 03:43:35 ID:.QY5jUA6
>>1931
:ももんが様
おかえりなさ〜〜い。(^^)
>>1900
での 私の呼びかけに お答え下さって、ありがとうございます。
ももんが様におかれましては
ひねもす遅くまで…「妄想竹」の植林のお仕事に 精を出されていらして、お疲れさまでございます。
ももんが様からのお返事〜
>>本当の事は、工事に関係してないので解りませんと、前置きさせ頂きます。
だだ、保存改修するだけなら、可能かもしれませんが、最近は、耐震や耐火等の基準が、昔の物では通用しなくなり、行政機関の指導が、厳しくなってきています。
そういう点からの、工事かも、しれません。これは、私の個人的見解ですから、甘利参考にならないかもしれません。
しかし、私が、以前関わった、新宿辺りの有名なビルでも、行政機関から警告を受けていた物件もありまたから、その傾向もあるかなと思います。
ほら、例の東京駅前の郵便局も壊しましたよね。あれも、そうかなと、予想します。
何とも言えません。(略)>>
ということでございますね。
そうですよね。本部会館は、今から60年前の耐火や耐震などの基準で建てられたものですから、今回の取り壊しは、それに関係なきにしもあらず…
ということは、考えられますよね。
教えて下さったので、お礼に ももんが様の好物の マグロの赤身のお刺身 をプレゼントさせて頂きます。
ありがとうございました。
神の子・ももんが様 おやすみなさい。
1937
:
志恩
:2013/06/12(水) 04:52:44 ID:.QY5jUA6
みなさま
今日は,朝から出かけますので、入れません。
よろしくお願いします。
1938
:
「訊け」管理人
:2013/06/12(水) 05:05:21 ID:???
――――――――――――――
>>1932
そろそろ、明日からは元に還って、まとめの方向に向かいましょうね。
私は明日、予定行事があるために、夜にならないと書き込みはできないと思いますが――
司会者「訊け」管理人殿、そういう方向でよろしいでしょうか。
――――――――――――――
了解致しました。それでは「まとめ」に向かおうと思います。と云うことで「まとめ」を行っていくうえで以下、〝現在地の確認〟を致したいと思います。
ところで現在、いろいろなテーマが挙がっておりますが、(誌友会テーマと照らせば)以下の様な分類がなされましょう。やや独断偏見気味とは申せ、以下の様なまとめ方にて現在地を、確認致したいと思います。現在のメインテーマは「争っていても、なにも解決しないのではないか」と云うものでして、それに関連する材料は「鎮護国家」「ご神像問題」等になっております。さらには、その他「神示に関する考察」等の御文章も投稿、されております。
ざっと一覧表に致します。
――――――――――――――――――――――――――――
◆ 現時点の主要テーマ: 「争っていても、なにも解決しないのではないか」
――――――――――――――――――――――――――――
<詳細>
◇ 「鎮護国家」に関しての問題整理
・ 「総裁は天皇を否定してはいない」(復興Gさまご発言)
>>1902
・ 志恩さま反論
>>1911
・ こんにちは様ご発言
>>1916
◇ 総裁の「冷淡さ」
・ 総裁の「冷淡さ」(こん様)
>>1916
・ 復興Gさまご発言
>>1919
・ 志恩さま見解
>>1922
◇ 靖国殿へのご返信(復興Gさま)
・ 「ドンキホーテ」の意味
>>1927
・ 「学ぶ会を嫌っているわけではない」件
>>1925
◇ 本部建物・ご神像の件
・ ご神像に関する御文章
>>1888
>>1889
>>1890
・ 復興Gさまご友人アピール文
>>1892
(「学ぶ会」配信動画への疑問含む)
・ 本部建物に対する思い出(神の子様)
>>1895
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<上記関連話題>
◇ 「鎮護国家」や関連神示等に関する考察
・ 復興Gさまご発言
>>1902
・ こんにちは様ご発言・質問
>>1913
・ 訊け論点整理
>>1914
こん様ご回答
>>1915
・ 復興Gさまご見解
>>1917
・ こん様ご回答
>>1930
・ 復興Gさまご見解
>>1933
<了>
1939
:
復興G
:2013/06/12(水) 10:08:05 ID:AB6RqYXc
皆さま、おはようございます。
私は今日、予定行事があって昼には出かけなければなりませんが、これから今回のweb誌友会をまとめの方向に向かうにあたり、私がなすべき課題と思うことを、思いつくままに箇条書きにしてあげておきたいと思います。
■ ①
>>1906
で、司会者「訊け」管理人様が
----------------------------------------------
○総裁は悪である。ならば、我々はいかに行動すべきか
----------------------------------------------
・・・こんなテーマでやり取りするのは、いかがでしょうか。<<
と提案されたことについて、答えを明示する。
■ ②
>>1746
a hope様ご発言について、「のちほど詳しくコメントします」と約束していたことを実行し、2.26事件に関して「天佑なき戦いをしてはならぬ」と言われる橋本徹馬氏の自叙伝の言葉をかみしめて、「今」われらはどうあるべきかを考える。これは、① の答えにもつながってくる。
■ ③
>>1876
「梅の花の神示」に関しての補遺
■ ④ 御神像・本部会館問題についての補遺
――などです。
それを、私は今夜投稿したいと思いますが、皆さまにもどうぞ思われるところがありましたら、ご遠慮なくご投稿いただきたいと思います。
① ・ ② ・ ③ がメインの課題ですが、私は先に ④ についてちょっと書きたいと思っています。
よろしくお願い申し上げます。
合掌
1940
:
a hope
:2013/06/12(水) 11:41:15 ID:edEDolt2
復興Gさま、訊け管理人さま、みなさま
こんにちは。
なかなか発言できませんが、
みなさまの投稿を拝見してとてもお勉強させていたいております。
ありがとうございます。合掌。
>>1939
復興Gさま
>>1746
は、思いつくままに発言しました。
ご指導を、どうぞよろしくお願いいたします。
1941
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 13:18:39 ID:R1D4Jmeg
こんにちは
志恩さま、総裁の文章の要点を整理して投稿してくださって有難うございました、おかげで読まないでもみなさんが解説して下さり助かりました。雅宣総裁は最初の読み出しから「君民」が「支配者と国民」と突然異質のものに置き換わってしまう訳の分からない超一流のトンチンカンさは本当に読むにたえません(これは信徒を小バカにした破滅的誘導作戦ですね、多々そういう場面を見受けます・・・・)
誤植か? とも思わせるような狂った内容に変化し、それは結局、自分の気ままな都合に合わせ「真実を捻じ曲げる」と言う、背筋も凍る恐ろしい恐ろしい、天に唾を吐くような自己破壊的行動です、頂点が破壊的思想ですから下層はよほどの信仰信念を持って行動しない限りは、信仰の場にいながら、実り少ない人生となりましょう。
復興Gさま、いつも有難うございます、すべてうなずきながら納得出来て嬉しくなってしまいます、特に、「私はてこでも動かない」とおっしゃいます所こそ は、復興Gさまらしい、信仰の信念を得た素晴らしい行動だと思います。
こんにちはさまの深い洞察力で明るくバッサリブッタ切りはとても小気味よくて痛快!同感で大笑いしてしまいました!(笑) ありがとうございます。
a hopeさま、要点整理が上手ですね、完璧でしたよ、皆さんが積極区的に発言されるので、大量に読むのが大変ですが、勉強になって嬉しい、楽しいですね、私も皆さまの投稿を読ませていただいて勉強しています、ありがとうございます、
訊けさま、話の軌道修正や要点整理は最高です。さすがは訊けさん!でも、ご苦労かけますね、ありがとうございます。訊けさんも、司会に徹するのはカッコいいけど、訊けさんの意見も聞いてみたいな。。。いつも、熱く行動していそうですから!
