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誹謗中傷って、何?
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佐世保事は何か「加害女児個人の問題」という方向に逸れていきましたねー。
ネットの人間関係について。
パソコン通信時代の「ネットの人間関係」と、インターネット時代の「ネットの人間関係」は、ずいぶんと異質だなと思っています。
パソ通時代は、少なくとも管理者はIDと登録者(リアル)の関係を熟知していたという前提がありまして。
ネットというのは、「補完的な物」であり、また「友人関係の物理的な距離を排除する物」でもありました。
パソ通でも「ゲスト」という名のNewComerは常にあったわけですが、ゲストはあくまでも「飛び込み」の人という感じでしたね。
そもそも電話番号がわからないと、パソ通って接続できなかったから(^^;)
そのゲストも、「不快な人物ではない」と認められないと仲間に入れてもらえなかったりとか。(草の根パソ通の場合)
また、ゲストはアクセスできる会議室(今で言えば板、スレ)が限定されていたりとか。
もちろん、誹謗中傷から始まるフレーム、仲裁しようとした奴がクロスファイアを浴びて火だるま……などなど、現在のインターネットが抱えている問題の多くは、その頃にすでに雛形がありました。
インターネットになって変わったのは、「ゲスト」という概念がなくなったということかなと思います。
言ってしまえば、パソ通におけるネットというのは、「サロン」でした。秘密クラブでもOK(笑)
だから、サロンに加わるには、すでに会員になっている誰かの紹介が必要であり、会員は自分の信用を損なわない人間だけを推薦する、という感じ。
入会審査をするところもありましたが、「会員の推薦が必要」というところのほうが多かったかもしれません。特に、小さいネットでは。
(よくある「ここはよいインターネットですね」というアレ。アレはパソ通時代と照らし合わせると、「ここはよいネット(パソ通の)ですね」になるわけですが、それっていうのは「ネット=クローズなホストの内部」を示していたから通用した、古い褒め言葉なんですよね(^^;)。今では「インターネットを理解していない的はずれな発言」を揶揄する意味で使われていますが(^^;))
インターネットはそうした「発言をするのに資格が必要」とか「誰かの推奨がなければ発言の機会が得られない」という一種の排他性はかなり緩和されたと思います。
誰でも好き勝手なことを言えるし、それぞれの管理者(昔で言えばSIGOP)の判断基準に沿う限りは削除もされないし。
ただ、人数が増えたこと、発言者の人となりを事前に保障推薦する既存会員がないことなど、「量の増大」が「質の低下」に結びついているという意見は、軽視できない気がします。
ちなみに、イカフライ女史はIRCなどはされますでしょうか?
IRCは「パソコン通信時代のCHAT」を進化させたものだけあって、パソ通で問題視された事柄を解決するための智慧が詰まっています。
パソ通のCHATはIRCに、電子掲示板は→NetNews→2ch/Yahooなどの匿名掲示板に、と進化を遂げているわけですが、IRCが(サーバ/クライアント)ソフトウェア・プロトコルの機能で「トラブルを未然に防ぐ」という方向に進化していったのに対して、匿名掲示板は「機能や制限を簡素化して、その分のハンドリングを利用者自身の判断に託した」という点が異なります。
と、延々ネット話をしてきて、やっと本題に繋がるわけですが(^^;)
どこまでが誹謗中傷といった判断を、それぞれの発信者が個人として注意する、心がけるという方向(発信者に依存する)がある一方で、
誹謗中傷かどうか、排除する不快語かどうかの判断を受信者自身が自分の好みで判別するという方向(受信者に依存する)があります。
さらには、受信側がソフトウェアの機能を使って不快語をフィルタリングするという方法も現実に成り立っているわけですね。
2chブラウザの透明あぼーん機能(NGワードなど)がまさにそれですが、これはIRCが求めた進化の方向(初期設定は必要だけど、判断をプログラムに依存する)と言えそうです。
ネットでの誹謗中傷については、このようにプログラムを使って個人が判断・排除することも可能かと思います。
ただ、誹謗中傷(不快語)の排除を行うことによって、選べる有用な情報を自発的に減らしてしまう、という弊害も起こってきますが、それはまた別のお話。
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