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Web誌友会 板/2
1946
:
復興G
:2013/06/12(水) 20:33:56 ID:AB6RqYXc
■ 課題 ①
>>1906
で、司会者「訊け」管理人様が
----------------------------------------------
○総裁は悪である。ならば、我々はいかに行動すべきか
----------------------------------------------
・・・こんなテーマでやり取りするのは、いかがでしょうか。<<
と提案されたことについて。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
生長の家は、和解、大調和の教えである。
しかし、和解と妥協とは違うのである。
現象の悪と妥協してはならないのである。
妥協でない「和解」は如何にすれば可能か。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現象は如何にあろうとも、実相は永遠に光り輝いている。
現象に如何なる対立の関係があるように見えようとも、そんなものは、ナイのである。
それは、教団派も、本流派も、共に本来の「一」に立てばよいのである。
「無」に立てばよいのである。
「中(みなか)」に帰ればよいのである。
そのためには、『生命の實相』に還ればよいのである。
のである。
真に、谷口雅春先生を学べばよいのである。
其処は、既に一切が大調和している世界である。
「一」なる世界である。
神こそ渾ての渾て。現象はない。実相独在である。生長の家は、唯神実相を信ずるのである。
真の中心帰一とは、「中(みなか)」より出でて「中」に帰ることである。
生長の家の信仰は、実相独在・善一元の信仰である。すべては絶対無なる「中」のいのちから咲き出でた花である。
「中(みなか)」への還元
《谷口雅春先生。昭和40年、『理想世界』誌5月号より》
幕末の歌人、八田知紀(はった・とものり)は、この日本国が「中(みなか)」の本源に還元するとき、どんなに一時濁っているかのように見えていても、本来の姿に澄みかえることを次の如く歌っている。
いくそたびかき濁すとも澄みかえる 水や皇国の(すめくに)姿なるらん
現象を追いまわす知識や、従来の現象から蒐集した先入観念で、事件を処置していると必ず行きすぎや、やりそこないが起こってきて混乱状態に陥るときがくるのである。それは常に「現在」には「過去」になかった要素を含んでいるからである。
その混乱がきたとき、イザナギの神が「天津神(あまつかみ)」のところへ詣昇(まいのぼ)りて、「天津神」のみ心を聴きたもうたようにすれば、そこから実相本来の知恵がでてきて、混乱が収拾され、混乱と見えたものが、新たなる発展の契機となって、混乱以前の状態よりも、尚一層よい状態に移行することになるのである。(中略)
「天津神」とは宇宙本源の太極であり、絶対無であり、一切現象の未だ出現せざる以前の「中(みなか)」であり、そこに還元することによって現象界の乱れや歪(ゆが)みが去るのである。
その絶対無なる「中(みなか)」への還元の修業が、茶道といい、華道といい書道といい、剣道といい、武道といい、歌道といい、神想観というのである。
すべての日本的芸術または作法が「道」になったのも、左右分化的な分裂病的籠手先(こてさき)の巧者を越えて絶対無の「中」への還元が日本的精神の姿であるからである。(中略)
日本国は一時的にどんなに混乱することがあり、歪められることがあっても、「中(みなか)」に還元することによって本来の美しい実相があらわれるのである。
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