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エスペラント改造論

1やぱーの@管理人:2006/10/12(木) 17:46:51

申し訳ありません。すでに、このスレを立てたのですが、タイトルが「敢えて...」でした。
管理人初心者でしたので、お許しください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158318733/l50
改造論のスレを立てます。アルファングル以外は、こちらでどうぞ。

175松戸彩苑:2007/11/14(水) 03:03:31
>>173-174 に補足します。

vana partio という表現は、旧版のPIVの partio の項の4に、すでに載ってたんですね。
NPIVでは partio の項の5に載っています。

また Middelkoop のエス蘭&蘭エス辞典の蘭エスの部の remise の項には (bij spel)
nedecidita partio とあり、de partij eindigde in ― (その試合は引き分けに終わった)とい
う例文に la partio finiĝis nedecidite. というエス文が添えられていました。

それから、『エスペラント日本語辞典』の matĉo の項には

  La matĉo finiĝis senrezulte. 試合は引き分けに終わった。

という用例が載っています。
この表現法は(私の知るかぎりでは)『日本語エスペラント辞典』にしか載っていないもの
です。
---

それから remiso ですけれども、この語根を使えば「その試合は引き分けに終わった」を
La matĉo remisis と簡潔に表わすことが出来て、とても良いなと思ったんですね。

しかし、しばらくしてから remisis は re-misis (再びミスした)と同じだなってことに気づい
たんですね。

それに気づいたので、remis' よりも remi' のほうが良いのかなと思ったんですが、しかし
remiis にしても、耳で聞いた場合には re-misis と似ていてまぎらわしいかもしれないと
思いました。

176松戸彩苑:2007/11/14(水) 03:23:36
私の考えでは「ひとつの概念に対して、複数の言い方がある」ことは、それほど問題では
ないのです。

問題なのは「エスペラント界全体で通じるような表現が無いかもしれない」って点にあるん
ですね。
「辞書に載ってるのに、外国のエスペランティストには通じなかった」というのでは困ると思
うのです。

177松戸彩苑:2007/11/17(土) 15:45:33
エスペラントには「作曲家(komponisto)」を表わす表現はあるんですが、「作詞家」を表わ
す表現がしっかりと決まってないみたいなんですね。

『日本語エスペラント辞典』の「作詞」の項をみると

  〜者 versisto ; poeto ; aŭtoro.

と書いてあります。
厳密に言えば「作詞家」と「作詞者」は違うんですけど(前者は必ずプロであるが、後者は
シロウトの場合もありうる)、まぁこうなってるわけです。
---

英語では (song)lyricist とか metrist、metricist、metrician などと言うみたいなんですが、
Benson の英エスを調べてみますと lyricist の項だけあって lirikisto となっています。

ただし英語の lyricist には「抒情詩人」という意味もあるんですね。
また、エスペラントの lirikisto ですと「抒情詩人」の意味しかありません(NPIVを参照)。
ですから、これが「作詞家」の意味である可能性は低いですね。
---

フランス語で「作詞家」のことを parolier と言うらしいんですが、Le Puil & Danvy の仏エス
を見てみますと kanzonaŭtoro, tekstisto と書いてあります。

歌詞のことを teksto と言うということは、旧版のPIVやNPIVの teksto の項の3や、『エス
ペラント日本語辞典』の teksto の項の4などに載っています。

ですから「作詞家 = tekstisto」となるわけですが、これまであんまり見たことがなかった
ように思います。
(これまであんまり使われなかったので『日本語エスペラント辞典』の「作詞」の項にも載っ
ていなかったのでしょう)
---

ドイツ語では Liedtexter とか Textdichter などと言うみたいですが、Krause の(1993年
に Langenscheidt から出た)独エスを見てみますと、Liedtexter が載っていない代わりに
Liederdichter というのが載っており kantofaristo ; lirika poeto と書いてあります。

後者は明らかに「叙情詩人」ですので関係ないんですが、前者が「作詞家」なんでしょうか
ね?
いまいちよく判りません。

この辞書には Textdichter も載っており、こちらには tekst[far]isto というのが載っていま
す。
これはたぶん「作詞家」のことでしょう。
---

イタリア語で「作詞家」のことを paroliere と言うそうですが、Minnaja の伊エスを見てみま
すと vort(overk)isto となっています。

ということで、これまた新しい表現が登場したわけです。

この辞書の編纂者の Minnaja 氏は denaska Esperantisto なんですが、その人でさえ、こ
んな新しい表現を提案してるのですから、やはり「作詞家」に相当する決まった表現がエス
ペラントには無いんだなぁと判断せざるを得ません。
---

これ以外の民族語における「作詞家」に相当する語が私には判りませんので、これで終わ
りなんですが、エスペラントには、いまだにこういう問題があるのです。

178松戸彩苑:2007/11/18(日) 12:02:38
これまで私は「こんな表現が無い」ということを書いてきましたが、今回は「こんな表現を
作りましたよ」というのを書いてみようと思います。
---

「ダダをこねる」は plend-aĉi とすれば良いのではないでしょうか。

『日本語エスペラント辞典』の「だだ」の項には

  〜をこねる dorlotiĝi.

と書いてありますが、これは「甘える」といった意味だと思います。

また plor-plendi でも良さそうな感じがするかもしれませんが、これだと「泣いて訴える」み
たいですし、また「ダダをこねる」というのは必ずしも泣くとは限らないわけですから、これ
はあまり良くないかもしれませんね。
---

「やじうま」は spekt-aĉ-ulo とすれば良いと思います。

『日本語エスペラント辞典』の「やじうま」の項には

  kraĉemulo ; bruemulo. 〔好奇心の強い人〕 scivolemulo.

などとありますが、どれもイマイチだと思いますね。
---

「ナンパする」は in-ĉasi で良いと思います。

余談ですが、日本では「ガールハント」という言葉が使われたことがありましたが、これは
和製英語なんですね。
でも、英語でも job hunt (就職活動をする)などとは言いますから、「ガールハント」という
のは和製英語にしては、けっこう出来が良かったような気がしますね。
---

PV、旧版のPIV、NPIV、そして『エスペラント日本語辞典』の afranko の項には

  ne sufiĉe afrankita letero 料金不足の手紙

という表現が載ってるんですが、これは単純に afranko-manka letero としたほうがスッキ
リしていると思います。
---

「ブロイラー」と「地鶏」は、説明的に表わせば

  koko bredita en kaĝo
  koko bredita en korto

ですが、これを短くして kaĝo-koko、korto-koko、さらに短くして kaĝulo と kortulo として
も良いように思います。
---

「さばを読む(年齢をごまかす)」はふつうに表現すれば mensogi pri sia aĝo となるでしょ
うが、rabati sian aĝon (あるいは rabati al si la aĝon)とか、さらにはこれを名詞化して
aĝo-rabato などと表現すると面白さが出るかもしれません。

『日本語エスペラント辞典』の「サバ」の項には false deklari sin pli juna と書いてあります。
もちろん間違ってはいないのですが、説明的な表現だと思いますね。
---

『エスペラント日本語辞典』の marŝo の項に protest-marŝo(〔反対運動の〕デモ行進)とい
う表現が載ってるんですが、私はこれを見て

  protest-sido 坐り込み
  protest-fasto ハンスト
  protest-kuŝo ダイ・イン

という表現を作ることが出来るな、と思いました。

なお、「ダイ・イン」という表現のなかには die(死ぬ)という単語が入っていますが、だからと
いって protest-morto などとしてしまうと「死んで抗議すること」になってしまうので、意味が
変わってしまうと思いますね。
ですから、kuŝo くらいにしておくのが良いのではないでしょうか。

179松戸彩苑:2007/11/25(日) 10:10:41
エスペラントには ekspliki (説明する) という語根がありますが、この語根が提案される
以前には klar-igi (直訳すれば「明らかにする」)という合成語で「説明する」を表わしてい
ました。

一見するとこれで問題ないみたいですが、しかし「説明をしたが(相手にとっては)明らか
にはならなかった」という事もあるので、klarigi を「説明する」の意味で使うのは不適当だ、
という議論があったんですね。

つまり「説明」して「理解される = (相手にとって)明らかになる」というところまで行かない
と klarigi とは言えないだろう、だから「理解される = (相手にとって)明らかになる」かど
うか判らない時点での動作でしかない「説明する」を klarigi と表現するわけには行かない
んじゃないかって事なんですね。

だから「説明する」は ekspliki で表わそう、と提案した人がいたわけです。

で、こういうことに敏感で、新語根に抵抗のない人たちは ekspliki を使い、新語根に抵抗
がある人たちは klarigi を使うという事になってるわけです。
---

「ふーん」って感じですけど、じつは、同じような問題をかかえた表現は、ほかにもたくさん
あるんですね。

たとえば「(洗濯物などを)干す」というのをエスペラントでどう表わすのかを調べてみます
と sek-igi が出てきます。
しかし「干したけれども乾かなかった」という事もありますので、これではマズイんですね。

これも klarigi とまったく同じタイプの問題だということがお判りになると思います。

それから「釣りをする」を調べてみますと fiŝkapti とか fiŝhoki などという表現が出てきま
すが、これも実際に釣れたときのことを表わす表現であって「釣りをしたが、一匹も釣れな
かった」という場合には不適当なわけですね。

さらに「ダイエットする(痩せるための努力をする)」を svelt-igo としてしまうと「ダイエットを
したが痩せなかった」というのを表現できなくなるわけです。
---

これらはみんな、まったく同じ問題であるということが判っていただけたと思います。
で、これを解決する方法として、いくつかのやりかたが考えられます。

(1) ekspliki のように、新しい語根を導入して解決するというもの。
    すでに「釣りをする」に当たる新語として peski というのを使う人がいます。
    (もっともこの語根はNPIVにも『neologisma glosaro』にも『Nepivaj vortoj』にも収録さ
    れていませんが)

    とは言うものの、同じタイプの問題がこれだけあるのですから、一つ一つに新語根を
    与えるというのは、かなり不経済な感じがします。

(2) ということで「接辞」を使って表わすということを考えるわけですね。
    いちばん簡単なのは -um をつけて表わすというやりかたです。
    すでに -um を使った別の表現がある場合にはダメなんですが、そうでなければ問題
    ないわけですね。

    -um 以外の接辞で表わすことも考えましたが、これはなかなか良いものが思い浮か
    びません。

(3) もうこうなったら、こういう問題を一律に解決するために「新しい接辞」を導入しても良い
    んじゃないか、などと考えたりもしてみました。

    とは言っても、具体的な案(語形)があるというわけではないんですが。

みなさんにも、この問題について、ぜひとも考えていただきたいと思います。

180なつ:2007/12/03(月) 00:15:02
語彙は増やすべきではないと思います。
上級者やヨーロッパ人はそれを忘れがちになると思います。

181Kamelio Japana:2007/12/03(月) 06:54:20
松戸様。
これまでの様々な提案を拝見し、そのご努力には感謝いたしております。

ただ、松戸さんの見解は私どもが以前にこのForumoに参加していたときよりも後退しているように
思われます。

即ち、松戸様が「執拗に」に仰り続けている「日常用語の未整備」等の問題は確かに存在しますが、
私は、実践の場面で他の外国語を話すことに比べると、E を話す方が遥かに自分の有している語彙で
表現可能なことを実感しております。

例えば、英語で話す場面では、英語を母国語とする話者がどういう表現をするかと言う思惑が常に
付きまとい、たちまち失語症Afazioに陥ってしまいます。

民族語には論理的、非論理的表現かどうかにかかわらず常に固定または慣用的表現が定まっていて、
母国語の話者が使うのと同じ表現で話すことが常に圧力となっていますし、その度合いで言語能力の
評価が常に問われます。それが結局個人の社会的ステータスの問題にもなっていく場合も多いのです。
そして残念なことに母国語のレベルの達することは、現地で長年生活していても殆ど不可能なこと
なのですね。ましてや日本の準義務教育を含めて6年間の学習だけでは何をかいわんやです。

対して、Eの場合には、ある程度の語彙と接辞Afiksojを容易に駆使できるまでの学習をつめば、
容易にとまでは云いませんが、Afaziuloになることは殆どありません。それはEでは論理的表現で
あれば、説明的必要性からそれが長短になるかは別としてどんな言い方でもお互いにその使用が
了解されているからです。
そして、この事は初心者、上級者の区別無く当然のことながら認められています。

従って、問題はむしろ、E-isto個々人のEの運用能力を如何に高めるか、そのためには、
どのような効果的学習が考えられるのかと言った問題のほうが肝心なのです。

そして、Kia-kablo-mi-estu?やBonsanoがかねてから主張しているようにこのような会話を
必要とする日常的場面を増やすこと、換言すればEspetantujoの拡大の方がむしろ遥かに
優先課題なのだと思います。

また日常表現的用語を一方的方向で確定するすることは、むしろ「なつ」様も云われるように
E学習者にとっては負担を増すことになりかねない、と言う意見もうなずけます。

Eがあくまで国際共通補助語であることをお忘れなく。もとより民族語とは当然異なる使用方式
があるのです。

従って、緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や政治・経済・法律
社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味を帯びた優先課題であると思います。

それから、松戸さんの指摘される問題は、それはそれで重要なことですから、辞書編纂の
タタキ台として松戸さんがお住まいの近くのE組織に参加して機関紙等に発表されては、
いかかでしょうか。
そうすれば、また、JEIやKLEGの機関紙等での発表の機会も得られると思いますが。

E-istoであるならばE使用の実践経験による裏づけが何よりも説得力のあるものとなるわけ
ですから。人工言語の作成を楽しむ人たちとはこの点で大きな違いがあるのですね。

最後に、これはどの民族語の辞書でもそうですが、Eの場合は特に云える事ですが、
あくまで辞書は参考事例なのです。最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の
正確な定義に従ってEによる表現を臨機応変に創造し使いこなすことです。

182りょほう:2007/12/04(火) 00:01:35
>>179
難しすぎです・・・。
そこまで単語の意味を厳密にすると、難しくて使えません。

私はそういう問題があっても、klarigi を使う方でいいです。
「説明をしたが(相手にとっては)明らかにはならなかった」
なら、Mi provis klarigi tion, sed li(sxi) ne komprenis mian klarigon.
で済ませます。

183松戸彩苑:2007/12/04(火) 04:48:34
>>180
なつさん、はじめまして。

> 語彙は増やすべきではないと思います。

具体的には、どれのことなんでしょう?

私は最初「新語根を採用すべきでない」って意味なのかなって思ったんですが、しかし考
えてみると、このスレにおける私の提案の8割くらいは、既存の語根を組み合わせて作っ
た合成語なんですよね。

増やすべきでない「語彙」というのは、合成語も含まれるんでしょうか?
---

>>181
> Espetantujo の拡大の方がむしろ遥かに優先課題なのだと思います。

もちろん、エスペランティストを増やすのは大事なことなんですが、しかし具体的にはどう
いう方法で増やそうと考えておられるのでしょうか?

なにか新しい手があるのか、それとも今までと同じことをこれからも続けようと言うのか。


> 緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や政治・経
> 済・法律社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味を帯びた
> 優先課題であると思います。

そもそも「学術用語や政治・経済・法律社会学的用語」はあるけれども「日常生活に関す
る語彙」は不足している、なんて言葉が、EUの公用語として採用されるでしょうか?
ふつうの人なら「そんな中途半端な言葉を使うくらいなら、英語やフランス語を使ったほう
が安心だ」って考えると思うんですが。

また、日常生活において必要となるような語彙・表現が不足・混乱しているから、エスペラ
ントはいつまでたっても一般人のあいだに定着しないのだと私は考えているのですね。

だいたい我々も、英語を勉強したり、あるいは英語を使ったりする必要にせまられたりしま
すけれども、「学術用語や政治・経済・法律社会学的用語」なんてものが必要になるなん
てことは、あんまり無いと思うんですよね。
知らなくて困るのは、やはり日常生活に関するものが多いと思うんですよね。


> 最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の正確な定義に従ってEによる表現を
> 臨機応変に創造し使いこなすことです。

私が批判してきたのは、まさにこの「必要な表現が無いときには、その場で臨機応変に作
りだせるんだ」という神話なんですね。

これはザメンホフが言い出したことですが、こんな泥縄式のやりかたで必ずうまく行くとい
う根拠なんかは、まったくありません。

だいたい、必ずうまく行くのであれば、私がこのスレで論じてきたような問題が発生するわ
けが無いんですね。

それでも「いや、臨機応変に作り出すことが出来るんだ」とおっしゃるのであれば、このスレ
>>140 で「適当なエス訳が無い」と論じておいた「置き引き」と「ひったくり」に相当する表
現を臨機応変に作り出していただきたいものだと思います。


> それから、松戸さんの指摘される問題は、それはそれで重要なことですから、辞書編纂
> のタタキ台として松戸さんがお住まいの近くのE組織に参加して機関紙等に発表されて
> は、いかかでしょうか。

この掲示板に書いてきた文章を、ブログか何かにまとめようとは思っています。

エスペラント団体の機関紙というのは「初心者」や「これからエスペラントを始めるかもしれ
ない」という人向けのものだと思いますので、こういったものに掲載すべきではないと思い
ます。
また、そもそも分量がものすごく多いので、掲載しきれないと思います。

184松戸彩苑:2007/12/04(火) 04:53:38
>>182
もちろん klarigi でちゃんと通じるんですが、しかし ekspliki もけっこう使われてますね。

185松戸彩苑:2007/12/04(火) 05:50:04
>>181
よく考えてみれば

> Kia-kablo-mi-estu? や Bonsano がかねてから主張しているようにこのような会話を必
> 要とする日常的場面を増やすこと、換言すれば Espetantujo の拡大の方がむしろ遥か
> に優先課題なのだと思います。

というのと

> また日常表現的用語を一方的方向で確定するすることは、むしろ「なつ」様も云われる
> ようにE学習者にとっては負担を増すことになりかねない、と言う意見もうなずけます。
>
> Eがあくまで国際共通補助語であることをお忘れなく。もとより民族語とは当然異なる使
> 用方式があるのです。
>
> 従って、緊急性を要するのは国際的に正確かつ即決な理解が要求される学術用語や
> 政治・経済・法律社会学的用語の整理の方がEUの公用語を目指す観点からも現実味
> を帯びた優先課題であると思います。

というのは矛盾してませんか?