SUKURAさま、ももんがさまも、よろしければ休日には出て来てください。
みなさま、これからわれらはいかに行動すべきかは、すぐに実際に行動できえるような答えやヒントが沢山でそうで、ワクワクドキドキで楽しみです。よろしくおねがいします。
1942
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 13:59:23 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま、
すみません、蒸し返しになりますが、
>このように、戦後雅春先生に下された2つの神示で説かれている「天孫降臨」の意味を正しく理解すれば、雅春先生がこの生長の家総本山を建立され、そこに“七つの燈台”を建てられ、その第1番目の燈台に「天孫降臨皇御国成就燈」という名前を付けられたことの意味は、明確になると思います。先生が私たちに託された願いは、「天の下ことごとくに神の御心が満ちひろがる世界が来ること」です。「日本に天皇制国家を樹立する」などと解釈することは、全くの誤りであります。だから、私たちは世界各地に“神意”が拡大していくことを目指さねばなりません。
この『全くの誤り』 と言うところが 日本の否定につながると志恩さんはおっしゃっていられると思います。
すみません、私も、忙しく、ここで一旦閉じます。 mた、よる出てきます。
1943
:
復興G
:2013/06/12(水) 18:53:46 ID:AB6RqYXc
ありがとうございます。
■ 課題 ④ 御神像・本部会館問題についての補遺
・ ご神像について。
>>1868
で志恩様は
>>あのご神像は、元本部講師で彫刻家でいらした服部仁郎先生が、彫刻されました。服部仁郎先生は、当時、霊夢を見られて、その霊夢にあらわれた神様をご神像として彫られたのだということを、昔、服部先生の奥様に伺いました。ですから、霊夢にあらわれた神様を表現された あのご神像は、単なる彫刻という物体ではなく、
「精霊が宿るご神体である」のです。<<
と書かれました。
しかし、私がいままでに聞いてきたことは、上記と違っていました。
>>あのご神像は、元本部講師で彫刻家でいらした服部仁郎先生が、彫刻されました。<<
というところは、その通りです。が、そのあとが、違っています。
生長の家大神の神姿を霊視したという方がたくさん現れたことは、
>>1272
・
>>1273
・
>>1274
に謹写しました<昭和15年4月9日 名古屋公会堂に於ける谷口雅春先生ご講演の速記録>に発表されている通りです。
<此の白髪白髯の神様のお姿は、一番最初に私の家内が見たのであります。>(
>>1273
)
とありますが、しかし谷口雅春先生ご自身は生長の家大神の神姿を見られたことはなかった。服部仁郎先生も、ご自身では大神の神姿を霊夢で見るようなご体験はなかったと聞いています。
原宿に生長の家本部会館を建設するにあたり、谷口雅春先生からご神像の彫刻制作を依頼された服部先生は、ご自身では神姿を霊眼で見たとか霊夢に神様のお姿が現れたとかいう体験がないので、体験のあられる輝子先生や、そのほか霊視体験者の方たちにいろいろ聞いて、苦心して制作されたと伺いました。
ご神像は、長期にわたり風雨にさらされることにもなるので、石膏の彫刻などではもたない。ですから本物は真鍮で鋳造された本体の上に仕上げ加工をされることになるのですが、その前にまず石膏で実物大原型の作品をつくられる。その段階で何度か、谷口雅春先生・輝子先生に見て頂いて、「これでよろしいでしょうか」とお伺いをする。
すると谷口雅春先生は、「これは僕の顔に似過ぎているよ」と修正を求められたりしたとも伺いました。
最終段階で、谷口雅春先生は彫刻用のへらを貸してほしいとと言われ、それを持ってご神像のお顔の部分に手を入れられた。
――ふつう、芸術家というものは、自分の作品に他人が手を入れるなどということを許すものではない。しかし服部先生は、彫刻について全く素人の谷口先生が手を入れられると、たちまち作品の表情が引き締まった神々しいものに変わったことに驚き、ただ平伏した。
――そのようなことがあったと、伺ったことがあります。それは服部仁郎先生から直接うかがったのではなく、間接的に聞いたことですが、どなたから聞いたことであったか、記憶がさだかではありません。別々の方から数回にわたって聞いたことであったかも知れません。
間違っていれば、正確なことをご存じの方、ご教示くださればありがたく存じます。
なお、本部会館旧館について。復元再建ということは可能であろうと思います。貴重な歴史的建築物ですから、将来、そういう日が来ることを期待します。
>>1939
で予告しました 課題 ① ・ ② ・ ③ については、後ほど投稿させて頂きます。合掌
1944
:
「訊け」管理人
:2013/06/12(水) 18:53:56 ID:???
>>1942
ユタカさま
横切りレスになりますが、お許しを。さて、その
>>1942
の件です。もしも、志恩さんがそのような意味で「天皇否定と解釈」されたのであれば、その天皇否定論者はもうひとかたいらっしゃると思います。
その方の御文章を以下で紹介、させて頂きます。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
・・・・日本民族が世界を治めるのでなく、『天孫』すなはち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。それが真の大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。大日本世界國と云ふことを狭い意味に解して、日本民族の國だなどと考へるから誤解を生ずるのである。そんなものは、小日本であり、本當の大日本國ではない。
(全文「大和の國の神示」
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65710949.html
)
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
・・・・・特に以下の箇所にご注目ください。それは、「大日本世界國と云ふことを狭い意味に解して、日本民族の國だなどと考へるから誤解を生ずるのである。」「そんなものは、小日本であり、本當の大日本國ではない。」の箇所になりますが、これは雅宣総裁の解釈と一致します。
ですのでもしも、そのような意味で「天皇否定」を仰っておられるのであれば、「雅春先生も天皇否定論者」となると思います。以上、横槍り気味なレスでした。
拜
追伸
なお、総裁ご発言の「『日本に天皇制国家を樹立する』などと解釈することは、全くの誤りであります。」の箇所ですが、この箇所に関しては、なにかおかしいです。どこがおかしいかと言いますと、樹立するもなにも天皇制国家ですが、既に〝樹立されている〟からです。そんな(言うまでもナイ)件に触れた意図が不明で、私には「おかしい」と思えてきます。
・・・・ですが「オカシイ」とは申せ、それを即、「天皇否定」と解釈するのには、少々ムリがあろうかと思います。
1945
:
「訊け」管理人
:2013/06/12(水) 19:15:56 ID:???
