したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の経典解説まとめ

1避難民のマジレスさん:2024/06/10(月) 12:44:03 ID:v59RPKQA0
・鬼和尚の経典などの解説をまとめるスレです
・『金剛般若経』の解説はこちらにあります↓
"金剛般若経を読んで実践する"
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1701949889/99-133

47避難民のマジレスさん:2024/07/21(日) 11:04:34 ID:QpvFU7HU0
726:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

48避難民のマジレスさん:2024/07/22(月) 11:06:46 ID:Tvb1ve4g0
734:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

49避難民のマジレスさん:2024/07/23(火) 11:24:02 ID:bbLiJ93w0
739:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

50避難民のマジレスさん:2024/07/24(水) 11:35:25 ID:BoyaHyeg0
737:避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

740:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

51避難民のマジレスさん:2024/07/24(水) 11:37:26 ID:BoyaHyeg0
743:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:39:51 ID:N4ZFFlx20
今日も学ぶのじゃ。

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。
 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。

 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。
 これが法の至高の光となる。
 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。

 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。
 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。
 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。

 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。
 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。
 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。

 しかしどのような者でも良い訳ではない。
 グルも又選ばなければいかんのじゃ。
 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。
 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。
 
 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。
 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。

 ここまでなのじゃ。

52避難民のマジレスさん:2024/07/25(木) 11:20:40 ID:oQLH7aOg0
747:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:22:10 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。
 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。

 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。
 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。

 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。
 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。

 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。

 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。
 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。
 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。

 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。
 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。

 そうすればもはや行いは無い。
 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2024/07/26(金) 11:36:43 ID:YXmBWSoA0
751:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:18:44 ID:N4ZFFlx20
又続くのじゃ。

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

 儚いこの世は実体が無いものである故に、それを捨てて血縁の者とも別れるのじゃ。
 欲と憎しみをも捨てて、山林などで瞑想するのじゃ。

 行いを捨てて心の自然な状態を続ければマハームドラーにたどり着き、達成できない事を達成するというのじゃ。

 達成できないものとは、それを達成する自己が無いからなのじゃ。
 自己が無く、達成するという観念も無いときに、人はマハームドラーにたどり着き、悟りをも達成したといわれるのじゃ。

 木の根を絶てば木の葉は枯れるように、心の根を絶てば輪廻は消える。
 心の根とは無明であり、自己があるという観念なのじゃ。

 どのような灯りの光も、長く続いた暗闇を払う事が出来るように、気付きの一瞬があれば無明を払う事が出来るのじゃ。
 自己という観念が本当は実在せず、観念のみであると一瞬気付きがあれば十分なのじゃ。

 そうすれば自己を中心に今まで持ちつづけていた観念、自分と他人、敵と味方等の観念も一切が瞬時に消える。
 今まで無意味な事に囚われ、行い彷徨っていた全てを変えるのに、ただ一瞬の気付きがあれば良いのじゃ。
 
今日はここまでなのじゃ。

54避難民のマジレスさん:2024/07/27(土) 11:48:01 ID:m1G5cECI0
755:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。

 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
 修行をすれば修行をする自分が強まる。
 安楽になれば安楽な今の心に執着する。

 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。

 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。

 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。


 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。

 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。

 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。

 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。

 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

55避難民のマジレスさん:2024/07/28(日) 10:58:26 ID:Mt8PhAfY0
762:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:10:21 ID:q5vkUh4s0
今日で終わりなのじゃ。

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。
 執着の無い行いは智慧となる。
 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。

 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。
 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。
 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。

 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。
 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。

 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。
 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。

 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。
 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。

 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。
 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。

 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。
 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。

 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。
 分かれていたものが一つになるのではない。
 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。

 もはや自分も他人も無い。
 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。
 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。
 
  
 
 これでマハームドラーの解説は終るのじゃ。

56避難民のマジレスさん:2024/07/29(月) 11:47:43 ID:lkhfpW5M0
<解説・ラマナ•マハルシの問答>

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1627742187/467-590
より抜粋  

467:避難民のマジレスさん:2021/11/25(木) 21:33:30 ID:/zJOcwlU0
鬼和尚、ラマナ・マハルシの「私は誰か?」という問答の解説をお願いしてもいいでしょうか?



生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。
誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。
そして幸福だけがその愛の源なのである。
それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。
そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の道が最も重要な方法である。


472:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/25(木) 23:12:07 ID:1d4drIFg0

>>467 人間だけでなく、生き物は皆苦しみから逃れ快楽を得ようとしているものじゃ。
 それが本能なのじゃ。
 それも全ての根源である意識から来ているのじゃ。
 そこに戻るのが悟りなのじゃ。
 自分を知ることは、悟りへの最も近い道なのじゃ。

57避難民のマジレスさん:2024/07/30(火) 10:29:03 ID:BQHLml1.0
474:避難民のマジレスさん:2021/11/25(木) 23:58:20 ID:/zJOcwlU0
>>472
ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。

問:私とは誰でしょうか?
  答:七つの要素からなる粗大な身体、それは私ではない。
五つの感覚器官、聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚はそれぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえるが私はそれらではない。
五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官はそれぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをするが私はそれらではない。
五つの生気、すなちプラーナなどは呼気などの五つの働きをするがそれは私ではない。
ものごとを考える心でさえ、私ではない。
対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。


476:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 21:41:05 ID:1d4drIFg0

>>474 ここでマハリシが説いている法は、お釈迦様が大念処経等で説いた教えと同じなのじゃ。
 自分の身体とか器官とか心の働きなどを詳細に観察して、自分ではないものを厭離していくのじゃ。
 観察すれば観察対象となったものは、主体ではないという気づきが起こって厭離されるのじゃ。
 それが最も速やかに無我にまで至る法なのじゃ。

58避難民のマジレスさん:2024/07/30(火) 10:30:12 ID:BQHLml1.0
604:避難民のマジレスさん:2021/12/30(木) 21:39:00 ID:VghTikOs0
>>474のこの文の意味がよくわからないので解説していただけたら嬉しいです。
「無知」とは何を指しているのでしょうか?

対象の印象だけが刻み込まれた無知も、対象物も働きもない無知も私ではない。


610:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/01/01(土) 00:01:24 ID:1d4drIFg0

>>604 無知による、対象への印象も、そして対象も働きも無いという(境地)も私ではない、というような意味じゃな。
 要するにどんなに深い瞑想の境地も自分ではないというのじゃな。
 それは無知による幻想というのじゃ。

59避難民のマジレスさん:2024/07/31(水) 10:26:46 ID:at3jAiz60
482:避難民のマジレスさん:2021/11/28(日) 00:17:05 ID:uzLkGRNQ0
>>480

問:覚醒の本性とは何でしょうか?

答:覚醒の本性は、存在―意識―至福である。

Q:What is the nature of Awareness?

A:The nature of Awareness is existence-consciousness-bliss.


483:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 23:31:32 ID:1d4drIFg0

>>482 覚醒によって本来の意識に到達すれば、それだけが存在しているものとわかるのじゃ。
 そしてそれが一切の苦がない永遠の至福であることも感じるのじゃ。
 それはもはや言葉で説明することができない境地なのじゃ。
 どのような言葉で綴ろうとも、嘘になってしまうのじゃ。
 実践して悟りを得て初めてわかることなのじゃ。

60避難民のマジレスさん:2024/08/01(木) 10:35:53 ID:aLzgxrko0
484:避難民のマジレスさん:2021/11/29(月) 00:22:40 ID:tvh25SKA0
>>483
問答4

問:真我の実現はいつ得られるのでしょうか?

答:「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見るもの」である真我は実現されるだろう。

Q:When will the realization of the Self be gained?

A:When the world which is what-is-seen has been removed, there will be realization of the Self which is the seer.


486:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/29(月) 21:39:49 ID:1d4drIFg0

>>484 客体の全てである世界がなくなれば、主体だけが残るじゃろう。
 それが見るものである真我なのじゃ。
 それは全ての観念をなくすことで感得されるのじゃ。
 それが全てを否定する真我の道なのじゃ。

61避難民のマジレスさん:2024/08/02(金) 10:49:38 ID:Yjg4bLVk0
487:避難民のマジレスさん:2021/11/30(火) 00:05:41 ID:6vueSoFw0
>>486
問答5

問:世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるということはないのでしょうか?

答:ないだろう。

Q:Will there not be realization of the Self even while the world is there (taken as real)?

A:There will not be.


492:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 21:54:42 ID:1d4drIFg0

>>487 世界が実在しようと、しまいと人が認識する世界は観念としてなのじゃ。
 観念がある限り、真我は実現しないのじゃ。
 全ての観念がなくなれば真我独存になるのじゃ。

62避難民のマジレスさん:2024/08/03(土) 11:15:23 ID:R4idu4rw0
495:避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 00:12:58 ID:PRgXfFG20
>>492
問答6

問:なぜでしょうか?

答:見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。
錯覚である蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は得られない。
同じように、世界が実在であるという確信がなくならないかぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。

Q:Why?

A:The seer and the object seen are like the rope and the snake.
Just as the knowledge of the rope which is the substratum will not arise unless the false knowledge of the illusory serpent goes,
so the realization of the Self which is the substratum will not be gained unless the belief that the world is real is removed.


496:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/01(水) 21:55:39 ID:1d4drIFg0

>>495 心に幻想の観念がある限り、真我は実現しないのじゃ。
 縄と蛇の両方を一度に認識できないようなものじゃ。
 幻想があれば蛇と見え、幻想が無ければ縄と見える以外にないからのう。
 幻想がなくなれば真我も実現したといえるのじゃ。

63避難民のマジレスさん:2024/08/04(日) 10:52:35 ID:1y/2TaZY0
497:避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 22:13:12 ID:WW3Qevas0
>>496
問答7

問:対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?

答:すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったとき、世界は消え去るだろう。

Q:When will the world which is the object seen be removed?

A:When the mind, which is the cause of all cognition and of all actions, becomes quiescent, the world will disappear.


498:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/02(木) 21:41:01 ID:1d4drIFg0

全ては心で創られる故に、心が鎮まれば対象となる世界も消えるのじゃ。
心が観念を生み出すことも無ければ認識の対象も無いのじゃ。
サマーディにまで到達すればそれも可能なのじゃ。

64避難民のマジレスさん:2024/08/05(月) 11:11:39 ID:g2F5mF8Q0
499:避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 01:16:42 ID:qL2B6IQU0
>>498
問答8

問:心の本性とは何でしょうか?

答:「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。
心はすべての想念を起こさせる源である。
想念を離れて心のようなものは存在しない。
それゆえ、想念が心の本性である。
想念を離れて、世界と呼ばれる独立した実体があるわけではない。
深い眠りのなかに想念はなく、世界もない。
クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れるのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなかへ還元させる。
真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。
それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。
真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。
人が絶え間なく心の本性を探究しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。
「真我」と呼ばれているものは、アートマンである。
心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。
それはひとりであることができない。
微細身あるいは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。


502:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/03(金) 23:10:17 ID:1d4drIFg0

心も対象があって働くものじゃ。
想念という対象がなければ心も働かないのじゃ。
その時、真我が現われるのじゃ。
それは対象がなく独立して存在するものなのじゃ。

65避難民のマジレスさん:2024/08/06(火) 10:52:15 ID:K/Z55h9c0
504:避難民のマジレスさん:2021/12/04(土) 01:15:25 ID:PnSwz97c0
>>502
問答9

問:心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?

答:身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。
もし身体のなかのどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハートのなかに現れることが発見されるだろう。
そこが心の起源となる場所である。
絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろう。
心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」という想念である。
この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。
二人称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。


508:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/04(土) 23:28:40 ID:1d4drIFg0

 心はまず自分として現われるというのじゃ。
 自分があって、自分の思考とか、感情があるのじゃ。
 それが探求の妨げになるのじゃ。
 自分と自分のものを守ろうとするからなのじゃ。
 自分が無ければ思考も鎮まり、意識があるのみになるのじゃ。

66避難民のマジレスさん:2024/08/07(水) 10:55:42 ID:zrwPB0ZY0
512:避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 02:51:45 ID:MJvA6rnA0
>>508
問答10

問:どうすれば心は静かになるのでしょうか?

答:「私は誰か?」と尋ねることによってである。
「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊するだろう。
そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。
そのとき真我は実現されるだろう。


516:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 21:35:15 ID:1d4drIFg0

>>512 私は誰かと問うことが観念を破壊するというのじゃ。
 自分という問題の他には何も問題は無いからなのじゃ。
 その想念さえも滅びれば、何も無くなるのじゃ。
 それが真我の実現だというのじゃ。

67避難民のマジレスさん:2024/08/08(木) 11:03:21 ID:JO7qbP6c0
517:避難民のマジレスさん:2021/12/06(月) 03:47:46 ID:5uRnxYQQ0
>>516
問答11

問:「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょうか?