前者では「エスペラントで会話できる機会を増やそう」と言ってるのに対して、後者では「エ
スペラントは民族語と違う。日常生活に必要な語彙・表現よりも専門用語を作ることのほう
が優先されるべきだ」と言ってるわけですね。

ひょっとするとこれは「エスペラントで会話できる機会は増やすべきだが、その会話の内容
は日常生活のような下世話なものでなく、高度に専門的なものであるべきだ」ってことなん
ですかね?


それから

> 最後に、これはどの民族語の辞書でもそうですが、Eの場合は特に云える事ですが、あ
> くまで辞書は参考事例なのです。最も重要なことはPIVの様な権威ある辞書の語彙の正
> 確な定義に従ってEによる表現を臨機応変に創造し使いこなすことです。

と書いてありますが、これは「PIVやNPIVのようなエスエス辞典は信頼できるが、民族語と
の対訳になったエスペラント辞典は、あくまでも参考事例にすぎない」って事ですよね。

しかし考えてみれば、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人だって、そう
とう実力のあるエスペランティストなんですよね。
そういう人たちの作った表現にさえもダメなものがあるというのでは、要するに「臨機応変に
作り出すことが出来る」というやりかたで、いつでもうまく行くわけではないって事じゃないで
すか。

それに、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人でさえも「Eによる表現を臨
機応変に創造する」なんて事がうまく出来てないのに、それを並レベルのエスペランティスト
に要求するというのも、あまりにも無茶だと思うんですけどね。

結局 >>183 にも書きましたが、この点でも「ザメンホフの見通しが甘かった」ということだと
思うんですよね。

186松戸彩苑:2007/12/04(火) 06:58:37
>>185 の上半分ですが、これは撤回させていただきます。

Kamelio Japana さんの考えでは「たしかに日常生活に関する用語には問題もあるが、し
かし実際に会話をしていても不都合なことはほとんど無い。だから今は、専門用語の確立
のほうが優先されるべきなんだ」ってことですね。

言わんとしていることは判ったんですが、しかし、それでも反論したいことがありますね。

まず最初に、たしかに今の状態でも、楽しく会話をすることは可能だと思います。
しかし、私があげたような問題を解決したほうが、より楽しめると思うんですね。

この「会話を今以上に楽しめる」ということが大事だと思うんですよね。
それは、エスペラントの学習者にとっても学習の励みになると思いますし、また、エスペラ
ントをやっていない人たちに対しても、良い宣伝になると思うんですね。

それから私も、専門用語の確立じたいは必要だと思っていますが、しかし私にはそういう
分野の知識があんまり無いので、残念ながら協力できないって事もあるんですね。
誰に頼めば良いんでしょうかね?

187KamelioJapana:2007/12/05(水) 05:33:54
>「PIVやNPIVのようなエスエス辞典は信頼できるが、民族語と
の対訳になったエスペラント辞典は、あくまでも参考事例にすぎない」って事ですよね。

PIVはエスエス辞書であり「こんにち」では民族語に翻訳されたものとは比較対照するには本質的に
無理があります。
「こんにち」と書いたのは、Zamenhofが当初出したUnua Libroはロシア語やポーランド語等それに
続く数編の民族語版からなるため、E単語の意味の定義は各民族語のそれによる比較で行うしかなく
そのデノテーションには多少のずれがあるのは、否めないことでした。

E単語のデノテーションの範囲が粗正確になるためには、Zamenhofの手から異なる民族語を母語とする
多くのE-istojの質量ともに十分な用例の積み上げ(まさにEの実践的使用)が要求されました。
こう言った歴史経過の上に立ってPIVが出来たのですね。

PIVが最も権威ある辞書と言うのはこういった意味です(勿論、編纂者のE-istojはその時代
における第一線の人たちとは言え、人間のすること故、過ちからは完全には逃れ得ないことは
云うまでもありません)。

しかしこの後は殆どの「E-民族語辞書」は先ずPIVを参考に作られるようになります。

188KamelioJapana:2007/12/05(水) 05:58:07
>それに、民族語との対訳になったエスペラント辞典を編纂した人でさえも「Eによる表現を臨
機応変に創造する」なんて事がうまく出来てないのに、それを並レベルのエスペランティスト
に要求するというのも、あまりにも無茶だと思うんですけどね。

松戸様はE-istojと実際にどれだけ交流された、または、されているのでしょうか。
また、Radio Polonja等でEを長年使用している人たちのEでの流暢なやり取りをお聞きになった
ことが無いのでしょうか。

それから、松戸様はEに対する思い入れが相当強いのか、Eに何か完全性、と言うか完成性を
求めすぎているのではないでしょうか。
自然言語はもとより計画言語であっても人間の思考や心を完全に映し出し、且つ「人間が使用できる」言語を
生み出すことは殆ど不可能に近いのです。

仮令、完成度が高いコンピューター言語のようなものであっても、現段階ではそのことを追求すればするほど
人間性の「何か」を置き去りにしなければならないのです。もとより、そうなれば人間の使用に耐えるもの
からは益々、ほど遠くなります。

189KamelioJapana:2007/12/05(水) 06:15:01
>「たしかに日常生活に関する用語には問題もあるが、し
かし実際に会話をしていても不都合なことはほとんど無い。だから今は、専門用語の確立
のほうが優先されるべきなんだ」ってことですね。

少し、違う様な気がします。

国際共通補助語としてのEを取り囲む現代の世界情勢から考えての優先度のことを言っているのです。

例えば、近年Inter-retoによるE-isto同士の国境を越えた交流が大変盛んになってきています。
そうなれば、そのために要求される語彙の正確な定義と用語に関しても足らざるところは、当然、
補う必要が出てきます。Eはこのことに於いても十分に実用に耐える創造性と柔軟性を証明して
きていますね。

専門用語云々というのは主にEUにおける橋渡し言語として期待されるEの役割を念頭においているからです。

190papageno:2007/12/05(水) 20:44:42
ブログでも取り上げましたが、
http://ameblo.jp/esperanto2/entry-10047949998.html
エスペラントで「音叉」を表す言葉は「日本語エスペラント辞典」では tonforko; sonforketo; agordilo; agordoforko; diapazono の5つもあるんですね。普通一つの言語に一つです。英語なら tuningu fork フランス語なら diapson というように。音叉ごときに5つもあるなんて、それだけでエスペラントが欠陥言語であると言われても仕方ないんじゃないですか? 

また、それをどれか一つに決める手段がありません。英語圏の人は tonforko か agordoforko を使い続けるだろうし、フランス人やスペイン人なら多分 diapazono でしょう。自然に任せたって、多分決まらないでしょう。
また、それをどれか一つに決める手段がありません。英語圏の人は tonforko か agordoforko を使い続けるだろうし、フランス人やスペイン人なら多分 diapazono でしょう。自然に任せたって、多分決まらないでしょう。

191papageno:2007/12/05(水) 20:51:25
>>190訂正
tuningu fork → tuning fork

また下2行重複してしまいました。

192KamelioJapana:2007/12/05(水) 21:55:37
>papageno様

お待ちしておりました。
あなたのブログは総て読ませていただいております。
そして、それらの多くはあなたの認識不測から知識の偏りが感じられます。

>欠陥言語であると言われても仕方ないんじゃないですか? 

先ず、云っておきたいことは、欠陥と言う用語の使い方です。
これは、ある意味では欠陥とも言えるのですが、松戸様が指摘されている様に
語彙の未整理の問題であり、「欠陥」と言う語は、聞く人によってはEに対し大変
否定的なニュアンスを与えることになるでしょう。

勿論、あなたが、意図的にその言い回しを用いているなら別ですが。。。

この問題に関してはEの自然語的発展の歴史を考えれば当然のことです。
Kandidatojが適度に存在することは民主的でさえあります。
「音叉」という語が大衆の中でなくても多くの専門家や音声学者によって
多く使われるように成れば、これまでの歴史の通りおのずと候補者は絞られて
いくものと思われます。

また、専門家でなくても合成語の場合、博識ある話者がその話題のコンテクストの中で
どういった語を用いようとも、多くの場合、複数の語を使えば説明に事足りることです。

>自然に任せたって、多分決まらないでしょう。

Eの場合は逆に殆どの「E-istojが実験的に用いる語は民族のエゴ」とは無縁ですので、
一つに絞れない場合もありますが、極少数の候補に落ち着くことはEの歴史が証明しています。

勿論、Eに限らず民族語においても当初は用語の選定が一つに定まらないことは、多くあること
ですね。

193KamelioJapana:2007/12/05(水) 22:05:57
日本語を例に採ると、
その中には、多くの場合「大和ことば」と漢語の併用が存在します。
これは、欠陥なのでしょうかね。

また、「音叉」という語はそもそも母語で話をする人同士で専門家以外の
人で即座に理解できる人はどれだけいるのでしょうかね。

私の場合は、あなたの挙げたEの幾つかの単語のお蔭でどういうものか、「音叉」
と言う日本語よりもイメージがより鮮明に脳の中に現れましたが。

194KamelioJapana:2007/12/06(木) 06:49:02
当然のことですが、Esperantujoに占める専門分野別のDemografioがKandidatoの絞込みと粗
相関関係にあるように見えます。

例えば、「碁」をあらわすE単語として、中国産のVejcxioと日本産のGooとでは、Gooが市民権を
得たようです。

まだ、定まらないと言うかむしろ住み分けて共存している語の例としては、国名に使われる-i-と
本来は入れものをあらわす-uj-があります。

Japanujo - Japanio  Koreujo - Koreio Cxinujo - Cxinio 等々。

これらを意識して使い分ける場合もありますね。
例えば、私はLa Japana Konstitucio とは云わず常にLa Japania Konstitucioを
使っています。

ずっと以前の話ですが、日本の左派勢力の一部には当時の認識を反映して、北朝鮮を示す用語には
Koreioを韓国を示すのにはKoreujoを使うことを提唱した人もおりました。

今では、それぞれNorda Koreio、Suda Koreioが一般的です。

尤も、Cxina Radio Internmaciaでは政府の思い入れかどうかは分かりませんが、
それぞれ、Koreio、Korea Respublikoを用いています。

そういえば、HxinoやHxinujoの用語は殆どArkaismoになりましたね。

195papageno:2007/12/06(木) 11:45:50
>>192-194
待たれていたとは知りませんでした(笑)。それにブログを読んでいただきありがとうございます。

さて、私は絵ー仏英辞典というのを持っていまして、これはカナダで発行されたものなのですが、人間生活に関するありとあらゆるものがイラストで描かれていて、それぞれの絵に相当するフランス語と英語が横に書かれてあるのですが、ほとんどが一つの語しかありません。音叉ももちろんあるのですが、diapason(仏)とtuning fork(英)だけです。たまに2つある場合もあるのですが、5つも書かれてあるなんてことはありません。

KamelioJapanaさんが絵ーエス辞典を作るとして、その時音叉の絵の横に何と書かれますか? まさか5つもずらずらと並べるなんてことはしませんよね?

196papageno:2007/12/06(木) 11:48:51
あ、ところでこの辞典のエスペラント版作ってみたらどうでしょう? 私の持っているのは1992年版の古いものですが、今調べたら最新のはなんと仏・英・西・独・伊の5カ国語(日本語版では6カ国語)に増えているんですね。
http://www.amazon.ca/Nouveau-Dictionnaire-Visuel-multilingue-Collectif/dp/2764408137
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4095050810%3ftag=i16jp-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=D2E5ETG5CGB5DD/ref=nosim

197papageno:2007/12/06(木) 11:49:25
CD版もあります。日本語版のCDはまだのようですが。
http://www.ledictionnairevisuel.com/Index.htm
CD版は基本は仏・英語なのですが、それにオプションで西・伊・独のどれかまたは全部を付けられるようになっているそうです。
http://www.ledictionnairevisuel.com/langues/index.htm
これにエスペランティストの方でエスペラント版を用意してオプションで選べるようにしたらいいのではないでしょうか?

この辞典を作っているうちに、音叉の言い方に5つもあるようなアホウなことも解決して行くかもしれません。解決できずに頓挫するかもしれませんが。

198papageno:2007/12/06(木) 12:18:25
>>195-197
上の書き込み、3つに分けたのはエラーメッセージが出たからです。どうやらリンクを4つも貼ったのがスパムと判断されたようで。

ところで松戸彩苑さん、スレタイの「エスペラント改造論」から離れているようなので、別に「エスペラントの日常語の不足・混乱に付いて(仮称)」などというスレを作られたらどうでしょうか?

199松戸彩苑:2007/12/07(金) 02:54:52
KamelioJapana さんの >>181 の書き込みのなかに

> E-isto 個々人のEの運用能力を如何に高めるか、そのためには、どのような効果的学
> 習が考えられるのかと言った問題のほうが肝心なのです。

とあります。

私ももちろん「効率の良い学習方法」があれば良いなとは思うのですが、しかし Kamelio-
Japana さんには、そういったものの具体的なアイディアはあるのでしょうか?
あるのであれば、この掲示板のなかに「エスペラントの学習法」というスレがありますので、
ここに書き込んでいただけないでしょうかね?

私もそのスレに、そういったものを書き込んでみようと思っております。
もっとも私の考える学習法というのは、一人で勉強する方法であり、また desubismo 的な
ものとなります。
というのも、私はこれまで一度も講習会を受けたことが無いので、講師が生徒を指導する
方法というのがまったく判らないからであり、また私は desuprismo 的なやりかたでエスペ
ラントが普及するとは、とても思えないからです。


>>188
> それから、松戸様はEに対する思い入れが相当強いのか、Eに何か完全性、と言うか完
> 成性を求めすぎているのではないでしょうか。

「エスペラントをEUの公用語にしよう」と考えておられる方にこのようなことを言われるとは
思ってもみませんでした。

私が指摘しているのは、現在のエスペラントでは「鈍行列車」を表わす表現でさえも辞書に
よってマチマチで、ほんとにスンナリと通じるのか疑わしい、といったことです(>>107-109
を参照)。
こんなものは文明社会で使われている民族語であれば必ずキチンと表現できてるはずで
あって、べつに「完全性」とか「完成性」などといった次元の話ではありません。

「鈍行」と「急行」との区別は、それこそ世界中でなされており、現代の文明社会に住んで
いるふつうの人なら誰でも知ってるわけですね。
またエスペラント界では、エスペラントを使って海外旅行をする人が多いわけですが、そう
いう場合にも「鈍行列車」という表現が必要になるはずなのです。
それから、翻訳・通訳をする場合にも、あるいはエスペラントで小説や記事などを書く場合
にも、必要になることがあると思います。
さらにいえば、ザメンホフが生きていた時代にも、当時の鉄道網の規模から想像しますと、
すでに「鈍行」と「急行」の区別くらいはあったんじゃないかと思われます。

そういうものであるのに、なぜかエスペラントでは今でもシッカリとは決まってないようなの
です。
これは明らかにおかしいし、また困ったことなのではないでしょうか。

私が思うに、どうもこれは「エスペラントでは、必要な表現が無いということが判ったら、た
だちに既存の語根を組み合わせて、それで必要な表現を作り出すことができるんだ」とい
うザメンホフの語った「神話」の影響なのではないでしょうか。
しかし、私は「そうそううまく行くものではない」と主張し、この神話を批判してきました。
それに調べてみますと、ザメンホフというのは、ふつうのエスペランティストが想像している
以上に、新語根を気安く導入する人でもあったわけです(Waringhien が書いた本に書いて
あります)。

> Radio Polonja 等でEを長年使用している人たちのEでの流暢なやり取りをお聞きになった
> ことが無いのでしょうか。

もちろん私も、エスペラントを流暢に話す人と会ったことがありますよ。
だいたい欧米には denaska esperantisto だっているくらいですからね。

しかし、そういったことと、先に述べた「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱している」
ということとは、まったく別の話です。
流暢に話すことができる人がいるんだから「鈍行列車」という表現がアイマイでも構わない、
という事にはならないと思います。

200松戸彩苑:2007/12/07(金) 03:50:05
>>190
原則から言いますと、エスペラントでは「意味が明確かつ論理的であれば、すべて良しと
される」ということがあるので、数が多いからといってダメだとは言えないってことがあるん
ですよね。

しかし現実には、あまりにも多いと問題だと感じる人が出てくるらしくて、NPIVとか『エスペ
ラント日本語辞典』などを見ますと、agordo-forko に統一しようとしてるようです。

なお、NPIVの diapazono の項を見ますと、この語を「音叉」の意味で使うのは避けるべき
だと書いてありますね。
「音叉」は agordo-forko で表わして、diapazono は

