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誹謗中傷って、何?
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最近、よくインターネットでの誹謗中傷ちうことがクローズアップ
されておるが・・・
誹謗中傷って、何?(笑)
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例の佐世保の事件。6/2付けの読売新聞から。
容姿の話が嫌で殺意…加害女児、カッターは自宅から
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http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040603it01.htm
容姿の話が嫌で殺意…加害女児、カッターは自宅から
長崎県佐世保市の大久保小(出崎睿子=えいこ=校長)で、6年生の御手洗怜美
(みたらい・さとみ)さん(12)がカッターナイフで首を切り付けられ、死亡した事件で、
県警佐世保署に補導された同級生の女児(11)が「事件の数日前、インターネット上
で、容姿を傷つけられるような書き込みが複数回あった」などと供述していることが2
日、わかった。
「それが嫌だったので、殺そうと思った」とも話しており、同署は、この書き込みが実
際に容姿を傷つける内容だったかどうか、女児の供述の裏付けを急いでいる。
また、カッターナイフは、女児が自宅から持ってきたものだったこともわかり、計画性
についても調べている。
女児は、1日夜に面談した県佐世保児童相談所の職員に対しても、動機について
「インターネットの掲示板で(怜美さんに)嫌なことを書かれた。やめてくれと言った」
「もう嫌になった」と語った。「それまでは恨みなどはなく、仲のいい友達だった」とも
話したという。
同署は、怜美さんの書き込みが事件の発端になったとみて、その後の2人のやりと
りなどを引き続き調べている。
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「インターネット上の日記替わりのCHATという、【誰でも見ることができる場】」で、
「容姿について、自分が望まないことを書かれた」
「抗議したが、複数回繰り返された」
「それによって殺意を覚え、計画的に殺した」
とまあ、そういうことらしいです。
警察は「殺すほどのことが書かれていたのかどうか」の内容を調べてるらしいですが、たぶん出てくる答えは「なぜそんな程度のことで殺人まで……」というものでしょうね。
それこそ、「その言葉が、殺意に発展するほどの破壊力を持った誹謗中傷だ」と認定できたのは加害者女児だけなわけで、殺された被害者女児も遺族も加害者両親も教師も識者にも警察にもマスコミにも、「なぜ、そのくらいで」という結論しか出てこないと思われます。
出会い系殺人、Winny開発者逮捕に続いて、ネットに責任を押し付けるキャンペーンになるだろうことは予想されますが……。
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この問題は、「誹謗中傷の被害者が、傷害/殺人の加害者に転じるケース」を考える上で、注目すべき事柄かも知れません。
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>36
いあ、この事件わネットでの誹謗中傷以前の問題だと(笑)
お互い知ってる間柄の人間が、チャットで「でぶ」とか言ったのと、とりあえず「匿名」の
誰かがそこに居ない(または来ない)人間のことを「でぶ」と言ったことは、根本的に違うんじゃぁ
ないかと。
なんか、長崎の事件=ネットの特殊性ちう論調が出てくるが、全然本質的にわ違うことだと
俺は思うけどね。
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むしろ、「長崎は犯罪者を育てているのか!」ちうメールやら電話やらが
長崎県教育委員会に殺到しとるほうが「誹謗中傷」じゃぁないかと(笑)
普通に考えて、「犯罪を奨励」するよーな教育を教育委員会が指導しとった、ちうなら
そら責められるかもせんが、どう考えてもそんな教育を意図的にするわきゃないわな。
結果として「病んだ子供を救えなかった」とかいうことであってねぇ。
しかし、世の中「ネットで」という枕詞にこれほどまでに過敏になるのか。
まあ、過敏になっとる御仁ちうのわ、おそらくネットを使ったことがないから
無知から来る恐怖感なんだとは思うけどねぇ。
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>>39
>しかし、世の中「ネットで」という枕詞にこれほどまでに過敏になるのか。
新しいものは叩かれる、という法則じゃないんですか?
私が子供の頃はテレビが悪者でした。
「今の(と言っても私が子供時分の「今」ですから、昭和40年代の前半です)子供は命の大切さがわからない。
それは、テレビでさっきの番組の中で死んだ俳優が、次のCMでは元気に笑っているからだ(だから、死の重みがわからないと言いたかったらしい)」
なんて事が書かれていました。
まあ、ソ-スキボンヌといわれても、子供の頃読んだもんですからね、困りますが。
ゲ−ムについても同じ事が言われましたね。
ゲームのキャラクターは何度死んでも生き返る、それで遊ぶ子供達は人間の命が何度のリセット出来ると思う、みたいな。
「アホか」と。
テレビやゲームの死と現実の死が違う事くらい、子供は解るわ。
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>40
ほんに、そうだわなぁ(笑)
いあ、テレビの解説者なんかがしたり顔で
「ネットの恐ろしさを・・・」
なぁんて言い出したら、そら大笑いだなぁってね。
<あまりにもステレオタイプすぎてねぇ。
本質を分かってない、ちう意味でね。
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んで、ついでに
そーいったこと言うテレビ解説者を「あほだ」なんて名指しで2ちゃんになんぞ
書き込んだら、次の日あたりに
「便所の落書きで・・・」
なぁんて言って、しかも「こういった誹謗中傷が・・・」って始まるんだろうなぁ(笑)
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反論できない視聴者を相手に、一方的にあほなこと抜かしておった時代にゃ
それでもよかったのかもせんがのぉ。
自分の言ったことにいちいち反論されちゃぁ、きっと精神が持たないんだろうね。
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>>41
大笑いして下さい。
各局でしたり顔の人が言ってました(笑)
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>44
うははぁ〜
最近、あほなこと抜かす御仁のテレビわ、見ないことにしとるからのぉ。
「掲示板が嫌なら来なければええ」と同じで、「あほなこと抜かすテレビわ、見ない」
ちうことでね。
精神衛生上、よろしくないわな。
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うん・・・雑談になっちまったんで、ちと反省(笑)
誹謗中傷のパターンにわ
1 知り合い同士
2 一方的な知り合い
3 見ず知らず同士
ちうパターンがある。
んで、「誹謗中傷」の媒介として
1 面と向かった言葉
2 マスメディア
3 手紙
4 インターネット(掲示板・チャット等)
ちうくらいかのぉ。
で、「誹謗中傷」ちうのわ
「言われた人間が、自分を評価する人間を選択すること」
であるっちうことでつなぁ。
ちまり、これから「誹謗中傷」ちう時にわ
1 相互の関係
2 媒体
を明らかにせんと、ようわからなくなる。
主張の内容に目を奪われると、本質がわからなくなる、ちうことでつなぁ。
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>>46
佐世保の事件で問題に成っているのは
1 知り合い同士 が、4 インターネット(掲示板・チャット等)で、だね。
で、最近マスコミで話題に出るような、主に2ちゃんあたりのネット中傷というのは
2 一方的な知り合い が、4 インターネット(掲示板・チャット等)で、だよね。
される側は女性雀士とか、DHCの社長とか、イラクの人質とか、まあ、なんらかの有名人で、する側は無名の名無しさん。
文字通りの名無し、だわ。
だから、小学生殺人事件と、2ちゃんにおけるさまざまな訴訟は、ちょっと違うよね。
共通して論じられるのは、ネットという媒体かな。
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>47
そうそう。
「媒体」のみがクローズアップされてることがポイントね(笑)
これが、昔やってた「授業中に回した手紙」が媒介だったらどーいう論調になって
いたかだね。
「媒体」が同じ、ちうことで普段自分たちにとって邪魔な存在の「インターネット」を
叩きたいだけの報道があったとしたら、その時点でその報道姿勢わ信用ならんのよねぇ。
それ見極められんだったら問題なしよ。
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佐世保の事件の場合、あの犯人のオンナノコは3月頃からクラスの男子に
「ウゼ−んだよ」とかカッタ−ちらつかせたり、壁に自分の頭をぶつけていたり、と、周囲の子は「人が変わったみたい」といってたらしいし。
部活を辞めてかららしいけれど、それが原因なのか、他になにかあって、部活を辞めたのか、そのあたりは解らないけれど、ネットのカキコはあくまでもキッカケに過ぎなかったのかなあ、とは思う。
報道を見る範囲ではね。
人を殺した理由なんて実は誰にも解らないし、本人にもはっきりとか解っていないのかもしれない。
この事件についてはここでこれ以上触れなくても、あっちこっちでイロイロ言われているだろう。
(ここの皆がどんな見解を持つのか興味があるけれど、それこそ別スレで話す事だし、それにサイトの主旨とはずれるきもするし。まあ、ずれまくってる話題も多いが(^^ゞ)
ただ、ネットのいう媒体について、という話とは、少し違ってきたきはするね、もはや。
そもそも交換日記の形を変えたもの、だったようだし、そういう掲示板は、よそにも結構あるようね。
掲示板参加者が直接、間接の知り合いで、共通の趣味なんかについて語り合う、みたいな。
本来、問題になっているのはそうじゃなくて、2ちゃんのような不特定多数の参加者が集う掲示板のありかたなんだけど、ごっちゃになってるね。
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媒体としてのネット、って考えてみると。
それがなかった時代と比べて、自分の主張や、なんらかの作品を、簡単に多くの人に伝えることが出来る、ってことがあるね。
例えば、ある高校生が小説を書く。それを多くの人に読んでもらって、どう思うか感想を聞きたいし、どのあたりをどうすればもっと面白くなるのか、上手く書けるのかも知りたい。
とは言っても、例えば自分が高校生の時代には、周囲の友達に見せるとか、同人サ−クルに入る、位しか方法が無かった。
同人誌といっても、印刷するのにそれなりのお金もかかるし、マンガはそれでも即売会という場があったけれど、小説にはそういったものって無い。
また、同人即売会といっても、大都市で行われるから、地方在住の場合、参加そのものも物理的に難しかったりする。
そういう点で、ネットがあれば、自分でホ−ムペ−ジを作って、小説を発表できるようになった、ということは、より安く、物理的制約を受けずに、多くの人にアピ−ルできる。
それはいい事だと思うんだよね。
人との出会いの機会が増える、っていうのも、基本的には悪くないと思う。
出会いサイトにしても、上手く使えば、交遊関係が増えて、それによって視野が広がることもある。
ただ、そこまで広く、場合によっては世界中にアクセスしている筈なんだけど、ネットの書きこみ自体は、非常にパ−ソナルっていうかな。
それこそ部屋にこもって独り言言っているような感じなんだよね。
あと、リアルな人間関係の場合、その関係性の度合いにもよるけれど、その関係を絶つ、ってことは実は難しい。
でも、ネットの場合、回線切ればそれで終り、だし、それ以前にハンドル変えればわからない。
(まあ、管理者には解るんだろうが)
相手との距離感の取り方が、難しいのかな。
難しいっていうか、従来の人間関係とはまた違う距離感が必要になるのかな?
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佐世保事は何か「加害女児個人の問題」という方向に逸れていきましたねー。
ネットの人間関係について。
パソコン通信時代の「ネットの人間関係」と、インターネット時代の「ネットの人間関係」は、ずいぶんと異質だなと思っています。
パソ通時代は、少なくとも管理者はIDと登録者(リアル)の関係を熟知していたという前提がありまして。
ネットというのは、「補完的な物」であり、また「友人関係の物理的な距離を排除する物」でもありました。
パソ通でも「ゲスト」という名のNewComerは常にあったわけですが、ゲストはあくまでも「飛び込み」の人という感じでしたね。
そもそも電話番号がわからないと、パソ通って接続できなかったから(^^;)
そのゲストも、「不快な人物ではない」と認められないと仲間に入れてもらえなかったりとか。(草の根パソ通の場合)
また、ゲストはアクセスできる会議室(今で言えば板、スレ)が限定されていたりとか。
もちろん、誹謗中傷から始まるフレーム、仲裁しようとした奴がクロスファイアを浴びて火だるま……などなど、現在のインターネットが抱えている問題の多くは、その頃にすでに雛形がありました。
インターネットになって変わったのは、「ゲスト」という概念がなくなったということかなと思います。
言ってしまえば、パソ通におけるネットというのは、「サロン」でした。秘密クラブでもOK(笑)
だから、サロンに加わるには、すでに会員になっている誰かの紹介が必要であり、会員は自分の信用を損なわない人間だけを推薦する、という感じ。
入会審査をするところもありましたが、「会員の推薦が必要」というところのほうが多かったかもしれません。特に、小さいネットでは。
(よくある「ここはよいインターネットですね」というアレ。アレはパソ通時代と照らし合わせると、「ここはよいネット(パソ通の)ですね」になるわけですが、それっていうのは「ネット=クローズなホストの内部」を示していたから通用した、古い褒め言葉なんですよね(^^;)。今では「インターネットを理解していない的はずれな発言」を揶揄する意味で使われていますが(^^;))
インターネットはそうした「発言をするのに資格が必要」とか「誰かの推奨がなければ発言の機会が得られない」という一種の排他性はかなり緩和されたと思います。
誰でも好き勝手なことを言えるし、それぞれの管理者(昔で言えばSIGOP)の判断基準に沿う限りは削除もされないし。
ただ、人数が増えたこと、発言者の人となりを事前に保障推薦する既存会員がないことなど、「量の増大」が「質の低下」に結びついているという意見は、軽視できない気がします。
ちなみに、イカフライ女史はIRCなどはされますでしょうか?
