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Web誌友会 板/2

207復興G:2013/02/16(土) 06:52:54 ID:AB6RqYXc

SAKURA様。

テキストに添って、感想を書いてくださり、ありがとうございました。

>>200
>南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと<…云々…と〜〜〜思いますに「念仏…」だけでは、救われないのです〜〜〜ョネ!これも【霊の世界…】では、以前に於きまして“投稿記載”していますが?やはり【 意識=心 】ではと、思う次第なのです。…が〜〜〜??<

親鸞聖人は、「小慈小悲もなき悪人」と(肉体の)自我を否定し、「南無阿弥陀仏」を唱えて他力にすがるしかない、ということを強調されたと思います。

生長の家では、『人生は心で支配せよ』という本もありますが、それは結局「神の心で支配せよ」ということになるのであって、谷口雅春先生も、肉体の心で人生を支配しようと努力したけれどもできなかった、ということを自伝篇にお書きになっていると思います。

榎本恵吾先生が、宇治で研修生の指導を担当しておられたときに書かれた「研修のヒント」というプリントの最初に、次のように書かれています。

     ―「研修のヒント」“はしがき”にかえて―

 これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいのちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
 老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。

 どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、次のことだけは判然としています。
 すなわち、
 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが神の子の生活であります。

 修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行をすること等……は、すべて現象であって無であること。

 それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのように修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であるということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあるということであります。

 しかし、「このことを自覚しなかったら無いのと同じで、その自覚することに当るのが、いわゆる修行である。」と従来までの宗教では説かれていたのであります。ところが尊師谷口雅春先生は、それは方便としては一応は認めておられますが、本当は人間は神の子であって、そのままで自性円満であることを発見されたのであります。それは“自覚する”という人間の修行、努力の助けを借りずとも人間をそのまま完全に生み給うた神の発見だったのであります。
<つづく>


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