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鬼和尚の経典解説まとめ
1
:
避難民のマジレスさん
:2024/06/10(月) 12:44:03 ID:v59RPKQA0
・鬼和尚の経典などの解説をまとめるスレです
・『金剛般若経』の解説はこちらにあります↓
"金剛般若経を読んで実践する"
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1701949889/99-133
86
:
避難民のマジレスさん
:2024/08/27(火) 12:13:38 ID:ECXQ6TCA0
※再掲
<解説・金剛般若経>
・5ch宗教板の"悟りをひらいた人のスレ"における、鬼和尚による金剛般若経の解説のまとめです。
・解説に対応する金剛経の現代語訳を『***』で挟み、入れています。
引用元/『金剛経』
https://bccks.jp/bcck/178313/info
解説引用元URL/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1639472221/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/psy/1639928718/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1640390211/
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1643032241/
___
0754 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/27(月) 23:45:45.21 ID:Qsh/6my3
金剛般若経は能断金剛般若経というのが正式名なのじゃ。
金剛石、ダイアモンドのように断つことができる智慧の経なのじゃ。
何を断つことができるのかといえば、執着とか疑惑だというのじゃ。
つまりダイアモンドのように執着や疑惑を断つことかできる智慧の法門を説いた経なのじゃ。
それは通常の般若経のように、空という観念を用いて断つのではないのじゃ。
ただ観念論理の逆転を用いて断つのじゃ。
それが般若、つまり智慧の法門なのじゃ。
他の般若経典ではものごとがひたすら空であると観じて執着や疑惑を捨てるものじゃ。
しかし、金剛般若経では空と言う単語は使っていないのじゃ。
それでも般若経であるというのじゃ。
つまり般若とは観念の執着や疑惑を断つ智慧であり、それができるならば空と言う観念もいらないということなのじゃ。
般若経といえば空の思想であるとか、仏教とは空を悟ることであるとか、そのような一般論は無知の証でしかないのじゃ。
空もまた修業のために一時的に使用する観念を破壊する観念に過ぎないのじゃ。
執着や疑惑を捨てれば、空もまた捨て去るべきなのじゃ。
この金剛般若経で説いている逆説による観念の破壊法もまた一時使用して、効果があれば捨て去るべきものなのじゃ。
始めに先ずそれを知っておかなければならないのじゃ。
法にも執着しないのが、真の般若の法であるからなのじゃ。
87
:
避難民のマジレスさん
:2024/08/28(水) 10:59:52 ID:zWrlWn3s0
0808鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/28(火) 23:45:49.49 ID:EeuO4Ri7
金剛般若経は大乗経典に属するものとして分類されているのじゃ。
他の大乗経典と同じく、お釈迦様の説いたものではないのじゃ。
後の修行者が創作したものなのじゃ。
それも修業の役に立つようにと作られたものであるから、仏教の法を説いたものとして受け容れられてきたのじゃ。
金剛般若経はまだ大乗という観念が成立していなかったと見えて、大乗とか小乗とは書いていないのじゃ。
しかし、後の大乗経典に共通である、一切衆生を済度せしめるという布教方針は同じなのじゃ。
この経典の創作後に大乗とか小乗という観念も作られたと観るべきなのじゃ。
それを知っておくとよいのじゃ。
経典に入るのじゃ。
***
(一)
わたしはこのように聞きました。
あるとき師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。
(二)
ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。
「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
師は答えました。
「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」
スブーティは答えました。
「そうしてくださいますように、師よ。」
(三)
師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、実は誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかと言えば、スブーティよ。もし自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、もはや菩薩とは言えないからだ。」
***
経典の最初にはお釈迦様が祇樹給孤独園に1250人の比丘とともにいたというのじゃ。
お釈迦様が托鉢から帰って飯を食べて座っていたら、須菩提長老が問いかけてきたというのじゃ。
その問いは悟りを求める修行者はどのような心がけで生活し、自らの心を制すればよいのかというものじゃった。
お釈迦様はこのように答えたのじゃ。
悟りを得ようとする者は一切衆生を涅槃にみちびくために修行しようと願うのじゃ。
しかし、そのようにして一切衆生を涅槃に導いたとしても、実際には一人の衆生も涅槃には入らなかったと想うべきのじゃ。
なぜならば
生き物、衆生(サットヴァ)があるという観念や、
主体(アートマン)があるという観念や、
個体(ジーナ)があるという観念や
個我(プトガラ)があるという観念が
あれば菩薩とはいえないからであるというのじゃ。
88
:
避難民のマジレスさん
:2024/08/29(木) 11:13:18 ID:Musr07vg0
0874鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 00:13:46.70 ID:SymNpRIQ
ちょっと間違えていたのう。
三番目はジーヴァなのじゃ。
すまんのう。
この四つの観念は当時のインド人や仏教徒の間で考えられていた自己観念のまとめなのじゃ。
人が自分という者を認識する時、大体このような四つの想いによって認識するであろうということなのじゃ。
一つ一つ解説して行くのじゃ。
最初のサットヴァとは衆生といわれるものじゃ。
生きているもの全てなのじゃ。
今で言えば有機質のものといえるのじゃ。
生きている者である自分、生き物の一員である自分という観念があれば、そこに苦しみも生まれるのじゃ。
何故ならば生きている者という観念は必然的に死によって生きていないもの、無機質なものに変るという変化を含んでいるからなのじゃ。
生きている者である自分という観念を持っていれば死の苦しみもまた尽きないのじゃ。
そうであるからそのような観念は捨てていかなければならないのじゃ。
次はアートマンなのじゃ。
アートマンとは認識できない認識主体なのじゃ。
それは否定によってのみあらわされるものとヴェーダにも説いているのじゃ。
よく仏教はアートマンを否定したといわれているが、実際にはお釈迦様の教えこそ正しいアートマンの法を伝えているのじゃ。
アートマンは否定によってのみ表されるものであるから、誰かがアートマンはあるのかと聞けば、それは無いと答えるのが正しいのじゃ。
そのようにして観念の全てを否定して認識できない認識主体に辿りつくのが真のアートマンの法なのじゃ。
実際にそうしなければ間違ったアートマンを認識してしまう恐れが在るのじゃ。
瞑想をしているといろいろな不可思議な幻想が見えたりするが、総て否定しなければそれらの幻想の一つがアートマンと誤認して修業をやめてしまう恐れがあるからなのじゃ。
実際に誰とは言わないが、あるインド人のヨーギは脳の中心に光が見えたらそれがアートマンだと説いたりしていたのじゃ。
当然それは認識できるものであるからアートマンではないのじゃ。
このようにアートマンがあるという観念も真の悟りを求める者は否定しなければならない観念なのじゃ。
89
:
避難民のマジレスさん
:2024/08/30(金) 10:50:50 ID:16nLGw0U0
0944鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2021/12/30(木) 23:34:40.50 ID:SymNpRIQ
次はジーヴァなのじゃ。
これは命根とか翻訳されるのじゃ。
生命の機能であり、アートマンを含むものと考えられてきたのじゃ。
生命の機能あるものが自分と考えれば、これもまた老病死による苦を免れないのじゃ。
そしてプドガラなのじゃ。
これは既に滅び去った仏教の一派が提唱したものであり、詳しい定義は残っていないのであるが、他派の批判によって少しはわかっているのじゃ。
これは過去の因縁を持ち運び、業を作り業を受け取るものであるというのじゃ。
業の主体ともいえるのじゃ。
これが輪廻するものの主体でも在るのじゃ。
過去と同じ自分があるという連続性を仮定するものじゃ。
この観念もまた死による過去からの断絶がある故に、死苦を免れないのじゃ。
わしはこのプドガラの定義によって自分という観念に気付いたのじゃ。
わしは自分とは過去の記憶を持ち、過去の因縁を受ける者という観念をもっていたのじゃ。
それに気づいたことで自分という観念が厭離され、無くなったのじゃ。
更に無我を見るものがあったが、それも空であると観じて大悟徹底の境地に入ったのじゃ。
とはいえ誰もがそのようにして大悟できるわけではないのじゃ。
わしはたまたま自分とは過去の記憶、因縁をもつものという観念をもっていたから自分に気付いたのじゃ。
自分が他の観念であるという認識を持つ者には、気づきはないじゃろう。