>>WEB誌友会ご参加各位
ありがとうございます。さて、終了の時刻が迫って参りました。
皆さまに於かれましては、
>>1939
の復興Gさまご投稿文をご拝読の上、どしどしご投稿の方を
お願い申し上げます。
よろしくお願い致します。
拜
1946
:
復興G
:2013/06/12(水) 20:33:56 ID:AB6RqYXc
■ 課題 ①
>>1906
で、司会者「訊け」管理人様が
----------------------------------------------
○総裁は悪である。ならば、我々はいかに行動すべきか
----------------------------------------------
・・・こんなテーマでやり取りするのは、いかがでしょうか。<<
と提案されたことについて。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
生長の家は、和解、大調和の教えである。
しかし、和解と妥協とは違うのである。
現象の悪と妥協してはならないのである。
妥協でない「和解」は如何にすれば可能か。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現象は如何にあろうとも、実相は永遠に光り輝いている。
現象に如何なる対立の関係があるように見えようとも、そんなものは、ナイのである。
それは、教団派も、本流派も、共に本来の「一」に立てばよいのである。
「無」に立てばよいのである。
「中(みなか)」に帰ればよいのである。
そのためには、『生命の實相』に還ればよいのである。
のである。
真に、谷口雅春先生を学べばよいのである。
其処は、既に一切が大調和している世界である。
「一」なる世界である。
神こそ渾ての渾て。現象はない。実相独在である。生長の家は、唯神実相を信ずるのである。
真の中心帰一とは、「中(みなか)」より出でて「中」に帰ることである。
生長の家の信仰は、実相独在・善一元の信仰である。すべては絶対無なる「中」のいのちから咲き出でた花である。
「中(みなか)」への還元
《谷口雅春先生。昭和40年、『理想世界』誌5月号より》
幕末の歌人、八田知紀(はった・とものり)は、この日本国が「中(みなか)」の本源に還元するとき、どんなに一時濁っているかのように見えていても、本来の姿に澄みかえることを次の如く歌っている。
いくそたびかき濁すとも澄みかえる 水や皇国の(すめくに)姿なるらん
現象を追いまわす知識や、従来の現象から蒐集した先入観念で、事件を処置していると必ず行きすぎや、やりそこないが起こってきて混乱状態に陥るときがくるのである。それは常に「現在」には「過去」になかった要素を含んでいるからである。
その混乱がきたとき、イザナギの神が「天津神(あまつかみ)」のところへ詣昇(まいのぼ)りて、「天津神」のみ心を聴きたもうたようにすれば、そこから実相本来の知恵がでてきて、混乱が収拾され、混乱と見えたものが、新たなる発展の契機となって、混乱以前の状態よりも、尚一層よい状態に移行することになるのである。(中略)
「天津神」とは宇宙本源の太極であり、絶対無であり、一切現象の未だ出現せざる以前の「中(みなか)」であり、そこに還元することによって現象界の乱れや歪(ゆが)みが去るのである。
その絶対無なる「中(みなか)」への還元の修業が、茶道といい、華道といい書道といい、剣道といい、武道といい、歌道といい、神想観というのである。
すべての日本的芸術または作法が「道」になったのも、左右分化的な分裂病的籠手先(こてさき)の巧者を越えて絶対無の「中」への還元が日本的精神の姿であるからである。(中略)
日本国は一時的にどんなに混乱することがあり、歪められることがあっても、「中(みなか)」に還元することによって本来の美しい実相があらわれるのである。
1947
:
復興G
:2013/06/12(水) 20:34:37 ID:AB6RqYXc
さて、今「大調和」を説く生長の家がお家騒動、分裂状態で争いあっていると、世間では言われているようです。どうしてこうなったのでしょう。それは、雅宣総裁が悪いからですか? 分派が悪いのですか?
とえも、よいヒントになる文章が、榎本恵吾先生の『研修のヒント』というプリントの“はしがき”にありました。
再録させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「研修のヒント」“はしがき”にかえて
これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいのちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。
どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、次のことだけは判然としています。
すなわち、
人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。
修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。
それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。
しかし、「このことを自覚しなかったら無いのと同じで、その自覚することに当るのが、いわゆる修行である。」と従来までの宗教では説かれていたのであります。ところが尊師谷口雅春先生は、それは方便としては一応は認めておられますが、本当は人間は神の子であって、そのままで自性円満であることを発見されたのであります。それは“自覚する”という人間の修行、努力の助けを借りずとも人間をそのまま完全に生み給うた神の発見だったのであります。
自覚する、自覚しないは現象のことであって、本来“無”であります。
自覚するというのは、おのずから覚めているということであって、「……の教えによって」とか「……の修行によって」となるとそれは自覚ではないのであって、他によって覚めさせられた他覚であります。自覚とは自ずから覚めていること。私たちは自ずから覚めている生命であるからこそ、この生長の家の真理にふれることが出来たのです。
自覚しなければ無いのと同じであるというのは、それはお金などのような物質の場合の話であって、生命は自覚しない方が、伸び伸びと活動するのであります。心臓などは全くあることが解らないときが一番よく働いているときなのであります。これを「吾が生くるはわが力ならず」とも「吾がわざはわが為すにあらず」とも教えられているのであります。
もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになります。
そして、最も重大な問題は、
「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないのであります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになるということであります。
そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始るのであります。これが多くの宗派が派閥に別れた原因の一つとなっているとも考えられるのであります。
<つづく>
1948
:
復興G
:2013/06/12(水) 20:35:30 ID:AB6RqYXc
<つづき>
無条件にある光り。世界に比類のないみ教えにふれている私たちが、世界に比類のない調和と、拝みと、感謝の、崇高な、安らかさに満ちた毎日毎日を与えられていることに感謝を捧げる、ただ一筋の道がここにあります。
この心に満ちて生きているとき、私たちは神への全托の道を生きているのです。神への全托の輝きに満ちている研修生をひたすら礼拝させていただくのみであります。われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。
私は“修行をするな”というのではないのです。“修行をしなければ救われない”というのはもうすでに生長の家のみ教えではないということであります。むしろ、無条件に生かされていること、この身このまま光りであることを知れば研修が楽しくなるのであります。「研修のヒント」とは「楽しさへのヒント」ということであります。
とにもかくにも、私達は先ず光りであり、すべては完全である神なる光りがするのであつて、「光りになるために」ではないということであります。
どの師を選び、どの練成道場を選ぶかは全くの自由でありますが、どこに行くにしても、それは“光り”がそこを輝かせに行くのであること。“救われているもの”が行くのであって、“救われるため”に行くのではないということであります。
ますます自己祝福と自己礼拝を歩まれんことを。研修生に栄えあれ!
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今回のテキスト『生命の實相』第3巻を復習しますと――
○ 元来、人間は行をしなければ、水で身体(からだ)を洗わなければ、浄まらないというふうな窮屈な不完全なものに作られていないのであります。また人間は神様がお造りになったものでありますから、病気になるように不完全には造られていないのであります。それから神は人間を罪を犯すように造っておき、その人間を罰するというような矛盾はされないのであります。
神さまのお造りになったこの世界には罪もなければ、病気もない。そういう不完全な人間を神さまがお造りになっていると思うのが迷いであったということがわかってきて、今までの信仰に革命ができ、この新しい信仰を発表するために生まれましたのが、「生長の家」であります。(p.26)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
これが生長の家の御教えだったのであります。
1949
:
復興G
:2013/06/12(水) 20:40:14 ID:AB6RqYXc
この、「中(みなか)」なる御教えに還ればよかったのであります。
1950
:
トキ
:2013/06/12(水) 21:12:01 ID:HM4G/29Y
>>1947
復興G様
榎本恵吾先生の『研修のヒント』は、「活動のヒント」でもありますね。なるほどなあ、と痛感します。
実にタイムリーなご文章をご提示下さり、ありがとうございます。
1951
:
香
:2013/06/12(水) 21:16:04 ID:ip8PrAeo
復興Gさま、ご指導ありがとうございます。
課題①についての復興Gさまのお話を伺って、救われた思いがします。
2.26事件のお話とかを読んだり、最近の生長の家のさまざまな問題を考えると、
だんだん心が重くなって、発言出来なくなっていました。すみませんでした。
でも、復興Gさまが
>>1946
で引用してくださった榎本恵吾先生のご文章にある
「世界に比類のないみ教えにふれている私たちが、世界に比類のない調和と、拝みと、感謝の、崇高な、安らかさに満ちた毎日毎日を与えられていることに感謝を捧げる、ただ一筋の道がここにあります。
この心に満ちて生きているとき、私たちは神への全托の道を生きているのです。神への全托の輝きに満ちている研修生をひたすら礼拝させていただくのみであります。われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。」
の部分。とても感動しました。
「自分を拝みひとを拝む」ことに徹底して生きようと思いました。
その中に、争いはないことが分かりました。
心がスッキリ晴れ渡った思いです。ありがとうございました。
1952
:
山本富士子
:2013/06/12(水) 21:35:55 ID:RgtAnGTI
合掌 ありがとうございます。
復興G様
長時間にわたるご指導ありがとうございました。わたし自身の体力的な問題
、家業などでじっくり拝聴できては、いない段階ですが、あとあと読み返し
なにかこころにしみる一行、一言を必ず見つけるつもりです。
ありがとうございました。
神の子様
お父様の尊いお話をご紹介くださり、ありがとうございました。
ご本部会館の光のしずくを確かに頂きました。
合掌
1953
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 21:52:07 ID:R1D4Jmeg
>>1944
訊けさま
・・・・・特に以下の箇所にご注目ください。それは、「大日本世界國と云ふことを狭い意味に解して、日本民族の國だなどと考へるから誤解を生ずるのである。」「そんなものは、小日本であり、本當の大日本國ではない。」の箇所になりますが、これは雅宣総裁の解釈と一致します。
ですのでもしも、そのような意味で「天皇否定」を仰っておられるのであれば、「雅春先生も天皇否定論者」となると思います。以上、横槍り気味なレスでした。
訊け様、谷口雅春先生は終始一貫して宇宙の真理、実相の姿というものの根本が天照大神の霊統をつぐ天皇を中心とする「日本国の実相」を明らかにおっしゃっています。
谷口雅春先生が天皇否定論者(笑)などと、誤読でしょう。大和の国の神示をスラスラと読んだだけでも、>現象の日本民族でなく、実相の『天孫』に御奉還申すべき時期がくる<
『天孫』とは肉体のことではないと書かれて次に「大日本天津日嗣天皇」の真の意味を語っています。
天之御中主神の御霊を嗣ぎ給うスメラミコトのしろしめし給う世界が、これが本当の大和の国であり、それは「肉体」のことではない」のであります。 とのことですから、どこも天皇否定などしていませんが・・???
