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近世日本史スレ

1■とはずがたり:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

34荷主研究者:2003/11/02(日) 01:49
同じく近現代である。

http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20031018/lcl_____fki_____002.shtml
2003.10.18 中日新聞 福井
三国港突堤を重文指定答申 国の文化審、「明治の3大築港」と評価

 国の文化審議会で十七日、県内から重要文化財に指定の答申があった「三国港(旧阪井港)突堤」は、明治時代に国の近代化政策の一環として建設された。熊本県の三角港、宮城県の野蒜(のびる)港とともに「明治の三大築港」とされている。

 工事着工は明治十一(一八七八)年。三国港は九頭竜川が上流から運ぶ土砂が港に積もり、大型船の入港が難しくなることが悩みだった。この問題を解決しようと、地元の豪商が建設を呼び掛け、国の事業として計画が実現した。

 工事にあたったのは内務省(当時)が雇ったオランダ人技師エッセルとデレーケ。作業中も激しい波が押し寄せ工事は難航したが、地元豪商の拠出金を含む総工費約三十万円と、人員延べ約六万人を動員し着工から四年後にはほぼ完成した。

 その後も戦前までに四期にわたる補修工事が行われ、一九七〇(昭和四十五)年には四百十一メートルの堤も新たに増築された。木の枝など自然素材を利用した「粗朶沈床(そだちんしょう)」を基礎にした構造は、現代でもその価値を失っていない。

 今回の指定で県内の重要有形文化財は九十四件となり、建造物としては二十一件目になる。 (上田 洪基)

35とはずがたり:2003/11/02(日) 06:57
野蒜は地震で失敗した事で有名で,東北人は野蒜一体が神戸や横浜の如く発展する筈だったのが此処で挫折したと悔やしい思いをしているそうだが,三大築港の後二つが三角と三国じゃあ発展の可能性もたかがしれてたのでは無いかい?

36とはずがたり:2003/11/22(土) 12:21
1613年支倉常長,イスパニア派遣
1616年ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限る
1633年奉書船以外の海外渡航を禁止
1635年日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止。

帰国した時期は不明だけど,渡航・参拝したのは鎖国令よりも前やね。
それにしてもこの時鎖国しなかったら日本はどうなって居たか?

http://www.asahi.com/national/update/1122/006.html
江戸初期の武士、アンコールワットに落書き 子孫が対面

 江戸初期の寛永9(1632)年、肥前・松浦藩士の森本右近太夫がカンボジアのアンコールワット寺院に参拝し、落書きを残した。右近太夫から数えて15代目で岡山県津山市、津山科学教育博物館長の森本信一さん(63)と妻の栄子さん(59)が21日、371年前のその落書きと対面した。

 「父母の菩提(ぼだい)のため」、「数千里の海上を渡り」などと墨字で参拝の動機が書かれ、寺に「仏像4体を奉納した」とある。夫妻を案内した石沢良昭上智大教授によると、落書きはポル・ポト時代にペンキで塗りつぶされたが、近年、ペンキが退色し、再び判読できるようになった。

 落書きを食い入るように見た信一さんは、「400年近く前に先祖が命がけで海を渡ってここに来ていたかと思うと感無量で、じーんとしました」と語った。

 アンコールワットは19世紀、フランスのアンリ・ムオが「発見した」と西洋に紹介された。右近太夫は、それより200年以上前に参拝していた。しかし、幕府の鎖国令で海外渡航が厳禁され、参拝の事実は近親者以外には極秘にした模様だ。

 信一さんは、「この訪問で右近太夫がより身近になった。その秘められた歴史を調べたい」と語った。 (11/22 09:57)

37とはずがたり:2003/12/02(火) 15:52
凄いねえ…。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031201-00000405-jij-soci
京都教育大に「解体新書」=一般図書と紛れ50年以上

 江戸末期の蘭学者杉田玄白らが日本で初めて翻訳した西洋医学の解剖書「解体新書」が京都教育大(京都市)の図書館で10月下旬に見つかり、1日、報道陣に公開された。寺田光世図書館長は「印刷が鮮明で広告がないことから、初版の中でも早くに印刷され将軍家や公家に献上されたものかもしれない」と話し、一般公開も検討している。
 オランダ語の解剖書を翻訳した解体新書は安永3年(1774年)に刊行された。同大には前身の京都府師範学校から1951年に移管された記録が残っていた。来春の国立大法人化に向け、資料などを整理する作業を進めていたところ、図書館書庫の本棚に、一般の図書と紛れて並んでいるのが見つかった。 (時事通信)
[12月1日18時2分更新]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031201-00000143-kyodo-ent
解体新書の初版本発見 全5巻、京都教育大書庫で
 
 江戸時代に杉田玄白(1733−1817年)らが初めてオランダ語の医学書を翻訳した「解体新書」の初版本全5巻が京都教育大(京都市)の図書館
書庫からそろって見つかり、同大が1日発表した。
 同大によると、5巻そろった初版本は少なくとも国内計約15の大学や図書館で保管されているが、見つかった解体新書は虫食いや大きな破損もなく状
態はよいという。
 5巻は解説書4冊と図解書1冊。それぞれ縦約25センチ、横約18センチで20ページ前後。木版印刷で安永3(1774)年の刊行と記されてい
る。
 解体新書はその後何度も増刷されたが、文字や外枠の印刷が鮮明で版木の摩耗が感じられないことから、初版本の中でも初期の段階で刷られたものとみ
られるという。(共同通信)
[12月1日19時11分更新]

38荷主研究者:2003/12/10(水) 00:23

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2003/12/20031209t15021.htm
2003年12月08日月曜日 河北新報
近代日本語る古文書 東北大へ 10万点を寄贈 宮城・河南

 戦後の農地解放まで日本屈指の大地主だった宮城県河南町前谷地の斎藤家(宝ケ峰縄文記念館)の古文書約10万点が8日までに、東北大付属図書館に寄贈されることが決まった。7月に起きた宮城県連続地震で被災した記念館の歴史資料の救出、保全に当たった東北大を中心にしたボランティアに感謝し、斎藤家が申し出た。古文書は、日本の資本主義成立過程を検証する上で、極めて貴重な史料だという。

 寄贈されるのは、斎藤家が江戸時代後期から昭和20年代まで所有、貸し付けていた東北一円の約1400ヘクタールに上る土地台帳や売買契約書のほか、漁業、鉱山、鉄道、銀行などの投資、経営関係史料など約10万点。
 北海道の漁業会社、茨城県内の鉱山など斎藤家の多角経営ぶりがうかがえ、日本の資本主義の成立、展開過程を解明し、近代化の道筋を全国的な視野から検討することが可能な史料群だという。

 1993年に斎藤家11代当主養之助氏(故人)が開設した宝ケ峰縄文記念館は、7月の宮城県連続地震で建物が損壊。展示してあった縄文土器や土偶が破損したり、蔵に納めてあった大量の文書箱が散乱したりするなど大きな被害を受けた。
 このため、地震被害による文化財の散逸を防ごうと結成されたボランティア組織の宮城歴史資料保全ネットワーク(世話人・平川新東北大東北アジア研究センター教授)が8月、記念館に入って古文書類を整理。破損した土器類は持ち帰って修復し9月末、記念館に返還、展示された。

 こうしたネットワークの努力に感謝し、記念館館長の斎藤武子さんが寄贈を申し出た。武子さんは「地震でめちゃくちゃになった史料を整理、仕分けしてくれた東北大に任せれば、後世ずっと大切にしてくれると思う」と語っている。
 平川教授は「斎藤家は、酒田の本間家に次ぐ大地主。大規模地主の史料がまとまって大量にあるのは非常に珍しく、日本近代史を研究する上で大変貴重だ」と話している。

39とはずがたり:2004/01/16(金) 13:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040108-00001060-mai-soci
<五重塔>地震による倒壊例なし 都立大講師ら理由研究へ

 江戸時代以前に建てられた五重塔について、藤田香織・東京都立大講師(建築学)らが過去の地震による被害を調べたところ、倒壊した例は見つからなかった。五重塔はなぜ地震に強いのか、藤田講師らは津観音五重塔(津市)に地震計を設置し、理由を探る研究を進めている。

 専門家の間では以前から、五重塔は耐震性に優れている可能性があるとされている。その理由として(1)柱が各層ごとに分かれ、太くて短いため転倒しにくい(2)中心の「心柱」が揺れてエネルギーを吸収する(3)大地震に遭遇していないのでたまたま残っている――などの説があるが、確定していない。

 被害を統計的に調べた研究が見当たらないため、藤田講師らは江戸時代以前に建てられた五重塔22カ所を対象に調査した。その結果、12の五重塔に詳細な修理報告書があり、震度6以上と推定される地震に延べ16回遭遇していたことが分かった。うち7回は被害状況も記録されており、傾いた塔や最上部の相輪(そうりん)と呼ばれる部分に被害が出た塔はあったが、倒壊した記録は見つからなかった。

 例えば池上本門寺(東京都大田区)の五重塔は、1614年の地震と1923年の関東大震災で傾いた記録があるが、倒壊はしていない。江戸に大きな被害が出た安政江戸地震(1855年)でも境内のいくつかの建物が被害を受けたが、五重塔には被害の記録がなかった。

 藤田講師らは現在、津観音五重塔の1、3、4階の天井と地面に地震計を設置し、観測を続けている。これまで地震で五重塔がどう揺れるかを測定したデータはなく、謎を解く鍵になる可能性がある。藤田講師は「これだけの数を集めても倒れていないということは、たまたま残っているわけではないと考えられる。五重塔は古い木造建築の集大成で、なぜ倒れないのかを検証していくことで伝統建築物の構造を精密に解明したい」と話している。(毎日新聞)
[1月8日15時3分更新]

40とはずがたり:2004/02/14(土) 02:45
あっさり負けた割には社会に与えた衝撃は大きかったような。

http://mytown.asahi.com/osaka/news01.asp?kiji=700
大塩平八郎 浮かぶ人柄

 江戸時代の「天保のききん」で農民らに蜂起を呼びかけた大塩平八郎の手紙191通すべてを集めた「大塩平八郎書簡の研究」が発刊された。大阪歴史博物館の相蘇一弘副館長が四半世紀かけて集め、現代語訳や解説も加えて「大塩の乱」(1837年)に至る軌跡を浮き彫りにしている。

 大塩は大坂東町奉行所の元与力で高名な陽明学者。幕府の腐敗に怒って乱を起こした人物として、今も人気が高い。相蘇さんは、76年に同博物館で「大塩平八郎展」を開催したのをきっかけに手紙の収集を始めた。

 内容などから年代を推定。さらに送付先との関係や当時の時代状況なども研究した。初めて活字化した手紙も68通あり、中には大坂西町奉行所の与力・内山彦次郎あての手紙も。内山は「大塩の乱」で大塩の潜伏先を突き止め、自害に追い込んだ人物だ。

 相蘇さんによると、大塩はききんに苦しむ人の救済を訴えた人物として高く評価されてきた一方、「出世を裏で画策する信用ならない男」との評価も一部であるという。「だが手紙の流れを見る限り、出世を画策したとは到底考えられない。大塩の人物像は、旧来からあった『厳格で物事の節目を通し裏表がない』に間違いないだろう」と結論づけている。

 大塩事件研究会会長の酒井一・三重大名誉教授(日本近世史)は「乱を起こした大塩の場合、手紙の多くは隠されて散在し、年代も不明だった。大塩研究を大きく前進させるだろう」と話す。3冊で2万8千円(税別)。問い合わせは清文堂出版(06・6211・6265)。

(2/13)

41とはずがたり:2004/03/21(日) 02:27
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040320-00000007-khk-toh
120年前の下水道跡 野蒜築港から出土

 明治時代初期に日本初の洋式築港として、宮城県鳴瀬町の鳴瀬川河口に計画された野蒜築港を中心とする旧市街地跡で、120年前に造られた、現在の下水道に当たる悪水吐暗渠(あくすいばきあんきょ)の遺構が19日までに見つかった。土木学会東北支部「野蒜築港120年委員会」委員長の後藤光亀東北大大学院工学研究科助教授は「日本人が使用する目的で建設された極めて初期のもので、貴重な近代土木遺産だ」と話している。

 下水道跡は地表から1.5メートル下にあり、長さ約9.3メートル。切石を三段積み重ねた構造で、内径約17センチの土管が取り付けられている。当時の新聞によると、1881年に造られ、市街地計画図では市街地のメーン通り「大町通り」の真下に位置する。実際に道路の排水や生活排水を流していたと推測されている。

 土管と切石の接合部分にはセメントが用いられており、「当時としては最先端の技術を駆使した施設」(後藤助教授)という。同様の下水道施設は、野蒜築港より約10年早く横浜市の外国人居留地に敷設されているが、日本人向けの設備は初めてとされる。

 発見された場所は、近くに住む造園業安倍信悦さん(56)の土地。航空自衛隊松島基地の騒音対策のため、防衛施設庁が新年度の買収を予定している。安倍さんが土地を更地化していたところ、母の信子さん(80)が偶然見つけた。

 後藤助教授は「町や県と協力しながら周辺の採掘を進め、排水方法などの詳細を特定したい」と話す。鳴瀬町は「せっかく見つかった財産。野蒜築港を後世に残す公園づくりを計画中で、防衛施設庁と協議した上で、今後の活用策を探っていきたい」としている。

[野蒜築港] 内務卿大久保利通が東北地方を「富国強兵」「殖産興業」の重要拠点と位置付け、その一環として1878(明治11)年に着工。84年に台風に襲われ、翌年政府は築港を断念した。完成していれば、国家による日本最初の近代港湾となっていた。
(河北新報)
[3月20日7時3分更新]

42とはずがたり:2004/04/12(月) 23:47
江藤新平は最後は不平士族に担ぎ上げられて反乱を起こして刑死しているのだがその部分の記述がないねぇ。明治政府へ叛乱というのは平成の現在の世でも隠したい事実なのかねぇ?叛乱を起こした事実がいささかなりとも江藤の評価を下げる物では無いと思うのだが。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040412-00000072-nnp-kyu
江藤新平は特命調査役!? 長州征伐失敗予言 脱藩中に「意見書」

 幕末・維新の志士江藤新平(一八三四―七四)が、佐賀藩脱藩の罪で謹慎処分中に佐賀藩の意を受けて、藩外で調査活動をしていたことをうかがわせる政策意見書「急務囈言(げいげん)」が、佐賀市の子孫宅から見つかった。十一日、江藤研究の第一人者の毛利敏彦大阪市立大学名誉教授が佐賀市で会見し、「江藤の謹慎処分中の動静はほとんど分かっておらず、貴重な史料。江藤が藩主直属の特命調査役だった可能性がある」と指摘した。

 意見書は和紙十六枚つづりで一八六四年九月に書かれた。当時の藩主鍋島直正にあてたものとみられ「帰寧」(無事に帰った)や「又々山(謹慎中の寺)ニ帰レリ」などと記され、長期間にわたって繰り返し藩外で調査に当たったとみられる表現がある。

 意見書作成中の六四年夏に動きが始まった江戸幕府の長州(山口県)出兵について「長防二州ノ大半ヲ討何ヲ以カ其成功ヲ期センヤ」と失敗を予言。この見解は当時の一般的な見方に反していたが、結果は翌六五年に幕府が事実上敗退。毛利教授は「正確な情勢判断。藩主のその後の行動にも影響を与えたのではないか」と分析している。

 意見書は、江藤新平のひ孫の江藤茂國さん(73)=佐賀市水ケ江=が三月中旬、自宅に保管されていた史料三十点を整理中に発見。茂國さんは「さらに内容を精査し、展示などを検討する」と話している。

 江藤新平は佐賀藩に生まれ、二十八歳で脱藩し、京都で尊皇攘夷(じようい)運動に携わったが、数カ月後に佐賀に帰り、閉居を命じられた。一八七二年には初代司法卿(現法務大臣)を務め、法律の制定など司法制度の確立に尽力した。十三日は江藤の命日で、佐賀市で百三十回目の慰霊祭が予定されている。(西日本新聞)

43とはずがたり:2004/07/02(金) 15:44

伊能大図、最後まで所在不明の4枚発見 全貌よみがえる
http://www.asahi.com/culture/update/0702/001.html

 伊能忠敬(ただたか)が作った「大日本沿海輿地(よち)全図」の大図(214枚組み、縮尺3万6千分の1)のうち、最後まで所在不明だった4枚の模写図が、東京・築地の海上保安庁海洋情報部で見つかり、1日公表された。幕府に上呈された大図の正本は明治初期(1873年)の皇居の火災で焼失したが、これで全貌(ぜんぼう)がよみがえった。

 大図は、伊能家に残された控え図などの副本が、山口県文書館(山口市)と松浦史料博物館(長崎県平戸市)に各7枚、模写本が国会図書館に43枚、国立歴史民俗博物館に7枚、米国議会図書館に207枚保存されているが、今回の4枚は、どれにも含まれていなかった。

 海上保安庁にも、旧海軍省水路部から引き継いだ資料に、大図の縮小模写141枚があることは分かっていたが、これまで内容が詳しく調べられていなかった。

 このため、伊能忠敬研究会の渡辺一郎代表(74)らが5月中旬に詳細に検討した結果、未発見だった「蝦夷(えぞ)、宗谷」「山城、河内・摂津」「備中、備後福山」「備後、安芸、伊豫(いよ)今治」の4枚が含まれていることを確認した。

 大図はほぼ畳1枚大で、今回の4枚は約40×70センチに縮小してあった。京都を描いた「山城」には、測量線や、天体観測地点の☆印が朱色で残って制作作業をしのばせ、御所や二条城、清水寺などの社寺が細かく描かれている。