IRCは「パソコン通信時代のCHAT」を進化させたものだけあって、パソ通で問題視された事柄を解決するための智慧が詰まっています。
パソ通のCHATはIRCに、電子掲示板は→NetNews→2ch/Yahooなどの匿名掲示板に、と進化を遂げているわけですが、IRCが(サーバ/クライアント)ソフトウェア・プロトコルの機能で「トラブルを未然に防ぐ」という方向に進化していったのに対して、匿名掲示板は「機能や制限を簡素化して、その分のハンドリングを利用者自身の判断に託した」という点が異なります。
と、延々ネット話をしてきて、やっと本題に繋がるわけですが(^^;)
どこまでが誹謗中傷といった判断を、それぞれの発信者が個人として注意する、心がけるという方向(発信者に依存する)がある一方で、
誹謗中傷かどうか、排除する不快語かどうかの判断を受信者自身が自分の好みで判別するという方向(受信者に依存する)があります。
さらには、受信側がソフトウェアの機能を使って不快語をフィルタリングするという方法も現実に成り立っているわけですね。
2chブラウザの透明あぼーん機能(NGワードなど)がまさにそれですが、これはIRCが求めた進化の方向(初期設定は必要だけど、判断をプログラムに依存する)と言えそうです。
ネットでの誹謗中傷については、このようにプログラムを使って個人が判断・排除することも可能かと思います。
ただ、誹謗中傷(不快語)の排除を行うことによって、選べる有用な情報を自発的に減らしてしまう、という弊害も起こってきますが、それはまた別のお話。
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しかし、ネットではそれでいいんですが、リアルではどうなのか、という話は残ります。
面と向かった相手と自分の間にNGワードは設定できませんから(^^;)
言われた言葉が不快語かどうか、誹謗中傷になるかどうかを判断できるのは、常に受信側です。
極論すれば、発信側が意図的に「この肉まん中毒!」と浴びせかけたとしても、受信側(言われた当人、聞かされた周囲)がそれを誹謗中傷として受け取らない限り、誹謗中傷の弊害は発生しないわけですから。
そうなると、リアルでの誹謗中傷の発生をとことんまで未然防止しようと思ったら、
「面と向かっては本心を言わない」「面と向かっては人と話をしない」
ということになってしまいます。発信側が言葉を選んでも、どれが誹謗中傷として爆発するかわからないわけですから、「当たり障りのないこと以外は言わない」という方向に自然とシフトして行かざるを得ません。
そうなると、ますます「ネットでは歯に衣を着せない」という発言が増えることになります。
ネットでは誹謗中傷(不快語)を受信者がフィルタリングすることで排除できるわけですから、面と向かってと違って、「心の弱い人は未然に自衛ができるようになる」のでは、と思われます。
また、ネットに限れば「発言者側が自分の言葉を別の不快語ではないものに自動的に置き換える機能を持ったソフトを使えばいい」というアイデアもあるかもしれません。
IMEの辞書として「不快語言い換え辞書」などもありますし、できないことはないのかもしれませんが、「言いたいことは何でも言う」という発言/言論の自由の芽を自らつみ取る機能を持ったソフトというものは、今のところまだ登場していないようです。
そういうのがあったら使うか?と言われたら、「試しにレビューすることはあっても、常用するかどうかは微妙」かなと思いますが(^^;)
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>51
うーん、歴史を感じさせますなぁ。
私的にわ、「一方的に知り合い」の関係における、「ネット参加者VS不参加者」の
誹謗中傷についてが今の関心事項でして(笑)
「裁判所に聞け!」で終わってしまふんでしょうが・・・
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>>51
>ちなみに、イカフライ女史はIRCなどはされますでしょうか?
いいえ、はじめて聞きました(^^ゞ
パソ通はやっていなかったんですが、今でもサイトにとってはヤスツさんが51で言われているようなサイトはありますね。
気心の知れた人達だけと話したい、とか、ある程度個人情報(といってもメルアド程度ですが)を知っている同士で話す、とか。
そういう所は掲示板をクロ−ズにして、パスワ−ドがないとアクセスできなくなっているんですよね。
ただ、そうではなくそれこそネットサ−フィンで誰でも辿りつく形式で、それでいながら普段そういうメンツとだけ話している掲示板に新参者がくると、トラブルの原因になることが多いようです。
かつて掲示板があったらしいサイトで、「掲示板は止めました」ってところ、多いですね。
>>53
>私的にわ、「一方的に知り合い」の関係における、「ネット参加者VS不参加者」の
誹謗中傷についてが今の関心事項でして(笑)
報道被害、ってありますよね。
なんらかの形で有名になってしまった人が、マスコミにあらぬ事言われたり、書かれたりするの。
筑波の母子殺人事件や桶川のスト-カ-女子大生殺人などの被害者について、問題になった。
前者の場合、被害者の女性(ダンナに殺されたんだよね、痛ましい事件だった)がランジェリ−パブで働いていた経験から
「浪費癖があった」とか「浮気をしていた」とかあることないこと書かれて、ご両親が訴え出たんだったと記憶してるけれど。
桶川の事件も、確か被害者の女子大生が加害者の男を誘惑したとかなんか、書かれてたとか。
芸能人なんかの場合はさ、ある程度ある事ないこと書かれても、それが商売、騒がれなくなったらオシマイ、みたいな部分はあるけれど。
全くのパンピ−がある日なんらかの形で有名人になってしまった時、これが一番問題だよね。
ただ、週刊誌にしてもワイドショ−にしても、責任の所在っていうのは、あるわけで。
例えば最近では田中真紀子の娘さんの記事で週刊、えっとなんだっけ、が名誉毀損で訴えられた。
多分、編集長なりあの記事を書いた記者はなんからのペナルティを課されたと思う。
テレビなんかでも「やらせ」がばれると、番組は終了、ディレクタ−は飛ばされる、とか聞くし。
逆にいえば生活かかってるからね、そういう人達は。
でも、ネットの場合、責任の所在って言うのがはっきりしない。
前に「掲示板は遊び、という反発を受けることが多いが、実際、仕事や義務でやってる人はいない」と書いたけれど。
ネットのカキコについて個々の責任と言うのは、無いに等しい状況だった。
実際、2ちゃんでの「どうせ責任とルトはヒロユキだし」ってカキコ、目にするし。
意識としては、井戸端会議だと思う。
ただ、井戸端会議は所詮そこにいる人しか伝わらない。での、ネットの場合、特にアクセス数の多い2ちゃんやヤフ-なんかは、場合によっては何万人が見ている。
その差だよね。
責任感、っていうとなんだけれど、例えば名誉毀損で何百万円請求される場合、管理者だけではなく、カキコした人間に請求がくる、なんてのは、悪くもない、とは思う。
モラルとか、礼儀とか言っても、あまり意味無いけれど、100万円とられて言論の自由なんて言ってるほど、余裕のある人、そうそういないだろうから。
ただ、そうなると、どこからが誹謗中傷か、という基準は難しいよね。
多分、 緑装薬4さんが言いたいのも、その辺でないかなあ、と推測してるんだけれど、違いますか?
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>54
>実際、2ちゃんでの「どうせ責任とルトはヒロユキだし」ってカキコ、目にするし。
昔の話だけどね(笑)
今は、ちゃぁんと警察なり裁判所なりにログ提出しとるよ。
<ログ取り始めましたって騒ぎがあったよね?
まあ、ひろゆき自身が「納得いかねぇ」みたいなときは、ひろゆきが責任とって訴訟
起こしてるけどね。
<2ちゃんの犯罪予告が次々に捕まってるの見ればわかるよねぇ。
報道被害で一番頭来るのが、「視聴者に対して一方的に」ちうことね。
抗議の電話やら手紙なんぞ出したところで、いくらでも隠せるからね。
それと掲示板わ違うのに、さも「第3のメディア」とか騒いで、双方向なのに「なぜか」
今までの一方通行の報道と同じように置きたがる(笑)
・・・あ、物書きさんがおったんだね、ここ。
すまんね。
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インターネットで一番頭に来るのは掲示板
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/internet/
だそうです(笑)
<15歳以下の調査
何の予備知識もなくって、いきなり掲示板見りゃ、そら頭来ることもあるだろうてね。
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>>54
掲示板が「時間差を気にしないでできる情報交換」なのに対して、IRCは「時間を共有しなければ成立しない情報交換」
掲示板が「そこで行われた会話が不特定多数に共有され、残り続ける」のに対してIRCは「その場に居合わせた人間にしか共有されず、ログが公開されない限り(普通はされない)、話題は普遍的に共有されない」
掲示板が「機能がシンプルで利用者の自由度が高いが、受信者にできることが少ない」のに対してIRCは「ソフトウェアで参加者(発信者・受信者)が相互に「自衛」することができる」
などなどの違いがありますが、もし機会があれば一度お試しになることをお薦めします。
いわゆる「ブラウザ上で行うチャット」は、1行掲示板と同じで会話に参加していない人間にも情報をブロードキャストしてしまいますが、IRCのような「専用クライアントと専用サーバ」で行う会話ではそういうことがない上に、「大人の対応をしないとその他の参加者全員に叱られる」ので、初心者を鍛える(笑)のには最適の修行の場だと思います。
パソ通時代には、「質のわからない新人を10人連れてくるよりも、良質な新人一人を育てるほうが、密度の高いネットが作れる」というのが常識でしたので、CHATで新人さんに「ネットでの振る舞い方、付き合い方、距離の取り方」を【躾ける】というのをよくやっていたように思います。
実際、効果は覿面で、そうした通過儀礼(笑)を経ている人、経験の多い少ないで、ネットワーカーとしての能力(マナー、その他も含めて)に大きな差が出た物です。
※余談のIRCについて。
●クライアントソフトのダウンロード先
http://www.dive-in.to/~mb-arts/
●導入方法
http://www.dive-in.to/~mb-arts/limechat_install/
●2ちゃんねるのircサーバ
irc.2ch.net
●ヤスツを袋だたきにできるチャンネル(笑)
#ヤスツを袋だたき
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ネット、というテ−マからは少し外れるかも知れないけれど、誹謗中傷って事に関して。
もう何十年も考えていることなんだけれど、
「ブスにブスというのは失礼だ、けれど、ブスに美人といってもブスは救われない」
んだよね。
匿名をいいことに群集心理に乗っかって死ね殺せレベルのカキコをしたり、直接顔を合わせることもなければ利害関係も無い相手なのを良いことに、相手を傷つけてリアルのストレス解消を行うような事は、卑しいと思う。
これは、リアルでも同じ事であって、ニュースに名前が出ると(別に人質事件に限らず)さまざまなイヤガラセを行ったり、弱い立場の相手にやつあたりをしたりすることも同じだ。
けれど、反面、傷つける、傷つけられる、って、どこまでなんだろう?と思う。
同じ事を言っても、なにも感じない人と深く傷つく人がいる。
これは、その人の立場とか、感性とか、経験とかまあいろいろあるわけだ。
例えば、よく年賀状に結婚式の写真とか使う事ってあるよね。あれが送られてくることによって「傷つく」人がいるとする。
自分が独身で恋人いない、なのに……てね。
では、それは結婚式の年賀状を送ることはいけないことか?人を傷つける行為なのか?
それって、違うんじゃないかなあ、と。
別に独身だってそんなことなにも気にしない人もいるんだし、恋人がほしけりゃ作れば良いし、結婚したければすればいいじゃん、そんなことグズグズ気にする心根が結婚できない理由じゃん、とはワシはいっちまったりする。
これは一例だけれどさ、傷つきやすい人って、どこか弱さをカサに着た多大なるジコチューが多いような気がする。
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>58
おお、イカフライさん、愛してるよぉ〜(笑)
まったくそのとおりだわなぁ。
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い!この馬鹿!」ちうのが、俺のスタンスだがねぇ。
往々にして、「馬鹿に馬鹿と言っても伝わらないから、馬鹿に分かるように馬鹿と言う」必要
もあるんだけどねぇ。
結婚式の写真ならええが、子供の写真、あれわ嫌だね。
子供作れない人が見たら、住所だけ書き写してシュレッター行きだわ(笑)
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>>59
>子供作れない人が見たら、住所だけ書き写してシュレッター行きだわ(笑)
い、いや、シュレッダーにかけはしないが(^^ゞ
言葉は伝達の道具だから、直接言葉を発する時も、書いたり(これは掲示板でも手紙でも、もっと公的っていうかな、雑誌とか新聞とかに文章を書くときでも)相手がどう受けとめるか、は考える必要は在る。
また、それによって傷ついた人がいたならば、それに耳を傾ける必要もあると思うんだ。
ただ、傷ついた側が一方的に被害者で傷つけた側が一方的な加害者である、というのはおかしい。
これは特に最近問題になる差別表現なんかの規制に感じるんだけれど。
これって聞いてびっくりしたんだけれど、スイカ割りって今いけなんだって?
理由は盲目の人を傷つけるから、だそうです。
また、ある人が子供向けの雑誌で架空の生き物のイラストを描いて、その生き物の指が4本だったから編集部から描き直しを依頼された、と。
それ(4本指の絵)を観て、気にする人もいる、からだそうだ。
じゃあ、タコの足が8本でイカの足が10本なのは差別かよ?とか、思わず突っ込みたいが。
実際の現場では、絵描きは粛々と描き直しをするわけだ。
自由業者なんて、立場が弱いからね。
なんというのかな。生きていれば傷つかないでいられることってないんじゃないだろうか?極論かもしれないけれど。
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>60
別に気にする必要わないんだよ、本来わね。
だって、指が4本しかない人わ、それが「事実」だし、目が見えない人はそれが「事実」
なんだからねぇ。
「事実」を指摘されて、傷つくというのは、つまり「事実から目をそらして根本的解決をしない」
ちうことだよね。
あと、「事実から来る不利益を明らかにしたくない」ちうのが「差別問題」の根本にあるんだよ。
「指が1本足りないから、普通に出来ることが出来ない」=「求められる基準が自分たちより甘くなることからくる不公平感」
が、「身体障害者差別」の根本的なものだと俺は思うけどねぇ。
「不公平感をなくす」ことが出来れば、「差別」もなくなるし、「事実から目をそらす」ことも必要なくなるんだよなぁ。
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こういうサイトがあるんだけれど。
「差別用語と呼ばないで」http://kan-chan.stbbs.net/word/pc/index.html
私は、人種や国籍、出身地や疾病、肉体的な障害等によって、不当な扱いを受けてきた人々の痛みに目をつむるつもりはない。
そういったことは改善されるべきだし、そのために出来る事があれば、するもんだ、と思っている。
ただ、それはすいか割りを禁止したり、4本指の絵を描かせない、そういうことなんだろうか?
どっか違う、と思うんだよね。
目が見えない人が受ける差別、不当な扱い、というものがあるとすれば、それは、海水浴ですいか割りという遊びが行われている事だろうか?
すいか割りを見て(見る、というのも矛盾があるが)盲目の人が、どんな不当な思いをするのか? また、それは、すいか割りを禁じれば、無くなるものなのか?
また、そういった事に抗議をする人達が、「弱者のため」というけれど、本当に弱者のことを考えているのかどうか?