例えば自分とは思考の主体であるとか、感情の主体であると認識する者達には効果は無いのじゃ。
それぞれの者達が自らの自己認識を追及していかなくては悟りは訪れないのじゃ。
90
:
避難民のマジレスさん
:2024/08/31(土) 11:30:30 ID:waAx.MVE0
26 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:11:07.05 ID:eXza/b3P.net
>>1
ご苦労さんなのじゃ。
みんな
>>2
からよんで実践あるのみなのじゃ。
前スレ ジーヴァは命根でもよいのじゃ。
もともとインドの方言を無理に古代中国語に翻訳したものであるからのう。
単語の意味などは流派によって違い、グルによっても違ったりするのじゃ。
実践の役に立てば善いのじゃ。
27 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 00:23:35.68 ID:eXza/b3P.net
以上の四つの自己認識の観念を菩薩はもつべきではないというのじゃ。
とはいえ持つなと言われて直ぐにもたないようにしようと、自分の意志でできるものではないじゃろう。
要はそれに囚われず、よく観るべきであると言うのじゃな。
どれかに強い囚われを持っていては、我見に執着したまま悟りを遠ざけてしまうからのう。
囚われがあればそれがなくなろうとする度に、恐れが起こり逃避してしまうからなのじゃ。
そもそも菩薩とはボダイサッタの略なのじゃ。
ボダイとは悟りであり、サッタとは前述の通り、衆生であり人なのじゃ。
悟りを求める者達なのじゃ。
しかし自分がサッタであるという囚われをもってはいかんのじゃ。
自分がサッタではないと思う者かボダイサッタであるというのじゃ。
後に説かれる観念を破壊する観念がもはや始まっているのじゃ。
91
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/01(日) 10:30:28 ID:XSZEP/yE0
42 :鬼和尚 :2022/01/01(土) 21:45:24.54 ID:eXza/b3P.net[4/4]
***
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、何かに執着しながら、施しをすべきでない。形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、心の対象についても、執着しながら施しをすべきでない。
スブーティよ、果報を求めるという思いに囚われないように、菩薩は施しをしなければならない。
それは何故かと言うと、スブーティよ。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これと同じように、南や、東や、北や、下や、上の方角の、あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これらと同じことである。もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、果報を求めるという思いに執着せずに、施しをしなければならない。」
***
以上の四つの自己認識に囚われないことを説いた後に、お釈迦様は布施について説いたというのじゃ。
菩薩はなにものにも囚われない布施をすべきだというのじゃ。
色声香味触法の全てに囚われずに布施をすべきだというのじゃ。
そうすれば功徳が計り知られないほどになるからというのじゃ。
前に説いた四つの自己認識とは関係ないように見えるが、実は同じ修業であるといえるのじゃ。
前には自己に囚われずに衆生を導き、ここではなにものにも囚われずに布施をするようにというのじゃ。
それら二つの行は成果に囚われず行うカルマヨーガの行なのじゃ。
衆生を導いても一人も涅槃に導いたことにならず、布施をしても何も布施をしたということにならないのであれば、何の得るところも無い行になるからなのじゃ。
行いの成果を求めず行うカルマヨーガの行をしろというのじゃ。
行いの成果に囚われるならば、それは未来を夢見ていることになるのじゃ。
それも過去の記憶からこのように成果があがるであろうという憶測によるのじゃ。
そのような行は過去の記憶と、未来への期待に囚われていることになるのじゃ。
その結果、今ここには心がないことになるのじゃ。
なにものにも囚われずに行を進めるならば、それが自然に今ここに心を取り戻すことになるのじゃ。
それこそが最も大きな功徳なのじゃ。
92
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/02(月) 11:14:03 ID:gf1zVb5U0
45 :鬼和尚 :2022/01/02(日) 23:53:00.95 ID:ynJqNRp5.net
***
(五)
「スブーティよ、どう思うか。如来を身体の特徴をもって見るべきだろうか。」
「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」
***
次にはお釈迦様は相をもってわしをみてはいかんというのじゃ。
相とは相好とかいうように、身体的特徴とかなのじゃ。
大乗仏教では仏には三十二の相があるというのじゃ。
耳がでかいとかパンチパーマをかけているとかなのじゃ。
それらの相は相ではないというのじゃ。
それが相ではないと観る時、如来を見たことになるというのじゃ。
それは如来の教える法の通りに見たからなのじゃ。
そうでなければ如来の話を聞かず、法を実践していなかったことになるのじゃ。
教える法こそが如来の真の相であり、眼に見える相は虚妄でしかいなのじゃ。
実際に転輪聖王も同じ相を持つと後のほうには書いてあるのじゃ。
相だけでは区別がつかないのじゃ。
法を教え実践させるものが如来であるという教えなのじゃ。
93
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/03(火) 12:14:19 ID:C13ohefw0
48 :鬼和尚 :2022/01/04(火) 00:27:23.71 ID:rxlp6XSH.net
***
(六)
スブーティは尋ねました。
「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」
師はスブーティに答えました。
「スブーティよ、そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。
これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
それはなぜかというと、その者たちは、自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(さとりを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。それはなぜかというと、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、(自我という観念としての、)認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、輪廻の主体に固執することになるからだ。したがって、方法も方法でないものも受け取るべきではない。
それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」
***
お釈迦様の説法を聞いて須菩提長老はその難しい話に、
「このような説法を聞いて信じる者が後の時代にいるのか」
と、聞いたのじゃ。
お釈迦様はそのような者も居るじゃろうと、答えたのじゃ。
何世も善根を植えたものは信じるというのじゃ。
なぜならばそのような者は先の四つの自己認識の観念を持たず、更に法というものも、法でないものという観念さえないからというのじゃ。
既にあらゆる観念を滅した者がこの経を信じるというのじゃ。
筏の喩えを知る者は法をも捨てるのであるから、非法も殊更に捨てるべきというのじゃ。
筏の喩えとは、お釈迦様の説いた法とは彼岸にいくための筏のようなものというのじゃ。
彼岸に着いたら筏を捨てるように法をも捨てるべきだというのじゃ。
実際に最後には法も捨てて無為に座るのが、大悟徹底の道なのじゃ。
法も非法も捨てる最後の道を説いているといえるのじゃ。
94
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/04(水) 10:26:16 ID:F7x77gQk0
50 :鬼和尚 :2022/01/05(水) 00:29:12.56 ID:5Y5rSp9e.net[1/3]
***
(七)
師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法が、あるだろうか。如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、如来がこの上ない正しいさとりを得たような方法は、何もありません。如来によって説かれた方法も、ありません。それはなぜかというと、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、涅槃に導く方法によって差異を持っているからです。」
***
お釈迦様は更に須菩提長老に問うのじゃ。
わしが無上正等覚というものを得たじゃろうか。
そしてわしは法を説いたじゃろうかと。
須菩提長老はそんなものは無いのじゃ。
と、答えたのじゃ。
無上正等覚というものがあるわけではないからというのじゃ。
説いた法もないというのじゃ。
何故ならばそれらは無上正等覚というものではないからなのじゃ。
如来の説いた法も取る事はできず、説く事も出来ないからなのじゃ。
それは法ではなく、非法でもないからというのじゃ。
如来は無為の法によって、他の者達と区別されるからなのじゃ。
無上正等覚というのも真の名前ではなく、衆生にわかりやすいように付けた名前なのじゃ。
実際に言葉を離れた境地を言葉であらわすことはできないのじゃ。
そうであるから無上正等覚もないのじゃ。
如来の説いた法も言葉では無である境地に至るものであるから、あるとはいえないのじゃ。
