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Web誌友会 板/2

178復興G:2013/02/15(金) 18:24:47 ID:AB6RqYXc

web誌友会テキスト 『生命の實相』第2巻より<1>

   第五章 神への道しるべ

 霊眼で多数の人が同時に「生長の家の神さま」を拝したという話がでましたので、いよいよ神さまとはどんなものだということを説明すべき段どりになりました。

 哲学的には神とは「大生命」だ生命の大本源だ、といってしまえばなんでもないようなものの、神とは必ずしもそんな抽象的なものではなく、活ける愛の神、生命の神、知恵の神、美の神であって、それを見る目さえあれば、人と人とが相対するように、人格的にさえもあらわれたまうのであります。キリストの神がそうであった。旧約の預言者にあらわれた神がそうであった。そのほかいろいろの宗教の開祖たちには神さまのみ声を直接にお聞きになった方が多いのであります。
 「われ神を見、神より聞きしところをなんじらに伝う」そこにこそ真の宗教の教祖たる権威があるのであります。

 ところがふつうの人には神は眼では見ることができないのですから、それを見た人が説明してあげてもなかなか納得できるものではないのであります。たとえばここに生まれつきの色盲の人があって、その人には青い色がぜんぜん見えないとしますと、この色盲の人にあなたの見た色のほかに青い色というものが存在するぞと教えてあげても、その人は本来、青い色を見たことがないので、かえって色盲でない方の人のいうことを疑ってかかることになります。神の見えない人は色盲でなくていわば心盲です。色盲が青色の存在を信じないと同じように心盲が神の存在を信じないのも無理はないのであります。

 そこで理論的にでも神の存在の説明をせねばならぬことになるのですが、この、神さまがあるという事実を知らして人間を導こうという宗教なるものがいろいろの宗派にわかれていまして、互いに他の宗派の悪口をいっているような状態ですから、はじめて信仰の道に入ろうとする人にはどちらの宗派のいうことが正しいのだか見当がとれないのであります。
 真宗の人は阿弥陀仏だけを信じて、南無阿弥陀仏と六字の名号だけをとなえておれば救われるというかと思いますと、日蓮上人などは、『無量義経』においてお釈迦様は今まで四十余年間にわたって説教したことは方便にいったことで真実をいったのではない、今こそ本当の真理を説くといって『妙法蓮華経』をお説きになったのであるから、この『妙法蓮華経』に説かれてあることだけが本当で、それまでの説法は嘘である、むろん念仏をとなえて救われるなどということは真っ赤な嘘であって念仏をとなえれば無間地獄(むけんじごく)におちるといって日蓮上人は親鸞聖人の教えを非常にわるくいっています。
 同じ仏教のうちですらも、こういうふうにいろいろな説があって、互いに争っている始末でありますから、ましてキリスト教と仏教とにいたっては犬猿もただならない間柄で、時々大道でもキリスト教の路傍伝道者と仏教の布教師とが争っている有様を目撃するのであります。
 先日ひとかどの人格者であられると思っていた、キリスト教信者の発行していられる雑誌を読んで見ますと、「日本のどんな片田舎へいっても天理教や金光教の教会はあるのに、キリスト教の教会はめったにない、もって日本のいかに迷信国であるかがわかる」というようなことをいっておられるのを見て、わたしはあきれてしまったのであります。

 もちろんどんな宗教にも人の造った部分と神の造った部分とがあって、人の造った部分は、どうもおもしろくない。天理教でも金光教でも神様から示された教えは実にかがやいている。文学者として有名な倉田百三氏なども、天理教祖の「みかぐら歌」を実に深い立派なものだといって賞めていられますし、金光教でも高橋正雄さんなどの信仰になるとずいぶん深いところにはいっていられて、必ずしもキリスト教信者よりもその信仰の正しさが劣っているとはいわれないのであります。

 こうなるといよいよもって、どの宗教を信じてよいかわからなくなるのであります。一つの宗教を信ずれば、ほかの宗教の神さまからは外道だとか邪道だとかいって叱られそうでありますから、まあまあ触らぬ神に崇りなしで、どの神さまをも信じないでおこうという人もできれば、宗教相互の間にそんなに矛盾衝突があるのはどの宗教も真理でないからだと思う人もできてきますので、これは実に残念なことであります。
<つづく>


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