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Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

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 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

178復興G:2013/02/15(金) 18:24:47 ID:AB6RqYXc

web誌友会テキスト 『生命の實相』第2巻より<1>

   第五章 神への道しるべ

 霊眼で多数の人が同時に「生長の家の神さま」を拝したという話がでましたので、いよいよ神さまとはどんなものだということを説明すべき段どりになりました。

 哲学的には神とは「大生命」だ生命の大本源だ、といってしまえばなんでもないようなものの、神とは必ずしもそんな抽象的なものではなく、活ける愛の神、生命の神、知恵の神、美の神であって、それを見る目さえあれば、人と人とが相対するように、人格的にさえもあらわれたまうのであります。キリストの神がそうであった。旧約の預言者にあらわれた神がそうであった。そのほかいろいろの宗教の開祖たちには神さまのみ声を直接にお聞きになった方が多いのであります。
 「われ神を見、神より聞きしところをなんじらに伝う」そこにこそ真の宗教の教祖たる権威があるのであります。

 ところがふつうの人には神は眼では見ることができないのですから、それを見た人が説明してあげてもなかなか納得できるものではないのであります。たとえばここに生まれつきの色盲の人があって、その人には青い色がぜんぜん見えないとしますと、この色盲の人にあなたの見た色のほかに青い色というものが存在するぞと教えてあげても、その人は本来、青い色を見たことがないので、かえって色盲でない方の人のいうことを疑ってかかることになります。神の見えない人は色盲でなくていわば心盲です。色盲が青色の存在を信じないと同じように心盲が神の存在を信じないのも無理はないのであります。

 そこで理論的にでも神の存在の説明をせねばならぬことになるのですが、この、神さまがあるという事実を知らして人間を導こうという宗教なるものがいろいろの宗派にわかれていまして、互いに他の宗派の悪口をいっているような状態ですから、はじめて信仰の道に入ろうとする人にはどちらの宗派のいうことが正しいのだか見当がとれないのであります。
 真宗の人は阿弥陀仏だけを信じて、南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと、日蓮上人などは、『無量義経』においてお釈迦様は今まで四十余年間にわたって説教したことは方便にいったことで真実をいったのではない、今こそ本当の真理を説くといって『妙法蓮華経』をお説きになったのであるから、この『妙法蓮華経』に説かれてあることだけが本当で、それまでの説法は嘘である、むろん念仏をとなえて救われるなどということは真っ赤な嘘であって念仏をとなえれば無間地獄(むけんじごく)におちるといって日蓮上人は親鸞聖人の教えを非常にわるくいっています。
 同じ仏教のうちですらも、こういうふうにいろいろな説があって、互いに争っている始末でありますから、ましてキリスト教と仏教とにいたっては犬猿もただならない間柄で、時々大道でもキリスト教の路傍伝道者と仏教の布教師とが争っている有様を目撃するのであります。
 先日ひとかどの人格者であられると思っていた、キリスト教信者の発行していられる雑誌を読んで見ますと、「日本のどんな片田舎へいっても天理教や金光教の教会はあるのに、キリスト教の教会はめったにない、もって日本のいかに迷信国であるかがわかる」というようなことをいっておられるのを見て、わたしはあきれてしまったのであります。

 もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。天理教でも金光教でも神様から示された教えは実にかがやいている。文学者として有名な倉田百三氏なども、天理教祖の「みかぐら歌」を実に深い立派なものだといって賞めていられますし、金光教でも高橋正雄さんなどの信仰になるとずいぶん深いところにはいっていられて、必ずしもキリスト教信者よりもその信仰の正しさが劣っているとはいわれないのであります。

 こうなるといよいよもって、どの宗教を信じてよいかわからなくなるのであります。一つの宗教を信ずれば、ほかの宗教の神さまからは外道だとか邪道だとかいって叱られそうでありますから、まあまあ触らぬ神に崇りなしで、どの神さまをも信じないでおこうという人もできれば、宗教相互の間にそんなに矛盾衝突があるのはどの宗教も真理でないからだと思う人もできてきますので、これは実に残念なことであります。
<つづく>

179復興G:2013/02/15(金) 18:25:33 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<2>

 聖書にはこう書いてある、日本の古典にはこう書いてある、などといいましても、あらゆる権威に対して新しい科学的批判を加え、その批判をパスしたものでないと信じないのが現代人でありますから、科学的には今よりもズッと野蛮な時代に書かれた古書経典に何らの権威をも認めないのは当然であります。

 それでは現代人は何によって神の実在(おられること)を知ることができるのでしょうか。わたしの考えではわれわれが神を知ることができるのは、われわれおのおのの内に神と同じものがあるからであります。

 たとえばわれわれがバラの色を観てこれを美しいと感じる。この美しいというのは、たいていの人はバラの花だけの美しいのをわれわれが感ずるのだと思っていますが、実は自分の心に美しさがあるから、バラの花の美を感じうるのであってバラの花そのものだけが美しいのではありません。
 バラの花そのものだけが美しいのでありましたら、猫がバラの花を見ても美しいと感じなければならない、鼠がバラの花を見ても美しいと感じなければならない。ところが猫が花を植えて楽しんでいるのをわたしたちは見たことがありませんし、鼠がバラの花を見て、その美に感心しているのも見たことはありません。
 これによってみても、美しさは観る人の心が対象たるバラの花に映って、その反射が自分の心に返ってきて、そこで始めて美しいと感じることがわかるのであります。

 すなわちバラの花を見て美しいということがわれわれにわかるのは、われわれ自身の心のうちに「美しさ」があってバラの花という鏡に映し出してみて、はじめてこれを美しいと感じるのであります。美学、すなわちわれわれがなぜ美感を感ずるかということを研究する学問ではこれを「感情の移入説」といって、学界で一般に肯定されている学説であります。

 そこでわれわれはバラの花の美を感ずる。しかし同じバラの花の美を感ずるにしましても、それを感ずるわれわれの心のうちに宿っているところの「美」がどの程度まで開発されているかによって、美の感じかたにも、深さがいろいろあるのであります。

 たとえば皆さんが花をお活けになるにしましても、自分の心のうちの「美」が磨かれている人ほど、美に対する感覚が鋭敏であります。それでこの枝をこういうふうにしたほうがいっそう美があらわれるということがわかるのであります。
 この美があらわれるという美は本来どこにあるかといいますと、花をお活けになる御本人の心のうちにあるのであります。心のなかに活ける前から、ちゃんと色の美しい配列の仕方が描かれている、その心のうちにえがかれているとおりの姿に花を配列すると、はじめて美しい活け花や盛り花ができあがるのであります。

 だからわれわれは活け花の美を見ることは活けた人の心の美を見ることであります。活ける人の心に美がなければ活け花の美はありません。しかし猫や鼠が活け花を見ましてもそれを美とは感ずることはできません。活け花の美を最も深く感じうる人は、花心のある人――すなわち活け花の美しさをはじめから心の内に育てている人であります。
 すなわち「活け花を見る」と簡単にわれわれはいいますけれども、実は活けた人の心の美がそれを見る人の心の美とぴったりあって、隠れていた美が表面にでてハッキリするのであります。

 そのようにわれわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい触れてもそれを感ずることができません。
 もしわれわれが神を見ることができ、あるいは神を感ずることができますならば、その人のうちに神がやどっているからであります。
 すると神を見ることも感ずることもできない人には、神が宿っていないのであるかと申しますと必ずしもそうではありません。あまり現在の境遇に満足し切っている人は神をもとめる必要がないから、神を見ることも感ずることもしないのであります。
 それは神を見ることができないのではなく、しないのであります。
<つづく>

180復興G:2013/02/15(金) 18:27:02 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<3>

 たとえばあまり美しい景色のなかにいて、そのままで満足しきっている人には活け花も盛り花も不要なのであります。人間が活け花や盛り花を工夫して住居を飾るのは、自分の住む現在の周囲に不満足なところがある。すなわちまだ美に不足したところがある。そこにもっと円満な美をあらわしたい――こう思うから活け花や盛り花でお座敷を飾るというようなことをするのであります。

 そのようにわれわれが神をもとめるのは、何か自分自身の生活または自分の周囲の生活に不満足な不完全な状態があるからであります。
 キリストが「富める者が神の国に入る事のむずかしいのは、らくだが針の孔を通るよりもむずかしい」と嘆じられましたのは、富める者の驕慢な心が神のみ心にかなわないという意味もありますが、現状に満足しているものは、みずから進んで神の国に入ろうとしないことをいわれたのでもありましょう。
 またあるときには「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」といわれたのも、貧しくして現状に不満足なものほど神の国に入りたいという欲求が盛んになることをいわれたのでありましょう。

 こう申しますと神の国はただ貧しき人のみに与えられる福音のように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではないのであります。現在の人間生活というものをまともにみて、そこになんらかの不満足を感ずる人ならば、それはたとい王様であっても「貧しき者」であって神の国に入ることができるのであります。
 釈迦牟尼はマカダ国の王様の皇太子でありながら、周囲の人間生活の不完全――すなわち生老病死の四苦を見て、もっと完全円満な世界をもとめてそこにはじめて神の国(さとりの道)に入ることができられたのであります。

 われわれがこのように現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらないで、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはピッタリ調和することのできない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。
 われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想することができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち神であります。

 このようにわれわれが現状に不満足であって、いっそう完全円満なものを予想する性質をもっている限りわれわれの内には神が宿っているのであります。
 このようにわれわれ人間にはみな神がやどっているのでありますが、その神性の開発されている程度はいろいろでありまして、そのために世界の宗教には、いろいろの宗派がわかれ、礼拝する本尊となるべき神仏にも、いろいろのあらわれ方があるのであります。
 それはちょうど、われわれが活け花をするときに、花を生ける人おのおのの心のうちに開発されている「美」が活け花になって、そこに内在の美が外に客観的に現われる時に、いろいろのあらわれ方をして、いろいろの流派となるのと同じであります。

 このように人間の心の内部にある「美」が外界に投射し出され客観化(かたちにか)して「活け花の美」となりますと同じように、人間の心の内部にある完全円満さ、すなわち神性が外界に投射せられて、それが客観化されたのが神であります。
 無神論者のなかには神とは人間のつくったものであって、神が人間を造ったのではないという方がありますが、それも一理はあるのでありまして、人間に本来神性がなければ神をつくることも想像することもできないのであります。人間の内部精神に美がなければ活け花を美しく活けることもできないのと同じであります。

 ところが活け花は流儀流儀でいろいろの型がありますけれども、そこに「美」があらわれているということは否定することができないのであります。各流の活け花がいずれも「美」であるということにおいては一つでありますが、そこに人間個人個人の性格や、大きく見ては民族的に見ても、その美のあらわれ方が違うのであります。
 外国には活け花などはまったくないけれども草花を愛する性質は非常にすぐれているとか、日本画と西洋画とは味がちがうけれども「美」であることは一つであるとか、日本舞踊と西洋のダンスとはそれぞれ形はちがうけれども「美」ということにおいては一つであるとかいうふうにであります。
<つづく>

181復興G:2013/02/15(金) 18:28:48 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<4>

 わたしは今「美」であることにおいては一つであると申しました。「美」のあらわれ方はいろいろあっても、それが「美」として感じられる限りは、そこに共通のもの――すなわち一つのものがどれにもあるのであります。
 美しいものを観たときにわれわれが感ずる感じを振り返ってみますと、それはなつかしきものにめぐり会っ忙ような感じがするのであります。今までおさえつけておいた生命の障硬が除かれていきいきと生命が躍動するような感じがするのであります。こういう共通の感じを受けますのは主観的に心のうちだけに潜められていた「美」が客観的に外部に投射し出きれて、はじめて表現の自由を得るからであります。

 「美」の世界を深く掘って行きますと、どこまで掘っていっても行き詰りがないのであります。ここまで美しければ、もうそれ以上の美は求める必要がないというような終点が「美」にはないのであります。大芸術家ほどこのことをよく知っていまして「芸術は生涯の修行」であるとは芸道の各人たちからたびたび聞く言葉であります。
 このようにわれわれの感ずる「美」は無限の美を予想し、それを理想としていて、その無限の美に到達することを念願としているのであります。このように無限の美をわれわれが予想し、心に描くことができるのは、すでにわれわれの心のうちに「無限」の美がひそかに宿っているからであります。

 外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。

 われわれのうちに宿っている円満完全性――これをさっきは神であるといいましたが、今はわれわれに宿っている「無限性」を神であると申すのであります。つまり、「円満完全性」と「無限性」とは同じものであります。無限であってこそ完全円満なのでありまして有限なものはそれだけに限られていてけっして円満完全でありえないのであります。

 われわれの生涯の課題はこの「無限性」をいかに完全に開顕するかということであります。すなわち有限の形を通して無限を生きる――ここに有限は無限の「真」に対してただ一個のシンボルとして存在するにすぎないのであります。われわれのあらゆる努力は、誰の努力でも有限の形を通してできるだけ無限に生きようとしているのであります。
 お金をふやそうとする努力でも、名前を残そうとする努力でも、芸術家の美に対する追求でも、道徳家の善に対する追求でも、「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」というような瞬間に焦点をあつめたような生活でも、有限の形を通して無限をどうかして完全に生きたいという、本能のあらわれにすぎないのであります。

 こういうふうに人間の内部には誰の内部にでも「無限」がやどっているのであります。ところが「無限」というものは必ず絶対ということをともなうのでありまして二つも三つも同時に「無限」があちこちにいくつもあるというわけには行かないのであります。
 たとえば自分が無限の金持ならば、他の人は無一文に相違ないのであります、自分も無限の金持であり、同時に他の人も無限の金持であるとしますと、それは一つの無限の富を共有しているからであります。
 一つの無限の富を共有しておれば、何人(なんぴと)でも同時に無限の金持であります。

 これと同じようにわれわれすべての人間が「無限」を自己の内にやどしている場合にはそれは一つの「無限」が共通にわれわれに宿っているからであります。一つの「無限」がいくつにも分化してわれわれおのおのの内部に宿ってわれわれの真我、無限性、仏性または神性になっているのであります。
 それでわれわれに宿っている「無限性」からいえば、その本源たる「無限者」はわれわれの親であり、われわれはみんな「無限者」すなわち「神の子」であることがわかるのであります。

 <一応ここまでとさせていただきます。>

182トキ:2013/02/15(金) 20:45:49 ID:MkJelLVU
復興G 様

 ご多忙の中、すばらしいご文章をご紹介下さり、ありがとございます。
本当に、感謝申し上げます。

 今回も誌友会、楽しみにしております。よろしくご指導のほど、お願いを致します。

合掌 ありがとうございます

183a hope:2013/02/15(金) 21:24:26 ID:TqpbsVIM
第11回WEB誌友会開会の時刻 が近づいてまいりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉を掲載させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

(準備祈願) 住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
  住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
  今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
  住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
  今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
  有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

184a hope:2013/02/15(金) 21:30:45 ID:TqpbsVIM

聖典「真理の吟唱」より『天地の万物を祝福する祈り』

神は常に働きたまう。
神の働きは常に調和した働きとなって顕れてくるのである。
なぜなら、神は一切のものの根元であり給い、一切のものは、
神の一つの智慧によって統一せられているから相克摩擦ということはないからである。
神の働きは常に一切のものが調和した働きとなってあらわれてくるのである。
もし不調和なことがあらわれてくるならば、それは、自分の〝我の心〝が、
〝神の心〝に一致しないところがあるために、神そのままの調和した智慧があらわれて来ないからである。

われは今、一切、心を虚しくして、〝我の心〝を去ったのである。
それゆえに必ず〝神の智慧〝があらわれるのである。
今まで〝我の心〝が去るとともに滔々(とうとう)として〝神の叡智〝は流れ入ってくるのである。

われは今、神の御前に坐して、われ心を空しくして神に向かう。
それゆえに、〝神の叡智〝われに流れ入りて、人に応じ、時に応じ、
場所に応じ、事に応じて、すべてを生かす働きがおのずからできてくるのである。

われは今、神の御前に坐して、わが心空しくして神に向かう。
それゆえに〝神の愛〝われに流れ入りて、一切万物を祝福したまうのである。
神は我れを通して一切万物を祝福したまうがゆえに、我はまた一切万物を祝福するのである。
一切万物を我れは祝福するがゆえに、一切万物は我れの味方であり、我れは万物の味方であり、
互いに制し合うことなく、互いに生かし合いばかりになるのである。

ああ、互いに生かし合いの世界の清く美しく楽しきかな。
今ここに、地上に天国は建設せられたのである。
ここがこのまま天国の実現であり、完全にすべての人は自由であり、
すべての出来事は処を得、時にふさわしく、あるべき処に、
あるべきものが実現して、まことに調和したすがたであるのである。

今、ここに我が家に天国が実現しているのである。
されば、すべての家族ことごとく健康に、愉しく、不平をいうものも一人もなく、
その計画するところの事は必ず成就し、欲する事物はことごとく集まり来り、
欲せざる事物はことごとく消滅するのである。

まことにも我が家は、神に祝福された天国の家である。
我れ神に感謝し奉る。

 合掌。

185トキ:2013/02/15(金) 21:42:35 ID:MkJelLVU
 ありがとうございます。本日もよろしくお願い申し上げます。

186復興G:2013/02/15(金) 21:43:00 ID:AB6RqYXc

a hopeさま

ありがとうございました。

すばらしい 『天地の万物を祝福する祈り』、拝読・心読いたしました。

すでに祈りは叶えられました。
ありがとうございます。

合掌

187トキ:2013/02/15(金) 21:48:10 ID:MkJelLVU
復興G様、ご指導を感謝申し上げます。a hope様、お祈り、ありがとうございました。

188復興G:2013/02/15(金) 21:51:12 ID:AB6RqYXc

時間はたっぷりとありますから、皆さま、お気楽に、そしてご遠慮なく、疑問点でもなんでもお書き込みください。

ありがとうございます。

189復興G:2013/02/15(金) 21:54:50 ID:AB6RqYXc

トキ様、たいへんお世話になります。

よろしくお願いいたします。

合掌

190トキ:2013/02/15(金) 22:08:51 ID:MkJelLVU
>>178

 いつも素晴らしいご指導、感謝申し上げます。


 無神論者の事が書いてありますが、若い頃は神様なんかいるものか、という人が多いみたいです。
ところが、ある程度、年齢が行くと、そういう考え方から脱皮する人が多いように思えます。

 実は、私の大学時代の恩師がガンになったので、教え子が集まって病院にお見舞いに参上したの
です。すると、その恩師がしみじみ話していたのは、自分が現在の地位に就けたのは、自分が才能
があり、頭がよく、努力したからだと思っていた。しかし、自分がガンになって感じたのは、実に
自分は無力である、という事実だ。ようやく、自分は神様について考えるようになった、という内容
でした。

 ただ、宗教家と言われる人にも、いろいろとあります。先日、法要があり、私も出席したのです
が、若い僧侶がたいへん偉そうに怒鳴るので、実に不愉快になりました。修行の出来ていない私は
怒鳴りかえそうかと思いましたが、場所柄を考えて、我慢しました。

 が、翌日、怒鳴った僧侶のお寺の和尚様がわざわざ私の家に来て、先日は、私の寺の僧侶が失礼をして
たいへん申し訳ありませんでした、と最敬礼をしてお詫びをされました。それを見て、自分はまだまだ
修行が足りないと痛烈に反省をしたのです。

 それ以来、いろいろと思案をしているところです。

 とりとめもない感想を申しあげて、すみませんでした。

合掌 ありがとうございます

191a hope:2013/02/15(金) 22:17:47 ID:TqpbsVIM
復興Gさま トキさま、ありがとうございます。

今回は、ちょっと忙しかったので、まだ、テキストの範囲を全部拝読し終わっていないのですが、
途中までのところで、少し気になったところがあるので、質問させていただきます。

p141 五行目〜  (復興Gさま謹写箇所 >>178 後半部分)

『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、
人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』

とありますが、この文章からすると「生長の家の教え」にも、
人の造った部分と神の造った部分があるように思えます。

わたしは、谷口雅春先生は、「自分は(神の声を伝える?)ラッパである。」とおっしゃっていたそうですが、
現象人間の雅春先生は「一求道者である。」と謙虚であらあれたと聞いています。

わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 
どうなのでしょうか?