 現在、国土地理院などの主催でアメリカ版伊能大図展が各地で開かれており、今月16日からの北海道・釧路市観光国際交流センターでは、全214枚のレプリカを並べた展示が実現しそうだ。

 渡辺さんは「まさか4枚そろって出るとは思わなかった。これで大、中、小図が全部そろい、ひと仕事終わりました」と感慨深げだった。 (07/02 00:41)

44とはずがたり:2004/10/16(土) 12:33
江戸時代の日本は野蛮な欧米には比較にもならぬ程の先進国だったと思っている。

麻酔術「門外不出」説覆る 華岡青洲から杉田玄白一門に
http://www.asahi.com/science/update/1013/001.html

 江戸時代の外科医、華岡青洲(はなおか・せいしゅう)が初めての全身麻酔手術に成功したのはちょうど200年前の1804(文化元)年10月13日。青洲の麻酔術は「門外不出」で普及しなかったとされてきたが、解体新書で有名な杉田玄白の一門に伝えられ、江戸でも乳がん手術が行われていたことを示す新資料を、松木明知・弘前大名誉教授(麻酔科)が東京都内の古書店で発見した。

 新資料「療乳(がん)記」は漢文6ページの小冊子。玄白の息子、立卿(りゅうけい)の乳がん手術記録をその弟子が印刷して関係者に配ったものだ。

 それによると、立卿の手術は青洲の手術から9年後の文化10年9月、江戸の玄白宅で行われた。「麻睡之剤」を用い、重さ数十グラムのがんを摘出、傷を洗い、香油を塗って縫合した。患者は6時間で意識が戻り、1カ月で回復した。青洲の弟子の宮河順達が玄白門下に入って数人に手術し、立卿が実際に見学したこと、青洲への感謝も書かれている。

 青洲は弟子に麻酔術の秘密を守らせた。手術内容の記録は数件見つかっているだけで、手術は広がらなかったと考えられていた。「数え80歳」(文化9年)の玄白が30歳近く年下の青洲に出した手紙が現存し、「病人が手術の痛みに耐えられない。私は高齢なので息子たちに治療させたく、彼らが質問の手紙を出すのを許してほしい。宮河からも手紙を差し上げた」との記述があったが、玄白が単純に青洲を賞賛した手紙と見られていた。

 松木さんは「医学史の空白が埋まった。新資料と合わせれば、青洲の許可を得て立卿が順達から麻酔術を学んだと考えられる。順達が江戸で手術をしたことも初めて分かったが、杉田派が加われば、かなり普及していただろう。青洲が安易な伝授を戒めたのはケチだったからではなく、患者の危険を避けるためだったと思う」という。

 日本麻酔学会は、青洲の麻酔手術が世界の先駆けだったとして、10月13日を「麻酔の日」としている。

(10/13 17:32)

45ぽんこ:2004/10/25(月) 03:26
緒方洪庵の適塾が非常に面白かったです。
当時の大坂の医者番付等が展示してありました。
京阪または地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅からすぐです。
http://www.ncs.co.jp/nakanoshima/tekijuku.htm

46とはずがたり:2004/10/25(月) 12:24
>>45
おお,懐かしい。その昔行きましたわ。。
医者の番付なんかあったかなぁ。。覚えてない。

47とはずがたり:2004/11/23(火) 00:33
すげえすげえ。尚氏の出身で井伊氏の室にして歌人ですか。
まぁこの辺の話題はこちらで。

井伊文子さん死去 元彦根市長夫人、歌人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041122-00000062-kyt-l25

 故井伊直愛・元彦根市長の夫人で歌人の井伊文子(いい・ふみこ)さんが22日午前9時45分、急性心不全のため滋賀県彦根市立病院で亡くなった。87歳。東京都出身。自宅は彦根市松原町515。葬儀・告別式は24日午後零時半から同市古沢町1100の清凉寺で。喪主は孫の岳夫(たけお)氏。
 1917(大正6)年、琉球王朝最後の王尚泰の孫・尚昌の長女として東京・麹町に生まれた。37年に直愛氏と結婚。直愛氏は旧彦根藩主だった井伊家の第16代当主にあたり、彦根市長を9期務めた。
 滋賀文学会や現代歌人協会に所属する歌人、エッセイストとして知られ、沖縄の青少年育成のための社会奉仕団体「仏桑花(ぶっそうげ)の会」会長として故郷・沖縄と本土、彦根の文化交流や社会福祉に尽力した。滋賀県障害児協会名誉理事長。
(京都新聞) - 11月22日22時36分更新

48とはずがたり:2004/12/01(水) 02:52
これは凄いねぇ。こんなの見つかるかもしれんし古本屋巡りでも再開しようかな。

因みに減り方。
富山県成立(M16)2721村→市町村制施行(M22)2市269村─昭和大合併→2003年末(H15)35市町村(9市18町8村)[射水郡大島町,小杉町,下村,大門町, 魚津市, 小矢部市, 上新川郡大山町,大沢野町,黒部市, 下新川郡朝日町,宇奈月町,入善町, 新湊市, 高岡市, 砺波市, 富山市, 中新川郡舟橋村,上市町,立山町, 滑川市, 西礪波郡福光町, 福岡町,婦負郡婦中町,細入村,八尾町,山田村, 東礪波郡城端町,平村,上平村,利賀村,庄川町,井波町,井口村,福野町,氷見市]─平成の大合併(富山・砺波・南砺成立)→2005年度(H17.4.1)21市町村(10市11町村)[射水郡大島町,小杉町,下村,大門町, 魚津市, 小矢部市, 黒部市, 下新川郡朝日町,宇奈月町,入善町, 新湊市, 高岡市, 砺波市, 富山市, 中新川郡舟橋村,上市町,立山町, 滑川市, 南砺市, 西礪波郡福岡町,氷見市]─(更に射水・下新川・高岡が成功したとすると)→13市町村(10市3町村)[射水市, 魚津市, 小矢部市, 黒部市, 高岡市, 砺波市, 富山市, 中新川郡舟橋村,上市町,立山町, 滑川市, 南砺市, 氷見市]

■2700余りの村名・場所記す 明治大合併前の地図見つかる
http://www.kitanippon.co.jp/pub/hensyu/gappei/2003/200310/031030pref01.html

 富山県が誕生した直後の明治18(1885)年に発行された「富山県管内図」が高岡市内で見つかった。同22(1889)年に行われた「明治の大合併」前の2,700余りの村名と場所を明記した地図は他になく、県境や郡境がかなり正確に示されているほか、寺や神社、郵便局なども記号で示してある。県立図書館に一部あるが、一般家庭から発見されたのは初めて。

 「富山県管内図」を所有していたのは、都市環境文化研究所「としけん」会長、石丸昭栄さん(63)=高岡市角。置県120年にちなみ、県公文書館で開かれている特別展「富山県120年のあゆみ」を訪れた石丸さんが、市町村合併の流れを示すパネル展示を見て、これまで集めてきた地図の中に関連する地図があることに気付いた。

 管内図は明治18年5月刊行。銅版刷り縦130センチ、横120センチ、縮尺は約10万分の1。発行元は東京都内で、欄外には「定価四十八銭五厘」と朱印で押してある。

 現在の富山県ができたのは明治16(1883)年5月9日。当時は村が2721あったが、同22年の市町村制施行で、富山、高岡の2市と269の村に合併した。その前に作られた管内図は2,700余りの村名をすべて網羅。大部分は西田地方(富山市)や守山(高岡市)、海老江(新湊市)などと現在も地名として残っている。

 絵地図ではなく、名所旧跡や電信局、港などが記された総合地図としても最も古いとみられ、県内では県立図書館に一部所蔵されているのみ。県公文書館の竹島資料課長は「県が独自に作ったものか、国の政策か分からないが、希少価値は高い」と言う。

 石丸さんは「貴重な地図を後世に残すため大切に保管したい」と話している。

49とはずがたり:2005/02/12(土) 16:28:56
明治期以降の身分制度の自由化と云う面を自分は強調してきたが,江戸期でも伊勢の貧乏人から身を起こすこともできたんですねぇ。

海運・治水に功労、河村瑞賢
http://www.pref.mie.jp/TANBO/BUNKA/mieb0226.htm

 今日は、江戸時代初期に海運・治水に功労のあった三重県出身の豪商・河村瑞賢についてお話しましょう。
 瑞賢は、元和4年(1618)2月、度会郡東宮村http://www.mapion.co.jp/c/f?el=136/32/30.523&scl=70000&size=954,768&uc=1&grp=MapionBB&nl=34/16/47.469(現南島町)に生まれ、13歳のとき江戸に出ました。伝えるところによれば、瑞賢は当初車力をしていましたが、あるとき品川付近の海岸でお盆の精霊送りの瓜や茄子が多数漂流しているのを発見し、この瓜や茄子を集め塩漬にして普請小屋等で売り、かなり利益をあげたということです。その間、役人とも知り合い人夫頭になったりして徐々に資産を増やし、材木屋を営みました。そして、明暦3年(1657)の江戸大火に際しては、木曽の山林を買い占め莫大な資産を築き、彼の名は幕府の重臣にも知られるようになりました。
 また、瑞賢は東廻り・西廻り航路の開拓者として有名です。明暦の大火後、江戸では米不足をきたしており、幕府は奥羽地方の米移入を計画します。しかし、従来の利根川河口の銚子(現千葉県)で川船に積み換え、川をのぼって江戸に運ぶという方法では日数がかかりすぎたりして航路の改良が望まれていました。寛文10年(1670 )の冬、幕府から陸奥の産米輸送の命を受けた瑞賢は、早速現地調査を行い、方策を定めました。すなわち、阿武隈川河口の荒浜(現宮城県)から房総半島に向い、相模の三崎か伊豆の下田に行き、西南風を待って江戸湾に入るという航路です。この方策によって従来よりも輸送日数・費用を大幅に減じることができました。
 次に寛文12年、出羽の産米輸送の命を受けると、瑞賢は日本海を十分調査し、出羽の酒田から日本海を廻って下関・瀬戸内海・紀州沖・遠州灘・下田を経て江戸に入ることとしました。西廻り航路の改良です。堅牢な船・熟練水夫を選び、途中の寄港地を定め、入港税免除や開港の水先案内船の設置なども行いました。さらに、暗礁が多い志摩の菅島付近では菅島の山の中腹に毎夜篝(かがり)火をあげ、船に位置を知らせるようにしたのも瑞賢の構想だと言われています。
 このほか、瑞賢は、淀川河口の治水事業にも当たり、越後の高田藩の中江用水や鉱山開発の指導もしています。このような航路の開拓や治水などの功績により、瑞賢は、晩年旗本に列せられ、禄米150俵を賜っています。なお、瑞賢の出身地・南島町では「ふるさと創生事業」の一環として、この6月16日に河村瑞賢の銅像を立て、この郷土の偉人を顕彰しました。

(平成2年6月 海津裕子)

50とはずがたり:2005/02/12(土) 16:29:22


●河村瑞賢 かわむらずいけん
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E019R100.HTM

 1617〜99(元和3〜元禄12)江戸前期の商人・土木家。幼名を七兵衛。はじめ七兵衛,のちに十右衛門と称した。瑞賢は落髪したときの号で,瑞軒・随軒とも書く。晩年には再び髪を蓄えて平太夫と称した。伊勢国度会郡の貧家に生まれ,13歳で江戸の親戚に養われることになる。成人してやがて幕府の土木工事の人夫頭となった。1657年(明暦3)の明暦の大火(振袖火事)の際に,木曽福島の材木を買い占め,さらに土木・建築を請負い巨利を得た。その後幕府より出羽国の天領租米を江戸へ運ぶ航路の開発を命じられ,阿武隈川を下って河口の荒浜から伊豆の下田などをへて江戸へ入る東回り航路を開発。次いで最上川を下り酒田から海路下関・大坂・下田をへて江戸へ入る西回り航路も開発。これで,今まで陸路1年かかったものが3カ月で回送されることとなった。また淀川治水のため安治川を開くなどした。1698年(元禄11)には150俵の旗本となった。

西回り航路:酒田―小木(佐渡)―福浦(能登国羽咋郡富来町)―柴山(城崎郡香住町)―温泉津(石見銀山市)―赤間関―岡山―大坂

東回り航路:荒浜(陸奥国亘理郡)―平潟(北茨木市:大津港でも小名浜でも無いんだねぇ;北茨城http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1066974699/409-411n。多賀市=北茨城+高萩を。)―那珂湊(勝田+那珂湊)―銚子―小湊(天津+小湊+鴨川)―三崎(三浦市)・下田(伊豆国賀茂郡)―江戸

51とはずがたり:2005/02/12(土) 16:29:38

成る程,こんなもんなんですねぇ。
>年平均大坂−江戸間を4往復の稼動状況であった

菱垣回船・樽回船と一括して覚えてたが,郵政省とヤマト急便ぐらいの違いがあったんですねぇ。

●菱垣廻船 ひがきかいせん
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P063L400.HTM

 江戸時代に大坂-江戸間の海運の主力となり,運賃積を主とした商船で,木綿・油・酒・薬種そのほか江戸の必要とする日用品を輸送した菱垣廻船問屋専属の廻船である。船型は近世海運の主力として登場した弁才船,つまり大和型帆船で,原則的には1本の帆柱と大きな横帆をあげて帆走するのが特色であった。「菱垣」とは,本来船の舷側にある垣立下部の筋を,菱垣つまり菱組の格子としたことに由来している。そして菱垣をつけて一般廻船と区別したのは,江戸十組問屋所属の廻船として幕府をはじめ,諸大名の御公儀公用荷物の輸送にもとめるのが,その特権の内容であった。菱垣廻船は1619年(元和5)に泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を借り受け,大坂より木綿・油・綿・酒・酢・醤油などの日用品を積み込んで江戸に廻送したのが始まりといわれている。この廻船による江戸への商品輸送を皮切りに廻船問屋が発生し,やがて大坂の繁栄につれて,1634年(寛永1)には大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積問屋を開き,つづいて毛馬屋・大津屋・顕屋(あらや)・塩屋が船問屋を開業するにいたり,大坂に菱垣廻船を仕立てる菱垣廻船問屋が成立するのである。ここで廻船問屋というのは,廻船問屋自身の手船仕立ての場合もあるが,多くは紀州や摂州などの船持の廻船を雇い入れ,荷主から積荷の集荷差配をし,廻船仕立の業務を行う海上輸送請負業者であった。この点で,手船に自由に商品を積み入れて商売をする買積型の廻船業者とはその性格を異にしていた。
 その後,大坂の菱垣廻船問屋は大津屋と富田屋が2軒に分かれ,また江戸荷主のなかから小堀屋という廻船問屋が取り立てられ,さらに桑名屋,小松屋の2軒も加わって,廻船問屋の数もしだいに増加した。これらの廻船問屋によって仕立てられた菱垣廻船数は享保年間(1716〜36)には160艘にのぼり,平均500石積前後の廻船で,乗組人数は12〜13人であって,年平均大坂−江戸間を4往復の稼動状況であった。しかし海上輸送がひんぱん化してくるにつれて,船頭・水主が輸送途中で積荷を盗み取ったり,故意に船を沈没させて荷物を抜き取るなどの不正が横行した。そこで船頭・水主・廻船問屋の不正の弊風を一掃するために,江戸問屋商人が結束して1694年(元禄7)に江戸十組問屋を結成した。十組問屋とは塗物店組・内店組・通町組・表店組・薬種店組・河岸組・綿店組・紙店組・釘店組・酒店組の十組をさし,これら主要な下り商品を取り扱う十組問屋商人が連合して組合をつくり,行事・大行事を置いて菱垣廻船の取締りや海難に際しての共同海損の処理などにあたった。

 ところが,1730年(享保15)に酒店組が十組問屋より分離し,以後下り酒は菱垣廻船には積み入れず,酒樽専用船たる樽廻船に積み込むことになった。その理由は,元来酒は腐敗しやすい水物であるため輸送の迅速性がとくに要請されたが,菱垣廻船でのほかの荷物との混載では集荷から艤装出帆までの荷役日数にかなりの日数を要したのに対し,酒樽のみの樽廻船では荷役が簡単で短期間で船を仕立てることができた。それに加えて海難に際して酒荷とほかの菱垣積荷物のあいだで取引形態が異なっており,菱垣廻船の積荷が原則的に江戸十組問屋の仕入れ荷物(注文荷物)であるのに対し,酒荷は荷主たる酒造家の送り荷物(委託荷物)であった。そのため海難にあたっては,菱垣廻船では江戸十組問屋が海損負担者となるのに対し,樽廻船では灘の酒造家が海損負担者となった。この相違から,酒荷については酒造家が樽廻船を仕立てるようになっていった。

 こうして酒店組の十組問屋からの脱退を契機に,酒荷は樽廻船一方積,そのほかの荷物はすべて菱垣廻船一方積という形で,菱垣・樽両廻船の積荷規定が成立した。しかし酒荷は本来下積荷物であるので,上積荷物である菱垣積荷物を樽廻船が洩積(もれずみ)と称して,低運賃で引き受けるようになり,近世後期にかけては絶えず樽廻船が菱垣廻船を圧倒していった。迅速性と安全性に加えて,低運賃をモットーに樽廻船は菱垣廻船を衰退に追いやり,1841年(天保12)の株仲間解散によって「菱垣」としての特権を喪失し,以後菱垣廻船は樽廻船によって凌駕されたのである。

52とはずがたり(1/2):2005/02/12(土) 16:32:23
瀬戸内海の歴史
http://www.uminet.jp/movearound/history.html
(1)海運を中心に展開される瀬戸内海の歴史

 瀬戸内海は古来より、交通の大動脈となっていました。
 縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
 具体的には、古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
 そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。

 天平年間(729〜748)には、行基により、ほぼ一日航程の間隔で、室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。
 律令制においては、貢納物の積み出しは国津に限られていましたが、平安時代になり荘園制が発達するとともに、瀬戸内海航路は公租の運搬や荘園年貢の輸送の動脈として、また、大陸との交易の主要ルートとしてなお一層の繁栄を見ましたが、それに伴って海賊も横行しました。このころの主要な港は、室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、牛窓、児島、敷名、長井浦、風早、熟田津などです。
 平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内海航路を整備しました。清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行ったと伝えられています。
 また、室町幕府は応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配され、遣明船として用いられていたと記されています。
 これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。

53とはずがたり(2/2):2005/02/12(土) 16:32:51
>>52-53
 大阪湾の主な港としては、時代や貨物の種類により変化はありますが、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場などがあげられます。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけですが、その間にはいくつもの町が風待ち港、潮待ち港として発達しました。
 江戸時代になると船の往来はますます頻繁となり、瀬戸内海の海運は黄金期を迎えます。河村瑞賢は、寛文12年(1672)に西廻り航路を開発し、日本海の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津から、下関、大坂、太平洋の志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等を寄港地として整備しました。

 江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場し、それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達しました。この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
 当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。
 江戸時代になると、将軍の代替わりごとに朝鮮から朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10年(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
 さらに、江戸時代には、遠浅海岸や内湾を利用して大規模な新田開発が進められ、そこでは米、麦をはじめ、綿、藺草、菜種油、大豆等の商品作物が盛んに栽培されました。特に、綿作は新しい農村工業としての木綿機業の発達をもたらすとともに、商品経済の発展を促しました。この綿作の肥料となったのが北前船で北海道から海送されたニシンの〆め粕でした。これら産物は、千石船、弁財船によって全国的に運ばれました。大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになりました。

 明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
 一方、都市周辺では、江戸時代の木綿機業の蓄積の上に繊維業を中心とする軽工業が発達し、さらにその後、化学工業、造船業等、海への依存度の高い産業が徐々に勃興して、戦後の臨海部を舞台とする重化学工業化に向けての準備がなされたのです。

54とはずがたり:2005/02/12(土) 17:07:32
>>52
古代:遣唐使及遣新羅使
http://img.0bbs.jp/u/tohazugatali/18_2
(http://0bbs.jp/tohazugatali/)
難波津

武庫浦(淡路島内!?東浦町浦港辺りかね?)