それは自ら観念をそぎ落としていく観念なのじゃ。
その法自体もいずれはそぎ落とされていく観念であるから、あると言ってはいかんのじゃ。
それを聞き取ることは出来ず、説く事も出来ないものとして扱わなければならないのじゃ。
それはあることもなく、ないことさえもないのじゃ。
それを説き明かせるのが、如来なのじゃ。
無為に至る法門をとくことができるのは、如来だけなのじゃという意味なのじゃ。
95
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/05(木) 10:59:00 ID:CfQFIDsg0
95 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 00:07:48.28 ID:K4frxSMY.net[1/5]
この先から否定した観念を、観念そのものとする逆説的な法門が始まるのじゃ。
***
(八)
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もし誰かが果てしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人が得る福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」
師は言われました。
「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その人の福徳は前者よりも勝るだろう。それはなぜかというと、スブーティよ、すべて諸々の仏の得る、この上なく正しいさとりの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法では無いからだ。それゆえに覚者の法と呼ばれるのだ。」
***
お釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
この三千大千世界を満たすほどの宝を布施したら福徳は大きいかと。
すると長老は、
とても大きいのじゃ。
なぜならばその福徳は福徳ではないからじゃ。
福徳ではないから福徳というのじゃ、
と、答えたのじゃ。
更にお釈迦様は、
その福徳よりもこの経の四つの句をよむ方が福徳は大きいのじゃ、
なぜならば全ての仏の法はこの経から出たからなのじゃ。
その仏法も仏法ではないのじゃ、
そうであるから仏法とよぶのじゃ、
と、言ったのじゃ。
このようにして行いの報いも、仏法も否定して、そこからそれこそが福徳であり仏法であるというのじゃ。
それこそが金剛経の肝心の法門なのじゃ。
96
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/06(金) 11:22:59 ID:Dkc7vpGs0
151 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 21:32:55.02 ID:K4frxSMY.net[3/5]
>>98
>>107
僧侶とは何じゃ?
臨済宗天龍寺派の者は、このような簡単な問いにも答えられないということでよいのかのう。
わっはっはっはっはっはっは。
>>103
理解できなくて善いのじゃ。
矛盾していてよいのじゃ。
それでも繰り返すだけで、この観念を破壊する観念が心の中でちゃんと働くことがわかるじゃろう。
人の観念は理解や矛盾しないことで受け容れられるのではないのじゃ。
ただ単に繰り返すことで受け容れられるのであるからのう。
自ら囚われている観念がそのものでなく、そのものいから、そのものとよばれると繰り返し念じるとよいのじゃ。
その囚われが消えて行くのがわかるじゃろう。
実践で確かめるのじゃ。
97
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/06(金) 11:23:49 ID:Dkc7vpGs0
154 :鬼和尚 :2022/01/06(木) 23:46:31.52 ID:K4frxSMY.net[5/5]
***
(九)
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と呼ばれるのです。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう一度だけ生まれかわってさとる者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわってさとる者を意味しますが、実際には、生まれかわってさとる者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。最高のさとりを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
師よ、如来はわたしのことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかしわたしは「わたしは離欲の阿羅漢だ」とは考えません。
師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、如来は『スブーティは阿蘭那(孤独)の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。」
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて何かを得ただろうか。」
「いいえ。師よ、如来がディーパンカラ如来のもとで、教えにおいて得たものは何もありません。」
「スブーティよ、どう思うか。菩薩が浄土(清浄な心)を完成することはできるだろうか。」
「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」
***
更に続いて聖者の階梯である須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢さえもまたそれらではないというのじゃ。
そうであるから須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢とよばれるというのじゃ。
なぜならばそれらの者には先の自己認識の観念が無いからなのじゃ。
そして須菩提長老が自らの阿羅漢果も否定し、お釈迦様が自らの修業の成果も否定するのじゃ。
更に菩薩は仏国土を飾るのも否定し、あらゆるものごとを否定してから、それらの名前があると告げるのじゃ。
このようにして矛盾した言葉によって、観念は破壊されるのじゃ。
ダイヤモンドの刃物で切断したように、この観念を繰り返し念じれば、どのような観念でも厭離できるのじゃ。
そうであるから金剛般若経とよぶというのじゃ。
なぜならば観念とは正しいからとか、矛盾がないから受け容れられるものではないからなのじゃ。
習慣によって観念は植え付けられ、同じく習慣によって破壊されるからなのじゃ。
矛盾した観念でも繰り返し念じれば、観念を破壊することが出来るのじゃ。
各自が実践によって確かめるしかないのじゃ。
98
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/07(土) 10:39:42 ID:Yv4tGo9A0
352 :鬼和尚 :2022/01/07(金) 23:59:50.03 ID:rpgyt4lA.net[2/2]
***
師は言われました。
「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。
***
続いてお釈迦様は清浄の心を生じるようにするのじゃ、
というのじゃ。
清浄の心とはなにものにも囚われない心であると言うのじゃ。
色声香味触法の全てに囚われずに心を起こすのじゃ、
というのじゃ。
当然ながらこの教えは、色声香味触法だけでなく、その器官である眼耳鼻舌身意も含んでいるのじゃ。
そして五蘊にも囚われないことは当然なのじゃ。
それら全てが省略して説いていることを理解しなければならんのじゃ。
自分の心身の全てに囚われず、心を起こすと言う事は、ヨーガでは無種子三昧に当たるのじゃ。
心に何の対象もなく、ただ集中している状態なのじゃ。
ありのままの無為であり、座る自分の観念さえも失くして座り続けるのじゃ。
それが出来れば悟りはもはや目の前にあると言えるのじゃ。
無種子三昧は初めは対象のあるサマーディから始めて長い年月がかかるのじゃ。
しかし、この金剛般若経の教えに従って全ての観念を断って座れば、速やかに達成することも可能なのじゃ。
この教えが向いている者には実に有り難い法なのじゃ。
実践して確かめるのじゃ。
99
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/08(日) 11:06:04 ID:J/OijoG.0
568 :鬼和尚 :2022/01/08(土) 23:39:55.85 ID:J7QLfMfx.net[2/2]
***
スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」
スブーティは答えました。
「非常に大きいです、師よ。それはなぜかというと、如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」
***
その後、更にチョモランマのようにでかい体の人が居たら、それはでかいか、
と、お釈迦様はきいたのじゃ。
須菩提長老は、それはでかい
なぜならばそれは体ではないからなのじゃ。
体が無いからでかい体と言うのじゃ、
と、答えたのじゃ。
このようにあらゆる観念についてそれを否定して、後にそれを肯定するのじゃ。
それを繰り返すことで身につき、観念の切断ができるようになるのじゃ。
***
(十一)
師はスブーティに問われました。
「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとしよう。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」
師は言われました。
「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに言われました。