わたしのような、新人がこのような生意気なことをいうと、気分を害される方も多いのではないかと感じています。

ですがわたしは、どうしても真実が知りたいのです。
みなさま、a hope の礼儀知らずどうぞお許しください。

そして、遠慮なくご教示、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

192復興G:2013/02/15(金) 22:39:25 ID:AB6RqYXc

>>190 :トキ様。

私も、おっしゃるとおりだと思います。

「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」というのを実感しますね。合掌の指揮者でも、若造は威張って指揮する、80歳を超えた超ベテランの指揮者が実に謙虚で、「皆さん、ありがとう」と感謝讃嘆しながら指揮される、というのも、私はいま体験しています。

>>191:a hopeさま。

>>『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』
とありますが、この文章からすると「生長の家の教え」にも、人の造った部分と神の造った部分があるように思えます。……<<

するどいご質問ですね。
私からお答えする前に、皆さまからのご意見を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

193トキ:2013/02/15(金) 22:53:12 ID:MkJelLVU
>>192

 などほど、「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」ですね。私は確実に若造ですから、耳が痛いです。

>>『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』

 その話って、総裁がよくされる「卵の気味と白身の話」ですね(笑)。

 もちろん、人の作った部分は面白くないというのは事実だと思います。しかし、これは、それを安易に濫用するのはたいへん危険だと
感じます。やはりひととおり、修行をしてから、その上でないと判断はできないと思います。

194復興G:2013/02/15(金) 23:08:04 ID:AB6RqYXc

a hope様のご質問について。『生命の實相』第1巻「總説篇」p.14〜15に、次のようにありましたね。ご参考に提示させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

   「生長の家」とわたし

 「わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。諸方の読者から集まって来る多くの讃辞は、わたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。

 なかにはわたしを教祖あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教祖ではない。わたしは諸君と共に『生長の家』の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一人の求道者にすぎない。わたしがまだこの世的な悩みをいく分でも持っているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。

 むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。霊きたりてわたしを導く。弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。第二号の『生長の家の歌』のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。

 わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわらで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。それは信じてよいかどうかは知らない。しかしもし『生長の家』に教祖というものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

 「およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であるとを問わず、その源(みなもと)は霊界にあるのである。古来から神品(しんぴん)といい神徠(しんらい)といったのはこれである。

 われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKの放送に合わさなければならぬであろう。それと同じくわれらがいっそう高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。

 ここにわれらは不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。この訓練がたりないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」
   (『生命の實相』第1巻p.14〜15より)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

――上記を拝読して、考えてみましょう。
ご意見をお待ちします。

195a hope:2013/02/15(金) 23:13:02 ID:TqpbsVIM
>>193 トキさま

えっ?

>>『…もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。…』
その話って、総裁がよくされる「卵の気味と白身の話」ですね(笑)。

そうなのですか?そういえば、そんなようなお話もどこかで聞いたようなきがします。

それでは雅宜先生は、そういう理由で「雅春先生の教え」を、
ガラリと「今の教え」に変えられてしまわれたのでしょうか…

196復興G:2013/02/15(金) 23:45:07 ID:AB6RqYXc

>>191 :a hope様、>>193 :トキ様

>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが…どうなのでしょうか?<<

>>194に謹写させていただいた『生命の實相』第1巻の御文章からすると、
>>「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないか<<

というように、「神の造った部分」・「人の造った部分」と、はっきり分けることはできないのではないでしょうか。

「もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」と谷口雅春先生はお書きになっているのです。

「この部分は神から書かしめられたが、ここからは現象人間の谷口雅春が書く」などと書き分けられてはいないのですから。
そうして「不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練し」ておられた谷口雅春先生のお書きになったものに、「純粋でない雑音が混じっている」ところがあったかどうか、などということは、私たちに判断できることではありません。それは「なかった」と信ずるのが信仰ではないかと、私は思います。

したがって、「神の造った部分」と「人の造った部分」を切り分けることができない以上、「人の造った部分」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない、と切り分けてしまうのも不適切ではないでしょうか。

ですから当然、「神の造った部分」がいわゆる「卵の黄身」(教えの中核部分)で「人の造った部分」がいわゆる「卵の白身」(周辺<周縁>部分)と切り分けるわけにも行かないと、私は思います。

「卵の黄身・白身」という判断は誰が、どのようにしてするか。それは、別問題として考えるべきことでしょう。

私はそのように考えますが、いかがでしょうか。

197復興G:2013/02/15(金) 23:50:25 ID:AB6RqYXc

では、私は今夜はこれにておやすみさせていただきます。

おやすみなさい。

198復興G:2013/02/15(金) 23:56:43 ID:AB6RqYXc

あ、ちょっと気になった誤字について。

a hopeさま、「雅宜先生」ではなく「雅宣先生」です。
「宜」と「宣」は別字です。

では、今度は本当に、おやすみなさい。

199SAKURA:2013/02/15(金) 23:58:39 ID:y8fsR43M
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

遅くなりましたが…【WEB誌友会】の資料を閲覧させて頂いております…。
いつもながらの【復興G様…資料の転載】感謝申し上げます…。

何卒、「遅番組…にての参加」失礼ながら、何卒!宜しくお願い申し上げます。
                               再合掌

200SAKURA:2013/02/16(土) 00:03:54 ID:y8fsR43M
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(1) 】からなのですが……

>>178の「復興G様」の投稿から……
>南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと<…云々…
と〜〜〜思いますに「念仏…」だけでは、救われないのです〜〜〜ョネ!
これも【霊の世界…】では、以前に於きまして“投稿記載”していますが?やはり
【 意識=心 】ではと、思う次第なのです。…が〜〜〜??

先程「管理人…トキ様」が法要で?お坊様が、“威張るとの事”だそうで、これも【上下関係…】
なのですョネ!!個人的ですが、私の菩提寺のお寺は、確かに“腰の低い方”なんだと思ってい
ましたら、どうも他の処では、やはり「大住職様の顔」を伺かがっているような方がいらっしゃい
まして、これには“ビックリ”…やはり「人間関係 = コミュニケ−ション」の知識から来る
のではと思います。…が?今回、私も話す内容が、いつも宗教に付いて質問しますから、
「大住職様」も、前以上に勉強されているようにお見受けいたしますが、いつも、大それた
質問内容ばかりを「大住職様」に持ち込みます。…が?この頃では、「大住職様」サイドでは
前以上に、私が質問しても“返答…”が早くなって参りまして、こちらも次の質問に勉強でしょうか?

この様に「南無阿弥陀仏と六字の名号」だけを唱えると…救われる事は、やはり“無い!”との事
で、やはり“行じる事…”でしょうかと。
ですから、やはり日本史上でも【宗教同士の争い…】は、実に醜いものではないでしょうか??
それに、西洋の「十字軍…のような戦い(国家間)にも、発展しかねないとしますと……複雑です。
そう云えば日本でも「平安時代…」に、「鳥羽上皇?」でしたか?「延暦寺の僧侶での乱」でしたか?
この時代の出来事も、これと付随するのかも?やはり「日本…」でもあった事なのです〜〜ョネ!

さて「お寺のお坊さんも威張る人?」ほど、果たして“気位の高さ(中身の勉強)は〜〜〜?”
【 ゼロ 】に等しく思える部分もありましょうかと。

そして【信仰の正しさが劣っている?いない?】は別問題でありまして…如何に現代人が
“無神論者”が多い存在にても…「神の存在」を知ることが大切なのでしょうかと…考えさせられ
ます文章かと…思いました次第です。

                                    つづく
PS:
次に「復興G様」から“転載…頂きました資料(2)”からの感想を、順次投稿させて頂きます。

201a hope:2013/02/16(土) 00:29:54 ID:TqpbsVIM
 >>196 復興Gさま

信仰とは、100パーセント信じることなのですよね。
わたしは、そう生きたいと思っているのです。

でも、わたしは、まだまだ周りの人たちからの影響を受けやすいです。

今回のわたしの質問内容は、雅宣先生の「黄身と白身」のお考えと、
とても近いものになっていたようで自分でもとてもお驚いています。

わたしは、知らないうちに「今の教」えの影響を受けてしまっていて、
雅春先生を100パーセント信じられなくなっていたのでしょうか・・・?
とても、怖いことだと感じています。

>>196の復興Gさまの投稿を拝見して、目が覚めた思いです。

ありがとうございます。

雅宣先生の誤字のご指摘もありがとうございました。
雅宣先生にたいへん失礼なことをしてしまっていました。

わたしも、これで今夜はおやすみさせていただきます。

それでは、みなさまおやすみなさい。

202SAKURA:2013/02/16(土) 02:44:55 ID:vHmGGzRQ
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>> SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―1) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

===【抜 粋 投 稿】==================================
■>たとえばわれわれがバラの色を観てこれを美しいと感じる。この美しいというのは、たいていの人はバラの花だけの美しいのをわれわれが感ずるのだと思っていますが、実は自分の心に美しさがあるから、バラの花の美を感じうるのであってバラの花そのものだけが美しいのではありません。
 バラの花そのものだけが美しいのでありましたら、猫がバラの花を見ても美しいと感じなければならない、鼠がバラの花を見ても美しいと感じなければならない。ところが猫が花を植えて楽しんでいるのをわたしたちは見たことがありませんし、鼠がバラの花を見て、その美に感心しているのも見たことはありません。
 これによってみても、美しさは観る人の心が対象たるバラの花に映って、その反射が自分の心に返ってきて、そこで始めて美しいと感じることがわかるのであります。(一部抜粋)
==============================================

■バラの例えは、分かりやすい見かたでしょうかと、思います。…が?
同様に“視角…視点…”はそれは【その人の“心の中”の開発??】ということでしょうか?…
“オ−バ−”な話ですが【類 の 法 則 の 仲 間】でいきますと、同様な“心…”は、
“テレパシ−”の如く、“心…”に響くモノなんです〜〜〜ョネ!!その様に“類似性”もしくは
“異なる見方”とは、最終的なる原因は「環境から来る!」のではと思います。…が??
もうすぐ、此処九州はいち早く“春…”が訪れますが…此の地上に咲ききます各種の花は、神様の
世界の“多様性”を表していますでしょうか〜〜〜?

つづく

203SAKURA:2013/02/16(土) 02:46:32 ID:vHmGGzRQ
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202  SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―2) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

此処で「亡き清超先生…の言葉」からの抜粋文を…論外かもしれませんが〜〜♫〜〜

===【抜 粋 投 稿】==================================
ためしに奥深い山に分け入るならば、私達はそこにも人知れずひっそりと、美しい花が咲き誇って
いるのを発見するでしょう。その花は幸いにして今人に知られたかも知れませんが、不幸にして
人間に一度も知られる事なく、むなしく咲いては枯れる草花がどれだけ多くあったかわからないの
です。しかしこれらの草花は、人に知られるからといって美しく咲くのでもなく、人に知られない
からといってイイカゲンに咲くのでもなく、その場所に与えられた条件での最善を尽くし、せい一杯
に咲き誇っていたのであります。それはどの草花においても例外なくそうなのであります。
このような“平素の努力”があるからこそ、たまたま人に見つけられると、「ああ美しい」と感嘆され
……云々……もし彼らが「人に見られる時だけ美しく咲こう」と、平素山奥で咲いている時には怠
けてウスギタナク咲いているのであれば、それは怪物であります。そんなものはもはや「美」では
なく「醜」であり、吾々はそのような花を、とても珍重する気にはなれないのです。(一部抜粋)
==============================================

例えば…ある人は「バラの花が好き」それは、人に知られている“花…バラ”であり、ある人は
「人知れず…野に咲く花…が好き」…十人十色…ですモノ〜♫〜 今回の「WEB誌友会」にて?
お邪魔虫【SAKURA…】ですが〜〜〜【現総裁先生…擁護派…】ここでは【類の法則…】程遠い
かと〜〜〜これも「バラの花」と似ていますのでしょうかと〜〜〜?

■同じ花を見ましても「綺麗いネ〜〜」と捉えるその“心…”は、そのような似た環境かと。
つまり【環境はこころの影…】だと理解が出来まして、前以上に【類 の 法 則】にのっかり
ますには、やはり〜〜〜【自分の心を向上 = 魂の向上】更に、“奥の〜奥の〜深層部の心”を
引き出すという事かと。
【本当の自分との出会い】==>【実相の姿】に戻ることでしょうか??ミセカケの“心…”では
なく、本当の“心…”私の“心…”に宿った本来の姿が【心の現れ=実相の私=神の子の私】と、
改めて感じいりました次第です。
それは一人一人の【実相…本当の自分の姿】は異なりますから「恨みの心?憎む心?」は当然なが
ら捨て去り…このような心を捨てさえすれば「幸福…切符論」を頂けましょうかと。
かといって…そんなことぐらい〜〜〜わけないこと〜〜〜?でしょうか  (微笑)

                          つづく
PS: 今日は〜〜〜私の“独り言…”舞台〜〜の投稿に〜〜  おやすみなさいませ。
明日が…「閲覧者の皆様」に取りまして、ますますとハッピ−な一日であります事を「お祈り…」…

204るん:2013/02/16(土) 03:19:46 ID:pic01rm6
復興G様
>>したがって、「神の造った部分」と「人の造った部分」を切り分けることができない以上、「人の造った部分」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない、
>と切り分けてしまうのも不適切ではないでしょうか。


a hope様
>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
>>場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 
>>どうなのでしょうか?

少しだけ、参加させて下さいね。実は、私はずっと前から思ってた事があるのです。
すっごく生意気な書き方になりますので、申し訳ないです。初めに断っておきます。

雅春先生の男尊女卑的なところが、いやでした。そういう内容が書いてある部分は読まないようにしてました。

「実相独在」や「物質無し」は、神からきた いわゆる「真理」の部分だけど、

「男尊女卑」的な部分は、明治生まれの男性の考えで、(肉体の雅春先生の考え)「普遍の真理」とは思えないです。

実は半年くらい前に・・・拝雅春先生の書かれた(男尊女卑の)すごい内容の文が紹介されていたのを見つけました。その内容は、かなりショックな内容でした。

(内容は、下品で 書けないのですが・・・ヒントはハイ、ニコ、ポンです。ちょっと下ネタ)←↑これはやっぱり「神からきた真理」だとは思えませんのです。

205るん:2013/02/16(土) 03:39:37 ID:pic01rm6
初心者様

冠詞の件ですが、

初心者様だから、やはり哲学的な見地からおっしゃっていたのですね。

しかし、哲学的見地からの冠詞のとらえた内容のものは、今も昨日も(昨日も投稿する前に、ちょっと検索してみましたのです)

見つける事ができませんでした。

初心者さまは頭がよすぎて、特に話される哲学とかが・・私には到底、太刀打ちできませんので(全然、解らない)

昨日「あっ、これ(冠詞)なら私にも初心者様に突っ込める!!」と思ったので つい調子に乗って失礼な言い方になってしまいました。

申し訳ありませんでした。許して下さい。

206るん:2013/02/16(土) 04:14:22 ID:pic01rm6
a hopeさま

お声かけて下さり、いつも気ぃ、使って頂きまして有難うございます。

英語ですが、おそらく私はあなたの足元にも及びません。

訊け様の 英語ブログですが 2回目3回目と訪問させて頂いて問題を解いたのですが

(まあ30問位あるとして、)正解は1個でした。点数、1点ですね。(*・ω・*)ポッ>こんな点数、恥ずかしくて訊け様にも言えませんワ。



ところで、>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
>>場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 


   
こう書かれてますが、雅春先生の文章の「どんな内容」が、そう思われますか?

207復興G:2013/02/16(土) 06:52:54 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

テキストに添って、感想を書いてくださり、ありがとうございました。

>>200
>南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと<…云々…と〜〜〜思いますに「念仏…」だけでは、救われないのです〜〜〜ョネ!これも【霊の世界…】では、以前に於きまして“投稿記載”していますが?やはり【 意識=心 】ではと、思う次第なのです。…が〜〜〜??<

親鸞聖人は、「小慈小悲もなき悪人」と(肉体の)自我を否定し、「南無阿弥陀仏」を唱えて他力にすがるしかない、ということを強調されたと思います。

生長の家では、『人生は心で支配せよ』という本もありますが、それは結局「神の心で支配せよ」ということになるのであって、谷口雅春先生も、肉体の心で人生を支配しようと努力したけれどもできなかった、ということを自伝篇にお書きになっていると思います。

榎本恵吾先生が、宇治で研修生の指導を担当しておられたときに書かれた「研修のヒント」というプリントの最初に、次のように書かれています。

     ―「研修のヒント」“はしがき”にかえて―

 これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいのちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
 老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。

 どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、次のことだけは判然としています。
 すなわち、
 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。

 修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。

 それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。

 しかし、「このことを自覚しなかったら無いのと同じで、その自覚することに当るのが、いわゆる修行である。」と従来までの宗教では説かれていたのであります。ところが尊師谷口雅春先生は、それは方便としては一応は認めておられますが、本当は人間は神の子であって、そのままで自性円満であることを発見されたのであります。それは“自覚する”という人間の修行、努力の助けを借りずとも人間をそのまま完全に生み給うた神の発見だったのであります。
<つづく>

208復興G:2013/02/16(土) 06:53:48 ID:AB6RqYXc

<榎本恵吾先生「研修のヒント」つづき>

 自覚する、自覚しないは現象のことであって、本来“無”であります。

 自覚するというのは、おのずから覚めているということであって、「……の教えによって」とか「……の修行によって」となるとそれは自覚ではないのであって、他によって覚めさせられた他覚であります。自覚とは自ずから覚めていること。私たちは自ずから覚めている生命であるからこそ、この生長の家の真理にふれることが出来たのです。

 自覚しなければ無いのと同じであるというのは、それはお金などのような物質の場合の話であって、生命は自覚しない方が、伸び伸びと活動するのであります。心臓などは全くあることが解らないときが一番よく働いているときなのであります。これを「吾が生くるはわが力ならず」とも「吾がわざはわが為すにあらず」とも教えられているのであります。

 もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになります。

 そして、最も重大な問題は、
「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないのであります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになるということであります。

 そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始るのであります。これが多くの宗派が派閥に別れた原因の一つとなっているとも考えられるのであります。

 無条件にある光り。世界に比類のないみ教えにふれている私たちが、世界に比類のない調和と、拝みと、感謝の、崇高な、安らかさに満ちた毎日毎日を与えられていることに感謝を捧げる、ただ一筋の道がここにあります。

 この心に満ちて生きているとき、私たちは神への全托の道を生きているのです。神への全托の輝きに満ちている研修生をひたすら礼拝させていただくのみであります。われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。

 私は“修行をするな”というのではないのです。“修行をしなければ救われない”というのはもうすでに生長の家のみ教えではないということであります。むしろ、無条件に生かされていること、この身このまま光りであることを知れば研修が楽しくなるのであります。「研修のヒント」とは「楽しさへのヒント」ということであります。

 とにもかくにも、私達は先ず光りであり、すべては完全である神なる光りがするのであつて、「光りになるために」ではないということであります。

 どの師を選び、どの練成道場を選ぶかは全くの自由でありますが、どこに行くにしても、それは“光り”がそこを輝かせに行くのであること。“救われているもの”が行くのであって、“救われるため”に行くのではないということであります。

 ますます自己祝福と自己礼拝を歩まれんことを。研修生に栄えあれ!

