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Web誌友会 板/2
265
:
復興G
:2013/02/18(月) 09:42:07 ID:AB6RqYXc
<『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより、つづき>
生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と言いきることに反対する人に二種あります。その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異う、アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないと言うだけだ、と言う人であり、その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。
ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。『般若心経』にも「五蘊皆空」と書いてあって、その「空」を説明するためには、「色受想行識もまた無し」とか、「老死無し」とか、「老死の尽くることも無し」とか、仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに仕方がないのであります。
「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである。実在でないだけである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、端的に簡明直截的に「老死無し」と一喝し、始めから人間に老死は無いのだから、これから悟って無くなるというようなものでないという意味をふくめて「老死の尽くることも無し」と言っているのであります。
『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような批評をせられる人から見たら、「老死無し」というのは言葉が奇矯である。老死は実在に非ずと言わなければまちがっている。もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら人心を惑わすものであると経文の結集者に抗議を申し込まねばならぬでありましょうが、その当時は言葉に引っかかる人がなく、用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、その経を読んでも気狂になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、今に至るまで、この経文が改竄されたということを聴かないのであります。
実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えてもないのだ」また「ただ至妙の実相のみがあるのだ」と教えられても、続々と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのはなぜでしょうか。はたして「現象はない」「病気はない」「不幸はない」等々……というふうに「ない」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、そういうよい結果が起こることはありません。
世間普通の人は、現象界の出来事は皆そのままあると思っているのです。それで、現象の一種である病気もあると思っている。老死もあると思っている。不幸も災難もあると思っている。あると思うがゆえに捉われ、捉われるがゆえに病気にかかりやすく、かかった病気が治りがたく、かえって老死を速め、不幸災厄の前に屈服してしまうのです。
しかしそれらの不完全な現象は、「あるように見えてもないんだぞ」とわたしが掛け声をかけてあげると病気に崩折れていた人が妙に立ち上がり、もう老衰していたと見える人が若返って白髪まで黒くなり、不幸の前に勇気を失っていた人が勇気を回復して事業に邁進成功し、意地悪の姑や、放蕩の良人なども、あるように見えてもないんだぞと掛け声をかけると、そんな悪い姑や良人はない、神の子たる本当に深切な姑や良人ばかりがあると思って姑や良人に隔意なく事えるようになって、今まで地獄状態であった家庭が光明化した実例もたくさんあります。
「ない」という言葉と「実在でない」という言葉は哲学上の論議を交す場合には、あるいは厳密に区別して使わなければならぬ時もあるかもしれませぬが、生長の家でわたしが「ない」という言葉を現象に関して使う場合は、哲学上の理屈をこねるためではなく、老病不幸等(現象)をあると思って執着していて、かえって迷い苦しんでいる人に、その迷い苦しみを取り去るために、応病与薬的に投げかける喝であって、それが「言葉の薬」として実際的に迷いを去る上に効果を顕わして迷いが去り、老病不幸が治っていれば、それでわたしの目的はとげられ、信徒が『生長の家』や『生命の實相』を読む目的を達せられているのであります。
<つづく>
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