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Web誌友会 板/2

263復興G:2013/02/18(月) 09:02:20 ID:AB6RqYXc

(『神 真理を告げ給う』p.46〜p.49より、つづきです)

     ○

 空間の観念を与えられた人間は、恰もスクリーンを与えられた人間が映写機から放射される光の波を、単に“光の波”として感受せずに物質界に起った具体的事象として感ずると同じ原理で、生命の波動(心の波)を単に波動として感受せずに、それを地上世界の物質的事象として感じ、その物質を具体的確固な存在として感ずるのである。地上が具体的存在だと感ずる精神的地盤が成立しなかったら、地上に天国を実現することは不可能なのだから、生命の霊的波動を物質化して感じ、地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就なのである。

     ○

 しかしながら、また別の観点からするならば、生命的波動を、空間面上の“物質”と翻訳して誤認することは“迷い”の発生ということにもなるのである。そして、それが、その“迷い”の発生は何処から生じたかという常に投げかけられる原因になるのである。“光”がなければ影を投ずることもないように、“迷い”は地上に天国を描き出すための画布として、“わたし”が投げかけた影である。

     ○

 “わたし”は、“わたし”の生命の霊的波動即ち“コトバ”によって先ず「光あれ」と想念して“光”を生み出し、次ぎ次ぎと万物を生み出して最後に“わたし”の最高完全のイメージの顕現としての人間を創造した。それら一切の事物と人間とは“わたし”から出たアイディアの霊的波動の顕現であるから霊的実在なのである。
 それなのに“わたし”は人間の霊的自覚を眠らせて、人間が時間・空間のスクリーン上に顕われている物質的存在なる「肉体」であるという夢を見せたのである。このことを『創世記』では「土の塵をもって人を創造(つく)り」という風に『物質人間』の重複創造として記述しているのである。それは本当に“重複創造”である。

     ○

 それが“重複創造”であるというのは、“わたし”の生命の波動即ちコトバによって創造された霊的存在であるところの“実相人間”と、その実相の自覚が眠りに入って“自己”を“土の塵”即ち“物質”にて創造られたるものと夢みている“物質人間”とが同時にそこに出現しているからなのである。

     ○

 “物質人間”は“本当の人間”ではなく、時間・空間の立体カンバス上に描かれたる“作品人間”なのである。それはテレビの画面上にあらわれた人物の如く動くのであるけれども、それは人間の心が創作した人物であって、“わたし”が創造した“神の肖像”そのままの人物ではないのである。

 しかし“わたし”はその人物の中に“わたし”の地上天国建設の念願を鋳込んである。それゆえに、彼は善悪の差別を考える理智を備えていて、兎も角も、自分の“善”と考える方向に行動しようとする欲望を備えているのである。物質の世界に、物質人間としてあらわされたる人間が、地上天国を描き出すのは、はじめて絵筆をもってカンバスに向った初歩の画家のように、充分完全なる絵を画くことが出来ないで、いろいろ試行錯誤を繰返すのである。そして中々、天国的な状態をあらわすことが出来ないで、“ああでもない”“こうでもない”と試行錯誤を繰返す。そこに善悪を差別する智的修行があるのである。この事を『創世記』第三章にはアダムとイヴとが“善悪を知る樹の果”を食したという風に書いているのである。
   (以上、『神 真理を告げ給う』p.44〜p.49より)

――上記は、とても考えさせられるお言葉ですね。

<つづきます>


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