答:他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。
どんなに多くの想念が起ころうとかまわない。
想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきである。
それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるだろう。
このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するだろう。
微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れる。
心がハートのなかにとどまっていれば、名前と形は消え去る。
心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。
心をハートから外へ出させることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。
このように、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。
人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきである。
もしそのように行動すれば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。


519:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/06(月) 23:47:52 ID:1d4drIFg0

私は誰かという問いも日々続けなければいかんというのじゃ。
日々続けることで心の奥深くまで進むことが出来るのじゃ。
感覚器官から外に向かう心から、心の内側を見る心になるのじゃ。
そしてその源である主体にまで辿りつくこともできるようになるのじゃ。

68避難民のマジレスさん:2024/08/09(金) 10:55:40 ID:6tKR/mPU0
520:避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 06:42:37 ID:idQKiClY0
>>519
問答12

問:心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

答:探究以外に適切な方法はない。
他の方法で心を静めても、心は制御されたように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。
呼吸の制御によっても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであり、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられてさ迷いだすだろう。
心も呼吸も、その源は同じである。
想念とは、実は心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である。
自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。
そのため、心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。
けれども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが思わないようにとの神の意志によるものである。
目覚めの状態とサマーディにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。
呼吸は心の粗大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。
身体が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。
それゆえ、呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない。

呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラの復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。

神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中される。
心はつねにさ迷いつづけるだろう。
鼻を鎖でつながれた象が、他の何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他の対象をとらえることはないだろう。
心が無数の想念へと拡散しているとき、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。
だが、想念が決意を固めて一点に集中すれば、強いものとなる。
そのような心にとって、真我を探究することは容易になるだろう。
すべての規則制限のなかでも、適度な量の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなるだろう。


522:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 23:35:11 ID:1d4drIFg0

集中の瞑想は観察のための助けになる方法に過ぎないのじゃ。
それによって得られる仮の心の静けさによって、観察を容易にするだけなのじゃ。
心の真の静けさは自らの主体を見ることによって訪れるのじゃ。
それによって真の大悟徹底もできるようになるのじゃ。

69避難民のマジレスさん:2024/08/10(土) 10:39:36 ID:w11C/Z7Q0
523:避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 06:02:30 ID:sEAjaaO20
>>522
問答13

問:心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

答:真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。

Q:The residual impressions (thoughts) of objects appear unending like the waves of an ocean.
When will all of them get destroyed?

A:As the meditation on the Self rises higher and higher, the thoughts will get destroyed.


524:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/08(水) 23:03:41 ID:1d4drIFg0

雑念は始めのうちはいつまでも浮かんできて終わりが無いように見えるのじゃ。
しかし、瞑想を日々続けていると、それがとまるときが来るのじゃ。
思考が無いのに意識はある状態になるのじゃ。
一度そこに至れば何度でもできるようになるのじゃ。

70避難民のマジレスさん:2024/08/11(日) 11:42:58 ID:Fubax2wA0
525:避難民のマジレスさん:2021/12/08(水) 23:19:22 ID:sEAjaaO20
>>524
問答14

問:数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?

答:可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続けるべきである。
たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。
「私は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中するべきである。
そうすれば、確実にうまくいくだろう。
ひとつは善く、もうひとつは悪いという二つの心があるのではない。
心はただひとつだ。
幸運と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。
心が幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒められなければならない。
他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみを抱かぬようにしなければならない。
欲望と憎しみは、どちらも避けなければならない。
人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えているのだ。
もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいられようか。
自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては静まる。
謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。


526:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/09(木) 23:27:24 ID:1d4drIFg0

数知れぬほどに輪廻を重ねて業を積み重ねていれば、それを今消すことが出来るのかと思うものもいるじゃろう。
他人にしたことが自分に返り、それがまた他人への行いの動機となり、他人に対する行いとなるというような繰り返しではとどまることがないと思うのじゃ。
しかしそれもまた幻影でしかないことを知れば今一度真理を知れば消え去るのじゃ。
ただ幻想の自我に気付けば世界もまた消えるのじゃ。
そのようにして全ての業も幻想と気づくのじゃ。

71避難民のマジレスさん:2024/08/12(月) 10:26:02 ID:KXC0gOO20
528:避難民のマジレスさん:2021/12/10(金) 07:39:59 ID:NwRCZB2I0
>>526
問答15

問:探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?

答:心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければならない。
想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって、破壊されるべきである。
もし真我に到達されるまで、不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。
要塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。
もし敵が姿を現すたびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。


529:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/10(金) 23:43:49 ID:1d4drIFg0

>>528 探求は全ての観念がなくなるまでやるべきだというのじゃ。
 観念がなくなれば何かをする主体はなく、することもなくなるから自然に止むのじゃ。
 それまでは常におこたりなく実践に勤めるのじゃ。

72避難民のマジレスさん:2024/08/13(火) 10:58:13 ID:4r92SpgE0
530:避難民のマジレスさん:2021/12/11(土) 07:55:46 ID:9P3qqenE0
>>529
問答16

問:真我の本性とは何でしょうか?

答:真実、存在するのは真我だけである。
世界、個我、神は真珠貝のなかの銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。
これら三つは同時に現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。
それは沈黙と呼ばれる。
真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神である。
すべてはシヴァ、真我である。


533:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/11(土) 21:34:50 ID:1d4drIFg0
 
>>530 真我の道は真我以外を全て否定するのであるから存在すると言えるものは真我だけなのじゃ。
 それが全ての本性であり、神とよぶものの本性でもあるのじゃ。
 他に存在するものは無いのじゃ。
 そしてその真我そのものは認識することは出来ないのじゃ。
 ただありのままに在ることだけが出来ることの全てなのじゃ。

73避難民のマジレスさん:2024/08/14(水) 12:22:25 ID:QE7AIGcw0
535:避難民のマジレスさん:2021/12/12(日) 09:03:44 ID:tAZf5vzQ0
>>533
問答17

問:すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

答:欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。
太陽がただそこに存在するだけで、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。
磁力が存在することによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そして休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。
神は何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。
それは、世間の行為が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所や短所に影響されないのと同じである。

*3 三つの宇宙的機能: 創造、維持、破壊。
*4 五つの神聖な活動: パンチャ・ヤジュニャ。
『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義務。


536:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/12(日) 23:56:27 ID:1d4drIFg0

神が主体であるならばそれは何かをするということはないのじゃ。
それはありのままにあるだけなのじゃ。
何かがなされたというのは観念によるものなのじゃ。
人格を持つ神ではなく、自らの主体としての神を心の中に見出すのじゃ。

74避難民のマジレスさん:2024/08/15(木) 10:56:51 ID:lfsmFDT60
537:避難民のマジレスさん:2021/12/13(月) 11:25:12 ID:MpBRLa8k0
>>536
問答18

問:帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

答:神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。
自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。
神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。
荷物をおろして安心しなさい。


539:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/14(火) 00:03:30 ID:1d4drIFg0

帰依とはもともと神仏に自分の心身を与えるということなのじゃ。
真我に自分の全てを与える事が出来るならば、悟りも速やかにやってくるじゃろう。
恐れずに心身を与えるならば、もはや患うこともないのじゃ。
全てであることが見出されるのであるからのう。

75避難民のマジレスさん:2024/08/16(金) 11:56:51 ID:ghx06BfQ0
541:避難民のマジレスさん:2021/12/14(火) 14:25:27 ID:ljldEexk0
>>539
問答19

問:無執着とはどういうことでしょうか?

答:想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところなく完全に消滅させること、それが無執着である。
真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。


544:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/15(水) 21:49:30 ID:1d4drIFg0

>>541 瞑想をしていれば雑念は常に起こってくるものじゃ。
 それにとらわれずにいれば消えて行くのじゃ。
 雑念がなくなれば自分の心の中を深く観察していくこともできるようになるのじゃ。
 思考に執着せずに心の奥ふかくを探索して行くのじゃ。

76避難民のマジレスさん:2024/08/17(土) 10:54:14 ID:dvZlYX9o0
546:避難民のマジレスさん:2021/12/16(木) 15:37:24 ID:NdtEudKw0
>>544
問答20

問:神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?

答:神やグルは解放への道を示すだけだろう。
神やグルが人を解脱の状態に連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。
トラの顎にくわえられた獲物に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。
けれどもひとりひとりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解脱に達しなければならない。
人はただ自分の知識の目によってのみ、自分自身を知ることができる。
ラーマ神がラーマ神であることを知るために、鏡の助けが必要だろうか?


547:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/16(木) 21:38:25 ID:1d4drIFg0

どのような神やグルでも一人の人間を強制的に解脱させるということはできないのじゃ。
誰もが自分自身を観て、無我になり、無認識に回帰するのみなのじゃ。
それができるのは自分だけなのじゃ。
自分自身を救う道を神やグルは示してくれるだけなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

77避難民のマジレスさん:2024/08/18(日) 10:38:46 ID:vmXXA0dI0
548:避難民のマジレスさん:2021/12/17(金) 09:00:48 ID:SC6QYTJc0
>>547
問答21

問:解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を探究する必要があるでしょうか?

答:ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それが何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人にとっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする必要はない。
彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを払いのけることである。
世界はひとつの夢のようなものと見なされなければならない。


551:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/17(金) 23:59:38 ID:1d4drIFg0

>>548 真我の道では真我以外の全てのものごとを否定しなければならないのじゃ。
 構成要素もなんでも全て否定し去ってしまわなければならないのじゃ。
 認識する全てのものを捨てるのじゃ。
 真我そのものも認識できない認識主体であるから、認識する全てを捨てて辿りつくしかないものじゃ。
 全ては夢幻の如きものとして否定し去るのじゃ。

78避難民のマジレスさん:2024/08/19(月) 11:04:31 ID:QUtmmFAs0
554:避難民のマジレスさん:2021/12/18(土) 12:55:05 ID:K3LTGWrs0
>>551
問答22

問:目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?

答:目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。
これより他に何の違いもない。
目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こることも夢のなかでは真実に見える。
夢の中では心はもうひとつの身体をとっている。
目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時に現れるのである。


555:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/18(土) 23:14:17 ID:1d4drIFg0

悟っていない者は覚めている時も自分があると思っているように、夢の中でも自分が有ると思っているのじゃ。
現世もまた夢幻なのじゃ。
単に長い夢であるだけなのじゃ。
ただ意識だけがあると言えるのじゃ。

79避難民のマジレスさん:2024/08/20(火) 11:26:45 ID:F4wTfal20
556:避難民のマジレスさん:2021/12/19(日) 14:06:01 ID:q.ad6W3Q0
>>555
問答23

問:解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょうか?

答:すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならないと述べている。
それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最終的な教えである。
ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必要はない。
心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問いつづけるべきである。
この探究がどうして書物のなかでできるだろうか?
人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。
真我は五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。
真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。
いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。

*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。
アンナー・マヤ・コーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。


562:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/19(日) 21:28:19 ID:1d4drIFg0

>>556 本に書いてある知識はただ実践のための方法を示すものじゃ。
 方法がわかったらもはや本は要らないのじゃ。
 自分自身を追及する実践をひたすら続けるべきなのじゃ。
 本で得た知識もいずれは捨て去られる瞬間がくるのじゃ。
 それまで実践あるのみなのじゃ。

80避難民のマジレスさん:2024/08/21(水) 10:45:50 ID:Uul7c4Y.0
565:避難民のマジレスさん:2021/12/20(月) 12:42:30 ID:aGDaQz8I0
>>562
問答24

問:幸福とは何でしょうか?

答:幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。
われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。
同じように、眠りの状態、サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我-幸福を楽しむのである。
このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。
木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
同じように、真理を知る人の心は、ブラフマンを離れることはない。
その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブラフマンに戻ってくる。
実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。
世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
世界が現れると、不幸を味わうのである


566:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/20(月) 21:27:24 ID:1d4drIFg0

本当の幸福は悟りを得る以外に無いのじゃ。
この世では一時の幸福も、苦しみから眼をそらすためだけのものなのじゃ。
一時期快楽を味わってもすぐに苦が戻ってくるものじゃ。
全ての観念がないとき、真の幸福があるのみなのじゃ。

81避難民のマジレスさん:2024/08/22(木) 10:51:44 ID:6zWriyjk0
570:避難民のマジレスさん:2021/12/21(火) 12:42:34 ID:jLA8ILnE0
>>566

問答25

問:洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?

答:静寂にあることが洞察力と呼ばれている。
静寂にあるということは、真我のなかに心を帰り着かせることである。
過去、現在、未来の出来事を知るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。


571:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/21(火) 21:35:56 ID:1d4drIFg0

>>570 心が完全に鎮まっていれば洞察力も起こるのじゃ。
 仏教では妙観察智というのじゃ。
 それはまだ悟っていない忘我の段階でも起こすことが可能なのじゃ。
 自己の囚われから離れた視点からの洞察なのじゃ。
 眠る時などには誰もが経験することなのじゃ。

82避難民のマジレスさん:2024/08/23(金) 10:50:49 ID:Jpm7UPlo0
573:避難民のマジレスさん:2021/12/22(水) 13:00:24 ID:vdFKd1bg0
>>571
問答26

問:無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

答:無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。
無欲とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。
智慧とは、何の対象物も現れないことを意味している。
言い換えれば、真我以外の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離れないことが智慧である。


574:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/22(水) 23:25:56 ID:1d4drIFg0

>>573 無欲と智慧は同じものというのじゃ。
 それは真我の別の側面であるからというのじゃ。
 真我以外に何も求めないことが無欲であり、真我から離れないことが智恵と定義しているのじゃ。
 そうであれば無欲と智恵で真我を実現することが適うからなのじゃ。
 常に真我だけを求め、離れないようにするのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2024/08/24(土) 11:09:41 ID:KgbtB3mc0
575:避難民のマジレスさん:2021/12/23(木) 12:18:26 ID:5nOQTO2M0
>>574
問答27

問:探究と瞑想の違いは何でしょうか?