(1) 〔記譜上でなく実際の音の〕音域

(2) 〔オクターブに含まれるすべての音から成る〕音列

という意味で使うというのが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』の記述です。

エスペラント界では「エスペラントは使われているうちに、自然に発展し、かつ統一される」
と言われてるんですね。
これはザメンホフが言い出したことなんですが、しかし実際には、そううまく発展したり統一
されたりするとは限らないんですね。
現実には、辞書編纂者が苦しまぎれに(?)新語を作り出したり、あるいは少々強引に統一
したりということもありまして、またそういうことがあるから発展や統一がなんとか行なわれ
ているということも言えるわけです。

201松戸彩苑:2007/12/07(金) 04:10:02
>>195-198
エスペラントの世界には、すでに(旧版の)『Duden 図解辞典』のエスペラント版というのが
あるんですよね。
エスペラント版の書名は Esperanta Bildvortaro と言うんですが、25000もの項目がある
んだそうです。

このエスペラント版の編纂には、25ヵ国の143人の方が協力したんだそうです。
このプロジェクトを発案・主宰したのは、ドイツ生まれでカナダに移住した R@diger Eichholz
(1922年〜2000年)という人で、この仕事を1964年に始めて、完成したのが24年後の
1988年でした。

で、私の感想ですが、たしかに大変な労作なんですが、しかし私の求めているものとはちょ
っと違うと考えています。

当然のことなんですが、こういう辞典では「絵に描けないもの」はまったく取り上げることが
出来ないんですよね。
抽象名詞や法律・制度、歴史的な事象といったものがそうですし、また病気の名前なんか
もそうですね。

また、ある名詞には、それとともに使われることの多い動詞・形容詞というのがあります。
いわゆる「コロケーション collocation」というもので、大型の辞書にはそういうものが載って
るわけですが、図解辞典では、そういったものを収録するわけにはいきません。

具体的に言えば、カメラというものがあって、これを構成するパーツがあるわけです。
こういったものは絵に描けるわけですが、しかし「カメラの操作の仕方」であるとか「写真を
撮るときのテクニック」といったことを表わす表現がいろいろとあるわけですが、こういった
ものは、当然まったく扱うことができないんですね。

また、動植物は絵に描くことはできますが、しかし、ものすごく種類が多いわけですから、
これをいちいち絵に描くというのは効率が悪いわけです。

それから『Duden 図解辞典』というのは、一般人はほとんど知らないような、かなり専門的
な分野を取り上げていたりするんですよね。
もっとも、シロウトが見ると「〜はこうやって作ってたのか!」と思うこともあるわけです。

想像するに、もともとこの辞書は、ドイツの一般人に、さまざまな分野の初歩的な(ドイツ語
の)専門用語を教えることが目的だったのでしょう。
しかし、そういう本ですから、「エスペラントの基礎的な語彙を提示する」というのには、ちょ
っと向いていなかったように思います。

ということで、かなり批判めいたことを書いてきましたが、しかし、このエスペラント版はきわ
めて大変な著作なんですね。
私が、エスペラントの語彙・表現の問題を考えるうえで、きわめて参考になった本です。

私としては、絵に描ける・描けないに関わらず、現代の文明社会に住んでいるふつうの成人
ならば誰でも知っている事物すべてを対象にしていきたいと考えております。

とは言うものの、そういうことをしようと考えている私にとっても、papageno さんが教えてくだ
さった図解辞典は、大いに参考になるのではないかと思われますね。
良い本を教えてくださってありがとうございました。

202松戸彩苑:2007/12/07(金) 04:13:03
>>201 の7行目
× R@diger Eichholz
○ Rüdiger Eichholz

203KamelioJapana:2007/12/07(金) 10:04:53
松戸さんの詳しい研究には頭が下がります。

何度も私が認めているように日常用語ばかりでなく、あらゆる分野に亘って用語の不足
や未整理の問題は存在します。

現代科学の最前線においては、用語の補充・整理統合に際して人材不足は量的、質的にも
否めません。

しかし、Zamenhofがどのような言葉で表現したかは、分かりませんが、
「エスペラントは使われているうちに、自然に発展し、かつ統一される」と云う言い方が
あるのだとしても日常的に使われる「自然」の意味とは趣を異にします。

自然といっても、この目標を達成する前提条件としてEsperantujoの質的な拡大が求められるわけです。
勿論、それにはある程度絶対的な量的発展と、それに伴うべくE-istoj間の国際交流の進展が必要と
されます。

もし、Zamenhofの見通しが甘かったとしたら、前提条件の進展の度合いが見通しどうりに行かなかった
ということでしょうか。尤も、Zamenhofがいつの時点でEの勝利を見越していたのかは、定かでは
ありませんから、Zamenhofの見通しが甘かったとか、ましてや間違っていたと言われても、私としては
そう決め付けるには未だ早計のような気がします。

実は、ここに私が常に優先順序を強調する意味合いがあります。

私の意見では、Esperantujoは質量共に未だに発展途上にあります。松戸様は「ではいつになったら」
と反論されるかも知れませんが、Eの最終的勝利(これも意見が分かれるところですが)
である「国際共通補助語であると世界的権威機関が公式に認め第二言語として義務教育でEの授業が
開始」されるようになったとしても、松戸様が望んでいることは当分不可能なことというのが
私の見解です。

デノテーションはもとよりコノテーションの問題は民族や国家の文化や伝統によってはかなり異なった
様相を呈しておりますから、地球的規模でのKomeuna Kuturoと言った物がある程度明瞭に形成
されない限り、特に日常用語の整理・統一などということは民族間の橋渡し言語としてのEには無理
とは言わないまでも永遠の課題といってもかまわないでしょう。

私見ですが、Eに限らず民族語のレベルに於いても用語の不足や統一などということは
日進月歩で進歩(この語に異存のある方には変化という語が宜しいでしょうか)する
現代世界においては不可能なことだし、それを強引にやろうとしたら権力的手段の介入を
招くという観点からも好ましいものとは思われません。

続く

204KamelioJapana:2007/12/08(土) 06:41:36
私は、松戸様がE-istoであると認めた上で議論に加わっていることを先ず申し
上げておきます。

勿論、この定義はBoulogne-sur-Merでの第一回国際大会での定義です。

従って、その定義によればどのような目的でEを使おうとそれは個人の自由です。
もとより言語自体には意志などありませんから、それ自体に文化も思想もあり
ません。それらは言語の使用者が齎すものです。
Eを使用してEsperantujoの拡大を、意図的か非意図的かは別にして、結果的に
阻止しようとする人も勿論含まれます。

それは、英語を母語とする人でも彼や彼女の抱く思想には、母語である英語自体の
世界における使用領域をこれまで築き上げた地位から引きずり降ろそうと意図的に
行っている人も存在しているようなものです。
英語を母語とするE-istojの多くがそういった人に該当するでしょう。

私が松戸様に対して疑問を抱くのは、この掲示板でのこれまでの議論を拝見していると
「Eにおける日常用語の不足や未整理という問題」のほかにも様々な面でEならびに
Esperantujoの批判に重点を置かれている事です。

この掲示板に書き込む人の多くは現実のEsperantujoとある程度積極的に関わりを持っている
方は、私を含めて極少数に思われます。松戸様も今はもう組織に係わってはいないご様子です。
しかも、松戸様のご意見がこの掲示板に占める割合はダントツと言ってもいいでしょう。

そのご意見がEならびにEsperantujoに対する否定的見解に傾いていることは、
世間に満ち溢れているEに対する無知や誤解を益々助長するようなもので如何な
ものかなと思います。

松戸様の意図をはっきりお聞かせ頂けないでしょうか。

数多くの先輩E-istojを差し置いて、私がここに参加しいるいるのは、はっきり
申し上げて、これからEを学ぼうとしている方やEを学び始めたが未だEの組織
(この言い方に抵抗を感じる方にはグループ)とは接触を持っておられない方は、
この掲示板の多くの意見を参照して、粗100%、Eに否定的見解を持ってしまうと
危惧したからです。

この掲示板の看板にエスペラントの文字を冠しているにも拘らず、Eに興味関心を
持たれている方が、たまたまこの掲示板にヒットするとむしろEに批判的見解に思いが
傾いてしまうでしょう。

多くの先輩Esperantistojの方がこの掲示板で松戸様の見解に反論されることに
越したことはありませんが、私のいつも言うE運動における優先課題からしても
忙しい中その時間を割り振り出来る方は少ないものと推察しております。

私自身、この掲示板への係わる度合いにも拠りますが、ここでの議論に参加する事は、
Esperantujoで占めるべき私の優先課題をある程度犠牲にしなければならない訳ですから。
尤も、私の妻以外身近にEsperantistojの存在しないところに近年居を構えたから
幾分時間を割けるのかも知れませんが。。。

205KamelioJapana:2007/12/08(土) 06:47:56
訂正です。

第一回国際大会

第一回世界大会

206外の人:2007/12/09(日) 02:09:07
>世間に満ち溢れているEに対する無知や誤解

だってそれが現実なんだもの。
仮に一億万歩譲って、エスペラントに対する世間の考えが「無知や誤解」だとしましょう。
では、それを貴方様が一から十まですべて洗い出して、皆様に教えていただけませんか?
それが「当初から交わされてきた無知・偏見」なのか否かを確認したいので。

>意図
松戸氏の意図は、「一生懸命、現実的な考えでエスペラントを広めようとなさっている方」であると
外の人である私は認識しています。

逆に、貴方様は「一生懸命、非現実的な考えでエスペラントを潰そうとなさっている方」であると
外の人である私は認識しています。

外部の人間にとって、松戸氏のような考え方のほうが受け入れられやすいであろうということです。

まぁ、ザッと言ってしまえば「保守派」よりも「革新派」や「急進派」のほうが魅力あるということです。
(ああ、貴方様のことだから一応断っておきますが、統計データを求めたり、
厳密な定義や確固たる論拠などを求めないでくださいね。ここはそういうおカタいとこじゃないでしょうし)

松戸さんのように現実的かつ建設的にエスペラントを広めようという向きは、
もっと広がるべきだと私は思います。

現状では、古典的エスペラント運動のようなザメンホフ氏の意思を真摯に継いだ、
「Zamenhofチルドレン」のような(しかも当初のそれとは恐らく大分違うであろう)、
――つまり貴方様のような――方々が大部分を占めていて、空気が淀んでいると思われるので。

新鮮な空気を取り込むのも、エスペラントにとっては大分良いことと私は思います。


以上、外の人でした。

207KamelioJapana:2007/12/09(日) 08:41:01
「外の人」様

ご意見ありがとうございました。

特に、
>ああ、貴方様のことだから一応断っておきますが、統計データを求めたり、
厳密な定義や確固たる論拠などを求めないでくださいね。ここはそういう
おカタいとこじゃないでしょうし

そう言って頂ければ、私も暇な時に気楽に書き込ませてもらえます。

208papageno:2007/12/09(日) 14:00:17
ここは「エスペラント改造論」スレなので、本来の話題に戻しますが、2ちゃんねるのエスペラント関連スレなどでもよく見かけることですが、やはり根っからのヨーロッパ語であるエスペラントを少しでも「国際語」にするにはどんどん非ヨーロッパ語の語彙を取り入れて行くのも一つの方法かもしれません。

確かに着物とかカラオケとか俳句とか日本語のいくつかはエスペラントに取り入れられていますが、これらはエスペラントでなくてもいろんな言語で使われているものです。またこれらはすべて名詞です。そこでエスペラントに日本語の動詞を取り入れるのもいいかもしれません。例えば「食べる」。

Mi taberas nattoon.

とか、「しゃべる」

Ĉu vi ŝaberas Esperanton?

なんていかがですか?

209松戸彩苑:2007/12/09(日) 15:10:10
>>204
まさか私が「エスペラント運動の邪魔をしている」と思われてるとは思いませんでした。

たしかに私は、現在のエスペラント運動に対していろいろな批判を行なっておりますが、し
かしこれはあくまでも「現在のエスペラント運動のありかた」を批判しているのであって「エ
スペラントの存在意義」なんかを否定してるわけではないんですね。

だいたいエスペラントの存在意義を否定したいのであれば、わざわざ「エスペラントの辞書
を何冊も調べる」なんていう面倒くさいことをするわけが無いじゃないですか。

私が現在、エスペラントの団体にまったく所属していなかったり、エスペラントの雑誌をまっ
たく購読していなかったりするのは、自分の考えに集中するためなんですね。
編集に携わっておられる方たちにはたいへん申し訳ないのですが、私の場合、エスペラン
トの雑誌がチマチマと送られてくると、そっちに気が取られてしまって、自分の考えに集中
できないんですね。

それで、ここ数年はそういったものをすべて絶ってるという事であって、そのうちに再入会し
ても良いとは思ってるんですよ。

210松戸彩苑:2007/12/09(日) 15:11:30
>>209 の続き)

もっとも「批判は判るんだが、しかし日本語で書かれるのは迷惑だ」という考え方があるの
は、私にもよく判ります。
私も何ヶ月か前まではそのように考えていたのですが、しかし最近では、そうではないと考
えるようになりました。

KamelioJapana さんは「この掲示板の多くの意見を参照して、粗100%、Eに否定的見解
を持ってしまうと危惧」しておられるようですが、しかしあっさり言いますと、世間の人たち
はもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」なんか持っていません。

それは「週刊金曜日」でさえも、UK横浜大会に関する記事をまったく載せなかったりといっ
た事からも判ることです。
これは要するに「週刊金曜日」の編集部の人たちでさえも「エスペラントの現在的な意義」
というものを認めていないという事なのだと思います。
認めたくはないでしょうが、これが現実です。

世間一般というのは、基本的にそういったものなのですが、しかしそういう世間のなかにも、
ときにはエスペラントに興味を覚えて、インターネットで検索する人もいるわけですね。
で、そういう人たちが、この掲示板にやってくる事もあるわけです。
この人たちがこの掲示板の書き込みを見て、どう思うでしょうか?

もちろん、人によっても違うでしょうけれども、彼らの多くは「エスペラントは昔は盛んだっ
たが、今は無くなった」と思っている場合が多いので、「意外と使用者がいるんだ」と思うの
ではないでしょうか。

それから、この「エスペラント改造論」のスレを見れば「エスペラントの表現力が予想以上
に高い」ということに気づいて驚くのではないでしょうか。
というのも、世間の人たちはエスペラントのことを「Basic English に毛が生えた程度のも
のだ」くらいに思ってるようだからです。
エスペラントをやったことのない人には「エスペラントの表現力がどの程度あるのか」なん
てことは判るわけがありません。
「エスペランティストたちはエスペラントのことを、学習容易でレベルも高いんだ、なんて言
ってるけど、そんなに良い事づくめであるならば、もっと使用者がたくさんいるはずだ」「広
まってないんだから、どうせ嘘なんだろう」くらいに思われてるのだと私は思うのですが、
「エスペラント改造論」のスレを見れば、日常生活で必要となる語彙・表現を網羅しようとし
ていることが判りますので、そういった誤解はかなり無くなると思うんですね。

むしろ、世間の人たちがこの掲示板を見て最も失望するのは、エスペランティストが「これ
までのやりかたは100%正しいんだ」と書いてることなんだろうと思いますね。

これまでにも何回も書いてきたことですが、エスペラントというのは世間においては、UFO
や幽霊に関する話よりも見聞きすることが少ないものなんですね。
だから世間の人たちからは「完全に失敗した」と思われてるわけですし、「週刊金曜日」の
編集者のような人たちからも相手にされないわけなんですが、そういった現実にまったく
気づかずに「これまでのやりかたは100%正しい」などと言ってるのでは、誰だって「お先
真っ暗だな」としか思わないと私は思うんですね。

エスペランティストたちは、エスペラントの世界にドップリと浸かっていて、日常的にエスペ
ラントの文章を読み、たまにはエスペランティストと会ったりするという生活を何(十)年も
続けていますので、そういう世間の感覚が完全に判らなくなってるわけですが、それでは
世間の人たちと話をしても噛み合わないんですね。

自画自賛みたいになってしまいますが、私は「エスペラントというのは、それなりによく出来
てるように思われるのに、どうして普及しないんだろうか」という疑問をいだきつつエスペラ
ントを勉強してましたので、エスペラント界の常識に単純に染まらないように注意していま
した。
それで、エスペラントの世界にも通じつつ、世間の人たちの感覚も保持する、ということが
出来たのだと思います。

ということで、今では私は、この掲示板において日本語でエスペラント批判を展開しても大
丈夫だろうと考えております。

(終わり)

211松戸彩苑:2007/12/09(日) 16:58:13
>>206
外の人さん、はじめまして。

エスペラントをやっておられない方のようですが、そういう方が私の文章を読んでくださっ
ているというのは、なんとも不思議な感じがしますね。

私も大いに励まされました。

212KamelioJapana:2007/12/09(日) 21:48:06
松戸様がEの有効性を認めていることを知って安堵しております。
今後も世間一般とE運動とを公平に見ていただいてコメントを頂けるものと期待して
おります。

そこで、私の意見と反論を少々述べさせていただきたいと思います。
まず、
>私の場合、エスペラントの雑誌がチマチマと送られてくると、そっちに気が取られてしまって、
自分の考えに集中できないんですね。

私も様々なEの機関紙や雑誌に埋もれており、時にはそれらが厭わしく思うこともあります。
殆どのものは、目を通すだけで、気に入ったり重要だと思われる記事の拾い読みだけで精一杯です。
購読会員の反対の非購読会員(年一回くらいの報告だけで雑誌は送らない)の様な類のものが
あってもいいと思ったりもします。
しかし、E運動へ私なりの出来るだけの貢献の一つということで、溜まっていく雑誌を横目で
見ながら、様々な会員資格を維持しております。

そこで、松戸様への提案ですが、UEAには年鑑会員(機関紙はなくて年鑑のみ配布)という
制度がありますが、そういった会員になっていただければ幸いに存じます。
すでに会員でおられるかも知れませんが。。。

次に、
>世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」なんか持っていません。
という言及ですが、
これは、誤解を生む表現、と言うより実態を反映していないものだと思います。
そこで次の様に言い換えては、如何でしょうか。

(世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」、「否定的見解」
を持つどころか、その前にその存在すら知らない人が多い。)

私がEについて話をした範囲では、そういう方が、特に若い方たちには圧倒的に多かったです。
そして、彼らの殆どは、Eについての説明を聞いて、これまた圧倒的に肯定的に受け止めて
くれた方が多かったです。

すなわち、この掲示板を訪れる人のことですが、私が言及したのはEにあくまで
「肯定的」な方のことです。何故って、これから学習しようとする人や、学習に
入ったばかりの人ですから。単に「Eはどうなったか。」という世間一般の一部の人のこと
ではありません。
それは、Kontekstoをお読みになれば、よくお分かりかと思います。

また、「Eはどうなったか。」という類の人が、この掲示板を読んでEを学習する気に
なる方は、まずいないでしょう。
勿論、これは、松戸様と私の感じ方の違いなのかも知れませんが。。。

213KamelioJapana:2007/12/09(日) 23:32:11
>>208
papageno様。
お気持ちは分かりますが、受け入れられるのは無理でしょう。
日本人以外の殆どの人には、文脈が無ければ理解されないでしょう。
また、文脈を把握できる人は敢えて特定民族で使われている動詞を新たに使用
することは、物好きか、余程、日本びいきの人で無い限り現れないでしょう。

でも発想は愉快ですね。

むしろ、日本特有の表現に限り広めるが好いでしょう。
例えば、 motajnas

Fordoni restajxon de la mangxajxo motajnas.