弱者をだしにしている、としか思えないケースもあるしね。
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>62
>人種や国籍、出身地や疾病、肉体的な障害等によって、不当な扱いを受けてきた人々の痛みに目をつむるつもりはない。
>そういったことは改善されるべきだし、そのために出来る事があれば、するもんだ、と思っている。
「不当な扱い」が、なぜ起こるか。ちうのがポイントだと思うねぇ。
ただなんとなく起きるもの、ちうのわほとんどないんじゃないかと思うからね。
そこが解決できれば、不当な扱いがなくなると思うよ。
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指4本の漫画。「ザ・シンプソンズ」。
面白い漫画だけどイカフライさんの話の通りだとこれも駄目になるのかな。
アメリカで「ポリティカリ・コレクト(政治的に正しい)」って言葉が
あるけど日本の場合も同様に言葉狩りから始まって次には行動にまで
規制が出始めたみたいだね。
スイカ割りを禁じたら次はカタワに悪いからと、運動会でパン食い競争まで
禁止されそうだな。まぁ、運動会は前からつまらなくなってるが。
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>>64
そういえば昔、「政治的に正しいおとぎ話」っていう本がプチヒットになったことありましたね。
「唖然とする」「押し黙る(本来語義は唖黙る)」は、どちらも「驚いて言葉を失い沈黙する」という一般的表現なわけですが、いずれも「驚きのあまり聾唖者(聾はほんとは関係ないけど、唖は聾の場合が多いから、ということでしょうか)になる」という慣用句的表現。
つまりは、「聾唖者のようになってしまう」という揶揄ということになるのですが、それを言っていくと、言葉というのはどんどん簡素化されていく(慣用句的表現や比喩は減らされていく)ことに。
昔、日本語をどんどん減らして1000語くらいで成立する超日本語みたいなのを作ろうという話があったとかなんとかという話をかなり曖昧に記憶しているのですが(^^;)、その場合も表現が非常に乏しいものになってしまい、芸術文学の分野では「使い物にならない」ものだったとかなんとか。
同様の話は世界語/エスペラント語がなぜ普及しなかったかという話にも見て取れるらしいです。
人間はいろいろなことを学ぶと、どんどん語彙が増えていくわけですが(その中からどれほどが自分のものとして残るかは不明ですが)、それらの多くを人と話をするために使おうとすると「まるで○○○のような」という比喩としての使用になっていくんだろうな、と。
自分が見たもの、知っているものについて説明するときに、相手も知っていそうなものに喩えることで共通の理解を引き出そうとする、というのが会話の中での比喩の目的だと思います。
が、誹謗中傷を未然に避けるために言葉を禁止するというのは、この「共通の理解を妨げる」ことにもなります。
また、「未然に使ってはいけない語を羅列表示する」ということは、逆にそれまでその語とその語の負の意味を知らなかった人に、新たな「そういう意味の語」という認識を植え付けることにもなり、最初からそういう負の意味の語として言葉を記憶し、何かの拍子に「罵倒語」として恣意的に使われてしまう、という。
未然に使ってはいけない語を選び抽出して一覧にすることは、逆に「誹謗中傷の苗床を用意するようなもの」でもあるように思います。
いちいちそれをチェックし続けるというわけにもいかないし、「使ってはいけない共通項」を作り出すのは容易ではなく……。
すみません、話がどんどん脱線しています(^^;)
パン食い競争は、私の頃にはすでになかったですねえ。
カタワに悪いから(笑)
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>>64
> 指4本の漫画。「ザ・シンプソンズ」。
>面白い漫画だけどイカフライさんの話の通りだとこれも駄目になるのかな。
「そういう事」に敏感な人が、「そういう風」に解釈すれば、駄目になってしまうかも知れませんね。
なになにが駄目、と言っても、明確な規定があるわけではなくて、誰かが過去にクレームを付けた、とか、だからクレームをつけられそうだ、という予測で「駄目」になってしまうんですよね。
テレビのCMなんかもそうらしいですね。
なんのCMだったか忘れたけれど、矢沢永吉が「夏だからってどっか行くの、いい加減やめません?どこ行っても夏なんだから」っていうのが、観光協会だか旅館組合だかなんかの「客が減る」っていうクレームで放送中止になった、とかいう事、読んだ記憶があります。
この場合は、それでも商売に直結することだから、いささか神経質すぎ、と思いつつも、まあ、わかるな、とは思うんです。
ただ、どう感じるか、というのは、本当に人によって千差万別だと思うんです。
なんらかのCMやマンガを見て、特定の障害を差別している、と感じる人も居れば、行き詰った心理状態の辛さを表現している、と感じる人も居れば、想像力豊かな仮想世界を描いていると感じる人も居る。
個人的意見として言わせて頂けば、「○○に対する差別だ」と○○という弱者に当る存在をあてはめれば、それが通ってしまう事に、なんだか納得いかない気がしてならないんですけれどね。
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>>65
外国語を何とか喋れるようになるには確か1000語覚え始めてから
でしたね。もっとも日本人は文献を読んだりするのは得意ですが、
1000語以上を覚えてもなかなか使えないですね。外人とデートするなり
外人と付き合えば上手になるかも知れませんが。
「政治的に正しいおとぎ話」は冗談でも読んでいて少し窮屈な感じが
しました。まるで、小学校の先生が男の言葉使いに一々注意をしていった
ようで。でも、反差別の行き付く所はこんなようになるのでしょうな。
>未然に使ってはいけない語を選び抽出して一覧にすることは、逆に
>「誹謗中傷の苗床を用意するようなもの」でもあるように思います。
>いちいちそれをチェックし続けるというわけにもいかないし、
>「使ってはいけない共通項」を作り出すのは容易ではなく……。
昔、ある恋愛ゲームで主人公の名前を入力するとゲーム中で女の子が
その名前を喋ってくれるというのが出ました。当然卑猥な言葉を喋らそうと
友達が頑張ったのですが、「カ・タ・ワ」と入力するとブーと音がなって
消去されたそうです。結局100語近く駄目だったそうです。その友達は
リストを私に見せてくれまして二人で爆笑した記憶があります。
差別語辞典と言うのはあったらそれはそれで売れそうですね。
パン食い競争はうちも無かったですが、頭だけで粉飴を食べる競技はあり
ました。顔を真っ白にしてたので皆笑っていました。
ゲーム中のみでのハンデを持った遊びということを理解できない心に余裕が
無い人が文句を言うのでしょうね。
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>>66
イカフライさんは漫画を書いてらしたそうなんで、そこら辺の自主規制は
結構お詳しいのではと思います。昔はヌードが駄目でしたね。
今は差別語になるんでしょうか。最近見ていないのでよく分かりませんが。
結局の所クレームが怖くて、クレームによる会社の信用低下が怖くて自主規制や
弱者に対する配慮があるのかなと思います。
昔は朝鮮総連が「民族差別だ」と抗議の電話を同時にかけたりとかしていた
そうですね。報復合戦や議論すると面白いんですが、日本人は大人しいので
弱者権力を振りかざされると弱いですからね。総連のような何らかの意図が
ある場合は別として、
一 団 体 に と っ て の ボ ー ダ ー
で、差別なりが規定される、そう言われるとその団体とボーダーを異にする
人が大多数ならイカフライさんのように違和感を覚えて当然だと思います。
食べ物をおもちゃにするでスイカ割りがだめなら気持ちもわからんでも
ないですが、理由がメクラに悪いだと、
「盲目の人自身はそんなに気にしていないんじゃないですか?」
と言いたくなりますね。
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>>68
出版社の編集者も誰も彼もが気骨の人ではなく、ただのサラリーマンですから、「昇給の障害にしかならないトラブル」は極力避けたい、ということのようですよ>各社の自主規制
火中に手を突っ込んで栗を拾うことを大喜びで推奨する会社といったら、今は宝島社(旧JICC出版局)くらいです。
信用低下もそうですが、「市民団体から提訴される」というのを恐れて、という図式があるようです。どちらかというと、「総会屋と経営陣」の関係に近いですね。
現場では、弱者の配慮という善意に基づくものはあまりないそうです。「面倒を避ける」というのが、どんどんエスカレートしているだけで、末端では「機械的な言葉狩り」、管理職以上では「無用なコストを発生させないための予防」です。
半島関係は、最近ではずいぶん書籍も出ましたが、以前はそういう本を出すと総連や民団だけでなく、「通常業務が麻痺するほどの電話とFAX」が編集部に来たりというのは日常茶飯事だった聞きます。
「最近はどうなの?」と聞いてみると、「社内の上のほうにそっち系の人がいるので、社内で潰されることのほうが多い」という会社が増えてるようですね。「そのかわり、冬ソナはどんどんやれと言われる」とも。
あまりそっち系の話に行きすぎてもナニですので少し話を引き戻しますと、「善意による差別回避」という意識は、現場にはあまりなく、若い編集さんがうっかり見過ごしたのを、デスクの方が片っ端から「正誤表」と付き合わせて跳ねていく、という構図のようです。
こうした話はおそらくイカフライ女史のほうがもっとお詳しいかと思いますが、いろいろなソースからの一例ということで(^^;)
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>>68-69
編集さんって、なにやってるかよく解らないけど忙しい仕事ですから、いちいち市民団体の相手するのマンドクセじゃないでしょうか?
あとは槍玉に挙げられた作家の重要度でしょうかね。その作家がトップの売れっ子だったり、今はさほどパッとしないけれど、かつて大ヒット作を世に出してその会社を儲けさせてくれたなら
「先生、不本意でしょうが、ここはなんとかお願いします」
と頭を下げ、女性の場合は高給フランス料理とブランド品、男性の場合は銀座のお店で接待して、なんとか機嫌を直して書き直し(描き直し)して頂くのかもしれませんし。
ページ埋め程度の売れない作家なら、今回で「第一部完」(第2部は永遠に無い)にして、コミックスを出ないでジ・エンド、なんて具合だと思います。
ひとつ、言える事は、作家も編集者も、理論闘争しよう、なんて、気骨に溢れた人はまずいない、ってことです。
また、やっても無駄、な場合が殆どでしょう、なにせ、相手は理論が通じないのですから。
栗本薫さんの「グインサーガ」とハンセン病のようなケースは、稀なる幸運だと、個人的には思います。
ひとつは、栗本薫さんが当時、早川書房のドル箱だったこと、もうひとつは(その経過は栗本薫さんが短編に書かれていますが)相手が、普通の人だった事です。
なんか、私、弱者に配慮のカケラもないひどい事、言ってる様ですが、実際に、そういったことにクレームつけてくる人達って、本当に、弱者の事考えてるのかどうか、疑問です。
こういうケースの殆どは、「全くそんな意図が無く表現した」「そもそもそう言ったことがあると、知らなかった」です。
前者においては、それこそ感性の違い、と言いますか、架空の世界の物語で、現実には無い生物の姿を描いたり、人間にはあり得ない能力を持っている異形のモノを出したりした場合です。
後者も、それに近いですが、あるキャラや設定が、特定の障害や疾病に似ている、といわれた始めてそういった障害や疾病がある、と知った場合です。
そういった場合、抗議する側は「無知は罪」「(自分達の抗議によって)これをきっかけに知る事が出来たんだから、考えろ」「弱者の痛みを知れ」
表現を仕事にしている人間の手段を奪って生活権を侵害して、なんだよ、と思います。
実際、そういう人達って、本当に弱者のこと、考えているのでしょうか?それこそ
「盲目の人自身はそんなに気にしていないんじゃないですか?」
て、聞きたいんですよね。
「総会屋と経営陣」っていうのは、上手い例えだと思いますが、実際、関西のほうには「人権ヤクザ」なるものが存在するとか?
そこまでいかないにしても、本当に善意100パ−セントから、差別表現を糾弾しているつもりであっても、それが、より差別を煽るとは、思わないんだろうか?
-
例えば、あるマンガ家が、盲目の悪役を作中に出したとします。
それを見た視覚障害者支援団体がクレームをつけた、とします。
あんまり売れない漫画家で、やっとつかんだ連載だったけれど、上記のような理由で「第1部完」になった。
納得いかない漫画家は編集をあてにしても仕方ない、とその団体のところに直接「自分はそんな意図ではない」といいに言ったとします。
それこそ文化大革命なみの糾弾を受けて、すっかり差別者のレッテルを貼られ、心身ともに疲れ切ってしまいました。
このまま中途じゃもったいないよ、同人誌でも続きだそうよ、とマンガ仲間が奨めたとしても、それがトラウマになって、また、世に出したら、なんか言われそう、と萎縮してしまう。
その程度の作家、その程度の作品、っていいかたもあるでしょう。
けれど、クリエイターの仕事をする人って、結構繊細な人は多いんです。また、政治的社会的なことに詳しいか、というと、一部除いてはそんな事無い。
むしろ、一般の企業人よりも知らないで済む部分があります。
で、実は、その漫画家さん、ずっと乏しい収入の中から、毎月盲導犬育成の為に1000円ずつ募金していたとしますね。
もう、そんなこと、やらない、したくない、盲目の人のことなんて、考えたくも無い。そう思ったところで、誰も彼(又は彼女)を責められないのでは?
これは、あくまでフィクションです。
けれど、もし身近でそういった事が起きたら、どうか?
その周辺の人間は「視覚障害支援団体」ってものに、まず、「えっ、なに、ソレ」と思うでしょうね。
そして、次には、そういったもんには一切近つかない、関らないほうがよい、と思いますよ。
それこそ、街中で白いツエの人を見かけても、ヘタに手助けしようとすると「そのやり方は差別だ」とか、言われそうで。
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>71
世の中に「弱者」わおらんよ。
おるのは「弱者」で金儲けする奴ね(笑)
まったく、どっちが弱者かわからんわなぁ・・・
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>>69
実際、市民団体から提訴される、厄介なトラブルから回避したい。
普通の会社の人間だったらそうだと思います。もともと日本人は穏やかですし、
正しかろうが間違っていようが穏やかに解決できるかどうかが評価されます
しね。そのためには平謝りも構わないと。
朝鮮総連は以前は大多数の人間がいかにも抗議しているように見せかける
ように、在日朝鮮人の家電から飽和攻撃をかけていたそうですね。
このような抗議が実際に行われていたから朝鮮関係では自主規制があり
ましたね。
その点から考えるとSAPIOやゴーマニズム宣言なんかは抗議をものともしない、
逆に抗議には堂々と向き合うって所である種誠実かなと思います。この掲示板
では嫌いな人は多いでしょうが。
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>>70−71 イカフライさん
>また、やっても無駄、な場合が殆どでしょう、なにせ、相手は理論が
>通じないのですから
それはありそうですね。まぁ、私個人的には相手が首吊って自殺するまで
追い込むぐらい喧嘩を買うのが好きなんですが。
「キチガイ市民団体追求キャンペーン」
とか。と冗談はさて置き、漫画で特にファンタジーなら様々な特徴を持った
キャラが出てきて当然でしょう。ですので、
「このキャラの存在は障害者の差別につながる」
と言うのは的外れも良い所でしょうね。あくまで漫画な話ですから。
そう考えると、そういった抗議をする団体の人間は現実と漫画の区別がつかない
少し低脳な人間の集まりかも知れませんね。
そしてそのような抗議をするなら外国のSF映画なんかにも抗議しないといけない
ことになるわけですが、そういったことはしない。穏健な日本の出版社に
抗議をかける。そういった点も卑怯な集団です。
ファンタジーやSFの映画や漫画や小説で五体満足、普通の人間の能力と
比べて過不足無しなキャラしか登場しないなんてことは先ず無いわけですから、
声無き弱者である読者
の楽しみを奪う抗議をするくらいなら、そんな団体解散した方が世のためだ
と思いますね。
-
>>71
イカフライさんの周りで似たようなことが実際にあったのでしょうか?
