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顕正会の実態を検証する
138
:
アネモネ
:2003/12/11(木) 00:29
犀角独歩さん
>このような状況下で学会を含む石山系集団が呈示する宗教心は、集団と指導者の絶対を補強されるために使用される日蓮本仏と本尊信仰だけでした。
たぶん石山系で育まれる心とは、組織への忠誠心だけなのかもしれないと思いました。
>しかし、宗教心を捨て去る代価はあまりにも高いものであったとわたしには見えます。
同様に思います。
>しかしでは、学会を含む石山系集団はどうかと言えば、宗教はあっても、その心がないという深刻な事態に陥っています。
ガンコさんのレスを通しても、段々とわかってきたことですが、教団信徒の確保のために、罰論を説き、人の不幸を待っているわけですね。待っているからこそ、キャッチした不幸の事実を喜ぶことになもなるわけです。
本当ならば、いかなる人の不幸も、自分の不幸と思って同苦の心、つまりは慈悲の心で受け止めるのが、宗教心だと思うのです。ところが、反対に人の不幸を喜ぶ心が培われてしまっいるといえます。
その心の源泉、要するに発露は何かというと、実は、「慈悲」とはまったく対極にある「憎悪」であり、その憎悪が組織の指導によって植え付けられているわけですが、これは、前にも書きましたが、さらなる「苦」の重圧だと思います。
だけど、その憎悪の心の強さこそ、信心の強盛さに植え付けられているわけですから、これは大変な錯覚の刷り込みだと思います。それでしかも、さらにその憎悪がどこからくるものかと考えてみると、実は、組織への煽られた忠誠心だったりするわけですね。
>弁護士がカルト問題に熱心に関与する国は世界にも類例がないとのことでした。
憲法上からいっても、たとえカルト的宗教といえども、国家が宗教組織に立ち入ることはできませんものね。それだけに、個々の宗教被害に関しては、何より弁護士の力が求められるところなのでしょう。
恐らく、カルト問題と人権問題とは非常に相関性があって、日本人はまだまだ人権意識は希薄ですから、どうしても人権問題の最前に立つ弁護士の先生方が、その人権意識の危機感を肌で感じてカルト問題に取り組んでいらっしゃるのではないでしょうか。
> また入会の比率から見ると女子が多いと報告されています(この点、合っていますか、ガンコさん、どうでしょうか?)
ガンコさんのレスでも明らかなようですね。
父親像、もしくは男性像を求めるからこそ、女子が多く入信するのでしょうね。
つまり、ファザーコンプレックスといってもいいでしょうか。女の子には誰しもあるコンプレックスですが、しかし、それが家庭内の深刻な父権の存在である場合、屈折した不健全な父権を外に求めていってしまう心理というのは、往々にしてあることだと思いますね。
父権の不在ということも、大きな社会問題ですね。それは、顕正会を通しても、明らかにいえる社会問題ということだと思います。
>顕正会の場合、日蓮に投影される父性は、さらに浅井さんに投影され、子供達は走っているとわたしには映じます。
これは、オウム(現アーレフ)の場合も同じようなことがいわれましたね。大半の信者は、麻原に父権を求めていたといったことを聞いたことがあります。
>わたしは宗教心と関連しながら、先に「菩薩の堕落」と記した点をもう少し勘案していきたいと思っています。
ぜひ、よろしくお願いいたします。私も非常に関心をもっております。
139
:
アネモネ
:2003/12/11(木) 00:29
(つづき)
>富士門流信徒を考えるとき、…公共性は社会的功績に求められることはむしろ当然のことです。
いずれの宗派であっても、いかにあるべきかということは、永遠の課題だと思います。お釈迦さまも日蓮さまも、この今の現代という時には、いらっしゃらないわけですから、だからこそ、今を生きる自分たちが、いかにあるべきかを考えていかなければならないことだと思いますね。
ただし、いわゆる宗教組織の既得権益に基づく勝手解釈との区別が、難しいところでもあります。結局そこは、個々の良心、仏教では自灯に委ねられるところなのでしょう。
>長文のレス、そんなに非難されなければならないことでしょうか。…この点は多くの文献資料を提供くださる…その他皆さんの惜しみない投稿にも同様の感を懐きます。
確かに、そうですね。
私自身の長文についてクレームがついたからといって、それは私個人へのクレームですから、他の皆様方が、長文の投稿を控える必要は全くありませんね。
私の場合は、あまりにも目に余る傾向があったものと反省するところですが、しかし私自身、他の皆さま方の長文レスは、独歩さん同様、まったく気になりませんし、とても興味深く拝見し歓迎するところです。
真剣に考えたところの思いがこめられたレスは、レスの長短に関らず、その心は強く伝わってくるものですしね。
たぶん大事なことは、自分の言葉や感性で綴るということなんだろうと思います。
文章の長さや短さも、その人の言葉や感性というものでしょうから…(なんか自己弁護みたいになってきたかもしれませんが)とにかく、それでも直らない私の長文は、私の個性とご容赦頂けたらなあと思いました。
140
:
さかなこ
:2003/12/11(木) 11:40
>アネモネさん
ありがとうございます、てれてれ(´▽`)
学会2世として生まれた私には普通の家庭を築くことは無理だろうと
子供心に重い十字架を背負い必要のない劣等コンプレックスを周囲に
抱いてきました。
その私が今のような状況になれたのは3年前に始めたネットで学会問題について
活発に議論をする人たちのレスを見てからです。(それでもネットを始めた
最初の一年間は学会系のサイトは怖くて近づくことができませんでしたが…)
いわゆるMCから抜け出したときの開放感は今でも忘れることができません。
初めて自分の足で歩いているという気がしました。自分の好きなように考え
行動することができると…。
それまでは無条件に自分の子供には学会へ入会させると思っていたのです。
自分が学会に入会させられて嫌な思いをしているのにも関わらず…。
今となっては何故そのように思っていたのか…思い出すこともできません。
子育てにはまだまだ不安は沢山ですが、私1人だけで育てるわけではありません
し、そんなに考えずに産まれてくる日を楽しみに待つことにします。
141
:
とと
:2003/12/11(木) 18:19
顕正会の実態は
浅井親子女好き
オヤジは婦人部
ムスコは女高生
憲法改正しよと
本気で考えたら
女子供集めてる
わけないもんね
142
:
管理者
:2003/12/11(木) 21:00
ととさん 始めまして
116レスについて
>いくら問題箇所を削ったからといって、それをふたたび投稿するのはおかしい。なぜならばルールでは「全体削除」となっているからだ。部分を問題にしているのではなく1投稿全体の削除を定めている。だから、再投稿は「全体削除」というルールに違反している。
掲示板の機能上、部分削除が出来ませんので、全体を削除させていただいております。必要ならば、問題箇所を訂正して再投稿する道があるからです。
>また、削除投稿の再投稿は「3 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。」の多重投稿・反復投稿にも該当している。
この場合の再投稿は、削除されたレスを書き直して再投稿されていますので、「無意味」な多重投稿には当たらないと考えています。
>このような放置は「あらし」を助長することになる。管理人さんは自分で定めたルールを管理する義務があるはずだと思う。
お叱り、ありがとうございます。また、ご心配をお掛けして申し訳ありません。以上の様に考えています。ご理解賜りたく存じます。
143
:
アネモネ
:2003/12/11(木) 21:25
ととさん はじめまして
144
:
アネモネ
:2003/12/11(木) 21:55
さかなこさん
>子育てにはまだまだ不安は沢山ですが、私1人だけで育てるわけではありません
し、そんなに考えずに産まれてくる日を楽しみに待つことにします。
そうそう、そうですよ。何も気負うことなく、のんびりゆったり大切に、喜びの日を迎えてください。
145
:
五月雨
:2003/12/11(木) 23:01
さかなこさん
お久しぶりです。もうすぐお母さんになるんですね。
心よりお祝い申し上げます、おめでとう。
私も、はるか昔の初めての赤ちゃんが産まれる時の、喜びと興奮と不安を思い出しました。
でも、案ずるより産むが易しという諺どおりで、どうにかなるもんだと今になるとそう思います。
子どもが生まれたら生まれたで、どう接すればいいのだろうとか、どう躾ければいいのだろうなどと、初めての経験には山ほどの不安も心配もあるものです。
だけど、まあ、その山ほどの不安も心配もほとんどが杞憂で終わるものなんですけどね。
家庭内での宗教心を養うということですが、取り立てて無理に考えなくてもいいように思います。まずは、赤ちゃんへの愛情が基本ですよね。
宗教心という言葉をどんな定義で使っているかで違うと思いますが、情操面で考えるとすれば、子どもと一緒に、キレイな花を見たらキレイと思い、夕焼け空に感動したり、海の青さに海の底に住む魚を想像したりすることで十分だと思います。
倫理面で考えれば、良いことをする、悪いことはしない。社会一般常識内で生きることで倫理は学べると思います。
七五三とか初詣、クリスマスなどの宗教行事も気にせず参加させてあげたらいいですね。
子どもって、こういう行事がとても思い出に残るようです。
もしも、さかなこさんの親御さんが学会流でしたいと言っても、さかなこさんの家庭のやり方を
教えてあげてください。
「恋学」の掲示板でも、こういう悩みはよく聞きますが、子どもを守れるのは母親しかいないんだし、それに母は強しです。なぜだかね、女はね自然と強くなるのよね(^^)v
赤ちゃんを産むのは女としての最大の幸福だと思います。
元気な赤ちゃんを生んでください、くれぐれもお身体を大切に。
#学会一世の私から、反省の意味も込めた些細なアドバイスでした。
146
:
犀角独歩
:2003/12/12(金) 10:00
138、139 アネモネさん:
>「慈悲」…「憎悪」
あ、この対句化、実に見事です。
> 人権問題の最前に立つ弁護士…危機感を肌で感じてカルト問題に…
そうですね。
また、弁護士の積極的なカルト問題への参入と併せて、日本はカルト研究では世界の中でも実は最先端です。また、この研究を支えているのは実際に被害者と関わる在野の支援者です。統一協会、エホバ問題では牧師方、オウム真理教・法の花三法行・顕正会問題などでは一部日蓮宗僧侶の活躍が見られます。ここのスレッド「顕正会」については、過去10年間で延1万人以上の相談が寄せられています。それら要素が研究され、破壊的カルト・マインド・コントロール理論として裁判の基礎資料として供されていきました。
弁護士の活躍は、その基礎研究、さらにその資料を提供する実際の支援者、そして、なにより被害を訴える人々の努力に支えられてのことです。ニュースで見るだけでは気付けませんが、被害者が、支援者、研究者、弁護士と強いネットワークを形成する生きた言論が日本社会の宗教事情を変えてきたのです。
あと、日本社会で変えなければならない宗教事情、50年来の積み残されたここ学会を含む石山集団の問題であるとわたしは考えています。それは単に教義の見直しばかりではなく、今後、これら集団がどのように社会貢献を果たせるように世論が誘導するのかという民衆の言論による誘導です。
わたしは次代のために学会を含む石山系集団が“お題目”だけの存在から、慈悲の一念を基に実質的社会貢献をする集団に替える言論・世論のプロトタイプをここで皆さんと考えさせていただいているわけです。
その意味から「菩薩の堕落」という視点を据えて考えてみたいと思っています。
それはまた、もっとも現代社会から脱線してできも国立戒壇とうそぶく「顕正会」こそ典型的な存在であるとも思う故、ややここで議論となっています。しかし、これは一人顕正会の問題であるというより、アネモネさんが提案された「創価学会の功罪を考える」スレッドに特に関係するものであり、ひいては石山僧侶と法華講をも視野に入れて考えるべき問題であるとも思うわけです。
低劣な横槍や、議論妨害が入ることなく、有効な意見の交換できればよいのにと願うばかりです。
147
:
犀角独歩
:2003/12/12(金) 13:24
128 アネモネさん:
イラクに対する問題の提示に敬意を表します。
本日、わたしが尊敬する四半世紀、インドで実践布教されて帰国した法華沙門の方からメールが来ました。
「私は京都で一週間断食をして12月8日の成道会を勤めまして、昨日立正安国の為に官邸の内閣情報室のトップの人に一時間イスラムテロの対応と危険性を進言しました。私に出来うる立正安国です。対応は非常に良かったです」
行住坐臥、常に袈裟を纏い、四六時中、僧である自覚に生きることが修行であるという聖僧です。
148
:
犀角独歩
:2003/12/14(日) 10:33
○日弁連、顕正会を公式に宗教トラブルを起こす団体と認識
アーレフ、統一協会、法の花三法行、ライフスペースなどと同列に論じる
先頃、消費者ニュース発行会議 '03.9 別冊『宗教トラブル特集』(編集:民事法研究会/日本消費経済新聞社/\3,500)が発刊されました。この中「【実態編】9「冨士大石寺顕正会」の問題点」(日本脱カルト研究会理事/社会福祉法人立正福祉会「青少年こころの相談室」室長/日蓮宗僧侶:楠山泰道師)と他カルト団体と並列して、顕正会が取り上げられています。
1.激しい折伏勧誘に関するトラブルの多発
2.恐怖を煽る勧誘説得と心理操作
3.顕正会の現役会員のメンタリティ
4.顕正会のこれから
(同書P97)
また、顕正会の実名を載せないが「21 カルト入信問題相談の現場から」(日本脱カルト研究会理事/社会福祉法人立正福祉会「青少年こころの相談室」相談員/日蓮宗僧侶:貫名英舜師)は以下のように記しています。
「仏教系新宗教
法華系新宗教の特異点は、伝統的な法華至上主義の立場から他の仏教宗派に対する絶対的優位主義を唱えることに加えて・同じく宗教的枠組みに属している他のグループに対しての激しい対抗意識を持っていることである。この組織には、自らの宗教の「国教化」という理念が存在する。…この国教化が実現されない時には、近未来に日本に未曾有の大地震などの大災害が、あわせて国内の内乱という破綻的状況に至り、さらに近隣諸国からの軍事的侵略を受けて「日本は滅ぶ」とする」
と記されています。
この書籍は特に霊感商法被害弁連、青春を返せ裁判、違法伝導訴訟、法の花三法行詐欺など、数多くのカルト問題を戦ってきた山口広弁護士がその編集の先鞭をつけたものですから、実質的に日弁連は顕正会をカルトと断定したと見て差し支えないように思えます。
この書籍では題名で「カルト」とは言っていませんが、その掲載文中「24 カルト問題をどう克服するか」(東北学院大学名誉教授:浅見定雄師)があることから、カルト全般を扱ったものであることがわかります。以下、この浅見師の見解にはわたしは大きく賛同するところがあります。いわば現在のカルト認識における最先端の整理であると拝せます。
1.心の「消費者問題」として
2.人権教育としてのカルト予防教育
3.差別と偏見の克服
(同P79)
ここで浅見師がいう「消費」とは経済的なものではなく、心身の宗教活動に時間・労力・精神を消費する側面から論じられたものです。
やや付録的に記せば、「27 日弁連の判断基準」の意義と活用」(弁護士(福岡)平田広志師)の以下の文章は参考になりました。
「宗教的活動にかかわる人権侵害についての判断基準
−反社会的宗教活動がもたらす消費者被害救済のための指針
…2 信者の勧誘について
…(2) 本人の自由意志を侵害する態様で不安感を極度にあおって、信者になるよう長時間勧めたり、宗教的活動を強いて行わせることがないか」(同P86)
平田師がいう「消費」は霊感商法被害などの側面から主に経済被害に重点を置いたものです。しかし、青春を返せ裁判、違法伝導訴訟も考慮されたものですから、上記、浅見師が言うところの心身信仰活動の消費の意味も含んでいると思えます。
149
:
さかなこ
:2003/12/14(日) 17:52
>五月雨さん
お久しぶりです。こんにちは♪。ちこっと里帰りしててレスを本日拝見
しました。
お母さんとしては大先輩である五月雨さんにレスをいただけて嬉しい思いで
いっぱいです。ひとつひとつ大事に拝見させていただきました。
産まれる前は不安いっぱいでもいざとなると肝がすわるものなのですね…
女性はそういう風にできてるのかもしれないですね。
一般的な宗教的行事には喜んで参加させてあげたいと思ってます。かつて周囲の
友達が楽しそうにしてるのを横目に寂しい幼少時代を過ごした思い出が
ありますのでそういう思いをさせないようにしたいと思ってます。
150
:
アネモネ
:2003/12/14(日) 23:28
>147
犀角独歩さん
フセイン元大統領が、米軍特殊部隊により身柄が拘束されたと速報で伝えられ、日本時間の午後9時から行われた、バクダットでの記者会見の様子が中継で伝えられましたね。
会見の冒頭、ブレーマー行政官が、
「皆さん、彼を捕まえました」
と発表するや否や、イラク人をも含む記者団からは歓声が聞こえてきました。
クリスマス前、また米大統領選を来年に控えたこの時期のトップニュース、今後、何がどう変っていくのか、その動向を冷静に見極めていきたいと思います。
>本日、わたしが尊敬する四半世紀、インドで実践布教されて帰国した法華沙門の方からメールが来ました。
日蓮の立正安国の精神を引き継ぐ実践をされているご僧侶が、現代に確かにおられるということを知って、私はとても嬉しく思い、このようなご僧侶の実践行動に、心からエールを送りたいと思います。
またここ富士門に関連していえば、絶対正しいとする板本尊を護持する僧侶の中から誰ひとりとして、このような実践行動が見受けられないという現実(現証)を、どうみるかを法華講の方々は考えてほしいと思うところです。
むしろ、あの板本尊の存在に甘んじ依存するあまりに、日蓮を彷彿させるような諌暁精神(立正安国の精神)の社会的実践が忘れられてしまっているところではないでしょうか。
本当に日蓮の正しい本尊を信じ護持していることが正しい法の護持であるならば、まさに日蓮のような実践者が出てきてもおかしくないはずですが…だいたい日蓮正宗は、今回のイラク派遣問題に対する見解の声明など、公式に何か出されているのでしょうか
151
:
犀角独歩
:2003/12/15(月) 00:40
144 アネモネさん:
> フセイン元大統領…身柄が拘束
わたしもこの報道に見入っていました。
> 日蓮の立正安国の精神…心からエールを送りたいと思います。
有り難うございます。
ご本人にお伝えします。
その方からフセインの報道後、メールが来ました。
「原理主義者の報復が心配」と記されていました。
糠喜びをしていたわたしは冷や水を浴びせられる思いでした。
日本イラク“参戦”でも直ちに「日本はこれでテロの対象になる」と警鐘を鳴らした方の言ですから、わたしはその重みを受け取りました。
> 板本尊を護持する僧侶の中から誰ひとり…実践行動が見受けられない
いや、僧侶ばかりではなく、その信徒もです。
あるのは言い訳、自己肯定論のみです。
実に浅はかな、見苦しいところであると感じます。
> 日蓮正宗…イラク派遣問題…声明…公式
わたしは存じ上げません。
日蓮本仏論者の多くは現実の問題を板漫荼羅信仰と戒壇建立で解決するという神話を信じる不可思議な人々ですから、そんな公式発表をするまでもなく、広宣流布すれば世界が平和になると呪文を唱えるのが関の山ではないでしょうか。
152
:
アネモネ
:2003/12/15(月) 02:53
犀角独歩さん
>「原理主義者の報復が心配」と記されていました。
糠喜びをしていたわたしは冷や水を浴びせられる思いでした。
仰るとおりですね。
やはり原理主義というものに着目して、この中東問題を見ることも重要でしょうね。イスラム原理主義者のテロ行為は、日蓮正宗系の憎悪思考にも、非常に重なるところがあるように思います。
>現実の問題を板漫荼羅信仰と戒壇建立で解決するという神話を信じる不可思議な人々ですから…
池田小児童殺傷事件の犯人に象徴されるような凶悪犯罪にしてもそうですが、戒壇を建立したところで凶悪犯罪がなくなるなど、決して変るものではありません。実際に入信をしてご本尊に拝んだ人が、その信仰だけでは何も更生されなかった事実をもってしても、そのことは証明されています。
如何なることも、実際の問題に目を向けて、実践的に対処し取り組まない限りは、何も変らないということに、早く気づいてほしいと思います。
他のスレッドですが、「自分対御本尊」というレスがありました。これは石山系でよく聞かれる言葉でありまして、結局これが、まさに現実逃避なんだろうなあと思います。
人生の苦に対して、一時期、逃避が必要な場合もあります。しかし、逃避したままではいつまでたっても、何も変りませんね。
本当に変ることが出来るとしたら、その問題に具体的に対処した場合だけだという、ごくごく当然のことに、気づいてほしいと思います。
>そんな公式発表をするまでもなく、広宣流布すれば世界が平和になると呪文を唱えるのが関の山ではないでしょうか。
まったく、八正道になっていませんね。
日本国政府に対して、日蓮正宗が物申した記憶としては、創価学会の宗教法人格の取り消し陳情しか私には浮かびません。法華講機関紙の号外にその様子が掲載されていましたが、私がその記事に唖然としたのは、陳情に行った僧侶方が、背広姿だったことです。
僧侶としての自覚の欠如が、姿としてありありとあらわれていると思ったものです。
陳情の内容からして、自分の教団の私情、つまり損得勘定しか頭にないんだろうなあと思ってしまいました。
153
:
MILD SEVEN
:2003/12/15(月) 07:25
フランスで創価学会に解散命令?
