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近世日本史スレ
1
:
■とはずがたり
:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。
52
:
とはずがたり(1/2)
:2005/02/12(土) 16:32:23
瀬戸内海の歴史
http://www.uminet.jp/movearound/history.html
(1)海運を中心に展開される瀬戸内海の歴史
瀬戸内海は古来より、交通の大動脈となっていました。
縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
具体的には、古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
天平年間(729〜748)には、行基により、ほぼ一日航程の間隔で、室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。
律令制においては、貢納物の積み出しは国津に限られていましたが、平安時代になり荘園制が発達するとともに、瀬戸内海航路は公租の運搬や荘園年貢の輸送の動脈として、また、大陸との交易の主要ルートとしてなお一層の繁栄を見ましたが、それに伴って海賊も横行しました。このころの主要な港は、室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、牛窓、児島、敷名、長井浦、風早、熟田津などです。
平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内海航路を整備しました。清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行ったと伝えられています。
また、室町幕府は応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配され、遣明船として用いられていたと記されています。
これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
53
:
とはずがたり(2/2)
:2005/02/12(土) 16:32:51
>>52-53
大阪湾の主な港としては、時代や貨物の種類により変化はありますが、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場などがあげられます。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけですが、その間にはいくつもの町が風待ち港、潮待ち港として発達しました。
江戸時代になると船の往来はますます頻繁となり、瀬戸内海の海運は黄金期を迎えます。河村瑞賢は、寛文12年(1672)に西廻り航路を開発し、日本海の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津から、下関、大坂、太平洋の志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等を寄港地として整備しました。
江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場し、それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達しました。この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。
江戸時代になると、将軍の代替わりごとに朝鮮から朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10年(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
さらに、江戸時代には、遠浅海岸や内湾を利用して大規模な新田開発が進められ、そこでは米、麦をはじめ、綿、藺草、菜種油、大豆等の商品作物が盛んに栽培されました。特に、綿作は新しい農村工業としての木綿機業の発達をもたらすとともに、商品経済の発展を促しました。この綿作の肥料となったのが北前船で北海道から海送されたニシンの〆め粕でした。これら産物は、千石船、弁財船によって全国的に運ばれました。大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになりました。
明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
一方、都市周辺では、江戸時代の木綿機業の蓄積の上に繊維業を中心とする軽工業が発達し、さらにその後、化学工業、造船業等、海への依存度の高い産業が徐々に勃興して、戦後の臨海部を舞台とする重化学工業化に向けての準備がなされたのです。
54
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 17:07:32
>>52
古代:遣唐使及遣新羅使
http://img.0bbs.jp/u/tohazugatali/18_2
(
http://0bbs.jp/tohazugatali/)
難波津
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武庫浦(淡路島内!?東浦町浦港辺りかね?)
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明石浦
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藤江浦(西明石付近)
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多麻浦(おお,ひょっとして玉野か!)
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神島(笠岡市)
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長井浦(備後国水調郡(現御調郡)糸崎www.c-haus.or.jp/kaidou/020onomitiitozaki.htm/尾道
http://www.joyful.gr.jp/judi/98onomichi/timei.html)
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風速浦(安芸国豊田郡安芸津町風早)
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長門浦(?)
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麻里布浦(おお,港:麻里布,行政都市:岩国)
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大島鳴戸(大島郡屋代島)
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熊毛浦(周防国熊毛郡田布施か室積あたりか?)