 <以上、榎本恵吾先生「研修のヒント」より>

――私はここに、自力の修行でない称名念仏を説かれた親鸞聖人の境地に通ずるものがあるのではないかと思っています。ご参考までに。

209a hope:2013/02/16(土) 09:36:49 ID:TqpbsVIM
みなさま おはようございます。

SAKURAさま、るんさま、ご参加うれしいです。

実は、最近ちょっと子供のことで心配なことがあって、心に不安があったのです。
いつもは、そういう時は神想観をすると大体すぐに解決するのですが、今回はなかなか難しかったのです。

ですが、今朝の神想観のあと、現象にも明るい兆しが見えてきました。
本当に、神想観って、素晴らしいですね!!

ところで、昨晩のわたしは完全に現象に捉われていました。

>>191の質問内容も、不適切であったと反省しています。
>>196の復興Gさまからのお返事を、もう一度じっくり拝読して、考えてみたいです。

ですから、>>206のるんさまのご質問

>>ところで、>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は
>>場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが… 

こう書かれてますが、雅春先生の文章の「どんな内容」が、そう思われますか?<<

も、もう少し考えさせてくださいね。

後夜祭になってしまうかもしれませんが、自分なりのお返事をさせていただくつもりでいます。


今は、みなさまの書き込みをじっくり拝見してお勉強させていただきたいです。

感謝 合掌。

210復興G:2013/02/16(土) 09:52:57 ID:AB6RqYXc

>>204 :るん様。

率直なご感想・ご意見、ありがとうございます。

>>雅春先生の男尊女卑的なところが、いやでした。そういう内容が書いてある部分は読まないようにしてました。
「実相独在」や「物質無し」は、神からきた いわゆる「真理」の部分だけど、「男尊女卑」的な部分は、明治生まれの男性の考えで、(肉体の雅春先生の考え)「普遍の真理」とは思えないです。
実は半年くらい前に・・・拝雅春先生の書かれた(男尊女卑の)すごい内容の文が紹介されていたのを見つけました。その内容は、かなりショックな内容でした。
(内容は、下品で 書けないのですが・・・ヒントはハイ、ニコ、ポンです。ちょっと下ネタ)←↑これはやっぱり「神からきた真理」だとは思えませんのです。<<

さて、谷口雅春先生が、一見「男尊女卑」的なことを強調して説かれていることは、私も承知しています。
しかし、その真意は「男尊女卑」ではなく、たいへんな女性尊重のフェミニスト、女性解放論者だったのではないか、というのが私の感想です。

というのは、思いつくだけでも『女は愛の太陽だ』『をんな生ける意義あり』『女性の幸福365章』『女の生き甲斐』『女の教養』『女の浄土』『新しい結婚』……と、「女性の幸福」に関する本は随分たくさん書かれていますが、「男性の幸福」だけについて書かれている本は一冊もありません。(だから、白鳩会の勢いが相愛会をはるかにしのぐものになっているのではないでしょうか。)

谷口雅春先生は、男性・女性を問わず、人間は肉体ではなく時空を超えた霊的存在である、本体は神そのものであると観ておられる。だから、一見「下品」と思われるような肉体の話も、突き放して何のためらいもなしに書かれているように思われます。たとえば、「久遠天上理想国実現の神示」に

 ≪『生長の家』の因縁を書き置く。『生長の家』とは人間が付けた名ではない。神がつけさせたのである。『生長の家』とはタカアマハラのことである。―に無限に生びることを『生』と言い、|に無限に長びることを『長』と言い、―と|とが十字に交叉した中心を息叉(家)と言う、―の生命と|の生命とが交叉した中心が『家』である。イヘ(エ)のヘ(エ)は交叉の形を象徴ったものである。家のことを巣と言い、住むと言う。住むと言うのは中心に集ることである。一切のものは中心に集り、中心に統一せられることによって澄む即ち浄められるのである。

 ……生長の家を、高天原と仮名付けさせたり、生長の家と仮名付けさせたが、高天原――瑞穂の国――生長の家――この三つは三位にして一体である。『生長の家』とは『長生の家』、『無量寿の家』、即ち『不滅の家』であって、実相生命の不滅の相が家系となって連綿と続く家である、日本に於ては国と家とは一体である。全世界もまた家と国とが一体であることを教えたのがイエス・キリストであって、そのために彼は人間同士を兄弟と呼ばせたのである。併し兄弟があるばかりで兄弟相争っては家は治まらぬのである。兄弟があり、家長があり、其処に統一があって始めて此の世界が浄まって生長の家となり、不滅の家となるのである。≫

とあって、そのご講義に(『秘められたる神示』より)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 この神示にあらわれているところの『 』で包んでいない生長の家と書かれているのは、教団の名称でもなければ、雑誌の名前でもないのであります。それは「生」と「長」と「時間」と「空間」とが縦横交叉した一点の、その一点もない「中(みなか)」の世界「未発の中(みはつのちゅう)」の世界をあらわす抽象名詞なのであります。それは現象世界以前の世界――住吉世界であり極楽浄土であり、時間以前の世界なのでありますから年齢(とし)をとらない長生(ながいき)の家、無量寿の家――浦島太郎がそこに住(い)っていた間はいつまでも若かった世界――すなわち"実相の世界"であります。

 雑誌の名前や教団の名称に『生長の家』とつけられているのは、その"実相の世界"なる生長の家を説くところの雑誌であり、団体であるからで、現象界の雑誌や団体そのものが無量寿の家そのものではないのであります。『日本』という雑誌が日本のことを記事にする雑誌であっても、雑誌や発行所は日本国[そのものではなく、世界の色々の問題を取扱う雑誌が『世界』と名づけられていても、『世界』誌そのものが世界ではないようなものです。
<つづく>

211復興G:2013/02/16(土) 09:53:43 ID:AB6RqYXc

<『秘められたる神示』より、つづき>

 そのことがわかりまして、「高天原――瑞穂国――生長の家――この三つは三位にして一体である」という聖句を解釈すると本当の意味がわかるのであります。右の図解を御覧下さい。

 縦の線は「時間」をあらわします。横の線は「空間」を象徴します。時間を祖先・祖先・祖先と遡って行きますと、生命の本源たる至上者(いとたかきもの・最高者)に到達いたします。それが図解では「高」となっているのであります。生命の種子は至上者より縦に天降って来て地上に降誕し、そこで現象界に形として発芽し、それが更に縦に生(の)びるのであります。図解の縦の線に、「生」とあるのは、生命が縦に天降り、更にそれが、本源の至上者に達せんとして縦にのびることの象徴であります。

 「生」という象形文字は生命が天降って、更に縦にのびることを象どったのであります。その縦に生びるものを穗と謂います。麦の穂、稲の穂、薄の穗などすべて縦に生(の)び「萌え出でる」のであります。炎は縦に伸びて「燃え上る」のであります。だから縦の線は「火」を象徴します。火は活機さかんにして、暖かく陽性であります。だから図解には「陽」とあります。

 この世界は陽陰の結合で出来ています。縦の線は「陽」であり、男性性器も勢い旺(さか)んなれば縦に勃起します。男性の縦に対して女性は水平に横たわる。其処に陽陰の交叉が行われます。男女の肉体は、無形の陽陰の原理が象徴的にあらわれたに過ぎません。

 現象界の一切のものは、この無形の陽陰の原理が表現されているのでありまして、原子ひとつを執って考えてみましても、それは陽電気を帯電する原子核と陰電気を帯電する電子との結合から出来ており、それが更に陰陽イオンの吸引力によって複合して、複雑な分子構造にまで発展して、色々の現象界の事物を形成するに至るのであります。一個の「原子」もそれは「陰陽」の結合せる国即ち「水火(みずほ)の国」であり、「生」と「長」との原理の結合せる家、即ち「生長の家」だと謂うことができるのであります。この図解にも陽陰交叉の一点が中心になっていることを注目しておいて下さい。

 ところで、日本国は、実相世界の神なる一つの中心に統一せられている其の中心帰一秩序が最も完全にあらわれている国なのであります。神は「善人にも悪人にも平等に太陽の光熱や雨の霑(うるお)いを与え給う」筈であるのに何故、日本国を特に御守護せられるかと申しますと、それは決して依怙贔屓(えこひいき)ではなく、神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、極微の原子から極大の太陽系統に至るまで、変ることなき中心があるということであります。

 人体を構成する細胞にも、その一つ一つに変ることなき中心なる"細胞核"があるのであります。細胞核が崩壊したらその細胞は死滅しますし、原子の中心なる原子核が崩壊したら原子そのものが崩壊してしまい、太陽なる中心が途中で消滅するか破壊するかしてしまえば太陽系統そのものが崩壊してしまうのと同じであります。樹木にも変らざる中心なる幹があります。中心なる幹が枯れればその樹木全体が枯れてしまうのであります。人体にも脳・脊髄なる「変らざる中心」があり、脳・脊髄を取換えることは出来ないし、若し今後外科医術が発達して脳髄や脊髄を取換える手術が出来るようになったとしてもそれを取換えたら恐らく、以前の人間とは別の人間になってしまうでしょう。……(後略。『秘められたる神示』より)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 とあります。
 このご講義の中にも、「男性性器も……」というような表現もありますが、それが下品だなどと思う人はいないでしょう。

 古事記神話のイザナギ・イザナミの結びの物語にも、セックスのような表現がありますが、それは卑猥だなどとは思われず、日本人はそれを「神典」として来ました。そこに宇宙の真理があらわれているからでしょう。

 ……ということで、納得されませんか?

212SAKURA:2013/02/16(土) 12:55:44 ID:1qAvVM.I
復興G様 へ  観覧者の皆様 へ
こんにちは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203 SAKURA投稿の続きです…。

■「復興G様」からの“お返事”を頂きました事に…感謝申し上げます。 
尚、下記は、頂きました“お返事…>>207の投稿”中からの一部抜粋投稿せて頂きましたモノです。

===【抜 粋 投 稿 文】================================
>それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのよ
うに修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、す
なわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完
全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるもの
だけがあるということであります。<   (一部抜粋)
==============================================

「修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるモノ…云々…」此処の解釈は
如何なモノでしょうか〜〜〜と一人で考えておりますと
私の捉え方としましては【自我…我】を棄て去る…つまり【無我…】にして初めて、
「全脳なる親さまなる神が、わたくしのすべてのことを見守り下さいますモノと…そして私は
神様にすべてをまかせることとなり、当然ながら心も平和になるモノかと。それは必ずや……
成就するのである」という事なのでしょうかと〜〜〜♫
しかしながら…今の私は「我…無我」という心の修行が、まだまだ〜〜〜><でしょうかと。

それに「修行…」という“言葉からのイメ−ジ”は、どうしても個人的な解釈になりますが……
よく言いますところの修験道的(山伏)なるイメ−ジが個人的にはもたげてしまいますでしょうか?
…山に立てこもり…云々…このような感が致しますかと。
それよりも「雅春先生…神想観=瞑想」によりまして…『神様…とは〜〜〜?』
活ける愛の神・生命の神・智慧の神・美の神…云々…このように「甘露の法雨」の中にも…
そして「神との一体」を深めてまいりまして…これは「神の子なる自覚意識」に入ることとなり…
【実相世界…】への“鍵”を頂いていますモノと、個人的な捉え方に到りましたのですが…。

今回「雅春先生…」の色々なる視点での“解釈…”を改めて知ることが出来ました事に…
感謝いたします。それと共に「テキスト…教材」として取り上げて頂きました「復興G様」へ
感謝申し上げます…。

引き続き…「頂きましたテキスト…」からの閲覧にての感想を順次投稿させて頂きます。
                                   
                               再合掌

213トキ:2013/02/16(土) 15:15:28 ID:9wlISb0c
 組織にいる人間から見ると、今の生長の家は、白鳩会のほうが断然、大きな態度ですから、男性は小さくなっています(笑)
という冗談はさておき、本題に入ります。

 生命の実相の女性教育編などを拝読すると、谷口雅春先生は実に女性をほめておられます。普通の宗教が男尊女卑だった時代に
女性も同じく神の子である、と言い切られたのは実に素晴らし事です。例えば、女性解放運動の指導者だった平塚らいてふさんも
生長の家を褒めておられます。実際、青踏社の人には、平塚さんに勧められて信徒になった人もいるみたいです。

 逆に市川房枝さんなどは、生長の家には冷たかったと聞きます。

 調べてみると、平塚さんは禅を若い頃からされておられ、宗教心があったみたいです。本当に女性の幸せを祈る人は、生長の家の
素晴らしさが分かるのではないか、と思っています。

214SAKURA:2013/02/16(土) 15:44:47 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―3) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

===【投稿文】======================================
>そこでわれわれはバラの花の美を感ずる。しかし同じバラの花の美を感ずるにしましても、
それを感ずるわれわれの心のうちに宿っているところの「美」がどの程度まで開発されている
かによって、美の感じかたにも、深さがいろいろあるのであります。<  (一部抜粋)
==============================================

■そのように“心の深さ=魂の高さ”によるものと思うのです。…が?では“魂の高さ”を、
より高く〜高く〜高度にするには〜〜〜もちろんです〜〜ョネ!【真理の勉強…】
つまり、一つは【WEB誌友会…】での意見・捉え方の相違点はありましょうとも…お互いに
意見交換にての“真理を掴む”ということでしょうか〜〜〜

そういえば【別板…】で見ますと『肉体年齢??』と投稿された方がいました。…が?
「雅春先生」も【肉体もすべて、心で!決まる。つまり“精神統一に繋がる”事で……】なのでは
と、思います。「亡き母」を思い出しますと“91歳…”で他界しましたが、思い出しますと、
“89歳”までは、顔の変化もなく、その後「老人ホ−ム」に入ってからでしょうか……??
次第に“老化現象”が第三者的に見ましても、少し出始めた感が致します。…が?
それでも私たちが「老人ホ−ム」を訪ねますと、次第にお互いの会話から「亡き母」の表情が“89歳”
以前のもとの顔を、のぞかせるようになりました。…が?

                         つづく

215SAKURA:2013/02/16(土) 15:48:23 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ(2―3) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

>>214投稿の続きです…。
■やはり「心…が顔に現れる」という事を、その当時、自覚しました。…が?このように
「肉体は、仮モノ」です〜〜〜ョネ!「現象=現実…」で、その人の姿・形としての年齢を見ますと、
老化なのでしょうか?年齢制限で見てるのでしょうか?その人自身が「老化現象…」が、かなり肉体
的に顕れているので、相手に対して「にくじ事…」を言われているのではと〜〜〜?感じた次第です。

■ 別板の中の【掲示板・運営/方針 板】==========================

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/874 志恩様の投稿
↓     ↓     ↓     ↓
874 :神の子様:2013/02/16(土) 12:40:49
>>861 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11788/1346745644/861 
還暦もすぎた70歳(女性)の書き込みだって。
キモチワル 。。。
↓     ↓     ↓     ↓     
875 名前:神の子様 投稿日: 2013/02/16(土) 13:18:18
>>862
それは肉体の年でしょうが                  (一部抜粋)
=============================================

■■≪・・・???≫このよな“会話投稿”を閲覧しまして「精神年齢の幼稚さ」で“ビックリ”
です。この様に【外ばかり求める〜〜〜肉体ばかり求める方達は〜〜〜しかも本人達の年齢も?】

思いますに「投稿の会話…」では“70歳…”と聞いただけで「もう老化と断定!」して……
「気持ち悪いとか?」此の言葉は、ここに登場する事が気持ちが悪い〜〜〜?とも受け止められ、
此の人の“偏見なる見方”は、余りにも幼稚な見方で、全てが『現象的=現実的』にみて、本当に
『心貧しきモノ』という感が致した次第です。…が?このように“投稿された人物こそ”が、
今!時代の流れのピ−クでしょうか【整形のしすぎ…】であるのでしょうかと。本人自身が尚の事
“老化現象”が激しいのでしょう〜〜〜ネ!!

同じ老化でも……“綺麗〜ネと見える方”…更に同じ“70代…でも老けているネと見られる方”…
ここが「ポイント…」ではないでしょうか??「亡き母」は“89歳”までは肉体的には(顔)の
年齢が見受けられませんでした。肉体的に“老けて見られる方”は【現象論】ばかり見つめすぎて、
綺麗に見せる心の“美の開発”されていないのですかと。
先ず【実 相 を 見 る】には、それは何度も言います様に“種をまく”やがて“芽が出て来ます”

この様に『バラの花が綺麗ね〜〜〜』と云われるように〜〜〜
“心に種をまく”・・・それは【祈り…祈り…】で潜在意識の奥底の心を、引き出す事ではないでし
ょうか???最近は、確かに、現象的に「身近な…整形にての変身術」があります。…が?
『パット花…』になる事は『散るのも早い整形…かと』それよりも
『心を見つめて知識・智慧を磨く…さらに“神地一体!”…これは“祈り…”』にてと思いました。
                        つづく

216SAKURA:2013/02/16(土) 15:59:04 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (2―4) 】からなのですが……

では次に私の「亡き母」と同じ年齢の方ですが『犬養道子さんの画像』を見られたら、如何に…・
『宗教は精神と意識に繋がること……』だと思いましたので、この場にて張り付けさせて頂きます。

■犬養道子さんの写真画像ですが(2007年)の頃ですが???
http://www.inukai-kikin.jp/2007report.htm  ≪ 素敵な画像〜♫ ≫

■キリスト教特別講演会開催 (2004)年ころですが???
http://www.rakuno.ac.jp/news/200412/news28.html 

尚!現在は「老人ホ−ム」に在中との事ですが??

===【素敵なブログ… 転載記事 】============================
母はとある老人ホームに入っている。そこには、聖書の研究家として有名な犬養道子さんが
住んでおられる。ひょんなきっかけから、犬養さんを母が教会へ行くとき、母の運転する車に
おのせすることとなった。父のお別れ会のときも、ご高齢で歩くのがやっとなのに、犬養さんは
来てくださった。私は、子どものころから、聖書を読む習慣がある。洗礼は受けていない。ここ
数年、うつがひどかったせいもあり、しばらく聖書を読んでいなかった。父が亡くなって、また
読みたいと思ったが、愛用の聖書がみつからない。そこで、どうせ買うなら、英語版、しかも口
語体でなるべく易しいものを探したいと思った。どう探してよいかわからなかったので、母から
犬養さんに聞いてもらった。すると、突然、母のところに犬養さんから、さしあげます、と一冊の
聖書が届いた。それは以下のものである。私がいただき、読ませていただくことにした。

http://plaza.rakuten.co.jp/olive3518/diary/?ctgy=5 

                       つづく

217るん:2013/02/16(土) 16:03:41 ID:pic01rm6
復興Gさま

お返事を頂きまして、(それも長文)本当に本当に有難うございます。

本当にそうですね、「男性の幸福365章」なんて本はないですね。

復興G様の書いてくださいました文を何回も読みました。そしてその返信を今書いてますが

何回も書いては消し、の繰り返しで もう何十分もたってしまってます。うまく書けないのですが・・

私はそれでもやっぱり雅春先生は、男尊女卑的なところが無い。とは思えないのです。

『夫にぜったいハイ。』とか・・・・私は結婚したとしてもそんな事、出来そうにありません。

我を通すのは良いことだとは思えませんが、それは男女ともに言えることで、女性だけにそれを強いるのは違うと思いますのです。

ストレスがたまって、病気になってしまいそうです。

ちょっと、今思い出したのですが、生命の実相の何巻かに宮さんて方(女性の方)のエピソードが載ってありました。

「宮さんの夫様の入れ歯をお手伝いさんが謝って割ってしまった」事に関する宮さんの心の反省?(どんな心の影か?)みたいな事が書いてあるのですが、

(割れたのは)お手伝いさんと宮さんの心の影のように書いてらっしゃるのですが、それを初めて読んだ時、私は中学生でしたが「入れ歯みたいな自分の口の中に入れてる物を、

お手伝いさんや奥さんに洗わせて自分で洗わないことこそがおかしい。割れた原因は、むしろそんな夫さんの心の影だ。そんな気持ちでいる限りまた、割れる!」と思いました。

しかしそのことを本人さんだけでなく宮さんもお手伝いさんも誰も疑問に思わず「当たり前」としているところが、そして普通にエピソードとして載っていることが、私的には「びっくり」でした。

あっ、私の先のコメントで「内容がびっくりした。」と書きましたがその内容が載ってるブログを見つけました。私が見たのは「ここ」ではないのですが

同じ事が書いてありますのでここでもいいと思いますので、(もう知ってらっしゃる所かもしれませんが)よかったら見てください。

私が先に書いた宮さんのエピソード内容もここの内容もかなり時代錯誤だと思います。という事は「不変の、普遍の真理では無い」という事ではないですか?