Estas motajne, ke oni mendas pli multe da sakeo ol efektive trinkas.

214松戸彩苑:2007/12/10(月) 01:07:11
>>212
> (世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」、「否定的見解」を持つど
> ころか、その前にその存在すら知らない人が多い。)
>
> 私がEについて話をした範囲では、そういう方が、特に若い方たちには圧倒的に多かった
> です。
> そして、彼らの殆どは、Eについての説明を聞いて、これまた圧倒的に肯定的に受け止
> めてくれた方が多かったです。

まぁ確かに、若い人たちの場合は「そもそも知らない」ということが多いでしょうね。
それは認めますよ。
しかし、年配者の場合は、けっこう知ってると思うんですよね。

たとえば「週刊金曜日」の場合ですと、2005年には、本多勝一氏とエスペランティストの
木村護郎クリストフ氏との対談が何回にもわたって掲載されてるんですよね。
これは本多氏が同誌に連載している「貧困なる精神」の枠内で実現したものですが、これ
は本多氏が熱心なエスペラント支持者であることから実現したわけですよね。
また「週刊金曜日」の編集委員のなかでは、佐高信氏もエスペラントの応援をしてるわけ
ですね。

そういうことがあるわけですから、「週刊金曜日」の編集部員もエスペラントを知らないわけ
ではないわけです。
(もっとも、最近、編集部員になった人だと知らないかもしれませんが、しかしそんなにゴッ
ソリと人が入れ替わるとも思えません)
しかしそれにも関わらず、UK横浜大会の記事は出なかったんですね。

「週刊金曜日」の編集委員のなかでも、筑紫哲也氏は、エスペラントに懐疑的な発言をした
ことがあります。
椎名誠氏の場合は、おじさんにエスペラントをやってた人がいたはずですが、本人がエス
ペラントについてどう思っているのかは判りません。
落合恵子氏の場合は、長谷川テルに言及したというのを確かRO誌で見たような記憶があ
るんですが、自信はありません。
石坂啓氏の場合は、エスペラントに言及したという話を見た記憶はありません。

また、RO誌には、日本国内の新聞・雑誌・書籍などに載ったエスペラントに関する記述を
集めた「El la japana gazetaro」というコーナーがありますが(今でもあると思いますが)、こ
れなんかを見ていても、「理想は素晴らしかったが、非現実的すぎて失敗した」ものの喩え
としてエスペラントが使われている事がけっこうあるんですね。
ということは、やはり年配者のあいだでは、それなりに知られているのだろうと思います。

また、最近私が読んだ『宗教学キーワード』(有斐閣 2006年)という本のなかにも

> エスペラントという「国際語」があった。この言語は、諸国民が平等の立場で交流すると
> いう理想を担って19世紀につくられた。いまや英語が事実上の国際語であるが、このこ
> とは、英語が母国語である人に有利過ぎ、また英語以外の母国語をもつ人にとって不利
> 過ぎる。こうした疑問をもった人が昔にもいたのだ。

(同書84ページ)

と書いてあります。
なお、この文章を書いた葛西賢太氏は1966年生まれだそうです。

また、1985年3月7日のニュースステーションにおいて「消えたエスペラントの謎」というの
を流したこともありましたしね。

それから忘れてならないのは「エスペランティストの家族や知人が、エスペラントに好意を
示してくれない」ということがごくごく普通にあるって事ですね。
彼らの場合は、はっきりと「知っているのに支持していない」わけです。

ということで、知らない人が多いのは事実ですが、しかし「知らないから支持してくれないの
だ」としか考えないというのは、はっきり間違ってると思いますね。

215松戸彩苑:2007/12/10(月) 01:14:36
>>212
私だって「エスペラントはすでに、かなりのレベルに達している」ことはちゃんと認めたうえ
で議論しているわけですよ。

それは、このスレにも折にふれて書いてきたと思うのですけどね。

216KamelioJapana:2007/12/10(月) 06:49:57
松戸さま。
仮令、どちらかと云うと左派的で理想主義に燃える人でもある程度の年齢までに
Eを実践する機会が無ければ、世界の現況から云って、肯定的にはなれないですよ。

勿論、極少数の例外は、常にありますかが。。。

それから、Eがいくら易しいと言っても大多数の民族語同様に現代社会において、
使用に耐える条件を満たしているものなら、易しさも程度問題ですから、一定の職業に
ついてしまってからは、殆どの人は火の中の栗を拾う行冒険はしないでしょうね。

私の知り合いの多くの人が、かっては、社会主義の理想に燃えてた方でも、リップサーヴィス
だけで、Eを学習することなど思いも寄らないことなのです。

それでも、若い人の中では、その係わり方しだいでEを始める人も出てきます。
こちらから、打って出るためには、その有効性を例証するために相当の時間を
費やす覚悟が要りますがね。
私の妻や娘がそうでした。

そういう訳で、兎に角、1にも2にも少しずつでも良いからEsperantujoの量的、質的
な拡大のみです。時代によって、また人の意識も変わってきますから。。。

世界や日本の政治も、昨今、変わりつつあります。そのうちEにとって良い兆候も
現れて来るでしょう。世間の移り変わりの激しい表面的様相に惑わされてぶれない
ことも必要です。

217papageno:2007/12/11(火) 18:01:59
まあよく考えてみれば、ほぼ100%ヨーロッパ語であるエスペラント自身を「国際化」できもしないくせに、エスペラントを国際共通語にしようなんて、おこがましいと思いませんか?

218Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 15:38:31
はたからみて思ったものの、ここってあまりコンテンツ創造とかする人がいませんね。
読み物を書いたり、絵を書いたり、まとめサイトっぽいものや英訳とか。
そもそもひたすらエスペラント掲示板なのに「ひたすらエスペラントで話すスレ」がないのも、
やっぱり、言語自体に需要がないことの証左かなと思ったり。

(エ)konjekte, humanoj en la afis^ejo pensas polemiko de teologio havas pli valora ol polemiko de lingvistiko.
  推量するに, 人間ら 中 the 掲示板 考える 議論 の 神学 持つ より 価値 よりも 議論 の 言語学

(英)The humans in this BBS seem to think that a theological argument has value than the linguistic argument.

(ア)lun kaen slei tu os-e mirs e mirfol van mirs e eldfol av-e xad in
  人間 での 掲示板 これ 考-る 議論 の 神学 > 議論 の 言語学 持-つ 価値 らしい

(日)この掲示板における人間らは神学の議論が言語学の議論よりも価値を持つと考えるらしい。

>>217
そういう人はノシロがお勧め。逆に分かりにくくて驚くかも。

219Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 16:02:13
(エ)atmosfero de la Nos^ilo similas al la Esperanto c^ar c^i tio estas lingvo internatia.
(英)the atmosphere of Noxilo resembles Esperanto because it is an international language.
(ア)xalte e Noxilo et kik al Esperanto man tu et kadrakeld.
国際語だからノシロの雰囲気はエスペラントに似ている。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~noxilo/

どちらもなんとなく胡散臭い宗教臭が・・・・・・・。

まぁ、アルカも遊びのわりに宗教臭はするけど。
arka@wiki http://www33.atwiki.jp/kakis/

人工言語一般の議論はこちら
人工言語憩いの場 http://yy59.60.kg/conlang/

220Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 16:05:49
ちなみにノシロ語の掲示板はこっち http://6713.teacup.com/xangaaukeet/bbs

221KamelioJapana:2007/12/14(金) 10:14:21
>ここってあまりコンテンツ創造とかする人がいませんね。

この掲示板の役割はある程度限定されたものです。
Kakis様がお知りにならない音楽から文芸に至るまでEのサイトは沢山存在しています。

それに今の処は、機関紙や文芸誌がそのような分野をカヴァーしています。

222KamelioJapana:2007/12/14(金) 10:47:00
>それに今の処は、機関紙や文芸誌がそのような分野をカヴァーしています。

大変、失礼な書き込みをしてしまいました。
機関紙や文芸誌、それからE書籍等があくまでCxefrolajxojです。

223Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/14(金) 22:36:14
Cxefrolajxojといっても素人はどこが区切りめだか分からなかったり。
たぶんメインコンテンツという意味だと思いますが。

北海道エスペラント連盟のアイヌ神話のエスペラント訳は評価できる活動だと思いました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hel/jukaroj.htm

224papageno:2007/12/14(金) 23:37:43
>>217
プラハ宣言で、「エスペラントの共同体にとっては、言語の多様性は尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉である。」と高々と謳(うた)っておきながら、
http://www.jei.or.jp/hp/materialo/prago_j.htm
エスペラントの基本的語彙に非ヨーロッパの言語を取り入れようというような話は全く聞いたことがありません。

この宣言に一体何の意味があるんでしょうね?

225papageno:2007/12/15(土) 03:08:22
>>224
自己レスですが、改変不可の「エスペラントの基礎」には文法だけでなく基本語彙も含まれるんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E

これではエスペラントを非ヨーロッパ化するのは難しいですね。「憲法改正」が必要かも。

226Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/15(土) 10:22:15
>>225
新語を自由に幾らでも作って使ってもいいですよ。根本的に勘違いして
らっしゃるようですね。

227papageno:2007/12/15(土) 17:38:41
>>226
新語じゃないんですよ。たとえば「顔」は vizagxo で、これは「エスペラントの基礎」(Fundamento de Esperanto)で定められた改変不可の単語ですが、これをたとえば日本語の kao に置き換えようということです。
私は改変不可なのは文法だけだと思っていたのですが、「エスペラントの基礎」にある基本語彙も改変不可なんですね。

228Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/15(土) 21:23:46
>>227
お好きなようになさったらいいのです。誰の許可も要りません。

229papageno:2007/12/15(土) 21:44:30
>>228
>誰の許可も要りません。

確かにその通りですね(笑)。

230Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/15(土) 21:56:53
エスペラントは、別に非欧米化の必要はないと思いますが。
いろいろ混ぜても混乱しますし。っていうか現状でもかなり混ぜすぎという感じがします。
どうせならゲルマン系とスラブ系は排除して、ラテン系語彙だけでやってくれたほうが統一感があります。
混ぜれば確かに、日本語由来語も増えますが、
どちらかというとスワヒリ語やナヴァホ語やスー語などのよく分からない言葉が多すぎて日本人にとっても、
欧米人にとっても、アフリカ人にとっても分かりにくいことに。
どの民族にとっても分からない語彙が99%というのは、もはや暗号と同じです。
それに、言語の数は1万近くあるわけで、全てをカヴァーするのは不可能に近いものです。
混合されてない言語の話者にとっては逆に不公平感が増して訴えられますし。
それに、世界中の言語の単語を入れようとすると母音の数は5では足りずに20以上要りますし、
子音も100近く、それに声調も強弱でなく8パターンあって、クリック音などのレア音も出るなど凄まじいカオスに。
それだったら、現状のそこそこ統一感のある語彙体系でいくか、
全て自然言語に由来しないオリジナルの単語で作られた人工言語を作るかの2つに一つ。

と、セレン氏のノシロ批判を思い出しながら書いてみる。

231Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/15(土) 22:04:04
不満があるときは、自分で作るのが一番早いらしい。

人工言語の作り方 http://lanxante.higoyomi.com/rcp.html

232なつ:2007/12/16(日) 04:58:29
父をpatricxoとするのは憲法違反にあたるんでしょうかね?
それとも許容範囲なんですかね?

233KamelioJapana:2007/12/16(日) 06:49:07
Kakais様。
私は、貴方の知識を高く評価いたしております。
が、行く道が違うのでしょうね。
まあ、お好きに書いてください。

人口言語の完成品を追い求めるのも好いのですがね。
現実の世界では、不可能に近いことですよ。ソモソモ、人間自体お互いの不完全
さの中で大多数の人たちは相対主義的に生きているのですから。。。

でも、あなたの師事(それとも支持の方かな)するセレン氏は、なるほど、アルカ
の創作という点では類稀な発想を示したかも知れませんが、人間的には私は許せませんね。

彼の私に対する以下の言動で彼の作品の評価は将来性において致命的打撃を被ったと
思いますよ。

以下、長くなりますが彼の言葉の引用です。
「>Kamelio 投稿者:セレン 投稿日:2007年11月 6日(火)22時29分3秒
あと、Kamelio。
まだこの板に張り付いているだろうから言っておく。

この場所はお前にとって不利だ。正直言ってここでお前を叩くのはフェアじゃない。
気に喰わない。
だから、続きがやりたいなら場所を移せ。そして真っ向から俺狙いで来い。
その代わり黒田さんたちの憩いの場を壊すな。

俺は喧嘩早いが、喧嘩する相手は常に男だ。しらんだろうが俺はKakisさんや黒田さんとも
派手に喧嘩したことがある。特に前者。
でも喧嘩したのは相手を対等に見ているからだ。実生活でもネットでも見事に一致していて、
俺は一度やりあった相手じゃないと仲良くなれないようでね。

その観点からいえばお前は喧嘩の相手にならない。はっきりと見下してるからな。
でもそれは俺だけじゃないと思う。お前のその態度じゃどこにいっても同じだよ。
周りがこれ読んで反論すればと色々教えてくれてるのにさ、お前は一度も聞かなかったよね。
それで自分の好きな玩具を手にとって「ほら見てよ見てよ」って、そんなに誰が見る?
お前、画面の向こうでそうやって暮らしてるのか?それでエスに流れ着いたのか?