この神示は戦後直後の極東軍事裁判において天皇を戦争犯罪人として出廷しようとする強い動きのある中での啓示なので、占領軍の天皇様への風当たりをさけるためにその表現にはかなりの配慮がされていることも合わせてここに書かせていただきますね。
谷口雅春先生は大和の国の神示でも、天皇を否定していませんよ。 正確に読み直してください。
1954
:
復興G
:2013/06/12(水) 21:53:26 ID:AB6RqYXc
皆さま、ありがとうございます。
■ 課題 ② 2.26事件に光を当てる ・ 歴史から「今」を学ぶ について
>>1746
・
>>1747
:a hope様の、よくよくお考えになっての、率直ですばらしいご投稿に、心から感謝いたします。
ご投稿に、詳しいレスを差し上げるとお約束していましたが、申し訳ありませんが、“詳しいレス”はパスさせてください。
>>1751
で私は、
>>いま現象界では、『生命の實相』の著作権・出版権をめぐる裁判に決着がつき、教団側の敗訴が確定した。
学ぶ会など「本流派」の方たちは、今こそ「雅宣総裁を辞任に追い込め」と、ある意味で「決起」を呼びかけておられるように思います。
しかし私は、今回のテキスト『生命の實相』第3巻の御教えを かみ締めながら2.26事件のことを教訓として学び、はっきりと自覚いたしました。
このような混乱の時こそ、「正念場」である。
≪ 「神は完全であって、神の造り給うた世界には、混乱はナイ」 という実相を観ずる 「正念」 をもって、しっかりと起たなければならない時である≫と。
2.26事件からその教訓を学びましょう。――<<
と書いていました。
これについて、
<学ぶ会など「本流派」の方たちは、今こそ「雅宣総裁を辞任に追い込め」と、ある意味で「決起」を呼びかけておられるように思います。>
というところは、撤回させて頂きます。
「学ぶ会」では、上記のような路線は変えておられるようですので。
しかし、一般論として、2.26事件の決起将校たちのような、動機は「貧しい農民を救うため」「天皇陛下の御為」と思ってのことであっても、殺人というような手段を使っての決起は、目的とは逆の結果をもたらす、という教訓を与えていると考えられるでしょう。
しかし、「光」を当てて見れば、結局は日本敗戦という結果の後に、目的は達せられたと言える。だから、何事も無駄ではない。すべて、
○
既に天国の饗宴に招かれている
吾々が宗教的立場に立つ限りにおいて、現象界のことは別に思い煩う必要はないのである。それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあってそれぞれの役目を果していてくれているのである。
地上に天国浄土が実現するには色々の役者が要るのであって、シテもワキも、二枚目も三枚目も馬の脚も要る訳である。吾々は此等の舞台上の役者と議論を戦わす必要はないのである。唯、各々がその役目を最も完全に実現してくれるように祈っていれば好いのである。
尤(もっと)も自分自身も局外者と云う役ではなく何らかの役目を割当てられているのだけれども。
吾々は神様が主催される天国の婚筵(こんえん)に招かれる客のようなものである。すでに御料理は出来ているのである。ただ、ハイとその招待をお受けすれば好いのである。(『幸福を招く365章』の117頁〜)
○
ということになるのだと思われます。
さて、
≪天佑なき戦争は、将来絶対にしないことを誓わねばならぬ。その反面に、戦う時は必ず天佑のあるようにこの国政を運用すべきである。≫
と言われる橋本徹馬氏の自叙伝の言葉から――。
「天佑(てんゆう)」は、「天佑神助」とつづけて使われることも多い言葉で、天=神、 佑=助け ですから、どちらも「神の助け」ということですね。
神の御心に一致し、神の波長に同調する行動、即ち無我の愛の心をもって、真に人を生かす行動をすれば、天の助けが得られるということでしょう。
1955
:
トキ
:2013/06/12(水) 22:12:13 ID:HM4G/29Y
復興G様
すばらしいご指導をありがとうございました。
難しいテーマでしたが、見事にご指導をされたので、さすがに卓越した指導者だと
感激しました。
熟読の上、のちほど、感想など申しあげます。
ご多忙の中、貴重なお時間を賜り、ご指導を賜った事を深く感謝いたします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
1956
:
復興G
:2013/06/12(水) 22:55:46 ID:AB6RqYXc
■ 課題 ③
>>1876
「梅の花の神示」に関しての補遺(「梅の花の神示」は
>>1875
にあります)
まずは、
>>1876
投稿文の一部を再掲載させて頂きます。
***********************
「歴史は繰り返す」といわれますから、「梅の花の神示」 は 過去のことであって、同時に「今」 においても何かを暗示されていると思いますが――
>>今年が弥々(いよいよ)開く年である。昭和八年は弥(や)の年、弥々(いよいよ)の年、八の年、ハナの年、ハリ伸びる年、ハジメに開く年である。<<
というのは、おそらく、雅宣総裁率いる教団側では、「森の中のオフィス」に移転して新しい「創造(うみ)の始動(はな)」が始まるのだ、ととられるでしょう。
一方、学ぶ会では、第1回全国大会が大成功裡に行われ新しい路線、「正統生長の家」の樹立をめざす“真理護持拡大路線”の運動が始まった「創造(うみ)の始動(はな)」の年である、と解釈されるでしょう。
しかし、神示には
>>世界に中心が幾つもあって争っていて人類が幸福になれるなどと思うな。太陽系にも中心が一つであり、電子群にも中心が一つであり、人間にも頭が一つであり、樹木にも中心の幹は一つである。極微のものから極大のものまで皆中心は一つである。この事実を見て宇宙の意志を窺えよ。地上の国々だけが中心が幾つもあって好いと思うな。複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。<<
とあります。
>>世界を一つに統一する運動に二つある。一つは露西亜(ロシア)から始まっている運動で、世界を物で支配する運動である。もう一つは霊(ひ)の本(もと)から始まっている運動で、世界を霊で支配し、一つの光明に統一する運動である。この二つの運動の衝突は避けられぬ。時機は迫っているのに、まだヒノモトの使命を知らぬ者があるのは歯痒(はがゆ)い。本当の愛は甘えかす愛ではない。戦いの愛である。<<
と結ばれていますが、
「霊(ひ)の本(もと)から始まっている運動」が「世界を霊で支配し、一つの光明に統一する運動である」ということになるのだと思います。
それは、口先だけでなく、本当に自我を滅して「一」なる神、完全円満なる神を信じ、その神意に中心帰一した運動を展開したところが現実世界の中心となる、と解釈できるのではないでしょうか。
>>複数の中心はニセ物であり、無中心主義もニセ物である。<<
とありますから、「棲み分け」でよい ということにはなりません。
そうして、
>>本当の愛は甘えかす愛ではない。戦いの愛である。<<
とありますが、これは、自我を死に切ったとき「すべては自分」なのであり、一人一人が己の「自我を死に切る」戦いをしなければならないのだ、と私は解釈いたします。
○
さて、私自身は昭和八年の生まれです。
そして今年は満八十歳になります。
八十は、八 +(プラス) です。
だから、「今年は弥々(いよいよ)開く年である。昭和八年は弥(や)の年、弥々(いよいよ)の年、八の年、ハナの年、ハリ伸びる年、ハジメに開く年」 それに +(プラス)のつく年であると自覚いたしました。
私は、これからの人生を、「余生」だとは思っておりません。
本当の光の人生が、これから始まるのだと思っております。
「創造(うみ)の始動(はな)」が、これから始まるのだ、と思っています。
「今、起て!!」 であります。
感謝と喜びで、いっぱいであります。
ありがとうございます!!
