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Web誌友会 板/2

1960復興G:2013/06/12(水) 23:32:19 ID:AB6RqYXc

「今、起て!!」 について。

榎本恵吾先生は、『「発進宣言」拝誦』というご文章の中で、次のように書かれています。

         ○

<『生長の家』 創刊号 巻頭の言葉>

≪ 自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。

 友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き観はないか。

 自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れてゐたのだつた。一求道者としていつまでも謙遜でゐたかつた。併し今は謙遜でありたいと云ふことが自分にとつては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分はこの誘惑に打ち克って人類を救はねばならない。自分の有つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。

 自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さずにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上つた。見よ! 自分の身体が燃え尽すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。(後略)≫

 尊師は、この文章のはじまる前のページのとびらともいうべきページに次ぎのように書いておられる。すなわち、

   吾れを伸ばすものは、
   絶えず与へてゐると云ふ感じ、
   絶えず人から喜ばれてゐると云ふ感じ、
   与へる歓びは自己拡大の感じ、
   自己の愛が次第に拡がる感じ、
   この感じのうちに生命は伸びて行く。

 と。ここに尊師が“自分は幾度も躊躇した”と言われることの意味があるのである。つまり、光を受けるものから、光りを与えるものへの位置の転換ということである。照らされる自分から、照らす自分への転換であり、幽斎から顕斎への転換である。この度の住吉本宮の顕斎は、全信徒の“照らされる者から、照らす者へ”の自覚の転換である。信徒全員が“発進宣言”のいのちにたち還り、生長の火となって万物の前に起ったことを意味しているのである。

 此の火は“天上から天降った生長の火”であって、人間の修業や過去の成績を因として因縁の流れによって生み出されるものではないのである。“自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ”といわれる。その「今」は「久遠の今」である。吾れといまと此処がピタリと一つになってしまっている、実相の火である。自分と今と生長の火がピタリと一つになっているところに忽然とわが内から放射する火なのである。それ故繰り返せば“自分はいま生長の火をかざして”とは自分と今と生長がひとつになった久遠の火ということである。これは絶対の生長、自からある生長である。

 それ故、この火は久遠不滅の火なのである。“自分の身体が燃え尽すまで”とは、完全に実相の火のかがやきによって、肉体的存在(全現象界)を否定しつくすことを意味しているのである。却ってここに久遠の実相の火の顕斎がある。光明一元の世界。神が“光りあれ”といいたもうた光りとしての火一元・生長一元の世界が意味されているのである。(中略)

 尊師がある書物で説かれているように“肉体なし”とは肉体から逃げるにあらず十方世界は吾が肉体なりと知ることである。ろうそくが燃えつきるとは、全宇宙が火であり、ろうそくであると知ることなのである。

 ここで“起つ”と言われるのは、久遠の今なるいのちが起つこと、おのずから起つことを意味しているのである。
<つづく>


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