もしそうならその漫画家さんは可哀想ですね。
昔私が子供の頃に読んだ漫画で「電撃Dr.モアイ君」という漫画が
ありました。その作者は主人公のキャラ立ちのためにホモを売りにして
いました。
変態なホモ少年が織り成す物語。毎月笑って読んでいましたが、
結構面白かったのですが5巻で終わってしまって残念でした。
イカフライさんの話の通りだと余裕でゲイ差別禁止団体から抗議が来ますね。
弱者を盾にする行き過ぎた団体。
差別禁止の社会が産み出したものでしょうが、それが大人しくなるには少しの間
それらが暴れまわって、一般人の多数の反感を買うまではどうしようもないの
でしょうね。
-
>>70
>後者も、それに近いですが、あるキャラや設定が、特定の障害や疾病に似ている、
>といわれた始めてそういった障害や疾病がある、と知った場合です。
僕が漫画家で誰かにそういうことを指摘されたら、そういうモノを描写したこと自体よりも
1. 読者に対して異形なものに偏った悪いイメージを植え付けてはいないか
2. 異形なものを常に蔑んだ視点から作品を構成していないか
を、チェックしますけどね
しかしながら世間がすでに異形のものに対して一定の差別感を持っているので、
単純に異形のものを描写しただけでも言語的に差別する意味になってしまうので、
そのあたりは慎重にならなければいけないと思います。
言葉を使って差別する、つまり言葉に蔑む意味を込めて使う者がいなくなれば下らない「言葉狩り」
というイタチごっこも無くなるんですけどね。
表現一般についても同じ。
ただ、差別の意味を込めずに使っていることが明白な同じ表現を世間にあふれさせることによって
これら「定形的な差別表現」を消滅させてしまうという方法論もあるような気がします。
僕はこちらの方が好みです。
しかし例えば、石原都知事の「シナ」という中国の呼称は上記のやり方をしたフリの欺瞞だと僕は
思うので、本当に難しいです。
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」と言いながら「馬鹿」に差別的意味を込める者は少なくない。
いずれにしても、こういうことは作家が主体的に考えなければならないのに、もともとよく考えてない上に、市民団体
の言うことを意味も解らずめんどーなんでてきとーに妥協したりするから、「やらされてる」という意識が出てきたりするんですよ。
>そこまでいかないにしても、本当に善意100パ−セントから、差別表現を糾弾しているつもりであっても、それが、より差別を煽るとは、思わないんだろうか?
潜在的な差別があぶり出されて現れるだけだから、差別対策としてはやりやすくなるだけだと思いますが。
確かに被差別側にとっては一時的に痛い思いをしなくてはならないので兼ね合いはあると思いますが。
「潜在的な差別」って放置したら消えるものなら、放置するという方法論もあるんでしょうけど、
そんなことが起こるなんて僕は楽観的な話はとても信じられません。
放置して消えるものなら、そもそもその差別は生まれ得ないのですから。
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>>76
>僕が漫画家で誰かにそういうことを指摘されたら、そういうモノを描写したこと自体よりも
>1. 読者に対して異形なものに偏った悪いイメージを植え付けてはいないか
>2. 異形なものを常に蔑んだ視点から作品を構成していないか
>を、チェックしますけどね
これは、一方的に行うべきことなんでしょうかね?
指摘する側が、それと同じだけの慎重さを持って、指摘しているのでしょうか?
例えば、漫画なら漫画を指摘する場合、最低でもその作家の作品には全て目を通す、それが掲載されていた雑誌のバックナンバーを読んで、傾向を見る。
そのジャンル(それがファンタジーモノなら、昨今のファンタジーの傾向。ゲームや映画、小説などどういった作品から影響を受けているか。等など)
確かに、ロクに漫画を読んだことの無い人にとっては、どっから手をつけて良いのかも解らないかもしれません、しかし、この位は最低限度行うべきことでしょう。
少なくとも、他人の仕事を、場合によっては奪うわけです。
フランス料理で描き直し、だってそうですよ、本人に納得のいかない理由で描き直しを行うと言うことは、
「お前の顔が気に入らないから、整形しろ」というようなもんです。
私は、指摘がいけない、といっているのではない。
指摘するなら、その位はするのは当然では?と言っているのです。
けれど、実際の所、そういった槍玉に挙げられるのは、タマタマそういった人達に目に付いたものが、そういった目で見られた、というケースが殆どです。
彼等が例えば漫画なら漫画、ファンタジーノベルならファンタジーノベルについて、その程度、知識を持っているのか?抗議する前に、少しでもそのジャンルについて調べたのか?
また、ファンサイトにおいて、その作品がどのように読者に受け入れられているのか?
そういった跡が見えなんですよね、実際にある抗議行動(これはマスコミに大きく取り上げられたケースだけではなく、それこそ業界で内々に処理されたものを含めて)
最悪の場合、市民団体の誰から「○○伝説」という作品は、障害者差別をしてる、と言い出した場合、それを読みもしない人間が、その発言内容だけを聞いて
「「○○伝説」は、差別作品だ」と言ってしまうことです。
こういうことは、実は結構あるんですよ、実際、掲示板でもあるCMについて語っていた時に、モロその答えを返した人がいます。
頭の良い人だとずっと思っていただけにショックでしたし、個人的には、それ以降、その人の発言に信頼を失った部分もあります。
これは、余談として、も。
そういった指摘をする市民団体の人は、その作品なら作品の全体(これは勿論全編通して読む、ということは当たり前ですが、それ以外にも上述したような事、ま、全編よんだかどうかも疑問の場合もおおいけど)を、どの程度、見ているのでしょうか?
あと、これはうがちすぎかも知れないけれど、どこかで「被差別者の為に、尽力している自分達の行為には尊い、サブカルチャーなんてそれに比べれば下らない」と思っていませんか?
確かに、人間、時間は有限です。
ドラクエをプレーしたり、富士見ファンタジア文庫読んだり、アニメ観ている時間に、障害者の介護をしたりするほうが、大切だ、といわれれば、そうでしょう。
でも、それなら出版会社やテレビ局にわざわざ抗議に来る時間があるなら、その時間、アルバイトして、そのお金で新しい車椅子や点字の本を買うほうが、ずっと良いのでは?
と思ってしまう私が、いけないのでしょうか?
-
>>76 うろちいさん
>しかしながら世間がすでに異形のものに対して一定の差別感を持っているの
>で、単純に異形のものを描写しただけでも言語的に差別する意味になって
>しまうので、そのあたりは慎重にならなければいけないと思います。
漫画の世界のことであるので、普通の人なら漫画のキャラクターの個性
だなとしか思わないので別段慎重になる必要はないでしょう。
ゲームやアニメの作風によってはグロテスクな敵役が登場するのも
極自然に受け取れるでしょう。漫画だから。
むしろ注意が必要なのは「表現の自由」を侵害していないかを抗議団体の方に
こそ求められるでしょう。
ついでに独善的な価値観で言えば「日本の漫画文化」を破壊しようとして
いなかをも。
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>>77 イカフライさん
>これは、一方的に行うべきことなんでしょうかね?
いや、作者でもそれ以外でも同じだと思います。
特に指摘する側は変な魔女狩りみたいなこことにならないように気を付けなくてはいけないでしょう。
変な魔女狩りに屈服する方もまたまた問題ですけど、まあ、それほど批判者サイドが力を持っていると言うことでしょうか。
>指摘する側が、それと同じだけの慎重さを持って、指摘しているのでしょうか?
それに関して実態は知りません。
僕が僕が作品を書く時や逆に作者を指摘する時は気を付ける、としか言えません。
差別を助長しないためには差別表現を作者もそうでない人も気を付ける。
不必要に表現が制限されないためにはやはり作者もそうでない人も気を付ける。
どっちも共通の利益の為なのになんで鋭い対立軸みたいなのができちゃうんでしょうね?
-
>>79
「気をつける」というのは、非常に曖昧な対処法だと思うのですが。
気をつけていても起こりうる、そうしたものに対して対処するには、
・明確な基準を設ける
・著者と編集者と全読者及び将来読者になる可能性がある未読の読者が、その基準を共有する
が必要でしょう。
しかし、「会ったこともない人が、著者の気をつけた基準と同じ基準を共有できるか、また、どこまで許容できるか」を事前に完全に把握することは不可能です。
となると、結局著者は「会ったことのある人」もしくは「自分」の基準に基づいて「気をつける」しかできません。
それでもどんなに気をつけていても、問題は起こりうる。
未然の「予防」を徹底すれば著者が表現できる幅は著しく制限されることになり、作品の訴えたいテーマが制限を受ける恐れがあります。
著者の送りたいメッセージ(の表現に必要な描写)に対して、読者の全員ではなくても、たった一人でも「差別を感じる」と批判することはあり得ます。
そのときにうろちい氏が言う「対立軸」が発生するのではありませんか?
しかしそれは厳密には「対立軸」ではなくて、「許容範囲の設定基準の高低」の違いだと思います。
著者の基準を、読者の多くは受け入れます。が、その基準を受け入れられない読者が「批判」を行います。
ヤスツいつもの「多数論」に帰結するようでうんざりされるかもしれませんが(^^;)、
「多数の読者は受け入れた。しかし、少数の読者は受け入れない。少数の読者の批判を受け入れて、著者は自らの許容基準を捨てるべきか否か? 著者の当初の基準を受け入れた他の読者は、それを受け入れなかった少数の批判読者に従うべきか否か?」
ということでしょうか。
著者が差別表現にまったく無関心ということは、まずあり得ないと思います。
大なり小なりそれぞれの中に指針や自己基準はあるでしょう。その著者の自己基準が、多数に支持されなければ問題は起こりません。本がそもそも売れないため、その著者は情報発信者としては淘汰されます。
が、その著者の本が売れ、購入した多数の読者の支持を受けている場合に、その著者の基準が受け入れられない読者に対してどうすべきでしょう。
「気をつけていても差別は発生しうる。つまり、気をつける、という対処法は根源的には効果がない」ということになりませんか?
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>>79
>差別を助長しないためには差別表現を作者もそうでない人も気を付ける。
>不必要に表現が制限されないためにはやはり作者もそうでない人も気を付ける。
個々の意識までは解りませんが,表現者は「仕事として」差別表現については気をつけていると思います。
心の中でどう思っているか?までは解りません。表現者だからと言って人間性は高潔とは限らないし、その逆とも限らない。
>>80のヤスツさんとの意見にも重なりますが,それがどう捉えられるか?というのも、ある程度、過去のデータやリサーチに基づく予測はしても,個々の受け手のひとりひとりにまでは手が回らない。
無責任だ,と言われる方もいるかもしれませんが,100人いれば100通りの受け取り方があるのも事実ではないでしょうか?
例えば,ある小説や漫画について話していても,こっちが「えっ」と思う感想を言う人がいます。なかには「おいおい、作者が聞いたら泣くよ」と思えるような意見だと感じる時もありますが,それだっって実は私の受け取り方ですから。
ですから「差別語辞典」のようなものが無意味だと思いつつも,ここに載ってるからNG,載っていないからok、になららずを得ないという現状になるのではないでしょうか?
「部落」という言葉があります。これは、今,実質禁止用語になっています。
ところがこの言葉も,西日本で育った人と東京で育った人には同じ言葉でもからり肌合いが異なって受け取られるものではないでしょうか?
