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Web誌友会 板/2

234復興G:2013/02/16(土) 21:56:30 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<6>

 まだ詳しくいえば日本語の神という言葉を語源的に解釈しますと、いろいろの意義を包含しているのでありますが、まあだいたいふつうはこの三種のカミをいうのであります。
 そして神が一つだと主張する人は、神という言葉で宇宙の創造者としての唯一つの神を指していわれるのでありますから唯一つということに決してまちがいがないのであります。
 そして神は多神だと主張する人は救いの化身たる第二類以下の神々を含めていわれるのでありますから、これもまちがいがないのであります。同じ言葉で別々のものを指して、互いに「一神」だ「多神」だと論争していても結局解決のはてしがないのであります。

 さてこのように神は一神であるとともに、時と所と人とに応じて、場所しだい、時代しだい、救われる相手しだいで、そのあらわれ方が千差万別してくるのでありまして、時代により、そこに住んでいる人間の発達程度に応じて、いろいろに変化して現われ給うて人をお救いになるのであります。「一神教」のキリスト教にあらわれた神でも、旧約にあらわれた神エホバのある部分は怒りの神、復讐の神、嫉みの神、国粋論者の神であって、ほかの神を拝んではならぬ、イスラエルの国はぜひともユダヤ人に回復させねばならぬなどと非常に執着の強い狭いことをいっているのでありますが、新約の神になってくると、ズッと大きな地方色のない広い神になってきています。「心の清きものは、神を見ることを得ん」とか、「神の国はここに見よかしこに見よというべき性質のものではない。なんじらの心のうちにあるのだ」とか非常に普遍的な大きなものになっているのであります。ある新興宗教の神論というのを読んでみても「神は叱ったり、すかしたりして人間を改心させねばならぬからなかなか骨が折れるのであるぞよ」などとあって、一つの神でも救いのために、いろいろの相(すがた)であらわれる必要のあることを説いてあるのであります。そこであらわれから見れば多神、もとから見れば一神ということになるのであります。

 そこでこの神と通ずるすなわち神と感応霊交するにはどうしたらよいかといいますと、それには精神統一ということが第一であります。
 祈りも読経も静坐も坐禅も、生長の家で行なう「神想観」の修行も、すべてこれ精神を統一して、神と自分とを感応しやすくし、神の啓示に導かれて日常生活上に、できるだけ強く深く完全に神をあらわすためなのであります。
 霊媒による心霊現象研究も有料で実験に応ずる霊媒では、料金をとる手前、本当にその霊魂がこないときには霊魂がでてきてしゃべるかのごとくつじつまを合わせねばならぬので、虚偽や詐術がまじりがちで、ことごとくは信じられませんが、次に掲げるのは古河鉱業大連支店の青年社員、浅野新樹君が死んでから、その母多慶子(たけこ)氏を霊媒としてその父和三郎氏に通信せられて来た霊界の状態であって、職業霊媒でないから、大部分は信じえられます。そのうちに、こんな一節があります。

  問い「前にもいく度も聞いたが、幽界における身体の感じをモ一度きかせてくれないか? 呼吸や脈搏はあるかね?」

  答え「そんなものはてんで気がつきませんネ。内臓などもあるのか無いのかわかりません……。」

  問い「地面を踏む感じは?」

  答え「自分の室にいる時は歩くという感じがしないでもありませんが、地上の歩行とはだいぶ異(ちが)います。歩くといっても何やら軽い柔らかい気持です。また足音というものもしません。遠距離に行く時には一気呵成に行ってしまうのでなおさら歩くという観念が起こりませんね……。」
<つづく>


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