明石浦

藤江浦(西明石付近)

多麻浦(おお,ひょっとして玉野か!)

神島(笠岡市)

長井浦(備後国水調郡(現御調郡)糸崎www.c-haus.or.jp/kaidou/020onomitiitozaki.htm/尾道http://www.joyful.gr.jp/judi/98onomichi/timei.html)

風速浦(安芸国豊田郡安芸津町風早)

長門浦(?)

麻里布浦(おお,港:麻里布,行政都市:岩国)

大島鳴戸(大島郡屋代島)

熊毛浦(周防国熊毛郡田布施か室積あたりか?)

佐婆津(=多分佐波郡今の防府市)

分間浦(下毛)(下毛(しもつみけ)郡分間(わくま)浦:三毛門は豊前国(福岡県)築上郡豊前市・下毛郡(しもげ?)は豊前国(大分県)http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyok15.html)

筑紫館(港那の津・行政都市太宰府)

55とはずがたり:2005/02/12(土) 17:39:28
長井浦(備後国水調郡(現御調郡))

糸崎
http://www.c-haus.or.jp/kaidou/020onomitiitozaki.htm
長井の浦 万葉歌碑
 この糸崎の地は、昔から海上交通の要衝の地で、この一帯は万葉集巻15に見える「備後国水調郡の長井の浦」とされている。

尾道
http://www.joyful.gr.jp/judi/98onomichi/timei.html
尾道
「尾道」の地名の由来は、「山の尾の道」から生まれたというのが定説になっています。現在の本通り以南は埋立地ですから、昔は、大宝山〔たいほうざん〕(千光寺山)、摩尼山〔まにさん〕(西国寺山)、瑠璃山〔るりさん〕(浄土寺山)の各山が海岸に迫り、狭い帯状の土地に山の尾根伝いのかっこうで一筋の通りがあったことからだと思われます。また「尾」は、「川口」のことだという説もあることから、防地川、長江川の川口を結ぶ線が一本ついていたからだとも言う人があります。

別に「伊尾〔いお〕の道」が起源だとも言われます。1166年、世羅郡の甲山町を中心にしてできた「大田庄〔おおたのしょう〕」という荘園で収穫された米、麦の積み出し港が、尾道に指定されましたが、大田庄の中に伊尾(現在三川ダム付近)があることから「伊尾の米の道」だという一説もあります。

また郷土史家の財間八郎氏著「尾道散策」によると、作家司馬遼太郎氏は、港を生命とする尾道だから、「澪〔みお〕の道」即ち船の航路から出たものだろうという新説を立てられている。辞典を引くと澪とは、水のくまという意味で、わが国では、水脈と書いて「みお」と読み、海の船通る水路ということがのっており、「みおの道」から「おの道」となったという説です。

尾道浦・玉の浦

「尾道」の名が正確な文書に表れたのは、平安時代からのことで永保元年(1081)に「尾道浦」(西国寺文書)、仁安3年(1168)に尾道村(高野山文書)等に見られます。また万葉集にある「ぬばたまの夜はあけぬらし玉の浦にあさりするたず(鶴)なきわたるなり」の古歌に出てくる「玉の浦」は、尾道ではないかという説があります。その一例に長江を鶴の首、長いまちをその両翼になぞらえて、尾道水道に「鶴湾〔かくわん〕」という愛称もついています。また県立尾道商業高等学校、県立尾道東高等学校の校章は、鶴をデザインしたものです。

「尾道」「玉の浦」両方の名が、約900年前の西国寺古文書にあり、「尾道」の別名は、「玉の浦」であると説明した最初の記録であるといわれています。

また「玉の浦」起源説に次のようなものもあります。千光寺にある巨岩の頭に、珠玉があって、毎夜海を照らしていたと言います。その岩は、「玉の浦」「烏帽子〔えぼし〕岩」「宝珠岩」「如意岩」などの呼び名をもち、願いごとや伝説を内蔵しているので、玉のある海辺という意味から「玉の浦」という優美な名称がついたという説です。

56とはずがたり:2005/02/12(土) 17:48:32
>>52
古代(奈良・平安期等)瀬戸内航路
http://img.0bbs.jp/u/tohazugatali/18_3
(http://0bbs.jp/tohazugatali/)

伝行基開の5泊
室生泊(兵庫県御津町室津)、韓泊(姫路市的形福泊)、魚住泊(明石市魚住町)、大輪田泊(福原),河尻泊(尼崎)の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。

http://www.tabiken.com/history/doc/C/C212L100.HTM
●大輪田泊 おおわだのとまり
播磨国の「木聖」生泊(ムロフノトマリ:今の室津港)・韓泊(未詳・福泊に比定)・魚住泊,摂津国の淀川尻の河尻泊とともに「五泊」の一つに数えられ古来の要津。

http://www.himeji.kkr.mlit.go.jp/outline/coast/about/his.html
845
東播海岸の歴史

承和12年 明石の浜に初めて「舟」と「渡し守」が常設
東播海岸には、魚住泊(明石市魚住)、韓泊(姫路市的形福泊)、蟶生泊(揖保郡御津町室津)の3つの泊があった。ちなみに魚住泊〜韓泊は21キロ、韓泊〜蟶生泊は22キロの行程。これは僧・行基が1日の航程を測って決めたという。

室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻…以上5泊
方上(片上)…誰だ備前市なんかにしやがったのは。http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1066974699/675
那ノ津(福岡)
牛窓(邑久郡牛窓町→瀬戸内市)
児島
敷名 (沼隈郡沼隈町)http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/9800/siki.htm
長井浦>>53
風早
熟田津…こりゃもう文句無しに「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0008.htmlを思い出して嬉しくなって欲しいところだが,あれは皇道教化教育だったのか!?(゚Д゚;)ハッ。因みに今の「松山市内。詳細地は諸説あって不明http://blog.livedoor.jp/beni72/archives/12678419.html」とのこと。

室津?(帯方郡使、上陸地点)
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/10/murotu/murotu.htm
播磨国揖保郡浦上觶
 「御津(岩見)、息長帯日売命、御船を宿(は)てたまいし泊(とまり)。故に御津と号す。」
 「室原泊(室津)、室と号すゆえは、この泊、風を防ぐこと室の如し、故、よって名と為す。」という記述が播磨国風土記にあり、古代から利用された錨地です。

57とはずがたり:2005/02/12(土) 18:03:45
>>52

日宋貿易 平安時代末期 平清盛

瀬戸内海航路を整備
福原京遷都
大輪田泊に経ケ島を築く
牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備
音戸の瀬戸の開削

日明貿易 室町時代 足利幕府

応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。
「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が
門司、
富田(周防富田→新南陽→周南市)、
上関(原発立地に揺れる。熊毛郡。>>54の熊毛浦とは上関のことか?)、
深溝(山口県吉敷郡現山口市の深溝か?)、
揚井(柳井)、
尾道、
鞆、
田島(沼隈郡内海町田島か)、
院島(因島)、
牛窓
に配され、遣明船として用いられていた。

これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
今に至るまで瀬戸内を挟んで山陽本線と予讃本線の格差に現れているなぁ。。
古代に於いても山陽側が選ばれたのは寄港地に恵まれたと云う事か。観音寺から今治まで内側に湾曲してるし遠回り?

58とはずがたり:2005/02/12(土) 18:55:55
>>53
近世瀬戸内航路
http://img.0bbs.jp/u/tohazugatali/18_4
(http://0bbs.jp/tohazugatali/)

大坂付近
難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場(http://www2u.biglobe.ne.jp/~nfuji/noda1.html西江之子島は阿波座の近く)

室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け

下関

江戸時代…経済が発展し輸送力も増大。船も巨大化し沖乗り航路が発達。北前船など

大坂―兵庫―高砂―飾磨―室津―大多府(和気郡日生町http://www.town.hinase.okayama.jp/guide/ohtabu/guide_ohtabu.html)―牛窓―下津井―鞆浦―田島>>57(地乗り航路と沖乗り航路に岐れる)
(地乗り航路)田島―尾道―竹原―三ノ瀬(安芸郡下蒲刈町三之瀬)―津和地
(沖乗り航路)田島―弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗―津和地
津和地(伊予国温泉郡中島町津和地島)―上関―室積=三田尻(=防府。三田尻の名前が出るのは遅めなんだな。。)―下関

>>52-58
<講評>
上関の地位が高いのが解る。下関が赤間関の名前を放棄したのも上関との対でという構図があったのか?

牛窓・鞆・室津など寂れちゃったねぇ。風速が風早としてJR呉線の名前にも残ってるなど一寸感動であるが。今の中山間地みたいにこれらの寂れた港町がカネ出せとがーがー云わないのは敬服に値するが,寂れたのが中山間地の高度成長期以降に較べ明治以降と早かった為であろう。

麻里布なんてもっと重用されて良い地名だと思うのだが麻里布製油所ぐらいだもんな。西岩国駅を岩国駅に戻して岩国駅を麻里布に戻そう!
他に八戸→知内・東能代→機織・倉吉→上井か。
防府→三田尻,清水→江尻,静岡→駿府,大分→府内とか
漢字の遣い方だと
池鯉鮒(知立)がまず浮かぶ。懸河→掛川とか?

59とはずがたり:2005/02/25(金) 01:03:42
今じゃ北茨城市の一部となって余り顕れないけど平潟村(>>50東廻り航路の寄港地)は地域の中心地だったんですねぇ。

村役人
http://www3.zero.ad.jp/takeishi/murayakunin.html

平潟村には、江戸時代後期には庄屋3名、組頭7名の村役人が置かれた。庄屋の主な仕事は、治安対策、農民間の公事訴訟の処理、治水灌漑などの土木工事の指導など広く民政を担当したが、最も重要な任務は年貢上納の督励である。村役人は江戸初期の頃は名主と呼ばれており、元禄6年(1693)の「内藤氏分限帳」でも平潟村の郷中名主として「拾石 平形村 主水」の名が記載されている。庄屋の名称に変更されるのは18世紀初めである。平潟村には、全村を支配する庄屋の外に、漁民の統率や港湾の管理中心の任務担当役職である船庄屋も置かれた。
庄屋の下にあってこれを補佐して村政と事務を担当し、さらに村民の非違を監督する役職が組頭である。組頭の名称は、村内をいくつかの組に分割し、その地域内の最高責任者となったことから付けられたものである。平潟村では石高500前後であったが、7人の組頭がいた。ちなみに、900石近い神岡下では5人、水戸藩領の大津村では4人であった。組頭の下で使い走りや雑用する係として「小走り」が置かれた。興味深いのは、天保7年(1836)の平方村差出帳によれば、庄屋の給金4両1歩2朱20石引き、庄屋の給金1両2歩2朱10石引きに対し、小走りの給金は2両2歩である。小走りが組頭より現金収入だけをみれば高給取りであったことである。これは小走りが庄屋や組頭のように商人や地主層出身ではなかったためであろうか。幕末期には「肝煎」という特殊な役人も置かれた。
また、幕府が文化2年(1805)の関東取締出役(八州廻り)の創設そして関東取締出役の職務機能の徹底のために出された文政10年(1827)の「御取締筋御改革」の触により、水戸藩を除く関東諸州の村々は「改革組合村」に編成された。組合村は、水戸領を除いて、天領、私領の区別無く、地理的な便宜にしたがって3から6ケ村を小組合、小組合を10組前後まとめて大組合に組織された。そして、小組合には小惣代、大組合には大惣代を置き、中心の村を「寄場」と称し、村役人から関東取締出役に直結した寄場役人を任命している。北茨城地方においては、水戸領を除く20村が大組合を組織し、平潟村が寄場となった。安政6年(1859)の記録では、小惣代に八反村久内、神岡下村寿左衛門、福田村善左衛門、中妻村処平、臼場村甚平とあり、大惣代には平潟村長兵衛及び鈴木主水が任命されている。

60とはずがたり:2005/03/14(月) 14:06:00
近江聖人・中江藤樹。江戸期の思想史は苦手だったのでちゃんと覚えなかったが性善説の人だったんですねぇ。陽明学派で門人が熊沢蕃山(『大学或問』)か。そもそも「性善説」は孟子で「性悪説」が荀子だったな。
日本の学問が輸入もんってのは昔から変わらないねぇ。日本は物作りには長けていても学問の創造は苦手か。
陽明学は現実を批判して知行合一の立場をとって幕府に警戒された,か。大塩平八郎なんかもこれだねぇ。

性善説、静かなブーム 中江藤樹 安らぎと自信与える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050313-00000018-kyt-l25

 近江聖人と称された儒学者・中江藤樹(1608−48)がいま、注目を集めている。武士を捨て儒学者として、「人は誰もが生まれながらにして美しい心を持つ」と説いた藤樹。現代の殺伐とした世情の中で、没後約350年を経た「藤樹ブーム」の実情と背景を探った。
 藤樹は小川村(現高島市安曇川町)の農家に生まれ、武士の祖父のもとで儒学を学んだ。大洲藩の郡奉行まで務めたが、脱藩。母親の住む村で私塾「藤樹書院」を開き、良心を磨き続ける「致良知」、他者への顔つきや言葉遣いなど心の「五事を正す」教えを武士や農民に説いて慕われた。
 財団法人藤樹書院によると、年間約7000人が訪れる藤樹書院には近年、若者の来訪が目立つという。2月から販売する藤樹の生涯を描いた映画「近江聖人中江藤樹」のビデオとDVDの注文が県内外から相次ぎ、わずか1カ月で約3100本が売れ、取り扱う市は反響の大きさに驚いている。
 その映画を見た静岡県伊東市の会社役員白鳥宏明さん(44)は「母親を案じ、地位と名誉を捨てた純真さに心が洗われる」と話す。「五事を正し、子どもと接すれば、親の気持ちが伝わる」と言うのは、高島市安曇川町青柳の看板製造業渕田泰士さん(35)で、子育てで実践しているという。
 ブームについて、藤樹の思想に詳しい吉田公平東洋大大学院教授(中国哲学)は「人の本性を善とする藤樹の教えが厳しい競争社会を生きる人たちに、安らぎと自信を与えている」と分析する。
 一方で「藤樹に関心があるのは主に年配者で、若者の反応は、まだまだ鈍い」という指摘もある。地元の女子中学生も「習ったけれど興味がない」と話すなど無関心な声も多く聞かれた。
 3月7日、藤樹が学問を志した年齢と同じ小学3年を対象に、恒例の「立志祭」が高島市安曇川町で行われた。児童らは「獣医さんになって動物の命を救いたい」「人を楽しませる芸人になりたい」などと書いた作文を書院に納め、夢の実現に向けて努力を重ねると誓った。この純真な心をはぐくむ必要性を、藤樹は今の世に問いかけていると感じた。
(京都新聞) - 3月13日16時5分更新

61とはずがたり:2005/03/21(月) 02:46:44
何となく淋しいですねぇ>宗門の民主化

「お東紛争」最終決着 大谷光道氏、3月末に門首邸退去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050320-00000005-kyt-l26