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佐婆津(=多分佐波郡今の防府市)
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分間浦(下毛)(下毛(しもつみけ)郡分間(わくま)浦:三毛門は豊前国(福岡県)築上郡豊前市・下毛郡(しもげ?)は豊前国(大分県)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyok15.html)
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筑紫館(港那の津・行政都市太宰府)
55
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 17:39:28
長井浦(備後国水調郡(現御調郡))
糸崎
http://www.c-haus.or.jp/kaidou/020onomitiitozaki.htm
長井の浦 万葉歌碑
この糸崎の地は、昔から海上交通の要衝の地で、この一帯は万葉集巻15に見える「備後国水調郡の長井の浦」とされている。
尾道
http://www.joyful.gr.jp/judi/98onomichi/timei.html
尾道
「尾道」の地名の由来は、「山の尾の道」から生まれたというのが定説になっています。現在の本通り以南は埋立地ですから、昔は、大宝山〔たいほうざん〕(千光寺山)、摩尼山〔まにさん〕(西国寺山)、瑠璃山〔るりさん〕(浄土寺山)の各山が海岸に迫り、狭い帯状の土地に山の尾根伝いのかっこうで一筋の通りがあったことからだと思われます。また「尾」は、「川口」のことだという説もあることから、防地川、長江川の川口を結ぶ線が一本ついていたからだとも言う人があります。
別に「伊尾〔いお〕の道」が起源だとも言われます。1166年、世羅郡の甲山町を中心にしてできた「大田庄〔おおたのしょう〕」という荘園で収穫された米、麦の積み出し港が、尾道に指定されましたが、大田庄の中に伊尾(現在三川ダム付近)があることから「伊尾の米の道」だという一説もあります。
また郷土史家の財間八郎氏著「尾道散策」によると、作家司馬遼太郎氏は、港を生命とする尾道だから、「澪〔みお〕の道」即ち船の航路から出たものだろうという新説を立てられている。辞典を引くと澪とは、水のくまという意味で、わが国では、水脈と書いて「みお」と読み、海の船通る水路ということがのっており、「みおの道」から「おの道」となったという説です。
尾道浦・玉の浦
「尾道」の名が正確な文書に表れたのは、平安時代からのことで永保元年(1081)に「尾道浦」(西国寺文書)、仁安3年(1168)に尾道村(高野山文書)等に見られます。また万葉集にある「ぬばたまの夜はあけぬらし玉の浦にあさりするたず(鶴)なきわたるなり」の古歌に出てくる「玉の浦」は、尾道ではないかという説があります。その一例に長江を鶴の首、長いまちをその両翼になぞらえて、尾道水道に「鶴湾〔かくわん〕」という愛称もついています。また県立尾道商業高等学校、県立尾道東高等学校の校章は、鶴をデザインしたものです。
「尾道」「玉の浦」両方の名が、約900年前の西国寺古文書にあり、「尾道」の別名は、「玉の浦」であると説明した最初の記録であるといわれています。
また「玉の浦」起源説に次のようなものもあります。千光寺にある巨岩の頭に、珠玉があって、毎夜海を照らしていたと言います。その岩は、「玉の浦」「烏帽子〔えぼし〕岩」「宝珠岩」「如意岩」などの呼び名をもち、願いごとや伝説を内蔵しているので、玉のある海辺という意味から「玉の浦」という優美な名称がついたという説です。
56
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 17:48:32
>>52
古代(奈良・平安期等)瀬戸内航路
http://img.0bbs.jp/u/tohazugatali/18_3
(
http://0bbs.jp/tohazugatali/)
伝行基開の5泊
室生泊(兵庫県御津町室津)、韓泊(姫路市的形福泊)、魚住泊(明石市魚住町)、大輪田泊(福原),河尻泊(尼崎)の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C212L100.HTM
●大輪田泊 おおわだのとまり
播磨国の「木聖」生泊(ムロフノトマリ:今の室津港)・韓泊(未詳・福泊に比定)・魚住泊,摂津国の淀川尻の河尻泊とともに「五泊」の一つに数えられ古来の要津。
http://www.himeji.kkr.mlit.go.jp/outline/coast/about/his.html
845
東播海岸の歴史
承和12年 明石の浜に初めて「舟」と「渡し守」が常設
東播海岸には、魚住泊(明石市魚住)、韓泊(姫路市的形福泊)、蟶生泊(揖保郡御津町室津)の3つの泊があった。ちなみに魚住泊〜韓泊は21キロ、韓泊〜蟶生泊は22キロの行程。これは僧・行基が1日の航程を測って決めたという。
室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻…以上5泊