カルト教団“抑制強化法”ができてサア大変
先月末、フランスでカルト教団(セクト)に解散を命じる法案が成立した.この影響で、「創価学会がフランスから追い出されるのでは」という見方が出ている.
「“セクト運動防止・抑制強化法”がそれで、フランス国民会議が全会一致で可決しました.反社会的活動を続ける宗教団体が、①刑法で禁止された生命、財産などを侵害 ②公衆衛生法で禁止された医薬品の使用 ③消費者保護法で禁止された虚偽宣伝、詐欺などで有罪判決を受けた場合、団体に解散を命じることができるとしている.問題はその対象で、フランスでは過去2回、“創価学会はカルトである”と国民会議で報告されている.そのため、学会サイドは、“ヘタをしたらウチも解散させられる”とピリピリしているのです」 (事情通)
フランスは創価学会のヨーロッパにおける活動の中核で、約1万人の信者がいるといわれる.そこで解散命令を出されたら、世界への影響も計り知れない.
「池田大作名誉会長は、外国要人との交遊が自慢で、信者獲得の最大の道具としても利用してきた.その人脈を生かして“将来はノーベル平和賞を狙う”などともみられていた.しかし、ヨーロッパの大国で“カルト呼ばわり”されたら、さすがに、そんな野望もあきらめざるを得ない.大作サンのガッカリする顔が今から見えるようです」 (学会ウオッチャー)
http://the49-2.hp.infoseek.co.jp/other/gendai130607.htm
154
:
アネモネ
:2003/12/15(月) 11:29
随分と前のガンコさんの記述ですが…
>122
>確かに先生は政治に詳しいです。へたな政治家よりはよほど詳しいと思いますけど、その専門家ではないわけです。
ガンコさんへの反論というわけではなくて、政治と宗教について、少しレスをしたいと思います。
日蓮さんの「立正安国論」における諌暁精神からいって、日蓮系教団が政治に関心を持つ傾向性というのはひとつの特徴だろうと思うところです。
政教分離は、憲法で定められていることですが、だからといって信仰を持つ人やその教団が政治に関心をもってはならないということではなく、教団内で政治についての話題が出たとしても、それは必ずしも違憲といえるものではないでしょう。
政治というある意味きな臭い印象をもつ語彙を使わずとも、社会に関心をもつということであるならば、むしろ積極的に考えてしかるべきことかもしれません。
ただし、そこではどういう思想に基づく政治が語られているか、その内容が問題です。
私が参詣していた頃の法華講組織では、月例登山などで、柳沢さんがよく政治に関わる話をされていました。
恐らく日蓮の諌暁精神にのっとってのつもりでしょうけれど、たいていの話は政治なり社会なりをことごとく批判しているわけですが、それはともかく、結局、話の落としどころは、「日蓮正宗の正しい信心をしてる私たち法華講に任せれば世の中はよくなるんです」と、なるわけです。それを受けて満場の拍手喝采がお決まりのパターンでしたね。
柳沢さんはそのお年からいっても、私などよりは長く日本の社会をご覧になってきている人ですから、政治を語る言葉にも、それなりの重みや説得力があるかもしれません。顕正会の浅井さんにしても恐らくそうでしょう。もともと政治に疎い、女子高生や主婦がそうした人の政治話を聞けば、なんとなく政治に精通した気にもなるものでしょう。
しかしそこが落とし穴でもあると私は懸念します。政治を知った気がするというところの、その錯覚です。
特に私が最も危険視するのは、たとえば柳沢さんの語る政治に民主主義がみられないということ。「私たち法華講に任せれば…」という言葉が象徴するように、政教分離を逸脱した発言を平然とするわけです。何も知らない人は、政教分離の社会が間違っていると思うことでしょう。
近代政治を語るうえで、このように民主主義の後退を意味する発言が平然と語られ、満場の拍手喝采が送られる教団の状況に、私は思想的危機すら覚えました。
また顕正会における浅井さんの政治評論については、私は一度も聞いたことがないものの、しかし、顕正会の憲法改正案の一部を読ませて頂いた限りにおいていもやはり、民主主義はもちろん、基本的人権の後退さえ危ぶまれる内容であったと感想をもちました。
私が何を言いたいかというと、近代政治を語る…このことにおける最低限の前提ともいえる大原則は、基本的人権と民主主義だろうと思うわけです。
そこに政教分離という社会構造が築かれたという、その背景すら理解されていないのではないだろうかと危うく感じるものなのです。そのような言葉を鵜呑みにする信徒の人たちの無自覚な意識とは、地下鉄サリン事件を起した、オウムの信徒と同じものだと思えて懸念してしまうところなのです。
ここで、政教一致で何が悪い、正しい信心をしている人が政治をすれば、正しい世の中になるんだ…と信じている人は、中世の世界史と、日本の戦前の歴史を今一度勉強したほうがいいでしょう。
155
:
アネモネ
:2003/12/15(月) 11:30
(つづき)
世界平和だのなんだのと、それこそ美辞麗句を並べたところで、政教一致で行われた政治は、特定宗教教団への政治的優遇を生み出し、組織幹部は特権階級となって、社会全体の身分差別を生みます。ついには、三権分立も崩れてしまいます。
三権分立の重要性は、恐らく中学生くらいで習うところのことですが、顕正会に入信する高校生たちは、顕正会が目指す国立戒壇と国教化を目指すことが、三権分立の崩壊をも招きかねない恐怖政治にもつながるものであるということが、イメージとして結びついていないのかもしれません。
そうした危険思想が現実の事件として起きた例が、独歩さんが「創価学会の功罪を考える」で提示してくださったチラシの「NTTドコモの携帯電話通話記録を盗み出し事件」の内容だろうと思います。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/964
この事件の被害者とは、携帯電話通話記録を盗み出された女性一人だけのことではなく、個人情報の漏洩危険にさらされている、私たち個々の国民全員が被害者といえるでしょう。更にそのことが、教団の圧力によって捜査が打ち切られ、公平に裁かれないとなるならば、既に三権分立が崩壊しつつある社会構造が危ぶまれます。
しかし、これは学会だけにいえることではありません。そうした思想を支持しているのは、大きく石山系であるといえるのではないでしょうか。
ある特定の教団宗教が国教化されるということは、日常的なことの全てがこの事件のように、その教団によって支配されてしまう「恐怖政治」が行われてしまうというところまで、想像をめぐらせてほしいです。果たしてそれが本当に、平和な社会を保障し構築するものといえるのかということをです。
石山系組織は、いずれの教団が語る政治も、恐怖政治に通じる思想が根底にあるということを私は感じます。そこに連なる信徒の方々の意識にも、人権感覚と民主精神が欠如されていることも懸念するところです。
三権分立について、下記のサイトでモンテスキューの「法の精神」がわかりやすく書かれています。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sannkennbunnritunihonn..htm
一部抜粋しておきたいと思います。
*******抜粋**************
モンテスキューの時代は,「王が法を制定し,それを実行し,かつ裁判も行っていた」“王”独裁の絶対王制の時代であった。
このため,人々は,王の一言で,理由もなく高い税金を課し,あるいは,いささかでも王に抵抗すると牢獄に入れられ,処刑されることが日常茶飯事となった。
******抜粋終わり**************
また、モンテスキューの三権分立論は,アメリカ独立宣言やフランス革命(フランス人権宣言=人及び市民の権利宣言)に大きな影響を与えたわけですが、創価学会をカルトとして認定している国も、アメリカとフランスではなかったでしょうか。
カルトを考えるうえで、人権意識は決して外せないものなのだろうと思います。カルトの認定は、そこが大きな基準であるものと考えます。
具体的にいえば、「仏法の為」が、「組織の為」に摩り替えられている組織に人権は存在し得ないですし、そこで語られる政治は、恐怖政治にもつながりかねない民主政治の後退を意味するものであるということを、見据えてほしいと思います。
組織のトップが語る政治を聞き、組織が発行する機関紙で政治を読む、それで自分も政治に精通している気になっていくという錯覚こそ、危険思想の第一歩だろうと思います。
国民のよりよい生活を考えるところに民主政治の基本があるわけですから、信徒の生活を犠牲にさせてまで組織の勧誘活動を煽る政治に人権思想はなく、恐怖政治につながる危険思想を植え付けるだけのものであるということを、ぜひ考えてほしいものと思います。
*【恐怖政治】
(1)権力者が逮捕・投獄・暗殺などの暴力的手段によって反対者を弾圧して強行する政治。暗黒政治。
(2)〔(フランス) La Terreur〕フランス革命時代のロベスピエールらによるジャコバン派独裁をさす。
(大辞林 国語辞典)
156
:
心者雖念不直相鴨
:2003/12/15(月) 12:21
最近、こんな本をよみました。序文に、執筆にいたる動機(強烈な危機感)が記されていますのでご紹介します。
保坂俊司:インド仏教はなぜほろんだのかーイスラム資料からの考察―、北樹出版、2003
************** 引用開始 **************
インド仏教の衰亡というテーマをある意味でわが身のことと考えなければならないような事件が起こった。オウム事件である。(中略)いかに変則的で、独善的であるにしろ仏教、しかも真の仏教を名乗り、仏教の理論一かなり独善的で、未熟な部分もあるが、その全てが否定されるわけでもない一と称して、殺人を含む多くの社会問題を発生させたこの集団に対して既存の仏教界から、反論も非難も、あるいは賛意も全くといって良いほど聞こえなかった。少なくとも、その渦中において、そして最もその発言が期待された時期に発言される仏教者が皆無に等しかったことは、この国の宗教性の問題点を浮き彫りにしたように思われる。つまり、伝統仏教界からも、所謂新興宗教といわれる仏教集団からもオウム問題への公式の批判も、賛同も一切といって良いほどに聞こえなかった。まさに等閑視するのみであった。このようなことで、日本の仏教は社会的な信用や役割を担ってゆけるのか? あるいは、このようなことにも是非を論じられないほどに仏教は衰退してしまったのか?あるいは変容してしまったのか?少なくとも筆者は、失望した。仏教は宗教的な自浄作用を失ってしまった。少なくとも社会から遊離してしまったように恩えた。勿論既存の仏教教団が、オウム真理教というような未熟な宗教団体と、同一視されることを嫌った、ということも理解できないわけではない。しかし、オウム事件への既存の仏教界の対応は、仏教への日本人の信頼を大きく損なう結果を招いた、ということの意味を日本の仏教者、それは伝統宗派から、様々な新興の仏教系集団も含めて深刻に反省すべきであろう。いずれにしてもオウム教団は、正統なる仏教と自らを位置づけ、その上で仏教教理からの必然としてサリン事件など一連の事件を引き起こしたのである。したがって、その刑事犯罪的な部分とは別に、彼らの行為について即座に宗教的見地、つまり仏教思想から批判一あるいは賛同がなされなければならなかったはずである。しかし、未だにその本格的な議論は、仏教界からは十分なされていないようだが、キリスト教、あるいはイスラム教であれば、おそらく徹底的な反省がなされるであろう。(中略)もし、そのような超世俗のスタンスを現代仏教界がとろうとするのであれぱ、日本仏教はあるいはインド仏教と同様の運命を辿ることになるのかも知れない、という危機感が筆者に強く湧き上がった。(中略)もちろんその後も仏教の一派を名乗り詐欺的集金活動をする団体は後を絶たないし、仏教界からのこの件に関しての意見を聞くことはほとんどない。
*************** 引用終了 **************
顕正会は、オウムの事件に際してどのような発言をなさったのでしょうか?