1957
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:07:02 ID:R1D4Jmeg
訊け様
>雅宣総裁松模様2012年11月22日より >「天孫降臨皇御国」というのは日本国のことではなく、神の御心が十分に反映した平和な世界のことだと書いてあります。「天孫降臨皇御国」とは、現象的な日本国家のことではなく、世界平和が実現したさいの地球世界ということ、さらには地球を含んだ宇宙をも意味していると考えられます。
上記が現象の日本国のことではなくと言いながら、後半部分に自分の好きな「世界平和を持ち出して」持論の「世界の平和が実現したさいの地球世界」とハッキリ地球と現象世界を示している。現象の世界平和の話をしている。
これでは、谷口雅春先生と同じ思想とは言えない。 全く異質な独自の解釈と言える。
1958
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:21:20 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま ありがとうございます。
>>1956
元気一杯悦び一杯!! その場その場を喜んで今を生かして神の子を生きていこう!!
その事が、それぞれの組織活動を生かし、信仰生活の極意なのですね! と私は思わせていただきました。
復興G様の 若々しく力にあふれた言葉に元気をいただきました、有難うございます!!^^(合掌)
これからは、復興 若 様と呼ばせていただきましょうか?? とても嬉しくなってしまいました!!
1959
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:29:34 ID:R1D4Jmeg
復興G(若)さま
質問させていただきます、組織の中心者が神の御心から外れていた場合の運動の中で、その組織の末端の者が自我を滅して神の御心を祈り神に直結する時、その所属する組織と衝突などは起こってきませんか??
いかがでしょうか? 質問がおかしいでしょうか?
1960
:
復興G
:2013/06/12(水) 23:32:19 ID:AB6RqYXc
「今、起て!!」 について。
榎本恵吾先生は、『「発進宣言」拝誦』というご文章の中で、次のように書かれています。
○
<『生長の家』 創刊号 巻頭の言葉>
≪ 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。
友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き観はないか。
自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れてゐたのだつた。一求道者としていつまでも謙遜でゐたかつた。併し今は謙遜でありたいと云ふことが自分にとつては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分はこの誘惑に打ち克って人類を救はねばならない。自分の有つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。
自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さずにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上つた。見よ! 自分の身体が燃え尽すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。(後略)≫
尊師は、この文章のはじまる前のページのとびらともいうべきページに次ぎのように書いておられる。すなわち、
吾れを伸ばすものは、
絶えず与へてゐると云ふ感じ、
絶えず人から喜ばれてゐると云ふ感じ、
与へる歓びは自己拡大の感じ、
自己の愛が次第に拡がる感じ、
この感じのうちに生命は伸びて行く。
と。ここに尊師が“自分は幾度も躊躇した”と言われることの意味があるのである。つまり、光を受けるものから、光りを与えるものへの位置の転換ということである。照らされる自分から、照らす自分への転換であり、幽斎から顕斎への転換である。この度の住吉本宮の顕斎は、全信徒の“照らされる者から、照らす者へ”の自覚の転換である。信徒全員が“発進宣言”のいのちにたち還り、生長の火となって万物の前に起ったことを意味しているのである。
此の火は“天上から天降った生長の火”であって、人間の修業や過去の成績を因として因縁の流れによって生み出されるものではないのである。“自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ”といわれる。その「今」は「久遠の今」である。吾れといまと此処がピタリと一つになってしまっている、実相の火である。自分と今と生長の火がピタリと一つになっているところに忽然とわが内から放射する火なのである。それ故繰り返せば“自分はいま生長の火をかざして”とは自分と今と生長がひとつになった久遠の火ということである。これは絶対の生長、自からある生長である。
それ故、この火は久遠不滅の火なのである。“自分の身体が燃え尽すまで”とは、完全に実相の火のかがやきによって、肉体的存在(全現象界)を否定しつくすことを意味しているのである。却ってここに久遠の実相の火の顕斎がある。光明一元の世界。神が“光りあれ”といいたもうた光りとしての火一元・生長一元の世界が意味されているのである。(中略)
尊師がある書物で説かれているように“肉体なし”とは肉体から逃げるにあらず十方世界は吾が肉体なりと知ることである。ろうそくが燃えつきるとは、全宇宙が火であり、ろうそくであると知ることなのである。
ここで“起つ”と言われるのは、久遠の今なるいのちが起つこと、おのずから起つことを意味しているのである。
<つづく>
1961
:
復興G
:2013/06/12(水) 23:32:54 ID:AB6RqYXc
<つづき>
“今、起て!”との宣言は尊師には“「今」なる汝よ、起て!”ということであった。その天徠のコトバが自分のうちに復活して、尊師は起たれたのであった。それ故、その「今」にかえったとき、内から無限創造のいのちが動きだして起たざるを得なくなったのである。(中略)
――“友よ助けよ”――この場合、久遠の火なる尊師に呼びかけられる「友」なるものは、やはり「久遠の火」である。久遠のいのちが久遠のいのちに呼びかけているのである。観世音菩薩が観世音菩薩に呼びかけているのである。光明が光明に呼びかけている。光明の純粋持続である。尊師と吾れとの関係は光と光りの関係である。
――“人類は今危機に頻している。”――何故人類は危機に頻しているのであるか。それは“自分”が、全人類が久遠の如来そのものであり、このまま此処が天国であることを忘却しているからである。それでは、何故、さらに光明化運動を発進するか。矛盾ではないのか。ここが一番重要な問題となって来るのである。
何故、運動が必要であるのか。何故、立たざるを得なくなるのか。また、運動は如何にして可能であるのか。何者が運動をするのであるか。これらのことが常に重大な問題となるのである。
“中心者として立つ”ということは、頂点として起つということとは異っている。中心者とは宇宙の中心として起つことを意味しているのであって、神として起つこと、光りとして起っていることを意味しているのである。
ここに、謙遜と増上慢とを超えた一つの道、中心を生きる道がある。上と下とを超えたところの中心なるものの生きる道である。中心を生きるに非ず、中心なるものが生きるのである。(中略)
実相世界はわがいのちの展開である。神はわがいのちの展開である。如来はわがいのちより生れ出づるのである。すべての実在はわがいのちの展開なるが故に、われと実在との間には如何なるすき間もないのである。
そして実在の創造は忽然なるが故に時間もないのである。これを日無堅間の小舟に乗るというのである。自分が目無堅間なのである。自分のいのちの展開として目無堅間の小舟がある故に、小舟と自分との間には如何なるすき間も存在しないのである。
釈迦の拈華微笑。一つの蓮華をひねって迦葉につたえたいのちは、実にこの中心者としてのいのちの消息であり、わがいのちの消息であり、そのいのちの展開としての実在自己の展開した姿をつたえたのである。吾らは目無堅間の小舟に乗ってこの世に鳴り出でるのである。
これは、天皇の絶対性と自己の絶対性の同時成道の道である。それは、時間空間、上下左右、謙遜と増上慢を超えて中心に帰った道である。中心帰一とは中心に帰って中心と一つになることであり、自分のいのちが中心者として起つことなのである。
それは中心に帰る途中のプロセスを意味しているのではないのである。尊師が、中心者として起たれたのは、プロセスとしての中心帰一ではなく中心帰一の完成、完成の中心帰一、として完成者として起っておられることを意味するのである。
万教帰一というのも、すべてのものが一つの中心に帰るという永遠のプロセスを意味するのではないのである。いのちはすべてすでに帰一しているのである。帰一し、その中心から発しているものをいのちというのである。(中略)
これが“今”を生きるということである。これが幽斎から顕斎への転換である。住吉大神の全身全霊を生きるということである。この住吉大神の全身全霊なるいのちの輝きを生きるのが、祝福するのが神の子の自覚に点睛することである。火を点ずることである。
釈尊がお悟りになったときには山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道と万物を拝まれたのである。尊師が大啓示をお受けになられた後、庭の木の若葉にいのちの光が輝き、枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いて見えたといわれる。この万物が輝いているのを拝せられたのである。
それを“天地一切のものと和解せよ”のお言葉で歌われたのが大調和の神示である。
それは、自分のいのちが天地一切のものに和解するというよりも、むしろ、自分のいのちが天地万物から拝まれ感謝され、めでられていること、生かされていることの発見であったのではなかろうか。そのことを“わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神の力”と歌われているのである。そして、その喜びの極に歌い出されたのが「大調和の神示」であったのである。
1962
:
復興G
:2013/06/12(水) 23:46:33 ID:AB6RqYXc
>>1959
:ユタカ様
>>質問させていただきます、組織の中心者が神の御心から外れていた場合の運動の中で、その組織の末端の者が自我を滅して神の御心を祈り神に直結する時、その所属する組織と衝突などは起こってきませんか??