「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも、心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」
(十三)
その時、スブーティは師に尋ねました。
「師よ、この経は何と名付けられるのですか?また、私たちはどのよう記憶すべきでしょうか?」
師はスブーティに告げました。
「この経は智慧の完成と名付けられる。その名前で記憶すべきである。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成では無いからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」
***
それからお釈迦様はガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、それと同じ三千世界を満たした宝を布施するよりも、
、この経典の四句でも他人に説いたほうが功徳が大きいことを教えたのじゃ。
そしてこの経文を金剛般若経とすることを告げたのじゃ。
100
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/09(月) 10:44:08 ID:tTXmKBuI0
851 :鬼和尚 :2022/01/10(月) 00:07:58.64 ID:SlhBSZiK.net
何故、金剛般若波羅蜜経と名づけるのか、
お釈迦様は般若波羅蜜、即ち智恵の完成とは、智恵の完成ではないからというのじゃ。
そうであるから智恵の完成とよぶのじゃ、というのじゃ。
この般若波羅蜜経でさえ、実は般若波羅蜜ではないというのじゃ。
それでこそ完全な般若波羅蜜、智恵の完成となるのじゃ。
なぜならば法もまた捨て去るべき観念であるからなのじゃ。
修業が完成したならば法は捨て去ることというのは、前に既に説かれたのじゃ。
そのためにはこの経さえも又そのものではないという教えが必要なのじゃ。
それでこそ完全に完成した、智恵の完成の教えといえるのじゃ。
現代の技術で例えれば、パソコンなどの終了コマンドのようなものじゃ。
全てのアプリやシステムの働きを終わらせた後、自分自身をも終わらせるのがその役割なのじゃ。
そのために他の他のコマンドと同じように自らを終了させる命令をも含んでいなければならないのじゃ。
それが金剛般若波羅蜜経さえも実は般若波羅蜜ではなく、それでこそ般若波羅蜜であるといえるのじゃ。
101
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/10(火) 10:53:32 ID:cnSG28OY0
0059鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/11(火) 00:13:03.21 ID:1oEqxfGV
***
(十三)
「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、如来が説いたものは何もありません。」
「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、非常に多いです。」
「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」
***
それからお釈迦様は自分が何か説いた法があるかと、須菩提長老にきくのじゃ。
須菩提長老は何も無いと答えるのじゃ。
更にお釈迦様は三千大千世界の塵は多いかと聞いたのじゃ。
須菩提長老は多いと答えたのじゃ。
何故ならば如来は世界は世界ではなく、地理は塵ではないと説いたからというのじゃ。
そうであるから世界の塵は多いというのじゃ。
先には如来は何も説いていないといいながら、世界は世界ではないと説いたというのじゃ。
それが世界の説き方であるからなのじゃ。
世界は世界ではないとお釈迦様は説いたのじゃ。
そうであるから世界とよばれると、説いたのじゃ。
それは説いたことではないというのじゃ。
説いてはいないから、説いたことになるというのじゃ。
このように幾重にも重なって、観念を破壊する般若の法は説かれるのじゃ。
それは論理や知識で理解することではないのじゃ。
理解しなくて善いのじゃ。
むしろ理解してはいかんのじゃ。
理解とは観念を記憶による既存の知識と照らし合わせて、それもまた知識として記憶の中にしまいこむことであるからなのじゃ。
それでは観念は定着するばかりで、破壊されないのじゃ。
矛盾のある理解できない観念であれば、決して知識としてしまいこまれることはなく、他の観念を破壊して自らも破壊されるのじゃ。
それがこのような構造をとる意味なのじゃ。
どこまでも矛盾した理解し難い法門を、繰り返し念じることで身につき、観念は破壊されるのじゃ。
実践で確かめるのじゃ。
102
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/11(水) 10:33:25 ID:31Y9QnpI0
0075鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 00:05:20.69 ID:6AXOW6C6
***
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」
「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。それはなぜかというと、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」
「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂と等しいほど体を捧げたとしても、この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留め、読み、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々のために説く人がいるとすれば、その福徳のほうが遥かにに大きいのだ。」
(十四)
そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
涙を拭い終わって、師に言いました。
「師よ、すばらしいことです。如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。
師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと言うのです。
***
そしてお釈迦様は須菩提長老に、
三十二相をもって如来を見るべきかと問うたのじゃ。
長老はそうではないというのじゃ。
三十二相は相ではないのであるから、三十二相と言われる。
と、答えたのじゃ。
この後、お釈迦様はこの経を広めたら功徳が一杯あるとか宣伝するのじゃ。
それは大乗経典によくある宣伝であるからみんな飛ばしよみで善いのじゃ。
解説ではみんな飛ばしてよんでいくのじゃ。
長老は感激してなきながら、こんな素晴らしい経を説かれたのを聞いたことがないと、賞賛するのじゃ。
後の世にこの経を聞いて清い心で信じることができる者は、これが真実と思うというのじゃ。
なぜならば真実であるという観念は、真実ではないから、というのじゃ。
そうであるから真実であると説かれたというのじゃ。
真実という観念は真実そのものではないのじゃ。
それに気付けば真実なのじゃ。
真実は観念の届かないところにあるものじゃ。
そのように観念を離れた境地に入れば真実がありのままにわかるのじゃ。
103
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/12(木) 10:43:29 ID:qu33Whyg0
0081鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/12(水) 23:56:04.87 ID:6AXOW6C6
***
師よ、わたしが今、このような教えを聞いて、信じて受け入れる ことは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その者はこの上なく希有でありましょう。なぜならば、その者には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」
***
更に須菩提長老は続けて、
自分がこの経を受け容れて理解するのは難事ではないというのじゃ。
後の五百年になってこの経を受け容れて記憶して理解する者こそわしよりえらい、とかいうのじゃ。
何故ならばそのような人は前述の自己認識の四つの観念がないからなのじゃ。
それらの観念すらもないというのじゃ。
一切の観念を離れたものが仏陀であるからなのじゃ。
つまりこの経を受け容れて、理解できるようなものはもはや悟っているというのじゃ。
悟っていなければ理解できないというのじゃ。
一切の観念がない仏陀であればこの経を受け容れて理解できるというのじゃ。
そうであるから自分よりも偉いと須菩提長老はいうのじゃ。
本来、経とはまだ悟っていない修行者のためものじゃ。
悟っていない者たちが経典を学び、実践して悟りを目指すのじゃ。
悟ってしまえばもはや経典はいらないのじゃ。
しかし、この経は悟っていなくては理解できないというのじゃ。
それでは修行者はどうすればよいのか。
理解できなくとも悟っていない者達はただひたすら信仰によって、実践するしかないのじゃ。
実践することで観念の切断を学び、身につけ、全ての謬見と煩悩を断じて進むのじゃ。
104
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/13(金) 10:35:58 ID:p2ICcw1E0
0094鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/13(木) 23:53:17.99 ID:zH9ccZo+
***
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜか というと、スブーティよ、かつてわたしがある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切無かったからだ。
それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。」
「スブーティよ、また過去を振り返ってみると、わたしは五百の生涯のあいだ、忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、わたしには自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。」
***
お釈迦様は須菩提長老に六波羅蜜の最初の忍辱波羅蜜は、忍辱波羅蜜ではないと、説いたのじゃ。
なぜならば前世に忍辱仙人だったときに、悪王に体をばらばらにきられたが、何も思わなかったというのじゃ。
それは自己認識の四つの観念がなかったからだというのじゃ。
もしそれがあれば怒っていたが、無いから怒りも何も無かったというのじゃ。
それが忍辱波羅蜜、即ち忍耐の完成の行だったというのじゃ。
それ故に六波羅蜜の中の忍辱波羅蜜とは、忍辱波羅蜜ではないというのじゃ。
そうであるから忍辱波羅蜜であるというのじゃ。
自己認識の四つの観念がないとき、忍辱、忍耐は最高の完成をみるのじゃ。
しかし、それはもはや自分という観念が無いから、もはや自分の忍耐の完成ではないのじゃ。
そこには忍耐する何者もいないからなのじゃ。
忍耐する者が居らず、忍耐がない時、忍耐の行は完成するのじゃ。
それが金剛般若経による忍耐の完成なのじゃ。
大乗経典の般若経典ではこのように、般若波羅蜜によって他の波羅蜜は真の完成を遂げるというのじゃ。
105
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/14(土) 11:22:41 ID:IJyX4bTE0
0099鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/14(金) 23:34:59.21 ID:/GDqYd9y
***
「それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、『菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない』と説かれたのだ。」
スブーティよ、菩薩はすべての生きとし生けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を語る者、正しい言葉を語る者、いつわりなく語る者、正しく語る者であるからだ。」
「スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。」
「スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。」
***
お釈迦様は更に一切の観念に囚われずに、悟りを求める心を起こすのじゃ、というのじゃ。
色にも囚われず、声香味触法の全てに囚われず発菩提心を起こすべきだというのじゃ。
なにものにも囚われずに心を起こすべきだといのじゃ。
なぜならば心に囚われがあるならば、それは囚われではないからというのじゃ。
そうであるから囚われというのじゃ。
一切の観念は夢幻である故に、囚われているという観念もまた無であるからなのじゃ。
それが真実であるから、そのように心を起こすべきなのじゃ。
そうであるから如来は、菩薩はなにものにも囚われずに布施をするべきというのじゃ。
それが真実の布施であり、布施の完成の行であるからなのじゃ。
心が何かに囚われて布施をするのは、闇の中に居るようなものというのじゃ。
なにものにも囚われない布施をするのは、日光で照らされた所でいろいろなものを見るようなものというのじゃ。
それが観念を廃絶した布施の完成なのじゃ。
106
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/15(日) 11:19:22 ID:CROLWSBs0
0155鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/16(日) 00:29:21.43 ID:0O1J1evH
***
「スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」
(…中略…)
スブーティよ、もし正しい教えが滅びる時代に、善き男や善き女がこの経を記憶し、読誦するとして、彼らが得る功徳を私が全て語ったとしたら、それを聞いた人の中には、心が乱れ、疑いを持ち、信じない者もいるだろう。スブーティよ、この経の意義は計り知れず、その果報も同様に計り知れないことを知るべきである。」
***
それからお釈迦様は長い宣伝に入るのじや。
この経を受持して他人にも説けば大きな功徳があるというのじゃ。
そのためにこの経は広く流布しているのじゃ。
なかなか侮れないのじゃ。
法華経も同じように受持して他人にも説けば大きな功徳があるというから、広まったのじゃ。
現世利益なのじゃ。
誰でもやはり来世よりも現世で利益が欲しいから広まるのじゃ。
それから今までのまとめに入るのじゃ。
107
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/16(月) 13:08:27 ID:M4arHG/60
0557鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 00:06:00.63 ID:Id/CH6q0
***
(十七)
その時スブーティは尋ねました。
「師よ、善き男や善き女を問わず、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
「善き男や善き女が菩薩の道に向かうには、このような決意を持たなければならない。すなわち、『私は全ての生きとし生けるものを救済し、ニルヴァーナに導くべきである。しかし、こうして永遠の平安に導こうとも、実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかと言うと、スブーティよ。もし菩薩が自我として、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を生ずるなら、それは菩薩とは言えないからだ。
それはなぜかと言うと、スブーティよ。実際には、菩薩の道に進む人というようなものは何も存在しないからだ。」
***
須菩提長老は改めてお釈迦様にきいたのじゃ。
善男子善女子が悟りを求めようとするときどのようにすればよいのかと
これは最初の問いと同じなのじゃ。
ここからは今までの問答をまとめる要旨なのじゃ。
お釈迦様は改めて、答えるのじゃ。
無上正等正覚を求める者は、一切衆生を掬って悟りを得させようと意志を起こすのじゃ。
しかしそのようにしても一人の衆生も悟りをえるものではない」
と、念じるのじゃ。
なぜならばその時、自分という四つの観念があれば、菩薩ではないからというのじゃ。
四つの観念がない時には菩薩であるからというのじゃ。
108
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/17(火) 12:00:44 ID:ONZaFl7Y0
0577鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/18(火) 23:15:21.58 ID:Id/CH6q0
***
師は尋ねました。
「スブーティよ、どう思うか。如来は、ディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのだろうか?」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。わたしが師の教えを理解する限り、如来はディーパンカラ如来の教えた方法で、この上ない正しい覚りを得たのではありません。」
師は言いました。
「その通り。スブーティよ、その通りだ。実際には如来がこの上ない正しい覚りを得た方法は存在しない。スブーティよ、もしこの上ない正しい覚りを得る方法が存在したならば、ディーパンカラ如来はわたしに対して『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なさらなかっただろう。実際には、この上ない正しい覚りを得る方法はないので、ディーパンカラ如来は私に『将来、あなたは如来となり、釈迦牟尼という名で知られるであろう』と予言なされたのだ。
それはなぜかというと、如来とは、諸法の真の意味を説くが如きものだからだ。
***
そして更に法として無上正等正覚というものはないというのじゃ。
過去の仏にそのような無上正等正覚を授かったことはないというのじゃ。
そうであるから、過去仏に無上正等正覚を得ると受記されたというのじゃ。
なぜならば無上正等正覚を得た如来とは真如の異名であるからというのじゃ。
悟りを得るとはいうが、無上正等正覚とは何かを得ることではなく、むしろ謬見を無くすことであるといえるのじゃ。
自分があるという謬見、認識したものが実在するという謬見を失い、本来の認識に回帰することなのじゃ。
それは実に何かを得るのではなく、謬見を無くすことであるからろ、法として得るものはないのじゃ。
そして悟りを得た如来とは、既に自己の概念も、観念も無いから語るべきことも無いのじゃ。
語るべきこともないが、衆生のためにあえて真理を語るのであるから真理を語るものの如しなのじゃ。
109
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/18(水) 11:16:44 ID:p54R1Ff20
0637鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/19(水) 23:23:53.63 ID:AEMpn1Ia
***
もしも誰かが、『如来がこの上ない正しいさとりを得られた』と言うならば、それは誤りである。それはなぜかというと、スブーティよ、 実際にはこの上ない正しいさとりによって得られることがらは存在しないからだ。スブーティよ、如来が得たこの上ない正しい覚りは、その中に真実も虚妄も無い。それゆえに、如来は『すべての法は目覚めた者の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、すべての法と言われるものは、実際にはすべての法では無い。それゆえにすべての法と言われるのだ。」