157
:
一刀両断
:2003/12/15(月) 15:56
心者雖念不直相鴨さん はじめまして。
顕正会のオウム事件に対するコメントは大意は次のようなものです。
・仏教の仮面を被った犯罪革命組織であること。
・サリン事件、弁護士殺害事件等は破壊神を本尊とした事による信仰結果であること。
・阪神大震災と併せ、日本の安全神話崩壊であり、広宣流布の時節が眼前に迫っていること。
・また自叛難でもあり、後に他逼難も必ず広宣流布前に来る証明であること。
・広宣流布に対する魔であること。(宗教に対する偏見が増すことによって国立戒壇への怨嫉を起こらしめる)
当時はこのような指導内容でした。
158
:
犀角独歩
:2003/12/15(月) 16:24
152 アネモネさん:
> イスラム原理主義者のテロ行為…日蓮正宗系の憎悪思考…非常に重なる
ええ、わたしもそう思います。
「憎悪」によって人を動かそうとする集団は、教義がどう、本尊がどうではなく、憎悪で人を動かす時点で既に間違っており、批判されるべき議論ある団体と言えます。
その意味において、顕正会のみならず、石山も学会も妙観講なども同様の危険集団であるとわたしには思えます。
そもそも他国侵逼難で捌く如き似非政治論でいちばん問題なのは、攻められる国の信仰的資質ばかりを取り沙汰し、攻めてくる(加害者)側の責任、あるいはその回避をなにも論じないと言う実に浅はかな指摘である点です。
続くガンコさんへのアネモネさんのレスでも問題にされていますが、以上のような間抜けな政治論こそまさに浅井さんの話なのであって、日本の危機の回避を顕正会の躍進で置き換えて結論づける、柳沢さんと同様の短絡話が、優れた政治論であるはずがありません。
まさに「先生は政治に秀でている」という会内部のすり込まれた心理プログラムが継続しているマインド・コントロールに気づくべきです。もちろん、これはガンコさんを批判していると言うより、過去の議論のなかでも同様の元会員の投稿は散見できた故についでに記すところです。
> 戒壇を建立…凶悪犯罪がなく…決して変るものではありません
当然すぎる話ですね。ただ建物が建つだけ、その宗教集団の権威が上がるだけ、それ以上、なにも変わりません。これは断言できます。もっと言えば、国民全員が日蓮を本仏と信仰しても平和は来ないでしょう。来るのは日蓮本仏以外を認めない独裁と全体主義という中世暗黒時代への逆行ばかりです。
この当たり前のことに、顕正会は気づけない。いや、浅井さんの息子辺りは気づいているのでしょう。しかし覆水盆に返らず、賽は投げられた以上、引っ込みがつかないと言ったところかも知れません。しかし、ととさん(はじめまして)も書かれていましたが、女子高生を煽動して、憲法改正、国教化、国立戒壇、まるで冗談か遊び半分で署名ばかりの100万人、「世間お騒がせの馬鹿騒ぎ」、もういい加減にすべきです。おままごとはおしまいにすべきですね。ところがまた来年の4月かに、前にもばらまいた冊子のばらまきをまた企画しているという情報があります。また、これを会員に買わせる商売をやろうというわけです。地に堕ちた商魂とわたしは批判します。
> 如何なることも、実際の問題に目を向けて、実践的に対処し取り組まない限りは、何も変らないということに、早く気づいてほしいと思います。
まったくそのとおりです。お題目だけではなにも変わりません。
掲げた目標を具体的にどのように進めていくか、その実践行動でしかなにも変わりません。
> 一時期、逃避が必要な場合もあります。しかし、逃避したままではいつまでたっても、何も変りませんね。
これもそのとおりですね。
信仰という仮想現実に逃げ込んで、観念の遊戯に耽るばかりでは、それこそ絵に描いた餅でしょう。国家の手に届かない国民の公共福祉に従事する故の非課税特権です。それをしないのであれば、宗教法人法に違反することになります。対社会への実践を各宗教団体は違法性があるとわたしは言いたいほどです。その閉鎖集団をシェルターに模せば、仮想現実はやがて現実と区別が付かなくなります。会員は、このような精神状態が異常か正常か、よくよく呻吟自問してみる必要があります。
> 陳情に行った僧侶方が、背広姿だったことです。
これは実はわたしも驚きました。
石山のアナウンスで、袈裟衣は漫荼羅本尊御前の正装だそうで、その他は着ないということでした。おかしな話です。
やや、話はずれますが、身延山久遠寺の自負は四六時中、山中のどこかで唱題の声が絶えないことであるといいます。朝昼夕ばかりではなく、夜通し、いつもお題目の声が絶えないということです。換言すれば、あの山中は365日24時間、修行者を受け入れているということです。わたしは延山信者でも何でもありませんが、その有様を、あるべき姿と思います。
それに比し、石山といい、末寺といい、朝の勤行で開門、夜の勤行、あるいは会合後は閉門しておしまいにします。そのあとは袈裟ばかりではなく、出家である身分まで脱ぎ捨てて在家と変わるところがありません。「陳情に背広姿」も、その延長にある話なのでしょう。まあ、これは顕正会の実態とはややずれる「冨士大石寺」と顕正会が宗教法人の届け名とは別に自称する部分に掛かる問題ではありますが。
わたしは、アネモネさんの、その当たり前の感覚をここに披瀝くださり、学会を含む石山系集団が如何に非常識、夢想と独善に陥っているかの証左を示してくださることを、今後とも期待するものです。
159
:
犀角独歩
:2003/12/15(月) 16:28
【158の訂正】
誤)対社会への実践を各宗教団体は違法性があるとわたしは言いたいほどです。
正)対社会への実践のない各宗教団体は違法性があるとわたしは言いたいほどです。
160
:
ガンコ
:2003/12/15(月) 16:42
日蓮正宗顕正会第二十六回総会における会長講演(抜粋)
そしてついに今、自界叛逆すなわち内乱が、すでに影ではなくてその姿を現してきたではないか。それが日本国中を震撼させた、あのオウム事件であります。
地下鉄サリン事件直後の三月度総幹部会で私は、このオウムを「宗教の仮面をかぶった内賊」と断定した。内賊とは内乱を起こす賊、国家顚覆を企てる賊ということです。
その通りでしょう―。
オウムは内乱の武器として、猛毒ガス・サリンを製造した。押収された原材料の量から推定すると、一億人以上を殺せるサリンを作ろうとしていたらしい。
また、ボツリヌス菌という、一グラムで一千七百万人の命を奪うとされる猛毒細菌の培養も手がけ、培養タンク二基を設置していた。警視庁の調べに対し遠藤誠一容疑者は昨日二十日、「細菌兵器も完成寸前で、大量培養に取りかかるところだった」と供述しております。
さらに自動小銃や爆薬も作り、ロシアからは軍用ヘリコプタと小型潜水艦を買い付け、さらに戦車・ロケット砲・ジェット機・核弾頭の購入計画まで立て、ロシアで軍事訓練も受けていた。
そして国家顚覆の暁にはオウム王国を作るとして、麻原彰晃を唯一絶対の統治者とする憲法草案まで準備していたという。
これらを見れば、オウムのめざすところは、まさしく大量殺戮兵器を用いて日本国家と戦い、国家を顚覆することにあったことは一分の疑いもない。
その予行演習が松本サリン事件であり、地下鉄サリン事件であり、また犯人こそまだ特定できないものの国松警察庁長官の狙撃事件だったと思われる。
彼等のたくらみは一見荒唐無稽にも見えるが、すでに松本と地下鉄では十九人を殺し、五千数百人を負傷させている。これだけでも、未だ曽て見ない大規模・残忍な殺戮です。
その上に彼等は、本年十一月にいよいよ本格的戦闘を起こす予定だったらしい。もしこれが行なわれていたら、どれほど大量の犠牲者が出たことか、そしてもし一都市・一町村の住民すべてが人質に取られるなどしたら、政府はいかなる譲歩をも強いられるではないか。国家顚覆も夢ではない。
まさにオウムのやったこと、なさんとしていたことは、内乱そのものなのであります。
ゆえに法務・検察当局は、内乱罪の適用を真剣に検討していたのです。刑法七七条の内乱罪というのは、政府顚覆を謀ったり、国土のある区域を占領して領土権を侵害するなど、国家の基本組織を破壊する目的で暴動を起こした者に適用される法律であるが、明治四十年に刑法が制定されて以来、これまでに一度も判例になったケースがない。戦前のあの二・二六事件ですらこの内乱罪は適用されなかったのです。
ところが今回のオウムに対しては、この五月七日までに、法務・検察当局によってその適用の検討が始められた。ことの深刻さを思うべきであります。
しかし、内乱罪の適用には総理大臣の決断が不可欠である。これはいまの村山首相には望むべくもない。そこでとりあえず殺人罪を適用して麻原逮捕ということになったが、これは単なる殺人というような犯罪レベルの事件ではない。まさしく国家破壊をめざした武装蜂起です。これを内乱といわずして、どこに内乱があるのかと私は言いたい。まさにこれが仏法でいう自界叛逆なのであります。
161
:
犀角独歩
:2003/12/15(月) 17:03
> 160
ああ、やはり、自界叛逆“オチ”にしていますか。
それで、これを免れるためには顕正会の言う如く、国立戒壇の建立しかない、日蓮は悪しく敬えば日本は滅ぶ、とこう講釈を垂れて会員を煽る道具としているわけですね。
では、実際のところ、被害者となった人々に具体的に何をしたのかということが問題にされなければならないわけです。これは同じ年に起きた阪神淡路大震災罹災者に対しても同様です。
顕正会はそれら被害者にどのような支援・救済の手を差し伸べたか、わたしは156の心者雖念不直相鴨さんに引き続き、質問させていただきたいと思います。
162
:
ジャンノレン
:2003/12/15(月) 17:40
横からすいません。ちょっとガンコさんの発言で面白い同一性を見つけたものですから。
それは浅井さんのオウム事件に関してのコメントの趣旨がです。
>国家?覆の暁にはオウム王国を作るとして、麻原彰晃を唯一絶対の統治者とする憲法草案まで準備していたという。
>これらを見れば、オウムのめざすところは、まさしく大量殺戮兵器を用いて日本国家と戦い、国家を?覆することに
>あったことは一分の疑いもない。
>これを内乱といわずして、どこに内乱があるのかと私は言いたい。まさにこれが仏法でいう自界叛逆なのであります。
これと同趣旨の事を某宗内過激団体の長が言ってましたね。
あれは「自界叛逆」だと、この後、必ず他国から戦争が起きるということを指導していました。
その前に自分の会社がやられてしまいましたが・・・・・。
ところで独歩さん、新宿で撒かれたあれは、そこの副幹部さんが絡んでいるヤツですよ。
私はちょっと、いわゆるそこのプロパガンダっぽい一つの運動ですから、しらけていますが・・。
しかし、手本にしているとは聞いていましたが、これは殆ど、運動方式から発言までパクリですね。
163
:
犀角独歩
:2003/12/15(月) 18:19
162 ジャンノレンさん:
お久しぶりです。
ビラの件、ご指摘有り難うございます。
> …副幹部さんが絡んでいる
て、どなたでしたか?
> プロパガン…しらけています
これはたしかに言えます。
それでも、こんな事件があったことを知らない人もいるということで、あくまで紹介ということで。もちろん、わたしはまるで運動に関与していません。
> 手本…運動方式から発言までパクリ
これは、どこを、でしょうか。
164
:
ガンコ
:2003/12/15(月) 18:33
>顕正会はそれら被害者にどのような支援・救済の手を差し伸べたか、わたしは156の心者雖念不直相鴨さんに引き続き、質問させていただきたいと思います。
まったく存じません。おそらく何もしていないだろうと思います。
これは一刀両断さんのほうが詳しいと思いますが、その昔、浅井はよく申していました。何かと申しますと、じぶんが入信したころだったですが、創価学会のほうでアフリカ難民のための街頭募金を大々的にやったことがあって、それに対してだったと思いますが、ようするに、顕正会ではそういうマヤカシはやらない、そんなものは根本的解決にはならない・・・といったようなことを言っていたと思います。
それで、まあ、いつも結論は同じなんですけどね。
165
:
ガンコ
:2003/12/15(月) 18:40
ところで独歩さん、
>もちろん、これはガンコさんを批判していると言うより、過去の議論のなかでも同様の元会員の投稿は散見できた故についでに記すところです。
ここで“元会員”とされた意図はなんでしょうか? 元会員すら是くの如し、況んや現役会員においておや、ってこと?
166
:
ジャンノレン
:2003/12/15(月) 18:56
独歩さん、こんばんわ。ご無沙汰致しております。
お尋ねの件は、チラシが手元にあれば、見て頂ければ一目瞭然です。
>> …副幹部さんが絡んでいる
>て、どなたでしたか?
これは被害者とされたお二人の一人、Sさんですね。チラシに実名が出ていると思います。
>あくまで紹介ということで。もちろん、わたしはまるで運動に関与していません。
そうでしょうね、だって仮に、独歩さんが絡んだら、天地がひっくり返りますよ(笑)
ちなみに、震災期、正宗寺院では近畿近隣(和歌山くらいまで)の法華講は炊き出しとか、服や食料を持って各非難小学校
に、毎週、行ってましたよ(あまり、知られていませんが)よく、お寺さんの人や在家の人と非難校舎で、談笑しました。
たしか、某講中も阪神大震災の時には、炊き出し行為で毎週、参加していたはずです。
そこでのエピソードは、さる小学校にオウムも来ていまして、テントを設けて食料配布していました。
キリスト教あり、仏教系あり、幸福の科学も来ていましたね。なぜかオウムは配っていても人気が無く
その直ぐ側で、某講中の人が和歌山の先生を、御尊師、御尊師様と呼ぶものですから、その先生がいやがって
「君ら、その言い方は辞めたまえ」と怒っていました。
まぁ、近くにオウムがいて「尊師、尊師」とはちょっと、やばいですよね。
>>手本…運動方式から発言までパクリ
>これは、どこを、でしょうか
そうですね、やっぱりあそこの頭目の終末論や同窓会名簿の総当たり勧誘でしょうね、K会から移った人は殆ど、
思想的に同じだと言いますね。私も見聞きする範囲では、H院出身でもあるし、影響は大きいのではないでしょうか。
167
:
アネモネ
:2003/12/15(月) 19:14
自界叛逆難とは、学会版の辞書からの参照では不適切かもしれませんが、
「仲間同士の争い、同士討ち、内乱、自国内の戦争などの難のこと。叛とは、そむく、わかれる、にげる、たがう等の意。薬師経の七難の一つ。−略」(仏教哲学大辞典 政教新聞社刊)
とあります。
要するに浅井さんは、国家が日蓮正宗を国教化し、国立戒壇を建立しないから、オウム事件が起きたとでもいいたかったのでしょうけれども、まあしかし、仲間同士の争い、内乱とは、まさに顕正会、創価学会、法華講…これら石山系の姿そのものとも思えますね。
自分たちの自界叛逆難を棚上げして、「自界叛逆すなわち内乱が、すでに影ではなくてその姿を現してきたではないか。」もないものと思います。
>そして国家顚覆の暁にはオウム王国を作るとして、麻原彰晃を唯一絶対の統治者とする憲法草案まで準備していたという。
この考え方は、顕正会の日蓮正宗の国教化や戒壇建立と、思想的には同列のものだと思えますね。
国家転覆、オウム王国建設という信念が、誰によって刷り込まれ、どうしてサリンを蒔くといった殺人行為が、仏教の大儀のもと正義と確信されてしまったのか。そこについて敢えて触れられていないところなど、同じ思想構造にあることを浅井さん本人が、よーくわかっていらっしゃるようにも思います。
>これを内乱といわずして、どこに内乱があるのかと私は言いたい。まさにこれが仏法でいう自界叛逆なのであります。
灯台下暗しで、自分たちの信仰に、内乱がありますでしょうね。
まず、自分たちの信念体系の正当性の誇示のために、社会への憎悪が煽られています。オウム事件の取り上げ方にしても、社会への憎悪を煽る内容といえるでしょう。
信仰の社会還元という意味においても、社会に対する問題意識を持つことは、決して悪いことではありません。だけど、それが憎悪に駆り立てられるものであっては、慈悲の仏教の体現には、とうていなり得ないでしょうね。
168
:
アネモネ
:2003/12/15(月) 19:15
(つづき)
オウム事件の実行犯に駆り立てられた人たちの、強い信念構築の背景には、組織からの粛清の恐怖というのが常にあったわけです。見せしめに殺された信徒もいたわけですから、従わなければ明日は我が身と強迫観念に陥れば、正常な判断能力は自ずと疲弊していきます。
それと同じことが、石山系でも行われてきているわけです。もちろん、殺害といったことは行われてはいません。しかし破門や除名とは、信徒にとっては粛清や処刑と同じくらい信仰上の抹殺という処遇といえるでしょう。その恐怖に煽られて、自分の意見を押し殺して、常にトップに従い忠誠を誓わされる構図は、まさに恐怖政治といえるわけです。
たまたま、フセイン大統領の独裁恐怖政治の実態がニュースでまとめられていましたが、似たような思想背景が石山系にあります。組織信仰者にとって、破門や除名は、まさに公開処刑と同じ、信仰生命を断たれるようなもの。
だからこそ、ガンコさんじゃありませんが、頭のどこかで組織の不健全さはわかってはいても、やはり除名という心理的恐怖から、なかなか逃れられないわけですね。
組織からの除名の恐怖は、要するに、罰論に操られてもいますから、その恐怖から逃れるためにも、組織外の人を通して、仏教を聞くということは、心理操作を弱める意味でも、非常に大事なことだと思いますね。
しかし、日蓮正宗法華講では、オウム事件については、ほとんど何もきちんとしたことは語られていなかったですね。>156で、心者雖念不直相鴨さんが紹介してくださった内容にあるように、なんだか「我関せず」の姿勢でしたね。信徒の人も、邪宗の現証みたいなことで、その先は何も考えてはいませんでした。
オウムの施設は、同じ富士山にあって、大石寺からも遠くはありません。戒壇建立の地とする山にオウムがあるというのに、なんだか、能天気な印象を受けたものです。
しかし、結局、振り返ってみると、オウムを検証するとき、そこに横たわるものは、信徒を恐怖で煽るマインドコントロールであり、そこを追究することは、独自組織の自己批判をも意味するところでありますから、とうてい批判はできないでしょう。その矛盾を突かれることを避け、おとなしの構えを決めていたことがうかがえます。
謗法、邪宗の現証と、ただ繰り返すだけだったと思い出されます。信徒も口移しで、そう繰り返るだけで、何も考えてはいなかったですね。
御本尊対自分の世界だけに生きている、まさに現実の証という組織の実態だったと思い返します。
169
:
Jルーカス
:2003/12/16(火) 01:20
>>>手本…運動方式から発言までパクリ
>>これは、どこを、でしょうか
>そうですね、やっぱりあそこの頭目の終末論や同窓会名簿の総当たり勧誘でしょうね、K会から移った人は殆ど、
>思想的に同じだと言いますね。私も見聞きする範囲では、H院出身でもあるし、影響は大きいのではないでしょうか。
とかく手本にすると、元祖を超えることがあります。
その某講中出身の方から聞いた話ですが、タウンページを上から順番にかけていくそうです。
「創価学会の○○さんですか」と言うわけです。相手が「違います」と言えば「失礼しました。間違えました。」と言って切るわけです。
「そうです」と言われたら、何とかアポを取る訳ですが、それに失敗すると「偽本尊拝んでいると死にますよ」と脅して切るそうです。
私の知人はその行為を見て、その講中から離れる決意をしたそうです。
さすがにあれが折伏とは思えなかったそうです。
170
:
心者雖念不直相鴨
:2003/12/16(火) 04:00
一刀両断さん:
ガンコさん:
詳細にわたるレスありがとうございました。
オウムの事件に関しては、当時業務上で直接的なかかわりがあり、対応に忙殺されていました。従って、発生時より刑事事件的な側面に関しては(一般報道を)逐一追跡していましたが、創価学会の組織からは離れていたため、当門流がどのような対応をとったのかに関してはまったく存じませんでした。朝、読、東京の三紙を通覧していた限りでは、当門流からの公的な(記者会見や代表者による声明といった形での)仏教教義上からの批判はなかったという記憶があります。
一般紙にオウムの教義にある秘密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)とは、悪行をなす生き物はポワ(殺害)して、より高度な位へと上げてやることが成就者の慈悲心であるとの説明がありました。一方で、真言を唱えたり、護摩を焚いたりする密教の実践を行う日本の真言宗や天台宗も、実は密教、すなわちタントラ・ヴァジラヤーナなのであるとの解説もありました。
「なぜ、既成の仏教教団は教義上からきちんと批判をしないのだろうか?」と、疑問に思っていました。それが、前掲書(保坂俊司:インド仏教はなぜほろんだのかーイスラム資料からの考察―、北樹出版、2003)の序文を読んで、「やっぱり、誰も(どの教団も)公的には、きちんと教義上の批判はしていなかったのだな。」と、納得したわけです。
ガンコさんよりご紹介いただいた、日蓮正宗顕正会第二十六回総会における会長講演(抜粋)の内容も、自宗側からみた一方的な批判(レッテル張り)で、経典の内容に即した批判ではありません。「真言亡国」と切り捨ててしまうのではなく、内容を理解した上で批判できるような教学も必要なのではないでしょうか?