明治生まれの雅春先生の人間の部分が、書かれたんではないでしょうか?

http://seichou5.seesaa.net/article/5278901.html  ←ここです。

http://seichou5.seesaa.net/article/4672695.html  ←ここも同じところですが・・

ちょっとこれから出かけます。

218SAKURA:2013/02/16(土) 16:08:24 ID:1qAvVM.I
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216 SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (2―4) 】からなのですが……

>>216投稿の続きです…。
■おなじ老人ホームの在中の方の娘さんのプログですが、そこで犬養さんから頂いた本の抜粋です。
つくづく聖典をよんで行くことでしょうか??心にス〜〜ト入りましたが??如何でしょうか??
「下ネタでかわす言葉」より「後でいい余韻を残す言葉」は、永遠性です〜〜〜ョネ〜〜〜

The New Jerusalem Bible Reader's Editin
DOUBLEDAY ISBN:0-385-24833-4

今、この中で、愛するものが亡くなった時に読む言葉を読んでいる。
それは以下のものである。

THE NEW TESTMENT より
Blessed are those who moun:
they shall be comforted.
(MATTEW CHAPTER 5 - 4)
P.1152

悲しむ者は幸いです。
その人は慰められるからです。
(マタイの福音書 5章 第4節)

Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ,the mercifull Father and the God
who gives evry possible encouragement;
he supports us in every hardship,so that we are able to come to the support of others,in every
hardship of theirs because of the encouragement that we ourselves receive from God.
(2 ORINTHIANS THE SECOND LETTER OF PAUL TO THE CHURCH AT CORINTH
INTRODUCTION
Address and greetings.Thanksgiving 3,4)
P.1339

私達の主イエス・キリストの父なる神、慈悲の神、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私達も、自分自身が神か
ら受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(コリント人への手紙第2 第1章 第3節、4節)

=====================================================
■上記は抜粋投稿させて頂きました…。
やはり「魂を磨く…向上」する事は、改めて素晴らし〜〜イ!此の「WEB誌友会」でのテキストに
より、各個人の方々の捉え方を閲覧・自分自身なりに考え直す機会を頂きます事は…感謝!です…。
そして
「復興G様」「トキ様」「a hope様」「るん様」と共に参加させて頂く機会を得ました事に
“感謝の念”を〜
                                つづく

219復興G:2013/02/16(土) 16:17:24 ID:AB6RqYXc

>>210>>211に、
『秘められたる神示』より「久遠天上理想国実現の神示」のご講義の一部を謹写させていただきましたが、その続きにも大切なすばらしいご教示がありますので、ぜひ皆様とともに拝読し噛みしめて、生長の家出現の世界的使命・神意を確認し合いたいと思い、ここに慎んで掲示させていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

<『秘められたる神示』より「久遠天上理想国実現の神示」ご講義(>>210のつづき)>

 ……即ち以前の人間は、脳髄なる不変の中心が変ることによって、もう存在しなくなるのであります。物体にしても、すべての物には、それがバランスを得るための力学的中心があるのであります。力学的中心の存在しないものは此の世に無いのであります。若し一時的に有ってもそれは安定しないで、倒れるのであります。

 このように一切の存在には変らざる中心がありますのに、"国家"なるものだけは、日本国のみがその帰一の中心として皇統連綿不変なる天皇を持続しているのであって、他の諸国の中心は常に弱肉強食禅定放伐、纂奪交替をほしいままにしており、変化常なき状態であります。
 このような諸外国の、常に"帰一の中心"の交替する状態は、実相世界の久遠常住の秩序があらわれているとは言えないのであります。このように世界に中心が沢山あり、その主権を互いに利己主義的に主張する限りに於ては、世界に戦争は絶えないのは当然のことであります。

 だから、現象世界に実相世界の調和ある秩序が影を映して、永久平和の全世界が実現するためには、

「生滅常なき現実世界が変じて久遠実相世界の常住性を顕現するには、常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて、十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬ。」

 と、神示は教えているのであります。「常住性ある国」とは、神武建国以来一度も天皇なる中心が廃れたことのない国のことであると私は考えます。

 さて、日本の皇室の御紋章の十六菊の説明がその次に書かれているのであります。即ち「十六菊と云うのは光が十六方位にひろがりて、十六方位の国ことごとくを中心に統一せることを象徴(かたちど)ったものである」と説明されております。

 これは菊花の御紋章が何故、その花弁が十六枚にしてあるのか、何故その図形に○が中心になっているのか、何故その○に十六方向の線が中心帰一しているのかの説明であります。「常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて」とありますから、何だか「常住性ある日本国が、世界各国を併合したり征服したりする」かの如く誤解を受けるおそれがありますが、そのように誤解してはならないと私は考えます。

 それは「武力で包む」のでも征服するのでもなく、「光が十六方位にひろがりて」とありますから、「武力がひろがる」のではなく、自然と天皇の御徳の光がひろがりて、全世界の国々が自由意志で会議の上、永久平和の世界をつくるには世界連邦をつくるより仕方がないと考えるとき、そうすれば、世界連邦も唯、連邦になったままで、各国、自分の好き候を主張しているのでは世界連邦以前と同じだから、連邦をつくる以上連邦政府の中央主権を象徴する神聖な何かがなければならない。

 しかし世界各国を見渡してもどこの国にもそのような神聖なる連邦政府の主権を象徴するような方はいない。どうしても、そのような「神聖な中心」を求むれば、日本天皇にそれを求めなければならないのであります。

 「光が十六方位にひろがりて」は天皇の御徳の光があらゆる方角にひろがり聞えることであって、「十六菊」とは「十六聞く」にほかならないのであり、「世界連邦の中心主権の象徴としては、どうしても日本天皇になって戴くより外は仕方がございません」と世界各国から推戴して来る時期が来ることが此処に暗示されているのでありますまいか。
<つづく>

220復興G:2013/02/16(土) 16:18:04 ID:AB6RqYXc

<『秘められたる神示』より「久遠天上理想国実現の神示」ご講義(>>210のつづき)>

 もっとも神示に内在する深い意味は、私たちが勝手に推し測るとトンでもない間違をすることがあるので、唯これは私だけの私解釈であります。しかし世界最高の知性だと称(い)われている相対性原理の発見者たる最高の科学者にして哲学者なるアインシュタイン博士も、私の解釈に似たような意見を次のように述べているのであります。

 「世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、最後に戦さに疲れる時がくる。その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主をあげねばならぬ時が来る。この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。」

 このように世界最高の知性も十六菊の家が世界連邦の中央に輝かなければならないことを説いているのであります。

 その十六の数は一六でありその数字を合すると七つと成り、『創世記』にあらわれたる世界完成の数なのであります。だからその十六菊によって世界はその調和ある結合を完成しなければならぬと私は考えます。
 ここにある"七つの燈台"とは世界完成の"世を照らす光"であると考えます。
 アインシュタインをして言わしむればその「完成(ななつ)の光」が中央にあって、世界盟主として立つところの現象世界があらわれれば、それは久遠実相の世界の高天原――瑞穗の国――陽陰和合して中心ある家――生長の家が地上に涌出したということになるのであります。

 この理想世界は地上に創造されたり、人為によって創作されたりするのではなく、涌出するのであります。「涌出」というのは、既に埋藏され秘されてあるものが、見える世界に湧き出ることであります。『黙示録』にある

 「われ新しき天と地とを見たり……新しきイエルサレムの新郎(はなむこ)のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく準備(そなえ)して、神の許(もと)をいで、天より降るを見たり」

とあるように、実相世界に既にあるものが現象世界に影を映すのであります。しかしまだ現象界にクッキリと影をうつすほどに太陽は高く昇っていない。日本の国威も信用もそんなに高く昇っていない。「太陽はまだ昇り始めたばかりである」と神は仰せられているのであります。……(後略)

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

――今月のテキストは「神への道しるべ」という章でありますが、生長の家の大神は何のために谷口雅春先生を通してこの人類光明化運動を始められたのかを再確認いたしたく、上記神示ご講義を謹写掲載させていただきました。
 なお、つづいて関連する『光明道中記』の御文章を謹写掲示させて頂きます。

221復興G:2013/02/16(土) 16:18:42 ID:AB6RqYXc

<『光明道中記』より>

   一月二十三日 寒菊競い開く日

  十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするが日本の使命である。(『秘められたる神示――神示講義〈秘の巻〉』「久遠天上理想国実現の神示」)

 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。

 理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇(スメラミコト)の御天職である。

 此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。全世界は天皇に於て一宇(ひとつのいえ)である。万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。

 病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用に過ぎない。天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、真理の中には病気不幸は存在しないが故に、病気不幸が消えるのは当然のことである。病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。省みて真理に載るものは幸である。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ありがとうございます。合掌

222復興G:2013/02/16(土) 18:55:04 ID:AB6RqYXc

>>217 :るん様

>>その内容が載ってるブログを見つけました<<

その<「21世紀生長の家研究会」のブログ>、初めて見ました。

これは本当に“下品な”、女性蔑視の俗語で書かれてますね。でも、下品な表現は、谷口雅春先生が書かれた御文章でないことはおわかりですよね。
(←は当研究会のコメントです)
と注釈してある“当研究会のコメント”部分に下品な俗語が書かれているだけですからね。

「21世紀生長の家研究会」というのは、生命の実相哲学なんかわからない、下品な野次馬さんのブログのようですから、そんなものに惑わされることなく、私たちは本物の真理を求め学んでまいりましょう。

この地上に、神は人間を男と女とにつくられた。

せっかく男と生まれ、あるいは女と生まれたのに、男だか女だかわからないような、どっちでもいいような生き方より、男は男らしく男の天分を生かし、女は女らしく女の天分を生かした生き方をする方が、生き甲斐があるような気がしますが、そうではないでしょうか。

これは、谷口雅春先生が言われるから――とかではなく、私自身の思いなのですが……。

223復興G:2013/02/16(土) 19:12:28 ID:AB6RqYXc

あ、それから、私も>>220で謹写させていただいた、谷口雅春先生の引用されているアインシュタインの言葉について、

<「アインシュタインの予言」として知られている言葉は元来、アインシュタインのものでもシュタインのものでもなかった。国体思想家・田中智学のものであった」>

という説があることを、上のブログで初めて知りました。
(谷口雅宣先生のブログで取り上げられていたそうですが、見逃していました)

まあ、しかし
「吾々は神に感謝する。天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。」
というアインシュタインの言葉はなかったとしても、「久遠天上理想国実現の神示」は神示ですから、これを深く受け止めて、神意実現の使命に邁進すべきことに変わりはあり得ませんね。

224a hope:2013/02/16(土) 19:36:06 ID:TqpbsVIM
みなさま

この掲示板でわたしが一言、発言するたびに、初心者さまとさくらさまがすごい勢いでわたしの批判をされます。

また、復興Gさまがわたしの投稿文を再掲載しても、お二人は同じことをされます。
これ以上、復興Gさまやトキさまにご迷惑をおかけすることはできません。

わたしごときの発言に、お二人がどうしてそのような反応をされるのか、今は理解できませんが、
すべての現象はわたしの心の影ですので、反省のためしばらく自粛させていただきたいと思います。

初心者さまとさくらさまをそんなにも怒らせてしまったことを、心からお詫びいたします。


復興Gさま トキさま 

しばらく、発言は控えますが、 a hopeは今回もしっかりお勉強させていただきます。
引き続き、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

225トキ:2013/02/16(土) 19:57:56 ID:9wlISb0c
>>224

a hope様

 ご投稿、ありがとうございます。

その点は気にされずに、ご投稿をお願いします。全然、迷惑になっていません。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

226SAKURA:2013/02/16(土) 21:08:47 ID:1meWUCC2
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「a hope様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218 SAKURA投稿の続きです…。

>>224「a hope様」の投稿に関しまして…(横スレにて……失礼とは思いましたが…… )

>この掲示板でわたしが一言、発言するたびに、初心者さまとさくらさまがすごい勢いでわたしの
批判をされます。<   (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■せっかく「真理…勉強」にて【魂の向上…】をなさっていらっしゃいます「a hope様」ですから、
第三者の言葉に惑わされずに…(如何なる中傷・非難の言葉)…etcであろうとも、
【神様と一体】…神様にすがる〜〜「自己意識を強く!」持たれた方が宜しいかと…思いますが?

個人的には、随分と私【SAKURAもタタカレ】ました。そして、これは「魂の成長する過程」と!
痛切に【魂の向上…】をとの思いが…今振り返りますと致します。…が?

❤Blessed be the God and Father of our Lord Jesus Christ,the mercifull Father and the God
who gives evry possible encouragement;
he supports us in every hardship,so that we are able to come to the support of others,in
every hardship of theirs because of the encouragement that we ourselves receive from God.
(2 ORINTHIANS THE SECOND LETTER OF PAUL TO THE CHURCH AT CORINTH
INTRODUCTION
Address and greetings.Thanksgiving 3,4)
P.1339

❤私達の主イエス・キリストの父なる神、慈悲の神、すべての慰めの神がほめたたえられますよう
に。神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私達も、自分
自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(コリント人への手紙第2 第1章 第3節、4節)
                               再合掌

PS:
「a hope様」の投稿を楽しみに閲覧されていらっしゃいる方が、いらっしゃいますモノと…
思います。…が?

227復興G:2013/02/16(土) 21:19:30 ID:AB6RqYXc

>>217 :るん様
>>我を通すのは良いことだとは思えませんが、それは男女ともに言えることで、女性だけにそれを強いるのは違うと思いますのです。
ストレスがたまって、病気になってしまいそうです。<<

生長の家は、人間解放の宗教であって、女性に何かを強いるなんてことはありませんよ。
妻は夫に「ハイ」と従わなくてはならない、ということに縛りを感じている人には、榎本恵吾先生はよく「ご主人を蹴っ飛ばしたっていいんですよ。ご主人は自分だ、と思えばわがままも言えるし、神様なら甘えてもいいんですよ」というようなことを言っておられましたね。

228復興G:2013/02/16(土) 21:33:06 ID:AB6RqYXc

a hope様
皆々さま

困ったときには、神様を呼びましょう。
神は遠くにいらっしゃるのではなくて、私たちの内にいらっしゃるのですから。

何があっても、大丈夫です。

「堅信歌」を歌いましょう。

一、われは聴くわが内なる声を
  “みひかりを常にもとめて
  わが御手をしかと握れよ
  安らなれすべて善ければ
  とこしえに此処極楽に
  なれは今まもられてあり。
  何者か汝を奪わん。
  大いなる我れ汝を抱けば。”

二、われは聴くわが内なる声を
  “われ常に汝をまもれば、
  われ常に汝を導けば、
  何時のとき何処にあるも、
  汝は完たく清くけがれず、
  行く道に迷うことなし。
  われは汝の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”

ありがとうございます。

229rei:2013/02/16(土) 21:33:29 ID:bo95azFI

a hope様

私はあなたの投稿楽しみに見ておりますよ。
真理を生きようとされて「愛してます」と、一生懸命書き込まれてるのがわかります。
私のココロと通ずる部分もあります。
私は読むのと書き込むのに時間がかかりすぎるので、あなた様が書き込んでくださると大変助かります。

合掌

232復興G:2013/02/16(土) 21:49:33 ID:AB6RqYXc

さて、少し私の勉強しながら考えていることを書き込ませて頂きましょう。

 (テキストp.142から)
 ≪それでは現代人は何によって神の実在(おられること)を知ることができるのでしょうか。わたしの考えではわれわれが神を知ることができるのは、われわれおのおのの内に神と同じものがあるからであります。≫

――創造の神、本源の神は、時空(次元)をも創造し給うた無限絶対者である。その絶対者なる神の具現が、わが生命なのである。だから、わが内に無限が宿っている。だから、われわれは無限絶対なる神の実在を知ることができるのである。

 (テキストp.148から)
 ≪外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。≫

――肉体には誕生日があり、「ご臨終です」という時が来る。
しかし、本体は不生不滅――いや、「本来生・不滅」――というのは、生命の本体は時空の中に生まれてきたのではなく、時空を生み出したものだということ。だから、人間の本体は生まれたこともなく死ぬこともないのである。

 (テキストp.139から)
 ≪哲学的には神とは「大生命」だ生命の大本源だ、といってしまえばなんでもないようなものの、神とは必ずしもそんな抽象的なものではなく、活ける愛の神、生命の神、知恵の神、美の神であって、それを見る目さえあれば、人と人とが相対するように、人格的にさえもあらわれたまうのであります。キリストの神がそうであった。旧約の預言者にあらわれた神がそうであった。そのほかいろいろの宗教の開祖たちには神さまのみ声を直接にお聞きになった方が多いのであります。
 「われ神を見、神より聞きしところをなんじらに伝う」そこにこそ真の宗教の教祖たる権威があるのであります。≫

――谷口清超先生作詞の聖歌「ああ わが神よ」を歌いたくなります。

233復興G:2013/02/16(土) 21:55:36 ID:AB6RqYXc

なお、もう少しテキストの続きを謹写させて頂きましょう。

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<5>

 以上の説明によってわれわれがみんな神の子であり、われわれのうちには無限者を宿していることがおわかりになったことだと思います。

 「無限者」なる神は絶対であって一つであります。この点はキリスト教で説くところが真実であります。

 ところが日本には「八百万の神々」といいまして無数の神々がある、仏教でも護法の神として、持国天(じこくてん)だの、毘沙門天(びしゃもんてん)だの、帝釈天(たいしゃくてん)だのといって多数の神々があります。一つの「無限者(かみさま)」のみを説くキリスト教徒にはいろいろの神々を説く教えが迷信だと思えるのも無理がないのであります。誰でもこの一神か多神かの問題にはつまずきがちであります。そこで神を知るには一神か多神かの問題をまず解決してかからなければならないのであります。

 この一神か多神かの問題を解決するには「神」という言葉の意味をはっきりさせておかなければ混同するのであります。

 日本語でカミと申しますのは、第一に創造神のことをカミと申すのであります。この語源は「醸(か)む」といって「上」と「下」とが和合すること、天と地とが結び合うこと、陰と陽とが触れ合うことによって事物を生み出す愛の働きをいうのであります。歯で噛むということも上下相会するという同じ語源からきたのであります。
 ありとあらゆるものを陰と陽との和合、すなわち愛のはたらきによって造り出し給う霊妙なる「創造の原理神」が第一義のカミであります。

 第二に、われわれがカミと申しますのは「輝く身」すなわち一つの発光身をいうのであります。
 一燈園などでは「お光り」といっています。
 仏教では「不可思議光」といったり「無礙光如来(むげこうにょらい)」といったりしています。
 キリスト教では『創世記』に「神、光あれといい給いければすなわち光ありき」と書いてあるのがそれであります。
 この神は本来それは真如法身(しんにょほっしん=観自在原理)そのものであって相(かたち)がないのであります。ただ救うてくださいと呼ぶ者があるので、真如界から救いの求めに応じて発光身となって観世音菩薩のごとく機に応じていろいろの姿に顕現せられる如来であります。
 キリスト教でいうエンゼル(天使)の多くはこれで、唯一根元神から投げかけられた「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。
 みなさまが霊眼に同時に御覧になった「生長の家の神さま」もこの「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。

 いずれも元は一つ、そのお働きによって名前が違う。
 たとえば観自在菩薩というのは観察自在のお働きをして衆生を教化(きょうげ)になるので、そうお名前を申し上げ、阿弥陀如来というのはアミダすなわち無量寿無量光の働きとあらわれ、死後までも衆生を摂取し給うからそう申し上げ、天照大御神と申し上げるのは「渾珠(あま)」すなわち「宇宙」を、限りなく遍照し給い一切のものをはぐくみ育てたまう働きとなって顕われていたまうからそう申し上げ、「生長の家の神」というのは、狭義においては家々、家庭家庭を生長さす一つのおはたらきであり、広義においては「宇宙(いえ)」全体に満ちみちている普遍的真理を世界に宣布し給う救済力として顕現になっているから、そう申し上げる。