方上(片上)…誰だ備前市なんかにしやがったのは。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1066974699/675
那ノ津(福岡)
牛窓(邑久郡牛窓町→瀬戸内市)
児島
敷名 (沼隈郡沼隈町)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/9800/siki.htm
長井浦
>>53
風早
熟田津…こりゃもう文句無しに「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0008.html
を思い出して嬉しくなって欲しいところだが,あれは皇道教化教育だったのか!?(゚Д゚;)ハッ。因みに今の「松山市内。詳細地は諸説あって不明
http://blog.livedoor.jp/beni72/archives/12678419.html
」とのこと。
室津?(帯方郡使、上陸地点)
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/10/murotu/murotu.htm
播磨国揖保郡浦上觶
「御津(岩見)、息長帯日売命、御船を宿(は)てたまいし泊(とまり)。故に御津と号す。」
「室原泊(室津)、室と号すゆえは、この泊、風を防ぐこと室の如し、故、よって名と為す。」という記述が播磨国風土記にあり、古代から利用された錨地です。
57
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 18:03:45
>>52
日宋貿易 平安時代末期 平清盛
瀬戸内海航路を整備
福原京遷都
大輪田泊に経ケ島を築く
牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備
音戸の瀬戸の開削
日明貿易 室町時代 足利幕府
応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。
「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が
門司、
富田(周防富田→新南陽→周南市)、
上関(原発立地に揺れる。熊毛郡。
>>54
の熊毛浦とは上関のことか?)、
深溝(山口県吉敷郡現山口市の深溝か?)、
揚井(柳井)、
尾道、
鞆、
田島(沼隈郡内海町田島か)、
院島(因島)、
牛窓
に配され、遣明船として用いられていた。
これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
今に至るまで瀬戸内を挟んで山陽本線と予讃本線の格差に現れているなぁ。。
古代に於いても山陽側が選ばれたのは寄港地に恵まれたと云う事か。観音寺から今治まで内側に湾曲してるし遠回り?
58
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 18:55:55
>>53
近世瀬戸内航路
http://img.0bbs.jp/u/tohazugatali/18_4
(
http://0bbs.jp/tohazugatali/)
大坂付近
難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場(
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nfuji/noda1.html
西江之子島は阿波座の近く)
↑
室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け
↓
下関
江戸時代…経済が発展し輸送力も増大。船も巨大化し沖乗り航路が発達。北前船など
大坂―兵庫―高砂―飾磨―室津―大多府(和気郡日生町
http://www.town.hinase.okayama.jp/guide/ohtabu/guide_ohtabu.html
)―牛窓―下津井―鞆浦―田島
>>57
(地乗り航路と沖乗り航路に岐れる)
(地乗り航路)田島―尾道―竹原―三ノ瀬(安芸郡下蒲刈町三之瀬)―津和地
(沖乗り航路)田島―弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗―津和地
津和地(伊予国温泉郡中島町津和地島)―上関―室積=三田尻(=防府。三田尻の名前が出るのは遅めなんだな。。)―下関
>>52-58
<講評>
上関の地位が高いのが解る。下関が赤間関の名前を放棄したのも上関との対でという構図があったのか?
牛窓・鞆・室津など寂れちゃったねぇ。風速が風早としてJR呉線の名前にも残ってるなど一寸感動であるが。今の中山間地みたいにこれらの寂れた港町がカネ出せとがーがー云わないのは敬服に値するが,寂れたのが中山間地の高度成長期以降に較べ明治以降と早かった為であろう。
麻里布なんてもっと重用されて良い地名だと思うのだが麻里布製油所ぐらいだもんな。西岩国駅を岩国駅に戻して岩国駅を麻里布に戻そう!
他に八戸→知内・東能代→機織・倉吉→上井か。
防府→三田尻,清水→江尻,静岡→駿府,大分→府内とか
漢字の遣い方だと
池鯉鮒(知立)がまず浮かぶ。懸河→掛川とか?
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