これは、オウム真理教(現アレフ)が 「既存の各仏教教団が、祖先崇拝など仏教には相容れない日本的土壌と融和し葬式仏教化・法事仏教化している中で、オウムの仏教観は「日本仏教の惰性と欺瞞をトータルに否定する苛烈な潔さ、ファンダメンタリズム独特の透徹した論理性を具備」(宮崎哲弥:仏教原理主義とテロルの理論、宝島30(6),pp42,宝島社)し、依然として一定数の若者を魅了し続けているという現実がある以上、重要なことであると私は考えます。
なぜ度脱(麻原のいう「ポア」)という考えが出てきたのか。度脱は本当に正しいのか?(間違っているのか?) 自分の言葉で考えて、説明できるような教学が必要だと思います。
171
:
三吉
:2003/12/16(火) 07:44
基本的に、宮崎哲弥さんのような時流やマスコミにのる半可通な知識人が
撒き散らすイメージ(祖先崇拝など仏教には相容れない日本的土壌と融和し葬式仏教化・
法事仏教化している)と逆の意味でのオウムの美化(日本仏教の惰性と欺瞞をトータルに
否定する)の影響で若者の一部にオウムがホンモノに見えたという構図がある
とおもいますけどね。彼ら知識人はサリンが発覚してなかったら、まだオウム
を伝統仏教と比較した上で褒めてただろうと思う。
172
:
三吉
:2003/12/16(火) 07:52
さて「祖先崇拝など仏教には相容れない日本的土壌と融和し葬式仏教化・
法事仏教化している」は、二つの視点から事実無根のデマである。
一、現代残っている仏教は、南伝も祖先崇拝と結合しているので、先祖供養
は、日本仏教の特質ではない。
二、「葬式仏教化・法事仏教化」は、江戸期民衆の「現世安穏・来世善処」
という願望に仏教が真正面から応えた結果であり、史実の釈尊も、
釈尊時代の民衆の「現世安穏・来世善処」という強い願望を踏まえて教えを
説いている。つまり一概に拒否しとらん。説かれ方は違えど、庶民の「現世安
穏・来世善処」という情を否定せず、教えに導くために利用している点は
おなじ。
173
:
犀角独歩
:2003/12/16(火) 11:49
165 ガンコさん:
> ここで“元会員”とされた意図はなんでしょうか
実際に元会員との議論であったからです。
具体名を挙げることはやめにしておきます。
「況んや現役会員においておや」は、たしかにそう思います。
それにしても「マヤカシ」とは笑止千万です。
人前で演説ぶっているだけで、なにもしない人間は軽蔑の対象以外の何ものでもありません。
166 ジャンノレンさん:
震災時、ジャンノレンさんもまた、支援に行かれたのですね。尊敬いたします。また、篤志の石山末寺僧、講員の活動にも同様に尊敬します。
その尊い個人の行動とは裏腹に「宗教法人日蓮正宗」が何をしたかということを問題にしてきました。たしか、法華講連合会としては義捐金を募ったことは記憶しています。
わたしが石山・法華講の見解でもっとも卑劣であると思ったのは、学会が顕師の印刷漫荼羅を焼いたから未曾有の災害が起こったなどとまことしやかに喧伝したことです。自然災害を自宗の肯定化に利用した挙げ句、敵対集団の攻撃に利用したうえで、自分たちは何もしない。阪神淡路大震災に対する日蓮正宗、ならびに法華講連合会の公式見解は血も涙も、一片の慈悲もない、冷酷無惨な印象を世間に与える以上のものではなかった、そして、信者には、罹災者の苦悩をよそに、罰の恐怖と、敵対者への憎悪を煽る道具とする以上のものでなかったことで、石山評価はまさに地に堕ちたとわたしは思います。もちろん、この点は顕正会も同様であったのでしょう。
なお、創価学会では以下のような資料があるようですが、その実際をわたしは確認しておりません。(もちろん、学会を肯定するという意味ではありません)
救援活動概要[レジュメ] 発行:[創価学会], [1995]. 2,3p:26cm
会議情報:国際宗教研究所公開シンポジウム / 主催等:国際宗教研究所
請求記号: 震災-7-v48. - MID:00005193 (パンフレット類)
174
:
犀角独歩
:2003/12/16(火) 12:15
167、168 アネモネさん:
自界叛逆難への切り口、言えていますね。
現在の顕正会、創価学会、日蓮正宗、まさに同士討ちそのものとはなるほど納得のいく観察と拝読しました。
これを敷衍して言えば、興門各派の分裂、ひいては五一相対もそうで、さらに言えば、日本仏教が各宗に分かれて自讃毀他を繰り返す様もそうであることになります。
寿量仏と無量寿仏に類型を見るわたしは、法華・浄土の争いは殊の外、滑稽に見えます。
なにか『宗論』のようなレスになりました。失礼しました。
http://www.tarokaja.com/list/shuron.htm
175
:
ガンコ
:2003/12/17(水) 08:31
心者雖念不直相鴨さんの、つねひごろのご投稿とその背景となる研鑽姿勢には、ひそかに驚嘆しておるばかりでありまして、とうていわたくしのようなものの遠く及ぶところではないと思っております。
>内容を理解した上で批判できるような教学も必要
>自分の言葉で考えて、説明できるような教学が必要
まさしく顕正会の実態を示す好例でありましょう。いまや顕正会員の大半が、他のあらゆる宗教を「謗法」の一語をもって片付けてしまうわけですから、当掲示板のみなさんとの乖離ははなはだしいものがあります。
さて、またしても浅井の言葉を紹介させていただきますが、これは通称「折伏理論書」と呼ばれている、自覚のある顕正会員が読んでいる本の、一部抜粋です。
では、幸福とは何か。“人によってさまざまである”などという曖昧なものではなく、万人に共通する普遍的幸福とはいったい何であろうか。
これを解く鍵は、人間にとって最も大事なもの、貴重なものは何かということにある。
いうまでもない。人間にとって最も大事なものは、我が生命である。大聖人の御指南を拝してみよう。
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり」(可延定業書)
「有情の第一の財は命にすぎず、此れを奪う者は必ず三途に堕つ」(主君耳入此法門免与同罪事)
「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、『遍満三千界無有直身命』と説かれて、三千大千世界に満てて候財も、いのちにはかへぬ事に候なり」(白米一俵御書)
人間にとって生命ほど大切なものはないとの仰せである。ゆえに人はこの命を失うことを、何よりも恐れる。
「世間に人の恐るる者は、火炎の中と、刀剣の影と、此の身の死するとなるべし。牛馬猶身を惜む、況や人身をや、癩人猶命を惜む、何に況や壮人をや」(佐渡御書)と。
以上の御指南を拝するならば、幸・不幸の本質が明確になるであろう。 ―引用終了―
かくもふんだんに御書が引用されているにもかかわらず、うっかりすると顕正会員は御書の部分をすっ飛ばして読んでしまっている・・・そういう人が少なくないとわたくしは感じています。してみれば、法門無尽誓願智にはほど遠い現状といわざるを得ません。
176
:
ガンコ
:2003/12/17(水) 08:32
アネモネさんより宿題をいただきながら、いまだに果たせずにいること心苦しく思っております。
かつて議論になったことと、いまの議論と、共通する点が見いだされますので、いまだじぶんの言葉で申し上げる力はありませんが、浅井の立正安国論謹講より、抜粋・引用させていただきます。
―引用開始―
さて、釈尊が過去世において国王たりし時、謗者の命根を断ったというのも、いつに謗法を禁めて正法を護持するためであり、また大慈悲のゆえである。
大慈悲のゆえに命を奪うというのはおかしく聞こえるかも知れぬが、よくよく考えれば、謗法者は知らずとはいえ自らの仏種を破壊せんとしているのだ。この自らを殺す非行を命根断絶により救済する。すなわちその色心を断じて慧命を全うさせるのである。またこれ以上の悪業をなすを許さず、命根断絶して未来の堕獄を救うのである。されば殺にも憤怒・残忍から出るものと、このように慈悲より出るものの二つがあるを知るべきである。
しかしここで注意しなければならないことがある。それは、このような謗法者に対する命根断絶という行為は、国主・国家権力がなすべきことであって、個人は絶対にしてはならない。ゆえに涅槃経にも、釈尊が過去世において国王であった時の行為として説かれているのである。
また時代によっても適・不適がある。後段に御指南があるが、釈迦以前においては命を断ずることが説かれているが、釈迦以後の時代・社会においては、その施を断つことを以って断命に代えるのである。
これは謗法者の命を断ずること自体が本意ではなく、あくまでも謗法を禁断することがその目的であるからである。
―引用終了―
なお、わたくしが所持している「立正安国論謹講」(浅井昭衛著)は昭和六十三年版ですので、近年発刊された最新版とは内容が異なるかもしれません。
177
:
心者雖念不直相鴨
:2003/12/18(木) 05:55
>175 ガンコさん:
いつも、ご懇篤なレスをいただき、ありがとうございます。
>まさしく顕正会の実態を示す好例でありましょう。いまや顕正会員の大半が、他のあらゆる宗教を「謗法」の一語をもって片付けてしまうわけですから
私も、まさにその一人でした。富士門流のどなたかが、経文を引いてオウム真理教を明快に破折してくださっていたら、今もそのままだったと思います。
>かくもふんだんに御書が引用されているにもかかわらず、うっかりすると顕正会員は御書の部分をすっ飛ばして読んでしまっている・・・そういう人が少なくないとわたくしは感じています。してみれば、法門無尽誓願智にはほど遠い現状といわざるを得ません。
人間本当に切羽つまらないと、なかなか勉強はできないような気がします。私も、若い頃は教学試験の勉強くらいしかやりませんでした。独歩さんの「日々雑記」
「一切衆生皆成仏道と言った責任」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
を読み、これではいけない、と発心したわけですが、自分のどこにこんなエネルギーがのこっていたのかと驚いています。
創価学会で入信当時お世話になった先輩が、以前破廉恥事件をおこして除名になりました。事件の内容が内容だけにやむをえないと(当時は)思ったのですが、同じような事件が頻発し、しかも教義自体にその原因があるのではないかとの指摘に大変なショックを受けたわけです。
生まれて初めて、本心から教学を勉強しなければと思いました。
当分はオウムの問題も含めて、「宅間守と..」のスレッドで、「不殺戒」の問題を考えていこうと思っていますので、よろしくお願いします。
178
:
心者雖念不直相鴨
:2003/12/18(木) 06:18
>171,172 三吉さん:
はじめまして。レスありがとうございました。宮崎哲也さんに代わって私がお答えするのも、おかしいのかもしれませんが、引用責任がありますので愚見をのべさせていただきます。
> 二、「葬式仏教化・法事仏教化」は、江戸期民衆の「現世安穏・来世善処」という願望に仏教が真正面から応えた結果であり、史実の釈尊も、釈尊時代の民衆の「現世安穏・来世善処」という強い願望を踏まえて教えを説いている。つまり一概に拒否しとらん。説かれ方は違えど、庶民の「現世安穏・来世善処」という情を否定せず、教えに導くために利用している点はおなじ。
江戸期民衆の云々に関しては、三吉さんのおっしゃるとおりかもしれませんが、「葬式仏教化・法事仏教化」は「昭和・平成期民衆」の苦悩・願望をとらえきれず、その要求に真正面から応えていない結果ではないでしょうか?
「教えに導くために利用している点はおなじ。」についても、おっしゃるとおりかもしれませんが、ともすれば法会が業者の都合を優先したりして説法に十分な時間が割けず、その点に不満を感じている人(壇徒)も多いとの新聞記事を目にしたこともあります。
179
:
三吉
:2003/12/18(木) 07:50
心者雖念不直相鴨さん おはようございます。 突然の横レス失礼いたしました。
「伝統仏教駄目。オウムいい」という言説がサリン前、マスコミや若手知識人の間でハヤッテイタような記憶があります。
先祖供養として仏教に接する者にたいしては、伝統仏教は「先祖供養」としか見えませんが、仏法を求めるならば、伝統仏教は、仏法で応えると思います。
私の先祖の墓は日蓮系の法華宗の寺にあるのですが、私の親が墓参りに熱心ではありませんでしたので、代わりに塔婆供養に行ったものですが、先祖供養として寺を把握していた私は、ついぞ日蓮さんが何をおっしゃり、法華経がどういう経典なのか、寺に行きながら、まったく関心を持ったことはなかったです。でも実家を遠くはなれ、寺にも行かなくなり、私の分の塔婆供養を親にお願いするようになって、すこし仏教に関心を持ち出してから、仏教に関心ある目でお寺をみますと、定期的に「法華経」講座は行われているのにきづきました。たぶん昔からされたのでしょうが、関心ない私はきづくことはありませんでした。
180
:
心者雖念不直相鴨
:2003/12/19(金) 02:56
三吉さん:
>先祖供養として仏教に接する者にたいしては、伝統仏教は「先祖供養」としか見えませんが、仏法を求めるならば、伝統仏教は、仏法で応えると思います。
先祖供養は祖先を尊崇する気持ちの強い日本人にふさわしいきっかけだと思います。
私と仏教との出会いも、「ご先祖供養の霊友会」に入信させられ法華経を読授させられたことが、その始まりでした。
ただ、「ご先祖供養」では、だんだん人を引き付けられなくなったせいか、その後「インナートリップの霊友会」というキャッチフレーズにかわってしまいました。インナートリップとは「内的世界の探求」とでも言った概念でしょうか?
「デフレ」、「失業」、「就職難」、「イラク戦争」と問題は山ほどあり、「苦」も山ほどあるのに、伝統仏教がこれに対する「発信能力」を失っていることが大きな問題かと思います。
かつては、社会の諸矛盾に対抗し「救済活動」を行おうとすると、必然的に「僧侶」という形をとらざるを得ないような時代があった。しかし、それが専門化し、分化し葬儀や法事を除いてはほとんど手元に残らなくなった。それが、現状なのでしょうか?