 神そのものの本質本体からいえば一つでありますが、その救いの働き(すなわち霊波の種類)からいえば異なるわけでありまして、霊波が異(ちが)うから霊眼で見てもお姿が異なるわけであります。

 ちょうどそれはもとは一つの太陽光線でも、プリズムで光を分散させて見れば七色にも八色にもなり、そのおのおのの光波は別々の作用を人体に及ぼすようなものであります。

 第三にわれわれがカミと申しますのは幽(かく)り身の略称であります。すなわち肉眼で見える体(たい)を備えてはいないけれど、体(たい)がないのではなく幽微(かすか〉な身を備えているのであります。
 この階級の神の種類は千差万別であって、低きものにはまだ悟りを開かない人間の亡霊や動物霊などがあり、高きものにはズッと高い神界に住む神格を得た人霊があるのであります。
 仏説ではこの世で善因を積んだものは「天」に生まれると申しますが、この諸天にいます神々はすべてこの幽り身に属する神々であります。
<つづく>

234復興G:2013/02/16(土) 21:56:30 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<6>

 まだ詳しくいえば日本語の神という言葉を語源的に解釈しますと、いろいろの意義を包含しているのでありますが、まあだいたいふつうはこの三種のカミをいうのであります。
 そして神が一つだと主張する人は、神という言葉で宇宙の創造者としての唯一つの神を指していわれるのでありますから唯一つということに決してまちがいがないのであります。
 そして神は多神だと主張する人は救いの化身たる第二類以下の神々を含めていわれるのでありますから、これもまちがいがないのであります。同じ言葉で別々のものを指して、互いに「一神」だ「多神」だと論争していても結局解決のはてしがないのであります。

 さてこのように神は一神であるとともに、時と所と人とに応じて、場所しだい、時代しだい、救われる相手しだいで、そのあらわれ方が千差万別してくるのでありまして、時代により、そこに住んでいる人間の発達程度に応じて、いろいろに変化して現われ給うて人をお救いになるのであります。「一神教」のキリスト教にあらわれた神でも、旧約にあらわれた神エホバのある部分は怒りの神、復讐の神、嫉みの神、国粋論者の神であって、ほかの神を拝んではならぬ、イスラエルの国はぜひともユダヤ人に回復させねばならぬなどと非常に執着の強い狭いことをいっているのでありますが、新約の神になってくると、ズッと大きな地方色のない広い神になってきています。「心の清きものは、神を見ることを得ん」とか、「神の国はここに見よかしこに見よというべき性質のものではない。なんじらの心のうちにあるのだ」とか非常に普遍的な大きなものになっているのであります。ある新興宗教の神論というのを読んでみても「神は叱ったり、すかしたりして人間を改心させねばならぬからなかなか骨が折れるのであるぞよ」などとあって、一つの神でも救いのために、いろいろの相(すがた)であらわれる必要のあることを説いてあるのであります。そこであらわれから見れば多神、もとから見れば一神ということになるのであります。

 そこでこの神と通ずるすなわち神と感応霊交するにはどうしたらよいかといいますと、それには精神統一ということが第一であります。
 祈りも読経も静坐も坐禅も、生長の家で行なう「神想観」の修行も、すべてこれ精神を統一して、神と自分とを感応しやすくし、神の啓示に導かれて日常生活上に、できるだけ強く深く完全に神をあらわすためなのであります。
 霊媒による心霊現象研究も有料で実験に応ずる霊媒では、料金をとる手前、本当にその霊魂がこないときには霊魂がでてきてしゃべるかのごとくつじつまを合わせねばならぬので、虚偽や詐術がまじりがちで、ことごとくは信じられませんが、次に掲げるのは古河鉱業大連支店の青年社員、浅野新樹君が死んでから、その母多慶子(たけこ)氏を霊媒としてその父和三郎氏に通信せられて来た霊界の状態であって、職業霊媒でないから、大部分は信じえられます。そのうちに、こんな一節があります。

  問い「前にもいく度も聞いたが、幽界における身体の感じをモ一度きかせてくれないか? 呼吸や脈搏はあるかね?」

  答え「そんなものはてんで気がつきませんネ。内臓などもあるのか無いのかわかりません……。」

  問い「地面を踏む感じは?」

  答え「自分の室にいる時は歩くという感じがしないでもありませんが、地上の歩行とはだいぶ異(ちが)います。歩くといっても何やら軽い柔らかい気持です。また足音というものもしません。遠距離に行く時には一気呵成に行ってしまうのでなおさら歩くという観念が起こりませんね……。」
<つづく>

235復興G:2013/02/16(土) 21:57:18 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<7>

  問い「幼少で死んだものが幽界でどんな生活をしているか、一つその実況を見てきてくれないか?」

  答え「承知しました。一つ守護神さんにたのんでみましょう。――(五、六分の後)
 ただ今見せてもらいました。赤ん坊でも、小さいながらわれわれと同様修行させられて心も姿も発達するのですネ。地上の子供のようには迅速ではないが、やはりあんなぐあいに大きくなるのですね。僕の行った所では五十歳ぐらいの婦人たちが二、三人おって、それが子供たちの世話をしていました。子供の人数ですか――人数は五、六人で、三歳から四、五歳ぐらいの男と女の児が一緒にいました。抱かれたり何かしている具合は現世とちっともかわりません。場所はあっさりした家の内部ですが、ドウも幽界(こちら)の家屋はどうも皆軽そうに見えます。ずっしりと重そうな趣がなく、なんやら芝居の道具立てのような感じがしますネ。僕は守護神さんに向かい、これらの子供が学校へ行く年齢になればどうなるのかと尋ねてみましたら、守護神きんはさっそく僕を学校のような場所へ連れて行って見学させてくれました。一学級の生徒は二十人ぐらいで、やはりここでも男女合併教育をしていました……。」

  問い「他にも組がいくつもあるのだね?」

  答え「いろいろの組に分れています。何を標準として学級を分けるのかというと、それは受持の教師のする事で、主として子供が死ぬ時に因縁によりて導いてくれた神とか仏とかに相談して十分調査の上で実行するらしいのです。もっとも宗教的区別などはある程度までの話で、上の方に進めばそんな区別はぜんぜん消滅するそうです。」

  問い「科目はどんなふうに分れているか?」

  答え「現世とは大分異いますね。算術などはぜんぜん不必要で、そのほか地理も歴史もありません。幽界で一ばん重きを置くのはやはり精神統一で、これをやるとなんでもわかるのです。音楽だの文芸だのも、子供の天分しだいでワケなく進歩するようです。学問というよりもむしろ趣味に属しましょう。趣味があればいくらでも進歩するが、趣味がなければまるきり駄目です。ですから子供たちは一室に集まっておりながら、その学修する科目はめいめい異います。」(下略)

 この霊界通信は他の信ずべき霊界通信と一致するところも多く、真実性を認めることができるのであります。この霊界通信にもあるとおり宗教的区別というものは上層の霊界へ行けば無くなるので、「この宗教でなければ救われない」と偏頗(へんぱ)に片寄った執着をもっている間はそんなに高い霊界に行くことができないということをすべての霊界通信は一致していっているのであります。

 それから、霊界へ行っての修行が何よりも精神統一が第一だというのはおもしろいではありませんか。「霊界では精神統一をやるとなんでもわかる。音楽だの文芸だのも子供の天分しだいでワケなく進歩する」と新樹青年は霊界の事情を見てきて話しているのですが、われわれの住んでいる地上の生活もやはり原則は同じことで、精神統一によってあらゆるものが上達し、われわれの境遇運命も徐々に精神力によって支配できるようになっているのであります。
 「心が一つの目的物に統一して注意がそこに集中すると、自分と周囲の一切とがその目的物を実現すべき方向に自然に動き出す」というのが最近発見された精神科学の原理であります。
<つづく>

236復興G:2013/02/16(土) 22:00:16 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<8>

 かりにわれわれが絵を描こうと思って、絵に精神統一をしていますと、その精神集中力が磁石的な引力となって絵を完成するに必要な霊界の波動が、「類をもって集まる」または「類は類を招(よ)ぶ」という心の法則に従って集まってくるのであります。
 絵でも文学でも発明でも皆同じことであります。
 インスピレーションというのが、霊界の波動を感受することをいうのであります。われわれのいう精神統一とはポカンとして無念無想になってしまうことではなく、一心不乱に一つのことに精神を純粋に集中することであります。

 われわれは何も思わなくなるということは決してできないものでありまして、たとい表面の心がポカンとして何も考えていなくとも、奥底にあって「隠れている表面に浮かばない心」は一つの習慣的なリズム(調子)をもって常に活動しているのであります。
 だからわたしはこの「隠れている心」を「習慣の心」といっているのであります。
 ラジオの受信機が波長の合った放送だけを感受するように、われわれの心の習慣的なリズムは、そのリズム相応の精神波動を霊界から感受し、それを現実世界の形あるものとするのであります。

 だから心の習慣的リズムの清まり方しだいでわれわれは最高(いとたか)き神界から発するリズムにも感ずることもできるのであります。
 「心の清き者は神を見ることができる」というのはこのことをいったのであります。
 心の習慣的リズムの清きものは神を見ることができますが、心の習慣的リズムが芸術家であるものは、霊界の大芸術家から放散するリズムを感受して、それを現実世界の芸術としてあらわすのであります。

 ダッフェ女史の自動書記にあらわれた霊界旅行記には、霊界の大芸術家を感受していかにこの地上の芸術家が芸術を完成するかの手続きがかなり明瞭に示されてあります。

 ある日小児に誘われて近隣の人々のありさまを見に出かけたことがあります。最初に訪ずれたのはある画室で、そこでは一人の画家が心血を注いで力作中であった。
 彼の刷毛(はけ)の先から出てくる巧妙な色彩、眼の前の画布に現われてくる物象は実在のごとく思われるほど生命の満ちたものでありました。
 私は画に親しむ時間を持たなかったため自分で描く事はできないのですが、心中に潜む趣味は鑑賞家としての資格だけはわたしに与えてくれました。
 けれども生前数多く見た名画のうちにもこれほどの感銘を見出しえなかったのです。恍惚とその画の前に立ちつくしたわたしを遮らずに、しばらくわたしを審美の世界に楽しませてくれたこの画家は最後に口を開きました。
 「あなたはまだ半分だけしか見ていられません。他の半分も御覧になりませんか。」

 彼の画は完成しておったので、わたしには彼の意味が受け取れず、なんのことかと迷っていると見る見る彼の姿もその作画も画室もろとも消滅して、とって代った光景は、現界のある画室の内部、なかに一人の若者が熱心に絵筆を動かしつつあるところでありました。
 わたしにはその画家の心中が読めるのでしたが、彼はわたしが今賞讃した偉大な画を幻に見たのです。そして比べようもなくつよい衝動にかられてその美しい印象をありのまま描こうと懸命の努力をしているのでした。

 この不思議な光景をわたしに示した画家がこの時傍(そば)におったので、わたしは尋ねました。

 「これはいったいどうした事なのでしょう?」

 「現界の名画というもののすべては、霊の世界にその本体があるということをおめにかけたのです。
 あの画家はああして筆を動かす前にすでにわたしの描いた絵の幻影を心中に捉えておるのです。
 そしてもしあなたが御質問なされば彼は必ず自分の筆が心中の画想を完全に表現しえぬことを嘆くに相違ありません。
 こうした人々を地上では天才と呼んでいるのです。」彼は会心の微笑を口辺に浮かべておりました。
<つづく>

237復興G:2013/02/16(土) 22:02:54 ID:AB6RqYXc

あらゆる芸術の根源は霊界にある、とも言われていますね。

高級霊界に波長が合うよう、心をきれいにしておきましょう。

238SAKURA:2013/02/16(土) 22:09:45 ID:1meWUCC2
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「a hope様」 へ
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>> SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (2―5) 】からなのですが……
>>179の「復興G様」の投稿から……

===【抜粋文】======================================
>>そのようにわれわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい
触れてもそれを感ずることができません〜〜略〜〜
>>あまり現在の境遇に満足し切っている人は
神をもとめる必要がないから、神を見ることも感ずることもしないのであります。 
それは神を見ることができないのではなく、しないのであります。<<  (一部抜粋)
==============================================

■神をもとめ…神を見るは……♫
【背 水 の 陣】をひいた方なのでしょうか……??それも含まれますかと思います。常日頃から
それよりもひたすら【 神にすがる心 = 祈り 】ではと思います。
人は、神様から各自への“テレパシ−”を頂いておりまして、それぞれのアンテナにて受信する
ことが出来るのですから、但し、そのチャンネルはキチンとしていませんと…正確なる
“テレパシ−”は受信することが出来ないかと。それに答えるためにも……
やはり【 祈り・神想観 更に“イメ−ジ” 】だと思えます。…が?

まだ!まだ!私も【祈り…】が足りないのでは…?と思いながら、本格的に『神地一体に融合』で
しょうか??私も〜〜♫〜〜ジャン・ジャン・ジャン・ジャンと【祈る事…】…

それが“宇宙…への遭遇……邁進”で〜〜〜す。…が??
                                再合掌

                          つづく

PS:引き続き…「頂きましたテキスト…」からの閲覧にての感想を順次投稿させて頂きます。

239復興G:2013/02/16(土) 22:59:26 ID:AB6RqYXc

皆さま、ありがとうございます。

私は今夜はこれにておやすみさせていただき、明日日中はリアルの世界で予定行事がありますので、次は明晩お目にかかります。
では心の友なる、生命の兄弟なる皆さま、神様の祝福を受けてハッピーな日夜をお過ごしください。
おやすみなさい。

240るん:2013/02/17(日) 00:02:12 ID:pic01rm6
復興G様

有難うございます

>>榎本恵吾先生はよく「ご主人を蹴っ飛ばしたっていいんですよ。ご主人は自分だ、と思えばわがままも言えるし、神様なら甘えてもいいんですよ」
>>というようなことを言っておられましたね。

 そうなんですか?よかったです。自分には「絶対、ハイ」なんてできそうにないですんで。

とはいえ、いつもこういう事を考えてるわけではないです。

実相独在、人間神の子、物質無しの真理を感激しながら、噛みしめて読ませて頂いてます。

この真理を教えてくださった雅春先生には、もう感謝しても感謝してもしきれません。この縦の真理がなかったら

これから先、生きていけないです。この世界が終わっても霊界もありますし。

ご教示、いろいろ有難うございました。明日のご予定、お気をつけて行ってらっしゃいませ。

a hope様
 んな事いわないで、明日から、また書き込み、よろしくお願いいたしますね。

SAKURAさま
 神我一体の境地を目標にされていらっしゃいますか?
 凄い!すてき!がんばってくださいね。

241さくら:2013/02/17(日) 00:11:53 ID:yIRd12ZI
誌友会ご参加のみなさま

わたしはweb誌友会はじまってから、一言も発言しておりませんので、
誰に対しても、発言のたびに、すごい勢いなどで、批判しておりません。
誤解があれば、ご理解頂きたくお願い申し上げます。

ここの主役の方がいなくなり、わたしのせいなら、ご迷惑をかけ、申し訳ありませんでした。

「虚説レポート」の件で、なぜかわざわざお呼びかけを受けましたので、
それに関連し、前から気になっていたことについて、個人的感想をのべましたが、
…個人的感情にすぎ、偏見がありまして、皆様には大変失礼な発言がありました事は、深くお詫び申し上げます。
…未熟な自分を、深く反省しております。
不快な想いをさせましてすみませんでした。

それぞれの学び方があるのですから、ここでの発言や学び方も強制されず、
各自の場で、真も偽もない生長の家を、それぞれの真実の体験として学べばよいと、わたしは思っています。

これからは掲示板には参加はしませんが、様々な面で、学ばせて頂きます。

ありがとうございました。



242志恩:2013/02/17(日) 07:56:35 ID:.QY5jUA6
復興G様

復興G様、テキストを謹写して下さったり、貴重な体験談もWEB誌友会のおかげで
お聞き出来まして、大変幸せに 存じております。

昨日、復興G様が貼付して下さいました私もお気に入りである「堅信歌」を、
今日は、昔なつかしく 早朝神想観後に、小声で歌ってみました。
これを歌うと、純粋な少女の頃の私の気持ちになれます。

今朝、早朝に、皆様の書き込みも 大急ぎで拝見させて頂きました。
ありがとうございます。

復興G様は、今日はお出かけだそうですね。
行っていらっしゃいませ。
私も、娘一家が昨日から来ていて、泊まっておりますので、今日も昼間は入れません。


   「堅信歌」

1、われは聴くわが内なる声を
  “みひかりを常にもとめて
  わが御手をしかと握れよ
  安らなれすべて善ければ
  とこしえに此処極楽に
  なれは今まもられてあり。
  何者か汝を奪わん。
  大いなる我れ汝を抱けば。”

2、われは聴くわが内なる声を
  “われ常に汝をまもれば、
  われ常に汝を導けば、
  何時のとき何処にあるも、
  汝は完たく清くけがれず、
  行く道に迷うことなし。
  われは汝の内なる神ぞ
  わが護り常に完たし。”
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで、
復興G様とa hope様の生長の家に触れられた動機は、知る事ができましたが、

トキ様の場合は、一白鳩会員様からのご縁からでしょうか?

