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Web誌友会 板/2

196復興G:2013/02/15(金) 23:45:07 ID:AB6RqYXc

>>191 :a hope様、>>193 :トキ様

>>わたしは、これは、「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないかと感じたのですが…どうなのでしょうか?<<

>>194に謹写させていただいた『生命の實相』第1巻の御文章からすると、
>>「(神の造った部分=真理)は不変であるが、(現象人間の雅春先生が造った部分)の教え」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない」ということになるのではないか<<

というように、「神の造った部分」・「人の造った部分」と、はっきり分けることはできないのではないでしょうか。

「もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。」と谷口雅春先生はお書きになっているのです。

「この部分は神から書かしめられたが、ここからは現象人間の谷口雅春が書く」などと書き分けられてはいないのですから。
そうして「不断に心を清め、こころをいっそう高き世界よりの波動に感ずるように訓練し」ておられた谷口雅春先生のお書きになったものに、「純粋でない雑音が混じっている」ところがあったかどうか、などということは、私たちに判断できることではありません。それは「なかった」と信ずるのが信仰ではないかと、私は思います。

したがって、「神の造った部分」と「人の造った部分」を切り分けることができない以上、「人の造った部分」は場所や時代などの条件によって変化していかなければいけない、と切り分けてしまうのも不適切ではないでしょうか。

ですから当然、「神の造った部分」がいわゆる「卵の黄身」(教えの中核部分)で「人の造った部分」がいわゆる「卵の白身」(周辺<周縁>部分)と切り分けるわけにも行かないと、私は思います。

「卵の黄身・白身」という判断は誰が、どのようにしてするか。それは、別問題として考えるべきことでしょう。

私はそのように考えますが、いかがでしょうか。


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