***
そして更にお釈迦様は、誰かが如来は無上正等正覚を得たというならば、誤りであるというのじゃ。
法として無上正等正覚を得るということはないからというのじゃ。
無上正等正覚には真実はなく、偽りも無いからというのじゃ。
真実も、偽りもまた観念であるからなのじゃ。
一切の観念を離れれば、真実もなく、偽りも無いのじゃ。
もともとそれはないものじゃ。
ただ人が世間で日常の観念として使うだけのものなのじゃ。
世間から離脱すれば、それもなくなるのじゃ。
それが出世間の法なのじゃ。
それ故に一切の法は、仏法であると言うのじゃ。
全ての法則であれ、方法であっても全ては真実とか、偽りを離れているのじゃ。
ただありのままにあるだけなのじゃ。
それに気付いたならば、それが目覚めるための法になるのじゃ。
全てが目覚めた者の証になるのじゃ。
それが一切の法が仏法であるということなのじゃ。
110
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/19(木) 10:25:26 ID:ism7Hp1c0
0896鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/20(木) 23:35:29.86 ID:36+od2gP
***
「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」
スブーティは言いました。
「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」
「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」
師は言われました。
「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると言うのである。」
***
更にお釈迦様は一切の法とは一切の法ではないというのじゃ。
それ故に一切の法とよぶというのじゃ。
それは例えば体のでかい人のようなものじゃというのじゃ。
すると須菩提長老がそれをうけて、
如来の説いたところのでかいからだの人は、でかいからだの人ではないというのじゃ。
そうであるからでかいからだの人とよぶというのじゃ。
お釈迦様は続けて菩薩もまた同じであると言うのじゃ。
一切の衆生を滅度せしめるというのは菩薩ではないというのじゃ。
なぜならば法として菩薩という者はないからというのじゃ。
自我の四つの観念が無い者が菩薩であるからなのじゃ。
自分が無いのに他人を滅度せしめることができるはずもないのじゃ。
111
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/20(金) 10:56:05 ID:9LBlwX7.0
0476鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/22(土) 23:30:26.83 ID:i36ZTocU
***
(十八)
「スブーティよ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には肉眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には天眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には智慧の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には智慧の眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には法の眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には法の眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」
「師よ、その通りです。如来には仏眼があります。」
「スブーティよ、どう思うか。ガンジス河にある全ての砂、その砂のことを如来は説いたであろうか。」
「師よ、その通りです。如来はその砂のことを説かれました。」
「スブーティよ、どう思うか。 一つのガンジス河にある全ての砂粒があるとし、そのような砂粒の数だけのガンジス河があり、その全てのガンジス河にある砂粒の数ほどの世界があるとすれば、それは多いと思うか?」
「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに告げました。
「これらの世界にいる全ての生きものの数々の心を、如来はすべて知っている。それはなぜかというと、如来はすべての心を心ではないと言っており、それゆえに心と説いているからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心は得ることができず、現在の心も得ることができず、未来の心も得ることができないからだ。」
***
そしてお釈迦様は須菩提長老に、如来は肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼があるかと問うのじゃ。
須菩提長老はあると答えるのじゃ。
肉眼はそのまま肉体の眼じゃな。
天眼は千里眼の通力の眼なのじゃ。
慧眼は智慧の眼なのじゃ。
法眼は法を見る眼なのじゃ。
仏眼は仏陀としての眼なのじゃ。
それらの眼によって衆生の心を悉く知るというのじゃ。
ガンジス川の砂と同じ数のガンジス川があり、その河の砂の数と同じ三千大千世界があるとして、それらの世界に住む衆生の心を全てしるというのじゃ。
どのようにして知るのかといえば、それは心ではないものとして知るというのじゃ。
現在の心も、過去の心も、未来の心も得られるものではないからというのじゃ。
心というものも又観念であるから、それはあるものではないのじゃ。
心は心では無いものとして知れば、全ての衆生の心を知ったことになるのじゃ。
112
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/21(土) 11:07:45 ID:KYeYlvEc0
0638鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/24(月) 00:18:54.70 ID:NY6g/8Y8
***
(十九)
「スブーティよ、どう思うか?もし誰かがはてしなく 広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人がその因縁によって得る福徳は多いだろうか?」
「その通りです、師よ。その人はその因縁によって非常に多くの福徳を得ます。」
「スブーティよ、もし福徳が実際に存在するならば、如来は多くの福徳を得るとは説かない。福徳が実際には存在しないから、如来は多くの福徳を得ると説くのだ。」
(二十)
「スブーティよ、どう思うか。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は端麗な身体を完成しているものとして見るべきではありません。なぜかというと『端麗な身体を完成していると言われるものは、実際には端麗な身体を完成しているのではない。それゆえに端麗な身体を完成していると言われる』と如来が説かれているからです。
「スブーティよ、どう思うか。 如来は特徴をそなえたものと見るべきだろうか?」
「いいえ、師よ。如来は特徴をそなえたものと見るべきではありません。なぜかというと『特徴をそなえていると言われるものは、実際には特徴をそなえてはいない。それゆえに特徴をそなえていると言われる』と如来が説かれているからです。」
(二十一)
「スブーティよ、如来が『わたしは法を説いた』と考えるだろうか。」
「師よ、そのように考えることはありません。」
「スブーティよ、もし人が『如来は法を説いた』と語るならば、それは誤りを語ることになる。それは、真実でないことに執着して、わたしを謗ることになる。それはなぜかというと、スブーティよ、法を説く者には、説くべき法が無いからだ。それゆえに、法を説くと言われるのだ。」
このように言われた時に、スブーティは師に問いました。
「師よ、未来の世において、この法を聞き、信心を生じる者がいるでしょうか?」
師は言いました。
「スブーティよ、その者らは生きているものでもなければ、生きているものでないものでもない。なぜならば、スブーティよ、『生きているもの』『生きているもの』と言われるものは、如来によって『生きているものではない』と言われているからだ。それゆえに、『生きているもの』と言われるのだ。」
***
更に又お釈迦様は福徳とか、色身とか、特徴とか、法を説く事とかについて否定してからそのように名づけると説いたのじゃ。
それぞれがあるものではなく、そうであるからそのように名づけられたというのじゃ。
そのようにして固定観念を滅して行くのじゃ。
それに対して須菩提長老が、それを聞いて信じる衆生が後の世にいるとかきくのじゃ。
するとお釈迦様はその衆生さえも衆生ではないと説いたのじゃ。
そうであるから衆生とよばれるのであるというのじゃ。
そのようにあらゆるものについて否定されるべき観念があると示したのじゃ。
そのようにして否定された観念が、正しい観念の滅といえるのじゃ。
113
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/22(日) 11:32:42 ID:5/M687i60
195鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/25(火) 23:44:51.04ID:1qbD/h3V
***
(二十二)
スブーティは、師に尋ねました。
「師よ、如来がこの上ない正しいさとりを得た時、何も得なかったのでしょうか。」
「スブーティよ、その通り、その通りだ。私がこの上ない正しいさとりを得たとしても、実際には何も得たものは無い。それゆえに、この上ない正しいさとりと言われるのだ。」