いかがでしょうか? <<
現象的には、「組織と衝突」のようなことが起こってくることは、ありますね。私も、経験があります。
しかし、私の場合は、不思議に、いつもなぜか「決定的な衝突」にはならず、私など、とっくに除名処分にされてもおかしくないようなことを言っていても、除名にもならず、元気に生き残っています。大丈夫です、神さまが守ってくれていますから。
ありがとうございます。
1963
:
ユタカ
:2013/06/12(水) 23:49:07 ID:R1D4Jmeg
霊的理念の事を説明しているのを、「地球が平和になった状態」と現象に結び付けて話していると思います。
追加します。
1964
:
復興G
:2013/06/13(木) 00:05:12 ID:AB6RqYXc
トキ様。
トキ様のおかげで、意義あるweb誌友会ができました。
心から感謝いたします。
過分なお褒めのコメント、ありがとうございます。
「訊け」様、力を傾注しての司会、ありがとうございました。
香様
山本富士子様
うれしいコメント、本当にありがとうございました。
皆々様、ありがとうございました。
今夜は、安らかにおやすみください。
1965
:
ユタカ
:2013/06/13(木) 00:05:26 ID:R1D4Jmeg
訊け様
天皇制の樹立の件、笑ってしまいました。なるほど、そうですね。。。
雅宣総裁の文章を読むと疲れてしまい、復興Gさまで元気がでたり、また読み直して疲れたりと
ここの掲示板は本当に忙しい。
1966
:
志恩
:2013/06/13(木) 07:24:28 ID:.QY5jUA6
復興G様 はじめ、みなさまのご投稿文を拝見させて頂きまして、
ますますこの み教えの意義深さを感じました。
誠に ありがとうございました。
1967
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 07:50:48 ID:???
>>1946
復興Gさま
ありがとうございます。長時間に渡ってのご指導を、今回も賜りました。篤く御礼申し上げます。やはり、この誌友会に参加しますと御教えの偉大さを実感致します。「さて、ところで」なんですが冒頭にて、やや余談めいた話を掲載致します。・・・昨日はお客さんを訪問後、近くの「天岩戸神社」(宮崎県高千穂町)へ行って参りました。言うまでもなく此処は、あの、天照大御神が篭られたと伝えられる、あの天岩戸を祭った神社です。・・・・・長い話を割愛しますが、ここを参拝してから「ハッ!」と気づいた(もしくは「自覚できた」)件があります。あの聖域を拝みながら思ったことは、「やはり吾々は、天照大御神の御徳に拠って生かされているのだ」と云う、事でした。これがスーッと自覚出来ました。(上手く書けませんが、自覚できたのでした。あの聖域に足を踏み入れますと、私の様なトンデモナイ男でもそんな自覚に、到ることが出来ます。w余談終了)
さて、本題に移ります。
と申しましても、簡潔なものです。
この、貴ご投稿
>>1946
に同意致します。個人的に重要だと思われるため、以下、再度掲載させて頂きます。ちなみに以下御文章は、次の疑問文への回答として、復興Gさまがご投稿されたものです。そしてその疑問文とは、「総裁が悪だとしよう。ならば我々は、いかに行動すべきや」というものです。
皆さんで以下、拝読致したく再掲載致します。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
生長の家は、和解、大調和の教えである。
しかし、和解と妥協とは違うのである。
現象の悪と妥協してはならないのである。
妥協でない「和解」は如何にすれば可能か。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現象は如何にあろうとも、実相は永遠に光り輝いている。
現象に如何なる対立の関係があるように見えようとも、そんなものは、ナイのである。
それは、教団派も、本流派も、共に本来の「一」に立てばよいのである。
「無」に立てばよいのである。
「中(みなか)」に帰ればよいのである。
そのためには、『生命の實相』に還ればよいのである。
のである。
真に、谷口雅春先生を学べばよいのである。
其処は、既に一切が大調和している世界である。
「一」なる世界である。
神こそ渾ての渾て。現象はない。実相独在である。生長の家は、唯神実相を信ずるのである。
真の中心帰一とは、「中(みなか)」より出でて「中」に帰ることである。
生長の家の信仰は、実相独在・善一元の信仰である。すべては絶対無なる「中」のいのちから咲き出でた花である。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
重ねてでは御座いますが今回も、長時間に渡ってのご指導を賜りました。篤く御礼申し上げます。
拜
追伸
榎本惠吾先生の御文章も此処に、再度掲載致します。
○ 「どこの道場がよいのか?迷った際はどうするか?」(「研修のヒント」“はしがき”)
>>1947
>>1948
○ 「今起て!」に関する、榎本先生ご解釈
>>1960
>>1961
また、教団関連問題に関する復興Gさまご見解は、
○
>>1954
○
>>1956
1968
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 07:51:29 ID:???
