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鬼和尚の経典解説まとめ

110避難民のマジレスさん:2024/09/19(木) 10:25:26 ID:ism7Hp1c0
0896鬼和尚 ◆v4C6SeeabHj8 2022/01/20(木) 23:35:29.86 ID:36+od2gP

***

「スブーティよ。例えば人の身体が大きいとしよう。」

 スブーティは言いました。
「師よ、如来は言われました。『人の身体が大きいということは、実際には大きな身体ではない。それゆえに、大きな身体と呼ばれる』と。」

「スブーティよ、その通りだ。もし菩薩が『わたしは生きとし生けるものを涅槃に導く』と言うならば、それは菩薩とは言えない。それはなぜかというと、スブーティよ、そもそも菩薩と名付けられるものが何かあるのだろうか。」

 スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。菩薩と名付けられるものは何もありません。」

 師は言われました。
「スブーティよ、『生きているもの、生きているものと言うのは、実際は生きているものではない』と如来は説いている。それだからこそ生きているものと言われるのだ。それだから如来は、『すべてのものには自我というものはない、すべてのものには認識主体というものはない、すべてのものには個体というものはない、すべてのものには輪廻の主体というものはない』と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『私は浄土を完成する』と言うならば、それは菩薩とは言えない。なぜかというと、スブーティよ、如来は『浄土の完成というのは、実際には完成ではない』と説いているからだ。それゆえに浄土の完成と言われるのだ。
 スブーティよ、もし菩薩が『ものには自我がない、ものには自我がない』と信じ理解するならば、如来はその者を真の菩薩とであると言うのである。」

***

更にお釈迦様は一切の法とは一切の法ではないというのじゃ。
それ故に一切の法とよぶというのじゃ。
それは例えば体のでかい人のようなものじゃというのじゃ。

すると須菩提長老がそれをうけて、
如来の説いたところのでかいからだの人は、でかいからだの人ではないというのじゃ。
そうであるからでかいからだの人とよぶというのじゃ。

お釈迦様は続けて菩薩もまた同じであると言うのじゃ。
一切の衆生を滅度せしめるというのは菩薩ではないというのじゃ。
なぜならば法として菩薩という者はないからというのじゃ。

自我の四つの観念が無い者が菩薩であるからなのじゃ。
自分が無いのに他人を滅度せしめることができるはずもないのじゃ。


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