SAKURA様は、ご両親がご熱心でいらしたからでしょうね。
先日,SAKURA様がお話下さったハーフの黒人のお子さんを持たれた女性への、SAKURA様のお母様の真心こもったご指導とご行為、
こころ温まる実話ですが、感動しました。いいお話をありがとうございます。

るんさんは、どんなことで、生長の家に触れられたのですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回のテキスト156頁あたりから、霊界通信のことが、書かれてありますが、
以前、トキ様がご紹介下さった浅野和三郎著「新樹の通信」についても、雅春先生は触れられておりますね。

私は、浅野和三郎著「小桜姫物語」もSAKURA様同様に読んでおりますから、一層、興味深く今回のテキスト部分を拝読しました。

生長の家のおかげで、人間は神の子で生き通しのいのちであると、教えて頂いておりますので、いつも大安心の境地で過ごせますこと、
本当に有り難いことだと思っております。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昨夜は、娘は、娘の子が通っている幼稚園の役員と、子が習いに行っているバレーの方の役員と2つの役員をしていることで、
娘は、役員のなかまの間での人間関係のストレスを抱えており、
私は、夜11時ころまで その娘の話をひたすら聞いてあげていました。どこにでも課題はあるものです。
でも、娘は自分で話しているうちに、自分で答えを出していました。(笑) 答は、だれでも 自分の内に あるのでした。

243志恩:2013/02/17(日) 08:02:13 ID:.QY5jUA6
娘は、だんなさまが、出張中なので、6歳と3歳の子を連れて、来ている。

244復興G:2013/02/17(日) 08:56:56 ID:AB6RqYXc

出かける前に、ちょっとひと言。
皆さま、ありがとうございます。

a hope様、皆さまからも期待されているようですし、私もa hope様の発言からとても勉強させて頂き、迷惑どころか、とても感謝しています。ですから、どうぞまた神の声を聞かせてください。

SAKURA様、るん様、さくら様、志恩様
コメント、ありがとうございます。

ではまた夜に。
合掌 ありがとうございます。

245トキ:2013/02/17(日) 12:36:05 ID:Jta5Me9g
 復興Gさま、ご指導、ありがとうございます。

 生命の実相の第2巻、浅野和三郎先生の「新樹の霊言」のくだりですね。あの霊言は不思議です。
オリジナルの本を読むと、まだ戦争の気配もない頃に、戦争が起こる、と予言をしたりしています。
 それを考えると、信頼性が高い内容だと思っています。

246初心者:2013/02/17(日) 14:45:05 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

休み時間のようですので、少しだけお邪魔させていただきます。

いきなりですが、宇宙というのは不思議なものです。誕生して137億年ともいわれ
ているようですが、誕生の刹那に発せられたとされる光が(正確には電磁波という
べきでしょうか)、いまだに地球に降り注いているようなのですね。

137億年前に一瞬のあいだ発せられた光が、いまだになぜか地球に降り注いで
いるのです。かりに100億年後にも地球が存在するとすれば、237億年前に発せら
れた光がやはり地球に降り注ぐことでしょう。

降り注いだ光は、地球にぶつかって消滅するか、とおりすぎていきます。消滅した光
やとおりすぎていった光はもはやもどってくることはないでしょう。それでも、一瞬
のあいだに発せられた光が、地球が存在するかぎり降り注いできます。この光は、
いったいどこからやって来るのでしょう。

こうした宇宙の神秘をさぐろうとすれば、「ない現象をつかんでいる」と、生長の家
ではかならず否定されることになります。

本題にはいります。

>>「実相」は時間・空間の中にあらず、時空を生み出した本源世界 すなわち「久遠の今」にある。
また、現象世界は4次元時空間というスクリーン上に投影された映画であって、「実相」はフィルムに当たる、とも説かれています。
フィルムはすでに完成している、そこにすべてがあって完成している。けれども現象世界へのに投影は一コマ一コマ順番に映し出されるのであって、一度にすべてが投影されるわけではないから、現象は無常であって、不完全である。
私たちの五官は、投影された影である現象世界を認識する道具でありますから、その五官によって<フィルム>の世界、「実相」を知ることはできない。現象の言葉をもって実相を説明することはできない。というので「不立文字」とか「教外別伝」と言われてきた。……(後略)……<<

>という説明で私は納得し、「ダブルバインド」とは全然感じておりませんが――。なぜ、初心者様がそのようにおっしゃるのか、よく理解できません。考えています。

唯物論は、「下位のものごとで上位のものごとを説明すること」と定義できます。
この定義によれば、下位のものごとであるはずの物質で、上位のものごとである
はずの精神を説明しようとすれば、これが唯物論となります。

では逆に、上位のものごとで下位のものごとを説明しようとする場合はどうでしょ
う。物質的世界はどのような仕組みで成り立っているのか。これを考えるのは唯物
論なのでしょうか。

「一コマ一コマ順番に映し出される」のたとえは、物質世界がつくりだされるとき
の仕組みを述べたものです。あきらかに、物質世界よりも上位のものごとについて
の説明です。

わたしは、こうした上位のものごとである仕組みによって、下位のものごとである
物質世界の成り立ちを説明しようとしているつもりなのですが、なぜかいつも
「唯物論」として否定されます。雅春先生が説明されても、唯物論として否定される
ことはありません。いったいなぜわたしだけが、唯物論として否定されるのでしょう。

「一コマ一コマ順番に映し出す」仕組みを神によってつくられた仕組みであると
考えるわたしは、こうした神の仕組みと、それによってつくられた物質世界を、たん
に「ない」と否定するのではなく、深く探求したいと考えています。

生長の家では、「一コマ一コマ映し出すのは迷いの証拠であり、そのような迷いに
よってつくられた物質世界はほんらいない」と説明されているようですので、探究
する意味はいっさいないとも考えられているようです。

このような違いがあるということなのでしょうか。

生長の家が「一コマ一コマ映し出す仕組が、ほんらいないはずの迷った世界をつく
りだす」と考えているのだとすれば、このように考えなければならない理由とは
なんなのでしょうか。これを神がおつくりになられた仕組みとみなさないのだと
すれば、それはなぜなのでしょうか。WEB誌友会終了後でかまいませんので、お答
えをお聞かせいただければありがたく存じます。

「一コマ一コマ順送り」の仕組みを神がおつくりになられた仕組みと考えても
ぜんぜん問題はないはずですのに、なぜこのように考えることを、人間知、唯物
論、虚説として否定されなければならないのでしょう。このように否定されること
がわたしにはダブルバインドとして感じられます。

ところで復興Gさまは、実相世界は固体と考えておられるのでしょうか、流体と考え
ておられるのでしょうか。固体であれば、これもダブルバインドとなります。どちら
であると考えておられるのでしょうか。

247SAKURA:2013/02/17(日) 14:59:58 ID:d36N9scE
復興G様」 へ  「トキ様」 へ  「a hope様」 へ
こんにちは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>>238
SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (3−1) 】からなのですが……
>>180の「復興G様」のテキスト投稿から……

===【投稿文】======================================>>キリストが「富める者が神の国に入る事のむずかしいのは、らくだが針の孔を通るよりもむ
ずかしい」と嘆じられましたのは、富める者の驕慢な心が神のみ心にかなわないという意味もあ
りますが、現状に満足しているものは、みずから進んで神の国に入ろうとしないことをいわれた
のでもありましょう。

>> またあるときには「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」と
いわれたのも、貧しくして現状に不満足なものほど神の国に入りたいという欲求が盛んになる
ことをいわれたのでありましょう。   (一部抜粋)
==============================================

■「富める者は神の国に入る事は、むずかしい」…“納得”でしょうかと。??反対に……
「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」これも、分かる感じがします。
“宗教の門=信仰の門を叩く”場合は、やはり!窮地に追い込まれた時の【絶体絶命状態…】から、
神にすがる気持ち!ひたすらすがる気持ち!が、益々と強くなるものでしょう。

逆に「平穏!平和!な状態」ですと、何の不自由感もない場合とか、更に“お金…”に執着した
モノとかは……まず“心…”がモノに焦点をあわせていますから「神様…」は現象的な捉え方に
なるのでしょうか。「神の国…」に入るには、その人の【絶体絶命状態…の心理】においては、
その「神の国の門」を叩き、入りやすのです〜〜〜ョネ??
それでも、尚「貧しき者」になってしまいますのは、やはり【感謝の心…】でしょうかと。
【SAKURA…】 は、ますます【感謝探しの冒険の旅〜☆〜】でしょうか???
“ガンバル心…”…“持続精神…”は『感謝…』からかしら〜〜〜ン!!

                             つづく

248復興G:2013/02/17(日) 20:09:49 ID:AB6RqYXc

皆さま、復興Gは只今帰ってまいりました。

>>246 :初心者様

ようこそ、ありがとうございます。

ご質問の、後ろの方から少しお答えさせていただきたく思います。

>>ところで復興Gさまは、実相世界は固体と考えておられるのでしょうか、流体と考えておられるのでしょうか。固体であれば、これもダブルバインドとなります。どちらであると考えておられるのでしょうか。 <<

もちろん、実相世界は固体でも流体でもありません。固体や流体は、3次元空間の中の物質の状態であり、実相世界は次元を超えた(「次元」をも創り出した元のところ)にあるのですから、それは固体でも流体でもあり得ません。「実相は金剛不壊」と言われることがありますが、それは五官の世界に住んでいる人間に、現象の言葉で仮りに表現したもので、本当は不立文字でしょう。
もし実相が固体や流体であったら、「火にも焼けず……」というわけにはいかないと思います。

>>生長の家が「一コマ一コマ映し出す仕組が、ほんらいないはずの迷った世界をつくりだす」と考えているのだとすれば、このように考えなければならない理由とはなんなのでしょうか。これを神がおつくりになられた仕組みとみなさないのだとすれば、それはなぜなのでしょうか。<<

――「一コマ一コマ映し出す仕組が、ほんらいないはずの迷った世界をつくりだす」という表現はちょっとおかしいと思います。「一コマ一コマ映し出す」というのは映画に譬えたわけですが、それは「影を映す」「投影する」ということで、映し出された影は影であって本来ない。だから、「迷った世界」は本来ない、ということでしょう。
「このように考えなければならない理由」なんて、ないと思います。それは、「1+1=2」でなければならない理由を問うようなものでしょう。それは、「神がおつくりになった仕組み」と考えてよいと思います。

もっと前の方のご質問は、むつかしいので、web誌友会終了後(明日以後)に、ご質問の意味が分からないところを質問しながらお答えしたいと思います。
ありがとうございます。

249復興G:2013/02/17(日) 20:11:12 ID:AB6RqYXc

トキ様
SAKURA様
志恩さま
皆々さま

私は霊界のことにはあまり興味がなかったのですが、今回は、なにか納得できるものがありました。

テキスト第5章の最後のところを謹写させて頂きましょう。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

<テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章p.165~166より>

 ……この霊界よりの消息にあるように、われわれは心のリズムを浄め上げ、高め上げ、高き霊界のリズムと調子を合わすことによってのみ、いっそう偉大に進歩せる霊界、天界、さらに進んでは実相世界のリズムを感受し、それによって人間界に偉大な芸術や、偉大な発明や、偉大な思想を生み出すことができるのであります。

 われわれが神に近づこうとするには、神と調子を合わすということよりも必要なことはないのであります。

 われわれの心のリズムが低卑であれば、低卑なカミ(すなわち第三種類に属する霊魂神(みたまのかみ)のうちでもいっそう低い階級のまだ悟りを開かない人間の亡霊や、他愛もない動物の霊魂)とリズムが感合しまして、実際生活上実につまらない誘惑を受け、肉欲や、物質欲などの虜になってしまうのであります。

 だから自分の奥底の魂のリズムを高潔にすることほどわれわれにとって必要なことはないのであります。

 で、この奥底の魂のリズムを清く高くするために、われわれは「神想観」のごとき精神統一の修行を行ない、せめて、ある時間に限っていっさいの低い地的な心の思い煩いを去り、一心不乱に心を至上神(いとたかきもの)にのみ注いで、魂の奥底のリズムを高めかつ清めるようにおすすめしているのであります。

 こうして魂の奥底のリズムを高めておきますと、芸術家は芸術家として、いっそう高き霊界の大芸術のリズムを感受し、思想家は思想家として、これまたいっそう高き霊界の大思想のリズムに触れることができ、その人おのおのの天分の種類に応じての最高のものをこの現実世界に生み出すことができるのであります。

 生長の家の「智慧の言葉」に「人間の心は大生命の変圧器」だということがありますが、せっかく、最聖(いとたか)き大生命からの高圧の電流を受けながら、われわれの心のリズムが低卑なために微弱な電流に変じてしまうのは惜しいことであります。

 わたしが皆さんにしっかり「神想観」の実修をしてくださるようおすすめし、一方日常生活においても「生長の家の生き方」を実践して争いや怒りや憎みの心の曇りをとり去ってくださるようにおすすめしているのは、皆さんが霊界、天界、実相界のいっそう精微なリズム(精神波動)を感受し、これを実生活に再現して実人生を生き甲斐のある価値あるものにしてくださることを念願するからであって、「神想観」によって病気が治ることがあるのは、心のリズムが調うとともに、現実界全体のリズムが整うてくるために起こる単なる一作用にすぎないのであります。
<謹写 完>

250復興G:2013/02/17(日) 20:42:38 ID:AB6RqYXc

 また、『生命の實相』第9巻 p.121には、次のような霊界通信が書かれています。

 スピリット自身は「芸術」についてかく語る
 自分はさらに他の問題――芸術――に話題を転じた。霊界の生活には、自分たちが現世で、音楽や絵画や彫刻や詩歌によって得るような歓喜に相応するものがあるか?――とたずねた。
 「なんのことはない! あらゆる芸術の発生する根元の世界は霊界なのだ!」とヴェッテリニは叫んだ。「芸術の精髄は霊界で創造せられる。地上の芸術的表現はその貧弱な写しにすぎない。余の言わんと欲するところをよく理会せよ。もしある作品にして、高く貴き熱ある作品であるならば、それを心に描き出したのはスピリットであり、その美を認めたものもスピリットである。それで、人の霊魂がその物質的肉体より脱離した時には、かれ霊魂は肉体の枷鎖(つながり)の中にある時よりも芸術創作の神髄にいっそう容易に貫き入るのである。かれ霊魂は、もはや物質的条件によってわずらわされたり束縛せられたりすることはない。明らかに霊界人は弾ずべき楽器をもっていない。しかしかれらは種々無数のバイブレイションを組み合わせて、最も霊妙なる感じの音楽詩歌を創作することができるのである。君たち、現世の人々は霊界(真に存在するもの)から、ただ暗示を、ただかすかな反響を受けるにすぎない!」

251復興G:2013/02/17(日) 20:52:13 ID:AB6RqYXc

 関連する聖典の御文章を謹写掲示させていただきます。


(『生命の實相』第29巻p.125〜)

   十、われらの運命は心にある

 われわれの運命というものは、こういうふうに、どこからともなく、子孫からでも他人からでも送られてくる念波によって変化するのであります。甲を思い浮かべるのでも乙を思い浮かべるのでも、それはちらと頭を掠(かす)める思いであります。ほんのちょっとしたことが癇癪(かんしゃく)にさわって家庭や会社を飛び出す。いつもならなんでもないことが、ある時はとうてい耐えられなくなる。こういうちらと頭を掠める思いが人間の前途の運命を左右するのであります。どういう時に、どういうふうに心が動いてくるか、その神秘を司るものは宇宙を浮遊しているいろいろの念波にあるのです。

 都合の悪い人は悪い念波ばかりを感受して、せっかく、そこにいれば出世するような所を飛び出したり、発明にも資本を出してくれそうな所へは因縁が結ばれないで、なんとなしにその人が行くと毛嫌いされてしまうような所へ、旅費を使って「資本を出してくれないか」と申し込んで、剣もホロロに断わられ、そのためせっかくの発明もなんにもならないというようなことになります。このようにわれわれの運命を支配するものは不思議なちょっとちらっと頭を掠める思いです。

 右するか左するか、滅亡の道か、繁栄の道か、これはちらっとわれわれの頭を掠めるほんの不思議な微妙な閃(ひらめ)きにありますので、この微妙なスイッチを司っているものはなんであるかというと、この宇宙の無数のラジオのような精神波動である。その中のどの波動に感応するかということによって、良い波動を受けるか悪い波動を受けるかが定まるのであります。

 われわれが良い波動を受けるにはどうしてもわれわれ自身が良い波動を受けられる良き波長を出すラジオ装置にならなければいけないのです。念波の感応は波長の共鳴によるのでありますから、自分が繁栄するには、人をよくしてあげたいという深切の良き念波を常に起こしていなければならないのです。「あの人を生かしてあげたい、この人を生かしてあげたい、深切をしてあげたい、喜ばしてあげたい」という念波を常に起こしますと、宇宙にいろいろ満ちている「生かしてあげたい」という念波がまた自分に引っかかってくるのであります。そうして良い考えが浮かんで自分の運命が自然と好転するのであります。まことに、善念は善念を招び、悪念は悪念を招ぶとは真理であります。

252復興G:2013/02/17(日) 20:52:53 ID:AB6RqYXc

   高級神霊の導きを受ける祈り(聖経『続 真理の吟唱』より)

 われは常に欲するところのものがおのずから来り欲せざるところのものが自ら去るのである。それは恰も如意宝珠を掌中にせるが如しである。われ神に感謝し奉る。

 人間の運命は「ふと思いつくことを行動する」ことによって、おのずから結果が展開して行くのである。ある人は、良きアイディアを「ふと思いつく」ことにょって、それを行動に移して大成功したが、ある人は「ふと思いつく」ことを実行したために大火災を起こして大変な損失を蒙ったのである。ある人は、「この自動車で鎌倉へ行こう」とみずからタクシーを呼び留めてそれに乗ったために、その自動車がトラックと正面衝突して重症を蒙ったのである。まことに「ふと思いつく」ということで大抵、人の日常生活は行なわれ、その人自身の運命を決定しつつあるのである。

 まことに「ふと思いつく」という事の中には、神秘な、運命を支配する力が秘められているのである。その「ふと」というものは一体何であろうか。われわれが、考慮せず、計画せず、図らわずして思いつくところの、その「ふと」というものは、人間を幸福の運命にも災禍の運命にも導いて行くのである。

 ふと思いつかせる神秘者は、人間の脳髄の中には居ないのである。それは霊界から何らかの霊がわれわれに霊波を送って来てふと思いつかせるのである。

 霊界からわれわれの行動を支配するためにアイディアを放送して来る神秘者は、大別すれば二種類あるのである。それは、吾々の運命を良化するために正しいアイディアを常に送ってくれている善霊と、われわれの運命を傷つけんがために間違ったアイディアを送って来る邪霊とに分つことができるのである。

 善霊はその人を善導するために神から命ぜられてその人を常に導きつつある正守護神である。これは概ねその人の先祖霊のうち神通力を得たる高級霊がその任に当たっている。そのほかにその人が特殊重要な職務に就くとき、その任務にふさわしきその職能に勘能なる高級霊が特命守護神として追加されてその人を導くことになっている。しかし善霊が守護し導くといっても、それは霊であるからアイディアを霊送してその人を導くのである。その人は放送されたアイディアを「ふと思いつく」という形で感受してその導きに従って行動して善果を得るのである。

 正守護神及び特命守護神の導きは完全であるから、その放送アイディアを感受して、それを"思いつき"として実行している限り、その人の運命は傷つくことはないし、行動に失錯や失敗はないのである。しかし人は往々にして物質的欲望や、肉体の快楽追求の欲望に心の波長を狂わせて、自分の心の波長が正守護神や特命守護神の放送霊波に波長が合わなくなり、守護指導のアイディアを感受し得なくなることがある。そのとき迷える亡霊や怨霊の如きものの放送霊波を感受して、それをみずからの「思いつき」として行動して失敗するのである。その失敗を避けるためには、人は毎日、必ず神想観を実修して自己の心の波長を正しく調律し、神より遣わされたる高級守護霊の導きのみを感受し得る正しき"心の状態"に維持することが必要なのである。

 この尊き真理を知らしめ給いし神に感謝し奉り、毎日神想観の厳修を怠らず高級神霊の導きを受けて行動することを誓い奉る。ありがとうございます。

253SAKURA:2013/02/17(日) 20:59:12 ID:csPqeQPY
復興G様」 へ  「トキ様」 へ  
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>>238>>247>>
SAKURA投稿の続きです…。

>>249 復興G様の投稿より…。
「復興G様…」お帰りなさいませ。大変お疲れの処を「霊界…についての記載事項」…
ありがとうございます。今日は、私の地方では曇天…寒さがまた?ぶり返すのでしょうか?
くれぐれも…風邪をひかれませんようにと…『お祈り』を〜〜

■>>高き霊界のリズムと調子を合わすことによってのみいっそう偉大に進歩せる霊界、
天界、さらに進んでは実相世界のリズムを感受し、それによって人間界に偉大な芸術や、偉大な
発明や、偉大な思想を生み出すことができるのであります。<<(一部抜粋文)

>>自分の奥底の魂のリズムを高潔にすること…云々…『神想観』…<<  (一部抜粋文)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
此の事は…『神想観…瞑想』の重要性をつくづく感じます…。まだまだ〜〜時としては、
周囲の“煩わしい煩悩”にいまだにフラフラ〜〜〜(微笑)ですが??
普段の行動が「神の子…」としての自覚ある行動かと考えますと?いまだに【我欲…】あり…
でしょうか??これでは〜〜〜反省しつつ〜〜〜強い「意志力…」にて
【神想観=>実相世界】へ、突入??日々の努力にて【神想観…神地一体】トライ!トライ!
して参ります…。此の決意を、新たにでしょうかと。

つづきまして…(前回の「復興G様」からのテキストからの感想投稿の続きを…)
                     
つづく

254SAKURA:2013/02/17(日) 21:01:50 ID:csPqeQPY
復興G様」 へ  「トキ様」 へ  
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>>238>>247>>253>>
SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (3−2) 】からなのですが……
>>180の「復興G様」の投稿から……

===【投稿文】=====================================
>> われわれがこのように現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらない
で、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはピッタリ調和することの
できない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。
われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想する
ことができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち
神であります<< (一部抜粋)
==============================================

■ですので【感謝…】は“人格の形成”にも繋がるのでしょうかと??
「神の国」に入る事は【 人格=心理=真理 】につながる!心は“イメ−ジ”で瞑想する事です
ので、正しい思考へと導く書籍本を読む事でもあり……更に、それを“実践する行動”は〜〜〜、
【 祈り=実践行動 】でしょうか。それが「神の国に入る入門」でしょう。しかも、
完全な円満な世界観を“イメ−ジ・トレ−ニングする訓練”する事で、これがイメ−ジ化に繋がり
この“トレ−ニングのその延長線”が【神想観…】とも言えるのではないのでしょうか?
何となく〜〜何となく〜〜わかっちょうな感じですが。まずは【実践・行動…】へ!!
                           
