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近世日本史スレ
1
:
■とはずがたり
:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。
61
:
とはずがたり
:2005/03/21(月) 02:46:44
何となく淋しいですねぇ>宗門の民主化
「お東紛争」最終決着 大谷光道氏、3月末に門首邸退去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050320-00000005-kyt-l26
真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の故大谷光暢前門首の四男光道氏(60)が、長年にわたって使用していた境内の門首邸(内事部)を今月末、退去する。400年前の東本願寺の創建以来、同派の頂点に立ってきた大谷家の唯一の遺産相続者が本山を去ることで、大谷家と宗派側が対立してきた「お東紛争」は最終の節目を迎える。宗派は「6年後の親鸞聖人の750回御遠忌前に解決してよかった」と静かに受け止めるが、僧侶や門信徒からは「紛争が残したものは何だったのか」と問い直す声も聞かれる。
東本願寺境内西側に、「内事部」と呼ばれる建物がある。大正期の建築で、広さは延べ約4000平方メートル、部屋数は50を超す。光暢前門首の三男暢顕現門首(74)の公邸として一部を使うほかは、大半を光道氏が使用。独自の寺務所を構え、法事などを営んできた。
宗派と大谷家が対立した「お東紛争」で、光暢前門首の秘書役だった光道氏は1982年に門首継承権のある「連枝(れんし)」を解かれた。さらに光暢前門首が93年に死亡し、宗派側は2000年、「光道氏は宗派と無関係」として内事部と、聖護院別邸(左京区)の明け渡しを求めて提訴した。
昨年7月、大阪高裁で▽光道氏は3月末までに内事部を、5月末までに聖護院別邸を明け渡す▽大谷派は解決金2000万円を支払う−の条件で両者の和解が成立した。
■「言葉にしがたい」
光道氏は、今夏にも右京区に購入した土地に寺務所を移転する計画だ。寺宝のうち最高裁で大谷家の帰属が認められた蓮如上人の御影(肖像画)など300点以上は、きょうだいが相続放棄しているため、光道氏が所有しており、今月末の内事部の明け渡しに伴い、本山から運び出される。
光道氏は退去を前に、「言葉にしがたい感慨がある」と話し、宗派側は今後の内事部の使用について「長い間、立ち入れなかったので、まずは掃除と修繕をして、後は未定」という。
自ら「大谷家25代当主」を名乗り、遺産相続者でもある光道氏が東本願寺を去ることは、複雑にからみあう形で争いが繰り返された「お東紛争」の一つの決着点でもある。同派の僧侶や門信徒はどう受け止めているのか。
■もう遠い昔の話
境内で参拝者に聞くと「紛争は遠い昔の話。特に感慨はない」という声が大半だったが、甲賀市の男性(71)は「大谷家を『生き仏』とあがめるゆがんだ信仰の形はなくなったが、長い争いで得たものがそれだけだとしたら悲しい」と話した。
紛争の背景には、宗祖親鸞の血脈を引き、「宗門天皇」と呼ばれて君臨した光暢前門首(当時法主)ら大谷家と、宗政の民主化を目指す内局との間で激しい対立があった。曲折の末、宗憲(宗派の憲法)が改正され、96年に暢顕氏が象徴的な「門首」に就き、ひとまず紛争は終息した。
「紛争中は教団への不信をぬぐい去るため、積極的な布教の取り組みも目立ったが、そんな情熱は薄れている」と50代の宗会議員は話す。あるベテラン職員は「紛争最中の宗務総長が『宗門に危機感が失われたときに本当の危機はやってくる』と言ったが、その言葉を今こそかみしめたい」と話した。
■お東紛争
真宗大谷派で約20年にわたり続いた。1969年、大谷光暢前門首(当時法主、故人)が宗務行政を担う内局に無断で管長職を長男光紹氏(故人)に譲ると宣言したのを発端に、内局と大谷家が対立。国の名称・枳殼(きこく)邸の所有権移転や大谷家の手形乱発をめぐり、訴訟合戦になった。80年、光暢氏らの7億円超の借財を内局が肩代わりし、光暢氏が代表権を返上することを条件に和解。96年には本願寺維持財団の運営をめぐり、光暢前門首二男の暢順・財団理事長らが宗派を離脱した。