 真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の故大谷光暢前門首の四男光道氏(60)が、長年にわたって使用していた境内の門首邸(内事部)を今月末、退去する。400年前の東本願寺の創建以来、同派の頂点に立ってきた大谷家の唯一の遺産相続者が本山を去ることで、大谷家と宗派側が対立してきた「お東紛争」は最終の節目を迎える。宗派は「6年後の親鸞聖人の750回御遠忌前に解決してよかった」と静かに受け止めるが、僧侶や門信徒からは「紛争が残したものは何だったのか」と問い直す声も聞かれる。
 東本願寺境内西側に、「内事部」と呼ばれる建物がある。大正期の建築で、広さは延べ約4000平方メートル、部屋数は50を超す。光暢前門首の三男暢顕現門首(74)の公邸として一部を使うほかは、大半を光道氏が使用。独自の寺務所を構え、法事などを営んできた。
 宗派と大谷家が対立した「お東紛争」で、光暢前門首の秘書役だった光道氏は1982年に門首継承権のある「連枝(れんし)」を解かれた。さらに光暢前門首が93年に死亡し、宗派側は2000年、「光道氏は宗派と無関係」として内事部と、聖護院別邸(左京区)の明け渡しを求めて提訴した。
 昨年7月、大阪高裁で▽光道氏は3月末までに内事部を、5月末までに聖護院別邸を明け渡す▽大谷派は解決金2000万円を支払う−の条件で両者の和解が成立した。
 ■「言葉にしがたい」
 光道氏は、今夏にも右京区に購入した土地に寺務所を移転する計画だ。寺宝のうち最高裁で大谷家の帰属が認められた蓮如上人の御影(肖像画)など300点以上は、きょうだいが相続放棄しているため、光道氏が所有しており、今月末の内事部の明け渡しに伴い、本山から運び出される。
 光道氏は退去を前に、「言葉にしがたい感慨がある」と話し、宗派側は今後の内事部の使用について「長い間、立ち入れなかったので、まずは掃除と修繕をして、後は未定」という。
 自ら「大谷家25代当主」を名乗り、遺産相続者でもある光道氏が東本願寺を去ることは、複雑にからみあう形で争いが繰り返された「お東紛争」の一つの決着点でもある。同派の僧侶や門信徒はどう受け止めているのか。
 ■もう遠い昔の話
 境内で参拝者に聞くと「紛争は遠い昔の話。特に感慨はない」という声が大半だったが、甲賀市の男性(71)は「大谷家を『生き仏』とあがめるゆがんだ信仰の形はなくなったが、長い争いで得たものがそれだけだとしたら悲しい」と話した。
 紛争の背景には、宗祖親鸞の血脈を引き、「宗門天皇」と呼ばれて君臨した光暢前門首(当時法主)ら大谷家と、宗政の民主化を目指す内局との間で激しい対立があった。曲折の末、宗憲(宗派の憲法)が改正され、96年に暢顕氏が象徴的な「門首」に就き、ひとまず紛争は終息した。
 「紛争中は教団への不信をぬぐい去るため、積極的な布教の取り組みも目立ったが、そんな情熱は薄れている」と50代の宗会議員は話す。あるベテラン職員は「紛争最中の宗務総長が『宗門に危機感が失われたときに本当の危機はやってくる』と言ったが、その言葉を今こそかみしめたい」と話した。
 ■お東紛争
 真宗大谷派で約20年にわたり続いた。1969年、大谷光暢前門首(当時法主、故人)が宗務行政を担う内局に無断で管長職を長男光紹氏(故人)に譲ると宣言したのを発端に、内局と大谷家が対立。国の名称・枳殼(きこく)邸の所有権移転や大谷家の手形乱発をめぐり、訴訟合戦になった。80年、光暢氏らの7億円超の借財を内局が肩代わりし、光暢氏が代表権を返上することを条件に和解。96年には本願寺維持財団の運営をめぐり、光暢前門首二男の暢順・財団理事長らが宗派を離脱した。
(京都新聞) - 3月20日8時52分更新

62とはずがたり:2005/03/21(月) 02:49:29
「お東」400年、故地に別れ 25代当主・光道氏、今月末退去
http://www.mainichi-msn.co.jp/kansai/photojournal/news/20050314org00m040115000c.html

 ◇お宝、トラック十数台

 真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の故大谷光暢・前門首の四男で大谷家25代当主、光道氏(60)が13日、四半世紀ぶりとなる大谷祖廟(そびょう)(同市東山区)の歴代門首墓参を果たした。光道氏は今月末で境内の門首邸(内事)を引き払う。唯一の遺産相続者が寺地から退去するのは、約400年前に本願寺が東西分立して以来初めて。宗派(内局)側と大谷家が対立してきた「お東紛争」最終局面の大きな節目。皇室とも近い大谷家が多数所蔵する宗教上の法宝物(寺宝)や価値の高い美術品の今後の動向にも目が離せない。【丹野恒一、岸桂子、太田裕之】

 部屋数が50以上もある広大な門首邸は、光暢氏の三男、暢顕門首(74)が使用する以外の大半は聖護院別邸(同市左京区)に住む光道氏が事実上管理し一部を寺務所に使ってきた。同派は00年「(光道氏は)宗派と無関係」などと門首邸と別邸の明け渡しを求め提訴。昨年7月、宗派側が解決金2000万円を光道氏に支払う▽光道氏は門首邸を3月末、別邸を5月末に退去−−の条件で和解した。

 光道氏は同市右京区に取得した土地約1800平方メートルに本堂と寺務所などを近く着工する。「住まい(庫裏(くり))が出来れば寺務所機能を移転する」という。

 寺宝を巡っては法廷で400点余の所有権が争われ、宗祖親鸞直筆の国宝「教行信証」(坂東本)など約30件は宗派側、江戸期以来の行事「蓮如上人御影道中」に欠かせない蓮如の肖像画など残りは大谷家側の帰属と最高裁が認定した。光道氏によれば運び出す量は4トントラック十数台分で「しばらく知人宅や倉庫などに保管する」という。

 最高裁が認めた参拝に光道氏は「移転と墓参が同じような時期になったのは不思議なご縁」と感慨深げ。また、寺宝については、「母(香淳皇后の妹、故智子さん)の輿(こし)入れ道具や宗教的な貴重品を手放す考えはない」と話した。

 大阪市の古美術商の男性(55)は「由緒ある家の所蔵品の総引っ越し自体極めて異例。大谷家の所蔵品を欲しい人はいくらでもいる。売るなら全国の古物商で入札会を開く価値がある。(旧家などが所蔵品を一括売却する)売り立ては昭和初期が最後。実現すれば平成の売り立てになる」と強い関心を示している。

 光道氏は27日にゆかりの人とお別れパーティーを催し、31日に「出発式」をして退去する。

………………………………………………………………………………………………………
 ◇大谷家側の主な法宝物
■蓮如上人御影
■唯信鈔断簡(十一行)
■愚禿鈔
■親鸞御書写
■徳川家康消息
■寿老人(円山応挙筆)

 ◇真宗大谷派所有の主な法宝物
■教行信証(坂東本)=国宝
■本願寺聖人伝絵(康永本)
■本願寺聖人親鸞伝絵(弘願本)
■一念多念文意
■蓮如上人一期記
■親鸞聖人御消息
………………………………………………………………………………………………………
 ■ことば
 ◇お東紛争 真宗大谷派の故大谷光暢法主が1969年、管長職を長男に譲ると宣言、宗門の近代化を目指す内局と大谷家側が対立。法主名義の不渡り手形や枳殻(きこく)邸の所有権移転などを巡り訴訟合戦となった。80年に宗派・本山の代表権を宗務総長に移し、大谷家側の債務を内局が持つことで和解。法主は象徴的な門首となり、内局が宗派・本山を実質的に管理運営することになった。寺宝の所有権を巡っても84年から双方が争い、99年10月に判決が確定した。
 2005年3月14日

63片言丸 </b><font color=#FF0000>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/03/22(火) 21:14:34
>>61-62
知ってることを箇条書きで。
・光道氏って昔は暢道って名前でしたね。
・真宗大谷派は「浄土」つかないんですよね。
・東京の浄土真宗東本願寺派はまた別なんですね。

東京のほうでお東紛争もう少し残りそうですね。

64とはずがたり:2005/05/03(火) 23:26:26

越後屋の伝統がねぇ。淋しいですねぇ。。
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=135/30/35.422&amp;scl=10000&amp;size=954,768&amp;uc=1&amp;grp=MapionBB&amp;nl=34/41/09.463

315年の歴史に幕 三越大阪店が5日閉店 (共同通信)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/business/department.html?d=03kyodo2005050301001084&amp;cat=38&amp;typ=t

 三越大阪店(大阪市中央区)が5日、315年の歴史に幕を閉じる。JR大阪駅周辺とミナミの繁華街に挟まれて客足を奪われ、阪神大震災の被害もあって閉鎖を余儀なくされた。3日は、閉店を惜しむ人が詰め掛け、入場制限するほどのにぎわいとなった。

 大阪店は江戸時代の1691(元禄4)年、呉服店「越後屋」の出店として開業。その後、周辺は大阪証券取引所と証券会社が集まる「証券の街」として発展した。戦後、売り場の一部が米軍に接収されたこともある。

 繁華街から離れている上、阪神大震災の被害を受けて売り場面積が大幅に縮小した。2002年に全面改装したが、売り上げ低迷が続いていた。

 建物は取り壊され、跡地には分譲マンションが建設される予定。

[ 2005年5月3日15時9分 ]

65みず:2005/05/31(火) 19:31:47
>>55
玉の浦は現在の岡山県倉敷市玉島付近であるというのが万葉学者の定説であるが??

66とはずがたり:2005/05/31(火) 19:37:20
>>65
ご指摘感謝。そうなんですか?
玉野市も宇野と玉の合併で玉野みたいですが,ここでもないんですねぇ。

67みず:2005/05/31(火) 19:38:48
>>66
玉島には文化センターに玉の浦を歌った歌の碑が立ってますよ??

68とはずがたり:2005/05/31(火) 19:58:45
なるほど。

http://www.google.com/search?q=%E7%8E%89%E3%81%AE%E6%B5%A6+%E7%8E%89%E5%B3%B6&amp;sourceid=opera&amp;num=0&amp;ie=utf-8&amp;oe=utf-8

>玉の浦が玉島の未だ浅海に浮かぶ島々であった当時のこのあたりを指すことは万葉学者の定説である。玉の浦が変じて陸地玉島になったのは備中松山藩主水谷氏の干拓事業によるもので,万治二年(一六五九)完成の玉島新田,寛文十年(一六七〇)完成の阿賀崎がそれである。

という感じですな。

69とはずがたり:2005/05/31(火) 20:02:38
一方で尾道も玉の浦と呼ばれても居たようですね。

http://www.google.com/search?q=%E7%8E%89%E3%81%AE%E6%B5%A6+%E5%B0%BE%E9%81%93&amp;sourceid=opera&amp;num=0&amp;ie=utf-8&amp;oe=utf-8

ただ地理的には>>54の多麻浦は今の玉島なんでしょうね。有り難うございました。

70みず:2005/05/31(火) 20:20:11
あの歌の玉の浦は玉島のようですが、玉の浦は他にもたくさんあるようです。
古語辞典には和歌山県のとある地が玉の浦であるっと書いてありました。
他の歌の話ですが。

http://www.tamatele.ne.jp/~mizukawa-y/the.tamashima.index.htm

71とはずがたり:2005/05/31(火) 20:46:58
おお,倉敷というか玉島の方ですか。あの辺は阪神ファンが強いんですかな?
また地元情報などありましたら(橋竜ネタとか)お教え下さい。

72みず:2005/05/31(火) 20:48:36
>>71
ハイ玉島人ですw
阪神ファン多いですな。w因みにσ(・_・)も阪神ファンw
地元情報、またお教えしますね☆

73とはずがたり:2005/05/31(火) 21:31:08
>>72
ええ,ホムペ見せていただきましたよ>因みにσ(・_・)も阪神ファン
知り合いに倉敷人二人程いますが,片方が阪神ファンでもう片方がピアノ好きですw
またなにかありましたら宜しく。

74みず:2005/06/18(土) 11:10:26
どうも、こんにちは。
あの後、別のサイトで玉の浦について聞いてみたところ、『瀬戸内の万葉』っという本を紹介されたので、
図書館で借りて読んでみました。
その内容をσ(・_・)のホームページのコラムページに掲載しましたのでお知らせします〜。
それにしても、、尾道のほうでは、玉の浦は尾道だ!!!っと信じきっているようですねぇ〜
尾道説はありえないのにぃ・・・。お菓子まで出してるそうじゃないですかwww
http://www.tamatele.ne.jp/~mizukawa-y/the.tamashima.index.htm

75とはずがたり:2005/06/18(土) 13:15:39
こんちわ〜す。
また読ませて頂きますね。

>>55の位置関係でも明らかにこの「多麻浦」は尾道ではありませんしね〜。
可能性としては名前が同じだったということですが,こんなに近くに似た名前ってのもわかりにくいですしねぇ。

伝統ある玉島の名前が倉敷に包摂されてしまっている現状は少々惜しい気がします。
倉敷や水島と対等な地名としてもっと重視されても良いような気が。
玉島駅が新幹線の開通とともに新倉敷駅になってしまったのが勿体ない気がします。

76とはずがたり(1/2):2006/02/06(月) 23:43:36
堂島帳合米(江戸期先物)市場分析の
  金融工学アプローチ
http://www.sfc.keio.ac.jp/sfc-forum/forumnews/news68/forumnews68-2.html

小暮 厚之
慶應義塾大学総合政策学部教授

世界で初めて「先物市場」を構築した国――それは日本だった。今を遡ること300年、江戸期の大坂堂島米会所では、米の現物と先物が自由に売買されていたのだ。ここには、高度に発達した情報伝達手段と組織化された決済手段があった。今日に残された日次のデータをもとに、金融工学的なアプローチによってこの帳合米市場(先物取引市場)を解き明かそうという研究が進められている。

世界で最初の先物マーケット

昨年来、巨大な地震や津波が相次いで発生し、未曾有の被害をもたらしたが、天災や有事の際、リスクが複雑かつ巨大化した現代社会は、例えば通貨危機などのようなシステミック・リスクにもさらされている。伝統的な保険リスクの数理解析、いわゆる保険数理学では十分にカバーできなくなっている。人間の生存に対する脅威(リスク)を取り除くために、保険と保証の分析による新しい研究方法および分析手法の構築が求められている。
我々は、大江守之教授をリーダーとするSFC21世紀COEプログラム「日本・アジアにおける総合政策学先導拠点―ヒューマン・セキュリティの基盤研究を通して」の「金融工学による保険・保証の分析」グループとして、いくつかの研究プロジェクトを実施しているが、本日はその一つである「堂島帳合米の実証研究―大江戸金融工学」の研究成果と今後の見通しを紹介したい。
「帳簿上で合う」を語源とする「帳合米」とは、先物の米のことだ。日本ではあまり知られていないが、300年前の江戸期、大坂の堂島には世界で最初の先物取引市場が成立していた。しかも、今の市場に遜色ない伝達手段と決済手段を持ち、幕府の統制下に置かれることなく自主運用していたのだ。この米会所が残した1834年から1864年までのデータを分析することで、当時の経済現象を細部まで理解しようというクリオメトリックス(計量経済史)を実践できると考えた。。
先物マーケットは、現物の価格変動リスクを回避(ヘッジ)することを主な目的として成り立っているが、そのヘッジ機能が本当に働いていたのかを江戸期のデータを用いて解明するのがこの研究の主な目的である。

デイトレードだった江戸期の先物

大坂の堂島米会所は、1730(享保15)年、8代将軍・吉宗のときに公認された。現物(正米)市場と先物(帳合米)市場があり、両市場間で非常に活発に取引されていたようだ。。
当時は、余った年貢米をお金に換えようと各藩が米を大坂に運んできた。蔵屋敷に運びこまれた米は、入札によって買い手が決まっていく。小売に回る米以外は、現物ではなく購入した証拠として「米切手」を渡された。つまり米という商品。
一方、これとは別に「建物米」という指標銘柄を指定し、これを対象とした先物取引も行われていた。 堂島には当時およそ1000人の先物トレーダーがいたとされている。各々が顧客を仮に10人ずつ抱えていたら1万人が取引していたことになる。しかも、毎日決済するデイトレードだったので、一夜にして大儲けしたり大損したりと、さぞや熱気があっただろう。。
帳合米市場には、投資家として町人のような一般人も参加していたが、米の売り手である藩は参加しなかった。藩は米切手を発行することで実際の米の入荷を待たずに銀を入手することができた。「現物を保持する諸藩がリスクをヘッジするために堂島の帳合米市場が生まれた」との従来の説は誤りのようである。
年間取引日は250日。相場は春、夏、秋と3回開かれ、満期も3回設定されていた。現代ならば「乗り換え(ロールオーバー)」が可能だが、当時はすべて清算しなければならなかった。信用リスクを考慮したゆえの制度だろう。

77とはずがたり(2/2):2006/02/06(月) 23:44:16
>>76-77

堂島の1日は、まず帳合米取引が午前8時に始まる。午前10時時点の帳合米の値を参考に、正米の寄付値段が決定し取引が始まる。正米取引は正午に終了するが、帳合米取引は継続し、午後2時に終わる。終了時刻がずれているのは、正米では処理しきれなかった情報を帳合米で調整していたためと考えられる。
また、帳合米取引が終了する午後2時に三寸ほどの火縄に火をつけ、燃え尽きる間に取引が行われなければその日の取引はすべてなかったことにする「立用(るいよう)」という制度があった。天災などなんらかの理由で市場が混乱した場合、取引はなかなか成立しない。特殊な状況下のプライスをご破算にすることで公平性を保持し、マーケットの決済システムとヘッジ機能を担保していたようだ。

広島まで40分――旗振りで米価伝達

日本最大の米市場である堂島の米価は全国に速報されていた。和歌山までは3分、京都で4分、岡山は15分、広島に至っては40分で伝わったという。江戸までは8時間かかったが、箱根の山越えには飛脚を使っていたためだ。当時としては驚くべき速度である。
これほど速く情報が伝わったのは、旗振りで伝達されていたからだ。目で見て伝えるのだから、飛脚より断然速い。中継地点は約1㎞ごとに設置され、蜘蛛の巣(ウェブ)のようにネットワークを張りめぐらせていた。
のちに望遠鏡などで覗いて「ノミ行為」をする輩も出現したため、旗振りも暗号化されていたとの記録が残っている。

個々に対応したリスク&リターン

堂島の米価については、正米は毎日の終値、帳合米は寄付値(始値)と桶伏し値(終値)の記録が現存する。当時の金銀通貨の交換比率も明らかで、これらを用いてクリオメトリックスを実践すると思いがけない事実が判明した。現代のマーケットは政治や社会の変動と無関係ではいられないが、当時はそうではなかったのだ。ペリーが来航した1853(嘉永6)年の夏相場でさえ、米価は大きく変わらなかった。一方、台風や洪水、飢饉などの天災はかなりの影響があったことがわかった。
残された堂島の取引価格データを利用してその当時の社会情勢と市場の動きを日次単位で比べる。堂島でヘッジは本当に行われていたのか、行われていたのならどのように市場を安定させていたのか、そこには最適なヘッジ比率というものがあったのか否か――。それは現代にも通じる理論となる可能性がある。
先物と現物では性質はかなり異なるが、基本的に先物は現物の将来価格だ。相関性は非常に強い。現物を持っている人が先物を買っても、同じものを買っているだけなのでリスクは下がらない。けれども先物を売れば、現物の価格が上がったとき、下がったとき、それぞれ逆の動きをする。先物をポートフォリオに入れるということは、そういう意味でのリスクヘッジとなるのだ。商品を増やせば現物と先物のポートフォリオのパターンが増える。それによって、個々人のリスクとリターンの要望をかなえることが可能となる。
ファイナンスは、突き詰めていえばリスクとリターンの関係だ。これまではリターンにのみ目が向きがちだったが、リスクのグローバル化さえ進む現代では、リスクを回避するヘッジ機能が従来以上に大切である。今後も堂島帳合米市場をさらに詳細に調べ、マーケットによってヘッジ機能がいかに担保されるか追究していく。

小暮 厚之 Atsuyuki Kogure
こぐれ・あつゆき 慶應義塾大学総合政策学部教授。1977年東北大学経済学部卒。86年イエール大学統計学部Ph.D.取得。千葉大学などを経て現職。日本銀行金融研究所国内客員研究員を兼職。

78とはずがたり:2006/02/22(水) 19:52:23
<東北・甲信>青森県・岩手県・山梨県

身延近辺は南部藩が領有してたのか?!