違うだろ、そのやりかた。少なくとも合ってはないだろ。
今のお前じゃ俺はおろかここにいる人間からみて喧嘩相手にすらならない。
だがここ2週間くらいの付き合いで何となく情が移ってしまったから、忠告しておく。

別にエスをどう言おうと、本質的にここの人間は否定しないと思うよ。
問題は人のレスを反映しないことや人の言うことを聞かない態度にある。
これ以上お前がその態度を続けるなら、エスももうお前のことは面汚しにしか思わない
だろうし、こちらも見下げ果てるだけだ。そうなったらお前は名前を捨てて
どこかへ行くのか?それでいいのかよ、カメリオ。よくねえだろ。
考えろ。自分の曖昧さや甘さに辟易するが、俺はお前が歩み寄りを見せれば受け入れてやる、
今度は敵としてな。以上。」

独りよがりは、セレン氏自身ですね。私について、ネット以外でどのような情報を
得ているのか知らないが、自己中もいいとこですな。
まあ、kakis様以外この掲示板の参加者には前後の脈絡がないので分からないと
思いますが。。。
少なくとも、突然予告もなくこういう言動をする人がアルカ語の将来を担って
いけるのでしょうか。
尤も、他のkasxnomoで似たような言動があった様ですけど。。。

234松戸彩苑:2007/12/16(日) 07:26:26
>>232
別に構わないように思いますね。
もっとも、エスペラントがよく出来る人にはスンナリと通じるでしょうが、初心者だと判らない
と思いますが。

しかし、patr- に -iĉo を付けるのは「性差別を減らすのに役立つ」とお考えになってるの
でしょうけれども、そういうことを考えるのであれば、そもそも「母」という概念を表わすのに
patr-(父)という語根を使っているという時点ですでにダメだと思うんですよね。

それから、「男性形から女性形を派生させる」というのは、別にエスペラントに限ったことで
はなく、ドイツ語やフランス語などでもそうなんですね。
もっとも、さすがに「母」を「父」から派生させる、などという事はありませんが、日本語であ
れば男女に関係なく「学生」というところでも、ドイツ語では Schüler(男子学生)、Schülerin
(女子学生)、フランス語では étudiant(男子学生)、étudiante(女子学生)と必ず区別して
いるんですね。
ということで、この点では、日本語のほうがドイツ語やフランス語よりも「性差別が少ない」
という事になりますが、しかしだからといって、日本と比べてドイツやフランスのほうが性差
別が激しいというわけでも無いんですね。

もちろん私も、エスペラントにおいて、必要なとき以外は、性別を表わさないようにしたほう
が良いとは思っています。
要するに、student-ino のような言い方は、必要なとき以外はしないという事です。
しかし、こういったことに過剰にこだわるというのも、どうなのかな、と思うんですね。

235松戸彩苑:2007/12/16(日) 08:01:31
  papageno さんへ

「エスペラントの基礎的な部分を、日本語から採用した単語と取り替えたらどうか」というお
話ですけど、しかし、そのように考えるのであれば、どうして中国語・ヒンディー語・アラビア
語・ベンガル語・インドネシア語などからは単語を採用しないのかと思いますね。

Kakis Erl Sax さんが >>218

> そういう人はノシロがお勧め。

と書いておられますが、私もノシロが papageno さんの主張に近い言語だと思いますね。
ノシロなら、世界各国の言葉から単語を採用していますし、また語順も、日本語式・英語式
の両方が使えるんですね。
また「語尾が変化する」ということも無いみたいですから、きわめて合理的だと思うんですよ
ね。

ここでノシロに対する私の意見を紹介しておきますと、(単語の憶えやすさは別として)コン
セプト自体はかなり優れていると思うんですよね。
しかし困ったことに、創始者である水田氏が、ノシロで書いた文章を発表しないんですね。
水田氏がノシロの文章をどんどん発表すれば、それなりに支持者が出てくるんじゃないか
と思うんですが、そういう事をするつもりは無いみたいですね。

私は以前、この掲示板に「いろんなタイプの人工語があったほうが良い」と書いたことがあ
ったんですが、それは、人工語に求める要素というのは人それぞれであり、これを統一す
ることは絶対に不可能だと考えているからなんですね。

もちろん、エスペラントの改造について論じること自体がいけないわけではないんですが、
しかし papageno さんの主張を実現するという場合には、エスペラントを改造するというの
は、かなり効率が悪いことのような気がします。

236papageno:2007/12/16(日) 09:23:40
>>235
>どうして中国語・ヒンディー語・アラビア
語・ベンガル語・インドネシア語などからは単語を採用しないのかと思いますね。

いや、単に私が日本語と多少の韓国語以外知らないというだけの話で。それと
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1167391996/584
に書いたように、日本人にとっては、エスペラントの基本語彙に日本語の語彙が入っていたらもっとエスペラントに親しみが持てるのではないかと思って提案しているのであり、より優れた人工言語を作ろうという発想で言っているのではありません。エスペラント以外の人工言語に今の所特に興味はありません。

それとそもそもは2ちゃんねるのエスペラント関連スレ(これは私にとって「尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉」ですが)でいろんな人が言っていることの受け売りにすぎません。例えばこの辺りとか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gogaku/1187078117/113-117

さらにノシロよりもずっと前にこのような非ヨーロッパ系の言語を取り入れた人工言語案はありました。1927年にチェコスロヴァキアのミルネルという牧師が「コスマン」という言語案を発表しましたが、それは語彙の30%を中国語、アラビア語、ヒンディー語から採用したということです(二木紘三「国際語の歴史と思想」より)。

237松戸彩苑:2007/12/16(日) 11:15:13
>>236
> 世界中の非ヨーロッパ人エスペランティストが、自分の民族語を取り入れたエスペラント
> を作って、共通エスペラントと併用してみる。そのうち各エスペラント方言から共通エスペ
> ラントにいろいろな語彙が採用されるようになって、やがていろんな言語が程よく配合さ
> れたミックスジュースができるかもしれません。

ノシロなんかは「いろんな言語が程よく配合されたミックスジュース」だと思うんですけどね。
どこが違うんでしょうかね?

言語について勉強すると判るのですが(もっとも、私もシロウトなんですが)、標準語という
のは、自然に出来たり、あるいは自然に広まったりはしないものなんですね。

日本語だけではなく、英語・ドイツ語・フランス語・中国語なんかの標準語も、かなりのてい
ど人為的につくられたものであるらしいです。

また、社会には政治的・経済的・文化的な優劣というものがありますが、優位にある言語
が劣位にある言語を駆逐・破壊しつつ、広まったり統一されたりするんですね。
逆に、そういった優劣が無い(あるいは少ない)と、統一されずにバラバラなままなんですね。

もっとも、エスペラントの世界でも、このあたりのことが判ってない人が多いんですね。
ですから、いまだに「エスペラントは自然に発展し、統一もされていくんだ」などと信じられ
ているんですが、実際には、そううまくは行ってないんですよね。

そもそも、こんなことを言い出したのはザメンホフなんですが、結局ザメンホフ自身が誤解
してたって事なんですね。
でも、ザメンホフは19世紀なかばに生まれて20世紀初頭に亡くなった人ですので仕方が
ないのでしょうが、21世紀を生きてる人たちが、こんなことを信じていてはいけないと思い
ます。
---

ところで現在でも「日本独自のものを表わす単語をエスペラント化する」というのは認めら
れているわけですね。
こういったことは(中国文化圏・インド文化圏・アラビア文化圏などに特有な事物のエスペ
ラント化と同時並行的に)どんどんやっていくべきなんですね。

たとえば「コタツ」を表わす単語として kotaco という新語根が提案されていたりするわけで
す。
こういうのは、あんまり使われてはいないわけですが、しかしその一方で、批判する人も
(ほとんど)いません。

で、私も「やっぱり kotaco って言い方しか無いんだろう」と思っていたんですね。
しかし最近、Wikipedia で各国語の「コタツ」の表現法を調べていたんですが、中国語のペ
ージに「暖卓」って書いてあるのを見て hejt-tablo と表わすことが出来るということに気づ
いたんですね。

とは言っても、私は「kotaco を使うべきではない」とまでは思いません。
hejt-tablo と kotaco の両方を使えば良いと思います。

(終わり)

238松戸彩苑:2007/12/16(日) 11:59:06
>>237 に補足しますが、中国にはコタツは無いみたいですね。
「暖卓」というのは、あくまでも日本のコタツを表わす表現として作り出されたもののようで
す。

239なつ:2007/12/17(月) 03:36:35
母語の語が少し入って親しみがわくからって理由だけでノシロみたいな
しろものは語が覚えづらいだけですね。
しかも語が採用されない母語話者は必ずいるもので、
ノシロはそれを考慮していず逆に差別を生んでいると思います。
エスペラントが素人がヨーロッパしか考慮せず作ったおかげで
逆に統一性があるし、
インド・ヨーロッパ語族の母語話者、第一外国語学習者が
より容易に覚えることができます。
もちろん我々日本人も英語を学んでいるので、
フィリピン語やアラビア語の要素のないエスペラント
をむしろより容易に覚えることができるのです。

240KamelioJapana:2007/12/17(月) 06:57:08
>>239
簡潔で分かりやすいです。

まさに英語は、諸刃の剣で、皮肉なことにEの普及の下地作りには貢献しているわけです。

241Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/18(火) 00:16:06
前後の脈略というと以下のurlの2007年10月18日(木)05時17分58秒以降の記述をご覧ください。
http://8511.teacup.com/conlangarchitect/bbs?OF=1200&BD=2&CH=5&REV=1&REV=1

それの前段階として、エスペラントよろず掲示板のキャッシュをみると分かりやすいようです。
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071022/f439316f18cb0c7d33cb76e621526a0e
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071022/0aca6ed2f92b1702d75d37790d327c38

→相当都合が悪いと思われる通時論発言が削除されたキャッシュ。
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071023/0aca6ed2f92b1702d75d37790d327c38

たぶん、この発言が真理過ぎて禁句だったらしい。
よくよく考えると、人工言語はプログラム言語やシソーラスや分類法の素地となる
近代科学技術の素地となったオカルトチックな魔法技術だというのに気付いている人は少ないようです。
そして、錬金術のように未だに水銀と硫黄で金を作ろうとしているのが国際補助語運動だとか・・・・・・。
国際補助語目的というのは人工言語としての用途が間違っているというのが、新生人工言語論の主張。

>錬金術は金を生み出しませんでしたが、様々な化学物質と近代化学を生み出し、
>人類に大いなる恵みをもたらしました。
>人工言語はアダムの言語・普遍言語・国際補助語を生み出しませんでしたが、
>シソーラスと図書館分類法とプログラム言語を生み出しした。
>人工言語は錬金術と同じく近代科学を生み出したオカルト的な事物。
>錬金術は科学者からは、水銀と硫黄と血液なんかで金を作れるものかと
>冷笑されてもフィクションの世界で生き残り、
>人工言語も軍事力も財力もなしに普及できるものかと、
>言語はすべからく変化するもので統一は速やかに損なわれると、
>文化や語法の厳密な設定なしに誤解のないコミュニケーションが出来るものかと
>言語学者に冷笑されつつも映画・テレビ・小説などのフィクションの世界で輝きを放っています。

242なつ:2007/12/18(火) 01:25:34
>>241
あなたが何をしたいのか分かりかねるが?

243なつ:2007/12/18(火) 01:39:06
>>242
は申し訳ない。削除します。

244Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/18(火) 12:07:08
>>242
とりあえず、暇つぶしがしたいと思っているかも。
この手の神学論争は好物なので。
いろいろ争いの種をばら撒いた方が、人工言語界もエスペラント陣営も盛り上がって、
読んでいて楽しいので。

命数法みたいに批判記事みたいなのを書いて、それが誤解だったら、
その説明のレスが付いたりして、勉強になって面白いというのもあります。

245松戸彩苑:2008/01/19(土) 17:25:59
私は >>178 に「girl hunt は和製英語」と書きましたが、長村キット(著)『こんなときどう言
う英会話辞典』(1999年 講談社)という本の163ページに

  ナンパする Look for action. Go trolling. (Girl hunt という表現はもうふるくさい言い方
  です)

と書いてありました。
つまり girl hunt という表現は「かつては英語圏で使われていた」が「今では使われていな
い」ものだったんですね。

この本の著者は、ブラウン大学を卒業したアメリカ人女性で、日本の大学で英語の講師を
したり、英字新聞に寄稿したりしているらしいので、信頼できると思います。

246松戸彩苑:2008/02/11(月) 16:19:57
私はかつて >>24 において「ses と sep は耳で聞いて区別しにくいから、sep を hep か ep
にしたらどうか」と書きましたが、ついさっき『エスペラント日本語辞典』を見てましたら、偶然
に次のような記述を見つけたんですね。

  sepen (数)(俗) 七 〔本来の sep(七)が ses(六)と聞き誤りやすい場合に区別するた
  めに用いる〕.

で、NPIVを調べますと、やはりあったんですね。

  sepen ≪Sep≫ en la slango de la radioamatoroj, uzata por ke la aŭdanto ne konfuzu
  kun ses.

ひょっとすると旧版のPIVにも載っていたのかな?と思って調べてみましたが、旧版のPIVと
その補遺には収録されていませんでした。

また、『Neologisma glosaro』(第2版)と『Nepivaj vortoj』(第1版)も調べてみましたが、これ
にも載っていませんでした。

247松戸彩苑:2008/02/23(土) 03:30:28
みなさんは -enzo という接尾辞をご存知でしょうか?
これは kolor-ig-enzo(着色料)のように使われます。
つまり -enzo は「〜する薬物」という意味なんですね。

今までですと kolor-ig-ilo あるいは kolor-ig-anto のように言うこともあったわけですが、
これだと「着色する際に用いる道具(たとえば刷毛やスプレーなど)」や「着色している人」
と区別がつかないという問題がありました。
ですから、それらとの混同を避けるために、新しい接尾辞を導入したってことなんですね。

この接尾辞はまだあまり使われていなくてNPIVや『エスペラント日本語辞典』にも収録され
ていませんが、しかし私は、とても役に立つものであると考えています。

だいたい「着色料」なんてものは(文明社会に住んでいるふつうの成人ならば)誰でも知っ
てるわけですし、これがすんなり表現できないと、食の安全について話すことも出来ないわ
けですからね。
---

この -enzo という接尾辞が提案されたのはかなり以前のことらしくて、私の知るかぎりで
は1988年に出版された『Esperanta Bildvortaro』に載ってるものがいちばん古いんですね。
(しかし初めて提案されたのは、もっと前だと思います)

巻末の索引を見てみますと、ここには kolorigenzo も載ってますし、それ以外にも

mal-varm-ig-enzo  冷媒
aglomer-enzo  (アスファルト舗装をするための機械のなかで使うものらしいですが、それ
           以上のことは判りません) 196/53
blank-ig-enzo  漂白剤
buŝ-freŝ-ig-enzo  洗口液
dilu-enzo  希釈液、薄め液、シンナー
kontraŭ-lik-enzo  (正式な名称は判りませんが)ガス漏れを防ぐための薬物 148/60
makul-for-ig-enzo  しみ抜きのための薬品
moder-ig-enzo  減速剤
rivel-ad-halt-ig-enzo  現像停止液
sen-infekt-ig-enzo  消毒薬、殺菌剤
tip-pur-ig-enzo  タイプライターの活字をきれいにするための薬品
ungo-lak-for-ig-enzo  除光液、ネイルリムーバー
veld-enzo  (正式な名称は判りませんが)溶接に使う薬物 135/45
vulkaniz-enzo  加硫剤
oksid-enzo  酸化剤
solv-enzo  溶剤

といったものが載っています。

一般人でも知ってるものもあれば、専門家以外には必要が無さそうなものもありますね。
---

それから『Akademiaj Studoj 1988-1990』の276〜300ページに収められている Doug Po-
rtmann(執筆)「Listo de novaj terminoj ― precipe kemiaj ― uzataj en projekto "ĜOBK"」
という化学用語のエス訳語を提案する論文のなかにも -enzo を使った用語がいくつか出て
きます。

adher-enzo  接着剤、粘着剤
adstring-enzo  収斂剤
desinfekt-enzo  消毒薬、殺菌剤
for-pel-enzo  防虫剤
frid-ig-enzo  冷媒
humid-ig-enzo  湿潤剤
indik-enzo  指示薬
inhib-enzo  防止剤、阻止剤
mal-streĉ-enzo  弛緩薬、緩下薬
oksid-iĝ-inhib-enzo  酸化防止剤
polu-enzo  汚染物質
re-ag-enzo  試薬
solv-enzo  溶剤
trac-enzo  トレーサー
kataliz-enzo  触媒
konserv-enzo  保存料
dilat-enzo  拡張薬
frost-ig-enzo  保冷剤

やはりこちらは、一般人には馴染みのないものが多いですね。

248松戸彩苑:2008/02/23(土) 03:35:48
>>247 の続き)

また、1995年に出版された Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dic-
tionary』の巻末には、この辞書において新たに導入された新語をまとめて紹介しているペ
ージがあるんですが、このなかに -enzo があります。

  -enzo, (nacilingve, "-ence" k.s.), teknika sufikso indikanta substancon kiu plenumas
  la agon de la radiko (ekz-e: halucinenzo, solvenzo, rivelenzo)

  (同書599ページ)
---

考えてみれば、食品に添加されてるのは「着色料」「保存料」「酸化防止剤」だけではない
んですね。
この他にも、調べてみますと「乳化剤」「pH調整剤」「増粘剤」「発色剤」なんてものも入って
たりするんですね。

『エスペラント日本語辞典』を調べてみますと「乳化剤」については emulsiilo というのが載っ
ています。
しかしこれも emulsi-enzo としたほうが良いように思いますね。

この辞書には、残りの「pH調整剤」「増粘剤」「発色剤」は載っていません。
---

また、大きなドラッグストアやホームセンターなどに行きますと、実にさまざまな化学製品が
並んでいるわけです。

思いつくものを挙げてみても「整髪料」「育毛剤」「入浴剤」「入れ歯安定剤」… などがある
わけですね。

「整髪料」は har-aranĝ-enzo、「育毛剤」は har-nutr-enzo とでもすれば良いと思います。

しかし「入浴剤」「入れ歯安定剤」は何と表現すれば良いですかね?
ちなみに英語では bath additive、denture adhesive と言うらしいですが。
---

いずれにしましても、-enzo という接尾辞はNPIVや『エスペラント日本語辞典』には載って
いませんが、しかしすでに複数の文献において使われてるものであり、また実際に役に立
つものだということがお判りになったことと思います。

現代の文明社会においては、さまざまな化学製品が日常生活のすみずみにまで入り込ん
でいますから、-enzo のような接尾辞も必要だというわけですね。

なお、先述の『Akademiaj Studoj 1988-1990』所収の Doug Portmann 氏の論文には -ezo
という接尾辞も出てくるんですね。
これは、-enzo が「〜する薬物」を表わすのに対して、「〜される薬物」を表わすんだそうで
す(同書295ページ)。
ここには -ezo を使った語は solv-ezo(溶質)しか載っていませんが、こういう表現も専門
家には必要なのだろうと思われます。

(終わり)

249松戸彩苑:2008/03/09(日) 11:59:36
今回は、私がいかにして「エスペラントにおいて不足・混乱している語彙・表現」を見つけだ
しているのか、ということについてお話してみようと思います。
---

とは言っても、それは簡単です。

たとえば街を歩いていて電光掲示板があるのに気づいたら「電光掲示板ってエスペラント
ではどう言うんだろう?」と考えるわけです。
で、判らなかったら、あとで調べるために、メモ帳に「電光掲示板」と書いておくわけです。
また、そのときに自己流の造語が思いついたら、それも当然メモしておくんですね。

このほかにも、街のなかで見かけた言葉や文章、あるいは通りすがりの人たちの会話の
なかなどにも「これはエスペラントでどう表現するのか?」と思わせるようなものがあります
ので、そういうものをメモしておいて、あとで調べたり、自分だったらどう表現するかといっ
たことを考えたりするんですね。

当然のことながら、そういったものは私がつねづね申し上げているような「現代の文明社会
に住んでいるふつうの成人であれば、誰でも知っているような物・事を表わす語彙・表現」
を最優先にすべきなんですね。
そういうものであるかどうかということを考える必要があります。

それからいちおう言っておきますと、こういった作業を生真面目にやっていたのでは、日常
生活ができなくなりますから、時間のあるときに、たまたま気づいたものだけをメモしていけ
ば良いんですね。

私は「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば、誰でも知っているような物・
事を表わす語彙・表現」を整備すべきであると申し上げてはおりますが、べつに、こういった
語彙・表現を「すべて」作ろうだなどとは考えてないんですね。

ひとりひとりの出来る範囲内でやれば、それで最善を尽くしたと言えるだろうし、その程度で
あってもエスペラントの発展におおいに寄与すると思うんですよね。

ということで私は10年以上にわたって、つねにA6判(文庫本サイズ)のノートと、黒・赤・青
のボールペンを持ち歩いています。
---

このほかにも、エスペラントの本を読んだり、あるいはエスペラントで誰かと話をしているとき
などに、エスペラントの問題に気づくことがあります。

たとえば、例はちょっと古いのですが、たまたま私の手元にある「El Popola Ĉinio」1990年
8月号の36〜37ページに「Hejmo de pentristoj」という記事があります。

この記事は、中国のとある芸術家が、詩人・画家・書道家などのためのセンターを作ろうと
思い立って努力した結果、数百人の芸術家が集まって活動するようになったという内容なん
ですが、このなかに

  Poste, ili kunlabore kun aliaj eldonis la bildlibron kun poeziaĵo "Granda Muro".