答:探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。
瞑想とは、自己をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。


580:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/23(木) 23:31:03 ID:1d4drIFg0

>>575 探求は直接真我のなかにいることだというのじゃ。
 瞑想はブラフマンを観想することだというのじゃ。
 どちらでも悟りへの道が開かれるのじゃ。
 悟りに至ればそれらは一つであったと知れるのじゃ。

84避難民のマジレスさん:2024/08/25(日) 11:07:39 ID:l30TdqRU0
583:避難民のマジレスさん:2021/12/24(金) 13:36:23 ID:e.waK4Eg0
>>580
問答28

問:解脱とは何でしょうか?

答:束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが解脱である。


584:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/24(金) 23:05:17 ID:1d4drIFg0

>>583 自己の本性を悟ることが解脱だというのじゃ。
 何か別の者になる事が解脱ではないのじゃ。
 どこまでも自分を追及して、本性に気づくことで解脱も訪れるのじゃ。
 それは知識や記憶では出来ないことなのじゃ。
 ただひたすらに今ここで観察する事でできるのじゃ。

85避難民のマジレスさん:2024/08/26(月) 10:35:08 ID:UG.D3imc0
(総評を請われて)

590:鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/25(土) 23:30:30 ID:1d4drIFg0

>>588 さまざまな問答があったがマハリシは何を聞かれても、ただひたすらに私を追求することを勧めるのじゃ。
 それを基準にして全ての問いに答えているのじゃ。
 それが真の悟りへの道であるからなのじゃ。
 全ての法はそれを目指しているのじゃ。
 人々がそれを忘れて観念遊戯を聞いても、マハリシは常にその道に戻って教えるのじゃ。
 それこそ真のグルの教えといえるのじゃ。

86避難民のマジレスさん:2024/08/27(火) 12:13:38 ID:ECXQ6TCA0
※再掲
<解説・金剛般若経>

・5ch宗教板の"悟りをひらいた人のスレ"における、鬼和尚による金剛般若経の解説のまとめです。
・解説に対応する金剛経の現代語訳を『***』で挟み、入れています。
 引用元/『金剛経』https://bccks.jp/bcck/178313/info

解説引用元URL/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639472221/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639928718/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1640390211/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1643032241/
___

0754 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/27(月) 23:45:45.21 ID:Qsh/6my3
 
 金剛般若経は能断金剛般若経というのが正式名なのじゃ。
 金剛石、ダイアモンドのように断つことができる智慧の経なのじゃ。
 何を断つことができるのかといえば、執着とか疑惑だというのじゃ。

 つまりダイアモンドのように執着や疑惑を断つことかできる智慧の法門を説いた経なのじゃ。
 それは通常の般若経のように、空という観念を用いて断つのではないのじゃ。
 ただ観念論理の逆転を用いて断つのじゃ。

 それが般若、つまり智慧の法門なのじゃ。
 他の般若経典ではものごとがひたすら空であると観じて執着や疑惑を捨てるものじゃ。
 しかし、金剛般若経では空と言う単語は使っていないのじゃ。

 それでも般若経であるというのじゃ。
 つまり般若とは観念の執着や疑惑を断つ智慧であり、それができるならば空と言う観念もいらないということなのじゃ。
 般若経といえば空の思想であるとか、仏教とは空を悟ることであるとか、そのような一般論は無知の証でしかないのじゃ。
 
 空もまた修業のために一時的に使用する観念を破壊する観念に過ぎないのじゃ。
 執着や疑惑を捨てれば、空もまた捨て去るべきなのじゃ。
 この金剛般若経で説いている逆説による観念の破壊法もまた一時使用して、効果があれば捨て去るべきものなのじゃ。
 始めに先ずそれを知っておかなければならないのじゃ。
 法にも執着しないのが、真の般若の法であるからなのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2024/08/28(水) 10:59:52 ID:zWrlWn3s0
0808鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/28(火) 23:45:49.49 ID:EeuO4Ri7

 金剛般若経は大乗経典に属するものとして分類されているのじゃ。
 他の大乗経典と同じく、お釈迦様の説いたものではないのじゃ。
 後の修行者が創作したものなのじゃ。
 それも修業の役に立つようにと作られたものであるから、仏教の法を説いたものとして受け容れられてきたのじゃ。
 
 金剛般若経はまだ大乗という観念が成立していなかったと見えて、大乗とか小乗とは書いていないのじゃ。
 しかし、後の大乗経典に共通である、一切衆生を済度せしめるという布教方針は同じなのじゃ。
 この経典の創作後に大乗とか小乗という観念も作られたと観るべきなのじゃ。
 それを知っておくとよいのじゃ。


 経典に入るのじゃ。

***

(一)
 わたしはこのように聞きました。
 あるとき師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
 ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。

(二)
 ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
 スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。

「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
 師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

 師は答えました。
「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」

 スブーティは答えました。
「そうしてくださいますように、師よ。」

(三)
 師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
 しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、実は誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかと言えば、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」

***

 経典の最初にはお釈迦様が祇樹給孤独園に1250人の比丘とともにいたというのじゃ。
 お釈迦様が托鉢から帰って飯を食べて座っていたら、須菩提長老が問いかけてきたというのじゃ。
 その問いは悟りを求める修行者はどのような心がけで生活し、自らの心を制すればよいのかというものじゃった。
 
 お釈迦様はこのように答えたのじゃ。
 悟りを得ようとする者は一切衆生を涅槃にみちびくために修行しようと願うのじゃ。
 しかし、そのようにして一切衆生を涅槃に導いたとしても、実際には一人の衆生も涅槃には入らなかったと想うべきのじゃ。

 なぜならば
 生き物、衆生(サットヴァ)があるという観念や、
 主体(アートマン)があるという観念や、
 個体(ジーナ)があるという観念や
 個我(プトガラ)があるという観念が
 あれば菩薩とはいえないからであるというのじゃ。

88避難民のマジレスさん:2024/08/29(木) 11:13:18 ID:Musr07vg0
0874鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 00:13:46.70 ID:SymNpRIQ
 ちょっと間違えていたのう。
 三番目はジーヴァなのじゃ。
 すまんのう。

 この四つの観念は当時のインド人や仏教徒の間で考えられていた自己観念のまとめなのじゃ。
 人が自分という者を認識する時、大体このような四つの想いによって認識するであろうということなのじゃ。
 一つ一つ解説して行くのじゃ。

 最初のサットヴァとは衆生といわれるものじゃ。
 生きているもの全てなのじゃ。
 今で言えば有機質のものといえるのじゃ。
 生きている者である自分、生き物の一員である自分という観念があれば、そこに苦しみも生まれるのじゃ。

 何故ならば生きている者という観念は必然的に死によって生きていないもの、無機質なものに変るという変化を含んでいるからなのじゃ。
 生きている者である自分という観念を持っていれば死の苦しみもまた尽きないのじゃ。
 そうであるからそのような観念は捨てていかなければならないのじゃ。

 次はアートマンなのじゃ。
 アートマンとは認識できない認識主体なのじゃ。
 それは否定によってのみあらわされるものとヴェーダにも説いているのじゃ。
 よく仏教はアートマンを否定したといわれているが、実際にはお釈迦様の教えこそ正しいアートマンの法を伝えているのじゃ。
 
 アートマンは否定によってのみ表されるものであるから、誰かがアートマンはあるのかと聞けば、それは無いと答えるのが正しいのじゃ。
 そのようにして観念の全てを否定して認識できない認識主体に辿りつくのが真のアートマンの法なのじゃ。
 実際にそうしなければ間違ったアートマンを認識してしまう恐れが在るのじゃ。

 瞑想をしているといろいろな不可思議な幻想が見えたりするが、総て否定しなければそれらの幻想の一つがアートマンと誤認して修業をやめてしまう恐れがあるからなのじゃ。
 実際に誰とは言わないが、あるインド人のヨーギは脳の中心に光が見えたらそれがアートマンだと説いたりしていたのじゃ。
 当然それは認識できるものであるからアートマンではないのじゃ。
 このようにアートマンがあるという観念も真の悟りを求める者は否定しなければならない観念なのじゃ。

89避難民のマジレスさん:2024/08/30(金) 10:50:50 ID:16nLGw0U0
0944鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 23:34:40.50 ID:SymNpRIQ

 次はジーヴァなのじゃ。
 これは命根とか翻訳されるのじゃ。
 生命の機能であり、アートマンを含むものと考えられてきたのじゃ。
 生命の機能あるものが自分と考えれば、これもまた老病死による苦を免れないのじゃ。

 そしてプドガラなのじゃ。
 これは既に滅び去った仏教の一派が提唱したものであり、詳しい定義は残っていないのであるが、他派の批判によって少しはわかっているのじゃ。
 これは過去の因縁を持ち運び、業を作り業を受け取るものであるというのじゃ。
 
 業の主体ともいえるのじゃ。
 これが輪廻するものの主体でも在るのじゃ。
 過去と同じ自分があるという連続性を仮定するものじゃ。
  この観念もまた死による過去からの断絶がある故に、死苦を免れないのじゃ。

 わしはこのプドガラの定義によって自分という観念に気付いたのじゃ。
 わしは自分とは過去の記憶を持ち、過去の因縁を受ける者という観念をもっていたのじゃ。
 それに気づいたことで自分という観念が厭離され、無くなったのじゃ。

 更に無我を見るものがあったが、それも空であると観じて大悟徹底の境地に入ったのじゃ。
 とはいえ誰もがそのようにして大悟できるわけではないのじゃ。

 わしはたまたま自分とは過去の記憶、因縁をもつものという観念をもっていたから自分に気付いたのじゃ。
 自分が他の観念であるという認識を持つ者には、気づきはないじゃろう。
 例えば自分とは思考の主体であるとか、感情の主体であると認識する者達には効果は無いのじゃ。
 それぞれの者達が自らの自己認識を追及していかなくては悟りは訪れないのじゃ。

90避難民のマジレスさん:2024/08/31(土) 11:30:30 ID:waAx.MVE0
26 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:11:07.05 ID:eXza/b3P.net
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

みんな>>2からよんで実践あるのみなのじゃ。

前スレ ジーヴァは命根でもよいのじゃ。
 もともとインドの方言を無理に古代中国語に翻訳したものであるからのう。
 単語の意味などは流派によって違い、グルによっても違ったりするのじゃ。
 実践の役に立てば善いのじゃ。
 

27 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:23:35.68 ID:eXza/b3P.net

 以上の四つの自己認識の観念を菩薩はもつべきではないというのじゃ。
 とはいえ持つなと言われて直ぐにもたないようにしようと、自分の意志でできるものではないじゃろう。
 要はそれに囚われず、よく観るべきであると言うのじゃな。

 どれかに強い囚われを持っていては、我見に執着したまま悟りを遠ざけてしまうからのう。
 囚われがあればそれがなくなろうとする度に、恐れが起こり逃避してしまうからなのじゃ。

 そもそも菩薩とはボダイサッタの略なのじゃ。
 ボダイとは悟りであり、サッタとは前述の通り、衆生であり人なのじゃ。
 悟りを求める者達なのじゃ。

 しかし自分がサッタであるという囚われをもってはいかんのじゃ。
 自分がサッタではないと思う者かボダイサッタであるというのじゃ。

 後に説かれる観念を破壊する観念がもはや始まっているのじゃ。

91避難民のマジレスさん:2024/09/01(日) 10:30:28 ID:XSZEP/yE0
42 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 21:45:24.54 ID:eXza/b3P.net[4/4]

***
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、何かに執着しながら、施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
 スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。
 それは何故かと言うと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これと同じように、南や、東や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」

「いいえ、師よ、計り知れません。」

「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
 スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」

***

 以上の四つの自己認識に囚われないことを説いた後に、お釈迦様は布施について説いたというのじゃ。
 菩薩はなにものにも囚われない布施をすべきだというのじゃ。
 色声香味触法の全てに囚われずに布施をすべきだというのじゃ。
 
 そうすれば功徳が計り知られないほどになるからというのじゃ。
 前に説いた四つの自己認識とは関係ないように見えるが、実は同じ修業であるといえるのじゃ。
 前には自己に囚われずに衆生を導き、ここではなにものにも囚われずに布施をするようにというのじゃ。

 それら二つの行は成果に囚われず行うカルマヨーガの行なのじゃ。
 衆生を導いても一人も涅槃に導いたことにならず、布施をしても何も布施をしたということにならないのであれば、何の得るところも無い行になるからなのじゃ。
 行いの成果を求めず行うカルマヨーガの行をしろというのじゃ。

