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Web誌友会 板/2
1971
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:12:49 ID:AB6RqYXc
<つづき>
絶対不敗の光明の進軍である。
幽の幽なる吾れ。光明化運動は何ものがやるかの問題である。“発心(ほつしん)(発進)正しからざれば万行むなしく施す”という道元のコトバがある。
状況の上に立って運動を展開すると、光明一元論を全力的にうち揮(ふる)えなくなる。“いくら光明一元でもそれを知る人の数がこれだけという状況では”ということになって、力を抜かれ、きばを抜かれてしまうのである。情熱が出なくなる。それはまた、尊師への堅信の喪失でもある。
中心帰一とは中心が一(はじめ)に帰ることなり。神想観とは神が想い観るなり。神想観をして神になるに非ず。仏行とは仏が行くことである。行をやって仏となるのではない。仏となるために行をするのではない。愛行とは愛が行くのである。行をやって愛となるのではないのである。愛(神)となるために行をするのではない。「われいま生長の火」とは神想観の“われ今”である。神想観の最初のわれ、今、ここである。五官の世界を去ってから久遠の今になるに非ず。われなる今なる自分が五官の世界を去るのである。五官の世界を吹き去るのである。(中略)
『今、たて!』とのコトバによって、尊師は仏として、光として、たたれたのである。しかし、この光りは暗を知らない光なのである。暗と相対するところの光ではないのである。“光は暗黒(くらき)に照る。しかして、暗黒(くらき)はこれを悟らざりき”である。そして、“光りもまた暗黒を知らざりき”である。光明一元である。
『甘露の法雨』に“暗(やみ)に対しては光りをもって相対せよ”とある。この光りは決して暗を知らない光りなのである。
尊師が大啓示をお受けになったあとのおそらくはじめてのおコトバであると思われるのが例の詩である。「天使の声」である。
“わたしの魂は虚空に透きとおって真理そのものと一つになった。”
“「お前は実在そのものだ!」”
というおコトバを書かれたときが、そもそもの光明化のはじまりである。これが生長の火が立ったときであったのである。これこそが初発の「発進宣言」であった。
人間を見抜くという。本当に人間を見抜いたならば神の子が見えるのである。世界を本当に見抜いたら極楽が見える。尊師が宇宙を見抜かれたとき、天地一切は大調和であったのである。
暗はないとは、そこにそのまま光が充満していることである。現象なしとは、光明遍照光明充満ということである。
「世界に非道が充ちてゐると云ふことは、歴史と同じやうにそれよりも更に古い文學さへも同じやうに、否あらゆる文學中の最も古きものなる祭司の宗教と同じやうに古い嘆(なげき)である」とカントは言つてゐる。けれども生長の家は世界には何ら非道なことは存在しないと言ふのである。それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少くとも存在する限りはそれは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するやうに見えようとも、それは、「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらはしてゐるに過ぎないとするのである。(…中略…)
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。これ第一にして最後の真理である。
(『光明道中記』244頁)
<つづく>
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