[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
鬼和尚の経典解説まとめ
105
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/14(土) 11:22:41 ID:IJyX4bTE0
0099鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/14(金) 23:34:59.21 ID:/GDqYd9y
***
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。」
スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」
「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」
「スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」
***
お釈迦様は更に一切の観念に囚われずに、悟りを求める心を起こすのじゃ、というのじゃ。
色にも囚われず、声香味触法の全てに囚われず発菩提心を起こすべきだというのじゃ。
なにものにも囚われずに心を起こすべきだといのじゃ。
なぜならば心に囚われがあるならば、それは囚われではないからというのじゃ。
そうであるから囚われというのじゃ。
一切の観念は夢幻である故に、囚われているという観念もまた無であるからなのじゃ。
それが真実であるから、そのように心を起こすべきなのじゃ。
そうであるから如来は、菩薩はなにものにも囚われずに布施をするべきというのじゃ。
それが真実の布施であり、布施の完成の行であるからなのじゃ。
心が何かに囚われて布施をするのは、闇の中に居るようなものというのじゃ。
なにものにも囚われない布施をするのは、日光で照らされた所でいろいろなものを見るようなものというのじゃ。
それが観念を廃絶した布施の完成なのじゃ。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板