181
:
犀角独歩
:2003/12/23(火) 19:52
177 心者雖念不直相鴨さん:
遅まきながら、
> 「日々雑記」
「一切衆生皆成仏道と言った責任」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
お読みいただいていたのですか。有り難き極みです。
改めて御礼申し上げるものです。
182
:
真如会
:2004/01/04(日) 03:10
学会も顕正会も同じ、聖人の面汚し
183
:
Jルーカス
:2004/01/12(月) 01:01
顕正会では、4月から国家諫暁を開始するそうです。
浅井会長が書いた「日蓮大聖人に背く日本は必ず滅びる」を大量に配布し、上は小泉首相から下は小学生に至るまで全国民に知らせる未だかつてないスケールの戦いを展開すると言われてますが、これって数年前の「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず滅ぶ」を配布した時と余り代わり映えしないように思うのですが、どうなんでしょうか。
184
:
ガンコ
:2004/01/12(月) 14:48
一国諌暁についての現時における所感
悲しいことに、末端会員は巷間とびかっている情報以上のことを何ら知らされていない。
近年、入信した者たちは期待と不安でむねをふくらませているかもしれないが、平成九年の一国諌暁を知るものはその立場によって思うところはさまざまなのだろう。
わたくしなどは、まったく期待というものを懐いていない。
正直、前の諌暁と代わり映えがしない、という論評にかなり共感をもってしまっている。
いわゆる平成九年の諌暁は、顕正会五十万を背景におこなわれた。そして今回は顕正会百万を背景に起こされる戦いという。
単純に考えれば倍増であり、まったくスケールを変えた諌暁になると思われる。じじつ、浅井先生の起こされる戦いは、ある意味でつねに会員の意表を突いてきたところがあって、今回の諌暁でも何かわれわれの思いもつかない秘策を考えていらっしゃるかもしれない。反対勢力にしてみても、この辺は想像のつかないところだろう。
しかし、それはそうなのであるが、顕正会の実質的勢力は倍増というところまでいっていないのではないか・・・という点はみごとに反対勢力に見破られてしまっている。
広宣流布の最終段階といわれているが、本気でやるなら今はようやく広宣流布のスタート地点に立つことができた、と考えるべきとも思う。もちろん折衷案的にいえば最終段階の幕開け、ということなのだろう。
日本には時間がない、というのも先生の口癖であるが、急がば回れ、という言葉もある。
すでに、多くの批判者が指摘するところをわたくしなりに申せば、百万までの顕正会はある意味、自覚のない顕正会員を増大させてきたといわざるを得ない。
百万を達成する何年も前から、気の早いことに一千万を口にもしているが、これ以上、自覚のない会員ばかりを増やしてどうするものか。というより、今の手法はもう限界と見るのが妥当であろう。おそらく、今のままでは二百万すら何年先になるか、わかったものではない。
先生の諌暁書の内容は、平成九年の延長線上のものであることは容易に想像がつく。すなわち、巨大地震と国家破産について、最新のデータを駆使してお書きになられることは間違いない。そして、この問題は深刻である。一部の批判論者は、ことさらこれらを矮小化するがそれはどうかしていると思う。
むしろ、わたくしの考えを申せば、まじめな国民は誰もが考えているところであろう。しかし、それが、いったい、どうして日蓮大聖人の仏法と関係するのか・・・現代感覚ではとうてい及びもしないところであって、先生にしても、そのことは百も承知であって、諌暁書執筆に当たってはずいぶんと悩まれていることだろうと思う。
結局のところ、先生の諌暁書について、いわゆる社会時評的な部分に関しては多くの共感を呼ぶのではないかと想像するが、さりとて、日蓮大聖人の仏法を信仰しなければならないとする、その切迫性までに思い至る人間は少ない・・・というのが現状であろう。
185
:
犀角独歩
:2004/01/12(月) 17:17
> 諌暁書…社会時評的な部分に関しては多くの共感を呼ぶ
そんなことはないでしょう。
社会時評的に共感を持つと思うこと自体、顕正会経験者の‘思い込み’に過ぎないでしょう。今回の‘本の販売’に関しては、先の倍する利益が見込めるという2匹目の泥鰌以上の意味は何もないでしょう。
さて、広宣流布の総仕上げとはいったい何の夢物語なんでしょうか。
以下はわたしは真筆と思いませんが、顕正会ではそう扱うものです。
この‘金言’に即して、どこが総仕上げなのか、いやはや、いつまで下らない騒ぎを繰り返して、商売するのはいい加減にやめるべきでしょう。
「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」
署名・勤行した人間が100万人になったぐらいで、広宣流布の大騒ぎ、商売の宣伝ももっとうまくやればいいのです。まったく笑止千万です。
186
:
ガンコ
:2004/01/12(月) 18:37
うぅ。
187
:
一刀両断
:2004/01/12(月) 23:57
平成九年の諌暁書は、会員は一冊二百円で大量に購入し、友人・知人に多く発送、若しくは手渡しがなされました。
それを総幹部会では、幹部が得意げに「私は何万部購入した」とか「何千部追加した」などと会員への大量購入を促し、また手応えや反応を登壇させ、両手を挙げて喜んでいたわけですが、実際のところ、全く何ら効果を得られなかった、というのが実情でしょう。
新聞紙面において大宣伝を行い、当時の会員を大量動員させた結果として、何かが変わったわけでも何でもありませんでした。
今回もまた同様の内容で、同様の手段を使用する可能性が考えられますが、実態は顕正会内部での自己満足でしかないでしょう。
ただ平成九年の諌暁書に関しては私は一つだけ不明の事があります。
それは本屋において販売されなかった、ということです。
これについて顕正会では「学会が妨害した為、発売日ギリギリで出版差し押さえされた」と主張していますが、現在においてもこういった出版差し押さえのような行為が果たしてできるのかと考えたものです。
いずれにせよ、考えられる方法は全会員動員しての頒布活動が主軸になるのでしょうが、何ら効果は得られないというお粗末な結末を迎えるのでしょう。
188
:
Jルーカス
:2004/01/13(火) 00:17
200円×1万部でも、200万円か。
出費だね。
いや、郵送料もかかるのか。
189
:
一刀両断
:2004/01/13(火) 10:37
送料に関しては会が第三種郵便扱いとし、会員負担ではなく会の負担となっていたはずです。
しかし機関紙にしても、諌暁書にしても、実働会員にとってはとてつもない負担額にはなるわけです。
機関紙などは五月に会が推進月として躍起になって購読推進をするのですが、各組織5%から10%の増加を誓願とされるわけです。
前年度100部なら110部を目指して、毎週定例報告において厳しく推進度をチェックされるわけですが、名簿会員ばかり増加してしまう現状では、5%増しなど、幹部にはかなりの負担になってしまうわけです。
実際のところ、総幹部会や御書講義といったビデオ放映も含めての参加動員数は99%本部側で掴んでいるわけですから、活動会員が増加していない事は重々理解しているはずなのですが。
それでも尚、強烈に推し進められる理由は一体何なのだろうと疑問視するところです。
190
:
Jルーカス
:2004/01/13(火) 10:55
一刀両断さん
> 送料に関しては会が第三種郵便扱いとし、会員負担ではなく会の負担と
> なっていたはずです。
これは認識の間違いです。
送付のための封筒は会が無料で配布しましたが、第三種郵便料金(84円)は
会員負担だったそうです。当時の会員が持っていた当時の顕正新聞に1冊の
場合○○円、2冊○○円等と、個人負担であることがはっきりと明記されております。
さて、いずれにしてもこれはかなりの売り上げになる訳です。
知っての通り、毎年の広布御供養は上限が決まっておりますが、この書籍に
関しては上限が無い訳ですから、こぞって購買する訳です。
つまり、上限を撤廃した資金集めの意義があるのだと思います。
191
:
犀角独歩
:2004/01/13(火) 11:04
一人で1万部ですか。それはすごいですね。
顕正会が販売する本の印刷部数は何万などという単位ではないでしょうね。
100万、あるいは1000万という単位ではないでしょうか。
100万人会員というわけですから、名簿だけになった会員には勧誘者は、購入させられて送ることになるでしょうし。そうなるとこの販売利益はどれくらいになるのか。そもそも浅井さん一家というのは石山の出版物を扱っていた印刷屋であったわけですから、かなり安価に印刷を行うことができるでしょう。
さて、どれほどの出版利益を見込んでいるのか。興味があります。
頒価200円で100万部であれば20億円。大量に印刷すれば、一冊原価は数十円でしょう。それを差し引いても莫大な利益が上がることになります。なんてことはない、この出版利益にこそ目的があるのでしょう。
ちなみに学会が石山と喧嘩を始めた年、あの団体は前年比37%も出版利益を伸ばしました。
これら団体にとって、人々の憎悪、恐怖感、切迫感は、イコール、金になる仕組みです。イラク参戦その他で日本が騒然としてるときに、人心を煽り、金儲けをするこの団体のやり方を、わたしはあくどいと思います。
> 本屋において販売されなかった
出版流通については、わたしは学生の頃から関連し、いまに至っています。
書籍・雑誌が一般書店に流通するためには条件が満たされない限りできません。
その第一は、出版する者が‘流通コード’を取得しているかどうかという点です。
書籍の販売は一部の例外を除いて流通業を経由しますね(例えば、ニッパン、トーハン)これらの中間業種を経由するために流通コードが必要なわけです。
しかし、この取得は至難です。果たして顕正会が取得できていたかどうか。
いま、日本図書コード管理センターの‘出版社検索’で「ケンショウカイ」「フジタイセキジケンショウカイ」で検索してみましたがヒットしませんでした。
http://www.isbn-center.jp/cgi-bin/isbndb/isbn.cgi
出版社記号、流通コードすら、取得していないとすれば、当初より書店流通するための当然の手配は何も行っていなかったということでしょう。
仮に取得できていれば、原則的には一般書店への流通は可能と言うことになります。
例の本には、裏表紙にISBNコードと13桁の数字が付されたバーコードは付されているのでしょうか。
もし、その印刷がなければ、その本は当初から流通を考えていないものということになります。
この取得がない場合、そのコードを取得している出版社の名義を借りることになります。この場合、その出版社名は奥付に明記されなければなりません。もちろん、この場合もINBSコード、バーコードは印刷されているはずです。
以上が明記されていたのであれば、当初はたしかに一般書店へ流通する目的があったことになります。なければ「嘘」ということでしょう。しかし、出版社記号すら登録されていないとすれば、真っ赤な嘘ということになります。
さて、学会がそれに圧力をかけることが可能かどうか、出来そうな話だと思いますね。
しかし、それが事実であれば、それこそ、裁判でも何でも訴えて所期も目的を果たせばよいわけです。それをせず、創価学会のせいにする話法に問題はあります。
これまた、余談ですが、昭和45年、創価学会は言論出版妨害を起こし、世間の厳しい批判を受けることになりました。その結果、田中智学の影響を受けた戸田教学の廃棄を余儀なくされ、世間面としては政教分離を謳うことになりました。これ以降、かなり長い間、大手書店では創価学会出版物をオミットしました。わたしは学生時代、神田に本店のあるS書店でアルバイトをしていたのですが、学会書籍は置かない方針で一貫していました。
ですから、仮に顕正会が版元となり流通コードを取得して、正規のルートで流通を図ろうとしても、書店は、その‘商品’は扱わないことは起きます。
また、新刊は毎日大量に発行され、流通業者は割当で各書店に送りつけます。それを全部、店売に出せるわけはありません。気に入らなければ、その時点で返品します。
仮にあの手の本が新刊配本されてきても、置こうと考える書店は、まずないでしょう。
即返品の憂き目に遭うだけです。これは学会の圧力以前、書店の嗜好の問題です。
もし顕正会側が「一般書店に置く」と言っていたとしたら、以上の業界常識を知らない人々を当初から欺くためであったか、あるいは、その常識を知らなかったかどちらかでしょう。
192
:
ガンコ
:2004/01/13(火) 14:20
平成九年七月十六日の朝刊各紙に顕正会の広告が載っていたのは間違いありません。
そして、諌暁書が全国書店にて一斉発売になる・・・はずであったが、どこの本屋にも諌暁書は見当たらなかった。
どういう手違いがあったのか、それはわかりませんが、後日、店頭に並べられたことは事実です。
なにしろ、わたくしは本屋で五部、買いましたからね。
流通コード云々はよく存じませんが、すでに顕正会では国書刊行会から二冊出版してましたので、実績はあったわけです。
わたくしが当時、考えていたのは、定価千円で出している本を内部では二百円で売っていた、これはよくないのではないか、つまり、出版社に対して申し訳ないことをしているのではないのか、と思っておりました。
あの本は、薄っぺらかったですから、書店で平積みになっているときには目立ったけど、本棚に差し込まれてしまうとぜんぜん目立たなくなってしまう。はっきりした記憶ではありませんが、本屋に置いてあった期間は短かったですね。
本の売れ筋ランキングの常連として、池田大作氏とか大川隆法氏がいますけど、池田氏は別格にしても大川氏あたりは何か細工を施しているのではないか、っていう気がするのですが・・・顕正会でも、一万部も買ったというつわものがいるのであれば、むしろ積極的に一般書店での購買運動を展開するべきではなかったのか、そうすれば出版社の顔を立てることにもなるし、ランキングの上位に入って注目をあつめることもできたのではないかと思います。
そして、なにより、長い期間、書店に並べられていることのほうが強力な宣伝になるでしょうし。
ちなみに、いま顕正会で売っている平成九年の諌暁書は、国書刊行会の名前を抜いてしまって、バーコードもついていないと思います。(手元にないので、未確認ですが)
193
:
一刀両断
:2004/01/13(火) 15:47
Jルーカスさん
全くその通りです。私の記憶違いのようでした。失礼いたしました。
当時、私自身は数冊購入して、結局郵便での送付は行わなかったので、そう思い込んでいた。
ガンコさん
そうですか、書店に並びましたか。
私には書店で購入したという者や、置いてあるのを見たといった報告をしてくるものがいませんでしたので、本屋には置かれず終いだったと認識していました。
ガンコさんのおっしゃる通り、確かに国書刊行会から2冊出版されており、諌暁書なるものも同出版社から出る予定だったと記憶しています。
ということは、実際に独歩さんが指摘されるように書店側で拒否したのかもしれませんね。
当時直接書店にて取り寄せるように申し込んだ人でもいれば、どのような形であの書物が扱われていたのか判るのでしょうけれども。
また、実際に二百円で会員は購入できるのに一般の人は千円と、頒価に相当の開きがあったわけですが、その価格差が結局会内部での購入してしまう原因だったのでしょう。
しかし、今となってしまえば、あの時会員達が自分の部屋を倉庫のように足の踏み場もない位に山積みにしていた「諌暁書」は、今回の「諌暁書」配布が事実であるならば、一体何の意味を持っていたのか疑問に思うところです。
改めて会長が書き下ろすか、若しくは手を加えて改訂版のようにするのか不明ですが、五十万を背景にしようとも百万を背景にしようとも「諌暁」は「諌暁」なのでしょうし、今度の「諌暁書」に真新しい目を見張るような内容が記されている可能性も期待できないでしょう。
とすると、一体平成九年の全会員総動員の「諌暁書配布」は何ら効果をもたらさなかった事を自ら認めていることにもなりかねませんし、効果どころか何の意味すらもたなかったのではなかろうかとさえ思えてなりません。
194
:
Jルーカス
:2004/01/13(火) 20:15
ガンコさん
一部の書店に並んでいても、正式に流通しているとは限りません。
個人的な縁故で、一店一店回って置いていただく方法もあるわけです。
所謂、日販等を通すのは独歩さんが言うように、条件が必要な訳です。
後は、顕正会が足で営業して、置いているのでしょう。
とても全国書店で云々と言う規模ではありません。
195
:
菱村正敏
:2004/01/14(水) 06:50
こちらの地元の丸善には一冊だけ置いてありましたよ。立ち読みさせてもら
いました。
流通云々は意識したことはありませんが、とりあえず、事実のみ。
196
:
ガンコ
:2004/01/15(木) 16:31
前回、ずいぶんと間抜けなことを書いてしまったものだと、いまごろになって気がつきました。
ひとりで一万部購入した人がいるという話があるけど、そうすると二百万円の出費である。じぶんは、同じ二百万出すなら、書店で二千部・・・つまり、定価千円ですから、これで二百万円分になる、そのほうが効果が大きいのではないのかと思ったわけでしたが、よく考えてみると、浅井先生ほどの方であれば、そんなことは当然わかっていただろうということです。
しかし、ただでさえ、商売だの、金儲けだのと、言われてしまうんですから、もし、書店での大量購入を会員に指示するようなことをすれば、それこそ批判者らに格好の材料を提供することにもなりかねないわけで、おそらくは、そうしたことも考慮して、ああいう方式をとったのだろうと思います。
なお、顕正会ではじめて書店に本を出した時、先生はおおむね次のようなことを会員に申されました。すなわち、本を書いても本屋さんで扱ってもらえるかどうかが問題で、顕正会には実績がないので普通には本屋に置いてもらえない、そこでみなさんにお願いしたいのだが、それぞれの住む町の書店に注文書を出してもらいたい、それが全国的にたくさん集まれば取り扱ってもらえるようになる云々。(取意)
おそらく自費出版やなんやで本を出したがっている人は五万といるのでしょうけど、本屋さんも商売だから売れる見込みのない本は置かないわけです。しかし、あのころ、まだ今よりも顕正会は小さかったけど、その本は大きな書店では平積みになっていたし、また、全国的には一位になったかどうか記憶がありませんが、顕正会員の多い地域では一位になるほど売れました。わたくしも十冊買いました。
そして、先生が次にお書きになった本の時は、会員に対して上記のような発言をされることもなく、当たり前のように書店に並べられました。この時はわたくし、一冊しか買いませんでした。
今回はいったい、どういう方法をおとりになるものか、不明の点が多々ありますが、いずれにしても、先生のおやりになることは、もう、それこそ、やることなすこと、すべて批判されちゃうんですから、ああ、先生もつらいなあ、ってわたくし思っております。
197
:
犀角独歩
:2004/01/15(木) 19:08
196でガンコさんが紹介した浅井さんの言ったやり方で書店販売して布教したのが幸福の科学ですよ。また、学会も新聞社から出した『池田大作全集』の販売の際、この方法を採りました。もし、浅井さんが本当にこんな発言をしているとしたら、まさに二番煎じ(爆)
そもそも日蓮の遺言を受けて広宣流布をしようなどという大志を抱く者が本の販売なんかを当てにするようじゃお話になりません。
本の販売は商売。正確に言うと宗教法人に認められている収益事業33種の筆頭・物品販売業に当たるものです。広宣流布ではありません。国が宗教法人に認めた収益事業の一つです。収益事業=商売=営利追求です。お間違いなく。
http://www.hi-ho.ne.jp/yokoyama-a/syukyohoujin.htm
#
わたしが仕事が携わっていた当時、書店へ書籍を搬入する率は定価の77.5%、雑誌が78.5%でした。今もそれほど変わってはいないでしょう。ですから、1000円の本を販売すれば275円が書店の利益になります。版元は卸価格-(製造原価+流通諸費用+在庫管理費+その他諸費用)が粗利となります。余計なことですが持ち込み本が200円だったら書店の利益は55円。こんな商品を扱うのはばかばかしいと考えるでしょう。1冊も売れないか数冊から二桁程度しか売れない商品、扱うことを嫌がるでしょう。頒価1000円はそんな背景を反映してると言えるでしょうね。しかし、書店1000円、直販200円の二重価格は、商常識を逸脱していると言うより、委託業者(書店)に対する裏切り行為です。会員に版元(顕正会)が書店販売価格の5分の1で販売していると知れば、それこそ、扱う書店などあるはずもありません。書籍販売は版元が直販をしても、販売相手が卸・書店といった業者ではない個人である場合、定価販売をすることが商業上のルールです。その鉄則を遵守するところで版元・卸・書店の信頼関係は成立しています。この社会ルールをまったく無視することを、わたしは非常識と解説しておくことにします。
まったく余談ですが、世界で一番売れた本は『聖書』だそうです。学者によっては宗教は世界最古の情報産業といった人がいます。
198
:
犀角独歩
:2004/01/15(木) 19:17
197補足します。
顕正会が書籍を自前で印刷すれば印刷業、自前で出版すれば出版業に当たります。物品販売業というよりこちらに該当するでしょうか。
経本・数珠の販売は物品販売業ですね。あの面白い浅井さんの録音テープなども物品販売業に該当するでしょうね。
顕正会は、会員に対して、ちゃんと会計監査を発表していますか。収益事業に基づく納税は行っているのでしょうか。このような点が不明な団体が国家・国民に認められることはありません。広宣流布以前の問題ですね。
199
:
一刀両断
:2004/01/15(木) 19:52
ガンコさん
全くもって独歩さんの仰られる通りであると云わざるを得ません。
本を頒布して、顕正会の主張を読んで貰おうという行為が広宣流布に繋がるのでしょうか?