西日本の人にとっては「部落」=同和ですね。さほど政治意識が無い人であっても、広島や九州の出身者に聞くとそのテの問題はイロイロと聞きます。
が、少なくとも東京では「部落」と言う言葉は「村、村落」と同義語で使用されています。
例えば北関東に湯西川温泉というものがあります。ここはもともと平家の落人が住み着いたことが起こりといわれる温泉地ですが,私が子供の頃は
「平家の落人部落」と言われていました。観光案内にももしかしたらそう書かれていたかもしれません。
で、湯西川温泉を平家の落人部落ということは果たして同和に対する差別であるのか,ということになってくるんですよね。
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>>79の鋭い対立軸について。
>>62であげたサイトの中で「味噌煮こみコアラ」というHNについてのある掲示板方のやりとりが載っています。
詳しい経過はリンクhttp://web.archive.org/web/20030624153635/http://www.yorozu.indosite.org/keijiban/main/349.html
を読んで頂きたいのですが,ここで「味噌煮こみコアラ」というハンドルを使用している人に対して
「差別用語だ、ただちに辞めてくれ」というようなレスが突然きたことは発端になっています。
このサイトの参加者の人は「味噌煮こみが差別用語っていうのは、ネットで調べても出ていない」「どこが差別なのか解らない」という意見が多くあり、又,その本人からも、かつて名古屋に住んでおり名物料理の味噌煮こみうどんと東山動物園のコアラをあわせたハンドルであって、勿論差別なんて気は無いし,どこが差別なのかも解らない、と返答しています。
どうも、このいいだしっぺ(きょうこというハンドルの人ですが)の方は知的障害者私設で働いており,その地域なのか、その施設だけなのかは解りませんが,知的障害者のことを「味噌煮こみぼうや」と呼んで馬鹿にする人々が身の回りにいるらしいのです。
-
このきょうこさんのいうハンドルの方の反論を一部、抜粋します。
(勿論,一部では誤解も生じてしまうかもしれないので、これも出来れば元を読んで喜ダサイ)
>みなさんにとっては「味噌煮込み」がより親しみ易いのかもしれませんが
私にとっては一緒に施設で働く仲間の方がより親しい存在です。
>この問題でこれだけの方がなんらかの考えをレスしていただけたの
ですから障害者に対して考える一つの契機になれば良いと思います。
>誰ひとりとして、「味噌煮込みにはそういう意味としてとらえる人が
いるんだ。ちょっと心に留めておいてもいいな」といった意見が
ありませんでした。私は非常に残念です。
この方だけを取り上げて全てを語るつもりはないですが、そういった差別語・差別表現の抗議にやっきになる人達に共通して感じるのは,
「全ての人間が被差別者(この場合、知的障害者)のことを中心に考えて当然だ」というスタンスを感じずにいられません。
それが、他の立場の人間にとっては、傲慢であったり,視野狭窄に写ったりするのかな、と思います。
ただ、これって優先順位の問題かな,とは感じるのです。
例えば漫画で言えば,漫画家はまず自分の作品を描くことが最優先事項だし、編集者ならその作品がいかに読者の支持を受けるか,が最優先でしょう(いや、もしかしたら、漫画家がシメキリまでに原稿をあげることかも知れないが)。
そこでどう受け取られるか,の中にヤバイ事が描かれていないか?も入っていて,このひとつに「差別表現」もある程度の事です。
あくまで優先すべきは,最終的にはどれだけ売れるか?でしょう。
こんなことを言うと,悪しき商業主義、などという批判をする人もいるでしょうが,仕事である以上,商業主義なのは当たり前で
「これが私の一番描きたいことなんです」
とか漫画家に訴えられたって,それで読者がついてこなけりゃ、雑誌なんて出す意味無いよ。
(ま、これが解るようになるには,時間かかりますが)
で、被差別者側にいる抗議側にとって最優先事項は被差別者が差別を受けない,ということですよね。
この差別というのはどこまでか?ということが問題になっているとは思いますが,これこそ長い議論になりそうです。
例えば漫画やアニメ,小説,ドラマ、ゲーム等不当的多数の受け手がいる場合,そのうちの一万分の一がその作品によって差別を助長させる可能性がある、だけでも、
「差別表現だ」になってしまう、というのは、外から見た感覚なのですが,常日頃から被差別者と接し,行動を共にし、声を聞いているうちに、それが占めるウエイトが大きくなっていく。
その最優先順位のウエイトの違いかな,と思うんです。
だから、お互いの事情を知れば,鋭い対立軸というのは、かなり歩み寄れる可能性はあると思います。
ただ、時間的な問題もありますし、特に一方(抗議される側)は仕事と言う「経済原則」がかかわっていますから。
結局,歩み寄りをする気があるかどうかの問題でしょう。
栗本薫さんのグインサーガにおけるハンセン病問題などは,先方にこれがあったからかな?と思います。
私が、どこか自分達の弱者の代弁者という尊い立場に比べてサブカルチャーなんてやってる人間は下らない,程度が低い,って気が先方に無いか?というは、この歩み寄りが感じられない意見をかつて多く耳にした経験からです。
まあ、これも偏見かもしれませんが。
-
またまたぁ(笑)
「差別」わ、悪いことでも何でもないんだよ。
「差別」が悪いことなら、「手足ない人間に、愛の手を」なぁんて乞食同然に
情報垂れ流す24時間番組なんて、「差別」そのものだがなぁ(笑)
差別による不利益を蒙るから、差別は悪いことであって、差別により利益を蒙るなら
「差別わええことだ」ちうことでねぇ。
あほすぎる・・・
-
誹謗中傷、ということとはチトずれる話かも知れませんが。
人には多かれ少なかれ「思い込み」というものがあります。
思い込みっていうのは、あまり良い使われ方はしない場合が多いですが、人間はひとりひとりバックグラウンドが違う。
その中で培ってきた経験を元に考えを構築するわけですよね。
ただ、その視野が多少広いか狭いか,その中でどれだけ考える力があるか、によって変わるものだとは思いますが。
で、ネットの掲示板と言うのは今更ですが、すごく不思議な世界だな,と思うんです。
一言言えば「限りなく広く,限りなく狭い」
広い,というのは、空間その他の束縛を受けず、どんな年齢層であっても、翻訳ソフトがあれば地球の裏側であっても、ネット環境さえあれば話せる。
そういう点では非常に広く、リアルではとても話せない筈の人とも会話できます。
けれど、にもかかわらずネットの世界にはなんとも言えない閉塞性があるんですよね。
ひとつは、掲示板やサイトにはそこ独特のお約束があります。
例えば2ちゃんねるは、アクセス数も非常に多く,マスコミにも取り上げられることの多い巨大掲示板ですが、あの中では独特のお約束がある。
2ちゃん用語というのもひとつです。
2ちゃんだけではなく、ヤフ−にはヤフ−の小町には小町の、他のサイトでも多分他のサイトのクセみたいなものはあるでしょう。
これは、ネットだけではなくリアル世界では当たり前のことですが、ネットの場合,そのクセを覚える前に結構突っ込んだ話をしてしまう。
リアルだったら恋愛の相談とかって余程気心の知れた長いつきあいの友人にしかしませんよね?
けれど、ネットでは見知らぬ人々に「彼のこれこれこういうことで悩んでいます」なんて言ってしまうわけです。
これは、いい面も無いとは思わない。より広い視点を持つことによって新しい解決策が開ける場合もある。
ただ、その人の背景を知らない人達が沢山いて,その人達の中には「この人はこういう人だ」というそれまでの経験則で決めつけて話をする人と言うのもいて。
これは、的を得る場合もあるが,思い込みで全く違う場合もある。
特に思い込みが否定的な像の場合,「え、な、なんでこんな事言われるの?」ってあります。
私自身もこのサイトで長々と話してきて降りかえるとですね(笑)。
多分,2ちゃん流れで話してきた人,ロムしてきた人達の見解は、ある時期から非常に融和的になった、ということかな?と思います。
人によってはイカフライは日和った、と思う人もいるかもしれません。
けれど、私からすると,これはこのサイトだけではないのですが、「戦争反対」というだけで
「サヨク(ま、これ自体は思想スタンスの問題だから良いですが,私は左翼思想そのものをあまり理解していないんですが)」とか
「テロリスト擁護」とか
「北朝鮮シンパ、反日売国」とか、さんざ言われたわけですよ(^^ゞ
確かに,反戦をうたいながらかなり偏った思想のかくれみのにしている組織はありますよ(思想の寸借サギ)。左系には。
けれど、それ言えば,愛国をうたいながらヤクザの隠れ蓑にしている右系もあるんだから。
「日本が好きです」
といったら、ヤクザ,暴力団,総会屋、っていうんでしょうかね、そういう人って思っちゃいます。
ただ、これには当然流れ,背景,というものがあって。
いわゆる思想の寸借サギ的反戦組織,とまあ、ネット上でなんからのかかわりがあったり,リアルで運動を見ていたりした立場の人は、その経験則で考え,語ってしまうのかな,とは思います。
本当は,長くじっくり話して,お互いの誤解を解くことが出来れば,得られるものは多い,と思うのですが。
また、時間や空間の束縛が無く語れるのもネットだからこそ、だと思うのですが,なかなか、ここのサイトのようにいう場合は少ないですね。
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イカフライ女史についての見解が変わったのは、イカフライ女史が「自身の基準に照らし合わせた断定」から、「自身の基準に対する疑念」「正義と善意の基準に基づいて断定されてきたことに対する懐疑」を心に抱かれた頃からではないかと思います。
懐疑派(と、最近ではあまり言わなくなりましたが)は、「具体性がないのに、理論を断定的に用いようとする姿勢」について、自他に拘わらず疑念を持ちます。
自分が正しいと思っていることが正しいかどうかを疑います。
イカフライ女史は、ある時期から「自分の中で答えが出ていないことについての疑問そのもの」を疑問のまま明かされるようになりましたよね。
自分で答えを出してしまわない、という。
掲示板というものは、「答えを共有する場」ではなく、「疑問を共有する場」だと思います。ひとつの疑問から導き出される答えは無限に等しいほど多く、またある程度集約していくことができたとしても、「ひとつ」には絶対にならない。
その意味で、「問いを共有する場所」「答えを出し合う場所」だが「どれかひとつの答えを選ばなければならない場所」【ではない】ことを、行動で示されたということ(つまりは、問いを共有しようという姿勢を持たれたこと)が、イカフライ女史に対して融和的な懐疑派が増えたということではないかと。
「答えを共有している人」から見れば、それは「転向」に見えるのかもしれませんけどね(^^;)
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>>86
いや、私の「自身の基準に照らし合わせた断定」というのは、このサイトが始まった時から今に至るまでさほど変わっていませんよ。
「戦争はイクナイ」
「困っている人を助けるのは当たり前」
「人には基本的に生存権を保証されるべきだ」(注:この「基本的」というのは、場合によっては死刑も賛成,ということです。個人的意見としては例えば足立区コンクリ殺人犯の生存権は認めたくない)
等々。
で、もともとこのサイトを立ち上げた(って、私が立ち上げたわけじゃないけれど)理由も、私は、それをリエルで現実的に行うのはどうするか?どんな方法があるか?という答えを得る為のひとつの足がかりにしたかったわけです。
ですから、アテクシ的視点から言いますと,ヤスツさんを始めとした懐疑派の皆さんが
「反戦を唱えるヤツは、これこれこういうヤツだ」
というイメ−ジで当初語っていたことが、ある時期からそのフレ−ムが外れた、そんな風に思えます。
ただ、これはあくまで私の感じですから。
掲示板でもリアルでも同じ事ではあるのでしょうが、自分が意図していることと相手が受け取ることとは,随分とずれがある場合が多いです。
で、それが本当にものすごく細かいことであって、でもその本人には随分とひっかることだったりします。
これはあるサイトで読んだのですが,文章に(笑)(泣)とかついたり顔文字が使われているとそれだけで読む気を無くす、理由は真面目に話している相手と思えないから、というのがありまして。
えっ−て感じで。
私は(笑)を多用しますし,顔文字も結構好きです。40過ぎた大人が顔文字なんてコギャルめいたことするなよ、っていうのも解らないでもないけれど,文章力の無い素人が少しでもニュアンスを伝えようとするには顔文字を使ったり括弧内に感情を表現するには良い方法だと思ったのですが。
もしかしたら、かつて掲示板で話した人である時期から私の意見に対して否定的、攻撃的になった人の中には、意見の内容ではなくて、顔文字なんて使うような人、という理由もあったのかもしれません。
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>87
>文章に(笑)(泣)とかついたり顔文字が使われているとそれだけで読む気を無くす、理由は真面目に話している相手と思えないから、というのがありまして。
ああ、そういうディテールにこだわる御仁わおるわなぁ。
まあ、そういった御仁たちわ「表面だけが重要」だという御仁なんだよねぇ(笑)
「書いてる意味のみを問題にする」ちうことが出来ない、あるいはしたくないものが
無意識に出てるんだよ。
俺も(笑)わ多用してるが、俺の文章から(笑)取ったらねぇ。
(笑)があるから、やわらかくなってるわけで(笑)
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(笑)はまだ明るいでしょうね。(藁 よりも
穏やかに話を進めているうちに(笑)が出てきても普通は気にならない
でしょう。
むしろ真面目に話をしていると末尾に(笑)がついても気にならないと
思うんですがね。
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ネットサ−フィンしていると、そのホ-ムペ-ジに掲示板があった形跡があるサイトって結構あるよね。
掲示板のレスを削除したり、特定の人をアク禁にすることってあるじゃないですか。
これについてはイロイロな意見があるだろうけれど,私は個人や企業のサイトでそのサイト管理者が行っている事なら基本的にかまわないと思う。
誰だって友達を選ぶ権利はあるし,ネットっていうのは日常のストレス解消の部分もあると思うから,そのはずのネットがストレスになることは本末転倒だし。
ここのサイトでは多分削除やアク禁って今まで一度もないだろうし、それでいながら一時的にアレルことがあっても、ここまで続いてきたってことはすごいと思う。
そういう点でもうろちいさんは尊敬するな,私は。
で、矛盾する様に思えるかもしれないけれど、私はそれぞれのサイトがそれぞれに基準を設けてそれに応じて規制をかける事はなんも問題は無い,と思うんだけれど、共通した規制条項ができるのはイクナイ、って思うんだよね。
アテクシ的には、アダルトコンテンツにおける年齢ゾ-ニング。ただ、これに関しても,どこまでがアダルトコンテンツか、ということがあるし。
特定の実名を出しての営業的損失。これは、例えば、どこどこ駅前のラ-メン屋はギョウザの具に生ごみを使ってる、とか、どこどこの骨董屋は盗品を売っている、とか、ね。
ただ、これらは現行の法律でなんとでも出来るもんだと思う。
逆に言えばこのテのことする人は覚悟しようね(笑)ってことなんだよね。
ここで台風の勢い(?)でカムアウトしちゃうけど、私はさんざ批判してるけど、実は2ちゃんは嫌いじゃない。
というか、ヤフ-とか小町に感じるようなイヤさはなんだよね。
なんでだろ?と考えると。
もってまわった皮肉な言いまわしが、ワシは一番嫌いなんだ。これも思い出せないくらい昔に、ここにも書いたけれど。
丁寧口調で遠まわしにネチネチ皮肉を言われるより「ばか、死ね」と言うほうがはっきりしていていい。
でも、これを最終的に感性、なんだよね。
誹謗中傷、っていうのは、心の問題が介在するから難しいんだろうね、心は一人一人違うから。
-
持って回った皮肉な言い回し……ワタクシですかー(^^;)
皮肉じゃなかったということは、まあきっと今は通じていると信じたいところです(^^;)
「相手の許容範囲が不明なときは、全力で丁寧に」というのも、これまた全体で規制/標準化すべきことではなく、個人が自己の振る舞いについて設けた自己基準の結果ですもんねえ。
他人と自分の間に標準/基準を設け、それを納得して守ることがいかに難しいかということですわな。
それぞれ、当事者は自分の基準には誠実であるわけだし。
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>>91
>持って回った皮肉な言い回し……ワタクシですかー(^^;)
いや、別にそういうつもりじゃありませんよ(笑)。
>他人と自分の間に標準/基準を設け、それを納得して守ることがいかに難しいかということですわな。
>それぞれ、当事者は自分の基準には誠実であるわけだし。
これはαスレでの主題になりそうですが。
ヤスツさんは、、
「答えを共有する場」ではなく、「疑問を共有する場」
と言われますよね,私もそう思っています。
けれど、これはヤスツさんと私が掲示板は疑問を共有する、という「答え」を共有しているということに他ならないのですよね。
掲示板というツ−ルをどのような意図を持って使うのか,これもイロイロな考え方があります。
なんらかの答えを求める人もいれば,ただ、愚痴をこぼしたいだけで一切批判、反論禁止,という人もいます。
なんかの攻撃対象を見つけて、リアルでのうっぷんをはらしたい人もいるようです。
あの、議論系のトピックで、よく「勝った、負けた」って言いますよね?
