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Web誌友会 板/2
1973
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:13:29 ID:AB6RqYXc
<つづき>
説似一物即不中ということばがある。これが神であると一物を示せば即ちそれてしまっているのである。
これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
自分が光明一元のいのちに帰ったときに存在するものすべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。
尊師が、「久遠いのちの歌」において、前半の部分で、「此の身は虹の如し……」と現象のはかなさを歌っていられるようであるが、なるほど、文字はその通りであるが、ここには悲しみが表現されているのではなく、現象を超えて久遠のいのちに還った神の子が大勝利の歓喜を輝かせておどっているのである。その意味において、全面、久遠いのちの歓喜の歌なのである。
尊師が一見、現象の危機をとらえていられるかのように見えるのは、それは、現象の不完全性を、無常性を即ち非道を、即ちそこには“何も無い”“あるのは神のみ、光明のみ”の世界を指し示されているのである。(中略)
尊師の開かれ給うた世界には、光明しかないのである。すべてのものの仏なる姿を祝福されて、お拝みになり給うて、その拝みの合掌のかがやきの姿としてここに『生命の實相』は輝やいているのである。それだからこそこの『生命の實相』は、「あなたはこれを読まなければ救われませんよ。神の子になれませんよ。生長の家になれませんよ。」という姿をしていないのである。却って、
「私は、すべてのものが、はじめのはじめから、如来であることを発見したのです。この本の一行さえも、何ものをもつけくわえる必要のないいのちであることを私は発見したのです。こうして私はこの本ですべての人々を拝んでいるのです!!」
と鳴り響いているのである。ここに、“火を点ずる”ということのその“点ずる”消息があるのである。
“み心のごとくならせ給え”という祈りにおいて、“み心のごとく”とは“神の心と同じように”ということであり、神の心と自分の心とが一つであること、神と同じ光を発する主体に立つことである。神とともに天地創造のつづきを生きることである。“み心のごとくならせ給え”とは“神と同じ心とならせ給え”ということであったのである。
“信”ということは“人が言う”と書く。これは神と同じ心にかえった人が言葉を発すること。神と同じ光源に還った神の子は常に、今、此処において“光あれ”との言葉を発しているのである。“信”とは何らかの意味において自分以外のものにこちらのいのちを合わせてゆくことではない。
“信”とは却って外界の否定である。否定といえども、 それはそのまま光明が言葉によって十方世界を満たすことである。“信”は自らここに立って、自ら光りのコトバを営むことである。外なるものを全く必要としない自発のものなのである。
“われはいま生長の火をかざして立つ”というときの、生長の火とはこの“信”の誕生を意味しているのである。
<榎本恵吾先生 『「発進宣言」拝誦』 完>
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