「平成・南部藩」を創設 岩手・青森・山梨の9市町が宣言
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060217-00000002-khk-toh

 岩手、青森、山梨3県にある南部藩ゆかりの9自治体の「南部首長会議」が16日、岩手県遠野市のあえりあ遠野で開かれた。ホームページ(HP)上でバーチャル(仮想)の合併自治体「平成・南部藩」を創設することを宣言、「南部藩同盟」の結びつきを一層強化し、交流を深めることを決めた。

 「平成・南部藩」は新年度の早い時期に立ち上げる。専用HPで首長会議を構成する9市町の合併を宣言し、それぞれの歴史や文化、交流事業、観光地などを紹介する。

 併せて、新年度から各首長が他の自治体に出向いて「1日首長」を務める「国替え」を実施。会議開催地のイベントに翌年の開催予定地の市民らが参加する「参勤交代」も行う。首長会議の内容も、従来の首長のみの意見交換から、「子どもサミット」「地域づくり成果報告会」なども加えて話題性を高める。

 9自治体は首長会議にちなみ、交流行事としてシンポジウムや観光物産展、少年少女剣道大会などを開催。大規模災害時の相互応援協定も締結した。しかし、初開催から20年以上が経過して会議やイベントの内容がマンネリ化。「合併が進み、地域間の連携がより大事となった時期に会議をさらに交流を広げる場としていきたい」(本田敏秋遠野市長)として、新しい事業を打ち出すことにした。

 会議では、「平成・南部藩」の創設を宣言した後、首長や代理9人で握手し結束を確かめた。続く懇談会で、自治体の代表が自分たちの市町を紹介し、交流を深めた。

[南部首長会議] 1984年に八戸市で初開催。構成メンバーは岩手県が盛岡、遠野、二戸の3市、青森県が八戸市と南部、三戸、七戸の1市3町。山梨県が南部、身延の2町。年1回持ち回りで開催している。次回は山梨県2町で共同開催の予定。

(河北新報) - 2月17日7時5分更新

79とはずがたり:2006/03/08(水) 13:25:38

へぇ〜>大館八景は江戸・宝暦12(1762)年、文人たちが中国の瀟湘(しょうしょう)八景にならって選んだのが始まり。

「平成の大館八景」決定/新市の魅力をアピール
http://www.sakigake.jp/servlet/SKNEWS.News.kiji?InputKIJICODE=20060308c

 秋田魁新報社と大館市、大館市教育委員会が選定を進めていた「平成の大館八景」が7日、決定した。

 新たに決まった八景は「大館樹海ドーム」「長走風穴と高山植物群落」「鳳凰山の大文字焼き」「白鳥と渓流の長木川」「大館駅前ハチ公銅像」「矢立天然秋田杉」「田代岳・五色の滝」「達子森」。県内外から寄せられた投票を基に、小畑元市長や仲澤鋭蔵教育長に、市民代表の荒谷皓・同市中央図書館後援会長らも加わって協議、選定した。

 はがき、インターネット、携帯サイトを合わせた投票数は5554票。八景以外では「浄応寺しだれ桜」「桂城公園」「北鹿ハリスト正教会聖堂」「石田ローズガーデン」などへの投票が多かった。

 大館八景は江戸・宝暦12(1762)年、文人たちが中国の瀟湘(しょうしょう)八景にならって選んだのが始まり。明治、昭和初期にも選定されている。

 「平成の八景」選定は大館市と比内、田代両町が合併したのを機に、あらためて新大館市の魅力を掘り起こし、活力ある街づくりに役立ててもらうのが狙い。昨年11月から2月末まで投票を募った。

 秋田魁新報社と市、市教委は新八景が決まったのを記念し、新八景と江戸、明治などの八景を組み合わせたコースを巡る「八景ウオーク」を4月23日に実施する。

(2006/03/08 08:53)

80とはずがたり:2006/03/28(火) 10:34:14
商家で発見「黒石藩日記」 実は個人のもの
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2006/03/20060325t25017.htm

 青森県黒石市教委は24日、国の重要文化財「高橋家住宅」(黒石市中町)の古文書調査で、昨年7月に見つかった19世紀の日記が、当初考えられた「黒石藩日記」ではなく、藩士個人の日記だったと発表した。

 市教委によると、日記は1807(文化4)―33(天保4)年に書かれた。
 黒石藩が弘前藩の支藩となった前後に当たり、藩政にかかわる出来事が詳述されていたため、当初は藩日記と判断した。しかし、「妻が出産した」などの個人的な記述が含まれていたことが分かった。

 著者は、日記に出てくる家族関係などから、藩の記録などを担当した今田熊次郎という黒石藩士とみられる。江戸藩邸日記を引用した文体や、公的日記にふさわしい上質な紙でつづられているため、古文書解読の専門家も勘違いしたようだ。

 黒石藩日記は、廃藩置県のころに散逸し、現存しない。そのため、発見当時は貴重な郷土史料と期待された。調査を担当した黒石市の篠村正雄教育委員長は「お騒がせして申し訳なかった。藩日記でなく残念だが、当時の弘前と黒石の関係などが分かる貴重な史料には変わりない」と話している。

 高橋家は江戸期の趣を残す商家で、市教委は昨年7月、本格的な史料調査を始めた。
 リストアップした史料は約760点に上り、今回の日記など貴重な5点はデータベース化し、今後の研究に役立てるという。


2006年03月25日土曜日

81とはずがたり:2006/07/01(土) 23:10:54
<東海>三重県

高校の古文の試験で芭蕉の旧仮名遣いを問われて解らなかった。。正答>ばせを(今調べたら「ばせう」でも可のようである)

「伊賀市」と表記統一 2説ある芭蕉生誕地
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060628-00000006-cnc-l24

[三重県] 伊賀市内に2カ所の説がある俳聖松尾芭蕉の生誕地について、両説に基づく2つの芭蕉顕彰団体の調整会議が27日あり、今後、顕彰や観光面では「生誕地は伊賀市」として記述し、細部には触れないことを決めた。両説を併記する案もあったが、強硬な反対意見が出て大まかな表現にとどまった。 

 芭蕉の生誕地には旧上野市の上野赤坂町と旧伊賀町の柘植町の2説があるが、100パーセント決め手となる史料はなく、それぞれ財団法人芭蕉翁顕彰会と、いがまち芭蕉翁顕彰会が独自に顕彰活動を展開してきた。

 しかし両旧市町を含む市町村合併で伊賀市が発足したのを機に、両団体が一本化することになり、それぞれ5人ずつの代表者でつくる「芭蕉翁顕彰事業調整会議」で協議。生誕地の表記についても統一するべきだとして議題に上った。

 調整会議は市内の市芭蕉翁記念館であり、両団体に配慮して両説を併記する案が出たが「学術的な研究では“上野赤坂町説”が通説となっており、両説併記には賛成できない」などと反対する意見が財団法人側の委員から出て、まとまらなかった。

 一方で「細部にこだわる必要はなく、観光客らに説明するには『伊賀市』で十分ではないか」という声もあり、現時点では踏み込んだ表現は避けることで決着した。

 このため、今後、必要があれば、専門家の意見を聞くなどして学術面から、記述方法を再検討することも申し合わせた。(森本智之)
(中日新聞) - 6月28日14時21分更新

82とはずがたり:2006/07/01(土) 23:25:23
人斬り以蔵はピストルも使ってた様で。人撃ち以蔵だ。ちゃんと子孫残してるんですな。

<雑記帳>岡田以蔵の所有とされるピストル公開 高知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060701-00000111-mai-soci

 幕末に活躍した土佐勤王党の岡田以蔵の所有とされるピストルの公開が1日、高知県立坂本龍馬記念館で始まった。フランス製で県内の子孫が保管。幕府はフランスの支援を受けており、同館は「護衛をした勝海舟からもらったのでは」。暗殺を繰り返し、28歳で斬首になった剣の達人も、刀とピストルの“二刀流”だった?
(毎日新聞) - 7月1日22時28分更新

83片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/10/15(日) 17:48:34
こういうアホな話好き。

仙台藩志会 会長職めぐり「お家分裂」へ
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2006/10/20061015t13031.htm

 仙台藩祖伊達政宗らの遺徳を伝える「仙台藩志会」が、会長人事をめぐる対立激化で分裂することが濃厚になった。刷新を迫る「執行部派」は理事会で伊達篤郎会長(96)の解任を決議した。対する「会長派」は解任決議無効を主張するが、分裂は避けられない見通しだ。会長職の争奪で表面化した「平成の伊達騒動」は、藩志会の「断絶」にまで発展した。

 執行部派は9日に理事会を開き、理事の7割に当たる23人が出席。伊達会長解任を全会一致で決議した。会長代行に筆頭副会長の伊達洋司氏(72)を据え、年内に開く臨時総会で新会長を選ぶことを決定。現会長には「絶縁状」を送ることも承認した。

 執行部派役員の一人は「高齢の篤郎氏は、行動力と判断力が欠落し、一部役員の言いなりになっている」と指摘。政変によるトップ交代についても、「当然の流れだ」と主張する。

 一方の会長派。28日に臨時総会を開き収拾に乗り出す。伊達会長は解任決議について、「規約では、理事会は会長が招集すると決めている。規約を無視した決議は無効だ」と主張する。

 会長側近は「著名な伊達会長が現役でいるからこそ、藩志会が成り立つ。執行部派の行動は面従腹背にほかならない」と憤慨する。

 双方に歩み寄りの気配は全くなく、「会存続のため、分裂するしかない」(執行部派役員)との見方も強い。分裂すれば、二つの「藩志会」が併存する奇妙な事態も想定される。

 会長職をめぐる騒動は、一度は引退を明らかにした伊達会長が、4月の定例総会で辞任撤回をしたのが発端だった。無派閥会員の一人は「双方がポストに執着した結果、最悪の結末を招くことになる。藩志会の輝く50年の歴史に、汚点は残った」と残念がった。

[仙台藩志会]1957年発足。会員約250人。メンバーの多くは仙台藩士の子孫。藩祖伊達政宗や2代忠宗をはじめ、慶長遣欧使節団の支倉常長ら伊達家ゆかりの人物の法要や藩士の慰霊祭を行っている。

84とはずがたり:2006/10/16(月) 01:09:43
>>83
面白いっす(・∀・)
大シスマだ!

85とはずがたり:2006/10/17(火) 02:24:27

【磐城 岩城 石城】

石城郡(いわきぐん)は、石城国造がいた地域におかれた郡で、はじめ常陸国に属した。当初は「石城評」(いわきのこおり)であり、後に郡制の施行とともに「石城郡」(いわきのこおり)になった。陸奥国は7世紀に常陸国から分立して、現在の東北地方南部に設置,更に陸奥国から石城國分置(石城国分置の際常陸国から菊多郡編入)で石城國に所属となる。そして再統合により陸奥國石城郡(石城国等)となる。後に、磐城郡と改称され楢葉郡と磐前郡が分立した。

岩城氏は常陸平氏の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりであると言われているが、石城国造の末裔であるとも言われている。
平安時代は奥州藤原氏と関係が深く、岩城則道の子とも安忠、繁衡の子とも言われる成衡が清原氏に養子に入ったほか、清原氏の出自自体も岩城氏の流れとする見解もある。また祖岩城則道の正室は奥州藤原氏出身といわれる。
鎌倉時代は地頭職に過ぎなかったが、南北朝時代に入ると好嶋庄の預所職である伊賀氏などを支配下に置き、磐城一帯の領国支配に成功したうえ、大館城(飯野平城)という居城を築城し、北関東から南東北にかけて勢力をのばし、また隆忠が嘉吉の内紛を抑えて全盛期を築き上げたのである。

明治になって、陸奥国を分離して磐城国を設置,磐前郡、磐城郡、菊多郡が合併して石城郡の名が復活した。現在では郡域はすべていわき市になっている。

時代と磐城
http://www2m.biglobe.ne.jp/~momotaro/talk/localstory/history1.htm
『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/石城郡 などより

86今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/17(火) 07:10:20
原田さんという名前の会員に樅の木の枝でも持ってきてもらいましょう(微苦笑)

87とはずがたり:2006/10/17(火) 10:54:11
山本周五郎ですなw

88小説吉田学校読者(ムチ打ち静養中):2006/10/22(日) 10:55:49
いやあ、伊達家のお家騒動、いいですねえ。次の会の名前は「原田会」になるそうです。

wikiを見たら、こんな記述があったので、戦国時代に詳しいとは氏初めとして、解説願いたい。隆慶一郎おらせば、影武者徳川家康並みの大傑作が出来たはずだ。

上杉謙信女性説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1#.E4.B8.8A.E6.9D.89.E8.AC.99.E4.BF.A1.E5.A5.B3.E6.80.A7.E8.AA.AC

89とはずがたり:2006/10/22(日) 11:04:51
歴史は好きですけど戦国武将には余り詳しくないのれす・・初めて知りました
へぇ女性説かぁ〜。

90今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/22(日) 12:55:33
>>88
亡父が持ってた「男が死ぬ時」というトンでも的な歴史人物録小説にも
謙信が村上義清を支援して川中島に出兵したのは謙信の恋心からという
話がありました(笑)

91とはずがたり:2006/10/29(日) 08:03:20
駄洒落っすか(笑)>原田会>>88
18代当主とかいてホムペも持ってるみたいですが何をやってる人なのか?

