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近世日本史スレ

59とはずがたり:2005/02/25(金) 01:03:42
今じゃ北茨城市の一部となって余り顕れないけど平潟村(>>50東廻り航路の寄港地)は地域の中心地だったんですねぇ。

村役人
http://www3.zero.ad.jp/takeishi/murayakunin.html

平潟村には、江戸時代後期には庄屋3名、組頭7名の村役人が置かれた。庄屋の主な仕事は、治安対策、農民間の公事訴訟の処理、治水灌漑などの土木工事の指導など広く民政を担当したが、最も重要な任務は年貢上納の督励である。村役人は江戸初期の頃は名主と呼ばれており、元禄6年(1693)の「内藤氏分限帳」でも平潟村の郷中名主として「拾石 平形村 主水」の名が記載されている。庄屋の名称に変更されるのは18世紀初めである。平潟村には、全村を支配する庄屋の外に、漁民の統率や港湾の管理中心の任務担当役職である船庄屋も置かれた。
庄屋の下にあってこれを補佐して村政と事務を担当し、さらに村民の非違を監督する役職が組頭である。組頭の名称は、村内をいくつかの組に分割し、その地域内の最高責任者となったことから付けられたものである。平潟村では石高500前後であったが、7人の組頭がいた。ちなみに、900石近い神岡下では5人、水戸藩領の大津村では4人であった。組頭の下で使い走りや雑用する係として「小走り」が置かれた。興味深いのは、天保7年(1836)の平方村差出帳によれば、庄屋の給金4両1歩2朱20石引き、庄屋の給金1両2歩2朱10石引きに対し、小走りの給金は2両2歩である。小走りが組頭より現金収入だけをみれば高給取りであったことである。これは小走りが庄屋や組頭のように商人や地主層出身ではなかったためであろうか。幕末期には「肝煎」という特殊な役人も置かれた。
また、幕府が文化2年(1805)の関東取締出役(八州廻り)の創設そして関東取締出役の職務機能の徹底のために出された文政10年(1827)の「御取締筋御改革」の触により、水戸藩を除く関東諸州の村々は「改革組合村」に編成された。組合村は、水戸領を除いて、天領、私領の区別無く、地理的な便宜にしたがって3から6ケ村を小組合、小組合を10組前後まとめて大組合に組織された。そして、小組合には小惣代、大組合には大惣代を置き、中心の村を「寄場」と称し、村役人から関東取締出役に直結した寄場役人を任命している。北茨城地方においては、水戸領を除く20村が大組合を組織し、平潟村が寄場となった。安政6年(1859)の記録では、小惣代に八反村久内、神岡下村寿左衛門、福田村善左衛門、中妻村処平、臼場村甚平とあり、大惣代には平潟村長兵衛及び鈴木主水が任命されている。


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