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Web誌友会 板/2
1947
:
復興G
:2013/06/12(水) 20:34:37 ID:AB6RqYXc
さて、今「大調和」を説く生長の家がお家騒動、分裂状態で争いあっていると、世間では言われているようです。どうしてこうなったのでしょう。それは、雅宣総裁が悪いからですか? 分派が悪いのですか?
とえも、よいヒントになる文章が、榎本恵吾先生の『研修のヒント』というプリントの“はしがき”にありました。
再録させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「研修のヒント」“はしがき”にかえて
これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいのちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。
どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、次のことだけは判然としています。
すなわち、
人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。
修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。
それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。
しかし、「このことを自覚しなかったら無いのと同じで、その自覚することに当るのが、いわゆる修行である。」と従来までの宗教では説かれていたのであります。ところが尊師谷口雅春先生は、それは方便としては一応は認めておられますが、本当は人間は神の子であって、そのままで自性円満であることを発見されたのであります。それは“自覚する”という人間の修行、努力の助けを借りずとも人間をそのまま完全に生み給うた神の発見だったのであります。
自覚する、自覚しないは現象のことであって、本来“無”であります。
自覚するというのは、おのずから覚めているということであって、「……の教えによって」とか「……の修行によって」となるとそれは自覚ではないのであって、他によって覚めさせられた他覚であります。自覚とは自ずから覚めていること。私たちは自ずから覚めている生命であるからこそ、この生長の家の真理にふれることが出来たのです。
自覚しなければ無いのと同じであるというのは、それはお金などのような物質の場合の話であって、生命は自覚しない方が、伸び伸びと活動するのであります。心臓などは全くあることが解らないときが一番よく働いているときなのであります。これを「吾が生くるはわが力ならず」とも「吾がわざはわが為すにあらず」とも教えられているのであります。
もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになります。
そして、最も重大な問題は、
「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないのであります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになるということであります。
そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始るのであります。これが多くの宗派が派閥に別れた原因の一つとなっているとも考えられるのであります。
<つづく>
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