って書いてあったんですね。

で、私は最初「絵本を出版したのか」って思ったんですが、しかしよく考えてみますと「万里の
長城という詩が載っている bildlibro」って書いてありますので、これは子供むけの「絵本」では
なく「(書)画集」のことなのかなぁって気もしたんですね。

この本が実際にはどっちなのかは判らないのですが、しかし少なくとも、エスペラントでは「絵
本」と「画集」との区別がアイマイなのではないかということは判ったわけです。
---

ということで、こういった作業をみんなで(できる範囲内で)やっていけば良いと思いますね。

(終わり)

250松戸彩苑:2008/03/09(日) 14:02:37
エスペラント界の常識には、よく考えてみると、おかしいものがたくさんあります。

たとえば、最近では「民族語の標準語には、あるていど人為的に作られた部分がある」と
言われるようになりました。
これは事実であって、言語学の本などを見ても、そういったことが書いてあったりします。

一方、エスペラント界では昔から「エスペラントというのは、使っているうちに自然に発展し
ていく」と言われてるんですね。

で、この2つの説を組み合わせると、おかしなことになります。
つまり

  自然語(の標準語)には人為的に作られた部分があるのに、人工語(であるエスペラン
  ト)は自然に発展する。

もっと単純化しますと

  自然語には人工的な部分があるのに、人工語は自然に発展する。

ということになってしまって、何ともヘンなわけです。

で、どちらかがおかしいという事になるわけですが、これはもちろん「エスペラントは自然に
発展する」というほうが間違ってるんですね。

エスペラントの歴史をみてみれば、エスペラントというのは(ザメンホフをはじめとする)欧米
の主要言語とエスペラントに堪能な人たちによって「人為的に」作られてきたものなんです
ね。

そもそもエスペラントというのは、合成語をつくるにしても、新語根を導入するにしても(民族
語とは違って)「論理性」とか「国際性」といったものを考慮しないといけないわけですから、
民族語の標準語以上に人為的に作っていかないと、とても「論理性」や「国際性」を維持し
ながら発展させることは出来ないわけです。

こういう事にまったく気づかないまま、エスペランティストたちは今でも「エスペラントは使って
いるうちに自然に発展していくんです」などと宣伝しているわけですが、言語学者がこれを見
聞きすれば「やっぱりシロウトだな」「これじゃあダメだ」と思うでしょうし、また一般の人たち
にしても「人工語は自然に発展する」という理屈に何となく胡散くささを感じるのではないでし
ょうか。

(終わり)

251松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:16:52
『エスペラント日本語辞典』の dividi の副見出しのところに labor-divido という合成語が載
っていまして「分業、作業分担、ワークシェアリング」という訳がついています。

一見しますとこれで良いように思われるかもしれませんが、しかし考えてみますと「分業」と
「ワークシェアリング」というのはまったく異なるものなんですね。

分業というのは「能率を上げるために、一人一人の仕事の内容を特化する」ということです。
一方、ワークシェアリングは「一人あたりの労働時間と賃金を少しずつ減らして、雇用の機
会を増やす」ことなんですね。

英語では「分業」は division of labo(u)r、「ワークシェアリング」は work-sharing、フランス語
では「分業」は division du travail、「ワークシェアリング」は travail partag@、そしてドイツ語
では「分業」は Arbeitsteilung、「ワークシェアリング」は Arbeitsaufteilung または Arbeits-
umverteilung と言うようです。

つまり、英・仏・独語(そして日本語)においては「分業」と「ワークシェアリング」を異なる表
現で表わしているんですね。
こういったことを考えますと、やはりエスペラントにおいてもこれらを区別しておいてほうが
良いと思います。

しかし今のところ、私にも適当な案はありません。
ふだん「エスペラントの造語力」を力説されている方が良いアイディアを出してくださることを
期待しております。

(なお、NPIVには labor-divido は収録されていません)

252松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:19:05
>>251 に訂正。

travail partag@ → travail partagé

253松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:56:03
『エスペラント日本語辞典』の verŝi を見てみますと「つぐ、そそぐ、こぼす、流す」と書いて
あります。
しかし、よく考えてみますと「つぐ」と「こぼす」はぜんぜん違うものなんですよね。
やろうとしてることは同じなんですが、結果が徹底的に違うわけです。

エスペラントって「つぐ」と「こぼす」の区別もつかないのか?と思いながら、今度は Benson
の英エス辞典で pour と spill を調べてみたところ、pour のところには verŝi と書いてある
んですが、spill のほうには dis-verŝi と書いてあるんですね。

私はアレっと思って、次に Wells の辞書の英エスの部の pour と spill の項を見てみたんで
すが、やはり同じなんですね。

で、最後にNPIVを見てみますと、verŝi のほうには「〜i vinon el botelo en glason」「〜i bo-
lantan akvon sur teon」といった用例が載っているのに対して、dis-verŝi の項には「dis〜i
inkon sur paperojn」「dis〜i saŭcon sur tablotukon」といった用例が添えられているんです
ね。

ということで、どうやら国際的には「つぐ = verŝi」「こぼす = dis-verŝi」というのが定着し
ているのに、日本のエスペランティストはそれに気づいていないらしいということが判りまし
た。

ちなみに『エスペラント日本語辞典』にも dis-verŝi は収録されているのですが「〈液体を〉
まき散らす」となっています。

たしかに細かいニュアンスは、なかなか判りにくいだろうとは思います。
しかし私に言わせれば、「つぐ」と「こぼす」というものはまったく違うということくらいには気
づいても良かったんじゃないかと思うんですね。

254松戸彩苑:2008/03/29(土) 13:00:39
>>253 に訂正。

4行目の「やろうとしてることは同じなんですが、結果が徹底的に違うわけです」を削除しま
す。

「つごうとして失敗する」ことを念頭においていたためこのように書いたわけですが、しかし
「うっかりぶつけてぶちまける」ということもあるんですよね。

255松戸彩苑:2008/04/19(土) 14:19:52
「興ざめだ」というのをエスペラントでどう言うのだろうと思って『日本語エスペラント辞典』を
引いてみますと

  きょうざめ 【興醒め】 malintereso; seninteresiĝo; malamuzo. まったく〜だ Estas kom-
  plete malinterese. (後略)

と書いてあります。

「まぁこんなものかな?」とも思いましたが、しかしよく考えてみますと malintereso は「興味
深くないこと」、seninteresiĝo は「興味が無くなること」、そして malamuzo は「面白くないこ
と」といった程度の意味しか無いように思われるんですね。

つまり「興ざめ」という言葉のエス訳語としては、どれもイマイチだって感じがするんですね。

で、私が最近考え出したのが etos-rompo という表現なんですね。
これならば「興ざめだ」を Kia etos-rompo! と言えますし、「その場の雰囲気を台無しにす
る人」のことを etos-romp-ulo あるいは etos-romp-anto などと言うことも出来ます。

自画自賛になってしまいますが、『日本語エスペラント辞典』に載ってる表現よりもはるかに
正確で良いと思います。

ひょっとしたら etos-rompo という表現を、すでに誰かが作っているかもしれないとも思いま
したが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』にも載っていませんし、また Google で「etos-
romp」「etosromp」で検索してみましたが、まったくヒットしませんでした。
---

この『日本語エスペラント辞典』というのは、UEAの文芸コンクールで賞を取ったこともある
宮本正男氏が執筆し、それを数名のベテランの日本人エスペランティストが原稿の段階で
通読して、助言を与えて成立したというものなんですね。

でも、この「興ざめ」という表現に関しては、私のほうが良かったりするわけです。

もちろんこれは、私のほうがエスペラントの能力が高かったり、あるいは頭が良かったりす
るってわけではないんですね。

結局、こういう表現というのは、よく考えればけっこう良いものが出来たりするんですが、し
かし、かなりの時間をかけて考えないと、なかなか出来ないって事なんですね。

256松戸彩苑:2008/04/19(土) 14:22:11
>>255 の続き)

私は以前から気になっていたのですが、このように私が合成によって新しい語彙・表現を
作ってみせても、「ほら、やっぱり合成でうまく行ったじゃないか」「だから、今までのエスペ
ラントの理論は正しいんだ」などとカン違いしてしまう人がいるんじゃないかと思うんですが、
こういった誤解を無くすための説明が必要だと思います。

このような誤解をする人たちというのは

  etos-rompo という表現は、etos' や romp' という語根が存在しはじめた時から、すでに
  「エスペラントに内在していた」。

というような考え方をしているのではないでしょうか。

ですから、私がさんざん頭を悩まして作りだした etos-rompo という表現も、ただ単に「大昔
からエスペラントに内在していたものを運よく掘り当てた」くらいにしか思わないのではない
でしょうか。

でもこれは明らかに間違った考え方なんですね。

新語根に反対する人たちは「安易な新語根導入に反対する」と言ってるわけですが、この
人たちの言うとおりであって、新語根の導入というのは「安易」「簡単」なことなんですね。

逆に、合成によって必要な語彙・表現を作りだすのは、はるかに「困難」なことなんですね。

ですから私は「今のうちから日常生活に関する語彙・表現を整備していかないとマズイです
よ」と言ってるわけです。
---

また、こういう例を出せば判りやすいかも知れません。

日本語には「電話」という表現がありますが、Wiktionary によりますと

  1876年ベルによる発明の翌年には、日本に「伝話」と訳され紹介されたが、1883年頃に
  工部省電信局において、telephoneの訳語として「電話」の語が作られた。

  http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1

んだそうです。

ご存じの方も多いと思いますが、telephone の tele というのはギリシャ語で「遠い」という意
味で、phone というのは「声」ですから、「電話」という表現は telephone の単純な「なぞり」
によって出来たものではないんですね。
つまり、ネーミングの上手な人物による、かなり独創的な訳語なんですね。

そういうものが日本だけでなく、中国語や韓国語にまで入って使われているというのは大し
たものだと思います。

で、考えてみますと「電」も「話」も2000年以上前からある文字ですが、しかし

  「電話」という表現は、2000年以上前から漢字のなかに内在していた。

などとは誰も考えないでしょう。

合成によって新しい語彙・表現を作りだすときの苦労というものがまったく判らない人たちが、
出来あがった表現だけを見ると、ただ単に「誰でも知ってる2つの漢字(あるいは語根)をくっ
つけただけ」みたいに見えてしまうのでしょうが、決してそういうものではないのですね。

(終わり)

257松戸彩苑:2008/04/20(日) 20:29:06
  tri anguloj
  trianguloj

上のほうは「3つの角」で、下のほうは「(複数の)三角形」ですね。
これらは字で書いてある場合は、混同される可能性は無いんですが、しかし口頭で発音し
ますと、どちらも tri an gu loj ということになって区別がつかないんですよね。

こういうのを見ますと、やはり「エスペラントというのは民族語とは違って、書き言葉として発
展してきたんだなぁ」ということを痛感せずにはいられません。

エスペラントを数学の分野で利用するという方が少数ながらいらっしゃいますが、こういった
問題に気づいた人が、これまでまったくいなかったんでしょうかね?
なんだか不思議な感じがします。

このままでは、エスペラントで数学を教える学校ができた場合に、授業が混乱することは目
に見えていますので、私は「3つの角」のほうを trio da anguloj と言えば良いんじゃないか
と思ってるんですね。

(あるいは「3つの角」 tri anguloj はそのままにして、「三角形」のほうを tri-angul-aĵo ある
いは tri-angul-umo のように表現するという方法もありますが)

これでこの問題はなんとか解決しそうなんですが、しかし、この問題というのは要するに

  「数詞」が先頭にくるような合成語は、場合によっては紛らわしいことがある。

ってことなんですね。
---

また、この他にもこんな例があります。

  kun laborantoj
  kunlaborantoj

上は「労働者たちと一緒に」という意味で、下は「協力者たち」という意味ですね。
これも、ゆっくり丁寧に発音すれば区別できますが、早口ですと区別がつかなくなりそうです。

つまり

  「前置詞」が先頭にくるような合成語は、場合によっては紛らわしいことがある。

ということもあるわけですね。

現在のエスペラントには前置詞が先頭にくる合成語がたくさんありますが、私は以上のよう
な理由から、前置詞が先頭にくるような合成語をできるだけ作らないように心がけています。

(終わり)

258Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/04/22(火) 22:30:49
>>255
松戸彩苑さんのほうが宮本正男より絶対に頭がいいですよ。
宮本には逢ったことがありますが、知的レベルの低さに
呆れました。

259松戸彩苑:2008/04/26(土) 11:17:50
>>258
拙文を読んでくださってありがとうございます。

260松戸彩苑:2008/04/26(土) 12:01:36
>>257 で tri anguloj と trianguloj について論じましたが、これに関してさらに考えたことが
ありますので、続きを書くことにします。

  dek tri anguloj 「13個の角」
  dek trianguloj  「10個の三角形」
  dektrianguloj  「(複数の)十三角形」

これらも発音では区別することが出来ないんですね。

で、>>257 で「三角形」を tri-angul-aĵo あるいは tri-angul-umo とするということを提案し
ましたが、これだと

  dek triangul-aĵoj、dek triangul-umoj 「10個の三角形」
  dektriangul-aĵoj、dektriangul-umoj  「(複数の)十三角形」

となってしまって、やはり口頭では区別がつかないんですね。
(ですから、この提案は撤回いたします)

ということで「〜o da 〜」という表現法を使って

  dek trio da anguloj 「13個の角」
  deko da trianguloj  「10個の三角形」
  dektrianguloj     「(複数の)十三角形」

とすれば、口頭でも区別ができるわけですね。
---

これでめでたしめでたし … と言いたいところですが、よく考えてみますと deko da というの
は「10個くらい」という概数を表わす表現としてすでに定着してるんですよね。
ですから deko da trianguloj では「10個くらいの三角形」という意味になってしまいます。

しかし私は dek-ĝusto da 「10個ちょうどの」という表現を考えだしたんですね。
これを使えば、問題が解決すると思います。
---

余談になりますが、「10代の(10〜19の)」というのを表わすのに dek-plusa という表現を
使えば良いんじゃないかと私は考えました。

この表現を使えば「10代の人」は dek-plus-ulo となりますし、「30代の人20人」は du-
dek-ĝusto da tri-dek-plus-uloj と言うことが出来るわけですね。
---

さて、angulo というのが「角」と「〜角形」の両方の意味で使われるために、これまで説明し
てきたような混乱が生じるわけですが、このほかにも

  latero 「辺、〜辺形」
  edro  「面、〜面体」

というのも同様の問題を抱えているんですね。
ですから

  kvar lateroj 「4つの辺」
  kvarlateroj  「(複数の)四辺形」

とか

  dek du edroj 「12の面」
  dekduedroj  「十二面体」

のようになってしまいます。

これらも、上のほうを「〜o da 〜」という形にして区別すべきだと思います。

(終わり)

261松戸彩苑:2008/04/26(土) 13:35:46
私がこのスレをつうじて主張しているのは

(1) エスペラントは本来「宝石」のように素晴らしいものであるが、まだ磨き方が足りなく
    て、能力をフルに発揮できるようにはなっていない。

(2) だから、みんなで磨いていこう。

ということなんですね。

「エスペラントはすでに民族語に匹敵するだけのレベルに達している」という宣伝文句を鵜
呑みにしている大部分のエスペランティストたちにとっては、私の書き込みは「マイナス面
だけを見ている」もののように感じられるのでしょうが、決してそうではありません。

私は、コンピューターの世界で言うところの「デバッグ」をしているわけなんですね。

「専門家しか知らない物・事」や「一部の地域の人しか知らない物・事」などはエスペラント
で表現できなくても仕方がないと思いますが、

  現在の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような物・事

については、すんなりと表現できないとダメだと私は考えるのです。

また、発表以来120年もたっているのに今のようなレベルだということは、今までのような
事をやっていたのではダメだろうとも思うわけです。

262松戸彩苑:2008/06/04(水) 20:56:08
英語の baseball、basketball、volleyball といった単語には「野球」「バスケットボール」「バレ
ーボール」といった意味のほかに「野球のボール」…という意味もあるんですね。

ですから「野球のボールを投げる」は to throw a baseball と言うらしいです。

「球技名」と「その球技で用いられるボール」とが一緒というのは、日本人の感覚からすると
少しヘンなんですが、まぁ英語ではそうなってるんですね。

で、英語はどうでも良いんですが、問題はエスペラントです。
エスペラントでは「野球のボール」をどう言うのか?

