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Web誌友会 板/2
1970
:
復興G
:2013/06/13(木) 08:12:02 ID:AB6RqYXc
<つづき>
“わが光りにふれよ”とは、『七つの燈台の点燈者の神示』の中の“疑わずにわが光を受けよ”ということにあたるのである。
そして、尊師の立たれたのと同じ“光”として立つことが、神の子の一人一人に出来るのであるということを宣言されたのが同じ神示の中の“今、すべての病人は立つことが出来るのである”という宣言となっているのである。
すべての病人である。神想観が足りないという病人も、愛行が足りないという病人も、「聖典」を読むことが足りないという病人もすべてのすべての病人が立つことが出来るのである。そのままで人類の“光”として立っているのであるということへの尊師の祝福のコトバなのである。
尊師が光りを点ずるとは、この人類の本当の姿を礼拝し祝福することにほかならないのである。たしか『美しき生活』の中で尊師は、“人間はそのまま現象をこえて神の子である”と『生命の實相』によってすべての人々を拝んだ、すると気がついてみると自分もすべての人々から拝まれていたのであるということをお書きになっている。
“ 神の子人間”の神とは何かにおいて、尊師は光のみの世界を発見されているのである。あとは、光りへの拝みと祝福あるのみなのである。
われわれは、宗教によって罪と病と死との三暗黒を消してから、光りとなるのではないのである。我というものを消してから光となるのではないのである。そんなものははじめから無いのである。そんなものを放っておいて、そのまま“神の子です”と光の中に飛び込んだときに、そのあとで、罪と病と死との三暗黒は消えるのである。
光りが近づくとき“罪と病と死”の三暗黒が消えるというときの、この光は、これから光となるべき、可能性をもつわれわれ人間を照して罪を浄めてそれからやっと自分が光となるというような意味での不完全な自分を照している光ではないのである。先ずわれわれが光の中に飛び込んだとき、“光”は自分と神との一体性から輝くところの自分の光りとなっているのである。先ず、自ら光りであると宣言し光として立つことからすべてがはじまるのである。
「人類光明化運動発進の宣言」の輝きを受ける全ての人々のために書かれているのが『七つの燈台の点燈者の神示』の中の “疑わずにわが光を受けよ” なのである。
そして今、人類光明化運動はやっと産ぶ声をあげたばかりである。宇宙にしてからが、いまやっと産ぶ声をあげたばかりなのである。(中略)
『ああ、人生は何という喜ばしさだ! 私は諸君と共に手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽したいとの念願で一杯です。』(『生命の實相』第一巻39頁)
という言葉で『生命の實相』の中での「七つの光明宣言」の解説は結ばれている。この喜びはどこから出て来ているのか。この喜びはどこからも出で来たらず。或る日、忽然として、久遠の今、今、ここに自分のいのちの中から出で来たるのである。光明化をやってからという、ある時間の後、ある空間的条件をととのえたときにという外の条件によらず、自ずから立っている喜びである。常立ちの、自ずから立っている喜びが火の正体なのである。喜びを得るために発進するのではなく、“喜び”なる主体が発進するのが光明化運動の発進である。
何故に天国を建設し得るのか。それは天国なるものが動くからである。天国が天国するのが天国建設の運動である。中心が中心するのが中心帰一であると言うのも同じ意味である。
ここには天国建設の途上における犠牲ということのない道が開かれている。『生命の實相』第三巻には次のように宣言されている。
すべての人間がこの生長の家の説く真理を悟るとき、人生には、誰も人生の弾丸(たま)にあたる者がなくなる、すなわち少しも犠牲なしに地上天国になるのであります。……如何なる混乱の巷にあつても、地上天国建設途上の人生の敵弾に倒された犠牲者とはならないのであります。(『生命の實相』第三巻95頁)
ここには尊師が犠牲的立場に立って人類光明化運動を発進せしめられたのではないことを説いておられるのである。神には対立者がなく犠牲がないからである。尊師の発見された神の光明というものをそのままに輝やかせているのが人類光明化運動であるからである。何故、犠牲ということが起らないのか、ということを明らめることは、尊師の発見された神というもの、生長の家というもの、そしてかかげられる真理というもの、そして何者が発進するのかということを明らめることと直通しているのである。
<つづく>
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