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Web誌友会 板/2

1969復興G:2013/06/13(木) 08:11:17 ID:AB6RqYXc

皆さま、おはようございます。

昨夜 謹掲させて頂きました榎本先生の『「発進宣言」拝誦』に出てきます「久遠の今」について。

これは、司会者「訊け」管理人様が>>1869で紹介してくださった
     ・‥…━…‥・‥…━…‥・
○「久遠の今」
前編http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
後編http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes
     ・‥…━…‥・‥…━…‥・
をご覧いただくと、わかりやすいと思います。

「今、起て!!」 の 「今」 は、この 「久遠の今」 でなければならない、ということであります。

なお、榎本恵吾先生の『「発進宣言」拝誦』は素晴らしいので、全文をご覧になりたい方は、「榎本恵吾記念館」サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/

の 「文書館 5」 にアップされています。

昨夜の続きを、もう少し転写掲示させていただきましょう。

          ○

 尊師はなぜ“われは起たざるを得なくなったのである”と言わざるを得なかったのであるか。これは“神はなぜ「光りあれ」と言わざるを得なくなったのであるか”ということと同じことである。それは神は光であるからである。光がみずから光りを表現したくなったのである。それは神以外の外部的状況によって “光あれ” と言わされたもうたのではないのである。神以外には神のわざを規定づけるなにものも存在しないのである。

 また尊師がなぜ、“天地一切のものと和解せよ”と発せざるを得なくなったのであるか。

 木の葉の一つ一つがかがやき、そこに雀がとびうつる。その雀も光りである。その金色の雀が「発進宣言」で“友よ、助けよ”と言われる友なのである。輝く木の葉が尊師の発せられる「聖典」の言葉なのである。

 歴史に発展が無いごとく光明化には発展、進歩は無い。完全の持続があるのみなのである。

 愛するのではなくどっぷりと愛の海につかり切って生かされ、あまえ切っているということである。こらえ我慢し合ったりするのではない。なんともいえない、ゆたかなよろこび、勝利の喜びのひびきが鳴りだしたのだ。尊師は、 “私は神に愛されつづけて来た” と言われたとのことである。このいぶきが光明化の運動方針となって輝くとき悩みや病をも癒すものとなるのである。それは山も川も木もうたいだす秘密である。

“友よたすけよ”の友の中には、あらゆる神々が入っているのである。だから、誰が来ても尊師は神として拝まれるのである。友よ、光なるものよ!。友は釈迦が言った成仏裡の存在なのである。(中略)
<つづく>


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