>>ユタカさま
>>1944
投稿文は、その様な意味ではありません。雅春先生が天皇を否定している、そんな事を述べたのでは、ないのです。
主張は以下です。
雅宣総裁の御主張が一致(雅春先生と)する以上、その考えを「日本否定・天皇否定」とするのは無理がある、という事です。
この点を了解して頂ければ、以下の意味もお解りになるかもしれません。私は、「もしも雅宣総裁が〝反天皇〟ならば、雅春先生だって反天皇論者」という趣旨の文を投稿しましたが、意味するところは「一致している以上、雅宣総裁思想を〝反天皇〟とするのはオカシイ」と言うものです。
なお、参考までに以下の御文章も掲載しておきます。以下は言うまでもなく、現総裁の御文章です。ご確認されてみてください。
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
『歴史から何を学ぶのか』62頁(『信仰による平和の道』210頁)より謹写――
(註:清超先生の御文章につづいて)ここには、どうやって神の国に近づいた国家をつくるかという方法論が書かれてあるのです。つまり「天皇国・日本」というのは、天皇のご生活 ―― これは、我々はいろいろな所で教わっていますが ―― 神意を第一として物事を行っていかれるという天皇の生き方、神意が中心となる生き方が、我々個人のレベルにもどんどん弘まっていくことによって、それが民主主義の国だったら、結果として、そういう神意を重んじる政治家が多く選ばれるようになるであろうし・・・(中略)・・・こういう文脈の中で、「天皇国・日本」は説かれているのです。
ですから、生長の家でいう「天皇国・日本」とは、大変深い意味での〝理想国家〟を指しているのです・・・(中略)・・・天皇の生き方を模範とし、神意を第一とする生き方が一人一人の国民の間に弘まっていき、外国においても、キリスト教の国ならば〝神の国〟や〝神の国の義〟を第一にする人々の数が増えていけば、そこには神意が現成した素晴らしい国家が建設されるだろうという意味であります。(後略:なお全文は上記ご著書でご確認ください)
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
拜
1969
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:11:17 ID:AB6RqYXc
皆さま、おはようございます。
昨夜 謹掲させて頂きました榎本先生の『「発進宣言」拝誦』に出てきます「久遠の今」について。
これは、司会者「訊け」管理人様が
>>1869
で紹介してくださった
・‥…━…‥・‥…━…‥・
○「久遠の今」
前編
http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
後編
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes
・‥…━…‥・‥…━…‥・
をご覧いただくと、わかりやすいと思います。
「今、起て!!」 の 「今」 は、この 「久遠の今」 でなければならない、ということであります。
なお、榎本恵吾先生の『「発進宣言」拝誦』は素晴らしいので、全文をご覧になりたい方は、「榎本恵吾記念館」サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/
の 「文書館 5」 にアップされています。
昨夜の続きを、もう少し転写掲示させていただきましょう。
○
尊師はなぜ“われは起たざるを得なくなったのである”と言わざるを得なかったのであるか。これは“神はなぜ「光りあれ」と言わざるを得なくなったのであるか”ということと同じことである。それは神は光であるからである。光がみずから光りを表現したくなったのである。それは神以外の外部的状況によって “光あれ” と言わされたもうたのではないのである。神以外には神のわざを規定づけるなにものも存在しないのである。
また尊師がなぜ、“天地一切のものと和解せよ”と発せざるを得なくなったのであるか。
木の葉の一つ一つがかがやき、そこに雀がとびうつる。その雀も光りである。その金色の雀が「発進宣言」で“友よ、助けよ”と言われる友なのである。輝く木の葉が尊師の発せられる「聖典」の言葉なのである。
歴史に発展が無いごとく光明化には発展、進歩は無い。完全の持続があるのみなのである。
愛するのではなくどっぷりと愛の海につかり切って生かされ、あまえ切っているということである。こらえ我慢し合ったりするのではない。なんともいえない、ゆたかなよろこび、勝利の喜びのひびきが鳴りだしたのだ。尊師は、 “私は神に愛されつづけて来た” と言われたとのことである。このいぶきが光明化の運動方針となって輝くとき悩みや病をも癒すものとなるのである。それは山も川も木もうたいだす秘密である。
“友よたすけよ”の友の中には、あらゆる神々が入っているのである。だから、誰が来ても尊師は神として拝まれるのである。友よ、光なるものよ!。友は釈迦が言った成仏裡の存在なのである。(中略)
<つづく>
1970
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:12:02 ID:AB6RqYXc
<つづき>
“わが光りにふれよ”とは、『七つの燈台の点燈者の神示』の中の“疑わずにわが光を受けよ”ということにあたるのである。
そして、尊師の立たれたのと同じ“光”として立つことが、神の子の一人一人に出来るのであるということを宣言されたのが同じ神示の中の“今、すべての病人は立つことが出来るのである”という宣言となっているのである。
すべての病人である。神想観が足りないという病人も、愛行が足りないという病人も、「聖典」を読むことが足りないという病人もすべてのすべての病人が立つことが出来るのである。そのままで人類の“光”として立っているのであるということへの尊師の祝福のコトバなのである。
尊師が光りを点ずるとは、この人類の本当の姿を礼拝し祝福することにほかならないのである。たしか『美しき生活』の中で尊師は、“人間はそのまま現象をこえて神の子である”と『生命の實相』によってすべての人々を拝んだ、すると気がついてみると自分もすべての人々から拝まれていたのであるということをお書きになっている。
“ 神の子人間”の神とは何かにおいて、尊師は光のみの世界を発見されているのである。あとは、光りへの拝みと祝福あるのみなのである。
われわれは、宗教によって罪と病と死との三暗黒を消してから、光りとなるのではないのである。我というものを消してから光となるのではないのである。そんなものははじめから無いのである。そんなものを放っておいて、そのまま“神の子です”と光の中に飛び込んだときに、そのあとで、罪と病と死との三暗黒は消えるのである。
光りが近づくとき“罪と病と死”の三暗黒が消えるというときの、この光は、これから光となるべき、可能性をもつわれわれ人間を照して罪を浄めてそれからやっと自分が光となるというような意味での不完全な自分を照している光ではないのである。先ずわれわれが光の中に飛び込んだとき、“光”は自分と神との一体性から輝くところの自分の光りとなっているのである。先ず、自ら光りであると宣言し光として立つことからすべてがはじまるのである。
「人類光明化運動発進の宣言」の輝きを受ける全ての人々のために書かれているのが『七つの燈台の点燈者の神示』の中の “疑わずにわが光を受けよ” なのである。
そして今、人類光明化運動はやっと産ぶ声をあげたばかりである。宇宙にしてからが、いまやっと産ぶ声をあげたばかりなのである。(中略)
『ああ、人生は何という喜ばしさだ! 私は諸君と共に手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。』(『生命の實相』第一巻39頁)
という言葉で『生命の實相』の中での「七つの光明宣言」の解説は結ばれている。この喜びはどこから出て来ているのか。この喜びはどこからも出で来たらず。或る日、忽然として、久遠の今、今、ここに自分のいのちの中から出で来たるのである。光明化をやってからという、ある時間の後、ある空間的条件をととのえたときにという外の条件によらず、自ずから立っている喜びである。常立ちの、自ずから立っている喜びが火の正体なのである。喜びを得るために発進するのではなく、“喜び”なる主体が発進するのが光明化運動の発進である。
何故に天国を建設し得るのか。それは天国なるものが動くからである。天国が天国するのが天国建設の運動である。中心が中心するのが中心帰一であると言うのも同じ意味である。
ここには天国建設の途上における犠牲ということのない道が開かれている。『生命の實相』第三巻には次のように宣言されている。
すべての人間がこの生長の家の説く真理を悟るとき、人生には、誰も人生の弾丸(たま)にあたる者がなくなる、すなわち少しも犠牲なしに地上天国になるのであります。……如何なる混乱の巷にあつても、地上天国建設途上の人生の敵弾に倒された犠牲者とはならないのであります。(『生命の實相』第三巻95頁)
ここには尊師が犠牲的立場に立って人類光明化運動を発進せしめられたのではないことを説いておられるのである。神には対立者がなく犠牲がないからである。尊師の発見された神の光明というものをそのままに輝やかせているのが人類光明化運動であるからである。何故、犠牲ということが起らないのか、ということを明らめることは、尊師の発見された神というもの、生長の家というもの、そしてかかげられる真理というもの、そして何者が発進するのかということを明らめることと直通しているのである。
<つづく>
1971
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:12:49 ID:AB6RqYXc
<つづき>
絶対不敗の光明の進軍である。
幽の幽なる吾れ。光明化運動は何ものがやるかの問題である。“発心(ほつしん)(発進)正しからざれば万行むなしく施す”という道元のコトバがある。
状況の上に立って運動を展開すると、光明一元論を全力的にうち揮(ふる)えなくなる。“いくら光明一元でもそれを知る人の数がこれだけという状況では”ということになって、力を抜かれ、きばを抜かれてしまうのである。情熱が出なくなる。それはまた、尊師への堅信の喪失でもある。
中心帰一とは中心が一(はじめ)に帰ることなり。神想観とは神が想い観るなり。神想観をして神になるに非ず。仏行とは仏が行くことである。行をやって仏となるのではない。仏となるために行をするのではない。愛行とは愛が行くのである。行をやって愛となるのではないのである。愛(神)となるために行をするのではない。「われいま生長の火」とは神想観の“われ今”である。神想観の最初のわれ、今、ここである。五官の世界を去ってから久遠の今になるに非ず。われなる今なる自分が五官の世界を去るのである。五官の世界を吹き去るのである。(中略)
『今、たて!』とのコトバによって、尊師は仏として、光として、たたれたのである。しかし、この光りは暗を知らない光なのである。暗と相対するところの光ではないのである。“光は暗黒(くらき)に照る。しかして、暗黒(くらき)はこれを悟らざりき”である。そして、“光りもまた暗黒を知らざりき”である。光明一元である。
『甘露の法雨』に“暗(やみ)に対しては光りをもって相対せよ”とある。この光りは決して暗を知らない光りなのである。
尊師が大啓示をお受けになったあとのおそらくはじめてのおコトバであると思われるのが例の詩である。「天使の声」である。
“わたしの魂は虚空に透きとおって真理そのものと一つになった。”
“「お前は実在そのものだ!」”
というおコトバを書かれたときが、そもそもの光明化のはじまりである。これが生長の火が立ったときであったのである。これこそが初発の「発進宣言」であった。
人間を見抜くという。本当に人間を見抜いたならば神の子が見えるのである。世界を本当に見抜いたら極楽が見える。尊師が宇宙を見抜かれたとき、天地一切は大調和であったのである。
暗はないとは、そこにそのまま光が充満していることである。現象なしとは、光明遍照光明充満ということである。
「世界に非道が充ちてゐると云ふことは、歴史と同じやうにそれよりも更に古い文學さへも同じやうに、否あらゆる文學中の最も古きものなる祭司の宗教と同じやうに古い嘆(なげき)である」とカントは言つてゐる。けれども生長の家は世界には何ら非道なことは存在しないと言ふのである。それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少くとも存在する限りはそれは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するやうに見えようとも、それは、「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらはしてゐるに過ぎないとするのである。(…中略…)
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。これ第一にして最後の真理である。
(『光明道中記』244頁)
<つづく>
1972
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 08:13:26 ID:???
