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鬼和尚の経典解説まとめ
108
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/17(火) 12:00:44 ID:ONZaFl7Y0
0577鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 23:15:21.58 ID:Id/CH6q0
***
師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」
師は言いました。
「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。実際には、この上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なされたのだ。
それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。
***
そして更に法として無上正等正覚というものはないというのじゃ。
過去の仏にそのような無上正等正覚を授かったことはないというのじゃ。
そうであるから、過去仏に無上正等正覚を得ると受記されたというのじゃ。
なぜならば無上正等正覚を得た如来とは真如の異名であるからというのじゃ。
悟りを得るとはいうが、無上正等正覚とは何かを得ることではなく、むしろ謬見を無くすことであるといえるのじゃ。
自分があるという謬見、認識したものが実在するという謬見を失い、本来の認識に回帰することなのじゃ。
それは実に何かを得るのではなく、謬見を無くすことであるからろ、法として得るものはないのじゃ。
そして悟りを得た如来とは、既に自己の概念も、観念も無いから語るべきことも無いのじゃ。
語るべきこともないが、衆生のためにあえて真理を語るのであるから真理を語るものの如しなのじゃ。
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