 行いの成果に囚われるならば、それは未来を夢見ていることになるのじゃ。
 それも過去の記憶からこのように成果があがるであろうという憶測によるのじゃ。
 そのような行は過去の記憶と、未来への期待に囚われていることになるのじゃ。
 その結果、今ここには心がないことになるのじゃ。

 なにものにも囚われずに行を進めるならば、それが自然に今ここに心を取り戻すことになるのじゃ。
 それこそが最も大きな功徳なのじゃ。

92避難民のマジレスさん:2024/09/02(月) 11:14:03 ID:gf1zVb5U0
45 :鬼和尚 :2022/01/02(日) 23:53:00.95 ID:ynJqNRp5.net

***
(五)
「スブーティよ、どう思うか。如来を身体の特徴をもって見るべきだろうか。」

「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
 
 そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」

***
 次にはお釈迦様は相をもってわしをみてはいかんというのじゃ。
 相とは相好とかいうように、身体的特徴とかなのじゃ。
 大乗仏教では仏には三十二の相があるというのじゃ。

 耳がでかいとかパンチパーマをかけているとかなのじゃ。
 それらの相は相ではないというのじゃ。
 それが相ではないと観る時、如来を見たことになるというのじゃ。

 それは如来の教える法の通りに見たからなのじゃ。
 そうでなければ如来の話を聞かず、法を実践していなかったことになるのじゃ。
 教える法こそが如来の真の相であり、眼に見える相は虚妄でしかいなのじゃ。

 実際に転輪聖王も同じ相を持つと後のほうには書いてあるのじゃ。
 相だけでは区別がつかないのじゃ。

 法を教え実践させるものが如来であるという教えなのじゃ。

93避難民のマジレスさん:2024/09/03(火) 12:14:19 ID:C13ohefw0
48 :鬼和尚 :2022/01/04(火) 00:27:23.71 ID:rxlp6XSH.net

***
(六)
 スブーティは尋ねました。
「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」

 師はスブーティに答えました。
「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。
 これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
 それはなぜかというと、その者たちは、自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(さとりを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。それはなぜかというと、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、(自我という観念としての、)認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
 それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」

***

 お釈迦様の説法を聞いて須菩提長老はその難しい話に、
 「このような説法を聞いて信じる者が後の時代にいるのか」
 と、聞いたのじゃ。
 お釈迦様はそのような者も居るじゃろうと、答えたのじゃ。
 何世も善根を植えたものは信じるというのじゃ。

 なぜならばそのような者は先の四つの自己認識の観念を持たず、更に法というものも、法でないものという観念さえないからというのじゃ。
 既にあらゆる観念を滅した者がこの経を信じるというのじゃ。
 筏の喩えを知る者は法をも捨てるのであるから、非法も殊更に捨てるべきというのじゃ。

 筏の喩えとは、お釈迦様の説いた法とは彼岸にいくための筏のようなものというのじゃ。
 彼岸に着いたら筏を捨てるように法をも捨てるべきだというのじゃ。
 実際に最後には法も捨てて無為に座るのが、大悟徹底の道なのじゃ。

 法も非法も捨てる最後の道を説いているといえるのじゃ。

94避難民のマジレスさん:2024/09/04(水) 10:26:16 ID:F7x77gQk0
50 :鬼和尚 :2022/01/05(水) 00:29:12.56 ID:5Y5rSp9e.net[1/3]

***
(七)
 師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。それはなぜかというと、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
 それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」

***
 お釈迦様は更に須菩提長老に問うのじゃ。
 わしが無上正等覚というものを得たじゃろうか。
 そしてわしは法を説いたじゃろうかと。

 須菩提長老はそんなものは無いのじゃ。
 と、答えたのじゃ。
 無上正等覚というものがあるわけではないからというのじゃ。
 説いた法もないというのじゃ。

 何故ならばそれらは無上正等覚というものではないからなのじゃ。
 如来の説いた法も取る事はできず、説く事も出来ないからなのじゃ。
 それは法ではなく、非法でもないからというのじゃ。
 如来は無為の法によって、他の者達と区別されるからなのじゃ。 

 無上正等覚というのも真の名前ではなく、衆生にわかりやすいように付けた名前なのじゃ。
 実際に言葉を離れた境地を言葉であらわすことはできないのじゃ。
 そうであるから無上正等覚もないのじゃ。

 如来の説いた法も言葉では無である境地に至るものであるから、あるとはいえないのじゃ。
 それは自ら観念をそぎ落としていく観念なのじゃ。
 その法自体もいずれはそぎ落とされていく観念であるから、あると言ってはいかんのじゃ。

 それを聞き取ることは出来ず、説く事も出来ないものとして扱わなければならないのじゃ。
 それはあることもなく、ないことさえもないのじゃ。
 それを説き明かせるのが、如来なのじゃ。
 無為に至る法門をとくことができるのは、如来だけなのじゃという意味なのじゃ。

95避難民のマジレスさん:2024/09/05(木) 10:59:00 ID:CfQFIDsg0
95 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 00:07:48.28 ID:K4frxSMY.net[1/5]

この先から否定した観念を、観念そのものとする逆説的な法門が始まるのじゃ。

***
(八)
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人が得る福徳は多いだろうか?」

スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」

 師は言われました。
「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その人の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の仏の得る、この上なく正しいさとりの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法では無いからだ。それゆえに覚者の法と呼ばれるのだ。」

***

お釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
この三千大千世界を満たすほどの宝を布施したら福徳は大きいかと。

すると長老は、
とても大きいのじゃ。
なぜならばその福徳は福徳ではないからじゃ。
福徳ではないから福徳というのじゃ、
と、答えたのじゃ。

更にお釈迦様は、
その福徳よりもこの経の四つの句をよむ方が福徳は大きいのじゃ、
なぜならば全ての仏の法はこの経から出たからなのじゃ。
その仏法も仏法ではないのじゃ、
そうであるから仏法とよぶのじゃ、
と、言ったのじゃ。

 このようにして行いの報いも、仏法も否定して、そこからそれこそが福徳であり仏法であるというのじゃ。
 それこそが金剛経の肝心の法門なのじゃ。

96避難民のマジレスさん:2024/09/06(金) 11:22:59 ID:Dkc7vpGs0
151 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 21:32:55.02 ID:K4frxSMY.net[3/5]

>>98>>107 僧侶とは何じゃ?
 臨済宗天龍寺派の者は、このような簡単な問いにも答えられないということでよいのかのう。
 わっはっはっはっはっはっは。

>>103 理解できなくて善いのじゃ。
 矛盾していてよいのじゃ。
 それでも繰り返すだけで、この観念を破壊する観念が心の中でちゃんと働くことがわかるじゃろう。
 人の観念は理解や矛盾しないことで受け容れられるのではないのじゃ。
 ただ単に繰り返すことで受け容れられるのであるからのう。

 自ら囚われている観念がそのものでなく、そのものいから、そのものとよばれると繰り返し念じるとよいのじゃ。
 その囚われが消えて行くのがわかるじゃろう。
 実践で確かめるのじゃ。

97避難民のマジレスさん:2024/09/06(金) 11:23:49 ID:Dkc7vpGs0
154 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 23:46:31.52 ID:K4frxSMY.net[5/5]

***
(九)
 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と呼ばれるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわってさとる者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわってさとる者を意味しますが、実際には、生まれかわってさとる者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。最高のさとりを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
 師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
 師よ、如来はわたしのことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかしわたしは「わたしは離欲の阿羅漢だ」とは考えません。
 師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」

 師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」

「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」

「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土(清浄な心)を完成することはできるだろうか。」

「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」

***

 更に続いて聖者の階梯である須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢さえもまたそれらではないというのじゃ。
 そうであるから須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢とよばれるというのじゃ。
 なぜならばそれらの者には先の自己認識の観念が無いからなのじゃ。

 そして須菩提長老が自らの阿羅漢果も否定し、お釈迦様が自らの修業の成果も否定するのじゃ。
 更に菩薩は仏国土を飾るのも否定し、あらゆるものごとを否定してから、それらの名前があると告げるのじゃ。
 このようにして矛盾した言葉によって、観念は破壊されるのじゃ。

 ダイヤモンドの刃物で切断したように、この観念を繰り返し念じれば、どのような観念でも厭離できるのじゃ。
 そうであるから金剛般若経とよぶというのじゃ。

 なぜならば観念とは正しいからとか、矛盾がないから受け容れられるものではないからなのじゃ。
 習慣によって観念は植え付けられ、同じく習慣によって破壊されるからなのじゃ。
 矛盾した観念でも繰り返し念じれば、観念を破壊することが出来るのじゃ。
 各自が実践によって確かめるしかないのじゃ。

98避難民のマジレスさん:2024/09/07(土) 10:39:42 ID:Yv4tGo9A0
352 :鬼和尚 :2022/01/07(金) 23:59:50.03 ID:rpgyt4lA.net[2/2]

***
 師は言われました。
「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。

***

 続いてお釈迦様は清浄の心を生じるようにするのじゃ、
 というのじゃ。
 清浄の心とはなにものにも囚われない心であると言うのじゃ。

 色声香味触法の全てに囚われずに心を起こすのじゃ、
 というのじゃ。
 当然ながらこの教えは、色声香味触法だけでなく、その器官である眼耳鼻舌身意も含んでいるのじゃ。
 そして五蘊にも囚われないことは当然なのじゃ。

 それら全てが省略して説いていることを理解しなければならんのじゃ。
 自分の心身の全てに囚われず、心を起こすと言う事は、ヨーガでは無種子三昧に当たるのじゃ。
 心に何の対象もなく、ただ集中している状態なのじゃ。

 ありのままの無為であり、座る自分の観念さえも失くして座り続けるのじゃ。
 それが出来れば悟りはもはや目の前にあると言えるのじゃ。
 無種子三昧は初めは対象のあるサマーディから始めて長い年月がかかるのじゃ。

 しかし、この金剛般若経の教えに従って全ての観念を断って座れば、速やかに達成することも可能なのじゃ。
 この教えが向いている者には実に有り難い法なのじゃ。
 実践して確かめるのじゃ。

99避難民のマジレスさん:2024/09/08(日) 11:06:04 ID:J/OijoG.0
568 :鬼和尚 :2022/01/08(土) 23:39:55.85 ID:J7QLfMfx.net[2/2]

***
 スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」

 スブーティは答えました。
「非常に大きいです、師よ。それはなぜかというと、如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」

***

 その後、更にチョモランマのようにでかい体の人が居たら、それはでかいか、
 と、お釈迦様はきいたのじゃ。
 須菩提長老は、それはでかい
 なぜならばそれは体ではないからなのじゃ。
 体が無いからでかい体と言うのじゃ、
 と、答えたのじゃ。

 このようにあらゆる観念についてそれを否定して、後にそれを肯定するのじゃ。
 それを繰り返すことで身につき、観念の切断ができるようになるのじゃ。

***
(十一)
 師はスブーティに問われました。
「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとしよう。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」

 師は言われました。
「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに言われました。
「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」

(十三)
 その時、スブーティは師に尋ねました。
「師よ、この経は何と名付けられるのですか?また、私たちはどのよう記憶すべきでしょうか?」

 師はスブーティに告げました。
「この経は智慧の完成と名付けられる。その名前で記憶すべきである。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成では無いからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様はガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、それと同じ三千世界を満たした宝を布施するよりも、
 、この経典の四句でも他人に説いたほうが功徳が大きいことを教えたのじゃ。
 そしてこの経文を金剛般若経とすることを告げたのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2024/09/09(月) 10:44:08 ID:tTXmKBuI0
851 :鬼和尚 :2022/01/10(月) 00:07:58.64 ID:SlhBSZiK.net

 何故、金剛般若波羅蜜経と名づけるのか、
 お釈迦様は般若波羅蜜、即ち智恵の完成とは、智恵の完成ではないからというのじゃ。
 そうであるから智恵の完成とよぶのじゃ、というのじゃ。

 この般若波羅蜜経でさえ、実は般若波羅蜜ではないというのじゃ。
 それでこそ完全な般若波羅蜜、智恵の完成となるのじゃ。
 なぜならば法もまた捨て去るべき観念であるからなのじゃ。

 修業が完成したならば法は捨て去ることというのは、前に既に説かれたのじゃ。
 そのためにはこの経さえも又そのものではないという教えが必要なのじゃ。
 それでこそ完全に完成した、智恵の完成の教えといえるのじゃ。

 現代の技術で例えれば、パソコンなどの終了コマンドのようなものじゃ。
 全てのアプリやシステムの働きを終わらせた後、自分自身をも終わらせるのがその役割なのじゃ。
 そのために他の他のコマンドと同じように自らを終了させる命令をも含んでいなければならないのじゃ。

 それが金剛般若波羅蜜経さえも実は般若波羅蜜ではなく、それでこそ般若波羅蜜であるといえるのじゃ。

101避難民のマジレスさん:2024/09/10(火) 10:53:32 ID:cnSG28OY0
0059鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/11(火) 00:13:03.21 ID:1oEqxfGV