冷静に考えてみて頂きたいと思いますが、この行為が一体広宣流布にどう繋がる根拠があるのか。
本当に広宣流布を目指している行為とは到底受け止める事はできません。
会内では”一対一の折伏こそ”といい、”縁故を辿ってこそ”と会員を先導していながら、会自体がある程度会員数を確保すると”一国諌暁”などという綺麗な言葉を並べて本を出版して一般人に理解を求める。
本当に国を憂う者が、こんな行為をするとは到底思えません。
付加して顕正会の機関紙を考えてみて下さい。
顕正新聞を見てガンコさんはどう思われているでしょうか?
大抵の会員はそれを見て読んで、”感激した”、”信心が固まった”などと云っておりますが、会内発行の機関紙ほど恐ろしいものはないと私は思っています。
私は過去顕正会に在籍していたし、機関紙を真剣に読んでもおりましたから、私自身、散々行った行為ですから、こんな事を申し上げても「貴方もそうでしたよね?」と指摘される方も多くいるでしょう。
しかし敢えて多くの人からも批難もあるでしょうけれども、反省の意も含めて本当に思うものです。
”自己批判をできない機関紙は嘘のみで固められている存在である”と。
自己批判した顕正新聞をどこかで拾い出すことができるでしょうか?
常に”会は凄い””有りがたい””尊い”と賛嘆こそすれども、一度たりとも自己反省的な記事を読んだ事がありません。
本当に顕正新聞の記事しているだけの内容の通りでしょうか?そんなわけありません。
会員でも多々虚栄の発言はしますし、幹部も勿論しかり。
添削に次ぐ添削にて発表させられた体験発表は、最早登壇会員の意図する内容とはかけ離れることなどザラなのです。
自己反省している登壇といえばただ”無二の師匠に対して申し訳ない”、”先生の驥尾に伏せさせて頂く以上、自身の恥じた戦いを一変させ”等という、会と会長を常に尊敬させる言葉だけです。
これのどこが”清き団体”の機関紙でしょうか?
かえって”自己反省すらできない愚かな団体”と嘲笑を受けてしまうものです。
日本国内で新聞各社が、天皇を一斉に敬い、尊び、日本神国を主張した時代を御存知でしょう。
あの時代、誰も批判的発言など一つもなく賛嘆のみ記事にされたわけです。
独逸も伊太利亜もまた同様です。
現在の北もまた同じ。
批判的発言が含まれない機関紙、しかも会内出版の本など、読むにすら値しないものです。
顕正会員が創価学会の聖教新聞を読んでどう思われますか?
結論、この程度のものでしかないわけです。
たとえ100万を期して諌暁書が発刊されたとしても、私はだから自己満足でしかないと申し上げているのです。
200
:
ガンコ
:2004/01/16(金) 15:14
>しかし、書店1000円、直販200円の二重価格は、商常識を逸脱していると言うより、委託業者(書店)に対する裏切り行為です。会員に版元(顕正会)が書店販売価格の5分の1で販売していると知れば、それこそ、扱う書店などあるはずもありません。
ええ、まあ、そうなんですよ。わたくしは当時から、そのように思っておりました。
それと、上のほうで、
>さて、学会がそれに圧力をかけることが可能かどうか、出来そうな話だと思いますね。
>しかし、それが事実であれば、それこそ、裁判でも何でも訴えて所期も目的を果たせばよいわけです。それをせず、創価学会のせいにする話法に問題はあります。
これですが、学会かどうかは別にして、莫大なお金をかけて広告を打ったわけですから、その日に本が並ばなかったということは、顕正会側に落ち度がなければ損害賠償を請求できる道理かと思うわけです。しかし、あきらかに矛盾したことをやっちゃった。つまり、会員を総動員して無料頒布をやった。わざわざ売れない原因を作ったようなものです。仮に買おうと思っていた人がいても、その前にどこからともなく本が送られてきたら、もう買う必要ありませんものね。
浅井が一般書店向けに書いた二冊の本は、はじめのうち、顕正会の会館・事務所には置いてませんでした。かつて、冨士という月刊誌があって、そのいちばん後ろに浅井の著書が一覧されていましたが、そのうち一般書店向けの二書には「◎全国書店にて発売」とのただし書きが付されていました。記憶がはっきりしませんけど、ともかく、けっこう長い期間、顕正会内では売っていなかったはずです。
わたくしはそれを知ってたものですから、諌暁書の時は、ちょっとまずいんじゃないかと思っていたのでした。
201
:
ガンコ
:2004/01/16(金) 15:17
>会内では”一対一の折伏こそ”といい、”縁故を辿ってこそ”と会員を先導していながら、会自体がある程度会員数を確保すると”一国諌暁”などという綺麗な言葉を並べて本を出版して一般人に理解を求める。
これはですね、ぶっちゃけ申せば、宣伝パフォーマンス以外の何ものでもないです。な〜んてこと言うと、もう、わたくしの立場も危ないですが、つまり、一対一の折伏だけで、本当だったらもっと伸びていなければおかしいのだろうと思います。かつての学会とは時代状況が違うので一概には言えないとはいえ、学会が伸びていった時は一国諌暁みたいなことはやらなかったのではなかったでしょうか。むしろ一人ひとりが功徳を体験して、それが拡大の主要因だったのではなかったか・・・って、わたくしはそんなに昔を知ってるわけじゃないですけど、そんな気がしております。
すでに一千万の大目標があるとはいえ、現状では何十年かかるか、わかったものじゃない。ようは起爆剤がほしいわけです。ご存知のように顕正会は「爆発」だの「大爆発」が好きですからね。
顕正新聞の件ですが、まあ、上の話題とからめて申しますると、ある婦人部幹部が次のようなこと言っております。
・・・心ある幹部全員が名簿を点検し直しました。入信者の数の多さ、ことに置き去りにしてきた者の圧倒的な多さに一同驚愕し、あまりの申し訳なさで打ちのめされるほどでありましたが、この申し訳なさがすぐさま沸々たる闘志と「絶対に変われる」との確信へと変わり、・・・
まあ、この程度じゃ、納得していただけないでしょうが、わたくしなんかから見ると、けっこう正直だなあって、思うんですけどね。
それと、多くの後輩を抱えているような幹部は顕正新聞をくまなく読んでいるのでしょうけど、逆に読んでいない人も多いように感じています。とくに、わたくしのようにダラダラとながく在籍している会員は、もう読んでません。いえ、わたくしは読んでますけど、じぶんと同じくらいの会員歴の人と話していると、あれ? この人、読んでいないのかな? と思わざるを得ないことがよくあるのです。つまり、話が通じない。もう、惰性でやっているわけです。
マンネリからの打開策・・・今後の飛躍のための起爆剤・・・あ〜あ、書きすぎちゃったかな?
202
:
元ヤン33
:2004/01/19(月) 00:15
今、日蓮大聖人いたら 何するのかな
飢餓も疫病も無く 大した権力も無い政府 心は病んでるかな
どー思います かみさん顕正会です 困ってます
203
:
元ヤン33
:2004/01/19(月) 00:55
たびたびすいません かみさんのメール盗み見したら
脱会した親子が 子供の火遊びで火事になり 子供が
焼死したらしいのですが それを脱会したから罰が当たったような言い方
子供が御本尊様を信じてないから こうなった様なことよく言えるよな 人の死も利用するのか
必ずこう言うよね この手の人たちは だから信じなさいって
日蓮もすごいと思うけど 顕正会は 人の死や終末思想や罰だとかを言って
だから信じろ 入会しろって 日蓮ってどんな人だったの人物像は
要旨
204
:
ガンコ
:2004/01/19(月) 14:29
顕正会員の説く罰論には種々の問題がある。
王舎城事に、
「今生に法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天罰し給ひて皆人にみこりさせ給へと申しつけて候。日蓮法華経の行者にてあるなしは是にて御覧あるべし。かう申せば国主等は此の法師のをどすと思へるか。あへてにくみては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり。」
このように、罰は大聖人の御教示によるけれども、わたくしの思うに、今の段階で罰論を説くには二つの問題をクリアしなければならない。
一つには、教義上の齟齬。二つには、現代感覚との齟齬である。
教義上の齟齬とは、顕正会内部では学会・宗門について悪く言うけど、本当にそうかと考えると、なかなかそうとも言い切れないところがある。学会・宗門は御遺命に背いてしまったから罰ばっかり・・・というが、ここ何年かの学会系・宗門系の顕正会批判サイトを見ると、必ずしも顕正会が絶対的に正しいとは思えなくなる。つまり、顕正会が絶対的に正しいとの前提にたてばこそ言えるのであって、教義上、いまだに決着がついたとは言えない状態では、とても罰を言い切れるものではない。
また、仮に顕正会が絶対的に正しいとしても、ここで言う正しいとは大聖人の御意に適うことではあるけれども、はたしてそれが現代に通用するものなのかという問題がある。
また、ひるがえって罰論の運用の仕方が間違っているとも思える。
「日蓮が弟子にせう房と申し、のと房といゐ、なごえの尼なんど申せし物どもは、よくふかく、心をくびゃうに、愚癡にして而も智者となのりしやつばらなりしかば、事のをこりし時、たよりをえておほくの人をおとせしなり。殿もせめをとされさせ給ふならば、するがにせうせう信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人々も、皆法華経をすつべし。さればこの甲斐国にも少々信ぜんと申す人々候へども、おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候。」(上野殿御返事)
大聖人は、相当の幹部が退転していったことについて、諸御書において繰り返し言及せられている。そして、この御文では、幹部の退転は多くの後輩をも退転させることになる、であるから、まず、入信にあたっては本人が本当に入信を希望しているのかどうか見きわめ、まだ腹が決まらないうちは入信させない、これが退転者を出さないための第一歩になる、との仰せを拝する。ところが顕正会では、「おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候」の御制誡に背いて、どんどん入信させちゃって、挙句の果ては退転者の続出である。で、もって、こうした退転者に罰を説く。こりゃ、だいぶん無理がある。ヘタすると、顕正会員こそ罰を受けかねない。
205
:
ガンコ
:2004/01/31(土) 02:40
現役顕正会員による顕正会批判 その1 (全5回)
阿達正照氏の「冨士大石寺顕正会の真実」を読んで、思うところが多々あった。
何より強く感じたのは、人材の流失である。
阿達氏をはじめとして、法華講にいってしまった者がかなりの数にのぼると考えられる。しかも、自覚のない顕正会員たちにくらべると、阿達氏らはあきらかに信仰心があって、顕正会時代にも相応の活躍をしていたであろう、そういう者たちが法華講に流れていくわけだから、顕正会にとっては大きなダメージである。
また、文中、元男子部長のことにふれられているが、わたくしの知る範囲で現在の消息は不明であるけれども、当時、顕正会きっての論客というイメージがあったこの人がいなくなったことも、やはり痛手というほかない。
今日、百万を誇る顕正会ではあるが、批判者の「紙切れ百万枚」との指摘もけっして無視できないのは、上のような事情からである。単にやる気のない者が脱落していくだけではなく、有能な人材と思われていた者たちが次々とすがたを消していく実態をわれわれは直視しなければならない。
今、顕正会では、四月の一国諌暁に向けて、ひとくちにいうと「置き去りにしてきた人材の掘り起こし」をやっている。これはけっこうなことだし、正直だとも思う。
では顕正会は真っ正直な団体かというと、そうでもない。かつて浅井先生は大芝居を打ったことがある。俗に「はったりをかます」というやつである。
「私は思う。その時、全顕正会員は、こぞって大石寺に総登山すべきであると。本日は顕正会の代表二万人だけが集っているが、その時こそ、二十万顕正会の全員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようと私は決意しているが、皆さん、どうでしょうか。」
しかし、はなはだ矛盾するようであるが、わたくしはこの発言を、きわめて正直なものと受け止めている。おそらく批判者は言うだろう、二万人集めるのがやっとなのに二十万総登山なんてできっこない、と。それはそうなのだが、わたくしは先生の心情を思うのである。今の百万顕正会にしたって、実情は大同小異である。それでも先生の心意気はいささかも変わらないし、だからこそ、ついていく会員もいるのである。
206
:
ガンコ
:2004/01/31(土) 02:42
現役顕正会員による顕正会批判 その2
さて、今回、ぎょうぎょうしくも顕正会批判と題して書くにいたった理由を申せば、浅井先生著「日蓮大聖人の仏法」、通称「折伏理論書」の初版と改訂版では重大な相違がある、すでに阿達氏の指摘するところではあるが、わたくし自身、前々から注目していた部分なので、これを機会にわたくしの考えを述べてみようと思ったのである。
初版と改訂版の相違は、改竄と言ってもいいくらいである。当該部分を読みくらべていただきたい。
初版(平成元年六月二十八日発行)
「やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。」(66頁)
改訂版(平成十一年十一月三十日発行)
「やがて宗門が御在世の信心に立ち還るとき、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。」(70頁)
ページ数は違っているが、まったく同じ部分である。なんたることか、と思う。
むろん、同一著者が改訂版と銘打って書きかえているのだから、さすがに改竄というのは言い過ぎかもしれない。しかし、正直申して、はじめにこれを発見した時のショックはけっこう大きかったのである。もしかしたら多くの顕正会員がいまだにこのことに気がついていないのではないか・・・というのは、わたくし自身、改訂版出来の当初、新加の九・十章を読みはしたものの、ざっと前のほうをながめてさして変わっていないように思われたので、ちゃんとは読まなかったのである。一部、表記をあらためたところがあるのは承知していた。御書の名称変更や御観念文の部分、あるいは貫首・貫主を貫首に統一するなど、これらはそれほど問題ではないと思う。逆に上記の書きかえは、あまりに大胆なのでしばらく気がつかなかった。それだけに、ショックが大きかったのである。
浅井先生は御遺命守護完結の定義を変更してしまった・・・こういわれても仕方がないのではないか、という思いがわたくしにはある。
207
:
ガンコ
:2004/01/31(土) 02:43
現役顕正会員による顕正会批判 その3
正本堂問題における先生の所論を一言で申せば、“正本堂は御遺命の戒壇にあらず”ということだろう。わずか二十数年で取り壊されてしまった、その現証だけを見るならば、やはり御遺命の戒壇ではなかったのだと思える。
「舎衛の三億」「広宣流布は終着点のない流れ自体」「法体の広宣流布が果実を結ぶ」「因に約すれば広宣流布」等々、これらの多くは池田大作氏の発言である。そして、これらに対して先生は、「デタラメ広宣流布である。つまり、広宣流布の定義を変更することによって、正本堂を正当化そうとの魂胆」(取意)と言う。
また、日達上人は「戒壇の御本尊のまします所は、いつでもどこでも事の戒壇である」と仰せになったそうであるが、これも先生に言わせれば「正本堂を正当化せんとして、事の戒壇の定義を変更してしまった」(取意)ということになる。
ご注意願いたいのは、わたくしはここで、創価学会や御宗門に議論をふっかけようとしているのではない、ということである。
広宣流布の定義を変更してしまった! 事の戒壇の定義を変更してしまった! かく言う浅井先生こそ、御遺命守護完結の定義を変更してしまったのではなかったか!!!
