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Web誌友会 板/2

181復興G:2013/02/15(金) 18:28:48 ID:AB6RqYXc

テキスト 『生命の實相』 第2巻 第5章より<4>

 わたしは今「美」であることにおいては一つであると申しました。「美」のあらわれ方はいろいろあっても、それが「美」として感じられる限りは、そこに共通のもの――すなわち一つのものがどれにもあるのであります。
 美しいものを観たときにわれわれが感ずる感じを振り返ってみますと、それはなつかしきものにめぐり会っ忙ような感じがするのであります。今までおさえつけておいた生命の障硬が除かれていきいきと生命が躍動するような感じがするのであります。こういう共通の感じを受けますのは主観的に心のうちだけに潜められていた「美」が客観的に外部に投射し出きれて、はじめて表現の自由を得るからであります。

 「美」の世界を深く掘って行きますと、どこまで掘っていっても行き詰りがないのであります。ここまで美しければ、もうそれ以上の美は求める必要がないというような終点が「美」にはないのであります。大芸術家ほどこのことをよく知っていまして「芸術は生涯の修行」であるとは芸道の各人たちからたびたび聞く言葉であります。
 このようにわれわれの感ずる「美」は無限の美を予想し、それを理想としていて、その無限の美に到達することを念願としているのであります。このように無限の美をわれわれが予想し、心に描くことができるのは、すでにわれわれの心のうちに「無限」の美がひそかに宿っているからであります。

 外形は五尺ばかりの有限な肉体でありながら、われわれがこのように「無限」の美を追求しなければどうしても完全に安心ができないというのは、われわれの内部には「無限性」が宿っていて、その「無限性」の開顕を内部から要求してやまないからであります。

 われわれのうちに宿っている円満完全性――これをさっきは神であるといいましたが、今はわれわれに宿っている「無限性」を神であると申すのであります。つまり、「円満完全性」と「無限性」とは同じものであります。無限であってこそ完全円満なのでありまして有限なものはそれだけに限られていてけっして円満完全でありえないのであります。

 われわれの生涯の課題はこの「無限性」をいかに完全に開顕するかということであります。すなわち有限の形を通して無限を生きる――ここに有限は無限の「真」に対してただ一個のシンボルとして存在するにすぎないのであります。われわれのあらゆる努力は、誰の努力でも有限の形を通してできるだけ無限に生きようとしているのであります。
 お金をふやそうとする努力でも、名前を残そうとする努力でも、芸術家の美に対する追求でも、道徳家の善に対する追求でも、「朝(あした)に道を聞かば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」というような瞬間に焦点をあつめたような生活でも、有限の形を通して無限をどうかして完全に生きたいという、本能のあらわれにすぎないのであります。

 こういうふうに人間の内部には誰の内部にでも「無限」がやどっているのであります。ところが「無限」というものは必ず絶対ということをともなうのでありまして二つも三つも同時に「無限」があちこちにいくつもあるというわけには行かないのであります。
 たとえば自分が無限の金持ならば、他の人は無一文に相違ないのであります、自分も無限の金持であり、同時に他の人も無限の金持であるとしますと、それは一つの無限の富を共有しているからであります。
 一つの無限の富を共有しておれば、何人(なんぴと)でも同時に無限の金持であります。

 これと同じようにわれわれすべての人間が「無限」を自己の内にやどしている場合にはそれは一つの「無限」が共通にわれわれに宿っているからであります。一つの「無限」がいくつにも分化してわれわれおのおのの内部に宿ってわれわれの真我、無限性、仏性または神性になっているのであります。
 それでわれわれに宿っている「無限性」からいえば、その本源たる「無限者」はわれわれの親であり、われわれはみんな「無限者」すなわち「神の子」であることがわかるのであります。

 <一応ここまでとさせていただきます。>


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