***
(十三)
「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、如来が説いたものは何もありません。」

「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」

 スブーティは答えました。
「師よ、非常に多いです。」

「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」

***

 それからお釈迦様は自分が何か説いた法があるかと、須菩提長老にきくのじゃ。
 須菩提長老は何も無いと答えるのじゃ。

 更にお釈迦様は三千大千世界の塵は多いかと聞いたのじゃ。
 須菩提長老は多いと答えたのじゃ。
 何故ならば如来は世界は世界ではなく、地理は塵ではないと説いたからというのじゃ。

 そうであるから世界の塵は多いというのじゃ。
 先には如来は何も説いていないといいながら、世界は世界ではないと説いたというのじゃ。
 それが世界の説き方であるからなのじゃ。

 世界は世界ではないとお釈迦様は説いたのじゃ。
 そうであるから世界とよばれると、説いたのじゃ。
 それは説いたことではないというのじゃ。

 説いてはいないから、説いたことになるというのじゃ。
 このように幾重にも重なって、観念を破壊する般若の法は説かれるのじゃ。
 それは論理や知識で理解することではないのじゃ。
 理解しなくて善いのじゃ。

 むしろ理解してはいかんのじゃ。
 理解とは観念を記憶による既存の知識と照らし合わせて、それもまた知識として記憶の中にしまいこむことであるからなのじゃ。
 それでは観念は定着するばかりで、破壊されないのじゃ。

 矛盾のある理解できない観念であれば、決して知識としてしまいこまれることはなく、他の観念を破壊して自らも破壊されるのじゃ。
 それがこのような構造をとる意味なのじゃ。
 どこまでも矛盾した理解し難い法門を、繰り返し念じることで身につき、観念は破壊されるのじゃ。
 実践で確かめるのじゃ。

102避難民のマジレスさん:2024/09/11(水) 10:33:25 ID:31Y9QnpI0
0075鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 00:05:20.69 ID:6AXOW6C6

***
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」

「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。それはなぜかというと、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」

「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂と等しいほど体を捧げたとしても、この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説く人がいるとすれば、その福徳のほうが遥かにに大きいのだ。」

(十四)
 そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
 涙を拭い終わって、師に言いました。
「師よ、すばらしいことです。如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。

 師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと言うのです。

***

 そしてお釈迦様は須菩提長老に、
 三十二相をもって如来を見るべきかと問うたのじゃ。
 長老はそうではないというのじゃ。

 三十二相は相ではないのであるから、三十二相と言われる。
 と、答えたのじゃ。
 
 この後、お釈迦様はこの経を広めたら功徳が一杯あるとか宣伝するのじゃ。
 それは大乗経典によくある宣伝であるからみんな飛ばしよみで善いのじゃ。
 解説ではみんな飛ばしてよんでいくのじゃ。
 
 長老は感激してなきながら、こんな素晴らしい経を説かれたのを聞いたことがないと、賞賛するのじゃ。
 後の世にこの経を聞いて清い心で信じることができる者は、これが真実と思うというのじゃ。
 なぜならば真実であるという観念は、真実ではないから、というのじゃ。
 そうであるから真実であると説かれたというのじゃ。

 真実という観念は真実そのものではないのじゃ。
 それに気付けば真実なのじゃ。
 真実は観念の届かないところにあるものじゃ。
 そのように観念を離れた境地に入れば真実がありのままにわかるのじゃ。

103避難民のマジレスさん:2024/09/12(木) 10:43:29 ID:qu33Whyg0
0081鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 23:56:04.87 ID:6AXOW6C6

***
 師よ、わたしが今、このような教えを聞いて、信じて受け入れる ことは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その者はこの上なく希有でありましょう。なぜならば、その者には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」

***

 更に須菩提長老は続けて、
 自分がこの経を受け容れて理解するのは難事ではないというのじゃ。
 後の五百年になってこの経を受け容れて記憶して理解する者こそわしよりえらい、とかいうのじゃ。
 
 何故ならばそのような人は前述の自己認識の四つの観念がないからなのじゃ。
 それらの観念すらもないというのじゃ。
 一切の観念を離れたものが仏陀であるからなのじゃ。

 つまりこの経を受け容れて、理解できるようなものはもはや悟っているというのじゃ。
 悟っていなければ理解できないというのじゃ。
 一切の観念がない仏陀であればこの経を受け容れて理解できるというのじゃ。
 そうであるから自分よりも偉いと須菩提長老はいうのじゃ。

 本来、経とはまだ悟っていない修行者のためものじゃ。
 悟っていない者たちが経典を学び、実践して悟りを目指すのじゃ。
 悟ってしまえばもはや経典はいらないのじゃ。

 しかし、この経は悟っていなくては理解できないというのじゃ。
 それでは修行者はどうすればよいのか。
 理解できなくとも悟っていない者達はただひたすら信仰によって、実践するしかないのじゃ。
 実践することで観念の切断を学び、身につけ、全ての謬見と煩悩を断じて進むのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2024/09/13(金) 10:35:58 ID:p2ICcw1E0
0094鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/13(木) 23:53:17.99 ID:zH9ccZo+

***
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜか というと、スブーティよ、かつてわたしがある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切無かったからだ。
 それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」

「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、わたしは五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。」

***

お釈迦様は須菩提長老に六波羅蜜の最初の忍辱波羅蜜は、忍辱波羅蜜ではないと、説いたのじゃ。
 なぜならば前世に忍辱仙人だったときに、悪王に体をばらばらにきられたが、何も思わなかったというのじゃ。
 それは自己認識の四つの観念がなかったからだというのじゃ。

 もしそれがあれば怒っていたが、無いから怒りも何も無かったというのじゃ。
 それが忍辱波羅蜜、即ち忍耐の完成の行だったというのじゃ。

 それ故に六波羅蜜の中の忍辱波羅蜜とは、忍辱波羅蜜ではないというのじゃ。
 そうであるから忍辱波羅蜜であるというのじゃ。
 自己認識の四つの観念がないとき、忍辱、忍耐は最高の完成をみるのじゃ。
 
 しかし、それはもはや自分という観念が無いから、もはや自分の忍耐の完成ではないのじゃ。
 そこには忍耐する何者もいないからなのじゃ。
 忍耐する者が居らず、忍耐がない時、忍耐の行は完成するのじゃ。
 
 それが金剛般若経による忍耐の完成なのじゃ。
 大乗経典の般若経典ではこのように、般若波羅蜜によって他の波羅蜜は真の完成を遂げるというのじゃ。

105避難民のマジレスさん:2024/09/14(土) 11:22:41 ID:IJyX4bTE0
0099鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/14(金) 23:34:59.21 ID:/GDqYd9y

***
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。」

 スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」

「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」

「スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」

***

 お釈迦様は更に一切の観念に囚われずに、悟りを求める心を起こすのじゃ、というのじゃ。
 色にも囚われず、声香味触法の全てに囚われず発菩提心を起こすべきだというのじゃ。
 なにものにも囚われずに心を起こすべきだといのじゃ。

 なぜならば心に囚われがあるならば、それは囚われではないからというのじゃ。
 そうであるから囚われというのじゃ。

 一切の観念は夢幻である故に、囚われているという観念もまた無であるからなのじゃ。
 それが真実であるから、そのように心を起こすべきなのじゃ。

 そうであるから如来は、菩薩はなにものにも囚われずに布施をするべきというのじゃ。
 それが真実の布施であり、布施の完成の行であるからなのじゃ。
 
 心が何かに囚われて布施をするのは、闇の中に居るようなものというのじゃ。
 なにものにも囚われない布施をするのは、日光で照らされた所でいろいろなものを見るようなものというのじゃ。
 それが観念を廃絶した布施の完成なのじゃ。

106避難民のマジレスさん:2024/09/15(日) 11:19:22 ID:CROLWSBs0
0155鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/16(日) 00:29:21.43 ID:0O1J1evH

***
「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」

(…中略…)

 スブーティよ、もし正しい教えが滅びる時代に、善き男や善き女がこの経を記憶し、読誦するとして、彼らが得る功徳を私が全て語ったとしたら、それを聞いた人の中には、心が乱れ、疑いを持ち、信じない者もいるだろう。スブーティよ、この経の意義は計り知れず、その果報も同様に計り知れないことを知るべきである。」

***

 それからお釈迦様は長い宣伝に入るのじや。
 この経を受持して他人にも説けば大きな功徳があるというのじゃ。
 そのためにこの経は広く流布しているのじゃ。

 なかなか侮れないのじゃ。
 法華経も同じように受持して他人にも説けば大きな功徳があるというから、広まったのじゃ。
 現世利益なのじゃ。

 誰でもやはり来世よりも現世で利益が欲しいから広まるのじゃ。
 それから今までのまとめに入るのじゃ。

107避難民のマジレスさん:2024/09/16(月) 13:08:27 ID:M4arHG/60
0557鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 00:06:00.63 ID:Id/CH6q0

***
(十七)
 その時スブーティは尋ねました。
「師よ、善き男や善き女を問わず、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」

「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、ニルヴァーナに導くべきである。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
 それはなぜかと言うと、スブーティよ。もし菩薩が自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を生ずるなら、それは菩薩とは言えないからだ。
 それはなぜかと言うと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは何も存在しないからだ。」

***

 須菩提長老は改めてお釈迦様にきいたのじゃ。
 善男子善女子が悟りを求めようとするときどのようにすればよいのかと
 これは最初の問いと同じなのじゃ。

 ここからは今までの問答をまとめる要旨なのじゃ。
 お釈迦様は改めて、答えるのじゃ。
 
 無上正等正覚を求める者は、一切衆生を掬って悟りを得させようと意志を起こすのじゃ。
 しかしそのようにしても一人の衆生も悟りをえるものではない」
 と、念じるのじゃ。
 
 なぜならばその時、自分という四つの観念があれば、菩薩ではないからというのじゃ。
 四つの観念がない時には菩薩であるからというのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2024/09/17(火) 12:00:44 ID:ONZaFl7Y0
0577鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 23:15:21.58 ID:Id/CH6q0

***
 師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」

 師は言いました。
「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。実際には、この上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なされたのだ。

 それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。

***

 そして更に法として無上正等正覚というものはないというのじゃ。
 過去の仏にそのような無上正等正覚を授かったことはないというのじゃ。
 そうであるから、過去仏に無上正等正覚を得ると受記されたというのじゃ。

 なぜならば無上正等正覚を得た如来とは真如の異名であるからというのじゃ。

 悟りを得るとはいうが、無上正等正覚とは何かを得ることではなく、むしろ謬見を無くすことであるといえるのじゃ。
 自分があるという謬見、認識したものが実在するという謬見を失い、本来の認識に回帰することなのじゃ。
 それは実に何かを得るのではなく、謬見を無くすことであるからろ、法として得るものはないのじゃ。

 そして悟りを得た如来とは、既に自己の概念も、観念も無いから語るべきことも無いのじゃ。
 語るべきこともないが、衆生のためにあえて真理を語るのであるから真理を語るものの如しなのじゃ。

109避難民のマジレスさん:2024/09/18(水) 11:16:44 ID:p54R1Ff20
0637鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/19(水) 23:23:53.63 ID:AEMpn1Ia

***
 もしも誰かが、『如来がこの上ない正しいさとりを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、 実際にはこの上ない正しいさとりによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
 それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と言われるものは、実際にはすべての法では無い。それゆえにすべての法と言われるのだ。」

***

 そして更にお釈迦様は、誰かが如来は無上正等正覚を得たというならば、誤りであるというのじゃ。
 法として無上正等正覚を得るということはないからというのじゃ。
 無上正等正覚には真実はなく、偽りも無いからというのじゃ。

 真実も、偽りもまた観念であるからなのじゃ。
 一切の観念を離れれば、真実もなく、偽りも無いのじゃ。
 もともとそれはないものじゃ。

 ただ人が世間で日常の観念として使うだけのものなのじゃ。
 世間から離脱すれば、それもなくなるのじゃ。
 それが出世間の法なのじゃ。

 それ故に一切の法は、仏法であると言うのじゃ。
 全ての法則であれ、方法であっても全ては真実とか、偽りを離れているのじゃ。
 ただありのままにあるだけなのじゃ。
 
 それに気付いたならば、それが目覚めるための法になるのじゃ。
 全てが目覚めた者の証になるのじゃ。
 それが一切の法が仏法であるということなのじゃ。

110避難民のマジレスさん:2024/09/19(木) 10:25:26 ID:ism7Hp1c0
0896鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/20(木) 23:35:29.86 ID:36+od2gP

***

「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」

 スブーティは言いました。
「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」

「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」

 師は言われました。
「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると言うのである。」

***

更にお釈迦様は一切の法とは一切の法ではないというのじゃ。
それ故に一切の法とよぶというのじゃ。
それは例えば体のでかい人のようなものじゃというのじゃ。

すると須菩提長老がそれをうけて、
如来の説いたところのでかいからだの人は、でかいからだの人ではないというのじゃ。
そうであるからでかいからだの人とよぶというのじゃ。