あれってアホらしいなあ、と思うんだよね、別に野球の試合じゃなんだから、勝つの負けるのって関係ないじゃん。
ってか、勝ちってなによ?
ああいえばこう言う,で言い負かしたつもりかも知れないけれど,本当に勝つ(という言葉がふさわしいとしても)というのはね、相手が自分の意見に賛同して始めてじゃないのかな?
なんか、ネットで勝った、と言っている議論を見ていると,負けたといわえる側は、別に言い負かされたわけじゃなくて、不毛な話に付き合いきれない。
自称・勝った人を見限ったようにハタからは見えるんだよね。
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「心の基準」を共有するのって、すごく難しいんだよ。
何故なら心は一人一人違うから。
その違いが比較的少ない相手同士が気が合う,と言われるのだろうな。
金とか、物、とかってそういう意味では共有するのはまだ簡単なんだよね。
-
日常的常識に疑問を抱くことは結構ですが、それは
問題ではなく何を『選択』するか?ということが問
題なのです。
猫・ぼーん・うろちいは『疑問』の次の段階の『選択
』と、その帰結を問題にしている事くらいは理解して
頂きたい所です。
-
>>94
違うでしょ。
あなたのは「疑問」をわかりにくく迷彩かけてるだけ。
-
>94
この掲示板に来て、初めてあんたの書き込みを一発で理解できたよ(笑)
そう、「選択」について揉めてるよね。
んで、「選択なんだから、いくつあっても不思議じゃない」ちうところまでは
ようわかるよ。
ただ、「選択」する上で重要なのわ、「もともとの問題点わ何か」ちうところだよね。
「問題点」が共通の認識でなければ、そもそも「選択」も違うだろうしね。
「問題」わ、「問題」にするから「問題」であって、「問題にしない」なら最初から
「問題」ですらないんだよねぇ(笑)
-
>>94
>猫・ぼーん・うろちいは『疑問』の次の段階の『選択
>』と、その帰結を問題にしている事くらいは理解して
>頂きたい所です。
では、『選択』のその基準はなんですか?
帰結というのは、それを選択した事によって生じる結果ですよね、それとも違うのかな?
-
>>97
基準は、各個人がそれぞれ選択するものです。
帰結の意味は、それで結構です。
>>96
決定しなければ、決定しないという選択をして
いるだけです。
問題にしなければ、選択決定の責任から逃れら
れるわけではないのです。
>>95
私は、ヤスツ氏の抱く『疑問』そのものを問題に
しているのではなく、疑問の結果としてヤスツ氏
が行った『選択』と、その帰結を問題にしている
だけです。
日常的常識に疑問を抱き、基準を再選択する事は
私としましても推奨しますが、その結果として選
択したものも日常的常識と同様に、根源的には無
根拠で、それは真理でも自明なものでもないので
す。
-
良い着眼ですね。
そう考えれば、まず最初は「何が問題か」というところからして選択なんですよね。
無視する(意識的・無意識的に)か、考えるか。
いずれを選んでもその選択の結果というのはあるのですから、自分だけが客観的な(つまり結果に関与しない)立場になるということはあり得ません。
ま、98 の猫さんの言ってることと同じなんですけど。
-
差別は、問題にするから差別なのだという珍奇な説についても
こういう着眼点で見れば、分かりますね。
差別が存在するのに
「問題にしなければ、選択決定の責任から逃れられるわけではないのです。」
例えば
長い間、隔離・去勢などあらゆる差別を受けていたハンセン病モト患者の存在を
問題にしないことで、我々は、加害者でした。
-
>>98
なんといいますか、猫氏の言い分は、
「問題にするのはいいが、問題を選んだ根拠そのものがまた、根拠がない」
と言いたいわけなんだと思いますが、そうでないのだとしたら、誰か猫氏の言い分に
同意している方に翻訳してもらって、猫氏に可をもらったものを私に再提示していただきたいものです。
仮に上記の解釈であっているのだとすると、>>98と>>99は全然違う内容だし、
>>100に>>98,99を当てはめると、
「(ハンセン氏病に関する)差別が存在するというのは、個人が何が問題かと考えた結果
生まれたものだ。それが差別だとして選んだ根拠もまた根拠がないことだ」
になるんじゃないんですか?
>>98のうろちい氏の主張は長年言われてきた「クロサイが滅亡するのはその事実を知らなかった幼児にすら責任がある」というのと同じ(クロサイの説そのものをうろちい氏が述べたということではなく、風が吹かずに桶屋が倒産したら桶屋倒産の責任は事実を知らなかった我々にある、というのと同じだよ、という意味ですが)ということですから、うろちい氏ご自身の説の一貫性としては理解できます。
最後の段落でたびたび猫氏が言っているところの
>日常的常識に疑問を抱き、基準を再選択する事は
>私としましても推奨しますが、その結果として【選
>択したものも日常的常識と同様に、根源的には無
>根拠で、それは真理でも自明なものでもない】ので
>す。 ※【 】内引用者註
とは、どのように説明が付くんですか?
-
何度も出てきた話題なんですけれども、
「問題の存在を知らないことによって判断をする機会がなかった者には、自分の預かり知らないところで発生し、判断の機会が託されなかった問題によって起きた事象の責任を負う義務があるのか?」
という疑問は、未だに解けないままですよ。
ケースとしては、
1)同時代に、問題があるのを知っていたのに、判断を回避した。その結果、判断に伴う責任を回避した
2)同時代に、問題があるのを知らず、判断の機会があることも知らなかった。その結果、判断に伴う責任の発生も知らなかった。
3)後の時代に、以前、問題があったことを知らず、判断の機会はなかった。後から事実だけを「他人の判断(の総意)の結果」とだけ聞かされ、責任を求められた。
の3つがあることは理解してます? 皆さんは。
で、ハンセン氏病についてでも戦争責任でも侵略責任(私は侵略と言われる行為を悪事とは思っていませんけれども)にしても、同時代にも拘わらず判断を敢えてしなかった(無視した)(1)ならば、責任を放棄したと責められるのは理解できますよ。
しかし、(2)のように「そうした問題があることを知らされなかった、積極的に知る機会がなかった」それによって、判断も判断に伴って責任が発生することも知らなかったケースや、(3)のように「すべてが終わっていた」というケースでも、責任は問われるものなんですか?
この場合の責任というのは、「知ってしまってから発生する」ものであって、「知る前」には存在しないんじゃないですか?(←これも繰り返しヤスツが述べてきた意見)
もし、ハンセン氏病大発生の日本国内にいながらも、都市と離間孤絶した山間の村落にいた場合、そこでハンセン氏病が発生していなかった場合は、ハンセン氏病患者をどう扱うかについての自覚も意識もなく判断すら迫られないわけですから、差別も発生しません。
が、外の世界(村落の外)ではそうした差別や問題が発生している。その場合に、山間の村落の人々は積極的に外の世界の差別撤廃に乗り出すべきですか?
ハンセン氏病の存在を、村落の人々が知っていたならそうするべきだ、というのがうろちい氏他のご意見でしょうけれども、ハンセン氏病という病気の存在すら知らないまま、村落の中だけで帰結して一生を終える人々が、その病気の存在も病気に対する差別の存在も知らずに一生を終えた場合、その人は「ハンセン氏病に対する差別撤廃に働きかけなかった罪人」という責任を負わされるのですか?
ということなわけですが、どうせ猫氏の答えはわかってますのでまずは>>100さん(失礼ながらなんとお読みすればよいのか不明ですが(^^;))のご意見を伺ってもよろしいでしょうか?
-
ちなみに、これも今までにも言ってきた話ですけれども、
「自分が問題の発生を知らなくても、その問題の発生に手を貸していなくても、問題の解決に手を貸さないのは、問題によって起きた犠牲者を無視していることと同じだから許されない」
というのが、この一連の問題に関するうろちい氏の主張だったと思いますけれども、それというのは「戦争を起こしたのは日本人である(が、現代の日本人ではない。過去の日本人である)。ので、現代の日本人はそれによって起きた問題の存在を知らなければならない(知らないことは罪である)と同時に、問題を知った場合、それに伴う責任を負わなければならない(今後も日本人は永久に戦争責任を負い続けろ)」というニュアンスとして私などは聞き覚えているわけですが。
その「泥棒の子供は生まれたときから泥棒。親の罪を後代の子孫は永久に償え」という発想には付いていけないなあ、というのが正直なところなんですけれどね。
-
ヤスツさん、はじめまして。(名前は問題ありません。レス番号で指示していただけたら幸甚です)
ハンセン氏病に関しては、単なる一例として提出したものであって
これに深入りするのは、スレッドの趣旨から外れるかと思いますが
質問についての私の考えを話すとすれば、その前にあなたの質問を絞り込むための質問をさせてください。
1.まずあなたはハンセン病・らい病(名前はこの際問題としません)この病気のことを知ったのは
千九百何年ごろですか? その時この病気がどういうものだという認識でしたか?
2.ハンセン病患者が隔離されていることを知ったのは、1.と同時ですか?またはいつ頃でしたか?
また、隔離やそこで行われていることのうちどの程度をご存知でしたか?
3.「らい予防法」のことや、人権侵害の事実を知ったのはいつ頃ですか?
それを知ったときどう思われましたか?
また、あなたが旅館経営者であると仮定した場合、
宿泊拒否事件が起こる前に、ハンセン病回復患者たちが予約使用とした場合、
どういう態度をとられたでしょうか?
スレッドの趣旨を考えて深入りを避けられる場合は無視してください。
-
>>104
深入りにならないように、私の質問意図が明確になるように回答します。
以下の回答は、現実の私のケースではなく、このスレの、私の質問意図に沿うようなものであることはご理解下さい。
ご指摘頂いた問題の存在を「今」知りました。
出来事、そうした事実があるらしいという未確認情報、の全てを、たった今知った、と仮定した場合に、昨日以前の私はそれらの事実を知らなかったことについて、何らかの責任を負うのですか?
また、今日以後も知る機会に恵まれず知らずに過ごした場合は、それらを「知らない罪」は私の機会の不均等に拘わらず罪を償う義務を負わされるのですか?
……ということを聞いているわけです。
ハンセン氏病の是非についてはこのスレの主題ではありませんので、深いところの問答は回避させていただきます。
私の質問意図、趣旨のいわんとするところはご理解頂けましたでしょうか?
ここから導き出されるそれぞれの回答について連なる質問があるわけですが、それについては>>104さんの回答を待ちます。
-
もう少し例を挙げるならば、
・親が犯罪者だったら、その犯罪が起こされた以後に生まれた罪人の子供は、親の罪を償う義務を負っているのですか?
・1945年以後に生まれた日本人は、1945年以前の日本が起こしたすべての出来事についての「補償の義務」を、今後永続的に負っていくのですか?
・今、クロサイが絶滅の危機に瀕していますが、それは昨日生まれた赤ん坊にも責任=原状回復のために努力しなければならない義務があるのですか?
どれでもいいですよ。
-
>>102 ヤスツさん
>何度も出てきた話題なんですけれども、
>「問題の存在を知らないことによって判断をする機会がなかった者には、自分の預かり知らないところで発生し、判断の機会が託されなかった問題によって起きた事象の責任を負う義務があるのか?」
>という疑問は、未だに解けないままですよ。
僕の見解ですが、
世の中にはいろいろな抑圧があり得るのは自明のことですから、「知ろうとする努力義務」があると思います。
僕たちは常に「知ろうとする」ことはできます。
それをするかしないかは「選択」です。
知ろとしたが知るに至らなかったのであれば、それ以降の行動に選択の余地は無く、責任もありません。
「知るに至らないこと」の原因に「知るための努力不足」が何割かでも入ってくるなら、その割合に応じて「知るに至らなかった」ことへの責任は生じます。
「知るに至らないこと」に対して責任に応じて、「知る」の帰結である「行為」に至らない責任も負います。
>ケースとしては、
>1)同時代に、問題があるのを知っていたのに、判断を回避した。その結果、判断に伴う責任を回避した
この人は「「判断」するのを回避する」という「判断」をしました。
前者の「判断」の責任は回避されましたが後者の「判断」に対して責任があります。
>2)同時代に、問題があるのを知らず、判断の機会があることも知らなかった。その結果、判断に伴う責任の発生も知らなかった。
冒頭の説明通りです。
この人が「知る努力義務」をどの程度果たせたかに依ると思います。
>3)後の時代に、以前、問題があったことを知らず、判断の機会はなかった。後から事実だけを「他人の判断(の総意)の結果」とだけ聞かされ、責任を求められた
問題が継続中なら知った時点からその問題をシェアすれば良いと思います。
知らなかったことの責任については前述の通りです。
なお、「世の中にはいろいろな抑圧があり得るのは自明のこと」は例えば幼児にとっては未知の知識です。
幼児が将来それを知るかどうかは教育する側の問題と言うことになります。
-
ヤスツさん、レスありがとうございます。
ヤスツさんにならありえないことも、抽象的な「テレビも新聞も見ない人」の場合について考えるのですね?
確かにマスコミは、伝えるべきものを伝えないものですし
人は見るべきものを見ないものですではあります。
しかし、ハンセン病回復患者たちは、日本政府に対する世界からの人権回復勧告の中で
半世紀もの間、人権剥奪されたままでした。
政府が謝罪した後にも、宿泊拒否をされました。
今日まで知らなかったで済ませられることでしょうか?
次に、
ヤスツさんの中では、ヤスツさんの質問に対する答えはすでに出ているようです。
すなわち、
「知らないことは仕方がない」「知らない者には責任が無い」
この論法で行けば、なるべく目を瞑って知らないままでいれば、何事にも責任が生じないことになります。
加害者と被害者がはっきり分離している場合には、それで責任回避できたつもりになることができるのかもしれません。
しかし例えば、オゾン層の破壊という問題ならどうでしょう?
我々の行いの結果を、我々の子孫が受けるとすれば・・・・
施政者やマスコミをはじめとして、知った人が知らない人に、知らしめる責任はないでしょうか?
我々一般人は、目を瞑って知らないままに責任を果たさないでいいでしょうか?
