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近世日本史スレ

42とはずがたり:2004/04/12(月) 23:47
江藤新平は最後は不平士族に担ぎ上げられて反乱を起こして刑死しているのだがその部分の記述がないねぇ。明治政府へ叛乱というのは平成の現在の世でも隠したい事実なのかねぇ?叛乱を起こした事実がいささかなりとも江藤の評価を下げる物では無いと思うのだが。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040412-00000072-nnp-kyu
江藤新平は特命調査役!? 長州征伐失敗予言 脱藩中に「意見書」

 幕末・維新の志士江藤新平(一八三四―七四)が、佐賀藩脱藩の罪で謹慎処分中に佐賀藩の意を受けて、藩外で調査活動をしていたことをうかがわせる政策意見書「急務囈言(げいげん)」が、佐賀市の子孫宅から見つかった。十一日、江藤研究の第一人者の毛利敏彦大阪市立大学名誉教授が佐賀市で会見し、「江藤の謹慎処分中の動静はほとんど分かっておらず、貴重な史料。江藤が藩主直属の特命調査役だった可能性がある」と指摘した。

 意見書は和紙十六枚つづりで一八六四年九月に書かれた。当時の藩主鍋島直正にあてたものとみられ「帰寧」(無事に帰った)や「又々山(謹慎中の寺)ニ帰レリ」などと記され、長期間にわたって繰り返し藩外で調査に当たったとみられる表現がある。

 意見書作成中の六四年夏に動きが始まった江戸幕府の長州(山口県)出兵について「長防二州ノ大半ヲ討何ヲ以カ其成功ヲ期センヤ」と失敗を予言。この見解は当時の一般的な見方に反していたが、結果は翌六五年に幕府が事実上敗退。毛利教授は「正確な情勢判断。藩主のその後の行動にも影響を与えたのではないか」と分析している。

 意見書は、江藤新平のひ孫の江藤茂國さん(73)=佐賀市水ケ江=が三月中旬、自宅に保管されていた史料三十点を整理中に発見。茂國さんは「さらに内容を精査し、展示などを検討する」と話している。

 江藤新平は佐賀藩に生まれ、二十八歳で脱藩し、京都で尊皇攘夷(じようい)運動に携わったが、数カ月後に佐賀に帰り、閉居を命じられた。一八七二年には初代司法卿(現法務大臣)を務め、法律の制定など司法制度の確立に尽力した。十三日は江藤の命日で、佐賀市で百三十回目の慰霊祭が予定されている。(西日本新聞)


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