「さらにまた、スブーティよ、この法は平等であり、そこに高低などの差別も無い。それだからこそ、この上ない正しいさとりと言われるのだ。自我が無く、認識主体が無く、個体が無く、生きているものが無く、輪廻の主体が無く、一切の善法を修行すれば、この上ない正しいさとりを得ることができる。スブーティよ、善法と呼ばれるものは、如来によって実際には善法ではないと説かれている。それゆえに善法と言われるのだ。」
***
>>197
お釈迦様は須菩提長老に、
わしが無上正等正覚を得たということがあるじゃろうか
と、聞いたのじゃ。
須菩提長老は、
無上正等正覚を得たのは、何も得ていない
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は
そうじゃ、わしは無上正等正覚においてほんの少しの法も得ていないのじゃ、
それをこそ無上正等正覚というのじゃ。
と、答えたのじゃ。
続いて
この法は平等でなんの差別も無いのじゃ。
そうであるから無上正等正覚というのじゃ。
というのじゃ。
自己の四つの観念がなく、全ての善法を修めれば、無上正等正覚を得るというのじゃ。
その善法も善法ではないから、善法というのじゃ。
と、説いたのじゃ。
全ての観念がなくなれば、そこに何の差別もなく、一切が平等なのじゃ。
何かの観念を足して平等なのではなく、観念が無いことで平等なのじゃ。
そうであるから何も得ないことが無上正等正覚そのものなのじゃ。
更に善法とはこの金剛般若経による観念の破壊に他ならないのじゃ。
一切の観念を破壊するこの善法は、自らも破壊される観念であるから、善法ではないのじゃ。
それがこの善法とよばれるものなのじゃ。
114
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/23(月) 10:42:09 ID:hup9jwns0
274鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/26(水) 23:30:14.42ID:FZ5ktjQi
***
(二十五)
「スブーティよ、どう思うか。『わたしは生きものを救った』というような思いが如来におこるだろうか。スブーティよ、しかし、このように見なしてはならない。それはなぜかというと、実際には如来が救った生きものは何もないからだ。もし生きものがいて、如来がそれを救ったならば、如来には自我という観念に対する執着が、認識主体という観念に対する執着が、個体という観念に対する執着が、生きているものという観念に対する執着が、輪廻の主体という観念に対する執着があることになるだろう。スブーティよ、如来が『自我がある』と説いても、それは実際には『自我がある』わけではない。しかし、一般の人たちは、自分には『自我がある』と考えるのだ。スブーティよ、如来は一般の人は一般の人ではないと説いた。それゆえに一般の人と言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は須菩提長老に、
如来が衆生を滅度させたというようなことを思ってはいかん、
というのじゃ。
なぜならば如来が滅度させた衆生はないから、というのじゃ。
もし如来が滅度させた衆生があるとするならば、自己の四つの観念を如来がもっていたといことになるからなのじゃ。
そのようなものがないから、如来が滅度させた衆生はいないのじゃ。
更に自己の四つの観念もまたない、というのじゃ。
それらはもともと幻想である故にないものなのじゃ。
しかし、凡夫はあると思っているのじゃ。
その凡夫さえも無いものというのじゃ。
もはやなにものも観念としてないのじゃ。
観念そのものさえもないというのじゃ。
このようにして段々と全てはないことが深化していくのじゃ。
始めは観念としての自己が無いということであったのじゃ。
ここではもはや観念そのものもないというのじゃ。
それがそのまま修業の段階を示していると言えるのじゃ。
115
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/24(火) 12:43:47 ID:FcJmAzQg0
295鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/27(木) 23:35:36.19ID:d1GOtp5D
***
(二十六)
「スブーティよ、どう思うか、如来を特徴をそなえたものであると観るべきだろうか?」
スブーティは答えました。
「そうではありません。如来を特徴をそなえたものであると観るべきではありません。」
師は言いました。
「スブーティよ、もし如来を特徴をそなえたものであると観る者がいるならば、転輪聖王もまた、如来であるということになるだろう。」
スブーティは言いました。
「師よ、私が師の説いた言葉の意味を理解する限り、如来を特徴をそなえたものとして観るべきではありません。」
その時、師は、次のような詩を歌われました。
形によってわたしを見、
声によって私を求める者は、
間違った努力を行っており、
わたしを見ることはできない。
***
次にはお釈迦様は須菩提長老に聞いたのじゃ。
三十二相をもって如来を見るべきかと、
須菩提長老は
そうではなく、如来の説いたところによれは、三十二相をもって如来を見るべきではないと、
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は
そのとおりじゃ、三十二相をもって如来を見てはいかんのじゃ。
三十二相があるから如来と思うならば、転輪聖王も如来となってしまうからなのじゃ。
と、答えたのじゃ。
前にも書いたが、三十二相とはインド人が考えた高貴な人の相なのじゃ。
同じ相が転輪聖王にもあるというのじゃ。
そうであるから如来を三十二相によってみてはいかんというのじゃ。
お釈迦様はそれを詩にして吟詠したのじゃ。
肉体の特徴や、音声によって如来を見てはいかんのじゃ。
もしそのように見る者が在れば如来を見ていないのじゃ。
外道なのじゃ。
というのじゃ。
如来とは法を説いて衆生を導くものであるから、肉体の相や音声で見分けてはいかんの邪。
人を悟りに導き、福楽への道を示すのが如来なのであるからのう。
法によって如来を見るのが正しいのじゃ。
116
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/25(水) 11:42:28 ID:iUT6mCKg0
305鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/29(土) 00:15:25.82ID:kx9X2WUS
***
(二十七)
「スブーティよ、もしあなたが『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』と考えるならば、スブーティよ、そのように考えてはならない。それはなぜかというと、『如来は特徴をそなえていることによって、この上ない正しいさとりを得た』ということはないからだ。さらにまた、スブーティよ、実に、誰かが『菩薩の道に向かう者には、すべての法が断滅する』と、そのように言うかもしれない。けれども、スブーティよ、このように見てはならない。それはなぜかと言うと、菩薩の道に向かう者には、いかなる法も断滅しないからだ。」
***
それからお釈迦様は
如来は相を持つことで無上正等正覚を得たのではないというのじゃ。
そのようなことはないからというのじゃ。
なぜならば相は相ではないからなのじゃ。
そうであめから相とよばれるのじゃ。
無上正等正覚も無上正等正覚ではないからなのじゃ。
そうであるから無上正等正覚とよばれるのじゃ。
このようにして相とか無上正等正覚という観念をも滅して行くのじゃ。
更に悟りに向かう者達は、何かの法が断滅することもないというのじゃ。
煩悩とか、囚われが断滅することもないというのじゃ。
なぜならばそれらは煩悩ではなく、囚われでもないからなのじゃ。
そうであるから煩悩とか囚われといわれるのじゃ。
更に断滅も断滅ではないのじゃ。
そうであるから断滅とよばれるのじゃ。
そこには煩悩とか囚われがあり、それが断滅するという事実もないからなのじゃ。
ただ煩悩や囚われを原因から観察して、気付くことで自然に消えて行くのじゃ。
それを断滅という観念にしてはいかんのじゃ。
観念になればまたそれに執着することもあるからのう。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
117
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/26(木) 10:44:56 ID:WMlMXrA60
324鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/30(日) 00:02:30.07ID:56BL9zOh
>>327
***
(二十八)
「スブーティよ、もし菩薩がガンジス河の沙の数ほどの世界を、七宝で満たして布施したとしても、もし他に菩薩がいて、一切のものを無であると観られたならば、この菩薩は前の菩薩が得たよりもさらに多くの福徳を受け取るだろう。けれどもスブーティよ、諸々の菩薩は福徳を受け取らない。」
スブーティは師に問いました。
「師よ、菩薩はどうして福徳を受け取らないのですか?」
師は答えました。
「スブーティよ、菩薩は福徳を受け取るが、それに執着すべきでない。それゆえに、福徳を受け取らないと言われるのだ。」
***
更にお釈迦様は
ガンジス川の砂の数の世界を宝で満たして供養するより、
無性法忍を得たほうが優れた功徳をえるというのじゃ。
それは功徳を受けないからであるというのじゃ。
なぜならば功徳とは功徳ではないからなのじゃ。
功徳では無いものを功徳というのじゃ。
観念の功徳を受けたとすれば、それは幻想なのじゃ。
幻想から離れたほうが大きな功徳であることは言うまでも無いのじゃ。
無性法忍を得れば幻想から離れている故に、功徳を受けず、大きな功徳を得たことになるのじゃ。
それをお釈迦様は次に、
菩薩は功徳に貪着しないから受けないというのじゃ。
貪欲も執着も無い境地なのじゃ。
118