  再合掌

                           つづく

255トキ:2013/02/17(日) 21:41:32 ID:Z2ApAsL2
復興G様

 おかえりなさい。実は、私も外出しておりました。いくつかこの点について、体験があるのですが、書けないの
が残念です!

 ただ、波長の世界ですから、どの波長に自分を合わせるかは大事ですね。
本当に復興G様のご指導の正しさは感じております。

256SAKURA:2013/02/17(日) 22:20:14 ID:csPqeQPY
復興G様」 へ  「トキ様」 へ  
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>>238>>247>>253>>254
SAKURA投稿の続きです…。

††【 第五章 神への道しるべ (3−2) 】からなのですが……
>>181の「復興G様」の投稿から……
===【投稿文】=====================================
>>外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求
しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っ
ていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。 (一部抜粋)
=============================================

■■「肉体は心の影…」と云いますように、現在の私の?“肉体はふくよかで〜〜〜す。
希望としては?モット!細くなりたいと願っていながらも「ダイエット作戦」を思考錯誤して
も?尚〜〜〜現“ボディ!”はと??つまり五官で見るところの“形”に現れたものだけを見て
行く……これが【有限の世界観…】がある限りは、次なる【無限の世界観…】が見えないのです
〜〜〜ョネ!!そうしますと【無限…】を引き出すには、それは魂の奥の奥の心に入れ込む事で
しょうか?【有限…】で見えても、そう“脳を騙す?”とある方が云いました様に、私の潜在
意識に送り込む“言葉の力”で、それは【有限…】でも【無限…】に広がっていくのですョネ!

【 有限から無限に行く 】には、そうですョ!!“ヒカリ”がピカット!光るように“言葉の力”
を出すことも、それは【神からの伝言言葉】になるのです〜〜〜ョネ!!
❤【神は愛なり〜】と云いますように“言葉から潜在意識に入っていく事”を、別の表現では?
【 有限から無限に、繋がっていく事 】を改めて理解しましたかと。

===【投稿文】======================================
>> われわれのうちに宿っている円満完全性――これをさっきは神であるといいましたが、
今はわれわれに宿っている「無限性」を神であると申すのであります。つまり、「円満完全性」と
「無限性」とは同じものであります。無限であってこそ完全円満なのでありまして有限なものは
それだけに限られていてけっして円満完全でありえないのであります。(一部抜粋)
==============================================

■「生長の家」では、円満完全をよく唱えますが、これも“無限性に繋がる事”で、当に!!一体
になれる言葉でしょうか??完全円満〜♫と、唱えて行くうちに無限性が出て来まして、
【神地一体…】なのです〜〜〜ネ??
❤【言葉は神…さらに神は愛なり】ですから、更に付け加えて【愛…】も必須条件に見えます。
“言葉”から発した“言葉”は、愛の言葉からは、“神は愛なり…”と自覚し、さらに“無限性”が
広がっていくように思えます。!!
【そのままの心は、澄み切った“心…”で、心遣い・やさしさをかける事となり、“言葉”は……
全て「言霊=魂」に繋がりますものと。【 無限性は神の心=神の子】なんです〜〜〜ョネ!!

■すべての始まりは、すべて【言葉…】から始まるのですョネ!! ❤〜“神は愛なり”
                         つづく

257初心者:2013/02/17(日) 23:00:31 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

WEB誌友会の途中ではありますが、せっかくご返信をいただきましたので書かせ
ていただきます。どうか気になさらずに誌友会をお続けになってください。

>もちろん、実相世界は固体でも流体でもありません。固体や流体は、3次元空間の中の物質の状態であり、実相世界は次元を超えた(「次元」をも創り出した元のところ)にあるのですから、それは固体でも流体でもあり得ません。「実相は金剛不壊」と言われることがありますが、それは五官の世界に住んでいる人間に、現象の言葉で仮りに表現したもので、本当は不立文字でしょう。
もし実相が固体や流体であったら、「火にも焼けず……」というわけにはいかないと思います。

「流体」というのは「固体ではない」との意味でもちいたものです。わたしは、固体
とみえているものはすべてが非実在であると考えておりますので、「固体としての
実相世界は非実在であり、ない」ということが確認できればそれで十分です。

ホープ様や復興Gさまが語っておられる真の「生長の家の教え」をうかがって
おりますと、実相世界には固体の大地があり、大地の上には固体の自然や固体
の建物があり、そこでは固体の実相人間がみなすこやかに仲良く暮らしている、と
考えるのが真の「生長の家の教え」であるとの印象をうけたものですから、ホープ
様や復興Gさまは、実相世界を固体の世界と考えておられるものと判断しておりました。

もしも固体の実相世界が実在するとなると、わたしの主張する「本物の宇宙」は
理論的に成り立たなくなるものですから、復興Gさまに「固体か流体か」をおたずね
いたしたものです。「固体の実相世界は非実在であり、ない」との確約を得られるの
であれば、それだけで十分です。確約はいただけますでしょうか。

258初心者:2013/02/17(日) 23:04:17 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

>――「一コマ一コマ映し出す仕組が、ほんらいないはずの迷った世界をつくりだす」という表現はちょっとおかしいと思います。

そうなのですね、わたしもおかしいとおもいます。このおかしさこそがダブルバイ
ンドの正体という気がいたします。

生長の家では、現象世界を「迷いの産物」として表現しませんでしょうか。もしも
このように表現するなら、一コマ一コマを現象世界として映し出す仕組みが迷いを
つくりだしているということになってしまいます。

このように考えることはとうていできませんので、もしもこのように考えなければ
ならないとすれば、これがダブルバインドとなって、「神の仕組みがなぜ迷った
世界をつくるのか」とのおかしな問いかけをしなくてはならなくなります。「神の
仕組みは迷った世界をつくらない」と考えるなら、おかしな問いかけをしなくても
すむことになります。

現象世界は迷いの産物ではない。これがわたしの考えるところですが、生長の家
は、現象世界を迷いの産物として説明しているようなところがありはしませんでしょうか。

>「一コマ一コマ映し出す」というのは映画に譬えたわけですが、それは「影を映す」「投影する」ということで、映し出された影は影であって本来ない。だから、「迷った世界」は本来ない、ということでしょう。
「このように考えなければならない理由」なんて、ないと思います。それは、「1+1=2」でなければならない理由を問うようなものでしょう。それは、「神がおつくりになった仕組み」と考えてよいと思います。

わたしは、現象世界を実在と考えるのは迷いであるにしても、人が「迷い」によって
ないはずの現象世界をあるがごとく経験しているとは考えておりません。

ないはずの現象世界をあるがごとくつくりだせる仕組みが本物宇宙にはある
はずなのですね。この仕組みを利用して人類は現象世界をつくりだしている、とする
のが「本物の宇宙」の基本的な考え方です。

したがって、人類が本物の宇宙の仕組みを利用することでつくりだした現象世界を
「影であるから、ほんらいない」と言いつづけなければならない理由はどこにも
ないと考えます。現象世界を実在と思い込んでいる人にたいしては「ほんらいな
い」と説明する必要はあるにしても、「実在ではない」と了解した人にたいしてまで
「影であるから、ほんらいない」と言いつづけなければならない理由はどこにも
ないと考えるということです。

「このように考えなければならない理由」というのは、「現象は非実在」と了解した
人にたいしても、生長の家は「現象は迷いであり影であるから、ほんらいない」と
なおも言いつづけているとおもえるので、なぜそのように言いつづけなければ
ならないのか、との意味でその理由をたずねたものです。

現象世界を正しく説明するのであれば、「影であるから、ほんらいない」ではなく
「現象世界は神の計画を実現するために、人類がそれをあるがごとく経験して
いるのである」というべきではないでしょうか。

生長の家はなぜいつまでも「影だから、ない」の考えにこだわり続けてそのように
言いつづけるのでしょうか。現象世界を、重要な役割を担ってあるがごとくあらわ
れた世界と、なぜ考えようとしないのでしょうか。なぜ否定することばかりを考え
るのでしょうか。

「現象世界は迷いの産物であり影であるので、ほんらいない」とするのが真の
「生長の家の教え」だとすれば、神の仕組みによって映し出された世界を、真の
「生長の家の教え」は、ことさらに「迷いの産物」としてのみ描き出そうとしている
ことになりはしませんでしょうか。

259SAKURA:2013/02/17(日) 23:11:22 ID:csPqeQPY
「復興G様」 へ  「トキ様」 へ  
こんばんは……     ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>199>>200>>202>>203>>212>>214>>215>>216>>218>>226>>238>>247>>253>>256>>
SAKURA投稿の続きです…。

>>250の「復興G様」の投稿テキスト内容から……  (ジャンプしまして〜♫〜)
■■『生命の實相』第9巻 p.121 〜♫

===【 霊界通信 投稿 】================================
>>スピリット自身は「芸術」についてかく語る
 自分はさらに他の問題――芸術――に話題を転じた。霊界の生活には、自分たちが現世で、音楽や
絵画や彫刻や詩歌によって得るような歓喜に相応するものがあるか?――とたずねた。
 「なんのことはない! あらゆる芸術の発生する根元の世界は霊界なのだ!」とヴェッテリニは
叫んだ。…<<     (一部抜粋)
==============================================

■頂きました“テキスト”の中から…初めて「生命の実相」を拝読しました時の事です…。
個人的に“霊の世界”…興味シンシン〜♫〜でしたので??特に上記の文章内容のところで…フト!
当時を思い出しました。

❤「霊界の世界…パワ―頂けるのでしょうか??」そうでしたらと…当時……
今は亡き「デザィナ−・ディオ−ル」の芸術感覚を〜〜〜ことさら「祈り…」にての【暗示…】
を頂ければと〜〜〜【暗示=アイデア】を、ひたすら!ひたすら!でしたかしら〜〜〜ン!
実は、その頃は(15〜17年前…ある大阪財界の方の着物のリフォ−ム)を手掛けるに当たり、
初めての挑戦で…「形見の着物…」と言われますと、尚の事〜〜><心臓がドキドキ!でしたかと?

その後!!【出来る!出来る!〜〜〜出来る!】と云い聞かせながら…途中で、多少の弱気なる
“こころ”にもなりましたが…強い“意志力…出来る!”と潜在意識に入れ込みまして…
以前より「神想観…」真剣に〜♫〜させて頂きまして“多少のアイデア…”を頂き、無事に…
「形見の着物」を、よみがえさせる事が出来ましたのです。…が?
あの時の【真剣さ…?】しかし、今!【復興G様のテキスト】を拝読していますと…当時の
私はある面では当時の【弱気の心 = 有限…での心】でしたのかと。人間は「有限にして無限」…
と云います事は【強い意志力にての“出来る心”= 無限…での心】に成っていく!

但し、その方法として「雅春先生…言葉の重要性」を、改めて感じました次第です…。
それで…今回「復興G様」のこのテキストの部分を拝読するなり…思い出深いモノがあります。…が?
                                再合掌
              つづく

PS:「復興G様」に於かれましては?【霊界…通信】この世界を信じられますでしょうか??
私は……と?

260復興G:2013/02/17(日) 23:27:01 ID:AB6RqYXc

SAKURA様、トキ様、そして初心者様。

コメント、ありがとうございます。

皆々さま

聖典からたくさんの御文章を引用させて頂きましたが、みな自分の勉強のためでした。
それで、学んだことをまとめますと――

テキストの最初の方に

≪哲学的には神とは「大生命」だ生命の大本源だ、といってしまえばなんでもないようなものの、神とは必ずしもそんな抽象的なものではなく、活ける愛の神、生命の神、知恵の神、美の神であって、それを見る目さえあれば、人と人とが相対するように、人格的にさえもあらわれたまうのであります。≫

とありましたが、この「哲学的に神とは生命の大本源」とは、時空間をも生み出した、一切現象発生の枢機を握る「久遠の今」なる実相世界であり、
実相の完全円満・無限絶対なる創造の神――ありとあらゆるものを陰と陽との和合、すなわち愛のはたらきによって造り出し給う霊妙なる「創造の原理神」が第一義のカミである。

さらにその唯一根元神から投げかけられた「救いの霊波」が形体化して顕現した第二義の神。

幽(かく)り身すなわち肉眼で見える体(たい)を備えてはいないけれど、体(たい)がないのではなく幽微(かすか〉な身を備えている、霊魂神――第三義の神。

――とあって、吾々を守り導いて下さる神は、元は一神であるが、時と所と人とに応じて、場所しだい、時代しだい、救われる相手しだいで、そのあらわれ方が千差万別して導き給う。だからわれわれは、心を浄め、精神統一して愛の神、高級神霊に波長が合うようにすることによって、霊の導きを得て限りない美の創造ができる。

そして、中心帰一万物調和の神の構図を地上の全世界に顕現するために、創造の神の導きによって生長の家は出現した……

われわれはその神から与えられた使命を生きるのが、生き甲斐であり幸福である――と、少し飛躍しましたが、私は私自身の学びをまとめました。

皆さまは、いかがでしょうか。

間もなく終了の時間になりますので、初心者様へのお答えは、web誌友会後、明日にさせていただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

261復興G:2013/02/17(日) 23:38:34 ID:AB6RqYXc

終了時刻の23:30になりましたので、世界平和の祈りをもって、一応誌友会を終了させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

◇◇◇世界平和の祈り◇◇◇
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い
すべての人々の心に、愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

◇◇◇光明思念の歌◇◇◇
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ご参加くださいました皆さま、ご協力、ありがとうございました。
 そして閲覧してくださいました皆々さま、ありがとうございました。

 高級善霊のお守り、お導きをいただいて、ますます生き甲斐ある幸福の道を歩まれますように。
 おやすみなさい。

262復興G:2013/02/18(月) 09:01:38 ID:AB6RqYXc

初心者様

おはようございます。

昨夜はすばらしいご質問を頂戴しましたこと、ありがたく感謝申し上げます。昨夜はちょっと疲れてもう目がしょぼしょぼしていましたので、お答えを本日に延ばさせて頂きました。おゆるしください。

さて、
>>257
>>「固体の実相世界は非実在であり、ない」との確約を得られるのであれば、それだけで十分です。確約はいただけますでしょうか。<<

私は、「固体の実相世界」などというものはあり得ないと確信しております。

>>258
現象世界を正しく説明するのであれば、「影であるから、ほんらいない」ではなく
「現象世界は神の計画を実現するために、人類がそれをあるがごとく経験しているのである」というべきではないでしょうか。<<

そうですね。
『神 真理を告げ給う』のp.44〜p.49には、次のように記されていました。

     ○

 完全な神の分身であるあなたが何故迷うかと、あなたは問うであろう。“迷いは何処から来たのか”というのは仏教でも重大な設問になっている。「“迷い”本来無し」と一刀両断に截ち切る解答は従来からある。それでも、「では、その本来無き迷いが、どうして恰もあるかの如くあらわれて来るのか」という最後の問が残るのである。その最後の問に“わたし”は答えることにする。

     ○

 あなたは仏教の「煩悩即菩提」という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。“迷い”がそのまま“菩提”の道程であるということである。“迷い”という「菩提とは別なもの」があるのではないのである。“迷い”と見えているものが、実は“悟り”が動き出し、現象化しつつある道程であるから、“迷い”本来無しといい得るのである。
 あなた達が“迷い”だと思っているものは、実は“わたし”が“神の国”を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。

     ○

 時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時問の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂わば“画布(カンバス)”として必要なので“わたし”が人間に与えたところの架空的観念である。それは光の波を固定して映画の光景として見せるスクリーンの役目をなさしめるために“人間の心”に対して“わたし”が与えたところの概念である。このスクリーン上に生命の波動(心の波)が放射されると、生命の波動(心の波)が固定化されて物質化して感じられるのである。この物質化として感じられる基盤がなければ、地上に天国を建設するという“わたし”の芸術を成就することが出来ないので、“わたし”は人間に時間空間の観念を与えたのである。時間及び空間は“わたし”の創造である。
<つづきます>

263復興G:2013/02/18(月) 09:02:20 ID:AB6RqYXc

(『神 真理を告げ給う』p.46〜p.49より、つづきです)

     ○

 空間の観念を与えられた人間は、恰もスクリーンを与えられた人間が映写機から放射される光の波を、単に“光の波”として感受せずに物質界に起った具体的事象として感ずると同じ原理で、生命の波動(心の波)を単に波動として感受せずに、それを地上世界の物質的事象として感じ、その物質を具体的確固な存在として感ずるのである。地上が具体的存在だと感ずる精神的地盤が成立しなかったら、地上に天国を実現することは不可能なのだから、生命の霊的波動を物質化して感じ、地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就なのである。

     ○

 しかしながら、また別の観点からするならば、生命的波動を、空間面上の“物質”と翻訳して誤認することは“迷い”の発生ということにもなるのである。そして、それが、その“迷い”の発生は何処から生じたかという常に投げかけられる原因になるのである。“光”がなければ影を投ずることもないように、“迷い”は地上に天国を描き出すための画布として、“わたし”が投げかけた影である。

     ○

 “わたし”は、“わたし”の生命の霊的波動即ち“コトバ”によって先ず「光あれ」と想念して“光”を生み出し、次ぎ次ぎと万物を生み出して最後に“わたし”の最高完全のイメージの顕現としての人間を創造した。それら一切の事物と人間とは“わたし”から出たアイディアの霊的波動の顕現であるから霊的実在なのである。
 それなのに“わたし”は人間の霊的自覚を眠らせて、人間が時間・空間のスクリーン上に顕われている物質的存在なる「肉体」であるという夢を見せたのである。このことを『創世記』では「土の塵をもって人を創造(つく)り」という風に『物質人間』の重複創造として記述しているのである。それは本当に“重複創造”である。

     ○

 それが“重複創造”であるというのは、“わたし”の生命の波動即ちコトバによって創造された霊的存在であるところの“実相人間”と、その実相の自覚が眠りに入って“自己”を“土の塵”即ち“物質”にて創造られたるものと夢みている“物質人間”とが同時にそこに出現しているからなのである。

     ○

 “物質人間”は“本当の人間”ではなく、時間・空間の立体カンバス上に描かれたる“作品人間”なのである。それはテレビの画面上にあらわれた人物の如く動くのであるけれども、それは人間の心が創作した人物であって、“わたし”が創造した“神の肖像”そのままの人物ではないのである。

 しかし“わたし”はその人物の中に“わたし”の地上天国建設の念願を鋳込んである。それゆえに、彼は善悪の差別を考える理智を備えていて、兎も角も、自分の“善”と考える方向に行動しようとする欲望を備えているのである。物質の世界に、物質人間としてあらわされたる人間が、地上天国を描き出すのは、はじめて絵筆をもってカンバスに向った初歩の画家のように、充分完全なる絵を画くことが出来ないで、いろいろ試行錯誤を繰返すのである。そして中々、天国的な状態をあらわすことが出来ないで、“ああでもない”“こうでもない”と試行錯誤を繰返す。そこに善悪を差別する智的修行があるのである。この事を『創世記』第三章にはアダムとイヴとが“善悪を知る樹の果”を食したという風に書いているのである。
   (以上、『神 真理を告げ給う』p.44〜p.49より)

――上記は、とても考えさせられるお言葉ですね。

<つづきます>

264復興G:2013/02/18(月) 09:41:02 ID:AB6RqYXc

>>263のつづきです。

また、『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」の、次の質疑ご回答にも、私はとても考えさせられ、勉強になりました。長文になって恐縮ですが、謹写転載させて頂きます。