先生は自分の人生をかけて戦ったのではなかったか? 命を捨てる覚悟で戦ったのではなかったか? その戦いの完結という大事な局面において、わざわざその価値を、みずから低めてしまったのではあるまいか?
そして、先生自身じゅうぶん承知していることだが、御遺命守護の戦いとは、しょせんは序分の御奉公にすぎないのである。つまり、この先に待っているのが本格的な広宣流布の戦いなのであって、一応、その筋にのっとって本年より一国諌暁の戦いが開始されるわけである。しかし、わたくしは思うのである・・・序分の御奉公すら定義をまっとうできなかったではないか、いわんや、本格的な広宣流布などできようものか、と。
ちなみに、くだんの書きかえを行なった理由は、きわめて単純である。新加の十章で、御遺命守護が完結した意味の記述が出てくるから、旧版のままだとひじょうに困ることになるのである。再掲すれば「やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである」とあって、すでに平成十年四月五日に御遺命守護が完結したとしている手前、整合性がとれなくなるわけである。敵対団体から矛盾をつかれるのを嫌ったのであろうか。しかし、かえってこのような書きかえは見苦しいと思う。もうちょっと、うまい書き方があったのではないだろうかと、悔やまれる。
208
:
ガンコ
:2004/01/31(土) 02:44
現役顕正会員による顕正会批判 その4
ここらで、先生の弁護をしておきたい。「冨士」三百二十七号の記述は重要である。
「顕正会の諌暁すでに二十一年、ようやくいま、正本堂の誑惑だけは崩壊いたしました。残るところは、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬解消、この一事だけであります。ここに今回の諌暁書の重大意義がある。・・・直ちに阿部管長に一冊送附いたしました。・・・願わくば―、法のため、国のため、真剣に本書に目を通し、真の改悔を以て戒壇の大御本尊への不敬解消を速かになされんことを、私は心から念願しております。すべては御仏意であります。いつまでも大聖人様が、このような不敬を、お許しになるはずがありません。顕正会は一分の油断もなく、ただ身を捨てて完結への御奉公に驀進するのみであります。この諌暁書と顕正会の死身弘法があるならば、御遺命守護は必ず完結する。本日の御大会式に当り、いよいよ御遺命守護完結と広宣流布への決意を堅め、以て大聖人様への御報恩に擬し奉ろうではありませんか。」(平成三年十月十三日、浅井先生講演)
すなわち、“残るところは不敬解消の一事のみ”として、その文脈において「完結への御奉公に驀進」「御遺命守護は必ず完結する」「御遺命守護完結と広宣流布への決意を堅め」等というわけであるから、まさに御遺命守護完結の定義は明瞭である。
先生は戒壇本尊第一主義者である。その文証は数え切れない。
つまり、御遺命守護完結とは、第一義的には御遷座にあったわけであり、顕正会の宗門復帰などは二の次三の次なのである。事実、先生の御遷座をうったえる発言はたくさんあるが、逆に我が身の失地回復を求める発言はきわめて少ない。
言うもおろかであるが、御戒壇様が主であり、浅井は従である。主の思し召しに従うのみ・・・であれば、いまだ御奉公足らずということなのかもしれない、顕正会はもっとおもてで苦労せよ、と。
戒壇本尊第一主義の信心にブレがないかぎり、顕正会もまだまだ救いがあるのではないか。わずかながらも、御宗門と和解の可能性があるのではないか。
わたくしは、そのようにひそかに思っているのである。
209
:
ガンコ
:2004/01/31(土) 02:49
現役顕正会員による顕正会批判 その5
最後に、浅井先生の自語相違について、触れておきたい。
批判サイトを読んでいると、むかしの冨士や顕正新聞を引っぱりだして、いろいろと先生の発言の矛盾をあばきたてている。その中には、取るに足らないものもあれば、けっこう鋭いものもある。ここで私見を申せば、四十六年一貫不変の浅井先生に矛盾などあるはずがない、断じてありえない・・・などと強弁するつもりはさらさらない。おそらく、たくさんあるだろうと思っている。
しかし、さしたる問題ではない、と思うのである。
もう少し言葉を添えるならば、昭和四十五年以前以後(宗門諌暁開始の年)・昭和四十九年以前以後(解散処分の年)・平成十年以前以後(不思議の還御・正本堂崩壊の年)等に自語相違があっても、むしろ当然なのではないかと思うのである。大きな出来事があって、それが何らかの変化をあたえたとして不思議ではない。一貫不変だからといって、まったく変化が見られないのはおかしい。先生の著作を読んで先生の心理的変遷すら読み取れないとするならば、その人の読解力がないのか、あるいは先生の文章がヘボであるか・・・いや、わたくしにはそんなにヘボには思えないので、そうなるとおそらく先生の書いているものは虚構のかたまりなのであろう。ようするに顕正会の歴史は虚構である、ということになる。きわめて逆説的であるが、つまるところ、そちこちに矛盾があるほうが人間的には正しいと思うのである。なかには本当に隙のない人物というのもいる。しかし、そういう人はたいてい、人間味に欠けているような気がする。
このように書くと、まるで先生の矛盾を正当化しようとしているかと思われるかもしれない。そうではない。矛盾は矛盾である。しかし、さしたる問題ではないと書いた。では何が問題か?
ようは、変化変遷はなまみの人間であれば当然であるが、問題はその変化変遷が許容範囲を超えているかどうかではなかろうか。
かつては顕正会に種々の問題ありとも、許容範囲内であろうと思っていた。しかし、正直に申せば今のわたくしはだいぶん御宗門に傾きつつあって、その尺度を以てすると相当に危うく見える。ことに平成十年以降の顕正会のありようは許容の限度を超えてしまっているのではないかとすら思える。
御遺命守護は、第一義的には完結したとしてよかろう。しかし、顕正会の宗門復帰・国立戒壇を宗門の公論とする等の実現はまだまだ遠い先のことなのであろうか? 先生はここ何年か、これらの展望を語ることをしなくなった。
わたくしには、「天生原までの四キロの道のり」よりも近くにあるはずの大石寺までの道のりが遠くとおく感じてならないのである。
210
:
犀角独歩
:2004/01/31(土) 11:05
ガンコさんの長文の投稿、拝読しました。大作である点は評価できます。しかしながら、わたしの個人的な管見を敢えて述べれば、問題の本質を突いていないというのがいちばんの感想です。
要は浅井さんの教学はすべて戸田さんの教学を鵜呑みにした形で成り立っており、その証拠確認がなされないままに事実として扱い、人々を煽動してきた点を先ず考えなければならないのでしょう。これは3年間、わたしが繰り返し論じてきたことです。またこれは顕正会独りの問題ではなく、創価学会、大石寺、正信会といった、所謂、日蓮本仏圏に属するすべての集団と会員に通じて言えることです。問題の本質とは何か。所謂、
・「戒壇之大御本尊」が本物であるかどうか
・「御遺命」と言うところが本当に蓮師の言ったとおりなのか
この簡単な問題の事実確認をせず、騒いだところで、それはただの煽動に過ぎないということです。また、
・蓮師の末法観は時間計算が間違っていた
・漢訳仏典は梵本を故意に改竄した問題点がないのか
・法華経は釈尊が説いたものでなかった
・大乗経典に限らず、経典の大半は釈尊が説いたものではない
つまり、日蓮本仏・戒壇本尊論は蓮師の真跡に拠らず、後世創作された真偽未決書と伝聞で成り立っており、さらに蓮師が基礎とした天台学は梵本研究に拠らない漢訳仏典の問題が山積しており、さらに梵本もまた釈尊の言説とは関係のない後世の創作であるという幾重にも土台の腐った砂上に楼閣が立っています。
いくら浅井さんが「御遺命守護だ」「広宣流布だ」と口角泡を飛ばしたところで、虚構妄想の域を何も出ず、それに踊らされる会員は集団幻想に陥っているのに過ぎないということです。
わたしはこのような姿勢を病的、あるいはわかってやっているのであれば、無責任と批判しなければなりません。
言葉は悪いですが、「真実」であることの証拠確認もせず、それを事実として扱うのであれば、‘詐欺商法’と何ら変わらず、わたしは敢えて、そのような不誠実な姿勢を「ペテン」である断じざるを得ません。
211
:
れん
:2004/01/31(土) 11:38
ガンコさん。おひさです。以前あるサイトで拝見した石山の古い檀家に伝わる「真実の御遺命の戒壇建立」の次第によると、広宣流布の暁、富士に天皇が帰依し、石山貫首の先導により、天皇が御宝蔵の戒壇本尊におしきみを備えるのが戒壇建立となるとのことです(其の場で天皇は紫宸殿本尊の軸で授戒を受ける)。顕正会の天生原戒壇や学会の正本堂は、上記の石山義から見て、間違いということになります。室町期の石山貫首の文献には天生原戒壇説は無いので、天生原戒壇説は江戸期の要山義の逆輸入によるものと私は考えてます。m(__)m
212
:
犀角独歩
:2004/01/31(土) 12:16
横レス失礼します。
「紫宸殿本尊」は、中世、石山が言い出したことであり、その祖証ないことを志師に霑師が詰問され、答えに窮した一幕があったと記憶します。
天生原戒壇は寛師が要山義を受けたもので要山出身の石山住職が来る前に言われたことのないものである点は、たしか妙観講の顕正会批判でも述べられていました。
余談ですが、天生原戒壇論では広宣流布の暁には戒壇院に併せて六万坊建立が条件付けられています。この点は顕正会はどうアナウンスしているのでしょうか。
213
:
犀角独歩
:2004/01/31(土) 12:19
少し補足。
ややガンコさんに難を記した形になりましたが、けれど、「現役顕正会員による顕正会批判」という視点は、高く評価できます。
214
:
愚鈍凡夫
:2004/01/31(土) 14:50
横レス失礼します。
「忍者ハッタリ君」という意味では、浅井さんよりも池田さんのほうが数段上を行っているようですね。 ( -_-)ノ ---===≡≡≡ 卍 シュッ!
何故なら、池田さんの場合、「二度と」とか「永久に」とか言う言葉は何の意味も持ちませんから。創価学会では一瞬一瞬が「久遠」ですので、差詰め池田さんが"心変わり"するまでが「永久」ということでしょうか。 (^0^))☆爆笑☆((^Q^)v
まあ、いい意味でも悪い意味でも「日蓮」の名を広く世に知らしめたという功績は、「創価学会」「顕正会」ともにあるんでしょうけど・・・・・。 (-"-;A ...アセアセ
215
:
れん
:2004/01/31(土) 17:51
紫宸殿本尊につき、堀日亨師は杉谷香道師筆録の講述にて「古来より確たる文献なし唯斯様に申し伝へ来ている」と述べ、また「現今謂ふ所の紫宸殿の本尊を紺紫金泥で写した本尊が仙台佛眼寺にあり、それに日量上人が紫宸殿の本尊と云ふ文字を書き込まれた、之は時の佛眼寺住職吉岡阿日威が願ったのである」と述べている。紫宸殿本尊の名称の初見は祖師伝の中の日陽伝で江戸期である。故山口範道師は、安国会編御本尊集中の御本尊の内、所蔵不詳の八十二、百十一、百十六番の御本尊は石山蔵としている。八十二番が紫宸殿本尊と伝承されたもの様である。
216
:
れん
:2004/01/31(土) 17:54
訂正。誤、伝承されたもの様である。
正、伝承されたものの様である。
217
:
れん
:2004/01/31(土) 18:35
なお室町期の石山の戒壇義は有師が「大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂・大石は本果妙・重須は本因妙・彼は勅願寺・此は祈願寺・彼は所開・此は能開・彼は所生・此は能生即本因本果本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり、開山置状に云く日目・日仙・日代は本門寺の大奉行中にも日代は日興が補処たり文、是は日興は母の得分にて御座すに依て日代には母の方を授け日目には父の方を授け給へり」(保田日要師新池抄聞書)と述べ、石山が事の戒壇との主張が見える。これによっても天生原戒壇説が後世のものであることが分かる。
218
:
愚鈍凡夫
:2004/01/31(土) 21:52
紫宸殿本尊は、富士年表によると1280(弘安3)年3月図顕となっていますね。そして、1445(文安2)年11月6日、日有紫宸殿本尊を模刻す(8-194・石蔵)となっています。
石山の伝説によると、「戒壇之本尊」の身代わりとして日有師が模刻したということだったと思います(「戒壇之本尊」を駿東に避難させた)。
もっとも「戒壇之本尊」、「紫宸殿本尊」、共に紙幅のオリジナルがあれば、筆跡鑑定などの検証ができて白黒はっきりするんでしょうがね。
確か雪山荘の本尊が「紫宸殿本尊」のレプリカであったと思いますが、日亨師にとって「紫宸殿本尊」は何か特別な思い入れがあったのでしょうか。
219
:
ケン
:2004/01/31(土) 21:52
独歩さん
210の「蓮師の末法観は時間計算が間違っていた」の内容を
教えてください。
すでに、どこかにお書きになっていると思います。
どこを見ればよろしいでしょうか。
220
:
れん
:2004/01/31(土) 22:30
大黒喜道師編著「日興門流上代事典」によると、京都要法寺開山日尊師の暦応三年の板本尊は石山の紫宸殿本尊の摸刻であり、信行寺本堂安置の日影師の代(応永十九年)に造立した板本尊も石山の紫宸殿本尊の摸刻であると記されてます。なお堀日亨師は先に引用した杉谷師筆録の講述にて、石山の紫宸殿本尊について「紙質と云ひ、筆法と云ひ、現存せる聖筆本尊の中で弘安度之ものとしては随一のものである」と述べていますので、日亨師にはそれなりに紫宸殿本尊に対する思い入れはあったと思います。
221
:
ジャンノレン
:2004/02/01(日) 08:23
れんさん、はじめましてジャンノレンです。
堀上人の晩年の住まいされた畑毛雪山庵の御宝前の御本尊は紫宸殿の模刻板御本尊でした。
思い入れは確かにあったのでしょうね、訪れる方々に自慢されてたみたいですから。
222
:
れん
:2004/02/01(日) 10:41
ジャンノレンさん、はじめまして。ジャンさんは、累代法華の方とお見受けいたしております。私は学会所属ですが、戒壇建立の次第については、日有師の御主張に鑑み累代法華の方に伝わる伝説に賛同いたしております。今後とも宜しくお願い致します。m(__)m
223
:
犀角独歩
:2004/02/01(日) 11:14
219 ケンさん:
この点は戦前、日蓮主義でも大いに論じられた大問題であったわけでした。
簡潔に申し上げれば、蓮師が採用していた年代は、現在の研究成果から導き出された年限と500年のずれがあり、大集経の三時説からすれば、蓮師が生きた13世紀は、まだ像法時代であったということです。この点について、愕然として種々整合性を考えたのは石原完爾でしたか。
なお、わたしはさらに仏滅年代に、まだ二、三、問題点があると考えます。
一つには蓮師教学の場合、天台・伝教は自分たちが像法時代の師であると認識して、本師末法の出現を恋慕したなどとしますが、これは事実と相違します。
この点については高木豊師が簡潔に記していますので、それを紹介すれば充分でしょう。
「中国では正法500年、像法1000年を経て、末法に入るとされ、日本では正法・像法各1000年を経て、末法に入るとされた。したがって中国では552年、日本では1052(永承7)年が入末法の歳であった」(『日蓮』太田出版 P124)
「末法有太近」と中国人が言うとき、自分たちは末法の人との認識に基づいていたことになります。
次に、わたしが問題にしてきたのは、大集経と法華経の末法観は脈絡がないという点です。つまり、蓮師その他の末法観は、大集経と法華経を共に釈尊の真説であるという視点から同一者が述べたという前提なので、整合性を認めますが、これは牽強付会に過ぎません。
大集経では「次の五百年は我が法の中に於いて闘諍言訟して白法隠没せん」とありますが、これが法華経の末法観とは違います。何故ならば、法華経の末法観には三時観がないからです。この二つは別の思想系譜でしょう。やや想像を逞しくすれば、大集経は先頃世紀を跨ぐときに騒ぎになったミレニアム思想の影響に基づいて創作されたように見えます。
法華経の末法思想は言うまでもなく、薬王菩薩本事品に基づきます。
「宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ」
梵本では
「ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャよ、偉大なる志を持つ求法者(ぐほうしゃ)『サヴァサットヴァ=プリヤダルシャナの前世の因縁』の章(薬王菩薩本事品)が最後の時であり、最後の機会である最後の五十年の経過している間に、このジャンプ=ドゥヴィーパに行なわれて、消滅しないように、また魔王パーピーヤス(波旬)が襲撃の機会を得ず、悪魔の眷属や神や、竜、ヤクシャ、ガンダルヴァ、クンバーンダどもが襲撃の機会を与えないように、余はそれを汝に委ねよう」(『法華経・下』岩本訳、岩波文庫 P207)
つまり、法華経における末法広宣流布とは宿王華に属し、薬王菩薩本事品を釈尊滅後500年の間に広宣流布することを意味したものでした。大集経三時説とはなんら関係を認められません。
さらに梵本では釈尊滅後500年ではなく、50年であるとされる点も注視されます。この点は以前、議論の対象となった点でした。いずれにしても、ここで言われる500年(50年)は2000年を経た次の年を言うのではなく、釈尊滅後の日から500年(50年)を言うものです。敢えて大集経に当て嵌めても正法を言い、紀元前の話に属することになります。