仙台藩志会問題 現会長の再任決定 体制維持派が臨時総会
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2006/10/20061029t13021.htm

 仙台藩士の子孫らでつくる「仙台藩志会」が会長人事で内部対立している問題で、体制維持を主張する「会長派」は28日、臨時総会を開き、伊達篤郎会長(95)の再任を決めた。人事刷新を求める「執行部派」は、既に新会長を選出している。両グループは対立したまま、それぞれが「藩志会」を名乗って活動することになった。

 会長派の臨時総会には会員237人のうち、委任状を含め45人が出席。選挙の結果、伊達会長を再任する人事案は32人が賛成し、可決された。
 伊達会長は体調不良を理由に欠席したが、メッセージが読み上げられた。25日に新会長を選出した「執行部派」を「名誉職獲得のために、エネルギーを邪道に使っており、困惑している」と批判した。

 臨時総会には、藩志会総裁で伊達家18代当主の伊達泰宗http://datemasamune.com/氏(47)が出席した。出席者から分裂騒動への所感を求められたが、「経過をよく知らない」とだけ述べ、5分で退席した。

 泰宗氏は執行部派の総会にも出席した。会員からは「当主が仲裁に入らなければ、藩志会の再生はあり得ない」との意見もあった。
 執行部派は、副会長だった古内重義氏(75)を会長に擁した。伊達会長の再任について執行部派役員は「向こうは向こう。関係はない」と話している。

2006年10月28日土曜日

92小説吉田学校読者(ムチ打ち静養中):2006/10/29(日) 08:18:30
>>90
隆慶一郎おらせば、「家康影武者説」みたいなトンデモ論だって、痛快な伝奇小説になるのでありますから、出でよ第2の隆慶一郎。

>>91
>名誉職獲得のために、エネルギーを邪道に使っており、困惑している

あんたらもそうじゃないかと・・・隣の県の本間様は、未だにすっごい土地を持っているけど、こんな話を聞かないのであります。

93今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/29(日) 08:36:34
酒田市の本間美術館(10代のときにいったなあ)
は本間氏私有でしたっけ

94とはずがたり:2006/10/30(月) 00:59:40
【家康→水戸徳川→会津松平→徳川宗家・福島県知事とか】

家康(徳川宗家①)─頼房(水戸徳川①)┐
┌────────────────┘
├頼重─綱条(水戸徳川③)
└光圀(水戸徳川②)─頼常(高松松平)─頼豊─宗堯(水戸徳川④)─宗翰(水戸徳川⑤)─治保(水戸徳川⑥)┐
┌──────────────────────────────────────────────┘
├治紀(水戸徳川⑦)──┬斉脩(水戸徳川⑧)
└義和(美濃高須松平)┐└斉昭(水戸徳川⑨)
┌─────────┘
├義建(美濃高須松平)
├容敬(会津松平)───┐
└胤昌(近江三上藩遠藤)|
┌──────────┘
├慶勝(尾張徳川)
├武成(浜田藩越智松平)
├茂栄(高須松平(義比)→尾張徳川(茂徳)→一橋徳川(茂栄))
├容保(会津松平)───┐
├定敬(桑名藩久松松平)|
└義勇(高須松平)___|
┌──────────┘
├容大(子爵)
├健雄(伊佐須美神社宮司)─勇雄(福島県知事)
└恒雄(初代参院議長)─一郎(東京銀行)┐
┌─────────────────┘
├恒忠(日本英語交流連盟専務理事)
├恒孝(徳川宗家⑱)─家広(翻訳家)
└恒和(早稲田大学客員教授)

95とはずがたり:2006/11/25(土) 15:48:53
大田南畝・蜀山人
http://www.edoshoga.jp/nanpo.html

蜀山先生 狂歌百人一首 (蛇足解説付)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kyouka100i.html

真面目に働く幕府の下級役人としての顔の一方狂歌詠みとして軽やかに江戸文化を駆け抜けた南畝先生を見習いたいっすねぇ〜。

96片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/11/25(土) 17:06:25
>>95
私も蜀山人先生は好きです。愛読者とはいえないですけど・・・。
これも中学時代に丸谷才一さんの本で知りました。

わが庵はみやこの辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治 という歌が印象に残っています。

中学生の頃は、流行ってる楽曲を替え歌して遊んだものですが、最近は頓とやりません。

97とはずがたり:2006/11/26(日) 13:11:35
へぇ中学生の頃から知ってるとは凄いですねぇ。
俺は日本史での知識ぐらいで殆ど接したことは無かったんですけど,古典でも江戸時代ぐらいのものだと,感覚というか言葉の使い方というかが結構現代とじかに繋がっている感じがして非常に面白いです。

98とはずがたり:2006/12/08(金) 21:23:21
急いで史跡の指定でもして保存を義務付けなきゃあかんやろ。

庭園競売、京都市が「待った」 郵政公社に保存要望
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061208-00000030-kyt-l26

 日本郵政公社の京都貯金事務センター跡地(京都市北区・上京区)売却計画に対し、京都市が跡地内にある江戸時代初期の日本庭園「擁翠園(ようすいえん)」を保存するよう要望し「待った」をかけた状態にあることが8日分かった。
 庭園は市指定文化財に相当する価値があるとして、市は「売るにしても庭園の保存を条件に付けてほしい」と求めているが、公社側は遊休資産とみて近く競売することを決め「保存を条件にはできない」と突っぱねている。
 庭園は北区長乗西町と上京区岩栖院町にまたがる同事務センターの敷地(約1万平方メートル)の半分以上を占め、著名な金工師・後藤長乗(1562−1616年)の邸宅に築かれたといわれる。池泉回遊式庭園で、1999年には上京区の「史跡百選」にも選ばれた。
 戦後間もなく旧郵政省が土地を購入、貯金事務センターとして使ってきたが、業務効率化の一環で2005年12月に廃止された。今年8月、公社が市に文化財的価値の調査を依頼した。
 市文化財保護課が調べたところ、後藤家を中心とする金工師たちが住んだ地域を唯一残す遺構で、庭園の改変に関する図面や資料も数多く残っている貴重な文化財であることが判明した。
 同公社近畿ネットワークセンターは「売却は決定済みで、庭園保存の条件は付けられない」と譲らず、14日に競売説明会を開き、25日に入札を実施する予定。「入札参加者に貴重さを説明するが、庭園は指定文化財ではない。これまで競売で極端な制限はかけておらず、条件を付ければ売却価格が下がる要因にもなる」としている。
 市文化財保護課は「学術的に貴重で、先人の残した財産を後世に伝えていく必要がある。保存条件を付けなければ残る可能性は薄い。公社は社会的使命を果たしてほしい」と再考を求めている。
 【擁翠園】 室町時代以来の彫金家で、桃山時代以降は金座として大判鋳造を営んだ後藤家の旧領。管領細川満元が住んだ岩栖院旧趾でもある。金工で有名な後藤長乗が徳川家より譲り受け、江戸時代初期に築いたという。
(京都新聞) - 12月8日16時7分更新

99とはずがたり:2006/12/19(火) 16:44:43
公卿の内々と外様を調べてる時に引っかかったホムペたち

天皇公卿の制度と事件
http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido3.html
江戸大名公卿net
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/

21 遠藤珠紀 卑姓にも五分の魂!?下っ端役人魂見せてやります!
「官務家・局務家の分立と官司請負制」
http://fehd.view21.net/~junhe/ronbun4.htm
歴史部
http://fehd.view21.net/~junhe/rekisibu.htm
駄事類苑
http://fehd.view21.net/~junhe/index.htm

公卿類別譜
http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinke.html

100荷主研究者:2006/12/31(日) 16:50:46

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20061014/20061014_001.shtml
2006/10/14付 西日本新聞朝刊
動力水車の排水路? 遺構確認 大砲製造“秘密工場”か 「鍋島藩内密に」の指摘も

河川改修工事に伴う発掘調査で見つかった地下水車の排水路とみられる遺跡

 武雄市教委は13日、河川改修工事に伴う発掘調査を続ける同市武内町真手野の土中で、江戸時代末期に佐賀・鍋島藩武雄領で行われたとされる洋式大砲製造の際、旋盤加工の動力源となった地下水車の排水路とみられる遺構を確認した。当時、大砲製造には徳川幕府の許可が必要で、鍋島藩の“秘密地下工場”が付近にあったことを示す遺構として注目を集めそうだ。

 遺構は地表から約3メートルの土中で発見された。幅95センチ、深さ6‐8メートルで、石材で囲った排水路が約10メートル続いていた。

 発掘現場周辺は、古老らの言い伝えで、火薬原料の硝石を粉末化する石臼を回す水車があったとされてきた。1974年には農地整備の工事で地表から1.6メートルの土中で取水路跡が見つかっており、地下に水車を設けて動力源にしていた可能性が指摘されていた。

 すでに、鍋島家が武雄市に寄贈した古文書などから、武雄領では水車を利用した大砲の旋盤作業が行われていたことが判明。市教委は、幕府に内密で大砲を造るため、長崎街道から離れた武内町の地下に“秘密工場”を設けた可能性があるとみている。

 同市教委文化財係の原田保則係長は「遺構は形状などから地下水車の排水路跡とみられるが、今後、整備の年代などを分析し、武雄における大砲製造の全容を解明したい」と話している。

101ぽんこ:2007/01/26(金) 00:20:15
江戸の古地図が面白いです。
http://map.yahoo.co.jp/kochizu/maptop

102とはずがたり:2007/01/26(金) 01:24:58
>>101
すげぇ!!
東京だけなのとOperaで見ようとするとエラーが出て見れないのが残念だけど。。

104片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/15(木) 15:21:38
古文書:宇土細川家が市に寄贈の1400点、4月から一般公開 /熊本
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kumamoto/news/20070215ddlk43040474000c.html

 ◇6代目興文の絵や和歌も

 宇土市教委は肥後細川藩の支藩、宇土細川家の子孫から寄贈された古文書約1400点を4月から市立図書館郷土資料室で一般公開する。多くは江戸時代中期から後期にかけての6代目当主、細川興文(おきのり)に関する史料。政治に関するものだけでなく、趣味で描いた絵も多い。【谷本仁美】

 関東に住む子孫が昨年10月、市に寄贈した。段ボール5箱分の量で市にこれだけ大量の古文書が寄贈されたのは初めて。虫食いもほとんどなく、保存状態も良い。

 史料は縁側のたばこ盆から落ちた灰をカエルが興味深そうに眺めている絵や茶室の設計図まであり、多彩な趣味をうかがわせる。また、興文が隠居名を「月翁」と名乗ることを書いた文書には「今日よりは世の浮雲をもれ出て さやけき月の翁とぞなる」と自ら詠んだ和歌を添え、心情を表している。

 3月末の完成を目指して編さん中の市史通史編2巻も、今回寄贈された史料の一部を基にまとめている。

 市文化振興課は「今後は体系的に分類し、市民や研究者に使ってもらえるようにしたい」と研究が進むことを期待。市史執筆委員の一人、根本なつめさんも「史料が散逸しており、これだけまとまって寄贈していただいたのはうれしい。宇土のものは地元にある方が役に立つ」と喜んでいた。

毎日新聞 2007年2月15日

105杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2007/03/04(日) 01:31:10
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/­feature/kibe_187/list(061212).pdf 見てみたけど、いたいけな子供までも血祭りに挙げられてるやんけ。・゚・(ノД`)・゚・。ウワァァン

17世紀の日本人殉教者188人が聖人に次ぐ「福者」に
http://www.asahi.com/international/update/0303/020.html
2007年03月03日23時51分

 在バチカンの外交筋によると、法王庁列聖省の枢機卿会議はこのほど17世紀前半の日本人188人の殉教者を「福者」とすることを了承した。最終的には4月の復活祭の前後にローマ法王ベネディクト16世が裁可を下し、正式決定すると見られる。カトリックでは福者は聖人に次ぐ尊崇の対象。188人は激烈なキリシタン弾圧が行われた江戸時代初期の全国の殉教者で、一般信徒がほとんど。女性や子供も多い。

 枢機卿会議は法王裁可までの最後の関門で、2月6日に開かれた。

 188人は日本カトリック司教協議会が81年の前法王ヨハネ・パウロ2世の長崎訪問を機に全国の16教区で調査を始め、96年法王庁に申請した。一般信徒の史料を集めるのに時間を要した上、バチカンでは極めて慎重に審査が行われるため、実現までに四半世紀かかることになった。

 日本では1862年と1987年に計42人が聖人に、1867年に205人が福者とされているが、日本で殉教した外国人司祭のほか、圧倒的に男性の指導的な信徒が多かった。今回の188人中司祭は4人だけで、女性が3分の1を占める。

 いずれも1603〜1639年と江戸幕府成立から鎖国体制の確立に至る時期の信徒で、殉教の地もさまざまだ。

 最も多い山形県米沢市の53人と京都市の52人はそれぞれ同じ日にいっせいに処刑され、一家で殉教したケースがほとんど。

 リストには、天正遣欧使節の一人として法王グレゴリオ13世に謁見(えっけん)した中浦ジュリアン(1568ごろ〜1633)や、ローマへ渡ってイエズス会の司祭となった後に日本に帰国し、江戸で拷問死したペトロ岐部(1587〜1639)が含まれている。ペトロの生涯は遠藤周作が小説「銃と十字架」で取り上げた。

 福者には殉教者のほか、信仰生活の模範を示したとされる信者らも「奇跡を起こした証明」があれば選ばれる。インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人の救済に尽くしたマザー・テレサも死後、列福された。

106やおよろず:2007/04/20(金) 06:33:13
「美しい日本の粋」募集 各地の伝統や自然

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070419/ssk070419003.htm

 塩崎恭久官房長官は19日の記者会見で、安倍晋三首相が掲げる「美しい国づくり」の国民運動化の一環として、各地の伝統や自然などを「美しい日本の粋(すい)」として募集すると発表した。「日本らしさ」や「日本ならでは」のものを募り、結果を今後の施策に生かす。募集期間は20日から6月22日まで。美しい国づくりプロジェクト公式ホームページ(http://www.kantei.go.jp/be-nippon)などで受け付ける。


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 粋(すい)かよ、粋(いき)かと思った。

107小説吉田学校読者:2007/04/20(金) 07:04:47
>>106
この動き、私は「総論賛成、各論反対」を取ります。
これ、ただの「名産品紹介」「名勝紹介」に堕ちる可能性大ですよ。国土交通省の「観光立国」と変わりないじゃないか。
とはいえ、こういうもの大好きの私としては、「神保町の古本街」とか「スパゲティナポリタン」とか「早川書房」とかを推したい。

108小説吉田学校読者:2007/04/20(金) 21:50:17
安倍総理、美しい国「へ」と、題した本を著すくらいなのだから、「この国は、今は美しくない」という現状認識を持っているんだと思っていました。
それに「美しくないが愛おしい」という感情を持っている人だって、たくさんいるでしょう。
なんかヤな感じ。小役人の得点稼ぎのニオイがぷんぷんする。

なお、この国の美しさは、ヘンリー・スレッサーもジェイムズ・ヤッフェもamazonで買えてしまう翻訳(和訳)文学の成熟度を、推奨する。名訳家とは、原文そのままではなく、「シミシュン(清水俊二)節」みたいのを言うのだ。と、キレのないまとめ方でいいでしょうか?>片言丸氏

美しい国:安倍政権、精神面の大合唱 HPで一般募集も
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070421k0000m010064000c.html

 保守主義を掲げる安倍政権が、国民の精神面に働きかける取り組みを強めている。首相直属の教育再生会議が道徳の教科化や「親学(おやがく)」の創設を提唱し、20日から首相官邸のホームページで「日本の何が美しいのか」を一般から募集するイベントも始めた。
 首相は就任以来、「美しい国、日本」を繰り返し、「美しい国づくり企画会議」も作った。募集はこの会議が行い、「普遍的な価値のあるものを見つけ伝えていく」(企画会議事務局)という。
 ただ、同会議で座長代理を務める山内昌之・東大大学院教授は、注意すべき点として19日付の内閣メールマガジンで「美しい国づくりが内向きの発信にならないこと」を挙げ、「自己中心的にならずに平和な国づくりとしても努力しなくてはならない」と自己陶酔に陥るのを戒めた。
 各省庁も「美しさ」のオンパレードだ。農水省は2月「美しい森林づくり推進国民運動」を提唱し、環境省は6月に策定する環境立国戦略の基本理念に「美しい国づくり」を盛り込む。
 一方、教育再生会議は今月17日、第2分科会(規範意識)が、親にあるべき姿を教える「親学」を提起。同会議は道徳を教科にすることでも一致しており、5月にまとめる2次報告に盛り込む方向だ。教科になれば、いずれ道徳面での評価が行われる可能性もある。
 「美しい国」の合唱に関して、首相に近い八木秀次・高崎経済大教授は「国民一人一人が日本をもっと良くするための精神的な運動をやろうということじゃないか」と指摘、「国家の根幹、国民意識の基本にかかわる問題について、政府として取り組み始めたということだろう」と話した。
 これに対し、近現代史に詳しい作家の保阪正康氏は「美しい国という抽象的な言葉を政治目標に据えるのは、皇国や臣民というあいまいな言葉を多用して政治を揺さぶった昭和初期の軍人を想起させる」と懸念を語った。

109美しい日本の「やおよろず」:2007/04/20(金) 22:13:17
>>107

 何十万人の来客でにぎわう「祭り」と、集落の連中が半ば強制参加の近所の神社の「祭り」の違いですかね?