お釈迦様は続けて菩薩もまた同じであると言うのじゃ。
一切の衆生を滅度せしめるというのは菩薩ではないというのじゃ。
なぜならば法として菩薩という者はないからというのじゃ。

自我の四つの観念が無い者が菩薩であるからなのじゃ。
自分が無いのに他人を滅度せしめることができるはずもないのじゃ。

111避難民のマジレスさん:2024/09/20(金) 10:56:05 ID:9LBlwX7.0
0476鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/22(土) 23:30:26.83 ID:i36ZTocU

***
(十八)
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」

「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」

「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
「非常に多いです、師よ。」

 師はスブーティに告げました。
「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心と説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」

***

 そしてお釈迦様は須菩提長老に、如来は肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼があるかと問うのじゃ。
 須菩提長老はあると答えるのじゃ。
 
 肉眼はそのまま肉体の眼じゃな。
 天眼は千里眼の通力の眼なのじゃ。
 慧眼は智慧の眼なのじゃ。
 法眼は法を見る眼なのじゃ。
 仏眼は仏陀としての眼なのじゃ。

 それらの眼によって衆生の心を悉く知るというのじゃ。
 ガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、その河の砂の数と同じ三千大千世界があるとして、それらの世界に住む衆生の心を全てしるというのじゃ。
 
 どのようにして知るのかといえば、それは心ではないものとして知るというのじゃ。
 現在の心も、過去の心も、未来の心も得られるものではないからというのじゃ。

 心というものも又観念であるから、それはあるものではないのじゃ。
 心は心では無いものとして知れば、全ての衆生の心を知ったことになるのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2024/09/21(土) 11:07:45 ID:KYeYlvEc0
0638鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/24(月) 00:18:54.70 ID:NY6g/8Y8

***
(十九)
「スブーティよ、どう思うか?もし誰かがはてしなく 広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」

「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」

「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」

(二十)
「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」

「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。

「スブーティよ、どう思うか。 如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」

「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。なぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」

(二十一)
「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」

「師よ、そのように考えることはありません。」

「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」

 このように言われた時に、スブーティは師に問いました。
「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」

 師は言いました。
「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」

***
 更に又お釈迦様は福徳とか、色身とか、特徴とか、法を説く事とかについて否定してからそのように名づけると説いたのじゃ。
 それぞれがあるものではなく、そうであるからそのように名づけられたというのじゃ。
 そのようにして固定観念を滅して行くのじゃ。
 
 それに対して須菩提長老が、それを聞いて信じる衆生が後の世にいるとかきくのじゃ。
 するとお釈迦様はその衆生さえも衆生ではないと説いたのじゃ。
 そうであるから衆生とよばれるのであるというのじゃ。

 そのようにあらゆるものについて否定されるべき観念があると示したのじゃ。
 そのようにして否定された観念が、正しい観念の滅といえるのじゃ。

113避難民のマジレスさん:2024/09/22(日) 11:32:42 ID:5/M687i60
195鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/25(火) 23:44:51.04ID:1qbD/h3V

***
(二十二)
スブーティは、師に尋ねました。
「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」

「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと言われるのだ。」

「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」

***
>>197
 お釈迦様は須菩提長老に、
 わしが無上正等正覚を得たということがあるじゃろうか
 と、聞いたのじゃ。

 須菩提長老は、
 無上正等正覚を得たのは、何も得ていない
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は 
 そうじゃ、わしは無上正等正覚においてほんの少しの法も得ていないのじゃ、
 それをこそ無上正等正覚というのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 続いて
 この法は平等でなんの差別も無いのじゃ。
 そうであるから無上正等正覚というのじゃ。
 というのじゃ。

 自己の四つの観念がなく、全ての善法を修めれば、無上正等正覚を得るというのじゃ。
 その善法も善法ではないから、善法というのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 全ての観念がなくなれば、そこに何の差別もなく、一切が平等なのじゃ。
 何かの観念を足して平等なのではなく、観念が無いことで平等なのじゃ。
 そうであるから何も得ないことが無上正等正覚そのものなのじゃ。

 更に善法とはこの金剛般若経による観念の破壊に他ならないのじゃ。
 一切の観念を破壊するこの善法は、自らも破壊される観念であるから、善法ではないのじゃ。
 それがこの善法とよばれるものなのじゃ。

114避難民のマジレスさん:2024/09/23(月) 10:42:09 ID:hup9jwns0
274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi

***
(二十五)
「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」

***

 更にお釈迦様は須菩提長老に、
 如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、
 というのじゃ。

 なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。
 もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。
 そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。

 更に自己の四つの観念もまたない、というのじゃ。
 それらはもともと幻想である故にないものなのじゃ。
 しかし、凡夫はあると思っているのじゃ。

 その凡夫さえも無いものというのじゃ。
 もはやなにものも観念としてないのじゃ。

 観念そのものさえもないというのじゃ。
 このようにして段々と全てはないことが深化していくのじゃ。

 始めは観念としての自己が無いということであったのじゃ。
 ここではもはや観念そのものもないというのじゃ。
 それがそのまま修業の段階を示していると言えるのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2024/09/24(火) 12:43:47 ID:FcJmAzQg0
295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D

***
(二十六)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」

 スブーティは答えました。
「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」

 師は言いました。
「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
 スブーティは言いました。
「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」

 その時、師は、次のような詩を歌われました。

形によってわたしを見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
わたしを見ることはできない。

***

 次にはお釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
 三十二相をもって如来を見るべきかと、

 須菩提長老は
 そうではなく、如来の説いたところによれは、三十二相をもって如来を見るべきではないと、
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は
 そのとおりじゃ、三十二相をもって如来を見てはいかんのじゃ。
 三十二相があるから如来と思うならば、転輪聖王も如来となってしまうからなのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 前にも書いたが、三十二相とはインド人が考えた高貴な人の相なのじゃ。
 同じ相が転輪聖王にもあるというのじゃ。
 そうであるから如来を三十二相によってみてはいかんというのじゃ。

 お釈迦様はそれを詩にして吟詠したのじゃ。
 肉体の特徴や、音声によって如来を見てはいかんのじゃ。
 もしそのように見る者が在れば如来を見ていないのじゃ。
 外道なのじゃ。
 というのじゃ。

 如来とは法を説いて衆生を導くものであるから、肉体の相や音声で見分けてはいかんの邪。
 人を悟りに導き、福楽への道を示すのが如来なのであるからのう。
 法によって如来を見るのが正しいのじゃ。

116避難民のマジレスさん:2024/09/25(水) 11:42:28 ID:iUT6mCKg0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS

***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」

***

 それからお釈迦様は
 如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
 そのようなことはないからというのじゃ。

 なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
 そうであめから相とよばれるのじゃ。

 無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
 そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
 このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
 
 更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
 煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
 なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
 そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。

 更に断滅も断滅ではないのじゃ。
 そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
 そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。

 ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
 それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
 観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
 なにものにも囚われずに進むのじゃ。

117避難民のマジレスさん:2024/09/26(木) 10:44:56 ID:WMlMXrA60
324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh>>327

***
(二十八)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」

 スブーティは師に問いました。
「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」

 師は答えました。
「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」

***

 更にお釈迦様は
 ガンジス川の砂の数の世界を宝で満たして供養するより、
 無性法忍を得たほうが優れた功徳をえるというのじゃ。
 それは功徳を受けないからであるというのじゃ。

 なぜならば功徳とは功徳ではないからなのじゃ。
 功徳では無いものを功徳というのじゃ。
 観念の功徳を受けたとすれば、それは幻想なのじゃ。

 幻想から離れたほうが大きな功徳であることは言うまでも無いのじゃ。
 無性法忍を得れば幻想から離れている故に、功徳を受けず、大きな功徳を得たことになるのじゃ。

 それをお釈迦様は次に、
 菩薩は功徳に貪着しないから受けないというのじゃ。
 貪欲も執着も無い境地なのじゃ。

118避難民のマジレスさん:2024/09/27(金) 10:45:01 ID:3mnA./cI0
0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(29)

「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」

***

 それからお釈迦様は、
 もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
 と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。

 なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
 如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
 来ることも去ることもないものなのじゃ。

 既に死を超越したからなのじゃ。
 死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
 一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。

 死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
 生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
 生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
 そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。

119避難民のマジレスさん:2024/09/28(土) 10:49:06 ID:ysay.BJM0
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw

***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」

 スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。

 師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
 如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」

「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」

***

 続いてお釈迦様は須菩提長老に、
 もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
 と、聞いたのじゃ。

 須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
 なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
 と、いうのじゃ。

 なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
 それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。

 そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
 そうであるから三千大千世界というのじゃ。

 なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
 全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
 それが全てであることなのじゃ。

 しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。

 つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
 実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。

120避難民のマジレスさん:2024/09/29(日) 10:59:35 ID:MTrO3kMc0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0

***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」

  スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」

「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」

***

 お釈迦様は更に須菩提長老に、
 もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
 と、聞いたのじゃ。
 
 長老は、
 それは正しくない 
 なぜならば、それらの見解は見解ではない。
 それを見解とよぶのじゃ。
 と、答えたのじゃ。

 お釈迦様は、
 その通りじゃ。
 無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
 法という観念を持つべきではない、
 と、答えたのじゃ。

 なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
 そうであるから法という観念なのじゃ。
 と、説いたのじゃ。

 そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
 それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
 そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2024/09/30(月) 10:45:39 ID:aAiVlFes0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU

***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
 それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。

 世界の一切のものごとは
 夢や幻、泡や影、
 露や稲妻のよう、
 そのように観るがよい。」

 師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。

***

>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
 最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
 もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
 人のために説いた方がより大きな福を得る
 といったのじゃ。

 どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
 それが人のために説くということなのじゃ。
 というのじゃ。

 つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
 自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
 
 そして詩句を示すのじゃ。

 一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
 と、説いたのじゃ。
 つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
 
 今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
 直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
 それもまた金剛般若経の法なのじゃ。

 この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
 次は総評なのじゃ。

122避難民のマジレスさん:2024/10/01(火) 11:11:28 ID:M1/k7XNo0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU

 金剛般若経も終わったのじゃ。
 全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
 仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
 それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。

 もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
 そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
 阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。

 全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
 そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
 その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。

 それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。

 観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
 しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
 それが向いている者には効果がある法なのじゃ。

 自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。

123避難民のマジレスさん:2024/10/02(水) 10:06:38 ID:lladodqI0
◆鬼和尚の解説・直リンクまとめ◆

・大乗経典

<金剛般若経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/86-122

<法華経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/2-14

<浄土三部経>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/20-27

<大乗起信論>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/15-19



・その他

<信心銘>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/33-42

<十牛図>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/28

<坐禅和讃>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/29-32

<マハームドラーの詩>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/43-55

<ラマナ・マハルシの問答>
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1717991043/56-85

124避難民のマジレスさん:2024/11/01(金) 09:33:20 ID:jbnABVgU0
<解説・パタンジャリのヨーガスートラ>

https://itest.5ch.net/fate/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/85-211
より抜粋

※鬼和尚の解説に合わせ書き込みを整えて転載

___

<第一章>

1.1 これよりヨーガを明細に説く。

1.2 心の作用を止滅することが、ヨーガである。

1.3 その時、見る者【自己】は、それ本来の状態に留まる。

1.4 その他のときは、【自己は】心の様々な作用に同化した形をとっている【ように見える】。

1.5 心の作用には五種類あり、それらは、苦痛に満ちたもの(煩悩性のもの)、あるいは苦痛なきもの(非煩悩性 のもの)である。

1.6 それらは、正知、誤解、言葉による錯覚、睡眠、そして記憶である。

1.7 正知のよりどころは、直接的知覚、推理、及び聖典の証言である。

1.8 誤解は、あるものに対する知識が、その実態に基づいていないときに起こる。

1.9【基盤となる】実態がなく、単に言葉だけを聞いて生ずる心象は、言葉による錯覚である。

1.10 無を把握の対象として成り立つ心の作用が睡眠である。

1.11 過去に経験し、今も忘れられていないものを対象とする作用が意識に戻ってくるとき、それが記憶である。


0088 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/22(日) 23:30:45.21
パタンジャリのヨーガスートラはサマーディによる悟りを目指すものなのじゃ。
分類すればサマーディヨーガということになるじゃろう。
集中によって忘我に成り、無我から悟りを目指す道なのじゃ。
才能のある者には容易であるが、そうではない者には厳しい道なのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2024/11/02(土) 09:34:27 ID:z8VYi6Rg0
1.12 これらの心の作用は、修習(アビイアーサ)と離欲(ヴァイラーギヤ)によって止滅される。

1.13 これら二者のうち、心に不動の状態をもたらそうとする努力が、修習(アビイアーサ)である。

1.14 修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣をもって励まれるならば、堅固な基礎を持つものとなる。