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/27(金) 10:45:01 ID:3mnA./cI0
0353 鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 00:01:39.41
***
(29)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は来ることも去ることも、坐ることも臥(ね)ることもある』と言うならば、その者はわたしが説いた言葉の意味を理解していない。それはなぜかというと、如来はどこから来ることも、どこへ去ることもないからだ。それゆえに「如来」と言われるのだ。」
***
それからお釈迦様は、
もし人が居て如来は去り、来たり、座したり、臥したりする
と、言う者が居れば理解していないというのじゃ。
なぜならば来たり去ったりしないのが、如来であるからというのじゃ。
如来とは来るが如しという意味なのじゃ。
来ることも去ることもないものなのじゃ。
既に死を超越したからなのじゃ。
死の世界へ去ることはなく、生まれてきたものでもないのじゃ。
一切の観念から離れた故に、生死も滅したのじゃ。
死を超える事は生をも超えることなのじゃ。
生きるということの停止が死ぬことなのであるからのう。
生死の観念を超えたものが如来なのじゃ。
そうであるから来ることも去ることもなく、来るが如しなのじゃ。
119
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/28(土) 10:49:06 ID:ysay.BJM0
423鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/31(月) 23:43:45.16ID:0qVp+4Vw
***
(三十)
「スブーティよ、もし善き男や善き女がこの果てしない世界を微塵に砕いたとして、どう思うか、その微塵の数は多いだろうか?」
スブーティは答えました。
「非常に多いです、師よ。それはなぜかというと、もしその微塵が実際に存在するならば、如来はその微塵の数を説かなかったであろうからです。それはなぜかというと、如来が説く微塵の数は、実際には微塵の数ではないからです。それゆえに微塵の数と言われるのです。
師よ、如来が説く果てしない世界も、実際の世界ではありません。それゆえに世界と言われるのです。それはなぜかというと、もし世界が実際に存在するならば、それは一つの塊として執着していることになるでしょう。
如来が一つの塊への執着を説くとき、それは実際には一つの塊への執着ではありません。それゆえに一つの塊への執着と言われるのです。」
「スブーティよ、一つの塊への執着は説くことができないものだ。それはものでもないし、ものでないものでもない。しかし一般の人たちはそのことに執着するのだ。」
***
続いてお釈迦様は須菩提長老に、
もし善男子善女子がこの三千大千世界を砕いて微塵衆にしてら、それは多いか。
と、聞いたのじゃ。
須菩提長老はそれは多いと、答えたのじゃ。
なぜならばその微塵衆が本当にあるならば、如来は微塵衆と説かなかったから
と、いうのじゃ。
なぜならば如来の説いた微塵衆は微塵衆ではない
それを微塵衆と名づけたからというのじゃ。
そして三千大千世界も三千大千世界ではないというのじゃ。
そうであるから三千大千世界というのじゃ。
なぜならば三千大千世界が本当にあるならば、全てである観念があるからなのじゃ。
全てであることは、全てであることではないと如来は説いたのじゃ。
それが全てであることなのじゃ。
しかし凡夫はそれに執着するものであるというのじゃ。
つまり全ては観念としてあると認識されるが、実体はないということなのじゃ。
実体はないとこに執着するのが凡夫であるというのじゃ。
120
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/29(日) 10:59:35 ID:MTrO3kMc0
460鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/01(火) 21:04:17.55ID:6MyWF6U0
***
(三十一)
「スブーティよ、もし誰かが『如来は自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を説く』と言った場合、どう思うか、その者は私が説いた意味を理解しているだろうか?」
スブーティは答えました。
「師よ、その人は如来が説いた意味を理解していません。それはなぜかというと、如来が説く自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は、実際には自我という観念ではなく、認識主体という観念ではなく、個体という観念ではなく、生きているものという観念ではなく、輪廻の主体という観念ではないからです。それゆえに自我という観念、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念と呼ばれるのです。」
「スブーティよ、最高のさとりを目指す心を持つ菩薩は、一切の法において、このように知り、このように見て、このように信じて理解し、ことがらの観念を生じさせないようにすべきだ。スブーティよ、如来が説くことがらの観念は、実際にはことがらの観念ではない。それゆえに、ことがらの観念と言われる。」
***
お釈迦様は更に須菩提長老に、
もし人が仏は自己の四つの観念に対する見解を説いたというならば、それは正しいか、
と、聞いたのじゃ。
長老は、
それは正しくない
なぜならば、それらの見解は見解ではない。
それを見解とよぶのじゃ。
と、答えたのじゃ。
お釈迦様は、
その通りじゃ。
無上正等正覚を得ようとする者は、そのように一切の法を知り、見て、信じ、理解して、
法という観念を持つべきではない、
と、答えたのじゃ。
なぜならば、法という観念は、法という観念ではない
そうであるから法という観念なのじゃ。
と、説いたのじゃ。
そもそもお釈迦様の教える法とは、全ての観念を離脱し、破壊する方法なのじゃ。
それなのに法そのものに何かの見解や観念を持ってしまってはいかんのじゃ。
そうであるから、法をも否定して、否定された法を認めるべきなのじゃ。
121
:
避難民のマジレスさん
:2024/09/30(月) 10:45:39 ID:aAiVlFes0
488鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 00:00:30.43ID:6i90X4wU
***
(三十二)
「スブーティよ、もし計り知れない数の世界を満たすほどの七宝を持ち、それを布施する人がいたとしても、善き男や善き女が菩薩の強い決意を持ち、この経から四行詩ひとつでも心に留め、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人に説いて聞かせるならば、その功徳は前者を上回るだろう。
それではどのように説いて聞かせるのだろうか。説いて聞かせないようにすればよい。それゆえに、説いて聞かせると言われるのだ。
世界の一切のものごとは
夢や幻、泡や影、
露や稲妻のよう、
そのように観るがよい。」
師がこの経を説いた後、スブーティや修行者たち、在家の信者、そして天人、神々を含む世界のものたちは、師の説いたことを聞いて大いに喜び、金剛般若波羅蜜経を信じて受け入れ、これを修めました。
***
>>489
長く続いた金剛経も終わりなのじゃ。
最後にお釈迦様は宣伝も入れて、
もし人が無量阿僧祁世界を満たして供養しても、この経の四句を保持して、
人のために説いた方がより大きな福を得る
といったのじゃ。
どのようにして人のために説くのかといえば、説かないようにするのじゃ、
それが人のために説くということなのじゃ。
というのじゃ。
つまり観念を持たないで゜説くようにするのじゃ。
自ら観念を持たずに説けば、動揺せず不動の心で説き明かすことが実現できるからというのじゃ。
そして詩句を示すのじゃ。
一切の有為法は夢幻泡影の如きであり、露や雷の如くであるという観想をするのじゃ、
と、説いたのじゃ。
つまり観念とは全て、夢幻の如くであるというようにイメージするということじゃな。
今まで述べてきた法とは違う一切の観念を滅するための観念なのじゃ。
直接的に観念に対して夢幻であると念じる法なのじゃ。
それもまた金剛般若経の法なのじゃ。
この後、弟子達は歓喜して教えを受けたという大乗経の決まり文句で終わりなのじゃ。
次は総評なのじゃ。
122
:
避難民のマジレスさん
:2024/10/01(火) 11:11:28 ID:M1/k7XNo0
500鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/02/03(木) 23:51:41.90ID:6i90X4wU
金剛般若経も終わったのじゃ。
全体で見れば、先ずは悟りとか、衆生とか、法までも無いものとして、観想するべきだという主張が目立つのじゃ。
仏教徒が目指すべき目標である悟りも、悟りを得るべき衆生も、導く法さえも無いものとするのじゃ。
それが正しい悟りであり、衆生であり、法であるというのじゃ。
もとよりそれはもはや悟りに向かって全ての観念を捨てる、最終段階の修行者に向けての教えなのじゃ。
そうであるから須菩提長老に向けて説法をした構成になっているのじゃ。
阿羅漢となる須菩提長老に説法することで、最終段階の教えを示しているのじゃ。
全てのものごとを一度否定して、そうであるからそのものごとを名告げるという逆説の法によって、名称の断絶を図ったのじゃ。
そして最後には、全てを夢幻泡影であるとして、形態、イメージの断絶をも説いているのじゃ。
その両方によって観念は完全に断ち切られるのじゃ。
それが金剛石のように能く断つことができる叡智の教えという経の意味なのじゃ。
観念に囚われているものには、役に立つ教えなのじゃ。
しかし、他の教えと同じように、全ての人に効果がある訳ではないのじゃ。
それが向いている者には効果がある法なのじゃ。
自分に向いている法なのか、よく吟味して実践すると善いのじゃ。
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