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Web誌友会 板/2

179復興G:2013/02/15(金) 18:25:33 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<2>

 聖書にはこう書いてある、日本の古典にはこう書いてある、などといいましても、あらゆる権威に対して新しい科学的批判を加え、その批判をパスしたものでないと信じないのが現代人でありますから、科学的には今よりもズッと野蛮な時代に書かれた古書経典に何らの権威をも認めないのは当然であります。

 それでは現代人は何によって神の実在(おられること)を知ることができるのでしょうか。わたしの考えではわれわれが神を知ることができるのは、われわれおのおのの内に神と同じものがあるからであります。

 たとえばわれわれがバラの色を観てこれを美しいと感じる。この美しいというのは、たいていの人はバラの花だけの美しいのをわれわれが感ずるのだと思っていますが、実は自分の心に美しさがあるから、バラの花の美を感じうるのであってバラの花そのものだけが美しいのではありません。
 バラの花そのものだけが美しいのでありましたら、猫がバラの花を見ても美しいと感じなければならない、鼠がバラの花を見ても美しいと感じなければならない。ところが猫が花を植えて楽しんでいるのをわたしたちは見たことがありませんし、鼠がバラの花を見て、その美に感心しているのも見たことはありません。
 これによってみても、美しさは観る人の心が対象たるバラの花に映って、その反射が自分の心に返ってきて、そこで始めて美しいと感じることがわかるのであります。

 すなわちバラの花を見て美しいということがわれわれにわかるのは、われわれ自身の心のうちに「美しさ」があってバラの花という鏡に映し出してみて、はじめてこれを美しいと感じるのであります。美学、すなわちわれわれがなぜ美感を感ずるかということを研究する学問ではこれを「感情の移入説」といって、学界で一般に肯定されている学説であります。

 そこでわれわれはバラの花の美を感ずる。しかし同じバラの花の美を感ずるにしましても、それを感ずるわれわれの心のうちに宿っているところの「美」がどの程度まで開発されているかによって、美の感じかたにも、深さがいろいろあるのであります。

 たとえば皆さんが花をお活けになるにしましても、自分の心のうちの「美」が磨かれている人ほど、美に対する感覚が鋭敏であります。それでこの枝をこういうふうにしたほうがいっそう美があらわれるということがわかるのであります。
 この美があらわれるという美は本来どこにあるかといいますと、花をお活けになる御本人の心のうちにあるのであります。心のなかに活ける前から、ちゃんと色の美しい配列の仕方が描かれている、その心のうちにえがかれているとおりの姿に花を配列すると、はじめて美しい活け花や盛り花ができあがるのであります。

 だからわれわれは活け花の美を見ることは活けた人の心の美を見ることであります。活ける人の心に美がなければ活け花の美はありません。しかし猫や鼠が活け花を見ましてもそれを美とは感ずることはできません。活け花の美を最も深く感じうる人は、花心のある人――すなわち活け花の美しさをはじめから心の内に育てている人であります。
 すなわち「活け花を見る」と簡単にわれわれはいいますけれども、実は活けた人の心の美がそれを見る人の心の美とぴったりあって、隠れていた美が表面にでてハッキリするのであります。

 そのようにわれわれは自分の心のうちにあるものしか見ることができません。またたとい触れてもそれを感ずることができません。
 もしわれわれが神を見ることができ、あるいは神を感ずることができますならば、その人のうちに神がやどっているからであります。
 すると神を見ることも感ずることもできない人には、神が宿っていないのであるかと申しますと必ずしもそうではありません。あまり現在の境遇に満足し切っている人は神をもとめる必要がないから、神を見ることも感ずることもしないのであります。
 それは神を見ることができないのではなく、しないのであります。
<つづく>


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