1.15 見たり聞いたりした対象への切望から自由である人の、克己の意識が離欲(ヴァイラーギヤ:無執着)である。

1.16 プルシャ【真の自己】の悟得によってグナ【自然(プラクリティ)の構成要素】に対してさえ渇望のなくなったとき、それが至上の離欲(ヴァイラーギヤ)である。

1.17 【サムプラジュニャータ・サマーディ:区別ある三昧】(有想三昧)には、論証性(尋)、反射(伺)、歓喜(楽)、及び純粋な我-性(我想)が伴う。


0093 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/23(月) 22:38:23.80
ヨーガスートラでは修業の実践を修習(アビイアーサ)というのじゃ。
日々の修習(アビイアーサ)なくして進歩は無いのじゃ。 
日々の修習(アビイアーサ)によって至上の離欲(ヴァイラーギヤ)にも到達できるのじゃ。
 
サマーディにもいくつかの段階が有り、ヨーガスートラでは最初の段階から説いていくのじゃ。

126避難民のマジレスさん:2024/11/03(日) 10:45:11 ID:3n8qOYWo0


1.17 【サムプラジュニャータ・サマーディ:区別ある三昧】(有想三昧)には、論証性(尋)、反射(伺)、歓喜(楽)、及び純粋な我-性(我想)が伴う。

1.18 心の作用の完全停止が確固不抜に修められることによって、後に残るのは印象(サンスカーラ:行)のみとなる。これがいま一つのサマーディ【アサムプラジュニャータ・サマーディ:区別なき三昧】(無想三昧)である。

1.19 単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)〔自性〕に没入した者には、再生がある。

1.20 その他の者〔ヨーギーたち〕は、堅信、努力、念想、三昧、叡智を通して、このアサムプラジュニャータ・サマーディを得ることができる。

1.21 強い情熱をもって修練する者には、これ【アサムプラジュニャータ・サマーディ】は非常に速やかに来る。


0096 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/24(火) 22:58:14.10
有想三昧にはまだ論理思考があり、我という思いも残って居る。
無想三昧にはそれらはなくもはやサンスカーラだけとなる。
サンスカーラとは今の言葉で言えば潜在意識とかになるじゃろう。
それは日常では意識できない心の働きであり、心を支配するものじゃ。

127避難民のマジレスさん:2024/11/04(月) 11:52:48 ID:rFbiC8Yk0


1.22 成功のために要する時間はさらにまた、その修練が穏和であるか、中位であるか、非常に熱烈であるかによって異なる。

1.23 神【イーシュバラ】への完全な帰依によっても【サマーディ】は達成される。

1.24 イーシュバラとは、いかなる苦悩(煩悩)、行為(業)、行為の結果(業報)、欲望の内的印象(業遺存)によっても染められていない無常のプルシャである。

1.25 彼の中には、一切知の種子が完全に備わっている。

1.26 彼は時間によって制限されないがゆえに、太古の師達にとってさえも師である。


0098 名無しを整える。 2018/07/25(水) 15:00:02.21
>>96
>印象(サンスカーラ:行)
↑記憶と照合される以前の、あるがままの観察のことでありますかね。
行とは、受、想、行、識 の行でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

0100 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/25(水) 22:30:52.93
>>98 そのようなものじゃ。
 漢字では行と翻訳されているのじゃ。

 神への帰依によってもサマーディは達成されるのじゃ。
 勿論その神に対して元から強い信仰がなければならないがのう。
 信仰する神仏に身も心も捧げるのが真の帰依なのじゃ。
 真の帰依によってサマーディも訪れるのじゃ。

128避難民のマジレスさん:2024/11/05(火) 10:13:05 ID:EZm/ob9.0


1.27 イーシュヴァラを言葉で表したものが、神秘音オームである。【オームは神の名であると同時に形である】

1.28 意味を熟慮しつつ、それを反復誦唱するがよい。

1.29 これを修することにより、すべての障害が消え、同時に内なる自己の智が開け初める。

1.30 病気、無気力、猜疑、散漫、怠惰、好色、盲見、不動の境地に至り得ない状態、獲得した地歩からの滑落-これらの心の散動が、その障害である。

1.31 心の散動に随伴して起きるものに、苦悩、失意、身体の震え、乱れた呼吸がある。

1.32 ひとつの対象に集中して修練を行なう【あるいは、ひとつの技術を用いる】ことが、障害とその付随物を防ぐ最良の方法である。

0113 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/27(金) 23:03:04.11
>>108 修業を続けるためには信仰も必要になる事が在るじゃろう。
 本当に悟れるのかとか、修業に疑いが出た時に信じることによって乗り越えられるのじゃ。
 
マントラも集中するための道具なのじゃ。
それ自体には何の力も無いものじゃ。
信じて実践することで力も発揮できるのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2024/11/06(水) 14:20:00 ID:vVuVYCwA0


1.33 他の幸福を喜び(慈)不幸を憐れみ(悲)他の有徳を欣び(喜)不徳を捨てる(捨)態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。

1.34 あるいはその静澄は、息の制御された排出、または保留によって保たれる。

1.35 あるいは微妙な感覚的知覚に対する集中が、心の不動をもたらす。

1.36 あるいは永遠の至福に満ちた、内なる無上の光に集中することによって。

1.37 あるいは感覚対象への執着を離れた聖者の心に集中することによって。

1.38 あるいは夢や深い眠りの中で得られる体験に集中することによって。

1.39 あるいは何でも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって。


0118 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/28(土) 22:17:33.74
>>114 仏陀を信仰するとよいのじゃ。
 信仰によって疑いを乗り越えるのじゃ。

 対象はどんなものでも集中することでサマーディも訪れるのじゃ。
 対象はサマーディの成就と関係ないのじゃ。
 集中力が大事なのじゃ。

130避難民のマジレスさん:2024/11/07(木) 10:30:34 ID:gMNWkOEI0


1.40 集中の修得は次第に拡大して、根源的原始から最も巨大なものにまで及ぶ。

1.41 自然の透明な水晶が傍らに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。

1.42 名称と形態、及びそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディ(有尋三昧)呼ばれる。

1.43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の智がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴わないサマーディ(無尋三昧)である。

1.44 同様にして、精微な対象について修されるところの、サヴィチャーラ・サマーディ【反射を伴うサマーディ】(有伺三昧)とニルヴィチャーラ・サマーディ【超サマーディすなわち反射を伴わないサマーディ】(無伺三昧)は説明される。

1.45 精微さは集中対象として存在しなくなり、ただ定義しあたわざるものに帰着する。


0120 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/29(日) 22:51:01.14
サマーディが深くなっていくと集中の対象もなくなっていくのじゃ。
対象があるうちはまだ観念による分別があるのであるからのう。
神に集中した者が神を超えられない状態ではこのような対象のないサマーディには辿りつけないのじゃ。
神を超えてこそ対象の無いサマーディにも到達できるのじゃ。

131避難民のマジレスさん:2024/11/08(金) 11:15:55 ID:KSd2F1QE0


1.46 以上がサビージャ・サマーディ【有種子三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺に引き戻す可能性が残っている。

1.47 ニルヴィチャーラ・サマーディが純粋となったとき、至高の自己は輝く。

1.48 これがリタムバラー・プラジュニャー、すなわち絶対的な真理意識である。

1.49 この特殊な真理認識は、聞いたり、聖典から学んだり、推理したりして得られる知とは完全に異なっている。

1.50 このサマーディによって生ずる印象(サンスカーラ:行)は、他の全ての印象を消す。

1.51 この印象さえも拭い去られるとき、あらゆる印象が完全に消滅して、そこにはニルビージャ・サマーディ【無種子三昧】がある。


0125 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/30(月) 22:37:04.93
最初の段階では意志によって強く対象に集中することでサマーディに達するのじゃ。
それから対象を無くし、サマーディに意志することなく入れるようになるのじゃ。
無意識のサマーディに入れるのじゃ。
そうすることで一切の観念を超えた境地に到達するのじゃ。
それには知識や思考ではなく日々の実践だけが必要なのじゃ。

132避難民のマジレスさん:2024/11/09(土) 12:51:40 ID:BBkrJEf20


<第二章>

2.1 浄化を助けるものとして苦痛を受け入れること、霊的な書物を研究すること、至高の存在に身を委ねることが、実行のヨーガである。

2.2 それらは、障害(煩悩)を最小にして、サマーディを達成させる。

2.3 無知、我想、執着、憎悪、生命欲が、五つの障害(煩悩)である。

2.4 無知(無明)は、それに続く他の諸障害 -それらは、(1)休眠状態であったり、(2)弱体化していたり、(3)遮断されていたり、(4)維持されていたりするが- の田地である。

2.5 無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすものである。

2.6 我想(アスミター)とは、いわば見る者【プルシャ】の力と、見る器官【身心】の力との同一視である。

2.7 執着(ラーガ)とは、快楽体験との同一視から来るものである。

2.8 憎悪(ドゥヴェーシャ)とは、苦体験との同一視から来るものである。


0129 名無しを整える。 2018/07/31(火) 07:45:06.44
>>128
2.6 我想、ば見る者の力と、見る器官の力との同一視 とは、どういうことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

0131 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/07/31(火) 21:47:42.83
>>126 サマーディの方法は才能が在るものにしかできないじゃろう。
 普通のサマーディでも難しいのに無種子三昧にまで行き着くのはかなり才能の在るものだけなのじゃ。
 
>>129 見るという能力によって、見る器官が主体と思うことなのじゃ。
 その働きによって自分が在るという認識も起こってしまうのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2024/11/10(日) 12:25:01 ID:sIdsvs4Y0


2.9 生命欲(アビニヴェーシャ)は、【過去の経験から来る】独特の潜勢力から発し、賢人にさえもある。

2.10 これらの障害(煩悩)が微妙な状態にあるときは、始源の原因【=自我】に還元するところによって破壊することができる。

2.11 それらが活動の状態にあれば、瞑想によって破壊することができる。

2.12 カルマ【行為とその反作用】(業)の子宮の根は、これらの障害の中にあり、そうしたカルマが、見える生【現世】及び見えざる生【来世】における諸経験を引き起こす。

2.13 根因が存在する限り、その結実すなわち、様々な生類への再生と寿命と経験とがある。

2.14 カルマは、善業に起因するものは楽、悪業に起因するものは苦として結実(業報)する。

2.15 得たものを失うことへの恐怖と懸念、結果として心の中に残り新たな切望をひき起こす印象、心を支配する三グナの絶えざる相克、これらに鑑みるとき、識別ある者にとっては実にあらゆるものが苦である。


0140 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/01(水) 22:43:53.18
>>133 どういたしまして、またおいでなさい。

無明による個我の観念があれば今の世が有り、生まれかわることも在るものじゃ。
それは刹那の安楽と苦があるが、安楽も執着すれば苦になるのじゃ。
それ故に一切は苦であるとパタンジャリも説いているのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2024/11/11(月) 10:26:06 ID:UZ7fI6Ew0


2.16 未来の苦は回避することができる。

2.17 その避け得る苦の原因は、見る者【プルシャ】と見られるもの【プラクリティ:自然】の結合である。

2.18 見られるものは、照明(プラカーシャ)・活動(クリヤー)・惰性(スティッティー)というグナの三つの性向を備え、元素(五大)と感覚器官から成っているが、その目的とするところは、プルシャに経験と開放(解脱)を与えることである。

2.19 グナの段階には、特殊のもの、特殊でないもの、定義されるもの、定義され得ないものの四つがある。

2.20 見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現れ方をする。

2.21 見られるものは、見る者のためにのみ存在する。


0153 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/02(木) 22:13:04.89
普通、グナの三つの性質とはサットヴァ、ラジャス、タマスと呼ばれるものじゃ。
日本語訳の意味はあっているようじゃ。
物質的存在はプルシャが目覚めるためのものとしているのじゃ。
その教義そのものが全て目覚めるためのものであるがのう。
物質的存在が全て観察され、自他の区別がなくなれば悟りとしているのじゃ。

135避難民のマジレスさん:2024/11/12(火) 12:55:46 ID:NQ4q9ciE0


2.22 それ(見られるもの)は解脱した者にとっては破壊されているが、他の者にとっては共有財として存在し続けている。

2.23 所有する者(プルシャ)と所有されるもの(プラクリティ)の結合が、それら両者が各自の本性と力(シャクティ)を把握する原因である。

2.24 この結合の原因は無知(無明)である。

2.25 この無知がなければ、そのような結合も起こらない。それが見る者の独存位である。

2.26 途切れることのない明敏な識別が、その除去の方法である。

2.27 最終段階の智は、七重である。(人は(1)もっと知りたいという願望、(2)何かを遠ざけておきたいという願望、(3)何かを得たいという願望、(4)何かをしたいという願望、(5)悲しみ、(6)恐れ、(7)惑わし、の七つが終息するのを体験する)


0159 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/04(土) 00:22:52.81
グナの三つの性質であるサットヴァ、ラジャス、タマスと言葉は違うが性質の翻訳は同じなのじゃ。
サットヴァとは気づくこと、認識することなのじゃ。
ラジャスとは活動なのじゃ。
タマスとは惰性なのじゃ。
ラジャス、タマスで検索するとよいのじゃ。