NPIVの pilko の項を見てみますと 〜pilko という合成語がいくつか載ってるんですが、定義
を見ますと、すべて sporto のことなんですね。
『エス日』の pilko の項も、やはりそうなっています。

じゃあ「野球のボール」は baz-pilka pilko になるのかな?とも思ったんですが、そういったこ
とはNPIVや『エス日』を見てもまったく判らないんですね。

「さすが、エスペラント界はスポーツに関心のない人間が集まってるだけあって、120年たっ
てもこんなことが決まってないのか」と思ったんですが、思い直して『Esperanta Bildvortaro』
を調べてみたところ、275/54 に野球のボールの絵がありまして bazo-pilko という訳語が与
えられていたんですね。

また 276/47 にはバレーボールのボールの絵が描いてあって、ここには flug-pilko と書い
てありました。

つまり『Esperanta Bildvortaro』では英語式になってたんですね。
---

しかし考えてみますと、そもそもエスペラントにおいて「球技名」が 〜pilko となっているとい
うあたりからしてすでにおかしいのではないか?英語では良いだろうが、エスペラントでは
おかしくないか?という気もしてくるんですね。

実際、ヨーロッパのエスペラント辞典を調べますと、baz-pilk-ludo あるいは baz-pilk-ado の
ような表現が載ってることがあります。

この表現を使えば「球技名」と「ボール」とを区別することが出来たりもするんですが、とにか
くエスペラント界というのはスポーツには関心がないみたいで、こういった提案もあんまり注
目されてないように思われます。
まぁ「長すぎる」ということもあるんでしょうけどね。

(終わり)

263松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:29:17
今回はいつもと違って、かなり長めの文章を掲載します。
---

「1905年に Fundamento de Esperanto が採択され、これによってエスペラントの改造が
禁止された」

このような解釈が現在にいたるまで「エスペラント界の常識」になってるわけですが、しか
し、この解釈ではどうにも説明できない事があるんですね。

それは、ザメンホフの著作や、いとうかんじ氏のザメンホフ研究書を読んだことのある人で
あれば「ザメンホフ自身が1905年以降にエスペラントの改造案を何度も発表している」と
いう事実をご存じだと思いますが、この理由がまったく説明できないわけです。

このうち、1906年1月18日づけで Javal に送った改造案(pvz 06-13)と、同年11月22
日づけで Boirac に送った改造案(06-115)については、「Javal に気に入られるようにと
考えて送ったものだ」という説があります。

また、1907年12月20日づけの改造案(07-133)にしても、「Ido の支持者に少し妥協し
て、騒動を収めるためにしたことだ」という解釈があります。

しかし、1909年1月5日づけで言語委員会に送った改造案(09-05)や、1915年に執筆
されたと推測されている「Porĉiama revizio de Esperanto」(15-11)については、どのように
解釈したら良いのでしょうか。
---

結論から言ってしまえば、Fundamento de Esperanto の序文には「変更」はいけないが
「改良」は出来る、と書いてあるんですね。

こんなことを言われても、どういう意味だか判らないだろうと思いますが、Fundamento de
Esperanto の後ろのほうに、こんなふうに書いてあるんですね。

  「たとえ明らかな誤りがあったとしても、我われの言語の基礎にはぜったいに手を触れ
  てはならない」と、私は述べた。こう言うと、我われの言語はきわめて硬直的で、発展
  の余地がないと思う人もいることだろう。……とんでもない。基礎は厳重に不可侵であ
  るが、たえず内容を充実させるだけでなく、たえず改良し完成へ向かう可能性がじゅう
  ぶんあるのだ。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』153ページ)

これだけを読みますと「たしかに改良と書いてあるが、これは新語根の導入のことなんじゃ
ないか」と思われるかもしれません。
たしかに新語根の導入も「改良」の一方法ではあるんですが、しかし先に引用した箇所の
すこし後に、こんなふうに書いてあります。

  二、「我われの言語のうちある種の単語や規則があまりに不都合だ」と、権威ある中央
  機関が認めた場合は、それをただちに取り除いたり変えたりしないで、新しい語形を提
  案し、古い語形と並行して用いるように勧告すればよい。時間とともに新しい語形は古い
  語形を徐々に排除し、古い語形は死語となるだろう。あらゆる自然言語でも起こってい
  ることだ。ただし、こういう古語は、もともと『エスペラントの基礎』の一部となっているの
  で、まったく捨て去られることはなく、新しい語形と並んで学習書や辞書に掲載される。
  このようにすれば、言語がもっとも完成した段階でも、エスペラントの統一が損なわれる
  ことはなく、最初期のエスペラント作品といえども後世の人びとによってその価値を失わ
  ず、よく理解されると、確信してもよい。

  (同書154〜155ページ)

この引用文のなかで注目すべきなのは

  ただし、こういう古語は、もともと『エスペラントの基礎』の一部となっているので

という部分です。

これは要するに「Fundamento de Esperanto の一部分であるところの Universala Vortaro
に含まれている語根であっても、これに代わる新しい語形を提案することが出来る」ってこ
となんですね。

そのように解釈しないと、この部分がまったく理解できないわけです。
ですから、そのように解釈すべきだと私は思います。

264松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:32:00
>>263 の続き)

しかし当然のことながら、このように言っても、まだ疑問は残るわけですね。
「じゃあ、Fundamento de Esperanto の前半部分でエスペラントの改造をさんざん批判して
たのは何なんだよ?」という問いが当然出てくることと思います。

先の引用文のなかには

  「我われの言語のうちある種の単語や規則があまりに不都合だ」と、権威ある中央機関
  が認めた場合は、それをただちに取り除いたり変えたりしないで、新しい語形を提案し、
  古い語形と並行して用いるように勧告すればよい。

と書いてありましたが、ザメンホフが批判していたのは、この

  不都合な単語や規則があった場合に「ただちに取り除いたり変えたりする」

ことなんですね。
これが彼の言う「改造」「破壊」「変更」であり、絶対にやってはいけない事なのです。
逆に、彼が勧めていたのは

  不都合な単語や規則があった場合には

  (1) 権威ある中央機関が、新しい語形を提案し、古い語形と並行して用いるように勧
      告する。

  (2) 時間とともに新しい語形は古い語形を徐々に排除し、古い語形は死語となる。

  (3) ただし古い語形は、新しい語形と並んで学習書や辞書に収録しなければならない。

という方法だったわけです。

つまり、ザメンホフは「手続き」にこだわってたってだけなんですね。
後者のちゃんとした手続きさえ踏めば、たとえ Universala Vortaro に含まれている語根で
あっても、それに代わる新しい語形を提案することが出来るが、前者のようなやりかたは
絶対にダメなんだということを言ってただけだと私は解釈しております。
---

これまでの話を判りやすく具体的に言えば、語根Aがあるのだが、なんらかの理由で都合
が悪いので語根Bを提案するというのは良いんですが、この時にいきなり「これからは語
根Bを使うから、語根Aを使うことは一切まかりならん」と言ってしまって、さらには辞書から
も語根Aの記述を削除してしまう、みたいなことをすると混乱するのでダメなわけです。

だから「語根Bを使いましょう」と勧告しつつ、しばらくのあいだ「試用期間」を設けて、両方
を併用しようって事なんですね。
語根Bがエスペラント界全体に広まるのに多少時間がかかるということの他に、しばらく使
ってるうちに、語根Bのほうに不都合な点が見つかるかもしれないわけですから、併用す
る期間も必要だろうと考えたのでしょう。

で、語根Bをしばらく使ってみて「やっぱり語根Bのほうが良いな」という事がみんなに判れ
ば、語根Aのほうが使われなくなって死語になっていくわけです。

しかし、辞書から語根Aの項目が無くなってしまいますと、語根Bしか知らない人たちには
理解することが出来なくなりますので、「かつて語根Aというのが使われていた」という情報
をちゃんと残しておいてくださいよ、とザメンホフは言ったわけなんですね。

で、こういうふうにするのであれば、Universala Vortaro に含まれている語根であっても、
別の語形を提案することが出来るということなんですね。
---

しかし、ここまで論じても、まだまだ疑問は無くならないのが当然だと思います。

たとえば『Lingvaj respondoj』の54(pvz 04-50)には「ŝipo という語根がすでにあるから、
ŝipo の代わりに navo などという語根を提案してはいけない」と書いてたではないか、と
おっしゃる方がおられるかもしれませんね。

しかし、この文を注意ぶかく読んでみると判るのですが「ŝipo という語が《気に入らない》
という理由で navo を提案するのはダメ」ということなんですね。

ですから、もっとマトモな理由があって、そして先述の正しい手続きにしたがうのであれば、
ŝipo の代わりに navo を導入しても構わないはずなんですね。

265松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:36:26
>>264 の続き)

これだけ説明すれば、ザメンホフが1905年以降に改造案を何度も送ったことも不思議で
はないという事になるのではないでしょうか。

先の引用文のなかに「権威ある中央機関」というのが出てきましたが、1905年に言語委
員会(Lingva Komitato)が発足してるんですね。

これが彼の言う「権威ある中央機関」ですので、ザメンホフは1905年以降、言語委員会
に対して改造案を送ったということなんですね。

このように考えていけば、ザメンホフの言動と行動にはなんら矛盾が無いということになる
はずです。

そもそもザメンホフは、1887年に発表した時点で「エスペラントは将来、改造しなければな
らない」と考えていたわけです。

それは1887年に出版した『国際語』(『第一書』)のなかに「改造すべき点について教えて
ほしい」と書いていたことでも判るんですが、私の推測では、それだけではないんですね。

原エスペラント(pra-Esperanto)というのがありますが、あれを見ますと、民族語から単語を
採用しているんですが、かなり単語を短くしてるんですね。

一方、1887年に発表した現在のエスペラントは、欧州各国語から単語を採用しています
が、名詞・動詞・形容詞などについては、ほとんど元の語形のままなんですね。

私はこれを見て

  ザメンホフは最初「発音しやすい人工語を作ろう」と努力していたが、しかしそのために
  単語を短くすると、発音は容易になるが、憶えるのがかえって困難になるということに
  気がついた。

  これでは「学習しやすい人工語」ではなくなってしまう。

  この時にザメンホフは「ラテン語が変化して、ロマンス諸語ができていった」ということを
  思い出したのではないでしょうか。
  そして、それを思い出したとき「最初っから発音しやすい言葉をつくる必要は無いんだな」
  と考えたはずです。

  「少々発音は困難になるかもしれないが、最初は、民族語で使われている単語をその
  まま採用することにしよう。そのほうが学習も容易なので、話者が増えやすいだろうし」
  「で、あとで徐々に、みんなの意見も参考にして、より発音しやすく改良していこう」と考
  えたのではないでしょうか。

  このように方針を大転換して、単語をほとんど元の語形のままで採用することにして出
  来たのがエスペラントだった。

という事なのではないかと想像したのですが、このように考えていたのであれば、1905年
以降に改造案を何度も提出したのも当然だと思うんですね。
---

これで納得していただけたのではないかと思うんですが、しかしそうしますと「どうして Fun-
damento de Esperanto は判りにくいのか」という点が不思議に思えてきます。

これはまったくの推測なんですが、ザメンホフは「わざと判りにくく書いた」のではないでしょ
うか。

ザメンホフとしては、本気で改造案を提案しようと思っていて、そのために1905年に言語
委員会も発足させたわけですが、しかしその少し前からテオフィル・カールという人物に、
ザメンホフが導入した新語根を批判されてたんですね。

このカールは新語根にさえ猛反対するくらいですから、改造案なんかに賛成するわけが絶
対に無いわけです。

しかし改造案を出さなければエスペラントは発展していかないと考えているザメンホフは、
なんとしてでも「正しい手順をとりさえすれば、改造は可能である」ということを訴える必要
があったわけです。

またザメンホフにしても「安易な改造」については禁止しておきたかったわけです。

そういう事情があったので、Fundamento de Esperanto は判りにくく書かれざるを得なかっ
たのだと私は思います。

266松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:37:57
>>265 の続き)

Fundamento de Esperanto の前半部分を読みますと「かなり極端なことを言ってるなぁ」と
いう印象を受けます。

「絶対不可侵」を謳うのはまだ判るのですが、しかし Universala Vortaro の民族語訳に誤
りが多いことを承知のうえで、しかしなおかつ「絶対不可侵だから直さない」などと言ってる
のには、ちょっと付いていけないって感じがしますね。

これは、カールのような人物を安心させるために、わざと極端に書いているのではないか
とさえ私には思えたのですが、みなさんはどう思われますでしょうか。

そして、前半部分で不自然なほどに「絶対不可侵」を謳っておいてさんざん目くらましをした
あとで、先に引用した「しかし改良は可能だ」というのをこっそり持ち出すんですね。

そして、この部分の解釈は、先に述べたとおりなんですが、よくよく注意ぶかく読まないと
絶対に誤解するように書いてあったわけです。

ザメンホフもだますつもりは無かったのかもしれませんが、正面から理論的に説明しても、
納得してはくれないだろうなぁと考えて、こんな判りにくい書き方をしたのではないでしょう
かね。
---

で、何はともあれ Fundamento de Esperanto が採択され、言語委員会も発足したので、
ザメンホフは(一個人の資格で)言語委員会に何度も改造案を送ったのですが、当然の
ことながら理解されなかったわけです。

Fundamento de Esperanto をふつうに読めば「基礎的な語根は絶対に改造できない」とし
か読めないわけですから、当然なんですね。
ザメンホフは、カールのような人物を煙にまくために極端なまでに絶対不可侵を強調した
のですが、それが裏目に出てしまったのだと私は思います。

もっとも、ザメンホフの言わんとしたことを理解した人もいたのかもしれません。
たとえば言語委員会の委員長になった Boirac という人は哲学の先生だったそうですから、
たぶん Fundamento de Esperanto の序文のほんとうの意味を理解できたんじゃないかと
私は勝手に想像してるんですが、しかし彼は、理解はしたが、拒否したのではないかと思い
ますね。

ということでザメンホフは、自分の改造案が受け入れられないまま亡くなりました。
そして、これまで「ザメンホフが1905年以降に、改造案を何度も出していた」という事実が
謎とされてきたわけです。
(もっとも、大部分のエスペランティストは、こんな歴史的事実さえ、まったく知らないのでし
ょうが)

私は10年ほど前に、この謎を解明するために3巻ものの pvz を買いまして、重要な文章を
読んで、あれこれ考えて、これまでに述べたようなことを思いついたわけです。
100%正しいかどうかは判りませんが、しかしかなりの程度ツジツマが合っているのでは
ないかと自負しております。

私はこれまで、このスレにおいて「場合によっては Universala Vortaro に含まれているよ
うな語根についても、新しい語形を提案しても良いのではないか」と論じてきましたが、この
ような大胆なことを自信をもって主張することが出来たのは、ここに書いてきたようなことを
考えていたからです。

今まで「松戸彩苑は Fundamento de Esperanto の不可侵性を無視するつもりなのか」とい
ぶかっておられた方も少なくないと思いますが、これで(それなりに)納得していただけたの
ではないかと思います。

今後、やる気と時間があれば、ザメンホフが提案した新語根について詳しく見ていくような
文章を書くつもりです。

(終わり)

267松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:14:33
>>263-266 に対する補足なのですが、「ザメンホフは改造を認めていた」ということを証明
する文章がありましたので、以下に引用します。

1908年にドレスデンで開かれた第4回UKでの演説のなかで、ザメンホフは Ido 騒動につ
いて話しているのですが、そこで次のように言っています。

  この件のいきさつについては、お話ししたくありません。ただ、次のように言うだけにいた
  します。「我われはみな国際語思想の代表者だ。その思想はめいめいが思いどおりに
  扱ってもよろしいが、とにかく誠実に振る舞おう。我われの行動については未来が厳しく
  裁くということを、覚えておこう。エスペラントは誰の所有物でもない。エスペランチストは、
  慎重・誠実に互いの合意を得たうえならば、エスペラントを思いどおりに扱ってもよいこと
  を、覚えておこう。ただ、個々の人間の恣意的行為によって言語が混乱に陥らないため
  に、エスペラントには、公平に選出され有能な人物を会員とする言語委員会がある。この
  委員会は、いかなる個人の意向によっても左右されず、あらゆる問題を検討し、これにつ
  いてエスペラント界全体の裁可を求める権利と権限を有している。『ブーローニュ宣言』は、
  個々の人間が言語を恣意的に破壊することを禁じているだけだ。言語委員会の設置は、
  エスペラントの連続性というきわめて重要な要件を保証するためにすぎない。君たちのう
  ちエスペラントの改良案をもつ人がいたら、言語委員会に要望を提出してもらいたい。委
  員会が保守的すぎると思うかもしれないが、この委員会はいろいろな個人的思いつきの
  実現ではなく、エスペランチスト全体の利益を守るために存在することを、思い出してもら
  いたい。委員会は、エスペラント運動に有害なことを軽率にやるくらいなら、むしろ何もや
  らないほうがましだ。君たちは、エスペラントは本質的に妥当であり、細部の議論が残っ
  ているだけだと認めている。それならば、役に立つこと、ほんとうに必要なことを、誠実な
  方法により仲良く平和のうちに実現することもごく容易ではないだろうか」。