       ○

(『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより)

   二、現象なしの自覚について

(問) 病はないことはない。病は現象としてあるのである。それはただ実在ではないのである。それを「病なし」と言いきるのは言いすぎである。現象は無いことはない、現象を全否定してしまうのはまちがいである。現象は本体的実在ではないことはもちろんであるが、本体展開して現象となるのであって、現象なしと言いきってしまうのは奇矯だと言う人があります。(中根氏出題)

(答) 生長の家では「現象は実在でない、病は実在でない」という言葉を各所のページで説いておりますが、また時には、非実在と書いて「あらず」とか「ない」とかふりがなをつけたところもあります。が、近ごろはいっそう平易なわかり易い言葉で直截的簡明に「病気はない」「現象はあるように見えてもない」と力強く言いきることにしているのであります。

 わたしがなぜこう言うかは悟った人は知っていると思います。われわれが平常使っている言葉は、現象界を言いあらわす言葉であって、実相に直参する言葉ではありませんから、その言葉をそのまま利用して、至妙の実相に直参せしめるためには、普通とちょっと違う「奇矯に見えるかもしれない」言葉を使うのであります。言葉は月を指す指であって、言葉の表現にとらわれていては、月を指す指の形が太いとか細いとか議論していると同じで、いつも月が見えないことになるのであります。

 「現象はない」という言葉をわたしが使うようになるには霊感的な導きはむろんありますが、わたしとしては人間的にもよほど苦心したのであります。第一、「実在」という言葉は哲学上の言葉でありまして、普通の人には(少なくとも中学程度卒業くらいまでの哲学的素養なき人には)理解しがたい言葉なのであります。
 「実在」とは何を意味するかということになりますと、大変むずかしいことになりまして、『生命の實相』のような大衆の光明化を目指している聖典には、こんなむずかしい言葉はなるべく少なく使いたいと思いました。

 ある信徒の方はわたしに「生長の家は高遠の真理を驚くほどやさしく書いてありますが、どうもまだ言葉がむずかしいと言う人が多いから、できるだけやさしく書いてくれ」というような注文もせられたのであります。

 いろいろ考えたすえ、この「実在」という哲学上のむずかしい言葉を、わたしはたんに「アル」または「本当にある」という言葉に代えたのであります。これを哲学的に理屈を捏ねて、実在でないというのと単に「ない」とは大いに意味が違うような言葉の穿鑿問題に浮き身をやつすのはまちがっているのであります。

 わたしの使っている言葉にはいろいろ平易化の上に苦心があるのですから、言葉で引っかかって揚足をとらずにその真意を知って実相に直参していただきたいのであります。

 が、「実在」と「アル」とはそんなに問題にするほど違いません。また、その逆、「実在でない」と単に「ナイ」とはそんなに違いません。「実在」という言葉はむずかしそうな言葉でありますけれども、英語では、“Being”すなわち「在ること」という字を使って「実在」と言うのであります。わたしはこの英語の易しさに感心しました。「実在」と言わずに「アルコト」とは平易で要をつくしています。「実在」が「アルコト」であれば、「実在でない」ことを「ない」と平易に言ったら、かえって平易でわかりやすいと思います。

 むろん、英語の“Being”を「実在」と読ませるにはBを花文字にしてあります。日本語には花文字がありませんから、花文字を使うわけにゆかないので、前後の関係で「実在でない」という意味をわからすように苦心した上で「ない」という言葉を使い、また時々、花文字の代わりに、その「ない」という言葉の所に傍点を付したりして、それとなく解るようにしてあるのであります。
<つづく>

265復興G:2013/02/18(月) 09:42:07 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより、つづき>

 生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と言いきることに反対する人に二種あります。その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異う、アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないと言うだけだ、と言う人であり、その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。

 ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。『般若心経』にも「五蘊皆空」と書いてあって、その「空」を説明するためには、「色受想行識もまた無し」とか、「老死無し」とか、「老死の尽くることも無し」とか、仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに仕方がないのであります。

 「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである。実在でないだけである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、端的に簡明直截的に「老死無し」と一喝し、始めから人間に老死は無いのだから、これから悟って無くなるというようなものでないという意味をふくめて「老死の尽くることも無し」と言っているのであります。

 『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような批評をせられる人から見たら、「老死無し」というのは言葉が奇矯である。老死は実在に非ずと言わなければまちがっている。もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら人心を惑わすものであると経文の結集者に抗議を申し込まねばならぬでありましょうが、その当時は言葉に引っかかる人がなく、用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、その経を読んでも気狂になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、今に至るまで、この経文が改竄されたということを聴かないのであります。

 実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えてもないのだ」また「ただ至妙の実相のみがあるのだ」と教えられても、続々と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのはなぜでしょうか。はたして「現象はない」「病気はない」「不幸はない」等々……というふうに「ない」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、そういうよい結果が起こることはありません。

 世間普通の人は、現象界の出来事は皆そのままあると思っているのです。それで、現象の一種である病気もあると思っている。老死もあると思っている。不幸も災難もあると思っている。あると思うがゆえに捉われ、捉われるがゆえに病気にかかりやすく、かかった病気が治りがたく、かえって老死を速め、不幸災厄の前に屈服してしまうのです。
 しかしそれらの不完全な現象は、「あるように見えてもないんだぞ」とわたしが掛け声をかけてあげると病気に崩折れていた人が妙に立ち上がり、もう老衰していたと見える人が若返って白髪まで黒くなり、不幸の前に勇気を失っていた人が勇気を回復して事業に邁進成功し、意地悪の姑や、放蕩の良人なども、あるように見えてもないんだぞと掛け声をかけると、そんな悪い姑や良人はない、神の子たる本当に深切な姑や良人ばかりがあると思って姑や良人に隔意なく事えるようになって、今まで地獄状態であった家庭が光明化した実例もたくさんあります。

 「ない」という言葉と「実在でない」という言葉は哲学上の論議を交す場合には、あるいは厳密に区別して使わなければならぬ時もあるかもしれませぬが、生長の家でわたしが「ない」という言葉を現象に関して使う場合は、哲学上の理屈をこねるためではなく、老病不幸等(現象)をあると思って執着していて、かえって迷い苦しんでいる人に、その迷い苦しみを取り去るために、応病与薬的に投げかける喝であって、それが「言葉の薬」として実際的に迷いを去る上に効果を顕わして迷いが去り、老病不幸が治っていれば、それでわたしの目的はとげられ、信徒が『生長の家』や『生命の實相』を読む目的を達せられているのであります。
<つづく>

266復興G:2013/02/18(月) 09:42:49 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより、つづき>

 たとえば、薬というものはたいてい毒性をもったものですが、病気に応じて、適当に調合して適量に用いると効くことがあります。現象界をあると思いすぎて執着し、苦しんでいる人に対しては、「ない」という端的直截な言葉が一等よくきくのであって、「ない、ない」と幾度繰り返しても、五官の方では常にあるように見えていて、「ある、ある」と主張してくれているのですから五官の方での「ある」という主張と、生長の家での薬語「ない」とが適当に中和して、迷いや執着を去る上に効果を奏し、事実上、実効上、病気が治り、不幸その他がいちじるしく癒やされているのですから、生長の家で、「現象は無い」という言葉を使うのは、その用法がまちがっていると言われないのであります。

 およそ薬というものは、薬それ自身に毒性があるから使ってならないというわけのものではないのであります。モルヒネは毒薬であっても、本当にそれがよく効いたら人間に適するようにしてそれを使えば、かえって胃腸病が治ったり神経衰弱が治ったりすることがあります。そうすると、モルヒネのような毒薬でも、本来毒であるか薬であるかは容易に分かるものではない、使いようによって毒ともなれば薬ともなるのであります。

 それと同じく、「無」という言葉も下手に使えば、人を気狂にするかもしれない、今まで哲学にかぶれて厭世自殺をしたり、仏教の「空」をさとったと思って隠遁生活をする人が出たりして、仏教は厭世思想だという悪評を受けたのも無を説き「空」を語る言葉の薬剤が、効きすぎたり、効かなすぎたりしたからであります。
 上手にこれを使えば、現に、生長の家のように病を治し、運命をよくするのであります。

 同じヨードでも、ヨードは普通なら細胞を破壊する激毒性がありますが、ある操作をこれに加えておくと強壮剤となります。

 「無」の言葉は今まで「ある」と思っていた現象を「ない」と言いきるのですから、ヨード以上に峻効をもっている。それを適当の効果を持たすように、文章の中にいわばコロイド状に組み込んであるのが『生長の家』であり、『生命の實相』であります。だから『生長の家』を読んで効くか効かぬか、薬になるか毒になるかは、読んだ多数実験者の実際例によって証明せられているのです。

 かくのごとく「無」の字は峻効を有するので、生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、有効無害の働きをするように、文章中に巧みに他の言葉と混ぜて調合してあるのであります。「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、「無」の字、「ない」という言葉を、文章全体の中に織り込んであるその織り込み方にあるのであります。

 この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。思想は真似はできても、言葉の調合は真似ができないのであります。だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、その同じ真理が説いてある生長の家では、聖典を読んだり話を聴いただけで病気が治るのであります。

 「現象はない」とか「病気はない」とかいう言葉は、語法が不穏当であるとかいって注意して下さるのはありがたいが、毒性峻烈なヨードでもヨード剤として特殊の分子構造のうちに結合せしめてヨードを安定せしめたときには無害有効となるがごとく、「無」の字の効果は峻烈であっても、わたしの書きまたは話す特殊の文章組織の中に結合せしめたときに効力が最も卓絶した薬物となるのであります。
<つづく>

267復興G:2013/02/18(月) 09:43:37 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより、つづき>

 それで、『生命の實相』を読む人にはその人の心の中に、こちらで処方した「無」の字の一定刺激を連続的に与える方が効果がよいのであります。それで、生長の家で説いている「無」の字や、「現象はない」という語だけを抽出してその「無」の内容や効能を理屈でいろいろ詮議しても「無」の字の効果は、わたしの執筆全体にひろがっていて、はじめてヨード剤のように効果を現わしますのですから、単に「無」の字や「現象はない」の語句だけを抽出して語句の適否を非難することは見当外れです。ヨード剤でもその成分中のヨードだけを抽出して激毒性であると言って批評してみても、ヨード剤全体が効果を現わせばその薬は優良であるではありませんか。

 薬剤に併用禁忌の薬があります。たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。生長の家で「病気はない、老死はない、不幸はない、あるように見えても現象はない」と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。

 近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表わし、「何々会」等という別異の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

 茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人が、その種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

 「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。生長の家と、それらの宗教とどこがちがうかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の解放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、厭世的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

 むつかしい複雑な「無」の理論をお読みになりたければ仏典にはいくらでも複雑なものがありますから、『大乗起信論』でも、『大般若経』でもお読みになるとよいと思います。

 この問題については「善き樹はよき果実を結ぶ、果実を見てその樹の良否を知れ」というキリストの言葉でお答えしたいと思います。理屈でその樹は悪い果を結ぶはずだという理論が通りましても、実際その樹が善き果を結ぶ場合には理論の方にまだ気づかれない欠陥があるのです。理論で宗教で病気が治るはずがないと結論されても、実際に治る以上はその理論の気のつかないところに真理があるのです。

 真理というものは多数決の理屈で定まるものではありません。そういう論議を読むのに費やす時間がありますならば、言葉をよく調合せしめたる――「無」字を巧みに調剤してある聖典『生命の實相』を幾度でも繰り返し読んで、少しでもいっそう深く悟りに入られるよう希望致します。

(以上、『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより)

268トキ:2013/02/18(月) 10:07:05 ID:HPyZdUGM
復興G様

 長時間のご指導、ありがとうございました。本当に勉強になりました。
また、投稿者様にも深く感謝申し上げます。

 多数の閲覧者様にとって、有益な内容だったと確信しております。また、web誌友会の開催中は
閲覧数が上昇していた事を考えると、多くの信徒様がご覧になったと思います。

 今後とも、ご指導をよろしくお願いいたします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

269復興G:2013/02/18(月) 10:27:08 ID:AB6RqYXc

>>267のつづきです。

 以上、聖典の引用文ばかり長くなり、申し訳ありませんでした。

 「実相」とか神の御心は限りなく大きいもので、私たちの内にもその無限が宿っているにしても、現象的にはまだまだ未開発の未熟者ですから、私は勉強中であり、初心者様に「こうだ」と断定的に申し上げるようなことはできません。
 上記の聖典などを繰り返し拝読しながら、真理の深さに打たれ、学び、熟慮しているところであります。

 なお、生長の家では「縦の真理」「横の真理」ということも言われ、「縦の真理」は「人間は神の子。実相独在」ということであり、「横の真理」は「三界唯心、現象は心の影」と説かれておりますが、この「横の真理」にとらわれ、思わしくないことが出てくると「これはどういう心の影だろうか」と引っかかって内向きになり、自分を責めて自己処罰してしまう人も結構まじめな信徒さんに多く見られたように思います。それで榎本恵吾氏などはそういう人たちに、「現象は影に過ぎないのだから、横の真理は“ないもの”の法則ですよ、“実相独在”だけでいいのですよ」と強調され、それによって初めて救われたという人もたくさんいます。

 現象は実相が展開中で未完成ですから不完全で、不調和や悪が「ある」と見える。それを善くしよう、「悪」を消そうとして悪を見れば、「見るものが現れる」という法則によって、ますます本来ない悪があるかのごとく出てくる、という悪循環を繰り返して悩んでいることが多いのが現状ではないでしょうか。そこから救出するための特効薬が「現象なし」「実相独在」という言葉であって、このことはもっともっと徹底する必要があるのではないかと、私は思っております。

 だいたい以上のようなことで、お答えになったでしょうか。

270初心者:2013/02/18(月) 12:41:04 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

>私は、「固体の実相世界」などというものはあり得ないと確信しております。

と力強い言葉で確約をいただきましたこと、感謝いたします。

「初心者は雅春先生を否定している」とほうぼうで思われているようですが、
わたしが否定してきたのは「固体の実相がある」とされる雅春先生の教えです。

固体の実相さえなければすべてが説明できる。固体の実相があれば、なにも説明
できない。こうした事情にふれながら、わたしが雅春先生の教えを否定するかの
ような発言をくり返す、その理由を説明してきたつもりなのですが、「雅春先生は
固体の実相があるとはいっておられない」といった反論はついぞみかけることが
ありませんでした。これはいったいどういうことなのでしょう。

みなさまは「実相世界は固体である」と考えておられるのではありませんか。固体
と考えるためにダブルバインドにかけられているのではありませぬか。

復興Gさまもいつぞやわたしに、「実相世界には美女がいて酒が飲める。パース
ペクティヴもある」とこのように説明なされました。パースペクティヴがあるという
ことは、実相世界を固体的三次元世界と考えるしかないということになりはしない
のですか。

生長の家の方々は、「固体の実相世界がある」と思い込んでおられるためにダブル
バインドにかけられています。ダブルバインドを解消することをもって「悟り」と称し
ておられるはずです。真の生長の家の教えとは、固体の実相世界を「あり」とする
教えなのではありませぬか。

271うのはな:2013/02/18(月) 13:37:13 ID:a.OcI.Rc
初心者総裁先生

 総裁のお話は、こことは毛並が違うように思えるのですが?

272復興G:2013/02/18(月) 13:40:04 ID:AB6RqYXc

>>270 :初心者様。

>>わたしが否定してきたのは「固体の実相がある」とされる雅春先生の教えです。<<

――私は寡聞にして、谷口雅春先生が「固体の実相がある」と教えられたことを知りません。どこにそんな教えがあったでしょうか。

273初心者:2013/02/18(月) 14:04:28 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

>――私は寡聞にして、谷口雅春先生が「固体の実相がある」と教えられたことを知りません。どこにそんな教えがあったでしょうか。

「固体の実相があるとされる雅春先生の教え」と書くのと、「固体の実相があると
された雅春先生の教え」と書くのとでは、意味がまったくちがってまいります。

「固体の実相があるとされる」とは、たとえば復興Gさまが「パースベクティヴは
ある」と言われたように、弟子たちによって「雅春先生の教えがそのようにみなさ
れている」との意味もふくめて書いたつもりです。

もちろんどこかで雅春先生が、実相世界には「荘厳なる建築物がある」といった
ような意味のことを説いておられたのを読んだ記憶がありますが、どこであった
のかはさだかでありませんので、これにふれることはいたしません。

弟子たちが「実相世界は固体である」と思い込んでいるフシがある。このことを
問題にしております。

274初心者:2013/02/18(月) 14:07:18 ID:4YcI.wfQ
うのはなさま〜

ホープ様がわたしを呼びだされて、復興Gさまと対話することをのぞまれたのですよ。

275初心者:2013/02/18(月) 14:22:23 ID:4YcI.wfQ
かつてこちらで問題になった、雅春先生と倉田百三氏の「寂光論争」ですが、論争
のなかで雅春先生は「実相世界には形がある」とのご主張で、「実相は寂光であ
る」とする倉田百三氏の主張をしりぞけようとなされていた、との記憶があります
が、あの論争はなにが問われていたのでしょうか。最終的には病気が治るかどうか
が問題にされていたという気がいたしております。

276復興G:2013/02/18(月) 14:38:38 ID:AB6RqYXc

>>273 :初心者様。
>>「固体の実相があるとされる」とは、たとえば復興Gさまが「パースベクティヴはある」と言われたように、弟子たちによって「雅春先生の教えがそのようにみなされている」との意味もふくめて書いたつもりです。<<

――そんなことを書いたことがあったかなあと探してみましたら、ありました。
≪現象世界にパースペクティブがあるなら、その元の時空間を超えた、時空間を生み出した元の実相世界にもパースペクティブはある。実相世界は「静」でなく「動」でもある。「動」でありながら不変であるという、現象世界では考えられない、一切の根源世界なのです。実相世界は時空以前の世界だけれども、そこには具体的な形も全てあるのです。≫
と、偉そうに書いたことがありましたね。

しかし、そのときも私は「固体の実相がある」とは思っておりませんでした。
「パースペクティブ」とは、「遠近感のこと」くらいの理解しかなく、ともかく実相世界は本源世界でそこにはすべてがデザインされてあるのだから、遠近感もふくまれているはずだ、くらいの思いで、そう書いておりました。

しかし、それは「デザインされている」というようなことであって、「固体の実相がある」となどは全く思っておりませんでした。

>>弟子たちによって「雅春先生の教えがそのようにみなされている」<< と書かれましたが、そうでしょうか。そんな根拠がどこにあるのでしょう。

277初心者:2013/02/18(月) 15:05:28 ID:4YcI.wfQ
復興Gさま

>>>弟子たちによって「雅春先生の教えがそのようにみなされている」<< と書かれましたが、そうでしょうか。そんな根拠がどこにあるのでしょう。

「実相世界には美女がいて、酒も飲める」と復興Gさまはかつておっしゃられまし
た。これを実相世界は弟子たちによって固体とみなされているフシがある、と判断
する根拠としてあげることができます。

また#25の投稿で、ホープ様は以下のごとく述べておられます。

>とあるように、きっと実相世界では、この世界のすべての人々が病むこともなく、
老いて死すこともなく、怒ることもなく、悲しむことも、悩むこともなく
、完全円満な姿で大調和して暮らしているのだろうな…」と想像しています。

「完全円満な姿」といっておられることから、ホープ様は「固体の実相世界」を想像
しておられるのはあきらかではないでしょうか。

さらに根拠をあげるなら、すでに述べましたように、わたしは「固体の実相世界」を
否定してまいりましたが、「雅春先生は固体の実相世界など説いておられない」と
の反論は皆無であったということです。これを「実相世界は固体である」とみな
さまが思いこんでおられると判断した根拠としてあげることができます。

あとは、それぞれの方に「実相世界には形があるとおもわれますか」とたずねて
みられればよろしいのではないかと考えます。


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