大体の意味はそれでよいのじゃ。

136避難民のマジレスさん:2024/11/13(水) 10:59:49 ID:mkSc9Yy20


2.28 ヨーガの諸支分を修練していくことによって次第に不純が消え、そこに明敏なる識別へと導く智が明け初める。

2.29 以下がヨーガの八支分である。【禁戒】【勧戒】【座法】【調気】【制感】【集中】【瞑想】【三昧】

2.30 ヤマ(禁戒)は、非暴力(アヒンサー)、正直(サティヤ)、不盗(アステヤ)、禁欲(ブラフマチャーリヤ)、不貪(アパリグラハ)より成る。

2.31 これらの大誓戒は普遍的なものであり、階層、場所、時間、環境等によって制約されない。

2.32 ニヤマ(勧戒)は、清浄(シャウチャー)、知足(サントーシャ)、苦行(タパス:苦痛を受容し、それをひき起こさないこと)、読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)、
自在神への祈念(イシューヴァラ・プラニダーナ:自己放棄)より成る。

2.33 否定的想念によって攪乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。それがプラティパクシャ・バーヴァナである。

2.34 暴力等のような否定的想念または行為がひき起こされたとき、あるいはたとえそれらが容認されただけであっても、そしてそれらが貪欲、怒り、迷妄(貪・瞋・痴:とん・じん・ち)のいずれによって煽られたものであっても、またそれらが穏和、中位、過激のいずれの度合いによってなされようとも、それらは無知に根ざしており、確かな苦をもたらすものである。このように省察することも、プラティパクシャ・バーヴァナである。

2.35 非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。


0162 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/04(土) 22:49:57.63
ヤマ(禁戒)はしてはいけないことなのじゃ。
ニヤマ(勧戒)はすべきことなのじゃ。
してはいけないことをしり、すべきことを知って実践するのが修行者なのじゃ。

137避難民のマジレスさん:2024/11/14(木) 09:59:44 ID:HVsHORVw0


2.36 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。

2.37 不盗(アステヤ)に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。

2.38 禁欲(ブラフマチャーリヤ)に徹する者は、精力を得る。

2.39 不貪(アパリグラハ)が揺るぎないものとなったとき、自らの生の原因と様態が余すところなく照らし出される。

2.40 浄化によって、自分自身の身体への厭わしさ、他人の身体に触れることへの厭わしさが生ずる。


0164 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/05(日) 23:26:29.80
戒の効果が説かれているのじゃ。
それがそのまま現実になるのではないのじゃ。
督励の為に説かれているのじゃ。

138避難民のマジレスさん:2024/11/15(金) 09:37:34 ID:K4nk.52A0


2.41 さらに、サットヴァの浄化、心の愉悦、一点集中、自己実現への適合性を得る。

2.42 知足(サントーシャ)によって、無上の喜びが得られる。

2.43 苦行(タパス)によって、身体と感覚の不浄が消え、超自然力が得られる。

2.44 読誦(スヴァディアーヤ:霊的書物の研究)によって、自らの望む神霊との霊交が得られる。

2.45 神に全てを任せることによって、サマーディは達成される。


0167 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/06(月) 22:28:46.59
ここでも神への帰依によるサマーディが説かれているのじゃ。
本当に心の底から信仰している神がなければ無理で在るがのう。
信仰の薄れた現代では難しいじゃろう。

139避難民のマジレスさん:2024/11/16(土) 10:21:20 ID:GtU6A1Eg0


2.46 アーサナ(座法)は、快適で安定したものでなければならない。

2.47 自然な性向である落ち着きのなさを減じ、無限なるものに瞑想することによって、座位(アーサナ)は習得される。

2.48 以後その者は、二元性によって乱されることがない。

2.49 安定した座位(アーサナ)が得られたならば、呼気と吸気が制御されなければならない。これがプラーナーヤーマ(調気)である。

2.50 気息のはたらき(ヴリッティ)は、内部的、外部的、制止的のいずれかである。それらは時間と空間と数によって規定され、長、短のいずれかである。


0171 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/07(火) 22:40:15.52
座方と呼吸法が説かれているのじゃ。
背筋を伸ばして正しく座ることが出来ればそれだけでもサマーディは達成されるのじゃ。
それが習得されればもはや迷妄に陥ることもないのじゃ。

140避難民のマジレスさん:2024/11/17(日) 10:04:19 ID:bK6gesqg0


2.51 プラーナーヤーマ(調気)には、内的あるいは外的な対象に集中しているときに起こる、第四の型がある。

2.52 その結果、内なる光を覆い隠していたヴェールが破壊される。

2.53 そして、心がダーラナー(集中)への適正を得る。

2.54 諸感覚がその対象から自らを撤退させ、いわば心そのものを模倣するとき、それがプラティヤーハラ(制感)である。

2.55 それにより、感覚に対する無上の統御が得られる。


0175 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/08(水) 22:46:22.99
>>172 それはまだ座方が習得できていないからなのじゃ。
 座方が習得できれば座るたびにサマーディに入れるのじゃ。
 そうすればもはやあれこれと迷う事無く進むこともできるのじゃ。
 自らの身が聖典が正しいことの証となるのであるからのう。

>>174 そうじゃろう。
 感覚が心を離れて自らありのままに至った時、無に等しくなるのじゃ。
 眼で見ても耳で聞いても自我は起こらないのじゃ。
 それが真の制感なのじゃ。

141避難民のマジレスさん:2024/11/18(月) 10:22:35 ID:az21l6po0


<第三章>

3.1 集中とは、心をひとつの場所、対象、あるいは観念に縛り付けておくことである。

3.2 瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。

3.3 三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。

3.4 同一の対象についてこれらの三者【集中(ダーラナー)、瞑想(ディアーナ)、三昧(サマーディ)】をなすことが、サンヤマ(綜制)と呼ばれる。

3.5 サンヤマ(綜制)の終了によって、知の光が生まれる。

3.6 サンヤマは段階的になされるべきである。

3.7 これらの三支(集中、瞑想、三昧)は、それ以前の五支(禁戒、勧戒、座法、調気、制感)よりも内的である。

3.8 これらの三支さえも、無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)にとっては外的である。


0177 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/09(木) 22:08:41.42
集中の三段階が説かれているのじゃ。
最初は対象に心を留めるだけで精一杯じゃろう。
それがダーラナーなのじゃ。
それから意識せずとも対象に集中しているディヤーナに至るのじゃ。
それでもまだ対象と自己が在るのじゃ。
自己が対象に統一されて一つになった感覚がサマーディなのじゃ。
サマーディまで到達するのはなかなか難しいものじゃ。
観察を行えばディヤーナだけでも悟りは訪れるのじゃ。

142避難民のマジレスさん:2024/11/19(火) 10:21:11 ID:f9bV3Mho0


3.9 生起してくる印象(サンスカーラ:雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって止滅される。この、新たな作用と心との結合の刹那が、ニローダ・パリナーマ(止滅転変)である。

3.10 ニローダ・パリナーマの持続状態は、習慣づけによって確実となる。

3.11【心】の散動が滅衰して一点集中が実現してくると、サマーディ・パリナーマ(サマーディへの進展:三昧転変)が現れる。

3.12 また、過去となってひいていく想念と、今まさに生起しつつある想念が等似であるならば、それがエーカーグラター・パリナーマ(一点集中:専念転変)である。

3.13 これ(以上の三つのスートラ)によって、物質元素と感官に関する、可視的特性と時間的位相と状態の転変も説明された。

3.14 本性的に、潜伏、生起、非顕現の諸相を経ていくのは、根底体(プラクリティ)である。

3.15 それらの諸相の連続が、進化(転変)に諸段階の存在する理由である。

3.16 進化のその三段階にサンヤマ(綜制)を施すことによって、過去と未来についての知が生まれる。


0179 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/10(金) 23:02:17.29
集中によって雑念が無くなるのがニローダ・パリナーマじゃ。
更に深く集中して対象と一体になるとサマーディに入るのじゃ。
想念の自己同一化が止まり、刹那に生滅する想念が一時に見られるのがエーカーグラター・パリナーマなのじゃ。
それができれば気づきが自在にあり、心の働きの全てを観ることも容易なのじゃ。

143避難民のマジレスさん:2024/11/20(水) 08:55:21 ID:y5We/Tns0


3.17 通常は、語と、その意味と、その語の表象内容とを混同するために混乱が生ずる。いかなる生類により発された語(あるいは音)でも、それにサンヤマを施すことによって、その意味を知ることができる。

3.18 サンヤマによって自らの心的印象(サンスカーラ)を直感することにより、前生についての知識が得られる。

3.19 他人の身体の区別的特長にサンヤマを施すことによって、その人の想念を知ることができる。

3.20 だがそれは、その人の心の中でその想念を支えているもの(例えばその思いの背後にある動機等)にまでは及ばない。それはそのサンヤマの対象とはならないからである。

3.21 自らの身体の形態にサンヤマを施すと、観察者の眼の光を遮ることによって知覚の力に干渉し、身体を見えなくすることができる。

3.22 同様にして、音その他(触、味、香)の消失も説明される。

3.23 カルマには、速やかに発現するものと徐々に発現するものとの二種類がある。それらあるいは死の前兆にサンヤマを施すことによって、死期を知ることができる。


0181 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/11(土) 21:40:46.48
集中することで得られるさまざまな力について語っているのじゃ。
そのまま信じられるものではないが在る程度は正しいのじゃ。
集中力が強くなれば不可能も可能になるのじゃ。
それを目当てに修業する者も居るのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2024/11/21(木) 10:06:18 ID:yl6ETzkg0
 

3.24 慈その他の徳性にサンヤマを施すことによって、それらを発する力を得る。

3.25 象その他の動物の力にサンヤマを施すことによって、それらの力を得ることができる。

3.26 内なる光へのサンヤマによって、微細なもの、秘匿されたもの、遠方のものを知ることができる。(例えば原子のように微細なもの、隠された財宝、遠隔の地など)

3.27 太陽にサンヤマを施すことによって、太陽系全体を知ることができる。

3.28 月にサンヤマを施すことによって、星の配置を知ることができる。

3.29 北極星にサンヤマを施すことによって、星の運行を知ることができる。

3.30 臍の神経叢(チャクラ)にサンヤマを施すことによって、身体の構造を知ることができる。


0184 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/12(日) 22:45:07.71
↑ そうじゃ、実際に集中することでその対象に関して詳しく知ることもできるものじゃ。
 かなり真実が語られているのじゃ。
 実践によって確かめられるのじゃ。

145避難民のマジレスさん:2024/11/22(金) 12:19:14 ID:gzFwGDdQ0


3.31 喉の窪みにサンヤマを施すことによって、飢えと渇きが止まる。

3.32 クールマ・ナーディ(喉の下方にある亀の形をした微細な管)サンヤマを施すことによって、瞑想の座位の不動性が達成される。

3.33 脳天の光(サハスラーラ・チャクラ)サンヤマを施すことによって、神人(シッダ)たちを見ることができる。

3.34 また、(純粋な生活を通じて)自然に発露する知(プラティバー)の中で、全ての力はおのずから現れる。

3.35 心臓にサンヤマを施すことによって、心(チッタ)を知ることができる。

3.36 知性(サットヴァ:覚)とプルシャ(あるいはアートマン)とはまったく別のものであり、知性がプルシャのために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。
これを峻別しないところに経験の全てがあるのであって、この区別にサンヤマを行なうことによって、プルシャの知があらわれる。

3.37 この知(プラティバー)より、任意の直感による超自然的聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚が生ずる。


0187 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/13(月) 22:05:10.86
↑そのようなものじゃ。
集中によって智慧と力は発現するのじゃ。
それを正しく自らの本心の観察に使うべきなのじゃ。

146避難民のマジレスさん:2024/11/23(土) 12:15:50 ID:dFqtfulU0


3.38 これら(超自然的感覚)は、(ニルビージャ)サマーディにとっては障害であるが、世俗的追及にあってはシッディ(力、霊能)である。

3.39 (心を身体に縛り付けている)原因を緩めることによって、また、心の働きの筋道を知ることによって、他人の身体に侵入することができる。

3.40 ウダーナ気(上向きの生命エネルギー)を支配することによって、水、沼沢、刺などの上に浮揚することができる。

3.41 サマーナ気(均等化のエネルギー)を支配することによって、身体が光輝に包まれる。

3.42 耳と虚空(エーテル)との関係にサンヤマを施すことによって、超常的な聴覚が得られる。

3.43 身体と虚空との関係にサンヤマを施すことによって、綿の繊維のように軽くなり、隠して虚空を飛ぶことができる。

3.44 身体の外にあって(身体によっては)確認されない想念派動に対してサンヤマを施すこと(マハー・ヴィデハすなわち大脱身)によって、自己の光を覆う緬紗が破壊される。


0189 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM 2018/08/14(火) 22:40:38.03
それらの力に囚われればサマーディに至る障害になるのじゃ。
世間で金や名声を得て修業をやめてしまうからのう。
欲に負けずに修業を続けるのじゃ。
力にも囚われずに進むのじゃ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板