  「自分の要望をエスペランチスト全体に押しつけようとする人びとは、自分たちにはすば
  らしいアイデアがあり、エスペランチストの大多数もきっと賛同するはずなのに、頭株の
  やつらが聴く耳をもたず、そのアイデアを検討のため提案することすら許さないと、ふつ
  う言っている。だが、それはうそだ。君たちも知っているように、我われの言語委員会が
  共同の票決で採択した新しい規約によれば、誰でも委員会に提案する権利があり、そ
  の提案がたとえごく些細な内容であっても、委員会の百人の委員のうちわずか五人の
  賛成があれば、委員会はその提案を検討しなければならないことになっている。だから、
  聴く耳をもたないとか、頭株のやつらが気に入った議題しか票決に付さないとかいう不
  満が出る余地がないのは、君たちだって知っているではないか」。

  「『あらゆる手段を用いてむりやりに君たちの不満を駆り立てようとしているのなら、何も
  かもぶちこわさなければならない』と君たちに言う者がいたら、目的を達成する唯一の道
  である統一の道から君たちをはずれさせようとする者がいたら、そのときには用心したま
  え! そのときには、何千という人びとが長年の辛抱強い努力のすえに偉大な全人類的
  理想のためになし遂げてきたすべての成果がめちゃめちゃになってしまうのだと、承知し
  てもらいたい」。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』247〜250ページ)

この引用文のなかでもっとも注目すべきなのは、なんと言っても

  君たちのうちエスペラントの改良案をもつ人がいたら、言語委員会に要望を提出してもら
  いたい。

という部分ですね。
こういうことを、よりによって Ido 騒動の余韻がまだ残っている時期に、UKで公言してたんで
すね。

268松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:16:16
>>267 の続き)

それから、1900年ごろに執筆されたと予想されている「国際語思想の本質と将来」のなか
にも、次のような箇所がありました。

  もっと便利な形にした方がよい単語がいくつかあるのは事実だ。だが、そういう単語はご
  く少数だ。エスペラント以後に現れた多くの言語案のどれ一つを取っても、語彙の少なく
  とも六〇パーセントはエスペラントと同じ形になっていることを見れば、この点がよく分か
  る。さらに、付け加えれば、残りの四〇パーセントの単語がエスペラントと形が違ってい
  るのも、言語案の作者が国際語の種々の重要原則に留意しなかったとか、まったく必要
  もないのに語形を変えたとかいう理由によるにすぎない。だから、容易に出て来る結論
  としては、もっと便利な形にするためエスペラントとは異なる語形になった単語の実際の
  数は一〇パーセント前後を越えることはないと言える。だが、このようにエスペラントの
  文法はほとんど変える必要がなく、語彙も一〇パーセント程度変えればすむとしたら、か
  りに新人工語が創造され、あらゆる分野で実用に役立つとして、そういう新しい人工語は
  いったいどんな姿となるのだろうか。そういう言語は、じつは新言語ではなく少し修正した
  エスペラントにすぎないことになるのではないか。したがって、国際語の将来に関する問
  題は、エスペラントを変更なしに採用するか、それともいくぶん修正を加えて採用するか
  という選択の問題にほかならなくなるだろう。だが、こういう問題は、エスペランチストに
  とっては、もはやまったく意味がない。彼らは、個々の人間が思いつきで勝手にエスペラ
  ントを変えることに反対しているだけなのだ。だから、権威ある会議や学士院のような機
  関がエスペラントに部分的修正を加える決定をしたら、エスペランチストはその決定を歓
  迎しても何も損にはならない。そうなっても、新しい難しい言語をはじめから学び直す必
  要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習得するだけですむのだ。

  我われエスペランチストは、自分たちの言語がぜったいに完璧で、それよりすぐれた言語
  は存在するはずがないなどとは、まったく主張していない。事実はその反対だ。権威ある
  会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペランチスト
  たちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進んで
  その会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変更
  されても、異議はないのだ。だが、そういう委員会にその仕事が果たしてできるのか、際
  限もなく長い年月がかかるのではないか、委員の合意によって首尾よく決着がつくのか、
  できあがった言語は実際に役に立つかなどについては、まったく予想がつかないのが現
  状である。したがって、もしその委員会が事実上あらゆる点で完結し試験ずみのげんに
  ある言語をしりぞけ、問題の多い将来の言語を採用するとしたら、もちろん、それは愚か
  で許しがたい行為だ。だから、エスペラントは不適当だという結論に達したとしても、選定
  会議が決定できることは、たかが知れている。つまり、さしあたってエスペラントをいまの
  ままの形で採用し、これと並行して委員会を任命して、エスペラントの完成か、またはもっ
  と理想的な新言語の作成にあたらせる。そして、委員会の作業が首尾よく終わり、できあ
  がった言語がいろいろと試してみてじゅうぶん役に立つと分かったときに、そのとき初めて
  「現在の形の国際語は時代おくれだから、その代わりに新しい形の言語が登場した」と発
  表できるのだ。選定会議はもっぱらこのように運営されるべきだということに、良識ある人
  なら誰でも同意するだろう。したがって、未来の世代の言語がエスペラントではなく、これ
  から作成される言語になるとしても、その新言語はかならずエスペラントを経由して作られ
  るはずなのだ。

  (同書85〜89ページ)

269松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:18:31
>>268 の続き)

このなかで目を引くのは

  権威ある会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペラン
  チストたちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進
  んでその会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変
  更されても、異議はないのだ。

という部分と

  だから、権威ある会議や学士院のような機関がエスペラントに部分的修正を加える決定を
  したら、エスペランチストはその決定を歓迎しても何も損にはならない。そうなっても、新し
  い難しい言語をはじめから学び直す必要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習
  得するだけですむのだ。

という箇所だと思います。

ということで、ザメンホフは終始一貫して「決められた手順を踏んだ改造」について論じていた
んですね。
こういったことを知っていれば、>>263 で言及したザメンホフじしんによる改造案についても、
なんらおかしくないということが納得できると思いますね。

(終わり)

270松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:22:11
これまでの話に、さらに補足をさせていただきます。

1910年にワシントンで開催された第6回UKでの演説のなかでも、ザメンホフは「エスペラ
ントの改良」について長々と論じていました。

  さて、国際語問題の決定のために、虚構ではなく現実的かつ強大な実力をもつ委員会
  が設置されたと、しましょう。すでに述べたように、そういう委員会が自分の決定をまっ
  たく無価値に終わらせたくないのなら、エスペラントかエスペラントによく似た言語を採
  択するほかはありません。きっといまのままの形のエスペラントを採択するはずだと、す
  でに申しあげました。そこで、委員会がそういう決定をしたくない場合を考えてみましょ
  う。ほかにどんな行動を取るでしょうか。委員会は、「生存能力のある言語の創造のた
  めには、学識ある人がいて、「じゃあ、作ってみよう」と言うだけでは不十分で、注文に
  応じて数週間のうちに仕立てることはできず、長期にわたる熱心な献身的な愛情のこ
  もった努力や実験や感情移入が必要なことを」よく理解するようになるでしょう。また、
  委員会は、「多くの人びとが久しい以前から尽力し、長年の歴史と完全な生命をもつ言
  語があること、この言語はりっぱに機能し、問題点はごくわずかしかないこと」を知るよう
  になるでしょう。そういうわけで、もし委員会がこの課題を真剣に取り扱うとすれば、ぜん
  ぜん新しい言語をあえて創造したり、存続できるかどうかもまだわからない言語案を採
  用したり、この問題でこれまで尽力してきた人びとに対し無用で軽率な反対行動に出る
  ような態度を取らず、エスペラントを採択し、必要な改変をほどこすことでしょう。

  では、委員会は、誰にこの改変を委託するのでしょうか。はじめの準備期間の段階では、
  どんな言語を選ぶべきかという問題を原則的に決定する必要があります。この段階では、
  委員会は、その決定を誰にまかせてもよろしい。ただし、無党派の良識人で、引き受け
  た責任をじゅうぶん認識している人を選ぶように配慮しなければなりません。しかし、採
  用すべき言語が選定され、改変をほどこす決定がなされたら、その仕事について誰の
  助言を求めたらよいのでしょうか。少しでも良識があり、学問的方法を理解している人な
  ら、「そういう仕事では、外部にあってその言語を知っている人ではなく、まず何よりも内
  部にあってその言語を知っている人に助言を求めるべきである。つまり、その言語のた
  めに最も尽力し、最もよく実用に使い、したがって最も経験が深く、実際上の不備を最も
  よく知っている人のことだ」と、言うでしょう、誰でもよくわかっていることですが、言語に
  改変をほどこす際に、ただ外見を目安にするだけで、その言語を熟知する人の助言を求
  めないのは、じつに愚かな行為です。委員会は、その課題を真剣に扱う気があり、陰謀
  をたくらむ人びとにそそのかされたのでなければ、そんなことはけっしてできないはずで
  す。

  そこで、委員たちがエスペラントに改変をほどこす決定をした場合には、どこを改変した
  らよいのでしょうか。たとえば、「この単語は一千万人が話す言語から採用したものだ
  から不採用にして、一億二千万人が話す言語から単語を採用しよう」とか、「実際には
  よく役に立つ"estas"(「〜である」)という単語は気に入らないから、"esas"に代えよう」
  などと委員たちが言うとしたら、それはまったく愚かなことで、真剣な人びとはきっと容認
  しないでしょう。長年のあいだ存続している言語に、単なる思いつきや、理屈にばかりこ
  だわり実際にはぜんぜん無価値な動機から大量の単語を改変するのは無意味なこと
  だと知っているからです。委員たちの役目は理屈をもてあそぶ言葉の遊びではなく、実
  際的な仕事だということを念頭におけば、改変を加えるべき単語や語形も、おのずから
  限定されてくるはずです。つまり、それ自体が無条件に不適切で、言語を使用する人び
  とにひじょうに不都合な単語や語形のことです。

271松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:23:12
>>270 の続き)

  過去二三年間にエスペラントに対してさまざまな批判がなされてきました。何千という人
  たちがエスペラントに批判を加え、どんなに小さな欠点も残らず明らかになっています。
  しかし、そういう批判に目を通してみると、その大部分は個人的思いつきによっているこ
  とがわかります。ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべて
  も一枚の紙切れにおさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。しかも、このご
  く少数の改変提案のうち、最も重要な提案は一見すると改良のようですが、よく考えて
  みるとじつは改悪となるかも知れないのです。たとえば、学習者の悩みを取り除き普及
  を促進するために字上符や対格語尾を廃止したらどうかという提案があります。これは、
  すでに一六年前に私が提案し、げんに改革論者の大部分も要求しているものです。し
  かし、現在の時点で、しかも政府が設置し、したがって権限を有するはずの委員会の立
  場からは、こういう提案はまったく容認すべきではありません。なぜなら、それは、外部
  の傍観者の機嫌をとるためにエスペラントの内的価値を損ない、必要かつ重要な音声
  や自由な語順や明晰性を取り去ることになるからです。しかも、その理由といえば、印
  刷屋がいくらか経費の節約になり、初学者が多少てまがはぶけるというだけなのです。

  私たちに反対する人たちがエスペラントの信用を落とすためにエスペラントで書いた論
  文を見ると、ほとんどいつも気がつくことが一つだけあります。複数語尾の"j"が大量に
  使われていることです。この不幸な"j"は、美しいギリシア語にあってもあえて文句をつ
  ける人はいませんが、私たちに反対する人たちに言わせれば、エスペラントでは諸悪
  の根源になっているのです!

  簡単に言えば、みなさんがすぐわかるように、政府が設置する委員会がエスペラントに
  改変を加えることになり、その委員会が真剣に任務にとりくむとしたら、改変すべきとこ
  ろはごく、ごくわずかしかありません。委員会の改変を受けたあとのエスペラントは、そ
  れ以前のエスペラントと言語としてはまったく同じです。ただ現在の語形のいくつかが
  古語となり、もっと便利な語形に取替えられるかも知れませんが、それによって言語の
  連続性が断絶したり、これまで達成した成果の価値が無に帰することはけっしてありま
  せん。これは、私たちがそうなって欲しいと思っているからではなく、ひたすら論理と良
  識の当然の帰結です。これに対しては、本気でやる気がある委員会としては、その仕
  事の実際的成果が皆無になることを望まなければ、あえて反対しないことでしょう。

  さて、ここで、お話ししたことをまとめてみましょう。この問題を論理的に検討したけっか、
  結論は次のとおりとなります。

  一、国際語は、エスペラント以外にはあり得ない。

  二、おそらくエスペラントの発展は、その他の言語と同様に、自然の成り行きにしたがっ
     て、すなわち新語と古語の交替という不断の過程に則して、おこなわれてゆくだろう。

  三、しょうらいエスペラントに改変を加える必要が生じたときは、その改変は互いの合意
     のうえでエスペランチスト自身がおこなうか、またはエスペランチストと完全な合意の
     うえで有力な機関がおこなう。

  四、しょうらいエスペランチスト自身か、または有力な外部機関がエスペラントに改変を
     加える決定をした場合は、その改変はきわめて小規模にとどめ、これまでの我われ
     の成果との連続性を損なったり、過去・現在・未来にわたる我われの努力を無に帰
     するものであっては、けっしてならない。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』266〜272ページ)

272松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:27:21
>>271 の続き)

まず最初に言っておくべきなのは、このむやみに長い話が、UKの開会演説のなかでなされ
たという事です。

史上初のアメリカでのUKということで、みんな大いに盛り上がっていたと思うんですが、なぜ
かザメンホフは、こんな「エスペラントの改造に関する話」を長々としてるんですね。

1910年といいますと、Ido 騒動にウンザリしている人も少なくなかったはずなのに、こんな話
をしてるんですから、これはどう考えても「ザメンホフじしんが新しい語形を導入したがってい
た」と判断するしかないんですね。

引用文のなかに

  ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべても一枚の紙切れに
  おさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。

と書いてありますが、これが、ザメンホフが提案した改造案のことなのだろうと私は推測して
おります。

(終わり)

273松戸彩苑:2008/07/19(土) 07:06:26
エスペラントには intern-ulo(寄宿生、医学研修生)という表現があります。

これは英語の intern やフランス語の interne などと見かけが似ているのでとっても憶えや
すいのですが、しかしよく考えてみますと、英語で言うところの insider(内部の人間)をどう
やって表わせば良いんだろう?という疑問がわいてきます。

本来ならば、こっちのほうが intern-ulo と表現されるべきではないですか。
実際「insider、内部の人間」の反対語である「部外者」は ekster-ulo と言うんですよね。

Peter Benson の『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみますと、inside
の項に insider が載っていて intern-ulo が訳語になっています。

つまり Benson 氏は intern-ulo に第3の意味をつけ加えようと提案しているのだと思いま
すが、しかし一つの表現にあまりにも多くの意味を与えますと、どの意味で使っているのか
判らなくて困るんじゃないかと思うんですね。

そこで私は「insider、内部の人間」を en-ulo としたら良いんじゃないかと考えました。
---

この他にも、「中身」とか「食品などの具」のことを en-aĵo と表わすこともできますね。

また「トッピング」のことは sur-aĵo と言うことができるでしょう。
Benson の辞書の top の項のなかに topping があり、sur(verŝ)aĵo という訳語が与えられ
ていますが、sur-aĵo で充分だと思います。

274松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:47:39
ombrelo(傘)という単語があるのは良いんですが、考えてみますと「傘をさす」というのを
どう表わすのかが判らなかったりします。

で、『日エス』の「かさ【傘】」のところを見ますと sin @irmi per ombrelo と書いてありました。
もちろん間違ってはいないと思うんですが、しかし直訳しますと「傘で自らを覆う」ということ
であって、少し重苦しく、長ったらしいような気もします。

『エス日』の ombrelo の項を見ますと

  kun 〜o 傘を差して

というのが載ってるんですが、しかし、これが「傘を持って」である可能性は無いんでしょう
か。
また「彼は傘をさしている」は Li estas kun la ombrelo. と言えば良いんでしょうか。

それから、同じところに

  malfermi 〜on 傘を開く

というのも載っていますが、「傘を開く」と「傘をさす」とではちょっと違うわけですね。
「傘を開いたけど、ささない」ということもあるわけですから。

それからNPIVの ombrelo の項を見ましたが、ここには「傘をさす」に相当する表現はまった
く載っていませんでした。

このようにエスペラントというのは、日常生活に必要なモノを表わす単語はあったとしても、
「傘をさす」といったコロケーションになると、とたんに怪しくなるんですね。
こういった点がしっかりしていないせいで、エスペラントは本来持っていて良いはずの能力
を発揮できないでいるのだと思います。
また逆に言えば、こういう点を直していけば、今以上に役に立つ言葉になるに違いないん
ですね。

こういう問題を「大したことではない」「使っているうちに自然にできる」などと考えていたの
では、エスペラント運動が今以上に盛り上がることは無いでしょうし、また、まかり間違って
エスペラントが世間で大々的に実用されることになれば、こういった簡単な表現がアイマイ
なせいで大弱りをすることになると思うんですね。

ですから、そうならないように、今のうちから少しずつ考えておく必要があるわけです。

私も「傘をさす」を表わす簡潔な表現についていろいろと考えてはおりますが、この問題に
ついては皆さんにも考えていただきたいと思いますので、私の案は書かないことにします。

(終わり)


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