[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
180
:
復興G
:2013/02/15(金) 18:27:02 ID:AB6RqYXc
テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<3>
たとえばあまり美しい景色のなかにいて、そのままで満足しきっている人には活け花も盛り花も不要なのであります。人間が活け花や盛り花を工夫して住居を飾るのは、自分の住む現在の周囲に不満足なところがある。すなわちまだ美に不足したところがある。そこにもっと円満な美をあらわしたい――こう思うから活け花や盛り花でお座敷を飾るというようなことをするのであります。
そのようにわれわれが神をもとめるのは、何か自分自身の生活または自分の周囲の生活に不満足な不完全な状態があるからであります。
キリストが「富める者が神の国に入る事のむずかしいのは、らくだが針の孔を通るよりもむずかしい」と嘆じられましたのは、富める者の驕慢な心が神のみ心にかなわないという意味もありますが、現状に満足しているものは、みずから進んで神の国に入ろうとしないことをいわれたのでもありましょう。
またあるときには「貧しき者は幸いなるかな、神の国はなんじらのものなればなり」といわれたのも、貧しくして現状に不満足なものほど神の国に入りたいという欲求が盛んになることをいわれたのでありましょう。
こう申しますと神の国はただ貧しき人のみに与えられる福音のように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではないのであります。現在の人間生活というものをまともにみて、そこになんらかの不満足を感ずる人ならば、それはたとい王様であっても「貧しき者」であって神の国に入ることができるのであります。
釈迦牟尼はマカダ国の王様の皇太子でありながら、周囲の人間生活の不完全――すなわち生老病死の四苦を見て、もっと完全円満な世界をもとめてそこにはじめて神の国(さとりの道)に入ることができられたのであります。
われわれがこのように現実世界の状態や、現実世界の人間の不完全不円満にあきたらないで、円満な世界や人格をもとめようとするのは、不完全な現実世界とはピッタリ調和することのできない完全円満なあるものをわれわれの内にもっているからであります。
われわれが完全円満なあるものを内部にもっていなければ完全円満な人格や状態を予想することができないのであります。このわれわれの内にある完全円満なあるもの、これがすなわち神であります。
このようにわれわれが現状に不満足であって、いっそう完全円満なものを予想する性質をもっている限りわれわれの内には神が宿っているのであります。
このようにわれわれ人間にはみな神がやどっているのでありますが、その神性の開発されている程度はいろいろでありまして、そのために世界の宗教には、いろいろの宗派がわかれ、礼拝する本尊となるべき神仏にも、いろいろのあらわれ方があるのであります。
それはちょうど、われわれが活け花をするときに、花を生ける人おのおのの心のうちに開発されている「美」が活け花になって、そこに内在の美が外に客観的に現われる時に、いろいろのあらわれ方をして、いろいろの流派となるのと同じであります。
このように人間の心の内部にある「美」が外界に投射し出され客観化(かたちにか)して「活け花の美」となりますと同じように、人間の心の内部にある完全円満さ、すなわち神性が外界に投射せられて、それが客観化されたのが神であります。
無神論者のなかには神とは人間のつくったものであって、神が人間を造ったのではないという方がありますが、それも一理はあるのでありまして、人間に本来神性がなければ神をつくることも想像することもできないのであります。人間の内部精神に美がなければ活け花を美しく活けることもできないのと同じであります。
ところが活け花は流儀流儀でいろいろの型がありますけれども、そこに「美」があらわれているということは否定することができないのであります。各流の活け花がいずれも「美」であるということにおいては一つでありますが、そこに人間個人個人の性格や、大きく見ては民族的に見ても、その美のあらわれ方が違うのであります。
外国には活け花などはまったくないけれども草花を愛する性質は非常にすぐれているとか、日本画と西洋画とは味がちがうけれども「美」であることは一つであるとか、日本舞踊と西洋のダンスとはそれぞれ形はちがうけれども「美」ということにおいては一つであるとかいうふうにであります。
<つづく>
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板