 自給的と商品的とでもいうべきか・・・ちょっと、うまい話が出てきませんが

 やお的には、美しい日本の粋として「地蔵に手を合わせる老婆」を推しておきます

110片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/04/20(金) 22:27:50
>>108
やばいなー。そこの分野は吉田学校さんに叶わん。。。
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』第14章「太陽神の牛」を丸谷才一が古事記から荷風・谷崎・石川淳の文体を模して翻訳。中学生で読破は無理でしたー。

自民党のほうでも美しい国に関する作文を募集していて、応募したら入選する気がする。・・・って今日までかよ。
昔、ネットが普及してなかったころ、あるアンケートか何かに答えて自民党の象(エレファント)のマークが入ったポロシャツもろた。恥ずかしくて一度も着てないですけど。
中学生だか高校生だかに自民党から小包が来ていて親はやや驚いていた。

個人的には、道徳が高校入試の科目に入ってればよかったかもしれない。国語のマイナーチェンジ的な頭脳展開で答えられるからだ。
わりと小学生のころは素直に道徳受けてた気もするが、基本的に退屈だった気がする。採点がないとつまらない。

結論としては、「美しい国」を政治のキャッチフレーズにするのは言語感覚的にどうかと思うが・・・。
美しい国ってどんな国、ってアイデア大募集するんだからかわいくてまだいいのかもしれんが・・・。

小学生のころ、学校の庭のチューリップに墨を塗って怒られたのを思い出した。
赤白黄色、があるならば、黒いチューリップというのも美しいのではないかとそのときは思っていて、怒られたのが意外でショックだった。
花も生きてる云々かわいそう云々言われたが、私に言わせればそういう問題ではなかったのだ。
あれで、感性が伸びる芽を摘まれたと本当に思ってる。
そうやって美しさを自分なりに追及させてくれる、そんな教育なら美しいと言おう。

113とはずがたり:2008/06/04(水) 15:11:25
wikiに拠ると木斛(モッコク)は、ツバキ科の常緑喬木。江戸五木の一つ…だそうな。

約400年ぶり、「モッコク」が仙台へ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/miyagi/news/20080604-OYT8T00010.htm

政宗公ゆかりのモッコクの苗木が、野草園の職員の手で、丁寧に植樹された 桃山時代、伊達政宗公が豊臣秀吉から土地を与えられて住んだ、京都の伏見上屋敷には、政宗公自ら植えたとされるツバキ科の常緑樹モッコクの木が生えていた。屋敷がなくなってからも京都の地で大切に育てられてきたが、その苗木が仙台市に寄贈され、約400年ぶりに郷里の地に根を下ろした。

 苗木の贈り主は、政宗公の伏見上屋敷の跡地に1700年代に建てられた海寶寺(かいほうじ)(京都市伏見区)の前住職、荒木正啓さん(75)。現在の本堂前にそびえる高さ約6メートルのモッコクの木は、1626年から400年近く、青々と茂ってきた。荒木さんは大切に手入れしてきたが、時の移ろいとともに徐々に樹勢が衰えていった。5年ほど前には、ついに木の3分の2が枯れてしまった。

 「なんとかして保存したい」と、荒木さんは2005年、岡山県にある森林総合研究所関西育種場に、モッコクの木の再生を依頼した。研究所では、「挿し木」という手法を使った。新芽を土に挿し、モッコクの“クローン”を作り、芽吹いた苗木を育てた。今年3月、再生された20本の苗木が海寶寺に戻された。

 荒木さんは、「海寶寺だけでなく、政宗公ゆかりの仙台でも、育ててもらいたい」と、仙台市に話を持ちかけ、20本のうち8本を、寄贈することにした。

 仙台市は、贈られたモッコクの苗木を野草園(太白区)と農業園芸センター(若林区)で育てている。大きく育てて、3年後をめどに、瑞鳳殿(ずいほうでん)など政宗公ゆかりの地に植え替えることを計画している。

 野草園は、育てている4本のモッコクの苗木のうち1本を先月30日、園内に植樹し、一般公開を始めた。苗木は、まだ高さ20センチと小ぶりだが、順調に生育している。

 モッコクは、6月から7月に、小さな白い花を咲かせる。花からは、甘い香りが漂う。秋には、サクランボほどの大きさの実を付けるという。政宗公お手植えの木が咲かせる花の香りが、約400年の時を超えて楽しめるまでには、まだ数年かかるそうだ。

(2008年6月4日 読売新聞)

114とはずがたり:2008/07/29(火) 21:08:24
2年程前の記事だが。

古文書:遠野は10番目の領地 「拾戸」示す−−遠野城下町資料館で公開 /岩手
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060729-00000102-mailo-l03

 ◇遠野南部家が模写本を寄贈
 盛岡藩祖の南部利直(三戸)が1627(寛永4)年、八戸から遠野への所替えを命じた根城南部22代直義に交付した遠野領地の集落別穀物生産高目録の模写本が、遠野南部家から遠野市に寄贈された。「拾戸(とおのへ)遠野村」との記載があり、南部利直が遠野を10番目の「戸」(領地)と見ていたことなど興味深い事実がうかがわれる。同市立遠野城下町資料館(同市中央通り)が28日から公開を始めた。
 東京都府中市の東郷寺住職で、遠野南部家37代当主、南部光徹さんが「遠野市と宮守村の合併を記念して」と寄贈した。元東京大史料編纂(へんさん)所技官の宮本尚彦さんが手作業で和紙に本物そっくりに模写した。
 模写本は縦約35センチ、横約183センチ。「拾戸遠野村付之目録」と題し、遠野領内51集落と佐比内(紫波)など飛び地領11集落の米や雑穀の生産高を記している。領内で最も多いのが綾織村の1082石4合で、領内外で計1万2497石8升8合としている。
 「拾戸」については言われとしてあったが、文書で確認されたのは初めて。遠野の名称は室町時代までさかのぼれるため、南部利直はあえて「拾戸」と当て字することで10番目の領地を強調したかったと思われる。
 同博物館学芸員の前川さおりさん(36)は「直義が遠野に入った5日後に交付されており、家臣団の禄の配分用に使われたのではないか。遠野南部家統治の始まりを告げる貴重な史料だ」と注目している。【鬼山親芳】

(2006年)7月29日朝刊
(毎日新聞) - 7月29日13時4分更新

115石垣眞人:2008/07/30(水) 14:43:53
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。

116とはずがたり:2008/10/12(日) 19:56:16

“篤姫日記”見つかる 薩摩藩士つづった嫁入り道中
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008092790134814.html?ref=rank
2008年9月27日 13時50分

 NHK大河ドラマ「篤姫」で話題を集める天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が徳川十三代将軍家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫たちの動静を詳細に記述した藩士の日記などが見つかった。

 江戸の薩摩藩邸にあった日記類は、幕末の焼き打ち事件でほとんどが焼失しており、記録として極めて貴重。当時は女性についての記録も少なく、幕末史と女性史の空白を埋める重要な史料といえる。読解が進めば、篤姫の実像に迫ることができそうだ。

 群馬県高崎市の古書店「名雲書店」の名雲純一さんが今年、東京都内で入手。山本博文東大史料編纂(へんさん)所教授が鑑定した。

 日記を残したのは、薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の側(そば)役として、篤姫らの護衛や世話などをしていたとみられる仙波市左衛門(せんばいちざえもん)。妹は斉彬の指示で篤姫の女中として仕え、娘も女中となった。

 発見されたのは、一八五〇(嘉永三)−六二(文久二)年の断続的な日記六冊と、仙波家の由緒、市左衛門の業績書類の計八冊。それぞれ縦約十五センチ、横約二十センチの和紙に毛筆で書かれ、計約二千ページあった。

 「浦の藻屑」と題された日記や薩摩と江戸との間の道中記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩の鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、日々の天気まで詳細に記されていた。さらに供物とみられる「鮮鯛」といった文言や、贈答品らしい「西洋肌着」などの記載もあった。

 山本教授は「藩政よりも、篤姫ら女性について書かれているのは幕末の文書としては珍しい。従来の史料と対照することで、さまざまなことが分かると思う。幕末の薩摩藩士から見た藩主の家族の歴史が新たに浮かび上がるだろう」と評価している。

 <天璋院篤姫(てんしょういん・あつひめ、1836−83年)> 薩摩の島津家の分家に生まれ、島津斉彬、後に島津家と関係の深い近衛家の養女となり、徳川13代将軍家定の正室となった。だが婚礼からわずか1年半で家定が病没。その後、天璋院と称し14代将軍家茂の後見役を務めながら、江戸城大奥の女性たちをまとめた。後に江戸城無血開城にも大きな役割を果たしたとされる。生年については35年説もある。

(東京新聞)

117名無しさん:2008/11/03(月) 10:51:28
郷土史詳しい方いませんか。
佐賀の神埼あたりだと思うのですが鍋島山城の家臣で
石丸家ってありますか。先祖をたどっているのですが。

118とはずがたり:2008/11/03(月) 21:39:17
ためされる大地 秋田

こんな因縁があるとはw
新屋と土崎の間には秋田の集落は昔はなかったんですかねぇ。
今では臨海工業地帯で仕切られているような気がしますが,当時は地続きというか浜続きだったんでしょうかね。

江戸時代からの恨み、綱引きで決着 秋田、不仲の2地区
2008年11月3日5時58分
http://www.asahi.com/national/update/1102/TKY200811020182.html?ref=goo

因縁に決着をつけようと、綱引きをする住民たち=2日、秋田市
 江戸時代から不仲が続くという秋田市の新屋、土崎、両地区の住民が2日、「因縁に決着をつけよう」と大綱引きの3本勝負に挑んだ。

 両地区はかつて漁業権や米蔵の位置で争い、野球の試合では乱闘騒ぎが起きたこともある犬猿の仲。今回、土崎からの果たし状を新屋が承諾。佐竹敬久市長を立会人に、力自慢の男性各30人が誇りをかけて100メートルの綱を引っ張り合った。

 結果は新屋の3勝。完敗した土崎は苦い表情で新屋と握手。「罰」として、JR新屋駅を清掃することになった。

119とはずがたり:2008/11/03(月) 21:41:47
>>117
済みません,残念ながら私は知らないですねぇ。。

120とはずがたり:2008/11/30(日) 02:59:33
自然真営道ですね

安藤昌益資料館をつくる会が設立総会(2008/11/29)
http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2008/11/29/new0811291401.htm

 八戸市の中心街に江戸時代の思想家・安藤昌益の資料館建設を目指す「安藤昌益資料館をつくる会」の設立総会が二十八日、同市の更上閣で行われ、来年十月の開館を目指してスタートを切った。
 総会には会員ら約四十人が出席。事業計画の中で、設立場所は市中心街の一角で検討を進め、来春には公表する。設立資金は企業からの寄付や募金箱を設置し、市民から募ることなどが盛り込まれた。
 会長に選出された発起人の根城秀峰さん(八戸市)は「昌益の研究家は全国におり、そういう人たちとの交流も広げていきたい。八戸からきちんと情報を発信できる資料館にしていきたい」とあいさつした。
 会員らは今後、資料・書籍の収集の呼び掛けや、ブログでの情報発信などで資料館建設をPRしていく。

121とはずがたり:2009/01/06(火) 17:07:18
写楽の謎を解く
http://www.nagaitosiya.com/a/sharaku.html

122とはずがたり:2009/03/25(水) 12:40:41

http://qa.mapion.co.jp/qa4821794.html
質問
質問者:tokiz105 豊臣秀吉が将軍でなく関白になった訳
困り度: 豊臣秀吉が征夷大将軍でなく関白になった理由として、将軍になるため足利義昭の猶子(又は養子)になろうとして断られたので、藤原家の猶子となり関白に任官したという説をよく聞きます。(林羅山の説が初出)
(1)本当に当時の秀吉の希望があったとして、足利義昭が断れたのか?
(2)日本統一後の1590年代になると、足利義昭はお伽衆として秀吉の
 近くに召し出されてます。1588年には将軍辞任してますし、
 その時に再度申し出があれば断れないのでは?
更に、将軍は源氏でなければならないとしても、源氏は足利家だけではありません。後年徳川氏は源氏の傍流を自称して将軍になってます。
(3)当時の秀吉の実力からすれば、適当な源氏の傍流の猶子(又は養子)と
 なれば 簡単に将軍になれたのでは?
そう考えると秀吉は将軍になれるけど、関白を選んだように思えます。
関白の方が臣下最高位ですしね。

当時秀吉の意向に逆らえる人っていないと思うのです。
誰も朝鮮出兵に反対できない。どの大名も領地の移封に逆らえない。

皆さんはいかが思われますか?
質問投稿日時:09/03/23 21:44
質問番号:4821794

回答者:pri_tama  個人的な考えですが、将軍が武家の棟梁と言うのは、江戸時代に豊臣家に地位で負けていた江戸幕府の後付理由な気がします。
 (秀吉にしてみれば、どの役職でも取得できるのにわざわざ格下の役職を選択する必要性に掛ける。)

 秀吉と家康の地位を比べると
   秀吉 太政大臣と関白を兼任
   家康 太政大臣(将軍を秀忠に譲った後に就任)のみ

 家康以降の歴代の将軍の内でも、秀忠や家斉が太政大臣まで上っていますが彼等も将軍を譲った後に太政大臣に昇進しています。
 (徳川家でも太政大臣は将軍より格上だと認識したいた。)

 まして神君家康公が生涯にわたって獲得できなかった関白の地位を、後の将軍達が要求する訳には行きません。
 (家康がもう少し早く天下統一していれば[長生き出来れば]、秀吉が関白相論のゴタゴタに乗じて関白に就任した様に、関白就任を目指したかもしれません。)
 
 仕方ないので、秀吉は生まれが卑しいので将軍に成れなかった何てマイナスイメージを作って、関白・太政大臣の兼任を目指せない徳川家の面子を守ろうとしたのではと愚考したりします。

123名無しさん:2009/03/25(水) 23:35:20
さてユージェニックスにしろ、学問方法(メソドロジー)としては、 social engineering ソシアル・エンジニアリングである。
このソシアル・エンジニアリングなるものの怖さを知らないで、「自分は日本の社会科学者だ」などと信じている土人学者たち
全員を、私は、激しく、蔑(さげす)んできた。この言葉の意味も重要性も知らずに生きてきた、馬鹿たちの群だ。
自分たち日本人(日本部族)白身が、『菊と刀』で真っ裸にされたのち、ロボトミーに等しい、文明化外科手術、すなわち、
ソシアル・エンジニアリングを敗戦後に受けたのだ、と自覚すべきである。

ソシアル・エンジニアリング(社会工学)は、アメリカのリベラル派の学者たちの秘技秘伝であって彼らはこれを肯定する。
しかし、シカゴ学派の本物の保守派やアイン・ランド女史のようなリバータリアンは、ソシアル・エンジニアリングの学問を唾棄
して否定する。未開の現住民たちに施してはならない文明化外科手術である。それをやられたら、原住民たちは、おかしく
なるのだ。 だから、敗戦後にこのロボトミーを施された日本部族の若者が金茶髪にして成人式でも暴れるのだ、とみんな
分かればいいのに。 どうしても、どうしても、敗戦後のアメリカ軍(占領軍、マッカーサー・ニューディーラー)による、
日本国民洗脳がその原因だと、認める訳には行かないのか。そうか、どうしてもいやか。

先生の小室直樹だけが、これが、日本人が敗戦期に天皇=神を否定されて起こした「急性アノミー」だと、はっきりと解明した。
今の私ほどは、あからさまには書かないが。

ソシアル・エンジニアリングというものは、これほどに恐いものなのだ。それが、ソシオ・バイオロジー(社会生物学)と
いう別の名前も持つのだ。ソシオ・バイオロジーについては、コンラッド・ローレンツについて本書の別のページ
でも書いた。だから、シカゴ学派で過激派フェミニストの元祖のひとりであるソニア・シャンクマンが、ウルトラ・
リベラルであるからこそユージェニックス(優生学)をやり、ソシアル・エンジニアリングを治療・方法・政策学
として実践したのだという事実を私たちは確認すべきだ。

副島隆彦『属国日本論を超えて』P120〜121

124とはずがたり:2009/03/30(月) 23:15:57
>奥山廻り役
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1194191152/83
ネーミングセンスが関東取締出役みたいでかっちょいいっすねぇ(;´Д`)ハアハア

奥山廻り役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥山廻り役は加賀藩三代目前田利常によって、黒部奥山の警備の為に組織されたものである。

概要

江戸時代初期の地図は、立山の背後は空白であった。黒部川も下流から中流にかけては描かれているが、上流域は山陰に吸い込まれるように消えている。藩政初期、黒部奥山は暗黒世界であった。加賀藩は、戦国時代の佐々成政のザラ峠〜針ノ木峠越で越中信州間の最短の間道として黒部奥山は重要な軍事要点だった。また「加賀白山」の領土争いから、幕府の調停によって越前藩の領山とされた渋い経験もあり、この未知の奥山への重要度を認識し、1648年以来いくたびも役人を派遣して実地調査をさせ、やがて「奥山廻り役」を常設し、毎年巡視させた。領民に対しては、「御縮り山」として、立山参りの正規ルート以外での黒部奥山への立ち入りを禁じた。

その後、この奥山廻り役は1870年9月の廃止まで続いた。

奥山の調査

奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽岳周辺や水晶岳、雲ノ平、黒部五郎岳の周辺ではなく、後立山連峰の周辺であった。むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華岳周辺は三国境としての重要地点で、詳細に調査された。後立山連峰はその名前のごとく、立山の後にある山々で、越中側からすれば最奥地の山であり、しかもキレット等のやせ尾根が続いている山稜である。江戸時代初期の黒部奥山廻り役の記録には、「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、初期の奥山絵図には空白地帯であった。

加賀藩初代藩主、前田利家が黒部渓谷口浦山村の百姓伝右衛門を大坂に召して、黒部奥山の秘境の様子をいろいろと訊いた。この伝右衛門は、元和年中、越後国の浪人数百名が黒部渓谷口内山村に立て篭もっているのを蜜訴して大事に至らしめなかった功者といわれる。そして三代前田利常はこの伝右衛門に松儀という姓を与え、抜擢して奥山取り締まりの内役として役儀に任命した。さらに鏡、扇子、硯等を松儀伝右衛門に与え、しかも武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞をも表明した。

松儀伝右衛門はその六年後に亡くなり、その後暫く奥山廻り役は空位が続いた。が、後年、佐伯十三郎がその位についた。しかしながら、調査につれて広大な奥山を一人で把握するのは実際として困難となり、次いで四郎右衛門という者を採用し、彼を北部、十三郎を南部の奥山廻り役に当てた。しかし、この初期の奥山廻り役は、後年の奥山廻り役のように厳重に毎年定期的に山廻りをすることもなく、彼らの肩書き自体も奥山廻り役といわれていなかった。さらに後には3名に増員されたが、大規模な盗伐が相次いで起こったり、材木の藩内への伐出で長期期間奥山に詰めるなどの雑役も多く人手不足は必至となった。そこで、通常の山廻り役や平廻り役などから、奥山廻り役加人として、臨時又は常勤的に奥山廻り役の仕事を兼ねるようになった。

125とはずがたり:2009/03/30(月) 23:16:16
>>124-125
事件の取り締まり

奥山廻り役の最初の一番の目的は軍事であったが、しだいに世の中が安定してくると、木材盗伐や密貿易の取り締まりに重点が変わっていった。この黒部奥山へしきりに出没したのは信州の杣であった。奥山廻り役らはこの取り締まりに難儀した。杣たちは奥山廻り役が近づくと、いち早く逃げてしまう。逃げ去った後の盗伐現場で奥山廻り役らは、盗伐小屋を焼き払い、伐採道具を没収し、木材を押収した。しかし木材を越中側へ運び出すのは困難で、仕方なく、信州の木材業者に呼びかけて払い下げたが、足元を見られて安く買いたたかれた。しかし、その木材業者こそ杣たちの元締めであったのだ。