-
>>103 ヤスツさん
>その「泥棒の子供は生まれたときから泥棒。親の罪を後代の子孫は永久に償え」という発想には付いていけないなあ、というのが正直なところなんですけれどね。
これは「選択」に伴う責任の話だけではなく、日本という行動主体が戦前から続くものかどうかという話を含んでいます。
もし続くものなら日本という行動主体は戦前・戦後の行為に関して一貫して責任があるわけです。
つまり我々が直接責任があるのではなく、日本に責任があるということです。
「泥棒の子は生まれた時から泥棒」ではなく単に「泥棒」があるのみです。
しかしここで、行動主体である国家に対する主権者の責任を考えてましょう。
日本が何か責任をとる必要があるなら、日本を引き受けている主権者たる我々はこの負の遺産に対してどうするか主体的な選択をすることになります。
これが「国粋」の存在する現状です。
-
今言われているのは「無知は罪か?」ということでしょうか?
私は無知そのものは罪ではないが,場合によっては罪になると思います。
また日常的個人的な例をあげてしまってなんですが、私の母は私が子供の頃からよく
「インドは汚い国」
といっていました。向こうで洗濯したりおしっこしたりした川の水をこっちで飲んじゃうんだって、というのがその理由です。
これは「インド」という具体的な国だけではなく南の途上国全てについてです、母は世界の国名・地名についてとても疎いですから(国内についてもそうなんですが)南の途上国=インドなわけです。
で、ごくごく小さい頃はふ-ん、と聞いていました。が、アホは子供の私も大きくなるに連れてそれなりに学ぶわけですよ。
実際,不衛生な水を飲料にしている人達は多い。何キロも離れた河にボウフラの浮いた水を毎日汲みに行く幼い子供が世界には沢山います。
どうしてそういうことが起きてしまうのか?
そのことについて自分はどう考え,どうすることが出来るのか?
大切なのは,それを考えていく事ではないんでしょうか?
-
>>110の続きとして。
知ったから、といって何ができるのか?と言えば,現実問題としては、せいぜいお小遣いやバイト代の一部を募金する事くらいしか出来ないでしょう。
もっと行動力その他のある人は海外青年協力隊やNGOに入って、それらの国に井戸を掘りに行くかも知れません。
けれど、それにしても、それこそ砂の一粒,大河の一滴に過ぎないでしょう。
>>105-106
でヤスツさんが言われているのは責任論ですね?
私達が世界に何処まで責任があるか?どこまで責任を負うか?
例えば>>110であげた問題にしても,私がもっとスナオ(藁)な子供で母親の言う事をずっと信じて、バングラディッシュのスラムにトイレを作るための募金を話を聞いたとき
「トイレがないなんて汚い」とだけしか思わない大人になったら,それは母親にも責任の一端はある、と言えるのかも知れません。
けれど、南の途上国の貧困に南北格差を生じさせる先進国の構造に日本も、ひいては日本人の我々にも責任がある、という論理は、はっきりいって承認しかねるのですよね,私は。
それは、裏を返せば、タリバン支配やフセイン独裁を許したアフガンやイラクの国民にも罪がある,という理屈(前者の理屈はアフガン空爆の際にLPさんというリンク先にもある方が言われていたことですが)にならないでしょうか?
-
108さん(とお呼びすれば良いのかな?)の言われているハンセン病問題にしても。
>抽象的な「テレビも新聞も見ない人」の場合について、とあえて抽象的とつけなくても、周囲を見渡せば、それについて知らない人は沢山います。
これはひとりひとりにアンケ−トを取ったわけではないですが,私の周囲の人間関係で推測すれば「社会的常識」として知っている人が7割くらい。
その7割にしても「聞いた事がある程度」「そんなこともあったね」と言う意識の人が半分くらい。
ハンセン病患者達が受けてきたさまざまな人権侵害(断種処置のような)や政府の謝罪と言う名誉回復がされた後に宿泊拒否が起こった事。
(あの宿泊拒否事件についても、いろいろ意見はありますが,それを始めると外れるのでここではこれまでにします)
これらについて、どの程度詳しく知っているのか?と言うと,半分もいないと思います。
ましてや、その責任についてどう考えるのか?と問われれば,う-ん、きょとんとされるのが、関の山なんですよね、9割方。
だからって、なにもしなくて良い,とは思えません。
知った人が知らない人に知らしめる,自覚を促す,ということが大切である,とは思ってます。
だからこそ、私は反戦デモにも参加したし,そのことは周囲の人間にも話しています。
100人の内1人でも少しでも関心を持ってくれればもうけもの(ってこの表現はあんまりか)だと思ってます。
けれど、反面,変人、といって笑われたり,バカにされたり、うるさい女,かわいくない,と思われるのは当然でしょ?
-
人間は見たいものしか見ない,信じたいものしか信じない。
そういう意味では自分勝手です。
けれど、それは世界のあまりの残酷と非情に立ち向かうには,人間という生き物はあまりに脆弱すぎるのかも知れません。
-
「差別」と「誹謗中傷」が、ごっちゃに(笑)
「差別」わ、悪くないよ。
「差別によって不利益蒙った御仁の言い分が通って、不利益に関する回復又は保障がなされた」
時点から、その特定差別が「悪い」ことになるだけでねぇ。
もし差別が悪いなら、飛行機に乗ってる乗客わすべて「エコノミークラス」でなくては
ならないわけだ(笑)
差別わ、悪いことでわないよぉ〜
誹謗中傷わ、「評価されたくない相手から評価されたことに対する怒りの表現」だよぉ〜
-
あと・・・
「問題を問題にしない」ちうのわ、あくまでも「自らの選択」だよね。
「問題を問題にしてる」御仁と、「問題を問題にしない」御仁の間でわ
その「問題を解決するか否か」についての争いが起こるわけでねぇ(笑)
問題を問題にして解決迫るのわ、まさに「意思の強要」に他ならないわけで。
-
>>114 緑装薬4さん
>もし差別が悪いなら、飛行機に乗ってる乗客わすべて「エコノミークラス」でなくては
ならないわけだ(笑)
国語辞典によると
さべつ 1 【差別】
(名)スル
(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
「いづれを択ぶとも、さしたる―なし/十和田湖(桂月)」
(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。
「人種―」「―待遇」
(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。
とありました。
一般に差別を問題にする場合は、(2)、の場合を指します。
-
だいたい予想の範囲内の回答をありがとうございます。
私の基本的な主張は、>>108で要約されているように、
「知らないことは仕方がない」「知らない者には責任が無い」
に集約されます。
これについて、(1)知っているのに判断しなかった場合の意見に限って言えば、>>107のうろちい氏の言い分は理解できますが、ここからが問題です。
あるかないか、問題が存在しているかいないかもわからない場合に、あるかないかわからない問題を知る努力というのは、どれほどすべきものなのか? また、あるかないかわからない問題を知らないと罪になるという前提で、問題を追い求める(追い求める作業を一段落させるために、あるかないかわからない問題を【ある】ことにしてしまう)というのは、限りがないのでは?
私はうろちい氏の見解とは異なり、「知ろうとする努力義務」は【ない】と思います。
知ろうとすることができるのは、知るべき対象が【ある】という前提で探す場合です。
Googleで我々が検索できるのは、探したい対象がなんであるかを朧気ながらであってもわかっているから、「探せる」のです。
あるかないかわからない、問題であるかどうかもわからない、そういうものを探すことはできません。
これは、選択とは言えません。
うろちい氏にしても、>>108さんにしても、疑問を投げかける側として、すでに自分が「これは問題だ」と思っている問題を明確に持っているから、それにまだ気付いていない人に対して「自分が気付いていることに気付かないのは、知る努力が足りないのだ!」と言えるんですよ。
うろちい氏も>>108さんもご存じない問題があるにも拘わらず、それについて知ろうとする努力をしていないのは義務違反だ! と言われても困るでしょう?
自分が知っているからそれについて相手に「問題の存在を教え」て、相手に判断を迫るというのならまだ理解もできます。
しかし、「そもそも問題の存在が知られていないのに、そのあるかどうかわからない問題を探さなかった罪」を言うのは、おかしい、と。
「イスカンダルにワープする方法があるはずなのに、それについて追い求めようとしないのは知ろうとする努力義務に反している!」とか、今言われても困るでしょう(^^;)
-
次に、「知ってしまったら判断をしなければいけない」という話についても異論があります。
判断というのは、手に入れた情報が正しければ下すことができます。正しくない場合であっても、「判断を下すのに充分足りている」と思えれば判断を下せるかもしれません。
しかし、
・今の今まで知らなかったことを、「これは問題である!」と手渡される
・それが問題であるかどうかを充分に吟味できる情報を見聞/検分していないのに、「すぐに判断を下せ」と言われる
これはおかしい。
そもそも「本当にそれは問題であるのかどうか?」を考えなければならない。もしかしたら問題ではないのかもしれない。
ひとつの証言だけを鵜呑みにして、例えば喧嘩の仲裁に入るときに、殴ってる方の言い分だけ、殴られてる方の言い分だけ、どちらか一方しか聞かないで判断していいものなのか?
当事者が二人いるなら二人の意見を両方とも聞かないと判断できないでしょう?
事態が「得をするものと損をするもの」「加害者と被害者」がいて、「損をする被害者」を自称する側からだけ聞いた意見を鵜呑みにして、「問題だ!」「判断しろ!」というのはおかしい。
しかし、そうなって初めて「いろいろ知ろうとする(判断が求められているならば)」のであって、そのような事態にならない限り、「判断を求められもしていないのに、問題を求めて彷徨う」というのはおかしい。
うろちい氏は「知る努力義務を果たすべき」と言いますが、知る努力義務を果たせば果たすほど、慣熟した判断を下すのには時間がかかるのでは?「現在調査中、情報検分中につき態度保留」とした場合、それは「判断とそれに伴う責任を回避した」ことになりますか?
判断に必要な情報が充分かどうかを誰が補償するんです?
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>>108
具体論についてのハンセン氏病の件については、ここではこれ以上踏み込まないつもりでおりますが、ひとつだけお許し下さい。
「今日まで知らなかったで済ませられます」
知らなかった問題については、判断はできません。
今日知らされたのなら、知らされた情報がどこまで正しいのかを、例え時間が掛かっても充分に検分すべき(=これが「知ろうとする努力義務」)でしょう。
その情報の検分が不十分な状態で判断を下すのは、むしろ「無責任」でしょう。
あらゆる問題というものは、判断を求められる人間が問題の存在を「知った」瞬間から始まるものです。
問題を知らないうちは、判断も求められません。
そして正しい判断をするのには、問題を構成する情報をよく検分=知ることが必要であり、拙速な判断は好ましくありません。
マスコミが知らせなかったら、それはマスコミの責任。
我々一般人がそれを知らなかったとしても、知らされるまでは責任を負う義務はありません。
「問題だと訴える人」を知った瞬間からですよ。始まるのは。
それ以前は始まってなんかいやしないんです。なにも。
また、判断と行動が求められ、それに期限があるときだけですよ。「本当に問題かどうか?」を一生懸命突き詰める努力も。
先ごろ、ソースロンダリングを基軸とした事件がありましたけれども(子細は面倒なので避けますが(^^;))、「それは問題だ!」と言い出す前に、「本当に問題なのかどうか?」は調べないと。
また、「問題だ!」と言いだすのは、不利益を被る人であるわけですが、不利益を被る人の言い分が常に正しいとは限らないわけです。(ハンセン氏病の件は念頭から外してください。一例を持って全体を論じることになりかねないので)
そう考えると、「問題だ!」と言い出した人間が弱く可哀想な正義で、それには従わないといけない、その言葉は検証せずに受け入れなければいけない、そうした弱者の存在を知る努力を怠っていたものにも罪がある……という原因の根幹を追い求めて罪悪感を無理矢理共有させるようにし向ける思考については、少なくとも私は共有できません。
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そういうわけで、
うろちい氏、>>116さんがまだご存じない問題について、知ろうとする努力義務が足りない、罪を共有せよ!
何が問題なのかは、知ろうとする努力が足りないから知らないのだ!
と、【問題を隠した謎々の問題と答えを、知らないことを理由に責任を追及された場合】に、どうなさるのかをお答えいただければ幸いです。
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>>120 ヤスツさん
>【問題を隠した謎々の問題と答えを、知らないことを理由に責任を追及された場合】に、どうなさるのかをお答えいただければ幸いです。
世界中のあらゆる問題について、知り得ないこと、知らなかったことは当然あります。
その場合例え責任がないとしても、問題は存在し、結果も表れます。
前に「オゾン層破壊」の場合を話しましたが、その結果は自分自身や自分の子孫に降りかかります。
「知らないことは仕方がない」「知らない者には責任が無い」としても
その結果として、自分であれ他人であれ被害をこうむる・・・それをどう考えるかですね。
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ヤスツさん
今「テロへの先制攻撃」と称して、サドル師が潜んでいると
めぼしをつけられたところが空爆を受けています。
それを「知らない」としても、責任を取らされたり、断罪されたりはしません。
だけどもし、ヤスツさんが、イスラム教徒だと「知らない」で、
自分の経営する会社に、雇った人が
あるいは、持っている賃貸住宅に、入居させた場合
その人がテロリストの親玉だと疑われて、会社ごと、住宅ごと空爆されたとしたらどうでしょう?
「知らない」ことが、免罪符にならない場合も多々あるのではないでしょうか?
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>>119
>「今日まで知らなかったで済ませられます」
基本的にはそうだと思います。
知らなかった事は,少なくともその時点までは「無い」事ですから。
ただ、この考えは
「知らないのなら仕方ない」→「知る事によって責任を負いたくない」→「問題から目をそむけ耳を塞いで気が付かないことにする」
ということに繋がらないでしょうか?
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>>119
>あらゆる問題というものは、判断を求められる人間が問題の存在を「知った」瞬間から始まるものです。
>問題を知らないうちは、判断も求められません。
>そして正しい判断をするのには、問題を構成する情報をよく検分=知ることが必要であり、拙速な判断は好ましくありません。
これは知ったあとの態度ですよね。
その問題をなんらかの形で知った時,脊髄反応的と言うか感情的に「ひどい、かわいそう」というのではなく、
「果してそれは本当なのか?」「その問題がどうして生じたのか?」を自分なりに調べて考える事。
そうではないと実は問題だと思っていたことが問題ではなく問題はよそにあった、ということもいくらでもあります。
一見,弱者の為の正論であったり、また、社会規範に基づく正しい物であったりするように見せかけながら、実はその裏には異なる意図が隠されているケ−スもあるでしょう。
ただそれは「知らないから仕方ない」ですむ範囲がどこまでか?ということなのでしょうね。
かつて掲示板で無限責任論を唱えていた方がいましたが,私はこれには同意できません。
というのは、なんらかの問題に少しでも関ると,己が感じざるを得ない責任は非常に重くなります。
例えば反戦デモにいってそれで終り,というわけではない。
実際戦争を停める為に出来うる行動をするでしょう、けれど、それでもかなわなかった時,反戦デモの参加者には戦争責任が生じるのか?