本より、大集経が釈尊に由来するわけもなく、悠久の大地、絶えず流れるガンジス川に浴しながら時間経過の概念がないのがインド人の思惟といいます。そこで三時観があるとすれば、それはこの思惟法と違和を生じるでしょう。さらに言えば法華経における寿量仏は「常住此説法」なのであって、三時観がそこに看取できるはずはありません。
224
:
犀角独歩
:2004/02/01(日) 12:00
218 愚鈍凡夫さん:
> 日有紫宸殿本尊を模刻…「戒壇之本尊」の身代わり
この指摘は実に重要ですね。
達師は精道師時代『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』のなかで
「日有上人は戒旦御本尊の御身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実で、其の御本尊には日有上人が署名を遊ばされている、此は今日大石寺の御宝蔵に納められてある」(P65)
と記しています。また、この根拠は応師『弁惑観心抄』の
「日有彫刻ノ本尊假立シテ且ツ戒壇ノ本尊に擬セシナリ…惟フニ後世是ヲ訛傳シテ日有眞ノ戒壇ノ本尊ヲ彫刻スルノ説ヲナセシナラン」(186頁)
わたしはこれらを読み、有師の身代わり板漫荼羅と戒壇漫荼羅は同一相貌であると思っていた経緯がありました。
221ジャンノレンさん:
亨師の紫宸殿本尊の逸話、学会向けの印刷漫荼羅頒布以前の石山人感覚を表すものですね。通り一遍の戒壇本尊信仰党では、戒壇漫荼羅とそれを書写した歴代漫荼羅以外は礼拝対象としないことになっています。仮に蓮師御筆漫荼羅でも礼拝対象としないというアナウンスです。これは言うまでもなく、寛師の戒壇漫荼羅観を敷衍したものですが、亨師はさすがに闊達な発想に基づいており、微笑ましく感じました。
なお、紫宸殿本尊と聞いてわたしが直ちに思い出す記述は亨師の
「学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿御本尊を有師の模写せるものによりて写真石版に縮写し・新入の信徒に授与せり」(冨要1)
という件です。古来「紫宸殿と称す」ということで、伝聞からこの漫荼羅が「紫宸殿御本尊」と呼ばれるようになり、特に尊皇思想の時代を生きた亨師方は、殊の外尊重したという時代性を背景にしての雪山坊への模刻安置、天皇神聖主権下、新本仏迹も鷹揚に帯した時代の風景と言うところでしょうか。もっとも石山の尊皇思想は、表向きはどうであれ、いまも変わっているはずはありませんが。
225
:
ガンコ
:2004/02/01(日) 13:08
独歩さん、ご感想をいただきましたこと、感謝にたえません。
>問題の本質を突いていない
ええ、まあ、独歩さんの、つねにより本源的な議論を志向されていらっしゃるところから見れば、そうだと思います。
今回のわたくしのは実態論ということでご理解ください。
>わかってやっているのであれば
折伏理論書新版の旧版とちがっているところなどは、意識的に改訂したわけで、ことにわたくしが指摘した部分はあきらかに矛盾を糊塗するために書きかえてしまったとしか思えないわけです。この辺に顕正会の本質が垣間見えているのかもしれません。
独歩さんが箇条書きで提起された問題ですが・・・
このところ日蓮正宗系の掲示板などをいくつか覗いておりまして、勉強させていただいているのですが、独歩さんの提起されているような問題を研究している人はほとんどいないようです。
ということは、独歩さんと議論のできる人は(正宗系には)いないことになります。まあ、まったくいないわけでもないでしょうから、そのうちお出ましになられるかもしれませんけど、どちらかというとみなさん、日蓮本仏圏内でああだこうだ言ってるのが好きなんでしょうね。
あと、もうひとつ・・・
「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」(大石寺大坊棟札)というのが折伏理論書に出てます。ところが、当の御宗門のほうで大坊棟札を偽作と言ってしまってる。いちおう浅井は反論を書いていますが、どうもこの件に関しては顕正会のほうが不利のように思えます。
226
:
ガンコ
:2004/02/01(日) 13:11
れんさん、どうもです。
笑われそうですが、わたくし顕正会のくせに戒壇論には不案内なんです。というか、今の顕正会員は資料を持ってませんから、知らない文証を出されると対応できないのです。
広宣流布の暁を待って戒壇建立というのが一般的なのでしょうか? じつはわたくし、個人的にはべつの考えを持ってまして、ようは天皇が帰依すれば戒壇は建立できる、もっと言えば、天皇が帰依すれば広宣流布である、なあんて思ってます。れんさんはともかく、なみの学会員が聞いたらぶったまげるでしょうけどね。
そのへんの根拠については今、申し上げられるだけの能力がありません。いずれ発表できればいいなあ、って思ってます。
ご提示いただいた、日有上人の御指南は、まったく存じ上げませんでした。
わたくしの拝するところでは、大石と重須を比較して、やわらかに大石の優位を仰せなのでありましょう。
また、「大石は本尊堂」→「事の戒壇」は、日達上人仰せの「戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇」と同義のように思えます。これはたいへんな御指南ですね。浅井は、広宣流布以前に事の戒壇を称するのは断じて不可との見解ですから、これは困ったことになります。
戒壇論とは別に、
>大石は本果妙・重須は本因妙
これって、わたくしが習ってきたことからすると違和感があります。大聖人を本因妙の教主とするのが本宗ではなかったですか? であれば、大石を本因妙・重須を本果妙とするべき? いや? これも変ですかね?
227
:
愚鈍凡夫
:2004/02/01(日) 13:11
>>220
:れんさん。レス有り難うございます。
>>224
:犀角独歩さん。レス有り難うございます。
> 有師の身代わり板漫荼羅と戒壇漫荼羅は同一相貌であると思っていた経緯がありました。
もし、この2つが同一相猊であれば、「初代戒壇之本尊」は今のような半丸太ではなく、板であった可能性もアリですかね(もちろん、初代があったかどうかは分かりませんが)。
228
:
ガンコ
:2004/02/01(日) 13:13
愚鈍凡夫さん、いつもいつも絶妙のフォローを下さりまして、まことにありがとうございます。
229
:
ジャンノレン
:2004/02/01(日) 13:41
独歩さん、こんにちわ。すっかりご無沙汰致しております。
>学会向けの印刷漫荼羅頒布以前の石山人感覚を表すものですね。通り一遍の戒壇本尊信仰党では・・・。
そうですね、御形木の意義は根本尊形をおかねば信仰ができないという意義の他に暫定の意味が多いと思います。
御守り(携帯御本尊)すら形木が先行して、直筆のものが無いと思っている人が多いです。
>蓮師御筆漫荼羅でも礼拝対象としないというアナウンスです。
これはそんな事はないんです、ただ石山は新来講員には余り話さないだけで、私の存じ上げています講頭さんは
自宅以外の別宅に紫宸殿を板にして安置されています。勿論、御当代のお認めです。累代で宗祖真筆を所持して
おられる御方も多いですし(山中喜八さんの影印本以外に相当数の真筆があると伺っています)みんな、お話に
ならないだけで、今の奉安化儀の在り方と食い違いが出来てくるので、おしゃべりにならないだけです。
>「学頭日照師が朝鮮に布教するや、紫宸殿御本尊を有師の模写せるものによりて写真石版に縮写し・新入の信
徒に授与せり」(冨要1) という件です。
石山の紫宸殿は近年、師資伝とか言い変えられていますが、秘密のベールに包まれています。私が伺ったのは一
体だけではないという事です。何体あるのか知りません。
>石山の尊皇思想は、表向きはどうであれ、いまも変わっているはずはありませんが。
はい、今も変わっていないと思います、強力に言わなくなっただけです。時代相応の発言という事による弊害が
多いからです。二天門の上や塔中のある坊の意義を変えない乃至撤廃しないかぎり、その意志は深く靜かに保ち
続けていると思います。客殿の勅使門はその前にしつらえました。目師還住の時とその日は美しい伝統です。
230
:
犀角独歩
:2004/02/01(日) 14:30
225 ガンコさん:
> 今回のわたくしのは実態論
ええ、もちろん、その点は評価しています。
秀作であると思います。
> 独歩…提起…問題
そうですね。ですから、日蓮本仏党は、時代から100年も置き去りになった時代錯誤であると嗤われるわけです。
しかし、そんな蒙昧な集団とは別に、わたしは日蓮が好きです。日蓮に対する恩義を感じています。このまま、この人の思想を死滅させること、また、日蓮その人の考えと違うことがその人の考えのように言われることをしのびなく思います。事実を事実としてしっかりと認識掌握し、そのうえで「では、日蓮は」と考え、次代に引き継ぎたい思いがあります。何より、誤った日蓮認識を席巻した信仰圏に属した自己責任を「訂正」によって埋め合わせ、世人への贖罪とし、それをまた日蓮への報恩に手向けたいと念願しています。
> 日蓮本仏圏内でああだこうだ言ってるのが好き
そうですね。「井の中の蛙大海を知らず」、竹の棒を振り回して、自分は誰よりも強いと思う幼子の体たらくです。
> 三堂並びに六万坊を造営…(大石寺大坊棟札)と…折伏理論書に
わたしはピンとこないのですが、大石寺大坊棟札とは何を指すのでしょうか?
ご承知のように石山伽藍では大坊には六壺・客殿・宝蔵が主です。そこに棟札ですか。どの棟の札を言うのでしょうか。棟札というか、それら縁起を示すもので目を見張るのは御影堂を精師が「本門戒壇堂」と記したことは思い当たりますが。
三堂棟札は「本門寺根元」の北山・御影堂に係るものですね。これは亨師が「日興」の‘興’の字が書き間違えているから本人のものではない・彫りがその時代のものとは違うと指摘していましたね。また、六万坊は石山義ではなくて要山義です。折伏理論書にいうようなごちゃ混ぜの記載がされた札が存在するわけはないように思えます。
なお、もう少し子細に記せば、戒壇院、上行院、本門寺本堂、本門寺戒壇/事戒法、事戒壇、本門戒壇などは、それぞれ発生が別と見え、あとからまとめて論じられるようになる時系列を読み落としてしまうと誤解が生じます。
> 顕正会のほうが不利
もっとも至極です。
学というのは自分の信行を肯定するためになすのではなく、信行をなすべきものを求めるためになす姿勢が大切であると、わたしは思うわけです。集団や指導者のご都合に振り回されて時間を無駄にしないことです。光陰矢のごとし、人生は短いものですから。
231
:
愚鈍凡夫
:2004/02/01(日) 14:32
ガンコさん、どうも有り難うございます。
小生は、顕正会についてインターネット上で流れている情報以外は知りませんので、リアリティーがありませんので、いろいろと御教示下さい。
尚、戒壇論について早坂師の論文が出ています。
「『六巻抄』の構造と問題点(三)「文底秘沈抄」本門の戒壇編を通して 早坂鳳城」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_086.htm
232
:
犀角独歩
:2004/02/01(日) 14:47
229 ジャンノレンさん:
ご無沙汰しています。
「戒壇之大御本尊と歴代書写本尊以外は駄目。御本尊は一世帯に一体。古いものは変換する」などということをヒステリックに推し進めたのは学会の折伏闘争でした。しかし、これは石山の伝統と仰るとおり通用のないところでした。
> 紫宸殿は近年、師資伝とか言い変えられ
ほお、そうですか。案外、師資伝が聞く音から転訛して紫宸殿となったなどと想像を逞しくしたくなるお話です。このほうが意に適う呼称と感じます。
わたしは、石山は蓮師が知らない、興師ともそれほど縁の深いとは言えない、実質的に目師に始まる寺であると個人的には結論しています。しかしそれでも、その後、700年、神仏習合、尊皇護国、寺請制度という時代変遷を経ながらも培われてきた、仰るところの「伝統」流儀の在り方を美しいと思う気持ちはあります。
朱に塗られた山門・同じく朱塗りの二天門・その奥にある本門戒壇堂である朱塗りの御影堂、そして、名を伏せられる坊もたぶん朱塗りでしょうか。精師の異図はいまはひっそりとした佇まいとして時代に溶け込んでいると言うことなのでしょうね。
蛇足ですが、朱塗りに対して、黒塗り、これは武家様を表すものと見られるのでしょうか。お答えいただければ有り難く存じます。
皆さんには、スレッドテーマから逸脱し、恐縮です。
233
:
ガンコ
:2004/02/01(日) 17:57
大坊棟札については、詳しく存じ上げません。
浅井が昔からよく引用するのが次の日淳上人の御指南です。
「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日、思いつきで執行されたというものでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」(大日蓮三十四年一月号)
あの英邁の聞こえ高き日淳上人が仰せであられるわけですから、御宗門も困ったでしょう。今の学会でも日淳上人を悪くいう人はあまりいませんし。
また、日達上人にも次の仰せがあるそうです。
「歴代の法主は日興上人の遺命による丑寅勤行を怠慢なく行いて広宣流布を祈願し」云々と。
これは大坊棟札の御文を借りて仰せられたものと思われます。ところがこの日達上人、数年を経ずして偽作説に転じるわけです。時間軸の上では、浅井の宗門諌暁を受けてから偽作説に転じているので、まるで顕正会の主張をかわすために寺宝のひとつだったはずの大坊棟札を斬って捨てるがごとき暴挙に出た・・・という気がしないでもないのですが。
そうであっても、わたくしがこの真偽論で顕正会に理がないと思っているのは、上記の論理は確かに一定の説得力があるとは思うけど、最終的には直接の真偽にかかわらないことがらですから。
浅井の云はく、「そこで細井管長は『当国天母原に於て・・・』と記されている日興上人の『大坊棟札』を〝後世の偽作〟と云い放った。その理由を十ほど挙げているが、そのすべては例によってズサン極まる推量にすぎない。その一々についてはいずれくわしく破折するが」云々と。
ここが各サイトで指摘されている箇所なんです。すなわち、平成元年にこのように言っているわけですが、いずれくわしく破折すると言いながら、いつまで経っても破折しないのです。
つまり、浅井はいちおうの反論は書いたけど、いまだちゃんとした真偽論には立ち入っていないわけです。
234
:
ガンコ
:2004/02/01(日) 18:00
愚鈍さん、いつも資料のご紹介、ありがとうございます。
しかし、毎度のことながら、早坂先生って大石寺には辛いですね。激辛というか、過激というか。当然、これは大石寺のしかるべき御僧侶が反論すべきところでしょうけど、どうなさっていらっしゃるのでしょうね。
ところで文中、一ヶ所だけ気になったところがあるんです。
いわゆる三大秘法抄の「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」という御文ですが、ここでは「三大秘密の法」となってますよね?
じつは顕正会での表記はすべて「三大秘密の法」なのです。
ご存知のように御書全集では「三秘密の法」ですし、平成新編でもそうです。また、現宗研のもそうなってますよね。
これはどういうことなんでしょうか? ご存知でしたらご教示ください。
235
:
ジャンノレン
:2004/02/01(日) 19:03
独歩さん、なかなか凄いところ突いてきますね、あまりちゃんと話すと色々と問題がありますので。
>朱塗りに対して、黒塗り、これは武家様を表すものと見られるのでしょうか。
石山内のことでも御質問でしょうか?一応、其の想定であれば総門近くの其の色の門の事は、堂上の
お使いの御方が其の門をご使用されるのではないでしょうか、よって武家とは関わりがないと思います。
昔、塔中を体の関係といって輿にのって練り歩いた御方がいましたが、如何に高貴な御方といえども
三門前では下馬、或いは輿から降りられて塔中を進むものなのです。しかし、近年、そういう化儀を
無視された方もいました。開かずの門は客殿前ばかりいいますが、もう一つある事をお忘れの方が多いです。
こういったことをお知りの上で恐らく御質問だと思いますが、これ以上は勘弁してください。
追伸、れんさん。ご挨拶頂いていたのにお返しせず申し訳ございません。
今後ともよろしくお願い致します。
236
:
Jルーカス
:2004/02/01(日) 19:26
ジャノレンさん
その塔中を練り歩いた方ですが、私の聞いた話では、体の関係が理由ではありません。
「これこそ、広宣流布の暁、勅使が来られたときの模擬試験である。俺がその勅使に成り代わって・・・」
等とのたまったそうです。
なかなか豪快な方だったようですな。
塔中を輿で練り歩き、塔中に女を連れ込み、塔中で僧侶をリンチした。
このような方は、石山始まって以来の豪傑ですね(笑)。
237
:
れん
:2004/02/01(日) 20:08
ガンコさん。戒壇建立につき、私見を述べれは、蓮祖が観心本尊抄で示された四菩薩出現の二パターンを踏まえれば、上行再誕の聖僧である蓮祖が本門本尊・題目を建立し、不軽菩薩の行儀と精神を継承して弟子檀那とともに弘持し、上行再誕の賢王(天皇)が広布の暁に出現して残る本門戒壇を建立することになります。上行再誕の賢王が帰依するのは、蓮興両師の嫡子たる目上の還住の方ですね。なお、三位順師は「先謗法を対治して後法門一閻浮提に流布せばやがて本門大戒立つべきなり」と述べてるので、広布は先・戒壇建立は後というのは不変かと存じます。
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