>>1966
志恩さま
ありがとうございます。貴女様曰く「ますますこの み教えの意義深さを感じました」とのことですが、他ご参加各位も同じ感想でありましょう。同意致します。
さて、ところで復興Gさまご投稿
>>1946
文ですが、どの様な感想をお持ちになられましたでしょうか。おそらくたぶん、復興Gさまもこの点に関し、貴女さまのご返信に期待しておられるものと察します。ですのでどうぞ、「み教えの意義深さを感じました」という現在のお気持ちから
>>1946
文、拝読されての感想を寄せられてください。宜しくお願い致します。
拜
1973
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:13:29 ID:AB6RqYXc
<つづき>
説似一物即不中ということばがある。これが神であると一物を示せば即ちそれてしまっているのである。
これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
自分が光明一元のいのちに帰ったときに存在するものすべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。
尊師が、「久遠いのちの歌」において、前半の部分で、「此の身は虹の如し……」と現象のはかなさを歌っていられるようであるが、なるほど、文字はその通りであるが、ここには悲しみが表現されているのではなく、現象を超えて久遠のいのちに還った神の子が大勝利の歓喜を輝かせておどっているのである。その意味において、全面、久遠いのちの歓喜の歌なのである。
尊師が一見、現象の危機をとらえていられるかのように見えるのは、それは、現象の不完全性を、無常性を即ち非道を、即ちそこには“何も無い”“あるのは神のみ、光明のみ”の世界を指し示されているのである。(中略)
尊師の開かれ給うた世界には、光明しかないのである。すべてのものの仏なる姿を祝福されて、お拝みになり給うて、その拝みの合掌のかがやきの姿としてここに『生命の實相』は輝やいているのである。それだからこそこの『生命の實相』は、「あなたはこれを読まなければ救われませんよ。神の子になれませんよ。生長の家になれませんよ。」という姿をしていないのである。却って、
「私は、すべてのものが、はじめのはじめから、如来であることを発見したのです。この本の一行さえも、何ものをもつけくわえる必要のないいのちであることを私は発見したのです。こうして私はこの本ですべての人々を拝んでいるのです!!」
と鳴り響いているのである。ここに、“火を点ずる”ということのその“点ずる”消息があるのである。
“み心のごとくならせ給え”という祈りにおいて、“み心のごとく”とは“神の心と同じように”ということであり、神の心と自分の心とが一つであること、神と同じ光を発する主体に立つことである。神とともに天地創造のつづきを生きることである。“み心のごとくならせ給え”とは“神と同じ心とならせ給え”ということであったのである。
“信”ということは“人が言う”と書く。これは神と同じ心にかえった人が言葉を発すること。神と同じ光源に還った神の子は常に、今、此処において“光あれ”との言葉を発しているのである。“信”とは何らかの意味において自分以外のものにこちらのいのちを合わせてゆくことではない。
“信”とは却って外界の否定である。否定といえども、 それはそのまま光明が言葉によって十方世界を満たすことである。“信”は自らここに立って、自ら光りのコトバを営むことである。外なるものを全く必要としない自発のものなのである。
“われはいま生長の火をかざして立つ”というときの、生長の火とはこの“信”の誕生を意味しているのである。
<榎本恵吾先生 『「発進宣言」拝誦』 完>
1974
:
a hope
:2013/06/13(木) 08:40:34 ID:edEDolt2
みなさま おはようございます。
復興Gさま、すばらしご指導をありがとうございます。
トキさま、お忙しい中、この掲示板を管理してくださりありがとうございます。
訊け管理人さま、内容をお勉強しやすくまとめてくださりありがとうございます。
ユタカさま、いつも思いやりのある温かいお言葉をわたし達投稿者にかけて下さりありがとうございます。
そしてすべての投稿者のみなさま、「生長の家」を思う、情熱あるたくさんの投稿をありがとうございます。
今回復興Gさまがweb誌友会の教材として取り上げられた「2.26事件」など歴史の出来事に関しては、、
わたしは今まで、完全に目を背けてきた内容でした。
ですが、今回のweb誌友会で、このことを学んで本当によかったと感じています。
それは、日本人として生まれてきたことに初めて感謝ができたからです。
「天皇制」に関しても、今までは、あってもなくてもどちらでもいいようなものくらいにしか思ってませんでした。
『「生長の家の教え」は「人間は神の子である」の「唯神実相」だけでいいんじゃないの?』と思っていたのです。
ですが、その『「神の子」「唯神実相」の自覚が、そのまま顕されて国家となったのが、
「天皇国日本」であったのだ!』ということが今回勉強させていただき、はっきりと理解できました。
わたしたち日本人には、初めの初めから、「人間は神の子である」との自覚があったからこそ、
その「心」が、現象にそのまま真っ直ぐにあらわれて、「国民―天皇―天照大神(宇宙創造の神)」という
完全なる中心帰一の形ができたのだという、素晴らしい真理が今回実感としてわかった気がするのです。
でも、まだまだ、わたしは勉強不足です。
今までのweb誌友会の内容をもう一度しっかり勉強しなおしたり、
雅春先生の愛国書といわれるものも、少しずつでも拝読していきながら理解を深めていきたいです。
実は今週に入ってから、仕事が急に忙しくなったり、子ども関係のことで時間を取られたりすることが多くなりました。
ですから、思うように、web誌友会の勉強に集中できない状態が続いています。
勉強時間を増やすためと、自分自身の心をととのえるために、1週間ほど書き込みをお休みをさせていただきます。
ですが、ユタカさまの提案された、自主勉強は続けたいと思っています。
また、1週間後くらいにはこちらの勉強会に戻らせていただくつもりでいます。
みなさま、今回も素晴らしい学びをありがとうございました。
感謝 合掌。
1975
:
「訊け」管理人
:2013/06/13(木) 08:55:59 ID:???
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
病なし、迷いなし、罪なし、これが生長の家の根本真理であります。それでは神様、ただ今より眠らせていただきます。
6月13日(朝)3時30分
谷口雅春先生 最後のお言葉
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
○【動画】「永遠不滅の生命」 谷口雅春 Masaharu Taniguchi
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=CxwERhp344s
拜
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