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Web誌友会 板/2

267復興G:2013/02/18(月) 09:43:37 ID:AB6RqYXc

<『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより、つづき>

 それで、『生命の實相』を読む人にはその人の心の中に、こちらで処方した「無」の字の一定刺激を連続的に与える方が効果がよいのであります。それで、生長の家で説いている「無」の字や、「現象はない」という語だけを抽出してその「無」の内容や効能を理屈でいろいろ詮議しても「無」の字の効果は、わたしの執筆全体にひろがっていて、はじめてヨード剤のように効果を現わしますのですから、単に「無」の字や「現象はない」の語句だけを抽出して語句の適否を非難することは見当外れです。ヨード剤でもその成分中のヨードだけを抽出して激毒性であると言って批評してみても、ヨード剤全体が効果を現わせばその薬は優良であるではありませんか。

 薬剤に併用禁忌の薬があります。たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。生長の家で「病気はない、老死はない、不幸はない、あるように見えても現象はない」と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。

 近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表わし、「何々会」等という別異の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

 茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人が、その種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

 「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。生長の家と、それらの宗教とどこがちがうかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の解放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、厭世的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

 むつかしい複雑な「無」の理論をお読みになりたければ仏典にはいくらでも複雑なものがありますから、『大乗起信論』でも、『大般若経』でもお読みになるとよいと思います。

 この問題については「善き樹はよき果実を結ぶ、果実を見てその樹の良否を知れ」というキリストの言葉でお答えしたいと思います。理屈でその樹は悪い果を結ぶはずだという理論が通りましても、実際その樹が善き果を結ぶ場合には理論の方にまだ気づかれない欠陥があるのです。理論で宗教で病気が治るはずがないと結論されても、実際に治る以上はその理論の気のつかないところに真理があるのです。

 真理というものは多数決の理屈で定まるものではありません。そういう論議を読むのに費やす時間がありますならば、言葉をよく調合せしめたる――「無」字を巧みに調剤してある聖典『生命の實相』を幾度でも繰り返し読んで、少しでもいっそう深く悟りに入られるよう希望致します。

(以上、『生命の實相』第二十四巻「質疑篇」88〜99ページより)


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