(京都新聞) - 3月20日8時52分更新
62
:
とはずがたり
:2005/03/21(月) 02:49:29
「お東」400年、故地に別れ 25代当主・光道氏、今月末退去
http://www.mainichi-msn.co.jp/kansai/photojournal/news/20050314org00m040115000c.html
◇お宝、トラック十数台
真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の故大谷光暢・前門首の四男で大谷家25代当主、光道氏(60)が13日、四半世紀ぶりとなる大谷祖廟(そびょう)(同市東山区)の歴代門首墓参を果たした。光道氏は今月末で境内の門首邸(内事)を引き払う。唯一の遺産相続者が寺地から退去するのは、約400年前に本願寺が東西分立して以来初めて。宗派(内局)側と大谷家が対立してきた「お東紛争」最終局面の大きな節目。皇室とも近い大谷家が多数所蔵する宗教上の法宝物(寺宝)や価値の高い美術品の今後の動向にも目が離せない。【丹野恒一、岸桂子、太田裕之】
部屋数が50以上もある広大な門首邸は、光暢氏の三男、暢顕門首(74)が使用する以外の大半は聖護院別邸(同市左京区)に住む光道氏が事実上管理し一部を寺務所に使ってきた。同派は00年「(光道氏は)宗派と無関係」などと門首邸と別邸の明け渡しを求め提訴。昨年7月、宗派側が解決金2000万円を光道氏に支払う▽光道氏は門首邸を3月末、別邸を5月末に退去−−の条件で和解した。
光道氏は同市右京区に取得した土地約1800平方メートルに本堂と寺務所などを近く着工する。「住まい(庫裏(くり))が出来れば寺務所機能を移転する」という。
寺宝を巡っては法廷で400点余の所有権が争われ、宗祖親鸞直筆の国宝「教行信証」(坂東本)など約30件は宗派側、江戸期以来の行事「蓮如上人御影道中」に欠かせない蓮如の肖像画など残りは大谷家側の帰属と最高裁が認定した。光道氏によれば運び出す量は4トントラック十数台分で「しばらく知人宅や倉庫などに保管する」という。
最高裁が認めた参拝に光道氏は「移転と墓参が同じような時期になったのは不思議なご縁」と感慨深げ。また、寺宝については、「母(香淳皇后の妹、故智子さん)の輿(こし)入れ道具や宗教的な貴重品を手放す考えはない」と話した。
大阪市の古美術商の男性(55)は「由緒ある家の所蔵品の総引っ越し自体極めて異例。大谷家の所蔵品を欲しい人はいくらでもいる。売るなら全国の古物商で入札会を開く価値がある。(旧家などが所蔵品を一括売却する)売り立ては昭和初期が最後。実現すれば平成の売り立てになる」と強い関心を示している。
光道氏は27日にゆかりの人とお別れパーティーを催し、31日に「出発式」をして退去する。
………………………………………………………………………………………………………
◇大谷家側の主な法宝物
■蓮如上人御影
■唯信鈔断簡(十一行)
■愚禿鈔
■親鸞御書写
■徳川家康消息
■寿老人(円山応挙筆)
◇真宗大谷派所有の主な法宝物
■教行信証(坂東本)=国宝
■本願寺聖人伝絵(康永本)
■本願寺聖人親鸞伝絵(弘願本)
■一念多念文意
■蓮如上人一期記
■親鸞聖人御消息
………………………………………………………………………………………………………
■ことば
◇お東紛争 真宗大谷派の故大谷光暢法主が1969年、管長職を長男に譲ると宣言、宗門の近代化を目指す内局と大谷家側が対立。法主名義の不渡り手形や枳殻(きこく)邸の所有権移転などを巡り訴訟合戦となった。80年に宗派・本山の代表権を宗務総長に移し、大谷家側の債務を内局が持つことで和解。法主は象徴的な門首となり、内局が宗派・本山を実質的に管理運営することになった。寺宝の所有権を巡っても84年から双方が争い、99年10月に判決が確定した。
2005年3月14日
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