戦争で傷ついた人々を救済しようとしても、実際現地に行く事が出来るか?(イラク人質事件はこの問題を付きつけられる筈だったのですが,本当は)
治安安全上の問題や、もっと日常的な問題(時間,お金が無いといった)で事を行えなかった場合,責任は生じるのか?
例えばイラク攻撃に反対し,アフガニスタンへの救援活動をしている人間がス-ダンの内戦について,最近まで知らず,またス−ダンの人々になにもしなかった場合,ス−ダンの人々に関して責任は生じるのか?
アフガンに対してとス−ダンに対して,どちらかしか責任を負えない(具体的に言うと,募金できる額が5000円しかなくて双方から5000円の募金を求められたとか)場合,負わなかった側に責任が生じるのか?
上手く言えないのですが,負うべき責任が重すぎると、123で書いたように見ないふりを洗濯してしまうこともあるのではないでしょうか?
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>>121
「知らなかったのだから仕方がない」
というのは、「知らなかったから、それに伴う被害を受けなくてもよい」という意味とイコールではありませんよ。
知ったことによってできる判断の多くは、「被害を最小するする努力の機会を生かすかどうか」でしょう。
知らなかったことによって、仮に被害が「知らなかった当人」に起きる場合は、被害を甘んじて受けるしかないでしょう。
ですが、それを後から「知ろうとしなかったから罰が下った」とか「知ろうとしなかったから悪い」とか、そういうのは違うだろうと思いますよ。
知らなかったから仕方がない。
知らなかった者には責任はない。
が、責任はなくても被害を被ることはある。
そして知らなかったことで、被害を回避できないこともある。
>>121さんは、「責任」と「被害」を混同していませんか? それは別のことだと思うんですが。
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>>122
その問いについて答えるとするならば、
「(雇った相手がイスラム教徒だと)知らなかったのだから(家族が死んでも)仕方がない」
ですよ。
何度も言いますが、「知らない」ことが免罪符になるとは言っていません。
「知らない」ことは、自分に降りかかる被害の回避をする機会を逸することになるとは思います。
ただ、知らなかった(備えなかった、というべきでしょう。その例えの場合)から起きた結果というのは、受け入れるより他にないのでは?
コトが起きてから後悔しても無意味ですし、逆にことが起きる前にその例えに備えようと思ったら、
・日本人以外は雇わない
・仏教徒以外は雇わない
・従業員は雇わない
・空爆される可能性のある会社など持たない
・空爆される可能性のある住宅など持たない
・自分以外で犠牲になる可能性のある家族など持たない
・他人の迷惑になる自分などこの世に置かない
と、無限に「備えて」いかなければならなくなります。
例えば「日本人で仏教徒以外は雇わない」あたりが現実的かもしれませんが、それはまた別種の差別を生むことになるんでしょう?
それとも排他的になることで身を守っていれば空爆されずに済んだというのが正解でしょうか?
そこまで無限に備えることはできないし、そこまで全てを知ることもできません。
その上で、知らなかったから空爆されたのだとしたら、それはもう「知らなかったのだから仕方がない」とするより他にありません。
誤解があるようですが「知らなかったのだから仕方がない」というのは、「知らないで済まされる」ではなく、「自分の既知/不準備を全て飲んだ上で、現状を受け入れる=諦める」ということです。
諦めてしまえば、なんでも「知らなかったで済ませられます」よ。
問題は「諦められるかどうか」ですよね。どちらかというと。
・他人(自分、もしくは自分の家族など、自分から遠くなるほど)のことなら早く諦められる。
・自分に近くなればなるほど諦めにくくなる。
・諦められるかどうかは、その人の覚悟または拘りの度合いによって異なる。
・修復不能なものを多く持つ者ほど諦められないから、いろいろ備えるようになる。
・なくす物など何もない者は諦めが早いから、起きたことにこだわらない。備えも少ない。
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>>123
それなんですが、むしろ「知ろうとする努力義務が足りないのだ!」と、事後になってから責め立てられるようなことが続けば、なおのこと「知ることによって義務を負いたくない=無関心」が増えるのではないかと思います。
「先覚者はエライけれども、先覚者に促されて知った人間は偉くない」
「先覚者はエライのだからその言うことを聞かなければならない」
「先覚者に促されるまで知らなかった人間は、恥を知らなければならない」
というような、ある問題を問題としてみるか見ないかを巡って生まれる一種の優越的感情が、後から知る人を「できれば先に知った人の風下に立ちたくない」という気分にさせてしまいます。
逆に、「さらにたくさんの風下(後から来た人)を増やすことで、自分の地位を準先覚者にしよう」という発想も出てくるでしょう。
それは所謂宗教における信者の獲得の経緯と同じなのですが(^^;)
ある問題が問題だと考える人々が、他の人間にも同じように問題を共有してほしいと思うときに、それを今まで知らなかった人間に「罪悪感」を持たせるようなやり方というのは、一種の脅迫と同じなんですね。
「お前はそんなことも知らなかったなんて、なんて悪い奴なんだ」と。気のいい人や自分の評判が気になる人は、「自分が悪い人間だったなんて信じたくない」から、指摘した先覚者の意図に従う。
そうでない(そして大多数の)人は、「余計なお世話だ。お前の指摘が間違ってるんだ。お前の風下に置かれて、なぜ罪悪感を感じなきゃならないんだ!」という反発から、それ以上知ろうとすることをやめてしまいます。
問題が問題であると指摘をした人間の主目的が、「相手に罪悪感を負わせること」なのか、「問題解決のための支持者を増やすこと」なのか、どちらかがはっきりしないのが問題でもあります。
多くの場合、「罪悪感を負った人々を、弱者の代弁者が使役する」という形に発展していきますが。
「お前は悪い奴だ」と言われて、渋々「名誉挽回のために」手伝う人間の結束など、何をするにしてもさほど期待できないと思いますよ。
その意味で、問題が問題であると指摘する方々には、もう少し戦略を考えて頂きたいなあと思います。
ちょっと脱線かもしれませんが。
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>>127
>問題が問題であると指摘をした人間の主目的が、「相手に罪悪感を負わせること」なのか、「問題解決のための支持者を増やすこと」なのか、どちらかがはっきりしないのが問題でもあります。
「問題解決のための支持者を増やすこと」が勿論目的だと思いますよ。ていうか、少なくとも私はそう信じています。
前レスであげた無限責任論にしても、私は支持してはいませんが,世の問題を考えるとことはそこまで重い事だ、という部分では理解は出来ます。
むしろ、私は、それを提示された側が、お前だって責任を負っていないだろう,と逆切れすることが、嫌らしいですね。
よく、こういうこと言う人いるんですよ。
例えばアフガン難民でもホ−ムレスでも障害者でも、そういった問題を提示すると
「じゃ、あんたが全財産寄付すれば,一生アフガンでもス−ダンでも行ってそこの人達に一生捧げれば」
みたいな。
するいな、と思います。
例えばイラク攻撃反対のデモに参加する。ホワイトハウスや総理官邸に反対のメ−ルやハガキを出す。
まではしても、じゃあ、イラクにいって人間の楯になるか?命を賭けられるか、出来ないだろうと。
実際,人間の楯(の是非論はここではおいてください)となることについては、個々の考えもあるでしょうし、また、賛同はしても,イラクまでの旅費や,それに費やす時間を考えると、出来る人が限られる。
結局自分の日常が大切なのは,同じだろ,と相手を自分のレベルに引きづり落して、なにもしない自分を正当化する。
これって、卑怯だな,と思うんです。
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>>126 ヤスツさん
>「(雇った相手がイスラム教徒だと)知らなかったのだから(家族が死んでも)仕方がない」
あなたの中では
そのイスラム教徒が本当にテロリストであるのかどうか とか
テロリストがそこにいるからといって、テロへの先制攻撃として
罪のない人まで巻き込む空爆が許されるのか、という
考えは全くないのですね。
今アメリカがイラクで、ロシアがチェチェンで行っているようなことは
正しいこと、あるいは天災のように避けられないことであると思っていらっしゃる・・・
この場合は、相手がイスラム教徒であることを「知らなかった」から
当然受け入れるべき災難だと思っていらっしゃる・・・・
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129さん、横から口を出して悪いのですが,それはすげかえだと思いますよ。
そもそもは、
「知らなかった事で責任を負う必要があるか?」
という問いではないのですが?
そもそも本来あげられるべき問いは
「ハンセン病患者が人権を侵害されていることを知らなかった」
「私達が日常使用する特定の商品がオゾンホ−ルの破壊など,地球環境に重大な影響を与えるのを知らなかった」
「同和と呼ばれる特定地域出身の人々が、就職や結婚その他の日常において差別を受けていることを知らなかった」
等々、そういったことで、問題を増幅させたことに対する責任を負うべきや、否や、ということでないのですか?
>そのイスラム教徒が本当にテロリストであるのかどうか とか
>テロリストがそこにいるからといって、テロへの先制攻撃として
>罪のない人まで巻き込む空爆が許されるのか、という
>考えは全くないのですね。
この場合は,雇った相手がイスラム教徒だと知っていても知らなくても同じです。
彼がテロリストだと知っていたらならば、その雇い主は覚悟の上でしょう。
けれど、彼がイスラム教徒である一般市民と認識して採用した場合と、イスラム教徒であることを知らずに採用した場合,
結果は同じではないですか?
そして、126でヤスツさんが言っている事は,
「知らなかった事でこうむった被害が,己の無知の結果として受け入れるしかない」
というしごくまっとうなものだと思います。
それは、、法律,特に商法について無知だった為,初歩的なサギにあう、それは仕方が無い。
そういうことだと思うのですが。
そこでサギの是非を問う事とは違う話ではないでしょうか?(いや、勿論サギは悪い事だけどさ)
-
>>130 イカフライさん
私の質問は
今「テロへの先制攻撃」と称して、サドル師が潜んでいると
めぼしをつけられたところが空爆を受けています。
それを「知らない」としても、責任を取らされたり、断罪されたりはしません。
だけどもし、ヤスツさんが、イスラム教徒だと「知らない」で、
自分の経営する会社に、雇った人が
あるいは、持っている賃貸住宅に、入居させた場合
その人がテロリストの親玉だと疑われて、会社ごと、住宅ごと空爆されたとしたらどうでしょう?
「知らない」ことが、免罪符にならない場合も多々あるのではないでしょうか?
前半から始まっています。
「知らない」ために責任を取らせられないとしても
問題は存在するということです。
それを放置することによって、同じ次元の被害を自分がこうむることも
ヤスツさんのように「甘んじて受けるしか仕方がない」という結果がきます。
実際はイラクで起こっていることを知っていながら
知らん振りをしているのではないかと思いますが、
イカフライさんがおっしゃるように「知っていても知らなくても同じです。
」ね。
-
>>131
だから、この場合,サドル師が潜んでいると勝手にめぼしをつけて手当たりしだい空爆するアメリカのやり方についての是非の問題(いや、それ自体は非だが)と
それを知らずに雇った人間がイスラム教徒であったから空爆された、ということとは違う問題だ、ということです。
実際ヤスツさんも言われていますが、131さんは「責任」と「被害」を混同していませんか?
こういう例はどうでしょうか?
少し前に話題になったス-パ-フリ-ですが、あれは事件が明るみに出る前から、一部の学生の間では「レイプサ−クル」という噂があったそうです。
ですから、それを知る女子学生は、その真偽はおいても、近づかなかった。
けれど、そういう噂を全く知らない女子学生がス−フリのコンパに参加して集団レイプされた。
この被害女性は131さんが言うように「「知らない」ことが、免罪符にならない場合」のですか?
また、身体に有害な添加物が使用された食品がある。これはある時期は普通に市場に出回っていたが,さすがに問題になって回収され、その発売企業も責任をとらされた、と仮定します。
強い副作用のある薬品でも良いです。それを知らずに食品を食べたり,薬を服用した少女がそれが原因で不妊になった。
この場合,その少女は,「「知らない」ことが、免罪符にならない」のですか?
-
> 実際ヤスツさんも言われていますが、131さんは「責任」と「被害」を混同していませんか?
世の中のことを全て「知る」などということは不可能です。
そのうち
獣をだましてわなにかけるのと同じように、人間をだまして(詐欺にかけて)金を得ることは
同じように俺の腕前だと認識して(法律を知らないで)いても、罰を受けますが
そういう場合を除けば
全く知らなかったことに関しては、【責任】を追及されることも、断罪されることもない場合が多いです。
追求もされず、罰も受けません。
そんなことは、うろちいさんも(他の人も認めています)
しかし、問題は存在する。
その問題によって【被害】を受ける人が存在するのです。
オゾン層などは分かりやすいです。全人類ですから。
公害の場合は、特定の地域であって、俺には関係ないかも知れません。
しかし自分はどの側に立つのかを問題にしています。
空爆も、アフガニスタンやイラクやチェチェンのことであって、俺には関係ないかもしれません。
しかしその理念は全人類にかかわる問題を含んでいます。
責任を追及されないからといって、知らないままでいいとか
知っても知らん振りする方が楽だと思っていいのでしょうか、という問いかけです。
空爆を受けている被害者は訴えています。
マスコミは伝えるべきではないでしょうか?
「知らないのだから仕方がない」といったとしても
「アメリカの空爆を批判もせず、その行動を支持している。
武器燃料の輸送をし、自衛隊派遣(実際に武器を取る必要はないんです。アメリカを支持するというフラッグをあげることで支える)をしている。
被害者から見たら、加害者になっています。
知らないままでいいのでしょうか? 知って知らん振りをするだけでいいのでしょうか?
イラク人の断罪を無視していいのでしょうか?
「責任」と「被害」を混同』という枠をはずして考えてください。
-
イカフライさん。
スーフリ? 添加物?
これは犯罪ですね。
添加物は、食品会社自身の無知による場合があるでしょうし、その食品会社の罪がどの程度とされるかは
次の問題として、犯罪は断罪され、食品は回収以後販売停止になるでしょう。
アメリカなどの空爆は、犯罪ですか? 断罪されていますか?
これを犯罪として断罪すべきだといわれるのなら
あなたとは同意見です。
旧日本軍事政権の犯罪も、同じです。
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>>133-134
知っていてしらんぷりをすることと、知らないことは、違う事でしょう?
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