記録に残る一番古い大規模な盗伐事件は、正徳2年7月に起こっている。それは針ノ木谷でその現場を発見し、取り押さえた。尋問するとこれらは尾張国の杣ども25名で、遠国から出稼ぎに来て、国境の境も分からず入山したと云い。また信州松本の佐平次と野口村の弥左衛門の二人が元締めであるのが分かった。奥山廻り役は彼らにここは加賀藩の領域であることを教え、国境を熟知しているはずの元締めこそ怪しい人物にあり、として元締めを連れてくるようにと使いを出した。しかし不正を行った元締めが来るはずもなく、四日経っても使いの者とも帰っては来なかった。仕方なく杣たちを信州方面に追放し、小屋を焼き払い伐採道具を没収した。これはあまりにも寛大な処置ではないか。この杣どもは尾張から来たと言うが、尾張領の信州安曇郡奈川村である。奈川村はすぐそこである。針ノ木国境を知らないはずがない。寛大な措置をとったにはいろいろ分けがあった。元締めは、御三家尾張領民という親藩の威光を笠にして、加賀藩奥山廻り役の強制執行を免れんとしてわざわざ奈川村民を雇っているのだ。奥山廻り役たちは、この御三家の百姓と紛争を起こすことを避けたのと、同行8人の杣人夫に比べ相手方は25人もいて、これらの者を盗伐者として強制的に加賀藩内まで引致することは困難と判断し、やむなくこのような寛大な処置とした。このことは加賀藩内で重大問題となり、その後は奥山廻りには奥山廻り役の他に、横目足軽2名。強健な人夫30名、多いときには40名も付けるようになった。そして針ノ木岳以南の上奥山を重点的に警戒するようになった。奥山廻り役は百姓ながら、とうぜん帯刃も許され、手錠縄も携行していた。

奥山廻り増員後も、盗伐は絶えず、発見しても杣たちはめったに捕まらなかった。しかし1775年、杣の三吉が逃げ遅れて捕まったことが信州側に衝撃を与えた。三吉が加賀に連れて行かれ、死罪に相当するほどの厳罰があったに違いない。そして盗伐の拠点の一つであった三吉小屋場跡(今の烏帽子小屋付近)の国境に、三吉の首を晒したぐらいのことをしたのか、その後しばらく大規模な盗伐は無くなり、三吉の名が、三吉谷、三吉道、三吉小屋場跡などの地名となって残ったほどの大事件となった。上高地の上條嘉門次も、黒部源流域の地理までは知らなかったが、三ツ岳、赤牛岳方面の山域を漠然と「赤牛三吉」といっていたようで、昭和の初めくらいまでは信州の古い杣や猟師達は、赤牛岳方面を赤牛三吉と呼ばれていた。

また、杣の小屋掛けした地に「野口山」と書いた石が立ててあったという事件もあった。信州野口村の山だという意味である。加賀の役人はそれを見て怒り、「砂磨きに消し候」、つまり砂を擦りつけて文字を消した。信州側では黒部川が国境だという観念を持っていた。 「野口山」の石標に対抗して加賀側では、針ノ木峠に毎年「金沢御領」と書いた札を立てて来た。山廻り役の名も書き連ね、そのうえ「杣頭弐十人、平杣弐百人、杣五百人召連」などと書き付けた。奥山廻り役は多くてせいぜい30人ぐらいであるが、二百とか五百とか、かなり誇張して書いている。これは「このような大勢で山中を隈無く見回っているぞ」、といったふうに信州側に脅しをつけるためだったのだろう。

立山の東下にある内蔵助平は、江戸時代に大規模な盗伐のあった場所だという。

126とはずがたり:2009/05/18(月) 12:17:03

松平定信はナポレオンの生みの親
1 :とら:2009/04/29(水) 22:59:32
松平定信はナポレオンの生みの親

ttp://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p032.html

文化元年は、近代日本の建国の年だった。

文化元年1月1日は、西暦1804年2月11日。

明治政府は、これを記念して、建国記念日を設定した。

日本の建国記念日は、ナポレオンの記念日
1 :名無しさん:2009/05/18(月) 02:53:51
日本の建国記念日は、ナポレオンの記念日

ttp://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/32/208.html

これは、ナポレオンが日本人であることを強く示唆する。

127とはずがたり:2009/06/08(月) 22:53:52

安土桃山時代もとは的には近世認定。メディカルレビュー向けか?

豊臣秀吉:死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ
http://mainichi.jp/select/today/news/20090609k0000m040102000c.html
2009年6月8日 20時48分 更新:6月8日 22時2分

 肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13日に名古屋市で開かれる日本病跡学会で発表する。

 かっけはビタミンB1不足で起きる。足のしびれ・むくみが典型的な症状だが、下痢や失禁、精神錯乱、心不全なども引き起こす。食事が白米中心だとかかりやすく、かつては富裕層に多かった。

 若林さんによると、当時の宣教師がイエズス会に送った報告書に、秀吉が死の直前の約2カ月間、下痢を患って狂乱状態に陥ったとある。別に失禁の記録もあり、いずれもかっけの症状と合うという。若林さんは「かっけで死亡したとされる徳川十四代将軍・家茂(いえもち)と症状が同じ。なぜ今まで『秀吉かっけ説』が提唱されなかったのか不思議なくらいだ」と新説に自信を見せている。【大久保昂】

128荷主研究者:2009/06/28(日) 19:40:16
戦国武将として人気があるという記事だが、伊達政宗はむしろ近世の武将か。

http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/20090527t13052.htm
2009年05月27日水曜日 河北新報
マサムネさまはアイドル 若い女性に戦国武将ブーム

政宗の「黒漆5枚胴具足」のレプリカを着用できるイベント。女性も甲冑(かっちゅう)を身にまとい「1度は着てみたかった」と感激=仙台市博物館

仙台・青葉まつりで披露された東北大演劇部の殺陣演武。若い女性らはカメラのファインダーを通し、「政宗」の勇姿に熱視線=勾当台公園

現代のモデルのようなルックスに生まれ変わった政宗のフィギュア。アニメグッズ店には戦国武将のコーナーが設けられ、売り切れが続出しているとか=青葉区の「アニメイト仙台」

「政宗様に会いに来ました」。歴史に興味を持つ女性は「歴女(れきじょ)」とも呼ばれ、彼女たちが奉納する絵馬はさながら“聖地巡礼”の証しのよう=宮城県護国神社

 テレビゲームのヒットなどで、若い女性を中心に戦国武将ブームが巻き起こっている。一番人気は仙台藩祖伊達政宗。仙台市内のゆかりの名所や関連商品を扱う店舗には多くのファンが訪れる。アイドルを追い掛けるような熱狂ぶりだ。

 火付け役となった家庭用ゲームソフトには、武将が現代風のいでたちで登場する。特に政宗は長身のイケメンに描かれ、「元祖だて男」のイメージが女性のハートをつかんだ。4月からはテレビアニメ化され、さらに注目度が高まった。

 仙台城跡や瑞鳳殿などでも年配の観光客に交じり、若い女性が目立つ。「政宗は統率力があり派手な印象。1度、仙台観光に来たかった」と東京から訪れた女性。関連グッズや政宗のキャラクターを使った地場産品の売り上げも好調だ。

 仙台市博物館主催の歴史イベントに参加した男性は「今は戦国時代にも似た不安定な世の中。武将へのあこがれも理解できる」と話す。「草食系男子」が急増中の現代、やはり女性が心ひかれるのは強い男なのか。
(写真部・伊深剛、川村公俊)

129とはずがたり:2009/09/26(土) 02:09:10

真言・浄土 共存願う?
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000000908150001
2009年08月15日

中将姫坐像の内部に記されていた墨書銘文=葛城市歴史博物館提供

初公開された当麻寺西南院蔵の中将姫坐像=葛城市歴史博物館提供


 ◆葛城・当麻寺の中将姫坐像に銘文

 葛城市の当麻寺西南院が秘仏扱いにしている木造中将姫坐像(ざぞう)(高さ46センチ)に、江戸時代前期の制作年代などを示す墨書銘文が記されていたと14日、同市歴史博物館が発表した。

 墨書は像内の背中側に、「為両宗也 法如 天和中作」と書かれていた。同博物館によると、「(真言、浄土)両宗のためなり。(中将)法如(の像を)、天和年中(1681〜1684)に作る」と解釈できるという。

 阿弥陀如来の極楽浄土を描いた国宝・当麻曼荼羅(まんだら)で知られる当麻寺は真言宗の寺院として営まれてきたが、浄土宗の子院もあり、両宗が時には対立したともいう。だが、1609年に江戸幕府が両宗が対等であることを認めた。「その70数年後、当麻寺一山での両宗の平穏な共存を願って、新たにこの像を作ったのではないか」と吉岡昌信・同博物館館長補佐はいう。

 同坐像は同博物館で開催中の「当麻曼荼羅縁起絵巻の世界」展で初めて一般公開されたのを機会に、調査された。曼荼羅を蓮糸(はすいと)で一夜で織ったとの伝承で知られる中将姫の出家した姿の像。江戸時代以前の中将姫像と比べ、女性的な印象を求めた新しい形式になっているという。

 同展は23日まで。18日は休館。一般200円、高校・大学生100円、小・中学生50円。

130荷主研究者:2009/11/22(日) 18:43:24

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20091121101.htm
2009年11月21日03時46分 北國新聞
辰巳用水に石のアーチ 隧道内、石垣の技術応用

切石をアーチ状に巧みに積み上げた隧道内の修復個所=辰巳用水

 20日の文化審議会で国史跡となることが決まった辰巳用水の上流部の隧道(ずいどう)(トンネル)内で、アーチ状に築かれた切石積(きりいしづみ)の壁が確認された。調査した金沢市によると、石は多くが戸室石で、壁の刻銘などから天保(てんぽう)年間(1830〜43年)の施工とみられる。「石垣の博物館」と称される金沢城の高度な築造技術が辰巳用水にも生かされたことを示しており、「歴史都市」の重要な資産となる。

 市によると、切石積のアーチは隧道の中流から下流部分にかけて少なくとも9カ所、計170メートル以上にわたって確認された。土の中を掘り進む開削工事で天井や壁面が崩落するのを補強している。

 当初は開渠(かいきょ)だった辰巳用水の上流部で、現在の姿となる隧道化の工事が始まったのは18世紀末とされることや、石の一部に工事記念とみられる「天保十年」(1839年)の彫り込みが辰巳用水土地改良区の畦地実参事らによって確認されたことから、市は切石積をこの時期の施工と推測している。

 使われている石は縦30センチ、横1・5メートル、奥行き20センチほどで、高さ約2メートル、幅1・3〜2メートルある隧道の壁に沿って天井まですき間なく積み上げられていた。「どのようにして積み上げたのか分からず、再現も難しい高度な技法」(市文化財保護課)だという。

 市は2005(平成17)年以降、金沢経済同友会の提言を受けて辰巳用水の国史跡指定を目指した動きを本格化させた。今年度は来年度以降に予定する「平成の大修復」に向け、辰巳用水土地改良区の協力を得て隧道内部を調査しており、水で側壁が削られた部分や天井の剥落(はくらく)個所なども確認した。

 文化審議会の答申を受け、市は来年度、辰巳用水の保存管理計画を策定し、農業用水や兼六園の曲水として生活にとけ込んだ姿を末永く保全、継承する。

 園地が国名勝となる末浄水場を管理する市企業局は「創設当時の趣旨を守り、文化庁と協議しながら必要であれば整備を進めていきたい」としている。今年度は傷みが目立った東屋(あずまや)を修復した。

 浄水施設の国名勝指定は全国初であり、企業局は水道への理解の高まりも期待する。施設内は原則として公開していないが、申し出があれば積極的に要望に応じることにしており、21日から23日までの3日間は名勝指定の答申を記念し、特別に一般公開する。

131荷主研究者:2009/11/22(日) 21:54:47

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/6266.html
2009年11月16日 新潟日報
国内初、妻からの離縁状を確認

 十日町市に寄託されていた離縁状の写しが、国内で初めて江戸時代に妻から夫に出されたものと確認された。日本法制史・家族史を研究し離縁状に詳しい高木侃・専修大法学部教授(67)が鑑定して分かった。16日、同市が発表した。婿養子の夫あてで、差出人筆頭に妻の名が記されている。専門家は、家族史や女性史を研究する上で貴重な史料とみている。

 離縁状の写しは、1856(安政3)年、旧貝野村安養寺の妻「ふじ」が夫の「重右衛門」にあてた。縦30センチ、横40センチの和紙に墨で書かれ、冒頭に「離縁状之事」とあり、8行にわたり「夫が病気」との理由や、100両を慰謝料として払ったことが記されている。差出人は「ふじ」の後に、本家、親せきと続く。

132とはずがたり:2009/11/23(月) 16:47:47

県と沖縄奄美で交流拡大宣言
薩摩藩の琉球侵攻から400年
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagoshima/news/20091122-OYT8T00218.htm

宣言後、伊藤知事(右)が薩摩切子の皿を、仲井真知事が琉球漆器を、それぞれ相手に手渡した

 薩摩藩が琉球王国に侵攻してから400年の節目を迎えたことを受け、伊藤知事と沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は21日、両県都との間に位置する奄美市で「今後、あらゆる分野・世代で一層の交流を推進し、相互の繁栄を目指して協力する」との交流拡大宣言をした。

 1609年(慶長14年)、薩摩藩は琉球貿易を独占するため、琉球出兵に踏み切った。占領後、与論島以北の奄美群島は藩の直轄地にした。

 県生活・文化課によると、今年秋、沖縄県側から「節目の年を交流を広げるきっかけにしないか」と提案があり、まず今月4日に両県議会の議長同士が共同声明を出し、今回の両知事の宣言の運びになった。

 宣言では、両県の立場に配慮して薩摩藩の行為を「出兵・侵攻」と表現し、「両県が真の隣人としての関係を新たに構築するとともに、未来に向けて交流を拡大、発展させることが重要」とした。具体的な交流は今後、協議するが、伊藤知事は「まず、人的交流から始めたい」、仲井真知事は「観光などで、共同のプロジェクトを手がけたい」と語った。

 今回の宣言に反対する複数の市民団体の約20人も式典に参加し、「400年間の歴史が検証されていない」「奄美の不幸な過去の歴史を繰り返さないように、過去の事実関係をはっきりしてほしい」などと訴え、来場者にチラシを配るなどした。現時点での宣言に怒りを感じるという「奄美を語る会」の仙田隆宜世話人(62)は「奄美は薩摩からも、琉球からも支配、収奪された地であり、そうした検証を踏まえず、奄美で今回の宣言が行われたことに憤りを感じる。こうした思いを草の根で訴え続けたい」と語った。
(2009年11月22日 読売新聞)

133とはずがたり:2009/12/06(日) 02:34:33

このスレかな??

「幻の金山」金あった
http://mytown.asahi.com/akita/news.php?k_id=05000000912020002
2009年12月02日

古絵図を見ながら、砂金が見つかった場所を指し示す高橋善之所長(右)と小林勉会長=北秋田市鷹巣

「幻の金山」と呼ばれる大館市の長慶金山跡地の沢から砂金が見つかった。古絵図をもとに、仲間と80粒近くを発見した県北教育事務所の高橋善之所長(56)が1日、会見して明らかにし、「長慶金山は本当の金山だった」と語った。地元の人たちは「さらに調査を進め、地域おこしにつなげたい」と盛り上がりを見せている。(江川慎太郎)

 長慶金山は同市田代地区の最奥部、青森県境にあって江戸時代の後期に閉山したとされる。古絵図発見を知らされた高橋所長は、自ら主宰する砂金研究会の仲間と3人で11月29日に現地入り。専用の道具を手に沢筋を約100メートルにわたって4時間近く探したところ、3人ともそれぞれ30粒近くを採取することができたという。高橋所長は2年前にも現地に入ったが、そのときは「4粒しか見つからなかった」と語った。

 長慶金山は江戸時代、秋田藩の隠し金山で、18世紀後半、天明年間のころに閉山したともいわれるが、はっきりしない。幕府からの追及を恐れ、200人近い坑夫たちを生き埋めにしたとの言い伝えが残る。資料が極端に少なく「幻の金山」と呼ばれ、ロマンをかき立てられた人や企業が現地に入り、何度も現地調査を試みてきた。しかし採算が取れるような有力な鉱床は見つかっていない。
 会見に同席した田代郷土史会の小林勉会長によると、長慶金山を描いた古絵図は今夏、市内にある民家の蔵で見つかった。縦86センチ、横60センチで長慶金山の別称「長間金山」の文字がある。金山や周辺の坑口や坑道、沢筋、山道が着色で描かれ、細部がわかる内容。保存状態は良好で、もともとは江戸時代後期に描かれた可能性がある。

 奥州藤原氏を中心とした日本史研究に力を入れている高橋所長は、東北地方を中心に450カ所以上、砂金採取に行っている。今回、高橋所長は、見つかった古絵図に「金場跡砂金多分(多く)アリ」と書いてある金山そばの沢で調査し、採取につなげた。

 小林会長ら田代郷土史会のメンバーたちも、古絵図発見を受けて11月26日に現地を訪ねて砂金採取も実施したが、砂金は見つからず、空振りに終わっている。

 高橋所長の採取成功に小林会長は「胸が高鳴る思いだ。現地調査や資料収集を進め、長慶金山をめぐる多くの謎を解明したい。金山に多くの人たちが関心を持てるようになれば、うれしい」と語った。


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